百合の君(34)
「・・・将軍を害し奉り、それにも飽き足りず近隣諸国を脅かす別所は、帝の世を乱す逆賊であります。臣、出海浪親は天下静謐のため戦っております」
一生懸命覚えた台詞を言い終わって、みつは唾を飲んだ。御簾の向こうの菜那子が聞いているのかいないのか、みつには分からない。ただ、かぐわしい香りが感じられるようになって、憧れの都にいるという実感がやっとわいてきた。
みつは伏している頭をこっそりと上げて室内の様子をうかがった。板張りの床は顔が映る程きれいに磨かれ、菜那子の座る畳に続いている。そこにかかる御簾は、目の一本一本が真っすぐで絶妙な影を作っており、職人の腕や配置する女房の細やかさが感じられた。菜那子はかなり細身のようで、長い髪を垂らしている。御簾から僅かにはみ出たその髪は漆のように輝いていて、その肌つやをも想像させた。持ち主の顔を思い描いて、みつの胸がとくんと脈打った。なぜだか恥ずかしくなって、みつは再び頭を伏せた。
「わざわざ遠いところをご苦労さまでした。出海殿のお気持ちは、きっと関白さまにお伝えいたしましょう」
独白のような穏やかな声だった。すでに初夏の重みを身につけ始めた風が、袖の糸くずを揺らすのが見えた。今さらながら、みつは自分の格好が恥ずかしくなった。
ばあさんには「まるで妖精のお姫様じゃのう」と言われて気をよくしていたが、本物のお姫様とはまるで違う。ただ派手なだけの真っ赤な着物に星型の模様が色も滅茶苦茶にあしらわれ、金の腕輪がちゃらついている。背中には真っ白な絹が羽のように広がっているはずだ。これではバサラというよりただのバカ。田舎者のばあさんに従ったのが間違いだった。
彼女はせめて糸くずを取りたいと思ったが、憚られた。都は人が歩くのも静かで、わずかに衣擦れの音がするだけだった。脇にかいた汗が腕を伝って手首から落ち、袖の糸くずを濡らし、それもやがて乾いた。
菜那子の歌を詠む声が聞こえる。奥山の泉さやけく聞こゆれど*、とこれは出海の忠義をまだ疑っていらっしゃるのだと思われる。無理もない。菜那子様の所には悪い武士や貴族が狼のように寄ってきているのだろうから、初めて逢った私を信じろという方が無理な話だ。
しかし! とひれ伏したみつの体が蒸気を立てて浮き上がった。これから何度でもお逢いして、私の真心を捧げ、菜那子様のお心を私に引き寄せるのだ! と勢い余って頭を上げると、そこに菜那子はもうおらず、あるのは冷めたぶぶ漬けだけだった。
さすが都、とみつは思った。ぶぶ漬けひとつ出すのにもずいぶん手間の込んだことだ。みつはぶぶ漬けを平らげると、一礼して八津代に帰った。
百合の君(34)
*歌に出てくる泉は出海とかけて出海家、出海浪親のこと。上の句しか出ていないが、大意は「山の奥にいる出海の言うことはきれいに聞こえるけれど」「奥山の泉の湧く音がきれいに聞こえるけれど」と二つの意味を重ねている。