八十年目の恋~タイと日本の大福餅~
第二次世界大戦の最中、日本軍の軍医・佐藤泰三と、タイの菓子を売る女性・マリーが織りなす切なくも美しい恋の物語。そして時を経て、その絆が泰三の孫・泰地と、マリーの孫・クワンによって新たに紡がれる。 物語は、戦時下の苦難の中で芽生えた二人の儚い愛と、日本とタイを結ぶ「大福餅」に秘められた思い出を軸に展開。80年後、祖父母の想いを胸に生きる泰地とクワンは、二人の歩んだ道を追う中で、運命的な出会いを果たし、互いの国と文化を繋ぐ役割を担っていく。 時代を超え、世代を超えて繋がる愛と絆。戦火を越えた奇跡の味が、過去と未来を包み込む――。
マリーの大福餅
佐藤泰男は古い父の色褪せたセピア色の写真を仏壇から無造作に引っ張り出し、濃い目の緑茶を啜った。軍服姿がよく似合い、南国の椰子の木の下に立ち、日焼けで真っ黒な顔に真っ白な歯を少し見せ、なんとなく微笑んでいるかのような、当時の日本軍人とは思えないような、朗らかな微笑を浮かべている父の写真を眺めながら「親父、南国気分かよ、こっちはもう秋風がヒンヤリと身に染みるよ…」と独り言を放ち、仏壇に供えられていた大福餅を一つ取って、ぽいと口に入れ腰を上げた。セピア色に変わり始めた庭の銀杏の木から、二枚の落ち葉がくっつきながら落ちてきた。
「タイは暑いんだろうか…息子泰地は元気でやっているだろうか」
泰男の一人息子、泰地のタイでの生活にまるで自分を重ねているような、そんな気持ちになっていた。
泰地は30歳、国立医大で伝染病を研究する若い医者だ。外務省に勤める叔父の勧めもあって、今年から東南アジアの経済をけん引する、タイ王国の日本大使館へ医務官として赴任している。学生の頃から英語が得意とあって、社会人になってからも世界各国へバックパッカーとしてあちこち飛び回っていた。しかし、今回赴任するタイは泰地にとって初めての国だ。息子の初めての海外赴任ということもあって、彼の成長の機会を喜ぶと同時に、どうか無事に任務を終えて帰ってきて欲しいと願っている。
タイは大の親日国で「微笑の国」として日本人にもよく知られている。トムヤムクンで有名なタイ料理も日本でもかなりの人気があるようだ。人口約7千万人でかつては農業立国であったが、今では日系メーカーを中心に自動車産業がとって代わり、国の重要な経済を担っている。冬がなく年中常夏の国のタイ人と言えば、その陽気な性格や、マイペンライ(大丈夫、気にしない)というフレーズで有名だ。
泰男はまだタイには一度も行ったことはないが、会社の同僚が数年前にタイの自社工場へ駐在員として赴任しており、帰任後にタイ人ののんびりさについてボヤキなのか羨ましいのか、タイ人との仕事の難しさを聞かされたことがある。陽気でのんびりな国の人と働くのが、そんなに日本人にとってやりにくいと感じるのは何故だろうと思ったことがある。
逆に日本人の仕事のやり方がタイ人にとっては理解しがたいものなのかもしれない。日本人は時間に厳格で、タイ人のことを時間にルーズだと小馬鹿にしているらしいが、その同僚がタイ人から言われたそうだ。「日本人は時間に厳しいというが、朝はぴったり始業時間を守るが、就業時間が来てもいつまでも会社にいて残業している…」と。言われてみればそうだ、今では『働き方改革』などとその意味さえよく解らない言葉が国策のように取り出たされているが、そもそも『働き方』さえ日本人は忘れてしまったのだろうか?
少し世知辛くなった現代の日本社会にも時には必要なフレーズだと、泰男は「マイペンライ、マイペンラーイ」と語尾を長く伸ばして小声で唄いながら、仏壇の脇に飾ってあるシルクの民族衣装をまとい合掌ワイのポーズをしている細身の人形を手に取って、フッと埃を吹き払った。
タイと言えば幼い頃に母から聞いた父、泰三の話をふと思い出した。
泰男の父、佐藤泰三は第二次世界大戦末期、大日本帝国陸軍の軍医として、タイ西部カンチャナブリにある、日本軍の駐屯基地に配属されていた。
当時日本はタイと同盟関係を結び、ビルマ戦線やインドシナ半島での戦闘や物資の調達のために、タイ国内に軍の駐屯基地を構えていた。無謀な戦略といわれたビルマからインドのインパールに通じる鉄路、泰緬鉄道の建設には、多くの連合国の捕虜や現地やアジア各国の人々が鉄道建設に動員され、過酷な労働環境の中で、マラリア・コレラなどの風土病に侵され十万人以上の犠牲者を出したといわれる。
終戦間近に泰三は、最も悲惨な建設現場であったクェー河鉄橋の袂の診療所で病人の診察や治療にあたっていた。当時は敗戦間近、日本軍の診療所には治療できる薬も設備も乏しく、泰三は日本人だけでなく、捕虜となって労働を課せられている西洋人や現地のタイ人やアジア諸国からの出稼ぎ労働者を診察して回った。
泰三は本来の軍務として、地域のタイ人の生活様式や食生活などを調査するのが本来の任務で、駐屯地内の日本軍人の健康状態を管理する一方、通訳と共に村に出てタイ人の食卓を見に行ったり、屋台や食堂で現地のタイ人が食べるものと同じものを食べたり、当初は平和的な日常を送っていた。しかし、既にタイ政府は敗戦色の濃い日本と同盟を続けるより、連合国側につく方が賢明という国策に転換した。そして日本は遂にその大東亜共栄圏の国策が崩壊し始めたころ、徐々にタイの一般社会にも駐屯日本軍、日本人への嫌悪感が増してきた時期でもあった。
そのような不穏な戦況の中でも、泰三は村の中をタイ人の通訳を連れて歩き回り、人々の暮らしぶりや食べ物について調べて回るのが日課だった。
もともと辛い物が好きだった泰三には唐辛子がたっぷり利いたタイ料理の味は口に合った。唐辛子をふんだんに使い、タイ原産のハーブの一種ガパオと、豚バラ肉をカリカリに揚げたものを一緒に炒めた料理は泰三の大好物だった。しかし、辛さのせいで口の中がまるで火事のように熱くなり、顔が火照り、まつ毛から汗が滴り落ちてくる…常夏の国でこの残酷ともいえるタイ料理の洗礼にはいつまで経っても慣れることはなかった。
タイ料理と言えば、一般的には唐辛子を使った辛い料理のイメージがあるが、実は料理の中には甘いものや、酸っぱい味付け、また日本のお吸い物のようなワカメと豆腐だけの薄味のスープがあったりする。恐らく移民の華僑が多いタイなので、彼らが持ち込んだ中華料理が、タイ料理の一部として浸透していったものであろう。
ある日、泰三は駐屯所の若いタイ人の将校で、日本語の通訳を担当しているタムを伴って村の中心部にある朝市へと向かった。まだ朝六時すぎというのに強烈な南国の朝日は泰三の胸を差し、アイロンがピシッとかかった生成りの開襟シャツに身を包み、部屋に差し込む強い朝の日差しに幾度か瞬きをした。
「今日も暑いな…」
うんざりするような常夏の朝にため息交じりに呟いた。
タイの気候は暑季、雨季、乾季の熱帯モンスーン気候でとにかく年中暑い。特に泰三が駐屯している地域はタイの中部の広大な平野にあり、肌を突き刺すような強烈な日差しと、むせかえるような大地の熱風には慣れることはなかった。富士山の麓の村で育った泰三は時折、日本のふるさとの凍える冬の寒さを思い出し、ブルっと身震いをしてみるが、南国の灼熱の太陽の熱視線をごまかすことはできなかった。
泰三は外出の際も、軍隊の厳しい規則に従って軍装を整える。大日本帝国陸軍の制服のうち夏季の通常勤務に用いられていた開襟の軍服だ。両肩につけられた肩章には星印が一つついており、赤十字の腕章を付け直すと“佐藤軍医”の威厳を醸し出していた。しかしながら、村のタイ人たちは風通しの良さそうなシルクか麻の薄手の上着を着ており、特に女性のスカートはくるぶしまであり、その柄には象や縞模様が施され、日本では見たこともないような伝統的な衣装を身に着けている。
「俺もあんな涼しい服装が欲しい…」と通訳のタムに強請るように言った。
タムは「また始まったか…」というような顔をして「ダメです、それはダメです」と泰三に即答する。タイの現地の人達の生活様式や食生活を調査していく内にだんだんと興味を持ちはじめ、なんでも食べたい、やってみたい、欲しい、欲しいと通訳のタムを困らせるのであった。
一通り村を一周して駐屯地へ戻ってきた泰三とタムは、敷地を囲っている白い塀に沿って並んでいる数軒のテントの屋台の前で立ち止まった。
ちょうど昼前だったので、駐屯地に勤めるタイ人の兵士や役人たちが昼食や、飲み物、お菓子などを買いに来ている。毎朝、泰三の診察室へ掃除にやってくるタイ人の初老の女性パイリンが、バナナの葉っぱで包んだ甘いココナッツのお菓子を持って来てくれることがある。それは今でもタイ人にも日本人旅行者にも大人気のタイのスィーツだ。
「カノム・クルック」という、椰子の実のミルクを原料にした、たこ焼きを半分にして焼き上げたもの、椰子砂糖をまぶし揚げた丸いドーナツのような「カノム・カイヒア」、小さなバナナを薄く切って揚げた「クルアイ・トーッ」など、南国特有の材料を使った甘いタイのお菓子の店が並んでいる。
泰三はそのタイの身体が蕩けそうになるくらいの甘いお菓子が至極気に入り、パイリンさんが掃除に部屋に入ってくる時は、今日はどんなお菓子を持って来てくれるのかと密かに期待をしたりしていた。
「タイの伝統のお菓子は実に美味い!」
自分の事務所の机の上に広げられたタイのお菓子を素手にとって頬張りながら一人でニヤリとするのであった。日本にもこんなお菓子があったらいいのになぁ、と少し故郷の和菓子と相比べることもあった。
翌日も泰三は外出した。しかしその日は塀沿いの屋台へ真っ先に足を進め、一軒のタイのお菓子売り、マリーの店の前で足を止めた。泰三はこの店の若い女性に見覚えがある。タイ人の若い兵士や役人たちが数人屋台に群がって、マリーをからかいながらお菓子を買っていく。
歳の頃は二十歳くらいだろうか、タイ人独特の健康的な茶褐色の肌に生成りのブラウスがよく似合い、時々客と談笑しながら見せる屈託のない彼女の笑顔は、まるでこの国が戦時下にあることさえ、微塵も感じさせないほど癒されるのであった。店先には串に刺した三色の砂糖団子のようなものや、鶏卵を椰子糖に溶かして素麺のような甘い菓子、そして日本のたこ焼きを思い出せるあのお菓子、カノムクロックが並んでいた。
「ああ、パイリンさんはここであのお菓子を買ってきていたのか…」
泰三は満足げに、彼女のお菓子を作る腕前は相当なものだと悟り、店先に並んでいたお菓子をほとんど買ってから、通訳のタムに言った。
「タムさん、この女性にちょっと尋ねてくれないか」
「あの女性に『日本の餅』は作れるか?って訊いてほしいのです!」
「日本の餅が作れるか、早く訊いてください!」
タムは若い将校だが、日本語が堪能でタイ陸軍の兵学校で日本語を勉強したという。駐屯地の中にある食堂では時折日本本国からの食糧の配給があり、彼はある日厨房で餅の木箱があったのを覚えていた。それはちょうど正月の時期で日本人の兵士たちが餅を焼いて、酒を酌み交わしながら意味のよくわからない日本の軍歌を唄いながら宴会をしていたのを覚えている。しかしその餅の配給もそれきりなくなってしまった。
タムはマリーに餅は作れるかということを、手振りを交えながら説明し尋ねている。タイにはもち米を主食とする地方もあるので、もち米があることを泰三は知っていた。泰三はこの美味しいお菓子を作って売っているマリーなら日本と同じ餅を作れるのはないかと思った。タムの説明がよく解らないのか、マリーは「モチ…モチ…」と首を左右に振っている。泰三はタムの説明を遮って、
「そうだ!餅だ!餅!日本の餅を作ってくれるか!」
と日本語で声を上げた。隣の野菜売りの屋台の男がびっくりして椅子から飛び上がった。
泰三はタムに真剣な表情で、祖国日本の餅の作り方を教えるからこの女性に作ってもらえないか、とでも言ったのだろう。日本軍部からの配給も停まってしまい、駐屯地の日本人たちも故郷の餅が食べたいだろうと思っていた。祖国を離れ外国に住んでいると時々日本の郷土料理や和菓子が恋しくなるものだ。
一方、マリーは戸惑いながらも、生まれて初めて話しかけられる異国の軍人の教えるまま、餅を作ってみようかと考えた。日本人が好む餅などマリーにはどんなものかさえわからなかったが、タイにはもち米を食べる習慣もあり、もち米を使ったお菓子もマリーは作ったことがあったので、また餅を作れば日本の軍人さんがたくさん買いに来てくれるだろうと仄かな期待があった。それ以上に、この日本軍医の持つ柔らかな表情の、そして凛々しい軍服姿の泰三に話しかけられたことに、なんとなく戸惑いと驚きを隠すことができず、
「カー(はい)…」と細い声で一言返すのが精一杯だった。
それからというもの、通訳のタムをマリーの店まで連れて行き、身振り手振りを交えながら、時折泰三自身がもち米を研いだり捏ねたりして、できた餅を味見したりして日本の餅の作り方を一つずつ教えていった。
マリーは色々なアイデアで餅の中に入れる餡を考えた。大豆、黒豆、緑豆…すべてタイ人が料理やお菓子に食べているものばかりだが、それらを餅の中に入れていわゆる『大福餅』のようなものをいくつか作ってみた。恐らく泰三は純粋な日本の餅を想像していたのだろう、焼いて醤油をつけて食べる程度に考えていたのではないか、まさかマリーがそれを『大福餅』に仕上げてしまうなんて泰三は驚くに違いない。
「サトーさん、できました!食べてみてください!」
数日後、泰三はタムを連れていつものように駐屯所の門を出て村へ歩き出した。その時、道端から自分を呼ぶ声がした。すぐにその声の主がマリーだとわかり、踵を九十度返して泰三はマリーの店先に急いで行った。
「おお、できましたか!どれどれ」
泰三は満面の笑みを浮かべながら、出来立てで熱々の餅を想像していたのだが、恐らくマリーの自宅で作ってきたのであろう、小さなバナナの葉で作った器に団子のようなまん丸の『大福餅』が三つ並んでいた。マリーの手が震えて器の中の団子が毬球のように揺れている。
「お口に合うかわかりませんが…」
震える手と口で、マリーの心臓の鼓動が泰三に聞こえるのではないかと心配になった。マリーは恐る恐るバナナの葉で作った器を泰三の胸元に差しだした。不味いと言われたりでもしたら、この軍人の帯刀で首を落とされてしまうのではないかというくらいにマリーの緊張は絶頂に達していた。
泰三は一つ摘まんで、ぽいと口に入れた。口を縦や横にもぐもぐさせながら沈黙が流れる。そして泰三は眉を寄せて難しそうな顔をしたかと思うと、おもむろに目を剥いた。
「おおお、これは美味い、大福餅だな、味は上等、上等!」
マリーが差し出した餅はまさしく日本の『大福餅』そのものであった。中身には大豆や赤豆を漉して餡にして詰め、また地元で獲れる緑豆も加えた三種類の大福餅になっていた。
現在でも大福餅は日本の和菓子として老若男女問わず、日本人のソウルフードとして絶大な人気がある。泰三はマリーの大福餅を素手で一ずつ口に入れ、じっくり味わいながら、時にはうーんと頭を上下に振りながら、美味い、美味いと口いっぱいに頬張りながら連呼する。泰三の言葉にようやく全身の硬直から解放されたかのようにマリーはいつもの笑顔を取り戻し、泰三に向って、
「コープクンカー!(ありがとうございます)」
マリーは八重歯が愛らしい白い歯を見せて笑った。
日本の軍人に褒められたことがマリーは嬉しくてしょうがなかった。泰三は大福餅を嬉しそうに優しい笑顔でマリーに言った。
「ありがとう!君の作った大福餅は上等品だ、本当に美味しい」
泰三の周囲にいた村人や、通訳のタムまでもが興味津々で、店先の小さな台に並べられた大福餅を指さしながら、我先に買い求め泰三と同じようにその場で頬張り始め、中には慌てて食べて喉を詰まらせ周囲から笑われている輩もいた。
マリーは泰三の目が少し涙で潤んでいるように見え、故郷日本の和菓子を想い出しているのだろうか、軍人とはいえ、故郷に想いを馳せる血の通った心の優しい人なのだとマリーは思った。
それからマリーが作る『大福餅』は村中で人気となり、日本の軍人だけでなく村の役人や、畑仕事を終えて帰宅途中の村人たちも買いに来るようになった。マリーはこれまで作って売っていたお菓子に加え、泰三に作り方を教えてもらった餅を売りながら家族を支えることができると、泰三に対する感謝と、異国の軍人男性に対する畏敬の念を抱くようになっていった。
マリーには少しの歳の離れた兄がいた。苦学して土木建築技術の学校を卒業し、生活を支えてくれていた。兄は日本軍のタイ人技師としてかなりの俸給で雇用され、泰緬鉄道の鉄橋の設計や現場で建設指揮を執っていた。しかし、バンコク都心部への橋梁建設に携わっていた時に、連合国軍の空襲で死亡している。
タイは当時、日本との同盟を結んでいた為、英国軍によるバンコク郊外の日本軍拠点への爆撃はしばし行われていた。父親を幼い頃に失くしたマリーにとって兄は、優しくて頼れる存在であった。そんな中、生まれて初めて出会い、日本の餅の作り方を教えてくれた日本人の泰三に兄のような温かさを覚え、優しい面影を思い起こさせるのであった。
マリーのお菓子の店も『大福餅』のおかげで、朝早くに作ったものは昼までに全部売り切れてしまい、昼休みに泰三が昼食の帰りに買いに来る頃にはもうなくなっていることもあった。泰三は残念がりながらも、自分がマリーに教えた餅が、タイの人達にも受け入れられ、人気が出たことに喜びを覚えた。どうしても食べたくなった日には、通訳のタムを使いにやらせ、仕事の休憩時には兵舎の若い日本人たちに振舞って、配給が止まってしまった日本の緑茶の代わりに、タイ産の芳醇な香りのジャスミン茶を啜りながら談笑する。このまま無事に戦争が終わって日本に帰ることができたら、このタイのジャスミン茶をお土産に持って帰るつもりだ。
その日の夕暮れ時、赤く染まった西の空が鉛色に変わり、にわかに振り出した南国のスコールの大きな雨粒が、兵舎の庭のバナナの葉っぱを叩き始めた。同時に雷雲を切り裂く轟音が同時にやってきた……
バンコクの混沌と抹茶ラテ
タイの首都バンコクは、世界でも悪名高き交通渋滞が激しい都市だ。都内の目抜き通りのシーロム通りには、タイで初めての高架式鉄道が完成し、少し近代化のイメージが進みつつあった。しかし、道路の渋滞は一向に緩和されることはなく、タイの国の産業が農業から自動車の生産がアジア一の拠点工場になりつつあり、自動車の台数は増える一方、新しい道路の建設や整備は全く追いついていない。
ただ、高架鉄道のおかげで新しくできた駅の周辺には、高層ビルやオフィスビルが林立し、昼間はビジネス街として賑わい、また夜ともなればお洒落なレストランやバー、世界的に有名な歓楽街に変貌し、地元のタイ人や海外観光客の人気スポットになっている。
週末の土曜日の午後とはいえオフィス街は賑わっていた。周辺にはバンコク観光の目玉となる王宮や有名な仏教寺院やホテルなどが多く、外国からの観光客が集まり、また複合施設のショッピングセンターには世界のブランド品やレストランが密集し、地元のタイ人にも人気があり、平日も週末も関係なく昼夜問わず人が溢れている。新しくできた高架鉄道はBTS(Bangkok Transit System)と呼ばれ、わずか三両編成ではあるがバンコク都の大動脈となって、主要な道路にひさしを作るかのように走っている。
ビジネス街の中心部にある駅のすぐ近くには、近年アメリカから上陸したカフェにラップトップコンピューターとにらめっこしながら、とっくに冷めてしまった一杯のコーヒーで長時間居座る若い日本人がいた。泰地は今年からタイの日本大使館に医務官として着任していたのだ。
泰地はカフェの比較的静かな場所を選んで陣取ったつもりだったか、あっという間にタイ人や外国人観光客に囲まれてしまい、聞いたこともない外国語が飛び交って、耳栓代わりにと日本からもってきた日本製の高級ヘッドフォンを慌ててつけてその「騒音」を遮断した。いつもは大好きなロックバンドの曲を聴くのだが、今日ばかりは違った。月曜一番の本省とのテレビ会議の資料を今日中に仕上げなければならないのだ。周囲にはまるで世界一周旅行でもしているかのように、様々な国の言語が飛び交っている。
「さすがに国際都市バンコクだな…」と生まれて初めて仕事としてタイに来て住み始めた泰地には、この時ばかりは仕事に熱中するあまり、店の前で立ち往生している救急車のサイレンの音さえ耳に入らなかった。
バンコクの渋滞と騒音はさすがに困ったもので、世界一広い駐車場と揶揄されるくらいに朝夕の通勤ラッシュの時間帯は遅々として進まない。BTSが完成し公共交通網の整備も徐々に、というか他のアジア諸国にはかなり遅れてはいるが、少しは緩和されるかと思われたが、都会のオフィス街で働くタイ人にはやはり自動車通勤がステータスでもあり便利なのであろう。
ちなみにタイの渋滞における経済損失と言えば、近年のデータによれば首都バンコクのみで、一日あたりの交通渋滞による経済損失は約4億円といわれ、渋滞における時間のロス、燃料の浪費、効率の低下による生産性の減少などが原因となり、渋滞のせいでバンコクの街は排気ガスで常に汚染された空気が立ち込め、通りに出ても澄んだ青空を見かけることは年に数回という。
資料とデータを必死に追いながら少し顔を上げた時、先ほどからサイレンを鳴らした救急車がまだ店の前で少しも移動してないことに気づいた。
「なんで動かないのだろう?」
日本なら路上の自動車は救急車や消防車、パトカーなどの緊急車両へは道を譲り空けて通すのが常識なのに、路上で身動きが取れない救急車に対して前の車も横の車も一向に道を譲ろうとしない。渋滞で三車線一杯に埋まった道路では譲りたくても譲れない状況なのか、とはいっても日本なら運転手は少なくともハンドルを少し切って優先車両に道を空けようとする努力はするだろう。
タイは慈悲深い仏教徒の国と聞いていたのに「なんだか無慈悲な人々だなぁ…」と泰地は自分も医者だったことから、救急車の中にいる患者が心配になり、徐々に心がざわめいてきて、書きかけのラップトップもそのままに店を飛び出した。噎せ返るような熱気が泰地の身体を包む。店内のクーラーが利いたオアシスからいきなり熱帯ジャングルにでも飛び込んだかのような、湿り気のある空気が道路に止まった自動車の排気ガスと交じって襲ってくる。自分に何ができるかわからないが、兎に角外へ出てきたのはいいが何をどうしていいかわからない。
「なんで動かないんですか?」
泰地は得意の英語で道を歩いていたタイ人の男性に慌てて声をかけた。その男性は泰地から声を掛けられたことに少し戸惑いながら…
「渋滞で動かないんだよ、見ての通り。どうしようもない。中の患者が心配だね」
と一言だけ言って歩き去っていく。
「なんだよ…これが仏の国の人達かよ…」
泰地は思い切って救急車を誘導しようと渋滞の中、車で埋め尽くされた道路に飛び出そうとした、その瞬間、
「オイ待て‼ 危ない、道路に出るんじゃない!馬鹿かお前は!死んじゃうぞ!」
いきなり腕を掴まれグイっと歩道へ引き戻された。
腕が千切れるかと思ったほど強い力で引っ張った男は、バイクのヘルメットを被り庇を上げ、まん丸の二重の大きな目を向きながら泰地にタイ語で声を張り上げた。
「あんた、日本人か? なんて無茶なことをする…」
男はそう言って、道端に立っている駐車禁止の道路標識の下に数台並んでいるバイクのシートに寝そべって煙草を吸っている数人の男に声をかけた。
「おい、みんな、行くぞ!」
とでも言ったのだろうか、男たちはすっと地面に降りて、続いて二人の男がそろそろと車道に降りて行く。泰地は何が起きるのかと、眼をパチパチさせながらその光景を眺める。渋滞の車の間をすり抜けて行く無数のバイクがあり、うかつに道路に降りようものならバイクに轢かれて大けがをすることもある。
男たちはヘルメットの男の指示で、救急車の前方に留まっている車の運転手に向かって左右に手を振り始めた。車の間を猛スピードで走ってきたバイクの運転手にも何か大声で喚いている。にわかに現れた男たちの誘導で、前方の車は道を譲るように左右にハンドルを切り始めた。その車の運転手に向かって男たちは両手を合わせて合掌ワイをして軽く頭を下げた。タイの風習で「挨拶」や「感謝」の意味を表す手の動きの一つだ。
見る見るうちに救急車の前のレーンが空いていき、車体がするすると動き出す。すると何処からともなくバイクに乗った警察官が現れて、バイクに乗ったまま救急車の先頭に出て、救急車を先導するかのように前の道をどんどん空けていく。泰地の前から救急車のサイレンが遠のいていき、ほっとしたのもつかの間、道路はまた元の大きな「駐車場」と化していた。
「ディス・イズ・タイランド!」 (これがタイランドだ!)
道路上で交通整理をしていたバイクの男は、ヘルメットを脱ぎながら真っ黒に焼けた人懐っこい笑顔で、タイ語訛りの英語で泰地に手を上げて言った。他の男たちは何事もなかったかのように、また自分のバイクのシートに寝そべって煙草に火をつけている。
男はいわゆる「バイク・タクシー」のチームのボスで、タイには自動車のタクシーに加えて、バイクで乗客を運ぶバイク・タクシーがある。自動車が入っていけない細い路地や、大通りから小さい路地に向かう時や、渋滞時に急いで目的地に行かなければならない時に非常に重宝する、タイでは強い庶民の味方なのだ。ボスの男はまたヘルメットを被り直し、タイ人の若いミニスカートの女性の乗客を後ろに乗せて歩道の上を走り去っていった。
泰地は今見た光景がまるで別世界の光景のように思え、茫然と立ち尽くし、汗で背中がびっしょりになっていた。渋滞で動けなくなった救急車のサイレンが気になって飛び出してきたものの、結局何もできなかった自分を恥ずかしく思った。そして我に返り、店のテーブルの上にラップトップを開きっぱなしで、外へ飛び出してきたことに気づき、慌てて中へ戻ろうと小走りで店へ戻った。
自動ドアが開き切らないうちに店内へ駈け込もうとして、泰地はドアに靴の爪先を引っかけ前へつんのめってしまった。
「ドン!」
泰地はつんのめった姿勢のまま、床に倒れるかと顔面打撲の覚悟を決めて目をつぶった。しかし、衝撃が女性の胸元で止まり同時に冷たい抹茶ラテのシャワーが降りかかってきた。泰地はそのままスローモーションのように地面に落ち、膝を強く打ってしまった。
「きゃっ!」
クワンは持っていた好物の抹茶ラテを突然胸元へぶつかってきた泰地に驚いて握りしめた。その瞬間に彼女の飲み物が泰地の頭に降り注いでしまった。
クワンは残念そうに空っぽになったカップと、倒れこんだままの泰地を上から交互に覗き込んだ。『抹茶ラテ』はファッション雑誌にも紹介されたことのあるこの店の人気メニューで、クワンが一日一杯必ずと言っていいほどこの店に買いに来る、お気に入りのドリンクだ。
会社の同僚とランチを終えた後は、ほぼ毎日この店で注文し、仲間と談笑するのが日課の一つだった。一緒にいた友人のトーイがカフェの店員からティッシュペーパーをもらいに行きクワンに手渡したが、手に取っただけで泰地を見下ろし、この人なんでこんなところで倒れてるのという顔をしている。
「クワン、大丈夫? この人タイ人じゃないわよね?日本人かしら?」
床に倒れたままの泰地が「イタタタ・・・・・・」と低い声で呻いていたので、クワンとトーイはそれがタイ語ではないと知り、二人は目を合わせ泰地に言った。
「アー・ユー・オーケー?」
派手にずっこけてしまった恥ずかしさもあって、泰地はすぐには起き上がれなかった。店の客も数人立ち上がって、それぞれの言語で泰地を指さし笑ったり、心配そうな顔をしていたが、誰もさほど気にしていないようで、泰地は手で膝をパンパンと払いながら、何事もなかったかのようにすくっと立ち上がった。
覗き込んでいたクワンの目の高さより少し高い位置にきた。タイ人の女性にしてはかなり身長が高いほうだが、それにもまして泰三も高身長だったが、気まずそうに二、三歩離れ頭をクワンの目元まで下ろし、「アイム・ソー・ソーリー、ごめんなさい!」と謝った。
白のブラウスと黒いショースカート、真っ赤なハイヒール姿のクワンが、申し訳なさそうに頭を何度も下げている泰地に向かって、
「大丈夫です、あなたお怪我はないですか?」
とタイ語で優しく問いかけた。
泰地にはクワンが言ったことが理解できなかった。
赴任して間もない彼にとってタイ語は未知の言語であった。先週からようやく週末のタイ語教室に通い始めたばかりだったが、少しでもタイ語に慣れようと、通勤ラッシュの渋滞の車の中でタイ語のラジオ番組をつけて、タイ人の女性DJがリアルタイムの交通状況を話すのを意味も解らず聞きながらも、その柔らかい穏やかな言葉の響きに心地よさを感じていたのだ。
独特の音韻体系を持つタイ語は、古代インドの仏教経典に使用されたサンスクリット語やパーリ語を起源に持つと言われている。泰地はタイへの赴任が決まったその日に書店で『すぐに話せるタイ語』という本を買ってきて、その絵付きの会話文を覚えようとしたが、彼には象形文字のように見えるタイ語の文字と、その発音の抑揚が理解できず、日本出国までにはほとんどタイ語を覚えることはなかった。パズルのように母音と子音を組みあわせ、また子音の種類によって声調が五つもあり、文字の組み合わせで綴られた単語も色んな成長に変化する。また、日本語ならば名詞の前に形容詞来て修飾するのだが、タイ語の場合はすべて名詞の後に形容詞が来るので、文法も一筋縄ではいきそうにない。
語学のセンスがいい泰地にとってもタイ語の勉強には相当時間がかかりそうだった。赴任前には前任の日本人からはタイ語は勉強した方がいいよ、とアドバイスは受けていたが、英語に自信のある泰地はあまり真剣に受け取らなかった。バンコク程のアジアの大都市ではほとんどのタイ人が英語を話せるはずだ、仕事や生活をするのに英語で十分じゃないか、と思っていた。
確かに大使館に赴任してからというもの、現地のタイ人スタッフや秘書たちはみんな英語を話す。もちろんネイティブではないが、中にはアメリカやイギリスで留学して帰国した帰国子女や、英語に堪能なタイ人スタッフも多くいた。館内の業務においては、ほとんど英語で進むので何ら問題はなかったし、バンコク市内にある日本人の医師や看護師が常駐する大手私立病院などへの訪問の際も、日本語の通訳を通じて業務やコミュニケーションに支障がなかった。
しかし、大使館を一歩出るとそこは別世界になる。
昼休みに泰地はよく外出した。大使館のタイ人スタッフとランチに行くのだ。その方が早くお互いを知ることができるし、コミュニケーションがもっとよくなると思って、大使館の近くにあるオフィスビルの間の空き地のようなスペースに大都会とは思えないようなテント屋根が広がり、その下には屋台を敷き詰めたように食べ物屋が並んでいる。
ほとんどがタイ料理で、中にはクィッティオと呼ばれるタイのラーメン、タイの果物の飲み物や甘いスイーツを売っている。泰地はこの場所がとても気にいっていて、今いる近代的なカフェの雰囲気やお洒落な店内とは雲泥の差がある。炎天下でのテントの下は恐らく40度くらいの熱気になっているのだが、そこの「屋台食堂」でランチをするのが日課だった。そこではすべてタイ語の世界で、注文するにもタイ語での仕方が分からないし、館内では英語をしゃべってくれたスタッフもいきなり、意地悪をするかのようにタイ語に変わっている。
泰地はわかった振りをして「クラップ、クラップ(はい、はい)」と返事をするが、屋台の美味しそうなグリーンカレーを指さして注文するのが精一杯だった。
クワンがタイ語で話しかけてきたが、泰地にはさっぱり分からなかったが、心配そうなクワンの顔を見て、ぶつかられて抹茶ラテをこぼされたことに怒っているのではなさそうだ。クワンは流ちょうな英語に切り替えて反しかけてきた。
「あなた‥‥‥日本人ですか?」
「はい、そうです、あのぉ、どうもすみませんでした。服が汚れてしまったのでクリーニング代は弁償します」
泰地はそう言って財布からお金を取り出そうとしたが、クワンは遮ってトーイからもらったティッシュペーパーで、抹茶の緑色がついてしまった白いブラウスの袖口を拭きながら、
「大丈夫です。その代わりもう一杯同じものを奢ってくださいますか?」
クワンは笑みを浮かべ半分冗談、半分本気のような口調で言い、店のカウンターへ戻って行った。トーイが店員にまた同じ抹茶ラテを頼んでいるようだ。泰地は頭に降りかかったクワンの最初の抹茶ラテを拭うためにそそくさとトイレに駆け込んだ。
「とんだ醜態をさらしちゃったなぁ…恥ずかしい」
とトイレで独り言を言い、濡れた頭を拭いて、自分の席へ戻った泰地はまたびっくりした。なんとクワンとトーイが自分の席の隣に座ってお喋りをしている。
「あら、あなたここに座っていたの?」トーイが驚いて訊いた。
「ああ、はい、ちょっと仕事をしていたもので、そして外の救急車が気になって、そして色々とあって……」
気まずそうに頭を搔きながら席に座って、書きかけのレポートを仕上げなければならかったのだが、もうそれどころではないくらい気が動揺していたのだ。トーイがなにやらひそひそとクワンに話しかけているのだが、クワンはただ単に相槌を打ってるいだけのようで、店員に無料で作り直してもらった抹茶ラテを啜っている。常連の特権を利用したのだろうか、店員の心遣いか、新しいのをタダでもらってきたのだろう。
さっきまで世界旅行をしているような、いろんな国の言葉が飛び交って賑やかだった店内も少し落ち着き始め、静かなジャズのBGMが店内に広がっている。泰地はレポートを仕上げないといけないのだが、ラップトップに置いた両手がまったく動かず、画面を見つめているはずの目がちらちらとクワンに向く。
クワンにとって今日は特別な日だった。アジア域内での販売戦略として、各拠点から経営陣や各国のメディアを招いて、新しい商品の発表会がオフィス近くのホテルで開催され、クワンはそのイベントのプレゼンターだった。クワンはタイの化粧品ブランドでトップに入る企業のマーケティング部のゼネラルマネージャーを務めている。
彼女は、若い女性に人気の口紅やスキンケア商品のパッケージデザインを考案し、大ヒットを続けている。新商品の発表会とあって、クワンはいつもより派手目の化粧をし、いわゆる「勝負服」と言われるクロゼットにある一番お気に入りの出で立ちで仕事に来ていた。ここ数週間はこの日のプレゼンテーションのために週末もオフィスに来て、チームのメンバーと共に夜遅くまで仕事をしていたのだ。
クワンのオフィスはこのカフェの斜め前にあり、超高層のインテリジェントビルの三十階からは眼下にはチャオプラヤ河が流れ、対岸には日本人にも小説などで知られている有名な『暁の寺』と呼ばれる「ワット・アルン」が見える。16世紀のアユタヤ時代に建立された寺院で、夜明けの朝日が寺院に反射し、真珠のような虹色の輝きを放つことから『暁の寺』と呼ばれている。
タイでも最先端のオフィスビルには、フィットネスや、高級ブティック、日本食レストランやショッピングセンターが入居しており、ビルの一階フロアには南米のアマゾンの熱帯雨林を模した吹き抜けのスペースになっていて、通路の真ん中には人口の川が流れていて、そこには「生きた化石」と言われる体調一メートルほどの巨大な熱帯魚のピラルクが泳いでいる。
ところどころにこの巨大な古代魚に餌を与えることができるスタンドがあり、家族連れの子供たちに人気がある。クワンはこんな大きな魚が狭いところで飼われて可哀想だと思い、餌を買ってきて一気に水面に向かって全部放り込んだ。水面が一気に水しぶきで賑やかになり、丸太のような黒く赤みがかった巨体が数匹で餌を奪い合っている。いつか自然の河に戻れるようにと願いながら。
ビルの中にはお洒落なカフェも数店あるのに、クワンは何故かこのカフェの雰囲気が好きで、なにより日本製の抹茶を使った『抹茶ラテ』が一番のお気に入りだからだ。ランチタイムに同僚のトーイとオフィスを抜け出してここで一休みするのがクワンの楽しみの一つでもあった。二人はいつも仕事の合間や休憩中に旅行の話をするのが大好きで、これまで週末や連休にはタイ国内を二人で旅行するのが楽しみの一つだった。忙しい仕事の毎日に時々、現実逃避をしたくなり、タイの国内の旧跡巡りや自然の中でのキャンプやハイキングをするのを気分転換にしていた。
クワンは今度長期の休みが取れる、タイの正月と言われる「ソンクラン」(水掛祭)に実家へ帰り久しぶりに両親に会いに帰省しようと考えていた。クワンの実家はタイの西部の田園地帯にあり、バンコクからは車で4時間ほどかかるのだが、自然が豊かで近くの山には大きな滝があって、真っ青に透き通った滝つぼには魚が群れを成して泳いでいる。時々野生の象に出くわすこともある。同僚のトーイを誘ってみると即答で一緒に行こうと言われ、二人は旅の計画を早速立て始めようと日程や、行きたい場所についてあれこれ話し始めた。
泰地は、気を取り戻してラップトップの画面のデータとにらめっこしながらレポートの仕上げに集中した。だが、クワンとトーイの会話が気になってしょうがない。隣の席ではクワンとトーイは旅雑誌に載っている写真を見ながら話している。タイの自然の中のキャンプ場で、滝をバックに乗馬をしている旅レポの写真が目に入ってしまった。条件反射的に泰地はクワンに向かって話しかけてしまった。
「あの、その写真…素敵ですね」
先ほどからクワンとトーイの会話が気になってレポートがなかなか終わらない。あと少しで完成するところで泰地は辛抱仕切れずに声が出てしまった。二人が見ていた旅雑誌は、タイの大自然の中でキャンプやサイクリング、川でのラフティングや乗馬ができるスポットを載せた、タイ語の有名なアウトドアの旅刊誌だった。
泰地は学生時代にバックパッカーで世界の国々へ一人旅をしていた時、オーストラリアの大自然の中で馬に乗ったことがきっかけで乗馬が好きになり、日本に戻ってからは郊外の乗馬クラブへ通い始め、いつかまた自然の中で乗馬をしたいと思っていた。タイには仕事で赴任しているので、まずは仕事を優先し大好きな一人旅は少し仕事が落ち着いて、タイに慣れてきたころに計画しようと考えていた。
「ああ、これはカンチャナブリというところです、知っていますか」
突然話しかけられ、クワンは少し動揺した様子だが、さっきの一連の出来事の続きのように流ちょうな英語で返事をした。
「カンチャナブリ…ああ、あの昔の映画で有名な鉄橋のあるところ?」
泰地はカンチャナブリという地名は幼い頃に聞いたことがある。父と母が祖父の命日かなんかで親戚が集まっている中で祖父が戦争中に駐屯していたところだとかなんとか。カンチャナブリという日本語にはない音の響きが「ブリ」という魚のブリを想像してしまい、なんだかおかしな地名だなと思っていた。
タイ語の地名、特に県名には「ブリ」という音があり、その意味は」都市」という意味だ。例えばバンコクは英語での通称だが、タイ人は略して「クルンテープ」と呼ぶ。意味は「天使の都」などと紹介されているが、本当の呼び名はもっと長くて、世界一長い都市の名称で意味の都(王宮がある場所)である。カンチャナブリの意味は、カンチャナ=黄金、ブリ=都市、つまり「黄金の都市」という意味になる。バンコクからは130キロほど離れたタイの西部ミャンマーの国境に位置し、第二次世界大戦中の悲劇の他にも、自然が豊かで滝や国立公園などのアウトドアスポットがあることでも有名だ。
「クウェー河鉄橋のことね、それ以外にも自然がたくさんあるのよ」
クワンは続けて泰地の質問に応えるというより、むしろ一人でカンチャナブリの広報にでもなったかのように、その自然の魅力について語り始めた。トーイが見ていた雑誌を取り上げて、色んなページをめくりながら、森の中でのキャンプや、滝での水遊び、草原での乗馬の写真を泰地に見せた。
さっき初めてあったばかりなのに、初対面の自分にこんなに楽しそうに、時には笑みを浮かべながら話してくるクワンに、泰地は内心胸が高ぶってしまい、興奮気味に話すクワンが指さしている雑誌の写真に目が向かない。泰三はクワンのその愛らしい笑窪が左右に動くのを目で追っていた。
「あの…私の顔になんかついてますか?」
そういわれて泰地ははっと我に返り、頸を振ったが返す言葉が思いつかない。
「いや、あの、写真、素敵なところですね、僕も行ってみたいです」
精一杯の返信をしたが、思わず口が滑って「綺麗な方ですね」と言いかけて顔面が赤くなった。
クワンは初めて会う日本人の男性に一人で喋っていたとことに気づき、パッと雑誌を閉じてトーイに渡した。トーイは、そんなクワンの陽気で誰にでも物おじせずに話しかけていける性格を羨ましいと思いながら、雑誌を鞄の中にしまい時計を見た。
「そろそろクライアントとのディナーミーティングの時間よ!」
トーイはそう言って一人立ち上がりクワンを急かすように席を立った。
「じゃぁ、今日はあなたも大変だったけど、お話しできてよかったわ。Nice meeting you!」
ほとんど会話らしい会話にはならなかったが、泰地の心は踊っていた。
「ありがとうございます、いや、ごめんなさいでした…本当に」
咄嗟に言い返した泰地だったが、別れ際にクワンの服の袖口が少し汚れていたのを見て、
「あの、服を汚してしまったのでクリーニング代…」
そう言いかけたがクワンは袖口を見ながら、「大丈夫ですよ!」と言って店のドアへ向かった。
気づけば日中の肌に突き刺すような日差しも少し和らぎ、西日となってカフェの大きなガラス窓から差し込んできた。店員が天井からするするとカーテンを下し、淡色の照明が店内の雰囲気をセピア色に変えていく。しかし泰地の心の中にはまだギラギラと南国の太陽が照りつけていた。
ようやくレポートを仕上げた泰地だったが、クワンのことで頭が一杯になり、レポートの内容までしっかりと読み直す気にもなれず店を出た。オフィス街はすっかり夜の街と化していた。通りに面した観光客向けのレストランや若者向けのオープンバーのネオンサインが街や通りを彩り、昼間とはうって変わった顔を見せ始める。クーラーがよく効いたカフェから出た泰地は、外の噎せ返るような湿気を帯びた熱気にふぅーと息を吐いてまっすぐに自宅に向かって歩き出した。
歩きながら泰地は彼女の名前を聞いておけばよかったと少し後悔した。
たとえ名前を訊いたとしても、タイ人の名前は憶えづらくすぐに忘れていたかもしれない。タイ人の名前には仏教的な意味を込めた名前が多い。タイ人の名前は日本人とは逆で名前が先で苗字が後になるが、特に苗字については非常に長いものもあり、たいていのタイ人は名前で呼び合うか、親しい友人や家族などからはニックネームで呼ばれ、長い苗字については仲良い間柄になっても知らない人が多いらしい。
タイ人のニックネームはとてもユニークで、香港やシンガポール人が中国語の名前を英語の西洋人の名前のようにつけることはほとんどない。泰地のオフィスでもスタッフはほぼ全員がニックネームで呼び合っていて、「ダム(黒)さん」、「デーン(赤)さん」」プー(蟹)さん」、「レック(ちび)さん」、」ウワン(おでぶ)さん」など冗談でしょうと思うくらいに、人間の名前としては面白いニックネームをタイ人はみんな持っているようだ。
一説にはタイ人は信仰深く、赤子が生まれた家庭に「ピー(悪霊)」が来て、赤子を人間の名で呼ぶと悪霊に憑り憑かれてしまうので、人間の名前以外のニックネームをつける風習があったと聞いたことがある。この説が実は一番説得力があるのではないかと泰地は思っている。日本ではかつて「あだ名」と呼ばれ、現代ではハラスメントやいじめととられかねない酷いあだ名をつけられたり、からかわれた人も多かったが、タイ人のニックネームの風習においては誰もからかったり虐めたりすることがないようで、タイは実に寛容な社会だと泰地は実感するのだった……
旅立ちの予感
週明けの館内会議での発表を無事終えた泰地は、一人で大使館内にある職員用の食堂でそそくさと昼食を済ませ、週末にクワンと出会った例のカフェに速足で歩いていった。
都会のオアシスとはよく言ったもので、灼熱の南国の太陽が照り付け、車の渋滞で息が詰まりそうな通りからカフェのドアを開けて一歩入ると、空調がこれでもかというくらいに効いている。カウンターの前で額の汗を手で拭いながら広い店内を見渡した。店員も一緒に泰地の目の方向を追って指を差した。
「あちらの席が空いています、ご注文は何にされますか?」
この界隈では人気のあるカフェだが、席が空いていないと踵を返して帰ってしまう客も多いので、スタッフは客のために空席を探すようにしている。今日は昼食時とあって、幸い少し空席があったのだが、泰地はむしろそこにクワンの姿がなかったことが残念でならない。
「今日は来ないのかな…」
独り言のように呟いて踵を返すとその時、後ろに並んできたクワンとぶつかりそうになった。
「あ、ごめんなさい!」
咄嗟に泰地は日本語でそう言って頭を下げた。
「あら、またあなた!」
「ああ、すみません、いや、またお会いしましたね」
と顔を上げて泰地は、偶然ここでまた出会ったような言い方をした。
「あなたもよく来るのですね、私もこのカフェの雰囲気が好きなのよ」
そう言ってカウンターへ進みいつもの抹茶ラテを注文した。先ほどの店員が泰地をにやりと見て、先ほどの空席を指差し、ピースサインのように二本上げて、お二人ならあそこです、というように無言でエールを送っているように見える。クワンはこの日一人でやってきた。急ぎの仕事があるのだろうか、抹茶ラテを受け取ると店を出ようとした。
「よかったらあの席にご一緒しませんか?先日の旅の話もお訊ねしたいので…」
泰地は何年振りかの女性への誘いの言葉を発した。日本語ではなかなか言えないような台詞も英語にすると意外とストレートに言えたりする。クワンに断られさっさと店を出ていくかと少し不安になった。
「あなたも旅が好きなんですね、じゃ、あそこに座りましょうか?」 と気さくな調子で返事をした。先ほどの店員は慌てて泰地に向けていたピースサインを下して、「どうぞ」という手振りで案内した。そう言ってクワンは広い店内をすたすたと歩いてテーブルに着いて抹茶ラテをポンと置いて、
「来月のソンクランの連休に旅行に出かけようと思ってるの‥‥‥」
「ソンクランかぁ…」
タイには4月の中旬にソンクランというタイの暦の正月がある。日本で言う正月三が日にあたり、タイ国民にとっては重要な正月になるのだが、実際タイ人は西暦の1月の新年も祝い、タイには華僑と呼ばれる中国系のタイ人も多く、春節と呼ばれる旧暦の中国正月も祝ってしまう、年に三度の『正月』を体験できるのである。
故にタイに住んでいると、タイ人からは年に三度の「ハッピーニューイヤー」のお祝いメッセージを受け取ることになる。
タイの正月のソンクランは日本のゴールデンウィークのような大型連休になり、タイ全土が正月気分に浸り、また『水かけ祭り』として世界的に有名な水を掛け合う一大イベントの期間でもある。元々は新年を家族親戚でお祝いしたり、お寺へ詣で仏像へ水を掛けお清めをしたりする期間であったが、現在では海外のメディアなどでは水の掛け合いをする「水かけ祭り」と紹介されてしまい、海外からの旅行者が集まる通りなどでは、水の掛け合いに大砲のような水鉄砲や水タンクを背負いながら見ず知らずの人に水を撃ちまくる輩もいる。
クワンは有名ブランドのバッグから例の旅雑誌を取り出して、パラパラとページをめくりながら抹茶ラテのストローを咥えて飲み始めた。泰地は慌てていたので飲み物を注文していなかった。店員がテーブルを通りかかったので慌ててアイスコーヒーを注文した。
タイへ赴任してからずっと仕事に明け暮れてしまい、タイ人の友達の一人もいなかった泰地だが、まるでクワンとは以前からの友人との会話のように、旅雑誌を見ながら色んな場所について語り合った。
「その旅雑誌に載っているカンチャナブリのことをお訊ねしたくて…」
泰地はカンチャナブリという場所が少し気になっていた。
「ああ、ここですね…」
クワンは泰地の言葉を遮るように写真のページを開けて、今度はゆっくりと泰地に向けて見せて、まるで観光ガイドのような口調で詳しく説明を始めた。それもそのはずでカンチャナブリはクワンの生まれ故郷で、実家の両親に会うために毎年ソンクランの時期には帰省しているとのことだった。
「この辺りにはいくつかキャンプ場があって、近くの滝で泳いだり、川でラフティングやカヌーを楽しめるのよ。それに奇岩の山が多く、景色が素晴らしいの」
説明を聞きながら、写真とクワンの顔を交互に眺めながら、泰地は一枚の写真に目が留まった。
「鉄道が岩肌を走っていますね、有名なアルヒル桟道橋ですか、いい写真ですね」
泰地は大の鉄道ファンなのだ。大人になってからも飛行機よりも鉄道の旅を選ぶほどで、学生時代の卒業旅行ではオーストラリア横断鉄道に乗って、東海岸の首都シドニーから西海岸の都市パースまで、三泊四日を列車に乗って旅をするくらい鉄道への憧れが強い。
「アルヒル桟道橋」といえば、クウェー河の支流に沿って岩壁すれすれに造られた、全長300メートルほどの木造の橋のことだ。第二次世界大戦末期に造られた泰緬鉄道の一部で現在ではカンチャナブリ随一の観光名所となっていて、鉄道ファンや旅好きの撮影スポットとなっている。タイにいる間に一度は乗車してみたいと思っていた。
「泰緬鉄道と言って、古い映画の舞台になった鉄橋があって、ミャンマーの方に続いているの。途中には滝があったり、トレッキングや川沿いにキャンプ場があるのよ」
それだけ言って鉄道にはあまり興味のなかったクワンはまた次の写真を見せた。
「ここで馬に乗るのよ!」
人間の背丈ほどのサトウキビ畑が広がる広い場所で、岩肌が剝き出しになった小高い山に囲まれた、まるで西部劇に出てきそうな景色を馬に乗って駈けているタイ人の男女のモデルの写真を見せた。
「キミ、馬に乗れるんだ?」
興味津々な顔つきで泰地はクワンに尋ねた。
「乗れるわよ、あなたは?」
クワンのテンポのいい問いに泰地は少し怯んだが、息を整えながら自分も乗馬は好きだと答えた。旅の話が馬の話に発展していき、お互い馬が好きで乗馬が趣味という共通の話題で盛り上がって来た時、
「じゃぁ、話は早いね。いつ行きますか?」
泰地の心がまるで商店街の福引の一等賞の鐘のように鳴り響き、運ばれてきたアイスコーヒーを半分ほど一息で飲んでしまった。クワンが本気なのか冗談なのか分からず、即答ができず返答に戸惑っていると、
「じゃぁ、現地で落ち合いましょう、LINEを交換しましょうよ」
そう言ってクワンは携帯をいじりながら、現地の乗馬クラブの位置を送ってきた。「初めまして」というタイ語で書かれた馬のイラストも一緒に送ってきた。現地で落ち合う日はソンクラン祭りの連休の初日であった。
商談成立とばかりにっこり笑ったクワンは仕事に戻ると言い、すっくと席を立って、愛らしい八重歯を見せて少し微笑みながら店を出て行った。泰地はなんだか心が拍子を打つように感じ、ほとんど氷しか残っていないアイスコーヒーを一気に飲み干して仕事に戻ろうと店を出た。昼間の太陽がいつの間にか姿を消して、どす黒い雲が都会の汚れた空をさらに暗くして雷鳴が遠くで響いた‥‥‥
戦火の涙
けたたましいサイレンの音が村のあちこちから鳴った。
鉛色の空の彼方からニッパ椰子の丘を越えて飛んでくる、銀色の怪鳥のような悪名高き英国軍の爆撃機のB-24リベレーターが襲来してきた。泰三の日本軍の駐屯地の脇に、バンコクからの物資を運び込む貨物線路がある。泰緬鉄道建設で日本軍が持ち込んだ、C56型という蒸気機関車がバンコクからの貨車を引いて入線してくるところを、英国軍機に追いつかれ爆撃に見舞われた。
既に日本の敗戦濃厚な時期となり、バンコクや近郊では連合国軍の空爆もしばしば行われ、建設中の泰緬鉄道の線路や駅、橋、運河を行く物資運搬船などが破壊されるほど戦況は悪化していた。
英国軍機は、機関車と列車に向けて機銃掃射を放った。貨車に乗っていた日本兵が英国軍機に向けて発砲し応戦するが、二機の機体が旋回し攻撃を繰り返し、貨車の日本兵の数人が撃たれて列車から落ちていく。そのうちの一機から爆弾が投下され、機関車前方の線路を破壊した。
先頭のC56型機関車は大きな車輪部分が破壊されて脱線し、猛烈な蒸気と黒煙を吐きながら収穫前のサトウキビの畑の中に突っ込んでいき、熱せられた木炭が畑に散らかりもくもくと火が上がった。後方の貨車も蛇のようにねじ曲がり倒れていった。爆撃された車両の前方には、駐屯地へ続く線路が敷かれており、線路に沿って多くの物売りの屋台が並んでいる。先ほどの英国軍機二機は旋回を繰り返し、容赦なく線路に向けて爆弾を落としてきた。
人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。線路際に店を出していた数軒の屋台の藁の屋根が、爆弾の威力で吹っ飛んでいく。泰三は咄嗟に身をかがめ、マリーに叫んだ。
「早くそこから出て逃げろ!」
泰三は駐屯地から離れたところにある川の方向を指さした。マリーは商売道具のお菓子の材料や道具を布の鞄に詰めようとしていたが、
「馬鹿者!そんなものはあとでいいから早く逃げろ!」と大声で怒鳴った。
泰三がいる駐屯地には兵器や弾薬の保管庫はなく、爆撃による爆発は無かったが、鉄道の建設のための資材倉庫が破壊され、また、建設工事のための設計技師や、兵士の宿泊施設が銃撃を受けて死傷者が出たに違いない。また、駐屯地の横には連合国軍の捕虜収容所があったため、大規模な空爆はせず、収容所周辺の偵察に飛来したのだと思われた。
一機が旋回し、逃げ惑う人々に向けて無差別に機銃を掃射した。泰三はマリーの腕をぐいっと掴んで、川へと向かってサトウキビ畑の中を疾走した。その後ろで一人の青年がバタッと倒れた。通訳のタムだった。タムは、数人の年老いた村人や子供たちを励ましながら泰三の後を追っていたが、英国機が数十メートルの頭上を掠め狙い撃ちされたのだろうか、タムは畑の畦道にうつ伏せに倒れた。
「タムさん!タムさん!しっかりしろ!」
川を目の前にした地点で銃撃ににあった。泰三は掴んでいたマリーの腕を離し、
「川岸の林に隠れろ、さぁ早く行け!」
泰三はマリーを突き飛ばし、タムの元へ急いで戻った。
「大丈夫か、立てるか!」
抱き起すと褐色の制服が真っ赤な血で染まっている。
「佐藤さん、みんなを連れて早く逃げてください、またあの戦闘機が戻ってきます」
タムは背中に数か所の銃弾を受けて瀕死の状態だったが、力を振り絞ってそう言った。
「駐屯地の医務室に連れて行く、さぁ、立て…」
「私は大丈夫です…早くみんなを…」
タムの声が小さくなっていく。
「佐藤さん、私は佐藤さんや日本の人達と働けて嬉しかったです。みんな優しかった、良い人ばかりでした。日本語が上手くなれたのも佐藤さんのおかげです…ありがとう‥‥ございます」
「私は日本へ行くのが夢でした…富士山に登って、桜の木の下でお酒を飲んだり‥‥そうだ、餅、大福餅も食べたい…佐藤さんと一緒に‥‥‥」
「この戦争が終わったら一緒に日本へ行こう、桜も富士も自分の目で見ればいい!」
タムが抱いていた日本への夢を思い返した。泰三の両腕に抱えられたタムの大きな二重の眼がゆっくりと閉じていく。泰三の頬を涙が止めどなく流れ出し、なぜこの希望に満ちたタイ人の青年が死ななければならないのか、軍医であるにも関わらず彼の命を救えない悔しさが込み上げてきた。
鉛色の空に轟音を響かせながら英国機は雲の彼方へ消えていった。雷鳴がすぐ近くで轟き、泰三は我に返りマリーが逃げ込んだ土手の林へ駆けた。
「マリー!何処だ、怪我は無いか」
返事がなく泰三は林の中を探し回った。
「おい、返事をしろ!何処にいるんだ!」
命からがら林に逃げ込んだ数人の村人は、幸いにもかすり傷程度だった。泰三は草の上に息を切らして倒れているタイ人の男性を一人一人診ていき、誰も命に別状はないようなので安心した。少し奥まったところにマリーが木にもたれ唸っていた。肩を銃弾が掠めたのか右腕が血に染まっている。倒れて気を失っていたようだが、泰三が頬を叩くと正気付いて、
「佐藤さん…助けに来てくれたのですね」
「とにかく、駐屯地の医務室へ行こう、なにか治療できるかもしれない、さぁ」
マリーを抱き起こし、歩ける人は全員駐屯地まで向かうよう泰三が声を張り上げた。村人の一人が泰三に向かって、
「お前たちのせいだ!俺たちの国から早く出て行ってくれ!」
命からがら逃げてきた他の村人たちもそれに続いた。
「日本はもう負けるんだよ、戦争はうんざりだ!」
本当にそうだ、こんな愚かな戦争でこの国の人までも巻き添えにしたくない。確かに日本は負けるかもしれない、一刻も早く戦争が終わってこの国に平和が戻ることを祈っている、しかし、日本軍人としてその思いは誰にも明かすことはできない、泰三の心は底知れない戦争への憎しみと悔しさに溢れていた。
泰三は彼らの罵声を背中に受けながらも、マリーを抱えて駐屯地の医務室へ歩き出した。爆撃機の轟音が小さくなっていき泰三は急に力が抜けて地に膝をつき、はっと息をついた。
駐屯地へ引き込まれている貨物線の線路は蛇のように曲がっており、資材を運搬していたC56型蒸気機関車は、破壊された黒い胴体から白い蒸気をしゅーしゅーと不自然に吹き出しながら、サトウキビ畑に横向けに倒れていた。まるで巨大な黒い馬が行き絶え絶えに横たわっているようだ。
燃えた木炭が引火したのだろう、周囲の枯れたサトウキビに引火して黒い煙を上げている。駐屯地の前まで来ると、数人のタイ人と日本人の門兵が泰三とマリーに向かって走ってきた。彼らの顔は煤だらけで黒く、ところどころに傷を負って血が滲んでいる。
「佐藤さん、大丈夫ですか?お怪我は無いですか?」
一人の若いタイ人の門兵が心配そうに尋ねた。
「ありがとう、私は大丈夫です、早く彼女の手当をしてあげてください!」
タイ人の門兵はマリーの身体を担いで門に向かって歩みだした時、
「オイ、待て!そいつはタイ人だぞ!なぜ助ける、馬鹿者!」
軍刀を抜いて振り上げながら一人の日本人士官が叫び、タイ人の門兵を蹴り飛ばした。
脇腹を蹴られて唸っているタイ人の門兵を庇いながら、泰三は日本人士官を殴り飛ばした。よろけた下士官は殴られた意味がわからない顔をして、
「なぜですか!なぜタイ人を助けなければならないのですか、こいつは日本人じゃありません!」
胸を張って言い放つ下士官の顔に向かって泰三はさらに一発殴った。
「馬鹿者は貴様だ!タイ人であろうと負傷した者を助けるのが医者の役目だ、さっさと医務室に運べ!」
この日本の門兵の態度は泰三に言葉にできない憤りを感じさせた。
当時の日本とタイの間には「共同作戦ニ関スル協定」が結ばれており、両国軍は共同で作戦を行っており、日本はタイ国土の防衛に支援をするという友好関係を保っていたが、軍部の中にはアジア域内の同盟国の現地兵士や住民に対して優越的な態度や威圧的な蔑んだ行動をとる者もいた。
泰三はこの戦争はアジアの平和と秩序を取り戻し、安心して暮らせる社会の創造のためだと思っていた。そのためにはこの戦争の渦中で、自分に何ができるか、医者として何ができるかを追い求めてきたつもりでいた。せめて駐屯する日本軍へ支援を続けてくれるタイの人達へは敬意を以て接しなければならない、大切な同胞、協力者なのだ。
泰三は、マリーを駐屯地の医務室で急ぎ手当てをした。幸いにも医務室のある建物は大きな損壊を免れ、他の負傷者の治療ができたこと、そして泰三が駐屯地内の厩舎に飼っていた、二頭の馬も無事だったことが何より嬉しかった。
「おお、お前達も無事だったか…よかった、よかった、よしよし!」
日本人やタイ人の負傷者の治療を終えて、泰三は厩舎に足を運び、まだ爆撃の衝撃で怯えている二頭の馬を優しく撫でてやった。
泰三の日本の実家は富士山の麓の湖畔にある小さな農家だった。静かな水面と豊かな自然に囲まれた長閑な農村の生まれの泰三は、農作業の季節になると、馬に耕運機を曳かせ畑の土を耕す光景をよく見ていた。大人たちは時々近所の子供たちを呼んで、収穫の季節に作業を手伝わせた。
そのご褒美として、農村にある唯一の餅屋で売られている大福餅を一つずつもらい、大人たちは子供を馬に乗せて近くの林へ連れて行ってやった。戦前の日本の田舎では米や小豆も豊富に収穫できたので、大福餅は大きくて中には美味しい粒餡がたっぷり入っていて、泰三はその大福餅を目当てに大人の農作業を頻繁に手伝っていた。泰三は特に甘い粒餡が大好物で餅屋の前を通る時は、餅と小豆の香ばしい香りだけで幸せな気分になるのだった。
泰三は一人で馬に乗れるようになると、農作業が終わった馬を借りて湖畔の浜辺を散歩したり、裏山の森を駈けたり、馬は親しい友達のような遊び相手となっていた。
陸軍軍医学校を卒業して軍医としての修練を積みながらも、馬術を磨き軍隊内でもその腕前が知れ渡るほどの存在となっていた。タイの駐屯地に赴任してからも、日本人やタイ人の部下たちにも乗馬を教えたりしていた。馬と言っても軍馬として飼われているのでなく、近くの村人の厩舎から借りてきた小柄なタイ産の馬で、駐屯地の運動場の隅に囲いを作って、非番や遠出の際に乗ったり、仕事の足としてとても可愛がっていた。
泰三は当時流行っていた軍歌「愛馬進軍歌」という、軍馬を戦友として愛情を込めた歌詞が気に入り、馬にブラシをかけながらよく口ずさんでいた。1932年にアメリカのロスアンゼルス・オリンピックで馬術障害飛越競技で唯一の金メダルを獲得した、「バロン西」の愛称で呼ばれた陸軍大佐の西竹一を心から尊敬していた。
”お前の背に日の丸を 立てて入場この凱歌
兵に劣らぬ天晴あっぱれの 勲いさおは永く忘れぬぞ”
普段はタムを連れて歩いて村の中を歩いていたが、隣の村や少し遠出をする場合は必ず馬に跨って行動していた。そのためタムも乗馬が好きになり、泰三と共に馬に乗って外出するのをいつも楽しみにしていた。
タムの遺体は、彼の家族や軍の関係者によって、村の大きなお寺で法要が手厚く行われた。泰三はタムが乗っていた馬を曳いて葬儀に参列した。袈裟を着た数人の僧侶の読経が境内に響き渡るなか、タムの親族や駐屯勤務の同僚のタイ人の士官や、彼をよく知る村人たちで厳かに行われていた。一人の年配の女性が泰三の前に現れてタイ人の合掌ワイをして泰三に挨拶をした。
「タムの母親のマリワンと申します。タムを助けようとしてくださりありがとうございました。最後に日本人のあなたに看取られて息子は幸せだったと思います‥‥‥」
「・・・・・・・」
「息子は日本という国が大好きでした。憧れの国でした。家にいるときもいつも佐藤さんや日本のことを楽しく聞かせてくれました。本当に息子は佐藤さんたち、日本の人達と一緒に仕事ができたことを誇りにしていました。私は日本や日本人を怨みません、ただこの戦争が憎いだけです。一日も早くこの戦争が終わることを願っています、タムもきっとそう言うと思います」
泰三は言葉に詰まった。
日本軍、いや我々がここに駐屯しなければタムが死ぬことはなかったはずだ、この愚かな戦争のために、タイの未来ある青年を死なせてしまった後悔と無念さが心を諫めた。泰三はタムの母親、マリワンの言葉を聞いて涙が止まらず頬を流れた。
「私が死ぬべきでした‥‥‥本当に申し訳ない」
それだけ返すのが精一杯で、タムの母親に向かって深々と頭を下げた。
「あなたは死なないで‥‥‥医者としてみんなを助けてください」
マリワンは息子の遺影に手を合わせ、涙を拭いながらも優しい微笑みを浮かべ言った。そして泰三に向かって合掌ワイをして歩き去った。
一方、マリーの傷は日に日によくなって顔色もよくなり、人懐っこい笑顔を時々周囲の人に見せるようになった。爆撃のせいで、店の藁葺きのテントやお菓子の調理台が吹き飛んでしまったのを、彼女は痛む腕を抑えながら、一つ一つ片付けていた。通りの店主たちも徐々に戻ってきて、自分の店を立て直して野菜や日干しの川魚などを並べ、いつも通りの賑やかな声が聞こえ始めた。
泰三は、村人や爆撃の被害が気になり、タイ人の下士官と共に外出していた。マリーと彼女の店が気になり歩いて行くと、餅を蒸かすほんのりと甘い香りと、爆風で切り裂かれたのであろう、ボロボロになった屋根の焼けた藁の匂いが同時に漂ってきた。マリーを見つけた泰三は店の前にすっと立った。マリーは額に汗を流しながら、慌ただしく壊れた椅子や調理台に向かい、ぶつぶつと独り言を言いながら人の気配に気づいてはっとした。泰三はマリーの店の前に立って笑顔で話しかけた。
「傷の具合はどうですか、もう大丈夫ですか?」
泰三の治療で大事に至らなかったのが不幸中の幸いだった。負傷した右腕をぎこちなく、ゆっくりと挙げて言った。
「佐藤さんのお陰でこんなによくなりました」
その時に右の手のひらに掴んでいた粒餡が零れ落ち、マリーの頬について二人は大きな笑い声を上げた。
「上等、上等!」
恥ずかし気に笑う彼女の褐色の顔に真っ白い八重歯が、まるで南国の椰子の木の合間から照らす、太陽の木漏れ日のように愛らしい。泰三はにやけた顔を悟られないように、わざと眉間に皺を寄せて厳しい顔つきをしてみせた。それを見てまたマリーが笑った。
「マリー、馬に乗ったことはあるか?」
突然の泰三の問いに驚いて、泰三が何を訊いたのかも分からなかった。
「馬、馬ですか?」
「そうだ、馬だ、馬に乗ったことはあるか?」
「馬はないけど…水牛なら幼い頃に乗って遊んだことがあります‥‥‥」
マリーの実家の裏には大きな水田があり、当時ほとんどの地方の農家には、現代のように原動機付きのトラクターなどは無かった時代で、農耕用として水牛が飼養されていた。タイの農村地域では、伝統的に水牛を家畜として飼っており、農家の生活や収入源ともなっていた。マリーの実家にも大きな水牛が三頭おり、幼い頃から農作業の合間に水牛に乗って遊んだりして、家族の一員のような存在でもあった。馬については彼女の実家の近くに馬を飼っている厩舎があって、馬はそこで見かける程度だったし、まして馬に乗ることなど予想もしなかった。
「ははは、水牛か‥‥それは楽しそうだな、でも馬はもっと楽しいぞ!」
泰三は、よく一緒に外乗に出掛けた、タムの馬に乗ってもらいたい気持ちがあった。タムの死は大きな心の傷となって、厩舎で彼の馬を世話する度に寂しさが増してくるのだった。
「馬が一頭いるんだ、タムの馬がね‥‥大福餅を作ってくれたお礼に、キミに乗ってもらいたいんだが‥‥」
穏やかで優しい口調で泰三は彼女に話しかけた。水牛には乗ったことがあるが、これまで馬には一度も乗ったことがなかったマリーは少し戸惑ったが、日本の餅の作り方を親切に優しく教えてくれた泰三の誘いを断りたくはなかった。
「佐藤さんが教えてくださるのなら‥‥‥」
泰三の日本の軍人らしからぬ心遣いと穏やかな笑顔が、今は亡き兄の面影を想い起こさずにはいられなかった……
サクラとフジとマリー
陽に焼けた人懐っこい顔が泰三を覗き込む。
「私が「犬」の乗り方を教えてやろう、明日の夕方に厩舎まで来なさい‥‥‥」
泰三のタイ語の発音が可笑しかったのか、マリーは思わず吹き出してしまった。タイ語の発音では「犬」と「馬」がよく似ていて、たいていの外国人は、タイ語を学び始めたころに必ず間違えてしまう発音だ。
生前のタムから毎日少しずつタイ語の手ほどきを受けていた泰三は、少しずつ日常会話ができるようになり、日ごろの兵舎での会話や、外出の際にタイ人と話す時は、拙いながらもなるべくタイ語で話すようにしていた。しかし、駐屯地内では日本人の上官に叱責されることもあった。
「佐藤!貴様!日本帝国軍人がタイ語を学ぶなどとはどういう了見か!通訳を使え、馬鹿者!」
通訳の任務を果たしてくれたタムはもういない。何処へ出向いても、村人と話す時は、いつもタムが泰三の日本語をタイ語に訳して、それが現地の人とのコミュニケーションだった。そのうち、泰三はタムが話すタイ語を聴いて、タイ語の持つ柔らかな音の響きに慣れ、タイ語のイントネーションやアクセントなどについて耳から覚えるようになっていった。
タムが訳したタイ語を聴いて、自分でもタイ語で復唱してみたり、色んなものを指さして「これはタイ語で何という?」と訊いてみたり、そんな泰三の熱意に、タムも誠意をもってタイ語を教えていたが、あくまでも駐屯地の外にいるときであって、駐屯地内では通訳としての任務に徹した。
日に日に泰三のタイ語が上達していき、最近では外出する際には、習った簡単なタイ語で村の人達と会話を楽しむようになった。日本の軍人と言えば、堅苦しい威張った雰囲気があるのだが、泰三の笑顔で話すタイ語が、村人たちには好評だった。
マリーはその日の仕事を終え、泰三に言われた通り、駐屯地のはずれにある厩舎へ出かけて行った。駐屯地の正門を避けて、駐屯地の横を流れる運河を小舟で漕いで厩舎下の土手を上った。厩舎のある土手には「ラーチャプルック(タイ語で「王様の花」)」があり、鮮やかな黄色い花びらがあたり一帯を照らしている。その樹の下には、のんびりと休息しているような一頭の栗毛色の馬が繋がれていた。
馬の傍にはいつもの「愛馬進軍歌」を口ずさみながら、丁寧にブラシをかけている泰三がいた。土手の林から現れたマリーにびっくりして、
「おおお、なんでそんなところから来たんだい? 正門の守衛には言っておいたはずなんだが‥‥‥」
マリーは少し恥ずかしそうに下を向いてにこりとしながら、
「だって、正門の前には怖そうな兵隊さんがいたので、こっちの運河を舟で漕いできました」
と運河と自分の小さな木製の舟を指さした。
「なんだ、そうだったのか、まぁいいか。さぁこちらへ‥‥‥」
泰三は木の柵を手で開けてマリーを中に入れた。栗毛色の馬はマリーをちらっと見て鼻を鳴らした。
「『サクラ』っていうんだ、名前は。栗毛の馬なんだけどね」
そう言って泰三はブラシをかけている栗毛の馬の頸をポンポンと叩いてマリーに紹介した。
「そして、こちらが「フジ」‥‥‥私の愛馬なんだ」
マリーには「サクラ」や「フジ」という日本語が理解できなかった。どこかで聞いたことがあるような言葉だが、思い出せずにいた。
「サクラ…サクラ…、フジ…フジ…」
「サクラ」と「フジ」を交互に指さしながら小さな声で言ってみる。泰三はブラシの手を止めて、馬の名前の意味を伝えた。
「桜は日本の国を代表する花のこと、富士は日本一の山‥‥‥」
泰三は腕で三角を作って、大きく背伸びするように富士山のイメージを表現してマリーを笑わせたが、「サクラ」については、日本の春に咲く美しい桃色の花びらを持つ木、とだけ短く説明をした。日本人が感じる桜にはいろんな意味や情緒があるので、簡単に説明できるものではなく、また、タイ人のマリーに説いたところで理解を求めるのは無理があったからだ。
泰三は鼻歌を歌いながら「サクラ」に鞍をつけている間、マリーは厩舎の中を歩いて見て廻った。整然とした馬具が決められた位置に整頓されており、通路には藁一本落ちていない。梁の高い壁の位置に日の丸の国旗が掲げられていた。厩舎の掃除を終えた若い兵士が泰三とすれ違いざまに直立し、踵を鳴らして敬礼をして出て行った。
「馬って細くてかっこいいんですね‥‥‥水牛とは全然違います」
駐屯地の隅にある馬場まで、二人はたわいもない会話をしながら歩いて行った。そして馬場の中央まで「サクラ」を連れてきて泰三は言った。
「さぁ、そこの木の椅子を持って来なさい、乗ってみよう」
言われるままに馬場の隅に掛けてあった木の椅子を持って来て、恐る恐るそれを踏み台にして鞍に上がった。
「うわぁ、いい眺めです!素敵です!気持ちがいい!」
マリーはそのままの気持ちをそのままの言葉で表現した。
「サクラ、こちらはマリーさんだ、どうか宜しく頼むよ‥‥‥」
「サクラ」の頸を撫でながら少しおどけたように泰三が言った。
「サクラさん、宜しくお願いします」
マリーもそれに合わせて「サクラ」の鬣に両手を併せて合掌ワイで挨拶をした。二人の笑い声を聞いたのか、「サクラ」もブルルンと鼻を大きく鳴らした。
「サクラ」の手綱を掴み、ゆっくりと馬場の中央で円を描くように馬を曳いていく。マリーは鞍の前橋ぜんきょうに手を置いて、「サクラ」の常歩の動きに合わせ身体が前後に動かして、自分の身体と馬体の動きが一体になるのを感じて、大きく馬上で深呼吸をした。
「サトーさん、とても気持ちがいいです!」
泰三は「サクラ」に乗ったマリーと歩調を合わせ、時には停止させて、手綱の正しい持ち方や、鞍への座り方、膝や踵の位置を身振り手振りで丁寧に教えていった。
ふと顔を上げたらマリーが自ら両手で手綱を握り、「サクラ」のしっかりとした常歩に、初めてとは思えないほど綺麗な姿勢で乗っている、まっすぐ前を向き、背筋を伸ばし、両肩を少し広げ、胸を張った姿は泰三を驚かせた。
「マリーさん、本当に初めて馬に乗るのか?姿勢がとてもいい!」
マリーは素直な笑顔で泰三にまた手を併せて、”コップクン・カー(ありがとうございます)”と言った。
熱心に優しく教えてくれる泰三に対して、兄のような温かみを感じながらも、また泰三の凛々しい、威厳のある風情に次第に惹かれていくのだった。
一方、泰三もマリーが日に日に乗馬が上手くなっていくのを嬉しく思っていた。マリーは仕事が終わったあと、特に商品が午前中に売り切れてしまった日などは、泰三より先に厩舎の柵の外から「サクラ」を眺め、時々近所の畑から人参を数本もらってきては柵越しに与えて泰三を待っていた。
泰三は駐屯地の兵士や怪我人の診察を終え、いつものように愛馬「フジ」に乗って鉄橋復旧現場の作業員への往診へ行くため厩舎に向かった。
「今日あたり、マリーを一緒に連れて行ってみようか‥…」
往診記録帳を鞄に入れて医務室を出たところで、上官の上田少将に呼び止められた。
「佐藤軍医、少しお話が‥‥‥私の部屋まで来てください」
普段は医務関連の業務がほとんどなので、軍部の上官に急に呼ばれたのに少し驚いた。上田少将は執務室へ入ると、ゆっくりと革張りのソファーに腰を下ろし、木製のテーブルの上の煙草を取り火を点けた。
「佐藤軍医殿、早速で申し訳ないが、ビルマ戦線のための鉄道建設の前線へ行ってくれないか……」
戦況が悪化してきているとは知っていた。軍部からの配給が減って、日本からの医療物資や薬、日本の米や酒、煙草なども最近では駐屯地へ配給されなくなっていた。日本の軍人たちは上官も含め、ジャスミン米という、炊くとほんのり甘い香りのするタイの米で、日本の米より少し長い粒でタイ人の主食となっているものを食べていた。しかし、タイのジャスミン米を食すには、日本の白米のように粘り気がないため、箸では食べることができず苦労していた者もいた。
泰三はタイの米が大好きで、タイ人と同じくスプーンとフォークを使って、タイ人が食べるタイ料理を彼らと一緒になって食べていた。また日本酒や日本製の煙草などは、上官たちの嗜好品として執務室の引き出しにこっそりと保管してあり、時々彼らが部屋で酒盛りをしているのをよく目にしていた。
「はっ。転戦先はどちらでありますか」
軍の命令は絶対だ。泰三は起立したまま上田少将の顔を正視して尋ねた。上田少将は机の上に地図を広げ、タイとビルマの国境あたりまで建設途中の鉄道の路線を鉛筆でなぞり、大きな河の麓をトントンと叩き鉛筆で丸を描き、上目遣いに泰三を覗き込んだ。鉄道連隊が担う泰緬鉄道の建設現場であった。
「勿論、戦闘地域に君を送り込むことはできない。ただ、ここから約20キロにある鉄道建設現場では今、突貫工事が行われており、作業隊宿営地では連合軍の西洋人捕虜を使役し、現地のタイ人や出稼ぎのアジアからの人夫を雇用して建設を急いでいるのだが、この暑さと伝染病、そして食糧不足のせいで多くの死人や病人が出ている。日本人の建設技師も数名命を落としている。そこで軍医としての君に、病人の診察や治療を現場の衛生兵と共に活動していただきたい‥‥‥」
上田少将は戦況が悪化する中、泰緬鉄道の建設を急ぐ軍司令部からの情報を詳しく泰三に伝えた。これまでにも泰三が務める駐屯地にも連合国軍の空襲があり、建設途中の鉄橋や線路が爆撃で破壊され、労働に携わった者の死傷者も多く見てきた。さらに前線の工事現場では、高温多湿なジャングルや頑強な岩盤が作業を拒み、感染力の高いマラリア、コレラ、デング熱などが蔓延し、食料の配給も減り栄養失調など、戦闘よりも熱帯病で死亡する人数の方が多かった。予防薬やワクチンも現地にはほとんど準備がなく、タイの病院から調達できる抗生物質の備蓄も十分でなく、解熱剤程度ではまったく意味がないほど感染状況は深刻化していた。
泰三は医師としてできる限りのことはやってみようという思いがあったが、反面、自分も熱帯病に罹ってしまうのではないかという不安が脳裏をかすめた。
「了解であります」
泰三は上田少将に向かって敬礼をし、そして彼の執務室の隅に置いてある日章旗に向かって頭を下げ部屋を出た。外は少し夕焼け空になっていて、緊張が続いたせいか泰三は「ふぅー」と息をついた。
「あぁ、馬だ、馬、マリーさん!すまない‥‥‥」 泰三は慌てて厩舎に向かって走った。
既に陽は落ち、あたりは夕闇に包まれていった…
スコールの向こうへ
鉛色の空に一筋の稲光が走ったと同時に、爆音が都会のビルの谷間に響き渡った。さっきまでカンカン照りの青空だったのが俄かにどす黒い空に変わっていた。生暖かい風が、埃と塵が混じったような雨の匂いと共に突風になってビル街を吹き抜け、間髪を入れずにバケツの水をひっくり返したような大粒の雨が降ってきた。
「しまった、傘を忘れた!」
タイの4月は暑季といわれ、一年で一番暑い季節だが、タイの正月と言われるソンクランの前後で、天候が不順になり雨季の気配をのぞかせる。都会の日中の体感温度は40度以上の日が続き、タイ人でさえ暑さでうんざりする時期でもある。朝から気温が急上昇し、屋外にいたら眩暈がするほどの暑さだが、空が俄かに曇り始め雷雨に変わる、所謂、南国特有の熱帯スコールだ。この時期はまだ本格的な雨季ではないが、高温で湿度の高い日には短時間で激しい雨に見舞われることがある。
特にバンコクなどの都市部では、大量の降雨による洪水が発生し、悪名高きバンコクの通勤時間帯の渋滞に追い打ちをかける。すべての交通機関が麻痺してしまうほどで、様々な経済的損失も引き起こす大きな社会問題となっているが、現在でも決定的な解決策は見出されていないようだ。
ずぶ濡れを覚悟した泰地は通りに出て歩き出したが、わずか数メートル行っただけで、水色のシャツが紺色に変わるほどびしょ濡れになった。
「最悪だな……」
しかし、泰地はクワンとの乗馬の約束ができたとことに喜びを感じて、ビルのガラス窓にフラッシュのように反射する稲光も、泰地の眼には新しい舞台のフラッシュライトのように映り、都会の空に轟く雷の音も、これから始まる旅物語の感動のファンファーレに聞こえていた。
勢い走り出し大使館に戻ると、守衛の一人がずぶ濡れの泰地を見て慌てて門を開けた。大使館の中庭には、南国の樹々が大都会の森のように植えられていて、排気ガスで汚れた木の葉がいつもより鮮やかな緑に見えた。
一方、クワンはソンクランの長期休暇を前に、旅行の予定よりも先に仕事の調整に大忙しだった。例のプロジェクトのメンバースタッフとの確認作業や、休暇中の緊急事案に備えて細かい指示を入念に行った。
このソンクランという時期だけは、タイの正月ということもあり、タイ全土にわたる大型連休となる。日本で言う正月三が日のような年末年始の休みで、娯楽施設やサービス産業以外は、ほとんどの企業などが一週間程度の連休となる。しかし、クワンは仕事が気になるのか、他の社員は一週間の休みを取るのに、自分だけはわずか三日間の休暇申請を出しており、一日でも早く仕事に戻ろうと考えていた。
同僚のトーイがオフィスで慌ただしく動き回っているクワンに近づいて言った。
「クワン、顔が引きつっていると思ったら急に笑ったり‥‥‥一体どうしたのよ?」
泰地に会ってからというもの、クワンは仕事中にオフィスから遠くを眺めながら、一人でにやついているのをトーイに見られていたのだ。気になっていたトーイが我慢できずにクワンに訊ねたのだ。
「なによ? なんでもないわよ‥‥‥」
照れを隠すように机の上の抹茶ラテのストローに口をつけた。
「もう氷しか残ってないわよ」
何かを見透かされたかのようなトーイの一言でクワンは顔が火照っているのが恥ずかしくて、
「なんでもないよ、さぁ会議の準備をしましょ!」
とそそくさと席を立って行った。
今度の休暇はクワンにとっても大切な休みでもあった。二年も実家の母親の元へ帰っていないのだ。仕事に明け暮れ、忙しい毎日を過ごしていたクワンは、長い間母親に会っていなかったことを気にかけていた。時々電話で話す程度だったが、病弱の母親のあまり元気のない声を聞く度に、休みが取れたら実家に帰って母親の顔が見たい、と思っていたのだ。また、久しぶりに実家に戻って大自然の中で大好きな乗馬を楽しめるとあって、彼女の心は既に実家の緑と澄んだ空の懐かしい風景を想い浮かべていたのだ。
それに今回は、ひょんなことから出会った、佐藤泰地という日本人の青年医師と一緒に馬に乗るという約束もあり、クワンは微妙な興奮と緊張から、なにか特別な休暇の旅になるのではないかと感じていた。
クワンは朝暗いうちから家を出た。バンコクの都内の渋滞を避けるためでもあったが、それ以前に、久しぶりに母親に会いに実家に戻れることの興奮から自然に早く目が覚めてしまったのだ。タイは都会を少し離れると、郊外にはまだ田んぼが残っていて、まるで数十年前の過去にトリップしたような緑豊かな風景が見えてくる。
クワンは車内に流れる大好きなカントリーソングに合わせてハンドルでリズムを刻んだ。田舎に続く高速道路はまだ休日の渋滞が始まらないせいか、クワンは気持ちのいい曲に合わせて鼻歌を歌い故郷を目指した。だが内心、母親は本当に元気なのだろうかと、久しぶりに会ってどんな言葉をかければいいのかと、前方に見えてきた有名な寺の大きな黄金色の仏塔に個々の中で手を合わせた。
「泰地に会うのも楽しみだわ」とクワンの顔に微笑みが浮かんだ。
久しぶりの田舎の実家への運転だったが、時間が一瞬だったかのように感じた。高速を降りて実家へ続く街を通り過ぎる。懐かしい田舎の空気が彼女を包み込んだ。都会から見放された古い商店が並び、幼い頃に両親とよく食べに来たカオマンガイの店の主人は、もうお爺ちゃんになっているが、相変わらず盛況で客が入っている。街の唯一の銀行も郵便局もそのままだったが、新鮮な野菜や果物を売っていた老夫婦の店は、いつの間にかコンビニエンスストアになっていた。クワンは少し残念に思いながらも、呟くように言った。
「時代は変わるのよ、私も変わるのよ‥‥‥」 そしてふぅーっと息を吐いた。
自宅の前で待っていたのは、幼馴染のマリサだった。彼女は満面の笑みでクワンを迎えた。
「クワン!久しぶり!」
「マリサ!元気だった?」
二人は数年ぶりに再会し、まるで時間が止まっていたかのように暫くの間、昔話に花を咲かせた。
「バンコクの暮らしはどう?仕事は順調?」
マリサへ満ち足りた都会での生活を自信満々に答えようとしたが、何故か言葉に詰まってしまい、
「う、うん、まぁまぁ楽しくやってるよ‥‥‥」
となんとなく気の抜けた返事になってしまった。
「ふーん、そうなんだ」とマリサは軽く相槌をうった。
近所に住むマリサとは幼稚園からの幼馴染で、米や香辛料を売る商店の娘で、クワンの両親の店とも取引があった。そのため、マリサとクワンは自然と親しくなって二人でよく遊んだ。今では両親から引き継いだ店を一人できりもみしており、クワンが里帰りすると聞いて彼女の帰宅を待ち受けていたのだ。
「お母さん、クワンに会うのをすごく楽しみにしてたよ。最近は少し体調が良くなってきたみたいで、顔色も良くなってきたよ、さぁ、車から降りて!」
クワンは安心し、胸を撫で下ろした。
玄関から母親がゆっくりと出てきた。クワンは急いで車から降り母親に駆け寄った。
「お母さん!元気だった?」
「クワン、よく帰ってきたね、元気そうでなによりだわ」
クワンの母親は、裏の畑で採れた緑豆を一杯に入れた竹かごを抱えている。今日、娘のクワンが帰省してくることを知って緑豆を使って娘の好物を作ってあげようと、朝から自宅裏の畑で収穫してきたのだ。
「久しぶりだから、今日はあなたの好きなお菓子を作ってあげるね」
母親の優しい笑顔に、クワンの目から涙がこぼれ落ちた。マリサからは時折メールで知らせがあって、母親の具合がよくないことを知っていた。母は若い頃から心臓が悪く、時々通院することも多く、田舎では都会のような専門医が常駐する総合病院がなく、母に万が一のことがあってはと心配せずにはいられなかった。
その夜、久しぶりに母と二人だけで食事をとりながら、クワンのバンコクでの仕事や暮らしについて、忙しいながらも充実した生活を送っていると語った。しかし、クワンは母の病気の治療にバンコクへ連れて行き、私立病院で診てもらった方がいいとは言い出せなかった。故郷の実家を離れたがらない、母の頑固な性格を知っているクワンは、もしこのことを言い出せば母親と口論になるのは間違いなかったからだ。
母はクワンが幼い頃、父である夫を交通事故で亡くしてから、一人で家業と娘のクワンを育てて来た。気丈な母の性格から娘に世話になりたくはなかった。クワンはなるべく母の病状のことをあれこれ訊くのを避けて、愉しい話題に絞って楽しい会話を心掛けていた。
「あなたが幸せならそれでいいのよ、母さんのことは大丈夫、近所の人たちが優しいからなんかあっても助けてくれるわよ」
強気な母の言葉らしく、それが逆にクワンの気持ちを重くするのだった。
携帯のメッセージは泰地からだった。(先ほど到着しました。明日、楽しみにしていますー)と短いメッセージが来てクワンの心に少し火が灯った。クワンは話題を変えて言った。
「明日ね、バンコクで出会った日本人の方と一緒に乗馬に行くの」
「え?日本人?あなたに日本人の友達なんかいたの?」
母は不思議そうな表情でクワンに訊いた。
「あなた、学生時代は英語の勉強が好きだったし、観るのは洋画だったし、留学生の西洋人の友達もたくさんいたのに、なぜ日本人なの?」
別に日本人が好きになったわけでもないし、にわかに日本文化に興味を持ったということでもない。これまで日本という国にはあまり好感がもてなかったし、自分の国に多くの日本企業が進出して来て、日本ブランドが身の回りに溢れている、それでも特に日本が好きになるという感情は沸いてこなかった。
それは、特に過去にタイをも巻き込んだ戦争の歴史ではなくて、クワンのオフィスビルにある日本料理屋などで見かける、日本企業のビジネスマンたちが暑い中、皆同じ色のスーツを着て同僚や上司と集団で同じもの注文し、やたらに上司に頭を下げているのを見て、なんだか可哀そうな人たち、くらいにしか思っていなかった。クワンのオフィスの同じ階にある日本企業のオフィスでも、毎晩遅くまで残業をしている日本人をよく見かけていた。
クワンは残業と生産性は必ずしも一致しないと考えるタイプなので、毎日遅くまで会社にいる日本人を仕事中毒だと半ば軽蔑していたが、自分にもその傾向があることに少しの衝撃を覚えることもあった。しかし、そうした日本人の仕事に対する勤勉さや責任感に対し内心尊敬の念を持っていたが、この一人の青年の泰地という日本人に馬以外の共通点があるとは夢にも思っていなかった。
「日本人‥‥‥いいわね」 そう言って台所へ歩いて行った。
そういえば家に着いた時から、台所の方から甘くて香ばしい匂いが漂っている。母が畑で採ってきた緑豆を昼の間に煮ていたのだ。裏ごしをした緑豆を大きな器に入れて台所から持ってきた。
「これ、明日のおやつに持っていきなさい‥‥‥」 と小さなスプーンで一さじ掬ってクワンの口へ運んだ。
「あまーい、母さんの作る緑豆のお菓子は最高だから楽しみにしてるわ!」
クワンは母親が小さいときから家で作ってくれた、タイの有名なお菓子『カノムピア』が大好きだった。カノムピアというのは、歯触りの良いパイ皮の生地に、緑豆の餡が入った一口サイズの饅頭菓子のことで、緑豆のほかにも黒豆や、小豆、パイナップルやドリアンを漉したのが入っているものもある。母親はクワンが緑豆の餡が一番の好物とあって、この日に合わせ腕を奮っていたのだ。
父を亡くしてから、母は父の製菓業を継いで、実家の畑で採れるバナナやマンゴー、パイナップルなどを使ったお菓子やスイーツを街のスーパーや商店に卸す商売をしていた。
タイと言えば、唐辛子をふんだんに使った辛い料理で有名だが、一方、タイのお菓子やスイーツと言えば、ココナッツミルクやもち米、果物などを材料として色鮮やかで、料理の辛さとは正反対の強烈な甘さのお菓子やスイーツがあり、タイ人の心をつかんで離さない。
母は、過労から心臓を患い、時々仕事を休むことが多くなったが、娘の仕送りもあり身体の調子の良いときはお菓子を作って街へ売りに行くのだった。
「日本人と言ったわね?日本、日本‥‥‥そうだわ、”あれ”にしましょう」
母は意味深ににんまり微笑んで台所へ消えた。
「母さん、”あれ”ってなに?」
クワンが気になって母に問いかけたが、台所にいる母はその声が聞こえないかのように、クワンは聞いたことのない、ある日本の軍歌の一小節を母は口ずさんでいた。
♪お前の背に日の丸を 立てて入場この凱歌…
兵に劣らぬ天晴あっぱれの 勲いさおは永く忘れぬぞ‥‥‥♪
今度は台所から餅米が蒸ける匂いが漂ってきた……
不思議な夢
日本製のディーゼル機関車に引かれた列車は、ノロノロ運転でバンコクの都会の喧騒の中を抜けようとしていた。踏切がある至る所では、渋滞で前方が詰まってしまって、自動車が線路内で立ち往生してしまうので、列車はその車が踏切を渡りきるまでしばし停車しなければならない。
日本では考えられないような光景だが、タイでは通勤時間帯にはよくある光景だ。泰地はバンコク発の三等列車に乗って、歩くようなスピードで走る列車の開けっ放しの窓際に座り、バンコクの朝のラッシュ時の忙しく動く人々をぼんやりと眺めていた。
途中駅の付近の踏切では、通過する列車を無事通過させるため、線路脇の小さな小屋のような詰所から制服を着た男が現れ、笛を持って赤い旗と緑の旗を振りながら、線路上の車を通し、列車を誘導するために緑の旗を振りながら合図を送っていた。タイ国鉄の踏切はなぜか遮断機が片方しかついていないところがほとんどで、列車がギリギリまで近づいているのに、片側の遮断機がないところから、ひっきりなしにバイクや車が横切っていく。
交通ルールも命の補償もあったもんじゃない、と泰地は半ば呆れ気味に、「ディス・イズ・タイランド‥‥‥」と呆れた声で呟いた。
列車は都会の喧騒を抜け、徐々に速度を上げていくと、あちこちに緑の広大な田園が広がり、牧草地には牛の群れが草を屠り、水牛が水田で水浴びをしている。畦道には背の高い椰子の木が並ぶように生えていて、バナナの畑が交互に現れる、いかにも東南アジアのイメージ通りの風景が泰地の眼を楽しませた。果てしなく続く田んぼと椰子とバナナの風景に少し飽きてきた泰地は、うとうととし始めた。
「いいなぁ‥‥‥癒されるなぁ‥‥‥」
トントンと肩を叩かれ、ふと目を開けると列車は映画「戦場のかける橋」で有名になった橋の袂のカンチャナブリ駅に停車していた。
タイの鉄道に乗ると車内アナウンスというはまずない。自分の降りる駅はしっかりと覚えておかないと乗り越してしまう。時々、車掌が車内を歩きながら次の停止駅を大声で客席に向かって知らせてくれることもあるが、この時泰地はまだ自分が降りる駅ではないとわかっていたのだが、何故か車掌が泰地の横に立っていた。
「おい、あんた、なんか食べるか?」
タイ国鉄の制服を着た車掌がそんなことを言うので、泰地は夢でも見ているのかと瞬きを何度かして、
「食べるって、何をですか?」
車掌は黙って車両の先を指さし、ご飯を食べる仕草をしてにっこりしながら隣の車両へ去って行った。
途中の駅だがかなり大きくて賑やかな駅だ。そこに大きなバケツを二つ抱え、何故かニューヨーク・ヤンキースの帽子を来た人懐っこそうなおばさんが乗ってきた。
「よいしょ、よいしょ、あー暑い‥‥‥ふぅ」
大きなバケツを前の座席に置いて、腰につけたポーチに無造作に入れてあるお金を数えながら、目の前の泰地に向かって、
「これ、美味しいガイヤーンよ、もち米と一緒に、食べる?」
おもむろにバケツの中から交互に袋に入ったガイヤーンともち米を取り出し、泰地の前に差し出した。「ガイヤーン(ガイ=鶏 ヤーン=炙り焼き」とはタイの東北料理の代表みたいなもので、鶏肉を炭火で炙り焼いたものを甘辛いタレに漬けて食べる人気の料理だ。さらにもち米と一緒に食べると、タレの辛さが口の中で程よく中和され何とも美味しいのだ。
ちょうど正午あたりだったので、泰地は条件反射的に受け取って代金を払った。タイの鉄道に乗ると途中の駅で時間合わせなどで長時間停車することがあるので、いわゆる「売り子」たちが車内へ入ってきて、乗客に物品を販売するのだ。弁当や飲み物、ビール、海沿いを走る列車なら水着や浮き輪、山を走る路線なら麦藁帽子などなど、停車中の車内はにわかミニ・ショッピングセンターと化すのである。
泰地はガイヤーンにもち米を食べながら、そしてシンハビールをクーラーボックスに入れて売りに来た屈強な親父から一缶買った。程なく機関車の汽笛の合図で、売り子たちは慌てて煙のように降りて行き、車内に多くいた観光客も一斉に降りて行った。
列車はカンチャナブリ駅を出るとすぐにクウェー河鉄橋を渡った。そして川に沿って岩壁すれすれに木を組んで造られた「タムクラセー桟道橋」を岩山に張り付くように、歩くような速さでそろりそろりと走る。列車のレールが軋む音が恐ろしく甲高く響き、右側の窓から手を伸ばすと確実に岩に当たるだろう。
ここはかつて、第二次世界大戦中に旧日本軍がタイとミャンマーを結ぶために建設したもので、多くの戦争捕虜や労働者が過酷な条件下で働かされた結果、多数の犠牲者を出した。彼らの苦難を思うと現在のこの平和な風景が嘘のように思えた。泰地はカメラを取り出し、泰緬鉄道の悲惨な歴史について思いを馳せながら、眼下に広がるクウェー河の景色を写真に収めた。
静けさを取り戻した車内はまた同じような、延々と続く平坦な緑とサトウキビとトウモロコシ畑が続く景色を車窓に映しながら、車両の「カシャン、カシャン」という軽いリズムが泰地には心地良かった。
列車が目的地の駅に到着すると、自然豊かな観光地とあって、さすがに駅前は賑やかだった。改札もなく切符を回収する駅員も居ないのはタイ鉄道らしいところで、古い駅舎を一歩出たところで「サーム・ロー(サーム=3・ロー=車輪)」と呼ばれる三輪自転車タクシーが数台並んでいる。
サーム・ローは自転車の後部が人力車のように客席になっていて、日よけか雨除けの幌がついている。座席は小柄なタイ人ならば二人は余裕で乗れそうだが、屈強な男なら一人しか乗れないだろうが、体重次第で運転手の脚力次第ってことになる。東南アジアの国でも呼び名は違うが、現在でも現役で庶民の脚となっている三輪車タクシーなのだ。
バンコクのような都会ではもう少なくなってしまい、エンジン付きの三輪タクシーの「トゥクトゥク」が活躍しているが、こういう地方の田舎町でエンジンのない、昔ながらの人力タクシーというのも泰地には新鮮に映った。
駅前に並んだサーム・ロー運転手のタイ人が、駅舎から出てくる乗客を待ち構えていたかのように、
「おーい、お兄さん、こっちだ、こっち、乗っていけよ!」 手当たり次第に声をかけてくる。
泰地に向かってそのうちの一人が、
「おい、あんた日本人だろ?鉄橋、鉄橋」
と先ほど通過してきた有名なクウェー河鉄橋まで連れて行こうとする強者運転手もいた。
泰地はいちいち返答するのが面倒くさいので、事前に予約していた、駅前の大きな通りの向かいにあるゲストハウスへ歩き始めた。
ゲストハウスの狭いロビーには、同じ列車から降りて来たであろう数名の外国人の宿泊客がいて、色んな言語が飛び交っている。しかしゲストハウスの受付のタイ人の女性は、タイ語訛りのブロークン英語で、てきぱきとチェックインを済ませていく。外国人の旅行者の扱いには慣れているのだろう、受付カウンターの板の上に貼られたゲストハウスの案内をすらすらと英語で説明していく。
泰地がチェックインすると、彼女はこれまたブロークンだが泰地には日本語で話してきた。
「あなた、日本人ね、これホテル案内です‥‥」
泰地は彼女がなぜ自分を見て日本人だと分かったのか、少し驚いたが、それだけこの地を訪れる日本人観光客が多いのだろうと合点がいった。彼女は泰地のパスポートを預かりコピーを取って丁寧に手渡しながら、
「私、日本大好きです、まだ行ったことない、行きたいです‥‥‥日本人、かっこいい」 と言った。
「そ、そうなんですか、ありがとうございます。日本はいい国です、是非訪れてくださいね‥‥‥」
泰地は彼女の一言が嬉しくて誇らしかった。しかし、周囲の外国人には、二人の日本語の僅かな会話が分かるわけでもなく一人で照れ笑いした。
近年の日本ブームでタイ人の中でも日本へ旅行に行く人が増えた。一昔前なら、日本と言えば日本ブランドの自動車、家電、寿司などの日本料理などが日本のイメージで、高品質だが高価な盤石な人気があった。ただ、物質的な日本という人気は根強かったが、タイ人には日本人は勤勉で、真面目で、恥ずかしがり屋とみられているので、目立たない「日本人」や「日本文化」への関心はタイ人には薄かった。
しかし、近年では日本への渡航査証が一部免除になり、タイ人の日本旅行ブームが起きて、日本を訪れたタイ人たちがSNSを通じて、日本の景色の良さや、日本人の親切さ、本場の日本料理や日本文化に触れて、感銘を受けたことなど、若者を中心に日本ブームが広がってきた。この彼女もそうしたSNSを見聞きして、日本に憧れを抱いた一人なのだろう。
部屋の鍵を受け取って、続けて彼女に自転車のレンタルを申し込んだ。彼女はすぐに係に指示をして自転車の鍵を泰地に渡した。
「ハヴァ・ナイス・デー!」 と彼女は満面の笑顔で小さく手を振ってくれた。
部屋と自転車の鍵を受け取った泰地は、一旦荷物を降ろそうと部屋に向かった。通路から木の階段を少し上がったところに部屋の入口がある。部屋はタイの伝統的な高床式のデザインになっている。気候や文化、生活様式に適応するための独特のスタイルだ。床下は吹き抜けになっていて、大きな木製の窓が開放感を感じさせる。高級リゾートの部屋でもなく殺風景だが、古い写真で見たタイの伝統家屋に入ったかのように、ヒンヤリとした板張りの床が心地よく、泰地は部屋のクーラーをつけずに天井扇を回してベッドに大の字に寝転がった。
泰地は不思議な夢を見ていた。借りた自転車の鍵と携帯を握ったまま、ベッドの上で鉄道の旅疲れか、うとうとしてしまったようだ。
誰かが部屋をノックするので、目を擦りながらドアを開けるとそこには、戦争中の日本の軍人のような軍服を着た若い兵士が二人立っていた。泰地はなぜこんな格好をした日本人の人がいるのだろう?といぶかし気に、色褪せた開襟シャツに軍帽を被っている二人を交互に見た。そのうちの一人が敬礼をし、
「佐藤軍医殿でありますか?お迎えに参ったであります、こちらへ!」と言った。
泰地は恐らくゲストハウスに宿泊している客に向けての歓迎仮装パーティーか何かと思い、
「はぁ‥‥‥僕、佐藤ですが、え?何か始まるのですか?」 ととぼけた声で訊いた。
するともう一人の兵士がまた敬礼をして、
「上官殿がお呼びであります!緊急事態であります、さぁ!」
と何故か昔の日本の兵隊のような話し方をするので、泰地は少し可笑しくなって、
「あのぉ、ひょっとして戦争ごっことかのお誘いですか?」
と頓珍漢なことを訊いたが、内心ロビーで面白いことでもやっているのかなと思い、その二人の兵士が履いた擦り切れた軍靴できりっと踵を返し歩き出したのにつられて、自分もドアを閉めて二人の後についていった。
泰地は自分の目の前の異様な光景に戸惑った。彼はゲストハウスから歩いてすぐの駅に到着したはずだったが、そこはまるで時代が遡ったかのような場所だった。
「佐藤軍医殿」と呼ばれた泰地は、兵士の恰好をした二人に揶揄われたのかと思いたかったが、その景色はあまりにもリアルだった。舗装されていたはずの通りは赤土の砂利道で、椰子の葉で編まれた日よけの下にいる兵士たちや、駅には蒸気を吐き出す日本の蒸気機関車のC56型機関車が停車しており、あたりはまるで映画のセットのように見えたが、どこにもカメラやスタッフの姿はなかった。
「ここは一体どこなんだ……」 と泰地は再び呟いた。
彼は茫然と立ち尽くしていたが、やがて二人の兵士に案内されて、駅の待合所のような日よけの下に座っている軍服姿の男の前に案内された。
「佐藤軍医殿をお連れしました!」 兵士たちは敬礼をし、その場を離れた。
軍服姿の男はゆっくりと泰地を見上げ、その鋭い目にはどこか懐かしさが混じっていた。
「佐藤軍医、よく来てくれた。私たちの部隊が君の助けを必要としているのだ」
泰地はその言葉にさらに驚いて、
「えぇ……ここは一体どこですか?これは何かの映画の撮影でしょうか?」
軍服の男は顔を歪め泰地を睨んだ。肩章の三つの星が付いているのは軍部の上層部の人物に違いない。泰地は小さい頃から戦争映画好きの父、泰男の影響で映画のシーンで見たことある。
「君は何を言っておるのか! 我々は現在、この南方戦線で苦境に立たされている。君はここで多くの兵士たちを救うために派遣されたのだ」
泰地は信じられない思いでその言葉を聞いた。彼はいつの間にかタイムトリップをして、戦争の真只中にいるのだろうか。しかし、現実の耳と身体に伝わる感覚はどこまでもリアルだった。
「佐藤軍医、時間がない。すぐに前線に赴き彼らの治療を始めなければならない。ここに来た理由を考える暇はない。私たちには君の医師としての協力が必要だ‥‥‥」
泰地はその言葉にうなずくしかなかった。自分がなぜここにいるのか、どうしてこんな状況に陥ったのかは分からないが、今は前線にいる病人たちを助けることを必要とされているのだ。
泰地は衛生兵から渡された、革製の赤十字章が縫いこまれた軍医携帯嚢を右肩から左脇に吊下げ、帯革で腰に固定した。同時に泰地が今着ている服が軍服であることに気づいた。先ほどまで、アメリカの有名スポーツブランドのTシャツに短パン、サンダルを履いていたはずだったが、何故か深緑色の軍服を着て、白い開襟シャツに騎兵の長靴を履いている。
泰地は用意された軍用ジープに乗り込むと、車はガタガタと音を立てながら赤土の泥道を走り出した。
「これは絶対に夢だ……」
泰地は自分にそう言い聞かせたが、周囲はまるで現実世界のように乾いた空気が肌に当たる。ジープが進む道端には兵士たちが忙しなく動き回り、げっそりと痩せた生気のない西洋人や日本人の兵隊、タイ人の労働者と思わしき病人たちが担架で運ばれている光景が広がっていた。
「佐藤軍医殿、到着であります」
運転していた兵士が声をかけ、ジープは小さな野戦病院の前で止まった。周囲には仮設のテントや簡易的な手術台が並んでおり、多くの病人が身体のあちこちに包帯を巻いて治療を待っていた。泰地はジープから降り、深呼吸をして気を引き締めた。
「何が何だが分からないけど、やるしかない……」
野戦病院の外にまでテントが並べられて、泰地はその一つに入った。そこはまさに地獄絵のように、負傷者たちの苦痛の叫びが響き渡り、噎せ返るような腐臭が立ち込めていた。何度も自分に「これは夢だ」と言い聞かせたが、すべてがあまりに生々しい。恐らく近くに建設中の鉄橋が連合軍に爆撃されたのであろう、ほとんどが日本の兵士だった。頭から血を流す者、眼帯を巻いて地面に横たわる者、脚を切断している者、見るに堪えない情景だ。
泰地はまた敷地の奥にあるテントを覗いた。そこには更なる惨状が目に飛び込んできた。連合国軍の捕虜たちであろう、西洋人たちが竹で作られた筵に寝かされている。誰もが全身の骨が剥き出しになったように痩せこけ、眼球だけが大きく宙を見つめている。
ジャングルの中での熱帯の過酷な気候と劣悪な労働環境のために、熱帯特有の風土病である、マラリアやコレラの伝染病に感染している。泰地は携帯嚢の中身を確認したが、これらの伝染病を防ぎ治療する薬も術も持ち合わせていないことに絶望感を感じた。
突然、強烈な閃光が視界を覆った。その瞬間、耳をつんざくような爆発音が響き渡り、泰地の身体は宙に浮いたかのように感じた。近くで空襲警報のようなサイレンがけたたましく鳴り響いている。そして、次の瞬間、彼は自分のベッドの上にいた。汗びっしょりで目を覚まし、激しく息を切らしている。部屋の静けさと心地よい布団の感触が、ここが現実であることを思い出させた。
「夢だったのか……ふぅ」
額の汗を拭いながら呟いた。夢の中で感じた使命感と恐怖がまだ心に残っていたが、それが現実でなかったことにほっとする自分がいた。手に持ったまま眠ってしまったのだろう、手の中の携帯電話のバイブレーションが震えている。クワンからだった。
「もう着きましたか?長旅お疲れさまでした‥‥‥明日、楽しみにしています」
と短いメッセージだった。
不思議な夢を見たせいか、頭がまだぼぉーっとしている。ずいぶんと長い夢のような気がしたが、窓の外はまだ明るい。泰地はこの不思議な夢の記憶が消えないだろうかと冷たいシャワーを浴びに行った……
水掛祭りと大福餅
泰地はゲストハウスの受付の女性のところへ行き、今日は何か仮装パーティーがあったのかと尋ねても、彼女は素っ気なく首を振り、何事もなかったかのようにカウンターにある日本語の地図を持ち出して、夕方から賑わいを見せる川沿いのマーケットを指し、自転車で行くことを勧めてくれた。
泰三はまだ落ち着かない様子だったが、とにかくゲストハウスの前に止めてあった自転車に乗り、まずは市場の探検に出掛けてみようとペダルを踏み出した。周りの景色は列車から降りた時と全く同じで、陽が傾き心地よい風を顔に受けながら、泰地は現実の世界に戻れたことにほっとしてぽつりと呟いた。
「夢にしてはリアル過ぎたなぁ‥‥‥」
タイの正月、ソンクランの初日とあって、この小さな町でも目抜き通りへ出ると、沿道では盛大な「水掛け合戦」が始まっていた。家や店先の軒下に大きな水の入った瓶を並べて、水鉄砲のようなもので通り行く人々に手当たり次第に水を掛けていく。バケツに入った水をそのまま頭からぶっかけられている人もいる。水を掛けられた人は怒ることもなく、お返しとばかり水を掛けた人にやり返す。みんなずぶ濡れになっている。
道路の片側一車線をほぼ塞ぐ形で、町の若者グループだろうか、ピックアップトラックの上に乗って大音量のタイのポップ音楽をかけ、大きな水タンクを積んで、そこから水をぶっ掛け合っている。ほとんどが酒に酔っているのか、荷台の上でバケツで水を被りながら派手に踊っている。狂喜乱舞とはこのことを言うのだ、と泰地は呆気に取られながらも目を細めて見ていた。
自転車の速度を緩め、その光景を携帯カメラで撮っていく。観光客のような西洋人も交じって水の掛け合いは続いていた。突然、後ろから水の集中砲火を浴びた。
「冷たい!なんだよ?おーい」
あっという間にずぶ濡れになった。泰地の横に止まっているピックアップトラックの上から、数人のタイ人の子供たちから「一斉射撃」されたのだ。子供たちは大声で笑いながら泰地を指さして笑っている。
「お兄さん、ずぶ濡れだ!はははは!」
これが初めてのソンクランの「洗礼」だな、と泰地は諦めてびしょ濡れになったTシャツの裾を絞ると水が滴り落ちた。
「やれやれ、これくらいにしてナイトマーケットに行ってみようか‥‥‥」
泰地は自転車を漕いで、ゲストハウスのスタッフに教えてもらった、町の一番大きなナイトマーケットへ向かった。鉄道の駅から続く、商店やゲストハウスが並ぶ通りの突き当りに、川岸に突き出すようにナイトマーケットの屋根が軒を連ねている。向こう岸には未開のジャングルのような深い緑の森が広がっている。
泰地は川沿いの大きな木の下に自転車を停め、夕暮れと共に活気づき始めた色とりどりの屋台に吸い込まれていった。
タイの正月ともあって、マーケットの中はタイの伝統的なゆったりとした音楽が流れ、派手な色彩のアロハシャツを着た地元のタイ人や観光客が買い物を楽しんでいる。特に、外国人観光客向けにはタイの民芸品やシルクの衣類などが人気のようだ。お互いに電卓を叩きながら、客と店主の値引き交渉も面白い。
常夏のタイならではの色鮮やかな果物を売る屋台、マンゴーやパパイヤ、パイナップルにバナナ、まさに南国度満点の香りが泰地の鼻をくすぐる。中でも目を引いたのはココナッツのジュースの屋台だった。泰地は迷わず注文した。椰子の木からそのまま捥ぎ取った緑の毬のような実を、上部を鉈で割ってストローを刺して飲む。実の中は無色透明の水分で、その甘酸っぱい味が乾いた喉を潤す。
「ココナッツジュース、最高だよなぁ!」 と店主に親指を上げて「グッド!」のサインを送った。
ナイトマーケットを歩き回るうちに、外は既に暗くなってまさに「夜市」の雰囲気が気分を盛り上げてくれる。泰地は少しお腹が空いてきたので、食べ物を探して屋台を巡った。東北料理の代表のガイヤーン、豚肉を炭火で炙ったムーヤーン、どれもこれもお腹が鳴るくらい美味しそうだ。香辛料をたっぷり使った、タイ料理の炒め物の煙が鼻を衝いて泰地は何度もくしゃみをした。
どの屋台に腰を下ろそうかとあれこれ見て廻っていると、何とも言えない懐かしい香りが漂ってきた。ほのかに焼けた餅米の香りだ。泰地は南国タイに来て、日本の夏の夜店を歩いているような錯覚を覚えた。
「まさか、餅を焼いているのかな‥‥‥?」
泰地は餅の香りを辿って歩いて行くと、一軒の屋台で小さな鉄板の上で餅を焼いて売っているではないか!泰地は、えっ?と声を上げた。屋台の上の看板には日本の国旗や富士山が描かれ、「大福餅―美味しい日本の味」とタイ語で書いてあり、中身の餡は黒豆や緑豆、タロイモ、クリームにイチゴやドリアンなどのタイならではの味が揃っている。焼餅の香ばしいお米の香りが日本の故郷の夜店を想い出す。
すぐ近くで不安そうな表情で携帯電話を見つめていた店主の女性が、泰地に気づいて慌てて戻ってきた。
「すみません、お待たせしました、大福餅はいかがですか?」 と努めて笑みを作り言った。
泰地は、日本にいるときは大好物だった「大福餅」がタイで売られていることに驚いたのと、少しの懐かしさが込み上げてきて、衝動的に看板の写真を指さし注文した。
彼女はバナナの葉で包んだ大福餅を、「はい、どうぞ」と泰地に差し出した。
泰地は受け取りながら、
「ところで、どうして日本の大福餅をここで売っているのですか?」
泰地は率直な質問をしてみた。すると彼女は早口だが訛りのないタイ語で応えた。
「この焼餅屋は私の姉から頼まれてやっているんです。姉は、母が戦時中に日本の軍人さんに教えてもらったとかで、週末や休みの日だけこのマーケットに売りに来ます。地元の人も観光客にも人気でいつも売り切れるんですよ‥‥‥ああ、そう、日本人の観光客の人たちも「美味しい、美味しい」と言って買ってくれます。でも姉もいつまでやれるかねぇ、あまり身体も丈夫じゃないし‥‥‥」
「そうなんですか、でもいつまでも売り続けてくださいよ、本当に美味しいです。日本の故郷を思い出します。戦時中に日本の軍人さんから教えてもらったのですか、いいですね、まさに「国際交流だ」‥‥‥」
泰地は平和な日本に生まれて、もちろん戦争のことは何も知らない。国際交流だなんて当時はそういう言葉さえなかったのかもしれない。でもこうしてタイの人が日本の味を伝承してくれていることに泰地は嬉しくなった。
「どんな軍人さんだったのか、気になりますね」
「さぁ、私も姉もまだ小さかったので、何も覚えていないんですが‥‥‥」
二人は穏やかな笑みを浮かべながら、泰地は「また買いに来ますね」と言って、彼女は「ありがとうございます!」と日本語で返した。
ナイトマーケットでのひとときを楽しんだ後、泰地はゲストハウスへ帰ろうと自転車に跨った。
「さぁ、明日は乗馬だ、楽しみだな‥‥‥」
泰地は明日のクワンとの乗馬を楽しみにして、宿に戻ろうと自転車を漕ぎ始めた。
泰地が自転車を漕ぎ始めてすぐに、マーケットの方から一人の女性が飛び出してきて、なにやら大声で叫んでいる。泰地は自転車を漕ぐのを止めて、その女性の方を見ると、彼女はさっき大福餅を買った屋台の女性だ。
「どなたか、お医者さんはいませんか!お医者さんはいませんか!」
泰地は一体何事かと、彼女が今度はタイ語の地方の訛りで叫んでいるのでよく聞き取れない。すると彼女がマーケットにいる観光客の外国人に向かって英語で大声で叫んだ。
「ドクター、プリーズ!プリーズ、ドクター!」
「ドクター???」
泰地は咄嗟に自転車を降りて、マーケットの前にある鉄道の線路脇に乗り捨て、彼女の元へ走った。気が動転しているのか、彼女は携帯電話を片手に、傍まで近寄ってきた泰地の両腕をぎゅっと掴んで、
「ドクター!ドクター、プリーズ!」 と彼女の眼に涙が浮かべ、しゃがみこんで何度も懇願する。
泰地はまず彼女を落ち着かせようと、彼女の手を取り、
「イッツ・オーケー、アイ・アム・ア・ドクター、私は医者です!」
とゆっくりと言って彼女を落ち着かせた。我に返った彼女は少しほっとした表情になり泰地を見上げた。
「さっき、大福餅を買ってくれた日本人のお客さん?あなた、お医者さんですか? ああ、よかった‥‥‥私はレックです、姉が、姉が大変なんです!」
と言ってまた携帯電話の相手に訛りの強いタイ語で何か叫んでいる。恐らく医者が見つかったというようなことを話しているのだろう。レックは続けて、
「姉が自宅で倒れているんです、早く‥‥‥」
また涙声になってその後の言葉が理解できない。泰地は大きく息を吸い、
「じゃ、今からあなたの姉さんの家に行きましょう、あなたの家まで案内してください、さぁ!」
泰地は線路脇に乗り捨てた自転車を押しながら、レックと一緒に走り出した。走りながらレックは、ここ数日はソンクランの休みで、町にある小さな病院でも医師は休暇を取っており、専門医は不在でどうしていいか分からない、と言った。しかし、泰地はレックの姉の病状がどうなのかまだ見当が付かなかった。しかし、今ここでレックの頼みを断るわけにはいかないし、医師としての使命感から、とにかくレックの家に急ごうと息を切らせながらも町の狭い通りを走りに走った。
町はずれの三叉路を曲がったところにレックの姉の自宅があった。自宅の裏は田んぼか畑だろうか、暗闇の中で蛙の鳴き声と虫の鳴き声しか聞こえない。家の敷地では姉が飼っているのだろうか、バーンケーウというタイ土着の、日本の柴犬を少しずんぐりとさせたような白地に茶の斑のある犬が、よそ者の進入を拒むかのように興奮して吠えまくっている。泰地は一瞬怯んで後ずさりしたが、レックが犬をなだめて、
「さぁ、こっちです」 と泰地を家の中へと導いた。
部屋にはマリサが一人でレックの姉を見守っていた。マリサは携帯で誰かと話していたようだが、泰地の姿を見て電話を切り、すぐにレックの姉の症状を泰地に説明しだした。レックは走り疲れて息が切れて、玄関でしゃがみこんでしまった。
「あなた、お医者さんですか?日本人ですか?早くおばさんを助けてください、お願いします!」
マリサは初めて見る日本人の泰地に、質問と依頼を同時に言ってしまったことに戸惑ったが、
「とにかく、お願いします、お願いします!」と連呼した。
泰地は早速、レックの姉の病状を診た。意識が朦朧として呼吸が乱れて胸の辺りを抑えて、顔が苦痛にあえいで動かない。恐らく心筋梗塞だろう。
泰地の専門は小児科の感染症の専門だったが、大学の専門課程で何度か心肺蘇生法の訓練をしたことがあった。人命救助の一環として大事な応急処置なのでしっかりと習得していたのだが、まさかこういう状況で実践になるとは夢にも思っていなかった。
レックの姉は声をかけても反応がなかった。泰地はすぐに胸骨圧迫を始めた。レックを呼び、マリサの助けで姉を床に仰向けに寝かせた。泰地は手のひら重ね姉の胸部におき、体重を乗せて何度か速く押し続けた。
「おばさん、頑張って!おばさん、おばさん!」 泰地の押す手に力が入り、息が荒くなっている。
「戻ってきて!戻れ!戻れ!」 そして何度か人口呼吸を繰り返した。
泰地の額に汗が噴き出して、息が切れそうになった時、
「うぅ‥‥‥」とレックの姉は小さなうめき声を上げて意識を取り戻した。
「ああ、よかった!ふぅ‥‥‥」と大きく息をして安堵の表情を浮かべた。
「ああ、あなたはどなたですか?」 と彼女は短く息を吸いながら泰地の顔を見つめた。
「私は佐藤と申します、佐藤泰地です。バンコクにある日本大使館の医師です。市場であなたの妹さんに声を掛けられてここに来ました。息を戻されて安心しました。あとは、掛かり付けの病院で診てもらいましょう」
泰地は穏やかにゆっくりと話した。
「そうですか、本当にありがとう、命を助けてもらいました…‥‥サ、‥‥‥サトー?」
レックの姉は大きく息を吸い込んで深呼吸をして、そのまますやすやと眠ってしまった……
偶然の訪問者と舞う光
ほどなくして家の外に車が止まる音がして、一人の女性が飛び込んできた。
「お母さん、お母さん!大丈夫? 今、お医者さんを連れて来たから‥‥‥」
泰地は聞き覚えのある声に振り向いた。そこには見慣れた女性が、アロハシャツに短パン姿の男性の医師を連れて立っていた。
「あれ、あれ、…クワン?」 驚いて泰地は眼をパチパチと何度も閉じて、クワンをまじまじと見る。
「あれ?あなた、どうしてここにいるの? どういうこと? お母さんは?」
とクワンもびっくりした顔で泰地に訊いた。母に駆け寄ったクワンは、母の容態が安定し小さな寝息を立てて眠っているのを確認しほっとした。レックが事の次第を詳しくクワンに説明した。クワンは大きく息を吐いて、
「隣町の病院までお医者さんを呼びに行ってたの、今日は病院も休みで、このお医者さんがお祭りに出かけるところを頼み込んできてもらったのよ‥‥‥」
クワンはアロハシャツの男をちらりと見た。くだけた服装からどう見ても医者には見えなかったが、彼は落ち着いてクワンの母親の元へ座って脈を測ったり、胸部に聴診器を当てたりしていた。
「明日一番に私の病院へ来てください‥‥‥精密検査をしましょう」
その医者は母の常備薬を追加しクワンに手渡した。一通り診察が終わり、母の容態も落ち着いたので、レックが医者の男性を家まで送っていった。
「まさか、あなたがここにいるとは夢にも思わなかったわ‥‥‥本当にありがとう」
クワンは無意識に泰地の手を取って額をつけて感謝の意を表した。はっとしてクワンは顔を上げて、そして泰地に訊ねた。
「でも、どうしてここにいるの?」
母を助けてくれたことには感謝の気持ちでいっぱいだったが、なにより泰地が自分の家に来て、そして母親の命を救ったことが最大の疑問だった。
「いや、あの、その‥‥‥。レックさんとマーケットで会って、その、大福餅を買って帰ろうとした時に「医者はいませんか」と叫んでいたので咄嗟に反応して‥‥‥」
泰三は旨く言えないが概ね正しく説明したつもりだ。
「それでここまで来てくれたの?」 とクワンは経緯が徐々に理解できた。
彼女は、心臓が悪い母親をバンコクへ連れて行き大きな私立病院で治療してもらおうと考えていたが、不安は募るばかりだった。
「でもここがクワンの実家だったとは、僕も夢にも思わなかったよ」
二人は落ち着きを取り戻し、家の外へ出た。庭先の灯りがうっすらと二人の頬を照らしていた。
「あの、佐藤さん、今日は本当にありがとう、あなたがいなければ母さんは‥‥‥」
クワンは泰地に向かって両手を併せて深いお辞儀をした。
「医者の使命さ……」と泰地は笑った。
二人は田んぼが見える裏庭の木の椅子に腰を下ろして、ふぅーっと一息ついた。
真っ暗な田んぼの上を沢山の蛍が飛び回り水面を黄色く照らしていた。
「蛍を見るのも久しぶりだわ‥‥‥」
二人の肩に留まった二匹の蛍の光がお互いの顔を優しく照らしていた‥‥‥
遠い国の約束
翌日の朝、泰三はマリーの店を訪ね、昨日の件を謝りに行った。
マリーの店は数人の客がいて朝から繁盛していた。そこで泰三を見つけてにこりと笑った。
「昨日はすまなかった、上官に呼ばれてすっかり遅くなってしまい‥‥‥」
マリーは泰地が来なかった理由を訊かなかったが、いつもは律儀で几帳面な泰三を知っていたので、何かほかに特別な理由があったに違いないと少し不安気になったが、平気な顔をして、
「大丈夫ですよ、軍人さんは忙しいから‥‥‥それに朝からお客さんがたくさん来て大繁盛ですよ、はい、これどうぞ」
マリーはバナナの皮に包みながら、泰三の好きな黒大豆の餡がたっぷり入った大福餅を差し出した。泰三は気まずそうに照れながら「ありがとう「と受け取った。
マリーの乗馬は日が経つにつれ上達し、泰三に指導を受けたせいか、その華奢な体系に似合わず速歩から駈歩までできるようになり、騎乗姿勢は均整の取れた美しいフォームだった。厩舎の馬場では、「サクラ」に乗って障害飛越の練習もこなし、華麗に木製の障害バーを飛び越していく。駐屯地内のタイ人の騎兵の数人が練習中のマリーをよく冷やかしていた。
今では泰地の助手として、泰地が村の外れまで外出する時は馬に乗って一緒に出掛けていた。既に通訳も必要でなくなり、泰三のタイ語も上達していたが、マリーは泰三の意図を上手く汲み取って現地のタイ人とのコミュニケーションを手伝っていた。
タイ語には声調が五声もあり、日本人には馴染みのない、言葉の声調の違いで全く違う意味になることもある。泰三は読み書きよりも、話すことを優先して覚えてきたので、特に声調による単語の聞き分けや使い分けが非常に上手くなっていた。
亡くなった通訳のタムからもよく注意された、犬と馬というタイ語はマリーからもしょっちゅう注意された。「犬」と「馬」は英語で書くとどちらも「MA」になる。しかし、「犬」の方は低い音から始まり中音で止まる。一方「馬」は中音から高音へと引き摺るように発音する。特に「馬」の発音が日本人には難しいようで、「馬」を指して「犬」と発音してしまう。それは泰三だけでなく、駐屯地にいる日本人のほとんどが「馬」のことを「犬」と呼んでいた。
マリーはそんな泰三のおかしなタイ語の癖にも愛らしさを覚えるようになった。
その日の任務を終了した泰三は、常歩でついてくるマリーに馬上から声を掛けた。
「私のタイ語はそんなに可笑しいですか?」 泰三はまじめに訊ねたが、顔には笑みが浮かんでいた。
「多分、村の人は日本人が話すタイ語が分からないのですよ、発音が少しでも違うと全く理解できない人もいれば、普段はこちらの方言で話す人も多いから‥‥‥」 なかなか厳しいことを言う。
「でも私は佐藤さんのタイ語には慣れていますから‥‥‥」
マリーは少し泰三を揶揄うように言って静かに呟いた。
「でも、全部わかるんです‥‥‥」
「なんだって‥‥‥? まぁ、いいか」
泰三は大声で笑い、陽に焼けた顔の、年齢に似つかない口髭の汗を白い開襟シャツの袖で拭った。
当時の日本の軍人たちは、天皇陛下、国家、そして家族のために命を捧げることを当然の義務と考えていた。しかし、現在では男女平等やフェミニズムの概念が日本社会に広まり、「日本男児たれ」という言葉はあまり耳にすることがなくなり、伝統的な価値観が変貌してきている。
しかし、泰三はその時代の中に生き、医師としての使命を全うするために戦場に立つ軍人であり、軍医として、どんなに厳しい状況でも「日本男児」としての誇りを持ち、祖国を守るため、自分を厳しく律していたのだ。
彼の心の中には、医師としての責任感と、日本男児としての強い意志が常に共存していた。
しかし、ある一人の女性のことを思う時だけは違った。
マリーの屈託のない笑顔を見ると、胸の奥がほのかに温かくなってくる。日々戦況が悪化していく中で、マリーは泰三にとって、心に差し込む淡い緩やかな光のような存在だった。彼女との短い会話や、無邪気にほほ笑む姿を見ると、自分の置かれている厳しい現実を和らげてくれる。軍医としての責務を果たしながら、そしてタイという異国にいながら、彼女への気持ちは、一人の男として泰三に芽生えた禁制の恋心なのかもしれない。
お菓子売りのマリーに日本の大福餅の作り方を教えたことや、通訳のタムの亡きあと、こうして彼女を外出時の助手として乗馬を教えたことも、泰三の素直な心情からのものだった。
戦況は日々悪化していき、駐屯地内で勤めるタイ人の中には、日本が戦争に負けると口に出すものまで出てきた。泰三は駐屯地の敷地内で、タイ人と日本人の兵士が殴り合いの喧嘩をしているのをよく目にした。それぞれ互いの上官から引き離されたが、タイの兵士は殴られた口から血を吐いて喚いた。
「日本なんか、負けちまえ!とっとと俺たちの国から出て行け!」
罵声を浴びせられた日本人の兵士は、顔を真っ赤にしてまた殴りかかろうとしたが、上官に引き留められ兵舎の外へ連れていかれた。タイ人の方は唇が切れているのか、上官に支えられながら泰三を見たが、泰三は部下の兵士に目配せして、治療してやりなさい、と小さな声で伝えてうつむきながら厩舎へ向かった。
泰三には鉄道建設現場の前線で、多くの病人や負傷者の治療、手当をするために行かなければならない。戦争に負けるという思いよりも、一人でも多くの命を救うことが泰三の任務だと、自らの命の危険も顧みることはせず、一日も早く現場へ出向かなければならないと、下された命令の移動日は三日後だった。
厩舎に着くと既にマリーが泰三の馬「フジ」と、マリーが乗る馬の「サクラ」に鞍をつけて待っていた。泰三の少し暗い表情を察したのか、二頭の馬の頸にブラシをかけながら、
「佐藤さん、今日も「フジ」も「サクラ」もとても元気ですよ、あとは佐藤さんが笑顔になるだけですよ‥‥‥」
泰三はふと我に返り、マリーに複雑な心境を読まれたのかと焦りが隠せなかった。
「なんの、なんの、私はいつも元気ですよ、ほら、この通り!」 と二の腕の力こぶを見せて笑った。
二人はいつものように馬に乗り、村はずれにある集落の井戸水の調査に向かった。雨季が始まり、デング熱やコレラなどの伝染病の患者が増えていると聞き、泰三は井戸水の水質を検査し、村人たちを往診してまわった。幸い地元のタイ人の村の中には伝染病に感染している者はいなかった。
しかし、鉄道建設現場の過酷な環境のジャングルでは、重労働や劣悪な衛生状態のために、西洋人の捕虜たちや、それを指揮する日本人兵士たちにも飢えや伝染病が蔓延し、迅速な医療支援が必要だった。しかし、悪化する戦況の中、一般物資の配給も滞り、ワクチンなどの治療薬の確保も十分ではないだろうと泰三は危惧していた。
泰三は三日後に前線への異動が決まっており、この駐屯地を離れることになっていることを、まだマリーには告げていなかった。軍部の命令で現地の一般人であるマリーに話してよいのかどうか、泰三は迷っていた。
「佐藤さん、気分でも悪いのですか?今日は全然喋らないですね…」
マリーは駐屯地の厩舎へ戻る道中、泰三の後ろを常歩で付いて行きながら、彼の背中に向かって訊ねた。
「いや、なんでもないです」 と泰三は振り返らずに返答した。
なにか様子がおかしいと感じたマリーは、自分が何か彼の気に障ることを言ったのか、助手として下手をしてしまったのかと考えてみたが特に思い当たる節はない。それでも少し不安顔になって、
「佐藤さん、何かあったのですか? もしかして、私のせいで何か…」
マリーは言葉を濁しながら尋ねた。
泰三は、手綱を少し引き馬の脚を停め深く息を吐いた。背筋をまっすぐ伸ばし暫く黙っていたが、やがて振り返り、マリーの顔を見つめた。
「マリーさん、実は…」 泰三は言葉を選びながら続けた。
「私は三日後に前線へ異動することになりました。あなたには伝えておきたくて……」
マリーの顔に驚きと困惑の色が浮かんだ。彼女は数秒の間言葉を失っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「前線…それは危険な場所ですよね? どうして…どうしてそんな場所へ行くのですか?」
泰三はマリーが驚いた様子だったので、なんとか和まそうと微笑みを浮かべながら、穏やかな口調で答えた。
「前線と言っても、私の任務は軍医として病人の治療です。軍の命令だからしょうがないのです‥‥‥」
泰三は土手の上を走るC56型蒸気機関車が、その「ポニー」という愛称の通り、まるでポニーが駈ける三拍子のリズムのようなドラフト音を鳴らし、線路に白い蒸気を吐き終点の前線基地へと物資を運んでいくのを見て言った。
「あの貨物列車をビルマに通してインドまで武器や糧を運ぶのです。日本軍の無謀な戦略と思いますが、そこで伝染病に罹った患者や、負傷者を治療するのが私の任務なのです。行くしかないのです‥‥‥」
泰三の決意は固い、というより、行かなければならない軍人としての責務だろう、そう感じ取ったマリーだったが、心の中では泰三が危険な場所に行くこと、そして最悪の結末が待ち受けているのではないかという不安が沸き上がっていた。
「佐藤さん、どうか気をつけてください。そして、必ず無事に戻ってきてください」
彼女は少し震えた声で、真剣な眼差しで泰三を見つめていた。
泰三は静かに深く頷いた。
「約束します、必ず戻ります。そして、その時にはまた此処で一緒に仕事ができることを楽しみにしています」
泰三がそう言って人差し指をピンと立てた。
「それから……此処を発つ前にマリーの作った『大福餅』を食べていきたいな‥‥‥」
マリーの頬を大粒の涙が伝って落ちていく。
『故郷の味だ』と言って褒めてくれた、その『大福餅』を食べていきたい、もしかして泰三は死を覚悟して、故郷に想いを馳せているのではないかとマリーは悲しみが込み上げてきた。二度と戻ってこないのではないかという不安が彼女の胸を締め付けた。
前線への出発の朝、駐屯地の入口でマリーが見送りに来ていた。彼女は泰三に小さな包みを手渡した。
「これは…?」 泰三は尋ねた。
「特製の大福餅です。あちらについたらこれを食べて、元気を出してください‥‥‥」
マリーは微笑みながら言った。泰三はマリーの言葉を最後まで聞かないうちに、バナナの皮で丁寧に包んであった包みを剥がし、中にあった「特性」の大福餅を一つ頬張った。
「美味い!これは本当に上等だ!中身はなんだ?」 むしゃむしゃと口を動かしながら泰三が訊ねた。
「うふふ、それはいつもの緑豆餡にドリアンとアヒルの卵を混ぜて作った特製餡ですよ‥‥‥」
マリーはいたずらな笑みを浮かべ答えた。
「ドリアン?おお、上等だ、上等!」 泰三はその場であっという間に平らげてしまった。
ドリアンは『果物の王様』と言われるくらい美味で、主に東南アジアで採れる果物だ。その独特の香りについては賛否両論あるが、泰三は初めて食べた時から、その美味しさの虜になり、強烈な香りには何の抵抗もなかった。
今でもタイへの観光客の中には、ドリアンの匂いに卒倒されて毛嫌いしてしまう人もいるが、『果物の王様』と言われる所以はやはりその強烈な香りに隠された最高級な旨味に尽きる。東南アジアのスイーツの一つで、呼び名は違えども「ドリアン饅頭」と呼ばれ、いわゆる饅頭の中身にドリアンと緑豆、そしてアヒルの塩卵を煮詰めた餡が入っている、日本茶にも合いそうな逸品なのだ。
包みの中には「特性」大福餅が六つもあった。泰三は包みを両手で持ち上げ、感謝を込めてマリーに向かって合掌ワイをし、その包みを背嚢にしまった。
衛生兵が数名、泰三に歩み寄り敬礼をした。
「佐藤軍医殿、出発の時間であります!」
錆びて朽ち果てそうな日本軍のジープが、今にも止まりそうなエンジン音を鳴らしながら、泰三を待っていた。駐屯地にあるだけの食糧や治療薬や器具類を、ジープの荷台に積めるだけ積んでいる。
別れの時が迫り、二人は無言のまま見つめ合った。
「必ず戻ります……」 泰三は最後に強く言い聞かせるように言い敬礼をした。
マリーは涙を堪えながらも微笑んで頷いた。
「佐藤さん、マリーはあなたを待っています‥‥‥」 そのあとの言葉をぐっと心に閉じ込めた‥‥‥
星空の誓い
ジャングルの赤土の道を小一時間走り、前線の現場に到着した泰三は、その修羅場のような光景に絶句した。
衛生兵たちに導かれ仮設の野戦病院、といってもニッパ椰子で屋根を葺いただけのテント小屋のようなところに、多くの兵士たちが竹で作ったベッドに横たわり、苦しみの声を漏らしていた。ある者はうつろな目で高熱にうなされ、汗まみれで呻き声を上げ、またある者は伝染病による栄養失調のために、骸骨のように頬が削げ落ち、全身に骨が浮き出しているように、ほとんどの者がもがく力さえないように痩せ衰えていた。
「これは…ひどい」 泰三は顔をしかめながら、目の前の光景に言葉を失っていた。
衛生兵のほかに、地元のタイ人の女性たちも加わり懸命に対応していた。地元の言葉で日本兵士の病人に何か話しかけているが伝わっているのか、病床に横たわったまま、上を向いて微動だにしない若者は既に息を引き取っていた。遺体に手を合わせていた一人のタイ人の女性が、手にブリキのバケツと布切れ一枚を持って泰三の前に出てきた。
「軍医さん、今はこれだけしかないんです、薬がないとこの人たち、みんな死にます!」
有志で手伝いに来てくれている近くの村人の女性が数人、病人の汗を拭きながら、お粥のようなスープを病気の兵士の口に運んでいる。ところどころで息絶えている兵士の横にしゃがみこみ、両手を合わせすすり泣いている女性もいる。
泰三は一人の兵士のベッドに近づいた。その兵士は顔色が土色に褪せ、体力が尽き果てたかのように見えた。頬はこけ、あばら骨が剥き出している。栄養失調に伝染病に罹っている。泰三が近づくと兵士は消え入りそうな声で言った。
「軍医さん、お願いです…この痛みを…どうにか…」 泰三は拳を握りしめた。
「しっかりしてくれ。すぐ診てあげます‥‥‥」
とはいうものの、薬やワクチンなど、治療に必要な抗生物質や解熱剤さえほとんど揃っていなかった。
「一体どこから手を付ければいいのだ‥‥‥」
泰三は、他の地域からも派遣されてきた軍医とも話し合い、時すでに遅しではあったが、改めて感染拡大を防ぐための指示や指令を衛生兵の一団に出し続けた。また、連合国軍の捕虜たちも相当数の病人が出ており、捕虜施設での治療も困難を極め、捕虜の中にいるランディ軍医がかろうじて対応しているが、泰三には目の前に横たわる多数の日本兵を治療するだけで手が一杯になる。
泰三が来てから状況は一向に改善する兆しを見せなかった。毎日、新たな感染者、重篤者が増え続け、衛生兵も地元の支援者たちも疲弊していき、感染を恐れて地元の女性たちはぱったりと来なくなった。夜になり、野戦病院のテントの中は薄暗く、かすかな明かりの中で医療活動が続けられた。デング熱を媒介するヤブ蚊の進入を抑えるため、テントの周囲に蚊帳を張り巡らし、日本の蚊取り線香や檸檬草を束ねて置いて蚊との戦いでもあった。
「佐藤軍医殿、これ以上、医療物資が足りなければ病人を救うことはできないであります‥‥‥」
泰三は苦悩の表情を浮かべながら、
「それは私も承知している。明日、上層部に追加の物資と支援を要請する。君ももう休んでくれ……」
疲れと不安が浮かぶ若い衛生兵の顔を見ながら、泰三は小さく微笑みを浮かべて言った。
「私たちがここで倒れたら、誰も助けられない。何とかしなければ…」
その夜、泰三は部隊の司令部に緊急の連絡を入れ、追加の支援を要請したが期待はできそうにない。この地での伝染病との戦いは、銃や爆弾の不足以上に厳しいものであることを痛感していた。戦況はますます悪化し、噂では硫黄島が陥落し、日本本土への空襲爆撃がいよいよ始まると、さらに泰三の不安を掻き立てた。
この鉄橋が完成し、ビルマまで鉄道を開通させたとしても、肝心の祖国が滅びたら意味がないではないか!それにこの病人の数、無数の遺体、こんな無謀な建設は一刻も早く止めなければ‥‥‥
南国の雨季が終わりに近づいたと言え、ジャングルの熱帯雨林での突貫工事はますます悲惨な状況となってきた。川が増水し、膨大な水量が線路の枕木を流し、作業は遅々として進まぬばかりか、病人の数が増大するばかりだった。そしてこの時期を狙って連合国軍の周辺の鉄道施設への執拗な爆撃が始まった。
泰三は大きな河に架かる鉄橋の建設現場に近い野戦病院にいた。次から次へと運び込まれる病人の症状をほぼ絶望的な面持ちで診ていく。現場で指揮を執っている中年の将校だろうか、立派な口ひげを生やし腰には軍刀を下げた男が高熱にうなされながら運ばれてきた。
「畜生、敵を一人も殺さずに俺が先にくたばっちまうのか、畜生!」
譫言なのかそのまま目を瞑ってしまった。
泰三は将校の脈を取り、額に手を当てて熱を確認した。
熱がひどい…これはマラリアかデング熱か、どちらにしても緊急の治療が必要だったが、肝心の医療物資の緊急依頼が滞っているのか、彼の手元には充分な薬が届かなかった。
その時、一人の衛生兵が駆け寄って泰三に敬礼をして言った。
「佐藤軍医殿、新たな補給物資が到着しました。しかし…」
「しかし、どうした?」
「量が非常に少ないのです。これでは全員を救うのは難しいかと…そして‥‥‥」
「そして、どうした?早く言ってくれ!」 衛生兵は敬礼をしたまま、
「この手前の線路が連合国軍に爆破されてしまい、物資を運んでいた貨物列車が脱線したであります!」
泰三は苦悩の表情を浮かべながらも決意を固めた。
「とにかく、今あるだけの医療物資をすぐに運び込んでくれ。そして、最も重症な患者から優先的に使うんだ!」
衛生兵はうなずき、「はっ!」 と敬礼を解いて動き始めた。
夜が更け、テントの中は薄暗いランプの光だけが頼りだった。疲労とストレスが重なり、目の前の景色がぼやけることもあったが、目の前の仕事に集中しようとした。その時、ふと彼の脳裏に浮かんだのはマリーの顔だった。あの優しい笑顔で大福餅を渡してくれた日のことを想い出していた。そうだ、ここで自分が諦めてはいけない、一人でも多くの者を救おうと頬を叩いて自分を鼓舞した。
ある夜、一人の若い衛生兵がテントの中にいる泰三に声を掛けた。
「佐藤軍医殿、今日は星がとてもきれいですよ」
疲れ切った泰三には予期せぬ衛生兵からの言葉だった。衛生兵は沢田と言った。泰三より少し若い青年だ。
外に出ると、満天の星空が広がっていた。南の空に十字星が輝いている。しばしその光景に見とれ、心の中に一瞬の静けさを感じた。「この戦争が終わったら…」そんな思いが頭をよぎった。
「佐藤軍医殿、満天の星空ですね、ああ、早く日本に帰りたいです‥‥‥」
沢田は天を仰ぎながら言った。
泰三は沢田の言葉に少しの間、無言で応じていた。
「そうだな、沢田君。俺も同じだ。早くこの戦争が終わって、みんなが無事に帰れる日が来るといいんだが‥‥‥」
沢田は深くうなずき、ため息をついた。
「自分は家族に会いたいです、特に母親に…。手紙は何通か送っていますが、ちゃんと届いているかどうか…」
泰三は沢田と同じ気持ちだった。日本に残した両親と妹のことを思うと心配になった。しかしそれ以上に泰三の心を癒してくれているのは、マリーのあの屈託のない優しい笑みが恋しく思った。今は彼女の住む地域が爆撃の被害に遭わないことを祈っている。
二人はしばらくの間、無言で星空を眺めていた。
「それにしても、この南の空に輝く十字星は美しいなぁ‥‥‥」 泰三が静かに言った。
「ええ、こんな場所でも、こんなに美しいものを見ることができるのですね。戦争が終わったら、もう一度平和な空の下で星を見たいです、そしてできればまたこの国に戻ってきたいです」
泰三は沢田の最後の言葉に驚いて「えっ?」と訊き返した。
「見ての通り、自分は体力だけが取り柄の隊付衛生兵です。元は陸軍輜重兵しちょうへいであります。この国の人たちに舗装道路や、頑丈な橋を作ってあげたりしたいです‥‥‥」
沢田はそう言って大きな力こぶを作って泰三に見せた。
「佐藤軍医、この近くには天然の温泉が湧き出ているんですよ、ご存知でしたか?」
「温泉? 本当にあるのか? あったら行きたいな」 泰三は沢田の冗談と思い鼻で笑った。
「はい、あります、数年前にビルマ国境のジャングルの中で、わが軍の先遣隊が発見した温泉があります」
沢田は自信ありげに言った。
「そうか、それは上等だ、戦争が終わったら連れて行ってくれ‥‥‥」
「もちろんです、一緒に温泉にでも浸かってのんびりしたいですね」 と白い歯を見せた。
この若い衛生兵も前線へ派遣されて来るまでは、この南の異国で様々な体験をしてきたのであろう。まるで自分の進むべき将来が見えているようで、目をキラキラさせて戦争が終わったあとの夢を語る姿に羨ましさを覚えた。
「ああ、マリーの大福餅が食いたい‥‥‥」 泰三は小さな声で呟いた。
「佐藤軍医殿、今なんとおっしゃいましたか?」
沢田に聞こえてしまったのか、泰三は少し恥ずかし気に、
「いやぁ、こちらに来る前にあるタイ人の女性から大福餅をもらってね、その味が忘れられなくて……」
泰三は照れ臭そうに頭を掻きながら、沢田にこれまでのことを話した。
「いい話じゃないですか、僕は好きですよ、大福餅・・・ああ、そしてそのマリーさん、きっと佐藤軍医のことが好きなのですよ‥‥‥」
沢田の上官の泰三を少し揶揄うような言葉が図星だった。
泰三は少し胸に明かりが灯ったような温かさを感じた。マリーに乗馬を教え、亡きタムの後、巧みに「サクラ」を乗りこなし助手として泰三の仕事を手伝ってくれたこと、そして美味しい大福餅を持って駐屯所へ差し入れに来てくれたことが遠い昔のように思い出される。
タイの伝統行事のロイクラトン(灯籠流し)へ誘われた時の、タイの伝統衣装をまとったマリーの愛らしい姿が脳裏に浮かぶ。バナナの幹を切って芭蕉の葉や、蘭の花で飾った灯籠の上にロウソクと線香を立て、二人分の灯籠を持って微笑む姿が忘れられない。
「佐藤軍医殿も‥‥‥彼女のことがお好きなのでは?」 と泰三の心を読むかのように尋ねてきた。
「いやぁ・・・なにも、そんなことはないよ。君こそ、どうなんだ?」
泰三は少し狼狽えたが逆に沢田に切り返した。
「はい、私には日本に好きな人がおります。生きて帰れたら結婚を申し込むつもりであります」
沢田はきっぱりと胸を張って嬉しそうに言った。
「沢田!生きて帰ろう!生きて!死んだら好きな人に会えないじゃないか!」
泰三は少し声を荒げて沢田の腕を拳骨で小突いた。
「はい、そ、そうです!必ず生きて帰ります‥‥‥佐藤軍医殿も‥‥‥では失礼します!」
沢田はきびきびした敬礼をし、踵を返しテントへ戻って行った。
「そうだな‥‥‥好きな人のためにか、そうだな‥‥‥」 泰三は溜息交じりに呟いた。
南の空に輝く十字星がオレンジ色に染まり、遠雷のような連合国軍の爆撃音が聞こえた。川を挟んだ反対側には連合国軍の捕虜の宿泊テントあり、底からは歓声があがっていた。連合国軍の爆撃がすぐそこまで迫ってきている、胸を突き刺すような不安が脳裏を横切った。爆撃のあった地域はマリーの住む村の方角だった。
泰三は、マリーへの気持ちを胸にしまい込もうとした。日本の軍人としての責任や、立場によってその気持ちを正直に表せない内心に苦悩していた。しかし、どうしても今、彼女のことが脳裏をめぐり複雑な感情が浮かんでくる。一人の男として、自分の心に素直になれれば、今すぐにでも彼女の元へ駆けていきたい。この強い感情は、軍規や戦争の現実を考えると行き場のない虚しさを掻き立てた。
泰三はテントの外で大きなタマリンドの木の幹に寄りかかり目を閉じていた。
「佐藤さん、私と一緒に日本へ帰りましょう、そして‥‥‥」
「いや、私はあの、その、日本の軍人でありますから‥‥‥」
「佐藤さんの気持ちを知りたいのです‥‥‥」
「‥‥‥」 泰三の言葉が途切れる。彼は気持ちを言葉にすることができない。
マリーはうつむく泰三の表情を見て、微笑みながら手を取った。
「佐藤さん、大丈夫です。私はちゃんとわかっています‥‥‥」
「何をですか? 何を!」 泰三は声を少し荒げてマリーの腕を掴んだ。
「佐藤軍医、佐藤軍医殿!」
泰三は、はっと我に返った。気が付くと先ほど別れた沢田が泰三の腕を揺らしていた。
「佐藤軍医殿、明日の午後、バンコクから医療物資の追加支援が届くとの知らせがありました!」
泰三は我に返り、その報告を聞いてわずかな希望を感じた。
「これで少しは重病者を救えるかもしれないな‥‥‥」
夜明けから降り続く雨が止まず、野戦病院の前の道も洪水のように泥土が渦を巻き、朝からどす黒い灰色の空が天を覆っていた。すぐ近くの鉄橋の建設現場で数人の日本の兵士が連合国軍の捕虜たちに向かって、銃剣を上げて大声で叫んでいる声で目が覚めた。
「スピード!スピード!早くしろ!早くしろ!」
泰三は、しきりに怒鳴り散らしている捕虜収容所の監視兵を睨みながら、それしか言えないのかと呆れていた。ちょうど連合国軍の捕虜の作業を見守っているイギリス人のランディ軍医と目が合い、帽子のつばに手を掛けて軽く会釈をした。
やはり医者としての立場からか、この過酷な状況のやるせない気持ちが通じ合ったのかもしれない。ランディ軍医は力なく右手を上げて挨拶をした。
この土砂降りの南国のスコールの中での作業は遅々として進まず、滝のように流れてくる土砂や雨水が作業を遮り続ける。捕虜の数人が崖から滑り落ちていく。
日本の兵士はまたも大声で「馬鹿野郎!何をしてるんだ!」と叫ぶや否や自分も足を滑らし川岸まで滑り落ちていった。泰三は「ふぅ、やれやれ‥‥‥」と大きく息を吐いてテントへ足を向けた。
支援物資が届くその日の午前中に、泰三は衛生兵の沢田たちと全力で患者たちの治療に専念した。夕方までには抗生物質や解熱剤、消毒薬など、必要なものが揃うはずだ。
「これでようやく…」と沢田と安堵の笑みを交わした。
その時、一人のタイ人の特技兵が現れ、
「軍医さん…先日はありがとうございました…」と両手を合わせかすれた声で二人に礼をした。
測量技師のワンロップはタイ人の工兵で、先週40度を超す灼熱の中で、鉄橋の橋桁付近の作業中に卒倒し、川に浮いているところを助け上げられたが、熱中症による心肺停止状態だった。沢田は部下と共にワンロップの身体を引き上げ、すぐに泰三を呼びに遣った。彼は心肺停止状態だったが、泰三はもう誰も死なせたくないと、意識のないワンロップを川岸の草むらに寝かせ、懸命に心臓をマッサージし続けた。泰三の額からは滝のように汗が流れ、息があがり自分も倒れそうになるくらいだった。
「戻って来い!おい、おい!」
泰三は息を切らしながらも、タイ人の若い工兵の胸を押し叫び続ける。
沢田が叫んだ。
「佐藤軍医、ワンロップが息を吹き返しました!」
様子を見守っていた衛生兵たちに安堵と喜びの声が上がり、我に返った泰三はふぅーっと大きく息を吐き、その場に大文字にひっくり返った。
ワンロップは当時のことを振り返り、深々と頭を下げ泰三と沢田の手を交互に握り、「ありがとう、ありがとう」と何度も言った。
「もう役目は終わりましたよ、おうちに帰って家族と共に過ごしてください‥‥‥」
泰三は静かにそう言って彼の肩を叩いて別れを言った。
「我々もいつかは役目も終える日が来るのだろうか‥‥‥」 と沢田と目を合わせた。
医療物資を積んだ貨物列車は既にバンコクを出発し、あと数時間すれば届くと上層部から情報を得た。泰三が衛生兵たちと物資の到着を待ちわびている間、雨は止むことなく降り続いていた。雨はジャングルのあらゆる生命を潤し、雨音は大海原の波のような音を立てて降りしきる。テント内では、負傷兵たちが薄い毛布にくるまり、疲れ果てた表情で眠っていた。泰三は彼らの顔を一人一人見渡し、
「みなさんを日本へ帰してあげます、もう少しの辛抱です!」
泰三は自分に言い聞かせるように言って廻った。
泰三は同時に故郷の家族の顔と、マリーの笑顔を思い出した。戦争が終わったら、自分も日本の家族の元に帰りたい。だが、やはりマリーのことが頭から消えない。泰三は考えるのを止めて目の前に現実に集中しようとした。
その時、背後から声が聞こえた。
「佐藤軍医殿、雨が止みそうですよ‥‥‥」
雨は小降りになり、テント脇のバナナの木の大きな葉の下で、煙草を燻らせていた沢田が笑顔で話しかけた。
「そうだな、そろそろだな‥‥‥」
泰三も笑顔を返し、二人はジャングルの森で、タイ語で「ウンアーン」という、男のこぶし大の巨大なジムグリガエルの重奏をしばし静かに聴いていた……
守るべき人
やがて、遠くから汽笛の音が聞こえ始めた。泰三と沢田は顔を見合わせ、期待に胸を膨らませた。
「もうすぐ物資が届くぞ、みんな荷下ろしの準備だ!」
沢田が声を上げ、数人の衛生兵とともに完成間近の鉄橋の建設現場への貨物の引き込み線へ急いだ。沢田たちは貨物列車の停車場に、ニッパ椰子で噴いたテントの下で、大八車を置いて貨物列車の到着を待った。医療物資のほかにも建設資材に食料や水、米なども積まれているのか、小柄なC56機関車はジャングルの間を抜けて、雨で濡れたレールの上を空転しながら黒煙を上げながら勾配を上がってくる。
木々の切れ間から見え隠れする、対空機銃を乗せた貨車の上に、銃を持って空を見上げている兵士が何人もいる。建設資材を載せた貨車にもマレーシアから派遣されてきた鉄道第五連隊の兵士が数人、声高らかに連隊歌を唄っていて、その声は沢田の耳にも届くほど大きかった。
「もう少しだ、頑張ってくれ!」
沢田はまだ貨物列車の見えてこないジャングルの林に向かって叫んだ。
泰三はテントに留まり、再び患者たちの元へと向かおうとしたその時、雷鳴でもない、森の生き物の大合唱でもない、低く唸るような音が曇天の空を覆ってきた。やがてそれが連合国軍の爆撃機のエンジン音であることに気づいた。泰三は顔を上げ、鉄橋の方を見た。
突然、空襲警報が鳴り響き、爆撃機が数機近づいてくるのが見えた。泰三は急いでテントに駆け込み、大声で叫んだ。
「全員、避難だ!すぐに地下壕へ!」
慌てて起き上がろうとする患者たちの身体を衛生兵たちが支え、あるものは担架に乗せて、テント裏に掘ってある地下壕へ一人ずつ連れ出していく。
「急げ!急ぐんだ!さぁ早く!」
泰三は一人の右足を失くした兵士の肩を担いでテントを出ると、貨物列車の停車場がある鉄橋付近へ向かって、二機の米軍爆撃機B24が並んで襲い掛かっていく。
泰三はすぐにテントに戻り、沢田と彼の部下たちが残っていないか確かめた。
「沢田!おい、何処にいるんだ!」
そこへ他の部隊の工兵が泰三に敬礼をし、
「沢田さんは部下を連れて停車場の方へ向かっております!」
工兵はそれだけ言うとすぐに病人を避難させるためその場を去った。
「沢田!‥‥‥」
泰三は、沢田が部下を数名連れて、物資の受け取りに行くと言っていたのを思い出した。
貨物列車の停車場と、完成間近の鉄橋の間には、いくつかの対空気銃の砲座があり、日本の砲兵が既に機体を狙って銃撃を始めていたが、爆撃機の高度が高く当たらない。そして上空を旋回し始め、低空飛行に入り、爆撃機は機銃掃射で砲座を狙って攻撃してきた。
B24爆撃機から放たれた銃弾が乾いた音を立てて泰三の上空を通過していく。砲座にいた数人の兵士が血しぶきと共に吹き飛んでいった。
ランディ軍医もまた、自軍の捕虜たちを避難させるために動いていた。泰三はランディに向かって手を振り、収容所の裏山にある森の中へ逃げるよう合図をした。逃げる途中の捕虜の数人が両手を上げて、見えない自軍の爆撃機に手を振りながら、口笛を吹いて森を駆け上がっていく。恐らく、連合国軍の勝利を確信しているのであろう。
泰三は黙って見ていたが、急いで地下壕に戻り、病人が全員避難したことを確認した。しかし、心の中では沢田たちのことが気がかりだった。爆撃機は停車場と鉄橋の破壊が目的と思われた。
「沢田!逃げろ!今すぐ!‥‥‥」
泰三は声を振り絞り叫んだが、爆撃機の轟音で搔き消された。
B24爆撃機は、鉄橋の袂の停車場の手前の線路に爆弾を一発落とし、線路は粉々に吹き飛んだ。貨物列車を牽引していた機関車は停車場に倒れこむように地響きを立てて脱線した。
しかし、三両目以降の貨車は線路上に残ったため、沢田が部下たちと共に駆け出し、医療物資だけでも運び出そうと貨車に駆け寄った時、上空を旋回してきた一機が貨物列車めがけて機銃を放ってきた。パン、パンと乾いた音が木製の有蓋車の天井を撃ち抜き、沢田の顔を掠め、続くもう一機が1000ポンド爆弾を脱線して横たわるC56機関車に命中させた。
爆撃機が次々に停車場を攻撃し始めると、爆発音が響き渡り火の手が上がった。沢田は爆風に吹き飛ばされ意識を失った。
「沢田!逃げるんだ、沢田!」
泰三は彼の名を叫びながら停車場の方へ全力で走り出した。
停車場にたどり着いた泰三は、燃え上がる炎と崩れた貨車の瓦礫の間に、意識を失って倒れている沢田を見つけた。
「オイ、沢田!しっかりしろ!」
泰三は沢田が微かに息をしているのに気が付き、彼の身体を抱き起こそうとした。
その瞬間、ヒューと爆弾が投下される音が聞こえたかと思うと大地が揺れ、爆発の衝撃波が耳をつんざいた。泰三は咄嗟に沢田を庇い、爆発の方向に背を向けた。
泰三は背中に猛烈な爆風を受け、焼けるような激しい痛みを感じた。気がつくと泰三は地面に倒れ視界がぼやけていった。
「沢田‥‥‥」 泰三はかすれた声で呟きながら、痛みに耐えて立ち上がろうとするが、力が入らず再び倒れ込んだ。
「俺はここで死ぬのか…‥‥うぅ」
その時、遠くから馬の蹄の音が聞こえ、泰三は薄れゆく意識の中で音の方向を見た。
そこにはマリーが「サクラ」に乗って、陽炎のように燃え上がる木々の間を抜けて、瓦礫をよけながら泰三の元へ歩いてくる姿があった。
「これは‥‥‥まぼろしなのか‥‥‥」 泰三は眼を閉じて意識を失った。
その日マリーは、大福餅の材料の買い出しに行こうと自宅を出ようとしたら、昼間だというのに、古い木の柱の隙間から、チンチョック(タイ語でヤモリ)が「チッチッチ‥‥‥」と鳴くのが聞こえた。
タイの古くからの迷信で、家を出る前にチンチョックが鳴くと、それが不吉な前兆とされることがある。マリーは、迷信に従いその日は材料の買い出しを止め、日没前に出直そうと自宅に戻った。もしかすると、泰三の身に危険が迫っているのかもしれないと、不穏な気持ちにさらされていた。
玄関に戻ると、壁に掛けてあった泰三の写真が落ちてガラスが割れていた。
駐屯地の厩舎で「フジ」に跨った凛々しい姿の泰三を、部下の兵士にお願いして撮ってもらったものだ。マリーの不穏な気持ちは更に高まり、ヤモリの迷信などそっちのけで、台所にあったもち米を蒸すために使う、綿の蒸し布を数枚繋ぎ合わせ自分の腹に巻いて、駐屯地へ飛び出していった。
駐屯地では若いタイ人の兵士から、泰三の赴任している地域で大規模な連合国軍の爆撃があったと知らされた。彼女は泰三が危険に晒されていると直感し、居ても立ってもいられず厩舎へ走り出した。タイ人の兵士たちがマリーを止めようと慌てて後を追うが、マリーは彼らを振り切って厩舎に繋がれていた「サクラ」に飛び乗った。
「サクラ!急ぐのよ!さぁ」
マリーは「サクラ」にパチッと鞭を当て泰三の元へと駆け出した。
マリーの住む村から泰三のいる前線の鉄橋建設の場所までは、当時の軍のジープでさえジャングルの未舗装の悪路を走って一時間はかかる場所だ。しかしマリーと「サクラ」はジャングルの獣道を熟知していた。泰三と二人でよく通った「抜け道」を使い、前線への医療物資を届けたものだ。森の中には大小の美しい滝があり、駐屯地へ帰る途中、良く二人で服を着たまま水浴びをしたものだ。
「この道を行けば三十分で着くはずよ、サクラ!お願い、頑張って!」
マリーは「サクラ」に呼びかけながら泰三のいる前線へと急いだ。泰三のいる前線の方からは大きな爆弾の破裂音や、機銃掃射の乾いた銃撃音がジャングルの中を走るマリーの耳にこだまする。
襲歩で駆ける「サクラ」の蹄の音がジャングルの静寂を切り裂く。マリーは泰三の無事を祈りながら、「サクラ」と共に走りに走った。道中、マリーは何度も泰三との思い出が頭をよぎった。彼がマリーの店に初めて来た日、彼女に大福餅の作り方を教えたこと、そして「フジ」と「サクラ」に乗って村を巡回した数々の日々。
泰三の優しい笑顔と凛々しい出立が、彼女にとっては何よりも大切な存在だった。この胸騒ぎが杞憂に終わって欲しいと願うのみだ。
ジャングルの道が少し広がり、やがて爆撃の音がはっきりと聞こえる丘に出た。丘の下には破壊された木造の橋の梁が川に落ちて白い煙を上げている。「サクラ」の肢体がびっしょりと汗で濡れ、鼻をブルルンと鳴らし息が上がっている、これ以上は走れない。マリーは木々の間から見えるB24爆撃機が爆撃と破壊任務を完遂し、西の空へと消えて行くのを見ていた。
マリーは「サクラ」に乗り丘を降りて、爆撃で破壊された機関車や貨車の破片を慎重に避けながら、停車場の方へ向かった。ニッパ椰子で葺いた屋根がまだ燻っていて、周辺には貨車に積んであった物資であろう木箱が散乱している。数人の兵士が倒れているが泰三は見当たらない、野戦病院の防空壕にいて助かったのだろうか?
僅かな期待を抱いて、マリーは周辺を見渡した。すると「サクラ」が少し頸を上げて、「ヒヒーン!」と仲間を見つけた時に唸る声を鳴らした。
はっとして馬の鼻先に視線を向けたマリーは、ついに彼女は地面に伏し倒れている泰三を見つけた。泰三の脇で沢田が手を上げて「こっちだ!」というように手招きをした。沢田は泰三が庇ったためかすり傷で済んだようだ。
「佐藤軍医!佐藤軍医殿!しっかりしてください!俺のために!俺のために‥‥‥!」
沢田が泣きながら泰三の頬を叩き続け、意識を覚まそうと必死だった。
泰三は頭や背中から血を流していた。腕には赤く血に染まった赤十字の腕章が付いている、布地には毛筆で「佐藤泰三」と書いてあったが、日本語は読めないマリーだが泰三だと確信した。
「サトーさん!サトーさん!」
マリーは馬を降り、泰三のそばに膝をつき、彼の顔を覗き込んだ。顔が血と泥で黒く染まっている。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「マ、マリー…どうしてここに…?」 泰三は夢から覚めたかのようなかすれた声を漏らした。
彼女は襷のように身体に巻き付けていた綿の蒸し布を外し、包帯のように丸めて手際よく泰三の胸から背中へと巻いていった。背中からの出血がひどく、布がみるみる赤く染まっていく。
「うぅっ……」 泰三が痛みから低く唸った。
「この人を死なせてはいけない‥‥‥!」心の中の声が叫ぶ。
マリーは小さな体で泰三の肩を担いで、起き上がらせようと力を込めた。
「すまない、もう大丈夫だ‥‥‥ありがとう」
泰三は痛みを堪え声を絞り出した。
ふらふらと立ち上がった泰三は、マリーに支えられて「サクラ」へ近づき、馬体に額をつけて、「よしよし、お前もよくやった」と頸筋を叩いた。マリーは貨車から落ちて転がっていた物資の木箱を踏み台にして、泰三の右足をぐいと押して「サクラ」の鞍に跨らせた。泰三は鞍の前橋に伏すようにして「サクラ」の鬣を掴んだ。そしてマリーも勢いよく「サクラ」に飛び乗って泰三の後ろに座り、手綱を束ね片手で持って泰三を支えた。
彼女は馬上から沢田に声をかけ、他に負傷した仲間の衛生兵を安全な場所へ移動するよう伝え、泰地を乗せて爆撃を逃れた野戦病院へ向かって駆け出した。
「サクラ!私の大切な人よ!」
マリーは早口のタイ語で「サクラ」に向かって叫び馬の腹をポンと蹴った。泰三は「サクラ」に伏したまま鬣を掴んだまま、
「マリー‥‥‥君も‥‥‥私の大切な人なんだ」
泰三の消え入りそうな声はマリーには聞こえなかった。
沢田が血だらけの腕を上げて、彼らに向かっていつまでも敬礼を続けていた。
その年の六月に連合国軍の二度目の爆撃に襲われ、修復中の鉄橋は遂に破壊された。ビルマ国境へと続く最大の難所での突貫工事は絶望的になっていた。連合国の捕虜たちも強制作業から解放され、捕虜収容所では捕虜たちが声高らかに英国国歌を歌っていた。日本の敗戦が間近だということを知らせていたのだろう。
そして、八月六日に広島、そして九日には長崎に原子爆弾が投下され、ついに十五日に大日本帝国大本営はポツダム宣言を受託し無条件降伏を発表した。
泰三が運ばれた野戦病院では、連合国軍の司令部からやってきた士官や兵士が慌ただしく出入りするようになった。病院内にいた日本の兵士たちは、治療が完治していなくても無理やりトラックに乗せられ、捕虜として日本軍が建設した鉄道を利用しバンコクへ移送され、バンコクの港から輸送船でフィリピンのマニラある連合国司令本部の日本軍捕虜収容所へ送られていった。
また軍部の将校たちの中には、日本の敗戦が決定的となり、鉄橋の建設も失敗に終わったことから、自決を図る者も少なくはなかった。神棚を祀った小屋の前で、軍刀を用い自らの腹を切り裂く者、ジャングルの中へ入り、手りゅう弾で自決する者、短銃で頭を撃ち抜く者、ある者は「天皇陛下、万歳!」と叫びながら死んでいった。
泰三は、連合国軍の捕虜として拘束され重傷を負いながらも、連合国軍の軍医ランディ医師によって、適切な治療を受けることができた。ランディ軍医とは、敵味方関係なく医師として治療法についてお互い相談をしていた間柄で、敗戦が決まった後でも彼は泰三に充分な治療を施していた。
「佐藤軍医、あなた達日本軍はもう負けたのです、戦争は終わりました。しかし、あなたは医者です。医者として暫くここに留まり、捕虜の‥‥‥いや、我々の中にいる病人を一人でも多く救っていってください」
泰三は野戦病院の竹で作った簡易ベッドに横たわりながら、ランディ軍医の話を聞いていた。泰三は医師であるため、連合国軍の病人の兵士の治療に協力してほしい、そして数日後にはフィリピンの連合国司令本部で、負傷した日本兵の健康管理や病気の治療にもあたってほしいとのことだった。
時折、外で銃声や手りゅう弾が破裂する音がする。自決を図る日本の軍人だろう、今や戦勝国の野戦病院となった、湿った藁葺き屋根の天井を見つめながら、これから直面するであろう自分の人生の大きな岐路を予感し、泰三ため息をつくのだった‥‥‥
スイカと馬と上等と
夜中にスコールが降り、朝露に濡れた牧場では馬たちが自由に草を啄んでいる。この乗馬牧場では約15頭の馬が飼われていて、ほとんどは牧場内で生まれた馬だが、中にはアラブ馬やアメリカの”クォーターホース”と呼ばれる、本場アメリカのウェスタン乗馬の競技などで活躍する、ややがっちりした体格の馬との交配種もいて、観光や乗馬目的で来る自称“馬乗り”たちにも人気があった。
牧場は林に囲まれた平地に厩舎が建てられ、厩舎の脇には、タイ語で「ラーチャプルック」と呼ばれる、ゴールデンシャワーの木が黄色い花を満開に咲かせ、夜中に降ったスコール明けの青空に照らされとても美しく咲いている。数頭の馬には既に鞍が付けられていて、都会から来た“馬乗り”たちを待っているところだった。
この乗馬クラブのオーナーはクワンの幼い頃からの友人で、クワンより年が三つ年上で名をサンティと言った。サンティは時間になっても写真撮影に夢中の”馬乗り”旅行者たちに向かって、
「そろそろレッスンを始めますよ、騎乗してください‥‥‥」
小柄だが陽に焼けた端正な顔立ちのサンティは、よれよれのカウボーイハットを被り直し、バンコクから来ていた若い男女に声を掛け、ひょいと彼の愛馬に跨ってレッスン用の馬場へ出て行った。
「じゃ、クワンと泰地は気を付けて、ランチの時間までには戻ってきてくださいね‥‥‥」
サンティはそう言うと「チッチッ」と舌鼓を打って馬を促し、二人に向かって軽く手を上げて親指を立てた。
気温も少し下がり始めたとは言え、南国の朝は既に暑く、生温い風が頬を撫でていく。
クワンは以前によく来た外乗ルートを熟知していたので、泰三を先導しゆっくりと小高い丘に向かって歩き出した。この牧場にある、一番見晴らしの良いところだ。
「まずはここの牧場で一番見晴らしのいいところへ上りましょう!」
栗毛の「ラテ」は“クォーターホース”の母馬を持つ雌馬で小柄だが、かなり筋肉質な馬だ。クワンは丘の斜面を馬の歩様を速歩に替えて軽快に上り始めた。泰地は久しぶりの乗馬で少し緊張していたが、丘の上に上がると心地よい風が暑さを和らげてくれた。
泰地の馬は葦毛のアラブ馬の血が混じったタイ産の馬「シュガー」という牡馬で、よほど勢いよく走りたいのか、グイグイと手綱を引っ張っていく。
「お母さん、検査の結果が良くて安心したよ‥‥‥」
泰地が眼下に広がる草原を見ながら切り出した。
「そうね、あなたのおかげよ、ありがとう、ちゃんとお礼を言ってなかったわ」
クワンは馬上からこくりと頭を下げて微笑んだ。
二人はクワンの母親の病状のこと、今後は投薬治療や定期的な検査入院が必要なことなど、丘の斜面を下りながら「ラテ」の頸筋をポンポンと叩き、
「お母さんは私がいるから大丈夫よ‥‥‥」 と自分に言い聞かせるように言った。
不安そうなクワンの気持ちを察してか、泰地が気分を変えて前方の林を指さして言った。
「ねぇ、あそこに見えるスイカ畑まで行ってみないか?美味しそうなスイカがたくさん見えるね‥‥‥」
泰地は低い山の裾野に拡がる緑のスイカ畑を指さして、クワンの前に「シュガー」を進めた。「シュガー」は勝手知ったる道なので、畑の畦道を今にでも駈け出しそうに脚をばたつかせる。
「ダメよ、私が先よ!さぁ!」
クワンはそう言うや否や、「ラテ」の腹に乗馬ブーツに付けた拍車でポンと当てて駈歩を出した。
クワンはバンコク郊外の洒落た高級乗馬クラブに通って、英国式の乗馬スタイルだ。アメリカ式の牛追いや、ロデオなどのカウボーイ競技とは違って、英国式はドレッサージと呼ばれ、馬場での馬術競技の一つで、馬を正確かつ美しく運動させることができるかを競うもので、アメリカの派手なロデオ競技とは一線を画し、どちらかと言えば女性に人気のある馬術だ。
彼女の出立は黒く短い庇の付いたヘルメットに、身体の線がくっきりと美しいポロシャツにタイトなパンツ、そしてイタリアの有名ブランドのブーツを履いている。
一方、泰地はジーンズにカウボーイブーツを履き、上着はテキサスに旅行に行った時に手に入れた、ブランドのブルーのウェスタンシャツを着こみ、カウボーイハットという出立だ。タイでいつか乗馬することを期待して、わざわざ赴任の際に日本から持ってきたのだ。今日がその晴れ舞台ということになる。
泰地はクワンの凛々しくも、女性らしい美しい乗馬姿に一瞬見とれてしまい出遅れてしまった。泰地は彼女に遅れまいと「シュガー」の腹に踵を当てようとしたが、最初から駆け出したい「シュガー」は泰地の指示を待たずに「ラテ」を追いかけ始めた。泰地は少し怯んだが、すぐにバランスを保ちクワンの後を追い駆けて行く。
山裾のスイカ畑までまっすぐな畦道を二頭の馬が、二人の若い男女が、付かず離れず駆け上がっていく。畦道にはススキが陽の光に照らされてセピア色に光っている。まるで古い映画の世界にいるかのような二人が、二頭の馬にはペガサスのごとく羽が生え、鬣が風に靡き、茜色の空に飛び立つかのようだ。
二人はスイカ畑の中央あたりまで来て歩様を緩めた。腰を屈め農作業中の初老の男性が顔を上げ、二人を交互に見ながら、「ふぅーっ」と息を吐いた。首に掛けたタオルで額の汗を拭きながら、
「やぁ、二人で乗馬かい? どうだい、このスイカ甘いぞ、食べてみるかい?」
農夫の男はしゃがれた声で訛りのあるタイ語を話し、スイカを一つ切り取って鉈で割って二人に差し出した。
「ほれ、ちょっと味見してみるかい?」
甘そうな真っ赤な実が鮮やかだ。小さい頃から、この辺りで採れるスイカが大好きだったクワンは、
「わぁ、美味しそう!戴いてもいいのですか?」 と尋ねた。
「いいとも、ここで採れるスイカは甘くて美味いんだよ、”ヨートー!ヨートー!”」
農夫はまた少し早口に言って親指を立てた。泰地はほとんど聞き取れなかったが、クワンはすぐに通訳して、農夫がスイカを分けてくれると伝えたが、少し首を捻って農夫に向き直り、
「おじさん、“ヨートー、ヨートー!”ってどういう意味ですか?」 と訊いた。
クワンもこれはこの土地の訛りのタイ語ではないことは分かったが、農夫は歯の抜けた口を大きく開けて笑い、
「俺もよく知らねえんだ、なんでも“高級品”っていう意味らしいがね‥‥‥」
農夫の老人は切ったスイカを「シュガー」と「ラテ」に惜しみなく食べさせ、腰に下げた袋から刻み煙草を取り出し、火を点けてふぅーっと煙を吐きながら言った。
「昔、この辺は戦争中に日本軍の駐屯地があってね、そこの日本人の軍人さんとやらが、この言葉を村の人に教えたっていうんだ、でも連合国軍の爆撃があって、日本軍の駐屯地も全部消えちまって、今では俺のスイカ畑さ、もう戦争はしちゃならんよ‥‥‥この辺りの年寄りは今でも使うよ、“ヨートー!”」
クワンは「なるほど…」と頷いたが、誰がどういう意味で“ヨートー”という言葉をこの村の人に教えたのだろうと不思議に思った。
泰地は広大な土地に拡がるスイカ畑と、青く澄んだ空の写真を携帯電話のカメラで撮り続けていた。
二人は農夫に胸元で手を合わせ、丁寧にお辞儀をしてから鞍に座り直し手綱を少し引いた。
「じゃぁ、あそこの小川を渡ってゴム園農家の林を通って戻りましょ!」
そう言ってクワンはまた馬を泰地の前へ進め、スイカ畑の畦道をゆったりとした駈歩で走り出した。
スイカ畑が広がるあたりは少し高台になっているので、遠くの山々までよく見える。山の稜線が雲のない青い空にくっきりと映え、二人は黙ったままその景色を眺めながら、雨季になると現れる小川に歩を進め、川の中央あたりで手綱を緩めた。馬の腕節と呼ばれる脚の膝あたりまで水に浸かった二頭の馬は、嬉しそうに片脚で「水掻き」をするかのように水面を蹴って、まるで二頭の馬が馬上のクワンと泰地にいたずらをするかのように、バシャバシャと音を立てて水しぶきを上げる。
「シュガー、おい、止めろよ、びしょ濡れになっちゃうよ!」
「そうよ、ラテ!ズボンがびしょ濡れになっちゃったじゃないの!」
二人は笑いながら馬の腹をポンポンと蹴って、小川を渡り切ったところの斜面を駆け上がった。
そこにはゴムの木の林が広がっている。太陽の日差しが低いゴムの樹々を抜けて差し込んでいるが、森の中は南国の鳥の鳴き声と馬の蹄の音だけがこだましている。二人はお伽の国へ迷い込んだように黙り込んで、整然と幾何学的に植えられた木々の間を、森の妖精の出現を待つかのように静かにゆっくり歩いた。
陽が差し込む森の出口に向かって歩きながら、泰地がクワンに訊ねた。
「ところで、さっきのスイカ畑のおじさんが、最高という意味の“ヨートー!”ってどういう意味かな‥‥‥」
クワンも首をかしげながら、
「うーん、それタイ語じゃないよ、当時この辺りに駐屯していた日本の軍人がよく使っていた言葉だそうよ‥‥‥」
「ふーん、そうなんだ、でも“ヨートー”なんて日本語は聞いたことないし、なんだろう‥‥‥」
泰地は、やけにその言葉が心に引っ掛かり、強い日差しに照らされたクワンの少し汗ばんだ横顔をぼんやりと見ながら考えていた。
「何よ、私の顔に答えが書いてあるの?」 とクスっと笑った。
「”ヨートー”・・・意味は高級かぁ‥‥‥あっ!」
泰地は何か閃いたように声を上げた。
「ひょっとして、“ヨートー”の本当の発音は“上等”(ジョートー)だよ、そうだ、きっとそうだよ!」
泰地は右腕を振り上げて「やった!」と叫んだが、クワンは泰地がまだその言葉に拘っているのかと、あまり関心なさそうに泰地を見ながら、
「ふーん、そうなの、“ジョートー”ね、“ヨートー”、“ジョートー”‥‥‥なるほどね」
クワンは泰地を揶揄うように同じように右腕を上げ「やった!」と叫んだ。
泰地は自説を興奮気味に話し始めた。
「あのね、タイ語を勉強する時に日本のことを「ジープン」とか「イープン」と学ぶんだよ、人によっては「ジー」と言ったり「イー」と覚えたりする。つまり、「J」の発音が「Y」にもなるんだよね。そしたら、「ヨートー(Yoto)」は「ジョートー(Joto)」になってもおかしくないよね、だから当時の日本の軍人さんが「上等(Joto)」と言ったのを聞いたタイ人が「ヨートー(Yoto)」と聞こえて使ったんだよ、きっとそうだよ!」
そう力説する泰地だったが、クワンはまた、「ふーん、そうなの‥‥‥」 と素っ気なく言った。
泰地は、自分の推測が間違いないと信じ、
「上等、ヨートー、ヨートー、上等‥‥‥」
繰り返し独り言のように言って右腕を何度も振り上げた。
それが自分の祖父、泰三があるタイ人の女性に教えた日本の言葉だったとは、夢にも思っていなかった‥‥‥
現在ではあまり使わなくなった日本語、物の品質や出来栄えが優れて良いこと、その等級のことを「上等」という。近頃の若い人のみならず、大人までもが使う、なんでもかんでも「やばい」とか「サイコー!」という無機質で曖昧な言葉に変化してしまったが、泰地には「上等」という言葉がとても新鮮で、本来日本語が持つ美しい響きと意味に改めて感心するのだった。
「昔、ここで戦争があって、日本の軍人さんがいて、ここに住んでるタイ人たちとどんなコミュニケーションをとっていたのでしょうね? “ヨートー!”なんて言葉も未だに使われてるなんて、ちょっと素敵だわ‥‥‥」
クワンは右手を上げて敬礼するようなポーズをとって、「ヨートー!」と言って笑った。
「ははは、でもどんな軍人さんだったんだろう、その言葉を教えたのは‥‥‥」
泰地もクワンも、少しの間黙ったまま当時の情景を想像していた。
「泰地のお爺さんは軍人さんだったの?」 とクワンが唐突に訊いてきた。
「うん、父からはそう聞いてるよ、なんでも若くして軍医になって、アジアのどこかの国へ軍医として出征したんだ。乗馬が得意でね、馬に乗って病人の診察に行ってたらしいよ‥‥‥」
「へぇ、軍医さんなんだ、馬に乗ってたなんて、なんだか素敵ね。泰地はお爺さん譲りの馬乗りね、そして名医!ははは!」
クワンが白い歯を見せて大きな声で笑った。
「今、そんなカッコいい軍人さんがいたら、私、好きになっちゃうかもね!」
「‥‥‥」
泰地は鼻で笑って馬の頸をポンポンと叩いた。
厩舎に戻った頃にちょうどサンティが、旅行者たちと一緒にランチの準備を始めていた。
二人が戻るのを待っていた彼はニヤニヤしながら二人の馬の手綱を取って、
「今日の馬デートは楽しかったですか?」 と揶揄いながら二頭を連れて馬房に戻しに行った……
時空の手紙
泰地とクワンの二人は翌日も朝から乗馬を楽しんだ。
乗馬クラブのオーナーのサンティが、冷やしたココナッツを二つ持って来て、鉈を使って上部を器用に開けてストローを差してくれた。
「今日も暑くなりそうだから、さぁ、冷えたココナッツジュースでも飲んでから行きますか?」
サンティは二人に差し出し、自分はペットボトルのコーラをぐいぐいと喉を鳴らして飲んでいる。
ココナッツジュースはミネラルを豊富で脂肪分もなく、甘酸っぱい透明な椰子の果実の液体で、冷やして飲むと非常に美味しくて、また白身の果実はジュースを飲みながら、スプーンなどで掻き落として一緒に食べると、ちょうど良いおやつにもなる。
東南アジアなどの熱帯地方では、ココナッツやバナナは地域独特の南国気分を演出してくれる食べ物だ。観光でタイを訪れた人なら必ずと言っていいほどこのココナッツジュースを飲んだことがあるだろう。
泰地はこのココナッツジュースが好物で、ココナッツという名の響きだけで南国リゾートの気分に浸ることができたし、果実のジュースだけでなく、アイスクリームや、カノムクロックという、小麦粉にココナッツミルクを混ぜて鉄板で片面だけを焼いた、たこ焼きを半分にしたような甘いお菓子が大好きだった。
泰地とクワンはココナッツジュースを飲み干し、馬装が終わって二人を待っている「シュガー」と「ラテ」にさっと跨ると、クワンが泰地に提案した。
「今日は鉄橋の見えるところまで、ジャングルの獣道を行ってみない?」
泰地は眼をパチパチさせて、
「ジャングル‥‥‥?なんだか冒険だな、行ってみよう、面白そうだね」 とにこりと頷いた。
泰地は前日サンティから、車の通らない森の小径を行けば、映画で有名な泰緬鉄道のクワイ川鉄橋を見渡せる丘まで行けるよ、と教えてもらっていた。泰地はクワンに「ジャングルの獣道?」と大げさに驚いてみせ、クワンの提案に賛成した。ただサンティから、
「行ってもいいけど、途中コブラやサソリやオオトカゲに気をつけるんだよ!」と言われたときは少し驚いた。
サンティは本気で言ったのか、それとも冗談で泰地とクワンを怖がらせようとしたのかは定かではないが、事実、東南アジアの森の中では猛毒のキングコブラや、サソリやワニかと思うくらいのオオトカゲが棲息している。ただ、人を襲うほど凶暴な生き物ではないが、森の中で出くわしたりしたら、馬の方が先に驚いてしまい、落馬の危険は考えられた。
うっそうと木が茂る森は、朝露に濡れてひんやりとしていて、聞いたこともない南国の鳥の声が鳴り響く。二人の馬の常歩の蹄の音が熱帯雨林にこだまする。低い椰子の木や、シダが群生する、まるでジュラシックパークの中を散歩しているようだ。時折、大きな木の蔓が垂れていて、ヘビと見間違え二人は大きな声を上げて笑った。
川岸の駅に到着した日本製のディーゼル機関車に引かれた観光列車が、細く長い汽笛を鳴らすのが風に乗って聞こえてきた。
二人は森を抜けて、鉄橋が見える川の上の小高い丘に出てきた。鬱蒼とした森の奥には、戦時中に使用されていたらしい、C56型蒸気機関車の残骸がひっそりと置き去りにされたように佇んでいる。ところどころ錆びて朽ち果てているが、当時の活躍ぶりが目に浮かぶ。そこは今では流行のトレイルランなどのイベントで使われていて、往年の泰緬鉄道の引き込み線の跡地になっていた。
泰地は背負ったバッグの中からカメラを取りだし、丘から眺める壮大な景色を撮り始めた。二人は馬を降り、大きな岩の上に二人で腰を下ろし、泰地はペットボトルを二本取り出し一本をクワンに差し出し、泰地はグイっと一口飲んで水を手に取って顔を濡らした。クワンは背中の小さなバッグを開けて、ピンク色のハンカチを取り出して自分も額の汗を拭った。
「そういえば、昨日お母さんが作ってくれたおやつがあるの、ここで食べない?」
クワンはバッグの中から小さな包みを取り出した。
クワンは今日もスタイリッシュな英国式の出立で、有名なブランドの白いポロシャツがよく似合う。仕事での服装もブランドの洋服を着たクワンは、まるで雑誌モデルのような乗馬スタイルで、ファッションセンスもさすがに決まっていた。そして泰地は、小さい子供が背負うような、可愛らしいクワンの赤いバッグを指さして言った。
「そのブランドのバッグ、素敵だね‥‥‥?」
クワンは泰地に言われてバッグを少し持ち上げて泰地に見せた。
「ありがとう、お気に入りのバッグなのよ‥‥‥」
その時、一枚の紙片が二人の間にすっと地面に落ちた。
クワンは母を連れて病院に行く際に、自分の携帯電話や充電バッテリーのほかに、母の保健証も一緒にバッグに入れていたのを忘れていて、包みを取り出す時に一緒に出てきたのだ。クワンは不思議そうな顔をして、腰かけていた岩の上に落ちた、色褪せた和紙のような二つに折り畳まれた紙をゆっくりと拾い、破けないように慎重に広げて、
「あれ、これ何かしら?」と声を上げた。
そこには達筆で書かれた日本語と、不格好だが確かにタイ語だと分かる文字が並んでいた。
「これって‥‥‥日本語の手紙?」
泰地は興味深げにクワンが手に持っている“手紙“らしきものを覗き込んだ。クワンはそれを泰地に渡し読んでと頼んだ。
泰地は慎重に受け取り読み始めると、次第に目が釘付けになり手が震えだした。
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日本の敗戦が決まり、連合国軍の将校たちが、今や捕虜となった日本人兵士たちを狭い貨物車に乗せていく。着の身着のままという兵士がほとんどで、ある者は松葉杖をつき、ある者は担架に乗せられて、かつて日本軍がシンガポールで捕虜となったイギリス兵を運んできた古く錆びこけた貨車に乗せられていく。やがては日本への復員船に乗せられ日本へ帰国することになるだろう。
しかし、鉄道建設に携わった日本の首脳部の将校たちは、捕虜虐待などの罪で戦犯として捕らえられ、シンガポールでイギリス軍によるBC級戦犯裁判として裁かれることになった。
泰三は軍医であったこと、そして英語が堪能であったこともあり、今は立場が逆転したとはいえ、連合国軍の捕虜の治療に専念していたランディ軍医の薦めもあり、野戦病院に残された連合国軍の病人の治療に協力することを条件に、シンガポールへの日本軍捕虜収容所行きは暫く見送られることになった。
泰三の胸中は複雑だった。敗戦国の軍医が一人残り、連合国軍の元捕虜たちから罵声や屈辱的な言動を浴びせられ、むしろ日本の軍人らしく自決した方がいいのではないかと思ったこともあったが、泰三には大切な人がいる。そして自分は医者の使命を全うしようと、連合国軍の負傷者や病人の治療に専念していた。
しかし、日に日に連合国側の憲兵が多くやってきて、泰三は行動範囲を規制され、マリーの待つ村まで彼女に会いに行くことは許されなかった。またマリーも幾度か連合国軍の敷地内を訪れても守衛に断られて泰三に会うことはできなかった。
徐々に連合国軍の元捕虜だった病人たちも回復し、本国へ帰国するためバンコクへ移動していった。自国の軍が破壊した鉄道の線路は、タイの連合国を支援する勢力などの協力もあり急速に回復していった。
近いうちに自分もシンガポールへ送られてしまう、そしてそこで捕虜として、戦犯裁判にかけられてしまうかもしれない。そうでなくても日本国への強制送還は免れそうにない。
その前になんとしてもマリーに会いたい、マリーの住む村へ戻らなければならない、そうした思いが泰三の脳裏を横切った。自国の敗戦という屈辱的な事実よりも、愛する人に会えない、会うことも許されない不条理な現実に憤りを覚えた。
ある日、連合国軍の軍医のランディが泰三の元を訪れて話しかけてきた。
「ドクター・サトウ、気の毒だが君もシンガポールへ移送されることになった。君の此処での働きと貢献は私から上層部へ報告し、裁判では無罪になるように取り計らう。そして、日本へ戻り、君の祖国での戦争の被害者たちの治療に当たって欲しい、ただもう此処に留まることはない‥‥‥」
ランディ軍医は泰三の心情を察し、そのことだけを伝え去っていった。泰三は彼に感謝の意を伝えたものの、一方、心が引き裂かれたような衝動を覚えた。泰三の思いは日に日に強くなるばかりだった。ある日、泰三は自らの意志を固め、マリーに手紙を書くことを決意した。彼がマリーに伝えたいことは山ほどあったが、何よりも伝えたかったのは、彼女への愛と別れの言葉だった。
その夜、泰三はマリーの夢を見ていた。
大福餅を持って捕虜収容所の狭い部屋を訪ねてくるマリーの姿、そして「サクラ」に乗ってやってきた彼女は「フジ」を連れて来た。
「さぁ一緒に帰りましょう!約束でしょ?」
泰三は「フジ」の手綱を受け取り跨った。
周囲の木々は薄明かりに包まれ、やがて朝日が差し込み始めた。二人が森を抜けると、目の前には美しい富士山がそびえ立ち、桜の花びらが舞う道が広がっていた。
朝日を浴びたその風景の中、泰三とマリーは「サクラ」と「フジ」に跨りゆっくりと歩き始めた。彼らの描く世界は、愛に国境はない、言葉や文化さえも超えた世界だった。
「泰三さん、私たちの愛は永遠のものよ‥‥‥」とマリーが微笑んで言った。
二人は手を取り合い、桜舞う道をゆっくりと歩き続けた。その姿は、希望と愛の象徴として、朝日の中に溶け込んでいった。
「そうだ、マリー。私たちの愛は永遠に続く、終わることはない…だから」
泰三が続けようとしたとき、突然マリーが桜吹雪と共に消えていなくなった。
「マリー!マリー!何処に行ったんだ!」と見渡すがその声は全く声にならなかった。
気が付くと連合国の若い衛生兵が泰三の肩を揺すって起こしに来ていた。昨夜遅くまで病人の検診を行っていたせいで、気づかぬうちにテント内の竹製の簡易ベッドの上で寝てしまっていたのだ。
「ドクター・サトウ、ランディ軍医が来られました」
と告げ、ランディ軍医に敬礼をして去っていった。
「ドクター・サトウ、残念だが明日の午後、君のシンガポールへ移送が決まりました」
ランディ軍医は静かに言った。
「そうですか、ランディさん、色々とありがとう。あなたには感謝している。最後に一つ頼みを聞いていただきたい」
泰三は胸のポケットから手紙を取り出して、茶封筒に入れランディ軍医に手渡した。
「これをマリーに届けて欲しい‥‥‥最初で最後のお願いだ」
「承知した、必ず今日の午後には届けます。彼女はあなたに会いに何度も此処を訪れました。しかし、これは規律でどうしても叶わなかった。私の力不足だ、申し訳ない‥‥‥」
ランディ軍医はそう言って、マリーに手紙を届けることを約束した。
出発の朝、泰三は薄暗い収容所の中で、マリーの顔を思い浮かべ嗚咽した。この不条理な借別に心が引き裂かれる思いで天を仰いだ。午後になると泰三は他の日本兵や将校の捕虜たちと共に駅へ送られていった。
その頃、マリーはランディから受け取った手紙を握りしめ、涙を流しながら無意識に駐屯地の厩舎へ走り出していた。そこには、タイ人の若い兵士が馬装を終えたばかりの「サクラ」に飛び乗った。持っていた手綱をマリーに取られた兵士はびっくりして、
「おい、何をする!おい、待て!」
兵士は追いかけようとしたが、マリーは握った手綱を大きく左右に振って「サクラ」に強く鞭を入れた。「サクラ」はあっという間に襲歩となり、マリーは長い黒髪を靡かせながら泰三のいる場所へと疾駆のごとく走り出した。自然と溢れ出る涙が風に飛ばされていく。「サクラ」はマリーの気持ちを分かっているかのように懸命に駆けていく。
泰三は連合国軍が臨時に立てたニッパ椰子で葺いた駅舎で、シンガポール行きの貨物列車の到着を茫然と眺めていた。
“マリーは手紙を読んでくれただろうか、最後に一言だけでも交わしたい、会いたい‥‥‥”
泰三はアメリカ人の憲兵の一人に施され、他の日本人の軍人と共に一両の天井のない、以前は鉄橋建設用の木材を運んでいた貨物車に乗せられるとすぐに列車は動き出した。マリーと会えない口惜しさで張り裂けそうになる泰三の胸を、イギリス製の蒸気機関車の甲高く細い汽笛が突き刺した。
列車がゆっくりと走り出したその時、線路沿いのサトウキビ畑の向こうからマリーが馬に乗って駆けてくるのが見えた。泰三は驚きと喜びの中で手を大きく振って叫んだ。
「マリー!ここだ!私はここだ!」
マリーはサトウキビ畑を一直線に横切り、線路と平行に走ってきた。「サクラ」もテンションが上がっているのか、ブルルと鼻を鳴らしながら懸命に列車に追いつこうと、線路脇の砂利道を駆けてくる。泰三は貨車から身を乗り出し手を伸ばす。二人の手は一瞬だけ触れ合い、すぐに離れた。
「サトーさん、やっと会えたわ、手を離さないで!私を連れて行って!」
マリーは、今にも列車に飛び移りそうなくらいに、その華奢な身体を鐙に預けた。
その瞬間、泰三はマリーの手をしっかりと掴んで、彼女の手を握り締めたまま彼女に向かって叫んだ。
「私たちは必ずまた会える!待っていてほしい!」
マリーもこの永遠の別れの瞬間を悟ったのか、二人の握る手が次第に離れていく。前方に鉄橋が見え、「サクラ」は徐々にスピードを落としていった。
掴んだ手を放した瞬間、泰三はマリーの瞳に涙が光るのを見た。マリーの叫び声が風に乗って響き渡る。
「サトー!サトー!愛しています!サトー!」
マリーは遠ざかる泰三を見つめ続けた。
*****
親愛なるマリーへ、
この手紙が君の手元に届く頃には、我は既に此処を去りしやもしれぬ。君に直接会いて伝えたき事、数多くありしも、それ叶わぬ今、せめてこの手紙にて君に伝えむと思ふ。
初めて君に出会ひし日より、我が心は君に囚われたり。戦場にて君の笑顔を想ひ浮かべるたび、苦しみも和らぎたる。君の優しさと強さに惹かれしこと、感謝してやまぬ。
されど、軍人としての我には祖国日本を護る使命あり。国家を優先せざるを得ぬ身として、君との未来を約束し得ぬ現実を受け入れざるを得ず、心苦しきこと限りなし。君を愛する心変わらぬものの、その愛が君を傷つけることを避けたく存ずる。
君の未来が輝かしきものであることを、心より願ひたし。いつの日にか、平和な世界にて再び相見えん。そのときには、我が祖国日本にて馬上より富士と桜を二人で愛で、君の作りし上等な大福餅を共に味わひたし。
いずれの日にか、国や民族、言葉を越えた自由なる恋愛ができる時代にならんことを願う。君を永遠に忘れざることを誓ひ至す。以下に再度、大福餅の作り方を記しておくので忘れるべからず。
ผมรักคุณตลอดไปครับ…
佐藤泰三
*****
「佐藤泰三‥‥‥僕のお爺さんの名前だ!」 と泰地は叫んだ。
「ええっ?あなたのお爺さん?一体どういうこと?」 クワンが驚いて泰地を見た。
「僕にも分からない…‥‥『親愛なるマリーへ』 なんだこれ?」 泰地が首を傾げた。
「ちょっと待って!マリーというのは私のお婆さんの名前よ!」 クワンは興奮気味に続ける。
「ということは、あなたのお爺さんが私のお婆さんへこの手紙を書いたってこと? それを私の母が保険証に挟んで大切に持っていたってことなの?どうなってるの?」
「これ、僕のお爺さんのラブレターだよ、君のお婆さんにあてたラブレターだよ‥‥‥」
「それと‥‥‥」 泰地は更に続けた。
「大福餅のことが書いてある、そうだ、君のお母さんが作っていたあの大福餅、作り方は僕のお爺さんが伝えたんだよ‥‥‥」
泰地は落ち着いた口調で続けた。
「ここに、「上等な大福餅」って書いてある、あのスイカ畑のおじさんが言ってた「上等」、日本の軍人が教えたって、僕のお爺さんじゃないのか?」
「でも今こうして君にも僕にも両親がいて、君はタイで生まれ、僕は日本で生まれた。ということは僕のお爺さんと君のお婆さんは残念ながら結ばれることはなかったんだよ」
泰地が手紙の内容を訳して聞かせると、クワンは眼に涙を溜めていた。
「最後のところ、ほら!」
クワンが最後の一行を指さした。そこには泰三がたどたどしいタイ語で書いたと思わる一文があった。
「マリー、君を永遠に愛す」 クワンは声出してその一行を読んだ。
「当時、二人は愛し合っていたのね……でもなぜ、なぜ一緒にならなかったのかしら?」
「「ならなかった」のではなく、「なれなかった」、じゃないかな?」 泰地は何かを悟ったかのように言った。
泰地は手紙をもう一度読み返した。
丘の下に見える、観光客が写真を撮り楽しそうに歩く鉄橋を暫く眺めながら静かに言った。
「この手紙、二人の愛の証だね……」
「そうね……でも戦争が二人を引き裂いたってこと?」とクワンは目を潤ませながら答えた。
二人の間にはしばらくの沈黙が流れた。遠くに観光客を乗せた、バンコクからの特別列車が鉄橋の袂の駅に停車したのが見えた。
「でもお母さん、この手紙をずっと持っていたなんて思いも寄らなかったわ」
我に返ったようにクワンが言った。
二枚目の手紙には大福餅の作り方が日本語で詳しく書かれていたが、よく見るとその下に鉛筆で書いたような薄い文字のタイ語が添えてある。恐らく、マリーがあとからその文にタイ語で書き加えたのだろう。それをマリーが娘であるクワンの母に教え、大事に取っておくようにと渡したのだろうか?
クワンは泰三が書いた大福餅の作り方を、マリーが書き加えたタイ語をなぞりながら一行ずつ読んでいった。
「これなら私でも作れるわ、小さい頃に母がよくおやつに「日本の大福餅」と言って作ってくれたのは、この大福餅の作り方を母は知っていたんだわ‥‥‥」
あの夜、クワンの母をベッドに寝かし、自分は「佐藤泰地」と名乗った時に、「さとう、さとう…」と呟いたのを思いだした。彼女は娘が働くバンコクから、タイの正月のソンクランの休暇に実家に戻ってくることを知って、大福餅を作って娘に食べさせてあげようと準備していたのだ。そこへ『佐藤泰地』という、日本人の青年から命を救ってもらい、そこで『佐藤』という名前を聞いて、あの『佐藤泰三』の孫ではないかと感じたのかもしれない。なぜなら、今でもクワンの自宅玄関の壁に掛けてある、にっこり微笑むマリー婆さんと並んで写っている写真の中の凛々しく、そして優しい笑みを浮かべた日本人が、この『佐藤泰地』にそっくりだったからだ。
クワンは今更ながら不思議な感動を覚え、バッグから取り出した包みを開いて、
「そういえば、これ‥‥‥その大福餅なの。お母さん、おやつに持っていきなさいってくれたの。私がバンコクへ出てからも一人で作って市場で売ってたのよね、心臓が悪くなってからはあまり作らなくなったけど、多分、私のお婆さんとあなたのお爺さんのことを思って作り続けていたのかしら……」
そう言って包みから大福餅を一つ摘んで口に放り込むと、
「中に黒豆の餡が入ってる!甘くて美味しいわ‥‥‥」
クワンは目を丸くして言い、包みを泰地に差し出した。
「きっとそうだよ‥‥‥」
泰地はそう言って、自分もその大福餅を一つ手に取った。中には緑豆の漉し餡が入っていた。緑豆は日本人には馴染みが薄く、小豆や大豆と違い、タイやアジアの甘いスイーツに使われる豆の種類で、ほんのり甘く、ややナッツのような風味が人気だ。泰地は口いっぱいに頬張って、
「美味い、最高!あ、いや、「上等」だよ!」と声を上げた。
二人は残りの大福餅も全部平らげてしまったが、泰地は遠くに観光列車が駅に到着したのを静かに眺めていた。
「そろそろ帰りましょうか、雨雲が近づいて来たわ……」
クワンはそう言って、どんよりと曇り始めた空を見上げた。
「そうだね、急いで戻ろう、またスコールが来そうだね‥‥‥」
俄かに上空に雨雲が発生したかた思うと、生ぬるい湿気を含んだ強い風が吹いてきて、周りの樹々を揺らし始めた。二人はお互いの馬に跨って、鉄橋を見下ろせる丘から少し早めの常歩で降り始めた。
「こっちの沢を行けば近道だから‥‥‥」と言ってクワンは馬の頸を丘の斜面へ向けた瞬間、突然、激しい雷鳴が轟いた。閃光が空を裂き、雷が近くの樹に落ちた。
地響きのような落雷に驚いた「ラテ」は前肢を高く上げて嘶き、クワンはしっかりと手綱を握ったが、馬が激しく動揺し、制御が利かなくなった。瞬く間に大粒の雨が木々の葉を叩き始め、滝のような雨水が山道に流れ落ちる。雷が落ちた大きな木の幹が燻って白い煙を上げていた。
先ほどまでの快晴の空が、俄かに地獄のような鉛色に変わり、雷鳴が続く豪雨に変わり、クワンの馬はますます興奮し、足を滑らせ斜面を数メートル滑り落ちていき、クワン自身もバランスを崩し、「ラテ」と一緒に大きな木の幹に引っかかり止まった。その時クワンの左足が「ラテ」の胴体と斜面の間に挟まり身動きが取れない。
「クワン、大丈夫か!」泰地が叫んだ。
クワンは恐怖で声も出せず、小さなうめき声を上げている。このまま斜面を滑り落ちれば崖から馬もろとも川へ落下してしまう。
「クワン、手を伸ばして!」泰地が斜面を一歩一歩慎重に下りながら、手を差し伸べた。
クワンは必死に泰地の手を掴もうとしたが、濁流のように流れてくる雨水で足場が滑りやすく、また「ラテ」が起き上がろうとして脚をばたつかせて暴れ続け、クワンに手が届かない。
「大丈夫、僕がいるから…絶対に大丈夫!」泰地の声が彼女の耳に届き、クワンは再び手を伸ばした。
ついに、泰地が彼女の手をしっかりと掴んだ。「ラテ」は木の幹に脚を突っ張り立ち上がり、斜面に肢をとられながらも怪我もなく斜面を駆け上がっていった。
クワンは泰地の手を掴んだまま、ほっとしたのか、幹にもたれたまま動けなかった。
「ありがとう、泰地。本当に怖かった……」クワンが震える声で言った。
泰地の手をしっかりと握りしめている。
「無事でよかった‥‥‥」
また大きな雷鳴が響いた。
「泰地……」クワンは小さな声で彼の名前を呼んだ。
二人の荒い息が降り続く雨音を打ち消していく。
「私から言うわ、泰地、あなたが好き‥‥‥」クワンは心臓が早鐘のように鳴るのを覚えた。
彼女は泰地の腕に飛び込んだ。雨に濡れた彼女の白いポロシャツから彼女の温もりが伝わってきた。
泰地は何も言わず、クワンを背中から片腕で抱き寄せながら、そしてキスをした。
二人の心臓の鼓動が雨音に吸い込まれていき、二人は互いの存在を確かめ合うようにしばらくそのままでいた。
豪雨と雷鳴の轟音は次第に遠雷へと変わり、二人の頭上の木の葉から雨の雫が静かに落ちてくる。長い口づけを交わした二人は、葉陰から青空が顔を覗かせ始めたのを見上げ、声を出して笑った。雫で濡れたクワンの顔を見て泰地は、
「何を泣いてるんだよ、さぁ、起き上がって‥‥‥」
クワンの手を握り直しぐいと引き上げ斜面を登った。
「泣いてなんかないわよ、それに、全然ロマンチックじゃない!」
彼女は口を尖らせ、泥まみれの手を泰地の頬で拭いて笑った。
「そういうことなの、泰三爺ちゃん‥‥‥」
泰地は、鉄橋を渡り終え、徐々に速度を上げて走っていく列車を眺め独り言のように呟いた。
「さぁ、牧場に戻ろう、サンティさんが心配してるはずだ」
「そうね、来た道を戻りましょう、近道はもうぬかるんで危険だわ」
二人は馬に跨り、昨日通ったスイカ畑が見渡せる丘の上に出ると、まるで橋のように綺麗な虹が弧を描いていた。
「虹だね‥‥‥」
「ほんと、綺麗‥‥‥」
二人は無言のまま、馬上で手を取り合ってその神秘的な光景に暫し見とれていた……
心の地図と約束の地
クワンと泰地は、自然豊かな冒険の中で恋の始まりを実感し、短くも長い休日を終え、大都会バンコクの忙しい生活に戻っていった。泰三はクワンとの出会いによって、タイでの日々の生活に新しい刺激をもたらした。クワンも以前にもまして、仕事に明け暮れる毎日だったが、泰三との絆を深めながら、心の自由を感じる日々を送っていた。
週末にはバンコク都内の洒落たカフェや、流行のレストランでのデートを楽しみ、ショッピングモールでの買い物など、都会生活を二人で満喫した。しかし、都会での忙しい仕事の毎日や、街の喧騒や人混みに疲れを感じるようになっていった。
「どう?仕事は順調?」とクワンはいつもの抹茶ラテを啜りながら訊いた。
「うん、まぁ、忙しいけどそれなりに‥‥‥キミの方は?」
「こちらもプロジェクトが山積みで毎日資料ばかり作ってるわ…‥‥ほんと疲れるわ」
二人はよく、昼休みに職場の近くにあるカフェで、忙しい仕事の悩みやストレスをお互いに話し癒し合っていた。しかし、クワンは田舎の自然の中で泰地と過ごした、楽しかった日々が頭から離れず、そして病状が芳しくない母親の心配もあり、いつも会話の最後には、
「ねぇ、今度いつ乗馬に行く?この週末はどう?」とクワンの方から誘いがすることが多くなった。
あの一件以来、週末は極力時間を取って、一人で田舎の実家の母親を訪ねることにしていた。もちろん、泰地も誘い、一緒に乗馬を楽しむことも、その目的の一つでもあったが、近頃の泰地の方は週末でさえも出勤して、溜まった仕事をこなす日が多くなっていた。
クワンは伝統的なタイ文化を大切にしており、家族との絆や伝統行事を大事にしていた。実家の母親を定期健診に連れて行ったり、親戚の祝い事や友人の結婚式には必ずと言っていいほど帰省していた。
現代の日本社会は核家族化が定着し両親と離れて住み、親類縁者の祝い事などには積極的に参加しなくなってきたが、タイでは今でも家族や親類、友人との絆を重んじる習慣が今でも残っている。
週末を母親と過ごそうとするクワンに誘われるのが、最近の泰地には少し億劫に感じることもあった。休みの日は、日ごろの仕事の疲れを癒し、クワンと二人の時間にしたかった泰地は、彼女とのライフスタイルの価値観の違いを感じるようになった。
ある週末の前に、クワンが母親の定期健診の日に合わせ実家に帰るため、泰地を乗馬に行こうと誘ったが、彼が仕事で行けないと言ったことで少し口論が起きた。
「泰地、家族との時間は大切なのよ。どうしていつも仕事を優先するの?」クワンが不満を漏らした。
「僕も君と君の家族も大切だけど、今のプロジェクトは大切な仕事なんだ、休むわけにはいかない、ごめん……」
泰地が疲れた声で答えた。
泰地は異国での任務への責任感と、多忙な仕事のプレッシャーに疲れを感じ始めていた。
家族やプライベートよりも仕事を優先しがちな、日本人の、個人より集団の利益を重視し、自己犠牲を厭わない旧態依然とした文化は、時に海外の人からは異質なものとして見られることもあり、ここタイにおいても日本人の仕事に対する考え方は、あまり歓迎されてはいなかった。しかし、そうした日本人の勤勉さや仕事に対する責任感については、タイ人からは畏敬の念を抱かれているのは確かだ。
泰地自身もタイ人と働くことによって、日本人の働き方に違和感をもつようになっていた。
仕事仲間の日本人同士が集まり日本語を話し、日本料理を食べ、日本語のテレビやニュースを見る。週末は仕事の付き合いとしてゴルフに行くのがほとんどで、せっかくの海外生活の機会だというのに、日本にいるのと同じ環境でしか生きられない日本人たちに半ば辟易していた。
逆に泰地はタイ語を学び、タイ人の仕事仲間と積極的にタイ語でコミュニケーションを取るのが楽しくて、そしてタイ料理を好んだ。周りの日本人スタッフからは、「佐藤はタイにはまった、タイ人化してるよな…」などと揶揄われたが、泰地はまったく意に介せず、週末はゴルフよりクワンと過ごし、大好きな乗馬を楽しむことで日々のタイ生活を満喫していた。
そんな泰地にも本国政府からの指示や指令については抗う事もできず、週末を犠牲にしてでも勤めに服することに矛盾を感じるようになってきた。
「また仕事なの?」 クワンは不満げに声を荒げた。
その翌週くらいは泰地も時間を取って、クワンとの自然の中での二人だけの時間を楽しもうと考えていたが、またしても急な仕事の用件で行けなくなったことがあった。次第に二人の間には、些細なことからも摩擦が生じるようになっていった。
「急ぎの仕事の案件が入ったんだ。仕方がないんだ、本当にごめん‥‥‥」
泰地は言い訳がましく謝るしかなかった。
「ほんと、いつも仕事、仕事って、私と一緒に過ごすより仕事が最優先なのね?」
クワンも少しいじけて言い返すが、クワン自身、泰地と出会うまでは仕事に没頭する毎日で、実家の母のことよりも仕事を優先して都会での生活を送ってきた過去がある。実際、今も平日は休む暇もないほど仕事の量が増えたが、せめて週末だけでも仕事と都会を離れ、泰地と二人で自然の中でのんびりと身体を癒したいと思っていた。
そんな中、泰地は本国からの異動の知らせを受け取っていた。彼にとっては昇進のチャンスとなる、欧州の国際医療機関での医療研究チームの一員として選ばれ、長期の出張となることが決まった。これは彼のキャリアにとって重要な機会であったが、泰地自身、嬉しく思う反面、ようやく慣れてきたタイでの生活と、それ以上にクワンと離れて暮らすことになるのが一抹の不安だった。
「クワン、君に話があるんだ。僕、欧州に長期出張することになったんだ‥‥‥」
泰地は、クワンと束の間の時間を過ごす、冷房がよく効いたカフェでアイスコーヒーを一口飲み干して、ぽつりと言った。クワンは泰地の眼を見つめながら、抹茶ラテを持つ手が微かに震えた。
「これは僕のキャリアにとって大きなチャンスなんだ」
泰地は慎重に言葉を選び続けた。
「え?欧州に?どれくらいの期間なの?」
クワンは驚いた表情で聞き返した。
「少なくとも一年は向こうにいることになる‥‥‥」
泰地は答えた。
「え、一年も?…それって、私たちの関係はどうなるの?」クワンは不安そうに尋ねた。
「クワン、一年なんてあっという間さ、それに頻繁に連絡を取り合えばどうってことないさ‥‥‥」
泰地は彼女を励ますように、そして自分さえ納得させるような言い方をしたが、クワンは無言のまま俯いていた。
そして、このミッションがやがて非情な使命となることを二人は知る由もなかった。
数週間後、泰地がタイを離れる日がやってきた。クワンは泰地と空港の出発ロビーで、搭乗前の一時を外国人で賑わう日本食レストランで過ごしていた。
「ついに出発ね‥‥‥淋しくなるわ」と泰地の手を握って小さい声で言った。
「すぐに戻ってくるさ、着いたらメールするから…‥‥」
泰地は力の無い声で言い、クワンの柔らかい白い手を握り返した。
「じゃぁ、一日一回はお互いの顔を見て話すことにしましょ、いいわね?これは命令よ!」
クワンはニコリと敬礼をする仕草をした。
「承知いたしました!」と泰地もゆっくりと敬礼をし、二人は声を出して笑った。
出発ゲートの前で泰地はクワンをしっかりと抱きしめ、彼女の細く長い髪に軽くキスをした。
「愛してる…待ってるわ」とクワンが潤んだ目で囁いた。
泰地も「僕も君を愛してる、必ず帰ってくるよ‥‥‥」
そう応えてクワンの手を握り、もう一度短いキスをしてゲートへ歩き出した。彼の後ろ姿が消えていくまで、彼女はずっとその場に立ち尽くしていた。
数週間が過ぎ、泰地からの連絡が途絶え始めた。時差もあって、二人の会話はぎこちなくなり、SNSのメッセージさえも短いもので、文字の会話にさえならない日々が続いた。クワンは孤独と不安に苛まれたが、次第に泰地との距離が遠くなり、心が重く感じるようになった。
「どうしてこんなに遠く感じるのかしら…」
一人残ったオフィスの机に肘をつき独り言のように呟いた。ちょうど帰り支度をしていた同僚のトーイが心配そうに声をかけてきた。
「クワン、大丈夫?最近元気がないみたいだけど……」
クワンは泰地に対する心のモヤモヤを打ち明けた。
「泰地のことが心配なの。遠くにいるし、忙しそうで連絡もあまり取れないから…」
トーイはいつもの剽軽な笑顔を見せて、
「だったら行っちゃいなさいよ、泰地のいるところへ!有給休暇はまだあるんでしょ?」と肩を叩いて励ました。
クワンはその言葉にハッとし、すぐに短いメッセージを泰地に送った。
「会いたい…だから会いに行くね」
その夜、彼女は泰地からの返事を待ちながら眠りについたが、朝が来ても返事はなかった。
その頃、泰地は日本政府を代表する医療救援チームの一員として、欧州での任務をスタートさせたが、ある日、本部から域内の紛争地域への派遣を命じられた。彼にとってこの任務は彼の医療従事者としてのキャリアにおいて、大きなチャンスとなる一方で命の危険を伴うことは容易に想像できた。
泰地は悩んだ末、クワンに知らせることを決意した。
「連絡が遅れてごめん、僕は大丈夫だよ、それとね…」
泰地は続けて打とうとしたメッセージを消した。
クワンが心配するのが怖くて、敢えてこの危険な任務のことは伝えたくはなかった。
泰地が派遣された紛争地域は、世界的な国際紛争に発展しており、連日のように爆撃が繰り返され、緊張感が張り詰めた危険な場所だった。彼と救援チームは昼夜を問わず、砲弾や銃撃で負傷者し救助された地域の一般市民の治療に追われていた。ただ、泰地の救援チームは戦闘地区の前線からは遠く離れていた為、戦禍に巻き込まれることはないと思われていた。
しかし、次から次へと大人から幼い子供、そして前線で重傷を負った兵士が運ばれてくる。汗と血が入り混じった市街地の病院の中で、泰地は医師としての責任感と、命の危険に晒される恐怖との狭間で必死に奮闘していた。
泰地が派遣されて数日後のある日、紛争国間に停戦協定が結ばれ救援活動が一段落し、泰地は負傷者たちの身元確認や病状のリストを作成し終えて、ふと息をついた瞬間、遠くから地響きのような轟音が聞こえた。
次の瞬間、激しい振動と共に大地が揺れ、警報が鳴り響いた。
「爆撃だ!みんな床に伏せろ!」
医療チームの指揮官の叫び声が響くと同時に、周囲の人々はパニックに陥った。病院の前の建物に爆弾が落とされたのだ。続いて音速の戦闘機が轟音と共に過ぎ去った後に、病院の建物の天井が大きな音と建てて、雪崩のように崩れ落ちてきた。突然の爆撃でその場にいた医師や看護師、ベッドにいる負傷者たちも大パニックになった。崩れ落ちたコンクリートの瓦礫に足を挟まれた女性看護師に、泰地は急いで駆け寄った。
「大丈夫、すぐ助けるから!」
声を掛け必死に瓦礫を取り除き始めた。
その時、第二波の爆撃が至近距離で炸裂した。
凄まじい爆風が襲いかかり、泰地の体はまるで映画のスローモーションのように宙を舞った。床に叩きつけられた彼は、体中に鋭い衝撃と激痛を感じた。耳鳴りが止まず、視界はぼやけ、周囲の音は遠のいていく。血が流れる感覚と共に、彼の意識は次第に薄れていった。
倒れた込んだ泰地の脳裏に、突然、クワンの笑顔が浮かんだ。彼女の笑顔、彼女の声、彼女の温もり…それが彼の意識を支えていた。
「クワン…君に会いたい…」
周囲は瓦礫に埋もれた人のうめき声と暗闇が包んでいた。
泰地は朦朧とする意識の中で夢を見ていた。
炎が上がる壊れた建物の前の道を、戦争当時の日本の軍服を着た兵士の隊列が行進してくるのが見えた。銃を肩に構え、日の丸の国旗を翳しながら、“ざっ、ざっ、ざっ”という靴音が泰地の前を通り過ぎていく。そのうちの一人が足を止めて、泰地に歩み寄り襟元をつかんで叫んだ。
「貴様!貴様は生きろ!生きて愛する人の元へ戻るんだ!」
その顔は紛れもない泰地の祖父の泰三のものだった。凛々しい軍服の袖には帝国陸軍の赤十字の腕章が巻かれている。
「お爺ちゃん?泰三お爺ちゃん?あなたですか?!」
泰地は埃で痛む目で身を起こし、しっかりと泰三の顔を見つめ、震えた声で訊ねた。
「上等、上等!愛する人を悲しませるな!」
そう言って泰三は泰地に微笑みかけ、隊列に駆け戻り立ち去って行った。泰地は咄嗟に泰三の後を追おうとして立ち上がろうとしたが、脚に負った傷の痛みで立ち上がれない。
もがき苦しむ泰三の眼の前に現れたのは、立ち込める炎と煙の中に立つ一頭の栗毛の馬だった。
頭上から聞きなれた優しい声が聞こえて来た。泰地は塵にまみれた顔を上げ、
「ど、どうしてここに?」
強い日差しに遮られ顔はよく見えないが、クワンは馬上で愛らしい白い歯を見せて、天使のような微笑で手を差し伸べている。泰地は痛みを堪えてグイっと腕を伸ばし、クワンの手を握り返した。
「さぁ、しっかり掴まって!」
その声に支えられるように、泰地は彼女の手を取ると深い闇の中へと沈んでいった。
気が付くと泰地は医療本部の病院のベッドの上にいた。
泰地はうっすらと眼を開き、窓の外の遠い景色をぼんやりと眺めていた。国連と政府間を通じて停戦協定が成立したが、紛争の爪痕があらゆる場所に残され、崩れた建物の残骸が積み重なり、瓦礫の山が街を覆い尽くしている。
泰地らの医療チームがいた市街地の病院は、砂埃と燃え尽きた車両が突っ込んで無残な瓦礫と化していた。遠くでまだ戦闘機のエンジン音が空を切り裂き静寂を破る。その音に怯え、負傷者たちは病院の中で低く呻き声をあげていた。
左手に温かい誰かの手に触れているような気がして、泰地はゆっくりと寝返りをうった。
「あれ、クワン、なんでここにいるの?」
「会いに来るって言ったでしょ!」
クワンは荒い息を吐いてむくれるように言い、握った泰地の手をぎゅっと力を入れた。
「いてて、これ、夢じゃないんだ、本当に来てくれたんだ!」
泰地はクワンからのメッセージを思い出した。連夜の激務で返事をするのをうっかり忘れていたのだ。クワンは泰地が負傷したという知らせを聞いた時点で、既に紛争地域へ向かう飛行機のチケットを運よく手に入れていた。
「私が行かなくちゃ、あなたを一人にはできないわ、大切な人だから…」
クワンは泰地の手を自分の頬にあて、泰地の手のぬくもり感じていた。
泰地は言葉が出なくて、愛おしいクワンの顔をただずっと見つめ続けた。
「ありがとうクワン、そしてお爺ちゃん、ありがとう‥‥‥」
時を超えて繋がる愛の絆
ある日、キッチンでコーヒーを淹れながら、クワンが提案した。
「泰地、もう一度あの場所に戻ってみない?あの時みたいに自然の中で、二人だけの時間を過ごしたいの…」
泰地は紛争地域での医療活動で負傷したのち、任務を解かれ特別に養生のための休暇を与えられ、バンコクの自宅に戻っていた。
ソファに浅く座りながら、ぼんやり携帯を見つめていた泰地は少し考えた後、ゆっくり頷いた。
「クワン、日本に行ってみない? 僕の故郷‥‥‥ニッポン!」
クワンは少し驚いたように肩を上げた。泰地へ運んできたマグカップからコーヒーがこぼれそうになった。彼女は泰地の静養中、仕事帰りや休日の日に泰地の部屋へ来て、いろいろと世話をしていたのだ。
「に、日本?」
「うん、日本。行ったことある?」
泰地はクワンからカップを両手で受け取り、彼女の手の甲にキスをした。
「いいね、日本。あなたの国、日本を見てみたいわ」
そう言ってクワンもソファに腰を下ろし、泰地のコンドミニアムの20階の部屋から、排気ガスで霞む都会のビルの森を眺めた。
「ホンモノの雪がみたい、お餅も食べたい!」
いたずらな少女のような可愛らしい笑窪を見せてクワンは泰地の頬にまたキスをした。
「そうと決まれば善は急げ、かな‥‥‥」
機内の窓から日本の紅葉に色づいた、美しい山脈が見えてきた。窓に額をくっつけて眼下の美しい景色を見ながら、クワンは泰地に教えてもらった日本語で「キーレイ!」と何度も言った。それを聞いていた泰地がクワンの腕を突いた。
「何よ?何が可笑しいの?」
「だって、“キーレイ”はタイ語では“汚い”っていう意味だろ?君の発音がタイ語っぽくて思わず笑ったんだよ、ごめん、正しい発音は“きれい”、きーれい、と伸ばしちゃだめだよ」
飲み物を持って来てくれたタイ人のCAもクスっと笑って、
「Enjoy Japan!日本をお楽しみください」と言って去っていった。
空港に降り立った二人は、ターンテーブルの前でスーツケースが出てくるのを待っていた。クワンがしきりに「寒い、寒い」というので、泰地はリュックの中からパーカーを取り出しクワンに着せてやった。
「寒いわ、日本の空港ってどうしてこんなにクーラーを利かせてるのかしら?」
彼女は真顔で言ったので泰地はまたクスクスと笑いだした。
「あのなぁ、ここは日本で今は冬だよ、クーラーなんかつけてないよ、タイとは気温差が30度以上あるから、体調崩さないように気を付けてくれよ」
泰地は、いつも気丈に振舞うクワンが、意外にとぼけたことを言ったのを改めて可愛らしいと思った。
到着ロビーに出ると、泰地の父の泰男が手を上げて出迎えた。
クワンが両手を併せて、泰男に向かってタイ式の挨拶を、両膝を斜めに折り曲げて深々と挨拶をした。
「サワッディ・カ!ハジメマシテ!」
泰男はクワンのタイ式の年配者に向けてする、尊敬の意味のある挨拶の仕方に思わず焦ってしまい、何かの動画で覚えたのだろうか、両手を目の下あたりで併せて日本式にお辞儀をした。
「あぁ、ハロー!えっとなんだっけ、ああ、サワッディ・カップ!ウェルカム・トゥ・ジャパン!」
泰男は精一杯の挨拶をしてみせた。
「お父さん、久しぶり!元気そうだね、その挨拶の仕方、どこで覚えたの?結構決まってるよ!」
泰地は数年ぶりに会う父と派手に握手をしてから、お互いに肩を抱きあった。父は咄嗟に身体を離し、
「おい、もう傷は治ったのか?心配したぞ」と泰地の身体を揺すった。
「だいぶん良くなったよ、思ったより早くね‥‥‥」
泰地はクワンの看病のおかげだと言いたくなるところだったが、クワンにウィンクをして、さっとスーツケースを掴み父の車へと歩き始めた。
久しぶりに会う父と実家へ向かう車の中で、これまでのタイと紛争地域での出来事や、クワンとの出会いのことなど、空港から1時間ほどの距離にある実家に着くまで、お互いの現状報告で花が咲いた。
泰地が幼い頃を過ごした故郷の風景もすっかり変わってしまい、かつては賑わっていた商店街も今でもシャッター街となり、道行く人もまばらで淋しく見えた。しかし、当時よく父に連れられて上った丘や、魚釣りをした川の景色は今も同じで、泰地は何処か安堵感を覚えた。
車窓からは白い雪を頂に抱いた荘厳な富士の姿が見えていたが、クワンは温かい車内の暖房のせいか、後部座席ですやすやと眠っていた。
父、泰男はハンドルを握りながら左手で、胸のポケットから一枚の写真を取り出して、
「おい、これ」と言って差し出した。
「え、この人、泰三爺ちゃんだよね?」
泰地はおもむろに父から差し出された写真を見て、そう言うと泰男は少し驚いて声を上げた。
「よく覚えてるな、そうだ、お前が生まれる前に亡くなった泰三爺さんだ。お前がタイ人の恋人を日本に連れてくるなんて、泰三爺さんが生きてたらさぞびっくりするだろうなぁ‥‥‥」
泰男は大きな声で笑ったが、泰地は真顔になって父に言った。
「父さん、この写真の泰三爺さん、僕の夢に出てきたんだよ、紛争地域で大怪我を負って、確かにこの写真の人だった、やっぱり泰三爺ちゃんだったんだ……」
「ほほぉ、夢に出てきたとなぁ、面白そうな話だな、少し聞かせてくれないか?」
泰地は、薄れゆく意識の中で、軍服を着た日本の兵隊たちの行進が現れて、その中の一人から励まされたということを父に話した。その夢の中で見た兵士の顔が、写真の祖父の顔と同じだったのだ。
「爺さんはなぁ、お前の婆さんと結婚する前に戦争でタイに出征していたんだよ、時々お酒を飲んで、酔っては鼻歌を歌いながら、
『マリー、マリー、マリーは元気にしてるかなぁ』と独り言のように呟いてたよ。
もちろん、お婆さんがいないところでな、ははは。爺さんの心の中の辛い思い出だろうが、多くは語らず墓場まで持って行ったよ‥‥‥」
写真の中の泰三は、軍服姿で口を真一文字に結んで眉間に皺を寄せ、背筋をまっすぐに伸ばし「フジ」に跨り、その横には白い歯を覗かせて微笑むマリーが「サクラ」に跨って、タイのお寺の前で写っている写真だった。
ふいにクワンのすすり泣く声がしたので振り向くと、いつの間にか目を覚ました彼女が、泰地が持っている写真を後ろから見つめていた。
「馬に乗ったあなたのお爺さん、軍服姿がカッコいい、私のお婆さんも可愛い‥‥‥」
少し的外れなことを言ってしまったのか、クワンは鼻を鳴らしてグスっと笑った。車内に三人の笑いが響いた。そして父は少しスピードを落とし、泰男は父、泰三の生前を振り返るように語り始めた。
「泰三爺さんは、戦争から帰ってきてもタイのことを決して忘れていなかった。でも母さんには何一つ話さなかったんだ。何一つな‥‥‥。あの国の景色や、そこで出会った人々が、彼にとっては辛い思い出だけじゃなく、大切な記憶として残ってたんだろうな。マリーさんってのは、爺さんが心に抱いていた特別な人だったのかもしれないな‥‥‥」
父、泰男は泰三が亡くなる少し前に病床で二人きりになった時に、泰三がぼそぼそと話し出したのを聞いたことがある。父に語ったのか、独り言のように話す泰三はその時以来、一度もタイのことを話すことはなかった。
泰地は、祖父の記憶が、自分の中にも何かの形で受け継がれているような気がして、感慨深い思いに包まれた。
泰男は左手で泰地の太ももをポンポンと叩きながら、少し茶化すように、
「お前たちも明日、この写真みたいに馬に乗って写真を撮ってくるんだろう?」
泰地はクワンの手を取って、お互いに目を見合わせ静かに微笑んだ。
翌朝、泰地とクワンは明け方、まだ暗いうちに準備を整え、富士の裾野にある瀟洒な乗馬クラブへと向かった。
泰地が小さい頃は、まだ乗馬クラブというほどの洒落たものではなく、父の幼馴染がオーナーで、小さな厩舎に馬を数頭飼っていて、父に連れられてよくポニーに乗せてもらって遊んだのを覚えている。今では10頭以上の馬がおり、木曽馬などの国産馬に加え、サラブレッド、アラブなどの大きくて見栄えのある馬が揃っていて、都会からも乗馬レッスンに来るなど、地元では有名な乗馬クラブに変貌していた。
深夜から降っていた雪は止んだが、道の路肩にはまだ白い雪が積もっていた。泰地は父に借りた車を運転し、クワンと夜明け前の薄暗い田舎道を走った。
クラブに着いて車を降りるとお互いの吐く息が白く、クワンは楽しそうに、
「ほら、見て!息が白いわ!」と口を大きく開けてはぁはぁと息を吐いて燥いでいる。
泰地も久しぶりに冬の日本に帰国したためか、日本の懐かしい冬に少し感動して、クワンと一緒になって白い息を追いかけた。クラブの馬たちも鼻を鳴らし白い息を吐き、泰地たちを待っていた。幼い頃に会っただけの、雪焼けに白い髭が似合うオーナーは渡辺と名乗った。
「朝日が昇るまではもう少しだから、まずはゆっくり体を温めていけばいいよ」
渡辺はそう言って、熱いコーヒーを淹れながら待二人を出迎えた。
冬の冷たい空気の中で、大きめのマグカップを両手で包み込み、クワンがまた白い息を吐きながら言った。
「温かいコーヒーって意外と美味しいね」
タイのような暑い国では、余程クーラーをガンガン利かせた部屋にいない限り、温かいコーヒーというのはあまり飲むことがないクワンは少し感動した。
クラブの裏手には、朝日を待つかのように富士山の影がほのかに見え始めていた。
「さあ、そろそろ馬に乗りましょう、日の出が近い‥‥‥」
渡辺がそう言って厩舎へ案内してくれると、二頭の馬が顔を覗かせ二人を待っていた。
「今日は絶景が待ってるよ」と泰地が微笑みかけると、彼女も「うん、楽しみだね」と嬉しそうに頷いた。
二人は渡辺の先導で馬に乗り、山の麓に広がる樹海の雪道をゆっくりと常歩で進み、やがて山の頂が赤く染まり、日の出と共に鮮やかな富士山が見えてきた。
少し開けた湖の畔で馬を止め、クワンは泰地の隣に馬を並べながら、湖の後方に聳える富士山と、静かな水面に映った富士山が映り交互に見ながら、
「こんな美しい光景、素敵!…本当に幸せだわ!」と息を吞むような美しさに両手を上げて叫んだ。
富士山の雪景色を背景に、渡辺が二人の写真を数枚撮りながら、
「ここが最高の撮影スポットだよ、“インスタ映え”ってやつかな」と自慢げに言って二人の写真を撮って見せた。
「ああ、素敵、この写真、私たちの一生の宝物ね!」とクワンは興奮した口調で言った。
泰地は頷いて、
「そうだね、あの時の二人の写真のように……」
樹海の中の静かな薄暗い小道を、三拍子リズミカルな蹄の音を木々にこだまさせながら、二人の馬は駈歩で走り抜けて行く。朝の空気が顔に突き刺さるように冷たいが、それがなんとも気持ちいい。
クワンは周囲の森の野鳥の声を聴きながら大きく息を吸った。
「ああ、気持ちがいいわ、タイにもこんな季節があってもいいのにね‥‥‥」
厚手の皮手袋を脱いで、桃色に上気した頬に両手を当てた。クワンは日本の四季の美しさを旅行雑誌で見たことがあったので、日本の冬景色に憧れていた。
「ははは、それはないな、タイには雪が降らないし‥‥‥」
泰地はそう言って、道脇の枝に積もった雪を取って小さく丸め、クワンに投げつけ笑った。
その光景を二人の後ろで笑って見ていた渡辺が提案してきた。
「この丘の上の展望台に行って”雪合戦”でもするか?そこまで駈歩だ!」
渡辺は馬を先頭に出し、“さぁ!”と馬を軽く蹴って駈けだした。
二人は彼に続き小高い丘の上の展望台まで駈歩を続けた。
展望台からの景色は絶景だった。真っ白な雪で覆われた広場を馬の足跡だけを残しゆっくりと歩いて行く。眼下には樹海が広がり、富士山と透き通った空の青さを湖面に映している。久しぶりに見る絶景に泰地も思わず息を呑んだ。いち早く馬を降りたクワンが、真っ先に地上に積もった雪を集め、小さくボールのように固め泰地へ向かって投げた。
「さっきのお返しよ!ははは、面白い!」
泰地も幼い頃を思い出し、本気を出して雪を丸めクワンと二人の写真を撮っていた渡辺に投げつけた。泰地はクワンをここへ連れてきたことに喜びを感じながら、彼女の髪に掛かった雪を手で払って頬に軽くキスをした。
「ありがとう、泰地‥‥‥」
陽が昇り、冬の朝のまったりとした陽光を肌に感じながら、ゆっくりと丘を降りて行く。暫く行くと馬の歩みが止まった。
ふと前方の雪の小径に何かが動くのが見えた。息を飲んで目を凝らすと、二人の前に二頭の野生のシカが現れ、木陰から漏れる光がシカの背に降り注ぎ、その姿はまるでおとぎ話の中のような神秘的な光景だった。
「…もしかして、泰三爺さんとマリーさんが挨拶に来てくれたのかもしれないね‥‥‥」
泰地が息をひそめて囁くと、その言葉にクワンも同じ思いで頷いた。二頭のシカはしばらく二人をじっと見つめ、何かを伝えるかのように一度だけ首を振り、雪の上に残る足跡を静かに残して森の奥へと消えて行った…
遠い日の未来(エピローグ)
こうしてクワンは、泰地と共に日本での数日間の充実した旅を終えタイへ戻った。
それからというもの、週末には泰地とクワンは二人で実家の母の元を訪ね、餅づくりを手伝ったり、馬に乗りに行ったりと、都会と田舎での生活を交互に楽しむようになった。ある日、クワンが提案した。
「ねぇ泰地、母の実家で餅つきをやってみない?」
クワンは日本滞在中に、近所の人たちに交じって餅つき大会に参加した。出来立ての餅を焼いて、海苔を巻いて醤油をつけて食べた餅の美味しさが忘れられなかった。次の週末に行われる実家の村祭りの日に、近所の子供たちと一緒に餅つき大会をやろうと提案してきたのだ。
「餅つきかぁ‥‥‥いいなぁ!」
クワンの「餅つき大会」のアイデアに賛成した泰地は、すぐにバンコクに本部のある日本人会の友人に頼み、日本式の餅つきの用具一式とミニトラックを借りてクワンの実家へ向かった。
準備が整った祭の当日、二人は早朝から店先に大きな臼と杵を用意した。近所の人々も興味津々で手伝ってくれた。店の前の通りは色鮮やかな飾り付けが施され、広場にはコンサートや寸劇のステージが準備され、祭りの雰囲気をさらに盛り上げていった。
杵を振り下ろす泰地の姿に、集まった子供たちは目を輝かせ、「やらせて!」と次々に挑戦していく。クワンも手伝いながら子供たちに声をかけ、「こうやって、力を入れてね!」と励ましていた。泰地の「よいしょ!」という掛け声を真似て一緒に「よいしょ!よいしょ!」と声を上げる子供たちに近所の人たちからも歓声が巻き起こった。
その光景を見ていたクワンの母が、泰地の肩に手を置きそっと話しかけた。
「泰地さん、私の母があなたのお爺さんから授かった餅を、今こうして子供たちが美味しそうに食べてくれいる、本当にありがとう。母も喜んでいることと思います‥‥‥」
店先には餅を焼いた香ばしい匂いが漂って、日本の伝統的な餅や、クワンの発案で作った、タイの色とりどりのフルーツを使った餡の新作の大福餅が並び、昼過ぎには地元のお客さんが増えて、気さくな地元の人々と笑い合う時間を泰地は楽しんだ。
鉄道の駅の方からC56蒸気機関車が、正面に日本とタイの国旗を掲げて、甲高い汽笛を鳴らしやってきた。夜になって、この祭りのメインイベントでもある、鉄橋が爆破されるシーンを模した寸劇や、貨物列車を引いた蒸気機関車が、ライトアップされた鉄橋を渡る出し物が始まった。地元の人や都会からの旅行者も楽しそうに盛り上がっている。
祭りの熱気が最高潮に達したころ、一人の杖を突いた老人が家族に支えられながら、ゆっくり近づいて来た。背は曲がり、杖をついているものの、鋭い眼差しが輝いている。その老人は泰地を見つめ、声を震わせながら呼びかけた。
「サトー、サトー!…戻って来たのか?」
泰地は驚いて振り向いた。
老人は泰地をじっと見つめながら、「サトー…戻って来たんだな」と静かに呟いた。
その老人は、かつて泰三と親しくしていたタイ人の元衛生兵で、当時、泰三と一緒にマリーの店へ餅を買いに通っていた仲だったのだ。
泰地はその話を聞き、感慨深い気持ちで老人に向き直り、敬礼をしながらにっこりと微笑み、
「はい、戻ってまいりました!佐藤であります!」と敬礼をして応えた。
老人は少し震える手で杖を振り上げ、懐かしそうに目を細め、「ヨートー!ヨートー!」としわがれた声で叫んだ。
祭りのクライマックスで花火が夜空を彩る中、永遠の約束を交わした。泰三とマリーが築いた絆を、今度は自分たちが受け継いでいくのだという誓いを込めて…
---それから5年
タイと日本を繋ぐ「笑顔の和菓子店」は、地元の人々だけでなく観光客にも愛される名店となっていた。泰地とクワンの作る大福餅は、「マリーの幸せの餅」として評判を呼び、二人の名前と物語が伝説のように語られている。店の奥には、小さな展示コーナーが設けられ、泰地の祖父、泰三とクワンの祖母、マリーの写真や、当時の餅を作る道具などが飾られていた。
ある日、幼い女の子が展示を眺めながら、母親に小さな声で尋ねる。
「この写真の人たちも、お餅を作っていたの?」
母親は微笑みながら答える。
「そうよ。この人たちは、違う国で生まれたけど心が通じ合ったんですって。そして、こうやって私たちにもお餅を残してくれたのよ。」
その会話を耳にした泰地とクワンは、静かに目を合わせて微笑む。
「私たちの大福は、ただの食べ物じゃなくて、きっと心を繋ぐものなんだね。」
クワンがそう呟くと、泰地はそっと彼女の手を握りながら頷く。
その夜、二人は店のテラスで満月を見上げていた。満月は、二人の祖先が戦争の時代に見ていたのと同じ美しい光を放っていた。泰地はクワンに語りかける。
「祖父たちが築いた絆は、僕たちに希望をくれた。これからもこの店を通じて、どんな人にもその希望を届けたい」
クワンは泰地の肩にもたれながら、静かに呟く。
「そして、いつか私たちの子供たちが、この光を受け継いでくれる日が来るわね」
展示コーナーの写真の中で、かつての二人も微笑んでいるように見えた。
こうして、大福餅に込められた「マリーの幸せの餅」は、二人の手から未来の世代へと受け継がれていった……
(完)
八十年目の恋~タイと日本の大福餅~
この物語を語るきっかけとなったのは、あるタイのニュース記事に掲載された、一人の日本軍の軍医とタイの菓子売りの女性の物語でした。戦火が広がる中で出会い、わずかな時間を共にしながらも深い絆で結ばれた二人の姿に、筆者は心を奪われたのでした。異なる国と文化を背負った二人が、日本の伝統和菓子の『大福餅』というささやかなつながりを通じて、お互いに愛と希望を見いだしたその話は、遠い昔のから現在に繋がる奇跡のように思えたのです。
日本の教科書では教わらない、多くの愛や友情が戦争という無情の波にのみ込まれていったことでしょう。それでも人々の心にはその温かな記憶が息づき、それが次の世代に受け継がれていることを知り、筆者は大きな感動を覚えました。
この物語では、そんな二人の出会いと絆を元に、フィクションとしてのファンタジーの要素を交えながら、現代へとつながる物語を紡ぎました。彼らが夢見た未来が、どれほどの困難を越えてでも叶えられたなら――そんな願いを込めて。
私たちは、時に日常の中で他人とのつながりの尊さを忘れがちです。しかし、たとえ異なる国に生まれたとしても、心が通い合う瞬間がある。その尊さを、この物語を通じて少しでも感じ取っていただけたら幸いです。
最後まで読んでくださった皆さまへ、深く感謝を申し上げます。そして、この物語が、あなたの人生に小さな甘い奇跡をもたらしてくれることを心から願っています。