『石橋財団コレクション×毛利悠子―ピュシスについて』
この目で見ることが叶わない神秘的な存在によって作られているという認識から、現象それ自体を成り立たせている仕組みがあるという知的な理解へと至る道を切り拓いた。『ピュシス』という感覚が哲学史上に持つこの重要な意味は多分に世界に対する興味と好奇心に満ちていて、思考する喜びに溢れていたと筆者は想像する。身体で感知できる事象を博物的に並べ、未だ精緻とはいえない合理を一所懸命に動かし、この世の真相に迫ろうとするのは人が行える最高の冒険の一つだと思うから。
現在、アーティゾン美術館で開催中のジャム・セッション『石橋財団コレクション×毛利悠子―ピュシスについて』が白眉なのは、知るという行為に宿る冒険的な熱を展示会場のあちこちで生み出す点にある。
毛利悠子(敬称略)のインスタレーションはどれもが奇妙である。ひと目見て何をする物なのかが分からない。しばらくその場で鑑賞して、起き得る事象を確認しても、今度は「何のために?」という素直な疑問は浮かぶ。この問いに対する答えはすぐに得られない。というか、そんなものがどうでもよくなるぐらいに目の前で起きるへんてこな現象を楽しめてしまう。どのインスタレーション作品でもこんな有り様なのだが、事態はそれだけに収まらない。しばらくすると各インスタレーションごとに緩やかな繋がりがあるのを誰もが発見してしまうからだ。
ここがこうなって、そうするとあそこがこうなって、とその仕組みを追っていく時に覚える感覚は本展のタイトルにもある『ピュシス』の探求に似るものは間違いない。音や光、あるいは暗闇。磁力に振動といった自然現象が機械的に生まれ、設置された音源と共に音を奏でる。有意味と無意味の狭間に在る世界。規則的に見えた各インスタレーションの動作が妙に間延びしたり、急に止まったりするランダムさを窺わせ始めると展示会場内の小宇宙は混迷を極めていく。把握できないその全容は、丸ごとそのまま会場全体を俯瞰する気持ち良さに直結していくから不思議だ。打楽器としての仕組みを丸裸にされ、分割されたような複数のディスプレイに映し出された波打ち際の様子に呼応するように自動演奏を続けるピアノを前にして聴く短いメロディ、そこから振り返って目に入るクロード・モネの絵画、あるいはパウル・クレーの『数学的なヴィジョン』といったコレクション作品が総合的に纏まる瞬間と、そこにあった空間認識が本展におけるハイライトとなった。
きっと、世界を識るという行為に終わりはない。
私たち人間が脳を含めた身体を通じてしか世界を知り得ないのだとすれば、科学的知見の全ては「人間」という偏見に満ちたものでしかない。そう考え得るのを究極として、世界はその真相を無に帰すかもしれない。けれどそこからまた遡っていく事象ないし現象に覚えるものも多いはず。なぜなら「人が生きられる真実は一つじゃないから」。この一文を何の雑味もなく口にすることができる、その時に見える景色を思ってジャム・セッション『石橋財団コレクション×毛利悠子―ピュシスについて』をお勧めしたい。今年11月にアーティゾン美術館の隣に竣工された新たなアート拠点、TODA BUILDINGも面白い作品展示が並んでいるので、興味がある方はこちらにも是非、足を運んで欲しい。
『石橋財団コレクション×毛利悠子―ピュシスについて』