「メルヘン」
一
私は今、蔵を眺めている。両岸に理路整然と組まれた蔵の中央を一条の川が流れている。城下町を貫く川の果ては海でもなく、滝でもなく、かといって田畑等の土に辿り着く訳でもない。此の川は総じて神社の池に落ち着くのである。地形を想像する必要は無い、無理に繋ぐ事の適わぬ事象は多いもの、力づくで近づけようとするならば五色の綾糸は忽ちに五体砕けて春の夢よりも軽いその身を塵の仲間に数えねばならなぬ悍ましい凌辱を働くと同義である。手毬糸は分らぬことを分らぬと言ってそのままにしておける丘の雑木林がお気に入りのようで、その丘は今 当に私が蔵を眺めるのに座っている場所であった。
丘は城下町のルールを受け付けぬ。最も城よりこの丘の方が随分昔に在ったので、人間達が後から作ったルールを門前払いして担当の役人達はほうぼうの体で逃げ帰って来た事件は城下町ではすっかり知れ渡っている。丘を何と言われようが構わない。此処に人が入って来なければ良い。人に要る食料も水も此処に来なくても手に入る、充分な量だ。
自然に在る場所は言わずもがなだが、神社の境内も人が鎮座し生活する為の場所ではない。此の国の自然が北方や砂漠のように圧倒的な力量差で人の生きる場所すら抑え込むようにしないのは、その方が人間は自然に干渉する事は無いだろうと私の御先祖様がお考えになったから。人の営みを調和出来る程度の力で接する方が人が躍起になって開拓しようと思いづらいだろうと取り決められたから。聡明な御思考だ、人と離れる為に人に優しくするなんて。私達は長くそう在り続け不変の態度を継続していたけれど、反対に人間は流動し続ける生物で、私達が他国のように残酷な被害を残さないと気づき油断したのだろう。此の国の自然は人類にとって過ごし易い丁度良いぬるま湯だと。
哀しいかな。人と自然、よくある二項対立は幾度も議論されて来たのに答えは出ぬまま此の様だ。知らずとも良い事を知りたいと求め理解出来ないままで良い事を理解したいと求める、明らかにしなくては気が済まない性分は、きっと人間に与えられた何かの罰であろう。
あゝ此の名状し難き感情の為に私は蔵を眺めている。
二
「佐吉、とッととしねェか。」
「はい、若旦那様。」
丁稚の少年佐吉の齢は十四、早朝から寝起きの髪のほつれも欠伸の呼気もぶら下がる眼脂も見せない整えられた顔貌の眦涼しく眉には凛と気の籠もり唇は横一文字にいつも真剣を表す此の町内では中々に珍しい美少年、手脚はいつもきびきびと働き鶏よりも早く起きては黒猫の笑う瞳が山の向うに沈むまでまめに立ち働く律儀な性分、その為に奉公先の大旦那夫妻は佐吉を可愛がることこの上無し。
此処は線香を商う店であり、大旦那が最初店を構えた時、その当時はまだ今のように立派な店構えでなく、侘しいあばら家の住居の表で茣蓙の上に並べて売ったのだが、その際初めてのお客さんが代価と共に一輪菫の花を、土も虫も付いていない清らかな紫水晶の如きをくださった。その菫の花を妻と毎日丁寧に手入れして世話を欠かさずにいると不思議なや、次の日からお客は大入り線香を作る手が旭にも月にも忙しなく輝く職人の手は齢の為にもう作業は出来ぬとなった後も帳簿を付けることは出来ると言って大層元気なご隠居である。此処まで道を違えず歩む事が叶ったも霊験あらたかなる菫の花一輪のお蔭と、看板に記すは「菫屋」の二文字、飾りの無い性分が反って粋で快い。
と、大旦那は見事な人徳者なるが善き人の子が必ずしも善き人に生れると言う道理は無く、佐吉を店頭でこれ見よがしにいびるのは実の息子の若旦那、年齢三十三を過ぎたる者で若い娘の後ろ姿ばかりを追い掛け鼻をひくつかせる色欲魔、大金を落す客にはニコニコ、線香一本をおつかいに来た女の児には素見しなンざ止めてくれィと愛想も何もあったものではないのだから、巷じゃ当然バカ息子だのどら息子だの本当に血が繋がっているのかしらんと悪口のひそひそ声は鳴り止まず。
自分が一代で築いた財を息子の代で呆気無くも潰しては、それも世の移ろいなどの人に抗えぬ理由からならまだ耐えられるが我子の不徳の所為で退転となっては御先祖に申し訳も立たぬと苦肉の策、後継者とは内緒にして一人丁稚を新たに雇ったのが、この佐吉だったと言う訳である。
仕事や他人の感情の方面の勘は全く以て不能であるのに此の若旦那、名前は宮男と言うのだが、宮男は自分を蔑ろにする行為に関してだけは恐ろしく勘が働いた。父親が自らを頼りとせず他所の者に信を置き、店を継がせる腹積りではないのかと、佐吉を一目見た瞬間嗅ぎとったのである。不満があるなら両親に問えば良いものを、宮男にはも一つ難儀な癖があった、不満や苛立ちを顕にせず胸中に溜め込んでおくのである。何か具合が悪いのかと問うても別にとぶすくれ、不満な事でもあるのかと気遣うても別にとぶすくれた物の言い様、鬱々と抱え込んだ苛立ちは哀れな年下の佐吉への言動となって当てられて、また暫くすると変に機嫌好くなりその間は丁稚をいじめる事はせぬがまた暫くするとあっという間に御立腹。両親が不憫な佐吉をかわいがる度佐吉は手酷く扱われた。最も酷いのは佐吉が床に伏した時、いくら愛された者でも病には勝てぬ、此処へ来てから佐吉は幾度か熱を出して医者に掛かったことがある。それは決まって宮男から陰険な舌打ちや溜め息をくらわされた時で、真面目に働く未だ青年ならざる男の子には堪え難い悲しみと苦しさは身体に悲鳴を上げさせた。原因は自分であるにも関わらずまた宮男は舌打ち暴言溜め息を患者に唾と共に浴びせまくる。しかも其等の仕打ちは必ず両親の知らぬ場所で実行され、佐吉は若旦那を悪く言えば大旦那と奥方が非常に悲しまれるだろうと恩人の親心を思い如何しても宮男が自らにする陰湿な態度を暴露するのを出来ないで日々を過ごしていた。
この菫屋の陰惨な家庭状況を、無表情に眺めている者が居た。
三
城下町がすっかり寝静まった頃、月の合図で一人往来を歩く銀灰色の浴衣地に水浅葱と朱鷺色の薄墨ぼかした花の模様を点々と滲み咲かせた上に月白の淡い椿と桜を籠めたる帯を品好く二重お太鼓ですっきり締めたアンバランスをこれ見よがしに示すのでは無く微かな含み笑いで暗緑の大きな布を頭からふわりと打掛け気貴く冷然とした者は誰。
片手には燈灯のような物を下げているがよく見るとそれは柘榴目覚ましい紫陽花を錦の糸で縢って吊した物、人が俗に火の玉と呼び怖気をふるう威が遠目からもぞくぞくと背中を圧する。
もう片方には何やら風呂敷で包んだ物を抱えているが、その包みの色は生臙脂濃ゆく艶やか且つなめらかなれど、その布よりぴちゃぴちゃと雫漏るるは気の所為だろうか。
四
翌日城下町中が慌てていた。号外号外と売子は叫びその声に人々は我も我もと手を伸ばして紙面を求め、読んだ者は恐ろしいだの怖いだのと明日は我身かと肩を震わせて囁き合う。大衆の騒ぎも騒ぎだが、彼等よりもっとガタガタ震えていたのは菫屋の若旦那であった。
宮男は今日も日課の佐吉いじめをしようと井戸の傍で煙草を呑気にふかしていた。毎朝佐吉が井戸水を汲む仕事を第一にすると知っていた為であり、わざとその桶に虫の死骸を置いて、お前は虫の死んでいた桶で朝の水を汲む心算か世話になっている店へ対して何たる不忠義、やい一発仕置きとして殴ってやろうと計画していたのだが、普段は東雲明ける前にもう起きて来る筈の佐吉が、旭昇れど鶏鳴けども起きて来ない。家の井戸は此処しか無い筈、俺を危ぶみ他の井戸へ回る事は有り得ない。さてはあの野郎寝坊だな。これは良い理由を見つけたと鬼の首でも獲ったかの大威張り、ずかずかと階段を登り何事かと訝しむ他の使用人達には目もくれず丁稚の部屋の襖を乱雑にドカリと開けた。
やい、寝坊助めと詰ろうとした口は閉じるも忘れてあんぐりと一音も出ずに臭い呼気を溜めるばかり。普段偉そうに半眼で悟りを開いた風をする細く締まりの無い両眼は今此の時くわッと見開かれ眦には嫌な汗が額をぬるりと伝うその感触にぞわりと一気に肌が泡立つ。力の抜けた身体を支うる腰は初手から持たずぐにゃりと下男が安っぽい女﨟の嬌態を真似するような情けない骨は床にペタンと宮男を横座りに倒れさせた。目の前の有り様に指さす力も持てずただわなわなと小刻みに震うばかり。果して此奴一体何を見たのだろう。
決して粗末とは言えない並の丁稚部屋と比ぶれば品の好い整い揃うた佐吉の為のお部屋には、名も知らぬ美女が一人夫を待ちわびるかの如き清廉な居住いできちんと正座していたのである。冬の曙を溶かした瞳には玲瓏たる光が籠もり宮男をにっこりと視線逸らさずじっと見つめており、その唇は今盛りの牡丹をそのまゝ食して自然に色づいたかとくらり錯覚するよなあてやかさを美しく月の氷の弓と弦、何者をもその天の弧の前では頭を垂れる供物へと化すであろう。だがよく見よその綾羅にも耐えざらむと思う白い右手に抱えられているのは何であるか、それこそ宮男をすっかり縮こませた物、赤い布に包まれた生首だ。
ぽと ぽと
畳みも降る血を吸い切れず血溜まりを成しその水は少しずつ大きくなる。その箱庭の如きお池に人差し指を含ませて薄桃の舌でちろりと舐めた後その指で布をはらりと外し、一言
「知っている方ですか。」
と問うた言葉の源を見よ、その首は憎くて堪らん佐吉少年の首ではないか!
「ああ!」
ようやく悲鳴と共に息の出来た宮男をそのまゝに美女は褄も乱さずすッと立ち上がり楽しそうに頷きながら更に言う。
「今度は貴方。」
それだけ残して嫣然と窓の方へ振りかえり山の嶺に冷然と輝く陽を見ながらトン、と軽く外へ向かって床を蹴った。落ちた、と思い這いつくばって窓の下を覗いてみるも、髪の毛一本の影すら見えぬ。夢かと胸を撫でおろす呑気な瞳に映じたのは、紛うことない赤の水辺。
城下町は菫屋に人殺しが出たとの大騒ぎ。あんなに人の好い大旦那の目の黒いうちに斯様な凶事が起こるなど、とうとう天は菫屋に情けを掛け終えるお心かと噂話、それが為に客は遠のき得意先は不気味がって減っていく、可愛がっていた子を無惨にも殺された大旦那夫婦は心を病みて枕上がらず譫言にも佐吉佐吉と血の涙を流すばかり。親が倒れたその脇で一人息子は布団を頭から被ってガタガクと震うのみ、今度は貴方、今度は貴方のあの優しく恐ろしい声が頭から離れないのだ、無理もない。彼に佐吉の事件を探る程の侠気を求めてはならない。それはその筋の専門家に任すのが正解だ。
五
さて、此処に登場するのは一人の探偵、姓名を清影莟と言う月の冴かな光彩に照らされてほんのりと灯る炎のゆらめきの景色を籠めた名はその面にも映されて紅顔の美青年眼はエメラルドの神秘に輝き澄んだ小川の滴る水にも劣らぬ光を放つ。その目に見つめられ慎ましい淡い紅雪の唇に微笑まれたら如何なる深窓の乙女でも恋をせずにはいられない、井戸端の奥方達も夫を忘れて見惚れてしまう程の花の顔を備えていながら性格は仁義に厚く曲がった事を好まぬ生来の正義感の強さ、弱者や虐げられる者達の声を上げない涙に耳聡く駈けつけて彼等に振り掛る小石・礫の盾になる曇り無き真直ぐな魂。これが為に少々の喧嘩っ早い所はお見逃しを請う。
日本一の探偵と誉の高い莟の事務所へ、宮男はバタバタと駈けつけた。城下内で莟を褒め讃えん者は無いに等しいにも関わらず当の本人はその評判・業績を鼻にかける事一片も無く、見苦しきほどに恐怖と焦りで汗塗れな菫屋さん所の若旦那を見ても常人ならば見下すところを、応接室のソファに座らせるとよく冷えた清水を一杯コップに注いで手ずから一口試みさせた。これに少しは正気づいたか宮男は喉を素直に鳴らし恵みの水を飲み終えると、はあ、と一息大きくついた。
「ご加減は?」
莟の声には咎める色も面倒だとする色も混じってはいない。
「き、清影先生。あの、佐吉の事件のことは知っておりますか。」
「えゝ聞いておりますよ、今朝から町中大変な騒ぎですから、耳には自然と入って来ます。ですがご安心なさると良い、この町の警察は実に優秀ですので、直に犯人は見つかるでしょう。その時佐吉君の遺体を何處にやったかも判明します、ご葬儀ならばその後に…」
「違う、違うだあ先生、次は俺が狙われる番だ。犯人の奴、俺に面と向って言ったのですよ、今度は貴方と。だから、だからな、こ、今度は俺が、あ、あ、佐吉のように、生首もぎ取られて、れて…うわあ。」
「何?それは真ですか?」
「う、う、嘘じゃねえ、決して、決して偽りなんざ申しましねえ。自分の命奪われる嘘をこいてどうするですか。」
殺害予告があったとなると看過してはおられない、しかもターゲットは今自分の目の前で涙ながらに怯える男ではないか。
「分りました。宮男さん、しばらく私のもとで暮らしなさい。当面菫屋さんには戻らない方が良いでしょう。私からお店に手紙を書きますから事情は理解してくださることと思います。」
「と、とんでも無い有難い思し召しだ。ですが、せ、先生。親父とお袋が寝込んでるんだ。使用人だけで大丈夫でしょうか。」
幾ら我身可愛い愚かな息子でも、どうやら親を想う心はあるらしい。
「大丈夫。貴方の家は当分警察が守ってくれるでしょう。恐らく医師も手配してくれる筈です、手紙にも警察への言伝を書く心算ですから一旦お家のことはご安心なさい。今は貴方の身を守らなくては、親御さんにもっと心労を掛けてしまう羽目になりますよ、さあシャンとして、背筋を伸ばして腹に力を込めなさい、そして、事の詳細を私に話して下さいな。一体世間でもあんまり情報が錯綜していて嘘を知るにも難しい。一つ当事者の方からお話を伺いたいと考えていた折、宮男さんがいらっしゃった、これは或種の導きでしょう。」
仕事机の隣に置いた紅茶ポットからティーカップへと温かな湯気を薫らすストレートを一杯注ぐ。幾分か落ち着きを取戻したらしいが未だ動悸静まらん宮男の前にコトリと置けば、彼はわし掴みにぐいぐいと飲んで、飲んで、一滴まで。その喉が確かに上下するのを探偵は物も言わずじっと見ていた。
六
丘の話を知っていますか。
寝息を立てる宮男を布団に休ませた後、菫屋への文を書き終えた後、応接間に戻り本棚から一冊本を取り出した。題名は黒く焼き潰されていてもう思い出せないけれど、扉も本文も焦げ痕で塗り潰されているけれど、まだ本は生きていた。だってほら、忘れないでと声がする。
それも縋る必死をあからさまな声ではなく、近所の野良猫に挨拶をする気まぐれ風味の音調で、忘れないでねと。
頁を捲ると室内にぷんとやゝ黴のにおいが羽で飛ぶ。ぷん、ぷん、ぷん、と気楽な夏の真似をして。パタンと本を閉じたなら、元通り茶葉の香りが戻って来る。秋の、春の喜びを祝う白布が細く裂いておぉい、おぉいと左右に振られる。
冬は、冬はどうだったかな。雨と雪が一緒に降っていると言っても誰も信じちゃくれまいよ。
七
宮男は馴染みの無い洋館に両肩をまだ強張らせていたから、莟はからからと笑い乍ら昨日は昼前から今朝迄ぐうすか鼾をかいていましたよと言えば彼は殊勝にも申し訳無さそうな顔をした。此処は当面貴方の家だ、外出は頻繁にはさせてあげられないけれど、その代り建物の中であれば好きに歩き回って良いし触れたり見たりしてはならないものは一つも無い、食事も好きに摂って構わない、先ず何よりも気を楽に、命を狙われる道理など持たぬとふんぞり返っているくらいが丁度宜しいのですよと探偵の仕事を数多くこなして来た経験が年齢を押し退け説得する。その力にこくりと頷いた宮男は菫屋で振るまっていた過ごすことにした。ためらいがあったは初めだけでものの数分もすればすっかりどら息子は復活した。いとも嬉し気な美青年の笑顔を見よ。
「宮男さん、元気を出せたようですね、何よりです。其処で、一つお願いしたい事があるのですが、貴方に出来ますか?」
「おう、何だい先生。言ってみな。」
「私の助手になって下さい。」
「おう、容易い………え?」
勢いで返事した若旦那の諸手を握り、緑水晶はしてやったり、悪戯の華麗な笑み深く続ける。
「助手の募集は以前からしているのですが、私は事務仕事だけでなく私と一緒に地を駈け水に飛込み炎熱から脱出し悪漢を殴り弱きの為に傷痕付けるを厭わない、そんな屈強な助手が一人欲しかったのです!宮男さん、貴方は私の助手のふさわしいお人だ。是非私の助手となって下さい、ね。」
いつの間にやら宮男の指には朱が塗られいつの間にやら契約書が手の下に差し込まれていて、言葉の最後にぐいと指を下に引かれたと思えばもう探偵莟の助手となる旨の文面の最後の認め印の欄に自分の指が押されているではないか。
「あっ⁉」
若き探偵、してやったり。宮男の驚声に満面の笑み。
「さあ、宮男さん、佐吉殺しの犯人を捕まえる迄、たっぷり働いてもらいますからね。先ずは事件の詳細をまとめましょうか。」
バサリ、バサリ、ドサドサドサ。昨日と今日の新聞をありたけ宮男の前に積んでこう言った。
「情報をまとめ整理するのも助手の立派な勤めです。」
花が咲いた、と思ったの
好きだった雨垂れの音が怖いと感じてしまった時
陽のような月が雲を羽ばたきで吹き払って
白縹に曙をほんのり染めた月の姿が
今はもう還らぬ旋律で呼ぶのが聞えたの
直視しても目を焼かない光は
この眼に花のように見えたのです
薔薇の花弁で形作られた紫陽花の花をよく見れば
銀河の糸で刺繍された鱗粉が見える
一つ一つが天体の欠片を縫っている
その羽ばたきは一点の汚れも無く
唄で呼ぶのです 愛しい名前を
先生、と呼ばれて目を開けた莟は直ぐに上体をソファから起こし事件の内容は上手くまとめられましたかと助手に尋ねる物言いは至極丁寧である、町の者が聞けば歯噛みする程に。今迄書類仕事なんぞされたことが無いのでは?とからかう探偵に若旦那ぐうの音も出ず。いつもならば生意気言うなと喧嘩腰で一言二言あるだろうが自分の命が狙われている状態を“いつも”とは言えぬ、この探偵に見放されれば自分は生首になってしまうのだから、腹にぐっと力を込めて文句を呑み込んだ。文句を言いたくても言えない者の心持ちがこれだけで理解出来たとは到底思えないが、先ずは一歩前進かと莟は内心溜め息を吐く。
城下町で唯一探偵の事務所を構える者が菫屋の若旦那の悪評を知らない訳が無い、むしろ何か揚げ足を取って一発殴ってやりたいものだと機会を伺っていた莟が、何故宮男を助けることにしたのであろう?正義感が強く如何な大つけ者であれ泣いて縋る者を見殺しにはしておけなかった為であろうか、間違っていないのだが
その理由だけではない。もう一つ別な訳があってそれら二つの理由の為に莟は諾したのであるが、そのもう一方がどうやら佐吉の事件に繋がっているようで。
莟には、見えているのだ。宮男のいつも気の抜けた締まらない肩に、長い髪の女性が腰を降ろしていることに。
「メルヘン」