斜陽差し込む喫茶店で

 カラランとドアを打つベルの音が店内に響いた。思わず、開いたドアのその方を振り向く。
「あの、クリームソーダの看板を見……。あ、すみません。やっぱり、失礼します」若い女は急に踵を返し、帰って行った。
 何が起こったかは、扉が開くと同時に皺の寄った女の眉間を見た時に、大体察した。
「マスター、悪かったね」私は今更とは思いつつも、手に持った煙草を灰皿に押し付けた。
「あなたのではなく、もう、ずっと昔から店に馴染んだ匂いです。せめてここでくらい、落ち着いてご一服ください」まだ若いマスターは穏やかな声でそう言った。
 せめてここくらい、か。見透かされているのだろうか。
 商店街にあるこの喫茶店に通うようになってから、随分長い。同じ商店街のスーパーに勤めていた私は、ここを利用することも多かった。定年を迎え、週三勤務となった今も、休日の散歩の度に寄っては、ここで日が暮れるまで時間を潰している。
 夫婦仲が悪いというわけではない。だが、急に休みが増えると、落ち着き所がない。家は妻の城だ。妻には妻の築き上げてきたリズムがある。口には出さずとも、お互い変に気を遣いあっていることは、明らかだった。
 だから散歩を装って、こうしてここに来てしまう。いつも奥のテーブル席に腰掛け、煙草をふかす。店内に流れる小粋なジャズに耳を傾けていると、漸く心が安らぐ気がした。
 今日はテーブル席が満席だったので、久しぶりのカウンター席だ。目の前では、マスターが豆をカラカラと挽いている。
 だが、ここだって随分と変わった。先代から店を引き継いだまだ若いマスターを見て、そう思った。
 見知った客も多いはずの店だった。ところが、ここ数年で見かけなくなった人が増えている。理由ははっきりしている。ただ、みんな歳を取った、それだけのことだ。仕事のない日までここにしがみついついるのは、自分くらいかもしれない。
 年季の入った家具たちも、裏までヤニでびっしりの観葉植物も、積み重ねてきた時間を感じさせる。時代は進んでいるのだ。俺も変わらなきゃ。それは痛いほどわかっている。
「珈琲のおかわり、お持ちしましょうか?」マスターがカウンターの中から声をかけてきた。
「ああ、よろしく頼むよ。なぁ、マスター、ここは改装とかしないのかい。リノベーションして、禁煙にでもしたら、もっと流行るんじゃないか」実際には願っていないことを、つい口にしてしまう。だが、それが事実だともわかっていた。先代の孫がマスターになってから、甘味のメニューが増えた。どれもこれも味、見目共に良く、若者にもウケがよさそうだった。店先に置いた手作りの看板も上々で、人目を引いている。
 この店でもそろそろ自分が老害となりつつあることを感じていた。だが、そんな私にマスターは言った。
「その予定はありません。馴染みの多い店です。あなたが大切に思うものを大事になさい、というのが、先代の教えですから」
 思わず鼻で笑ってしまう。
「俺のようなおっさん大事にしても、何にもなんねえよ」
 そう言うと、マスターは、はたと手を止め、私を見据えた。
「私はあなたがこの街に尽くしたことを忘れてはいません。私は、昔、今まさにあなたが座っている席で、いつも時間を過ごしていました。その時に聞こえてきた、あなたの語るこの商店街への思いは、間違いなく、私が生涯大切にしたいものの一つです」
 嫌なことを言う。そんな思いなんてもう流行らないと言うのに。昔、この店に来ては、同僚たちとこの街の未来について語り合ったものだった。
 私は、商店街の中にあるスーパーで働いていた。特に深い考えもなく、家からの通い易さで選んだ就職先だった。新人の頃は本当に頼りなかったと思う。それから、漸く店に貢献できるようになってきた丁度その頃、外資の入った大型スーパーが、全国あちこちに展開され始めた。この街も例に漏れず、商店街から一気に客が流れ出した。それゆえ、シャッターの開くことのない店も出てきた。
 私は悔しかった。負けたくなかった。
 そして、あの頃は、気持ちを同じくする上司や、同僚がそこにいた。—商店街を盛り上げるための祭りをしよう—そうして、我らのスーパーが中心となって、今尚続く、商店街の祭りを作り上げた。
 勿論楽なことではなかった。祭りの準備は勤務が終わってからしかできなかった。店長と徹夜で準備をして、明朝この喫茶店にモーニングを食べに来たこともあった。あの頃はみんな、残業、非番出勤が当たり前だったが、どうしても商店街を潰したくない、その思いに突き動かされていた。そうして、そんなことを、いつもここで語り合っていた。
 だが、そんな時代は終わった。
 今年の祭りは私の週休日だった。だから、いつもの気持ちで勝手に職場を覗きに行った。給料が欲しかったわけではない。だが、その時の周りの冷ややかな視線が忘れられない。労働は契約。それ以上のものではない。
 がむしゃらに働くことも、煙草片手に他者と語らうことも、一人思索に耽ることも、これまで己が誇ってきたものが、悪きものへと変わってゆく……。



「すみません。さっきは、少し見栄を張ってしまいました」暫くして、マスターが淹れたての珈琲を私の前に静かに差し出し、そして少し恥ずかしそうに言った。
「ここを変えないのは、あなたの為じゃない。私の為です。ここにだけ、私の居場所があるんです。だから、こんな未来のない喫茶店を継いだんです。あなたのような人が、この店から消えて困るのは、この私です。だから、どうぞここで、ご一服ください」
 それは、顧客へのリップサービスかと思われた。しかし、その穏やかなマスターの目にどこか痛切で、自嘲染みたところがあったことに、私は驚いた。
 そうしてゆっくりと、記憶の中にある点と点を繋いでいった。かつて少年だった彼は確かによくこの席にいた。夕方になるとほとんど必ず、そして夏休みなんかは朝から晩まで、大人しく座って、宿題をしたり、本や漫画を読んだりしていた。特別楽しそうな表情をしていたわけではない。先代と多く喋るわけでもない。ただ一人黙々と、そこでの時間を過ごしていた。あまりに、いつもそこにいるものだから、友だちと遊んだりはしないのだろうかと、不思議に思ったこともあった。
 その姿を思い出した時、ああ、きっとマスターにはマスターの人生があるのだ、と気がついた。
 私にとってこの喫茶店が大切であるのと同じで、マスターにとってもここが変わらずにあるということは大きな意味を持つのだろう。
 
「隙間……。」思わず呟く。
「え?」
「いや、この街の隙間に、俺の居場所はちゃんとあるんだなって」そう言うとマスターは、ふっと口元を緩ませた。
 目の前の珈琲に手を伸ばし、一口啜る。苦い珈琲がうまいと思った。

斜陽差し込む喫茶店で

斜陽差し込む喫茶店で

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-11-23

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