『アルフォンス・ミュシャ ふたつの世界』展
段落の訂正及び内容の一部を加筆修正しました(2024年11月23日現在)。
一
耳目を集めなければいけないポスター制作を行うにあたって、アルフォンス・ミュシャ(以下、単に「ミュシャ」と記す)が駆使したセンスの勘所は府中市美術館で展示されている植物のスケッチと図案を見比べるのがいい。
どちらも①ミュシャの『装飾資料集』又は②モーリス・ピヤール・ヴェルヌイユ及びジョルジュ・オリオールとの共著である『装飾の組み合わせ』に収録されているものを抜粋したものであるが、構造と形状の双方にわたって行った仔細な観察結果を描き写された「植物」がモチーフとして有する同一性を損なわないギリギリの縁まで装飾に使用可能な図形へと転換されているのを目の当たりにすることができる。画面を見栄えよくする記号として殺されることなく維持されたその「植物」性は、その終わりに咲かせる花弁から遡ればすべての意匠が有機的な繋がりを持ち出し、その命に囲まれた季節の女神を言祝ぐ。反対にかかる「植物」性を奪う形で画面を構成する情報群を追えば、その一枚は神の息吹で生まれ育った命をも使って唯一無二の美を生み出す、そんな人類の偉大なる営為を称える表現としてベル・エポックという時代に沿うものとなり、その賛辞をもって街行く人々の興味と関心を鷲掴みにする。見る側の認識の上を循環するような無垢と傲慢。文学的な喩えとして用いる表現の節度が守られたり、あるいは破られたりしてミュシャのポスターはその広告効果を余すところなく発揮する。
画面構成でいえば描くべき人物、植物、商品、額装という順番で上から何層にも重ねられたような奥行きを感じさせる空間の作り方を当然に称えるべきであるが、それ以上に驚異なのは、咲き乱れる様々な花を目一杯描き込んでも煩くならない情報整理の上手さだ。余白を活かし、画面を満たす。矛盾するようなこの二つの指針を見事に実現する才覚は、また一方で流れ落ちる髪や垂れ下がる衣装の一部を外枠にはみ出して描く遊び心をも駆使して絵の中にちょっとした解釈の余地を生み出し、市井の人々が抱く親しみ易さと職人的な語りで評価できるポイントを画面の内に取り込んでみせる。全くもって見事な一枚。何が描かれているかを誤魔化さず、受け止めの方に幅を持たせて見る者を楽しませる。画家でもあり、デザイナーとしても優れていたミュシャのことを詩人と評したくなる根拠の全てがそこに現れていた。
二
府中市美術館で開催中の『アルフォンス・ミュシャ ふたつの世界』展では、そんなミュシャの絵画表現も鑑賞できるが、率直にいって物足りない印象を筆者は受けた。肖像画は見応えがあったけれど、象徴主義として描かれた作品は人が内心で抱く漠然としたイメージや概念を仄めかして描くというイズムがかえって妙に鼻について感じられた。いわゆるポエムと揶揄されるのに似たものをそこに感じ取ってしまった。
勿論、かかる作品の価値は先行する絵画表現の歴史と対照して知れるものであるし、象徴主義による表現が今となってはやり尽くされた感があるという事実を差し引いてからじゃないと妥当な批判を行うことはできない。
けれどミュシャをミュシャたらしめるポスターといった商業的な作品と見比べると、筆者はどうしても彼の絵画表現を全面的に肯定することができない。象徴の擬人化といったポスターでも多用した手法を絵画にそのまま持ち込むのではやはり足りない。そこに何かある、という確信は画家が用意するものではなく、鑑賞者自身が絵の中から(ほとんど勝手に)創り出すものなのではないか。ある意味で作者のコントロールに収まらない余剰ないしは過剰な部分こそ、絵画を絵画たらしめる凄みなのではないか。そういう意味において筆者はミュシャの商業作品の方に絵画らしさを見出す。一挙に把持することが叶わない作り込まれた画面にこそ、ミュシャの内なる筆で踊って見えるから。
三
こういう気付きを得られるのも本展ならではの面白さであるのは間違いない。会期は12月1日まで。先週の時点でもかなり混んでいたので、行ける方は平日が無難。グッズも充実していて、気持ちよく散財できた。自信をもってお勧めできる展示会である。興味がある方は是非、会場へ足を運んで欲しい。
『アルフォンス・ミュシャ ふたつの世界』展