TL【雨蜜スピンオフ】月に落つ【feat.生天目】
【雨と無知と蜜と罰と】生天目スピンオフ。
1
どうしても柵(しがらみ)ばかりは平等ではない。何も知らずにいられたなら。何も悟らずに。
世に出れば、擦れていく。無邪気ではいられない。すでに声高に叫ばれている世間に蔓延った怨嗟は学校で指定されたテキストよりも或いは長い人生の中では学びがあるのではなかろうか。
職員室から、物を取りに教室へ戻った生天目(なばため)は、昼食中のその騒がしさに身を震わせた。賑々しい集団の中で特に喧(かまびす)しいのは久城(くじょう)嵐恋(あれん)。事情があって保護者は父母ではなく姉だった。
家庭環境が複雑なのだろう。そのために落ち着きがないのだ。人が高校生の半ばになるまでに知るべき感覚が育たなかった。それはある意味での衰えだ。彼は卒業しても、やってはいけないのだろう。どこかで世の揉み合い圧(へ)し合いに負け、フェードアウトしていく。
哀れな個体だ。彼の将来など、見るに堪えない。
『生天目せんせ! 玉子焼き食べる? おれの姉ちゃんが作った!』
必要以上の大声に、生天目は一斉に視線を浴びた。クラスの担任で、周りの連中は教え子であるが、予期していないことには弱い。
生天目は連中を恐れた。黒板に張り付いて、笑い声を生ませる。
複雑な家庭環境に身を置いた、素行不良児になるだけの度量もない、愚かがために人懐こくあるしかなかった哀れな生徒。それが始めの印象だった。
そしてそれは変わることはないのだろうし、変わる機会もないものと思われた。贔屓をするほど教え子に思い入れはないが、どの生徒よりも相性が悪いように思えた。苦手だった。嫌味さえ感じられた。その無邪気さに。人懐こさに。誰もが自分を受け入れてくれるであろうという無意識的で無自覚な行動のひとつひとつに。
その純粋さ、明るさ、本人も無自覚・無意識のうちに他者を悩ませる。追い詰める。傷付ける。
久城嵐恋という生徒が嫌いだった。憎かった。
『なんで姉ちゃんを苦しめるの?』
青白い顔をした無邪気な教え子が暗闇に立っている。蝋のような質感をして、いくらか浮腫んで見えた。
生天目は目を覚ました。握った手のなかで他人の指が動く。
「失敗、しちゃいましたね……」
薄暗い車内に、久城加霞の声は心地よく響く。人は原始的な楽器なのだ。
背中とシートのあいだに汗が籠もる。何種類か睡眠薬を試したが、どれも相性が悪かった。嫌な夢を見て、寝汗の気持ち悪さで目が覚める。
「まだ、その日ではなかったということですね」
薬の効果も切れた頃だろう。寝過ぎたのは薬のせいか、後部座席で焚いた七輪のせいか。
車を走らせる。月は輪郭を失っている。だが輝いている。
「何か、食べましょうか」
胃が軋んでいる。空腹なのか、将又(はたまた)、薬のせいか。食欲はなかったが、食べたくないわけでもなかった。
「まだ、生きようとしていますね、わたしたち」
コンビニエンスストアに車を停めた。おにぎりを2つずつと水を1本ずつ買って、車内で食らう。海苔の乾いた音は、真後ろの道を通ったバイクの爆音に掻き消される。
綺麗に成形された米の添加物の旨味。海苔の香り。一口で焼鮭に届く。
「生きるのって、素晴らしいですね」
隣で焼きたらこを落とすまいと首を傾げる久城加霞を見遣る。返事はない。彼女は焼きたらこを落とさないことに必死なのだ。共に死ぬと意見を合わせておきながら、些末なことに夢中になっている。
世の中はくだらないのだ。そしてさらにくだらないことに気を取られ、疲弊している。眼前の甘い汁一滴を求めて。求めていることすらも気付かずに。走らされている。いつの間にか靴を履いているのだ。穴だらけで草臥れ、靴底も剥がれかけた靴を。
「ただのデートに、なってしまいましたね」
「わたしは嬉しいです、生天目先生と夜のドライブできて……」
「昼間は夜遊びは感心しないなんて言っている側の人間なのに……」
「朝でも昼でもいいんですけれどね、生天目先生となら」
車内に沁み入る淑やかな話し方が、生天目は好きだった。聴き入ってしまうと内容は流れていく。
「月は、遠いな……」
生天目は呟いた。
「遠いから綺麗なんでしょう?」
加霞が言った。顔を見合わせる。いつか彼女に言ったことだ。
「近ければ気付かずにいたんでしょうね、きっと。げんきんですが」
「近くても遠くても、綺麗なものは綺麗です」
彼女の手に包まれた。片手に握飯、片手に他者の温もりがある。
「触れたら、守りたくなる」
加霞の視線に拾われる。目が逸らせない。
「ね?」
生天目は逃げたくなった。泣きたくなった。感情が渦巻く。不要な平穏である。恐れていた凪。終末を探して、身構えてしまう。
「でも月は、偉大ですよ」
◇
骨格、社会的地位、信念、出自。配られたカードのどれをとっても、勝てそうになかった。同じ女に情を寄せたとき、それはカードバトルになるのだ。能力の劣ったほうが負ける。淘汰される。それが自然なのだ。競争を宿命づけられたのが男という生き物ならば、オスとして負けた。敗者にも美学はある。這いつくばっても捨てられない矜持がある。自尊心はガラスの破片のようなものだ。すでに割れていて、処分にも困る。さらに砕くこともできるが、痛みを伴うこともある。
潔く退場する。それが美しさであった。儚げぶって、地に残り、朽ちて無残な様を見せる桜の花とは違う。
生天目は加霞の前から姿を消した。そもそも久城加霞とはどういう関係だったのであろうか。高校教師と、その元生徒の保護者代理。そして二点を繋ぐ元生徒というのはすでにこの世にいないのだ。手続きはすでに終えた。高校と関わる必要性がもうない。ゆえに久城加霞は高校教師と関わる必要がなく、また生天目も彼女と関わる理由がない。必然的な結末だ。一体何の不満があるのか。
視界に靄が映り込み、書いていた手紙からふと顔を上げると、正面の壁をハエトリグモが滑っていた。手は殺虫剤に伸びかけ、結局届く距離にはなかった。小さな益虫を目で追う。スイッチを押すよりも簡単に、指先一突きで殺せる命によって集中力が削がれる。
オスとして負けたのだ。そしてそれは生天目にとって幸福なことであった。情を寄せた女を幸せにする。その使命を捨てられる。重圧を。とても耐えられない。況(ま)してや他人を幸せにするなど。我が身のことで精一杯だった。
あの女性は、心身ともに強い男が守ればいい。
虚勢は疲れた。彼女といたときは消え失せていた疲労が、一気に圧(の)しかかる。その器量はなかった。あると勘違いした。
ハエトリグモは物陰へと去っていく。蜘蛛は嫌いだ。しかし殺す理由がない。彼等彼女等は刺しもせず、噛みもせず、群がらず、寄ってこない。
背後にあった義務感が目交(まなか)いでこちらを見ている。鏡と化して、向き合うことを求める。筆が止まる。軈(やが)て湧き出た言葉を文章に直すのも、文字を綴るのも面倒になった。関わりなど断つべきだ。便箋を丸めて捨てる。インクの無駄、紙の無駄、時間の無駄、労力の無駄、気力の無駄。考えればきりがなく、考えた結果、無駄ではないこともまた見つからなかった。
『なんで姉ちゃんを苦しめるの?』
白装束に、土気色の顔と、土留(どどめ)色の唇。一輪、オレンジ色のガーベラを携え、葬式で見たままの姿の教え子が立っている。合わせ鏡のような空間に見覚えがあった。久城家の玄関ホールだ。
「救えると思ったんだ」
教え子は目を伏せた。彼の表情のレパートリーにはそういうものもあったらしい。
「ひまわりには、なれないんだな」
太陽のようだと思ったが、所詮は太陽を追うだけの、地に生えた紛い物にしかなれないのだ。
『姉ちゃんが、悩んでるから。きっとおでのこと……』
「悩ませておいてあげろ。悩むのは当然だよ。お姉さんは、お前が大切だったんだから。これからも、な」
白装束の元教え子は、俯いて泣きはじめる。涙は忽(たちま)ち、彼等の立っている空間の足元を埋め、水位を上げていく。
『ツラいよ』
溺れ死んだ教え子の顎にまで水位が迫る。この者の姉は、その苦しみを知りたがっていた。彼女の知る必要のないことだ。
水位に呑まれていく。
『ツラいよ。ツラいよ、先生。助けて』
息ができない。全身が汗ばみ、重く、苦しい。
『どうして姉ちゃんに希望なんて持たせたの?』
身長差からしても、すでに水に沈んだはずの教え子が、目線の上にいる。敵意と害意に満ちた眼差し。彼の姉に会うまで、彼に抱いていた悪意を反射させたような。
「おれが絶望、できないからだよ……」
彼の姉との、ありもしない未来を思い描いてしまった。彼女の意思に反していた。また沿っていたかもしれない。怠惰であった。捨てることも、強くなることもしなかった。弱いオスには眩しすぎて、目が潰れてしまう。尻尾を巻いて逃げてきた。それでもまだ亡霊は目の前にいる。
◇
昼間の音楽室は空いていた。ピアノを弾く。誰かに聞かれることも忘れて。求められているのは完成品である。素人の不協和音は赦されない。演奏も、人も。
ふと、集中力が切れる。音を外す。人影を見た気がした。見間違いである。否、見間違いではなかった。出入口に生徒が立っている。夢に出てきた亡霊。故人。死者。強く瞬きを繰り返す。斑霧(むらぎり)愛嵐(あらん)。音楽に興味のあるような生徒ではない。特にクラシック音楽などは。
「どうしたんだ、斑霧」
飄々として佇んでいるように見えた。そして生天目に用があるかのような眼差しであった。しかし声をかけた途端にそのつらには後悔が浮かぶ。
「……いや、なんでも………」
「無理強いはしないが……ここに来たというのが最終結論なんじゃないのか」
それでもまだ躊躇する生徒の気持ちが分からないでもなかった。
「先生……」
「うん」
斑霧は模範的な生徒というには態度に軟派な感じがあったが、成績も素行も問題なく、学校生活や人間関係、家庭にもまた悩みはないようだった。彼本人の賑やかな性格がなければ、手が掛からないあまり忘れ去られ、手が掛からないために都合の良い生徒だと判じられてしまいそうだった。
「久城のお姉さん、今、どうしてる?」
ある程度のことは知っている。強者の男性と、幸せに暮らしているに違いない。幸せなはずだ。幸せにするはずなのだ。少なくとも、弱い男の傍にいるよりは恵まれた状況にあるはずだ。
「さぁ……でも、それがどうかしたのか」
斑霧は首を横に振る。
「斑霧。何か1人で悩んでいるのか。昼ごはんは? 食べたのか」
今度は首肯。
「ちゃんと寝られているんだろうな」
軽い首肯。
「言うか言うかまいか、いつから悩んでいる? 今日いきなり思いついたならまだ話さなくていい。3日以上考えあぐねているのなら、それはきっと言うべきことなのだと思う。事の成り行きのためではなく、お前の心のために」
「久城が死んだのは、オレのせいかも知れねんす……」
生天目は項垂れている教え子の後頭部を見下ろす。
「……場所を変えるか。進路指導室に来てくれ」
鍵盤を乾拭きし、マフラーのような布を被せ、蓋を降ろす。
「すんません」
「教師は、生徒に相談されるためにいるものだ。気にすることじゃない」
進路指導室には参考書の本棚と、ソファーにローテーブルがある。焦燥している様子の斑霧を座らせ、生天目は待った。話すか話さないか。彼の退路はまだ確保しておきたい。
「オレが、久城たちが事故ったところ、心霊スポットだって、久城に話したんす」
膝に置かれた拳が戦慄いているのを、生天目は窺い見ていた。
「心霊スポット?」
「生配信観るのが趣味で、心スポ巡りの配信を観てたら、あそこの公園で……その話、したんす。そしたら行きたいって……」
生天目は頭を抱えてしまった。教え子を1人喪ったことにばかり囚われていた。だがこの生徒は友人や先輩を複数人喪っている。
「やっぱり――……」
教師のその反応について、斑霧は衝撃を受けたようだ。虚空を凝らしていた目が愕然として生天目を射す。
「いや……続けてくれ」
生天目は握り締められすぎて白くなった拇(おやゆび)にまた目を戻した。彼は自身の資質を問うていた。思い悩む生徒の声もそっちのけであった。自分のことばかりである。事故によって亡くなった生徒は久城嵐恋だけではない。苦手な生徒で、その姉と深い関係を持ってしまった。私情が入り過ぎている。死してなお、依怙贔屓(えこひいき)が続いている。
「久城たちがマジで行くとは思ってなかったんす。事故の日に、初めて知って……オレ、ちゃんと久城のお姉さんに言うべきなんすかね? 久城のお姉さんだけじゃないけど、まずは……」
教師には向いていない。生徒のケアにも気が回らなかった自身の弱さに辟易した。責務も全うせず、女にうつつを抜かし、教え子に苦悩を抱かせてしまった。
「先生……?」
視界がわずかに翳り、我に返った。斑霧が前のめりになって、顔を覗き込む。
「あ………いいや。先生は………言うべきではないと思う。斑霧の所為じゃない。斑霧のその話を聞いた人間すべてがその場に行ったわけではないだろうし、斑霧が行けと脅したわけでもないんだろう? 我々に不都合な偶然が重なってしまった。痛ましいことにな」
「でもオレ、自分が赦せなくて……」
「人間は、選ばなかったほうの選択肢に甘い期待を抱く。その話をしなかったほうの未来を思い描いているんだろう。斑霧の所為じゃない。先生はそう思う。でもな、斑霧。実際に家族を喪った側の人間は、誰かに責任を求めたくなる。それは自分にかもしれないし、他人にかもしれない。それは人によるし、場合による。不安定な中にいるんだ。理由と原因を探して。自分の所為にするのは短絡的だが、あまりにもつらい。本当はそうでなくても、斑霧の所為にするかもしれない。そして斑霧を恨むかもしれない。人を恨んで生きるのは、疲れるんだ。真実を知るのが最善とは限らないし、真実はひとつでも解釈はひとつじゃない。でもな、斑霧。冷静でいられる立場から言えば、お前は悪くない」
大嘘であった。分かっていながら生天目はその立場を気取った。動揺しているのだ。けれど、久城嵐恋の姉とのことは秘しておくべきことなのだ。苦しい胸中を吐露した生徒に嘘を返している。そうでなければ、彼等を守る地位にしがみつけない。友人を一度に何人も喪った生徒に、個人的な感情を糊塗している。冷静なはずはない。正しさはおそらくそのなかにはないというのに。
「掘り返しちゃって、すんません。もっと早く言うことだったのかも知れないのに……」
「言うか、言わないか。言えるか、言えないか。お前に必要な期間だった。気にしなくていい。話してくれてありがとう。午後の授業は出られそうか? 無理はしなくていい。早退しても……」
斑霧は笑みを浮かべた。口角を吊り上げただけの笑顔は疲れている。
「大丈夫です……」
彼は久城嵐恋を亡くしたばかりの情緒不安定な姉の姿を目撃したどころか、誘拐されかけている。本人の自覚はなくとも、それなりの精神的な負荷はかかっているはずなのだ。
「そうか。気が変わったらすぐ言えよ。話してくれて、本当にありがとう。つらかったな。今日は帰ったらよく休め」
斑霧は頭を下げて退室していった。生天目はソファーの背凭れに身体を預ける。向いていない。手前の吐いた嘘と建前に慣れない。
『どうして姉ちゃんを苦しめるの?』
夢の中の亡霊を、視線の先に思い描いた。
『おれが弱いからだよ』
『どうして姉ちゃんを捨てたの?』
『捨てたんじゃない。身分不相応だったんだ』
目を閉じ、大きく息を吐く。教師なんぞ、辞めてしまったほうがいい。それこそ身分不相応である。清廉潔白な身ではなかった。嘘で塗り固め、仮面を被り対応する。それが社会性。悪いことではないはずだ。
『さようなら、久城。それからおやすみ。もう終わったんだ。安らかに眠ってくれ。お前のお姉さんは、蜂須賀(はちすか)さんと幸せになったんだ』
亡霊はとても柩のなかで眠っていた教え子とは思えない形相をしていた。
『それとも取り憑いてくれるのか。それでどうする? お姉さんを取り戻しに行って、それで? 彼女の幸せを奪うな』
鈍い痛みが頭のなかに谺(こだま)する。
◇
ふとした違和感のために振り返る。安積(あづみ)という女教師の身体を、教頭がすれ違い様に触ったような気がしたのだ。生天目は彼女の身体を見ていた。カットソーに下肢の曲線が浮き出たロングスカート。他意はなかった。教頭も平然としていた。謝りもしない。偶然手がぶつかったのか。それとも、その接触自体が見間違いであったのか。
疑念は意識せずとも、そこに注視してしまうものらしい。このようなことを何度か目の当たりにすると、とても些細な接触事故とは思えなくなった。セクシュアルハラスメントである。教頭にはそれが分からないのであろう。安積先生は対応の仕方が分からないのだ。それとも、双方の合意があるというのか。否、あったとて、職場ですることではない。
生天目には、たいへん不愉快であった。セクシュアルハラスメントを見せつけられている不快感か、強者が弱者を侮る様に対する怒りか、それは彼にも分からなかった。健康体ではあるが、心身ともに、弱いオスである。義憤に駆られたところで、抗う強さはない。何にでも怒り、声を上げる気質ではなかった。見て見ぬふりをして、保身に走る。生天目は自身をそう評し、また開き直り、正当化を図っていた。
だが不愉快であった。己の内側に入り込む雑念にとうとう耐えきれなくなった。教師という立場が資格を問うている。
生天目は職員室を出ていく安積先生の後を負った。一定の距離を保ち、声を掛けられる時機を探る。宛(さなが)らストーカーである。セクシュアルハラスメントを糾弾できる立場なあるのか。
安積先生はちょうどよく、人通りの少ない体育館1階のほうへ向かっていくところだった。体育で使うクラスや運動部の支度がなければ、そこは人気(ひとけ)がない。卓球場と武道場、筋トレルームがあるが、北向きで日当たりは悪かった。
生天目は体育教師でも、卓球部や剣道部などの顧問でもない安積先生がこの棟に何の用があるのか考えもしなかった。彼はどのように話しかけるか、切り出し方を決めることでいっぱいだった。
「安積せ――……」
やっと話しかけたとき、しかし生天目の呼びかけは別の声に掻き消される。
『安積先生』
まだ若い響きは生徒の声である。盗み聞きをするつもりはなかった。関心を寄せるか否かの自発的な判断が下されるよりも早かった。飛び交う単語に耳を疑う。繋ぎ合わせ、類推してしまう。
『次はいつ会えんの?』
『また連絡するから』
『できれば早く会いたい』
『親には友達のところに行くって言っとくし』
生天目はそこに自身の肉体が、自身という存在があることも忘れていた。速(すみ)やかな密談に聞き入ってしまった。様々な憶測を立てているうちに安積先生が戻ってきていた。気付きもせず、鉢合わせる。視線が搗(か)ち合う。言葉をいくら交わしても分かり合えない人もいる。価値観が違う人間など、数えれば際限がない。長く付き合ったとて、どうにもならない人間関係の課題ではあるまいか。ところが大して関わりのない安積先生と目が合ったとき、互いに言わんとしていることが分かってしまった。故に切り込むことができなかった。しかし用意していた文句は真っ白く塗られている。
「あ、あ、安積先生……あの、セ、セクハラされてるなら、きちんと対応されたほうが……」
口にした後もまだ狼狽えている。先に言うべきは、違う話題ではなかろうか。
「セクハラって、何のことですか」
彼女は毅然としていた。睨まれる。
「わ、私の見間違いでなければ、きょ、教頭に触られていませんでしたか。何かあるなら協力します……」
あれはセクシュアルハラスメントではなかったのだ! 徐々に確信を強め、生天目の語尾は弱々しくなった。
「気の所為です。そんなことを言いに来たんですか? わざわざ? ここまで追いかけてきたんです?」
「は、はあ………たいへん失礼しました………ですが、さ、さっきの生徒とは、どういう………?」
生天目はまだ惑乱していた。本当に訊ねるべきか、直前の吟味も忘れた。
安積先生の鋭い眼差しは、威嚇するライオンを思わせた。
「生天目先生に何か言われる筋合いはありませんよ。そりゃあ生天目先生はあくまで、生徒の"保護者"ですけど、それでも問題は問題ですよね」
何の話だか、恍(とぼ)けることもできたはずだ。しかし後ろめたさが関連性を隠そうともしない。語るに落ちる。否、自ら飛び降りたのだ。
「何故それを?」
「認めるんですね。この前、ご家族の方がいらっしゃいましたよ。久城くんのお兄さんを名乗る方が。精神的に参っているようでしたけどね。生天目先生と姉が、久城くんの事故に託(かこ)つけて、ふしだらな関係にあるってね。感謝してほしいくらいですよ、対応したのがワタシで。誰にも言いませんよ、こんなこと。言えるわけもない。そうでしょう?」
「生徒と付き合うのは、よくないです……」
「生天目先生には言われたくありません。セクハラの話も、これはワタシの問題で、生天目先生には関係ないですから。首を突っ込まないでください。生徒と付き合うのがダメだなんて分かってますよ。でも生天目先生はどうですか。生徒の保護者と付き合うのはいいんですか、"和巳(かずみ)先生"?」
嘲笑があった。肩をとんと叩かれ、安積先生とすれ違う。甘すぎない香りがした。期待したものとは別の匂いだ。臀部を触られていた身体に、別の人を重ねていた。そのような理由でしか、動けない。ろくな人間ではなかった。生天目は肌寒い廊下に立ち尽くしていた。
TL【雨蜜スピンオフ】月に落つ【feat.生天目】