TL【雨蜜スピンオフ】月に落つ【feat.生天目】

【雨と無知と蜜と罰と】生天目スピンオフ。

1

 どうしても柵(しがらみ)ばかりは平等ではない。何も知らずにいられたなら。何も悟らずに。


 世に出れば、擦れていく。無邪気ではいられない。すでに声高に叫ばれている世間に蔓延った怨嗟は学校で指定されたテキストよりも或いは長い人生の中では学びがあるのではなかろうか。
 職員室から、物を取りに教室へ戻った生天目(なばため)は、昼食中のその騒がしさに身を震わせた。賑々しい集団の中で特に喧(かまびす)しいのは久城(くじょう)嵐恋(あれん)。事情があって保護者は父母ではなく姉だった。
 家庭環境が複雑なのだろう。そのために落ち着きがないのだ。人が高校生の半ばになるまでに知るべき感覚が育たなかった。それはある意味での衰えだ。彼は卒業しても、やってはいけないのだろう。どこかで世の揉み合い圧(へ)し合いに負け、フェードアウトしていく。
 哀れな個体だ。彼の将来など、見るに堪えない。
『生天目せんせ! 玉子焼き食べる? おれの姉ちゃんが作った!』
 必要以上の大声に、生天目は一斉に視線を浴びた。クラスの担任で、周りの連中は教え子であるが、予期していないことには弱い。
 生天目は連中を恐れた。黒板に張り付いて、笑い声を生ませる。
 複雑な家庭環境に身を置いた、素行不良児になるだけの度量もない、愚かがために人懐こくあるしかなかった哀れな生徒。それが始めの印象だった。
 そしてそれは変わることはないのだろうし、変わる機会もないものと思われた。贔屓をするほど教え子に思い入れはないが、どの生徒よりも相性が悪いように思えた。苦手だった。嫌味さえ感じられた。その無邪気さに。人懐こさに。誰もが自分を受け入れてくれるであろうという無意識的で無自覚な行動のひとつひとつに。
 その純粋さ、明るさ、本人も無自覚・無意識のうちに他者を悩ませる。追い詰める。傷付ける。
 久城嵐恋という生徒が嫌いだった。憎かった。


『なんで姉ちゃんを苦しめるの?』
 青白い顔をした無邪気な教え子が暗闇に立っている。蝋のような質感をして、いくらか浮腫んで見えた。

 生天目は目を覚ました。握った手のなかで他人の指が動く。
「失敗、しちゃいましたね……」
 薄暗い車内に、久城加霞の声は心地よく響く。人は原始的な楽器なのだ。
 背中とシートのあいだに汗が籠もる。何種類か睡眠薬を試したが、どれも相性が悪かった。嫌な夢を見て、寝汗の気持ち悪さで目が覚める。
「まだ、その日ではなかったということですね」
 薬の効果も切れた頃だろう。寝過ぎたのは薬のせいか、後部座席で焚いた七輪のせいか。
 車を走らせる。月は輪郭を失っている。だが輝いている。
「何か、食べましょうか」
 胃が軋んでいる。空腹なのか、将又(はたまた)、薬のせいか。食欲はなかったが、食べたくないわけでもなかった。
「まだ、生きようとしていますね、わたしたち」
 コンビニエンスストアに車を停めた。おにぎりを2つずつと水を1本ずつ買って、車内で食らう。海苔の乾いた音は、真後ろの道を通ったバイクの爆音に掻き消される。
 綺麗に成形された米の添加物の旨味。海苔の香り。一口で焼鮭に届く。
「生きるのって、素晴らしいですね」
 隣で焼きたらこを落とすまいと首を傾げる久城加霞を見遣る。返事はない。彼女は焼きたらこを落とさないことに必死なのだ。共に死ぬと意見を合わせておきながら、些末なことに夢中になっている。
 世の中はくだらないのだ。そしてさらにくだらないことに気を取られ、疲弊している。眼前の甘い汁一滴を求めて。求めていることすらも気付かずに。走らされている。いつの間にか靴を履いているのだ。穴だらけで草臥れ、靴底も剥がれかけた靴を。
「ただのデートに、なってしまいましたね」
「わたしは嬉しいです、生天目先生と夜のドライブできて……」
「昼間は夜遊びは感心しないなんて言っている側の人間なのに……」
「朝でも昼でもいいんですけれどね、生天目先生となら」
 車内に沁み入る淑やかな話し方が、生天目は好きだった。聴き入ってしまうと内容は流れていく。
「月は、遠いな……」
 生天目は呟いた。
「遠いから綺麗なんでしょう?」
 加霞が言った。顔を見合わせる。いつか彼女に言ったことだ。
「近ければ気付かずにいたんでしょうね、きっと。げんきんですが」
「近くても遠くても、綺麗なものは綺麗です」
 彼女の手に包まれた。片手に握飯、片手に他者の温もりがある。
「触れたら、守りたくなる」
 加霞の視線に拾われる。目が逸らせない。
「ね?」
 生天目は逃げたくなった。泣きたくなった。感情が渦巻く。不要な平穏である。恐れていた凪。終末を探して、身構えてしまう。
「でも月は、偉大ですよ」



 骨格、社会的地位、信念、出自。配られたカードのどれをとっても、勝てそうになかった。同じ女に情を寄せたとき、それはカードバトルになるのだ。能力の劣ったほうが負ける。淘汰される。それが自然なのだ。競争を宿命づけられたのが男という生き物ならば、オスとして負けた。敗者にも美学はある。這いつくばっても捨てられない矜持がある。自尊心はガラスの破片のようなものだ。すでに割れていて、処分にも困る。さらに砕くこともできるが、痛みを伴うこともある。
 潔く退場する。それが美しさであった。儚げぶって、地に残り、朽ちて無残な様を見せる桜の花とは違う。
 生天目は加霞の前から姿を消した。そもそも久城加霞とはどういう関係だったのであろうか。高校教師と、その元生徒の保護者代理。そして二点を繋ぐ元生徒というのはすでにこの世にいないのだ。手続きはすでに終えた。高校と関わる必要性がもうない。ゆえに久城加霞は高校教師と関わる必要がなく、また生天目も彼女と関わる理由がない。必然的な結末だ。一体何の不満があるのか。
 視界に靄が映り込み、書いていた手紙からふと顔を上げると、正面の壁をハエトリグモが滑っていた。手は殺虫剤に伸びかけ、結局届く距離にはなかった。小さな益虫を目で追う。スイッチを押すよりも簡単に、指先一突きで殺せる命によって集中力が削がれる。
 オスとして負けたのだ。そしてそれは生天目にとって幸福なことであった。情を寄せた女を幸せにする。その使命を捨てられる。重圧を。とても耐えられない。況(ま)してや他人を幸せにするなど。我が身のことで精一杯だった。

 あの女性は、心身ともに強い男が守ればいい。

 虚勢は疲れた。彼女といたときは消え失せていた疲労が、一気に圧(の)しかかる。その器量はなかった。あると勘違いした。
 ハエトリグモは物陰へと去っていく。蜘蛛は嫌いだ。しかし殺す理由がない。彼等彼女等は刺しもせず、噛みもせず、群がらず、寄ってこない。
 背後にあった義務感が目交(まなか)いでこちらを見ている。鏡と化して、向き合うことを求める。筆が止まる。軈(やが)て湧き出た言葉を文章に直すのも、文字を綴るのも面倒になった。関わりなど断つべきだ。便箋を丸めて捨てる。インクの無駄、紙の無駄、時間の無駄、労力の無駄、気力の無駄。考えればきりがなく、考えた結果、無駄ではないこともまた見つからなかった。


『なんで姉ちゃんを苦しめるの?』
 白装束に、土気色の顔と、土留(どどめ)色の唇。一輪、オレンジ色のガーベラを携え、葬式で見たままの姿の教え子が立っている。合わせ鏡のような空間に見覚えがあった。久城家の玄関ホールだ。
「救えると思ったんだ」
 教え子は目を伏せた。彼の表情のレパートリーにはそういうものもあったらしい。
「ひまわりには、なれないんだな」
 太陽のようだと思ったが、所詮は太陽を追うだけの、地に生えた紛い物にしかなれないのだ。
『姉ちゃんが、悩んでるから。きっとおでのこと……』
「悩ませておいてあげろ。悩むのは当然だよ。お姉さんは、お前が大切だったんだから。これからも、な」
 白装束の元教え子は、俯いて泣きはじめる。涙は忽(たちま)ち、彼等の立っている空間の足元を埋め、水位を上げていく。
『ツラいよ』
 溺れ死んだ教え子の顎にまで水位が迫る。この者の姉は、その苦しみを知りたがっていた。彼女の知る必要のないことだ。
 水位に呑まれていく。
『ツラいよ。ツラいよ、先生。助けて』
 息ができない。全身が汗ばみ、重く、苦しい。
『どうして姉ちゃんに希望なんて持たせたの?』
 身長差からしても、すでに水に沈んだはずの教え子が、目線の上にいる。敵意と害意に満ちた眼差し。彼の姉に会うまで、彼に抱いていた悪意を反射させたような。
「おれが絶望、できないからだよ……」
 彼の姉との、ありもしない未来を思い描いてしまった。彼女の意思に反していた。また沿っていたかもしれない。怠惰であった。捨てることも、強くなることもしなかった。弱いオスには眩しすぎて、目が潰れてしまう。尻尾を巻いて逃げてきた。それでもまだ亡霊は目の前にいる。



 昼間の音楽室は空いていた。ピアノを弾く。誰かに聞かれることも忘れて。求められているのは完成品である。素人の不協和音は赦されない。演奏も、人も。
 ふと、集中力が切れる。音を外す。人影を見た気がした。見間違いである。否、見間違いではなかった。出入口に生徒が立っている。夢に出てきた亡霊。故人。死者。強く瞬きを繰り返す。斑霧(むらぎり)愛嵐(あらん)。音楽に興味のあるような生徒ではない。特にクラシック音楽などは。
「どうしたんだ、斑霧」
 飄々として佇んでいるように見えた。そして生天目に用があるかのような眼差しであった。しかし声をかけた途端にそのつらには後悔が浮かぶ。
「……いや、なんでも………」
「無理強いはしないが……ここに来たというのが最終結論なんじゃないのか」
 それでもまだ躊躇する生徒の気持ちが分からないでもなかった。
「先生……」
「うん」
 斑霧は模範的な生徒というには態度に軟派な感じがあったが、成績も素行も問題なく、学校生活や人間関係、家庭にもまた悩みはないようだった。彼本人の賑やかな性格がなければ、手が掛からないあまり忘れ去られ、手が掛からないために都合の良い生徒だと判じられてしまいそうだった。
「久城のお姉さん、今、どうしてる?」
 ある程度のことは知っている。強者の男性と、幸せに暮らしているに違いない。幸せなはずだ。幸せにするはずなのだ。少なくとも、弱い男の傍にいるよりは恵まれた状況にあるはずだ。
「さぁ……でも、それがどうかしたのか」
 斑霧は首を横に振る。
「斑霧。何か1人で悩んでいるのか。昼ごはんは? 食べたのか」
 今度は首肯。
「ちゃんと寝られているんだろうな」
 軽い首肯。
「言うか言うかまいか、いつから悩んでいる? 今日いきなり思いついたならまだ話さなくていい。3日以上考えあぐねているのなら、それはきっと言うべきことなのだと思う。事の成り行きのためではなく、お前の心のために」
「久城が死んだのは、オレのせいかも知れねんす……」
 生天目は項垂れている教え子の後頭部を見下ろす。
「……場所を変えるか。進路指導室に来てくれ」
 鍵盤を乾拭きし、マフラーのような布を被せ、蓋を降ろす。
「すんません」
「教師は、生徒に相談されるためにいるものだ。気にすることじゃない」
 進路指導室には参考書の本棚と、ソファーにローテーブルがある。焦燥している様子の斑霧を座らせ、生天目は待った。話すか話さないか。彼の退路はまだ確保しておきたい。
「オレが、久城たちが事故ったところ、心霊スポットだって、久城に話したんす」
 膝に置かれた拳が戦慄いているのを、生天目は窺い見ていた。
「心霊スポット?」
「生配信観るのが趣味で、心スポ巡りの配信を観てたら、あそこの公園で……その話、したんす。そしたら行きたいって……」
 生天目は頭を抱えてしまった。教え子を1人喪ったことにばかり囚われていた。だがこの生徒は友人や先輩を複数人喪っている。
「やっぱり――……」
 教師のその反応について、斑霧は衝撃を受けたようだ。虚空を凝らしていた目が愕然として生天目を射す。
「いや……続けてくれ」
 生天目は握り締められすぎて白くなった拇(おやゆび)にまた目を戻した。彼は自身の資質を問うていた。思い悩む生徒の声もそっちのけであった。自分のことばかりである。事故によって亡くなった生徒は久城嵐恋だけではない。苦手な生徒で、その姉と深い関係を持ってしまった。私情が入り過ぎている。死してなお、依怙贔屓(えこひいき)が続いている。
「久城たちがマジで行くとは思ってなかったんす。事故の日に、初めて知って……オレ、ちゃんと久城のお姉さんに言うべきなんすかね? 久城のお姉さんだけじゃないけど、まずは……」
 教師には向いていない。生徒のケアにも気が回らなかった自身の弱さに辟易した。責務も全うせず、女にうつつを抜かし、教え子に苦悩を抱かせてしまった。
「先生……?」
 視界がわずかに翳り、我に返った。斑霧が前のめりになって、顔を覗き込む。
「あ………いいや。先生は………言うべきではないと思う。斑霧の所為じゃない。斑霧のその話を聞いた人間すべてがその場に行ったわけではないだろうし、斑霧が行けと脅したわけでもないんだろう? 我々に不都合な偶然が重なってしまった。痛ましいことにな」
「でもオレ、自分が赦せなくて……」
「人間は、選ばなかったほうの選択肢に甘い期待を抱く。その話をしなかったほうの未来を思い描いているんだろう。斑霧の所為じゃない。先生はそう思う。でもな、斑霧。実際に家族を喪った側の人間は、誰かに責任を求めたくなる。それは自分にかもしれないし、他人にかもしれない。それは人によるし、場合による。不安定な中にいるんだ。理由と原因を探して。自分の所為にするのは短絡的だが、あまりにもつらい。本当はそうでなくても、斑霧の所為にするかもしれない。そして斑霧を恨むかもしれない。人を恨んで生きるのは、疲れるんだ。真実を知るのが最善とは限らないし、真実はひとつでも解釈はひとつじゃない。でもな、斑霧。冷静でいられる立場から言えば、お前は悪くない」
 大嘘であった。分かっていながら生天目はその立場を気取った。動揺しているのだ。けれど、久城嵐恋の姉とのことは秘しておくべきことなのだ。苦しい胸中を吐露した生徒に嘘を返している。そうでなければ、彼等を守る地位にしがみつけない。友人を一度に何人も喪った生徒に、個人的な感情を糊塗している。冷静なはずはない。正しさはおそらくそのなかにはないというのに。
「掘り返しちゃって、すんません。もっと早く言うことだったのかも知れないのに……」
「言うか、言わないか。言えるか、言えないか。お前に必要な期間だった。気にしなくていい。話してくれてありがとう。午後の授業は出られそうか? 無理はしなくていい。早退しても……」
 斑霧は笑みを浮かべた。口角を吊り上げただけの笑顔は疲れている。
「大丈夫です……」
 彼は久城嵐恋を亡くしたばかりの情緒不安定な姉の姿を目撃したどころか、誘拐されかけている。本人の自覚はなくとも、それなりの精神的な負荷はかかっているはずなのだ。
「そうか。気が変わったらすぐ言えよ。話してくれて、本当にありがとう。つらかったな。今日は帰ったらよく休め」
 斑霧は頭を下げて退室していった。生天目はソファーの背凭れに身体を預ける。向いていない。手前の吐いた嘘と建前に慣れない。
『どうして姉ちゃんを苦しめるの?』
 夢の中の亡霊を、視線の先に思い描いた。
『おれが弱いからだよ』
『どうして姉ちゃんを捨てたの?』
『捨てたんじゃない。身分不相応だったんだ』
 目を閉じ、大きく息を吐く。教師なんぞ、辞めてしまったほうがいい。それこそ身分不相応である。清廉潔白な身ではなかった。嘘で塗り固め、仮面を被り対応する。それが社会性。悪いことではないはずだ。
『さようなら、久城。それからおやすみ。もう終わったんだ。安らかに眠ってくれ。お前のお姉さんは、蜂須賀(はちすか)さんと幸せになったんだ』
 亡霊はとても柩のなかで眠っていた教え子とは思えない形相をしていた。
『それとも取り憑いてくれるのか。それでどうする? お姉さんを取り戻しに行って、それで? 彼女の幸せを奪うな』
 鈍い痛みが頭のなかに谺(こだま)する。



 ふとした違和感のために振り返る。安積(あづみ)という女教師の身体を、教頭がすれ違い様に触ったような気がしたのだ。生天目は彼女の身体を見ていた。カットソーに下肢の曲線が浮き出たロングスカート。他意はなかった。教頭も平然としていた。謝りもしない。偶然手がぶつかったのか。それとも、その接触自体が見間違いであったのか。
 疑念は意識せずとも、そこに注視してしまうものらしい。このようなことを何度か目の当たりにすると、とても些細な接触事故とは思えなくなった。セクシュアルハラスメントである。教頭にはそれが分からないのであろう。安積先生は対応の仕方が分からないのだ。それとも、双方の合意があるというのか。否、あったとて、職場ですることではない。
 生天目には、たいへん不愉快であった。セクシュアルハラスメントを見せつけられている不快感か、強者が弱者を侮る様に対する怒りか、それは彼にも分からなかった。健康体ではあるが、心身ともに、弱いオスである。義憤に駆られたところで、抗う強さはない。何にでも怒り、声を上げる気質ではなかった。見て見ぬふりをして、保身に走る。生天目は自身をそう評し、また開き直り、正当化を図っていた。
 だが不愉快であった。己の内側に入り込む雑念にとうとう耐えきれなくなった。教師という立場が資格を問うている。
 生天目は職員室を出ていく安積先生の後を負った。一定の距離を保ち、声を掛けられる時機を探る。宛(さなが)らストーカーである。セクシュアルハラスメントを糾弾できる立場なあるのか。
 安積先生はちょうどよく、人通りの少ない体育館1階のほうへ向かっていくところだった。体育で使うクラスや運動部の支度がなければ、そこは人気(ひとけ)がない。卓球場と武道場、筋トレルームがあるが、北向きで日当たりは悪かった。
 生天目は体育教師でも、卓球部や剣道部などの顧問でもない安積先生がこの棟に何の用があるのか考えもしなかった。彼はどのように話しかけるか、切り出し方を決めることでいっぱいだった。
「安積せ――……」
 やっと話しかけたとき、しかし生天目の呼びかけは別の声に掻き消される。
『安積先生』
 まだ若い響きは生徒の声である。盗み聞きをするつもりはなかった。関心を寄せるか否かの自発的な判断が下されるよりも早かった。飛び交う単語に耳を疑う。繋ぎ合わせ、類推してしまう。
『次はいつ会えんの?』
『また連絡するから』
『できれば早く会いたい』
『親には友達のところに行くって言っとくし』
 生天目はそこに自身の肉体が、自身という存在があることも忘れていた。速(すみ)やかな密談に聞き入ってしまった。様々な憶測を立てているうちに安積先生が戻ってきていた。気付きもせず、鉢合わせる。視線が搗(か)ち合う。言葉をいくら交わしても分かり合えない人もいる。価値観が違う人間など、数えれば際限がない。長く付き合ったとて、どうにもならない人間関係の課題ではあるまいか。ところが大して関わりのない安積先生と目が合ったとき、互いに言わんとしていることが分かってしまった。故に切り込むことができなかった。しかし用意していた文句は真っ白く塗られている。
「あ、あ、安積先生……あの、セ、セクハラされてるなら、きちんと対応されたほうが……」
 口にした後もまだ狼狽えている。先に言うべきは、違う話題ではなかろうか。
「セクハラって、何のことですか」
 彼女は毅然としていた。睨まれる。
「わ、私の見間違いでなければ、きょ、教頭に触られていませんでしたか。何かあるなら協力します……」
 あれはセクシュアルハラスメントではなかったのだ! 徐々に確信を強め、生天目の語尾は弱々しくなった。
「気の所為です。そんなことを言いに来たんですか? わざわざ? ここまで追いかけてきたんです?」
「は、はあ………たいへん失礼しました………ですが、さ、さっきの生徒とは、どういう………?」
 生天目はまだ惑乱していた。本当に訊ねるべきか、直前の吟味も忘れた。
 安積先生の鋭い眼差しは、威嚇するライオンを思わせた。
「生天目先生に何か言われる筋合いはありませんよ。そりゃあ生天目先生はあくまで、生徒の"保護者"ですけど、それでも問題は問題ですよね」
 何の話だか、恍(とぼ)けることもできたはずだ。しかし後ろめたさが関連性を隠そうともしない。語るに落ちる。否、自ら飛び降りたのだ。
「何故それを?」
「認めるんですね。この前、ご家族の方がいらっしゃいましたよ。久城くんのお兄さんを名乗る方が。精神的に参っているようでしたけどね。生天目先生と姉が、久城くんの事故に託(かこ)つけて、ふしだらな関係にあるってね。感謝してほしいくらいですよ、対応したのがワタシで。誰にも言いませんよ、こんなこと。言えるわけもない。そうでしょう?」
「生徒と付き合うのは、よくないです……」
「生天目先生には言われたくありません。セクハラの話も、これはワタシの問題で、生天目先生には関係ないですから。首を突っ込まないでください。生徒と付き合うのがダメだなんて分かってますよ。でも生天目先生はどうですか。生徒の保護者と付き合うのはいいんですか、"和巳(かずみ)先生"?」
 嘲笑があった。肩をとんと叩かれ、安積先生とすれ違う。甘すぎない香りがした。期待したものとは別の匂いだ。臀部を触られていた身体に、別の人を重ねていた。そのような理由でしか、動けない。ろくな人間ではなかった。生天目は肌寒い廊下に立ち尽くしていた。

2


 ミニチュアじみた座布団に乗る湯呑めいた器具を叩く。甲高い音が耳を劈(つんざ)く。目を閉じた。まだ言っていないことがある。隠すつもりはなかった。敢えて言わなかった。他意はなかった。ただ、言わないことを選んだ。後から言えることだ。いつでも。しかしその機を失った。大した情報ではない。生天目(なばため)にとっては。
 目蓋を上げる。白く照りつけた遺影には自身が写っていた。眼鏡を掛け、どうにか作った笑みにさえ陰気な感じが拭えない少年。生天目(なばため)和巳(かずみ)ではない。その弟だ。しかし弟という認識はなかった。一卵性双生児だった。すでに鬼籍に入っている。言わなかったことに安堵していた。恐ろしい目に遭った女性にわずかな連想もさせたくなかったのだ。
「そろそろ、帰ります」
 畳の匂いが懐かしい。実家の匂いを知った。様々な記憶が詰まっているが、帰巣本能はこの家から離れてしまったようだ。
 台所に立つ母親が振り返る。
「もう帰るの」
「はい」
「他人行儀だね、あんたは。昔はそんな子じゃなかったのにね。誰に似たんだか」
 生天目は俯き、目を伏せる。
「随分と落ち着きすぎちゃったね。少し叱りすぎたかしら。もういい大人なんだし、あんまり心配はしないけど、ちゃんと遊びなさいよ。モテないでしょ、そんなんじゃ。せっかくお母さんに似て、縹緻(きりょう)良しに生んでやったんだから。ほら、笑って、笑って」
 母は老いた。けれども世間的にはまだ働き盛りであり、昔と変わらず陽気である。
「おれはどんな子供でしたか」
「どんな子供ってあんた……とにかく騒がしくて、落ち着きのない子だったじゃないの。どんな大人になるのかヒヤヒヤしたもんよ。でもよかった。立派に育ってくれて。あたしゃそれだけで、十分なのに……」
 息子の腕を掴む母の表情が翳る。夭折(ようせつ)した息子の命日である。
「また来ます」
「それでもね、結婚だの子供だのを求めちまうのが、親としての業さね」
「結婚は……考えなかったわけではありませんが、おれには向かないようです」
「結婚に向く男なんて居やしないよ。向かせるのさ。でもそれは好きになさい。でも相手方の貴重な時間を奪っちゃぁいけないよ。若い女は殊更に、時間が貴重なんだから」
 生天目は小さく頷いた。
「でも相手がいるのなら、恋バナくらいはノッてやるわぃ」
「身を引いたんです」
 母親は眉間に刻まれた溝どおりに皺を寄せた。生天目は横面を晒す。
「身を引いたとは」
「同じ相手を好きになった人が他にいたんです。稼ぎも見た目もおれより格上でしたから」
「身を引いた? 相手に選ばせてやりんさい。何してるか。恋愛なんてね、理屈じゃないんよ。屁理屈捏ねて、頭HIGHになって、みっともなくなるのが恋愛よな」
 生天目は母親を見遣る。思ったよりも目線は低い位置にあった。咄嗟に顔を逸らす。
「結婚は、理性でするものですよ。稼ぎも社会的地位も高いほうがいいんです。子供が生まれたら、もう男女ではないんですから」
「ほぉ!」
 生天目は後悔した。結婚したことも、子を持ったこともない自身が何を言おうと、母親を前にして説得力はない。
「そんな思慮深い人(コ)になるとは思わなかった。あたしゃ、あんたを見縊ってたよ。でもね、息子よ。決めさせてやるのもあんたの責任だよ」
「耐えられない」
 生天目は実家を後にした。ハンドルを抱いて項垂れる。
 彼女は幸せなはずなのだ。

『なんで期待しちゃったの?』
 助手席に高校生が座っている。座っていない。運転席以外は空いていた。助手席にはしばらく乗る相手などいないのだ。



 教頭が、やはり女性教諭の臀部を触る。周りには誰もいなかった。否、生天目はそこにいたが、まるで空気のようだった。無くてはならない酸素ではなかった。そこに浮かぶ塵同然であった。
 触られた女教諭、安積(あづみ)先生の表情が一瞬曇った。曇ったように生天目には見えた。曇っていて欲しかったのかも知れぬ。
 安積先生の後を追う。
「安積先生」
 職員室近くで呼び止めた。また生徒との密会の間に割り入る気力はなかった。
「なんですか、生天目先生」
 棘を含んだ語気に、生天目は背筋を伸ばす。睥睨(へいげい)を受け、彼は逡巡した。一度突っ撥ねられたのだ。当事者同士で決着すべきことだ。
「その……やっぱり……」
 廊下は静かだった。生徒の行き来もない。言い淀んでいると、安積先生のほうが先に口を開く。
「急いでいるので、用がないのならこれで……」
「あ、あの……好くないと思います」
 異性が苦手というわけではなかった。生徒であれば、異性であろうと結局は生徒である。母親や祖母との折り合いが悪かったわけでもない。同年代の異性が苦手だったのだ。小学時代、中学時代、もしかすると高校に入ったばかりの頃までは、気負うことなく異性と遊んでいたかもしれない。しかしいつの間にか、社会人或いは大人としての物心がつく頃には、同年代の女性を恐れている。
 そのなかで、久城(くじょう)加霞(かすみ)とは関わらなければならなかった。仕事上。仕事の延長上。もはや、個人的な関わり合いと化して。
 生天目は目をしょぼつかせ、視線を彷徨わせる。安積先生に何の用で話しかけ、何を言ったのかも覚えていなかった。目蓋の裏に女性が棲み着いてしまった。苦手意識を拭い去られてしまった女性が。助手席から見た横顔と後姿ばかりが浮かぶ。
「どういう立場で、生天目先生がそれを言うんです?」
 非対称的だ。彼女はすでに新たな柵(しがらみ)に蔦を絡め、蔓を伸ばしている。剥がし切ることはできない。根が残る。
「……すみません」
 相手が生徒の保護者で良かったと思った。
 シンダセイトノアネデ……
 勢いに任せ、調子づき、浮ついて、家族に紹介してしまうところだった。互いに独身である。一体何が後ろめたいのか。どこに責められる咎があるのか。
「私が口を出せることではありませんでした」
 生天目は頭を下げた。誰にでもひとつやふたつ、世間に対して後ろ暗いものがあるはずなのだ。暴くのは野暮だ。人には事情がある。常に"正し"くはいられない。
 安積先生の背中が階段に埋まっていくのを見送った。


 夕焼けを眺めていた。もうこの教室に来ることは叶わない元生徒もベランダが好きだった。部活には入らなかった。入れなかったのであろう。保護者の協力が得られなかった。否、得ようとすることを躊躇った。送迎や保護者会が必要なとき、働き盛りの若い姉を頼ることができなかったのだろう。このベランダからサッカー部か、野球部か、若しくはラグビー部、或いはテニス部やハンドボール部を眺めていたのだ。おそらく中学もそうだったのではあるまいか。
 剽軽に笑う姿の一翳(いちえい)を見て、胸が重くなる。
 あの生徒の姉とは別れた。生徒は死んだ。甲斐性のない人間には長く、何かを成すには短い生涯の途中で袖の触(ふ)り合ったに過ぎない、一介の姉弟だ。数カ月後には忘れている。

『忘れられないよ』
 隣に亡霊が立っている。共に夕焼けを臨んでいる。
 亡霊の言うとおりである。教え子を亡くしたのだ。明日も会うつもりで、彼の未来があることを疑いもせず。それはおそらくろくでもなく曇ったものであったかもしれないけれど。
 教え子が死んだとて、おそらく少し経てば気にも留めなくなる。日常の当然として、慣れていったはずだ。だがそこには遺族がいる。その遺族と、関係を持ってしまった。
 悲惨な事故などなくとも繋がれた相手と、幸せになるのがよい。そうでない相手とは幸せになれない。選択に誤りはない。これが"正しい"のだ。虚しさは不要である。
 生天目は校庭に植えられた銀杏の木に目を落とす。大銀杏と呼ばれ、校歌にも取り入れられたシンボルがあった。その下、剥げた垣根の奥、金網の向こうに人影が2つ並んでいる。遠目だが男女に見えた。
 彼は眼鏡を外し、目を擦る。男女2人の女のほうに意識が集中した。
 見間違いだ。そこにその者がいるはずはない。ただ、共にいる男のためにそう見えた。金網を握って校庭を覗いているのは雫漣(しずくれん)。しかしこの高校に何の用があるのだろう。唯一の接点はもうない。
 生天目はベランダを出た。教室を通り、  廊下へ抜けていく。彼は競歩をしているようだった。裏校舎裏、1階にある来客用エントランス兼職員玄関にはいかず、2階の生徒用玄関から共用サンダルを履き、外階段を駆け下りていく。校庭を大いに遠回りし、大銀杏の木の下へ向かった。サッカー部の掛け声が背にある。
 雫漣は虚ろな目をしてフェンスに張り付き、校庭を睨(ね)め回していた。生天目の存在にも気付かない。とても尋常の、精神の健やかな人間には見えなかった。
「久城嵐恋くんのお兄さんですね」
 半歩後ろに控えている女性に焦点を合わせるのが、生天目は怖かった。だが話が通じそうなのは彼女しかいない。服装の系統、体格、体形、髪型、化粧。顔立ちこそ違うが、生天目はこの女性と初対面な気でいられなかった。剥げた垣根、草臥て萎れた低木のモザイクが彼女の顔を粗くする。
「すみません……弟さんを亡くして、気を病んでしまっていて……」
 声も、どこか似ている。この女性のほうがやや低いか。
「中に入られますか。外では、生徒たちの不安を煽ります」
「いいんですか」
「ええ、どうぞ」
 女は気の狂(ふ)れた男の肩に手を乗せた。接触の瞬間を生天目は見ていた。
「お姉ちゃん」
 変わり果てた姿の雫漣は、連れの女に抱きついている。
「久城くん」
「ううん」
 甘えた声で雫漣は首を振る。
「雫恋(かれん)ちゃん」
 雫漣は連れの女の肩に顔を伏せる。
「いつも、ここで校庭を見ているんですか」
 悍(おぞ)ましい光景を目の当たりにしたために、生天目の語気は凍てついてしまった。
「……」
「事情が事情ですから……別に責めたりはしません」
 そうしなければ、この気の狂った男に殴られるのかもしれない。女の力で敵うはずもない。弟の位牌を圧(へ)し折るような価値観の人物である。この者の存在が、生天目の口を封じた。兄とも弟ともいえない故人との関係を明らかにすることができなかった。
「……すみません」
「エントランスで私を呼んでくだされば見学できるようにします。私は生天目と申します」
 女のほうはまだ不安を残しているようだった。
「すでにご存知かもしれませんが、そちらの方の弟さんの、久城嵐恋くんの担任"でした"」
 気を利かせ、演出し、美化するのがよかったか。些細な語尾の在り方が、生天目の気を咎める。否、その生徒はこの世を去り、教わることはあれど教えることはもう何ひとつない。
 個人のなかで生きているから、なんだというのだ。心という正体不明の、曖昧で朦朧とした無形のものなかに生きているから、どうなるというのだ。言葉をかけても戻ってこない。変化がない。決定付けられ、希望も持てない。
「本多と申します。彼の、仕事上のマネージャーをしています……」
 気後れした物言いが、どこか懐かしい。見た目のせいだろう。名刺を受け取り、生天目は自身に名刺がないことを詫びる。
「職員室に案内します」
 本多と名乗った女は雫漣を見遣る。雫漣は呆けた顔をして直立し、生天目を指で差している。
「お姉ちゃん盗った」
「やめなさい」
 雫漣の指を、本多が折り込む。
「お姉ちゃん盗った! お姉ちゃん欲しいから、嵐恋のこと殺したんだろ!」
 間延びした幼い話し方は以前会った時よりも重くなっている。
 生天目は笑ってしまった。冷たい風が頬を叩く。肌が乾き、皮膚が張る。
 本多は気拙(きまず)げだった。彼女はすべて知っているのではあるまいか。知らなかったとして、今知らせることに躊躇いはなかった。知って、侮蔑すればいい。侮蔑されることをしたのだ。彼女は審問官になるべきだ。運の悪いこの女は大役を担わされる。
「すみません、どうも気持ちの――……」
「事実ですから、構いません。彼の姉ということはつまり、先程話した教え子の姉ですね。その方と、」
 だが生天目は重要なことを忘れていた。この告白によって後ろ指をさされ、侮蔑され、野良の無自覚ですらある自称審問官から断罪を受けるのは1人ではない。相手のいる問題である。
「お姉ちゃん騙して、サイテーだッ!」
 姉を愛しているのはどうやら偽りではないらしい。それは絶好の時機で、上手い擁護であった。
「弟さんを亡くして気が動転している最中(さなか)に、ぼくから言い寄ったんです」
 本多は顔色を悪くしていた。日が暮れていく紺色に翳っていた。
「久城嵐恋くんが、ぼくのくだらない感情ために引き寄せられて死んでしまったというのなら、否定はしきれませんね」
 気に入らない生徒だった。その生き方で赦されることが何よりも気に入らなかった。彼に降りかかる苦難を望んでいた。望んでいたものが、望んでいなかった形と結果、タイミングで起こってしまった。しかし望んだことには変わらない。有無の問題だ。程度の問題ではない。望んだのだ。天真爛漫、無邪気だと思っていた生徒の背景も知ろうとせず、羨み、妬んでいた。
「事故で亡くなったと……聞いておりますが………」
「ええ、事故です。友達とOBの乗る車で……」
 明るいうちに見た現場は美しかった。鏡のような水面に、緑。湖が5人を食ってしまった。最期に交わした言葉がふと甦った。掃除の話だった。人間などいつ死ぬのか分からないものだ。身を以て経験している。しかし分かっていながら、明日や明後日があるかのように話していた。理解が足りていない。
 本多は困惑している。気の狂った成人男性の介護だけでなく、ただでさえ陰気な教師の鬱(ふさ)いだ話に辟易しているようだ。
「職員室に案内します」
 生天目は本多の様子に気付くと話題を戻した。彼女は雫漣を一瞥する。
「こんな状態ですし……ご迷惑をおかけしますので、また日を改めます」
 艶のない髪、痣に近い隈、落ち窪んだ目元、張りのない肌。元々の体質からくるものとは思えなかった。この疲労と焦燥を、生天目も見たことがあるからだ。
「困りごとがあればご相談ください。これも何かの縁でしょうから……」
 口にしてから、彼は鼻で嗤いたくなった。疲弊した女に向けてではなかった。自身に対して、恥ずかしさとも呆れともいえない虚無感を覚えたのだった。まだ懲りずにいる。まだ誰かを救おうとしている。救いたいと思っている。その器量がないことを理解したはずだというのに、まだ期待している。
「ありがとうございま、」
「またお姉ちゃん盗るんだ! 今度はオレが殺される!」
 雫漣は本多にしがみつき、本多はゾンビのような雫漣を押し退けながら生天目を向く。
「ごめんなさい」
「いいえ。私はこれで失礼します。あまり久城さんを刺激するわけにはいきませんから……」
 本多は大きすぎる嬰児を抱え、頭を下げた。振り回されていることに喜んでいるのだ。それこそが幸せなのだ。誰も彼も、疲れて倦(う)み飽いたふりをして、別れようとはしない。やめようとはしない。怠惰なことだ。慣れてしまった苦しみから解き放たれることこそ、新たな苦しみと同義なのだ。
 生天目も会釈をした。見送ることもしなかった。肌を鉋(かんな)掛けするような風に背を押され、先に職員室へと帰る。接客業ではなかった。そして彼女たちは客ではなかった。怯懦(きょうだ)な映写機が見せた幻影なのかもしれなかった。
 東側の門に差し掛かったとき、向かいからやってきた女子生徒が足を止めた。その眼差しに気付き、生天目も立ち止まる。何か用がある。開きかけた唇は無言ながらに訴えている。何か用がある。それは伝わった。
 生天目は相手の女子生徒を知っていた。知っているどころかクラス担任である。三つ編みを左右に垂らし、黒髪に赤いゴムが特徴的な生徒である。学級委員だ。
「どうした」
 生天目から訊ねた。スクールバッグを肩に掛け、紺色のダッフルコートに身を包んでいるところを見るに、今から帰るところのようだ。彼女は美術部員だったはずだ。
「赤羽根(あかばね)?」
 この女子生徒は赤羽根(あかばね)繭香(まどか)といった。見た目は物静かそうで、確かに彼女は物静かで、あまり喧(やかま)しい気性ではなかったが、いざ学級委員の仕事となれば溌溂とした態度で務めを果たす。優等生であるがゆえに生天目のなかに大きな印象はない。
 彼女は生天目を前に狼狽えているようだった。
「あ、いいえ………何も………」
 気拙(きまず)げな笑みが返される。偶然にも鉢合わせ、偶々視線を搗(か)ち合わせてしまっただけだというのか。
「そうか。風が強い。気を付けて帰れ」
「はい……さようなら」
 生徒の多くは放課後まで、それも帰り際に教師と遭遇するのは嫌がるものである。特に関わりのある、それもクラス担任となれば尚のことだろう。生天目はそう理解していた。実際、彼も高校時代はそうであった。そのために、二言三言ほどで解放したはずの赤羽根繭香の表情に残る躊躇の色が気にかかった。
 北風が頬を鑢(やすり)掛けする。 


『お、お、おで、赤羽根さんとっ、当番ですかっ!』

 枯葉のざわめく音の陰に教え子の顔が浮かんだ。その目の丸さは覚えていた。しかし吃った口振りと、上擦った声音は、いずれ忘れ去るのだろう。
 赤羽根繭香は何かを言いたいことがあったのではなかろうか。ところが言わないことを選んだ。斑霧(むらぎり)愛嵐(あらん)と同様の事柄について、彼女も悩んでいるのか。
 職員室に人気(ひとけ)はなかった。離れた席に2人ほどいるが、PCに向かって集中しているようだった。生天目はデスクの上の本立てに差したタブレットを抜き取った。バッテリーは上限の数字を表示している。彼はカメラ機能をたちあげると、画角を調べた。職員室の西側出入り口脇に置かれた小さな手洗い場。光は届くが、どこか薄暗い。タイルの壁に、鏡と蛇口、洗面台が1組。手を洗うか、カップだの弁当箱だのを洗うのによく使われている。
 画面を横に滑らせ、カメラ機能から動画機能に切り替える。トレーニングに勤しむ運動部員たちの声が、録画ボタンを押す物音は掻き消した。本立てとペン立て代わりに置いていたコンクリートブロックを引き、コーヒーマグと合わせてタブレットを固定する。
 生天目は大きく息を吐くと、事務椅子の背凭れに沈んだ。革を模したビニール張りの表面は彼の背中と尻を下へ下へと追いやった。徐ろに下降していきながら、赤地に白抜きの数字が増えていく。
 これは盗撮である。だが証拠になるのだから、間違いではない。悪事ではない。"正しい"行いなのだ。
 滑っていく身体を直すと、傍を通った教員と目が合ってしまった。呆れた面構えから労いの言葉を掛けられ、生天目は会釈だけ返す。
 彼は自身の評価を分かっていた。分かっているつもりになった。決めつけることにした。大した頓着はない。印象の薄い、その場をやり過ごすための消極的な悪口が飛び交う程度の評価だろう。陰気な覚えはあるが、それで恨みを買う覚えはない。
 職員室の東側の出入り口が開く。安積先生が戻ってくる。デスクからカップを持ってきて、西側の出入り口へやって来る。コーヒーを洗面台に流し、カップの中を濯(すす)ぐ。東側出入り口近辺にデスクを構えた教頭が安積先生に後ろから話しかける。
 生天目はその様を眺めていた。他意はなかった。気の咎めが彼の眠たげな眸子(ぼうし)をそのほうへ導いていた。ふと鏡を見たとき、鏡像の安積先生と視線がぶつかる。彼女は口では教頭の話に調子を合わせいたが、その目は生天目へ睨みを利かせていた。彼は安積先生の態度をどう受け取ったのだろう。
 どうも受け取らなかった。彼はそそくさと外方を向いた。そして画面越しに教頭の後ろが姿を見ていた。胸から上は映っていなかった。しかし教頭の手が映っていれば目的は果たせるのである。
 指を広げた手が、安積先生の臀部に差し掛かる。2人の行動パターンを、生天目は把握していた。
 ここで2人に接触があるならば、この映像は証拠になるのだ。"正しい"行いになる。それは盗撮ではなくなる。悪事ではなくなるのだ。
 そして接触があるならば――……
 デスクを叩くような勢いで、生天目は立ち上がった。否、デスクを叩くために立ったのかもしれなかった。音にたまげた教頭が振り向いた。声が掛かる。遅れて振り返った安積先生は愛想笑いを取り繕っていた。
 生天目は首を振った。
「すみません。少し力加減を、誤っただけです……」
 安積先生はカップの水を切って、デスクへ戻る。教頭も、何の用があって手洗い場に来たのか、デスクへ戻ってしまった。

3


「生天目(なばため)先生」
 女性にも声変わりがあると思いはじめたのは、教師になってからだ。ただ、男性ほど顕著ではないだけだ。
 生天目は、まだ声変わりの余地のある若々しく青臭い呼び声に立ち止まる。そして棒立ちで振り返る。
「赤羽根(あかばね)、おはよう。どうした」
 赤羽根 繭香(まどか)は、生天目が反応を示した途端、後退ろうとしたようだ。まさか本当に立ち止まるとは。そういう顔をしている。
「おはようございます……」
 ……
 ……………
 静寂。
 生徒の焦りが見えた。生天目も焦る。口を開いたのはほぼ同時。
「――先生」
「――何か、」
 語頭が重なる。赤羽根繭香のほうが譲歩した。
「何か悩みがあるなら、気軽に相談してくれ」
 生徒の言葉を遮って、口にするのは先日と同じ文言であった。苦みを覚える。彼女は手にしたクリーム色の大判封筒を所在なく弄(もてあそ)ぶ。大切な書類なのではなかろうか。
「悩みというか……」
「進路の相談か? 人間関係でも、家のことでも、困っているなら……」
 赤羽根繭香は首を振った。
「違うんです。でも……あの、少し、先生にお話があるんです。今、大丈夫ですか。今じゃなくても、お昼休みでも……」
 進路の相談でも、人間関係の相談でもない。どこか浮ついている表情を見たとき、生天目はそう悟った。しかし平生(へいぜい)のこの女子生徒には珍しい態度だ。何か企んでいるのであろうか。見当もつかない。子供は凶悪なのだ。奴等に善性などない。無秩序のなかで暴れる獣だ。
「分かった。進路指導室に行くぞ」
 進路指導室は使われていた。生天目は職員室のなかにある印刷室へ女子生徒を案内する。印刷室は、印刷機が3台ほど並び、資料棚が3面を囲う。小規模な面談スペースも設けられていた。
 職員室にいる教員に声を掛け、印刷室のドアを開ける。まず、生天目が入る。引戸を押さえながら職員室を見回しているうちに、赤羽根繭香はその脇を通り抜け、印刷室へ踏み入った。相手は女子生徒。生天目 和巳(かずみ)は異性愛者だとはすでに知れ渡ったことだ。否、少なくとも異性愛者でもあることは知れ渡っているはずだ。否、否。生天目は己の悪行が知れ渡っている気になっていた。自ら喋ってはいない。だが噂は尾鰭を付ければ背鰭も生え、胸鰭と腹鰭も得るのだ。悪行の金魚は土屋東高校を住処に泳いでいるに決まっていた。
「閉めなくても大丈夫ですよ」
 簡易的な面談スペースの椅子の横に立って女子生徒は生天目を向く。利発な目は、男性教師の些細な逡巡を見抜いているようだった。
「いや、いい」
 彼は明かりを点け、引戸を閉めた。これが印刷室に於いては使用中を意味した。
「それで……?」
 狭いテーブルを挟み、スポンジが剥き出しの事務椅子へ腰を下ろす。
「その、どういう話し方をしたらいいか……手紙を渡されたんです。これなんですけれど……」
 揉みくちゃにされたクリーム色の封筒を差し出される。生天目は愛想笑いの女子生徒を一瞥してから受け取ろうとした。
「あ、いいえ、ちょっと待ってください」
 親指と人差し指が密着する直前で、封筒は宙を滑っていく。
「これ、実は斑霧(むらぎり)くん宛なんです」
 ふいい、と赤羽根繭香の頬に朱が差す。声がわずかに高くなった。彼女は座面に垂れるスカートを直す。
 生天目の目蓋の裏に、若くして命を落とした教え子が閃いた。赤羽根繭香を前にしたとき、あの者は頻りにベルトのバックルを握るのだった。彼女の話題を挙げるたび、袖の釦(ぼたん)を留めたり外したり忙しなかった。今、そのことに気付く。
「赤羽根が書いたのか」
「いいえ……わたしは心羽(ここは)から受け取って……」
 彼女の友人"心羽"の苗字は丘島といった。生天目が受け持っている。
「丘島が書いたのか」
「違います。心羽は……えっと……誰が書いたかは分からないんです。でも心羽は、わたし宛にって、わたしに渡したんです。でも中を見たら、斑霧くんに……って……」
 スカートの襞を引っ掻く様が落ち着かない。生天目はその指先を凝らしてしまった。
「丘島が書いたわけではない?」
「多分……だって何か用があるなら、MINEで済むじゃないですか。わざわざ手紙なんて、今時書きませんよ」
 生天目の高校時代にはなかったコミュニケーションツールだ。彼もその利便性を認めていたし、使うこともあったが、生活に染みついたものではなかった。
「丘島は誰かから、その封筒を渡されたと、そういうことだな?」
「そういうことだと、思います」
 膝頭の上でスカートを握り締め、威儀を繕う様が、子供らしく小賢しい。生天目は赤羽根繭香から目を逸らす。
「学校の人間かどうかも分からない?」
 彼女は首肯する。
「赤羽根に、何か心当たりは?
「ありません。どうぞ見てください」
 クリーム色の封筒からコピー用紙が現れる。たったの2行。確かに赤羽根繭香に宛てられ、斑霧 愛嵐(あらん)に宛てるよう書いてある。印字されている。胡散臭いことこのうえない文面である。丘島心羽は何故、受け取った段階で相談に来なかったのか。赤羽根繭香に渡してしまったのか。
「これ、斑霧くんに渡していいものでしょうか……?」
「誰が書いて、誰が渡してきたものか分からないんだろう? 先生が預かる。斑霧にも心当たりを訊いてみるよ」
 女子生徒の口角はぎこちない微笑を作る。目に迷いがある。スカートを引っ掻いていた手は、彼女の座るパイプ椅子の座面の枠へ移る。曇った銀色を手慰みに撫でている。生天目もその指先を見詰めてしまった。
「赤羽根から渡したいか? 先生も付き添うことになるが……」
「えっ………! いいえ………む、斑霧くんとは、あ……あんまり、関わりないし…………」
 頼りになる学級委員の強張った笑みを、生天目は窺い見た。
「そうか。相談してくれてありがとう。
 赤羽根繭香を帰し、面談スペースを片付ける。印刷室から出ると、安積(あづみ)先生が傍を通りかかった。生天目は教頭の席を見遣った。不在。
「生天目先生に渡したいものがあるんです」
 安積先生の声音とは裏腹の険しい相貌を見ることができるのは、生天目だけだった。
「私に……?」
 安積先生のもとにも怪しい封筒が出回っているというのか。
 生天目は安積先生を目で追った。デスクに戻り、小さな布包みを手にして安積先生は生天目の席へやってくる。
「以前までどなたかの手作り弁当だったでしょう? 毎日ジャンクなものでは不健康です。余り物なのでどうぞ」
 渡されたものは弁当のようである。しかし善意ではない。声音とは真逆の表情がそう伝えている。
「ありがとうございます……」
 何かある。善意でないなら遠慮も要らない。生天目は形式的な問答もせず、布包みを受け取った。
 安積先生は怒っているのだ。証拠の動画を撮っていることを昨日、打ち明けた。そのときの反応からして、この弁当は感謝や礼というわけではないようだった。


 生天目は裏校舎裏の、コンクリートの壁とプール棟の壁に挟まれたところで安積先生から受け取った布包みを解いた。日当たりの悪いところだが、晴れた日はちょうどいい。昼休みは生徒の出入りも少なかった。
「手作り弁当なんすね」
 顔を上げると斑霧がいる。
「ああ、斑霧か……」
 そしてこの男子生徒に用があったことを思い出す。
「斑霧、少し話がある。放課後、残ってほしいんだが部活が忙しいのならその後でも……」
 斑霧は生天目の手にある弁当箱を見下ろしていた。まだ大判の布の端が垂れて、中身は見えない。浅く寄せられた眉に、空腹による羨望は見出せなかった。
「放課後で大丈夫っす。ヤバいことっすか?」
「いや、ちょっとした相談だ」
「……そっすか。先生、お弁当、久々ですね」
 斑霧は笑っている。だがその眼差しは訝(いぶか)っている。
「よく見ているな……」
「カノジョからのお弁当ってやっぱ憧れるじゃないすか」
「母親の手作りだったらどうする」
「だって先生、一人暮らしだって言ってたじゃないすか」
 生天目は男子生徒の顔を覗き込んでしまった。若い瞳に戸惑う。眩しい。否、元々、他者と目を合わせるのが苦手だった。後ろ暗い自身の所業、気質を指摘される隙を与える行為に思えてならない。付き合った人間と別れるときのことの考えるように、一度視線を搗(か)ち合わせたら、逸らし方を考えてしまう。結ぶことより解(ほど)くことのほうが厄介なのだ。煩わしい。ならば結ばなければ、解かずに済む。
「一人暮らしでも弁当くらい、自分で作れるさ」
 意外だ、そうは思えない、と軽口が返ってくるはずであった。しかし斑霧は、下唇を浅く食(は)んでいた。何か気に入らないことがあったようだった。機嫌を損ねたようだった。
「男側が弁当を作ったって、いいしな」
 斑霧は弁当箱を凝視していた。けれども、弁当箱そのものに興味があるようではなかった。
「今は自炊のひとつもできないと愛想を尽かされるよ」
 斑霧は肩を落としていた。一体何を考えているのだろう。この男子生徒が掴めなくなる。
「ときに斑霧は、赤羽根と関わりはあるのか」
「あんまりないっすけど……」
 「けど」。最近の終助詞のようなものだ。言葉は日々変化している。断定を避けたがる昨今、婉曲的な表現は人間関係を円滑にし、責任から逃れられ、自身を柔和な人物とごまかすこともできる。
「――オレだけかも知れねんすけど、個人的には、なんとなく、久城の姉ちゃんに雰囲気とか似てるなって思いました。先生は久城の姉ちゃんに会ったこと――」
 言い切られることはなかった。斑霧はばつの悪い顔をする。この男子生徒は親友の家庭環境を知っているのだろう。そして父母に代わり姉が保護者をしていたとことも知っているのだろう。仮に父母が保護者をしていたとしても、その親友の葬儀で間違いなく顔を見ている。姉妹兄弟なのだから。一般的にはそうだ。例外もある。長兄と雫漣(しずくれん)だ。
「あるよ」
 斑霧の纏う空気が変わる。木枯らしに似ていた。
「オレはなんとなく、似てる気がしたんす。なんとなく……」
 男子生徒は悪事を咎められでもしたのか、言い淀むなか言葉を探し、だが浮かぶ言葉は少なく、間を保たせる技量もないかのような有様だ。
「……目があって、鼻があって、口があって……な」
 助け舟を出したが、斑霧は口を引き結び、生天目を睨んだ。不満らしい。同意以外は助け舟にもならなかったのだ。
「じゃ、オレは部活の準備があるんで……」
「気を付けろよ」
 生天目は斑霧の後ろ姿が見えなくなるまで呆けていた。赤羽根繭香を前にしたときの教え子の姿がまた新たに甦った。姉に似ているために落ち着きがなかったというのか。
 考えてから、生天目は安積先生から受け取った弁当箱の布を退けた。底の深い耐熱性の食品保存容器にオムライスが入っている。蓋の上に四つ折りの紙が乗っていた。広げると文字が書いてある。これ以上、教頭との間に起こっているセクシュアル・ハラスメントについて関わり合いになるな、自分には大したことがない、生天目には関係がなく、口を出される筋合いはないという旨が書かれていた。
 オムライスを食べていると、匂いを嗅ぎつけた薄汚い猫が影からやってきた。飢えと寒さのあまり、人に媚びることを覚えたようだ。半年前までは懐いていなかった。そういう色味なのか、塵と埃で汚れているのか、砂色の猫は生天目のもとへ寄ってくる。厳しい自然のなかに身を置いている。自然は容赦がない。立ち止まれば、淘汰の働きに呑まれてしまう。
 生天目は野良猫を躱しながら食事を済ませる。猫はまだ諦めず、今度は人間から体温を奪おうとしていた。
 猫は飼われるのが幸せだと主張する女生徒がいた。「青少年の主張」と題したコンテストの、クラス選考で聞いたのだったか。他者の幸せを、一体誰が決めればいいのだろう。当事者の口さえ信じらない。生天目の目蓋の裏を駆けていく女性から、幸せだと一言聞けたなら、思考も主義も投げ捨てて、盲信もできたかもしれない。幸せなど、ある程度形が決まっているのだ。相場も決まっている。戦争はあるよりないほうがいい。犯罪はあるよりないほうがよく、暴力も然り。金があって困ることはなく、家があって困ることより、無くて困るほうが深刻だ。
 蜂須賀(はちすか)舞夏(まなつ)はその点に於いて、間違いなく連れ合いを幸せにできる。器の大きさも違う。幸せだと口にする女性に、新たな救いの手を差し伸べられるのだ。"真の幸せ"の正体を彼は知っているのだ。
 野良猫が膝に乗る。砂臭い毛並みを押し当てる。近所の住民や、生徒からエサをもらっているのだろう。半年前とは見るからに毛質が変わっている。
 生天目は、もう一度手紙を開いた。何度目を通しても文面は変わらない。意味合いも変わらない。解釈も変わらない。ただ、自分の意志を疑うだけだ。
 蜂須賀舞夏ならば、どうしていただろう……



 放課後、斑霧愛嵐と面談室で待ち合わせた。大した話ではないと言っておいたが、彼の表情には緊張の色がある。遠回しな話は不安を煽るだけだ。
「斑霧に手紙が来ているんだが、心当たりは?」
 互いに腰を下ろした直後、生天目は切り出した。赤羽根繭香から預かったクリーム色の封筒を見せる。斑霧は目を見開いた。
「えっ………知らないんすけど。誰から?」
 生天目は斑霧が隠し事をしているとは思わなかった。むしろ巻き込まれてさえいるようだった。
「宛名がない。ただ、分かっているところでは、丘島から赤羽根、赤羽根から斑霧という流れで回ってきたらしい」
「なんて書いてあるんすか」
 瑞々しい肌が一瞬で汗ばんでいる。
「先生もまだ見ていないんだ。斑霧のことが書かれているのだとしたら、勝手に知るわけにはいかない。ただ、1人で読ませるわけにもいかないから、今、この場で読んでほしい。封は先生が開ける。いいか?」
 斑霧は頷いた。
 封を切る。刃物が入っている様子はない。中にはクリーム色の封筒より小振りなブルーの封筒と二つ折りの紙が入っていた。その2つを金縛りの最中のような憐れな子供へ差し出す。おそらく汗ばんでいる手が、紙を拾った。裏側から透けている文字の羅列からして、短い手紙のようだ。
 生天目は生徒の顔色を窺った。
「これ、生天目先生に渡せって」
 斑霧はクリーム色の封筒のなかに入っていた淡いブルーの封筒を手にした。その表情には安堵がある。
「………おれに………?」
 今度は生天目が肝を潰す番であった。
「ほら」
 赤羽根繭香がもらった手紙と同じ書体、名前の部分を入れ替えただけの変わりがない文体が印刷されている。そして斑霧から生天目へ封筒を渡せという旨も、赤羽根繭香がもらったものと同様である。
 生天目は淡いブルーの封筒から目を離せなくなった。
「開けないんすか」
 今すぐに開けたかった。しかし生徒の目がある。何が書かれているのか分からない。生徒の前で開くものではないだろう。
「どうせ誰かに渡せと書いてある」
「丘島サンから赤羽根サン、それにオレから生天目先生。みんな同クラですね」
「趣味の悪い悪戯だな。昔、不幸の手紙だのチェーンメールだのがあったけれど、今度は新しいドッキリか……」
 平静を装う。相手は子供だ。生徒である。
「付き合ってくれてありがとう、斑霧。もういいぞ。部活に行くんだろう?」
「っす」
「怪我に気を付けろ」
 男子生徒は面談室を去った。
 テーブルには淡いブルーの封筒が置かれている。生天目にはそれしか見えなかった。固唾を呑む。差出人に心当たりはある。だが1人ではない。
 封を切る。三つ折りの紙が入っていた。心臓が早鐘を打つ。
 差出人の名前は書かれていない。しかし一見して赤羽根繭香と斑霧に宛てられた手紙よりも長い。
 まずは挨拶が綴られていた。横柄な文面であった。手紙の差出人は生天目を知っているようだった。"聖職者としてあるまじき過ち"について言及し、失意の底にあると決めてかかると、労りの言葉を記している。本題は、怪文書についての自白である。差出人は現在、入院中であるという。病院名と部屋番号が記されていた。教え子について根も葉もない噂を流し、怪文書をばら撒いたことについて生天目にも迷惑をかけたことだろうから、是非謝罪をさせてほしいと書いてあるのだった。
 手紙を閉じる。これもまた怪文書に変わりはなかった。紙を持つ手が震える。無関係な生徒を巻き込んだことに、血が沸きたつ。



 病院の廊下の床はフロスキン・ビロンスとかいう小洒落たアイス屋のキャラメルマーブルバニラアイスに模様が似ていた。食欲は刺激されない。生天目はキャラメルが好きではなかった。
「もしかして、生天目くんですか」
 部屋を探すのも半ば忘れていたところに、聞き覚えのある名前を耳が拾い、我に帰る。足を止めた。目的を思い出した。同時に、呼ばれたことも思い出す。
 振り返ると、通り過ぎた病室から入院患者が身体の縦半分を廊下へ出し、生天目に頭を下げた。ベージュのニット帽を被り、青白い顔で、目元は落ち窪んでいる。骨に皮を張っただけの痩せぎすの男だった。生天目が反応すると、点滴を引き連れて廊下へ出てくる。
「やっぱり、生天目くんだ……!」
 血色といい、皮膚感といい、明らかに健康を損なっている。治療中のようだが、深刻さが漂うのは、その痩せ方とニットの下からまったく髪の一部も見えないからか。
 相手は馴れ馴れしい態度でやって来た。けれども生天目にはまったく相手が誰なのか分からなかった。
「おれだよ、おれ。小此木(おこのぎ)だよ」
 目が消え、目尻に深く皺が寄る。蝋のような肌に張りはないが、発光したような白さが退廃的な美しさを帯びている。
「小此木……」
 鈍い頭痛が起こった。忘れ得ぬ人物であるというのに思い出せずにいた。生天目は小此木と名乗った男の顔を凝らす。当時の面影はまるでない。
「せっかく会えたんだし少し、いいかな。忙しい?」
 怪文書の差出人は彼なのであろうか。生天目は数度頷いた。
「悪いけど、ちょっと横になっても?」
 生天目は頷いた。 
 小此木は左右に揺れるように歩く。ベッドに横になり、生天目のほうを向く。柔和な顔付きが途端に歪んだ。
「生天目くんには、謝りたいと思っていたから……神様に届いたんだね」
 ふと、この入院患者は助からないのだと生天目は理解した。そして当人もその運命を承知している。
「本当に済まなかった。何度謝っても、謝り足りないし、こんな状態で謝るのも、なんだか卑怯だな」
 小此木の落ち窪んだ目が潤んでいる。青白い肌には朱色が差すとよく目立つ。
「もっと元気でいられたらな……」
 病床に臥す同窓生と、記憶のなかの人物が一致しない。人間は変わるのだ。
「もっと元気でいられたら、生天目くんも言いたいことが、あったよな……」
 忌々しい出来事も、今や砂をかぶっている。消せはしない、忘れもしない。だが薄らいだ。やっと薄らいでいた。自ら口にし、傷を舐め合ったことで、塞がる傷もある。乾燥はよくないのだ。湿潤療法を選んだのだ。
「ねぇ、生天目くん。おれはちょっと、大きな病気をしちゃってね。具体的なことは言いたくないんだけど……色々考えたんだ。生天目くんのことはずっと考えてた」
 病人は気丈に振る舞っているが、長くはないのだろう。人は変わるというけれども、性分までは変われない。臆病な人物であった。命の事情を盾に、もはや開き直っているのだろう。そういう明るさだった。危うげな明るさであった。自棄になっている明るさだ。
「坪田、本菱冲(もとびしちゅう)物産に就職して、今は結婚して子供もいるらしいよ」
 いじめの主犯格というものは往々にして社会的に成功しているものだ。飽きもせず排他活動を続けられる気力と、クラスを束ねる統率力、上手く立ち回る学内政治力が転用されるのであろうか。同時に危うい。高いところから落ちたほうが、怪我も損失も大きい。
「あいつ等がしたこと、暴露しようと思うんだ。SNSで……裏アカってやつ」
 生天目は懐かしい気分になった。この元同級生とは当時もあまり接点がなかった。接点があったのは双子の弟・和己(かずき)のほうだ。生天目は弟とこの元同級生が話しているのを見たことがある程度であった。属しているグループが違った。
 闘病者は生天目の顔色を窺っている。
「生天目くんは、今、何してるの? やっぱりもう、結婚して家庭があるの?」
「いいや……」
「仕事は?」
 濃い隈を携えた眼が生天目の服装を見分している。
「高校教師」
「そうなんだ! なんか意外だな。生天目くん、こう言っちゃなんだけど、ヤンキーっぽかったから……元ヤン先生だね。ドラマみたい」
 生天目は息を詰まらせた。脳裏に漏斗を突き刺され、液体でも注がれている心地になった。思い出す必要もない高校時代の自身の情報が奥底から現れる。水を得た乾物だ。
「最期に会えてよかった。これで心置きなく…………心置きなく治療できるよ」
 生天目は顔を背ける。この病人は何か勘違いしている。だが勘違いではないのかもしれない。自身の胸三寸で決まることであるというのに、生天目は逃げた。
「お大事に」

4


 目が乾いた。目蓋を落とす。手紙の差出人にこれから会う。ある程度、見当はついていた。雫漣(しずくれん)か、その兄か。
 手紙に印字された部屋番号に辿り着く。引戸は開いたままだった。通過して、中を窺うこともできた。しかししなかった。ドア枠を潜る。
「失礼します」
 個室であった。ベッドの脇に50代後半くらいの女性が座っていた。元教え子の葬儀で見た彼の母親ではない。まったく覚えのない面立ちである。生天目は言葉を失った裏で手掛かりを漁った。
「探偵さん?」
 穏やかな笑みを浮かべた、気の好さそうな婦人は顔を上げる。
「探偵……?」
「探偵さんよねぇ?」
「ち、違います。私は生天目と申します。土屋東高校というところで教職に就いておりまして……」
「あらぁ。眼鏡を掛けていらっしゃるから、探偵さんかと思った」
 探偵。思い当たる人物が1人いる。しかし生天目は何も知らない振りをした。
「そちらの方は?」
 ベッドで寝ている男の顔には覚えがある。眠っているが、雫漣と同じ面構えをしている。元教え子に目元が似ていた。
「ワタシの娘にたいへん酷いことをした人ですの」
 元教え子の上の兄は接待飲食店に勤めているとかいう話だった。よくある話である。金を貢ぐために身を磨り減らし、結局は目当ての男性と交際することも叶わず、残るのは借金と後ろ暗い履歴だけ。珍しい話ではない。
「はあ……」
 婦人は生天目を眺めていた。遠慮もない。気品のある人物に思えたが、視線が物語っている。所詮は水商売に騙された小娘を擁護する母親だ。
「高校の先生なんですってねぇ?」
「はあ」
 生天目もまた婦人を品評する立場になかった。落胆が態度に表れていた。手紙の差出人は眠っている。日時など書かれていなかったのだから、この入院患者が生天目の来る可能性を推し測る由(よし)はない。入院しているのだから、つまり常駐していた。日時を記す必要が抑(そもそも)、なかったというわけだ。
「ワタシの娘も、そんな真面目な方と、一緒になれればいいですけれど……」
 教職に就いていると言えば、社会的な評判は悪くない。だが古い考えだ。盗撮事件だの、暴行事件だの、未成年淫行だの、不祥事には枚挙にいとまがない。しかし目糞鼻糞を笑うようなものだ。
「そんなたいそうなものではありませんよ」
 生天目も後ろ暗い経歴がある。拭い去ることはできない。脆く崩れそうな人に寄り添うための一歩を踏み出したつもりが、膿み腐った傷口を舐めさせてしまった。救うつもりが救われてしまった。清い人を穢してしまった。若くして苦しみのなか死んでいった教え子を裏切ってしまった。
「あらぁ……でも、うちの娘も、前は教職の方と付き合っていたみたいよ……?」
 生天目はベッドで寝ている男を一瞥した。"職業に貴賤なし"とは本当であろうか。生天目には職業に対する貴賤の観念があった。恋愛の発展を仄(ほの)めかし、孤独な小娘の承認欲求と自己肯定感を利用して身を削らせ、金を稼ぐ接待飲食業と比べてしまえば、高校教師は嘸(さぞ)かし立派に見えるだろう。しかしそれも商品札の話である。検品すれば、不良品は紛れ込んでいるものだ。
 賤しいのは果たして職業なのか。人には各々の限界と能と事情がある。
「それは……失礼しました」
 入院患者の目が覚めていれば。そしてこの婦人がいなければ。生徒を巻き込むなと言って帰りたかった。溜息を呑む。
「私は病室を間違えたようです。すみませんが、ここで……」
「あなた、今現在付き合っている方はいるの?」
 生天目はこの婦人にとって偶々、同じ病室で鉢合わせた男に過ぎない。しかし随分と踏み込むものである。
「おりません……」
 眉間に皺が寄り、音吐が低くなる。
「今までにも?」
 中年女性を横目で見る。答える必要はなかったのかもしれない。だが邪険にするにも気力が要る。警戒を表にするよりも、口を動かすほうが簡単なのである。
「いいえ」
「今までに、1人も?」
「……はあ」
 中年女性の強い眼差しに、彼は首を竦める。
「……なんですか」
「最近の若い女の子はバカだよ。こんな真面目そうな人を放っておくなんてねぇ」
「逆です。賢いんです。真面目そうなだけで、いたって真面目でも何でもない男が根からのろくでなしの根性なしの甲斐性なしであることをよく心得ているんです」
 中年女性の笑みは穏やかだ。若造が何か言ってるとでも思ってるのだろう。
「そうだ。うちの娘なんかどうだい」
 よくもまあ、この女は接待飲食業の従業員に搾り取られた娘を初対面の男に勧める気になったものである。生天目は口角を吊り上げた。
「心に決めている人がいるんです」
「あら……でも、ついさっき………」
 ありがちな逃げ口上だ。証人は要らない。
「一方的なものです。すでに決着しているんですが……その人が相手ではないのに、誰かとどうこうなる必要性を見出せなくて」
「どういう方なの」
 この与太話が見ず知らずの中年女性の関心を引くとは思っていなかった。
「どうという人でありませんよ」
「その人とはどこで出会ったの」
 中年女性は生天目のほうへ身体を傾け、生天目はその分、後退る。
「生徒の姉です。とても褒められたことではありませんが……」
 中年女性も無作法であれば、生天目も生天目で野暮であった。しかし踏み込まれたならば仕方がない。開き直った。
「生徒のことで……弟のことで悩んでいるところを、言い寄ったんです。そういう人間ですから、お嬢さんを貰い受けるに相応しい人間ではないのですよ」
 己の存在が、この中年女性を詮索屋にしている。
「長居しました。私は部屋を間違えたようです。失礼しました。それでは」
「人が人を好きになる。いけないことですか」
 咎めるような口振りであった。この女性も後ろ暗い人生を歩んできたのであろうか。そこに慰めの色はないように思われる。
「……好きになるのは、内心の自由です。既婚者であろうが、相手が子供であろうが、血の繋がった相手であろうが……けれど、表にするならば、相応の賢さが必要ですよ」
 彼女の意思を読み取り、同意を示し、終わらせればよかったのだ。生天目は自身の誤った選択に後悔ばかり繰り返す。分かっていながら、また後悔するのだ。後悔が趣味なのだった。求めているのかもしれない。
「相手の方とは、円満に別れたのね?」
「もう行きます」
 病室を出ると、長身痩躯の男とすれ違う。眼鏡を掛けているような気がしたが、顔は見なかった。遅れてバニラの匂いがやってきた。



 たまたま開いたノートPCの画面に、インターネットニュースが新聞よろしく並んでいた。身に覚えのある見出しをクリックする。一流企業に勤める一般人の会社員についての記事であった。時事問題を扱う著名なSNSアカウントと大手配信者が告発を受け、この会社員の高校時代に起こした悪事を糾弾し、世論を喚起しているという。
 復讐劇である。だが他人事だった。生天目には過去のものになってしまった。
 ページを消すと、デスクトップにはゲージが表示されている。空のゲージがグリーンで満ちると、生天目はUSBメモリーを抜いた。蛍光グリーンが安っぽい。職員室を見回す。書き仕事をしていた教頭がふと顔を上げ、目が合ってしまった。安積(あづみ)先生はいない。
『どうせ自己満足だろ。やめろよ』
 生天目は隣を見た。亡霊が立っている。
『どうすれば、お前は、眠れるんだろう?』
 気が狂っている。気が狂っていることは分かっても、治し方を知らない。
 亡霊の相手をしている場合ではなかった。生天目が職員室を出る。
 安積先生の行動パターンは知っていた。また生徒と逢い引きしているのだろう。スリルを味わっているのではあるまいか。
 安積先生は、ちょうど降りようとしていた階段を上ってくるところだった。生天目と鉢合わせ、渋い面構えを隠そうともしない。
「安積先生」
 おそらくは、話しかけるな、とでも思っていたのであろう。偶々鉢合わせただけであってくれと思っていたに違いない。
「なんですか」
 落胆がありありと伝わる。生天目は横断歩道でも渡ろうというのか左見右見(とみこうみ)してから安積先生に向き直る。
「しょ、しょ、証拠の動画を撮りました。もし、気が変わったらお役立てください」
 USBメモリーを差し出す。
 安積先生も生天目同様に周りに気を配る。それから眉間に皺を寄せる。
「要りません。もう首を突っ込まないでくださいと、何回言ったら分かるんですか」
 突き返すつもりだったらしいが、USBメモリーは吹き飛んで、光沢のある床へと転がり落ちる。
 生天目の反応は遅い。安積先生のほうが先に、落とし物を捉えていた。
「壊れていたら、弁償はします。でも、謝りませんよ」
 拾い上げ、気拙(きまず)げな顔をして、安積先生はUSBメモリーを突き返す。
「先生、誰と喋ってるの?」
 安積先生は目を見開いた。階下から聞こえる男子生徒の声に焦燥している。足音が踊り場へ近付き、姿が見えた。にきび面という点以外に特に目立つところのない男子生徒が、安積先生よりも先に生天目を捉える。目付きが悪く、眉を剃っているようだ。そのために素行不良児の紋切り型のような印象を受ける。生天目には接点がない生徒だった。
「要(かなめ)くん、あっちに行っていなさい」
 第三者がいる前である。威儀を正そうとしたのだろうが、声音に甘さが残っていた。安積先生と爛れた仲にあるのはこの生徒のようだ。
 生天目は要と呼ばれた男子生徒と見詰め合ってしまった。"見詰め合った"と思っているのは生天目のほうだけなのかもしれない。
「生天目先生、職員室で話しましょう。ここで話すことじゃありません」
「何の話?」
 男子生徒が口を挟む。 
「授業の段取りのこと」
「なんだ、安積先生に言い寄ってるのかと思った」
 男子生徒なりの牽制か、将又(はたまた)、自ら口にして身を躱したのか。ところが安積先生のほうには緊張が走る。
「もう、何言ってるの!」
 まるで、男子生徒のクラスメイトの女子生徒かのような振る舞いである。
「あっちに行ってなさい。大事な話をしてるんだから」
 男子生徒は叱られていることを分かっているのかいないのか、浮ついた様子で階段を引き返していった。遠回りをして教室に戻るのだろう。
「生天目先生は何がしたいんですか。自分たちが上手くいかなかったから、当て付けたいんですか」
「ち、違います……私の目から見たらセクハラだったものが合意か不合意か、それはもうどちらでもいいです。その道の正しさについても私の語るところではありません。ただ、あれを職員室でやられるのは不快です。ですから合意ならやめてください。やめさせてください。不合意なら私が協力します」
 安積先生はまだ探るような目を向けてる。
「生天目先生。こういうことをされるたびに、必死に抑えていた気持ちと向き合わなければならなくなるんです。生天目先生は男性だから分からないでしょうけれど、女というのはこうして罪を突きつけることもできず、忘れるかやり過ごす術(すべ)を得て生きていくんです」
「そ、それは間違っているから……間違っていると言うからには、私も協力するんです」
「迷惑です。ヒーロー気取りは、や、め、て、く、だ、さ、い」
 安積先生の人差し指が、生天目の胸を小突く。
「きょ、きょ、教頭もこのこと、ご存じなんですか。だから何もできないんですか」
 安積先生は答えなかった。
「安積先生!」
「これ以上首を突っ込もうとするのなら、生天目先生のほうがワタシにとってはセクハラです」
 合意なのだ。これは安積先生と教頭のプレイの一貫なのだ。痴漢と痴女は所構わず、触りたいところで触り、触られたいところで触らせておくのだ。部外者が容喙(ようかい)することではない。もし関わることができるとしたら、それは共犯か、告発者としてである。
 生天目はUSBメモリーを握り締める。
 腑に落ちない。しかしどこへ行こうともあるのは己の中で完結する満足感である。
「……………分かり、ました」
 安積先生は、知らない匂いを残して去っていく。洗濯用洗剤か、洗髪用洗剤か、コロンか、将又(はたまた)、女の肌の匂いか何か。ただ、期待していた香りとは違う。



 放課後、教頭から呼び出された。心当たりはある。自ら切り出すか、切り出されるか。否、自ら切り出す度胸はなかった。それとは違う話の可能性が皆無ではなかった。
 別室に呼ばれ、生天目は座らされたが教頭は座らず、周りを練り歩く。窓から入る光は強いが、部屋はその分、影を落とす。
「安積先生についてのことなんだがね」
 皮と骨が強調された、老いた男だった。脂肪が落ち、脂も乗らなくなってしまった。人間は20代半ば辺りから、ふと老い方に多様性を持つ。病院で邂逅(かいこう)した元同級生のことが思い出された。もう長くはないのだろう。病没していった芸能人の闘病中の姿に似ている。生天目はそれ以外に病死者を知らなかった。
「はあ。安積先生がどうかされましたか」
『教頭がセクハラをなさっているという、あの?』
 生天目は額に手を添える。亡霊が突っ立って、嗤っている。逆光して、姿は朧げであった。
「君がやっていることは、昨今でいう……昨今でいう、セクハラというやつじゃないかね」
『滅相もない! 教頭の手腕、大胆さには負けますな、ギャハハ』
 亡霊が嗤っている。元教え子は、教頭が嫌いだったのであろうか。嫌いではないのだろう。好きか嫌いかは関係ないのだ。高校生というのは往々にして教頭や校長の禿頭(とくとう)を嘲笑うのだ。男子高校生に至っては往く道だということにも気付かず、或いは否定し、禿頭を蔑む。実際、教頭は残った髪をどうにか左右に架けていた。
「セ、セクハラ? 私が、ですか」
「最近安積先生に言い寄っているようですな」
「言い寄っているわけでは……」
『教頭、セクハラやめろよ、って、言えよ』
 生天目は亡霊を睨んだ。
「図星といったところだね」
「違います。何か困りごとがあったようですから……」
「安積先生が君に助けを求めたのかね? え? 生天目くん」
 求められてはいない。しかし教頭は厳密な事情聴取がしたいわけではないのだ。助けを求められたか、求められていないか。その事実はどちらでもよいのだろう。ここで重要なのは、教頭に屈するか、屈しないか。上の立場に忖度するか、しないかなのである。生天目は、この教頭よりも社会的地位、ムラ的格は下なのだ。それは認めるほかなかった。常に負け続ける。争いを好まないふりをして、負けるのが恐ろしいのだ。負けるのが恐ろしいのではない。自身に対する自身の期待を挫かれるのが恐ろしいのだ。
 生天目は教頭の目を捉える。逸らされる。
「安積先生のコップを勝手に使っているのは、何のためかね、え?」
 生天目は曝された横面を凝らした。
「安積先生のことを、よく見ていらっしゃるんですね」
 色の悪い唇が波打つ。
『自分(てまえ)も守れないクセに、何にこだわってんだよ』
「恥ずかしくないんですか」
「恥ずかしくとは、何かねっ!」
「いいえ。教頭先生には後ろ暗いところがないというわけですね。分かりました。安積先生にもセクハラです、と今日言われたばかりですから、本人がそう言うのならそうなのでしょう。ただそのことを私に突きつけてしまった以上、教頭も安積先生も、そして私も、もう内密にできませんね」
 生天目は蛍光グリーンのUSBメモリーを突き出した。
「ここに私の盗撮の証拠が映っています。教育委員会に提出してください」
 教頭はすぐには受け取らなかった。おそるおそる、眠る虎の前に落とした貴重品でも拾うかのような慎重さであった。背は高いが痩せぎすのどこか不健康そうな教頭と、まだ若く背丈も劣らない生天目には体格差がある。暴力沙汰になれば、教頭も自身が劣勢になることを理解しているのだろう。しかし人間社会である。法治国家である。秩序の保たれた情勢である。いくら生物として、或いはオスとして優位であろうが関係ない。生天目には教頭の頬骨を打ち砕くつもりも、頭蓋を搗(か)ち割るつもりもない。
 教頭はUSBメモリーを手にした。
 教職に、大した執着はない。


 長い会議を終えて、生天目は職員用玄関を出た。
「生天目先生」
 呼び止められ、振り向けば青褪めた安積先生が立っていた。裏校舎のさらに裏。北側の窓には物置き代わりのトタンの軒が設けられ、日が落ちればさらに暗くなる。電灯が必要だが生憎、接触不良を起こして今や点きもしない。
「どうも、すみませんでした」
 生天目は乱雑に頭を下げた。疲れてしまった。この玄関を出れば、実質的には晴れて無職というわけだ。
「何故、否定しないんです。どうして弁解しないんですか。ワタシの口から、すべて話せるわけないじゃないですか」
 生天目は首を振る。
「別に、いいです。教員なんてなるもんじゃない。なるもんじゃないんですよ、教員なんて。おれみたいな人間が……」
 ふと、目蓋の裏を通り過ぎていく人影があった。死んだ子供だ。側頭部に硬貨大の傷跡がある。毛が生えない。そのことを姉は気に病んでいた。
 発見というには驚きがない。思い出しただけである。内心で起こった一瞬の興奮は、溜息によって冷やされていく。
「ワタシは一言も、他の人に生天目先生のことは言ってません」
「分かっています。恨んだりなんかしていません。ただ、ろくでもない道を選んだおれから一言、言い残すことがあるとすれば……ろくでもない道に行けば、相応の結末があるということです。おれみたいに」
「望むところです」
 ならば、言うことはない。燃え上がっている頃は何も怖いものなどないのだ。火中にいる者に、氷海に落とされた者の気持ちなど分からない。逆もまた然り。否、生天目は氷海に浸かっているのではない。生温い草原を、やっと歩けているのだ。
「安積先生」
「……はあ……?」
「今後、席から離れるときは、コップの飲み物は捨ててください。何が入っているか分かりませんから……」
 職員玄関を出る。駐車場は大きな通路を隔てた正面か、職員玄関真横、駐輪場の奥である。
「先生、さようなら」
 どういう意味で、その生徒は言ったのか。横切ろうとしている女子生徒は赤羽根(あかばね)繭香(まどか)だ。帰るところのようだ。特に変わりのない態度で、むしろ睨むような眼差しを向けた生天目を訝(いぶか)るようだった。
「生天目先生、どうかしたんですか。帰りの会もいませんでしたし……」
 生天目は目を伏せる。それから緩慢に首を振る。
「いいや。少し具体が悪かっただけだ。心配かけたな。赤羽根は? 帰るんだろう?」
「そうです、そうです。じゃあ、生天目先生。また明日。さようなら」
 亡霊は現れもせず、沈黙している。
「気を付けて帰るんだぞ」
 まだ教師を気取っている。冷えた笑みが出た。
 女子生徒は頭を下げて、目の前を通り過ぎていく。後姿を見送る。彼女たちを裏切る結果になってしまった。
 教職に頓着はない。 
 車までは目と鼻の先だった。だが足が向かおうとしない。彼は歩き出した。車を開け、たばこを取り出す。肺を真っ黒に汚さなければ生きている実感がない。生きている実感がないのなら、朦朧と息を吸っているだけだ。それが一番快適な状態だというのに、脱却しようとしている。
 生天目はたばこを咥えた。マッチ棒を擦り、点火する。
 痛みのない八つ当たりである。血の出ない自傷行為である。満たされなかった情動の代替行為だ。門に埋まった校章の前で紫煙を吹く。
 日が落ちていく。フェンスに沿った垣根の向こうに、気を病んだ女が立ってはしないかと疑った。誰もいない。攫われかけている男子生徒もいない。
「先生」
 煙が喉と目に沁みた。
「どうした」
 誘拐されかけている男子生徒はいなかったが、あの日誘拐されかけていた男子生徒が門から出てきたところだった。
「さっき、職員室で、話、ちょっと聞いちゃって……」
 男子生徒の潤んだ眸子(ぼうし)で、生天目は全身を火炙りにされた心地になる。
「なんでですか……なんで……」
 教頭の讒言(ざんげん)も、校長の落胆も、安積先生の意気阻喪(いきそそう)も、その他善良な有象無象の侮蔑も、取るに足らないことだった。小鳥に突つかれる程度のことだった。しかし生徒の失意だけは、生天目の胸を殴打するのだった。
「斑霧(むらぎり)……」
「久城の姉ちゃんと、別れたから……?」
 生天目は息ができなくなった。
「……知ってたのか」
「ここに来てた変な男の人に言われた」
 久城の気の狂れた兄のことだろう。
「そうか……」
 今日も来ているのだろうか。大銀杏の方角を向いた。しかし見えなかった。男子生徒に向き直ると、喉が痞(つか)える。
「だから、安積先生に行こうとしたのかよ?」
「……そうかも知れない」
「どんな気持ちで、オレの相談乗ったんですか」
「久城のお姉さんとはそのずっと前に終わっていたんだ。でも、私情を挟んだつもりはない」
「他人事(フツー)だったら、そんなの変だと思ってたんだろうけど、オレ、久城の姉ちゃんと生天目先生だから、黙っておこうと思ったんだ。幸せになってほしいと思ってた。生天目先生のほうより、久城の姉ちゃんのほうに……」
 口ではそう言うが、男子生徒も担任の教師の隠れた醜態に衝撃を受けていたのだろう。そして疲労したのだろう。そこに恥の上塗りをした。
「裏切ってすまなかった。だが、久城のお姉さんについては安心してほしい。先生よりずっと、素敵な人と一緒にいるから……」
「久城が姉ちゃんのことすっげぇ大事にしてたから、だからオレ、久城の姉ちゃんには絶対幸せになってもらいたかった。久城の姉ちゃんが生天目先生のこと好きなら、オレ、生天目先生にも幸せになってほしかったんだよ。なんで自分でぶち壊すんだよ。オレ、久城になんて祈(い)ったらいいんだよ。なんで言い訳も何もしてくんないんだよ」
 斑霧の下睫毛から淋漓(りんり)りんり、淋漓りんりと涙が現れる。
「すまなかった。本来は久城と久城のお姉さん、それか、安積先生に謝ることだろうが、生徒としての斑霧の気持ちを裏切っただけでなく、久城の友人としてのお前のことも裏切ったな。すまなかった」
「ばかやろぉ!」
 脳髄が慄えた。あの亡霊はやはり出てこなかった。生前の親友の姿も見にこない。

5


 月に落ちる夢をみる。夜空に浮かぶ月ではない。水面に映った拉(ひし)ぐ光円に沈む夢。

 息苦しい。想像してしまった元教え子の死に顔と同じものが、目の前に現れ、かろうじて光の差し込んだモスグリーンとも腐ったライトブルーともいえない視界のなかを流れ、消え失ていく。
 肺に痒みを覚えた。目が覚める。上体が跳ね、マットレスに背中を打ち付ける。ベッドは好きではなかった。
 末端の灼熱感と、痺れのような波は、微熱が出ているようだ。鼻の粘膜は泥濘(ぬかる)み、喉が痛む。たばこなぞ吸うからだ。左耳から右耳へ、紐を貫通させたような違和感もあった。
 風邪をひいたらしい。
 ピルケースを覗くと、胃薬と鎮痛剤はあるが風邪薬はなかった。
 生天目は額に手を当てる。普段と変わりはないように思える。ところが身体は平生(へいぜい)と違った。全体的にわずかに重い。肩も少し凝っている。
 ペン立てに挿さった体温計を、彼はあまり信用していなかったが、他に体温を計れるものはなかった。腋に入れてものの十数秒で音が鳴る。37.7℃。高熱ではないが、平熱とは思われなかった。
 体温計をペン立てに戻し、職場でもらった飴玉を口に放る。溶けかけている。マスカット味のようだ。爽やかな甘さが口腔に広がる。
 スマートフォンでドラッグストアを調べた。場所は知っている。しかし閉店時間は覚えていなかった。近くに商店街がある。そのなかに1軒、ドラッグストアがある。ところがそこはあと10分足らずで閉まるらしい。急げば間に合うだろう。しかし動く気力は多少あれども、急ぎたくはなかった。少し遠くに、閉店時間まで余裕のある店舗がある。近くに本屋もある。夜風に吹かれ、歩くのも悪くない。車を運転する気分ではなかった。
 不織布のマスクを耳に掛け、外へ出る。
 飴玉を転がし、歯で鳴らす。特に気になっている本はないが、何を読もうか。謹慎中に読み終えたい。風邪はすぐに治るだろう。
 少し歩いて空を見上げる。建物の狭間から月が見える。遠く離れた人との繋がりを信じたいがために、"同じ空の下"とはよく言うが、生天目にはそうは思えなかった。違う空のように思える。似た世界があるだけの、別の世界のなかで生きている気がしてならない。しかしその世界は、ふと重なってしまうのだ。 
 飴を噛み砕いた。
 夜風が頬を掠める。微熱には心地良い。
 風邪薬など飲まずとも寝ていれば治る。本を読んでも、死んでしまえば何の役にも立たない。むしろ損である。
 生天目は立ち止まった。迷いが吹き込んだ。穴が空き、生徒の叫びが頭の中に谺(こだま)する。
 すべて無駄だ。
 月を見上げる。あの月は誰に背を向けているのだろう。
 帰るという選択肢が浮かんだ。決断は苦手だった。
 帰宅したとて、寝る以外にやることはない。進むことにした。最初から決断していたのかもしれない。迷ったことを疑った。迷ったふりをしていたのだ。
 橋を渡れば、最寄駅がある。この最寄りの駅は、飲み屋街で有名な駅に肖(あやか)った名前をしていたが、こちらは寂れた飲食店街の傍にある。住宅地ばかりが立派だ。
 橋の最中で生天目は止まった。川辺を見ていた。水面には外灯の明かりが白く点綴(てんてい)としていた。月は見えない。明る過ぎる。人は踏み台なしに、上にはいけないのだ。落ちることしかできないのだ。
 欄干に腕を置く。丸い欄干は、体重が加わることを拒む。
 車の走行音の狭間から潺(せせらぎ)を聞く。

――おれの仕合わせも、貴方に半分渡したい――

 恥ずかしくなった。酔っていたことにではなかった。勝手に仕合せになり、それを自身のものだと思い込んで、けれどもその渡し方については何も知らない。
 2人で並び、アイスを食らって帰った日に戻りたい。歩道を走る自転車にベルを鳴らされ、舌打ちされたのが、今となっては大きな印象に残っている。
 否、もし時間を逆巻く力があるのだとしたら、元教え子が生きていた頃から、新たな未来へ進むべきだ。けれども無駄な妄想だ。時間を逆巻くことなどできはしない。
 しかし、もしたった一度、現実的不可能を覆すことができるのなら、そのときは……
 彼はまた迷った。その千載一遇よりも可能性のない出来事を前に、利己をとるか、利他をとるか考えた。答えが出たところで、現実の問題に何か作用することもない。
 迷うことに飽きた。生天目はまた歩き出す。駅に着き、カードを曝してゲートへ入る。電車に乗り5分。わずかに怠さが増している。本屋は断念しようかと考えているうちに、無意識はドラッグストアに寄り、風邪薬を買っていた。
 乾いた空気が喉の粘膜を痛めつける。斜向かいの本屋へ行こうとしたとき、目の前を通り過ぎていく女学生2人の会話が聞こえた。
『土東(どひがし)の制服じゃなかった?』
 土東とは、土屋東高校の略称であった。元というべきか、現というべきか、生天目の職場である。
 不穏な気分に陥ったのは病熱の仕業であろう。何も聞かなかったことにもできる。明日はまた今日を貼り付けた出来事があるだけなのだ。しかし生天目は怖くなった。湖面に喰われた教え子のことが彼の心に張り付いていた。恐ろしい結末の暗示なのではあるまいか。
 微熱の引き起こす強迫観念である。実質的には意味のないことなのだ。偶然の巡り合わせに、ストーリーを付加しているだけのことなのだ。
 虚ろな目をして、藍色に呑まれていく茜色の空の下、高校を訪れた女性の姿を思い出してしまった。浮腫んだ目元の赤さと、毛羽立った青白い肌が強く印象に残っていた。あの思いをする人がこの先も、人の営みがある限り、世の中には存在するのだ。
 通行人が来た道を辿っていく。もし何もなければ、何も目にせず、何も聞かず、何にも気付くことができなければ諦めるつもりでいた。ただ自身を煽る強迫観念を納得させればいいだけのことなのだ。体調不良の人間の情緒など、自身のことであろうが、生天目は信用できなかった。
 気が急いた。起きはしないことに焦燥している。立っていても左右上下に揺れていれば安定しているとは言えない。どちらかに崩れ、転倒して、やっと安定しているといえる。
 ほんの少し歩いた先で生天目は遠目から「土東(どひがし)の制服」を見た。生天目の正面から歩いてくる。数人に連れられ、そこには確かに土東の制服がある。割合は、土東の制服ではない者のほうが多いというのに、何故先程の通行人は少数派の土東の制服を代表に挙げたのか。
 土東の制服は子猫よろしく襟首を掴まれ、両端から腕を取られ、歩かされていた。傾げられた首は座らず、頭が転がっている。足元も覚束ない。脇道に入っていく。姿を追った。
 住宅地へ入った。生ごみと腐卵臭、排気ガスの匂いがする。一行は貸駐車場に入っていく。3台の大型車が停まっていた。その陰へ回る。隣の敷地には汚らしい白壁の集合住宅と土地を区分けする煤けたブロック塀に囲われ、逃げ場はない。
 土東の制服は皹の入ったアスファルトの上に転がされた。意識はあるようだが、抵抗の意思はすでに圧(へ)し折られているようだ。
「君たち、何をしているんだ」
 生天目は集団を覗き込んだ。土屋東高校の生徒に見上げられる。痣の浮いた顔を真正面から捉えたとき、生天目は狼狽えてしまった。安積(あづみ)先生と徒(ただ)ならぬ関係にある男子生徒だった。要(かなめ)とかいってはいなかったか。
 要(かなめ)何某(なにがし)か、何某の要というのかは定かでないが、安積先生は「要くん」と呼んではいなかったか。
 アスファルトに転がっていた土屋東高校の男子生徒は起き上がった。
「あっち行ってろよ!」
 しかし、とても放っておける状態ではない。
「誰だよ、おっさん」
 生徒を連れ回していた連中は染髪し、ピアスを開け、制服のようには見えたが、カットソーにしろフード付きスウェットシャツにしろ私服が混ざり、スラックは暗がりに溶け、校名までは定かでなかった。
「その生徒が君たちに何かしましたか」
「うるせーな。おっさんには関係ねぇだろ!」
 生天目は後退った。懐かしさがふと脳裏を突いた。高校時代の光景が甦る。
 吠えた少年の吊り上がった双眸を覗き込んでしまった。
 拳が飛ぶ。軽快な軋みを聞かせ、眼鏡はアスファルトを滑っていった。
 視界が曇る。外は暗かった。しかし生天目の身体は暴力というものを知っていた。追撃を往なし、少年を放り投げた。
 中学時代のほんの3年間テニスをやっていただけの人間が、中年になっても小洒落たサーブの打ち方を覚えているように、生天目の身体も人の殴り方を知っていた。しかし寸前での止め方も知っていた。
『ねぇ、オレのコト、誰と勘違いしてんの』
 亡霊がブロック塀の傍らに立っている。ゴーグルもなしに水中で目を開いたかのような視界のなか、亡霊だけは輪郭を鮮明にしていた。
 そのときの彼は、はたからみて不気味な存在だったに違いない。人を投げた後、何もないブロック塀の成す一隅を凝らして突っ立っているのである。
「このおっさん、やっちまうぞ」
 誰が言ったのか、生天目には見えなかった。投げられた少年本人だったのかもしれないし、取り巻きだったのかもしれない。視界不良だというのに、生天目は襲いかかる少年たちの頬を張り倒し、受け流し、転ばせた。三つ編みを繰るように感覚が馴染んでいる。 
 人の肉の奥に、骨や歯の硬さがある。
 素行不良だ。暴力による決着など野蛮だ。反知性的だ。
『自分が善良で真面目な人間だと思っていたのかよ』
 亡霊の顔が見えていく。顔は見えていたはずだ。しかし見ていなかったのだ。
 生天目は佇立(ちょりつ)してしまった。その場のリズムが崩れた。百合の雌蕊よろしく竪立(じゅりつ)していた。
 後頭部に衝撃が走る。目蓋の裏に閃光が見えた。力が抜け、アスファルトへ膝を着く。懐かしさが、集中力に磨きをかけていた。病熱に弱った身体も、意識を尖らせていた。発揮できるのは一度のみ。途切れては、この神経の糸を結び直すことはできない。
 上体を保てず、硬い床へ伸びる。関節に力を入れ直すこともできない。
「先輩のところに連れていっちまおうぜ」
 左右の腕を取られる。生天目は立たされながら、曇る視界のなか要とかいう男子生徒を探した。眼鏡無しに、暗がりに溶けるダークカラーの制服を見つけることはできなかった。
 駐車場の前の道路を車が通る。ライトがわずかに差し込んだ。蹲(うずくま)る頭がぼやけて見えた。
『おれは何も救えない。おれは何も救えないんだよ。後から嘆くだけさ。賢(さか)しらぶって、救えた気になるだけ』
 亡霊は、アスファルトに転がっているダークカラーの影に吸い込まれて消えた。
「彼は助けてくれ……!」
 視力矯正器具の失い、朦朧とした視界に静電気が走る。耳鳴りが、発話を邪魔する。
「人にモノを頼む態度か、よ!」
 他人の家の匂いが漂う。渋い匂いはタバコか、将又(はたまた)、着込んだ制服の埃臭さか。
 直後、腹に衝撃が入る。鼻腔は熱いというのに、人中が冷たくなった。
「彼は、助けてください……」
 喋るために、眼球の裏で火花が散る。頭が痛い。耳鳴りは、真夏の蝉のようだった。
「彼は助けてくれ……彼は助けてくれ、彼は………」
 譫言を繰り返していた。年少者を助けなければならない。生徒を救う仕事に就いてしまった。思ってばかりだ。何ひとつ行動に移せはしない。
 けれど生天目は左右の非行少年を振り払った。意識すべき正気が遠ざかっていた。
 目眩に身を委ね、真っ直ぐには歩けなかった。守るべき対象がどこにいるのか見当もつかない。
「要……家へ、かエれ、かナメ………うちへ、かエ、レ………」
 頭の中に蝿の大群を飼ったような羽音が聞こえる。腹が躍った。嘔吐感で前にのめる。
「はい、ストライク!」
 側頭部で、果物の潰れる音と感触があった。視界が揺らぐ。耳鳴(じめい)が一度、途切れる。首が忽如として筋肉痛を起こした。頭部が強烈な打撃を受けたことで、負荷がかかったのであろうか。
 側頭部に冷たさを覚えながら、生天目は座り込もうとした。重くなる目蓋に抗えない。立ち続けられなかった。アスファルトを褥(しとね)にしても、寝そべってしまいたかった。ところが左右から腕を引かれ、休息は許されない。
 歩かされていたが、足は縺れ、ほとんど引き摺られていた。陸地にあって、溺れていた。
 男子生徒は家へ帰れたであろうか。安積先生は脅威から離れることができたであろうか。教育委員会は教頭をどう裁いたのであろうか。
 生天目は空の染みのような月を見上げた。力尽くの波間に浮き沈みしながら、光る空の染みを凝らす。脚を蹴られる。しかし痺れて動かなかった。平衡感覚も分からない。舗装された道を歩いているはずだが、靴の外には泥濘(ぬかる)んでいるようにも感じられた。
 月が消えた。建物に入ったようだ。生天目の足はほとんど動いていなかった。鼻は血によって詰まり、口呼吸に切り替わっていたが、息の吸えている感じはしなかった。視力は頼りにならず、蝿の飛び回る耳鳴りによって、人里から隔絶されたようだった。海を漂流しているようだった。頭痛がすべてをどうでもよくさせる。皮膚は冷気を感じ取っているというのに、身体は熱かった。
 羽音の奥で無頼の輩が会話している。
 こういう連中の残虐性を生天目は知っていた。人数が多ければ多いほど、猟奇性も増していく。
 死刑宣告だろう。
 左右から押さえつける力から解放されたが、生天目は一人で立つことができなかった。自身の足に躓(つまず)き、仰向けに転がる。
 暗かった視界が明るくなった。ぼやけた人の顔が輪になっていた。パイプか角材か、棒状のものを肩に担いでいる。見えなくていいものが見えてしまった。
「要のやつが、約束守らなかったんスよ」
「ふざけんなよな〜」
「このおっさんが邪魔してきたんスわ」
「ハメ撮り観たかったわ、マジで」
 生天目は起きようと試みた。前後も左右も分からなかった。ハムスターの回す滑車に放り込まれた気分だった。吐気を催す。
 起き上がりかけた生天目の肩に靴が押し当てられる。
 脳天へ衝撃が落ちてくる。生天目の鼻から血飛沫が上がった。
「このおっさん、やっちまってダイジョーブなやつ?」
「通りすがりのおっさんだろ」
 生天目は起き上がれなくなってしまった。全身が痺れた。這う。人と人の隙間から抜け出ようとした。考えはなかった。芋虫が逃げ回るのと同じだった。滝のような鼻血が滴り落ちた。床はコンクリートで、赤い液体はよく沁み渡る。
 凶器が振り下ろされていく。


 水辺に寝ていた。うつ伏せで、息苦しさで目が覚めたのだった。重い頭を持ち上げる力はなかった。水面に映る鏡月が揺蕩う。潺(せせらぎ)が耳の中と外から聞こえる。
 首から下の感覚はなかった。しかし熱いことだけは分かった。寒さと熱さが共存していた。熱さが勝つ。
 力が入らない。しかし水が飲みたかった。身体を冷やしたかった。片腕は動かなかった。残された片腕で這う。揺らぐ月に向かっていく。
 全身が徐々に冷えていく。波紋に拉(ひし)ぐ月へ手を伸ばす。形はない。ただ冷たかった。水月は変形し、沈んだ生天目の上でふたたび月となる。

――見えないんでしょう? 月

『ごめんな、久城』
 謝罪が口をついて出た。言葉にはならなかった。舌が縺れた。

――あの子は誰にも愛されなかったって……わたし色々、言っちゃった。でもちゃんと、あの子を愛してくれる場所があったんだな。―生天目先生。ありがとうございます。わたしの意識なかに遺っているあの子が、救われた気がして

 あの生徒が嫌いだった。優等生になるには成績が足らなかった。素行不良児になるには度胸が足らなかった。中途半端な生徒だった。同時に自己紹介だったのだ。
 吐気を催した。そして嘔吐感は完遂する。喉に絡まり、息ができなくなった。咳き込む。バイクに撥ねられた胸元が、激しく痛んだ。
 水を飲む。腹も喉も痛む。熱い身体が冷えていく。ただでさぼやけた月が、さらに霞んでいく。月には届かない。
『先生』

――生天目先生……月、綺麗じゃなくてもいいですからね! 先生……、月、欠けてても、罅(ひび)入ってても……!

 強くない人間だった。ヒトとしてもオスとしても負けたのだった。野生の仕打ちは免れたはずだが、ヒトの身で生きていても野生の業に呑まれることはある。
 詫びる相手が違かった。個人に詫びても仕方がない。それならば、嘘を吐き、己を飾り立て、演じ切れもしない虚勢を張った相手に詫びるべきだった。
  否、否、必要のないことなのだ。その詫びは目的ではない。手段だ。詫びて頭を下げて、優しい人に赦しを乞うてまで仕合せの最中にいる人の視界に割り入りたいのか。

 生天目は沈んでいく。首に力が入らなくなった。口と鼻が水に浸かる。



 濁った水のなかを漂っていた。眼前には、逆さの元教え子の遺骸が浮いていた。蝋製と見紛う肌と、猫目石を嵌めたような目をして、ゆったりと揺蕩っている。とても教室で賑やかにやっていた人物と同じには思えなかった。とても賑やかな教室と仄暗い虚無の水中が同じ世界にあるものとは思えなかった。
 元教え子の頬に触れた。葬式の時にしたように掌を添える。
 これは心中だった。
 沈んでいく。
 生きていれば、義兄だと認めてくれたであろうか。否、生きていれば何も起こらなかった。人をひとり陥れることもなかった。何より彼にはすでに、義兄として相応しい男がいたではないか。
 胸が詰まった。折れた肋骨が肺に刺さった痛みであろう。苦しくなった。吐物が胸の辺りで滞留しているからだ。

 水面から手が伸びてくる。
 教え子にしたように、頬に触れていく。


 生天目はベッドに寝ていた。窓辺に人が立っている。外は眩しく、空も木も鳥も見えない。しかし逆光しているなかで、その者が中年女性だというのは分かった。母と同年代だが母ではない。
『そんなんじゃァね、困りますよ。娘を任せられません』
 知った顔だが、名前を思い出せなかった。どこで、いつ知った顔なのかも思い出せない。
『娘をね、仕合せにしてもらわないことには……』

 小鳥の囀(さえず)りが聞こえた。目蓋が持ち上がる。窓の外で、小さな影が飛び立っていく。枝が跳ねる。自宅の窓ではなかった。自宅の間取りでもなかった。壁も天井も違う。口にはマスクを着けている。緑色で、不織布の感触はない。
 ここはどこなのか。言葉が出てきそうで、出てこない。この場所を表す言葉を探っているうちに、人の気配を感じた。
 頭が動かなかったが首はわずかに回すことができた。誰かいる。声をかけた。しかし声は吸い込まれていく。口元のマスクが吸い込んでいくのだ。
「生天目先生」
 身体が動かせないために、生天目には髪しか見えなかった。しかし声で分かってしまった。ゆえに幻聴を疑った。顔が見えるまで、信じなかった。
「生天目先生……」
 だが顔が見えてしまった。目を見開いた。目蓋が痛む。けれどもそれとは別に、眼球の裏側が沁みた。
「か………っ、く、じょ………、ん、……」
 喉の粘膜が引き攣れた。胸と脇腹が鈍く痛んだ。
 月に沈んだ世界には、彼女が傍に存在している。
「分かる?」
 答えられなかった。痺れる指先を動かす。温度は分からない硬いものとぶつかった。表面の質感は分からなかった。しかし人の手だと直感した。ぶつかったものは動いた。生天目の手に重なる。大まかな感覚しか分からない。肌に物体の掠める感じが分かるだけだった。
 爪が鉛板に変わったように指先は重かった。指だけに集中する。
「生天目先生……」
 関係が戻ったのだ。それでよかった。指を動かすので重労働だった。疲れてしまった。生天目は目を閉じる。次に目を開くとき、そこは舗装された三途の川の滸(ほとり)なのであろう。現世では焼かれたが、他界では延々と深い水の底を揺蕩わねばならない元教え子の傍で斃(たお)れるのだ。虚飾ばかりの聖職者になれなかった落魄教師には過ぎた末路である。井に落ちた蛙のように、大海など知らずとも、月ばかり見上げることになる。その遠さも分からないまま。
「よかった」
 握り締められている。痺れた手には、その控えめな握力だけが伝わる。
「な…………、で、」
 意思を伝える手段がないことを彼は忘れていた。実行し、失敗し、思い知る。
「生きててよかったです。今は、それだけ……」
 握られた手が、彼女の額に当たる。まるで跪拝だった。固く瞑られた目を見たとき、生天目は叫びたくなった。しかし叫ぶだけの術(すべ)がなかった。腹の奥が重くなるだけである。内臓が凝固して漬物石と化しただけである。
 彼女に二度も傷を負わせようとしていた。傷に成り得る立場ではなかったというのに。
 三途の川で遊泳していた元教え子は知った顔に寄り添っていたのではない。懐いていたのではない。尻を叩きに来たのだ。大体、地獄という場所は、或いは極楽浄土という場所は、各個人が同一して持つ公共施設ではないのだ。そのようなシェアサービスではないのだ。
「く…………、じょ…………、さ」
 声は掠れきっていた。息が続かず、肺と脇腹が痛い。

 帰ってくれ。負け犬のおれなんか見ないでくれ。嘘を剥がすな。

TL【雨蜜スピンオフ】月に落つ【feat.生天目】

TL【雨蜜スピンオフ】月に落つ【feat.生天目】

【雨と無知と蜜と罰と】生天目スピンオフ。年齢制限はまだ分からないので一応18禁。。

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登録日
2024-11-23

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