北極星の沈黙

 いよいよ、僕が星人探しに行く初めての日になった。
 やはり任務がひとりぽっちなのは寂しい。今だけは飛行準備の整ったライトニングをよそに、見送りに来てくれた星くんの目をじっと見つめていた。果実のような赤と、今は地球という名で覚えている、青い星のような瞳。それらを浮かべている陶磁器のような白い頬を、なぜだかつねりたくなった。
「はにをひている(なにをしている)」
「ごめんね、星くん」
 近ごろ弾力の出てきた頬から指を離すと、互い違いの瞳の間に皺が寄る。何がだ、と彼が言ったので、君はつよいね、やさしいね、と小さく呟く。僕はそのまま踵を返して、操縦席に乗り込んだ。
「今回の任務、成功したらきっと二人で宇宙に行こうね!」
 叫びに近い大声で呼びかけて、天蓋を閉じる。窓の向こうで星くんが頷くのが見えた。機体に漲る轟音と共に、僕の鼓動も高鳴っていく。やがてゆっくりと前方に動き出すと、首を回して星くんに手を振った。どんどん小さくなって、やがて瞳の色も捉えられなくなってしまったとき、爆弾のような浮遊感が全体を持ち上げた。僕は前方に向き直って、操縦レバーを握りしめた。

 雲を突き抜けて大気圏までも越え、やがて星々の高度と等しくなる。静かなる宇宙に突入だ。明るすぎて目がやられてしまう大陽を背にして、月の方へと向かう。月は地上で見る何十倍も大きく、ごつごつとした岩肌がわかるぐらいに見える。以前、久しぶりに星くんの方から話しかけてきては、宇宙の話しをしてくれたのをふいに思い出した。喫茶店で過ごしていると、突然未来が見えたらしい。それは人類が宇宙に進出し、あげく月まで到達するという未来だった。星くんがいつもの調子で真面目に、でも誰にも言えないでいた話しを吐き出すように話すのを聴いて、僕は不思議な気持ちになった。それは地球上で飛行を夢見る兄弟に出会ったばかりだったからかもしれない。もし彼らに宇宙進出のことを話でもしたら、どんなに興奮することだろう。それに、宇宙へは飛行機ではなく、もっとスマートな、鉛筆のような細長い「ロケット」に乗って行くらしい。話しを聴いただけではどんな乗り物かは詳しくわからないけれど、でもやっぱり僕は飛行機の方が好きだ。
 飛行機で宇宙に行くほど、すてきなことはないだろう。僕のライトニングは惑星の合間を縫って、徐々に加速していく。そして青白くて冷たい惑星を二つ通り過ぎたときには、周りの星々は光の線を描き始めていた。そうしたらもう止まらない。光線は飛行機を避けて、飛行機は光線を避けて、やがて飛行機も線の一つになる。
 管制パネルの西暦表示器の数字が狂ったように遡っていく。父さんが言うには、星人が生きていたのは遥か昔、恐竜の時代よりさらにずうっと前、まだ地球に生命が誕生していない時のことらしい。そんな時代に一人で行くのが不安でもあった。底から響くような機体の音に慣れてしまえば、あとに残るのは静寂だけだった。横を通り過ぎていく光線の音は、ガラス窓に遮られてまるでわからない。

 どれほど時間が経っただろうか。機体の速度が徐々に落ちていくような感覚があった。周囲の光線も段々と丸みを帯びてきたとき――ついに広い空間に突き抜けた。その先の光景を見て僕は驚いた。暗い空間で身を燃やす明るい星は大陽、その周りを回る小さな星々。中心の大陽から数えて三番目の惑星は、青い肌に緑の大地と荒々しい山や岩肌を重ね、薄い雲のベールで斑らに隠している――まさに地球だった。出発地点の宇宙と似ている以上に、まるっきり同じに見えたのだ。
 声も出せずに機体をその場に浮遊させて眺めていると、耳元にノイズが走った。星くんからの通信だ。僕と視界を共有しているから、この景色は彼にも見えているだろう。早く驚愕を共有したい。
「テステス。……星くん、見えてる?ここ、僕らのいたところの宇宙とまるっきり同じだ」
「そうだな。西暦表示器はどうなっている」
「や、やっぱり冷静だね。……ええと、あれ」
「どうした」
 僕の指も、星くんの言葉も止まった。西暦表示器には「error」の赤文字、続けてメッセージには「西暦非対応 この空間には西暦が存在しません 計測不能」と書かれている。僕が呟くようにメッセージを音読するより早く、星くんは状況を理解したようだった。
「なるほど。まだ西暦という概念がなかった時代なのだろう。まだ恐竜の世紀にも辿り着いていないのではないか?だとしたら成功だ。任された時代は4.5×10の9乗前のことだからな」
「そう……なのだけれど。でも星くん。前に僕が恐竜の時代へ行ったとき、一緒に視た景色を覚えてる?そのときの地球の大陸の形と、今僕たちの目の前にある地球みたいな星の大陸の形」
 再び、通信機の向こうの声が途切れた。恐竜の時代の大陸と、僕たちがいつも眺めている十九世紀ごろの地球の大陸は、まるっきり形が異なる。そうして僕たちが今、視界を共有して見ている地球らしき青い星の大陸の形は、後者とほぼ合同だった。
「やっぱり、飛行機の故障かなぁ。過去に行ったつもりなのに帰ってきちゃった」
 むしろ、ここがもといた世界でもない、そっくりなだけの遠い遠い場所だったら。宇宙が広いということは小さい頃から父さんに散々聞かされてきたし、最近の星くんも嬉々として語る。そんなに広いなら、どこかに大陽や地球がもう一つくらいあったっておかしくない。悪い考えが暗雲のように頭の中を駆け巡った。
 けれども、それを破るように再び耳元でノイズが囁いた。
「朗報だ、サン。そこは指示された時代に違いない。司令通り月に行くんだ。そこにおれたちの目星がいる」
「星くん、もしかして僕の未来が見えたの?」
 頼もしい相棒はああ、と短く返事をして通信機を切った。僕はまた指先のレバーに力を込めて、機体を旋回させた。西暦表示器はエラーを点滅させ続けている。還ったらどのくらい時間を遡ったかがわかるように、ストップウォッチ機能をつけてもらわなければ。

「気をつけろ。星人にはステルスが効かない可能性がある」
 通信機越しの星くんの声に、地球で出会った画家であり会意でもあったひとのことを思い出した。そうだ、ステルスをかけても僕の姿が見破られていないとも限らない。僕は高度を少し下げつつ、あまり近づきすぎないように雲海のすれすれを飛んだ。
 ついこの間、望遠鏡で月世界を覗いた時とは様相が違っていた。空を見上げて驚いた顔をした星人たちがいない。星人だけではない、暗い夜の中でひとっ子ひとり見当たらない。鳥らしき黒く小さな物体が木々の間を飛び交っているだけだ。けれどもひとの気配というものは、静まり返った夜の空間の中でひっそりと息を潜めているような肌感覚があった。まるで嵐の予感を感じ取って、明かりもつけないまま家の中に立てこもっているような――。
「嵐の前の静けさだな」
 僕の視界を通して月世界の地上を観察している星くんも、静寂に引っ張られていつも以上に囁くような声で言った。僕は何も答えないで、音も上げないように気をつけながら唾だけを飲み込んだ。
 それにしても、月世界は僕が思ったより豊かで発展している。ゆったりとした周遊で緑の絨毯のような森を抜けると、途端に地上が煌めいた。色とりどりの粒が発光したり点滅したりを繰り返している。でもその光には、星のひかりのような暖かみがなかった。作り物の電燈の類が集まっているのだろうか。
「工業地帯だな。驚いた。月世界もある程度、文明化しているらしい。誰かいるか」
「ううん。やっぱり誰もいないみたい。……あっ」
 どうした、と星くんが返事するよりも速く、僕は機体を急降下させた。前に地球で見た、素晴らしいと思うものがそこにもあった。焦げた茶色の固い石が敷きつめられ、どこまでも伸びている鉄の棒が二本、その間に薄い鉄の板が規則正しく並んでいる。年季の入ったそれに僕は感嘆を漏らし、通信機からもなるほど、という声が入った。
「線路か」
「すごい、すごい。またここで見られるなんて。列車はどこかな」
 僕は四角い鉄の魅力的な箱が、人々を乗せて道づてにどこまでも行くのを思い出していた。列車は線路の上を走るものだ。ということは、この線を辿れば月世界の列車に出会えるに違いない。僕の機体もまた、無意識に線路を辿り始めていた。
「サン、もういいだろう。すまないが戻ってくれ。やはり目星(ターゲット)はさっきの森にいる」
「えー、早く言ってよ。もう、寄り道しちゃう」
 僕は星くんのため息も振り切って、目下の鉄道に目を見張らせた。透明な飛行機は、人工の光だけを纏う色のないビルの合間を通り抜けていった。

 線路はやがて、一つ目の大きな駅に入った。それでも列車は見当たらない。それよりも、駅の向こうの街並みに目を奪われた。先の工業地帯よりも建物は整然と並び、どれもが同じような暖かみのある色合い、だからこそ美しい統一感を示している。窓辺の竿に布が何枚か干されているのを見るに、それらは誰かの住まいらしい。いまだに続く暗がりの中でもこの街の親しみやすさはわかりやすく、だからこそひっそり閑としているのがまた妙に不自然だ。もう寝静まる時間なのだろうか。
 街をゆっくり観察している末に、壁に突き当たった。家々と同じような色合いの壁は横に伸びていて、どうやら街はこの石づくりの壁に取り囲まれているらしい。どこかから出ないと行き止まりだか、その心配はいらなかった。僕はそのまま発進して、機体と一緒に固い壁をすり抜けた。
 壁の向こうも、また違う様子だった。工業地帯のように眠らない光がぎらぎらと点滅しているわけでもない。また、先ほどの街のように夜の静けさを暖かく、親しみやすい雰囲気に絡ませているわけでもない。ここは夜に支配され、その黒に色彩を奪われてしまったかのように廃れていた。だからこそ、草木が風に吹き荒れる丘の真ん中に、ぽつんと建つ邸が妙に目立っていた。そこだけが街と同じ色合いを湛えているかのようだった。相変わらず電燈が灯っていないのに、扉を開けるとひかりが漏れ出すような、そんな秘密でも抱えているかのような家だ。僕はこの邸を中心にして、周りをくるくると回ってみた。
 ふと、窓の向こうのカーテンが揺らいだ。僕はひやりとした。窓が全て閉まっているとわかるくらい、邸に近付きすぎてしまった。慌ててレバーを引くと機体は急上昇して、纏っていた風まで一緒に巻き上げる。一気に雲の上まで到達した。言わんこっちゃない、と通信機の向こうから久々に声がした。
「危なかったね。ねえ、あのお屋敷に住んでいるの、ぜったい星人だよ。だから僕、見られちゃったかもね」
 星くんの無言がこわい。僕はレバーを持て余す指をハンドルに持ち替えて、機体の先頭を反対側に向けた。
「……戻ろっか。最初の森だっけ」
「……いや待て、サン。そのまま北上しろ」
「え、もっと向こうに 何か気になるものでもあった」
「ああ、ひとがいる。周りには何も見当たらないが……こいつは星人か…… わからない」
「ねえ、怪しくない 今まで誰も見かけなかったのに、そのひとだけ姿を見せるなんて」
「ああ、おれたちの敵かもな」
 敵。その二文字に星くんは弾みをつけたように言った。僕の気持ちも跳ね上がった。敵にしろ、そうではないにしろ、月世界で初めて出会うひとだ。もし仲良くなって、彼が星人であったなら、どんなにすてきなことだろう。

 進行するにつれて窓の表面は細かい露を結び、視界がどんどん曇っていった。北上するだけあって、寒い地域に入ってしまったらしい。入口の隙間にひんやりとした空気が入り込んで肌を刺した。全身が震えて、ハンドルもレバーもうまく操作できない。僕は地上のすれすれを徐行して飛んだ。
 やがて地面から丈の短い草原が消え、代わりに白いもので覆われ始めた。その正体がぽつぽつと音もなく降ってきて、窓の曇りに小さな穴を空けた。――雪だ。僕は黒い空から降り注ぐ氷の粒に、寒さも忘れてしばらく見とれていた。粒はやがて地上に到達すると、地面を覆う白い氷となる。暗がりの中では、その白さがわかるくらいに明るく映える。こんなに静かで、夜の似合うものだったとは。星くんも僕の視界を通して、この雪を見ているだろうか。
 行き先の方に目線を移すと、奥に行くにつれて風も強くなっているようで、雪の粒は横に殴られたように斑らに降っている。ふと、激しい霧粒のノイズの中に黒い影を見た。そのまま進もうとしたけれど、翼が冷たい横風に軋んで抵抗する。僕はその場に機体を下ろして、外に出ることにした。
 常備してあった薄手のコートを羽織ってみても、空気の冷たさは隙間から入り込んでくる。寒さは痛みにかわって肌を刺し、鼻と指の先を焼いた。足を進めようとしても、北国にまだ慣れていない靴では氷雪にすぐ掬われてしまう。不安定に揺らぐ黒い影を頼りに、少しずつ歩を進めるしかなかった。

 突然、風が止んだ。僕の体は驚いてつまづいてしまった。こうして雪に受け止められてみると、なぜか布団のように柔らかくて暖かい。瞼が落ちきる――寸前で、サン!と呼ぶ声がした。星くんの張り上げた声を聞くのは初めてだった。それだけで、僕の身体も意識も慌てて跳ね起きた。辺りを見回すと、ここだけ冷たい風も全身を叩く雪の粒も吹いていない。それだけで寒さは少し和らいで、徐々に体温が戻ってくるのを感じた。
 そして先の方に目線を移すと、影がいた。影の正体は、背の高い青年だった。灰色の長い髪を後ろで一本の三つ編みにして、着古した黒いコートの背中に地面すれすれまで垂らしている。ポケットに両手を入れたまま、そっぽを向いてじっと動かないから、どんな顔立ちかは窺いしれなかった。
 どう話しかけたものか、と考えあぐねていると、やっとこちらを向いてくれた。灰色に少しだけ優しいレモンイエローが混じった瞳孔は不思議な形をしていて、それでも覗き込もうとすると弾かれてしまうような底知れなさがある。透き通るような青白い肌は寒さに焼けてしまったのか、それとも怪我をしてしまったのか、ぼこぼことした傷が目立っていた。じっと口も動かさないので、思い切って僕から切り出すことにした。
「あのう……寒くないの?」
「寒いけど……」
「ここにいたら倒れちゃうよ。僕と一緒に来る?」
「どうして?俺がお前と?」
「僕、初めてここに来たのだけれど、誰もいないから心細くて。あなたがいたからほっとしたんだ」
 相手はああ、と苦笑いをしつつ、首をすくめた。そのまま、また最初に見ていた方へ視線を戻す。
「落ち着くんだ。あっちを見てると」
 そう返されて、僕も首の方向を合わせてみた。向こう側は暗かった。白い雪の粒が降り積もって照らしていたとしても、谷底を引き上げたように黒い景色が広がっていた。目を凝らして視覚を共有しても、通信機の向こうから応答はない。
「お前か。アストライオスの新しい手先(おもちゃ)
 代わりに、黒影の青年から驚くべき名前が飛び出した。
「父さんを知ってるの!?」
「ああ。俺もアストライオスの任務を受けてここにいる。お前の兄貴みたいなもんだな」
 兄貴。なんてすてきな響きだろう。僕に兄さんがいたなんて!僕は青年の正面に回り、握手しようと手を添えた。でも、ポケットから頑なに出してくれない。小首を傾げつつ、高い位置にある顔を見つめてみた。顔の角度もそのままで、目線だけが僕を見てくるせいで、瞼の小さな隙間は黒く染まった。このひとがずっと見続けている、落ち着くらしい向こう側の景色と、彩りが似ているような気がした。
「俺は月糸(るいと)。月の裏側の星人」
「月の、裏側……?」
 僕の目は瞬いた。月糸、と名乗った星人の青年は、凍える寒さに似た表情を一瞬だけ浮かべて、目の前にある僕の手を払った。何か気に障ることを言ってしまったのだろうか?でも、今度は彼の方が振り向いてくれた。表情は最初の色に戻っている。
「お前の任務は何だ?」
「星にひかりを元通り、戻すこと」
 答えると月糸はハハ、と声に出して笑って、
「残念だったね、僕はひかりを持たない。でももうすぐ手に入れる。その時だって、お前には渡さない」
 急に近づいて顔を寄せてきたから、驚いて飛び退いた。意味がわからない。――生命エネルギーともいえるひかりを、()()()()星人がいるなんて。このひとが差し出す細い指は、どうやって動いているの?
「なぁ。手を組まないか?お前の任務はひかりを元あった星々に戻すこと。俺はひかりを手に入れ、この月を動かすこと。ひかりがあればあるだけ動かしやすい。どうだ?協力し合ってひかりを集めるのは」
「月を動かしてどうするの……?」
 止まってくれない彼の熱弁に唾をのむ。黒い瞳から氷のような視線で射すくめられて、背中に冷たい汗が走った。彼はじっと見つめていた方とは真逆の方向を向いた。そこには見慣れた美しく青い星があった。
「あの地球にぶつける。地球も、人類も。木っ端微塵だ」
 何の色も持たない声だった。
 それでも雷を打ったように響いた声は、僕の頭から指さきまで震わせて、立っているのも精一杯だ。口は開いているのに、言われたことを中々噛み砕くことができなくて、うまく息が吸えない。代わりに、僕の口からやっと言葉が飛び出した。
「……いやだ。君とは協力しない」
「なぜだ?俺の任務こそ、アストライオスの第一目標だ。大好きなお父さんが喜ぶんじゃないか?」
「……第一、目標……?」
「知らされてないのか?可哀想なやつ。兄ちゃんが教えてやるよ。――アストライオスの一番の望みは、地球と人類を滅ぼすこと。あいつの人類嫌い、見てたらわかるだろ」

「待て」
 ずっと目を背けていた想定が頭の中に突きつけられたと同時に、通信機が僕の小さな鼓膜を震わせた。その声が、僕を現実に引き戻す。はっとして見回すと、僕らを取り巻く吹雪はより一層、勢力を上げていた。月糸は黒い目を丸くして、またポケットに両手を突っ込んだ。
「おっと。仲間がいたのか」
「おれたちの任務と人類、ひいては地球滅亡はどう繋がる」
「知らないよ。どこかで関わるのか、また別の思惑があるのか」
「だったら、おまえと手を組む必要はない。おれはおまえがどんなやつかも知らない。信用に値しない。サン、おれたちは自分の任務に集中すればいい」
 君に名前を呼ばれて、芯から温まっていくのを感じた。月糸は訝しげな顔をもっと青白くさせてこちらに近づいてくる。僕はゆっくり後退りして、
「ごめんなさい。さようなら」
 手を振って身を翻し、吹雪の中に駆けていった。

 何度も足を取られながら、やっと機体の影を捉えた。南の方に進んでいるためか吹雪も弱まっていく。僕は足を止めることなく、そのままの勢いで梯子に積もった雪を全身で掻きながら昇った。やっとの思いで操縦席に腰掛け、急いで扉を閉める。感覚を失った手でエンジンをかけると機体は振動を始め、全躯の雪を自らふるい落とした。両手を顔の前で擦り合わせ、乾燥した喉の奥から息を絞り出してみる。それが暖かいのか冷たいのかもよくわからなかった。それよりもわからないのは――
「サン。気になるものがある。視界を共有する」
 星くんからの無線が入る。長めの瞬きをしてゆっくり開いたとき、僕はその目を見張った。
 重たい灰色の雲の隙間から見える、澄んだ夜の空の色を裂くように、黄色がかった白い一直線が軌道を描いている。細い線はひかりを纏い、途切れ途切れの雲の合間を見るにどこまでも繋がっているように思えた。
「そのひかりを追え。おれたちの目星だ。こぐま座のα星(ポラリス)がそこにいる」
「う、うん」
 まだぎこちない指先でハンドルを軽く握って、機体を浮遊させる。オイルも冷えきってしまったようで、全体をふらつかせながらもぐんぐん上に舞い上がっていく。とりあえず、線の到達点を探るために雲の上まで突き抜けてみることにした。

「まずはこぐま座のα星(ポラリス)。この星の星人から、ひかりを戻してほしい」
 出発する数日前に、父さんは僕に任務の条件をもう一つつけ加えた。紅茶とチョコレートでテーブルを囲んでいた星くんと僕は顔を見合わせた。
「どんな星なの?」
「別名、北極星。北の果ての、不動の星」
 父さんが人差し指を翳した途端、透明なドーム型の天井はゆっくり回転し始めた。天球に張り付く星々は天から光線になり、やがて面をなぞるように円を描いていく。でもその円の中心に一点だけ、動かない星があった。ちょうど父さんが指差している先の延長線上の点だ。
「あの星、不思議だね。やっぱり特別な星なんだ?」
「なぜだ。あの星にこだわる理由は?」
 星くんと僕の言葉は同時に出た。僕は自分の疑問を差し置いて、星くんの顔を見ずにはいられなかった。任務のことについて父さんに問いかけて、ついこの間叱られたばかりだ。背中を冷たいものが伝った。
「何度言えばわかる。任務に口を挟むな」
「任務の、効率の話をしている。なぜ一つの星にこだわる?おまえがおれにつけた探査瞳(レーダー)を辿って一番近い星人か、サンが手当たり次第に発見した星人か。どちらかのひかりを戻していけば、早く終わるだろう」
 父さんは星くんの言い分に、珍しく口をつぐんだ。僕も星くんの考えに賛成だ。星人たちが暮らす世界を自由に探索しながら任務を進めていく方が、宝探しのようで楽しめそうだ。僕は何度も首を縦に振った。でも父さんは、やっぱり首を横に振る。
「だめだ。どうしても、こぐま座のα星(ポラリス)からだ。お前たちにとって星人のいる世界での任務は初めてだろう。わかりやすい目当てがあった方がいい。それに――サンが言った、特別な星ということ。あながち間違いではないよ」
 父さんは僕に微笑みかけた。僕は身を乗り出して詳しく教えて、とせがむ。父さんは再び、動かないα星(ポラリス)に視線を向けた。顔に影が落ちて、表情はよく見えなかった。
「特別だけれど、いい特別ではない。こぐま座のα星(ポラリス)は呪われた星だ、だから動かない。中心に居座ったまま自分の周りを忙しく動き巡る星たちの収束したひかりを全て飲み込み、やがて夜空に闇をもたらす」
 物語を語るような口ぶりは暗かった。僕は無意識に星くんの手を握っていた。彼の互い違いの瞳もまた、標的に狙いを定めるようにα星(ポラリス)をじっと見つめている。
 このとき、もっと任務のことについて聞いておくべきだったのだ。父さんはどうして、星人のひかりを星に戻したいんだろう。父さんのしたいことって、なに?

『アストライオスの一番の望みは、地球と人類を滅ぼすこと』

「そうなの?父さん」

 父さんは地球が、ひいては地球上に発生した人類が嫌いだ。地球での思い出話も、人類との出会いの話をしても、いつも全く耳を貸してくれない。逆に、父さんから地球への憎まれ口や人類のいがみを聞かされて育ってきたぐらいだ。
 でも実のところ、望遠鏡で覗いた地球は青くて、他の星々とはどこか違って、豊かで、とても綺麗だった。
 人類は確かに戦争や残酷なものが好きで、弱々しく短いいのちで、でもだからこそ、精一杯に生きていた。夢を持っていた。人ならざる者たちが敬意を向ける対象であった。
 辺りがゆるやかに、オレンジ色のひかりに包まれ始めた。色と同じで暖かく燃えるひかりに、僕は手を翳した。窓に張り付いた霜が溶け出し、雫となって伝っていく。このひかりの雰囲気は、なぜだかひどく懐かしい。頭の奥底に眠っていた遠い遠い昔の記憶が、自然に引っ張り出される。僕はこことは真逆の――そう、砂漠にいた。乾燥した砂に埋もれて、思い出すだけで暑かった。ぎらぎらと照りつけるひかりは全身を容赦なく刺すけれど、それでもさいごの一瞬だけ優しかった。そう、このとき声がしたんだ。今思い返してみると、この声は父さんにそっくりだ。僕はこのまま砂漠の大地ごと声に、ひかりに飲み込まれていく。このひかりの主は――大陽(アストライオス)

「……ン。……サン!」
 また、君の声に引き戻されてしまった。
 操縦席から転げ落ちた音と、鼻を打ちつけた痛みで意識がはっきりとしていく。「寝るんじゃない。危険飛行だ」という無線機越しのいつもの調子に縋るように、僕は息を整えた。よろめきつつ体を起こし、決死の思いでハンドルにしがみつく。真っ直ぐに墜ちていく機体の鼻先が背の高い枯れ木に触れそうになったすれすれで、やっと持ち直して再び空へと向かった。
 猛スピードで雲を突き抜けたところで、僕は安堵のため息をついた。徐々に速度を整えつつ、辺りを見回す。外はまだ夜のようで、空に暗がりが広がっている。氷雪地帯はまだ抜けない。厚くて冷たい雪雲を所々で被って、機体の表面が凍りつくのを渇いた音で感じる。
「スリル満点だった。視界共有を中断した。もう一度だ」
「ねえっ……、ねえ、大陽のひかりがさ、ぶわーって急に差し込んで、父さんの声がしなかった?」
「いや。おれはそのようなもの、確認しなかった。できるとしたら、視界のみだ。聴覚は通信機越しにしかそちらの状況を読み取れない」
 まだおさまらない心臓が、沈黙を嫌がっている。鼻を啜って、重たいままの疑問を投げかけてしまう。
「……ねえ。僕ら、どうやって生まれたんだっけ?どうして生まれたんだろう……?」
「……めずらしい。サンにしては、悲観的な質問だな」
 そう言って、通信機の音はぷつりと途切れてしまった。僕は操作盤にうなだれて、再び無線の音がしたのはひかりの線が延びる先、果てしないほど遠い消失点を眺めながら徐々に体温を取り戻しているときだった。
「おれたちが生み出されたのは、アストライオスの任務のために他ならない。どうした。月糸に言われたことを気にしているのか」
「まあ、そうだけれど……行ってみてわかった。地球って父さんがいうよりさ、ずっと素敵な惑星じゃない?星くんも人類に会ったでしょう。彼らは滅ぼしていいものなのかな?」
 再びの沈黙。でも今度は返ってくるのが少しだけ速かった。
「……わからない。今の状況では判断しかねるな。そもそも、地球と人類の滅亡は月糸の使命だ。おれたちには関係のないことだ」
「そうかもしれないけど。このまま見捨てられないよ」
「なら、アストライオスに反抗して止めるか?おれは手を貸さない。任務ではないからな」
 まだ冷たく張り詰めいた空気を吸い込むのと一緒に、君の声が喉の奥を突き刺さした。同じところから、君にだけは言いたくなかった言葉の欠片が集まって、吐き出すのをなんとか堪える。代わりに、目から今いちばんあついものが流れ出てきた。
 流れるままに任せて目を伏せると、星くんからの視界のまま、家の管制室の見慣れたパネルが見える。目に彼の指が近づいて、拭う仕草を見せた。とめどなく溢れるものを何度も掬っては見つめている。しまった。この状況では、僕が泣いたら星くんも涙を流すらしい。
「サン、なんだこれは。霞んだと思えば、おまえの視界が見えなくなった。共有を」
 声までが涙に濡れていて、僕はいよいよ耐えられなくなった。まったく、星くんはずるい。
 顔をめちゃくちゃに擦って、熱に浮かされたような額に冷たいままの掌を当てる。
「僕たちの任務は、星人が持つひかりを元の星に戻すこと」
 自分に言い聞かせるように声を張り上げた。通信機からはああ、と鼻声混じりの応答。
 そうだ。今の任務は少なくとも、地球や人類を傷つけるようなものではない。でも、父さんのほんとうの願いは違う。もっとこの状況を知る必要があるみたいだ。だから今は、自分達のするべきことをやっていくしかない。
 僕は星くんから見えている視界をそのままに、パネルに映った自分のひどい泣き顔を見た。そこに白く細い手が入り込んで、画面奥の僕の頬を親指と人差し指で挟み込むように――まさしくつねるようなしぐさをした。星くんはほんとうにずるい。僕らはやっと同じ方向に向き直っていた。

 空中を舞う小さな粒がやがて消え去って、どうやら氷雪地帯からやっと抜け出したようだ。下方に見える景色は、白銀色の世界から段々と土の色、そして木々の緑の色に塗られていく。氷の粒は空中で溶けて、雨粒になったものもやがて蒸発して消えていった。機内も少しずつ暖かくなって、身体の末端の感覚もいつもの調子を取り戻していた。
 光線に導かれるまま、僕は飛行を続ける。その先は放物線を描き、木々が生い茂る森へと伸びていた。
「目的地までもうすぐだな」
「うん。北極星のひとは、森で暮らしているのかな」
「そのようだ。小熊と名付けられているぐらいだからな。どうする、熊のような凶暴な獣だったら」
 やっぱりいつもの平坦な調子で言われてしまうと、冗談なのか本気で言われているのかわからない。悪寒が蘇って身ぶるいしたのを察してか、星くんのはは、と渇いた笑いが通信機越しに漏れ出した。
「冗談だよ。安心しろ、おまえが無事にこぐま座α星と相対する未来が視えた。だからこうやって、おまえに行き先を示せる」
 僕はほっと胸を撫で下ろすと同時に、機体を降下させ始めた。木々の間に、ちょうどいい谷間を見つけたのだ。愛機から降りて、散策しながら向かうことにした。

 夜の森は雪原よりも暗い。でも、星くんと見ているひかりがあった。光線は標となって、僕の行く道をまっすぐに照らしてくれていた。それに、夜空のひかりは暗いからこそよく見える。満天の星々のおかげで、僕の心細さは消え去っていた。
「ねえ、見えてる?色とりどりで、きらきらしているね」
「ああ、見えている。……絶景だな。こちらから見る空よりも綺麗だ」
「ねえ、星くん。たのしい?」
「悪くない。座ったまま、旅をしている気分だ」
「よかった。でもさ、この任務を頑張ったら、二人で本当に宇宙の旅ができるよ」
 そうだな、と呟くような君の声は、いつもよりも暖かいような気がした。
 光線の高度はどんどん斜めに下がって、その端っこが突き当たったのは、ちょうど開けた場所に辿り着いたときだった。森の道を抜けたそこに、レンガ造りの家が一軒建っていた。蔦に覆われた壁、細かい装飾のある窓、薄い煙を吐いている煙突。絵本で見たことがあるような、典型的なこじんまりとした家だった。光の端は、赤いペンキで塗られた丸角の木の扉へと伸びている。
「到着だ。どうした、サン。行かないのか」
 僕は離れたところから、家を眺めることしかできなかった。あと一歩を踏み出そうとしても、なぜだかどうしても足がすくんでしまう。――あの扉の向こうに、星人がいる。あのとき眺めた、星と同じひかりを帯びた瞳。それを持ったひとがいる。一度は会ってみたいと思った。それがこんなに早く叶うなんて。口の中に溜まった固唾を大きく飲み込み、跳ね上がった心音を抑えようとする。ひと目合わせたら、何て挨拶をしよう?僕は何と言えばいい?――心を決めて、やっと小さな一歩を踏み出そうとしたそのとき。扉が軋む音を立てて動いた。僕は飛び退いて、慌てて踵を返そうか、それもおかしいか、と悩んでいる一瞬のうちに、家から顔を出したひとと目が合ってしまった。またしても僕は動けなくなる。ずっと間近で見たかった星人の瞳がそこにある。それは遠くから眺めていたときよりも、ずうっと色鮮やかで、うつくしく見えた。
 目の前の彼の瞳自体は、夜の深い森がやがて朝の光を得ていくような緑のコントラスト、そこに黄みの混じった光の粒が、あたらしい光を受けた朝露のように、弾けて溢れている。その光は、まさしくひかりの線の色とおんなじだ。
「あの……、もしかして、迷ったんですか」
 あまりにうつくしい星の瞳に捕らわれて、僕は最初、何と言われたかわからなかった。それ以上に、相手の声は森の木々がそよ風に撫でられたときの、葉が擦れ合う音のように穏やかで小さい。聞き取れなかったから、僕は耳を近づけるように顔を傾けた。
「迷ってしまったの?」
 先よりは大きい声。
「い、いいえ。僕、ひと探しをしていて。光線を辿ったらここに」
「光線?……見えないけど」
「ちょっと特別なひかりなんです。……あなたが、こぐま座のα星(ポラリス)ですか?」
「そう、だけど。僕を探してたの?」
 僕は飛び上がりたくなった。でも、既のところで我慢した。相手の――ポラリスの顔が、みるみる怪しむような表情を浮かべてきたからだ。
「君はだれ?どうして僕を探してたの?」
「僕、サンです。任務で星人を探していて。最初の任務が、君を見つけることだったんだ」
「そう。僕を見つけてどうするの?」
「君のひかりを、元あるべき場所――こぐま座α星に戻さなくちゃいけないんだ」
 相手の顔が一段と曇った。瞳のひかりが翳ったように見えて、僕は息を呑む。強い夜風が一迅、僕たちの間を通り抜けて、木々の葉っぱを震わせた。
「ひかりの奪い合いは、もう禁止されてるんだ。誰も僕らのひかりを奪ってはいけない。星人同士でも、奪い合ってはいけないんだ」
「そうなの!?」
 僕は月糸のことを思い出していた。月糸は星人のひかりを集めていると言っていた。それはいけないこと?
 鼓動が抑えきれなくて、唇が震えだす。それを見透かしたように、ポラリスは続ける。
「君、月糸の仲間?それとも、まだ来たばかりの新人さんかな」
「仲間じゃない。僕も彼には反対してる」
「じゃあ、誰からの任務?」
「それは、父さん……アストライオスからだ」
 ポラリスの目が見開かれて、それなのにひかりが集まらない。顔が一瞬だけ引き攣ったあと、ゆっくりと逸らされた。そのまま振り向いて、扉はバタンと閉じられた。
 離れたところにいたのと、呆気に取られたのとでポラリスを止めることができなかった。さっきよりも優しくなった風が、それでも僕の頬にかかった毛先を冷たく撫でた。
「どうしよう、星くん。やっぱり、星のひかりを取り戻すのは――」
「大丈夫。落ち着いて、サン」
 冷たいほどに涼しい夜風の音が、急に言葉をもって聞こえてきたのかと思った。それは、よく聞き慣れた声だった。
 父さんの声だ。昔、砂漠で見た大陽のひかりのように暖かくて、広くて、圧倒的な声。でも今はそれが少し怖い。父さんは容赦のない大陽か、冷たい夜風に映える星のひかりか、あるいは両方か。父さんのことがまるでわからなくなってくる。
「月糸と会ったんだね」
「父さんは……地球を滅ぼしたいの?」
「……ああ。でも、それは月糸の任務。君たちには関係のないことだ。サン、状況を整理しよう。君たちの任務は、星人がもつ星のひかりをあるべき場所に戻すこと」
 それはわかっている。ついさっき、自分に十二分に言い聞かせたことだ。でも。
「でも、ポラリスが言ってた。ひかりを奪うのは禁止されているんだって」
「それもどちらかといえば月糸向けのルールだろう。彼のやり方はちょっと手荒でね。でも僕らは違う。やるべきこと、立派なことをしているんだ。――星人というのは、星のひかりを借りているに過ぎない。そろそろ期限なのさ。元ある星に返してもらわないと」
 それもこれも、初めて聞いた話ばかりだ。言い返したいけれど、溢れ出しそうな言葉たちは渇いた喉の奥で詰まって出てこなかった。それは大陽の暑さのせいか、それとも冷たい夜風のせいか。これもまだわからない。
「さあ、自信をもって、サン。僕の名前を出してしまったのがいけなかったね。それで、ポラリスには月糸の仲間だと思われて警戒されてしまったんだ。ポラリスはいい()さ。もう一度、話せばきっとわかってくれるよ」
 そうだ。僕だって、ポラリスともっと話してみたい。それは事実だ。怖がらせてしまって、ごめんなさい。君のこともっと知りたいな。君という星のこと。北の夜空で動かない(きみ)が、ひかりを取り戻したとき。もっと素晴らしく輝くと思わない?
 ポラリスへの第一声を頭の中でいくつか予習しながら、扉の方へ少しずつ足を進めていくそのときだった。
 家の中で、ガラスか陶器のようなものがいくつも崩れ落ちる音がした。そう思うと、扉はあちらの方から大きく開かれた。
 そこに立っていたのはポラリスではなかった。代わりに一人の女の子が仁王立ちでこちらを睨んでいる。双眸は血よりも濃い深紅のひかりを帯びていて、眼光の鋭さをより際立たせている。それは室内からの逆光を背に受けてシルエットのようになっている全身の中でただ二つだけ、ギラギラと瞬いていた。
「あなたも、星人……?」
 呟きが疑問として相手に届くより速く、こちらに何かが飛んできた。それが頬を掠めたと思ったら、刺すような痛みがそこに走った。拭いながら側に落ちた飛び道具を拾い上げると、それは花の装飾がついたカトラリーのナイフだった。息をつく間もなく、フォークやスプーンが次々に飛んでくる。相手を見ると、無造作に投げているはずなのにあちらこちらに逃げ回っても凄まじい勢いで必中してくる。ここは開けたところだから、隠れられそうな木も障害物も近くにはなかった。
 それでもやっと、カトラリーの矢が収まったと思ったその時。何かが駆け足で近づいてくる音がした。振り向く間もなく、それは飛び上がる。見上げると、まだポラリスを追い続けている光線に、艶のある硬い白髪が透かされてたなびいているのが見えた。
 その影を見たが最後、僕は押し倒されていた。馬乗りにされて、首に尖った爪を突き立てられる。細い指が絡まって息ができない。もの凄い力と剣幕だ。
「あんた……あんたねえ!アストライオスか月糸のダチかなんだか知んねえけど!これ以上あたしらに何か手ェ出したら許さねえ!」
「アルネブ!」
 目一杯張り上げたポラリスの声が頭の中まで響いた。彼がアルネブなる凶暴な少女を剥がしてくれたのだろう、身体が軽くなった。けれども、渇いたままの喉では呼吸が上手くできない。
 遠のいていく意識の中は妙に明るかった。そのまま、また僕を砂漠へと連れ出す。でも今回は暑さも何も感じない。
「サン――!呪文は覚えてるね?」
 じりじりと照りつける大陽へと向かって、全て引っ張られるような感覚だけが僕を襲ってくる。また声だ。とうさんのこえ。
 ――じゅもんだね。なんべんもおしえてくれたでしょう。ちゃんとおぼえてるよ。
「今しかない、さあ、唱えて!」

 サンの身体は、何かに手繰られるようにゆったりと立ち上がった。あんなに荒かった呼吸はぴたりと止み、今では息をしているかさえわからない。その口は静かに開かれ、言葉の羅列を発した。

 ――我が(たましい)の名より告ぐ。果ての命題に到る道程に記されし(もの)よ――

 冬の風のように色のない声が空を切って響き渡る。小さな文言だったのにポラリスの耳までには届いたようで、暴れるアルネブを取り押さえている腕を僅かに緩めてサンの方に振り向く。
 北極星のひかりを宿した深い緑の瞳に映ったのは、いつしか淡く青い光を纏って、腕をまっすぐ伸ばしている少年の姿だった。

 ――黄道をゆき、日輪を掠めし十三番目の座標、その使徒よ。(しるべ)の力に拠りて、(かたち)を得よ、目にもの見せよ、現を抜かせ!


 僕が()()を取り戻した時は、もう立っていられなかった。膝ががくんと落ちて、両手は地面につく。僕は――しばらく意識を失っていた。どうして?その間は、何が起きていたのだろう。そう考える間もなく、悲鳴にも近い声が耳を劈いた。
「ポラリス!おい!なんでだよ、消えるんじゃねえ!」
 アルネブという女の子の声だ。泣き声、叫び、悲痛な願い。この世の絶望の色を全て混ぜたような声だ。消えるな、消えるなと何度も反復している声が残響となって、頭が割れるみたいに痛くなってくる。ポラリスは、消える。僕がやってしまった。どうしてもその光景を見ることができなかった。彼らに対して、どうして顔を上げることができるだろう。だって僕が。僕がやってしまった。彼女に――アルネブにこんな声を上げさせてしまっているのは、間違いなく僕だ。
「もう……もういやだよぉ……星くん……」
 彼女がひとつ咽ぶたびに、僕の中で何かがすり減っていく。手が震えて止まらない。星人も、父さんが嫌いな人類だって、いのちを持って、大切なひとと生きている。やっぱり任務とか、いけないこと、では済まされないのだ。取り戻すということにかこつけて彼らから奪っていくのは。
「どうしたらいいの……?ごめんなさい……」
 もう、父さんへ助けを求めるのもやめだ。もっと早く、父さんの願いに、企みに気づくべきだった。でも、どうやって星のひかりを、ポラリスに戻せる?それがわかったとしても、どうやって抗えばいい?この状況も見られているし、父さんは僕らの生みの親だ。これまで抗えなかったのは、逃げられなかったのもある。このまま帰らずにいようか。それも嫌だ。星くんが一緒じゃなきゃ嫌だ。
「ねえ、おにぃ、さん……?だいじょぶ?」
 新たなか細い声がした。少しだけ顔を上げると、いつしか一人の少女が後ずさりしながらにじり寄ってきていた。
「これ、なあに?アリア、きづいたらここにいて」
 二人で顔を見合わせる。まだ幼い雰囲気の少女は、背中を覆うほどの長い髪を振りながら、真っ青な頬で唇を震わせている。青白い顔を見るとあまり体調がすぐれないようで、骨ばった細い足元はおぼつかない。どこからか迷い込んでしまったのだろうか。
「大丈夫。怖がらせてしまったね。ちょっと待――」
「おまえのせいだ!おまえらグルだってんだろ!おま、おまえのせいでポラリスは……」
 目にも留まらぬ速さでアルネブが跳んできたかと思うと、鼻息荒くアリアに迫ろうとしてくる。アリアは泣きだした。呼吸も段々早くなっていく。僕はすかさず間に入る。アリアに目配せをすると、彼女は頷いてその場から逃げていった。
「やめて。この子は何も悪くない。僕が――ポラリスのひかりを奪ったのは、この僕だ」
 腫れた瞼に収まった、血走った深紅の瞳をまっすぐ見つめる。すぐに目の前の顔は歪んで、怒号とともに腕が振り上げられる。その手にはどこから取り出したのか、包丁が握られていた。僕はぎゅっと目を閉じる。
瞼の裏に現れたのは星くんだった。さいごに会いたかった。せめて、もう一度声が聞きたかったな。

 いつまでたっても、どこも痛くない。ゆっくり目を開くと、まだ目の前にアルネブが立っていた。顔は僕を見ずに、視線は上の方を向いている。振り返って、僕は言葉を失った。
 僕の愛機――P38ライトニングが、ひとりでに飛んでいた。ライトが信号を刻むように点滅を繰り返すと、僕も隣のアルネブも眩くて目を細めてしまう。
「サン、聞こえるか」
「……星くん」
 懐かしいような声が、通信機越しに戻ってきた。喉の奥からまた、熱いものがせぐり上げてくる。それもやっぱり言葉にならなかった。
「任務終了、ほぼ成功だ。帰還命令が出た。……危険なやつに狙われているな。気をつけて戻ってこい」
 縋らずとも、いつもより優しい調子の声。おかげで軽くなってきた身体を翻すと、僕はライトニングが垂らしてきた梯子めがけて駆け出した。
「待て!!!」
 アルネブはまた、すごい勢いで追いかけてくる。何度も追いつきそうになる。でも、ごめんなさい。これだけは譲りたくない。早く星くんに会いたい。
 彼女が腕を振り下ろして背中を切りつける寸前、僕の腕が梯子の一段目を掴んだ。そのまま、ライトニングはふわりと浮いて飛んでいく。梯子を必死に昇って操縦席に腰掛けたとき、横目でもアルネブが立ち尽くしているのがわかって下の方を見ることができなかった。
「おまえ……ぜってーゆるさない!恨む!恨む!」
 彼女の叫びは否が応でも耳に入ってくる。操縦レバーを持つ手が震える。それでも、目線はしっかりと前を見続けていた。

北極星の沈黙

北極星の沈黙

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-11-19

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