地球でお会いしましょう
記録Ⅰ
要点……サンの飛行機の起点は西暦一九〇〇年である。
地球の青さをそのまま映しとったような空に、とつぜん、小さい何かが飛来した。誰もが鳥と見紛うそれは、いつまでも残って消えない白い一直線を尾から引いている。不思議なほどに丁寧な白線を描く鳥を人々はしばらく眺めていたが、飛び方が速いのと陽の眩しさに目がやられてすぐについと目を逸らした。そうしていつものように働き、子は遊び、やがて自分の棲家にもどっていく。
正確には、それは鳥ではなかった。それの正体は、今でいう飛行機と呼ばれるものだ。陽の光を受けて煌めく体躯、両脇に抱える立派な発射機。P38ライトニング、戦闘機だが操縦席の少年・サンは発射弾を持ち合わせることはしない。サンが父のもとに生まれて、物心ついたときからずっとそばにある機体は、暮らしている白い部屋から宇宙を経由して地球に来訪するための交通手段となっていた。
ただ、宇宙空間を通ることのできる殊勝な飛行機だが、特別な機能はどうやら他にもあるらしい。それがどういったものなのか探るというのが、今回のサンの任務のひとつだった。
地球の表面が少しずつ見えてくる。ハンドルを握る手に力が入る。静かに揺れる波間に光が差し込んで、星空のように瞬いている海。その広さを堪能すると、やがて大陸の淵が見えてくる。その形はやはり地図と同じでおもしろい。陸地を覆う緑の正体は森であった。それをなす木々の一本一本が風に揺れてお互いを撫で合っている。サンは飛ぶスピードを心持ち落としつつ、しばらく地球の俯瞰で見た景色に見惚れていた。地上の人々に、上空を休むことなく飛び続けている鳥だと間違われていることには露も気づかないでいた。
さて、そろそろ降り立たなくてはいけない。サンは周遊する中で、着地点に良さそうな広大な土地に目星をつけていた。明るい緑が生い茂る草原がいくつか、あとは陽光に焼かれている砂漠が何点か。高い木や建物が無いのはもちろん、周囲に人がいない所が良い。
「君の飛行機が、地球上にすでに存在する時代に降り立つかはわからないからね」
「飛行機は地球のものってこと?」
「まぁ、そう。サンのは地球歴一九四〇年代の戦闘機に似ている」
「じゃあ、地球のひとが飛行機をつくったのかな?」
「知らないよ。その話はやめなさい、サン。全く、人類が一丁前に空を飛び回っちゃって。大体、人類のは君のみたいに素敵なものじゃない。飛行機を命を奪い合う兵器として使うのさ。馬鹿の常套手段だ」
困り顔で俯いたわが子の顔を見て、父は深呼吸をした。まぁ、とにかく人目につかないように。そう締めくくられた父との会話を思い出して、サンはここのところ、父が毛嫌いするほどの人類という存在に興味を持ち始めていた。しかし、行く直前にも飛行機をひとに見られないように、と念を押されたことも思い出して、とりあえずその言いつけだけは守ろうと心に誓っていた。
サンは窓越しに見える下の景色を見回した。広々としていて、人に見つかりにくいのは砂漠だが、なぜだかサンは砂漠に降りるのを躊躇った。迷っているうちに、ブレーキをかけ始めた機体は徐々に降下してゆく。仕方なく、サンはある大陸の草原に拠点を決めた。ゆっくり気をつけて着地していくが、巨大な体躯が巻き起こす防風に低い草木が薙ぎ倒されるのが見える。やはり砂漠が一番良いかもしれない。サンはそう思った。田舎風の広い草原だが、人里に近く、見つかってしまう可能性が大きい。それに、再び飛び立った後、倒れた草木の跡が不自然に丸く残ってしまうだろう。
まあ、飛行機を隠せれば良いか。父の厳しい言いつけをまた反芻する。降り立った地上世界、この時代に、飛行機というものがすでに存在しているのかさえわからないのだから。
「――あ」
驚嘆が声にならないほど小さい呟きとなって飛び出した。目の前に、少し遠くに見える丘の上に、ひとが立っているではないか。操縦席から出たサンは、飛行機越しの向こうに男の姿を見た。しまった、と冷や汗をかいてももう遅い。男はこちらを――まだプロペラが回り続ける飛行機をまじまじと見つめている。すぐにでも走り去りたいのに、足が固まって一歩も動かない。愛機を置いて逃げるわけにもいかないし、もう一度乗り込んで飛んでいくのは言語道断だ。
だからサンは、とりあえず微笑んで軽く会釈してみた。誤魔化すように肩をすくめた笑いだったが、相手も戸惑いの表情を浮かべつつ頭をもたげてくれた。それからお互いに、一歩ずつ距離を詰めていく。男の方は逃げもしないようだ。それがサンにとっては救いだった。不用意に騒がれて、謎の飛行機の噂がどんどん広まっては困る。むしろ、サンと飛行機とを交互に見る視線には、一種の興味関心の熱が含まれているように見えた。やがてプロペラの機械音も止まり、会話できるほどに近づいた。高い鼻筋の先がちらちらと飛行機の方を見つつ、捲ったシャツの袖口からがっしりと大きな手が差し出される。興奮を抑えたような素ぶりの男に、サンは手を受け取りつつおずおずと切り出した。
「あのう、つかぬことをお聞きしますが。今、地球上は西暦何年でしょうか?」
途端、こわばった笑い方が男の顔にみるみる広がっていく。しまった。焦らなくてよかったのに。人里に行けば自然に聞くこともできたのに。あーもう、それと、地球上は余計だったか。サンは心の内で舌を出した。
「はぁ……今は一九〇〇年ですが。あなたは未来から来た人ですか?それとも火星人?」
相手の冗談めかした質問には答えないで、汗が噴き出す顔になんとか愛想笑いだけ浮かべる。心の内では一九〇〇、一九〇〇と繰り返し唱えていた。相手の男はただずっと、サンを飛び越えた視線の先にある機体に釘付けだった。――これは人類を知るチャンスかもしれない。サンは身を翻して、惚けている男の顔を覗き込んだ。
「格好いいでしょう。僕の飛行機」
「飛行機。……飛行機というのか。素晴らしい……」
「でしょう。お兄さん、飛行機が好きなの?」
「俺は……夢でも見ているのか?」
今度は男の方がサンの言葉に答えなかった。頬を軽くつねって目をぎゅっと閉じる。ぱっと見開くと、飛行機と少年はそこにまだ在った。
次第に男の身体が震えだし、サンが制止するより早いか、飛行機に身体が触れるくらいに近づいた。それから、まるで最上級の美術品でも眺めるように、感嘆の声を漏らしながら飛行機を目で愛で始めた。艶のある硬い金属の肌、風に軽く揺れるプロペラ、陽を受けて煌めく両翼。一つひとつをパーツとして味わうように眺める。それでも足りなくて、思わず手が伸びてしまった。男の掌が機体の出入り口近くに触れる。まだ十二分に残った熱が全身に伝わって、男はまた身震いした。やがて少年の視線を感じたのか、ぱっと腕を離した。
「失敬」
「いいよ。お兄さん、本当に飛行機が好きなんだねぇ」
サンは目を細めて、機体に両腕をもたれかかせる。相手をじっと見つめると、男は手を擦りつつはにかんだ。名残惜しそうなその仕草に、サンは心持ち首を傾げた。
「俺は……弟と一緒に、人が空を飛ぶ機械をつくっている」
つくっている。――やっぱり!?人類が!
「へぇぇ!それはすごいや」
「でも、これを見せられちゃあな」
男は再び手を伸ばしかけて、やめた。まだ金属熱が冷め切らない拳をぎゅっと握りしめる。機体には少しだけ大きい掌の跡が残っていた。サンは自分のものと似た、五本指のある跡をなぞるように指を滑らせると、男の固い拳を取った。その間に拳は溶かされるようにほどけた。そうして、今度は指先だけが軽く機体に触れる。爪の先だけでも、男は熱を感じた。
「もう一度、さっきの質問だ。君は未来から来たのか?それとも月か?火星か?」
「僕は……自分どこから来たのかわからない」
「はぁ……じゃあ、どうやって帰るんだ」
「帰り方はわかるんだ。でも、僕の帰る場所が、どこに存在するのかはわからない、って言ったらいいのかな」
サンの曖昧すぎる答えに、男はもう詮索することを諦めた。サンが嘘を言っていないことは、聡明な男にもわかった。代わりに、突然現れた飛行機と、それに乗って飛ぶ少年に話したいことが溢れてくる。空を見上げると、一羽の鳥が風を切って、飛行機よりもゆるやかに飛んでいた。
「この間、やっと人を乗せて飛ばすグライダーができたんだ。知ってるか?鳥は翼で風を受けながら、ひねることで自在に飛ぶ。それをまねて、足で翼をひねって操縦できるようになったんだ。この間は十二回も飛んだ」
男の熱が言葉となって迸る。サンは目いっぱいに瞳を輝かせて何度も頷いた。――父の元に生まれついてからずっとある愛機、P38ライトニング。どこへ行っても帰ってこられて、今日に至っては地球まで行くことのできた飛行機は、一体どこからやってきたのだろうか。――自身の中に燻る純粋な疑問が少しずつ解かれていく。
「僕が未来から来たと言えば。飛行機が――人を乗せて飛ぶ機械が当たり前に存在する未来がじきにやってくる。そう言いたいんだね?」
「これは――俺が今見ているこの飛行機は、まさに希望だ」
目前に立つ男の掌の熱に、飛行機を眺める視線に、その答えの一端を見た気がした。飛行機がもしも、地球に発生した人類という生物の、「憧れ」の産物なのだとしたら。無力な人類自らが生み出した、発明なのだとしたら。サンの鼓動が跳ねた。――人類って、父が言うよりももっともっとおもしろくて、すばらしい存在なのかもしれない。
「忘れないでいてね。君のこの夢を。この熱を忘れなければ、きっと現実になるから」
「やめてくれよ。それはどっちの夢だ?」
一迅、風が吹いた。男は目を細めた。その次にはもう、ひとりの飛行機乗りの少年も、そのそばにあったはずの飛行機も、跡形もなく消え去っていた。それでも男は動じなかった。未だに熱の残る指先で、瞳に溢れるあついものを拭って空を見上げる。悠々と飛ぶ一羽の翼が、青空に浮かぶ星のように一度だけ煌めいた。
記録Ⅱ
要点……星が地球に滞在する起点は地球歴一九二六年。そこから四十四年先の未来を見通すことが可能。
「あなたの大伯父もね、魔術師だったの。それは有名な魔術師よ」
はっとして、星は瞬きをする。なんだか夢を見ていたような気もするが、どうにも思い出せない。目の前には新聞記事帳を広げた卓があり、向かい側に視線を移すと、見知らぬ女性が座っていた。何度も目をしばたかせる星を、斜めにかけた老眼鏡越しに覗いて、うふふと優しく笑った。
まだ活性化しない星の脳内に、新しい情報が流れ込んできた。――この女は祖母である――。異物が混じるような若干の違和感。それでも――、なるほど、アストライオスは自分が地球に存在するための居場所は用意すると言っていたが、こういうことだったのか。――半強制的な納得が勝る。それにしても、親族に魔術師がいるとは、よく工面したものだ。大伯父ということは、目の前で丁寧に新聞記事を切り取っている女の兄姉にあたるものが魔術師だったということか。星は記事の一枚を覗き込む。日付は一九二六年度九月六日。それをしっかりと目に焼き付けようと、重ねられた何枚かを手に取った。見れば、ほぼ全ての記事に同じ名前が――林太郎という三文字が踊っている。添えられた写真に映る人物も同じだ。彼がおれの大伯父である魔術師か。星はそう直観した。
「その大伯父は今どこにいる」
「林兄様はねぇ、ふるさとにおかえりになりましたよ。ちょうど四年くらい前のことかしらねぇ」
故郷。これはアストライオスの元へ生まれつき、初めから知っている情報だ。魔術師として生まれた者には魂の故郷があり、命題なるものを達成すればそこへ還ることができるという。命題は本に記され――、ここで星は、あっと小さく声を発した。祖母が顔を上げたが、素知らぬふりをして冷めた茶を啜る。星は自身の本を持ち出すのを忘れてしまったことに気がついた。まぁ、今回の任務でも本は不要であろう。持参していなくてもこうして地球にこれたのだから、これからまた別の任務があっても、あんなに重い本を持ち出す必要がないとわかったのは収穫だ。
しばらく、ナイフと定規で紙を丁寧に切る音が室内を満たす。星も記事の文言を自然と目で追い始めていた。やがて、柱時計の鐘の音が高らかに八回打った。しかしその音も、祖母の遅いわねぇ、という呟きも星の耳には入らなかった。星はある一枚の記事に釘付けになっていた。
その記事の写真に写る女性。鼻筋が高く、ほりの深い顔立ちから異国の者と見た。白黒の写真だが妙に頬がこけ、やつれているようだ。よく読みこむと、林太郎が異国へ渡った時に子をつくって置いてきてしまったとのことだった。だが、魔術師の不義を取り沙汰する記事をよそに女性の写真をまじまじと見た途端に、星の脳内にまた新たな情報が流れた。そのまま、しばらく女性から目が離せなかった。影がくっきりとできるほどに窪み切った瞳に吸い込まれそうになる。
しかし、星さん、と柔らかい呼び声がした。はっと我にかえると、いつの間にか祖母がそばに立っていた。淹れなおしてくれた湯呑みから湯気がかすかにあがる。星は記事の写真を指さして祖母に問うた。
「これ。おれの生みの親だ」
「何を言いますか。この方はあなたの大伯父さまの……何と言えばいいのかしらねぇ。まぁ、お知り合いの方よ」
えっ、と思わず声が出た。湯呑みに伸ばしかけていた指先が当たって倒れる。卓の上に、熱い茶が散らばり広がった。向かいに祖母が座っていたら火傷を負っていたところだ。しかし、あらまぁと急いで布巾を持ってこさせる祖母をよそに、星はまたしても考えこんでいた。――先ほど流れてきた情報は、確かに新聞記事の異国の女が自分の母親であると告げている。今もそれは変わりがない。だが、それはありえないことだと祖母が言う。確かにおかしな話だ。大伯父は異国の地で女に出会って、その間に子をもうけた。その子どもが自分だというのなら、大伯父が父親になってしまう。
事実と事実がぶつかり合って矛盾する。脳内で情報がせめぎ合って混乱してくる。
目を見開いて何かを呟き続ける星の肩に、何かが優しく乗った。見上げると、にこやかに目を細める祖母と目が合った。卓は綺麗さっぱり拭き取られ、新しい湯呑みが差し出される。今度はしっかりと握りしめてゆっくり啜ると、暖かいものが口の奥に流れていくのを感じた。
星が幾分か落ち着いたのを見て、祖母は向かいにまた腰掛けた。そうして、少し潤んだ星の双眸を覗き込む。
「でも、もしかしたら似ているかもねぇ。あなたのお目めは不思議な色をしているから」
「不思議な色?」
「右が赤、左が青。異国人さんのお目めは、青とか、灰色とか。綺麗な色を持っていると聞いたことがあるわ」
星は目を瞬かせた。そういえば、サンも同じようなことを言っていたような気がする。左右で瞳の色が違って、右は林檎のような赤、左はこの――今いる星、地球のような青。そういえば飛ばされた場所は違えど、サンも地球上で任務を与えられていた。早く任務を済ませて帰らなければ。
やっと腰を持ち上げようとした所で、しかし祖母に引き止められてしまった。記事帳のページを忙しくめくって、星に差し出す。そこに広がる断片たちは、大伯父の話題ばかりだった。
「大伯父さまを不義な方だと思ったでしょうけれど。ご立派な方なのよ。軍医として戦地に赴き、多くのひとたちの命を救ったの」
どれも小さな写真だった。そこに写るのは、幾つも並べられた床の上に並ぶ包帯で巻かれた身体の群れ。そのそばに立っている白衣に、黒いしみがついている。白黒写真でその色を図ることはできなかったが、おそらく血の色だろう。けれども、白衣はどれだけ血を浴びようと、ただ床に眠る兵士を伏目がちに見つめている。その隙間から差し込む眼光は小さくとも、慈愛の色を帯びていた。
記事帳のページをもう少し遡っていく。一八九四年の見出し、『魔術師学長 清華へ征く』。陸軍省の第二軍軍医部長として、海を隔てた隣の大国である清華へ赴いた当時の記事だ。魔術師である前に、雛菊国に生まれた者として戦地に赴き、多くの人々を救ってきた者。幾つもの勲章で飾られた固い軍服を身に纏い、颯爽と立つ大伯父の姿に、星は彼の憧憬を想像してみる。
――いや。今、脳内に思い浮かんだ景色は全くもって新しい。全てが影を落とす暗闇を包み込む赤い炎の群れ、無惨な精のように飛び散る火の粉、顔を黒くして泣き叫ぶ人びと、けたたましい警笛、地鳴りのように空を震わせる音。戦場の景色だが、想像しようとしていた大伯父はいない。どこの情景かもわからない。それもそのはずだ、これはこれからの、未来の景色なのだから――。
星の手から記事帳が滑り落ちた。表紙に挟んで、まだ貼り付けていない記事が床に散らばる。あらま、と祖母が言ったのに星は気がつかない。今度は正面の一点をまっすぐ見つめている。星の周りの空気でさえも張り詰めたようだった。床に膝をついて一枚一枚拾い上げていた祖母までも手を止めて、まるで天啓を受ける修道女のように星を見上げた。星の口は小さく、しかし厳かに開かれた。
「あと二十年ほどのち。世界を巻き込む大きなたたかいが二度も起こる。この国は――」
そのとき、床を鳴らす足音が家中に響くくらいになった。星は一瞬、肩を震わせて現実に引き戻された。祖母は残りの記事を拾いながら、お帰り、と声をかける。
そこに現れたのは、淡い紅色をした薄手のワンピースに、丸い鍔の帽子。色白の丸顔に少しだけ垂れた目尻だが、眼光からは意志の強さを感じる女だった。煌びやかなショールをひらひらさせながら、星を訝しげに見つめ――睨んでいる。敵意が込められているような感じがして、星はついと目を逸らしてしまう。しばらく沈黙が流れて、相対する二人の顔を交互に見る祖母と目が合うと、星はきまり悪そうに肩をすくめてようやくその場をあとにしたのだった。
「ねぇ、今の子だれ?」
「誰って、マリーちゃん。貴女の甥姪っこでしょう?」
マリーちゃんこと、先ほど帰宅した彼女は、星の叔母にあたる。これは確かだ。だが目を合わせた時、そのほんの直前までは、マリーにとっても星のことなど知る由もなかった。はじめて星の互い違いの双眸を見て、これは自分の甥姪であるという情報が、突如として脳内に現れたのだ。それは、彼女にとっては慣れない感覚だった。そこでやっと気がついた。
「……あの子。魔術師だわ」
そしてまた、彼女も魔術師なのだ。
呟きを残して、マリーは一度も腰掛けないまま再びどこかへ行ってしまった。
星は外に出ていた。先ほど見た新しい景色が重くのしかかるように、うなじが垂れる。赤い炎と煙、いくつも真っ直ぐに落ちる黒い塊、逃げ惑う人びと、爆音、警笛、悲鳴、泣き声、怒声――が次々と自分を責めるように襲いくる。そのたびに鼓動が跳ね、足早になっていく。だが、自分はどこへ行こうとしているのか。どこに行けばいいのか。そう思ってしまうと、歩く速度が緩くなる。土地勘がない場所での、任務外の行動は危険だ。だからと言って、すぐに部屋へ戻るのも気が引けた。帰ってきた女から逃げるように去ってしまったのが悪かった。彼女の出たちを思い出して足を摺る。彼女が叔母にあたる者であることは、とうぜん星の内にも情報として入ってきていた。確かに、穏やかに垂れ下がる目尻から溢れる眼光と、大伯父の伏目から漏れ出る光の色はそっくりだった。後者は白黒写真だが、星の目を通してみると確かに似ているのだ。それだけ、叔母は大伯父の血を色濃く受け継いでいるのだろう。
ふと、垂れたうなじを逆方向にゆっくり曲げる。いつしか辺りは暗くなっていた。薄暗がりに覆われた空に、星が斑らに瞬き始めていた。蒸し暑い空気に揺らぐひかりに、星は懐かしささえ覚えた。いつしか言われた言葉をまた、胸の内で思い出してみる。
「……星くん。僕が最初に発見した星だから。ねぇ、君のこと、星くんって呼んでもいい?」
自分が発した言葉でもないのに、思い出されるのはなぜだろう。それでも、星のざわめいていた胸は徐々に落ち着いた。――任務はまだ終わりではないのだろうか。サンは白い部屋へ戻っているだろうか。――涼しい夜風に当てられて、そういえば外出するのは初めてだったと気がつく。――いっそのこと、このまま帰らなくても。この心地よい空気の中で、星を見ているのも良いか。――
「星が好きなの?」
後ろから突然呼びかけられて、星は飛び上がる。振り向くとマリーが細い足をクロスして立っていた。厚底の靴を履いているのに、わざと腰を前に曲げて星の顔を覗き込むように上目遣いをする。彼女の丸い瞳には、怯えるような、警戒心で曇った星の顔が映った。
「御免なさい。そんな気持ちにさせるつもりはなかったのよ。ただ、貴方の言っていたことがあまりにもおそろしいことだったから」
「これは……この景色は何だ?」
「未来を見通す。それが貴方の魔法なのね」
マリーの口から魔法という言葉が出ると、星はやっと彼女と目を見合わせた。
「私も魔術師なの。安心して、貴方の敵ではありません。――お父さまに害なすというのなら、話は別だけど」
付け加えられた一言には背筋が凍るほどぞっとしたが、濃い色をした黒目の眼差しは優しい。なるほど、彼女も魔術師であったのか。そう思えば、彼女のどこか独特な雰囲気までも林太郎に――写真で見た限りだが――限りなく似ている。魔術師が肉親同士の内に生まれることは稀だと聞いたような気もするが、実の親子同士である分、マリーは林太郎の影響を色濃く受け継いでいるのだろう。
二人は通りの真ん中から退いて、脇のベンチに肩を並べて腰掛ける。星は思った。林太郎が大伯父で、その子のマリーが叔母というのなら、自分も彼らの血を継いでいる部分もあるのだろうか、と。いや。親子二人との血縁は自分が地球へ生まれてくるためにアストライオスが用意したものだ。あのアストライオスのことだ、自分にそんな配慮などしないだろう。そう思って俯いた。隣にマリーが座っていて、目の前の通りには帰宅を急ぐ人々が行き交っているが、眼も髪の色も服装の雰囲気も、その場にいる者たちとはまるっきり違う。自分が地球に混じった異物であるような排斥感が星を襲った。
そんな星の気持ちを知ってか知らずか、マリーは呑気に足をぶらぶらさせながら、小脇に抱えていた一冊の本のページをめくる。そこから折り畳まれて忘れ去られたような一枚の紙を広げて、星に差し出した。
「ここへ行くといいわ。列車ですぐの喫茶よ」
「スタア……ダスト。天体好き、怪異狂来たれ。怪異魔術師大歓迎……?」
「そこでね、最近できたばかりの魔術師の集まりがあるんですって。幻想文学から最近流行りの宇宙もの、戦争ものまで。私は随分前に誘われたけど、行ったことない。でもとにかく、そういうものが好きな魔術師ばかりでおもしろいところなんですって」
星とか、宇宙が好きなら尚更行くといいわね。帽子のつばを整えつつ、マリーは付け加えた。一瞬間だけ強く吹いた風が宣伝紙の端を巻き上げる。飛ばされないように、星は指先に力を込めた。
「溜め込むのは良くない。たくさんおしゃべりして、書いて、吐き出してしまうのが一番よ。私たち魔術師の習性みたいなものかしら?」
「何でおれに?」
「あなたの予言した未来が現実になるかどうかは、その時になってみないとわからない。もしかしたら、貴方の一言で世界が変わってしまうかも。それだけ、貴方の魔法はおそろしい。貴方だけじゃない、自分達の世界を変えられるのが怖くて、人間から酷い仕打ちを受けた魔術師もいる。でも、小さな集まりでお話しをするだけならいいんじゃない?未来視の魔術師。……アノ店長が喜びそうな話だわ」
星は目を閉じて、頭の中に小さな世界を巡らせた。緊迫する世界情勢の中に、突如として現れた魔術師。彼は未来を視て、世界大戦を予言する。予言に混乱する人々、小さな火種はやがて大きな喧騒に発展していく。なるほど、現実になれば恐ろしいことだが、黒いジョークとしては悪くない。
自然と顔が綻んだ星の様子にマリーはほっとして、言葉を続けた。
「安心してね。魔術師は秘密主義者ばかりだから。たとえ未来が貴方のお話しの通りになったとしても、決して貴方を責めません」
「矛盾している。魔術師は溜め込まない習性があるのではなかったのか」
「そうね。まぁ、貴方に任せるわ。御免なさいね、お節介で。貴方の魔法なんだものね、貴方の好きにするといいわ」
また何かあったら言ってちょうだい、と言い残して、マリーは先に行ってしまった。風が止み、人々の波もいつしか収まり、穏やかな空気が流れる。おれは星や宇宙や皮肉の効いた話しが好きだったのか。それはサンも同じだ。星形で飾られた宣伝紙を土産話に持ち帰ってやろうと、星は立ち上がった。同志の待つ場所へ、最終列車に乗るために。
記録Ⅲ
要点……サンの飛行機は一九〇〇年を起点として、そこから過去に遡ることが可能。
飛行機は速度を落とさない。まわりの景色を容赦なく切り裂いて、その跡が線になって流れていく。もはや音も光も超越していた。
暗がりの景色をやっと突き抜けると、そこは雲の海だった。波打つようなかたちの雲の群れの上を、飛行機は徐々にスピードを落としながら推進していく。西方へ沈んでいく陽の光が、飛行機の翼を反射して眩しく映った。
やがて広大な雲海の底を抜けて、その躰が露わになった。上空に突如として現れた飛行機の中でサンは得意になっていた。飛行機には今や透明化機能が備わっている。これが起動している間は、機体がすっかり見えなくなってしまうのだ。任務を一つ終え、その報酬としてアストライオスから貰った機能だ。それから、新しい機能がもう一つ。管制パネルの隅に取り付けられた時計のような機器は、一九〇〇から始まって一八九〇、一八八〇、一八七〇……とその数字を徐々に落としていき、今は一八〇一で止まっている。これは操縦士であるサンが降り立とうとしている地球の当時の西暦を表している。この機器はアストライオスとサンが星の土産から着想して造ったもので、置かれている場所の西暦を測定できる時計だ。その数字がどんどん遡って、今いる時代はちょうど一八〇一年と教えてくれている。
つまるところ、サンは飛行機に乗って過去に行くことができた。
これは新しくわかったこととして報告できる事項だ。飛行機に乗れば、地球の過去の時代をめぐることができる。このように、新しくわかったことがあるだけでアストライオスは褒めてくれてごほうびをくれる。それは嬉しいことだが、こう任務が早く終わりすぎてしまうと何だかつまらない。それより、サンは星に会いたかった。前回の任務を終えて帰ってきた時は、西暦測定器のヒントとなる「デジタル時計」を含めたさまざまな土産物を置いたきりで、また地球へ行っているようだった。いつもどこか寂しげな星が、地球のどこかでおもしろいものを見つけている。それは喜ばしいことだが、サンにとっては寂しい気持ちもあった。しかし、星が飛ばされたのは地球のいつの時代なのか、アストライオスは教えてくれなかった。
だから、サンは星を探すことにした。自分が行くことができるのはどうやら一九〇〇年より過去の地球だが、もしもそれより過去の時代へ星が飛ばされていたら、もしかしたら会えるかもしれない。淡い期待を抱いて、サンは機体をどんどん降下させていく。
壁には絵や絵画が並べ立てられ、天井からはクリスタルのシャンデリアが輝く。染みや皺の一つもないテーブルクロスの上には、艶のあるカップとソーサーが人数分。誰かが机を勢いよく叩くと、コーヒーがカップの中で揺れてせっかくのクロスに小さな染みをつくってしまう。それには誰も気づかないくらい、議論が白熱している。優雅で、昔ながらの洒落たコーヒーハウスはいつもの賑わいを見せていた。
そこへ、とつぜん。巨大な機体が突っ込んでくる――!
しかし、誰も動じなかった。それもそのはずだ。景色も、そこにあるもの全てをすり抜けていく透明の飛行機は、誰にも見えなくて気付かれない。サンは低空飛行で、絵に描いたように鮮やかな街並みを周遊する。石造りの壁、煉瓦の屋根、石畳の上を並んで歩く人々の表情、見えない風に吹かれる並木の合間を縫って、飛行機は速度を落とさずに操縦士の意のままに進んだ。サンだって、本当はコーヒーハウスで紅茶でも飲みながら、白熱する議論に耳を傾けてみたかった。しかし、任務外の行動をしていることがアストライオスにばれてはまずい。とにかく今は、急いで星を探さなければ。
そうして街を一通り周ると、サンは何かに導かれるようにして一直線に進んでいく。その延長線上には城があった。一昔前の彫刻を思わせる、華やかな白壁の城だ。背は低いがいくつもの棟があり、またいくつもの窓がきちんと整列している。屋根は深い青で、空の色とはくっきりと境界線を引いて映えていた。
あまりに低空で飛びすぎて、城前の湖上を車輪が滑った。小さい水鳥が驚いてどこかへ飛んでいく。湖を超えて城壁に触れられるくらい近づくと、サンは美術館で絵を眺めながら歩くくらいの速さまで落として、窓の中の一つ一つを観察した。こうして見ていくと、本当に窓の中のものは美術品みたいだ。華やかなレースの天蓋つきのベッド、ガラス窓の扉がついた本棚、光が反射するくらいに重石を磨いて、そのまま大きくしたような書斎机、不規則な文様の書かれた延々と長い食卓に規則正しく収まる、装飾が凝らされた椅子。絵本や写真の本でしか見たことがないものばかりで、サンは心奪われていた。何かに呼ばれたような気がしてこの城まで来たのだが――その目的でさえもしばし忘れてしまったようだ。
幾度目かの感嘆を漏らしたその先で、北向きの棟にさしかかったとき、サンは慌てて飛行機が窓の向こうから見えないように機首を引っ込めた。窓の向こうに大きな板のようなものがあり、その目の前で影がうごめいている。――室内に人がいる。ステルスがあるのに、ついいつもの癖で身を隠しながらも、サンは興味津々に覗いた。窓は少しだけ開かれており、その隙間、風に揺らぐカーテンの隙間を縫って見えたものに、サンは息をのんだ。
水色の隙間がまだらな曇天の背景に、大陽が朱く燃えている。――いや、よく目を凝らして見ると、それは大陽ではなかった。それはマントだった。風を受けたマントを翻して、金の装飾の帽子をかぶった男と目が合って、サンは一瞬ひやりとしたが、それでも引き付けられたように目が離せない。男は右の手で天を高らかに指差し、もう片方で純白の馬の手綱を握る。馬は鞍上の主人に応えるように、鬣と同じ小麦色の立派な蹄を上げる。今にも動き出して、険しい道でも軽々と越えてゆきそうだ。
サンは半分だけ我に返って、今度は騎手の前に立ち尽くしている人影に視線を移した。こちらから見える背中は、サンと同じくらい騎手に心奪われていることを物語っているようで、ぴくりとも動かない。サンが念を送るようにじいっとみていると、やがてゆるくカールした茶髪が吹き込んできた風に揺られ、何か細いものを握りしめる拳がわずかに震えているのがわかった。サンはふと、縮こまる背中に相棒の影を見たような気がした。この構図はまるで――まるで、そう、アストライオスを前にした星くんみたいだった。
「……あ」
そうしてやっと、サンは自分の目的を思い出した。もし星が先に帰っていたら、アストライオスと二人きりだ。サンは二人の間に流れる異様な空気感を思い出して、いてもたってもいられなくなってきた。そうだ、もしかしたら星はもう任務を終わらせているかもしれない。そうではなくても、自分が先に帰って待っているのが一番いい。サンが時計の操作盤に手をかけた、そのときだった。
「おい、誰だ。先刻から何を見ている」
芯の通った声に揺さぶられて、危うく飛行機から落っこちるところだった。慌てて時計のメモリを未来に合わせ――られない。時計の数字は一八〇〇、一七九九と遡るばかりだ。サンの全身から冷や汗が噴き出した。
「奇妙な鳥に乗っているな。其れは貴様の使い魔か」
しかも、相手は飛行機の姿までも捉えている。ステルスを確認しても、まだ起動中のままだ。どれだけ焦っても、狭い機内の中では身動きが取れないサンに対して、相手は傍らの小テーブルに手をかけてゆっくり振り向いた。
サンと相手と、ばっちり目が合った。髪と同じ栗色の瞳は、声と同じくらいの意志の強さで見開かれている。真丸の瞳孔の間に刻まれた鋭い皺も含めて、厳しい印象を与えられた。機嫌を損ねた時はアストライオスよりも恐ろしそうだ、とサンは思った。目を逸らすのはばつが悪くなって、しばらく睨み合いが続く。もっとも、側から見ても猫と鼠の睨み合いだったが。
「あの……えっと、絵、素敵ですね」
やはり、サンの方が先に負けてしまった。目を泳がせながらなんとか絞り出した声で絵の話題を振る。しかし、言った後でサンは後悔した。相手の眉間の皺が一段と深くなり、ついとそっぽを向かれてしまった。サンは心の内で、もっと言葉を絞り出すべきだと自分を責めた。絵を素敵だと思ったことは本当なのだ。言葉では言い表すことができないくらいに。だから、彼も――おそらく絵を描いた本人であろう彼のこともよく知ってから、最高の賛辞を贈るべきだったのに。ああ、画家の男は絵の一面を白い布で覆ってしまった。大陽のマントも、白金の馬も、主役の男も全部、見えなくなってしまった。いっそこのまま退散してしまおうか。体勢を整えて再びエンジンに手をかけた時、またしても待て、という低い声に止められる。声音に込められた怖気が少しだけ和らいだような気がして、サンは素直に従った。窓の隙間から入り込む風と一緒に、窓枠に手をかけて身を任せるように室内を覗いた。
「まだ見るな。未完なのでな」
「あっ、まだ見てほしくなかったから怒ってたのですか」
「私は怒ってなどいないが」
「僕、呼ばれたような気がして。その絵のひとだったのかな」
「この方が?貴様のような者などお呼びになるはずがない」
「そうかな」
「ああ。貴様、まさかこの方を存ぜぬのではあるまいな。この百虹菖国の時の王にして、永遠の王であるぞ」
「百虹菖国の王さま――あっ、わかった!本で読んだことがある。ナポレオンだね」
「様をつけんか、愚か者」
せっかく会話が弾み出したのに、パレットナイフが飛んできた。さっと身をかがめて金属がぶつかり合うような鋭い音を聞いた。両腕で守った頭を恐る恐る上げると、目の前にあるがっしりした手が差し出されていた。手の主を上目遣いで見るとそこにあったのは絵描きの顔、しかし丸い両目の間の皺は幾分か和らいでいる。サンは手を受け取ると、踏ん切りをつけて室内に飛び込んだ。床に足をつけた瞬間、操縦士のいなくなった飛行機は、景色を通り抜ける翼を翻して遠くに消えていった。
「甚だ珍妙な鳥だ」
「君の絵。素晴らしいと思ったんだ。本当に」
こうして同じ場に相見えた二人の第一声はほぼ同時だった。絵描きはサンの空色の瞳にまっすぐ見つめられて、少しだけきまり悪そうに側の絵筆を取った。それから、室内に靴音を響かせつつゆっくり歩く。サンはまっすぐの視線をそのままに追いかける。
絵描きが停止したのは、やはり白い布の前だ。背を向けて、改めてサンと対峙するその立ち姿は、絵を守っているように見えた。それでも――サンはついに、静かに目を伏せる。白い布に隠されて見えなくとも、頭の中で描くように思いを馳せる。それで十分だ。
「マントはね、大陽みたいだった。馬は白と金のドレスで、まるでナポレオン……様とお姫様が踊ってるみたいに見えた。踊りながら、険しい山でも軽やかに登っていってしまうんだ。右の人差し指も素敵。一振りで、曇り空も晴れにしてしまうような――」
「――魔術師のお褒めに預かるとは。光栄だな」
ここでサンの目がようやく見開かれた地球上で出会った最初の同胞を前に、二つの丸い空色は煌めきだした。
「やっぱり、君も魔術師なんだね?だから僕も飛行機も見えたんでしょう」
「いや、私は魔術師ではない」
「えっ。じゃあ、怪異?」
「いいや。怪異でもない。会意だ」
会意。サンの地球語録に、新しい単語が刻まれた。
怪異と魔術師の存在は知っていたが、会意というものはアストライオスからも聞いていなかった。首を傾げるサンの様子を鼻で笑った絵描きは、絵筆を置いて椅子にどっしりと腰掛けた。
「魔術師と怪異の間。私のようなのを、会意という。魔術師のように、本も命題も持たない。かといって、怪異のように意思の無い化物じみたものでもない。そういう者もいるのだ」
もっと教えて、と身を乗り出したサンに、絵描きは向かい側の席を促す。
「魔術師のように命題を持たない――生の指針がない。よって、生の意味を自ら見つけ、会わなければならない。会意には、どうやらそういった共通の習性があるらしい。生の意味を見つけて、名を残していく」
命題。こちらの世界で任務をこなすために、サンは魔術師として生まれた。だから当然、本も命題も生まれつき与えられている。しかし、いざこちらの世界に来てみると、命題を持たない怪異――会意がいるというわけなのか。
会意なんて教えられていないから、知らなかった。自分の人生の目標――命題が予め決められていない、だから自分で作り出せる存在。なんて自由で――うらやましい。サンは心の中で唇を噛み締めた。
そんなサンの羨望を知ってか知らずか、絵描きは立ち上がると絵の側に寄った。そうしてもったいぶるように、白い布を指を絡めるように撫でつけた。
「私は会意だが、生まれついての絵描きでもある。だが革命家でもあった。革命を扇動する絵も描いてきた。そうして革命が成った暁に――ナポレオン様のお姿を見た」
今度は絵描きが真っ直ぐ、白い布の方を見据えた。その目はしっかりと見張られている。布を焼き焦がし、その向こうに描かれた対象を顕にせんとするような視線だ。瞬きの少なさが、崇拝、敬意、憧憬――それらさえも超えた眼差しを物語っている。
「貴様が私の絵を見て称賛したようなこと――いや、それ以上のことを、私も心内に抱いたのだ。ああ、私はこの方にお会いするために生まれてきた。この方の威光を絵描き、遺していくために生まれてきたのだと」
サンは息をのむほかなかった。この絵描きは自らの意志で、一生を捧げる意味に――王さまに出会うことができたのだ。それに比べて、僕は、僕らは。自分の本の名前も、命題のことでさえもよくわかっていない。それらは任務をこなす上での支障になるからと、アストライオスに没収されている。いつだって、父の言いなりのままにしか動いてこなかった。でも、僕は飛行機を呼び出すことができた。星くんに会いたかったから。強く望み、自分の力で手にすることができるのなら。僕らだって、自由に生きることができるのではないか――?
「僕、本が読みたくなっちゃった。自分の本。家に忘れてきてしまった」
「それなら、早く戻るがいい。本は魔術師の命に変わるものだと聞く。全く、仕上げも進まなかったではないか」
水入れを替えていた絵描きの口調は、段々と厳しく戻っていった。サンはゆっくり立ち上がると、この室に入ってきた窓に身を寄せた。カーテンが全て開かれると、遥か向こうの水平線が輝き、その橙色の光に辺りの景色が包まれていた。凪いだ風景を見つめたサンの空色の瞳が同じ色を映して落ち着いている。沈黙に耐えられなくなったのか、絵描きがまた口を開いた。
「会意のことはおろか、ナポレオン様のお姿も。自分の命題も存じぬとは。貴様、どこぞの国の屋敷育ちか」
「僕は……未来から来た」
絵描きは鼻で笑いこそしたが、馬鹿にしたわけでも、同胞の言葉を信じられなかったわけでもなかった。それは感心の意を込めた笑いだった。
「ナポレオン様の御名は知っているということは、やはり永遠の王であらせられるのだな」
一瞬間、強い風が吹き込んだ。音を立てて巻き上がったカーテンを越えて、白い布がずり落ちそうになる。絵描きは慌てて布の端をつまんで押しとどめる。テーブルの上から筆や絵の具が転がっていく。白い布の隙間に橙色が差し込んで、大陽の朱も、白金の馬の鬣も、ナポレオン王の眼光も全て反射して影帽子をつくった。窓の側、空色の瞳はいつになく消え去り、鳥の羽ばたきのような轟音がまだ青みの残る南天へと吸い込まれていった。
記録Ⅳ
要点……サンと星の視界を同期することが可能。
灰色の雲り空の下、幾万もの群衆の目線を一身に集める女がいた。白いレースのワンピース・ドレスに合わせた丸い帽子と黒い靴下。血色の悪い顔は俯き影を落としていて、まるで彼女の周りの世界だけモノクロになったようだった。一歩一歩を重く踏み締める靴だけが菫のような鮮やかな色彩を持ち、彼女を爪の先の死へ――広場の断頭台へと導いている。
木製の梯子に手を掛けようとしたとき、女がついによろめいた。黙していた群衆の間にたちまち、罵倒、冷やかし、少しの心配の声は波のように押し寄せ広がり、忙しく駆ける小間使いの足をも引き止めた。枝のような足が外れて、ただ一つの菫色が、軽い身体を受け止めた兵隊の足を踏みつける。ぱっと紅く色づいた顔が上目遣いで兵隊に何か訴えるように口を小さく動かしている。それでも兵隊は歯牙にも掛けないといった様子で、女の体勢を整えてやると、何事もなかったかのように再び直立で黙した。女は顔を灰色に戻すと、付き人に支えられながら虚な瞳で短い梯子を登った。
女はやがて、羽化を終えた蝶のように付き人の腕から離れた。質素な止まり木の棺に自らを横たえて、仰向けで両の手を胸の前に置く。このとき、女の瞳にはどのような空の色が映っていたのだろうか。この場に幾人もの群衆が集まっているのが嘘のように、辺りは鎮まりかえっている。沈黙を切り裂いたのは処刑人の口上、それから断頭台の部品を動かす音。これから人一人の命を正当に奪うものとしてはあまりにも軽快すぎる声音もやがて止むと、刃の火蓋は切って落とされた。
すべての命運が尽きるその一瞬まで、ただ彼女の顔をまじまじと見つめ続ける。何かが光って伝ったような気がしたが、さいごまで夫を愛し、国そのものを愛した王女のことだ。それはきっと幻だろう。
――なぜ、自分は彼女のことを知っているというのだ?彼女の何を知っているというのだ?
切先が白灰色の首筋に触れ、貫き、紅いものが側の処刑人に飛び散る
――ところで目が覚めた。立ち込める濃い匂いが鼻の奥、喉元まで貫いて一瞬どきりとする。だがそれは慣れた香りで、目の前で洒落た茶器に黒の液体が揺れるのを見つけると内心ほっとした。しばらく液体を見つめていると、その水面に黒い横顔がぬっと入り込んだ。その顔の主は、年端を過ぎたばかりに見える女給だった。白い肌に色めいた頬、黒を基調としたエプロンドレス姿は、先ほどみた王女の面影をどことなく思わせる。黒目の大きな瞳に覗き込まれて、おれは逃げるように椅子の背にもたれた。
「矢ッ張り。そろそろお目覚めかと思ってね。淹れ直して良かった」
「……Bo-2-19582」
奇妙な羅列が口を滑り出た。女給はため息をつく。
「その呼び方。よしてといってるでしょう」
「……『ボッコちゃん』……?」
「ま、そッちのほうがましね」
また口を滑らせて、女給は呆れたように踵を返した。おれはコーヒーカップを手に取ると、最初に目覚めた時のことがどんどん思い出されてきた。たしかこうして椅子に座って、あいつに――そう、サンに名前と好きなものを聞かれて、誤魔化して、クッキーを貰った。あのクッキーはなかなかうまかった。そう、ちょうどこの香りのコーヒーに合いそうな――
――熱と苦味が口内に走り、おれは喉の使い方を忘れてしまったようだった。激しく咽せる声が店内に響く。今になってやっと目覚めの感覚が取り戻されてきて、とすればおれは一瞬、夢を見せられていたのか。なるほど、過去に実際にあったことなのだが、先ほどの女王が処刑される光景よりはよほど夢らしい。
――そうだ。先ほどの感覚はまさしく、おれが今いる喫茶から一気に異国へ飛ばされて、女王の処刑の見物客になったような――現実にありえない出来事が目の前で繰り広げられたような、そんな心地だった。
「なぁ、おれは寝ていたのか?」
心配そうな怪訝な面持ちで冷たい水を持ってきた女給に問いかけずにはいられなかった。
「えぇ、うぅん……まァねぇ」
「どうした、はっきり言えばいい」
「目、ぱっちり開いてたのよ。瞬き一つもしないで。目ェを開けたまま寝る方なんだって思って、そのまンましてたけど」
そういえば、いつもより目が乾いているような気がして目を何度も瞬かせた。女給はからかうようにテーブルにもたれる。丸い黒の水面が揺らいだ。
「変な夢でも見てたンじゃない?どんな夢か聞かせて頂戴よ」
おれは見た光景をそのまま話した。異国の曇天、広場に集まる群衆、その興味を一身に集める質素な服装の女。靴の紫色だけが頭の中にまだ鮮明に残っている。女が向かうのは断頭台。刃の大口を開ける死の淵に飛び込むように、何の澱みもなく台に寝かされる。その様は棺に横たわる体躯にまだ命が宿っていて、混沌とした涙を流しているようだった。
「でも、この女は女王である気がする。群衆の罵倒とか、不満を集めた末の王族の処刑など……随分おとぎ話じみた夢だった」
「あながち夢でもないかもね」
意表を突かれた。茶器の中身よりも深い瞳に見つめられているのは横目でも痛いほどわかっていた。おれが先ほどの夢に対して抱いている違和感でさえも見透かされているような心地だ。やっと顔を見合わせると、女給はあながち不思議そうな顔で小首を傾げていた。
「だって、処刑された女王っていったらマリー・アントワネットじゃない?」
マリー、と小さく呟く。叔母のことを思い出したが、今はどうでもいい。それよりも、マリー・アントワネットという女王が地球にいたかのような――まるでおれの夢が現実にあったことなのだと肯定するかのような口ぶりに内心驚いた。女給は知らないの?と小馬鹿にしたような笑い方でさらに追い討ちをかける。
「西方の、百虹菖国の女王サマ。愛する夫のお城で贅沢三昧。苦しい民のことなどつゆ知らず、血も涙もない最悪の女王サマ。……憧れるわぁ」
「あこがれ、だって?」
サンがよく口にする感情だ。おれにはよくわからないが。女の黒い目が細まって、光を反射した瞳がぎらついているのはおっかない。あまり持つべき感情ではなさそうだ。
客が増えてきたのに、女給は席を立たずに続ける。煙草の匂いに酔ってしまいそうだ。目の前の女も、狂ったようにぎらついた目を回している。
「素敵なことじゃなくて?穢らわしい現実とはおさらば、浪費が許される夢のような日々。――でもあたしにも、もうすぐそれが叶う。あたしね、今度ここを辞めるの。あたしの人生のパトロンがやッと見つかったのよ。すてきなおじさま」
「妙なことを。その果ては破滅だろうよ」
「いいえ!あなたこそ可笑しなことを」
女給がテーブルを叩いた瞬間、場が凍りついた。文字通りのことだ。周囲の景色が止まった。談笑や論争をする客の顔はそのままで、壁の柱時計の振り子も戻らない。机上で冷めてしまったコーヒーの水面だけが揺れている。まだ鮮烈な光を一粒も取りこぼさない女給の瞳に射すくめられて、おれも動けない。やはりこの女は、処刑された女王にそっくりだ。まだ夫に愛され、国民から取り上げた重い税収で贅沢を尽くした頃のマリー・アントワネットに。――ちくしょう、どうしておれは女と女王が似ていることを知っている――?
女が手をテーブルからぱっと離したとき、やっと周囲は何事もなく動き出した。女給はボーイに手招きされて、そのまま立ち上がる。鼻筋の通った横顔を見上げて、もう瞳の光の度合いはわからなかった。呟くような声で、最後に言い残す。
「あたしはうまくやるわ。すてきなおじさまはね、あたしになんでもくれて、なんでもしてくれる。だって」
ふっと意識が遠のく。客の論争、冷え切った茶器が鳴る音、かったるい煙草の匂い、そしてけたたましい女給の笑い声。
「あたしに魂をくれたのよ!」
そうか、しまった。この女は悪魔だ。おれは魂を抜かれてしまったのだ。
全ての感覚が途切れゆく中で、久方ぶりに目をぎゅっと閉じた。
次に目覚めた先は、白い部屋だった。コーヒーも煙草の匂いもしない、話をする他の客すらいない。ただ目の前には何も置かれていない、装飾もない白い四方形のテーブルだけ。喫茶店との急な落差に、胸が焼けるような心地がした。
「頭のおかしい女に誑かされて。みっともない」
どこからともなく声がした。まだ少しだけ幼さを孕んだような男の声。どこに取り付けられているかもわからないスピーカーを通して、いつものアストライオスの声が部屋に響く。雑言を浴びせてくるのは茶飯事だが今日はマイクの調子が悪いらしく、時折聞こえる金切り声のようなノイズが耳を劈いて痛い。
「お前を地球に送り出した理由をわかっているのか」
「……これからの任務のために、おれたちが持つ能力について知ること、だ」
問いかけたのはあちらなのに、苛立った様子でおれの答えを待たずに次の言葉を続けた。
「サンがいなくなった。行方不明だ」
「……は?」
また金切り声が耳に障る。部屋は一瞬にして静寂に満たされる。サンは先に帰っていると思っていたのに。おれがこの部屋で目を覚ましたとき、目の前の椅子にサンが座って、また呑気な顔でクッキーをすすめてくるかと思っていた。ちょうど、サンのことを初めて視認したときのように。だが今、目の前の席はぽっかり空いている。とつぜん、それが不自然なことのように思われてきた。
また、スピーカーの声に呼び戻される。
「サンは外に行きたがっていた。お前が何らかの手引きをしたのではないか」
「知らない。地球でもサンと合流していない」
「……ふん。役立たずめ」
おまえの監視もそれほどではないんだな。なぜサンを追うことができなかった?――心の内で反論したが、マイクが途切れる音がした。それにサンがいない今、アストライオスに反抗したらどうなるかたまったものではない。
だが、アストライオスの言う通りだ。おれにできることなどないだろう。おれは無機質な部屋で両手を組み合わせ、静かに目を閉じることしかできなかった。
また、みた。今度も異国の風景だ。しかも先のアントワネット女王の処刑の時と似た地形、しかしてその時代よりは遥かに古いような街並みだ。
処刑の広場もそっくりそのまま同じ、その目当てを取り囲む群衆の顔ぶれも似たようなものが並んでいる。だが、その視線の先には断頭台がなかった。柱ができそうな木材を幾つも重ねた台の中心に、一番太い丸太だけが縦に立てられている。そこに縛りつけられているのもまた――女だ。
ちくしょう、これは誰の視界だ?夢でも現実だとしても、いまいましいのを立て続けに見せられると反吐が出る。
おれは、今度はその場から早く立ち去ろうとした。しかしなぜか体が動かない。視界だけを物好きなやつに奪われたような感覚で、瞬きさえもままならなかった。まるで女が処刑されるのを目に焼き付けなければならないような――
ふと、女が首を真上に上げるとおれと目が合った。そうしてやっと、おれはこの状況を空の上から俯瞰で見ているらしいことに気がついた。体が浮かんでいる感覚を覚えていく。だが生身のままではない、何かに乗っている。何に?その答えは一つしか思い浮かばない。
「サン……?ここはどこだ、どこにいる?」
問いかけても声が出ない。それよりも、何よりも今は女の行く末を目に焼き付けたい。それがサンの答えであろうか、おれはもう動くのを諦めた。女の瞳は女王とは違っていた。それがおれにしても、興味深くなってきた。
死の淵に立たされても、灼かなひかりを失わない瞳。松明を持った処刑人が足元の木材に火を移す。それでいてなお、こちらへの視線を外さない。彼女が見ているのはサンなのか、それとももっと遥か上空にいる神であろうか。身を少しずつ焼いていく炎、それにも勝る灯火がさいごの祈りを捧げたのを見届けて、やっとこちらの視線が外された。
目はまっすぐに向き直ると、橙色の空をめがけて周りの景色を置き去りにしてゆく。なるほど、これが飛ぶという感覚か――
ノックの音がした。
控えめな音がおれを目覚めさせた。もっと浮遊感に浸っていたかったのに。椅子にもたれたまま揺れるような感覚を味わう。そういえば喉がひどく渇いている。スタアゲイザーでは結局、コーヒーを一滴も飲まなかった。サンの淹れる紅茶の香りが懐かしい。湿気のない息を大きく吐き出すと、疲れが全身を駆け巡った。ノックに応対する元気も出なかった。
ドアの向こうの相手は、おれの応答がないのに痺れを切らしたのか鍵穴をいじる音を立てた。外からの鍵を持っているのはアストライオスだけだ。開くはずもない――だが開いた。音もなく静かに入ってきたのは、美しい女だった。
もう、女はこりごりだ。それなのに彼女は――汗ばんだ白い肌の引き締まった体つき、なぜか濡れている長い黒髪。今まで目にしてきたどの女性よりも一段と艶を感じさせる。目のやり場に困っていると、彼女は手にしていたジュースの瓶と、それからグラスをおれと自分の方に一つずつテーブルの上に置いた。
『きょうは暑くてねえ。シャワー借りたら、のど渇いちゃった。あなたも、お飲みになる……』
「おまえ、誰だ……?」
今までの女以上に色めいた、今まで以上になぞの女を前に絞り出すような疑問の声しか出せなかった。ジュースを一口あおった女はむせかけて、自分を落ち着かせるように静かにグラスを置いた。
『そんなこと、おっしゃらないでよ。ねえ』
なれなれしさと押し付けがこもったような声に、おれは押し黙った。今まで出会ってきた者たちの中に、こんな女はいただろうか。その顔を頭の中に思い浮かべてみる。サン、アストライオス、魔術師の大叔父、叔母マリー、喫茶スタアゲイザーの怪異の面々。そういえば、人に化ける化け狐だか狸だかの怪異を目にしたような気がする。目の前の女はその類だろうか。そうだとして、ここまでやってきておれに術をかける真意がまるで読めない。
『よしてよ。怪異なんて。それより、あなたも喉が渇いたでしょう。冷えていておいしいわよ。さあ』
女と目を合わせた。八の字に下げた眉尻の下で潤む瞳は、まるで本当に悲しんでいるようだ。しかし自分のグラスにおかわりを注ぎつつおれにもすすめてくる、その媚びたような上目遣いは、おれの思考を見透かしたようで気味が悪い。喫茶で出会った悪魔の女のものとはまた違ったおそろしさ。彼女のことをほんとうに知らないのにそれを責め立て、怪異だと疑ったのを読心し、喉の渇きまで見抜いたのか。
『本当に、あたしのことがわからない?仕方ないわね……それじゃあ』
おれはもう我慢ならなかった――喉の渇きが。今思えば、なぞの女が持ってきたジュースに異物が入っていると疑うのは当然のことだ。それなのに、おれは何のためらいもなく口をつけてしまった。喉と鼻を突き抜ける果実の香りに、弾ける炭酸が舌を焦がす。喉を何度も鳴らして、女が注いでくれた分を一気に飲み干した。
息を大きく吐きながらグラスを置いたとき。首を上に傾けてジュースを流し込んだその僅かの間に、女はいなくなっていた。
『私にかかれば、もう心配なさることはないでしょう』
そして代わりに座っていたのは、なんと中年の男だった。白髪混じりの髪に、皺が刻まれ始めた顔は眼鏡をかけている。レンズ越しに落ち着いた鋭い眼光は、理知的な色を湛えていた。おれは椅子から勢いよく飛び上がった。飲み込みを終えていないジュースが気管に引っかかってむせる。中年の男は冗談だ、と笑い声を上げながら、きつく組んでいた白衣の袖口から白手袋の腕を覗かせて、おれのグラスにまたジュースを注いだ。おれは腰掛けることができずに、異物感の残る喉を押さえながら男を観察した。とつぜん、閃いたことがあったのだ。
――おれのことを知っているというなぞの女。それからこの、医者のような出たちをした中年の男。この二人の話しを、どこかで読んだことがあるような気がしてならない。随分昔の話しで、他の話しと同じくらい短いから、そう思い出されるものではなかった。それはおれのトランクの、ラップトップに入っている――
「No-1-19651、か」
また、奇妙な羅列が口を走らせた。途端に気難しい男の顔がぱっと晴れ、ご名答、という声とともに脇から取り出されたのは、見慣れたトランクだった。それは物心ついた時からおれのそばにあったトランクだ。中には小型のラップトップ、さらにそのメモリには千を超える話しが記録されている。話しの一つ一つに『No-1-19651』といった題目のような羅列が割り当てられている。なぞの女になぞの医者、という人物は小ばなしの一つを想起させた。
『この姿のままでいいか。しかし、さすがだ。おまえは千を超える話しとその題目を記憶しているのか』
「いや、確かに全ての話しは読んでいるが。今のは記録を検索し、引っ張り出してきた感覚に近い」
『おまえは、自分のトランクの話しは好きか』
「まあ、嫌いではない。いや、むしろ興味深い話しばかりだな。結末が想定外でおもしろい」
『そうか。……なればこそ、この姿にも納得がいく』
医者の男はおれの顔をまじまじと覗きこんだ。いや、おれの瞳を鏡にして、その奥の膜にまで映る自分の姿を見ているような目つきだ。女でも男の姿でも、こいつは気味が悪い。だが同時に興味深い。おれは恐る恐る椅子に腰掛けて、もう一度グラスを一気にあおった。再びその姿を見た時、しかし中年の医者の男のままだった。
「なぜおれのトランクの話しのことを知っている」
『私はおまえの話しの第一の愛好家だ。いつも見ている』
「なぜ女にも男にもなれる。怪異ではないのか」
『私に対するおまえの見方に拠る。おまえが望めば怪異にもなれるが』
「……おまえは誰だ。名は」
はぐらかすような答えばかりを並べ、ついに最後の質問には口を開かなかった。サンとおれがこの部屋で最初に交わした会話も、こんな調子だったような気がする。けれどもおれは自分の素性が本当にわからなかった――それは今もだが――から、何も答えようがなかったのだ。しかし、目の前で優雅にグラスをあおる男は、自分がどんな存在であるかは承知の上であえて答えないといった態度だ。おれはこれ以上聞くのをやめて、椅子の背にもたれるとまた目を閉じた。こうすれば、サンの居場所なら何とか掴めるような気がした。
『なぜ、Bo-2-19582を太陽名に変換することができたのだ?』
だがおれの目はすぐに開かれた。太陽名?この男、先ほどから愛好家とか見方とか、太陽名に変換とか、妙なことばかり言う。医者の姿のままの男は穏やかな微笑み顔の前で両の指を組んで、患者に病状を説明するような淡々とした口調で続けた。
『まあいい。おまえはアストライオスから任務の報酬を貰っていないな。代わりに私がやろう』
「報酬?」
『おまえがきっと、今一番ほしいものだ。――サンは飛行機で過去に行くことができる。そうだな』
「サンの居場所を知っているのか」
おれが身を乗り出すより早く、男は満足そうに頷いた。
『逆に言うと、過去にしか行けない。なぜ過去だけなのか?』
「サンの能力はそういうものではないのか。……いや、これは受け売りだが、過去は確定している事象だ。でも未来は未定だから……?」
『いい筋だが、惜しいな。サンも過去しか知り得ないからだ。――飛行機の行き先を決めているのはサンの思考だ。アストライオスの些末な蔵書から地球の歴史を知り、その知識が過去へと向かわせる。まぁ、今は飛行機が暴走しているようだが。帰りたいのは山々だが、サン自身が地球について知りたいと思っているのだろう』
「暴走しているから帰れないということか?」
そうだな、と男は一区切り置くように指を解く。問答続きだが、この男との会話は悪くなかった。スタァゲイザーで気の合う怪異や魔術師たちと談義しているような気分だ。相手も幾分か柔らかくなった眼差しを絶やさなかった。
『お前は未来が視えるな。そして、サンとお前は視界が共有できる。そうだろう?』
それでも、話題がいきなりおれの能力のことに移ってはっとした。おれの能力と、サンの居場所にはやはり関係性があるということなのか。
「じゃあ、最近みるのは夢じゃなくて、本当にサンが見ていた景色ということか」
『さすがだ、自覚はあったのだな。そうだ、おまえはサンの目を通して、地球で繰り広げられている歴史上の事象を実際に目にした。これはなかなか貴重なことだ』
「いつも見せられたのは女の処刑ばかりだったが」
『はは、仕方ない。サンの地球上での祖国で実際にあったことだからな。――ここで本題だ。お前は地球の未来を視ることができる。そうして視た未来をサンにも見せてやればいい
「そうすれば、サンの意識と好奇心を未来に向けることができる」
男は大きく頷きながら満面の笑みを浮かべた。おれの口から出たサンの好奇心という言葉が、ひどく気に入ったようだった。
「自分でもわからないんだ、未来視のやり方は。何かきっかけがあれば……」
『その必要はない。サンのいる時点からの未来を視ればよいのだ。サンは今、どんどん過去に遡っている』
「急ぐか。でもやはり時間がない。地球の全ての歴史を、今からおれの頭の中に叩き込めってか」
『いいや。その必要もない。お前には本があるだろう』
本?おれは固い表紙に何枚も薄い髪が挟まれている、いわゆる一般的な本の形を思い浮かべた。しかし、この形式にかなうものが多いここの蔵書は全てアストライオスのものだ。地球上でも本は借りるばかりだった。だから、おれの所有物としての本はないはずだ。しかし、目の前の男はわざとらしくテーブルの上のものをつつくように指さす。
それはおれのトランクだった。頭の中を疑問符ばかりで埋めるおれに、男は手品でもするように大事にトランクを差し出す。
『魔術師として生まれたからには。本は命と同等だ。時には――ちょうど今の状況の時には、助けてくれることもある。肌身離さず持っておきなさい』
おれはトランクを開いた。一緒にラップトップの蓋が開く。おれはサンとともに魔術師として生まれたが、魔術師の生まれながらの所有物たる本を持っていなかった。しかし、それは思い込みだった。本来の形に囚われていたのだ。
眩むほど彩度の高い青に、奇妙な数列がずらりと並ぶ。それは一つ一つが題目の違う話し――物語だ。そうか、これがおれの本だったのか。
「だが、おれの物語の中にあったか?地球史についての話しが」
『地球史を並べ立てているだけのものはない。だが、物語の能力を借りる方法をとろうとすれば丁度良いのがある。Go-3-19686』
言われた題目をおれはキーボードで入力する。物語の筋はもう思い浮かんでいた。――人知れず滅亡の途を辿る地球が、恐竜や古代植物を蜃気楼として出現させる話し。
『太陽名は……今は伏せておこう。徒名は「地球の走馬灯」』
おれが再び顔を上げると、医者風の男の代わりに座っていたのは寝癖頭に部屋着の年若い男だった。青髭の残る口で大きくあくびをしながら、いかにも気だるそうに立ち上がる。そうしておれのそばに来て画面を覗き込むと、片手でキーボードを操作した。黒く小さなボードのようなものが現れ、題目のよりもさらに長く複雑な文字数列が並んでいく。最後にエンターキーを強く叩くと、また何事もなかったかのようにGo-3-19686の画面に戻った。
『スペース、コントロール、C、V。これでおまえの物語の能力が、一時的におまえに移るようにした。多様は禁物だ』
おれは言われた通りの四つのキーを同時に押した。途端に一瞬だけ眩暈がして、ぎゅっと閉じたままの瞼の裏に景色を見た。
大雨が降り、海ができ、水の中に小さな生命が生まれる――生命は巨大化していき、殻を持った生き物は陸に上がる――陸に適応し、さらに大きくなっていく――虫が生まれる――恐竜が生き――隕石が降り注ぎ――恐竜は絶滅する――小さな哺乳類や鳥の時代――そうして猿が後ろの二本で歩き出し――脳が大きくなり――ヒトになる――ヒトは火を発明し――狩りや農作で他の動植物を蹂躙し――戦争で他の民族や国を蹂躙する――国は栄え、滅び――繰り返され、そうしてやっと、おれにも地球上で見慣れた風景が現れる。
一瞬にして情報を浴びせられ、処理が追いつかない。今のまま目を閉じていた方が落ち着く。おれは今、本当に地球の今までの歴史を見せられているのだ。
『その視界を。地球の歩みを共有するのだ。でもそれだけではいけない。最後の方はお前の地球での思い出で埋めなさい』
さすれば会えるさ。そう男は言い残したような気がするが、耳を通り抜けてしまった。
この景色をサンに見せたらどう思うだろうか。きっと好奇心旺盛なあいつなら、楽しい景色だと興味を示してくれるかもしれない。そうして、今現在の地球に辿り着いてくれたらいい。
記録Ⅴ
要点……結果として、星とサンは一九二六年以降に地球上で合流することが可能。
僕の飛行機は、ついに地に着いた。
激しい空中戦の中、対象は地を駆ける恐竜の群れ。空を飛ぶのもいた。武器を有しないP38ライトニング号は、ただ振りかざされる長い尻尾や立ち向かいくる巨大な体躯、背の高い木々の合間を避けるしかなかった。
それが延々と続く膠着状態は、僕の飛行機墜落でついに終わりを告げた。
でも、妙に穏やかな着地だった。操縦席に腰を緩やかに下ろしたまま、途端に視界が暗くなる。急に夜が訪れて、操縦パネルが見えない。僕は焦ったが、同時にほっとした。どうやらうまくまいたようだ。地鳴りでもしそうな白黒の鱗を持つ、巨大トカゲのような怪物たちが右往左往しているのが見える。
それにしても、こんないい木陰があったのか。息を潜めながら眺めていると、急に視界が暗転した。ただの夜じゃない、夜よりも暗い闇が静寂とともに辺りを包む。やがて白く細長いものが浮かんできたのは雲だろうか。僕はなおも息を殺すが、周囲に何らかの気配を感じる。それは恐竜の気配とはまるで違っていた。
ふと、恐竜が迎える結末を思い出してしまった。ちょっと前に本で読んだことだ。地球に栄えていた恐竜たち、強くて巨大な彼らでさえも、遥か彼方からやってくるとてつもない脅威には敵わなかった。彼らは突如飛来した隕石によって滅びてしまったのだ。
それが、その出来事が突然訪れたかのように思えた。でも、あまりに突然で、不自然すぎる。隕石が衝突したとして、こんなにも静かに訪れるものなのだろうか?もっとぱっと明るくなって、それから轟音が追いかけてきて、炎と熱を帯びた石は地球と擦れ合って爆発する。隕石ってそういうものではなかっただろうか?
それに、この暗闇は静かすぎて少し寂しい。隕石が音も立てずにやってきていたとしたら、恐竜たちは僕を置いて絶滅してしまったのだ。一回でも触ってみたかった。空を飛んでいる子となら、もしかしたらお友達になれたかもしれない。
けれども、暗闇は終わりを告げるようだった。徐々に辺りが白んでいく。よかった。きっとこれからが隕石だ。隕石の恐怖を寂しさで上書きできるように、地球は最後に真っ暗闇を見せてくれたのだ。恐竜たちも暗闇を見ただろうか。静かな夜だと思って、ほっとして眠ってしまったのかもしれない。僕も眠ってしまおうかな。
やって来るひかりを受け入れるように、僕はゆっくり目を閉じた。
それでも、何も起こらない。閉じた瞼を貫くほどの眩しさも、爆音も、熱も痛みも来ない。
「サン」
その代わり、懐かしい声が耳をくすぐった。爆音よりも優しくて、ちょっとだけひんやりとした声。そのひかりの正体を、僕は目を開けずとも知っていた。
「星くん」
――本日の上映は全て終了いたしましたァ――
気の抜けた声と、みんなが立ち上がって歩き去る音が嗚りだした咽をかき消した。
「――!どうして?」
溢れた熱いもののせいで瞼同士がくっついて離れない。
ほんとうは、もう君に会うことは諦めていたのに。制御が効かなくなった飛行機に乗って、地球が生まれるまで遡る覚悟も決めていた。
それなのに、君は僕に会いにきてくれたの?――そうか、君を辿ればよかったんだ。これは僕と君だけが知っている、ずっと変わらないこと。君は僕が初めて見つけた星だということ。
熱くなった額の上に、重いものがずっしりと重なった。
「魔術師にとって本は命と同等らしい。肌身離さず持っておくんだ」
僕の本だ。
いつか帰ったら読もうと思っていたことも忘れていた。どうして君は、僕がほしかったものがわかったの?額から受け取って抱きしめる。表紙の金髪の男の子が懐かしくて愛おしい。
君は落ち着くまで隣にいた。いつしか館内はふたりぽっちになった。辺りを包む暗闇、でも優しい煌めきが窓から差し込む。
「帰ろう」
帰ろう。この青い星の上でも、僕らはずっと二人ぽっちだ。
地球でお会いしましょう