厭人セミナー

 少し昔、僕は随分と心を病んでしまって、暫く心療内科に通っていた時期があった。
 別段ドラマチックな悲劇があったわけでもなくて、生まれ持った世界との差異を自覚し始めたわけでもない。皆が皆、一度は感じたことがあるように、ほんの少し、社会との関わりに疲れを感じてしまって、そしてそれが思ったよりも拗れてしまっただけの話で。

「やっぱりひとりで塞ぎ込んでもしょうがないですから」老医師は言った。「人の意見を聞くのも大事だと思います。別にその人の言う通りにしろってわけじゃないですよ。ああ、こういう意見もあるんだみたいに気軽に聞いてみてください」
 禿げた猿みたいな医師は、そんなありきたりな言葉を吐くと、幾つかの紙きれを僕に渡してきた。
 紙には何ヵ所かの住所と、その横にささやかに時間が載っていた。
「これは?」
「まあ、なんていうか、セミナーみたいなものです。あなたと同じような悩みを抱えた方々のね」
 老医師は禿げた頭を掻いて言った。

 中野坂上にある古いビルの前で、僕は老医師に渡された紙とにらめっこをしていた。ビルは確かにその紙に書かれた名称で、厳かに佇んでいる。
 フラフラとビルに立ち入って、異音のするエレベーターに乗り込んだ。
 確か三階のボタンを押した気がするけれど、上昇する箱は映画一本程の時間をかけて僕を上に運んだ。
 そうしてまた着いた三階の廊下をフラフラと歩いてみると、ちっぽけな白い扉の横にホワイトボードが置いてあって、そこには『厭人セミナー』と手書きで記されている。
 そんなボードに一瞥をくれて扉を開けてみると、中にはすでに十数人の男女が、学生のように前方のボードを一方に向いて疎らに座っていた。
 端の席に腰かけて、きっと僕と同じような悩みを抱えているのであろう同士に目をやると、半数は天井の一点を見つめていて、もう半数は机の一点をただじっと見つめていた。
 そうして時計の秒針が嫌に響く白い空間で、時間をもて余すと、僕もその半数と同じように天井のただ一点を見つめながら、社会に対する不満と嫌悪を無意識的に反芻していた。
 そうした病んだ人間の慣れた性質に嵌って、次第に気持ちが落ち込み始めたとき、不意に懐かしい学校のチャイムが鳴った。
 そうして、チャイムが鳴り終わると同時に、また扉が音を立てて開いて、年老いた二足で歩く亀が僕らの前に現れた。
 勘違いしてほしくないのは、先に出た猿みたいな老医師と違って、彼(そのセミナーの講師)は比喩でもなんでもなく、名の通り本物の亀だったことだ。もっと正確にいえば、彼は人ほどの大きさの二足で歩くアカミミガメだった。
 ただそんな講師が現れても、その教室に騒ぐような人間は誰もいなかった。勿論僕も含めて。
 きっとそうした常識だとか、社会性みたいなものに疲れきった人しかその場にいなかったから。皆、自分を保つだけで精一杯で、特定の相手や社会に対して異議を唱える元気は誰も持ち合わせていなかった。多分。
「今日はわざわざ来ていただいてありがとうございます」亀は言った。
 皆、会釈もしなかった。ただ、席を立つ人もいなくて、目線は天井でも机でもなくその亀を揃って見つめている。
「皆さんは社会や人に疲れていらっしゃる」亀は言った。「社会に於て、人は決してひとりにはなれません。部屋でひとり孤独を抱えていても、壁一枚隣には違う生活がある。そんな人としての生活にいくら嫌気がさしたとしても、人と関わらない、あるいは感じない日は無いのです」
 彼(亀は嗄れた男の声だった)はそんな調子で、つらつらと如何に現代が人に溢れていて、人というものがどれだけ避けがたい存在かを解説した。
 そうしてひとしきり喋ると、ポツリと「ただ人は人がいなければ生きていけない」と言った。
 どこからか舌打ちが聞こえたような気がした。
「ああ、待ってください。私はそんな甘ったれた一般論を否定したいのです」亀は舌打ちが聞こえた方を向いて言った。
「いいですか、人は助け合って生きているなんてのは嘘っぱちです。前提が違うんです。あなた方のような苦悩をお持ちの方が人によって救われる。そんなもの可笑しいと思いませんか? そんなのどこまでいっても対処療法でしかないんですから。もともとあなた方を傷つけたのはその人のはずです。そうした社会のはずです。毒によって冒された者が、同様の毒によって回復するでしょうか? 私はしないと思います」
 亀は汗を拭うような動作をした。
「じゃあどうすればいいか。簡単です。排せばいいんです。朱に染まらなければいい、隣の芝なんか見なくたっていいんです。もっと利己的で排他的に生きればいいんです。そうやって自分本意で生きていいんです。いいですか、あなた方はなにか自身に落ち度があって落ち込んでいるんじゃないんですよ。寧ろ社会に合わせなければ、他人の意見を聞かなければなんて、人の為に思い悩んで病んでしまってるんです。そんなに優しくなくていいんです。どうか自分の為に、自己実現と自身の幸福のために生きてみてください。それならきっと顔を上げて、笑顔で生きていけるはずですから」
 彼はそう言って、深々とお辞儀をした。すると、そんな彼に合わせてまたチャイムが鳴った。
 チャイムが鳴り終わると、その嗄れた声の老いた亀は、なんだか照れ臭そうに我々の間を通って、扉を開け部屋から出ていった。
 そうして亀を見送ると、ポツリポツリとセミナーに参加していた人々も席を立って、なんだか足早に部屋を出ていった。

 夜遅い田舎のバスみたいな、そんな空間にひとり残って、僕は亀の言葉をグルグルと考えていた。そうして変に深く考えてることに気がついて、僕は老医師の言葉に従うことにした。「まあ、そんな意見もある」なんて。
 また古いエレベーターに揺られて、僕はビルを出た。
 そうしてフラフラと広い道路をひとり歩いていると、駅に向かう途中、一匹の甲羅を割られた亀が、血を吐いて死んでいた。

厭人セミナー

厭人セミナー

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-11-17

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