百合の君(30)
園と天蔵のふたりは間もなく下山した。村の方向も分からなくなっていたが、神酒尋がいい目印になった。
一刻程歩いただろうか、天蔵が前をさした。
「その、その、みてみろ」
こごえて赤紫になった天蔵の指の先には、行列があった。田んぼの畦道を、黒い人達が歩いている。先頭は馬に乗っている。
軍だ。鎧兜の金具が日の光を反射して、園の目を刺した。
「かっけえなあ」
園の心は再び浮き上がった。死にそうになって歩いていたことが、金の鍬形や、高く掲げられた旗印につながっているような気がする。園は山を見上げた大将と目が合ったと思った。ニッと笑う。
しかし兵隊は急に立ち止った。立ち止ったと言っても、大将の命令で停止したという感じではない。急に進路をふさがれた蟻のように、右に行ったり左に行ったり、混乱しているのが見て取れた。遠目から見ていた少年たちは、最初何が起こっているのか分からなかった。
「あっ、百しょうだ百しょう! 百しょうが弓をひいてるんだ!」
丸腰と思われた百姓たちは、畑の中から弓矢を掘り出し、兵隊を囲んで射かけている。
「すげえ!」
ついさっきまで侍に憧れていたくせに、園は百姓たちの中に己の姿を見た。普段働いている父の畑。一見するとただの畑だが、実は弓矢が埋まっており、いざという時にはそれを手にして勇敢に戦うのだ。
「侍なんか、やっちまえ!」
油断していた兵隊はすぐに反撃ができない。弓を引いて射返す頃には、百姓はみんな退却している。反撃しようとして畑に入った侍は倒れ、遠目には案山子と見分けがつかなくなった。誰もいなくなった畑に雲がゆっくりと動いて、影を落としている。
目の前の懐かしい手には黒い汚れが皺を埋めるように貼りつき、飛んできた蒲公英の綿毛が静かに止まった。芽が出て、根が親しい人の体を食い破る様が浮かんで、別所来沓は目を伏せた。
自らの手を見る。広がる赤い血は、二の腕の傷から流れ出たものに違いない。もしこの手を伸ばせば、再び奴らの矢が襲いかかって来るだろう。
ここは戦場なのか? 来沓は思った。八津代に入ったのはつい数日前だ。最初の村では、来沓の軍が着く前に全ての住人が逃げ出していた。来沓は一切の略奪を禁じ、転がった草履から茶碗に至るまで全てそのままにさせた。まるで村人総出で行商にでも行ったように静かだった。
だからこの村に入って、働いている百姓が頭を下げてきたのを見て、彼は自分たちが歓迎されているのだと思った。手前の村々から、別所来沓の評判を聞いたのだと。別所沓塵の子、来沓は、父が武で勝ち取った天下を徳でもって治めるのだと。
この時期には珍しく風もなかった。こんな日は、湖で漁もしやすかろうと故郷の事を考えたりもしたものだ。
後方に叫び声を聞いたと思ったのは、そんな時だった。振り返ると二、三人の兵が倒れていて、その先に百姓が、畑に立っている百姓が、矢をつがえているのが見える。見間違いかと最初は思った。甲冑も何もつけていない、襤褸から土で汚れた腕を伸ばした百姓が五、六人、収穫を待つキャベツを足元に、矢を構えているのだ。
とっさに来沓は、配下の兵を見た。つられるように兵たちの視線も敵から来沓に移った。その視線。まるで恐怖の根源が来沓にあるとでも言うような、あるいはその恐慌を来沓に押し付けようとでも言うような目をしていた。
十二歳の来沓はたじろいだ。そして迷った。
攻撃しろと命じていいものだろうか?
敵の兵が百姓に混じって攻撃してきたのか、百姓が武装しているのか、来沓には見分けがつかない。無差別に攻撃したら、無辜の民を殺めてしまうかもしれない。
しかし兵たちの目は必死だった。反撃が一瞬遅れたら死ぬかもしれない。
敵の民と味方の兵。どちらを守るべきかは、知れている。
来沓は攻撃を命じた。足場の悪い畑に兵が入ったその時だった。村を囲む山の方から、矢が雨のように降り注いだ。ある者は民家に押し入り、ある者は手近な井戸の中に隠れ、兵はあっという間に散り散りになった。
今来沓がいるのも牛小屋だ。すぐ後ろには巨大な動物が二頭、草をはんでいる。
百合の君(30)