福耳
名前も記憶も失ってさまよう、私に訪れた「福耳」の奇跡。
ふと気づくと狭間に居た。両側に暗く岩壁(いわかべ)が聳え立っている。
光は遥か上方から金の糸のように投げかけられ、黒ずんだ緑の苔を別珍の質感で浮かび上がらせている。
道は細く息苦しく、ずっと先の方まで続いている様だった。
私はこの狭い道の終わりを求めて歩き出した。緩やかな斜面だった。誰に言われるでもなく登りを行く。
何故登って行くのか? 何故ここに居るのか? それが頭に閃いた時慄然とした。
名前は? 年齢は? 住所は? 全ての記憶が空白となっていた。背中に冷たい汗が滲む。絶対に遂げねばならないことがあった筈だ。私に頼る人がいないことだけは憶えていた。一人きりでやり切らなくてはならないはずだった。ここを過ぎてしまえばもう後戻りはできない。 足はどんどんと体を前へ運ぶ。行く手からは湿った風が吹いて来る。それはかすかに血の匂いがした。
リン、リン、先の方から涼やかな音がした。私は岩壁の隙間に目を凝らす。白い装束、菅笠を被ったお遍路さんが見えた。
背格好からして若い女性か。彼女の下げている持鈴が鳴り、空気に清々と波紋を描いた。私は立ち止まった。彼女は近づいて来る。菅笠から真っ白い丸い顎が見えた。両側に餅の様にふっくらした大きな福耳がのぞく。化粧気の無い唇がにっこりとつり上げられた。
「すみません、笹本由起子さんのお宅をご存じないでしょうか?」
全ての記憶が閃いた。
「笹本由起子は私です!」
黄金の光が奔流となり私を飲み込んだ。
気付くと分娩台の上に横たわっていた。
「あ、気が付かれました? もう大丈夫ですよ、急に血圧が下がって随分と随分と焦りましたが、もう正常値まで回復しました。お一人でのご出産でしたが、母体の覚悟のようなものを見た気がします。お子さんも元気です。女の子ですよ」
産科医がにこやかに話しかけてきた。
「抱かれてみますか?」
初めて腕にした我が子は産まれたばかりなのに白磁のような肌をしていた。丸い顎をなぞり、耳たぶを弄ぶ。その耳は、付きたての餅のような福耳であった。
(了)
福耳