同じ
数えるという行為が成立するためには、まずは同じという概念が成立しなければいけない。ゲームをやることにも飽きた和也はそんなことをふと考えていた。本当は小説を書こうと思っていたのだが、物語の構想としていいものが思い浮かばない。それに言葉の方もあまり出てこない。社会に束縛されるようになってから、自由に思考することが年々できなくなっていく。思考が疲弊しているので、浮かんでくる言葉もどんどん貧相になっていく。もう比喩や修辞もいいものが出てこない。やせ細った文章をこれ以上書きなぐっても仕方がない。ここらが潮時か。今どき小説なんかにこだわってもしかたないじゃないか。
さて、小説の方はいいとして、数の問題であった。数えるためには、石にしろ羊にしろ日数にしろ、同じという概念が成立する必要がある。個々の物体や現象を同じと認識するのは人間側の都合で勝手に認識しているのであり、自然界に同じというものが存在するのかはよくわからない。それはともかく、人間は同じという概念を発明することで、数を見出し、そうして文明を発展させてきた。ここで一つ問題が生じるのだが、石が一個、二個・・羊が一匹、二匹・・と数えていく行為は、同一空間内に同じ物体が複数存在していることを前提としている。そして数え方にはもう一つある。それは太陽が昇る現象を、一日、二日・・桜が咲く季節を一年、二年・・というように同一時間軸上で同じ現象がくりかえすことを前提としている場合である。つまり数えるという行為には、空間的再現性を把握する場合と、時間的再現性を把握する場合の二種類がある。どちらが数の起源かと言われると、前者のような気がするが、これがよくわからない。また、空間的再現性に関しては、目で瞬時に判断するので、時間が必要ないと思われるかもしれないが、数えるという行為には時間が必要になるので、空間的再現性にも時間的再現性が紛れている気がしてくる。ならば時間的再現性の方がより根源的なのだろうか。和也はまたよくわからないことを考えてしまった。
アラビア数字、ゼロの概念、位取り法が生まれるまでは、暗算という技法は困難だったと思われる。これらが生まれることで、頭の中で数の計算をすることが著しく容易となった。おそらく、これらが生まれなければ、後の西欧での科学と数学の発展も起こりえなかったのではないだろうか。近代に入る辺りから、四則演算やイコールの記号も発明され、数式の表記が明確になっていった。「7に5を足した数は12である」と「7+5=12」は同じ内容ではあるが、前者は主語と述語の関係から成り、後者は左辺と右辺の関係からなる。おそらく、前者の方が古い歴史を持っているだろう。後者の方がより空間的で平面的な印象を与える。主語と述語という垂直の関係から、左辺と右辺という横並びの関係に移行していくことが、文明化と関係しているのだろうか。そんなことを和也はふと考えた。
今の社会は同じものであふれている。スマホも自動車も冷蔵庫もシャーペンも同じものであふれかえっている。産業革命以降の時代においては大量生産が当たり前のものとなった。人間が住む都市社会は、「同じ」でうめつくされることになり、私たちも特に違和感を持つことはなくなった。文明が強制してくる同一化、均一化の圧力増加と、人権思想の進歩は重なり合うのだろうか。和也は少し嫌なことを考えた。あたかも同じ製品が作られるかのように、人間も同じで平等だということになったのだとしたら、少し身震いがする。
この大量生産に支えられた都市社会が、自然に対立している世界だとみなすのは正しいのだろうか。自然と都会は対立するのだろうか。自然界にも同一性、均一性は多く見られるのではないか。自然は多様性を好み、都会は均一性を好むという見方は正しいのか。自然にも、都会と同様に再現性と親和性がある点は見逃されているのかもしれない。だとすると、大量生産というシステムは、人間の自然の摂理からの逸脱であり、常軌を逸したものだと捉える見方は妥当なのだろうか。工場というシステム自体が、実はもとから自然に備わっているシステムを人間が再現したものに過ぎないということはありえるのだろうか。
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