百合の君(29)

百合の君(29)

 いつの間にか行く手を覆っていた木々はなくなり、その代わりに真っ白な霧で覆われるようになった。足元は土から岩場、岩場から雪へと変わり、時折降る冷たい雨と共に体温を奪った。
 無謀だった、と少年は思った。十一歳になった(その)は、友人の天蔵(てんぞう)と共に奥噛(おくがみ)登山に挑戦していた。馬と走っていたあの男を見たとき、きらめく夕日に沈んでいた大きな山。たまらなくなって走り出して、転んだ天蔵になぜか深い友情を感じた。あの時から、いやそれよりもずっと前から、いつか天蔵とこの山に登ろうと決めていたのだ。
 園はもう大人と同じ仕事を任されるようになっている。すっかり大人なんだと思っていた。しかし甘かった。手足の感覚はなくなり、ここがどこなのか見当もつかない。奥嚙山に登るには、まだ何もかも足りなかった。体力だけでなく、知識もない。村ではすっかり春だと言うのに、ここは真冬、真冬というより黄泉の国だ。
 振り返ると、喪失した意識のような霧を隔てて天蔵が見える。そのくせっ毛は凍りつき、麻の着物一枚の天蔵は、耳や鼻が赤くなっているように見える。そのぼんやりとした視界に、自然と思考も曖昧になる。
 天蔵が死ぬかもしれない。というより、俺達二人は死ぬかもしれない。
 戻るべきだろうか。多分、戻るべきなのだろう。それが賢い選択だし、父様もきっとそうしろと言うだろう。しかし、ここで戻ったら取り返しのつかない汚点を人生に残すような気がする。
 思春期を迎えた園は、人生について考えるようになっていた。園は、生きるという事はただ単に生存しているというだけでは不十分で、何かを成し遂げなくてはならないと考えていた。その最初の関門である奥嚙登山に失敗したら、この先の人生負けっ放しになってしまう。
 園は立ち止まると上着を脱いで天蔵に与えた。己の手がなかなかそれを脱ごうとしなかったのを、園は手がかじかんでいたせいにした。一枚薄着になると、まるで皮膚をはがされたかのように冷たい風が骨の髄に突き刺さってくる。
「ありがと」天蔵の声は弱々しかった。
「ううん」それ以上の声は出なかった。
 彼らはただ次の一歩だけを考えて歩き続けた。一歩出れば、次の一歩も出るはずだ。そうしている限り止まることはない。いつしか日も沈んだ。それでも二人は歩き続けた。無限とも思える時間の後、視界が晴れた。眼下には緑の山々と白い雲、そしてその先には青い海が広がっている。太古の世界がそこにはあった。この瞬間に触れてはいけないような気がして、園は息を飲んだ。
「見ろ!」
「おー」
 とうとう辿り着いた。広がる雲海の底では、何千という人々の生活が、提灯鮟鱇(ちょうちんあんこう)のようにわずかな灯りをともしながらまどろみ、夢を見ている。園は大きな大きな(くじら)が雲の上に顔を出すのを見た。その噴き上げる潮は、昇る日の光を乱反射して、はしゃぎ合うかのようにきらめきながら風に流され消えて行った。
 これが神々の眺めだ。俺はこの足で、自分の力だけで、この領域にまで辿り着いた。
 そして自分がまだ生きているということに安心して、涙が出て来て、天蔵に抱き着いた。天蔵も泣いていた。日の光はやっと春らしく二人を温めていた。
 園と天蔵は、それから少し歩いて頂上に立った。しかし改めて頂点から見て、園はある違和感に気が付いた。それは、山のある一面にだけ木が生えていないということだ。
 それは神酒尋(みきひろ)と呼ばれていて、お祭りのときに御薪(おんまき)を落とすための斜面であるということは、園も知っていた。
 雲を駆け、鯨を追いかけていた園の舟は、ずっしりと重りが乗って沈んだ。
 奥嚙山は、人跡未踏(じんせきみとう)の地ではなかった。毎年何百人の大人たちが御薪を担いで登っている。途中には休憩用の小屋もあるし、そこには食べ物も酒もある。大人たちはそこで直会(なおらい)をするのだ。
 しかし園は、この落ち込みを天蔵に悟られるのは嫌だった。ここまで付いて来てくれた友に申し訳がないというのもあるし、悟られるとやはり負けを認めたようで悔しくもあった。
「すばらしいけ(しき)だな」
 しかし明るく言った声は、とっくに下界の響きとなっていた。
「おー」
 天蔵のいつもと変わらない調子は、むしろ園を不安にした。この何も考えていないような友は、とっくにこの景色を知っていたのではないだろうか。それでいて自分の落ち込みを、高みから見物しているのではないだろうか。
 園は落とし穴を掘ってさちにいたずらをしたときのことを思い出した。さちは園には目もくれず、天蔵を追いかけた。自分をのけ者にしてじゃれあう二人の楽しそうな顔。その表情が浮かんでいるような気がして、天蔵に振り向くことができず、園は景色を眺めているふりをしていた。

百合の君(29)

百合の君(29)

11歳になった園は、奥嚙登山に挑戦します。5、20、22に登場した男の子です。少年の憧れと友情は、この先彼をどのような場所に導くのでしょうか。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-11-09

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