紅い夜空
警報がけたたましい。
爆撃機の重低音が遠雷のよう。
孝太郎は布団を蹴飛ばし、防空頭巾でくるむようにして末の妹を抱え上げた。
母が、直ぐ下の妹を立たせ、防空頭巾をおっかぶせている。
この家の庭は狭い。防空壕は深くない。
今夜の空襲はこれまでにない規模のようだと、小学三年生ながら、孝太郎は察した。
「お母さま。神社まで急ぎましょう。」
氏神を祭る神社に掘られた壕なら、地区民供用のため、広い。
遠雷が逼る。
三人は駆けた。
神社の防空壕は、それでも隣近所の人でいっぱいである。隣家の菊池さんの奥さんが、孝太郎の母を差し招く。四人はどうにか居場所を確保した。
「今夜はまた、いつにもましてものものしいですな。」
壕内で隣り合わせた者どうし、お喋りのはじまる。「サイパンは陥ちたそうですな。」「グアムもだそうですよ。」「沖縄もじきだと聞きました。」噂話は、情報交換というより、精神衛生のため。不安と恐怖をまぎらすには喋るにこしたことはない。
孝太郎は蹲るようにして、両腕と両膝のあいだに末の妹を抱えている。その右に直ぐ下の妹が、母にもたれて座している。母は妹を左の腕に抱えるふうである。
「ご主人さまは、どうされました。」
菊池さんの奥さんが、母に訊いた。
「今夜は当直で、留守にしております。」
「お仕事ですか。ご苦労さまです。」
「いいえ。滅相もございません。戦地にいらっしゃる方々には申し訳もございません。……」
菊池さんの、ご主人も一人息子も出征している。
「でも、ご主人さまのような方もおられませんと、戦争もできませんから。……」
「とんでもございません。戦地にいらっしゃる方々のお蔭で、主人も仕事をつづけていられるのでございます。……」
孝太郎の父は、紡績会社に勤務する研究員。大学では化学を専攻したから、戦時にあって、おそらく軍需品の開発・製造のため、徴兵は免れたのだろう。いまも会社勤めを、正確に言うなら、工場附設の研究室通いをつづけている。
防空壕に、いま駆け込んで来た者がある。
「川向こうが燃えている。」
川向こう。
とはいえ、ここは川の下流、湾の注ぎ口にあたる入江をなす。景観は海にひとしい。
壕内に安堵の空気がみちた。攻撃目標は、海のごとく隔たる、川向こう。そこにひろがる工場地帯。こちらへの爆撃はおそらく、まずない。
ところが孝太郎の胸は早鐘をうった。父の勤める工場も川向こう。……
しばらく。怺えはしたのだ。
矢も楯もたまらず、孝太郎は末の妹を母の胸にあずけると、壕の入口へと急いだ。制止する、母や聞き覚えのある人の声をふりきり、壕から這い出た。
焦げくさい臭いが鼻をつく。
逸散に駆ける。
川に出た。
紅い。
川も、川向こうも、空も、ことごとくが紅い。
夜目にも黒い煙が濛々と渦巻くのが分かるほどに、きらぎらと紅い。
日輪が海に落ちて、天火が迸ったかである。紅蓮の焰煙が、身悶えし、躍る。火の粉が雨のように、星屑のように、かけめぐる。と、金梨子地のような火の粉がひとしきり、夜空をみたした。
紅い夜空に吸い込まれたかと、目を瞠った孝太郎は、固く両の拳を握りしめ、立ちつくした。満身に紅い光を浴びるなか、孝太郎は覚悟を強いられるように思い、観念したのである。
翌る朝。
孝太郎は川に出た。
紅はもうない。
燠火がのこるのか、遠目には判らない、黒煙が所々で立ち昇っている。建物の影はみとめない。視界は、遮るなにものもない、かなたに霞にけぶる富士へとひらかれている。
いままた拳を握りしめて、孝太郎は川向こうを睨んだ。自然、焦土が想われた。昨夜の惨事が想われた。父が想われた。
繊維や染料、化学薬品など、可燃物の集積した工場そのものが爆薬庫にして起爆剤。あっと言う間のこと。ひとたまりもなかったろう。市中随一の爆発と火勢であったに相違ない。
口惜しくて。口惜しくて。涙も出ない。
正午過ぎ。
また川に出た。
黒煙はもう立っていない。川向こうの、ようやく鎮火したのを知る。また上流を見遣って、このときはじめて気がついた。鉄道橋が落ちている。拳をまた握りしめる。
夕刻。
三たび、川に出た。
茜さし。日の暮れゆく。
きらぎらしくない。紅くない。
宵の帷は藍く、空をまといはじめている。
背後に人の気配を感じた。
「いま、帰った。」
父である。
宵闇でもそれと分かるほどに、煤と土埃とに全身がよごれている。
昨夜。とつぜん同僚が宿直室を訪れた。外せない用事のできた。ついては当直を交替してほしい。……
空襲の前に、工場を出た。最寄り駅に着く前に、爆撃のはじまった。鉄道は無論のこと、乗り物は使えない。工場地帯は危うい。これを避けて遠廻りに歩くよりない。橋も川の上流、県境近くを渡った。そうして、いま、帰った。
空襲による被害はそのとき、伏せられた。後日明らかにされたところによると、
死者八万三千人。負傷者四万人。行方不明者十万人。罹災者百万人。損壊家屋二十六万八千戸。市中の東半分、約四十一平方キロメートルが焼失したという。
父の帰還は奇蹟的である。幸運であった。
父の同僚は命をおとした。不運であった。
これが戦争である。
孝太郎は幼心に刻んだ。紅い夜空は鮮明に、瞼に焼き付けられた。
一週間の後、母と孝太郎ら兄妹は、母の実家に疎開した。仕事のため、父は残った。
紅い夜空