思春期から

 もっとゆっくり生きよう。前半生は自分のような弱い人間にとっては、あまりにも負荷の大きいものであった。もうあんな生き方からは解き放たれて、これからはできるだけ気楽に生きよう。そう思っていても、何かがまた急き立ててくる。人間は、社会は、常に平等と平和を希求しているが、同時に階層と闘争を希求している。この間で揺れ動きながら、歴史は続いてきた。一人の人間の生も同じだ。穏やかに暮らしたいと思っていながら、刺激が欲しい、高いところに登りたいという願望もある。どちらかが正しくて、徳が高いというものでもない。嫌らしい考えが、また哲也の脳裏にちらつく。こうして何もかも相対化しようとして、思考遊びしてしまうのはよろしくない。結局、基本的な道理から外れて心が荒廃してしまうだけなのだ。自分の心が耐えられないのなら、むやみによけいなことを考えない方がよい。それはそうなのだが、実際に考えずに生きてきたのが思春期だったのではないか。あのときに何も深く考えずに生きてきたツケを今も払わされている気がしなくもない。だが、あのころの自分としては、あれで精一杯生きていたはずだ。現在から振り返って、過去の人生にケチをつけてもしかたがない。しかし、過去を反省しないと人間は何も変わらない。またこうやってぐだぐだと無駄に思考がまわる。何かまた動画でも見ようかな。

 思えば思春期の時代に最も老いていた。その後の人生は、この老いからいかにして脱却するかが、主題だった。十代のころに降りかかる老いから、どのように若返るか。自分の力で素直さを得ようとする闘いを今日まで生きてきたのではないか。自分に素直になろうとしてもそれができない。社会から他人からそして自分から自分を守るために、よけいな理屈が次々に湧き出てしまう。この厄介な思考から脱却するにはどうしたらいいのか。それに悩まされてきたのが、自分の人生だった。今こうして生きているではないか。もっと自分のことを素直に賞賛しよう。熱い思考から抜け出ること。頭と心と身体の関係を良好にして、平静さを維持すること。なぜあの時期にそれができなかったのだろう。どうして、ここまで混迷を深めてしまったのだろう。

 哲也は最近ある小説を読んで数日経ったのだが、まだ受けた感銘から立ち直れずに余韻の中にいた。昔も今も、高潔な精神を持って、高い志を備えた人が周囲に恵まれずに、亡くなっていく。それが人間の歴史において常に起こってきたのだ。そして、そのような人々の存在は跡形もなく忘れ去られていく。そんなことを仕事をしながらも思っていた。

 自分はこの世界に生み落とされて、何をしてきたのだろう。結局、自分は何の宿命も見出すことができずに、生を終えていくのだろうか。いや、それが常人なのだ。勝手に自分の人生を、自分の思い通りの劇に仕立て上げて、そしてその劇の主人公を演じたいなどというのは、とんだ思い上がりだ。人生を劇と捉えること、それ自体何か傲慢な考えのような気もする。すでに人間が様々なことを思い通りにできる時代になって、もう何百年くらい過ぎたのだろうか。人間による人間の賛歌が、テレビでもSNSでも街中でも田舎でもどこでも鳴り響いている。高度な文明を手にした人間は勝利を勝ち取ったのだろうか。それと引き換えに、思考は衰弱してしまったのかもしれない。

思春期から

思春期から

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-11-02

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