百合の君(28)
狩菜湖に反射する春の日が、まるで手を振る幾万の民ようだった。別所沓塵の嫡子、来沓にとってこれは初陣だったが、彼は城に留まるのを潔しとしなかった。
「爺!」来沓は宮路光信に振り返った。「出海には勝って当然だ。奪うな、殺すな、犯すな、この三つこそわが軍の根本ぞ」
元服したばかりの若殿から「犯すな」という言葉が出て来たのがおかしかった。まぶたに残る寝小便で濡れた布団のきらめきは、ちょうど目の前にある湖と同じで、光信は思わず笑った。あわてて穏やかな微笑みで覆い隠す。
「心得ております」
初陣に緊張した、というより若すぎる来沓は、そんな光信の心の流れには気付かなかった。
「父上はもうじき八津代を手に入れ、いずれ天下を治めるだろう。しかし、武力だけでは人を従わせることはできん。将軍に反旗を翻した別所を悪逆非道と罵る者はたくさんいる。父上が武の力で天下を平定した後は、私が徳の力で世を治めねばならん」
「ご立派な事です」しかし光信の表情は険しかった。「が、徳と勝利が矛盾した時には、若は勝利を取らなければなりませんぞ。若は学者ではなく武将なのですから」
若殿は頷いたが、しかしそれはこの老将の言う事が分かったからではなかった。それは単なる反射だったのかもしれないし、日の光がまぶしいだけだったのかもしれなかった。
別所軍を待ち受ける八津代が上嚙島城の庭では、山風が桜に吹きつけていた。花の命は短いとはいえ、まだ散るには早い。出海浪親は完全武装した兵達を前に、天を仰いだ。
「お前たち、甲冑を脱げ」
兵たちは顔を見合わせた。
「なぜです? 降伏するのですか?」
「いや、百姓に化けて戦う」
どよめきが起こった。
「我々は武士です。そんなことはできません」
「いや、八津代の侍ならできる、並作」
「はい親分」並作はすでに平装だった。というより、彼だけはまだ武装していなかった。頭に桜の花びらを乗せて、敵軍が迫っているというのが嘘のようだ。そんな彼だからこそ、この作戦にはうってつけなのだ。盛継の百姓姿では敵にすぐ怪しまれてしまう。
「国境で畑を借りて、野良仕事だ。敵が通過したところで、横から攻撃して逃げろ」
「へい」並作は嬉しそうだ。
「襲われそうになった奴は逃げろ。別の奴が後ろから矢を放てばいい」
執事である盛継が初めて口を開いた。「なるほど、攻撃したものはまた逃げて、追いかける敵を散り散りにするのですね」
「そうだ、別に敵を全滅させる必要はない。進ませなければいい」
「土地勘はこちらにあるわけですし、それなら大軍と戦えるかもしれません」
「かもしれないではない。戦わねばならん」
浪親は厳しい視線を執事に送った。盛継は応えて頷く。そんな緊迫した場面を破ったのは、やはり並作だった。
「畑仕事なんて久しぶりだなあ。俺、侍よりも百姓向きだからなあ」
並作は鍬を振る動作をした。明らかに楽しそうだ。背が低く童顔な彼はただでさえ若く見えたが、さらに肌がつやつやして少年のようだ。
「領地の面倒も、川照見殿に見てもらってるし」
しかし、この言葉は聞き捨てならなかった。
「それは本当か?」
浪親はするどい視線を盛継に向ける。
「並作殿がやったら破綻しそうになりまして・・・」
盛継がその彫の深い顔に大きな二重まぶたの目を伏せた姿は十分目立ったはずだったが、並作は種まきの動きをやめない。浪親はその目を射るように睨んだ。やっと並作が大人しくなる。
「並作、いくら苦手でもこういうことは他人任せにしてはいけないぞ。お前のためにも盛継のためにもならない。いつか取り返しのつかないことになるぞ」
並作は反論もせず俯いていた。戦支度の中、二人だけが切り取られたように時間が止まっている。
「殿、おっしゃる通りではございますが、今はそのような議論をする暇はありませぬ」
お前がやったくせに何を言うか、と浪親は思ったが、確かに盛継の言う通りだった。今は別所軍を追い払うことが先決だ。
「並作、今はもうこの話は気にしなくていい。お前のやりたいように戦え」
並作の顔は磨き上げたように再び光った。
「へい、俺、頭を使うのは苦手だけど、この体ならいくらでも親分の役に立てます」
鍬と弓矢を持って並作は走り出した。その後ろ姿は頼もしかったが、領地が増えれば増える程大事なことが増えて行って、色んなことが疎かになっていく。穴の開いた巾着に物を詰めているような、不安な気持ちに浪親はなってゆくのだった。
百合の君(28)