疲労
もうなんの感慨も残っていない。今の時代は解放が行きわたっている。前時代の面倒な風習や規範は、ほぼ取り除かれ克服できたはずだった。確かに諸々の問題は今でも残ってはいるが、それでもかなりましにはなっている。だから、今は平坦化されてしまった。社会の様々な階層は取り除かれ、皆が平等となったおかげで、過去に比べて障害は少なくなった。人々が抱く思考も平穏になり、あまり強い妄念に社会が支配されることも少なくなった。近現代を通して続いてきた、解放と進歩の物語という饗宴が終わりを告げようとしている。確かにいい時代になった。物質的にも経済的にも飛躍的に豊かになったのであり、飢えや疫病で苦しむ人はほとんどいなくなった。前時代的な貧困はほぼ一掃されたかのようであった。数百年で手にした成果をこのまま維持できるかどうかはわからないが。
それとも、さらに社会は人間は進歩するのだろうか。その場合、これ以上前に進むと人間の心身が持つのかという問題があるように思われる。さらなる進歩によって、人間の思考が破綻して狂気に至ってしまう可能性について、哲也はなんとなく考えていた。また、現代社会はすべてが順調に回っているように見えるが、一皮剥けば非常に寂しい世界であり、誰もが心の中に虚無感を担っており、個々の虚無を通じてなんらかの大海につながっているのではないかと疑うこともあった。本来なら、このような虚無に耐えられず自殺するのが妥当な選択ではないかとふと思うこともある。凡人に過ぎない哲也にとっては、狂気も自殺も受け入れがたい。ならば他にどのような道があるのか。その場合は近代以降の成果をすべて否定して、古代の宗教や思想に託すしかないと思われるが、それはもはや現実的ではない。
近代に入って科学が生まれた。それ以前の人たちは科学を知らなかった。だから人類はずっと天動説で生きてきたはずだ(地動説を唱えた人はギリシャからいたけれど主流にはならなかった)。それが、突然四百年ほど前に、いきなり大地が動いており、地球は太陽を周回しているという定説を受け入れることを徐々に強いられることになった。今では天動説を信じているのは、キリストやイスラムの原理主義者くらいだろうが、彼らを馬鹿にするのも安易な話なのかもしれない。私たちは通常の生活を送っている限りは、特に天動説で困らないのであり、むしろ地動説の方が生活になじまない奇異なものだ。すでにこの時点で、自然科学というものが、人間の頭で理解するものであり、心と身体で受け入れることができないのではないかという懸念が生まれてくる。また、人間は有史以来夕陽を見て素朴に美しいと言う感情を持っていただろうが、これも科学が生まれた時代あたりから(実際には中世から)、人間の目に光が入ることで物が見えるという説が支配的となった。認識できる色は光の波長によって異なるらしい。人間の体内に関する知識も豊富になり、網膜や脳を持ち出して視覚の仕組みを説明できるようになった。もともと人間は、物が見えるのは目から何かが出ているからと考えていたらしいが、現代人は目に何か(光)が入ってくるからと考えている。
このように、天動説という世界観に地動説が割り込み、夕陽を見て美しいと思う感情に視覚に関する科学的説明が割り込んでくる時代に私たちは生きている。宗教と進化論の関係も、これと同じような範疇に入れられるだろうかと考えたが、現代で宗教的世界観がまだ生きているかというと少し疑問だ。天動説も夕陽の美しさも、日ごろの生活では当然のものとして私たちが受け入れている感覚、感情であり、今も生きているのであり、そこは宗教とは異なると考えられる。このような日常的思考と科学的思考のせめぎ合いは他にもあるかもしれない。
そんなことを哲也はふと考えていたが、もうどうでもよくなった。何か面白い動画はないかなと思ってyoutubeをだらだら見ていたのだが、特に何もない。結局、いつも通り自分のお気に入りの曲を流す動画を開いた。こうして、いつも時間を無駄に過ごしてしまう。今の社会は独りを満喫できるようになった。わざわざ人と衝突してまで何かを伝えあったり、わかりあおうとすることが億劫になっている。直接的で若干乱暴な触れあいは好まれなくなり、どこも清潔で優しくて労りに満ちている。これは進歩なのか衰弱なのか、哲也にはわかりかねた。こうして自分も家畜になっていくのだろう。人間も動物も家畜化されているのだとすると、それらの家畜を統括している者は誰なのか。それが現代における神なのだろうか。この家畜化の流れを止めることはもうできないのだろうか。だんだんと眠気が襲ってきて、ヘッドホンをつけたまま哲也は寝入ってしまった。
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