私とケンゴ vol.14

「長々と話を続けまして、申し訳ありませんでした。
お嬢様の、三ヶ日ミカンの生ジュース、搾り立てで何も加えておりませんので、是非とも酸化しない内にお召し上がりください」と流れに逆らって一瞬の煌めきを残すアユの様に『KINPARA』さんは翻った。
そりゃ、そうだ。
彼女が、そう勧めるのも当然といえば、当然。
見た目からして明らかに、酸化防止の為のヴィタミンCとか添加してなさそうだもんな。
<当たり前だろ? お前、何トボけたこと言ってんの? 工場製品じゃないんだぞ!>
 でも、板前さんがスクイーザーで1つずつチマチマと、ミカン圧搾したんかな?
<ソレは、知らんけども、だ>
それとも追い廻しの人かな?
<だから、知らんって>
ま、いっか。
 オレはイトに、「そのミカンジュース、さ、早く飲んだ方が良いんだって」と告げた。

『えっ!?!』
ケンゴくんが「ミカンジュース、はやくのんだ方がイイよ」って、いったから、ちょっとびっくりしちゃった。
だって、これはタイセツにとっておいて『あとで、のもう』って、おもってたから。
だって、これって、このジュースって、ママがいつもコップについでくれるヤツとはゼンゼンちがってて、とってもいいニオイがするんだもん。
なんか、ジュースさんが『おいしいよー』って、おっきいコエでいってるカンジ。
そーゆーヤツって、いそいでのんじゃったら、メチャメチャもったいないじゃん。
イマ、のんだら、チョーもったいないじゃん。
だから、とっときたいなぁ。
ゴハン、たべてからじゃ、ダメ?
でも、ケンゴくんが、
「キン...おネエさんが、おいしいウチにのんだ方がイイって」って、いった。
「とっとくと、まずくなっちゃうのかな?」って、きいたら、ケンゴくんは、
「そうじゃないとおもうけど...」って、なって、スコシ『うーん』ってかんがえるみたいだったけど、チョットしたら「アトにとっておいても、マアマアおいしんだとおもうけど、
イマのんだ方が、アトにとっておくよりも、より...えー...タクサンおいしいってコトじゃないかな」って、いった。
そっかぁ...
イマ、のんだ方が、タクサンおいしいんだぁ。
どっしよっかな?
イマのむ、とタクサンおいしい。
アトにとっとくと、マアマアおいしい。
ドッチがイイかなぁ?
『ねぇ、どうおもう?』って、テディさんにきこうとしたら...
アレっ?!?
テディさん、いない!?!
どうしたんだろ?
いそいでマワリをみたけど、どこにもいないっ!
ヤバい!
きえちゃった?
レイとおんなじ?
ウソっ?!?

 三ヶ日ミカンの搾り立てジュースを早めに飲んだ方が良いよ、とイトに勧めたら、
小首を傾げて考え始めたのだが、キッチリ5秒後に自分の脇に眼を走らせると『ビクッ!』と身体を一瞬だが大きく震わせ、その後、見失った自分の心を探し出す様な真剣さで周囲を見回し始め、どこにも目当てのモノを見出せないと悟ると、部屋の内部の隅から隅までを物凄いベクトルの変化量で、視認し出した。
 何だ?
どした?
何が起こった?

あ、そっか!
テディさん、おヘヤにおいてきちゃったんだ。
『おルスバンしててね』って、いったんだっけ。
そうだったっけ。
そうだった。
あー、わすれてた。
でも、よかった。
テディさんが、レイみたく、きえちゃわないで。
もし、そんなコトになったら、もうダレもいなくなっちゃうジャン。
ん?
なんか、ダレかがワタシをみてるカンジが、する。
ウエの方をみたら、ケンゴくんのおメメとパッとぶつかった。
あー、こっちもよかった。
ケンゴくん、ワタシのコト、シンパイしてくれてるみたい。
もとのケンゴくんにもどったみたい。
きれーなおネーさんの、マホーはどっかにいっちゃった、みたい。
よかった。
あれ?
ナンだったっけ?
ナニをかんがえてたんだっけっか?
うーん、と...
えーと...
あ、そうそう。
ミカンジュース、のむの、どうするか、だったっけ。
そうだなぁ、
どしよっか?
それで『どしよっかなぁ?』って、ワタシがチョットかんがえてたら...

 部屋の中をザザザッと物凄い勢いで一通り見渡した後、イトの頭上にピンッという音を立てて『!』が1つ浮き上がった。その刹那『アァ』と安堵の表情を顕わにして落ち着きを再び取り戻した。だから、彼女が何を探していたのかオレにはサッパリ解らないけど、イトはお目当てのモノを探し出す事が出来たみたいだった。その状態に至るまでの経緯がどういうモノなのか、全くの五里霧中だが、とりあえずのトコは、良かった、良かった。
コレで問題解決。
しかしながら、未だにジュース問題の方はどうするのか、決めあぐねている様にも感じ取れる。イトの稚いながらも混迷がアリアリと窺える思案顔を眺めるのも一興ではあるが、それでは何も始まらない事は、自明の理である。だから、仮初(かりそめ)のパパとして助け舟を出そうと「半分だけ、飲んでみたら?」と誘い水を少し注いでみた。
イトは、その端整な相貌に『ん?』という半疑問と半認知が入り混じった表情筋の動きを表出させたのだが、すぐに納得の表情がソレ等に取って代わった。
「そうする」とだけ言って、散々迷った割には随分イソイソとした所作でジュースが九分ほど注がれたグラスを両手で挟み込む格好で溢さない様に慎重にソロソロッと持ち上げた。
グラスの縁からポッテリと橙黄色に濁った艶やかな液体がイトの形状の整った唇を通り抜けるや否や、彼女の眼が大きく見開かれて真ん丸になった。
あ、美味しいんですね。
 しかし、この娘、眼ぇでかッ!!
剥き出しになった白目が虹彩の部分を大きく縁取る事により眼の存在感が一層強調されているので、今更ながらその大きさに気付かされる。
しかし、どーでもイイ事だけど、この娘、一生サークルレンズには無縁の存在だな。
ま、稲葉天目の地色にソックリの鮮やかな虹彩を無機質なプラスティックで覆い隠すなどという程の無粋な振舞いは、この世には、チョット他にはあるまいから、サークルレンズの装着だけは如何なる手段を用いても回避させる事にしよう。
 近い将来、イト本人が『カラコン、どーしてもしてみたい』とその大きな眼をウルウルさせながら懇願してきた場合は除くけども、だ。
<その時、お前が彼女の傍にいる事が出来ていたら、のお話し、だろ?>
(筆者注:サークルレンズ(Circle lens)とは虹彩(瞳)を大きく見せるコンタクトレンズのこと。≒カラコン)
おうおう、いい飲みっぷりだな。
3日間ビール断ちさせたバイエルンの人達に与えた最初の1杯目みたいな急激な加速度で、氷無しってこともあるのだろうが、グラスの傾斜角度が垂直90度からドンドンと水平に平行な180度へと近付いて行く。あれだけ逡巡していたのにも関わらず、一気に全てを飲み干し尽くさん、かの勢いだぞ。
 おいおい、大丈夫か?
噎(む)せたりすんなよ。
柑橘系の液汁を誤飲して気道へと誘導ミスすると全く始末に負えんからな。
 ま、咳き込んだ、そゆ姿も我が網膜に激烈に可愛く映る筈だから、観てみたいっちゃ、みたいけども、だ。
<お前、ややこしいくらい厄介で面倒臭い性格してんな>

チョットしろっぽくて、あかっぽいキイロのミカンジュース。
メチャメチャきれい。
ホントにいいニオイがするけど、イマすぐにのみたいけど、でも...だから、
『どっしよっかな?』ってかんがえてたら、ケンゴくんがとってもステキなことをいった。
「ハンブンだけ、のんでみたら?」
んー、すっごくイイ!
それって、すっごくイイかんじ!
さっすが、ワタシのパパ!

じゃ、ハンブンだけ、のもうっと。
「そうする」っていったら、ケンゴくんはニカってわらった。
ケンゴくんのわらったカオをみたら、すこしだけドキッとした。
だけど、マエとおなじくらい、でも、ない。
ホントに、スコシだけ。
でも、ヤッパリおなかのシタの方で、ナンかがムズムズって、してるけど。
あー、そんなのはどうでもいっか。
ミカンジュースから、すんごくイイにおいがする。
ハンブンだけ、だから、のんでもダイジョブ。
こぼさないようにしないと...

!!!!!
うわっ!
なに、コレっ!
あまーいっ!
ミカンがおクチのなか、いっぱーい!
おクチのなか、ミカンのイイにおいでイッパイっ!
あまーいッ!
あ、
アレッ?
あまいけど、チョットすっぱいカンジ、が、する。
キのせい、かな?
もうヒトクチ...
あ、
やっぱ、チョットすっぱいカンジ。
でも、アマイのとスッパイのが、いいカンジでイッショになってる。
ママがくれるミカンジュースより、ずっと、ずうっと、ミカンってカンジ。
おクチのなかが、まるごとミカン!
あー、おクチのナカから、きえちゃうよーっ!
のみたくないけど、ドンドンのんじゃうよーっ!
いっぺんにのむと、スッゴクへっちゃうよね。
あとにとっとかないと、ダメだから。
オイシイものは、あとのおたのしみ、ってママがいってたし。
でも...
とっときたいけど、でも、もうヒトクチだけ、のもう。
もうヒトクチだけ...
きっと、ダイジョブだよね。
だから、もうヒトクチだけ...

 イトが両手でヒシっとグラスを抱え、夢中でミカンジュースを飲んでいる。
まるでラッコの捕食行動にソックリに見える。
<猟虎?>
 そう、ラッコ。
アイツ等、お気に入りの石で殻を叩き割った貝とかを両方の前脚で掻き抱くような格好をしてムシャムシャ喰ってるじゃん。
<あんなのに似てるか?>
 あ、イヤ、じゃ、ジャイアントパンダが竹とか笹を両手で拝み持ちしながら一心不乱にカジカジ齧っている姿、に似てない?
<大熊猫?>
 うん、パンダを思い起こさせるような愛らしい仕種、メチャクチャ可愛くないか?
<完璧に、親バカだな。ただ単に温州ミカンの搾汁を飲んでるだけだろ?>
 何とでも言ってくれ。
自分の子供を持つって事が、こんなにも素晴らしい事だったなんて、今の今まで想像だにした事は無かったんだから。
<いちいち大袈裟なんだよ、お前は>
 そっか...
<どした?>
結衣が...あれだけ子供欲しがった訳が、少しだけ理解できた様な気がした...それだけ。
<男の子、だったけど、な>
うん。
<プレッピイ・スタイルの>
そうだった。
 何かが引きつってホツレが生じた様な感触を胸の奥の方に再び、覚えた。

 トンっ!
音を立ててグラスが置かれた。
オレの興味の焦点が利休形をした切山椒向付けの器に一瞬逸れかけた時にその音が響いたから、軽くビクッとなった。
イヤ、娘の愛らしい姿に飽きた訳じゃないよ。
胸の奥の疼きから眼を背けたかった、って事もあるし...
ぼってりとした形状の器に盛られた、擦り卸した自然薯を海苔で挟んで揚げた『揚げトロ』なるモノが発散する芳香に少し、ほんの少しだけ心を奪われそうになっただけだ。
何、ただ単に、ほんの少しだけ関心が違う対象へと逸脱しかけただけだ。
<気を取られただけだ、と>
ホントに物凄く艶めいた香りが手許から立ち上がってくるんだもん、コレを無視できる人なんて、この世界に存在してないだろ? イヤ、本当に、ほんのちょっと、だってば。
<あのさ、誰に言い訳してんの? お前?>
「ふぅ」
イトが大きな吐息を漏らした。
海面に再浮上した海女さんが天に向って吐く様な呼吸の勢いだった。
 観察すると、彼女の前のグラスの中のミカンジュースが半分ほどまで減少していた。
マジで?
一息でそんなに飲んじゃったの?
ま、な。
そりゃ、そんだけ長時間息を詰んでりゃ、そうなる。
オレは『よく息が持ったな?』と変な感心をした。
5歳の子供にしちゃ、結構な肺活量じゃないか?
それとも息をするのを忘れるくらいジュースが美味しかったのだろうか?
もしそうだとすれば、そのジュース、激甚なる蠱惑性を帯びているってことになる。
<観方を変えれば、素晴らしい集中力とも形容できるな>
なるほど!
それだけ飲むのに一生懸命だった、と。
 美味しい物を食べたり飲んだりした時、殆んどの人は『犬喰い』になる。
つまり、よく噛んだり、十分に味わったりもせずに、そんな必要は全然ないのに超光速で飲み下してしまう。誰に急かされている訳でもないのに。
<まぁ、そんなのは今関係ないことだけどな。>
えー?
<お前はいつも冗長過ぎなんだよ。‘Brevity is the soul of wit.’とも謂うだろ?>
うるさいな、オレはポローニアスじゃない。
 アレッ?
イト、何か知らんけど今、悲しみの表情を浮かべたぞ?
うん?

アーッ、くるしかったぁ!
イキするの、しなきゃダメだぁ!
めちゃめちゃ、くるしかったぁ!
でもっ! ミカンジュース、おいしーっ!!!
あーっ、おいしーっ!
おクチのなか、ミカンがいーっぱい!!!
なんか、ウットリしちゃうカンジ。
あ、
あーあ、
ハンブン...
ミカンジュース、ハンブンだけになっちゃった...
ものすごくオイシカッタから、
チョットだけっておもったけど、イッパイのんじゃった。
ヒトクチだけ、っておもってたのに...
どうしよ...
あーあ、
...もう、ハンブンしか、ない。
...もう...

 何故、悲しみの微表情を彼女は浮かべたのだろうか?
あれだけ美味そうに搾り立ての蜜柑搾汁を飲んでいたのに。
その原因を探るため、彼女の視線の先を辿ってみた。
 あら、三ヶ日ミカンジュースが半分だけ残されたグラス。
希望と絶望を半分ずつ湛えたハーフパイントの透明な容器を見詰めたイトの表情に悲しみの色が濃く涌出し続けている。微表情どころの騒ぎじゃない。非常に明確な刻印だった
どっからどう見ても、悲観主義に囚われているみたいに見える。
 さて、仮免中とはいえ、父親としてどういう言葉を彼女にかけるのが正しいのだろう?
安易な慰撫は返って逆効果の様な気がするが...
 その時、ジイちゃんが耳許で囁いた。
『楽観主義で行け。用いる手法は悲観主義のソレだとしても』
 なるほど。
オレに憑いてる『オビワン・ケノービ』軍団、とても頼もしい限りだ。

「まだ半分も残ってるね」

え?

「ミカンジュース、まだ半分も残ってるじゃないか。良かったね」

えぇ?
『まだ、ハンブン』?

もう半分しか残ってない、じゃなくてまだ半分も残ってるって考えてごらん。
って、そういう意味を表現したかった。
本当は、縦横無尽に言葉を駆使することで、微に入り細に入って噛んで含める様に伝えたかったんだけど、何となく必要最小限の方がより感銘深く伝えられるかな、って直覚した。
『簡潔さこそ機知の神髄、だ』
そういうことだね、ジイちゃん。
<ようやく...>

まだハンブン?
そっか、まだ、なんだ。
『もう、ハンブン』じゃなくて『まだ、ハンブン』
まだ、ハンブン、って、
ナニか、いいカンジ。
ナニか、ちょっぴりだけど、ミカンジュースがスコシふえたみたいなカンジがする。
なんでだろう?
なんでか、ゼンゼンわかんないけど、フワってなった。
うれしい、ううん、なんていったら、イイのか、わかんないけど...
すっごく、いいカンジ。
ヤッパリ、ワタシのパパ、だ。
なんか、とってもいいカンジ。
そうなんだ。
まだ、ハンブン、なんだね、パパ。

「鱧ですが、この様にして火を通してください」
イトの傍に寄り添いながら『KINPARA』さんはシャブシャブの実演を始めた。
灰汁取り用の杓子の目が粗い種類のモノっていうか、汁を掬う皿型の部分に鉄格子の様な恐らく真鍮製の金網が張られたタイプの杓子、コレって何て呼ぶんだろうか?
<目の粗い網杓子で良いんじゃないのか?>
それ、採用。
 網杓子の皿型の部分に『KINPARA』さんは丁寧な骨切りが為されたハモの身を崩さないようにソッと静かに置いた。そしてフツフツと囁く様に沸き立つ出汁の中に沈めてゆく。
まるで45℃のかけ流し源泉に自らの身を入湯させる如く、ソロソロと。
全身を昆布とエリンギの旨味タップリの出汁の中に浸されたハモちゃんの身はチリチリとはじける様に花開かせた。
 その魅惑的な様相を見詰めていたイトが再び眼を丸くした。
 イトの瞳孔、今日は非常に忙しい一日のようだな。
(筆者注:正確には眼輪筋等の眼の周囲の顔面表情筋及び上眼瞼拳筋等の働きが忙しい、と言うべきである。瞳孔の開閉つまり虹彩の動きはこのケースにおいては全く関係ない。
研吾君、今度は簡潔過ぎだよ、全く。コイツは中庸って概念、知らんのか?)

きれいなおネエさんが、ワタシのヨコにすわった。
あぁ、なんかすっごくイイにおいがする。
おネエさんがうごくと、すっごくイイにおいがフワンってする。
ママとも沙織さんともちがうカンジの、とってもイイにおいがする。
「これをこういうカンジで、ここにのせます」って、アオいもようのシロいおサラから、シロくてキレイなナンかを、アミアミのスプーンにのせて、キノコさんたちがハイってるおナベのナカに入れた。
うわっ!
なにコレっ?!?
シロくてキレイなナニかが、パッとなった。
おハナさんみたい、だ。
そしたら「もう、これでたべられます」って、そのパッとなったヤツを、おネエさんは、ワタシのマエにおいてあるおワンにいれてくれた。
「マツタケの方も、チャンとにえましたね」って、キノコさんもいれてくれた。
フーンってしたら、すっごくイイにおい!
おいしそう!

「えっ、マツタケ?」
このキノコ、エリンギじゃないの?
こんなに沢山、しかも恐ろしいまでに手荒で無造作な扱い。
結構な長い時間フタフタって煮込んじゃってるし。
マツタケって、こんな雑なやり方で処理する類いのモノだったっけ?
 美穂子、じゃない『KINPARA』さんは、顔を上げて視覚の焦点をイトからオレに移した。
「はい、サタケです。
でも正確に言うとサタケは通称で、本当の呼び名はバカマツタケです」
「サタケ? バカマツタケ?」
「早茸は『早い茸』と書いて『サタケ』と読みます。
本当のマツタケよりも半月ほど早く生えてくるから『早い松茸』と呼ばれる様になったのだとか。それに加えて、本家のマツタケは赤松林の地面に生えるのですが、サタケの方は広葉樹林の林床に生えるので『生える季節と場所の両方を間違えているんじゃないか?』という事から『バカマツタケ』と名付けられた、とされております」
 バカマツタケって...
大丈夫なの?
毒とか持ってないよね?
「サタケ、つまりバカマツタケは本家のマツタケと同属で同じ香りがします。
と、言うよりもバカマツタケの方がより強い芳香を放つのだそうです。
マツタケの産地としては長野県や丹波篠山などが有名です。
けれども松茸類は水分を多く含んでいて、この水分が抜けると、同時に味や香りもガクッと落ちてしまうのだ、とウチの板前が申しております。
実際、近場の産と丹波の物とを食べ比べてみると一目瞭然、イエ、『一舌瞭然』というべきでしょうね、愕然となるほど全く違います。産地よりもいつ採れたか、括目に値する要素ですね。だから遠くの有名な産地物よりも、近場の産出の物がより美味しいのです。
松茸は刺身と一緒で鮮度が一番大事なのだそう。
これは長野県との県境にある山で今日の早朝に採れた新鮮そのもののバカマツタケです」
あの『新鮮』と『バカ』という単語が耳に障る不協和音を奏でちゃってるけど、その方が美味いのなら、ま、いっか。
 しかし、新鮮なヤツをこんなに煮込んじゃって大丈夫なの?
確かに昔、愛鷹山塊の森の中でジイちゃんに茸の見分け方(喰える喰えない・毒の有無)や調理の方法とかを習った時には『キノコ類は十分加熱しろ』って教わってるけど、さ
何となくだけど、こういう高級品って全部、火通しは軽めに済ますのが常道なんじゃ?
よく、本当に質の良い牛肉とかは表面を軽く炙るだけでOKっていうじゃん?
「マツタケは、他のキノコ類もそうですが、チャンと火を通さないとキノコ自体が含有しているアレルギー成分が熱によって分解される事なく残留する結果になってしまうので、生や生焼けで食べると胃腸で炎症反応を起こしてしまうのだそうです。
ですから、松茸類は十分に加熱調理しなければならないのです。
でも、生食できるマッシュルームとかありますから、キノコ全部が全部という訳ではないみたいですけど」と『KINPARA』さんは左手で口許を抑えながら、微笑んだ。
 アレルギー成分って『ヒスチジン(histidine)』か何か、か?
それよりも、クソッ!
喋り方はおろか、話の持って行き方まで美穂子ソックリじゃないか!
過去からの吹き返しに耐えるため、ハモとバカマツタケに意識を集中させなきゃ。
 ん、何だ? この小鉢に入った紅茶みたいな色の汁は? 何かのタレなんだろうか?
「こちらの鉢に入っている漬けダレは煎り酒になります。
煎り酒は、日本酒に梅干しと鰹節を加えて煮詰めた物です。
このお鍋に張ってある御出汁自体にキッチリと味が付けられていますので、そのまま召し上がっても十分に美味しいのですけれど、鱧といえば、やはり梅が合いますのでお好みでどうぞお使いくださいませ」
「煎り酒、ですか?」
「はい。
醤油が存在しない頃の調味料だったそうです。江戸時代の中頃に醤油が世間一般に広まる前まではとてもポピュラーな物だったとか。
お酒と梅干と鰹節を鍋に入れてコトコトと煮詰めるんです。一升分の日本酒を一合になるまで6時間ほど煮続けます。酸味と出汁が利いていてとても美味しい漬け汁になってます」
 ポン酢や梅肉よりも?
「私はポン酢よりも、こちらの煎り酒の方が好きですね」と『KINPARA』さんは笑った。
 彼女が笑うたびに、小さな光の粒子が部屋中に拡散していくのを感じられる。
そのフォトンたちは自らを音符の姿へと形を変容させながら、煌めきを散乱させていく。
10畳ほどの部屋の中一杯に充満する笑みの音符たち。
 作務衣に似た藍色の召し物が、軽やかな衣擦れの音を微かに立てている。
『KINPARA』さんがそのしなやかな肢体を動かす度に爽やかな香りが彼女の身体から発散されるのを、色濃く感じる。彼女の姿態や動作・振舞いだけでなく、口調や話し振りまでも美穂子の相似形であることの衝撃は大きく、オレの視覚と嗅覚が眩惑させられてしまい、料理の味が判別不能になりそうで、非常に困惑してしまった。
 何と言っても先程から、次から次に涌出してきた疑問を何ひとつ構音していなかった。
パラ言語やメタ言語すら口に出していなかった。
ぁん? メタ言語、だと?
何をトチ狂ったことを言っている、オレは?
イヤ、この状態を表現する言葉として『トチ狂う』は適切ではない。
何という言葉を使えば、言い適うのだろうか?
<そんな事、今は横に措いておけよ>
どうも精神状態は相当、取り散らかされてしまっているようにも、思える。
とにかく、だ、オレはただ、胸襟の内で自問、イヤ、独り言を反芻していただけだった。
それにも関わらず彼女は、オレの言葉にしていない疑問に対して先回りするかの様に的確に説明を続けた。だから、この人は絶対にオレの心を読んでいるに違いない、と思えた。
しかし、悪い気には全くならない。
むしろ痒い所に手が届くというか。
心を優しく撫でられている、みたいな。
<心、だと?>
 自己意識と言い換えた方がオレらしい、かもな。

おネエさんがいれてくれた、おハナみたいにパッてなったヤツと、キノコさん。
いーいニオイっ!
とっても、オイシそう。
『いいのかな?』っておもったから、ケンゴくんをピロって、みたら、
もう、ケンゴくんったら、またおネエさんにボーっとしてる。
こーゆーおネエさんがスキなのかな?
ま、いっか。
たべちゃおうっと。
パクッ!
うわ、なんだ、コレっ!?!
オイシいーっ!
おハナみたいなヤツ、コレっておサカナさんだよね、きっと。
オイシーっ!
おクチのなかにいれると、フワってバラバラになっちゃう。
やわらかーい!
それに、とってもイイにおい!
のんだあとに、ものすごくイイにおいがスッとおハナの方にくるカンジがスキっ!
あー、おいしくて、すっごくウレシー!
あと、この『マツタケ』っていうキノコさんをパクリっ!
あれっ、
ウーン、と...
んー、ナンだろ?
なんか、ビミョーなんだけど。
ヒロオのおジイサマが、チョキチョキしてたボンサイっていうヤツとおなじニオイみたい。
そんな、みたいなニオイがする、かんじ。
オイシい、のかな? これ?
べつにマズくはないけど...
でも、さっき、ケンゴくんが『マツタケっ!』って、おどろいてたよね、
すっごくタイセツなキノコさん、ってカンジで。
でも、そんなにダイジなヤツなのかな、これ?
うーん、
『ウッヒャーッ! ウマーイっ!』って、カンジには、チョットならないな。
ケンゴくんやおネエさんには『ゴメン』ってカンジ。
これだったら、ママがつくるリョーリ、たった1こだけ、だけど、
マッシュルームってキノコさんをバターでジャジャってしたやつ、アッチの方がずうっとオイシイってカンジがするけど...
あと、ゴハンたべるなら、ビンにはいってるナメタケの方がイイかも?
あれの方がシロいゴハンにピッタリだし。
マツタケさんって、ゴハンには、チョットってカンジ。
マズくないけども。
なんか、ゴハンのおともだちには、チョットなれないって、おもうっちゃうなぁ。
あ、なんか、ゴハンたべたくなってきちゃった。

 牛さんの肉を湯通しする通常のシャブシャブを喰った事はあるが、この様な『金杓子』を使用した特殊なタイプのシャブシャブは聞くのも見るのも初めてだった。しかし非常に興をそそられたし、そして何よりも腹が減っている。
 だから『KINPARA』さんが行って見せた作業手順をなぞってみることにした。
彼女の所作そのままに、見様見真似の覚束ない手付きながら染付けの皿からハモを一切れ、お手元と同様に恐らくこちらも天竜杉から削り出されたであろう菜箸で摘み上げて、金網杓子の上にフンワリと載せた。傍目からは大層おっかなびっくりの振舞いに見えただろうが、周囲の眼など気にしていられる事態ではない。オレは相当に、腹が減っている!
<あの、周囲にいるのはお前の娘と『KINPARA』さんだけ、なんだけど>
 杓子のお皿(いや、お椀か?)の部分をユックリと静かにフツフツと沸き立つ出汁の中へと沈み込ませた。その光景が網膜に投影され、電気仕掛けの情報信号が感覚神経を駆け上がっていき、カスケード状に組み合わされた視覚関係の脳領域を一通り刺激して回った後、唐突にオレの皮質上に本当に余計な情報が蘇った。
『そういや、杓子のお皿部分を“island”って呼ぶらしいな、確か』
しかし、何で『島』って呼ぶんだろ?
どこからどう見ても『島』には全くと言っていい程、『島』には見えんぞ、コレ。
<知るか。全然関係ないと思うけど、航空母艦右舷の艦橋・砲台・煙突なんかの構造物をひとまとめにしてある区画も『island』って呼ぶぞ>
ソレは知ってるよ、、ミスター。随分昔だけど、ジイちゃんから教わったから。
ま、それは一時、心の棚に収納しておこうっと。
ハモの出来具合に意識を集中させねば。
多分グアニル酸だと思うが煮出されたマツタケの旨味成分が溶け込んだ昆布出汁に全身を浸したハモがチリチリとその身をはじけさせる。蕾が綻んで、花開いて行く。
あまり火を通し過ぎてはダメだ、と言ってたな。
そう思い起こして、頃合いの良き所でハモを引き揚げた。
そして何も考えずに『KINPARA』さんが示唆した通りに『煎り酒』に一瞬沈めた後、サッと口の中に放り込んだ。
フワッ
おお、口腔内でハモの身が全面崩壊して、固体からあっと言う間に液体に相転移したぞ!
 咀嚼の必要性を全く感じない。
巧みで洗練された骨切りの業が頴脱的に優しく柔和な舌触りを生み出している。
小骨が全然見当たらない。
<いや、眼で見てないから>
舌先で産毛一筋の存在ですらも感じ取れない。
素晴らしい!
流石、板前さん。
人間だけが為せる、世にも妙なる所業だ。
<多分、骨切りマシンもソコソコ『為せる』と想像できるぞ>
そして息を吐く度に、ハモと梅と昆布の芳しい香りが混然一体となって咽喉部を周回し鼻腔側へと抜けて行って、上鼻甲介だったっけ? 嗅上皮にある1000万個以上の嗅細胞の一群を刺激する。この後鼻腔性嗅覚がたまらない。
いやぁ、口中香は口福の素だ、と再認識できる。
 追っ掛けでマツタケちゃんを投入、っと。
こいつは出汁の味付けのみで、っと。
ポイッ...
ほほぅ、アナタは紛うかたなく、本当のマツタケさん。
ま、厳密に言うと『バカマツタケ』なのだけど、馥郁たる唯一無二のマツタケに備わった独特の香りが、これまたオレの嗅上皮をコチョコチョとくすぐるのだ。
人間は1兆種類もの匂い成分を感じる能力を備えているというが、その中でも特筆すべき秀逸な芳香であろう。
<そんな赤松の匂いのドコが良いんだ? パイン材と変わらんぞ>
匂いだけではないのだよ、マツタケは。
味の方も素晴らしいこと、この上なし。
実際、マツタケは旨味成分もとっても豊富に含まれているのだよ。
<本当か?>
多分。
調べた訳じゃないけど。
あの...食べた感じで、何となくだけど。
 とにかく、あの有名なキャラメルが掲げた惹句ではないが、まさに『風味絶佳』である。
 そう、風味だ。
脳は、正確に言うと海馬と前頭眼窩野を含む前頭連合野は、その大部分を嗅覚からの情報に頼って食べ物の『味わい』を認識している。味覚の情報は補助的な役割を果たしているに過ぎない、と断言しても間違いではない。何てったって、味覚を識別する味細胞は舌を始めとした口腔内の器官に約100万個しかないが、嗅細胞は1000万個以上存在しているからだ。感じ取れる情報量が10倍も違う。事実、脳の内部では、味も匂いも一緒になって感じているとされる。だから食べ物の美味さ・不味さの情報を意味する『風味』には『味』という語が入っているんだ。
あ、ここらへんに散乱してる薀蓄、全て大学の生物学の授業での受け売りです。
もし間違ってたら、教えた教授が悪いんです。
と、責任回避を図ってみたりする。
 そうやってハモとマツタケの奏でる絶妙な和声を愉しみながら、脳内で単独遊戯に耽溺していると、オレをスッと見詰めて『KINPARA』さんが「ご飯、お持ちしましょうか?」と尋ねてきた。
 意識を料理から彼女に移行させ、その表情を窺うと、そこには『アルコールを嗜まないのなら、ご飯要るんじゃない?』という実際の空間には一切発話されていない言葉の一群が浮かび上がっていた。『飯か、あー、どしよっか?』と軽く躊躇していると『KINPARA』さんは「どうなさいますか?」と重ねてきた。畳みかけることない、温柔な訊き方だった。
考慮の時間を数秒間稼ぎ出すためにイトへと視線をパッと送ったら、彼女の顔貌の上には『私、ご飯食べたい』と解釈するのが適切な様相って物がクッキリと顕現していたから『KINPARA』さんに、オレの頭部の造作の悪い側を向けて「ハイ、ご飯、お願いします」と告げた。
「ご飯ですが、2種類ご用意できます。
ひとつは鰹節ご飯で、もうひとつは河豚飯です」
「かつお節ごはん...とフグめし...ですか?」
「はい。今日お出しできるのは、鰹節ごはんと河豚飯になります」
『KINPARA』さんの双眸が悪戯っぽく輝き始めた。
彼女の相貌には『説明、欲しい?』 と明朝体で書かれていた。
 オレは無言で軽く頷く事で、先を進めるように促した、つもりだった。
「鰹節ご飯ですが、手火山式の本枯れ節を古式床しい削り器、鉋を備えた物で手掻きした削り節を炊き立てのご飯の上にパラッと振り掛けた物です」
「...と言うと、かつお節ご飯って、俗に言う所の『猫まんま』...ですか」
「そうです。品が無い言い方をすると『猫飯』ですね。
ただ、使われている鰹節とお醤油がチョット特別なモノになるんです」
「と、言うと?」
「手火山式と呼ばれる、とても手間のかかる方法で作られた本枯れ節の雄節の部分を白いご飯にちょうど合うような薄さで削った、削り立てホヤホヤの削り節を熱いご飯に掛けて、その上から木桶仕込みのお醤油をタラーッと一周回しかける、そんなご飯です」(注1)
 何か、非常に美味そうに響く。
彼女の説明を聞いていると唾液腺の働きが賦活化されて、口の端からヨダレがこぼれ落ちそうに感じる。表現対象は下品な喰い物とも言い得る、単なる『ネコめし』なのに。
<お前、別の対象に涎を垂らしそうになってんじゃないのか?>
ウルサイぞ、ミスター、ちょっと黙っててくれないか?
<...>
「ほう」オレは次を促そうと、軽い相槌を打った。
「それから河豚飯ですが、この鱧と同じで虎河豚も遠州灘で非常に多く獲れる魚ですが、昔はそのまま下関の市場に輸送しておりました。数年前まで下関市場で扱われる虎河豚の大半が遠州灘産だったそうです」伝え聞く所によるとですが、と彼女の唇に笑みが宿った。
「へぇ、トラフグも獲れるんですか」我ながらバカっぽく響く相槌だな、と自嘲する。
「はい。当ホテルにもほど近い舞阪漁港などが水揚げされる港の代表例ですが、遠州灘は天然虎河豚、日本国内屈指の漁場なのだとか。これも鱧と同様、近年になってようやく、何の策も講ずることなく下関に送るだけでは『勿体ない』と叫ばれるようになって、地域ブランド化して売り出す事に致しました。最近では舞阪漁港に水揚げされた直後に、フグ職人の許に送られて処理されるようになりました。現在では遠州灘とらふぐとして地元の料理店などで扱うほどにもなっておりまして、遅まきながらも一応『遠州灘とらふぐ』として知名度が上がって来ています」
「それを使うんですね?」
「えぇ」
『当然でしょ? 何を訊いてきてんの、このオッサン?』という文字列が、デカ目・太目のフォントで彼女の相貌に浮揚した事を濃厚に認識できた。でも『KINPARA』さんは胸襟の内のそんな想いを語気にはおくびにも出さず、シレッとした口振りで説明を続けた。
「河豚のアラなどの、もちろん毒が無い部分ですが、軽くバーナーで炙り焼き目を付けることで芳ばしさを出してから昆布と一緒に弱火で煮出して出汁を引きます。そのフグ出汁で土佐醤油を割ったタレに糸引きした虎河豚を太めの糸造りに引いたものを入れ、そこに新鮮な平飼いの卵を割り落としてからチャチャッと軽く混ぜ合わせたものを白いご飯の上にかけ回したモノが当ホテルの『河豚飯』になります」(注2&注3)
 ほほぅ、話を聞く分には、とても美味そうだ。
しかし『KINPARA』さんの描写を聞いていると、まるで宇和島式の鯛めしに似ている様にも思える。そう伝えると『KINPARA』さんは、
「はい、その通りだと思います。
この『河豚飯』は当ホテルの総料理長が、作家の池波正太郎先生が書かれましたエッセイを読んでパクッた...いえ、失礼しました。あのぅ、インスパイアされたと言いますか、
触発された...えぇと、ヒントを得て創作した料理になります。
でも、六分儀様が仰られたように宇和島の鯛飯も、同じような『豪勢な卵掛けご飯』ですから、総料理長、そこからも何かの要素を引っ張って来ているかも知れないですね」
それは否めません、と『KINPARA』さんが、今度はかなり明瞭な笑みを漏らした。
 左手で口許を抑えた時、アゴがクッと引かれた。彼女のアップにした髪が揺れ動いた。
チラッと『KINPARA』さんの襟足がオレの視界にその姿を覗かせた。
八重毛が艶めかしく眼に映った。

「イト、ゴハンなんだけど、2つのうちから、えらべるんだって」ってケンゴくんがいうから、ワタシはコクンってして「うん、おネエさんのいってるの、きいてた」っていった。
ケンゴくんはニコニコして「そっか、きいてたのか。じゃ、どういうゴハンか、わかる?」
って、きいてきた。フグさんはわかったけど、もう1つが『ウン?』ってカンジだった。
だから「フグさんと...カツオぶしって、かつぶしのこと?」って、きいた。

そうか、そうだった。
かつお節のことを結衣はいつも『かつ節』って子供のみたいな舌っ足らずな言い方をしていたっけ。親から子へ垂直に移行するのは遺伝的な情報だけでなく、こういう言葉の様に文化的な情報も受け渡されて行くんだな、と改めて思った。だから『meme(ミーム)』という概念は、意外と正しい解釈なのかも知れない。(注4)
「そうだよ、かつお節って『かつ節』のこと。よく解ったね」
 イトは満足そうな笑顔を浮かべ、コクンと1つ頷いた。
コレで一体何度目になるのだろうか、彼女の相貌に母親の顔貌がオーバーラップする。
 軽く首を左右に振ってその幻影を追い払ってから、イトに2つの選択肢についての概略を説明し始めた。
「1つは、フグさんを糸状のお刺身にして、それを使って玉子掛けご飯にしたもの。
そして2つ目は貴重な...とっても珍しくて大切なかつお節を載せたご飯。
どっちもメチャメチャ美味しいと思う。
さて、ドッチを選ぼうか?」
 イトは真剣な表情を浮かべながらマジな角度で首を傾げた。
まるで『ウーン』という思案の声が心の壁を貫通して実際に鼓膜を振動させてきそうな、そんな運動量で必死に考えている。
先程喰ったフグの美味さと記憶に残るかつお節の味わいとをその小さな頭蓋骨の中で比較検討中なのだろう。ま、大いに迷えよ、子羊ちゃん。大いなる迷いの中にこそ真実は在る。
『for there is nothing either good or bad, but thinking makes it so.』
物事の価値は個人の意志で決まるのだよ、お嬢さん。(注5)
 しかし『KINPARA』さんとオレの説明、かつお節ご飯とフグめしの順番がテレコだったのに、それに惑わされる事無くキチンと理解できていた。子供であっても5歳ともなるとメンタル・ローテーションが可能になるのだろうか?
<何、言ってんの? それは2歳前後に備わる能力だぞ>
え、そうなの?
<あと『perspective』の概念も必要だと思う。これも2歳前後にその萌芽が見られる>
...そうですね...(注6)

やっぱ、カツオぶしって『かつぶし』のことなんだ。
ママが、いっつも『かつぶし』っていってたから、ワタシも『かつぶし』だとおもってたけど、ホントは『カツオぶし』っていうんだ。
おぼえとこ。
つぎ、ママにあったら、おしえなきゃ。
ホントは『カツオぶし』っていうんだよ、って。
ウン?
あ、そうじゃなくて、ゴハンをどっちにするか、だっけ。
カツオぶしゴハンとフグめし、かぁ?
フグって、さっきたべたおサシミだよね。
とってもオイシかった...
ワタシはチロッとおサラのうえをみた。
よかったぁ、フグさん、まだある。
どしよっか?
フグさん、ちょっとイイかんじだしなぁ、
でも、かつぶし...じゃなくて、カツオぶしもカワイイから、ワタシ、すき。
あったかいゴハンのうえにのせると、ふわっふうわっってなる。
クネクネってなる、だから、とってもカワイイ。
そうやって、うれしそうにオドってるかつぶしサンに、おショーユをタラーってかけると、すぐにシナーってなる。とっても、かわいそう。でも、たべると、とってもオイシい。
だから、すき。
ドッチにしよっかなぁ?
かつぶしさんか、フグさん。
どっちも、チョットずつって、ダメかな?
あ?
そうだ?
ケンゴくん、ナニにするんだろ?
ワタシと、ベツベツだったら、チョットくれるかな?
おねがいしたら、くれるかなぁ?

 ひとしきり小首を傾げて俯き加減の恰好のまま考えていたイトが、ムクッと顔を起こして口を開き、何かを探る様な、いやコチラを試す様な声調で話し始めた。
「あのね...」
 オレは、彼女を勇気付ける為に頚部を左右に一回だけ極僅かに揺動させると、続いて『ん?』というパラ言語を発して待ちの態度を提示した。緩やかに先を促した。
「あの...ケンゴくんは...どっちにする...の?」
 なるほど!
両方を喰ってみたい、ってことだな?
非常に素晴らしい。
我が娘ながら、非常に賢い振舞いだ。
チロッと上目遣いをしたイトに「そうだなぁ、手火山式ってのがとっても気になるから、かつお節ごはんにしようかな、って思ってるけど」と、伝えた。

そっか、かつぶしゴハンか。
「じゃ、ワタシ、フグさんがいい」
「うん、いいとおもうよ」って、ケンゴくんは、いった。
それと「ゴハンがきたら、こっちのカツオぶしゴハン、チョットたべてみる?」って。
ヤッタッ!

「じゃ、私、フグさんが良い」
まるで暗闇の中で地雷を踏まないように慎重に足を進める特殊部隊員の如く、恐々手探りで言葉を紡いでいる様な物言いをイトはした。何かを期待する響きが色濃く含まれていた。
 オレは密やかに微笑を浮かべ、料理が載った器にチラッと眼を落とした。
「フグさん?」と訊くと、
「うん」と明瞭に答えて、イトはプクッと両方の頬を膨らませた。
 オレも釣られる様に両頬をプクッと膨張させた。
「フグさん?」同じ問いを別の意味で尋ねると、
「うん」と、オレの質問の意図を明確に把握したイトの顔に綻びの予兆が垣間見える。
一瞬の間を置いた後、お互いに顔を見合わせて笑う、イトとオレ。
彼女の快活な朗笑が玲瓏としてオレの耳朶を叩いた。
何だか、顔を突き合わせて目笑した事によって、オレ達の心がより通じ合った気がした。
ひとしきり笑い合った後、2人の間に静寂がたまゆら訪れた。澱み固まる前にその沈黙を緩めるよう「うん、良い判断...フグさんで、うん、イイと思うよ」と、オレがそう言葉を空間に放散すると、表情を一時スッと閉じたイトの口角の両端が再び僅かに上がった。
そしてまだ別の何かをコチラ側に求めている雰囲気を濃厚に漂わせ続けているのを感じた。
彼女の、その心寄せるような気色に、正直『ドキッ』とした。
イトの顔付きの中に、もう一回とおねだりをする母親の面影を観たからだった。
心中の揺動を押し殺しながら、我が娘が望んでいるであろうことを伝えてみることにした。
「ご飯がきたら、こっちのかつお節ごはん、ちょっと味見してみる?」
それを聞いた途端、イトの唇の端がますます上がって、とてもにこやかな顔になった。
彼女の望んだ通りに事が行ってスッカリご満悦の様子に見えなくもなかった。
 オレは突然、彼女は変わったのだ、と感じた。
イヤ、違う。
厳重に秘匿されていた彼女の本質が徐々に立ち現われてきているのだ、と考えを改めた。
 この前、初めて会った時、表情の乏しい女の子だな、と思った。
だけど、この娘、本当は表情がとても豊かなんだ。
一顰一笑っていうか、秋空もしくはネコの眼の様にクルクルと相好が変化する。
オレに馴れたから、だろうか?
<そこは『馴れる』よりも『慣れる』じゃないのか? 織、人間なんだもの。
『馴れる』って、まるでイヌじゃあるまいし>
 しかし、もう何度目だろうか?
と、そう自問してみる。
イトの相貌に、自分の望みが叶った時に結衣が浮かべた表情の幻影がオーバーラップする心象を持つのは。
 しかし、やっぱ、遺伝子の力ってデッカイなぁ。
オレ由来のDNAは、ドコで活躍してんだろ?
表層からはその活動の影も形も窺い知る事ができない。サッパリじゃないか。
雌伏して雄飛の時を伺っているというよりも、ヒッソリと逼塞しているって印象しか受けない。あのさ、幾ら何でも、もうチョット頑張れよ、オレの遺伝子たち。
ジイちゃんの宿願だった『リーマン予想』の証明を齢5歳にして成し遂げるとか。(注7)
ただ、風貌に関する限りは母親由来のDNAだけ発現しなさい、イイね?
オレのはメチル化されるなり、なんなりして、ずうーっと休眠してなさいね。(注8)
<言葉が通じる相手じゃないと思うけど...単なる高分子有機化合物に過ぎないし>
 ま、そのDNAの発現抑制問題は、今、いっか。
 さて、注文だ。
「じゃ、私には手火山式のかつお節ごはんを
イト...この娘にはフグめしをお願いします」
「かしこまりました。
六分儀様に鰹節ご飯、そしてお嬢様に河豚飯ですね。
承知いたしました」
 運んで来た料理の全てを配膳し終えたことをサッと確認した『KINPARA』さんだったが、すぐにはこの場から立ち去ろうとしなかった。彼女があと二言三言、言葉を交わしたがっているのを機敏に見て取ったオレは「イト、冷めない内に頂きなさい」と我が娘に一声をかけてから向き直り「お客さんは普通、ドッチを選択するんですか?」と他愛のない質問を『KINPARA』さんにした。
「そうですね、8割、いえ、9割方は河豚飯の方をお選びになります」
 ま、相手がかつお節だから、な。
幾ら、とんでもない手間が掛かった高級品とはいえ、何の変哲もないかつお節と遠州灘で揚がった天然物のトラフグとじゃ、やる前から勝負は決まってるって事か。
「でも、私は鰹節ご飯の方が好きです」

『KINPARA』さんの全てを透察する様な透徹な眼差しがコチラ側に真っ直ぐ、だった。
しかし貫穿する様な視線と違い、彼女の口調はとても優柔だった。
「ホテル側の人間としては、言っちゃいけないのかも知れませんけど、
河豚飯って結局はとっても豪華だけれども、単なる『玉子掛けご飯』なんです。
卵って本当に美味しい物ですが、味覚的には相当に支配的なので、料理に加えると全てをその味に染めちゃうって、私、そう思うんです。
なんか、フグっていう素材の良い部分を覆い隠しちゃっている気がしてならないんです」
 ま、どんな料理でも卵をポンと1つ割り落とすと、より美味くなるが、その代償として全部が全部『玉子味』に落ち着いちゃう、からなぁ。
「そうなると、お刺身が鯛だろうが、生シラスだろうが、サクラエビだろうが『全部同じじゃない?』って、思えちゃうんですよね」注意深く味わえば素材の違いも判別できるんですけども、と内容とは裏腹に『KINPARA』さんのなよらかな口調は変わらなかった。
 オレが最初企図した様な、どーでもイイ『他愛のない』会話じゃなかった。
英語で『tip』と呼ばれる種類のモノだった。(筆者注:tipとは『有益な助言・示唆』の意)
ホントに、まるで美穂子と会話を交わしている、そんな錯覚を陥り掛けた、くらいだった。
「それに今時は玉子掛けご飯のことを『TKG』って呼ぶらしい、です」
 あぁ、何か、それ聞いたことある。
オレの周囲で実際にその単語、使ってる人いないけど。
どーやら今日日の若人はそういう風に略するらしい。(筆者注:2017年頃のお話です)
「追加でご注文なされた料理ですが、今しばらくお時間頂けますか?
ご飯と一緒にお持ちできると思います」
そう言って、数多くの料理が載った座卓をクルッと見回してから『KINPARA』さんが眉根をキュッと寄せて懐疑の念を表情に浮かべたのが垣間見えた、様な気がした。
 何かオレ、悪いことしたかな?
気の所為、だよね。

「美味しい?」
パートフィロの包みを引っぺがして、湯気を立てる中身に箸を使っているイトに尋ねた。
「ウン...」
イトの声がディクレッシェンドして最後にフイッと掻き消すように隠れた。
 あ、美味しいんですね、凄く。
言葉を構音する時間すら勿体ないと。
「いいかい?
前にも言ったけど、食べたいモノを食べたいだけ食べるんだよ。
こんなに一杯料理があるんだから、ちょっとずつ食べれば良い。
多かったら遠慮なく残すんだ。
オレ...ワタ...僕が、全部食べちゃうからね」
「...分かってる...」
再び、ディクレッシェンド。
 ま、いっか。
一目で明らかに天然木の一枚板と判る座卓の天板上に載せられた器の数々を見渡した。
オレが『KINPARA』さんと玉子の使用に内在する料理人の原罪について、軽い口調で議論していたのはどんなに多めに見積もってもほんの数分間だったが、イトの前に並べられた料理の総量は全くと言って良いほど減少の傾向を顕在化させていない。
<回りクドい言い方、すんなって! 要は、喰っても喰っても減ってないってことだろ?>
こんなに料理が来るなんて少し、計算というか推計を見誤ったかも知れない。
実際の所、追加注文しなくても良かったかも知れん。
料理の全体の構成が高級懐石料理っぽいので、その種類は恐ろしく豊富なのにも関わらず、ヴィジュアルから受ける印象ほど量的にはそんなに多くはない。
っつーか、1つ1つの料理の量自体が『これだけ?』と驚く位に超微量、文字通りに『The スズメの涙』だから、食事に関してどちらかって言うと質よりも量を優先しがちなオレにとってフラストレーションが溜まってしまう構成である。だから、自分の分とイトの喰い残しの両方を片付ける事自体について言えば、それほど困難な行為ではない。
ってゆーか、軽い。
まさに朝飯前である。
<お前、文字通りに朝からよく喰うからな。その小さな身体のドコに消えるんだ?>
 しかし身形はデカいとはいえ、イトはまだ5歳の女の子だ。
一品一品、ちょっとずつという条件付きでも、全部を口に入れていったら非常に早い段階で腹パンパンになる事は火を見るよりも明らかだ。
ご飯も『飯のお供』が要らない構成だし。
小洒落た今夜の献立表をよく確認しなかったオレの失態だ。
今、再確認したら、チャンと『鰹節ご飯』と『河豚飯』って記されている。
クソッ!
粗忽だったっ!
 子供には相応しくないとまでは言わないけど、不適当な料理内容に思えたんだが...
イト、結構夢中になってパクついてるし。
流石に酒盗も大好物だと聞く大人舌だけのことはある、って変な感心をした。
子供が苦手そうな酢の物とかも平気でバクバク喰ってるもんな。
ってか、美味そうに口に運んでるし。
 仕方無い。
オレが全てを飲み込もう。
腹がはち切れようとも喰い尽くすのだ。
それがオレの役目だ。
<O cursed spite, that ever I was born to set it right!>
 オレの台詞を盗るんじゃない、ミスター。
 あらー、ラム肉、じゃなかったホゲットまでもホントに美味そうに喰ってるなぁ。
この娘、ホントに5歳?
 内部に小っちゃいオッサンが入ってないか?
<あのな『ホムンクルス(homunculus)』じゃないんだから>
(筆者注:ホムンクルスとは、近世ヨーロッパでヒトの発生メカニズムが未解明だった頃に想像された精子小人のこと。17世紀末、オランダの科学者ニコラス・ハルトソーケルが精子の先端部に小人が入っていて、頭部から光を発しているという考えを発表した。
この精子中に存在している超小人が胎児の発生源になるとされ、驚くべき事にこの突拍子もない考えが当時の科学者たちに広く受け入れられてしまった。こんなの妄想するなんて昔の人って想像力が豊かだなぁ)

注1:手火山式の本枯れ節について。
順を追って説明する。
まず、本枯れ節だが鰹節の一種。
一般的にスーパーなどで削り節として売っているのは荒節と呼ばれる種類の鰹節である。
本枯れ節は、その荒節により一層の乾燥を施す為に表面にワザと黴(カビ)を繁茂させる。
その後、カビを落としてから天日干しをする。この工程を何度か繰り返した物が本枯れ節である。つまり鰹節をより乾燥させることによって、より保存が利く様にし、そしてより一層の旨味が増す様にするのが、この煩雑な行程の目的である。非常に手間が掛かるが故に高価な鰹節となってしまうのは致し方ない。
尚、雌節(めぶし)とは鰹節の形状、というか何処のパーツかを指す名称である。
カツオ1匹丸ごとを背骨に沿って縦半分に割り切った『半身』を想像頂きたい。この場合、右半身でも左半身でも、どちらでも構わないが、ここでは一応右半身とする。そのカツオの右半身を今度は背骨に沿って、背側(はいそく)と腹側(ふくそく)の上下2つに割り切る。この2つのパーツの内、背側部分が『雄節(おぶし)』で腹側部分が『雌節』である。
雄節の方が脂肪が少なくスッキリとして爽やかな味わいで、猫飯に適している。
雌節は腹部だから想像するのに難くないが脂分が豊富、故にコクがあり出汁取りに向いている。
カツオの魚体自体が小型の場合は雄節と雌節に分割せずに、右半身と左半身の2つに分割したそのままで(背側と腹側が結合したまま一緒に)鰹節に加工する。これを亀節と呼ぶ。
背側と腹側が一体となっている形が、甲羅を背負った『カメ』を上から観た時の形に似ていることから、そう呼ばれる様になった(らしい)。
次に手火山式についての説明。
正式には手火山式焙乾(てびやましきばいかん)と言う。
職人が付きっきりで焙乾(薪の煙でいぶして乾燥させ、鰹節特有の風味や肉質香〔口に含んだ時の甘い香り〕を付ける工程)とあん蒸(焙乾の合間に寝かせる工程)を10日間~数ヶ月間(期間の長さは店によって異なる)繰り返す製法。鰹節の焙乾には特に鰹と相性が良くて、芳醇な香りをもたらすとされるブナ科の楢材を薪として使用する所が多い。
研吾君と織が泊まったこのホテルでは御前崎市のマルミツ鰹節店の物を使用していることに、設定上は、しているので、以下の鰹節製作の説明描写は同店での作業に準ずる。
1本釣りの生のカツオを茹でてから骨を取り除き、セイロに並べて6段重ねにして竈(かまど)の上で燻(いぶ)す。40分~1時間経ったら均等に火を通す為にセイロの上下を入れ替えて再び燻す。これが焙乾作業で、合計で13~18回繰り返すと荒節の完成。
ここまでの作業だけで約2ヶ月の期間を要する。
そしてこの後の行程としてカビ付けと天日干しを5回繰り返す。(期間は半年以上)
その後、旨味を増加させ、品質を整える為におよそ2ヶ月熟成させる。
手火山式を採用している鰹節店は日本全国で約10軒と非常に少数派である。これだけの手間と時間を要する故に、その状況も当然であろう、と筆者は思う。現在の日本の座右銘(motto)は『早い、安い、美味い』の3拍子だからだ。まるでどっかの牛丼屋みたいだが。
あ、筆者、吉野家さんのヘビーユーザーですよ、念の為。
因みに手火山式採用の鰹節店、御前崎市内では、ここの1軒だけ。
生のカツオを原料として使用しているのは日本全国を探しても、このマルミツ鰹節店のみ。
あとは全て冷凍物です。
ま、そりゃ、そうだね。
手火山式焙乾製法の鰹節にはこういう気の遠くなる手間暇が掛かるのですよ。この事実を念頭に置く限りは、大手醤油メーカーによって大量生産されている出汁醤油に惹句として『手火山式の鰹節を使用』と幾ら声高に謳われていても、それって俄かには信じ難いのですよ。製作状況を文字通り素直に考察すれば『無理でしょ』ってなっちゃうでしょ?
もし本当に100%手火山式本枯れ節使用だったとしたら、一体どんな魔法を使っているんでしょ、ね?
あと、木桶仕込みの醤油については物語の後半に、ある登場人物から説明がある予定です。

注2:土佐醤油について。
土佐醤油とは、醤油に昆布とかつお節で風味をつけた調味料のこと。
レシピは以下の通り。
醤油1カップ・出汁2分の1カップ・酒大さじ1強・昆布少々・削り節少々。昆布は料理用のハサミで細かく切ると良い。削り節は、もちろん削り立てが一番だが、面倒臭かったら市販の削り節でもOKである。全てを鍋に入れて中火で一煮立ちさせ、沸騰したら火を止める。そのまま放置して冷ましてから細かめのザル等で濾して昆布と削り節を取り除く。
以上の作成法は料亭などのプロ仕様である。
もっと簡単な方法として煮切った味醂と煮切り酒に醤油を合わせて火に掛けて、沸いてきたら鰹節を加えて、ある程度煮たら漉し器で濾せば完成。筆者はこちらの方が好み。
尚、河豚飯についてだが、筆者の様に田舎者で料理の味が濃い方が好みなら出汁で割らずに土佐醤油をそのまま使用しても構わない。より濃厚な味わいにしたければ、全卵を使う代わりに黄身のみを使用すれば良い。余った白身の部分はジップロックに入れて冷凍保存すれば1ヶ月以上はもつ。後日解凍してスープ等に利活用すれば無駄にしなくても済む。
あ、宇和島式鯛飯の詳細については物語の後半に、ある登場人物から説明がある予定です。

注3:平飼いの鶏卵について。
一般的に鶏卵農家が運営する通常の鶏舎には、雌鶏がギリギリ1匹だけ入るケージを多数積み上げる様にして設置してあるケースが殆んどである。利潤と手間を考慮すると、この方法を採用するのも止むを得ないのかも知れない。10個入り1パック百円じゃなぁ。
それに対して、ケージを備えることなく、鶏舎の床を地面そのままにしておき、その上で放し飼いにするのが『平飼い』のスタイルである。
この飼育方法の方が鶏に掛かるストレス量が少なくなる。
平飼いで自由で伸び伸び動ける環境を整える事で、ストレスの無い環境下で良い健康状態で育てられる様になり、結果として産まれる卵が美味しくなる。
丈夫で健康な鶏が良い餌を食べて産む卵が一番美味しい、というのは明白な事である。
しかし、直観的に察せられると思うが、手間とコストが掛かる為にケージ飼いと比較してかなり割高な値段設定になってしまう。でも、それは致し方ない事だと筆者は思う。
安価さと、美味さ(&安全性)のどちらを選ぶかは、消費者であるアナタである。
尚、平飼いの鶏卵については物語後半で、ある登場人物が更なる詳細説明をする予定です。
あれ、どっかでこの文章を書いた様な気がするのは、筆者の錯覚だろうか?

注4:『meme』について。
『meme』は進化生物学者・動物行動学者のリチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins)が提唱した概念である。
ドーキンスが提唱した概念で最も有名なモノが『利己的な遺伝子(Selfish Gene)』である。
これは、全ての生物は遺伝子が世代間を超えて生き延び続けて行く為に利用する、単なる『乗り物(vehicle)』に過ぎないとする考え方である。だから全ての生物は自分の遺伝子を次世代へと受け継がせる事ができる様に進化というプロセスを通して最適化されてきた、とされる。人間が異性を愛し、性愛対象としてSexをして子供を儲け、育んで行くことも、全ては遺伝子が遺伝子自身の将来に渡る存続を最優先事項として仕組んだ戦略に過ぎない、とする概念である。この『利己的な遺伝子』という説は、人間(&他の動物)の利己的な行動のみでなく、他個体を助けようとする『利他的』な行動をも説明できる点が画期的である。例を1つ挙げるとすると、チンパンジーのメスは自分の姉妹が生んだ子供の世話を積極的にする事実が知られている。姉妹の子供たち(姪や甥)は、彼女と共通な遺伝子を(他の個体よりも)より多く共有しているから、その姪や甥の成長を助けることで当該の遺伝子を次世代へとより多く残せる事になるからである。
うーん、遺伝子に操作されているなぁ。
そしてこれらの事は、人間においても十分に適用するを敷衍可能な状況である。
結局の所、人間もヒト科ヒト属に分類される普通の動物の一種に過ぎない訳なので、ね。
尚、『vehicle』には輸送手段という意味の他に『媒介物』や『伝達するモノ』『目的達成の為の手段』という意味もある。
利己的な遺伝子について巷間よく言われるのが『遺伝子が個体よりも優先する。遺伝子は自己に似た遺伝子を増やす事を目的として、その為に個体を利用する』という文章である。
もちろん、この概念には賛否両論あることは言うまでもない。何故なら、人間は主体性や自己のアイデンティティに対する脅威にとても敏感であるから、だ。
ドーキンスが謂う『meme』とは、文化的領域において生物における遺伝子(gene)の役割のカウンターパート的なものである。遺伝子のアナロジー(analogy:類比・相似)と言い得る存在である。この『meme』は、再現・模倣というプロセスを繰返すことにより世代間を超えて受け継がれていく社会的習慣や文化の各要素のことである。結衣の『かつ節』の様に、各家庭内でしか通用しない物言いなども、この『meme』に当たる、とされる。
何故なら、文化には民族全体に適用される大文字(Universal)の『Culture』と、それに対して各個人もしくは各家庭のみに適合する小文字(unique)の『culture』の2つの種類があるから、である。ここら辺の詳細を希求するならCultural Anthropology(文化人類学)の入門書のご一読をお勧めする。

注5:ここら辺の研吾君の独白について。
『for there is nothing either good or bad, but thinking makes it so.』とはシェイクスピア作の『Hamlet』第2幕第2場から引用された主人公ハムレットの台詞。
これを日本語に訳すると『物事の良いとか悪いという属性は、その物へ本質的に備わったモノではない。その対象物に対する人の考え方がその属性を決定する』という意味になる。
この訳はかなりの意訳なので注意が必要である。(筆者の持っているシェイクスピア本は、小田島雄志訳でも松岡和子訳でもなく、坪内逍遥訳なので翻訳された日本語が古過ぎる故に自分で訳した。直訳だと文脈が無い分チンプンカンプンなので解り易さを優先した)
研吾君は、ジイちゃんから東部エスタブリッシュ英語と共に欧米諸国での最低限の教養として聖書(旧約と新約)とシェイクスピア全作品を叩き込まれているので、時々この様にポロポロ台詞が出てくる。どうでも良いけど、何か、スノビッシュに響き過ぎだよ。
あと『物事の価値は個人の意志で決まるのだ』は『Troilus and Cressida』第2幕第2場の『But value dwells not in particular will.』(価値は個人の意志の中に存しない)の逆説的引用です。多分、これからもシェイクスピア作品からの引用、ちょくちょくある筈なので興味のある方は原本をご参照ください。

注6:メンタル・ローテーションとパースペクティヴについて。
メンタル・ローテーションとは、頭の中で物体を自由に回転させて眺める能力のこと。
この能力は人間の認知機能の基盤となっている。
人間は、対象の事物について全方位からの視覚情報を総合して、その属性として認識する。
心理空間内の物体を回転させる時に優位に働く脳領域が大脳皮質の上頭頂小葉である。
この部位は物事を様々な視点から検討する能力を担っている重要な領域である。心理空間内に物体を設置し、その周囲を移動しながら様々な角度から視認する能力とも表現できる。
こうした視点の自由な移動は『立体思考』の基盤ともなっている。立体思考は『水平思考』と『垂直思考』の2つに大まかに分類可能である。
水平思考とは、ある問題の解決方法を異なる問題へと応用する能力のこと。
対して垂直思考とは、1つの問題を徹底的に深く掘り下げていく能力のこと。ある事象についての根源的な原理原則を深く追求することに繋がる。
この2つは、視点を柔軟に移動させながら物事を分析していく思考方法のことである。
立体思考は『共感力』や『こころの理論』も可能にさせる。
共感とは、相手の気持ち(喜怒哀楽つまり情動)を自分に重ね合せて感じる能力。
つまり自分が感じている情動を他者の心へと『水平』移動させて推察するのだ。
こころの理論とは『他人が何を考えているのか?』を洞察し理解する能力のことである。
ここから理解できる様に、人にとってメンタル・ローテーションは対人関係を構築するに当たって非常に重要な能力の1つである。その他にも自己評価を下す際にも絶対的に必要なモノである。
次にパースペクティヴ(perspective)であるが、簡単に言うと『観点』とか『視点』とか『見通し』のことである。物事が『どういう状況にあるのか?』を見通す能力とも言える。
子供の発達段階に応じて、まず最初に『前後』や『上下』などの空間的パースペクティヴが生じる。これは自分の視界内にある物事の配置状況を認識することとか、自分ではない他者からの視点で(同じ状況が)どういう風に見えているかを推察することを意味する。
次の段階で『過去・未来』のような時間的パースペクティヴを得る。これは、現在の自分の立ち位置から時間を遡及した昔の自分、そして時間を降った未来の自分を見通せる観点のことである。
そして最後に心理的パースペクティヴが生じる。この代表例が認知的に非常に高度な行動の『嘘』である。因みに嘘を吐く為には最低限、次の3つの状況が必要となる。
1)『何かをしたい』という目的を立てる。
2)『自分は真実を知っている』けども『相手は知らない』という自他の認知の差異を認識すること。
3)その目的を達成する為に、相手が真実を知らないことを前提とした『手段』を構想すること。これが心理的なパースペクティヴである。
この3つの要素が理路整然と組み合わさっていなく、目的と手段の関係において論理的な齟齬を来している場合、たとえ嘘を吐いたとしても、ソレは嘘として成り立たない。
もっとザックリとパースペクティヴについて要説すると『物事を客観視・俯瞰する視点』である。この説明だと、超ザックリし過ぎではあるが。
もしもキミが、メンタル・ローテーションとパースペクティヴについてもっと詳しい事を知りたかったら、ぜひ心理学の教科書を覘いてみて下さい。

注7:リーマン予想について。
リーマンとは19世紀のドイツの数学者のベルンハルト・リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann:1826~1866)のことである。そしてリーマン予想とは、彼が1859年に発表した『与えられた数より小さい素数の個数』というタイトルの論文の中で立てた仮説のこと。
彼の業績はたくさんあるのだが、その中でも『リーマン幾何学(Riemannian geometry)』という非ユークリッド幾何学を体系づけたことが特筆するべき事業であると思う。
これは1854年、就職論文に発表した新しい空間(リーマン空間)の幾何学である。
何で有名かというと、アインシュタイン(Albert Einstein)がこのリーマン幾何学を彼の相対性理論に応用したから、である。このリーマン幾何学の詳細については残念だが割愛する。ってか、こんなコラムじゃ、説明すんの、絶対に無理! 専門書を読んで下さい。
で、リーマン予想だが、発表以来160年余経過した2020年現在も証明されていない。
だから、ほんの少し、概略中の概略だけ説明する。
まず前提としてリーマンの師匠に当たるガウス(Johann Karl Friedrich Gauss:独:1777~1855)が、少年時代に発見した素数に関する規則性『素数定理』を説明する。
それでは最初に素数についての説明を少々。
我々が日常生活の中で物の数を数える時に使う『1、2、3、4...』という数を自然数と呼ぶ。(正の整数とも言う)そして約数は、ある自然数に対してそれを割り切る事ができる自然数のこと。『6』を例に挙げると、6という数は『1、2、3』で割り切れるので、この3つの数字が6の約数となる。
素数とは、約数が『1』と自分自身だけの自然数のことを言う。
例えば、小さい方から素数を並べてみると『2、3、5、7、11、13...』と続く。
尚、1は普通の場合、素数には含まれない。何故なのか、その理由を筆者は知りません。
そして素数と1以外の自然数を合成数と呼ぶ。
合成数とは、1以外の自然数の乗法(掛け算)で表せる自然数のこと。合成数は全て2個以上の素数の掛け算で表せる自然数、とも言い得る。
つまり、2以上の自然数は『素数』もしくは『合成数』のどちらかになる。
さて素数は無限に存在することは既に証明済みだが、その出現の仕方に規則性はあるのか否か、言い換えると、出現を予測できる法則や数式はあるのか? という問題に人類は素数が発見された古代ギリシア時代から取り組んできた。しかし未だに解明されていない。
しかしながら1792年、15歳だったガウスが素数に関するある規則性を発見した。
それが『素数定理』だった。
素数定理とは、超簡単に言うと『1からある任意の数までの数直線上にどれくらいの個数の素数が出現するのか?』を予想する数式である。その式は以下の通り。

π(x)≒「x/logex(『ログe底のx分のx』と読む)」

左辺の「π(x)」は、1からxという数字までの間に現れる素数の実際の個数。
右辺の「x/logex」という数式で、その実際の個数の近似値を得られるという意味である。
「logex」は「eを何乗するとxになるかを表している」記号であり、自然対数と呼ばれる関数であって、既に自然対数表と呼ばれる表があり、簡単にその数値を調べ出せる。
だから比較的容易に近似値を求めることが可能なのだ。
因みに『1~100』の間にある素数の実際の個数は25個。
「x/logex」で算出されるのは22個という数字である。一致率は約88%なので、キミは『何だ、大して当たってないじゃん。ショボいの、この数式!』と毒吐くかも知れないが、所がどっこい『1~1000』の間で一致率が約86.3%と一時的に下落するが(実際の個数が168個で素数定理が導き出した個数は145個)その後は、『x』の値が大きくなればなるほど、一致率は一貫して上昇していく事が解っている。
『1~10000』は一致率が約88.4%(実際の個数1229個;予想が1086個)
『1~1000000』は約92.2%(実際=78498個;予想=72382)...
尚、『x』を無限に大きくして行くと、一致率は100%になる事が証明されている。
ガウスは『近代数学の始祖』と呼ばれた天才数学者だったが、自分が生み出した素数定理を証明する事は適わなかった。
その後、この素数定理を証明しようと画策したのがガウスの弟子に当たるリーマンである。
彼は、1859年に発表した論文の『与えられた数より小さい素数の個数』の中で立てた仮説を正しいと証明できれば、延いては素数定理の証明になるという事を示している。
この仮説を現在『リーマン予想』と呼んでいるのだ。
リーマンは身体が弱く、自分で『リーマン予想』を証明する事なく、この仮説を発表した7年後の1866年に亡くなってしまった。(享年39)
そこから現在に至るまで数多くの数学者がこの『リーマン予想』を証明する為(文字通りに)命を削って研究してきた(研究途上で亡くなった方多し)。しかし未だに未証明である。
で、ついに『リーマン予想』についてだが、ここで説明するのは、無理っ!
だから超ザックリと説明するに止める。
っつーか、説明できてたら、とっくに『Fields prize』貰ってるよ!
(Fields prize=フィールズ賞:4年に一回開かれる国際数学者会議で選考の上、若い40歳以下〔未満だったっけ?〕の数学者2名に与えられる『数学のノーベル賞』のこと)
数には、自然数や整数、少数や分数、そして無理数といったモノを含む『実数』と、虚数を要素として持つ『複素数』がある。虚数とは、2乗するとマイナスの値になる数字だ。
虚数の単位は『i』で『i×i=-1』という特性を持つ。
実数aとbと虚数単位iを用いて『a+bi』という2項式で表現されるのが複素数である。
複素数の『a』の部分を実部と呼び、そして『bi』の部分を虚部と呼ぶ。
尚、「b=0」の時には虚部『bi』がゼロになるので結局、実数aになる事に注意。
そして『リーマン予想』では、ゼータ関数と呼ばれる特殊な関数の(s)の部分に複素数を代入する。複素数(s)の実部が負の偶数(マイナスの偶数)で、虚部がゼロの時、ゼータ関数の値は必ずゼロになる。この(s)を『自明なゼロ点』と呼ぶ。
ゼータ関数がゼロになるような(s)をゼロ点と言うのだが『リーマン予想』は自明でないゼロ点(つまり虚部がゼロにはならない(s)のこと)の実部(実数の部分)が必ず2分の1になる、と予測している。
えーと『何のこっちゃ?』とお思いでしょう。
その戸惑い、よく解ります。
大体、ゼータ関数の数式すら示してないし。
この式をワードで表現するの、超面倒いんですよ。
オイラー(Leonhard Euler:18世紀のスイスの数学者・物理学者)が最初に導き出した素数に関する数式を基にして、更に発展させたのがゼータ関数なのですが、無理矢理書くとすると、

ζ(s)=(1/1s)+(1/2s)+(1/3s)+(1/4s)+(1/5s)+…

(見え辛いと思うが、右辺の各項の分母がそれぞれs乗されている事に注意。
オイラーが導き出した大本の数式を書き記すのは、もっと面倒い。だから省略!)

ね、何が何だか、でしょ?
大体ですねぇ、この『リーマン予想』という問題は世の中に提出されて以来、160年余に渡って数学者たちを苦しめてきた難問中の難問です。何たって米国のクレイ数学研究所から『ミレニアム懸賞問題』の1つとして(もし証明できたら)100万USドルの懸賞金が貰える位の超難問なんですから、
筆者の様なボンクラが余す所無く綺麗に説明できる訳がないじゃないですか。
ま、ジイちゃんが東京帝国大学大学院で研究したかったほどの超難しい問題だ、くらいに解ってくれていれば万事OKです。本筋と全然関係ないしw
あ、リーマン予想は未だに証明されていませんけど、素数定理の証明の方は1896年にフランスの数学者のジャック・アダマール(Jacques Salomon Hadamard)と、ベルギーの数学者のシャルル=ジャン・ド・ラ・バレ・プーサン(Charles-Jean de la Vallée Poussin)が、それまでのリーマン予想の研究によって得られた成果を利用して、それぞれが独立的に(つまりお互いが協力する事無く各々単独で)証明する事に成功してます。
えーと、どういう成果を利用したかというと、ゼータ関数について『ゼロ点の実部が「0」より小さい場合と「1」より大きい場合は、自明でないゼロ点は存在しない』ということです。そして、それに加えて、もし『実数が「0」と「1」の場合もゼロ点が存在しない』ということが解ると、リーマン予想を解かなくても素数定理が証明され得ることが解っていました。彼等2人は『実数が「0」と「1」の場合もゼロ点が存在しない』ことを証明することで、素数定理を証明できたという訳なのです。
ホントに『何のこっちゃ?』ですよね。
その気持ち、よく解ります。
一応、理解している心算ではありますが『これって、現実社会で一体何の役に立つのか?』と、ふと疑問に思う今日この頃であるからです。
<多分、100年後くらいに役立つ、と思われる。数学の様な基礎科学はそういうモン>
ま、本当に、織がリーマン予想を証明できたら、世界中の数学者が仰け反るよ、研吾君。
織、ミース・シルバー・バランシェの様なガーランドじゃないんだから。
設定上、彼女の『IQ』相当高くしてあるけども、だ。
(織のIQは算出限界値の145。
現在、これ以上の数値は判定誤差が大き過ぎて意味を為さない為に算出しないのである。
だから巷間よく聞く『IQ200』とかは古過ぎるIQテストの結果か、若しくは虚偽である)

注8:メチル化とは。
メチル化とは、DNA修飾の一種。
DNA修飾を説明する分野はエピジェネティクス『epigenetics』と呼ばれる。
これは親世代から子世代に移行する間において生得的に受け継がれる遺伝子変異ではない。
遺伝子の変異を伴わない、つまりDNAの塩基配列の変化を伴わない、子世代が生得的ではなく後成的に得る細胞分裂後も継承される遺伝子の発現状態の変化もしくは細胞表現型の変化(=genotype〔遺伝子型〕の変化ではなくphenotype〔表現型=遺伝子によって発現された形質の型〕の変異という意味)という現象を研究する学問領域、又はその発現状況を制御する技術のことである。
後成的に遺伝子発現をコントロールする作用機序には主に2つのメカニズムがある。
1つはヒストンと呼ばれるタンパク質を修飾するモノ。
そして、もう1つがDNAメチル化(methylation)である。
これはDNAの塩基配列中のシトシン-リン酸-グアニンサイト(=DNAの塩基配列中でシトシンがグアニンと隣り合う場所)のシトシンの炭素原子にメチル基(-CH3)が付加されて『5メチルシトシン』になる化学反応。
メチル基とは、官能基の一種で最も分子量の小さいアルキル置換基。(methyl radical〔group〕)化学式は『-CH3』
尚、官能基とは『何か?』というと、有機化合物の性質はその化合物中にある特定の原子団によって決まってくるのだが、この有機化合物特有の性質・反応を特徴づける原子団や結合様式のことを官能基と呼んでいる。ま、人間におけるお化粧道具みたいなものです。
このメチル化という現象が起きても塩基配列情報自体に変化はなく、遺伝子発現のオン/オフが切り替わるだけである。
そのメカニズムを物凄く簡単に説明すると、メチル基がくっ付いたシトシンがその遺伝子を使用するか否かを制御している部分(プロモーターと呼ばれる箇所)だった場合、その遺伝子は『Off』になり、発現しなくなる、という作用機序である。
1つ情報を付け加えると、CG配列(シトシンとグアニンが隣り合う塩基配列)が集まって密に存在する領域を『CpG Island』という。このCpG IslandのDNAメチル化は、遺伝子の発現過程の始まりの段階において深い関与が認められる、らしい。
このメチル化によって生体は『何をコントロールしているのか?』というと
1)細胞の種類を決定する。
体細胞は全て同じ遺伝子のセットを持っているが、成長するに連れてそれぞれが違う細胞へと分化していく。脳の細胞は脳神経細胞などへ、肝臓の細胞は肝細胞などへ、とである。
備わっている遺伝子のセットは全く一緒なのに、何故違う細胞になれるのか?
細胞各々を違う細胞へと誘導するのが、このDNAメチル化である。(と、されている)
2)遺伝子は、それ自体が父親由来なのか、若しくは母親由来なのか、出自によってその使われ方が異なってくる。これを『Genomic Inprinting』(正式名称。普通の場合は通称のGene Inprintingを使用)というが、この現象を制御しているのもメチル化とされている。
一般的に哺乳類は、同じ遺伝子を1個ずつ、合計2個をワンセットで備えている。
(体細胞について、である。精子や卵子などの生殖細胞は1個のみ)
このワンセット2個の内、片方は父親から由来した遺伝子で、もう片方が母親由来である。
そしてゲノムの中の幾つかの遺伝子について、片方の親から受け継いだ遺伝子のみが発現する、という現象が起きる。この現象がGenomic Inprintingである。
これは遺伝子自体が両親の内のどちら側から、つまり受け継いだのは『父親』からなのか? 又は『母親』からなのか? という状況を記憶しているとも言い得ることができる。
このように遺伝子が両親の内『どちらから受け継がれたか?』を憶えている事をGenomic Inprintingという。この現象は個体発生・胎盤形成と密接な関係がある事が判明している。
尚、このGenomic Inprintingが起こるのは有袋類(コアラやカンガルーなど)と有胎盤類(ヒトやイヌなど)で、単孔類(カモノハシなど)には発生しない。
何故、この様な現象が起きるのか?
その理由は未だ解明されていない。
『単為発生(単為生殖:雌雄の親が揃わないまま、片方だけで子世代を再生産すること)を防ぐ為』とか『全ての遺伝子をあまねく使用する為』とか、幾つかの仮説が唱えられているが、詳細は不明である。
3)女性(メスの個体)の体細胞にはそれぞれX染色体が2つずつ備わっている。
(1つのX染色体は父親由来で、もう1つは母親由来)
この2つのX染色体の内、どちらか1つがメチル化によって不活性化させられる。(つまり休眠させられて働かなくなる)
尚、父親由来もしくは母親由来、どちらのX染色体が不活性化されるかは全くのランダム選択であり、個々の細胞によっても父親由来、母親由来のどちらが休眠させられるのかが違う。そこにルールは一切存在せず、全ての細胞について完全な不確定原理が働いている。
つまり、ドッチが働くのかは全くの偶然の結果です。
もう1つの遺伝子発現をコントロールするメカニズム、ヒストン修飾だが、超ザックリと説明する。
まずヒストンとは、遺伝子発現時以外、つまり『translation(DNAの塩基配列に書かれている遺伝情報をメッセンジャーRNAに『翻訳』すること)』の時以外に、長いDNAを折り畳んで細胞核内に収納する役割を持つタンパク質のことである。
このヒストンに官能基などが付加(くっ付くこと)することで、遺伝子の発現状況を制御するのがヒストン修飾である。
この化学修飾は遺伝子発現など数々のクロマチン機能の制御に関与している(らしい)。
尚、クロマチンとは真核生物における染色体(染色質)のこと。
つまり端的に言うと、ゲノムDNAの2本鎖がヒストンタンパク質に巻き付いた状態で細胞核内に収納されている状態をクロマチンと呼ぶ。
ヒストンに巻き付けられたDNAを解くのか、それともシッカリと巻き付けておくのか、をコントロールするのがヒストン修飾である。DNAの2本鎖がヒストンに巻き付いたままでは遺伝子の発現は起こりようがないので。(解かないと発現できない)
ヒストン修飾の主なモノは4つ。
1)アセチル化(acetylation)リシン(lysine=アミノ酸)残基を対象として付加。
遺伝子発現を促進化する。つまりDNAの巻き付きを解除する様に作用する。
主に、ヒストンテール(ヒストンのコア領域ではない、末端の領域)に付加する。
2)リン酸化(phosphorylation)セリン(serine=アミノ酸)とスレオニン(threonine=アミノ酸)残基を対象として付加。
転写調節・DNA損傷の修復・細胞分裂時の染色体凝縮に関与しているらしい。
3)メチル化(methylation)リシンとアルギニン(arginine=アミノ酸)残基を対象として付加。遺伝子発現を促進する場合もあれば、抑制する場合もある。
4)ユビキチン化(ubiquitination)リシン(lysine)残基を対象として付加。
転写の抑制または活性化・DNAの修復などに関与している、とされる。
尚、ユビキチン(ubiquitin)とは76個のアミノ酸から構成されるタンパク質のこと。
生体の細胞内の何処にでも見られる事から、この名が付いた。
『ubique』は『至る所に』という意味。ラテン語で『everywhere』
他のタンパク質の修飾に用いられ、タンパク質分解・DNA修復・翻訳の調整・シグナル伝達など様々な生命現象に関わる、とされている。
そして残基(residue)とは、辞書的な定義を言うと合成物質の化学構造において生成する化学結合の構造以外の部分構造を指し示す化学概念・用語。
これだと何が何だか、サッパリ解らないので、説明対象をタンパク質に限定すると以下の様になる。
タンパク質は多数のアミノ酸が鎖のように連なって形成されている。この様な形態の物質を重合体と呼ぶ。タンパク質は鎖状のままでは機能しないので、自分で勝手に機能可能な形状に自分自身を折り畳む。このタンパク質の構造(重合体)の中で、元々はアミノ酸(単量体)に相当する部分、たとえばユビキチンの構造中に存在するリシン(lysine)の部分をリシン残基と呼んでいる。他のアミノ酸についても、重合体の主鎖以外の部分において、これと同様である。
エピジェネティクスは、まだ始まったばかりの科学分野であるので、メカニズムが不解明の部分が多く残っており、だから『らしい』と付けなければいけないのが、歯痒い。
昔、生物を教わった人物に訊いても『probably』とか『possibly』などと歯切れが悪くて、明確な解答を得られないのです。
どんなモノでも始まりは全て、ま、こんなモンです。
だから、ここに書いた事も明日には『間違い』とされるかも知れません。故に要注意。
<と、逃げを打っておきます>



「はい、ごゆっくり」
天龍さん、じゃなくて天竜産の茶葉が十分に潤びたのを見計らって、緑みを帯びた黄金色に輝くその茶汁をオレが小さく白い簡潔な湯呑に注ぎ入れて差し出すと、
「...ごゆっくり、って?」とイトが訝しげな表情を浮かべた。
 え?
実家でお茶を出す時に、いつも母親が掛けてくれてた言葉が自然に出ただけ、なんだけど。
ま、そのまま答えるか。
「オレ...わた...僕の母親...母さんがお茶を出してくれる時に、いつも言ってたんだ。
『ごゆっくり』って」
 イトは『あ、そうなんだ』という雰囲気を発散させながら「フーン」と呟いた。
彼女は、ベルリンに舞い降りた天使がした、淹れ立てのブラックコーヒーで暖を取る様な仕種、両方の手を差し合せる形態で湯呑をスッと持ち上げた。それはオレの網膜にとても大人っぽく映る挙措だったが、湯呑をキュッと把捉している角の取れた丸まっちい子供に特有の指を視認した時その想いは掻き消え、彼女の実年齢が改めて思い出された。
 湯呑に鼻先を近付けると「あぁ、良い匂い」と囁いた。
 いえ、そのお茶は水出しなんでして、常温抽出ですから。
だから、淹れ立ての熱いお茶ほど香りは立たない筈ですけれども。
<イヤ、良いお茶葉の適温は70~80℃だから>
 ミスター、適温はお茶葉の種類によるんだよ。
ウチの常用してたお茶葉は茎茶だったから、沸騰したお湯が最適だったんだぞ。
イトは香りを確かめた後、ソロソロと少しずつ啜り始めた。茶さじ2杯分ほどをススッと含んで、口腔内を一巡りさせてから飲み下し、一言だけ「美味し」とポッと溢した。
やっぱ変ってんなぁ、この娘
ホントに、5歳?
 イトがもう一口、お茶を喫んだ。
「ね、ケンゴくん」
「何だい?」オレは『ゥン?』と小首を傾げた。
「母さんって、ケンゴくんのママのこと?」
「そう」
 彼女は『フーン』と漏らしながら「ね、ケンゴくんのママって、何してる人?」
 どうしよっか?
こんな年端も行かない子供に剥き出しの事実を言っても良いのか、オレは一瞬迷ったが、我が娘に嘘を吐きたくなかったからありのままを伝えることにした。
オレは何も言わず、ただ人差し指で上を指し示した。
「?」
「母さん、天国に行っちゃったんだ」
「!」
 イトが、サッと顔を伏せた。
視界から外れる、その直前の彼女の形相には『訊いてはいけないことを訊いてしまった』という後悔の念が、その形象は稚いながらも、アリアリと浮んでいた。
 良いんだよ、イト。
もう10年も前に起きたことだから。
その事実は、些かクサい言い方だが、思い出の1ページになってしまっている。
しかし齢、僅か5歳なのに、そこまで他者の気持ちを思い遣る事が出来るなんて。
これは遺伝的な気質から来るモノなのか、それとも結衣の育て方が凄いのか?
だけどイト、そんな噬臍する必要など、どこにも無いんだよ。
ホントにもう、乾いた記憶になってしまっているから。
ジュクジュクと膿んでいて孕み飽和寸前の臨界状態は既に遥か遠くに過ぎ去っている。
そう思い『彼女の落ち込みを慰撫する為の言葉をどうしようか?』と考えてた時、ある絶望的な想望が皮質上に姿を現した。
 彼女の父親が少し前に失踪した、という事実だった。
 だから、なのか?
だから、こんなに幼少なのにも関わらず、他者のことを慮る事が可能なのか?
 イヤ...
もしかすると、そういう事ではないのかも、知れない。
イトが4歳になる約半年前、というから父親が姿を暗ましてから未だ、2年も経過していないのだ。こっちの方は思い出へと昇華するどころか、1gも揮発していない。生々しさで修飾された事実そのものが続いている、筈だ。
もしかしたら、オレの配慮不足で不用意な発言が彼女に父親が失踪した当時の記憶を想起させてしまったのかも知れない、まさにマザマザと
 マズい。
だとしたら、相当、激甚的にマズい。
過去からの爆風を召喚させちゃったのは、オレ、という事になる。
イヤ、過去にすら、なってもいない。
現在進行形の、ジメッと湿った過酷な事実ってヤツを眼前に突き出してしまったのかも。
過去へと変態し終えていない、鮮烈な事実。
もし、そうだとしたら、完璧にオレの失態だ。
襲い掛かってくる爆風から、彼女を護らなければならない。
 でも、何て声を掛けたら良いのか...
<皆目見当が付かない、な>
ジイちゃん、どうしよぅ?
オレは、どうしたら、良い?
 その時、ルークに囁くオビワン・ケノービの様にジイちゃんの言葉が耳許に蘇ってきた。
「ね、イト」
「?」スゥッと彼女が顔を上げて、オレの双眸を真っ直ぐ捉えてきた。
 オレの呼吸は整っていて乱れておらず、正常に機能を果たし続けている。
「母さんは死んだ。
もう、いない。
だけど、オレの背中に、この胸に、
1つになって生き続けてる」
イトが虚を衝かれた様に『エッ?』となった。
「オレが死なない限り、忘れない限り、母さんの事を覚えている間はずっと、オレと一緒に母さんは生き続けてるんだ、ココにね」胸を軽くトンっと叩いた。
 その拍子に(なのか?)イトは『ホッ』と軽く1つ息を吐き、微小だが柔らかい笑みを浮かべた。
 実際の所、記憶を担当しているのは胸でもなければ心臓でもない。
海馬であり、大脳皮質だ。
<獲得免疫系の記憶に関しては大方、メモリーT細胞とメモリーB細胞の担当だけど...>
死んだ人間、つまり生命活動を停止した人間は生きてなんか絶対に、ない。
他者の胸の中に生き続けることなんて事も、絶対に無い。
ソレは、後に残された者達が抱える記憶の内に巣喰う幻影の1つに過ぎない。
<それを言うと、人自体の存在が他者達との共同幻想の中の造作物に過ぎないとも...>
だから、オレの言っているコトは非科学的で非論理的で無茶苦茶なコトだったけど、
でも、何故だか理由はよく解らないが、彼女は安堵の表情を涌出させた。
だから、ま、とりあえずの所は、良かった。
<結果オーライだけど、な>
そして、ありがとう、ジイちゃん。

*筆者注:ジイちゃんの言葉ではなく、シモンの言葉。著名な台詞の1つである。
©中島かずき



ナンか、イイにおいがするなぁ。
ハナのあなのオクの方をコチョコチョする、スーってするクサのかおり、みたい。
ニオイがどっからくるのか、さがしたら、ジワジワいってるおニクさんからしてる、かも。
シロっぽくて、シカクの、アツいおサラのうえで、ジワジワいってる。
とっても、おいしそう。
でも、コレって、みたコトない。
トリさんでも、ウシさんでも、ブタさんでも、ないし。
ナンだろ、これ?
「ねぇ、ケンゴくん」
「なんだい?」ケンゴくんのメが、ビーッとコッチにまっすぐ、きた。
「...えっと、これ、ナンのおニク?」
ケンゴくんは、チラッとみてから、
「あぁ、これはラムにく...じゃなくてホゲット、だよ」
ホゲット?
なんだか、スコシだけおバカっぽくきこえるんだけど。
オイシイのかなぁ?
「ホゲット、ってナニ?」
「ホゲットは、ヒツジさんだよ」
「ヒツジ...さん?」

「ホラ、羊さんだよ。『メエェ~、メエェ~』って鳴く、白くて、モコモコ、フワフワした四足歩行の...4つ脚の、アレ? 見たことないかな?」
イトが『ウーン』って首を捻り始めた。
オイ、結衣、
ヒツジくらい、チャンと把握させとけよ。
絵本でも、映画でも、ヒツジを扱ったモノなら山ほどあるだろうが。
<ニック・パークの『ひつじのショーン』とか、な>
 仕方無い。
しかし、どうやって教えればいいのか?
iPhone、部屋に置いてきちゃったし...
 そうだ!
この歌があった!
「えっと、歌にも、さ、謡われてるじゃん、
例えば、さ、えっと...『♪白ヤギさんからお手紙着いた~♪』...」

ケンゴ、それ、チガウから!
シロ『ヤギ』さんって、ハッキリいっちゃってるじゃん!
それにヤギさんならワタシ、しってるし。
『めえぇ~』ってなく、おヒゲのあるシロいどーぶつでしょ?
むかし、テレビのサイホーソーで、アルプスのショージョ『ハイジ』をみてたトキ、
イッパイ『めえぇ~』『めえぇ~』でてきたし。
ペーターってコがのんでるオッパイが、とってもオイシそうだったし、
オンジっておジイさんのつくる、チーズがトロッとなったパンもオイシそうだったし。
『めえぇ~』『めえぇ~』って、あるいてコッチにくるのがヤギさん。
ワチャワチャ、あるいてくるよね。
ヒツジ...さんとかいうのと、ゼンゼンちがうし。
だから『めえぇ~』ってなくのが、ヤギさんでしょ?
アレッ?
ヒツジ...さんも『メエェ~』ってなくって、さっきケンゴがいってたようなキが...
アレッ?
どっち、なの?
(注1)

ヤバい!
違う!
 歌い始めてから『違う』事に漸く気が付いた。
これは白ヤギさんと黒ヤギさんの書簡交換に関する歌だった。
 迂闊だった。
<漫然と生きてっからだ!>
他に羊を扱った歌ってあったっけ?
『ドナドナ』で売られてくのヒツジだったか、それともウマだったか、ドッチだったっけ?
<...仔牛だ>

『めえぇ~』って、なくからヒツジさんもヤギさんのおともだちなのかな?
ま、いっか。
あ、おニク、1コつまんだら、いいニオイがフワッとなった。
うーん、とってもオイシそう。
ダイジョブかな?
たぶん、ダイジョブだよ、たぶん...
エイッ!
ホリャッ!
パクッ!

え?
あれ、置いてきぼり?
イト、羊の教え方に悩むオレに一切構わず、香草焼きのラム、じゃない、美味そうに焼かれたホゲットの肉の一切れを、躊躇の素振りを全く匂わせる事もなく、口中に放り込んだ。
しかし相変わらず、喰い方が豪快、っつーか、男前だな。
折角の美少女っぷりが台無し...
 もう少し、ご自分の容貌に相応しいお淑やかさをお願いできませんかね、イトさん?
<年齢を考えろよ、5歳だぞ? これくらい元気良くて初めてちょうど、なんだよ>
そうなのかなぁ?
<初めて御対面した時『この娘、チョット元気ないな...』とか思ってたのは、誰だ?>
...すいません...

あー、おクチのナカがぜんぶ、いいニオイー!
いいニオイで、イッパイっ!
モグモグ...
でも、いいニオイの、ずっとむこうの方になんかあるな。
なんだろ、これ?
しってるカンジがするけど、なんだったっけ?
なんだろ?
わかんない、な。
だから、もう1コ、
パクッ!

大丈夫なのかな?
マトンと比較すれば独特の臭みも少なく、食べやすいってことらしいけど...
あ、二口目、行った。
あぁ、勢いよく咀嚼してるなぁ。
ダイジョブ、なんですね。

コレってイッカイ、たべたこと、あるとおもうんだけど...
いつ、だったっけ?
どこ、だったっけ?
なんか、しってるとおもうんだけど...
うーん、
おもいだせない。
なんでかな?
あたまのどっかに、とんでっちゃったのかな?

 あまり硬くない筈の肉の一切れを咀嚼しながら、何やら思案の顔付きを浮上させているイトを見て『持て余すほど何らかの支障が持ち上がったのだろうか?』と疑念が浮かんだ。
「どう?」
 オレが発した斥候の言葉をホフッと受け止めて、イトが、
「美味しい。
ウシさんとか、トリさんとか、あとブタさんとも違うけど、とっても美味しいよ。
ケンゴ...くんは食べないの?
羊さん...ホゲットさん、嫌いなの?」
「いいえ、大好きです」
 ドッチかって言うと、ジンギスカンにして食べるマトンの方が好きなくらいですし。
ま、何て言うんでしょうか?
血の味っていうか、一種の野性味が感じられて、バクッと頬張ると『肉、喰ってるぞぉ!』って風味が口中満腔にバァーっと放散するのが、この上なく快感なんですよねぇ。
<野性味と言ってもジビエじゃないぞ、一応普通に家畜だけどな>
羊毛を刈り取る用の品種のヒツジさんは、ウール100%保温性抜群の毛皮を身に纏っていて汗で蒸れるのか、独特の臭みが強過ぎてあんまり美味しく感じられないんだけども。
<おい、ヒツジは汗かかないぜ。ヒトやウマじゃないんだから>
 厳密に言うと、若干量はかくんだよ、ヒツジさんは。
ただ、彼等の汗腺の機能は非常に低いので、呼吸に伴って起こる口腔内表面や気道表面の粘膜からの水分の蒸発、それ等の作用に体温調節の多くを頼っているんだよ、ミスター。
<そうだったっけ?>
『そうだよ』
等という脳内会話は一切構音しないで、その代わりに香草焼きの一切れを口に放り込んだ。
奥歯で噛み締めると、羊特有の匂いがアクサンテギュとなった、好ましい芳香が上咽頭部を経て鼻腔の天井に位置する嗅細胞を直撃した。
 素晴らしい。
ある作家は『腎臓の料理はチョビっと御叱呼の匂いがする方がよろしい』とか申したそうだが、ソレはチョット御遠慮願いたいけれど、ま、彼の言いたい事は十分に理解できる。
羊肉からこの匂いを完全に除去してしまったら、何と詰まらない事になるだろうか?
特有の匂いが全く感じられない『ewe lamb』も本当に美味いが、オレは乳離れしない雌羊よりもこれくらい成長した方が好みである。
 しかしながら、この独特のケモノ臭が大丈夫とは。
この娘、つくづく変わってんな。
齢まだ5歳だというのに何にも臆することなく、ホゲットさんを喰い進んで行く。
ホントに蓼喰う虫っぷりが凄い。
<もしかしたら正真正銘、お前の娘かも、な>
いきなり、何だよ?
<お前も性格、変わっているもん、相当>
そうか?
<結衣は容姿抜群だが、それでもああいう風に唐突に声を掛けられて躊躇することもなく喫茶店までノコノコ付いてかないだろ、普通の神経してたら>
あん時はコーヒーが飲みたかった、ソレだけだ。
<コーヒー、ね。アレルギーあるのに、か?>
1杯くらいなら大丈夫なんだよ。
<純喫茶のカフェ白磯では、確か3杯は飲んでたと記憶しているが、な>
 こんな風にウダウダとミスターと脳内チャットしてても埒が開かん。
<この場合『埒が開かない』よりも、『下らない』を意味する『埒もない』の方が適...>
 エエいっ!
 当分出てこなくてイイよ、ミスター。
自分自身との精神的対話からモードを切り替える為と、口腔内の味覚環境をリフレッシュさせる為に、クレソンとグレープフルーツのサラダが収納された小鉢に箸を伸ばした。
 噛み締めると酸味と甘みの調和が取れた柑橘の果汁と共にクレソンの鮮烈なほろ苦さがホゲットの濃厚さに順応した味蕾を刷新させた。お品書きに掲載された注釈文によると、このクレソンは浜名湖で養殖されているカキを収穫した後の残存物である牡蠣殻を肥料として再利用して育てられているそうだが、そんな事は別としても、美味い。
愛鷹山塊内を逍遥した時、山麓に位置する里山を流れる小川の縁に自生しているクレソンをチョロまかしたことが何度もあるが、そんな『野生』のクレソンに負けず劣らずの高貴な苦味を舌の上に形成する。したか、と思ったら幻影の様にシュッと掻き消える引き際の良さ、素晴らしい。これは小鉢ながら中々の逸品、惜しむらくは量の少なさ、雀に喰わすほどしか盛られていない。そこが唯一の欠点だ。箸を2回、伸ばせば全てが蒸発しちゃう。
 あぁ、無くなってしまう。
それを重々承知していながらも、再び手を伸ばさずにはいられない、この魅力!

あー、おいしい。
このハッパとミカン? かな?
ミカンより、ちょっとボーッとしたカンジのアジのやつ、とってもイイっ!
あまくて、すっぱくて、それでピュッとにがくて、ものすごくステキなアジ。
でも、なんでこんなにチョッピリなんだろ?
もう、なくなっちゃうよ。
あー、でもやめられない。
いいや、たべちゃえ!

 クレソンの残響が耳許でメフィストフェレスの様に囁く誘惑に打ち勝てず箸を伸ばした。
動きがシンクロした。
ユニゾンする様にイトも同時に同じ料理に手を伸ばしたのだった。
 意図せずにイトと視線が絡み合った。
自然と自分の口角が上がっていくのを感じる。
「ケンゴ...くんは、かつぶしが好きなの?」
彼女はかつお節ご飯の事を言っているのだ、と察しがついたから、最後のクレソンを飲み下してから「ウン。お結びの中の具もかつお節やタラコが好きなんだ」
 イトが『鱈子』というワードに興味を示した。
「ケンゴ...くんもタラコが好きなんだ?」
「ウン、母さん...オレ...ワタ...僕のママがよく作ってくれたんだ。
タラコをほぐしてご飯と、こういう感じで混ぜ込んだのをキュッて握ってくれたヤツ」
ジェスチャーでご飯にタラコを混ぜる仕草やお結びを握る動作を示しながら、伝えた。
「ふーん。ケンゴ...くんのお母様って、お料理するの好きだったんだね」
 お結び握るくらいの簡単な作業、果たして料理の範疇に入るのだろうか?
でも結衣、自分で握らなさそうだからなぁ。
コンビニでツナマヨのお握りとか買ってそうだし、なぁ
「イトは玉子掛けご飯が好きなの?」
「うん。
ママが作ってくれる。とっても美味しいの。
ツナ、使ったヤツなんだ。
でもね、普通のヤツ...普通のツナじゃダメなんだって」
「油が入ってるのじゃないヤツ、マグロの水煮缶の方、かい?」
「ケンゴ...何で知ってるの?」
浜名湖産の車海老の黄身煮に手を伸ばそうとしていたイトの眼が丸くなった。
 彼女の瞳孔、今日はフル回転だな。
オレのことをテレパスか何か、異質で異形な者に初めて邂逅した時の様な眼付きで見詰めている。
 そりゃ、知ってるも何も、オレが教えたレシピだからな。
でも「卵とツナの水煮缶と、後は何が入ってるの?」と訊いた。
「あのね、コンブの煮たヤツと、青いおネギの切ったヤツと、ゴマと...あと、何だったっけ...そうだ! 時々シソって梅干しの匂いがする草を、ママが手でバラバラに千切ったヤツが入ってる」イトは天井に眼をやりながら指を折って数え上げ、構成要素を挙げた。
「フーン。それは美味しそうだね」聴いてるだけでヨダレが出そうだよ、と微笑んだ。
「あ、それから、ツナじゃなくて...えっと...何だったっけ?
この前、咲耶さんが作ってくれたお結びに入ってた、とっても小っちゃいおサカナさん?」
「シラスのこと?」
「うん、シラス! ツナが無い時とかシラスが入ってたこともあるよ。
シラス、白いヤツとか、茶色いヤツとか。
私、ドッチも好きだけど、茶色いヤツだと、丸くて小っちゃい種が入ってて、ソレが好き。
何か、ね、キュッと噛むとお舌がピリッとするの、ビビッて!」
 えーと、それは白い方が釜揚げシラスで、茶色が山椒の実との佃煮のことでしょうかな、お嬢さん?
それは実に美味そうに響きますなぁ。
ってか、ちりめん山椒、子供に喰わすか? 普通?
しかも山椒の実、好きだって言っちまってるし。
ホントに、この娘、変わってんな。
 しかし、オレが結衣に教えたレシピが、与えた影響が彼女の内側に残っていて、そして遺産としてイトに継承されている。
その事が、素直に嬉しかった。
 でも、1つだけ気に掛かることが...
ちりめん山椒...お客さんから京都出張か何かのお土産...貰ったんかな?

ケンゴ、なんかとってもウレシそう。
そんなにツナのたまごかけゴハン、たべたいのかな?
ホントに、おいしいけど。
でもフツーのおショーユじゃ、あまりオイシくないんだよね。
だしジョーユじゃなきゃダメ、なんだよ、ケンゴ。
しってるかな?
だしジョーユのこと。
フツーのおショーユより、オイシいんだよ。
なんでか、しらないけど。
でも、なんでわかったんだろ? ケンゴ?
ツナのみずにかん、つかうって。
2りでいっしょにいたトキ、ママがケンゴにつくってあげたのかな?
でも、さっきケンゴが『みずにかん』っていったトキ、チョーびっくりしたから『くん』つけるの、わすれちゃって、ウワってカンジで、ケンゴっていっちゃった。
でもケンゴ、キにしてないみたいだから、ダイジョブ...なの、かな?
ケンゴってよんで、いいのかな?
なんか、わかんないんだけど、ケンゴの方がいいカンジなんだけど。
なんか、ピタッとくるっていうか。
なんでか、わかんないんだけども。
ね、ケンゴ。
『ケンゴってよんじゃ、ダメ?』
って、きけたら、なぁ。

ツナを使った玉子掛けご飯はオレが高校生の頃、独りで家にいて腹が減り、食糧鉱山として有望な台所などの箇所を捜索しても何もめぼしいモノが出て来なかった時に、前にTV番組で観た南予地方の名物を無手勝流で模倣しでっち上げた見せ掛けだけのなんちゃって偽物鯛飯だった。
この本歌の方は割り解した生卵に濃い目の出汁に漬けた鯛の刺身を混ぜ込んだ掛け汁を炊き立てのご飯の上に流し回した逸品だ。元々は宇和島の郷土料理、漁師料理だという。
ま、非常に美味なので現在、宇和島式の鯛飯として愛媛県全域で食べられているらしい。
炊き込み型の鯛めしの方も十分魅力的ではあるが、家庭で作るには少しハードルが高めな印象を受けるし、な。コッチなら鯛の刺身をスーパーで購入して来て出汁醤油と共に生卵と混ぜ合せれば出来上がりなのだから、超簡単レシピではある。
独り暮らしの男性でもお手軽に完成させられる。愛媛県全域に波及するのも無理はない。
 しかし、先ほど『KINPARA』さんが言っていたが、何だって『TKG』...だって?
何だかなぁ...
ホントに何でもかんでも省略しちまう風潮が蔓延しているんだな、今日この頃は。
 ま、数秒間でも思考を巡らせれば、コイツは当世になって突然に勃興してきた新潮流ではない事くらいは容易に推察できる。
もしかしたら神代の昔からこの豊葦原瑞穂国に跳梁跋扈していた伝統なのかも知れない。
現代では4文字で略されるモノは必ず流行するという都市伝説すらあるくらいだから、な。
例えばドラクエ、とか。
コンビニ、とか。
ナイナイも、その範疇に入るのだろうか、な?
そう言えば、米軍の兵士はオレンジジュースのことを『OJ』などと略するらしい。
確か、何かの折に、ジイちゃんが苦いモノを吐き捨てる、そんな口調で教えてくれた覚えがある。ま、ジイちゃんは紳士なので道端にペッと唾を飛ばしたシーンなぞ、ついぞ見た事なんか全然無いのだけれど。
 ま、確かにオレンジジュースをそんな風に略するなんて、単に混乱を生むだけで便利でもないし、ましてや粋でいなせで格好良いって訳でも、無いからな。
ただ阿呆に見えるだけ。
ジイちゃんは、そういう無駄で無為な行為を極力避ける人だったから。
 そういや、今時の若い人達は女子高生を『JK』って省略形で呼ぶのだとか。
女子高生、1年が『FJK』で、2年が『SJK』そして3年が『LJK』になるのだと言う。
 本当なのだろうか?
大体、女子高生そのものが既に省略形ではなかったのか、な?
女子高等学校生徒になるんではないのだろうか、全く略さない正式名称は?
 違うか?
違うかも知れんけど。
ま、違ってたら、ゴメン。
それに1年後とかの近未来にこの言葉を使っているようなヤツ、いるのか?
1ヶ月くらいの短期間でワッとなって、その後すぐに廃れっちゃうんじゃないだろうか?
(筆者注:2020年現在、どうやら未だに存在しているみたいです。
FJK=First女子高生;SJK=Second女子高生;LJK=Last女子高生だそうです。
ふぅ)
 物事を省略するという事は、マージナルなモノを削ぎ落としていくって事だ。
それは物事の本質を抽出するという営みとも言い換えられる。
 しかし言葉と言うのは既に、その存在自体がこの世界の森羅万象、全ての事物から抽出された『本質』そのモノだ。物、現象、そして感情などの『概念』にまつわる様々な情報を考察し吟味し取捨選択して、その概念を一発で想起可能な数文字単位の単語に落とし込んだ、そんな存在だ。
例えば日本語で『リンゴ』と呼ばれる果物がある。
その『リンゴ』という言葉に接すれば、その瞬間パッと、標準的な日本語が普通レベルで理解できる人にとってある程度共通した心象(イメージ)が涌出するだろう。
赤い色。
ま、黄色い種やサンふじみたいな青いリンゴもあるけど。
甘くて、芯の所に蜜が一杯詰まっている。
その半透明な飴色の部分、実は甘くないし。それに紅玉みたいに酸っぱいヤツもあるけど。
アップル社のロゴマークに似た形状。
っていうか、順序が全く逆なんだけども。
胃の腑を愛撫される幻触を覚えるような、心惹かれる芳醇な香り。
何だか、リンゴ食べたくなってきちゃったなぁ。
 えーと、何の話だったっけ?
そっか、リンゴか。
 ま、そういう共通心象を浮かび上がらせる事が可能なのが、言葉だ。
何故なら、言葉は我々が常日頃から無意識の内に行っているスパースモデリングによって抽出された『本質』に相当するからだ。(注2)
だからその既に本質である言葉を更に省略するってことは、事象の本質を抽出するというよりも、記憶に留めやすいように可能な限り簡素な表現へと還元するってことだ。
その作業は発展的とは到底言えず、逆に破壊的ですらある。
 ジイちゃんの言葉を思い出す。
『marginalな、周辺に存在するモノに、つまり本質を析出する過程で削ぎ落とされたモノの中にこそむしろ大切なモノがあることが多い。というより、大概の場合、そうだ。
イイか?
人間が日々暮らす世界は、複雑系だ。
複雑そのものだ。
だが、多くの人はそのカオスを正面から見据えることから逃避し、単純明快な答えや理解しやすい価値基準のみを探し求める。
しかし残念ながら、その願いは絶対に叶う事はない。
絶対に発見できないのだが、な。
それどころではない。その行為が、人生における価値や意味に根源的に備わった多様性を吟味するに値しない、考慮を払うに値しない些末な特徴であると、決め付けさせてしまう。
生きていくという経験、それに付随する様々な事象を賞味する事から回避させてしまう。
すると結果的に乱雑な世界という事実を理解できなくて、その為に苦痛を味わう事になる。
しかし、些か酷な言い回しに響くだろうが、結局それは自業自得だ。
その苦痛の発生源は全て自分の内部にある。自らの内なる思考が彼等を苦しめるのだ。
そうだ、彼等が選択した認識の方法が、全ての苦しみの源泉となっている。
自らの行為がこの世界を苦界へと変貌させているのだ。
そして彼等はその事実に気付けない、永遠に、な』

注1:ヒツジとヤギの違いについて。
超ザックリ言うと『属』が違う生物同士である。
ヒツジは『ウシ科ヤギ亜科ヒツジ属』に分類され、ヤギは『ウシ科ヤギ亜科ヤギ属』へと分類される。
もう少し詳しい分類法だと、
ヒツジ:鯨偶蹄目(Cetartiodactyla)>ウシ亜目(Ruminautia)>ウシ科(Bovidae)>
ヤギ亜科(Caprinae)>ヤギ族(Caprini)>ヒツジ属(Ovis)>ヒツジ(種)Ovis aries
ヤギ:鯨偶蹄目(Cetartiodactyla)>ウシ亜目(Ruminautia)>ウシ科(Bovidae)>
ヤギ亜科(Caprinae)>ヤギ族(Caprini)>ヤギ属(Capra)>ヤギ(種)Capra hircus Linnaeus 1758(その他の種多し)
性質も全然違っていて、ヒツジは温厚で大人しく、臆病で優柔不断な性格をしている。
故に大きな群れを形成して暮らすのに向いている。
それに対してヤギは一言でいうとヤンチャ坊主。好奇心が旺盛で行動面も活発。性格的には自己中心的で攻撃的と言えるので、人が不用意に近付いたりすると攻撃される事があり、危険でもある。単独行動したり、家族など少数固体で小さな集団を形成して暮らしている。
え?
『属』が違うってのが、どの程度違うのか、よく解らないって?
それでは簡単にご説明いたします。
チンパンジーと人間は同じ『ヒト科』に分類されています。
分類区分をザックリと霊長目から列挙すると、
チンパンジーは『霊長目ヒト科チンパンジー属』となります。
一方、人間は『霊長目ヒト科ヒト属』と分類されています。
つまり『属』の違いとは、チンパンジーとホモ・サピエンス・サピエンスの違いくらいの差異である。そういう事になります。
外見からだけだと両者の間には相当な違いがあるように見えますが、遺伝的な側面を比較対照した場合、チンパンジーとホモ・サピエンス・サピエンスがそれぞれ保有する遺伝子は約98.77%が共通です。
ま、チンパンジーとホモ・サピエンス・サピエンスは超遠い親戚みたいなモノなのです。
だからヒツジとヤギの間柄も『超遠い親戚』みたいなモノだと見做しても(動物学者以外)誰も困らない、と思います。知らんけど。
厳密に言うと、チンパンジーは『チンパンジー亜族』でヒトは『ヒト亜族』なので『亜族』レベルで異なります。ですから同じ『ヒト亜族』に属する『Australopithecus afarensis』を比較対象例として挙げたかったのですが、その遺伝子関連の情報が探し出せなかった事から、止むを得ずチンパンジーとヒトとの比較対象に止め、代替としました。
誠に申し訳ありません。
より詳細な分類区分を記すと
チンパンジー:霊長目(Primates)>真猿亜目(Haplorhini)>狭鼻下目(Catarrhini)>ヒト上科(Hominoidea)>ヒト科(Hominidae)>ヒト亜科(Homininae)>ヒト族
(Hominini)>チンパンジー亜族(Panina)>チンパンジー属(Pan)>
種名(Pan troglodytes)
ホモサピエンスサピエンス(ヒト):霊長目(Primates)>真猿亜目(Haplorhini)>
狭鼻下目(Catarrhini)>ヒト上科(Hominoidea)>ヒト科(Hominidae)>ヒト亜科
(Homininae)>ヒト族(Hominini)>ヒト亜族(Hominina)>ヒト属(Homo)>
種名(Homo sapens sapiens)
ここで言い訳を1つだけ。
アウストラロピテクスの遺伝情報の研究は多分、論文化されてると思うんだけどなぁ。
それに加えてもう1つ。
チンパンジーとホモサピエンスサピエンスとの間にある遺伝子の差異は1.23%です。
最新の研究によるとDNA区間の重複や並び替えを考慮した時、その違いは2.7%に増加するそうですが、それでも僅か3%未満。
故にチンパンジーを我々人間の兄弟と見做すのに支障となる数値ではないと思えます。
因みにイヌはオオカミの亜種とされ、両者間では交雑も可能です。
この二者の間では約98.8%の遺伝子が共通です。
アレ?
どっかで聞いた話だな?
しかも『亜族』という階層区分が出現するのは筆者の知る限り通常、ヒト族に関してのみ。
まるでチンパンジーと人間を別々の区分に無理矢理分類する為に設定された様にも感じられます。
そんなにイヤなのか? チンパンジーと同列に扱われるのが?
わざわざ亜族という分類階層を設ける必要なぞ、あるまいに。単にヒト族で十分だろ?
などと、邪推もしたくなるほどで御座います。
所詮、ヒトはパンツを穿いた『サル』に過ぎないのですが、ね。
ま、分類区分を細かくしようとすれば、どういう風にするのだって可能な訳なので、どの種に関しても果てしなく細かい分類化が可能なんですけどね。
余談だが、チンパンジーと人間の間で交雑可能なのかを調査した実験は、現在に至るまで、少なくとも公式には、実施された事は無い様である。
何故だろう?
とても興味深い実験テーマだと思えるのだが。
ま、どこかの国家研究機関が秘密裏に実験していても、筆者は決して驚かないけども。

注2:スパースモデリングとは。
スパース(sparse)の文字通りの意味は『スカスカ』『疎らな』『希薄な』『散在する』などである。
モデリング(modeling)の直訳は『模型製作』『彫塑術』だが、ここでは『方法』『方式』という意味である。
このスパースモデリングをとても簡単に説明すると、少ない情報から全体像を的確に炙り出し最適解に辿り着く数学的手法(=断片的なデータを補完して実状を忠実に再現する)若しくは巨大な情報群に埋もれて発見し辛くなってしまった有意な情報を導き出すこと(=法則性を見い出す)つまりビックデータから疎らな本質を抽出する手法とも言い得る。
表現方法を変えると、数理的・定量的に限定されたデータからオリジナルのデータを構築する手法である。
え?
まだ、よく解んないって?
じゃ、こういう説明はどうでしょう?
スパースモデリングとは、あらゆる物事に含まれる本質的な情報は極僅か(=スカスカ)であるという仮定に基づき(=スパース性)入力から出力に対して、どこが本当に必要な情報なのかを見極めて抽出する作業のこと。
一見すると『少ない情報から全体像を把握する』と『ビッグデータから簡素な本質を抽出する』は全くの真逆の作業に思えるかもしれないが『逆もまた真なり』の好例で、同じ事をそれぞれ逆の端っこから遂行するに過ぎない。
数式は、

E(x)=||y-Ax||2+λΣ|x|

となる。
この手法の利点は以下の通り。
1)大量のデータが必要ない。それはデータ同士の関係性に注目するからである。
2)マシンリソースが少なくて済む。消費電力量も少なくて済む。
3)データ準備にかかる時間が少なくて済む。
4)過程説明が容易。スパース性を利用するので、できるだけ特徴を単純に解釈する。
入力と出力の関係をなるべくシンプルに説明するので、説明可能な点が強み。
例を1つ挙げるとすると、実用化間近なのがMRI関係の技術だ。
MRI検査を受けたことがあればすぐに理解できるが、この検査は意外と苦痛を感じる。
原因の1つは意外と所要時間が長いこと。
MRI機器を使って人体から充分な情報を得る為には大抵の場合、10分くらい掛かる。
そして2つ目は音だ。
MRIが機能してる間はズーっと機器内部では『ドンっ! ドンっ! ドンっ!』って結構なデカさの打撃音が轟き続ける。この音は、患者にとってはかなりな負担原因となるので、ちょっと見逃すことのできないストレス要因になる、という訳である。
しかし、スパースモデリングを使えば観察時間は3分で済む。
え?
そんなんで解析するのに十分なデータが得られるのかって?
実は、全然足りない。っていうか、得られる訳がない。
だから補完する為に、スパースモデリングという数式を使用するのである。
たった3分の僅かな観察時間で得られた『疎らな』データをこの数式に掛ける事によって正解を得る。この行為は人体というビックデータの塊から疎らな本質だけを抽出する、とも言い換えることが可能だ。
ほら、これでチャンと繋がって『逆もまた真なり』になったでしょ?
人間が普段行っているスパースモデリングの例としては『記憶』がある。
勿論、君もよく御存じの通りに記憶と言う作業を担っているのは、脳だ。
例えば相手の顔を記憶する場合は大脳皮質が担当する。
もう少し詳しく言うと、その中の紡錘状回という領域が顔認識を担当している。
この皮質と呼ばれる部位は外部の環境に存在する膨大な量のデータを階層化し個々の事象の関係性を構築した上で分類する。そうやってその情報の深い森から本質だけを抽出する。
相手の相貌を認識する時には『顔』というビックデータを輪郭、色、質感、奥行きなどといった各要素まで還元化を図る。その後で、各要素ごとに微分化して『疎らな』データにして各々バラバラに記憶の構成要素として貯蔵する。
想起、つまり思い出す時はバラバラに貯蔵されている各々の要素の圧縮を復元し、つまり『疎らな』データを再統合しながらビックデータに戻す。
どうですか?
記憶を貯蔵する時と記憶を再生する時に『スパースモデリング』が使われている事が理解できたましたか?
ま、ウンと平たく言っちゃえば、脳はデータ圧縮して色んなモノを記憶しているって訳だ。
ビックデータから本質だけを抽出して記憶として貯蔵して、本質からビックデータを復元する事で思い出す。こんな複雑なプロセスを経なければ脳は顔を思い出せないんだが、
厄介な事にプロセスのどの段階でもエラーが発生する。その発生頻度は実は低くない。
だから頻繁に思い違いというのが起こってしまう。
久し振りに会った人に何か違和感を覚える事はよくあることなのだが、コレは貯蔵されている顔の記憶を再構成する時にエラーが何処かの段階で発生してるからだ。しかし、脳は基本的にこういったズレを嫌がる。だから無理矢理に辻褄を合わせようとする。
相手の何処かに過去からの連続体としての『似ている所』を発見する事で整合性を何とか保持しようとする。
え?
イヤイヤ、自転車は違う。
自転車やクルマの運転に関する記憶はまた、別物だ。
ソレは運動記憶と呼ばれるモノで大脳基底核という部位が主に担当している。
俗に爬虫類脳と呼ばれる部位が担当していて、記憶の処理方法が違う。
厳密に言うと、運動記憶つまり手続き記憶と呼ばれる記憶は小脳に貯蔵されているんだが、実際に処理を担当するのは、基底核なのである。
この基底核ってヤツはあらゆる可能性を片っ端から手当たり次第に調べ尽くし試行錯誤を重ねた末にようやく正解に辿り着くっていう少々まだるっこしいやり方を取る。
因みに皮質の担当している、例えば概念であったり、楽しかった家族旅行の記憶といったモノは意味記憶とかエピソード記憶とか呼ばれていて『深層学習』という手法を採る。
更に因むと、大脳基底核は『強化学習』で小脳は『教師あり学習』である。
それぞれの学習方法の違いを詳らかにしたい人はググって下さい。
ただしネット情報を鵜呑みにしないように細心の注意を払う必要がある。
何故ならネットに上がっている情報は、それが文字オンリーであれ動画であれ、何らかの誤謬を含む『フェイク』である可能性を排除できないからだ。
っつーか、間違っている事を前提で接する態度が肝要だ。
これは否定できない絶対的な事実である。
何せ、ネット情報をデジタル処理された『便所の落書き』と評した人もいるくらいだし。
(このエピソードは後に出てくる予定です。筆者が記すのを忘れなければ、だけど)
どう?
記憶ってのが、案外フニャフニャとしていて頼りないモノだって解ったかな?
ま、脳なんて不確実性に満ちてる複雑系を記憶するのに使ってるんだ、当たり前だよ。
え?
コンピューターは違う。
ヤツ等の記憶は文字通りにハードで簡単には毀損しない。
機械は間違いを犯さない。
もしも間違いが起きたとしたら、それは機械を設計・プログラミングした人間が間違いを犯したから、に過ぎない。
ヒト様の記憶はソフトで壊れ易い。記憶のプロセスには大まかに言って3段階ある。
記憶の形成である『記銘』、『保持』、そして再生である『想起』だ。
記憶の記銘は海馬と言う部位が担当で、保持と想起に関しては皮質が担っている。
海馬には神経細胞が約1億個あって何時、何処で、何を、といった情報が記憶されている。
ここで造られた記憶は、休息している時にその記憶自体を海馬内部でリプレイしている。
例えば、海馬には『場所細胞』と呼ばれる、場所の記憶に特化した神経細胞がある。
理解を進める為に、君が小洒落たカフェを新規に開拓したと、仮定しよう。
その時、場所細胞はそのカフェへの経路を認識して、君が椅子に座ってカフェマキアートなんかを啜りながら休んでる時にその記憶を海馬内部の神経細胞がリプレイ、そうする事で記憶の固定化を図っているんだ。
場所細胞だけではないよ。
時間の経過の認識を担っている『時間細胞』もある。
この場所細胞や時間細胞が同時に共同して働く事で記憶にとって重要な、何時、何処で、という情報を海馬の中で処理している。
これが記憶として刻まれてゆくんだ。
ザックリ言うと海馬は経験を認識するだけではなく、休んでいる時にその経験を神経細胞がリプレイして記憶を海馬の中に固定している。
新たな出来事を記憶する事が海馬の役割だ。
保持に関していうと、経験した事などの記憶は大脳皮質の色んな領域に分散して蓄積されている。つまり新しい記憶は海馬で記銘(形成)され、それが大脳皮質に転送される事で長期的に『保持』される。
この転送に関して重要な役割を果たしているのが、海馬における神経新生だ。
神経新生、コレは神経細胞が新しく作られる現象だが、コレが起きると海馬から記憶が消えて行き、同時に皮質へと転送される。
結論から言うと、この神経新生は海馬からの、海馬に固定化された記憶の消去に関わっている。
え?
心配は御無用。
記憶自体が煙の様にシュッと消えちゃうわけじゃない。記憶は海馬から大脳皮質へと転送される。記憶量は減ったりしない。同じ量だけ皮質に蓄積されることになる。
そしてこの海馬から記憶を皮質に転送する役割をも担っているのが、この神経新生である。
記憶の転送が生じるのは、睡眠時だ。
人間の脳は寝ている時にも働いている。
もちろん海馬も頻繁に神経活動をしている。何の為に活動しているのか、その真相はまだ確定済みではないのだが、昼間覚醒してる時に経験したこと、ソレに関する記憶を再生しているってのが有力な説の1つである。
この寝ている時に海馬で起こってる神経活動を模倣する様に、
ウーン、なぞるって方が適切な表現かな?
大脳皮質でも海馬の神経活動をなぞるようにリプレイ、っていうか同じ様な活動パターンが皮質の神経細胞回路でも出てくる。この大脳皮質が海馬の活動を『trace(なぞる・模倣する)』する事で記憶の転送が為されるんだ。
睡眠している時に皮質は海馬で起こっている神経活動を復習して皮質自身に記憶を固定化してゆく。この様な仕組みで海馬から必要な情報を皮質に移送して、場合によっては一生憶えている記憶へと組み替え直しているのだ。
余談だが、加齢、つまり年を喰う事態に伴う記憶力の低下は神経新生の能力の低下が原因なのである。
若い時は神経新生が盛んだ。
だから幾ら情報が海馬に入ってきてもドンドン皮質に記憶を皮質に転送できて海馬の容量を空いている状態に出来る。だから幾らでも無尽蔵に憶えられる。
だが残念ながら歳を喰ってくると神経新生の能力が衰えて来るので海馬にいつまでも記憶が残存してしまって、だから海馬の容量がパンパンの飽和状態になり、だから中々新しい事が憶えられなくなってしまうんだ。
安心して下さい。
海馬の神経新生は運動する事で促進される。
個人差もあるが運動をする事で神経新生の頻度は、何もしてない状況下と比して2倍ほどにまで増加する。つまり、身体を動かす事で記憶力を保つ事は可能なんだ。
ま、これはマウスやラットでの実験結果のお話ではあるんだけど。
人間においての検証結果の論文はまだ読んだ事ないから、保証の限りではない。
えっと、話を、記憶の固定化に戻します。
海馬で神経新生をすることで皮質に記憶を転送、そして睡眠をとることで記憶の固定化をして行く。そして同時に海馬からその記憶が消去される。新しい記憶を海馬領域に貯蔵できるようにする為、海馬の容量を空にするように。
え?
何で、転送するかって?
そりゃ、容量の問題。
海馬の神経細胞の数は約1億、ソレに対して皮質は140億って所である。
ま、パソコン内蔵のSDDが一杯に成ったらクラウドや外付けのHDに情報を移行する事に似ている。記憶作業のそれぞれの段階で色々なタンパク質やら遺伝子が働く訳なんだが、そのどの段階でも必ずと言っていいほど間違いが生じる。
例えば昔神戸で連続児童殺傷事件が起きた時、ひとりの人が黒いポリ袋を持って自転車に乗っていた男を目撃したと言った。すると、その後にワッと大勢の人がその『男』を目撃したと証言をし始めて、終いにはポリ袋から血が滴り落ちていたとまで言う人まで現れた。
でも結果は君も解っている通り、14歳の少年の犯行だった。
じゃ、『男』を見たって証言した人達は嘘を言ったのか?
違う、彼らは本当に『見た』のである。
あー、あまり興奮しないように。
これから順を追って噛み砕いて説明する。
『本当』の記憶を保持してる間に新聞とかTVとか雑誌などの媒体から色々な情報が脳の中へと入力され続ける。その結果保持してる記憶のアッチコッチが、その新たな入力情報により上書きされてオリジナルの記憶情報は毀損されてしまうのだ。
コレを事後情報による(記憶の)毀損と呼ぶ。
神戸児童連続殺傷事件で目撃者が『ポリ袋をぶら下げた男』を見た、といったこと、この『目撃者たち』は嘘を吐いたのでは決して、ない。
自分達が保持してる記憶の上に別の『見た』という記憶を上書きされちゃっただけだ。
オリジナルの記憶は時間が経過するに従って減衰して行くし、その上、事後情報で傷付けられてしまう。でも彼らにとっては『変形』された記憶が『現実』なのである。
コレは保持段階での話の例だが勿論、形成時にも想起時にも記憶に障害は簡単に発生する。
だから裁判における人間の証言なんてモノは信頼性など担保できないんですよ。
記憶はいとも簡単に、アッちゅう間に変形しちゃうんですから。



「ハンバーグと唐揚げ、ドッチから食べたい?」
「ハンバーグ!」イトが明瞭な輪郭の返事をした。
オレは「ハイ、どうぞ」と三ヶ日牛の炭火焼きハンバーグが載せられた白い磁器の丸皿を彼女の前に置き直した。
 ま、とりあえず『KINPARA』さんの怪訝な表情に対する疑惑は横に措いておこう。
料理が冷めない内に喰わないと。
『熱い料理は熱い内に。冷たい料理は冷たい内に』とは、ジイちゃんの言葉だ。
その考えにオレも完全に賛同する。
サーブされた料理を眼の前にして手を着ける事なく、愚にも付かないお喋りに興じているヤツ等など、四国八十八ヵ所お遍路の旅に出立して自らの心を磨き直すがよろしい。
 ただ、讃岐うどんの『冷や熱』のような、結果として『生温い』料理になるモノをどう判断すべきか、未だに適切な解答を見い出せてはいない。
(筆者注:冷や熱とは冷たい饂飩に熱い出汁を掛けた物。全体としては生温い饂飩になる)
 さすが我が娘だけの事はある。
イトは間髪入れることなどなく、用意されたカトラリーを小さな籐編みのバスケットからイソイソと取り出し終えて既に、ホワッと湯気を立てるハンバーグに取り掛かる所だった。
“んーんっ”
ドライエージングされた三ヶ日牛を使用したハンバーグを一口大に切り取り、用意された3種類のソースの内、ポートワインと醤油ベースの和風ソースをチョイっと付け、ポイッと口腔内に放り込んだイトが無音の声を上げた。彼女の表情が一瞬で、蕩けている。
 よっぽど美味いんだな。
ハンバーグとフグの唐揚げを追加注文する時に、あんだけ逡巡して、最後の最後、オレに押し切られる様な感じで、食べられるか確信が持てなさそうな感じで頷いたのに、な。
 これで一体何度目になるのか、ちょっと判別できないのだが、
「食べたい分だけ、食べたいように、食べなさい」と全く同じ言葉を投げ掛けたオレに、顔を上げることさえもせずに、ただ『うんうん』と首を縦にチョンチョンと頷いただけ。
皿の上のハンバーグから自分の眼を離すことなく2切れ目で今度は『ババガヌーシュ』という名の白いソース(イヤ、外見はディップみたい)を器用にチョビっと掬い取ると間髪入れずに口に入れた。再び彼女の顔が喜びで溶解する。
 美味しいんですね?
ま、何と言ってもドライエージングだからな。
F1だけど。
 え?
F1って、何だって?
F1というのは黒毛和牛に代表される日本原産の和牛と『モー』って鳴きながらお乳を出す乳牛のホルスタインの交雑種、つまり合いの子だ。
お肉屋さんでは通常『国産牛』として販売されている。両親の良いトコ採りのウシさんだ。
実はここだけの話だが、サシの入りが見事で脂が甘く、世の女性が『柔らかーい』と馬鹿の1つ覚えの様に繰り言をリフレインする黒毛和牛にドライエージングは適合し辛いのだ。
確かに旨味は増すし、柔らかくもなるけれど、嫌味のある臭みが発現しやすいらしい。
その熟成具合のコントロールが非常に困難なのだそうである。
そりゃ幾ら柔らくて旨味に溢れてるとしたってたぜ、ドブ川みたいな悪臭が漂ってきたら食欲はシナシナっと減衰しちゃうよなぁ、やっぱり。
 ん?
何でこんなこと知ってるかって?
話は超が3個ほど冠される位に簡単だ。
 オレとRさんの本拠地である荒川自動車から徒歩で5分の所に『五十崎精肉店』という名前の、いわゆる『町のお肉屋さん』が立地している。掃除が行き届いた清潔な店内には庶民的な雰囲気が充満していて、精肉だけではなくコロッケなどのお肉屋さん系惣菜なども販売している、実に好ましいお店だ。染みなど1つもない磨き上げられたガラスケースの内部に陳列されているのは、しかしながらその大衆的な空気とは裏腹に、品質の良さでは成城石井などの高級スーパーが平伏するくらいの、超高レベルなお肉さんばかりである。
そこの店主の耕平さんが何故かオレを可愛がってくれて、買い物に行く度に肉に関する色々な情報を授けてくれたのだった。だからオレは、お肉にまつわる知識をソコソコだが持ち合わせている、っちゅー訳だ。
実は熟成肉に関する何らかの正式な定義は無い、らしい。
『Dry Aging』とは、適切な温度と湿度を保ち、空気に触れた状態・乾燥した状態で20~60日程度寝かせる、肉の熟成方法らしい。牛さんを三枚に下ろした格好となる枝肉から部位ごとに切り分け、紙やら布やらを巻き付けて水分を抜き出してから熟成庫に収納して
肉の周囲にワザとカビを生えさせることで肉を形成しているタンパク質をアミノ酸に分解する。そうすることで肉の持つ旨味を増加させる、という作用機序らしい。
何か、本枯れの鰹節と少し似ているなぁ。
このドライエージングというプロセスを経ると100kgの肉が50kgに減ってしまうのだそうだ。繁茂してくる黴には良いヤツと悪いヤツの両方いるので、食品衛生上の措置として周りをガーッと削り落とすから、らしい。
 ま、カビだらけのお肉、食べたいとは、チョット思わないからなぁ。
モサモサして非常に喰い辛そうだし、ブルーチーズやカマンベールじゃないんだから。
因みにNYCのブルックリン地区に位置するステーキ屋さんのピータールーガーが今現在、世界的に波及している熟成肉ブーム発祥のお店だそうだ。
 ドライエージングされた肉はナッツの様な甘く芳醇な香りや砂糖漬けのプラムや杏子の様な匂いが特徴で、アミノ酸が分解されることによって旨味が増加し、汁気がタップリでジューシー、赤身に網目の様に走るサシのおかげで付随的に柔らかく感じるのではなく、化学反応の結果として肉の繊維自体そのものが柔らかくなっているのだ、と、耕平さんは教えてくれた。酵母や乳酸菌などの微生物の働きのおかげだよ、と彼は笑う。
 だから、喰いたい。
 あー、早くイト、関心の焦点をフグの唐揚げに移してくれないかなぁ?


ナニ、これ?
コレって、ホントにハンバーグ?
おクチにポイッてしたら、バッてなって、とけちゃった。
おいしーい!
すぐにおクチのナカからなくなっちゃう!
おいしいってアジだけがシタにのこってるぅ!
コレ、すごい!
すごーく、おいしーい!」
これ、メチャクチャおいしい!
パパとママ、
それとケンゴとたべた、あのハンバーグやさんよりもずっと、ずうっーと、もんのすごくずうっーと、ホントにホントにホントーに、メチャクチャおいしーい。
えっと、しあわせの音はまだきこえないけど、そんなの、どうでもイイくらい、うまーい。
も、ひとつ、ポイッと!

 喰いてぇなぁ、そのハンバーグ...
あー、早いトコ、食の興味の対象をフグの唐揚げに移してくれないかなぁ?
同じ物、喰い続けてくとプイッと喰い飽きたりしませんか? イトさん?
お、3切れ目、いった!
相も変わらず豪快な喰いっぷりっ!
ホントに男前だなぁ。
飽きは全然来襲する気配も見せないんですね、イトさん...
しかし5歳とは思えないくらい見事なカトラリーの使いっぷりだ。
行儀とかマナーに対する結衣の躾は、ここまでに関する限りだが、ほぼ完璧である。
イトの所作、特にナイフの扱いはへタレな大人たちを遥かに凌駕する手業で、子供が刃物を扱う時に常に付きまとう不安感とは全く無縁の上々なる捌き方だった。
結衣、やっぱりチャンとしてるトコは、物凄くチャンとしてるなぁ。
逃がしたおサカナはやっぱり、デカかったのかも知れない。
 しかしソレはソレとして、料理が、全然コッチに回ってくる気配が、秋声ほどもしない。
そのまま全部、イヤ、皿ごと平らげちまいそうな勢いだぞ。
 仕方無い。
戦略を変えよう。
ま、一先ずフグの唐揚げでも喰いながら、ハンバーグに喰い飽きるのを待つとするか。
 チラッと木の地色が角膜に優しいおひつに眼をやる。
『このお櫃、木材は椹(さわら)を使用しています。
椹は水分を程良く吸収する特徴があるのでご飯の保存に最適の材質なんだそうです。
でも、椹材をそのまま用いているのではなく、特殊な製法を駆使して組み上げているので、放っておいても優に1時間はホカホカ、というよりもアッチッチの状態をキープします。
ですから不用意に口にすると簡単に火傷を負ってしまいますので、お気を付け下さい』
 美穂子...じゃない、えっと『KINPARA』さんの注意を促す言葉が細部まで色鮮やかに、蘇る。しかし、温かさを保持する機能がある、っていうか、注意を怠ると簡単に火傷するって、ソレって取扱要注意物件の結構危険な代物じゃないのか?
彼女の言葉に連想されたのか、オレの前頭連合野に以前TVのニュース番組で放送されたあるシーンが再生された。擦り降ろした北海道産のホースラディッシュを山盛りに載せた『山ワサビご飯』を勢いよく掻っ込んだ数秒後、ブホッと口腔内に含んだモノ全てを盛大に吹き出して咀嚼途上の元・食い物でテーブルの天板を汚染させた人々の動画だった。
 フム。
我が娘の眼の前でそんな醜態を晒す訳にはいかない。
一旦口の中に入れた食い物をポン菓子のように撒き散らかすなど、そんな惨状を晒せん、晒せはせん。
ま、幸いなことに1時間は余裕で冷めないというんだから、な。
なら、ご飯は後回しでOK。暫くの間、放っておこう。そうすりゃ、温度的に丁度良くなるだろうよ。
 さてと...唐揚げのお時間、だ。
大きめの懐紙(?)の上にこんもりと盛られた山から唐揚げを1つ箸で摘んだ。
オオッ!
揚げ立てなのが判る、ジジッと微かな振動が箸を伝って手許に上がってくる、この非常に好ましい感触。キツネ色に染まった本体部分も、良い。
アァ、辛抱たまらん、我慢ならん。
ホリャッと。
オオッ!
薄めの衣だが、意に反して、とってもサクサクだ。
コショウではない、正体は不明だけど、衣の生地に加えられた何らかのスパイスが甚だしく効果的である。ニンニクの香りもするなぁ。鶏肉にニンニクはマストの存在だが、フグにも優れた効能を示している。イトにあーゆー風に言ったけど、本当に鶏胸肉ソックリ。
 結構、適当に言ったんだけど、結果的に正解だったな。
 歯を立てると僅かに軋むような感触が歯茎を通して伝わってくる。しかし、抵抗はそれほど頑強ではないので、すぐにホロホロと崩壊を始めて肉は繊維へと還元していく。それと同時に芳醇な香りを発散するジュースがドバっと溢れ出て口腔内部の隅々まで行き渡り、口福感が水面に拡がる波紋の様に身体全体に充満していく。
アー、幸せだ。
海の生物なのにも関わらず、その理由は定かではないが、味も食感も鶏の胸肉だ。しかも育ちの良い地鶏ちゃんのソレ、だ。
同じ脊索動物門ではあるが魚類と鳥類だから、系統学的に照らし見ても全然、遥かに遠く掛け離れているのに風味や食感が瓜二つって、神様ってホントに悪戯好き。
 もちろん、細かなディテールに差異はチラホラ認められるのだけれど、酷似の度合いが余りにも高過ぎてそんな微細な相違点を圧倒している。
フグ、カエル、ワニ、そして鶏。
似てるんだよなぁ、食味が。
ま、しかしながら結局の所、天然トラフグの唐揚げ、やっぱ美味ぇなぁ。
言葉なんぞ、要らねぇよ。
 アー、美味ぇ。
この骨にこびり付いた部分が一番味が良いぜ。前歯や犬歯をフルに活用して刮(こそ)ぎ落とすのが、これまた愉悦。
ウン?
どした?
イトが三ヶ日牛ハンバーグのお皿を「ね、ケンゴ...くん、コレ...あげる」とこちらに怖怖(オズオズ)と差し出してきた。
 一体、何があった?

あー、ビックリした。
1ばんサイショにたべたヤツ、こいームラサキのイロのヤツ、いいカンジにしょっぱくてアマくて、トローっとしてておいしかった。このソース、ワタシすきだなぁ。
イロはこいーんだけど、そんなにアジはこくないトコがイイ。
2ばんめのソース、しろくてドロッとしてるヤツ、フシギなカンジだけど、おいしい。
ナンだろ?
ソースってカンジじゃないな。
トーストにしたパンにつけるバターみたいなカンジがする。
モチャモチャしてる。
オイシイから、イイけど。
あと、ゴマさんのニオイがするカンジ、メにみえないけど。
あのゴマさんのツブツブがみつからない。
あっ、そうだ!
このモチャモチャは、あれだ!
トーストにしない、しろいパンにつけるピーナッツバターにソックリだ!
ピーナッツバターにもピーナッツ、はいってないもんね。
でも、あんなモタッとした、こいーアジとはちがうけど。
でも3ばんめのヤツ、チョーびっくり。
ベロのうえっかわに『ビリビリッ!』ってきた。
ナンだろ、これ?
キライじゃないけど、ちょっとビリビリしすぎだよ。
これって、たべてダイジョブなヤツなのかな?
たべたらダメなのじゃないの?
ケンゴは、どんなカンジになるんだろ? これ、たべたら?
『ウワッ!』って、なるのかな?
たべるトコ、みたいなぁ。
ハンバーグ、おいしいけど、ケンゴにあげよう。
ケンゴが『ビリビリッ!』ってなるトコ、みたいし。
もし『ビリビリッ!』ってなっても、さっき、ワタシをみてなかったバツだ、もん。
ベーッ、だ!

「じゃ、交換だね」とハンバーグの載った皿を受け取って「ハイ、フグさんの唐揚げ」と差し出した。何かを含んだ様な面持ちをイトがしていたことが少し気になった。
 一体、何が起こったのだろうか?
眼の先っぽを皿に落としても、そこにあるのは嗅細胞を刺激する芳香を放散する乾燥熟成されたミンチ状の肉塊だけだった。そこに何も異常な点は認められない。ま、確かに左端から真ん中に向けて3分の1ほど削り取られた痕跡が残ってはいるが。
 んー、放っておくか。
幾ら考えても解らない事は放置するしかない。
ソレは物理学の鉄則でもある。
 さて、ようやく三ヶ日牛のハンバーグが喰えるぞ。
オレは3種類のソースがそれぞれ容れられたお皿達を確認した。
1つ目はポートワインを半量になるまで煮詰めてから木桶仕込みの醤油と合せたソース。
これは何となく『甘辛い、日本人好みの味だろうな』と、味について大方の想像が付く。
2つ目は、ババガヌーシュというイスラエルの伝統的なソース。
ローストして甘味が増した茄子を磨り潰して白ゴマのペーストを合せた、甘味と芳ばしさが拡がるソース、とお品書きに説明文が載せてあるけど、どんな味だか全然思い描けない。
茄子とゴマ?
鴫焼きにした茄子に胡麻ダレをかけたヤツは喰ったことあるけど、それをソースにする?
チョットこっちは想像が付かない。
 そして3つ目、オレとしてはこのソースが一番楽しみなヤツだが、赤く完熟した胡椒を乾燥させた『完熟ペッパー』を低温の白絞め胡麻油でジックリと熱し、胡椒の実に特有のその高貴なる香りと風味を移したソース。
 注釈文によると何々?
えっと、胡椒の実は完熟すると赤く染まる。
この段階まで熟成が進行すると胡椒特有の舌にピリッとくる、刺すような辛味の中に一種のフルーティーさが加わる。その結果として辛味全体は穏やかなモノとなり、マイルドな辛味であると感じられる様になる。そして料理と共に飲み下すと、口中に柑橘類、ことにレモンの様な爽やかな後味を残して消える。
完熟ペッパーには以上の様な特徴が認めらる、と。
 んー、ん?
胡椒なのにフルーティーでレモンの後味?
確かに胡椒はあのnobleな香りが特徴ではあるけれど...
んー、今一つピンとこんな。
ま、だからこそ返って非常に興味をそそられる、とも言えるけれど。
スリランカ産、か。
胡椒の産地って、よく知らんな。
南の方っぽい、けど。
中世ヨーロッパの人々が血眼になって胡椒を探したのはインドじゃなかったっけ?
それとも東南アジアだったかな?
(筆者注:原産地はインド。あと、モルッカ諸島を代表とする東南アジアが香辛料の産地として有名でした)
 あと、近頃流行りの『ピンクペッパー』は胡椒じゃないのか?
えっと、何々...“ピンクペッパーはコショウ科ではなくウルシ科で別種の植物”...?
黒とか白とかいった種類の粒状形態は見たことがあるが、胡椒が完熟すると赤くなるってのは正直知らんかった。でも、そうすると普通は完熟前に収穫するってことなのかな?
余計な『Tip』が中途半端に載ってる所為なのか、全体像のピントがボヤけてしまって結局、何だかよく解らんなぁ。
ま、いいや。
部屋に戻ったらググってみるか、覚えてたら、だけど。
そんな事より、早よ、喰わねば。
折角の熱々の料理が冷めちまうよ。
適切な温度というのもご馳走の大切な条件の1つだし、な。
まずは、何はさておき、一番気になっているこの胡椒を使ったソースから試そう。
最初は何も付けないで素材の味を確かめる、なんて野暮天なことぁは言わねぇよ。
そんなの美味いに決まってらぁ。
イトの男前過ぎる喰いっぷりに触発された訳ではないけれど、割合大きめに切り取った一切れを口の中に放り込んで咀嚼した。その直後に、粗挽きのミンチ肉の塊からジュースがドバっと溢流し、真一文字に結んだ唇の上下が決壊して唾液が氾濫しそうになった。
ま、ヨダレが口許から垂れそうになっただけ、なんだけれども。
ハンバーグの作成において仕事が適切に為されたかどうかは、肉汁状況に全てが表れると言ってもよい。
理想を言えば肉汁が溢れ出す場所は皿の上では無く、ナイフでズパッと切られた断面からでも無い。口腔内に入れて咀嚼を開始した途端にその肉塊が全面崩壊して舌の上で絶妙なる半液体と化す、というのが望ましい。
 そして、この三ヶ日牛のハンバーグは理想形に限りなく近い。
製作者の手腕のレベルが非常に高いことが解った。自分でハンバーグを作ってみると立ち所に理解できる、適正に『焼き上げる』という行為に伴う困難さの数々を。
オォッ!
想定外にピリッとくるぞッ!
どこが『マイルドな辛味』なんだ?
キチッと胡椒のビリビリが舌の上で踊り狂っている。
しかし、これは嬉しい『想定外』だ。予想外の気狂い踊りだ。
やったねッ!
また『新しい天体』を発見したぜ。
この胡椒ソース、意外な掘り出しモンだ。
しかし、一体何から出来ているのだろうか?
構成要素は完熟ペッパーに油...やはり白絞めはゴマ特有の香りが薄いなぁ。
遠くで微かな音が響いてるって感じだ。この密やかな塩っ気は何から来るのだろうか?
塩、天日塩とか、か?
醤油ではないようだが...
ウン?
件のソースの成分を自分なりに分析していた時、オレの顔の上で焦点を結んだ視線の存在に気付いた。
イト、だった。
コチラの秘密を壁越しにソッと覗き見るような、まるで状況を観察する、市原悦子主演の『家政婦の何とか』ぽい雰囲気を醸し出している。
 ほほぅ。
なるほど、彼女が料理を交換したがった理由に漸く思い至ることが出来た。
三ヶ日牛のハンバーグに飽きた、という事ではなかったのだ。
 この胡椒の攻撃にヤラれたという訳だ。
 ま、そりゃ、そうか、納得だ。
幾らイトが大人舌だとはいえ、この胡椒ソースには完膚なきまでに叩きのめされる、さ。
オレですら、結構ヤバかったくらいだし、
それに何と言っても、まだ5歳、だもんな。
フフッ。

あれっ?
おかしいな?
ナンか、へんだな?
ケンゴ、どしてダイジョブなの?
ぜんぜんヘーキソーにフツーにたべてる。
おクチのナカが、ビリビリッてしないのかな?
あ、まただ。
また、たべた。
ヨユーでヘーキ、みたい。
なんで、だろ?
...オトナ、だから、かなぁ...?

 イトは真相を突き止めることを諦めたのか、壁際からコチラ側を窺う素振りを止めて、眼の前におかれたフグの唐揚げに箸を伸ばした。
「ソレは手で掴んで食べた方が美味しいよ」とオレがアドヴァイスを送ると、
「エッ! 手掴み、して良いの?」と彼女は驚きの表情を浮かべた。
「もちろん。さっきオレ...僕も手で直接...手掴みして食べてたよ?」見てなかったのかい? と言うと、イトは『ウウン』と頭(かぶり)を振った。
 それ程ハンバーグに夢中だったのだろうか、という考えが一瞬だけ皮質上を通過したが、
「お肉でもお魚さんでも、骨にこびり付いた...骨にくっ付いた部分の身が一番美味しいんだ。お箸を使うよりも手でガバッと掴んだ方が、その部分を食べ易いからね」と教えた。
 イトが不安そうな面持ちを浮かべて「良いの? ホントに?」と小声で確認した。

『ね、ホントに良いの?』
『良いよ。だってナイフとフォークじゃソレ、喰い辛いだろ?』
『そりゃ...そうだけど...』
『だって、その為にフィンガーボウルが用意されてるんだから。
お店側だって端から手を使って食べること、前提だろ?』
『でも...』何か、罪悪感、と結衣が囁く様に、こぼした。
『ね、結衣。
食事ってのはさ、美味しくそして愉しく食べるモノなんだとオレは思う。
マナーとか作法を披露する「場」じゃない、って。
結衣は今までした事が無いと思うけど、物を手掴みで食べるのってとっても楽しいんだよ。
大体、近世になるまでヨーロッパの人々はフォークとか使わずに手掴みだったし』
『そうなの?』結衣が眼を丸くした。通常時でも大きな眼がより一層増大化した。
『フランスでは、15世紀だったっけかな、イタリアからカテリーナ・デ・メディチっていう止ん事無きお嬢さんがフランス国王のアンリ2世に嫁いで来た時に、食事のマナーがあまりに酷いので驚いて宮廷の人々にカトラリー...食卓用のナイフやフォーク、あとはスプーンとかのことだけど、そういう食事用金属器の使い方を教えたんだって。
そのイタリアにしたって、フォークを使い始めた時期こそ11世紀って西洋社会では早い方なんだけど、スパゲッティなんかのロングパスタを簡単に巻き取れる四本歯のフォークが開発されるまでは、同じ様にスパゲッティを手掴みで喰ってたんだって、さ。
スパゲッティをむんずと掴んで頭の上に持ち上げてから、垂れ下がった下の端っこに口を寄せて、啜ったんだって。今じゃ、スパゲッティをズズーッと啜ると小児性愛者を見る様な眼付きで睨まれるのに、ね。
でも、直接手掴みで喰うなんて悪戯を働いてるみたい、まるで子供の泥んこ遊びみたいでとっても楽しそうじゃん?
西洋で食事のマナーが発達した主な理由の1つに、そういう傍からは一種野蛮にも見える行為をどうにか「優雅な所作」に映るようにする為ってのがあるそうだよ。
それに子鳩のローストをナイフとフォークを華麗に振るって優雅に食べられる人なんか、滅多にいない...召し上がる事が可能な方々は天皇皇后両陛下くらいじゃないか?
だから、大丈夫。
堂々と手掴みで食べれば良い』
『ウン、分かった』固い表情を破ってニコッと笑顔を浮かべ、結衣はイソイソとお絞りで手を拭き始めた。

 2人でオレの地元に帰った時にフラッと立ち寄ったビストロで交わした結衣との会話を思い出した。これって何年前の出来事だったかな?
イヤ、ソレは今、イイ。
オレは胸襟の内で首をブンブンと振って今は余計な追憶を払い落とした。
「あのさ、イト」
「何?」
「食事...ご飯っていうのは美味しく、愉しく食べるモノなんだ。
マナーとか作法とか...綺麗に食べるってコトを他の人に見せる為のモノじゃないんだよ。
自分が美味しいっていうのが一番大切なことなんだ」
それでもイトは不安な気色を全面に顕わにして、
「ホントに...ホントにホントに、ダイジョブ?」と、息せき切る様な口調で、訊いた。
「大丈夫だよ。
だって、それにオレしかいないし」他の人、誰も見てないじゃん、と答えた。
自分の態度をおおどかに感じられるように意識的に振る舞った。
 すると、イトは安堵の息を『フッ』と吐いて、
「うん、分かった」彼女はコクンと頷いてから硬化していた表情を破かせた。匂い立つ華の様な気相だった。そのシーンはあの晩にオレが目撃した、彼女の母親の心象と重複した。
 皮質上に昇ったそのイメージを必死で払い落としながら、イトに助言する。
「その唐揚げ、揚げ立てで熱いから最初はお箸と手の両方を使って食べてから、最後に残ったフグさんの身、骨にくっ付いている身の部分を歯を立ててこそげる...歯でカリカリってする時にお箸を擱いて、両方の手で掴めば良い、と思うよ。
手に油が付いてネチョネチョするかも知れないけど、食べ終えてからお絞りで手を拭けば良い、それだけ。ね、全然、平気だろ?」

「こう? かな?」
イトがお箸で骨付きの唐揚げの右端を摘み上げた。大きめの塊を支える為に左手が左端に添えられているが、全体としてシャチホコ張った相当にぎこちない動作状況に陥っている。
初めて実行する身体の運動作用に脳が戸惑っているらしく、上手く機能できていない。
「そうそう、良い調子。
お箸だけだとフグさんの唐揚げがデカいから上手く持てないだろ?
そうやって手で支えてやった方が持つの、楽でしょ?」
 イトが一瞬、オレに視線を向けた。
眼許に一筋の悪戯心が表れている。
迎えに行くように口許を唐揚げに寄せ『パクッ』と擬音が聴こえそうな挙動で齧り付いた。

彼女の頭上に大きめの感嘆符が屹立した。
 美味しいんですね?

アチッ!
...んー!
うわぁ...
ナニこれ?
トリさんのムネ...?
チョー...
アー...
...

 初めてチュールを与えられた仔猫のように、イトがフグの唐揚げに夢中だった。
あー、お箸、擱いたな。
400万年前から連綿と培われてきた『肉食』というヒトとしての生存戦略の本質が今、イトにおいて華開いた、と表現すれば良いのだろうか?
捕食者たちが喰い散らかした草食動物の残骸にむしゃぶりつく『Australopithecus africanus(又はafarensis)』って、こんな感じだったんだろうか、な?
あー、仔犬みたいに骨をカジカジし始めちゃった。
完全に野生動物の行動の範疇だけど、非常に愛らしい。
 完璧に親バカだな。
こういう様子も、可愛いと感じてしまうんだから、な。
『イト、ワサビは大丈夫なのに、胡椒は無理なんだな』
そう思うと、そこはかとなくおかしかった。
ワサビの辛味に対する感受性は年齢が上がるとともに低下していくそうだが、胡椒もそうなのかな? イトも歳を重ねていけば胡椒に対する耐性も上がっていくのだろうか?
 オッ、2切れ目に突入!
黒よりも暗い曜変の瞳が、サバンナを支配する捕食者の輝きを帯びてて、少し怖い。
イトさん、舌をビリビリ挑発するあの胡椒ソースにヤラれて結果オーライ、ハンバーグ、途中で諦めて逆に良かったんじゃないのか?
あー、完全にトランス状態に没入してるよ。
眼に凄味が宿って来ちゃったなぁ。
 ご飯、どうする?
冷めちまう...冷め...ないか、1時間はアチチホチチ、だからな。
ま、ご飯はもう少し後に廻しても大丈夫か。
 その時、オレの聴覚野に『KINPARA』さんが辞去際に言い残していった言葉が色鮮やかにパッと回生された。
『お食事、なるべくゆっくりとお召し上がりください』
何で?
彼女は何故、あんな言葉を置き留めていったのだろうか?
オレは彼女の真意を把握しかねて当惑し、ほんの少し訝った。

これ...
おい...しい...
うまっ...
...うーん...
あれっ?
あれ、なんか、ワタシ、コウメみたい。
ホネをカジカジしてるカンジがそっくり、っておもった。

 人心地が付いたのだろうか?
イヤ、言葉の意味上『人心地』は不適当な単語だな。
一安心...
違うな。
一息吐く。
イマイチ。
一齣(ひとくさり)?
あ、そうだ。
一頻りカジカジし続けてある程度まで満足が行ったのか、骨にこびり付いたフグ肉の残滓を歯で刮(こそ)げ落とす作業に一段落を付けたイトが『フゥ』と息を吐いた。
トローンと焦点の定まらない双眸を何も無い部屋の片隅、虚空へと向けている。
離脱...イヤ、言葉の選択ミスだ。
虚脱状態...ウーン、放心、そう放心状態、だ。
大丈夫か?
何か、脳のドーパミン報酬系が疲弊しちゃった雰囲気が濃厚にするんだけど。
 ア、
また、イトの母親の事が想起されてしまった。
記憶の貯蔵庫の奥深くに厳重に密封してあるはずなのに...
結衣も今の彼女と似た表情を浮かべてたな、って。
毎晩...のように...
睦合の後...

むかし、ヒロオのおウチにいたトキ、マイニチじゃないけど、
ときどき、1しゅうかんに1かいとか、コウメにゆでたホネをあげてた。
ウシさんとか、ブタさんのホネ。
コウメ、よろこんでカジカジしてた。
コウメ、すっごくうれしそうだった。
ウレシそうにカジカジ。
でも、チョットこわかったけど。
カジカジしてるトキ、コウメのおめめが、カッとなってて、なんかシカをたべるライオンみたいだったし。ホントに、ダーウィンでみたライオンといっしょのおめめ、だった。
カジカジしながら、ときどき『フガッ!』とか『ンゴッ!』とか、いってたし。
でも、なんでだか、しらないけど、
いつも、ぜんぶカジカジしないで、とちゅうでやめて、おニワにあなをほって
そのアナにうめてた。
で、いっつも、わすれちゃって、た。
だから、ヒロオのおウチのおニワは、コウメがとちゅうまでカジカジしたホネだらけ。
きっと、おニワをほったら、ウシさんとブタさんのホネが、ドンドンでてくるとおもう。
でも、トリさんのホネは、でてこない。
だって、トリさんのホネはワタシ、あげたコトがないから。
ヒロオのおバアサマが「トリのホネは、のどにササるから、コウメにあげてはダメですよ」っていった、から。だからトリさんのホネはあげたこと、ないなぁ。
ワタシは...ケンタッキーのホネとか、あげてもイイ、ってカンジだったけど...
コウメもたべたそうなカンジしてたし...
でも、おバアサマが「ダメですよ」って。
だから、
あれ?
なんで、トリさんのホネだけ、のどにササるんだろう?
トリさん、だから、なのかな?
なんでなのか、おバアサマにきくの、わすれちゃった。
ま、いっか。
あとでケンゴにきけば、おしえてくれる、きっと。
だって、ケンゴ、だから。

 イトがスッとコチラ側に視線を寄越した。
彼女の双眸に正気が戻ってきたのが判った。
サバンナの野生動物、捕食者の方に変態したり、心ここに在らずの茫然状態に陥ったり、振舞いが少し忙しかった様だが、漸く元の自分自身に帰還したようだった。
 イトが唇を微かに動かした。オレは照れ隠しの微笑みと考えることにしたが、違った。
質問を始める兆候だった。

「あのね、ケンゴ...くん」
「なんだい?」
「なんで、イヌってトリさんのホネ、たべちゃいけないの?
コウメ、アカゲのシバイヌなんだけど、コウメが、パ...ヒロオのおウチにいたんだけど、
おバアサマが『トリさんのホネをあげちゃダメ』だって、いったの。
なんでなの?
なんでなのか、ケンゴ...くんは、しってる?」
「それは、トリさんのホネってくだくと...『くだく』って、わかる?」
『くだく』って、しらなかったから『ううん』って、クビをヨコにふった。
「えっと『くだく』って、モノをこわして、ちいさくするってこと。
トリさんのホネをくだくと、1つ1つのちいさくなったホネのカケラがするどく...ギザギザになって、ノコギリってシッてる?」
『ノコギリ』は、しってたから、クビをたてにコクンってした。
「トリさんのホネのカケラの1つ1つがちいさなノコギリみたいになって、イヌののどをスパってキッちゃうんだ。そうするとイヌもいたいし、キレたバショによるけど、ウンがワルイとシンじゃうかも、しれないんだ。
でも、イヌはもらったホネが、ウシさんなのか、ブタさんなのか、トリさんなのか、
わかりゃしないよ、ぜんぜん。
だって、イヌだし。
それに、ぜーんぶ、ホネ、だから。
オイシそうなニオイのするホネ、だから。
もらったら、カジカジしちゃうよ、ぜーんぶ。
だから、かってるヒトの方がチュウイ...キをつけてあげないといけないんだ。
イヌがまちがって、トリさんのホネをたべないように、ね。
イヌがケガをしないように、ね。
それだから、トリさんのホネはイヌにあげちゃ、ダメなんだよ。
わかった?」
わかったから、ワタシはコクンってした。
やっぱり、ケンゴはナンでもしってる。
だってソレは、ケンゴ、だから、だ。

「あと、コウメね、
コウメって茶色いシバイヌなのに、
何でか分からないけど『赤毛』のシバイヌってヒロオのおバアサマが教えてくれたの。
何で、茶色なのに赤い毛なの?」
 質問はもう終了だと勘違いしたオレはハンバーグを一切れ口に投入したばかりだった。
急いで咀嚼を終え、飲み下すと、口を閉じてオレの回答を待つイトに説明し始めた。
「柴犬の色は4種類あって、一般的...ポピュラー...数が多い順にいうと
赤毛って呼ばれる茶色の柴犬、黒いヤツ、白いヤツとそして珍しい胡麻って呼ばれる灰色の柴犬がいるんだ。
何で、茶色いのに『赤毛』って呼ぶか? だよね?」
 イトはコクンと頷いた。
付着した唐揚げの油を舐めようとしたのか、指を口許の近くまで持って行き、そこで漸く自分の無意識的な行為を自覚したのか『ハッ!』と我に返ったように、動きを止めた。
そしてオレの眼に留まる事を避ける為なのか、ソロソロッとお絞りを引き寄せてから慎重に指を拭った。
 そんなに気にしなくても良いのに。
子供なんだから、指くらい舐めても、叱りゃしないよ。
そりゃ、座卓の脚をペロペロし始めりゃ、流石に『こりゃヤバいかも』と心配するけども。
「イトとオレがいるここ、何てトコだか分かる?」
「...浜名湖?」イトはアイスバーンの道を歩く様な口振りだった。
「その通り」よく分かったね、と言い添えると彼女は満足そうに微笑んだ。
「じゃ、イトがいたアパートのある町田やおバアサマがいらっしゃる広尾がある、この国の名前は分かるかな?」
「んー」イトは左斜め下の畳の縁に視線を数十秒間凝固した後「...ニッポン?」
語気に凍結した湖面の上に第一歩を降ろすような慎重さが濃厚に表れていた。
「正解」
オレの返答に、緊張で氷結していた彼女の口許が再び溶解した。
「この日本って、大昔...何百年とか千年とか昔には、色が4つしか無かったんだ」
「?」イトがキョトンとした。「4つ?」
「そう、4つ」
 彼女はキョロキョロっと周囲を見回し現在の時空間が豊かで鮮やかな色彩に満ち溢れている事実を再確認した。そして過去にたった4つしか存在しなかった色が一体、どういう過程を経ればこの様な総天然色まで増殖できるのか、心の底から訝る顔色をオレに向けた。
「4つっていっても、色が4つしか無かった訳じゃないよ。色を表現...色の名前が4つだけだった、ってコト」説明を重ねることでイトが現在抱えている疑念を払拭する心算が余計に混乱させてしまったのか、彼女の頭上に大きな疑問符が浮かび上がったのが解った。
 ええと、どうしよう?
5歳の女の子がこの事象をキチンと理解できる為には、どう説明すれば良い?
「じゃあ、さ、イトが解るようにチャンと説明するね」
『ぅん』と無音の聲を発しながらイトが首肯いた。
「信号機、分かるかな?
そう、青、黄色、赤の信号だよ。
赤色の信号は何て意味?」
「停まれ...?」
「その通り。じゃ、黄色は?」
「進むより停まった方が良いかもって合図だって、ママが言ってた」
「正解。それじゃ、青は?」
「進んでもダイジョブ、って合図?」
「そう、その通り。偉いぞ、イト。全問正解じゃないか」
褒められてイトは嬉しそうだった。
交通規則に関する教育、結衣がイトに与えたその教育状況は適切と表現するに値する。
こういう所は確かなんだよな、結衣。こういう所だけは...
「でも青信号の色って、本当に青色かな?」
『えっ!』という擬音がイトの身体全体から聞こえた様に思えた。少しの間考えていたが、やがて「あのね」と言葉を紡ぎ始めたので、オレは『ォン?』と待ちの姿勢を示した。
「昔、ママに言ったら『違うよ、青でしょ!』って言われたんだけど...
青信号って...緑色に見える...違うかな?」
 オレは嬉しくなった。
嬉々として口許が弛緩する危険性に気を配らねばならない程だった。ここで涎を垂らしたりなんかしちゃったら父親の沽券? 威厳? ってヤツに関わる。
しかし、やっぱり、この娘にはオレの遺伝子が継承されている。
だからこそ、オレが小さい時に抱いたのと全く同じ疑問にイトも思い至ったのだ。
ここに来て漸く、そういう確信にも近い想いをオレは抱いた。
もっと発現しろ、オレの遺伝子たちよ。
あ、容姿に関係するDNA区間の群れは永久に休眠しててね。
「イトは間違えていない。
青信号は『緑色』だよ」
「え、でも...じゃ、何で『青信号』なの?」
「そうだよね。何でかっていうと、昔、ずっと昔...80年くらい前にこの日本に初めて信号機が建てられた時、その時もチャンと緑・黄色・赤の3つの色だったんだけど、新聞が...新聞って分かる?
そう、その紙の、小っちゃな字がバァーッと書いてあるヤツ。
その新聞が80年前に信号機が初めて建った時『青・黄・赤』って書いちゃったんだ。
80年前はテレビも無いし、勿論ネットも無いから、何か新しい事が起きた時、その事を知るには新聞しか方法が無かったんだ。
新聞に載っかる写真もカラーじゃなくてモノクロ...白黒だったから、新聞の写真だけを見ても色が全然分からない。
で、新聞の記事...記事って分かる?
そう、その字がゴチャゴチャ書いてある場所、
そこに『青』って書いてあったから、80年前の人達は『青』色だって信じちゃったんだ」
「その時、昔の人が間違えちゃったんだ?」
「そう。
でも何で緑色を『青』って新聞が書いたのか、っていうと、大昔、80年前よりもずっと昔、1000年よりもっと前、日本の人達は『赤』『黒』『青』『白』っていう4つの色だけを色を表現する時...何て色なのかをいう時に4つの色だけを使ってたんだ」
「...赤と黒と青と、白?」
「そう。
明るい色だから『赤』
暗い色だから『黒』
その2つの赤でも黒でもドッチでもない、ボンヤリした色だから『青』
前の3つとも違った色で、クッキリ、ハッキリした色だから『白』
で、緑、無いじゃん?
じゃ『緑色のモノをいう時に昔の人はどうしたか?』っていうと、緑のモノも『青』って呼んでたんだ。
イヤ、ホントだよ。嘘じゃない。
あのさ、キャベツとか食べる芋虫、分かるかな?」
「知ってるよ、イモムシ。
『はらぺこイモむし ジョー』って絵本で見たから。
菜の花とかキャベツ、パクパク食べるんだって」
 出来したッ! 結衣!
よくぞ、その絵本をイトに与えて置いたな。
素晴らしい。
非常にナイスな展開だ。
「その腹ペコ芋虫のジョーは絵本で、何色だった?」
「緑っ!」
「菜の花とかキャベツを食べる芋虫には別の呼び方...名前があるんだけど、知ってる?」
「うん」イトは少し自慢げに「アオムシっ!」と胸をチョット張り気味に反らした。
「ヒロオのおジイサマが教えてくれた!」
「正解。芋虫のもう1つの名前は青虫、だね」
イトは『エヘッ』と喜びを漏出させたが直後に『アレっ?!?』という表情を浮かべた。
「アオ...ムシ?」
 全ての状況は我がシナリオ通りに進んでいる。何の遅滞事項も発生していない。
「そう。緑色なのに『青』虫、なんだよね」
「...緑のヤツも青っていうんだ?」
「時々。
今はキチンと青色と緑色を区別するけど、昔はそうじゃなかった。
青も緑も一緒の色だったんだ。
その習慣...緑色したモノも『青』って呼んじゃう傾向が...癖がまだ残っていて、
だから緑なのに『青』っていうことがあるんだ。
例えば、緑色のリンゴなのに『青林檎』って呼ぶこと、あるだろ?
緑色の菜っ葉を『青菜』って言ったりしたり、さ」
「あのね...だからコウメ、茶色なのに赤毛なの?」
 凄いや! この娘、5歳なのに既にロジカルに物事を考えられる!
「うん。
そのコウメは柴犬なんだよね?
柴犬の茶色がもう少し濃くて暗かったら『黒毛』になったかも知れないけど、
あの茶色は明るい赤茶色じゃん?
さっき言った様に『赤』って元々、『明』るい色だから『赤』って名前になったんだ。
身体の色が『明るい』茶色だから『赤』毛になったんだ、と思うよ」
オレは責任回避の為には必ず続けるべき『よう知らんけど』という接尾語句は省略して構音せず、飲み下すことにした。ま、間違いだったら、コレを教えてくれた言語学の教授の所為だから、と胸襟の内で言い訳を独りごちた。

やっぱりケンゴだ。
チャイロのコウメが、なんで『アカゲ』なのか、チャンとわかってた。
ケンゴがワタシのおもってたトーリだと、
なんか、うれしくって、くすぐったいカンジがする。
そっか、イロって4つだったんだ。
アカとクロ、アオとシロ、なんだ。
ミドリがアオで、チャイロがアカ。
じゃ、だからミドリいろのジュースなのに『アオジル』っていうのかな?
ジュースのクセに甘くなくて、ニガくてゼンゼンおいしくないけど。
あんまりスキじゃないけど、なんかソウきくと、ちょっとオイシそうなカンジがする。
それは、なんでなのかな?

「ね、ケンゴくん。
青汁も、だから『青』汁なのかな?」
「そうだよ、その通り。
よく判ったね。凄いぞ」
イトは質問の回答を得られると安心した様に再びフグの唐揚げの攻略に務め始めた。
さて、コチラ側のハンバーグも残存量が少ない。ゆっくりと味わう事にしよう。

ケンゴはワタシがケンゴって、よんでもタブンおこらないけど...
ま、イマはいいや、
ケンゴくん、で。
その方がイイってカンジ。
なんとなく、そんなカンジがする。
たぶん、あともうチョットだけ、もうチョットすれば、よべるから。
イマは、いい。
あ、フグさん、おわっちゃった。
おいしいモノって、すぐ、なくなっちゃう。
んー、ケンゴのハンバーグはまだ、のこってる。
んー、ハンバーグ、あとヒトクチだけ、たべたいなぁ。
あのビリビリするヤツじゃなくて、ボヤッとしたシロいソースで...

「ねぇ、ケンゴくん~」
「なんだい?」
 イトの語勢は、アインザッツからY字の岐路に差し掛かり『どっちに行こっかな?』と少し迷っている様に響いたけれど、それでも自分の要望を伝えることだけは忘れなかった。
「あのね...ハンバーグ、もう一口食べたいんだけど...ダメ?」
 他人行儀な遠慮という障壁が薄弱化して、屈託を抱えていない5歳の子供らしい素直な要求事項を耳にした時、自然に両方の口角がスッと上がる自分自身をオレは自覚した。
『コレは、非常に良い傾向だ』
オレは、ハンバーグが載った磁器皿をイトに差し出した。
本当はそのまま黙って我々のお皿を交換しようとしたのだけれど、意図していない言葉が口を衝いて出た。
「ハイ、これ」
その声音が奏でる満腔の慈愛に彩られた優しい響きに自分でも少し、面食らってしまった。
「ありがと」イトは両手でお皿を受け取ると「これ」とフグの唐揚げをオレに寄越した。
 オレは、手渡された陶製の器に眼を落として、少し吃驚。
オレは一旦イトの顔を見上げてからもう一回、唐揚げに眼を落とした。
『ちょっと、イトさん、唐揚げ、骨しか残ってないんだけど』
器に敷かれた懐紙の上には見るも無残な、無慈悲なほど齧り付くされた残骸だけが残されている。『イトさん、あなたは海辺の田舎のお婆ちゃんですか?』って位、綺麗に骨だけ。
恐らく餓死寸前のコンドルでも見向きもしねぇよ、こんなの。
え、イトさんよ。赤城さんトコでサンドブラスト処理したみたいにピカピカじゃねェか。
サバンナを単身放浪中で、たとえ一週間飲まず食わずのジャッカルであってもチラ見すらしないで完璧スルーすると思うよ、コレは。
でも、満足したかい?
 オレは孤独なジャッカルではないので、我が娘の振舞いを観察する為にチラ見した。
イトはハンバーグ、最後の一切れに白いババガヌーシュの装飾を施そうとしていた。
彼女からは何の余念も感じ取れず、ただ無心の行為である、と窺うことができる。
 その事が無性に、嬉しかった。
何故だか、その理由はサッパリだったが。

「はい、これ」ってケンゴがハンバーグをくれたから「ありがと」っていった。
なんか、おサラがイッパイあって目のまえがゴチャゴチャしてるから、ジャマだな。
だから「これ」っていって、ケンゴにフグさんのおサラをあげた。
コウメみたいにカジカジしてたら、アレってカンジですぐにホネだけになっちゃってて、もうオワっちゃってるから『ケンゴ、なんていうかな?』っておもってたけど、ケンゴ、ナニもいわない。のんびりしたカンジの、いつものケンゴで、フツーにわらってる。
なんだろ?
ケンゴって、おこるコトあるのかな?
ママなんか、すぐにオコったり、パッとワラったり、スゴクいそがしいけど...
2りはゼンゼンちがう。
ママとケンゴ、
むかしは2りでイッショにいたって、ママがいってたけど、ダイジョブだったのかな?
ホントに、ゼンゼンちがうんだけど...
でも、どうかな?
ワタシとケンゴ、
2りでイッショにいたら、けっこうイイかんじ、だとおもうんだけど、どうなのかな?
うーん...
あ、ハンバーグ、たべよっと。

 イトが三ヶ日牛のハンバーグ、最後の一切れを口にポイッと放り込んだ。
最初の一口の衝撃度と比較すれば料理のインパクト自体は流石に薄れた様子が垣間見える。
ソレは当然っちゃ当然のことだ。
所謂、限界効用逓減の法則、というヤツだ。(注1)
 しかし、その法則の作用効果は不十分だったようで、イトが十分に満足している光景がオレの網膜に映った。ま、美味いモノは幾ら喰っても美味いって事に違いは生じない。
ただ、二口目からは最初に受けた感動が得られなくなるだけの話なのだ。
美味さ、それ自体には何の変動も起こらない。脱感作、単に脳が慣れちゃうだけなんだね。
 さて、と。
フグさんの唐揚げは完全に消失しているから、他の料理をやっつける事にすっか。
森町産の次郎柿と春菊のサラダ、これなんか良くないか?
九谷の彩色金襴手(赤絵金襴手ってヤツ?)の小鉢に箸を伸ばそうとした時『KINPARA』さんの言い残した言葉が、何の前触れも無く皮質の言語領域にパッと蘇った。

『お料理、なるだけゆっくりと召し上がって下さい』
『エッ?』不意を衝く言葉だったので、正直オレは軽い驚愕に襲われてしまった。
『そうですね、できる限り時間を掛ける感じで。悠々と料理を味わって下さい』
『個室を予約した折にはケツ...次のお客さん達の組が控えているので2時間をリミットとして欲しいと、言われたのですけども?』
『その事は、どうかお気に為さらないで下さい。それに関しましてはコチラ側が一切合財全ての責任を持ちましてアレンジメントを施します。
六分儀様は、何の心配も為さる必要は全くありません。
とにかく、ゆっくりとお召し上がり下さい』

 全く以って彼女の発現の意味がサッパリ理解できなかった。
何故、食事のペースを指示されなければならないのか?
しかも、可能な限り『ゆっくり』だと?
 この割烹処『汽水亭』には10室ほどの個室が設えてあるようだが、オレ達のいる部屋を含めて全ての客房は各々、宿泊客達の軍団によって占拠されている。つまり満室だった。
時間的な流れを考慮しても、あと一回転くらいはさせられる可能性は高かった。というか、売上げ面の事を経済学の基本に照合してみたら、回転率を上げる方が正解とされるだろう。
 だから、彼女の発言が一体どういう意図の許で為されたのか?
オレには皆目、見当が付かなかった
ウーン...
ま、いっか。
幾ら考えても解答が得られない問題について人間が出来得る対処法は、考えないことだ。
だから料理の摂取に鋭意専心することにして、オレは眼の前の料理を見渡した。
 オレの割り当てを見た。
今夜の食事の主要なプレイヤーの姿が既にフワッと消失している現状が確認できた。
我ながら人として相当に意地汚い振舞いだと思うし、父親という立場からしても『如何か?』と感じるけれど、イトの配分にも目を配った。ま、言い訳めいた事になるが直面する状況を正確に把握する為にはコレも必要不可欠な作業だ。何しろ、オレは彼女の残飯の整理も担当しなければならないのだから、そういう慎重な態度が肝要なのである。えへん。
 ウーム...
確かにイトには『食べたいモノを食べたいだけ、食べたい様に喰え』と伝えたけれども、彼女の喰いっぷりはある意味で極めて見事な所業と評価できるだろう。
黒鶏プレノワールのパートフィロ包みは胸肉がその姿を掻き消しており、その脇を固めるインゲンとカブ、トマト等付け合せの野菜だけが辛うじて残されている。しかし、彼女の嗜好傾向をチロッと分析した結果、これ等の野菜も早晩失踪者名簿にその名を掲載される事は先ず間違いのない所だろう。
 ホゲットの香草焼きも既に全滅。横に添えられてガルニ的な役割を担わされたキノコ類が陶板の上に置き去りにされているのみ。その隔絶的な佇まいが寂寥感を漂わせていた。
イト、キノコが苦手なのだろうか?
でも、ハモとバカマツタケのシャブシャブ風の小鍋仕立てにおいては、鱧と早茸の両者が完全蒸発してるし。イトさん、ホゲットの従者であるブナシメジも結構美味しいんですよ。
あら、杉板のスズキさんは一体どちらへ行方を晦ましたのだろうか?
イトのヤツ、美味い喰い物の本当に美味い部分だけを選りすぐった様に綺麗に平らげていやがる。
ウーム、この娘、誰に似たんだろう?
確かに思考の傾向はオレに、若干ではあるが、似てはいるかも知れない
しかし彼女の母親、つまり結衣がパートナーに選択したということを酌量した時、いまだその顔を知らぬ(父親候補者のカウンターパートである)健爾さんもオレと相似的な思考形態を備えている蓋然性は頗る高い。
<都合が悪い要素が湧起すると、すぐコレだ。責任回避も甚だしい。
先程まで織の父親は何があろうとも自分だと力説していたのは、誰だったっけ?>
 久方振りのミスターの登場は横に措くとして、座卓の天板の上に配備された食糧物資の残存量、決して多くは無かった。
『悠々と、ねぇ~?』
じゃ、ご飯にすっか。
厳重に『熱いぞ!』と注意喚起までされたチンチコチン(『熱い』の最上級@名古屋弁)のご飯を装うために自分に割り当てられた茶碗を取り上げかけたその時、障子戸に残された手掛かりの隙間から「失礼します」という最早馴染を覚えた声が部屋の内へと響いた。
 イトを除けばオレにとって駿河湾以西で一番親和性の高い人物である美穂子、じゃない、『KINPARA』さんだった。
甲斐甲斐しくサーブを働いてくれた先だってと大きく異なる点が1つ。
それは彼女の背後にエヴァンゲリヲン参號機の様な漆黒の陰翳の存在があったコトだった。
ハシビロコウ氏だった。
えっと、この人の本名、何だったっけ?
井之頭五郎、じゃない。
もちろん松重豊でもないし...多分あの身長188の松重さんよりも見た目巨大っぽいし、な。まぁ、松重さん本人にお会いした事など無いから本当の事は解らないのだけれど...
えーと、この人、名前、何だったっけ?
『KINPARA』さんの背後だから隠れちゃってて名札が見えないよ。
サ...サ・何とかだ。
サ...佐伯は違う。それは結衣の苗字だ。
ウーン...
こうなったらアから50音を最初から一文字ずつなぞって行くしかないな。
ア...イ...ウ...エ...オ...あ行には答え無し。
カ...キ...ク...ケ...コ...無し。
サ...サ...サ...サァ...
んぁあ? オレは一体何をしてんだ?
名前を思い出すだなんて枝葉末節な作業は後回しにするべきだろうが。
そんなことより、この人が一体何しに来たんだってことの方だろ、今解消すべき優先事項なのは。
ウーン、本当にハシビロコウさんは何しに来たんだろう?
何かオレ、ミスったっけ?
そう思った直後、ハシビロコウさんがその巨大な体躯に不釣り合いな行動を採った。
 『KINPARA』さんの後ろから横にズレてその巨体の全貌を顕わにするや否や、オレ達に向って深々と頭を下げたのだった。
それは映画やドラマなど虚構の中でしか見た事が無い、腰をピボットピンとして上半身をちょっきり90度に折り曲げた文字通りの平身低頭の最敬礼、謝罪としては最高レベルの平身低頭だった。

「本当に申し訳ありませんでしたっ!」
唾が飛沫となって拡散波動砲の様に飛び散る勢いだった。しかしハシビロコウさんは深々と頭を下げていたので、その唾しぶきの洗礼を浴びずには済んだことは一種の僥倖だった。
「先程このキンパラから指摘がありまして...えー、調査をいたしました結果、当ホテル内で重大な連絡ミスがあったという事実が発覚いたしました」彼は一旦、頭を上げてから再び最大深度で最上級のお辞儀をした。「誠に、誠に申し訳ございませんでしたっ!」
 一見の飛び込み客に対して彼が大袈裟過ぎるとも思える謝罪をしなければならない理由、オレには心当たりが無かった。一応グルッと記憶の書架を検索してみたものの、結局それらしいタイトル名のファイルは発見できなかった。だから正直、戸惑いを隠せなかった。
「エッと...何か...ありましたか?」
 ハシビロコウさんは腰を90度に屈曲させたまま、顔だけをグイッと起こした。
ウワッ、眼が血走ってる。
「六分儀様からご予約のお電話を頂戴いたしました時『1人分の料理を子供用にアレンジして欲しい』とお言葉を承ったことは事実でございます。
予約の係りの者もその旨をシッカリと当ホテルのイントラネットに...館内の情報網に上げたことを記憶しておりまして...コンピューターの記録にもシッカリと残されておりました。しかしながら、どういう具合か、お嬢様の為の料理をご用意する手配がその連絡網を伝達する間に、何処かの隙間に迷い込んでしまいまして、板場...キッチンの方に情報が降りて行きませんでして...それで結局、お嬢様の料理がご用意できませんでした。
お嬢様のお食事の手配が出来なかった事に関しまして、全てはコチラ側の不手際、手違いでございまして...
大変、大変、申し訳ございませんでしたっ!」
 えっと、唾が飛ぶって、おじさん。
それに形相が『怖い』を通り越して、相手を『慄然』とさせる険相になっちゃってるし。
ただでさえその存在が恐怖の源泉地なんだから、さ。
デカいってのは、それだけで『怖い』んですよ、ハシビロコウさん。
 イトだって、ビックリして吃逆しちゃってるかも...
確認の為に一瞥すると、周囲の状況に構う事無く平然と箸を使い続けているイトがいた。
この娘、結構肝が太くてドンって座ってるタイプだなぁ。
最初の頃に受けた『か弱い』って印象がここに来て随分と違ってきちゃったけど...
ま、いっか。
変貌の方向自体は悪いベクトルじゃないし。
おぉ、すっぽん汁か、それ美味いよ。じゅん菜のツルッとした感触が面白いだろ?
 イヤ、そんなことは今、措いておかないと。
しかし、料理の子供向けアレンジ失念問題だったのか。
物凄い真剣な眼差しだったから、誰か人でも殺めたのかとまで思ってしまった。
ま、その問題は結局の所、イトが大人舌ってこともあって既に万事解決したんだが...
 でもホントにこの人、名前、何だったっけ?
それよりもホントに『KINPARA』さんって『キンパラ』さん、なんだな...
「イエ、手違いというのは何時でも何処でも起こり得るものですし、
幸いというか、この娘は舌...食の好みが大人っぽくて、ですから一般のお料理でも何の不都合も生じませんでした。
そういう訳で、副支配人さんがそんなに気を病む必要はありません」
 役職は憶えてるんだけどな、名前が...なぁ...
名札が視認できさえすれば...ハシビロコウさん身体、カクッと折り曲げちゃってるから、どうやっても視界の中に名札を入れれないんだよなぁ。
「しかしながら、追加の注文を為さったという事は、それなりの不都合が生じたという事ではないのでしょうか?」副支配人の四角い字面の再質問が折り返されてきた。
「追加で注文した訳はご飯のお供として、でして。
私は最初、白いご飯を頂けるものだとばかり、勘違いをしておりましたので。
まぁ、ご飯自体が一個のチャンとしたお料理、フグ飯とかつお節ご飯だったということに後で気付いて、一瞬『どうかな?』と思ったことは、まぁ、思ったのですが...
結局、娘は追加で頼んだフグの唐揚げと三ヶ日牛のハンバーグに夢中でしたし。
もちろん他のお料理にも物凄く喰い付きが良くってですね、
ホラ、こんな具合です」オレは眼をイトに向けた。釣られる様にハシビロコウさんと『KINPARA』さんの視線の投影先も自然と、我が娘へ移行した。
すると視線が集まったことを察知したのか、イトが『ん?』という感じで顔を上げた。
ちょうどクルンと丸まったサユリさんじゃなくてサヨリのお刺身を頬張った所だった。
うひゃっ!
マズい。
イトのヤツ、結果的に結構な醜態を晒しちゃってる。
イヤ、確かにそのエンピツサイズのサヨリは美味いけども...(注3)
ホラホラ、尻尾の部分が口の端からチョット垂れてるぞ、バクッと豪快に放り込むからだ。
すると、二度仕込みの醤油がタラーッとイトの口許から顎へと流れ落ちていった。
彼女は顎を伝って滴り落ちる醤油に気付いたのか、飛び出した尻尾を口に急いで格納するとお絞りで醤油の涙を拭い取った。そして自分の上に収斂した大人達の視線に困惑した様に『えへっ♪』と曖昧な頬笑を浮かべた。
 オレとハシビロコウ氏の間の時空間に充満し始めた妙な緊張感が、彼女の微笑みを核とすることによってサッと反転して凝集へと向った。だから、雰囲気がほんのチョットだけ和らいだ、様な気がした。
 えーと、とりあえずはこの場を取り繕う為だけにでも何かを言葉にして発しないと...
「えー...と、とにかく...こーゆー具合ですので、ご心配は無用です」
 足許に魚影を認めたかの如く、オレのその言葉に反応してハシビロコウ氏が、イトから凝視の焦点を移して来た。彼が身体を起こした。その巨大さに一瞬眩惑してクラッとした。
「お言葉を返すというご無礼をどうかお許しください、六分儀様」
太い鉄芯が一本、ズボッと貫入した語勢だった。
「人が過ちを犯した時は、真摯な反省をすると共に心からの謝罪をしなければなりません。
私共の様なサービスを提供する立場から致しますとお客様からご依頼を忘れるような行為など、決してあってはならない不祥事、いえ、絶対にあるまじき失態なのでございます。
延いてはそれはお客様の信頼を裏切る行為へと繋がって参ります」
 そんな大袈裟な...
たかが、子供用の料理の手配という注文が履行されなかっただけじゃないか。
その子がアレルギーとかの一種シリアスな問題を抱えていたなら話は別になるけど、そういう状況では全然無かった訳だし...
しかも、だ。
何か月も前から予約してた太い常連客ではなくて、当日の昼に突然予約の電話をしてきたジャンピング、つまり飛び込みの一見の客、じゃないか。
そんな『風よ吹けっ! 頬が避けるまでっ!』みたいな悲壮な態度で臨むような状況では、決してない、ですよ、ハシビロコウさん。
 オレは、この四角四面なダイアモンド並の硬度の堅物を少しばかり持て余し始めていた。
しかし、謹厳実直の前に『超』という文字が10個位冠された猛禽類系石部金吉は相手の胸襟の内を推し量るという概念は全く持ち合わせていないかのように、謝罪することのみに自分自身を邁進させ続けるのであった。
 ヤレヤレ...
悪気は無いのは判るんだけど...
<こういう状況では、悪気が無い方が余っ程始末に負えんのだよ、つくづく>
「当ホテルといたしましては、この過ちを重大インシデントと捉えるべく...え、事後策を措置して行かねばならないと...2度と同じ過誤を繰返さない為にも...えー...
もしも、ですね、六分儀様の大切なお嬢様がアレルギーなどを抱えておられた場合、大変な事故に繋がりかねないわけでして...えー、あっ、お、お、おお、お、お嬢様にですね、ご予約を承った時に六分儀様からお申し出はなかったと記録に残されておりましたが、あ、あ、あ、あ、アレ...アレルギーなどの...そのような疾患を...ですね...あっ!
あ、あ、あ、あ、あ、ああああ、アレルギーとかの...」精神的な混濁が言語野、特に運動機能を司るブローカ野を作動不良に陥らせた様で、ハシビロコウ氏の口調が大いに乱れた。
『この人、想定外の事象が突発的に生じた場合に何も手に付かずオタオタ狼狽だけをするタイプなのかも知れないな』と、ハシビロコウ氏がその身体付きからは想像も付かない、まるで壊れたゼンマイ仕掛けの人形の様にカクカクと巨体をぎこちなく揺らし続けている光景を唖然惘然と見ていた。パニック症状って、こーゆー状態を言うんだろうか?
あー、こりゃ、助け舟はコチラ側から出さないと、ダメだな。
「安心して下さい。大丈夫です。私の娘に食物アレルギーはありませんから」
この言葉を契機として精神の整調が漸く正立状態になったらしく、ハシビロコウ氏の視線の焦点が再びオレの顔面上で結び直された。
「そ...それは不幸中の幸い、というよりもまさに僥倖...でした」若干の淀みは所々に認められるものの、彼の言葉遣いからは時化の不安定性はほぼ払拭されていた。
 吹き荒ぶ嵐の様な動揺から帰還した上司の顔を覗き上げる格好で『KINPARA』さんが
「一件落着で、良かったですね」と慰撫する言葉を発した。口許にアルカイックスマイルを湛えていた。
「それは違う、キンパラ君。
まだ全然終わっていない。いや、寧ろまだ、始まってもいないのだ」
ハシビロコウ氏はその鳥類的な眼差しを傍らに立つ『KINPARA』さんにチロッと一瞥を走らせた。アレッ? そういや、確か、以前行われた分類法の改定で鳥類は爬虫類の一部とされたのではなかったっけ?
<そういう細かい所は、今はいいからって。ま、確かに鳥類は恐竜類だけどな>
「ですから、大丈夫です。全然問題ではありません。本当にお気に為さらないで下さい」
「いえっ! それでは当ホテルとして、いやっ! 私個人としての気持ちが治まりません!」
その画然とした物言いが少しだけ...イヤ、結構、怖かった。

「おいしかった?」
ミッカビギューのハンバーグのおサラと、フグさんのカラアゲのおサラをかたづけながら、おネエさんがきいてきた。
とってもおいしかったから「うん」って、コクンってした。
そしたら「よかった」って、おネエさんがわらった。
このおネエさん、なんかコエとかのカンジが、ちょっとだけRさんに、にてる。
なんか、とってもやさしいコエ。
だから、かな?
さっきケンゴがボーッとみとれてたの。
Rさんのコエみたいだったから、かな?
でも、Rさんって、ダレだ?
クルマ、なんだよね、Rさんって。
ナンか、へんだな?
ん?
ドコがへん、なんだろう?
ナニがへん、なんだっけ?
 Rさんって、ケンゴのナニ?

「それではこちらのお皿をお下げしてもよろしいですか?」
全く想定していない言葉にオレは虚をポンと衝かれて一瞬だが『エッ!』とフリーズした。
台詞が余りにもこの状況のTPOにそぐわない、『そぐわない』はニュアンスが少し違うか、ウーンともうチョット適切な単語はっと、えー、嵌合していない言葉だったから、だ。
 ミリ秒単位の脳機能不全からサッと回復したオレが声が発せられた方向に視線を送ると、『KINPARA』さんがイトの前のお皿、三ヶ日牛のハンバーグが載せられていた器と、オレの前に置かれた器、パッと見に『骨格標本か?』ってほど見事に身の研削作業が為されたフグさんの遺骨が鎮座させられたお皿を、交互に右手で指し示していた。
 イトの前の白磁のお皿の搭載物件を確認して、少し吃驚。
ハンバーグ本体が消失しているのは、まぁ、理解できる。
飛び切りに美味いからな。
だが、そこに添えられた付け合わせのマッシュポテトとニンジンの甘煮、そしてパリッとしたクレソンの姿まで根刮ぎ掻き消えていたからだ。
イヤ、確かにそのマッシュポテトは素晴らしい。非常にクリーミーで滑らかな舌触りは、官能的とも表現できる位だし、コテッとした発酵バターが修飾する厚みのある馥郁な円い味合い。バケツ一杯くらい、ガバッと楽に喰えるほどの美味さだ(った)。
 もうこの世に存在してないから、過去形で表現しなければならないのが、辛く切ない。
甘く煮られたニンジンも嫌味ったらしくない品の良い甘さ、ニンジン自体の本質的な甘さを生かしたキャロット・グラッセだ(った)。
<They have gone.>
だが、子供のクセに全部平らげちまうか?
その小っちゃくて細っい身体の一体何処へ収納されたんだよ?
イトさんや、アンタはギャル曽根か?
そのマッシュポテトとキャロット・グラッセ、残されるものとばかり思っていた。だから、落胆の度合いがソコソコ激しい。ホントに食べたかったのに...
<Poor Kengo is gone.>
 ま、この娘の母親である結衣も女性としたら喰う方だから、デカくなる女性はそういうモノなのかも知れない。時々結衣は、高校時代の同級生で早弁常習者でもあった梅澤さん(女子)にも負けず劣らずの喰いっぷりの良さを披露したものだったから、なぁ。
『キミは甲子園を目指している高校野球部員ですか?』って質問が咽喉まで出掛かる位に大量の喰い物を胃の腑に収めてケロッとしてたもんなぁ。
 そっか、そういや、そうだった。
結衣、ジャガイモ、大好きだったっけ。
だからイトにとっても、ジャガイモ関係は好物なのかも知れん。
だが、あぁ、そのマッシュポテトは...
 ま、しかし、なんだな。
イトの前に置かれてるのがハンバーグのお皿で、これ幸い、だったな。
オレは、自分の手前に静かに視線を落とした。
そこには哀れなるフグさんの遺骸を搭載した器が...
 フゥ、よかった。
まるでカンディル、幽玄なるアマゾンの河底に身を潜める餓利餓利亡者の餓鬼の様な食肉ナマズが貪り尽くした如くの惨状をイトの仕業だと知られた日にゃ、新米パパとして、だ、立つ瀬がトンと見付けられない。増水時の多摩川の様だ、よ。
「よろしい、ですか?」
『KINPARA』さんの穏やかだが截然とした声が再び、オレの耳朶を優しく叩いた。
オレが『ハァ』というパラ言語にすら分類できない気の抜けたサイダーの様な返答を漏出すると『KINPARA』さんが、問題のフグの唐揚げの残骸が載った器とハンバーグのお皿をサッと取り上げた。彼女は両方の器の上の内容に視線を落とし確認した後で『あら、ま、こんなに綺麗に齧り尽くしているなんて、このフグの唐揚げが随分と気に入ったみたい』という表情を浮かべながら「美味しかった?」と、オレではなく、イトに尋ねた。
 本当に、この人、オレの心を読んでるんじゃないのか?
イトが何故か恥ずかしげな感じで「うん」とイトが首肯した。先ほど沙織さんに見せた表情と寸分違わぬ、喜色に満ちた面持だった。
 何だ、おい?
オレにはそんな表情、ついぞ見せたこと無いじゃんか?
<この自分の娘(仮称)と邂逅して何日目だ? おい?>
そんな事言うなら、この『KINPARA』さんと出逢ってからの経過時間、ほんの数十分だぜ?
<彼女は女性だ>
その表現は同義語の不要な重複だ。ヨギ・ベラか、お前さんは?
「ハンバーグとフグの唐揚げ、どっちが、好き?」
「えっと、ねぇ...」
『理由など、どうでもイイから、ハンバーグって、言えっ!』
「フグさんっ!」
「あら、まぁ、そう」
そう言いながら『KINPARA』さんは再びフグさんの遺骸を搭載した器に眼を落として、ふふっと微笑みを漏らした。
 こりゃ、完璧にバレてるな。
イト、そんなに嬉しそうにキャッキャッて朗らかにしてる場合じゃないぞ。
とんでもなく食い意地が張った子供だって誤解されちまってるかも知れないんだぞ。
...全然誤解、じゃないけども、だ...
イトが意地汚く思われるのはチョット不本意だが、彼女の嬉しそうな相貌を眺めている内に、分解者達が縦横無尽に自分等の仕事をこなした最高傑作の様に、綺麗サッパリと斫り出されたフグさんの骸骨だけが残された器に対する羞恥にも似た類いの情動がスッと薄くなっていく様にも感じられた。
 ま、しかし、なんだな。
『KINPARA』さん、この人なら仮令バレても構わない、か。
 イトと『KINPARA』さんが会話を交わしている光景を傍から見て、思った。
『KINPARA』さん、この人は子供をチャンと子供として扱ってくれる。
マニュアルに記載された通りの大人用の馬鹿丁寧な言葉をそのまま子供に対して使わない。
彼女の挙動・言動がこの場に即応していて、とても自然な振舞いとしてオレの眼に映る。
やはり『KINPARA』さんは『プロ』なんだ、と痛感した。
 そしてオレはイトの、屈託というモノをその表情の何処にも見い出せないその朗らかな顔と『KINPARA』さんの優しい微笑みを携えた顔を見比べながら、また別の事を思った。
『この土地に到着する以前のイトと今現在のイトを比較対照した場合に、全くの同一人物であると認識できる人間は、果たしてこの世界に存在し得るのだろうか?』と。
まるで蝶がその発達過程で見せる完全変態の様だ。
彼女からこの刷新とも表現可能な『変身』を引き出したのはこの地の、精神を思いっ切り展延できる温泉と五臓六腑の隅々まで浸透する桁外れに美味しい料理との合わせ技、なのだろうか?
 確かに心身両方ともスラッと伸びやかにする温泉に浸かり、美味い物を一杯、腹がはち切れんばかりに喰ったら、この世の幸福を感じない人はいない、はずだ。
だが、ソレだけなのだろうか?
何か、他の要素があるのでは、ないのだろうか?
 オレは、その問題に対する解を探し倦ねて少しだけ、当惑していた。

 Rさんみたいなコエのおネエさんが、おサラをかたづけながら、きいてきた。
「ハンバーグとフグの唐揚げ、どっちが、好き?」
 どっち?
ハンバーグとフグさん、か?
どっちもスッゴクおいしかったけど、なぁ...
パっと1ばんにおもったのは、フグさんだった。
けど、ハンバーグもチョーおいしかったし...
だからナカナカ、きめられないよ。
ウーンとかんがえなきゃダメだったから「えっと、ねぇ...」っていってて、そのあいだにグーンとかんがえた。
 おネエさんのカオをみながら、かんがえた。
おネエさん、あったかいってカンジのカオ、してる。
ウーン...
ハンバーグ、チョーおいしかったけどぉ...ヤッパリ、しあわせの音、ならなかったから...
やっぱり、フグさん、かなぁ?
 だから、
「フグさんっ!」
「あら、まぁ、そう」
 おネエさん、そういってから、もってたおサラをピョコってみて、そして「ふふふっ」ってワラッた。なんか、やわらかいってカンジのわらいカタ、だった。
カプカプってカンジのわらいカタ。
すこしだけ、だけど、レイにスコシだけ、にてる。
って、ワタシはそうおもった。

「何をしているんだ、キンパラ君?
君の今の行動はこの場に完璧にそぐわない、と思うのだが。
今はお皿を下げる時では、今はそれ所ではない、そういう場合ではない筈だと私は思うが?」
完璧に予想外の『KINPARA』さんの行動に精神状態を揺動させられたのか、ハシビロコウ氏の語気は微かに震えていた。
「でも、お済ませになった器を除けてテーブルの場所を開けておかないと次の料理を置く為の隙間すら全然ありませんよ、佐分利さん」
 あ、そうだ!
ハシビロコウ氏の名前、佐分利、だった。
あー、良かった。
これで今夜もグッスリ眠れるぞ!
サンキュー、ナイスな展開を有難う『KINPARA』さん。
 んぁ?
今『KINPARA』さん、妙なこと言わなかったっけ?
『次の料理』ですか?
彼女が発した言葉の群れの中の一個に、オレの意識が呼び止められた。
 オレは確認するために座卓の天板上にズラッと並置された各種の器を眺め回した。
かなりの壮観な佳景である。確かに『KINPARA』さんのいう事は正しい。隙間ですら全く見付けられない。ギチギチな感じで大量の器がテーブル上に配置されている。
ま、ほとんど全ての器、中身が昇天しているのが些か気恥ずかしい所ではあるけども、だ。
<貪食の徒のなせる業、だな>
様々な形状・大きさの器が『ほぼ立錐の余地なし』って感じで配置された一種偉大な瞰望を観望した後で、彼女の言葉を契機としてごく自然に1つの疑問が湧き上がってきたことを再び強く自覚した。
『次の料理だと? 確かこれ以上、頼んでないはずだけど、な?』
この、フッと湧いて出た疑問を解決する一番簡単な方法をオレは選択した。
それはハシビロコウ氏改め佐分利副支配人さんに尋ねる、という直截な行動だった。

 オレの単刀直入な質問に佐分利副支配人は一瞬の躊躇を見せただけだった。
「えっと、ですね」佐分利副支配人はその見た目とは裏腹に慎重かつ手探りの物言いで話を始めた。「こちらのキンパラとも相談して事後収拾策を勘案致しました所、浜名湖名産の『ドウマン』を、ですね、ささやかなお詫びとして提供するのが良いのではないかと...そういう結論に至りまして...えっと、そういう訳でして...その...」副支配人さんは、湖底に溜まった泥の中に蟄居するアサリを目隠し状態で掻き探るような語り口だった。
そして最後の方になると、お悔やみを述べる時の定法を踏むみたいな感じになり口腔内で言葉の群れをムニュムニュと圧搾してしまい、彼の声音は聞き取れない程まで減衰されてしまった。身体のサイズと声のボリュームの釣合いが全く取れてない。
ま、唾の弾丸が掃射されないだけ、マシな方なのか。
 しかし彼の意図する事はよく理解できた。
オレのオーダーを失念した事のお詫びに何らかの料理を提供させてくれ、ってか。
別にイイのに、そんなコト。ホントに、さ。
こっちは別に困らなかったんだから、結果オーライで。
 しかし、ドウマン?
何だ、ソレ?
確か今、佐分利副支配人は浜名湖名産と言ったな?
ってことは、少なくとも海産物、魚介類の類いであることは、まず間違いのない所だ。
しかしながら情報・知識不足でそれ以上の類推が効かんな。
 よし、もう一度正面突破の剥き出しの質問攻撃だ。
「ドウマンとは、何ですか?」
 佐分利副支配人は見えざる突き棒に小突かれた様にハッとした。その巨躯が一瞬だけ、ピクッと痙攣したのが認識できた。
「えっ、と、ですね...ドウマンとは浜名湖周辺での呼び名でございまして、一般的にはトゲノコギリガザミと呼称されているそうです」
「ガザミ...ということは蟹、の一種ですか?」オレは質問を折り返した。
「はい、カニでございます。ズワイガニの様に底をガサガサ這いまわるタイプのカニではなくて、泳ぎ回るタイプのワタリガニになります」佐分利副支配人が説明をした。
すると上司の説明不足を補完する様に『KINPARA』さんが横から言い添える。
「あ、でもトゲノコギリガザミは泥に巣穴を掘って、その中で暮らしているそうですけど」
「えっ? そうなの?」不足分を付加された副支配人の挙動が僅かに乱れた。澄ました顔で横に立つ『KINPARA』さんに視線を落とした。彼は吃驚した表情を隠していない。
 何事も無かった様に『KINPARA』さんはオレ達から視線を動かさず、補完作業を続ける。
「泥の穴の中に住むカニだから、英語では『mud crab』と言うそうです。
ただ、浜名湖のトゲノコギリガザミは環境の関係で泳くことが主体のカニ生活を強要されているみたいですけども」蠱惑的な微笑を口許に湛えながら彼女は再び『ふふ』と漏らす。
そして続きを語った。
「何故ここら周辺で『ドウマン』と呼ぶか? ですが、
後ほど現物をご覧いただければ一目瞭然です。
このカニの甲羅、胴体の部分が特徴的に丸い事から『胴丸い』から『胴丸』へ。
そして『胴丸』が最終的に『ドウマン』へと変化したそうです」
「えっ! そうなの? キンパラ君?」再び揺らめく副支配人の巨躯。虚を衝かれたのか、キョトンとした表情に相貌を変化させながら、脇に立つ部下の顔を見降ろした。
『KINPARA』さんはシレッと「そうです」とだけ彼に告げてからオレ達の方に向き直り、再び『ドウマン』についてのTIPを披露し始めた。
「日本でトゲノコギリガザミが漁獲されるのは沖縄と高知そしてここ、浜名湖の計3ヶ所なんです。一応、漁場としては浜名湖が北限となっているみたいです」
 アレッ?
ノコギリガザミなら、確か、伊豆半島の下田あたりでも獲れる筈だったけど。
記憶違いだったかな?
もしかしたら単なるワタリガニだったかも知れないが。
 オレは記憶の書架を渉猟した。小学校4年の時に家族で宿泊した下田市の民宿。夜ご飯として振る舞われたのは豪勢な海の幸で、ソコには真っ赤に蒸し上げられた巨大な泳ぐ蟹タイプのカニが座卓の中央部にドデーンと鎮座していた、その光景を思い返していた。
あの時、民宿のオバちゃんは確か『ノコギリガザミ』と説明した憶えがあるのだけれども。
 違ったかな?
『この蟹は中々獲れんでね。特にこんだけ大っきいヤツは珍しいっちゃ』
『どこでとれるの?』
『稲生沢川って川の河口っちゃね。海との境目辺りで獲れるっちゃ』
オレの聴覚野で発火が起き、オバちゃんの声が鮮やかに蘇った、気がした。
 回生されたそのオバちゃんの言葉を真昼の幻影の如くフッと吹き消しながら、重なる様に上塗りをしていく『KINPARA』さんの聲。とても懐かしい声音が耳朶を優しく叩く。
「お国自慢に響くかも知れませんけど、高知や沖縄に比べると浜名湖のドウマンは豊富で良質なエサに恵まれてるせいか、あ、あとトゲノコギリガザミにとっては浜名湖って少し水温が低めの、言わば彼らにとって極限環境に近いらしくて、その関係もあってか、ここのドウマンは他の海域よりも旨味とか甘味がより濃厚になるんだそうです。
水揚げの量が元々そんなに多くないので『幻のカニ』とか呼ばれてたりもします」
 佐分利副支配人の相貌に『へぇ、そうなの?』という表情が先程から浮かびっ放しだ。
非常に興味深い現象だと思ったが、ソレを考慮する事無くオレは『KINPARA』さんに質問をした。「それなら、そのカニはとても高価なモノになるのではないでしょうか?」
それに対する返答としての言葉の一群は、2時の方向、右斜め上方から降ってきた。
「その点に付きましては六分儀様が御心配なさる必要は全く一切、御無用で御座います」
オレの質問に対して佐分利副支配人は、躊躇いの素振りすら垣間見せる事も無かった。
やや喰い気味の、即答だった。
しかし、えー、ま、矢鱈滅多羅に『御』が多いんですよ、オジサン。
その分だと直に、オレの苗字の前にも『御』を付けそうな、そんな雰囲気満載なんだけど。
『御』六分儀様?
ゾッとせんな。
<御御御付け、じゃないんだから>
「ドウマンは、確かに高級食材であることに間違いはございませんが、これは私どもの、ほんの形ばかりのお詫びの一つに過ぎません。
『謝罪は至誠の精神を以って、せよ』
そう仰った先人がおられましたが、全くその通りでございます」
 至誠...ねぇ。
それって、ジイちゃんが言いそうなフレーズだな。
 佐分利副支配人の口調からは、彼の内側に抱えていた精神的な揺動が綺麗に払拭されたことが容易に窺えた。『人は依拠する堅固な基盤が確保できれば、その人の立ち居振る舞いというモノは安定する』って昔、ジイちゃんに教わったけど、その通りだな。
昔読んだ、ある小説の一節も脳裏に一瞬だけ蘇ってサッと消えた。
『人の振舞いの基盤は、強固な岩盤の場合もあれば、軟弱な沼沢の場合もある』
彼は今、謝罪を為すことは自分自身の使命である、という確固たる信念を振舞いの基盤と設定しているのだ、と思う。だから強固な岩盤にスックと根差すハシビロコウの、猛禽類の猛々しさが復活してきているのだ。ま、ハシビロコウの棲息場所は沼沢なんだけども。
<あのさ『根差す』って植物に適用する言葉だぞ。
そこは『佇まいがシャッキリと屹立した』とかの表現の方が適切なんじゃないのか?>
そうだ、基盤だ。
人間には基盤が必要なのだ、固い岩盤の様な。
この相対的で曖昧模糊とした宇宙の時空間内で確固とした歩みを進めるためには絶対的な基準点が必要になる。オレは、周囲の喧噪を全く意に介さず黙々と料理をやっつけ続けるイトの相貌にチラッと一瞥を送った。彼女の顔を視認して後、下腹を震央と為して暖かい波紋が身体中に拡散するのを感じた。
 そしてその喧騒の発生源である副支配人さんの口舌に、より一層のドライブが掛かった。
「至誠...そうです、至誠です。誠実さが一番大事なのでございます、六分儀様っ!」
それはナイアガラ瀑布の様な怒涛な勢いだった。「私ども、このホテルで最も重要なことは料理のクオリティでもなければ、ホスピタリティの高さでもありません。いえ、勿論その2つも大切なことに変わりはありませんが、最上級のプライオリティが置かれなくてはならないのは『誠実』です。
誠実であること、これは人間関係における最も重要な要素であります。
最近の女性は男性に対して『優しさ』とか『イケメン』であるとか、何でしょうか、非常に表面的な事を求める傾向にあります。
しかしながら、断じてそうではありませんっ!
男性に求められること、オトコに必要不可欠な要素はたったひとつっ!
それは『誠実』である事、ただそれのみでございます!」
 あの、オジサン...
何か、話の舳先が明後日の方向へと大幅にズレて来ちゃってるんですけど。
『この御仁、自分の娘さんとかが至極、碌でもないオトコに引っ掛っちゃてるのかな?』
オレはそう邪推した。
「そうですっ!
誠実さ、で御座います。
そして...」
 佐分利副支配人が二の句を告げようとする前の一瞬のブレスを衝いて、まさか狙い澄ました訳ではないと思うけれど、機先を制するが如くに『KINPARA』さんの柔らかい声調の言葉がその場の主導権を掌握した。
「良いんですよ。どうか、遠慮なさらないで下さい。
どうせ、別組のお客様にキャンセルされた食材なんですから」
「キンパラ君っ!」
不意を衝かれて精神を揺れ動かされたハシビロコウ氏の語気は大いに響動した。
「用意できたドウマンのサイズが大き過ぎてしまって、比例してお値段の方も膨れ上がってしまったので、それで結局サイズの小さなものに差し替えということになって。
行き場を失った料理素材だったので、板場としては『渡りに船』でもあるんです」大切な食材を無駄には出来ませんからね、と『KINPARA』さんは最後の言葉を微笑みに隠した。
「...い、いえ、決してキャンセルされて行き場を失った料理素材の再活用という訳では御座いません。適材適所...あの、このドウマンはハナっから六分儀様の食卓に載る運命だったのです。そうです、為るべくして為った、前世から定まっていた宿命なのですっ!」
 オジサン、今度は運命とか宿命まで持ち出してきちゃったよ。
 ハシビロコウ氏の些か大仰なる言い回しに対して横から良いタイミングで『KINPARA』さんが合いの手を口添える。
「そうですよ、使い回しじゃありません」
「キンパラ君~♪」
「使い回し、なんかしたら、まるでどっかの船場吉兆みたいじゃないですか?」
「!キンパラ君っ!」
 この人、船場吉兆の女将囁き事件を知ってるなんて『KINPARA』さんって年齢、本当は幾つなんだろ? 三十路過ぎか? もしかして40超えてるとか?
<それはあり得ないな。もっとよく観察して彼女の角質層の肌理の繊細さを把握しろよ。
どう高めに見積もったとしても絶対に20代だぞ>
 横から吹く乱流に揉みしだかれ失速に陥り掛けてフラフラになりながらも副支配人さんが「...えー、ドウマンはですね、我々地元が誇る浜名湖の名産品ですから...」と本来の二の句を告げんとしたその時、再び『KINPARA』さんが絶妙なるカウンターを突っ込む。
「実は、浜名湖の名産でも地元民で食べたことある人の方が少ないですけどね。
皆さん、知らないんです、ドウマンって蟹の存在を。
『あー、なんか噂で聞いたことあるかなぁ?』ぐらいの感じの認識しかないので。
ハッキリ言っちゃうと、マイナーなカニにしては法外な値段なので地元の居酒屋さんとかではあまりメジャーな食材じゃないんです、置いておいてもそんなに量、売れないし♪」
「!!!キンパラ君っ!!!」
「しかし料理素材が余ったら大抵の場合、発生したその余剰分は板場などの賄い料理の方へ回されるのが通常なのではないですか?」オレは疑問を口にした。
「それはそうなのですが...」ハシビロコウ副支配人が何かを言いかけた、その刹那にポッと生じた間隙を縫って『KINPARA』さんが「賄いにするといってもドウマン、たった一杯ではどうしようもないですし。お味噌汁に使っても出汁代わりにもならないっていうか、きっと『ドウマン? 何処にいるの?』って感じになっちゃうと思うんですよね」と言った。
「キンパラく~ん」
 しかし、見事な掛け合いを見せるな、この2人。

「はい、これ」
おネエさんがテーブルのうえにシロくておおきなおサラをのせた。
 うわっ!
ナニ、これ?
おサラのうえにドデーンって、おっきいのがのっかってる!
カニさん、なのかな?
ハサミ、あるし...
うわっ、おっきなハサミ!
 あ、ビックリしたから、なんとなくポロッと「おっきいハサミ」って、いっちゃった。
だって、ホントにメチャクチャおっきいんだもん、ハサミ。
 そしたらおネエさんが「これはメスだから、えっと、オンナのコだからオス...オトコのコにくらべると、ハサミはすこしちっちゃいんだよ。でも、このサイズでもじゅうぶんにオオキいよね」って、いった。
 そうだ、ホントにおっきい。
ハサミが2つあるからカニさんなんだとおもうけど、しってるカニさんとちょっとちがう。
 ワタシがたべたことあるカニさんは、もっとほそくてスマートなカンジだった。
だけど、このカニさんは、なんだろ、なんかボテッとしてる。
 おイモさん?
ちがうなぁ。
 あ、そうだ!
おもいだした。
あのパンにソックリ。
ヒロオのおバアサマといっしょにいった、ヒロオパパのイエのちかくのパンやさん。
くろわサンとかブリオしゅーとかバゲットとか、とってもオイしいパンがいっぱいある、すてきなパンやさん。でも、ワタシのスキなパンは、パン・ド・カンパーニュってナマエだった。おまんじゅーをおっきくしたカンジの、ホントにボテッとしたパンだった。
あのパン・ド・カンパーニュにカタチがそっくり!
 でも、イロはぜんぜんちがうけど。
あのパンみたいにチャイロじゃないし。
 なんだろ、このイロ?
ナニイロかって、いうのがムズカしいイロだな。
オレンジよりもアカい。
でも、クレヨンとかのアカいろとかよりはぜんぜんアカくないなぁ。
うーん、ユーヤケにちかいけど...もっとこいイロだよね。
だから、ユーヤケをギュッとしたイロ...でイイのかな?
あ、さっきケンゴがナンかいってたよね。
ムカシは4つしかイロがなかったって。
シロとアオ、クロとアカ。
だったら、これもアカイロでじゅーぶんオーケーなんじゃ、ない?
 ま、あとでキケばいっか。
ね、ケンゴ。

「はい、コチラになります」
『KINPARA』さんが座卓の上に白い磁器皿を置いた。
彼女の両手で支えなければならないほどの重量感たっぷりの一品、だった。
「これはドウマンを備長炭で焼き上げた品になります。
ほんの、本当に細やかなお詫びのしるしで御座いまして、こんなものでお許し頂けるとは到底考えてはおりませんが六分儀様、どうかお受け取りくださいませ」
 佐分利副支配人の口調はまるで神の前で懇願するかの如く、だった。
ま、ドウマンとやらを搭載した大皿が天板の上にドンと鎮座されてしまったというこの状況に至っては、もう既に『断る』という選択肢は立場を失って雲散霧消するしかないな。
仕方無い。
この状況を甘受する事にしよう。
「判りました。
それでは副支配人さんと『KINPARA』さんのお申し出に甘えることに致します。
有難うございます。
些細な連絡の行き違いを補って余りある御厚意、心から有難く頂戴いたします」
 このオレの返答に佐分利副支配人さんは心からホッとした安堵の表情を浮かべた。
「いえ、感謝せねばならないのは当ホテルの方で御座います、六分儀様」
「本当にありがとうございます」と『KINPARA』さんが決算の済んだ笑顔を添えた。
 しかし、このドウマンというカニさん、一言でいうとデカい。
茜色...イヤ、朱色に色付いた、丸みを帯びたボテッとしたボディをドデーンと皿の上に横たえている。甲羅自体は避弾経始が非常に良好そうな形状を見せている。(注4)
泳ぐタイプの蟹らしく第五脚がボートのオールの様な特有の形状をしている。
ハサミが、普通のワタリガニと比べて、非常にデカい。
っつーか、ハサミだけじゃない。
でっけぇカニ!
身体全体が想像を遥かに超えて、デカい。
メスは、チョウチンアンコウとかの例を除くと、通常はオスよりも身体のサイズが小さいもんだけど、この雌のカニさんは非常に大きい。一体、何グラムあるんだろうか?
<結衣は雌だが、お前さんより全然大きいぞ>
さっき『KINPARA』さんはチラッと『大き過ぎてキャンセルされた』って言ってたな。
ならばこの個体は標準サイズよりもデカいってこと、それは確かなんだろう、が。
 しかし、備長炭による『焼き』?
かに道楽で太っいタラバガニの脚を焼いた品なら喰ったことあるけどな。
ワタリガニを丸ごと、しかも炭火で焼くなんて結構珍しい料理法なんじゃないのか?
寡聞の所為か、トンと聞いたことが無いな。
 オレがその疑問点を素直に口にすると、佐分利副支配人さんは何故だか理由は判然としなかったけれど眼光を炯炯と輝かせながら、非常に嬉しそうに説明をし始めた。
「はい。
その通りでございます、六分儀様。
タラバガニの脚を焼いた料理はあちらこちらで見かけますが、ドウマンの様なワタリガニを炭火で、しかも丸ごと焼き上げた料理はあまり聞きません。
ウチの総料理長が山口県の方を旅行しました折にある料亭にて丸ごと焼いたワタリガニに遭遇いたしまして、その味に非常に感銘を覚えたそうなんです。
こちらに戻ってからドウマンを素材に使用してその味を再現しようと四苦八苦、試行錯誤しながら研究に研究を重ねて、何とかお客様に提供できる位のレベルまで持ってこれた、という経緯にございます」
 ほう、ここでも総料理長、パクリ疑惑が浮上してきたけど。
ま、料理に特許権はないだろうから、ギリギリOKという事で、一旦は脇に措こう。
 佐分利副支配人は、乗ってきたのか、話しっぷりにドライブが一層掛かった。
「カニは生のお刺身、これはツマりません。
火を通した方が絶対に、美味しいのでございますよ、六分儀様。
あ、火を通すと言えば、熱を加えた方が美味しい、また別の料理素材がございます。
この浜名湖が面している遠州灘で獲れる名産品の1つにシラスがございまして、これも火を通した方が断然、美味しゅうございます。
何でしょうか、皆さま、生のシラスをお求めになられる方ばかりでございますけれど、
実はシラスは生よりも断然、獲れ立てを釜揚げにした物の方が味が良いのは歴然たる事実でございますよ、六分儀様。
皆さま、真の美味しさよりも珍しさと言いましょうか、目新しさに飛び付く傾向が強い様に思います。珍重なる物よりも美味しさの方が大事なのですが、味の判らない方々ばかり」
 何か、話の舳先が違う方向に向いてきちゃってるよ、副支配人さん。
ま、でも、生シラスよりも釜揚げの方が美味いのは厳然たる事実なのは確かだ。どんなに流通がシッカリしていても生のシラスはすぐに痛んで『グチャッ』と一塊になってしまう。
市場に出回っている生シラスは『獲れ立て』を冷凍した物に過ぎず、料理屋等で出てくる生シラスはその氷結した塊を解凍してほぐしたモノだから、旨味が抜け出ちゃっている。
本当に美味い生のシラスを喰いたければ、海から引き揚げたばっかしの漁網の中に両手を突っ込んで、まだピチピチ暴れ回っているカタクチイワシの仔魚を口に放り込むしかない。
オレの地元はシラス漁でも一応有名な所だったから、地曳網で浜に引き揚げた生シラスを生きたまま喰ったことが何度もある、漁網に両手をガバッと突っ込んで掬い取ったままに。
それと同じ美味さを持った生シラスに今まで出逢えた事は無いし、これからも無いだろう。
 少々論点がズレ始めてきた佐分利副支配人の話の軌道に修正を施す為に再び『KINPARA』さんが、彼の息を継ごうとするまさにそのタイミングを見計らって、口を挿んだ。
「シラスと同じで、カニも火を通した方が身の持つ旨味や甘味がアップするんです。
茹でるよりも、蒸し。
蒸しよりも、焼き、の方が一際美味しさが増すんです」
 彼女の絶妙なる口添えが天啓と化したのか、不意を衝かれた格好の副支配人は一瞬少しだけユラッと揺らめいたけれど、自分が今何を口上に表現すべきなのか、自覚できた様で再びドウマンガニについての説明へと帰還した。
「はい...茹でるよりも蒸し、蒸しよりも焼きガニの方が美味しゅうございます。
ただ、物凄く手間が掛かってしまうので、多分それが理由でどこも提供しないのだと思います。ウチの総料理長が独り、付きっきりで焼き上げた品でございます。
さぁ、温かい内にお召し上がり下さいませ。
浜名湖は棲息地の北限となっておりますゆえに、旨味と甘みが濃厚でございます」
 それはさっき『KINPARA』さんが言及したデータじゃ...
副支配人さん、滅茶苦茶感心した顔で彼女を見降ろしてたような記憶があるんだけど。
それに確か、伊豆半島の下田市の稲生沢川の河口付近でも獲れるんじゃなかったっけ?
<それもさっき、お前自身が自問済みだぞ、既に>
「あのぉ、副支配人さんが今、総料理長が手づから調理したと仰いましたが、そんな偉い立場の方に物凄く手間のかかる料理をさせてしまって、ご迷惑掛けちゃったのでは?」
オレの素朴な疑問に対する回答は『KINPARA』さんから寄せられた、全然間を置かないで。
「大丈夫です。
ウチの厨房スタッフ、とっても優秀なんで、総料理長いつも暇を持て余しているんです。
今日もお茶を1トンくらい挽いてた所で」
 機密事項であるこのホテルの厨房の内情を唐突に暴露されてしまった様な、複雑な表情を浮かべた副支配人さん、傍から見ても彼の精神状態が再び揺曳し始めたのを洞察できた。
蟻地獄の様な窮状(?)を見兼ねて助け舟を出したという訳でもないがそんな副支配人さんにオレは何とは無しの質問を掛けた。
「このドウマンですが、焼きガニを副支配人さんは食べた事あるんでしょうか?」
オレの意図する所として『その時、どうでしたか?』とか『どんな味でしたか?』くらいの超軽量級の問い掛けに過ぎなかったのだが、完全に想定外の言葉が返って来た事に虚を衝かれて少し、唖然としてしまった。
「私、ですか?
ドウマンガニの炭火焼き、私は頂いたことなど、全くございません」
と、佐分利副支配人は敢然と言い放ったのだった。
シレッとした表情を涌出させながら。

 ドウマンガニさんを解体する作業に当たって『KINPARA』さんが瞠目に値する、非常に鮮やかな手並みを披露した。彼女の動きに一切の無駄を感知することは能わず、ビロードの様な滑らかな手捌き、だった。器具を1つも使用する事無く、素手で行った。
『KINPARA』さんは、うつ伏せに鎮座させられたドウマンさんを引っ繰り返すと先ず、フンドシと呼ばれる腹部のパーツを引っ剥がした。その部分がリトラクタブルライトの様にパカッと開いて卵が海中へと放出されるのだが、意外な事に剥脱されたフンドシの内側に卵、つまり『外子(成熟した産卵間近の受精卵)』は全く付着していなかった。
それから『KINPARA』さんはドウマンさんのおケツを上に向けて(つまり頭が下の逆さ釣り状態に)外したフンドシの付け根付近にその蜂蜜色の細く長い指を突っ込んで、如何にも頑丈そうな甲羅を剥がしに掛かった。
甲羅は、想像に反し割合と容易に、メリメリッと軽めの音を立てながらパカッと剥離した。
ドウマンさんは脚が装備された腹部と甲羅の2つに分割、ほほう、甲羅の内側に『内子(未成熟の卵=卵巣)』が付いているな、思ったよりも多くないけど。
あぁ、腹部の中心に残りの卵巣が隠れんぼしているのがチラッと垣間見える。
『KINPARA』さんは鎧を脱がされたドウマンさんから鰓呼吸の為の部位の『ガニ』を除去してから、腹部からニョキッと突き出した五脚全本を左右でそれぞれ一括とし、対応する左右の手で握り締め、材木板をへし折る様にパカッと半分に割ってから皿に置き直した。
そして我々とドウマンガニさんが見詰め合うことを許容させる為、皿ごとクルッと半回転させて相対する格好にした。
 数秒間のお見合いが終わると『KINPARA』さんは再びドウマンさんの解体作業に戻った。
「茹でた物や蒸した物に比べると、焼いたカニの甲羅や殻とか、炭火で炙られている所為なのか、素手でも結構簡単に割れます。でもチョットしたコツが必要なので割り取り易くするために、ここに隠し切りをしておきます」
 彼女は分離されたカニさんの胴体半分を取り上げてから其々の脚の根元にキッチン鋏(はさみ)でチョンチョンと刃を入れた。この『隠し包丁』が切り取り線の役割を果たすのかな?
「茹でたドウマンでも、私はとても無理ですが、漁師さんなんかになると素手でいとも簡単にバラバラに分解しちゃいます」アッという間に、と『KINPARA』さんは笑った。
ほほう、素手で...
「なかには、火を通してない生のドウマンを力任せで半ば強引に解体しちゃう、強力自慢の漁師さんもいるそうですよ」表情をスッと真顔に収斂させながら、彼女は囁の様な声で言った。
「ホント、ですか?」ひょっこりと驚きの質問が飛び出してしまった。
真剣な表情を緩めることなく『KINPARA』さんは「...冗談...です...」
一拍置いてから、顔を砕かせて彼女は朗らかに笑った。
その翡翠玉が転がる様な『KINPARA』さんの快活さにオレは融け出しそうだった。
「~キンパラく~ん~」
 佐分利副支配人さんの困惑気味の声が耳に届いた。
その発生源に視線を向けなくとも、苦虫を噛み潰した様な渋面、取り分け特徴的な両眉の歪め方まで敏感に察知できた。
 その顰めっ面を想像するだけで腹の底から突沸する様に咲笑の団塊が湧き上げてきて、失笑をこらえるのに少し、苦労した。
本当は『KINPARA』さんと2人で顔を突き合わせながら眉を開いて目笑したかった。
 ヒゲの藤やんの様に爆笑したかったのだ。

 差向いになったカニさんは非常に蠱惑的に色映えて、とても美味そうだった。
オレは座卓の天板の上に既に用意されていた中振りの白磁の皿2枚にドウマンガニさんの遺骸の半身ずつをそれぞれ取り分けてから「半分こ、な」と言いながら、片方の皿をイトの前に動かした。
 佐分利副支配人と『KINPARA』さん、2人は驚きの微表情を隠蔽するのに失敗した。
 そんなに驚く事かな?
オレはジイちゃんと同じ事をしているだけ、なんだけどな。
彼は、喰い物の事に関しては、稚い子供であるオレを自分自身と同様に扱った。
何の分け隔ても無く、だ。
オレは食べられる分だけ食べ、喰い切れずに残した分はジイちゃんが綺麗にこの世界から消去させるのが常だった。オレがイトに対して行っている事と全くの同一な行為、つまり残飯処理、だ。
だから正中線から真っ二つにされたドウマンガニの胴体がオレとイトの前、それぞれにある。ま、甲羅はイトの取り分け皿の方に載っているが。
「あ、お嬢様の分、完全に割り切った方がよろしくありませんか?
幾ら蒸しガニに比べれば割りやすいといっても、子供さんの力では無理だと思いますから。
もし構わないのであれば、私が手当てを施しますが?」
小首を傾げながら『KINPARA』さんが尋ねてきたからドギマギして少し腰が浮き上がった。
「...ハ、ハイ...お願いします」声が裏返らなくて、ホッとする。幾許か上擦ったけど。
 イトもそうだけど、女性が小首を傾げながら何かを訊いてくるのは本当、ヤメて欲しい。
アワアワと精神が眩(くるめ)いてしまって非常に往生する。
<あと、上目使い、とかな>
 オレの返答を受けて『KINPARA』さんがイトに「食べやすくするね」と声を掛けてから彼女の前に置かれた取り皿に手を伸ばし、そこに分配されたドウマンさんの半身にハサミの刃をサクサクと入れ始めた。
 可能なことならば、オレの分も食べ易くなる処置を施して欲しい。
そう思ったが、黙っていた。
彼女の手の動きだけ、見詰め続けていた。

 カニさんだ♪
ジーッとみると...アカ...じゃないよね、やっぱり。
クレヨンのアカとは、ちがうもんな。
 でも、ちかくでみると、ホントにキレぇー。
やっぱ、ミカン...んー、ちょっとチガウかも...
 あとでケンゴにきけば、おしえてくれる、っておもうけど...
んー、それまではユーヤケをギュッとしたカンジの、ゆーやけのイロってしとこ。
うん、カニさんのカワのトコは、ギュッとしたゆーやけのイロ。
それに、きめた。
でも、ナカのトコはシロいろ...うーん...ちょっとだけチャイロかな?
カオをちかーくしたら、カニさんのナカのトコから、すんごくイイにおいがしてきた。
あー、なんか、ものすごくイイにおいだぁ!
イヤなカンジが、ぜんぜんない。
どこから、たべよっかな?
やっぱ、ハサミのトコから、かな?
 ケンゴはドコから、たべるのかな?

 外骨格という強固なヴェールの下から姿を顕わにした精肉は鈍角な白、僅かにベージュを帯びていた。だから、このホテルの外壁もベージュっぽい色模様なのかな?
食欲を誘っているかのような柔らかい白だから、眼に優しい。
 先ほど、去り際に『KINPARA』さんがタブレットを操作して活きていた時に撮影されたこのドウマンガニさんの動画を見せてくれた。
 胴が丸いから『胴丸』という呼び名になって、そこから更に転移して『ドウマン』って呼び名になったそうだが『名は態を表す』の至言の通りだ。
丸い。
 当然活けの状態の時も胴体は丸かった。
胴の部分が普通のワタリガニよりも三回り半くらい太くボッテリと膨満している。
生きている時、地色はオリーブドラブ...海松色...木賊色...それとも根岸色なのか、結局は緑掛かった茶色、茶を帯びた緑色、のどちらかだ。そこに縹色からウルトラマリンの青系がウェザリング塗装されているって感じの、全体の色味だ。
 第一脚であるハサミがとにかく矢鱈滅多羅にデカい。
通常のワタリガニを1としたら15くらいの巨大さ、だ。
活けの時のハサミは地色が鮮やかな浅縹色で、刃先の部分が色落ちした様に赤銅色に変化していっている。
 色味に関して言うと、活けの状態では、お世辞にも決して食欲をそそる色では無かった。
が、しかし火が入ると茜色~朱色~ファイアレッドが混然一体となった複雑な、オレンジがかった赤色、目を奪うようなハッとする赤に変色して、一気に喰い気を誘うようになるから、甲殻類って不思議だ。
 蒸しや茹でと違って焼きガニだから、だろうか、ドウマンさんの被殻の彼方此方に軽度の焦げ目が付いていたり、塩の結晶が析出したのか、塩が吹いた様に白く細かい粉が付着していたりもする。もしかしたら、この粒状物質は体液が昇華した痕跡なのかも知れない。
 イトの取り皿の上に鎮座している甲羅を一瞥した。
物欲しそうな眼付きにならないように、気を配った。
オレはキャプション付きのブロマイド写真でしかその姿を知らないけど、仮面ライダー1号にソックリな触覚が2本、ピンと天を衝いている。よく備長炭の強い火で焼け焦げて焼失しなかったものだ。奇蹟か偶然、それとも総料理長さんの腕の賜物なのだろうか?
 ご本名が体現している様に、甲羅のサイド回りにローレット(roulette:ミシン目打ち機)が掛けられた様に、切手の縁の如くツンツンと棘(トゲ)が何本も突き出している。
『KINPARA』さんの言い残した聲が脳内で再生されるとほぼ同時にオレの耳朶を優しく叩く感触さえも、濃密な鮮やかさを保ちつつ、ポッと蘇った。
『この最初に剥がした部分、なんかルーバー窓みたいなジャバラっぽい模様が付いている所、ここを一般的にはフンドシって呼ぶんですが...』
 はい、知っています。海辺の生まれですから。
『別名を「前掛け」とか「はかま」って言ったりもするんですね...』
 ソレは知りませんでした。
『この部分、カニが卵を抱える部位なのでオスは小さいっていうか、鋭角で細長い三角形になっているんです。それに対してメスのフンドシは大きくて丸みを帯びたお結びみたいな形をしているんです...」
 なるほど。
『とても柔らかいので、食べる人もいます』
 マジで?
『私は食べませんけど』彼女が口許を押さえて笑いを忍ばせた。
 少しでも長く時空間を共有したくて、無意義な質問をした。
『KINPARAさんはドウマン、よく召し上がるんですか?』
『ドウマンはお値段が張るので、個人的には口にする事など滅多にありません』
『でも』と「KINPARA」さんは佐分利副支配人さんが引っ込んで行った方向にチラッと眼を走らせた後、視線をオレの顔に戻し『ここだけの話ですなんけど、さっき総料理長の事、話、しましたよね?』
『ハイ、焼きガニ料理を試行錯誤しながら完成させた、とか』
『あの時、実験台として私が試食していたんです』
 ありゃ?
『と、言っても、そんな何百匹も食べた訳ではないんですけど...』
 では、少なくとも数十匹はペロッと頂いちゃったんですね?
その質問をオレは飲み込んで終始、構音しなかった。

「さっきのフグさんといっしょで、テでもってたべた方がおいしいんだ」って、ケンゴはいったから、そうしよっと。
 Rさんのコエの、キレイなおネエさんがカニさんをチョキチョキしてくれた。
だから、カニさん、いまはバラバラ...いたそう...でも、うまそう。
『この5ばんめのアシ、ひらたくなってるでしょう?
これね、このカニさんがハマナコのミズのなかをおよぐトキ、いっしょうけんめいガンバってココをうごかすのね。そうやっておよぐの。
いっぱいうごかすから、このアシのついてるトコロ、ここのおニクが1ばんおいしいの』
ハサミもおいしいけどね、っておネエさんはいって、フフッてわらった。
 だから、このひらたいアシのトコから、たべよっと。
パクッ...



 うんま...
 なに、コレッ?
チョー、うまいんだけど...
 んー、んー、んー、んぅまっ!!!
 あー、ナンだろ、コレ?
グミ?
ちがうなぁ...
なまキャラメル?
ちがうなぁ...
 パクッてすると、さいしょはカニカマとおんなじくらいなんだけど、ウエのハとシタのハでギュってかむと、ジュルジュルってすぐにジュースになっちゃう、そんなカンジ?
ヌガー?
でもないな。
 あ、ヒロオのおバアサマがつくってくれた、トロットロのオムレツ!
ソトはパリッてしてて、でもナカはトローって、あれ、おいしかったぁー。
でも、ごめんなさい、おバアサマ...
コッチのカニさんの方が、ちょっと、ホントにちょっとだけ、おいしい...です。
ホントに、ちょっとだけ、だから...
 あー、でも、こんなのすぐになくなっちゃうよー!
んっごく、おいしい!
あ、ぅん...
......
...

焼くと味にコクと深みが出て茹でや蒸しより濃厚になる、と『KINPARA』さんは言った。
だから、何は扨て置き、先ずはこの巨大なハサミちゃんから、喰うぞ!
<違うだろ。彼女が『ハサミも美味しいですよ、動かすから。メスだから少し小振りですけど』って教えてくれたから、だろ?>
 蒸しとか茹でだと、この鋏脚の部分、ホタテの様な甘味と弾力の肉質が絶佳なのだけど...
 ヌンチャクの様な形状のカニ殻割りでハサミ部分を挟んでグイッと押し潰すと『パキッ』と軽い音と共に体液が周囲に飛散した。
おっと、カニ汁が。
勿体無ぇなぁ。
カニ汁で、びっちゃびちゃだよ。
 邪魔な殻を除去して、酒がすり切り満たされたお猪口への対応と同じ様に、口の方から寄せて行って中身にしゃぶりつく。
 ウワッ!
何だ、コレ?
 余りの美味さに、ちょっと聲が咽喉元の奥の方へ引っ込んじゃう...
言葉が霞んで、下腹部の方へと消えてく。
肉の部分、トロトロ!
半熟って表現すれば良いのかな?
でも、生過ぎない、ちょうど良い加減の絶妙なる火の入り具合。火が浸透した『生』だ。
口にした瞬間、嗅神経を挑発するような蠱惑的で圧倒的な香ばしさがドンって襲ってくる。
 どういう風にこの風味を描写すれば、伝わるのだろうか?
身に備わった甘味や旨味が限界を超えて彼岸に辿り着く...ウーン、何と浅薄な写生!
語彙が絶望的にまで不足している。
特異点が放つ専制的なまでの巨大重力の様な旨味と甘みが、雪崩の様に殺到するのではなく、ジワジワと真綿で首を絞められる、イヤ、違う。音を形状化する事無くソッと忍び寄ってきて周囲をジワジワと埋め尽くして行って、ハッと覚醒すると既に首まで柔らかく芳醇で暖かい粘土の中に埋没させられてしまっている事態を認識する、そんな感じ。
<何を言ってんの? 訳の解らないこと、言ってんじゃねぇよ!>
 ま、一言で端的に言やぁ、美味いッ!(×100)
厳冬期の日本海、福井辺りで獲れるズワイガニと伊豆か何処かの清流に潜むモクズガニの良いトコどりして掛け合せた様な、そんな風味が口腔内一杯に拡散して行くこの愉悦よ。
 そして特筆すべきは、この香り!
かっぱえびせんやカニ煎餅の香りの良い所だけをポイント・ゼロにギュッと収斂させた様な極上の香りは、おそらく備長炭の放射する遠赤外線が芳ばしく焼き上げたドウマンさんの被殻が発生源なのだろう、茹でガニや蒸しガニからは得られない、とんでもない浜名湖からの贈り物である。素っ晴らしい!
衝撃的なまでに芳醇で、激甚的なまでに豊潤な香気、だ。
イヤ、この場合は『香り』ではなく『薫香』と呼びたいぜ。
<あのー、薫香って香木や煉香(ねりこう)みたいな薫物(たきもの)の事なんだけど>
皮質上で『KINPARA』さんがした説明の続きがタイムスリップ再生される。
『焼きガニは蟹の状態を確かめながら、じっくりと火を通して行かなければならないので、非常に手間がかかるんだそうです。
茹でるとカニから茹で汁にエキスが漏れ出てしまうし、蒸しガニは甲羅を仰向けにすれば蟹のエキスはこぼれないけれど、殻から味が出て来ない。
焼く事で甲羅のカルシウムなどのミネラル成分が溶け出して旨味や香りに変化するんです。
あと、備長炭による燻製みたいな効果も望めるのだそうです。
甲羅から風味を引き出せるのは焼きガニのみで、そして身を半熟に仕上げられるのも焼きガニだけ、なんだって総料理長が申していました。
蒸すと蟹に完全に火を通さなければならないから、と。
でも、焼き上がりのタイミングがピンポイントでとても微妙なんだそうです。
焼き加減のベストな所を精確に見極めるのが、とっても難しい料理法だ、とも言っておりました...』
 通常ワインは泡から白、そして赤へと移行する。
つまり淡麗なモノから濃厚なモノへと、だ。
確か、寿司ネタも同様じゃなかったっけ?
<定石は、光り物から白身、赤身ときて最後にアナゴに卵、巻き物だ。
でも、寿司なんてぇモンは、手前ぇの好きな様に喰えば良いんだ。
他の喰いもんも同じだ。焼肉はタレから喰い始めても全然OKなんだ。
定法に囚われるな。
Don’t think, feel!>
 だから定石通りに、お次は濃密な風味が期待される『内子』ゾーンへ突入するぞ。
『泳ぐ為に精一杯動かすから身の味が良いんです』と教えられた第五脚の辺りを捥ぎ取る。
強情なポテチの袋並みの抵抗を予測していたが『パキッ』と軽量級の音が鳴って呆気ない程の容易さで、オール形状の第五脚とソレが生えている胴体部分を分割処理できた。
うほぉ『KINPARA』さんの切れ込み処置は完璧に機能している。流石、だ。
 身体の中心部、正中線軸付近に多量の内子を発見!
この内子の色を精確に表現するのは、結構難しい。
何色?
蜜柑色と山吹色の中間くらい...ウーム、赤みがかった明るいオレンジ色の萱草色...
違うな、黄色と赤色の両方の色味に染まっているっていう事で『黄丹色』辺りかな。
 ま、何にせよ、非常に美しい。
『人の創る美術は総て、自然の模倣だ』
誰が残した言葉だったっけ?
ランボウ?
それともアリストテレス、だったっけ?
アレ?
『美術』じゃなくて『芸術』じゃなかったっけ?
 オレは、ほんの一瞬だけ顔を上げてイトをチラ見した。
彼女が一心不乱に焼きガニにむしゃぶりついている様子を確認してのち、毫ほどの莞爾を浮かべてから再び俯いて、焼きドウマンガニ掘削事業に復帰した。
 ま、誰が呟いてても、いっか。
いずれにしろ、自然は美しい、この内子の様に。
それと...
この『現象』を超える事なんか不可能だ、とさえ思った。
 美しい。
喰うのが勿体無いくらいだ。
だから、一気にバクッと喰らい付いた。

オウッ!
...言葉が掻き消される。
浜名湖の汽水中を漂っている美味さのエッセンスとサプライズが一点へと凝縮されたその特異体が遂にオレの口腔内で爆発拡散、味蕾という味蕾全てのレゾンデートルを根底から揺動させる。なんという天晴れな旨味と甘みの収束体なのかッ!
<raison d’êtreだと? 何を支離滅裂な言動をしている? ドーパミンの過剰分泌か?>
『ドウマンが獲れるのは6月から12月の中旬までなんですけど、今くらい、秋から冬にかけてのこの時期だけ、パンパンに詰まった内子を、そして外子も愉しむことができます。
内子は卵巣の部分で、外子は受精が済んで成熟した放卵間近の卵のことを言います。
このドウマンには外子が付いていませんが、その代わり内子もそして身の方もみっちりと詰まっています。
この時期は重量の1割以上が卵となっています。
蟹の身体の中心部に内子がギュウっと凝集しているような、そんな感じです。
だから真っ二つに割った胴体の真ん中に内子が詰め込まれたように見える筈です
カニ味噌、見えますか?
明るめの茶色、何て言ったら良いのか、ちょっと適切な言葉が見付からないんですけど、ウチの総料理長は「発色に富んだ明るいトノコ色」と呼んでます。
私、トノコってちょっとよく判らないんですけど、一体それが何なのか』
 ほほう、総料理長、ついでに教えて上げれば良いのに、な。
『アァ、砥粉は砥石の粉末です。
今は粘土を焼いて作るみたいです。
日本刀を研磨する時に使ったり、漆器なんかの下塗装とか、建築用で板や柱を塗装したりする時に利用したりするんです』
『KINPARA』さんの相貌に『へぇ』という表情が浮揚した。その解説が理由なのかは判然とはしないけど、彼女の口調に親しみが少しだけ上乗せされた、様に感じた。
 砥粉色したカニ味噌、嫌味は感じられなかった。
独特の風味は、腎臓料理における御尻呼に相当する役回りを演じていて、カニ味噌自体の味に鈍重でもったりした箇所は無く、軽妙で爽快、なのに芯の強さを感じさせてくれる。
『ドウマンの身って、1本1本が非常に繊細な繊維が緻密にキュッと詰まっている、って印象があります。他の蟹と比べたら、筋肉の繊維が細くて繊細で上質な味です。
海を泳ぎ回るので、たっぷり運動する脚の付け根のお肉が一番のお勧めです。
特に、その5番目の脚、オールみたいな形の後ろ脚で泳ぐので筋肉がとても発達していて噛み応えが特徴的な肉質です。
江戸時代までは海の蟹と言えば、ドウマンのようなワタリガニだったそうです。
浅くて漁業がしやすい場所に住んでいる蟹でなければ、当時の漁業技術では難しかったのだそうです。
深海に棲息しているズワイガニやタラバガニ、毛ガニがメジャーになったのは、だから、つい最近なんですよ』
ご当地の自慢の名産品を紹介する『KINPARA』さんの聲に色艶が一層乗ってくる。
『ドウマンは活けの状態から調理します。
それが欠かせない必須事項です。
死んだ蟹は美味しくないんです。苦味が増えたり、旨味が無くなる、っていうか、風味がポンってドコか別の場所に跳んでしまうんだそうですよ。
当然、この蟹も活けの状態から、焼きに入りました』
『このカニ、デッカい...イヤ、相当に大っきいですね』
『ありがとうございます。
でも、このドウマンはメスですから、オスに比べると少し小振りなんです。
でもこれは1.5kgありますからメスにしては滅多に獲れない超大物の部類に入ります。
まぁ、でも、だからキャンセルされちゃったんですけど、ね』
 そう言って『くくくっ』と、奥に籠らせながらも冴え冴えと玲瓏な笑い声を立てた

 ちゅばちゅばとある種淫靡な音を立てながらドウマンさんの身を吸引する。その突き抜けた美味さに呼吸する事も忘れてしゃぶり続けてしまい、血中酸素飽和度が低下、苦しくなって我に返って『ア、息しなきゃ』死んじゃうから、と気付いてから慌てて呼吸を再開する為に蟹から口を離す。そして心臓の鼓動が落ち着いたら再び白い身にむしゃぶりつく。
 その繰り返し、だった。
<怪しげな薬物よりも、ずっと『addictive』だな>
そうだよ、ミスター。
このカニはチョッピリ危険な耽溺状態誘発物質だぜ。
 カニの身を置いて、一息吐いた。
イトの方の取り皿に搭載された、丸みを帯びたドウマンさんの甲羅に視線を送った。
朱色、イヤ、緋色が白磁の皿により増して映える。
美しい。
その上、美味いとは、なんたる自然界の妙なのか。
 そしてその造形。
見れば見るほど、つくづく戦車の砲塔にピッタリな外観をしているなぁ。
最近のMBT(Main Battle Tank:主力戦車)はドレもコレも四角四角して矩形っぽいヤツばっかりだから、鑑賞してても詰まらないんだよな。
<仕方無いさ。当節、対戦車用徹甲弾の主流はAPFSDSだから、な>
なるぅ、砲塔に避弾経始が必要無くなっちゃった、ってことだな。(注5)
 どうやらイトは殻の奥密かな部位に粘着して容易に剥離してくれないドウマンさんの身を吸い出すのに四苦八苦している様だった。
殻の内側についた肉を余すことなく残らずに掘削したいのだろう。
その気持ちはよく理解できるよ、お嬢さん。
「イト、このカニをほじくる専用のスプーンを使うと良いよ」
 そう声を掛けると、彼女はパッと顔を上げ「分かった」とだけ、告げた。

ほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじほじ...

 しかし、カニって会話が無くなるよな。
短い返事を寄越した後に再び俯いて、オレが提案した『カニさじ』を器用に操りながら、ドウマンさんの身を掘削する作業に勤しむイトを眺めながら、ふとそんな事を思った。
 この世界には黙っていても気詰まりにならない関係性を結べる人間がいる。
幸運なことに、イトはその特徴を備えた人だった。
彼女となら、一言も言葉を交わさないでいても、寛然とくつろいでいられる。
イトが黙っていてもオレは気不味い感じを全く抱かないで済む。
全くの推測に過ぎないが、彼女もオレといて会話が無くても気不味さや屈託を一切感じていない様子に感じ取れる。オレの単なる希望的観測なのかも知れない、けど。
<蟹の身を穿り返すことに夢中なだけ、じゃないのか?>
 彼女に倣って、オレもカニさじを使うことにした。
奥まった場所に癒着する様にこびり付いている肉を引っ剥がすのは、結構な難事業だった。
だから集中せざるを得ん。
 しかし、こうやってホジホジとカニの身を穿り返していると人間としての『器』が相当に衰微縮退してしまう気分がしてくる。
宴席で蟹尽くしの会席料理なんかが給仕されたら、その後、参加者たちはダム建設の様な大規模開発事業にそぐわない小人物へと堕落してしまっている、そんな感じの偏見が払拭できないのは、何故だろうか?
ドバイのブルジュ・ハリファの建築施工とか、絶対に無理だと思うのは、どうしてだろう?
 ま、このドウマンは美味いから、万事OK、なべてこの世界に荒ぶる事は無し、なのだが。

ほじほじほじほじほじほじ...
こんもり、
にんまり♪

注1:限界効用逓減の法則について。
英語では『Law of diminishing marginal utility』という。
19世紀、プロイセン(現在のドイツの一部)の経済学者であるヘルマン・ハインリッヒ・ゴッセン(Herman Heinrich Gossen)が唱えた法則で、別称を『ゴッセンの第一法則』という。
まず経済学における『限界』の意味を説明すると、財(モノやサービスなど)等の変数を微小量だけ増価させた時に、その変数(財のこと)に依存する別の変数の追加1単位当りの増加分または増加率のことである。
そして『効用』は、財(モノやサービス)を消費する事により得られる新規な価値のこと。
次に『限界効用』だが、財(繰り返すがモノやサービスのこと)を1単位分追加して消費する事による効用の増加分のことである。
『逓減』とは、次第に減ること(減らすこと)を意味している。
で、漸く『限界効用逓減の法則』の意味の説明ができる。それは以下の通りである。
超ザックリ言うと、財(しつこいようだがモノやサービスのこと)の消費量が増えていくに従って、追加する財の消費分量1単位当たりから得られるメリット(効用)は漸次減少していく、とする考え方。
うん?
君の大脳皮質が漢字変換を拒否しているようだな?
了解した。
それでは解り易い例を以下に挙げる。
夏季の暑い盛りの時期に冷えたビールをガッと咽喉に叩き込む様に飲む場合を考える。
ビール1口目を飲んだ時に覚える『ウッヒャーッ!!!』と欣喜雀躍したくなる気持ち、麦酒嚥下が惹起する感動はこの最初の時がマックスであって、追加消費となる2口目から得られる新規価値は(1口目に得た感動の大きさに比較して)有意に小さくなる。
そして3口目、4口目と飲み進んで行くに従って、得られる感動は段々と減って行く。
これが『限界効用逓減の法則』の(一種強引な)事例の1つである。
この法則はビールの様な『モノ』そしてコンサートの様な『サービス』だけではなくて、幸福や不幸という概念にも適用され得る。
昨今『レジリエンス(resilience):復元力。不幸から回復する事。抱えた哀しみを克服し、前へと進む希望を持つ能力のこと』という言葉をしばしば見聞きする様になったが、この概念も『限界効用逓減の法則』に関係する。想定外の衝撃に襲われた事による精神的混乱が長期に渡って継続してしまうなら、人は生きてはいけない。人間はそんなに強い存在ではないからだ。生存の為に順応、つまり慣れちゃうことで苦痛を忘れていくって事である。
しかし、例外として持続する痛みは逓減しない。
歯痛を思い起こせば、この例外事項は理解しやすい、ですよね?

注2:ドウマンについて。
ドウマン(和名はトゲノコギリガザミで、学名は『Scylla paramanosain』)
甲長130mm、甲幅200mm(平均サイズ)
内子や爪の中の肉が美味い、とされる。 
英名は『mud crab(泥蟹)』で、その理由は泥に穴を掘って棲息しているから。
因みに、沖縄の様な亜熱帯地域の海岸線で見られるマングローブ地帯の泥の穴を主な生活の場所とする個体は泥臭いけれども『habitat(居住環境)』の違いによって生活が泳ぎ主体となるドウマンは泥臭くはない。って、浜名湖の漁師さんが言ってた。
第五歩脚がオール状の遊泳脚となっているのは、イシガニやガザミの様な他のワタリガニと同じである。
鋏脚(きょうきゃく:はさみ)は巨大であるが左右で大きさが違い、比較的小さくて細い鋏と大きくて太い鋏が付く。餌の貝類を捕食する際には、小さい鋏で捕捉して大きい鋏で殻を砕く。ドウマンは浜名湖では主にアサリを喰っている(らしい)。
主にインド洋と太平洋の熱帯・亜熱帯地域に棲息。
マングローブの干潟を好んで棲息する為に『マングローブ・クラブ』とも呼ばれる。
日本では高知・沖縄で獲れ、浜名湖は北限とされる。
生きている時はオリーブドラブの地色に、焦げ茶と縹色~ウルトラマリンがウェザリング塗装処理されている様な体色をしている。胴体の部分が普通のワタリガニよりも三回り半くらい太くボッテリとして妙にふてぶてしく、ドカッと膨満している印象を受ける。
第一脚であるハサミがとにかくデカい。通常のワタリガニを1としたら15位の巨大さである。
浜名湖では甲羅が丸いことから『胴丸い』が縮まって『胴丸』となり最終的に訛ることで『ドウマン(カニ)』という呼び名に転移した。
日本における漁場としては浜名湖が北限と、一応、されている。6月から漁が開始されて、7~9月がピークとなり、12月中旬には終漁となる。
しかし本文中で研吾君が述べた通りに伊豆半島の下田市の稲生沢川の河口付近でも獲れる。
ま、生物相手の事なので数学的で明確な境界線を引くのは不可能と思った方が良ろしい。
なぜなら生物は、仮令ソレが同じ遺伝情報を持つクローンであっても、個体各々には僅かながらも差異があるからだ。自然発生的なクローンである一卵性双生児の間にも相違点が存在する。(例えば指紋も違うし、性格も異なる。免疫のHLAも結構違う)この個体差が物理学や化学の実験とは様相を異にさせて、生物学において条件を全く同じに揃えることが不可能になっている。培養1つとっても水が違うだけで再現不能になるのも日常茶飯事。
つまり自然は偉大なのだ。人間の思惑など、到底及びもしないw
あ、些か論点がズレて来ちゃったので、話をグイッとドウマンに戻す。
もしかしたら、伊豆半島で漁獲される固体はトゲノコギリガザミ(Scylla paramanosain)ではないのかも知れない、という事が言い得る。
日本に棲息しているノコギリガザミは3種いて、
1)アミメノコギリガザミ(Scylla serrate)
2)アカテノコギリガザミ(Scylla olivacea)
3)トゲノコギリガザミ(Scylla paramanosain)=ドウマンのこと。
これら三種に殆んど差異は無いから、長い間全種がScylla serrateとして扱われてきた。
この『ノコギリガザミ』の日本での棲息地は房総半島以南の暖流に面した地域に分布しているので、伊豆半島で獲れても全然おかしくはない。
だから伊豆半島の『ノコギリガザミ』は『ドウマン』ではない蓋然性は高いかも知れない。
という訳で、ドウマンの漁場は矢張り浜名湖が北限であると、この注釈文では、しておく。
浜名湖の他には、漁場としては高知県と沖縄県があるけれど、豊富で良質なエサに恵まれ、トゲノコギリガザミにとっては低温の極限環境で育った浜名湖産のドウマンは旨味・甘味がより濃厚である。浜名湖における年間漁獲量は平均約7トンで、静岡県水産技術研究所浜名湖分場によると、2017年の浜名湖の漁獲量は約3.7tである。
漁獲量は年毎に大きなバラつきがある上、元々そう多く獲れるモノでもないので現地では『幻のカニ』とも言われ、高級食材だそうである。
浜名湖漁協の分類方法では500g以上の個体は『浜名湖ドウマン』と呼ばれる。一方で500g以下は単にノコギリガザミ。
稀に1kgを越えるモンスター級の個体も獲れる。
最大級のモノは2kg程度。
世界一狂暴なカニと言われており、大型の個体はハサミで缶詰にいとも簡単に穴を開けてしまう。ただ巣穴に潜っている時にはハサミで挟む事は滅多に無いらしいので、沖縄地方では腕ごとカニの巣穴の中に突っ込んで素手のままで捕獲する漁も行われている、という。
本当だろうか?
メディア向けのパフォーマンスに過ぎないのではなかろうか?
だって、怖くない?
ドレくらいデカいヤツが潜んでいるのか判らない巣穴の中に剥き出しの腕をズボッと闇雲に突っ込むのって。その様な行為、どんなに強要されても筆者は御免を被りたい。
もし、左手の小指をバサッとイカれたら、どうやって『Q』『A』『Z』のキーを押せば良いのだろうか? その答えを知っている人、いる?
このドウマンは茹でたり、蒸したりして火を通すと、体色は茜色~朱色~ファイアレッドの入り混じった複雑なオレンジがかった見事な赤色に変色する。
焼き蟹にすると味と風味にコクと深みが出て、茹でや蒸しよりも濃厚な味わいになる。
身の甘さが限界を超えて向こう側に辿り着く、とでも表現すれば良いだろうか?
全ては料理人の腕次第だが、半生で絶妙なる火の入れ具合に仕上げられると白い肉や内子が半熟でトロトロになる。そして甲羅が発する香ばしさが嗅覚をドンと襲ってくる。
焼きガニは蟹の状態を確かめながらジックリと火を通して行かなければならないので非常に手間が掛かる。蒸し蟹は殻から味が出て来ないが、焼くことで甲羅のカルシウムが溶解して旨味や香りに変化するので味わいがより複雑で高いレベルまで達する。
それに加えて炭火に備長炭を活用すれば、燻製効果も期待できる。
蟹の甲羅から味を引き出せるのは焼きガニのみ。そして肉や内子の部分を半熟に出来るのも焼きガニだけ。何故なら、蒸し蟹や茹で蟹は肉に完全に火を通さなければならないから。
ただ焼きガニは焼き終わりが難しい、とされる。焼き加減の丁度良い所をピンポイントに見極めるのが困難な料理法だから、である。
料理されたドウマンの食べ方は、フンドシを外してから甲羅と身の部分をパカッと割って外す。脚の付け根に房状に付属しているガニと呼ばれる鰓を左右両方とも外してから、脚を両手で持って身を左右にパカッと割る。泳ぐカニなので(よく動かすから)脚の付け根に備わっている筋肉の旨味が強い。タラバガニよりも肉厚で甘みが強い。肉は旨味と食感の強さが印象的。味自体は海のワタリガニと川のモクズガニを合せた様な感じとでも形容できるか。生臭さに陥る一歩手前のギリギリの所で留まっている爽やかさが印象的だ。
爪がとても大きく殻が厚いので割るのに苦労する。
気を付けないと被殻が一気に粉砕破壊、爆発的に飛散したカニ汁で上半身がビチョビチョになってしまうので要注意である。食べられる様になるまで一苦労払わねばならない。
が、中身は白い肉は僅かに黄色みがかって白というよりもアイボリーの様で美しく、これもまた超美味である。甘くほっこりとした優しい滋味である。人が押し黙る理由が解る。
因みにワタリガニの旨味はエビ類で一番美味であるクルマエビの旨味と同じだとされる。
科学的な知見は以下の通り。
クルマエビの旨味成分としては、グルタミン酸が100g中に3000mg、グリシンが2600mgほど含まれている。両者ともアミノ酸で旨味成分の一種である。
ワタリガニはグリシンとベタイン(甘味が強い:トリメチルグリシン)を旨味成分として持っている。ま、だからクルマエビとワタリガニ(ドウマン)に共通する旨味物質はグリシンって事になるのかな?
通常トゲノコギリガザミのガニ(鰓)にはビッチリと泥が付着している。『ドテキリ(土手切り)』と呼ばれる様に、泥底に穴を掘って潜るから、必然的にガニに付着するのだ。
しかし浜名湖の個体は主に泳いでいるからか、ガニにはあまり泥が付着していない。
ドウマンがその体内に隠し持っているカニ味噌の風味は相当濃厚だが全然嫌みが無い。
飲み下した後、舌の上に留まる余韻が綺麗な残響を奏で続けるからだ、と思う。
因みにエビやカニなど甲殻類の所謂『ミソ』は食べ物の消化吸収と栄養素の貯蔵、消化液の分泌などの機能を担当している中腸線と呼ばれる器官。人間に例えると、肝臓と膵臓が合体した様な役割を果たしている器官である。故に古くは肝膵臓とも呼ばれていた。
余談だがカニ味噌やエビ味噌は、仏語でコライユ(corail:男性名詞)と呼ばれる。
ま、筆者の浅学故に英語で何て言うのか、ちょっと判らないのだけれども。
ドウマンの黄金色に輝くカニ味噌は、カニ味噌特有の芳醇な香りがより一層濃厚である。だが、そこにイヤらしさや生臭さは一切感じられない。舌の上でネットリと(良い意味で)纏わり付くウットリする様なコクが非常に濃密である。加えて超弩太い甘味が特徴的。
しかし全体として後味は、石垣島上原港で迎える夜明けの様に壮麗である。
筆者はカニ味噌はあまり好みでないのだが、このドウマンのカニ味噌は絶佳だと感じた。
不要な薀蓄だが、カニの卵に関して述べると、内子が卵巣で外子が受精卵である。
浜名湖でのドウマンの価格は時価(!)で値段を訊くのも恐ろしさを感じてしまうけれど、大体1kg当たりで1万3千円から、だそうです。
この『から』って言葉にも恐怖しか、ない。
あ、これは料理屋さんでのお値段ですよ。

注3:サヨリについて。
サヨリの超ザックリした分類区分は以下の通り。
ダツ目=Beloniformes
ダツ亜目=Belonoidei
トビウオ上科=Exocoetoidea
サヨリ科=Hemiramphidae
サヨリ属=Hyporhamphus
サヨリ=種=H. sajori
サヨリの突き出した口許は『受け口』で下顎の方が特異的に随分と長い。
生きている個体は勿論のことだが、獲れ立てで新鮮な個体の下顎は赤い。死んでから経過した時間が長くなるほど赤色が消え、黄色味を帯びていく。
身は綺麗な白身で、光物特有のギラギラした印象は薄い。
釣り人は先刻承知だと思うけれど、獲れ立てのサヨリを刺身に引いた時、その身の食感はプリッとして歯切れが良く、違和感を覚える表現になるかも知れないが、サクサクとした感じの歯応えと描写できる。フンワリとした丸い甘みが口腔内全体に広がり、クドく無いサッパリした良い頃合いの脂が載っていて、その上にチャンと旨味をも感じられる。
関東地方では、体長40cm、重さ100gを超えるサイズを『カンヌキ』と呼ぶ。
このサイズは希少なのでお値段は少々張ります。
産卵期は4~7月で、最盛期は5~6月とされる。
細く小さい固体は、その見た目から『エンピツ』と呼ばれている。(主に関東地方の呼び名)
春先に生まれた一年仔がその年の晩秋にこのサイズへと成長する。
小さいけれど漁獲対象で、成長途上にも拘らず滅法美味い。
サヨリを下ろした経験があるならお判りだと思うが、この魚は『腹黒い』
内臓を取り出した後の腹の内側が黒ずんでいるのだ。
心がねじけて良からぬ企みを持つ人のことを俗に『腹黒い』と言うが、その表現の根源はこのサヨリである、と言われている。

注4:避弾経始について。
避弾経始とは、戦車などの戦闘車両の上部に据え付けられた砲塔(主砲や対物重機関銃等の火器が装備されている部分)に設置された防弾装甲の(垂直方向に対する)角度のこと。
直感的に理解が出来ると思うが、装甲の角度が水平方向へと寝ていれば寝ている程、敵の放った砲弾を(逸らすようにして)弾く事が可能である。この現象を跳弾という。
垂直に立てて設置された防弾用装甲は、敵の砲弾の持っている物理量を100%そのまま真艫に受け止めなければならないが、垂直から45度斜めに傾けられた装甲に対しては、砲弾の持つ物理量が分散される為に、砲弾自体に逸れて逃げるようなベクトルが生じる。
このベクトルが跳弾を引き起こす要因である。そして傾斜した装甲には垂直に装備された装甲と比較して(45度設置の場合)半分程度の物理量しか掛からないことも有利な点の1つである。
尚、物理量とは(このケースにおいては)砲弾の質量と速度(速さと向き)を合せた数値の事である。言い換えると、砲弾の持つ運動エネルギーのことである。
それと同時に装甲を傾斜設置させる事で装甲厚・重量は同一でも、垂直設置の装甲よりも高い防御能力を得ることが可能になる。見掛け上、装甲の厚さが増加するからである。
避弾経始が特徴的な戦車としては、第二次世界大戦中のソ連のT-34や陸上自衛隊の74式戦車などが挙げられる。
しかしながら近年においては、チョバムアーマーに代表される複合装甲やリアクティブ・アーマーが採用される様になってきている為、以前ほど避弾経始は重要視されていない。
尚、複合装甲はスチールとセラミック等の複数種類の異なる装甲素材を組み合わせた物。
リアクティブ・アーマーは、対HEAT弾用に開発された、自爆する装甲である。
HEAT弾とは『High-Explosive Anti-Tank』の略称で、成形炸薬弾(Shaped Charge)の一種である。元々、成形炸薬弾は対戦車用として開発が進められたという経緯があるので、ここでは同一の物として扱う事にする。
最初にHEAT弾の構造を説明する。
円筒状の炸薬(砲弾を爆発させる為に内部に詰めてある火薬)を上面から下面に向けて、すり鉢状に凹ませる。するとその円筒炸薬の内側に円錐を逆さに引っ繰り返した様な形状の空間が形成される。その逆円錐の頂点(つまり逆円錐型の空洞の底部中心点)に起爆薬(prrimer)をセットする。この状態を縦割にした断面をみると『M』の様な形状になる。
その炸薬と同様の形状に成形した金属板(銅製のことが多い)を炸薬を覆う様に上部から被せる。この金属被膜を『liner(ライナー)』と呼ぶ。このライナーがモンロー/ノイマン効果によってメタルジェット(超高速超高圧力の液体状の金属噴流)を形成する事になる。
厳密に言うと、メタルジェットの形成過程のみを説明するのはノイマン効果の方である。
超ザックリと両者の説明をすると、モンロー効果とは、逆円錐型の凹みを持つ爆薬を下方(逆円錐の頂点がある方向)から起爆すると、反対側の上方(逆円錐の底面がある方向)に強い穿孔力(穴をほじくる力)が発生する現象のことを言う。
一方のノイマン効果とは、逆円錐型の凹みを持つ爆薬に金属板製のカバーを被せることでメタルジェットを生成させて、モンロー効果が生み出す穿孔力を更に強める効果のことを言う。
今まで理解を促進する為に、炸薬の『上面』と『下面』という風に上下方向で説明を進行してきたが、実際の戦闘でHEAT弾が敵戦車に着弾する時は砲弾が横倒しの恰好になる。
だから、ここから以降、今までの『上面』を『前面』『前部』『先端』又は『前方』とする。
同様に『下面』を『後面』『後部』『底面』『底部』又は『後方』とする。
さて、HEAT弾の作用機序の説明に戻る。
HEAT弾が敵戦車に着弾すると即座に炸薬の前方、砲弾の先端に設置された信管(nose fuze)が作動して炸薬底部に設置された起爆薬を発火、そして起爆薬が炸薬を着火・爆発させる。
この時、炸薬が爆発燃焼するのと同時に爆轟波が発生する。
爆轟波とは、超ザックリ言うと超音速度の燃焼爆発によって生じる衝撃波のこと。
この爆轟波が生む動的な超高圧力が金属被膜を流体化させる。金属流体は固体であるが、まるで液体の様な振舞い(挙動)を示す。
炸薬が砲弾の後方から起爆されると爆発燃焼は炸薬の後方から前方に向って進行していく。
(この爆発燃焼現象が起きるのはコンマ数秒単位の非常に短時間であることに留意)
この爆発燃焼の進行が逆円錐状の空洞の頂点に達すると発生した爆轟波が逆円錐状の空洞内へと侵入し始める。円錐の側面を横から輪切りにすると円形の線(輪っか)ができる事を念頭に置いて欲しい。逆円錐状の空洞に飛び出した爆轟波の状態は(逆円錐の頂点だから)最初は点状だが、爆発燃焼現象が炸薬の後方から(逆円錐型空洞の頂点から)前方に(逆円錐型空洞の底面へと)向って進行していくに連れて、点から小さな円形線へと、更に爆発が進行すると小さな円から次第に大きな円に拡がっていく。逆円錐型空洞へと射出した爆轟波は逆円錐の中心軸線(円錐の頂点から底面にかけて中心を縦に通る線)に向って収縮していく。中心軸線上の一点に向って収斂してきた爆轟波はその中心軸線上の一点(これを圧力凝集点と呼ぶ。圧力がギュッと一点に集中する箇所のこと)で互いに衝突をする。ぶつかって一点集中した爆轟波は行き場を失う格好となるので進行する方向を転換、その逆円錐型空洞の中心軸線に沿う形で、逆円錐型空洞の底面方向(炸薬でいうと前方)へと向かう事になる。この爆轟波の一点集中と進行方向の転換は、炸薬の爆発燃焼が後方から前方へと進む間(逆円錐型空洞の頂点から底面に向けて)次から次へと続けて起こる。
何故爆轟波の一点収束状態が進行方向を前方に変更するかというと、炸薬の燃焼爆発地点が後方から前方へと進むに連れて同様に爆轟波の収斂地点も逆円錐の頂点から中心軸線上に沿って前方に(逆円錐の底面方向に)向って遷移していく。後方から爆轟波の収束地点が次々ドンドン押し寄せて来るので、何も無い空間である前方以外進める方向が無いから。
すると、まるで歯磨き粉のチューブを後方から前方に向けて搾り出した時と同様に、炸薬の前方方向へと、凝縮して細いビーム状になった爆轟波の噴流が射出されるようになる。
モンロー効果が説明する様に、爆薬だけなら爆発燃焼ガスの噴流のみが飛びだす事になるが、前述した様に実際のHEAT弾の炸薬には金属板のカバーが被されている。
さて、どうなるのか?
爆発燃焼現象が進行して金属製のライナーに達すると、逆円錐型空洞へと飛び出そうとする爆轟波は金属製ライナーを超高圧力で押す。この動的超高圧が高まって行き、ある限界点を超えると(これをユゴニオ弾性限界という)金属板は固体のままで可塑流動性を持つ様になり、液体に似た振舞いをする様になる。この効果によって金属板は融着体と呼ばれる金属の塊となって炸薬の前方へと(逆円錐型空洞の底面方向へと)超音速で射出される。
もう一度ザックリと、ここの作用機序を述べる。
円筒状の炸薬が後部から前方に向けて爆発燃焼していくに従って、この爆轟波も同じ様に後方から前方に進行していく。そして爆轟波のその進行に従って逆円錐型空洞の内側に張り付けられた金属被膜も次々に流体化していく。流体化した個体の金属は炸薬の底部から先端に向ってギュッと絞られる様に細いビーム状に収束される。
これがメタルジェット(近似的液体として振る舞う固体金属の噴流)である。
そしてメタルジェット生成過程の作用機序を説明するのがモンロー/ノイマン効果である。
尚、メタルジェットは『高温の金属ガス』でも『高圧の金属ガス』でもない。
メタルジェットは、冷間(あまり高温ではない)で超音速で挙動する可塑性を持つ、液体に近似した振舞いを行う、固体の金属である。
メタルジェット形成の為には爆薬からライナーへ伝わる衝撃波の伝播速度が金属中の音速を超えている必要がある。因みに金属中の音速は3000m/s~4000m/sほど。
爆速が5000m/s以下だとメタルジェットは形成されない。
爆発で生じる燃焼ガスの平均分子量は小さく、高速でもエネルギーの総量は小さい。
ノイマン効果を利用すると質量が高い金属粒子が超音速で吹き付けてくるため、火薬のみの場合に比べて目標表面に与えるエネルギー量が多くなる。また、融着体の衝突による運動エネルギーも利用できる。
因みに、ユゴニオ弾性限界(Hugoniot Elastic Limit)とは、固体が塑性変形を開始し流体のように振る舞う領域に入る境界線となる圧力のこと。
そして塑性(=可塑性)とは、力を加えて変形させた時、永久変形を生じる物質の性質。
塑性変形には主として2種類、延性(引き延ばして針金状にする)と展性(叩き広げる事で〔金箔みたいな〕箔状にする)がある。
このメタルジェットの速度は、使用している金属の種類にもよるが、大体秒速7~9km(マッハに換算するとM20~M26くらい)で、発生させる圧力は20万気圧以上(気圧の単位パスカルでいうと約200MPa)という想像するのも難しい程の超高圧力の金属噴流である。敵戦車の装甲を破壊する要因はメタルジェットが持つこの並外れた大きさの運動エネルギー(主に活躍するのは圧力)である。射出される超高圧金属噴流は大概の金属を飴細工の様に切り裂く威力がある。
尚、メタルジェットの持つ熱エネルギーが装甲を溶融する主要因ではないことに留意する必要である。
何故か?
メタルジェットは、前述した様に、固体の金属である。
対装甲の侵徹体としてのメタルジェットは確かに塑性流動する流体ではあるが、真の液体ではない。あくまでも、固体相の金属であり、その振舞い方(挙動)が液体のそれに近似しているだけである。
固体だから、液体ほど短時間内で熱の遷移を起こせない。これを断熱系というが、炸薬の爆発という超僅かな短時間では固体の金属は高温にはなれないのだ。
だから装甲を溶融する程の超高温にはならない。
重複になるが装甲への侵徹原理、はメタルジェットの持つ超高圧力である。
(あと、速度からくる運動エネルギーも一助となっている)
メタルジェットの超高圧力が敵戦車の装甲の塑性流動を引き起こすのである。
(HEAT弾内部の炸薬を覆っている金属ライナーで起きる塑性流動〔メタルジェットを発生させるもの〕と、HEAT弾が敵戦車に着弾した直後に発生したメタルジェットが装甲を侵徹する時においてもメタルジェットがもたらす超高圧力で今度は敵戦車の装甲が塑性流動を起こす。この一連の過程において塑性流動は合計で2回起きていることになる)
HEAT弾(というか成形炸薬弾)は第一次世界大戦の直前に登場し、実戦使用されたのはWWIの主に独ソ戦から、とされている。
リアクティブ・アーマーはHEAT弾が着弾するその瞬間に自ら爆発を起こす事によって、吹き付けられるメタルジェットの形成を妨害し、無力化する効能を備えられた装甲である。
当然の事だが、ピンポイントに同じ場所へ着弾した2発目のHEAT弾に対しては何の効力も発揮できない。
しかし全ての要素が流動的な戦場において、全く同じ場所への着弾はほぼあり得ないから、そんな心配をするのは杞憂に過ぎないとも言える。
ま、神様じゃないんだから、寸分違わずに同じインパクトポイントなんて、絶対に無理。
あと、リアクティブ・アーマーが作動した時、戦車の周囲にいる歩兵が負傷する危険性が高いのだけれど、筆者の知り合いの元米国陸軍大尉に言わせれば、そんな所をウロチョロしている方が悪いのである。見た目が非常に頼もしい戦車の周囲、ついつい寄る辺にしたくなるが、実は歩兵にとって超危険地帯である事は練達の兵士達にとっては至極当たり前の常識だから、だ。まさしく『君子(?)は危きに近寄らず』である。
因みに現在は複合装甲の採用が主流となっている。防御力の高さと維持性・保持性の高さがその理由である。
さて、集めた資料を基にこの注釈文を書き連ねてきたが、筆者はHEAT弾に関して1つの疑問を抱えている。
それは『炸薬が爆発した時に発生する燃焼ガスが、敵戦車の装甲に何の影響も及ぼしていないというのは、事実なのか?』ということである。
溶融した金属板の微粒子が混ざった爆発燃焼ガスが猛烈な勢いで装甲に衝突、その結果として装甲に孔が穿たれる。この作用機序の方が直感的に考えた時によりすんなりと納得がいくのだが、どうだろうか?
ま、資料を読む限り、メタルジェットの説明に関して論理的な破綻は見つからないから、概ねの所はこの説明で正しいのだと思うけれど...
自分で実験をした訳ではないので、それに関しては何とも言えないのが、今現在の正直な気持ちではある。
ま、HEAT弾の爆発実験なんて不可能ではありますがね、この国において。
村上龍の『半島を出よ』じゃあるまいし。

注5:APFSDSとは何ぞや?
これは『Armor-Piercing Fin-Stabilized Discarding Sabot』の略称で、姿勢制御翼付きで戦車の砲塔の内径にピッタリと符合する為のカバー(砲口から弾体が射出した後、自動的に分離する)で被覆された装甲貫通用徹甲弾、という意味である。
ま、ザックリ言うと、戦車の装甲を貫くのに特化した砲弾(徹甲弾)である。
装甲貫通の作用機序を超簡単に説明すると、以下の通りである。
この弾体は1500m/s前後で飛翔する。
敵戦車の装甲に着弾すると、装甲と侵徹体は狭い領域で超高圧で圧縮される為に塑性流動を起して両者は流体化する。そして相互浸食を起こし、装甲の持つ機械的強度を無視して侵徹体は装甲を貫徹する。
この侵徹は装甲に対してほぼ平行に着弾した場合を除き、跳弾を起こす事は無く、滑らすという意味での避弾経始はほとんど機能しない。だから、避弾経始を考慮した砲塔は開発されなくなっているのである。矩形の、詰まらない形状の砲塔ばかりなのも仕方無いかも。
尚、APFSDSが装甲を貫通する為には、
1)着弾の速度。
2)侵徹体の長さ。
3)座屈しない為の靱性:座屈とは、物質が圧縮された時に、ある閾値を超えると急激に破壊が進行する事。
4)展性(金属を叩き広げた時の面状になりやすさ)の高さ。
これら4つの要素を考慮しなければならない。
APFSDSは、着弾の速度が低速ならば従来の徹甲弾よりも貫徹力は劣る。
侵徹体の材質としてはタンタルが理想的であるが希少であり高価なので、代替物質としてタングステン合金を使用する。

私とケンゴ vol.14

私とケンゴ vol.14

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-10-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted