私とケンゴ vol.13
「じゃ、ばんゴハンに、いこっか」ってケンゴくんがいった。
ばんゴハンは、このおへやじゃなくて、ベツのバショなんだって。
ケンゴくんがワタシのテをにぎって、あるきだした。
よかった。
さっきはナンかヘンだったけど、イマはもういつものケンゴくんにもどってる。
さっき、おフロで沙織さんとナニをおしゃべりしたのか、きかれたトキに、
『ないしょ』ってこたえたら、ケンゴくん、キューにヘンなかんじになっちゃったから、
ワタシのせいかもしれない、っておもって、だから、
『ワタシ、ナンかヘンなコト、いった?』って、きいたら、
『ん、ナンでもないよ。スコシ...ダイブ、おナカが、へっちゃっただけなんだ』
ケンゴくんは、ソウこたえたけど...
でも...
むりして、ケンゴくんはムリしてそういったんだ、ってかんじた。
だからワタシも、がんばって『ケンゴくんは、イッパイたべるもんね』っていったけど...
ダイジョブかな?
っておもってたけど、イマはもうダイジョブになってるから、ホッとして、あんしん。
ホントに、おナカがスイてただけなのかも。
もし、そうなら、ケンゴくんって、めちゃめちゃクイシンボさん、だ。
んーん、ケンゴくんは、ホントにタクサンたべるけど。
ちっちゃかったから、あんまりヨクおぼえてないけど、
マチダのパパは、そんなにタクサンたべなかった、とおもう。
どーでもイイやつらだけど、ママのオトコたちも、ゼンゼンだった。
ワタシはやっぱりケンゴくんみたいに、タクサンたべるヒトがいい、っておもう。
ナンか、タクサンたべるトコ、みてて『アンシンする』ってカンジがするから。
でも、ケンゴくん、あんなにタクサンたべて、ドコにいっちゃうんだろ?
あんなにタクサンのたべもの、からだのドコに、はいってるんだろ?
ママよりもちっちゃいのに、ママよりもスッゴクたくさん、たべるから、
ドコにいっちゃうのか、ホントにフシギ。
ケンゴくん、ゼンゼンおデブじゃないし、ドコにきえるんだろ?
まぁ、ドコにいってても、ぜんぜんイイんだけど。
だから、クイシンボのケンゴくんとテをつないで、ローカをあるいてく。
ポクポクって、あるいてく。
やっぱりケンゴくんのテは『ぽかぽか』してるって、おもった。
やさしくて、あったかい。
ホントになんか、いいカンジ。
3日まえとか、キョウのアサとか、
ケンゴくんと、テをつなぐとスコシ『ん?』っておもった。
はずかしいって、おもったし、
なんか、ギクシャクしてるカンジって、おもったし、
パパかどうかわからないケンゴくんとテをつないでも『イイのかな?』っても、おもった。
でも、イマはもう『ふつう』
ケンゴくんとテをつなぐのが、ふつう。
ホントの、ふつうのコト。
ソレが、ふつうってコトが、ゼンゼンうれしいんだけど。
うれしくてほっぺたがカッテに、ニコニコしちゃう。
ウレシイから、ケンゴくんにきいてみた。
「ねぇ。ばんゴハンに『タイさん』でるかな?」
「そうだな。あかいタイさんはでるかもしれないけど、くろいタイさんはでないかも」
「どうして?」
「くろいタイさんは、ようしょく...そんなにイッパイとれないと、おもうんだ。
あかいタイさんは、ケッコウとれるから、あかいタイさんはでるかも、しれないよ」
ケンゴくんがソウこたえたので、
そっか、あかいタイさんの方がイッパイとれるんだ、って、わかった。
「でも、でても、おサシミだとおもうから。まるごとのタイさんとは、あえないかも」
ケンゴくんが、ワタシをみながら、ソウいった。
そっか、おサシミか。
きりみじゃ、タイさんかどうか、わからないかも...
「おサシミ、しってる?」
ケンゴくんがきいてきたので、ワタシはコクンってして「しってるよ」ってこたえた。
「すごいな、しってるんだ」って、いって、
「おサシミ、たべられるかい?」って、ケンゴくんがきいてきた。
マグロのおサシミはスキだから...
「たぶん」ってコクンした。
「コドモようにアレンジしてくれって、たのんだからダイジョウブだとおもうけど…」
ケンゴくんは、ジブンにきかせるように、ちいさいコエで、いった。
ワタシ、もうコドモじゃないもん。
チョットくやしかったから、ほっぺたがカッテに『プクッ』となった。
ケンゴくんは、きづかなかったみたい、だけど。
これも、まぁ、イイか。
エレベーターに乗って『4』と印字されたボタンを押しながらイトに伝えた。
「晩ご飯の場所は4階なんだって」
「ふーん」イトが『4階』という情報に興味なさげな返事を寄越した。
反応、薄っ!
「赤くても、鯛さんがいるといいね」と水を向けると、
「いるかなぁ?」と彼女は僅かな懐疑を示した。
「鱸さんもいるかも、知れないよ」オレが言うと、イトは少し笑いを含んだ声で、
「スズキさんって、人の名前みたいだね」とボソッと呟いた。
「ホントだ」と言って顔を見合わせると、イトの笑いが明確に露呈した。
ひとしきり笑い合った後、オレ達はドアの上側に設置された表示板に眼を移動させた。
固く閉じたドアの上側で漸次明滅しながら移動して行く数字に2人とも視線を固定して、今エレベーターの『搬器』が何階を通過中なのかを確認していた。オレの知る限りでは、無駄話に夢中になっている阿呆なカップルを除けば、エレベーターに搭乗するほぼ全ての人々が表示板に眼を奪われている。その理由を調査した訳ではないが、多分狭い閉鎖空間に多くの他者と供に押し込められている、というストレスフルな状況から一刻も早く脱出したいと心底から希求していて僅かな希望をそのポイントに、『表示版』を見詰めるという行為に掛けているのだろうと推察する。まるでその部分に睨みを利かせれば搬器が1秒でも迅速に望みの階へと到着するかの様に。
オレに言わせれば、ソレは全くの無駄な行為に過ぎないが。
成田屋ばりの睨みをいくら利かせようとも、搬器の移動速度が変る事は無い、絶対に。
<その表示を見ているのは単なる習慣に過ぎない、と思うけど>
そういえば『閉』というボタンに高橋名人の如くの連打を浴びせて可能な限り早くドアを閉めようとしている人をよく見掛けたりもする。が、その行為は逆効果にも成り得る。
エレベーターの製造会社や機種自体によっても異なるが、ボタンを2度押す事で選択行為を『キャンセル』する機能を備えた搬器も存在するからだ。
つまり、その様な搬器で『閉』のボタンを連打するという事は、以下の様な帰結となる。
まず一回目のプッシュで『ドアを閉じる事を命令』するが、しかしながらコンマ5秒も間に置かない、続く二押し目で折角のその『閉じる』という命令を『キャンセルする』という選択を(無意識に、しかも意図に反して)してしまう。そのような両者相反した『命令』の決して終わらないループをグルグルと周回し続けるという『千日手』に陥ってしまう。
<まるで誰がが唱えた『永劫回帰』の地獄絵図、みたいだな>
そうだな。
ま、大概は連打のタイミングがズレる事で『閉まる』んだけど、ね。
<搬器のコンピューターに組み込まれたアルゴリズムが搭乗したお客の行為の意味を勝手に類推する事で『ドアの閉鎖のキャンセル』を『キャンセル』する場合もあるが、な>
ま、ドアを開けようとする場合、まずは『開』と印字されたボタンを押すだろうし、な。
<高齢者になると、違うボタンに手を添え直すという転換行為が困難になるけども>
それでも『開』の方を押す、だろうよ。
<クルマの、スロットルとブレーキの踏み間違いの原因はその転換行為の困難さだけど>
...
オレはふと自分の左手に視線を落とした。
あまり力を籠めないでイトの右手を軽く握りしめているが、とても自然な振舞いに映った。
実際、3日前、初めて会った時よりも格段に、手を繋ぐという行為を『自然』に行える。
46時中ずっと繋いでいる訳ではないが、必要な時にはどちらともなく『自然』と手を繋ぐ様になっていて、もうコレがオレ達2人の仲でデフォとして確立している。
最初に手を繋いだ時に持った、パズルのピースを間違った箇所へ無理矢理押し込めた様な、何処か何かシックリきてない、微妙な違和感がもう訪れる事は無くなったし、本当の親子なのかどうかハッキリしていない事情から生まれる、切っ先の鈍い緊張感に襲われる事も無くなったし、オレとイトの間に横たわる繊細であえかな関係性を維持する為に気を張り続けなければならないという必要性も気付いたら何時の間にか舞台袖裏に引っ込んでたし。
何だろうか、手を繋ぐ事が『当然』の様になってきている、そんな感じがする。
だから、本当に『自然』だ。
そしてオレは何かに憑かれた様に一心不乱に通過階の表示を見続けているイトを見降ろしながら、彼女が現在顕在化させている振舞いというモノに内心で結構ビックリしていた。
これほどイトの他者に対する態度が開放系に変転するとは、全くの想定外の現象だった。
もっと閉鎖系の、人見知りとしての側面が前面に押し出て来るのだろう、と予期していた。
しかしその予想は良い意味で裏切られた様だ。
イトに裏切られる前のオレなりの想定に従っての判断だったのだが、晩ご飯は広いお食事処で摂るという事を伝えられていたので、ま、衝立等で個々のブースにはパーテーションが施されて一応それなりのプライバシーは確保されている事くらいは容易に想像できたが、それでも仕切り越しとはいえ大勢の人々の喧噪の中で食事を摂るという、ある種の緊張を強いられる状況よりも、個室を取って2人だけでヒッソリとやる方が良策であると思って食事の席の予約をした訳だが、こういう事態になってみるとソレは単なる考え過ぎの取り越し苦労、要らぬ気遣いだったのかも知れないとも、今になったら、思える。
だが、ま、そんな経緯などは、今更の事であって、どうでもいっか。
チンという小気味良いチャイム音が鳴ると同時にドアが左右にビローンと開いた。
視界の片隅で4階である事を確認してからエレベーターから降りた。
由比のPAでホテルの予約をした時、ついでに食事処の個室の予約もしておいた。
そのアレンジメントを担当してくれたコンシェルジュが指定した割烹処『汽水亭』は降り立ったエレベーターホールの正面ど真ん中にドデーンという具合に堂々と鎮座していた。
ホテルのお食事処として主戦級であるという事実が、その位置設定からも簡単に窺えた。
黒服を身にまとった背の高い男性が、その受付に着いている様子が見て取れる。
手を繋いだままイトをソウっと誘導する様にソコへ、ツラツラと歩み寄って行った。
近付いて行くに従って黒服の男の背丈が遠近法を無視する様にドンドンと巨大化するのが解った。最終的には、思わず『デカっ!!!』と胸襟の内で独りごちてしまう位のデカさまで男の背丈は伸長した。控えめに見積もっても軽く190をオーバーしてるだろうか?
一体、何を喰ったらこんなに巨大化できるんだろうか?
そういう素直な疑問が皮質上に浮んだ。
『成長ホルモン入りの食物を実験的に与えられたんじゃないか?』とさえオレは訝った。
少なくとも米だけじゃコレほどの成長が不可能である事は、容易に推察できるが...
<やはり肉、タンパク質じゃないか?>
ま、人体の主たる構成要素はタンパク質だから、な。
<骨、ですら、な>
男の肩幅は反物用のハンガーの様に横方向に異様な程に広いが、その身長に比した場合には不釣り合いな位の痩せ具合を顕わにしている。だから外観から受ける印象は、まるで人間大の初號機、汎用人型決戦兵器だった。
<色味からいえば初號機よりも、参號機の方がまだ近いけど>
手斧でハツった様な削がれた両頬の辺りの佇まいが獲物を狙うハシビロコウを連想させた。
相貌だけではなかった。
食餌を得ようと寄ってくる宿泊客を1人残さず見逃さずに素早く対応する為にジッと凝固して人々を待ち構えている様は、足許に蠢く肺魚を察知するために斥候兵の様に『氷結』して動かない彼の鳥を想起させるには十分な威容だった。
その厳然たる姿態からオレは一種の恐怖心と忌避心を抱くという事態に容易に陥った。
正直、用事が無かったならそのまま何も関わらずにソッとスルーしたかったが、しかし胃の腑からの『Almost starving(このままだと餓死直行)』を警告する緊急速報が鳴りっ放しである。仕方無いので安全確保の為に声が届くギリギリの範囲に留まったまま、なるべく状況を荒立てない様に可能な限り静かな落ち着いた声で部屋番号と名前を、告げた。
発した言葉に反応して件のハシビロコウ氏が眼だけをジロッと動かしてオレを注視し始めた。彼が眼球を動かした時は本当に『ギロッ!』という擬音が鳴り響いた錯覚を覚えた。
まるで沼の底を伝わって来た振動を感知して分析し、肺魚の動きを推測しているかの如くに思えた。ハシビロコウ氏の眼は猛禽類というよりも、彼の鳥のご先祖様である筈の恐竜を想起させる類いのソレだった。もちろん実際に恐竜と御対面した事がある訳では無いが。
アレッ?
ジュラシック・パークに出演してた『Tyrannosaurus-rex』に白目ってあったっけ?
<現生生物では『Homo sapiens』だけが字義通りの『白目』を備えている筈だが>(注1)
「六分儀様、ですね」お待ちください、と言ってから男は手許の機器のタッチパネルの上に太く長い指を走らせた。そのタブレットを操作する手を見たら石工の様なゴツさをしていたが、その動きに一切の無駄は無く、あくまでも優美であった。
胸に付けられた名札からは彼の苗字が『佐分利』である事が分明できた。しかし男性の外観から推量するに苗字は『井之頭』で名前は『五郎』であるべきだという結論に至らざるを得ない。そういう、際立って魁偉な容貌をしていた。
「確認いたしました。2名様の利用として個室のご予約を承っております」
絶対的に『井之頭』という苗字でなければならない姿容をした男性従業員さんは、眼許と口許に微笑と形容できる表情を浮かべながら、オレ達にそう告げた。
多分、雰囲気を和らげる為の職業的な笑みなのだ、と解釈したが、だとしたら逆効果だ。
『井之頭』さんが本質的に備えた怖さを倍増させるだけだった。コレほどに身体がデカいと何をドウしたって威圧感は払拭できない。彼にとって微笑は、COCO壱のカレーに振り掛けて辛さを増加させる追っかけスパイスとしての役割しか果たせていない。すればするほどにお客さんの恐怖心を反対に煽り立てる結果となってしまう。
『この人、よく受付業務を任されたな。警備担当とかの方が適任じゃないのか?』
そう思って彼の胸に掲げられた名札の表面を再確認したら、そこには『副支配人』という文字が載っていたので、軽い衝撃に曝されると同時に結構なレベルで驚いてしまった。
『何だろうか? 人手が足りなくて駆り出されてしまったのか?』
<それとも本来受付を担当している人が、急遽病欠または失踪したとか?>
かも知れん。
そんな風に色々な事を類推していると、メンフクロウを思い起こさせる風貌をした30前後の女性従業員さんが羽音を立てずに受付のブースまで歩み寄って来ていた。
すると件の『井之頭』さんが「ご案内いたします」とオレ達に告げた後、
傍らに立つメンフクロウさんの方に顔を向けて「お願いします」と個室への案内を託した。
メンフクロウさんは『井之頭』さんに軽く頷くと、
「こちらになります」と言ってから、オレ達を先導する形で案内を始めた。
オレ達を引率するメンフクロウさんの名札には『金原』と記されているのが見て取れた。その漢字2文字の上側にやや小さいめのフォントのローマ字で書かれたスペリングがルビの様に振られていたが、オレ達に一礼した後、間髪を入れずにメンフクロウさんがサッと振り返って先導を初めてしまったので、何と綴られていたのか、明確に把握する隙が全然与えられなかった。それでもソコソコ俊敏な視覚器官を備えているオレは、最初の文字が『K』で最後の2文字が『RA』と書き記されている事だけは、どうにか認知できた。
オレがまだ学生だった頃に、ある超有名な文学賞を獲得した女性の苗字が同じ『金原』という綴りで、確か『カネハラ』と読ませたと記憶している。だから恐らくメンフクロウさんも同様に『カネハラ』さんなのだろう。そう考えるのが一番シンプルな推論だ。
自然科学の世界でいう所の『Ockham’s razor(オッカムの剃刀)』である。(注2)
折に付け、ジイちゃんは『真理は美しいだけでなく、シンプルでもあるはずだ』と言った。
普段は小説等という小難しいヘンチクリンな代物にトンと御縁が無いオレだが、その時は女性、しかもうら若き妙齢の美女が2人で同時受賞するという、エポック中のエポックメーキングな出来事でもあったので、文学界を超えて一般社会までもが一種のフィーバー状態の大騒ぎへと発展してしまった、という事もあり文芸界に疎いオレの皮質のシナプス回路にも鮮烈に保持される顛末ともなったのだった。そういう経緯でもなければ文学賞の受賞者の名前など興味対象の範囲を完全に逸脱した事象で、通常のケースだったら記憶に留めようなど一考だにしなかっただろうし、端から歯牙にも掛けなかっただろう。
ま、全くの向こう発信の完璧な受動的行為だったのだが、幸運(?)にもこうやって現在も忘却の彼方へと消え去る事無く、記憶の貯蔵室に収納されていたという訳だ。
前を行くメンフクロウさん改め『カネハラ』さんはオレより数cmほど身長が低く女性らしいホワッとした姿形をしている。早見さんが着用していた作務衣と同じような縹色の生地の着物に身を包んでいた。しかし身体の動かし易さが洋装と何ら変わらない作務衣と違って、体捌きに独特の所作を必要とする和服を召している割には自然で優雅な振舞いを見せながら彼女はスタスタと内股で歩いて行く。
綸子模様というか綾織り模様というか、絹布では無さそうなので一体何と表現するのかチョット判らないが、染付けではなく糸の織り方によって形成された模様が浮かび上がる生地の下で蠢くおケツが非常に艶やかな動きを見せている。
着物を召している女性の姿は何故こんなにも蠱惑的に網膜の上に像を結ぶのだろうか?
とても不思議な事象である。もしかしたら、オレだけか?
この彼女の美しい姿態に比べれば和装を着馴れない若者たちが浴衣を着て両さん張りのガニ股で打ち上げ花火の会場を闊歩する姿は荒っぽ過ぎて見ちゃおれない限りである。
全く、ホントに嘆かわしい。
着付けや着物の所作を親御さん達から教わっていない事実がバシッと丸解りである。
そーゆー婦女子どもは『抜き衣紋(ぬきえもん)』の意味すら知らんのだろうよ。(注3)
<今の10代の若者の親世代の人々も着物なんか着た事ないだろ、成人式以外では>
自分の知識や経験の中にない物事については、具体的な事など何も教えられない、か。
<そン通り、じゃ>
しかし、そんな事がまかり通っているなんて、ホントに和装ってこの国の正装なのか?
着付け方や着物を着るって行為が、特別な知識や体験となってしまった現代において?
そんな大仰な事を考えながらメンフクロウさんに付き従ってプラプラ歩いて行ったら、最終的に一番奥側に位置する個室へと案内されることになったのだった。
メンフクロウ...えっと『カネハラ』さんは穴1つも開けられていない真っ新の障子戸を引き開けて、一番奥まった所に在る小さな部屋へとオレ達を誘った。
「六分儀様、こちらになります」
イトが不思議そうな顔付きで個室の内部隅々まで興味津々の視線を走らせる。
畳敷きの部屋が余程珍しいのかな?
このホテルに到着した時、部屋の中をキョロキョロと眺めまわした事を思い出した。
町田のアパートはフローリングである事はまず間違いのない所だろうし、な。
「さ、お上がり下さい」メンフクロウさんがオレ達に促した。
先にイトを部屋に上がらせる事にした。
「イトちゃん、お先にどうぞ」
彼女はオレの顔を見上げて一瞬だけ戸惑いの香りを漂わせたが、すぐにコクンと頷いて沓脱石の上に雪駄を脱いで、上り框を跨ぎながら「んしょ」と声を漏らつつ部屋に上った。
浴衣の裾捌きがまるで板に付いていない。だから部屋に上がるだけの大人には何でもない事がイトにとって、とても難儀そうに見えた。両手を使いながら必死に『登って』いる。
しかし、彼女のその行為は拙いというよりも稚いモノに感じられ、非常に可愛い仕種として眼に映った。イトの部屋への『登山』をこのままジッと観察していたい気持ちが無い訳では無かったが、この事態を放置して、もしも後ろに引っ繰り返ったりとかしたら大事になるのは自明の理だったから「大丈夫? チョット手貸すね」と一声掛けてから補助する為に彼女の両方の腋窩の下に手をソウっと差し入れて無事に部屋に上がれる様にヒョイッと、小さな子供をまるで『高い、高い』する様に持ち上げる感じで、部屋へと押し上げた。
「ありがと」
コチラ側を振り向いてイトが端切れの様な短いお礼を吐いた。だが彼女の言葉の余白には『自分で出来るから、放っておいて』という軽い抗議が包含されている事に気付いた。
しまった!
余計なお世話だったか。
承諾を得る事無く唐突に身体に触れてしまった事も彼女が不快感を覚えた一因かも知れん。
何事も無く部屋に上がり終えるとイトは半身だけコチラに向き直り、上半身を屈めて手を伸ばして脱いだ自分の雪駄の向きを整えた。その所作は自然でとても『あどけない』と形容できる子供の振舞いでは到底、無かった。履物を揃え終えると身体を起こし直して顔を上げオレの双眸をジッと見据えながら、ニヤッと笑った。
極微量の邪気が含まれたチェシャーキャットのような笑み、本当に母親ソックリだった、
まるで遊び仲間の男の子が秘密裏に為した悪戯を目敏く発見できたオシャマさんの様な。
その笑顔に少なからぬ動揺を誘われてオレは内心アワアワしてしまっていたのだが、それに気付く素振りは微塵も顕わにせずにイトはシュッとテーブルに着こうと急ぐ。
ま、余計な手助けは不問に付する、という結論に帰したらしいので一応、ソコは一安心。
ホッと安堵の息を吐きながらオレも部屋に上がる為に履物を脱ぐ。
結衣のイトに対するマナーの教え方というか『躾』はオレの見た所ではほぼ完璧に近い。
しかし、脱いだ履物の揃え方をマスターさせる前に、もっと教えておかなきゃいけない事がもっと他に一杯あるんじゃないだろうか?
オレは釈然としない何物かを感じながら、イトに続いて部屋に上がった。
通常なら履物は脱ぎっ放しにしてしまうオレだが、先程の所作を見せたイトの手前、ここは大人として相応しい振舞いを毅然と示す必要を強く感じた。だから振り返ってから上り框越しに手を伸ばして自分が履いていた雪駄の向きを直した。
<そんな事くらいで大人としての『威厳』が保たれると思ってたら完璧に甘ちゃんだぞ>
そういや茶道では、離れの茶室に入室した時に『入ってます』を示す合図として脱いだ草履などを躙り口の横に立て掛けておくそうだ。もしかして結衣はそういう事まで教えてんじゃないだろうか?
もし、そうなら、それは物凄いオーバースペックだと痛感する。(注4)
んー、何かが全然、納得が行かん気がする。
もっと子供っぽい行動っていうか、行儀悪さっていうか、それって必定じゃないのかな、子供時代に付き物のお約束って感じで。
<この世界には多様な人間が多数共存している。自分の矮小なコモンセンスで全ての事を判断しようとするな。そんな事よりも浴衣の袂が上り框を舐めそうだぞ、気を付けろ!>
了解、ミスター。
アレっ? コレも『上り框』って呼ぶのかな?
<多分、そうだろ。他に何て呼ぶんだ?>
(筆者注:框〔かまち〕とは、床の端に渡す横木。上り框は家の上り口にある框の事)
雪駄を揃え終えてから顔を上げると、それを待ち構えていた様に『カネハラ』さんが、
「六分儀様。ただ今、お食事の支度に係りの者が参りますので、しばらくお待ち下さい」とお辞儀と供に言い残して、立ち去った。障子は閉め切られてはおらず、10cm程度の細い隙間を残して、薄っすらと開放されたままに捨て置かれている。
障子に『手がかり』を残して行った、という訳だ。
なるほど、メンフクロウさんが給仕を担当してくれる訳ではないのだな。
まさかこのご時勢にお客さんを個室に案内するだけが彼女の仕事という事でもないだろうし、多分この割烹処全体を担当している統括マネージャーといった所だろうか。
振り返って視線を移すと個室の中は10畳ほどの畳敷きになっていた。
家具がひとつも置かれていない部屋は数字以上に大きく感じられる。2人きりで使用するには幾分か大き過ぎて気が引ける位な感じだ。部屋の中央に落ち着いた檜皮色の重たそうな木製のテーブルがドンと鎮座されている。ぶ厚みのある天板の上には既に数々の料理が盛られた皿や鉢などが配膳されていたが、明確に判る位のスペースが所々に空いていた。
きっと後から追っ掛けで別の料理が運ばれてくるのだろう、と推察した。
放置しておいて冷めたり温まったりしたらマズイものかも知れないな、刺身とか椀物とか。
もし、そうだとしたら、嬉しい気遣いでは、ある。
だから、メンフクロウさんは障子を完全に閉めて行かなかったのだ、と当て推量した。
この個室の担当者が給仕を支障なく引き継いで滞りなく作業しやすい様に。
<おい。メンフクロウじゃなくて『カネハラ』さんになったんじゃなかったのか?>
並べられた見るからに美味そうな料理には全く眼もくれずにイトは窓に齧り付くようにして外を覗き込んでいる。壁一杯に拡げられた大きなガラス窓は、方向からすると遠州灘側に面しているらしいのだが、とっくに残照の余韻すら完全に退場していて、代わりに夜の緞帳がドップシと降りて来ていて周辺を闇の中に沈み込ませていた。
と言っても、漆黒の闇夜という訳ではなくて齢12の月が煌煌と輝いていて浩々とした湖面を皓々と浮かび上がらせている。月照だけでは弱過ぎて暗く全貌の隅々まで捉えるのは難しいが、これもある種の浩然と広がるオーシャンビューだ、夜景だけど。
太陽の光が燦然と照らし出す浜名湖の偉容も素晴らしいが、月明かりの落ち着いた光量の中にボワッと静かな姿を顕わにしている落日暫くの後の汽水湖も相当に素敵だ。
東岸からスウーッと伸びる一筋の白い光条が細かな波紋に打ち砕かれて、ひび割れた鏡像が前後左右に揺さぶられている様子から微細で有機的な脈動を感じ取る事が出来た。
まるで地球が息衝いている情景っていうか、その心臓が拍動する様態を見ているみたいだ。
眺めていて全然飽きがこない。イトも魅入られているかの様に見続けている。
ふと、厚いペアガラスを貫き通して湖面の上を渡ってくる漣の聲が聴こえる様な気がした。
<幻聴だよ、ただの>
息を潜めて深い淵の底へ降りて行く様な夜の海の眺望(汽水湖だが)に魅了されているイトは放っておく事にする。気が済むまで好きな様にさせておくさ。
彼女が虎口に踏み入る、イヤ、近寄らない限り、余計な世話は焼かない事にした。
しかし新米パパにとっては、何が余計で何が必要な事なのか、ちょっと判別しかねるけど。
先程、部屋に上がる事を手伝った行為は、必要だったのか、不要だったのか、どっちだ?
彼女の反応からすると、明白に余計な御世話だが、あのまま放置して後方にデングリ返しされたら大惨事になるのは確実だし、一体どうすれば適切な行為だったのだろうか?
引っ繰り返った場合に備えて、イトの身体を受け止める態勢で待機していれば良かった?
そんな事を思案しながら席に付いた。
テーブルの下が掘りゴタツ式になっていて脚の置き場に難儀しないのが嬉しい。
ま、掘ってなくても始末に困るほどオレの脚は長くないんだけども。
天板の上に並べられた料理にサラッと一瞥を走らせた後に、ある事実に気付いてオレは依頼した物事がホテル側によって適切に履行されているのか、やや鈍重な訝しさを覚えた。
様々な料理を容れた食器が2セット、2人分とも寸分違わぬ全く同じ品々が載っていた。
オレの記憶が確かならば、予約の電話を入れた時に料理を1人分、子供用にアレンジする事を依頼して快諾してもらった筈だったからだ。
『何か手違いが発生したのだろうか? もしそうならコチラ側でアレンジしなければ』
幸いなことに、イトの味覚の具合は大人舌の範疇だ。
これから新たに子供用の食事を用意させるのは時間と手間が掛かり過ぎておよそ現実的ではないから、料理のオールメンバーが揃えられて後に全体像をザックリと見渡して、イトが食べられるモノだけを彼女に食べさせる。もしも不足が発生しそうであれば一品料理の一覧表の中から適当に見繕って追加注文をすれば十分に事が足りるだろう。
だからオレはテーブルの端に醤油容器や爪楊枝容れなどと一緒に立てて置かれたお品書きを取り上げ、そこに記された内容を調べながら事後対応策を思案し始めた。
そうやってやや草書寄りの楷書で記された料理名から、その概容を想像している時に、
「お待たせしました」という声が掛けられ、障子戸が横にビローンと引き開けられた。
声がした方向に首を振り向けると和装姿の女性が1人、立っていた。
女性は外見から判断するに20代後半から30代前半といった所で『カネハラ』さんと同じ縹色の着物を召している。身の丈はタバコ一箱分位オレよりも高いように見受けられる。
細身だがシュッと引き締まった身体付きをしているから、恐らく昔は何らかのスポーツをしていたに違いない。明るく透明感のある琥珀色をした肌をしていて腕・脚が長い。肩幅はそれ程広くなく女性としては普通のサイズであるから、元水泳選手とかではなさそうだ。
ペコリッとお辞儀を1つした後、上げられた顔を一瞥して決して軽くない衝撃を受けた。
彼女の相貌が美穂子にソックリだったから、だ。
「それではご用意をいたします」
その言葉を発してから従業員さんは運搬してきたワゴンから大きな長方形の木製のお盆を取り上げて、障子脇の畳の上に置き直した。搭載された料理を一切揺動させない無駄のない非常にデリケートな動きだった。その素振りの中にオレのショックに気付いた様子は微塵も窺う事は無かったので、フウッと胸襟の内で安堵の息を漏らした。
「失礼いたします」と声を掛けてから、従業員さんは部屋に上がって来た。
立膝を突いてお盆に載せられた数々の食器をテーブルの空いたスペースに鮮やかな手捌きで次々に配膳して行く。片手で袂を押さえる仕草が妙に艶めかしく眼に映った。
従業員さんが身体を動かす度にアップに纏め上げられた髪の毛が左右に軽く揺れる。首筋に向けて流れている後れ毛が女性としての属性をより一層高めている様に感じた。
袖口からチロチロと覗く素肌のカラメルフリーのポールジローの様な琥珀色を眩しく思う。
失礼にならない範囲でチラチラと従業員さんの顔に視線を走らせて仔細をチェックした。
注意深く振る舞っているつもりでも、ついつい凝視をしてしまうのは否めない。
<仕方無いさ。初恋の人だし、初めての女性だし>
自分に備わった自制心を可能な限りにフル稼働させ、気取られない様に断続的なガン見を浴びせ続けた。その結果、従業員さんは概観的に美穂子に似た相貌をしていたが、微細な個所を皮質内の記憶と照合すると様々な相違点を発見できて、本当に別人である事を漸く判別し得たから、少しだけ動揺が沈静化した。だから、とりあえずホッとする。
しかし、似ている。
ドッペルゲンガー(筆者注:doppelganger:本来は生霊〔wraith〕の事で『瓜二つの人』の意味でも使う)ってホントなのかも知れない、と錯覚する位に瓜二つだった。
名札を確認する余裕が持てたので眼をサッと走らせるとソコには『金原』と記載されていたから『この地方に多く見られる苗字なのだろうか?』という素朴な疑問が浮かんだ。
先程のメンフクロウさんのケースと違ってより近傍でジックリと観察する機会を与えられたのでローマ字のスペリングを確認すると『KINPARA』と記されていた。
キン...パラ...?
『キン』の方は、まぁ良いとして一先ず横に措く。
『パラ』だって?
日本の姓名に『パ』のような半濁音が含まれているケースがあるのだろうか?
オレは皮質内に蓄蔵されている長期記憶の『陳述記憶』>『意味記憶』の一覧表を検索してみたが、ついぞ見聞きしたことが無い、という結論に達した。
『何かの間違い、スペルミスか印刷のミスだろう』
だから、姓名の半濁音問題に関してはこのまま、おざなりにしておく事にする。
美穂子との差異を更に見つけ出して、心の不安定さを解消する方が先決事項だ。
決定的な違いは、この『KINPARA』さんはシュッと目尻が釣り上がっているが二重瞼だ、という事だ。美穂子は奥二重だった。眉も綺麗に整えられていて、アイブロウのラインもキチッと引かれている。美穂子は眉に剃刀を当てた事も無かったんじゃないか?
ま、その必要が無かっただけかも知れないけど。高校生だったし、今とは時代が異なる。
しかし、優しげだが力を内に秘めたように感じる瞳の色は美穂子と同じ榛色だった。
比較対照した時、この『KINPARA』さんの唇の方がややプックリとしている印象がある。
美穂子は、どちらかというと薄い口唇をしていて、自身はそのパーツ構成をあまり好んではいなかった。オレは彼女の笑った顔が好きで、その笑顔の中で最も強い印象を残すのが眼と唇だったから、その両方が本当に心の底から好きだったんだけど。
美穂子は『KINPARA』さんほどシッカリした体躯を持っていなかった。
もっと線が細い感じ。
肌の色も透明感は備えていたが琥珀色ではなく、静脈が青白く透ける乳白色だった。
レオナール・藤田の描く少女の様な。
だが、美穂子は無限の約束の可能性を連想させる脈動のようなモノを身体全体から発散し続けていた、そんな様にオレは常に感じていた。この『KINPARA』さんに同じ様な現象は現段階において、見受けられない。もっとも、親密性がより増せばそういう刺激も放射されてくるのかも知れないが...
そうやってチラチラと『KINPARA』さんを横目で観察していると、別の方向から力強い視線を感じた。視線の発生源を探ろうと半ば無意識に顔を振ると、闇に沈む汽水湖の眺望の魅惑から離脱して何時の間にかオレの真正面にチョコンと座っていたイトが、何か含みのありそうな顔付きをしながらオレの顔をジーッと見詰めていた。彼女の極僅かに青みを帯びた黒い虹彩の中に自分の顔が映り込んでいるのを発見した時、不意に合わせ鏡が創り出すドミノ状態に増幅された写像の列を想い出した。自分の視線の行先にオレが気付いた事を承知した上で別にさして気に掛ける風でも無く、結んだ焦点を全く動かさずにイトは見据え続けている。そういうイトの姿態を視界の中央に認識した時にオレは何故だか狼狽を覚えてしまって、彼女に対して何らかの言い訳を声高に訴えたいという気持ちに皮質を支配されてしまった。
何故だ?
お月さまがヤマからでてきた。
マックロのウミ...じゃなくてミズウミのうえに、シロくてキイロのカゲが、できてる。
お月さまみたいに、まんまるじゃなくて、うまいボーみたいなカタチのカゲ。
ふつう、カゲってクロいのに、お月さまのカゲはシロいし、キイロいから、フシギ。
でも、キラキラしてて、とってもキレェ。
なんか、ズーッとみちゃう。
おひるにみた、スルガワンもキラキラしてて、とってもキレイだったけど、
オヘヤからみたハマナコ、ミズウミもきれいだったけど、
こっちの方が、なんかスキ。
おなじハマナコだけど、こっちの方がスキ。
ヨルだし、くらいし、チョッピリさみしいってカンジがするけど、
お月さまだけ、だし。
お月さまだけ。
ヨルのセカイをアカルクしてくれるのは、お月さま、だけだ。
だから、こっちの方が、スキ。
まえにレイがいった。
『お日さまとお月さま、どっちがスキ?』
『ウーン...』
『ボクはね、お月さまの方がスキ』
『んー、なんで?』
『ソレは、ね。お月さまは、ヨルのまっくらなセカイを、てらしてくれるから。
くらいヨルのミチを、あかるくしてくれるから。
だから、
お月さまが、いるから、
ボクたちはヨルのミチをころばないで、スタスタあるいていけるんだよ』
そういって、レイはプカプカとわらった。
イキをはくと、ガラスのまどがシロくなる。
くもっちゃうと、お月さまが、みえなくなるからソウッとイキをする。
ミズウミのキラキラが、みえなくなるから、ソッとする。
あぁ、ウマくいかないや。
いくらソウッとしても、窓ガラスはスグにくもっちゃう。
だから、ユカタっていうフクの、うでのトコについてるビラビラで、フキフキする。
ナンでユカタって、うでのトコに、こんなビラビラがついてるんだろ?
イミ、あるのかな?
ケンゴくんなら、しってるかな?
しらないかも。
アカいタイさんとクロいタイさんのコドモがナニイロなのか、しらなかったし。
フフッ。
でも、まだケンゴくんのテのカンジがのこってる。
さっき、ヘヤにハイろうとしてたトキ、ケンゴくんがたすけてくれたけど、
そのトキ、ワキのしたにテをいれて、おしてくれたけど、
まだ、そのテのカンジが、ワキのシタにのこってる。
イヤじゃなかったし、うれしかったけど、
ジブンで、1りでしたかったから、
『アリガト』って、いったけど、チョットおこったカンジになっちゃった。
ケンゴくん、きにしてないかな?
そう、おもってた。
ヨルのミズウミをみながら、ケンゴくんのコトをキにしてたら、
「おまたせしました」ってコエがイリグチの方でしたから、そっちをみた。
うぅん?
そっちをみて、ちょっとビックリした。
だって、ケンゴくんが...
...ケンゴくんが、かたまってた。
なんでだろ?
なんで、かたまってるのかな?
『おまたせしました』って、いったオンナのヒトをみた。
キレイなヒト。
でも、ママや沙織さんとは、ちがうカンジだ。
パッとみたトキに、ママのいとこのサエちゃんに、スコシにてるって、おもった。
でも、サエちゃんよりも、おっきいカンジだとおもう。
ママよりは、ちっちゃい、かな。
さっき、ケンゴくんと、このヘヤにあるいてきたトキに、
イッショにあるいてきたオンナのヒトとオナジふくを、きてる。
カタチは、ワタシがイマきてるユカタとにてるけど、なんかチョットちがうカンジ。
ユカタはペラペラってしてるけど、このヒトのふくはモットつよそう。
だけど、つよそうなフクをきてるけど、ふつうのヒトだ。
キレイなヒトだけど、べつにかわったトコはなさそう。
とってもやさしそうな目をしてるし、テキパキしてるし、おいしそうなゴハンをテーブルのうえにポンポンのっけてってるけど、ふつうのヒトっぽい。
でも、だからナンで、ケンゴくんはかたまってるんだろ?
ママとしゃべってたトキも、ケンゴくん、トキドキかたまってたけど、
あのトキとは、ちがう。
スルガワンってウミをみてたトキ、
なんか、スゴクかたまってたけど、
あのトキとも、ちがう。
しあわせの音のハンバーグやさん、チョットかたまってたけど、
あのトキとも、ゼンゼンちがう。
いままで、ワタシがみたコトないケンゴくん、
ワタシのしらない、ケンゴくんだった。
お月さまのキラキラ、もうイイや
ソウ、おもったから、ミズウミをみるのをやめて、テーブルの方へいった。
ケンゴくんのマエにすわった。
アレッ?
テーブルのしたのアシのトコ、カイダンみたくなってる。
なんか、イスみたいにすわれるじゃん。
チョーべんり。
コレなら、アシ、ぜんぜんジンジンしないかも。
すわるトキに、カイダンみたいなトコにアシをぶつけちゃったから、
『ゴンッ!』ってオトがしたけど、
けっこう、おっきなオトだったけど、
ケンゴくん、ゼンゼンきづいてない。
ヘンなの。
けっこう、いたかったんだけど、
ゼンゼンきづいてくれない。
ホントに、どうしちゃったんだろ?
いつもだったら、
さっきまでだったら、メチャメチャしんぱいしてくれるのに、
ワタシのコト、どうでもよくなっちゃったのかな?
きれーなおネーさんのマホーにかかっちゃったのかな?
そんなの、イヤ。
ワタシは『ホントにイヤだ』と、おもった。
きづいてくれるまで、ジーっとケンゴくんを、みてようっと。
きづいてくれれば、ダイジョブ。
そしたら、ダイジョブだ。
ジーッ...
ジーッ...
ジーッ...
ゼンゼン、きづいてくれない。
ワタシの方、ゼンゼンみないで、オンナのヒトばっかみてる。
オンナのヒトを、チラチラみてる。
ケンゴくんは『ダイジョブ』だって、おもってるかも、だけど、
オンナのヒト、ゼッタイにきづいちゃってるよ、ケンゴくんにジロジロみられてるって。
ま、みられても、アンマリきにしてないカンジだけど...
あ、
コッチ、むいてくれた。
ようやく、ワタシにきづいた。
よかった、きづいてくれた。
ウン?
ケンゴくんが、ワタシをみて、なんかチョットびっくりしたみたいなカオになった。
なんか、ナニかを、いいたそうなカンジ。
いいたいんだけど、いえないって、そんなカンジがする。
おクチをパクパクしてる。
ヒロオのおジイサマとおバアサマのおうちにいる、デメキンさんみたいに、パクパク。
ウフフッ、
こんなケンゴくん、はじめてみる。
おもしろそう、だから、ナニもいわないで、ジイーッとみる。
ケンゴくん、なんかモジモジってカンジになった。
ジイーッ...
でも、ケンゴくん、ナニもいわない。
ジイーッ...
夜空を見上げると星々の間にラピスラズリを何百重にも塗り重ねた搗色(かちいろ)が充填されている。満天の星はワキに過ぎず、実はソレ等が浮かんでいる時空間がシテだという事を悟ったのは、ジイちゃんにクルマの運転を教授されている14歳の頃だった。
イトの瞳に焦点を合わせていたら、ふと、そんな思惟が久々に皮質に帰来した。
彼女の濡羽色の虹彩が放つ妖艶な力によって、曜変天目の深遠なる群青が生み出す深淵を覗き込んでいるかのような錯覚に陥った、からだ。
ガラス越しだったが、その茶碗に対面したのは確か静嘉堂だったっけ?
予想に反して衝撃的とも言える位に小さく、非常にビックリした事を憶えている。しかし、その微小性こそ、深沈たる群青を背景として七色を帯びた白銀の小さな円環の群れが浮遊し躍動する情景を、1つの完成された宇宙へと昇華させ得ている最大原因だった。
『この器に波瀬正吉・純米大吟醸生生無濾過を注いで、内の様子を眺めながら飲み干したいモノだ』とオレはその時決して成就しない、強烈な願望を抱いた。
<濃茶を練る事に比べれば全然、器を傷めないだろうし、な>
その通り。
さぞや円環の白銀色が、酒に含まれるグリセリンの力で生まれる『汗』によってより一層、眼に映える事だろう。
イヤ、違う。
また思考が別の方向に逸れて流転した。
イトの視線に関する問題だった。
オレは、この娘を預かる事になって初めてする行為をしていた。
イトの瞳を真正面からスッと見据える事。
だが、彼女は眼を一向に逸らそうとしなかった。
一切揺らぐことが無い彼女の視線の強さに、たじろいだ訳でもないだろうが、腰の位置が定まらなくて落ち着かない感触を覚えた。何でこんな小娘にドギマギしてるんだ、オレ?
何、アタフタしてんだ、オレは?
秘密裏に悪事を働く事に成功した、と思った矢先に現場を押さえられてしまい『ヤベッ』とバツの悪さを感じさせられた悪戯小僧、彼女の視線がオレの上で焦点を結んでいる事に気付いた時から、そんな気分を味わい続けていた。
この娘といると、そういう心模様に高頻度で陥りさせられる。そんな気がした。
だが、何故だか解らないけど、ソレは決して悪いモンではなかった。
谷崎潤一郎や吉行淳之介の抱いていた心境って、こんな感じのヤツなんだろうか?
おもしろーい!
ケンゴくん、なんかアワアワしてるっ!
こんなケンゴくん、はじめてみる。
もうチョット、みてようっと。
ジイーッ
こんな風にオタオタしている理由は解っている。
遠い昔に愛した女性に瓜二つの人が突然目の前に姿を現したのが、そもそもの原因だ。
驚きのあまりに狼狽してしまって、その人を横目でチロチロと盗み見ている所を、本当に見っとも無い父親の姿を、己が『娘』にジイッと観察されてしまってた、という事だけだ。
ただ、それだけだ。
それだけに過ぎない。
全然、大した事じゃない。
自室でAV鑑賞しながら自慰行為をしている現場を突き止められた訳でもあるまいし。
父親が自分好みの綺麗な女性に眼を奪われる事など、別段に珍しい事でもないだろう。
だから、毅然とした態度で普通に振る舞えば良いだけだ。
『それが何か?』という様な大人の態度で、な。
イトの眼の周囲にこの状況を面白がっている様な表情が浮かんでいるのに気付いた。
<お前、からかわれてるぞ、5歳の女の子に>
ホントに、何をアワアワしているんだ?
バタバタした振る舞いを顕わにする方が余程、体裁が悪いぞ。
オレは再びメニューに視線を落としてザッと『お飲物』のページに一瞥を走らせた後、顔を上げ直してイトの瞳をストレートに見詰めながら心の動揺を悟られない様に、訊いた。
何とか平静を保てた。声は震えなかった。
「イト、飲み物、どうしようか?」
「?」
オレの発言に反応してピクッと身体を一瞬震わせた後、イトが尋ね返して来た。
「...飲み物?」
言葉のキャッチボールが、張り詰めつつあった2人の間の空間、一種の緊張感を孕んだ空気を緩めた事に気付いた。オレは、温かくて心地良い安心感が身体全体に拡散して行く波動を感じ取った。何とか収拾が付きそうな目算は立った、もう、大丈夫だ、と思う。
「そう、飲み物」オレはイトにメニューを手渡した。お品書きの方が適切な呼び方かな?
手渡されたメニューの開かれたページにチラッと視線を送った後で彼女は、
「何か、イッパイあるね」と簡素な感想だけ、述べた。
「さっき、お部屋で言っただろ? もう今日はお茶を飲めないって。
こういう特別な夕ご飯の時にお水じゃ、ちょっと悲しいから、お茶の代わりに何か他の物を飲んだら良いんじゃないかな、って」
「ケンゴくんは、何か飲むの?」首を傾げながらイトが訊く。
「烏龍茶、とかかな」
「黄色くてブクブクっ白い泡が出るヤツじゃないんだ」彼女が不思議そうな顔付きをした。
黄色? 泡?
「あぁ、ビールの事かな? お酒は普段、飲まないんだ」と答えると、
彼女はあまり気の無い『フーン』という表情を浮かべて再度メニューに眼を落とした。
結衣はアルコールの入った飲み物を全く嗜まなかった筈だ。
ま、大体、オレと過ごした月日の全てがまだ未成年だったのだし、当然と言えば当然か。
結衣は常々、両親ともアルコールには強い体質だから『多分、私も強いと思う』と笑っていた。しかし『お正月に飲むお屠蘇とかは全然好きじゃないから、きっと20歳になってもアルコールは好んで飲まないと思う』とも、言っていた。
もしかしたらオレと別れた後、キャバクラに勤務する内に酒の味を覚えたのかも知れない。
今、付き合っているオトコが酒好きな輩である可能性も十分考えられる。
ま、どっちにしろ結衣はもう未成年ではないのだから、全く問題とはならない。
子供の前でアルコールを摂取する事が幼児教育に悪影響を及ぼすとも考えられないし、な。
ただ、その『ビール』という情報に接した時に、十分に繕って完全な養生を施した筈の『心のほつれ』が立てた僅かな軋む音が耳朶に響いた様な気がした。
不意の一撃だった。
ほつれから生じた小さな傷がアッという間に大きな裂け目となった。その穿たれた精神の断層から、結衣とのエピソード記憶の数々が芋づる式にフラッシュバックしてきて一気に眩惑させられそうになった。臍下丹田に意識を集中して追慕の奈落に落ちる事を回避する。
突然の嵐に不企遭遇して間断なく打ち寄せる不羈たる波濤の大群に翻弄されまくる小舟の様な心境を味わっていた。その恐怖の時間帯が通過する事だけを願って、ひたすら耐えた。
結衣に関しての全てが所詮、その場しのぎの弥縫策に過ぎない事をオレは、再び知った。
<当たり前だ。一体何年間、あの狭いアパートに引き籠もっていたと憶えているんだ?>
彷徨うオレの気持ちの方向に無頓着に、イトの興味の焦点は『飲み物』に集中し始める。
「ウーン、そうだなぁ?」
イトの関心が逸れて彼女の視線のクロスヘアー(オプティカル・スコープのレティクル〔reticle〕の一種で照準・狙点を定める十字線)が、オレからメニュー表へと移動した。
正直な所『ホッ』とした。
彼女の瞳には、瞳の奥の方に潜んでいる何かには、神変たるモノを強く感じたからだ。
<大袈裟だな。美穂子に似た女性を見てオタオタしているだけだろ?>
<結衣との追憶に耽溺しそうで苦しんでいるだけだろ?>
『追憶』って、結衣、まだ生きてるけど...
その時、盛られたお造りの量に比して必要以上に大型で黒地に銀彩色が施された俎板皿を、イトの前に置いて配膳を終了した『KINPARA』さんが、オレ達に尋ねた。
「何か、お飲みになりますか?」
瞳を直接に覗き込むと再び心が大きく揺動するのは確実だったから、失礼に当たらない様に『KINPARA』さんの形の良い顎の先に視線の焦点を結んで、彼女の推奨を仰いだ。
「私はお酒を飲まないのですが、この料理に合う飲み物、お勧めとかありますか?」
「そうですね」と言いながら『KINPARA』さんは視線を左斜め上に向けた。3秒ほど何も無い空間を視焦点を彷徨わせてから向き直り、オレを真っ直ぐ見据えながらお勧めの飲料を提案し始めた。
「本当なら、水出しの緑茶、これは天竜産の手摘みの一番茶葉を水から抽出したもので、雑味が一切なく、甘味・旨味・苦味・渋味というお茶の味の要素が高い次元でバランスが取れた一品で、コレをお勧めしたいのですが...」チラッと一瞥をイトに送った後に、再度オレの双眸を見詰めながら「お嬢様の、カフェインの摂り過ぎをお気に為さっておいでるなら、三ヶ日ミカンのフレッシュジュースはいかがでしょうか?
ウチのホテルと専属契約を結んで下さってる平山ミカン農場さんのハウス栽培した早採れ温州ミカンを余計な雑味が出ない様に圧搾した搾り立てのジュースになっております」
なるほど。
些か底意地の悪い見方をすると『KINPARA』さんは配膳をしながら聞き耳を立ててオレ達の話を盗み聞きしていた、という訳だ。コレを好意的な表現に変換すると、顧客の要望に関する情報収集に余念がない、となる。
ジイちゃんは言った。『情報はでき得る限り収集に努めなければならない。情報の質や量も大事な要素だが、一番の要諦は、集めた情報を如何に処理するか、である』
その観点から鑑みるに『KINPARA』さんの情報処理方法は非常に的確では、ある。
そんな有能な『KINPARA』さんは、コチラ側の答えを待つでもなくオレとイトの前に1つずつ置かれた小鍋を搭載した1人用のコンロに火を点けるためにテーブルの周囲を回った。
『KINPARA』さんは小鍋の蓋を開けると、有田焼と思しき染付けの皿からエリンギらしき縦切りにされたキノコを小鍋に張られた出汁の中に手際よく投入した。盛り付けられた分の半量程の茸を入れると再び蓋を閉じて、身体を屈め直接目視しながら火加減を調節した。
能率よく作業をこなしてゆく『KINPARA』さんを視界の端に認めながら、オレはイトに提案してみる。「どうしようっか? 三ヶ日のミカン・ジュース、飲んでみる?」
「ウーン、ミカンジュース、って、ご飯と合うのかな?」
確かに。
給食で出される米飯と牛乳の組合せには散々ぱら『これで良いのだろうか?』という疑問を持たされたものだ。天竜産のお茶なら相性はバッチリだろうが、ミカンの搾汁じゃなぁ。
「あ、麦茶あるよ!」イトが救世主に遭遇した様な声を上げた。
「そっか。じゃ、麦茶にする?」
「ウーン、でも...」
彼女の顔に浮かぶ表情の中に逡巡とか躊躇と呼ばれる情動を認められる。
そりゃ、三ヶ日ミカンのジュースと麦茶とでは、要求できる期待値の高さが端っから全然違うモノになるのは、当然である。パック詰めではなく、コロコロした『麦茶』を水から煮出した麦茶はとても香り高く素晴らしい飲み物ではあるが、畏れ多くも日本全国にその高名が轟き渡る『三ケ日』の温州ミカンの搾り立てジュースが相手では、ちと分が悪い。
<イヤ、相当に悪いぞ! でもイトが『三ケ日』という言葉の持つステイタスの高さを理解できてるか、果たして疑問に思う所だ。ま、体験させてみれば立ち処に悟るだろうがな>
なら、採り得る手段は1つと決まっている。だから、
「じゃ、ジュースと麦茶、両方を頼んじゃおっか?」と、イトに提案した。
我ながら甘過ぎるパパだと思うが、コレならどういう風に転んでも不満は出ないだろうし。
予想通りにイトは『エッ!』という驚きの表情を一瞬浮かべたが、オレの過剰というかヤリ過ぎ体質には既に慣れつつあるのか『また?』という言葉を頭上に浮上させながら、
「麦茶とミカン、全部飲めるかなぁ?」と訊いてきた。
「大丈夫。多かったら残せば良いさ。
いつもみたいに残ったら後片付けは、この研吾クンにお任せあれ、だよ」と告げると、
「そっか」納得した顔で彼女は「じゃ、そうする」と安心した表情を浮かべながら答えた。
「かしこまりました。それでは飲み物をお持ち致します。お鍋は頃合いがよくなったら、お教え致しますので、触らずにしばらくの間お待ち下さい」
オレ達2名分の飲み物の注文を承り終えた『KINPARA』さんが部屋から立ち去ろうとするその瞬間の空白に、イトが口を開いた。
「あのさ、頼まなくてもイイの? ケンゴくん?」
「頼んだよ、烏龍茶」
「ウーロン茶じゃなくって...あの...」
「何が?」彼女の発言意図が今一つ明瞭に認知できなかったのでオレは訊き直した。
要領を得ない顔付きをオレがしていたのかも知れない。イトは、輪郭が空気中に滲んで全体がボンヤリと霞んでしまった言葉使いで若干言い淀みつつも、彼女の考えていることをポツリポツリと、俯き顔を下げ上目使いをしながら、ソロソロと説明し始めた。
「...あの...お茶...強そうな名前の...お茶じゃなくて...イイの?」
強そう?
お茶?
頭上に疑問符が浮かび上がるよりも先にオレの前頭前野が『きっと天竜産の茶葉を使用した水出し緑茶の事だ』と瞬時に推論を終えてその仮説を思惟に浮上させた。
「天竜って場所で作ってるっていう、お茶のこと?」
「そう。なんか強そうな感じがする、そんな感じの名前の、お茶」
オレ達の間で交わされる会話が向かう方向をそれとなく察した『KINPARA』さんが脚を止めて、手がかりを残してある個室の入り口の障子の翳に身体を半分隠すような形で待機している様態が感じ取れた。自分の息遣いをコチラ側に気取らせない様に、気に障らせる事がない様に上手く気息を断ち、慎重に体捌きを制御して気配をシュッと隠蔽していた。
この女性、相当に優秀だ。
「あのさ」イトが話を続ける「ソレさ、強そうなお茶、さっき飲みたそうにしてたじゃん」
イトが顔をムクッと上げて視線の力を強めながら、オレに告げた。
鋭いな。
とても明敏な洞察力をイトは備えている、と感じた。
それとも共感力の高さに関係している事象なのかも知れん。
結衣からの遺伝だろうか?
それとも『健爾』さんか?
オレだと、嬉しいが...
<その可能性は薄そうだぞ>
そういえば、全然関係ない話だが、『天龍』ってリングネームのレスラーがいたらしいな。
オレはプロレスという格闘技に全く疎くて、ソレに関する知識は真っ暗闇の海底に沈んでしまっているから、彼の名前だけを知っている位の浅薄な情報量しか持ち合わせてないが。
天龍源一郎。
現役時代は凄ぇ強かった、とだけは聞き及んでいる。
(筆者注:プロレスだけでなくお酒関係にもメチャメチャ強いです。この時点では未引退)
「だから、ケンゴくんが飲みたいんなら、飲んでイイよ。私、ミカンジュース、だし」
彼女の聲から必死に頑張っている旋律の響きが聴こえてくる。
そんな気を遣わなくても良いのに。
まだ子供なんだから、自分のしたい様にすれば良いのに。
「イト」
「何?」
自分に対しての呼び掛けから『ちゃん』が抜ける様になっても、イトは全く気にしなくなった。寧ろ、その方が彼女にとっての『日常』へと納まりつつあるのかも知れなかった。
「イトだって、飲みたいんだろ? この強そうなお茶?」
「別に、ダイジョブ」ピクッと身体を一瞬震わせた後、イトが言った。
結衣...
イトに対するお前の躾はほぼ完璧に近い。
その事に関しては正直、感服する。
でも、さ、
たった5歳の子供に『気を遣う』という技術を教え込むって、ソレって正解なのか?
もっと天真爛漫に振る舞わせた方が良くないか?
こんな年端も行かない幼気な子供に他者の気持ちを『斟酌』する事を覚えさせるだなんて、結衣のヤツ、一体どういう生活をさせているんだ?
遠慮とか配慮とかいう類いの他人様への気配りなんて、コレって子供に必要な振舞いか?
<他者への共感能力という観点から考察した場合、素晴らしい事ではあるけども、だ>
しかし、事の次第はどうであれ、こんな稚い、年端も行かない可愛い娘に気を遣われている状況、気分としては決して悪いモノではない。
<素直に『嬉しい』って表現しろよ。それから、三重くらい表現が重複してるぞ>
イトの相貌を見ていると、頭の天辺から足の爪先まで暖かい波動が漣(さざなみ)の様に拡がって行くのを感じた。
<彼女のこの心遣いを無下にしてはならないぞ、絶対に>
合点承知の助でさぁ。
よし。
決めた。
オレはイトを、思いっ切り滅茶苦茶、可能な限り精一杯盛大に甘やかす事にした。
<嫌がられない程度にしておけよ。ほどほどに抑えるんだ、イイな?>
たとえそうしても、何処からもバチは飛んで来ない筈だ。
<イヤ、罰(ばち)は『当たる』ものだから。何処からも飛んで来ないから>
まずは、お茶問題を解決、だ。
結衣の心配は、一応理解できる。
カフェイン?
確かアルカロイド系の薬物だったと記憶しているが、ま、大丈夫だろ。
アルカロイド系の物質だったらピーマンにも含まれているが、全国のお母さん方は自分の子供達に『残さず全部食べなさい!』とキッと眦を決しながら毎晩の様に通告している。
しかも『ピーマンは身体に良い』とか『栄養がある』とかの最後通牒と供に。
それで今までに何らかの大問題が勃発したか?
『ピーマンの過剰摂取による子供の中毒死が全国的に続出!』とか、な。
それに加えて、静岡県の子供達は小さい頃から浴びる様に緑茶を飲んでいる訳だし。
まるで旧暦の4月8日、灌仏会でお釈迦様の像に甘茶をコレでもかと浴びせかけるが如く。
それでも皆、何の障害も無く立派に成人している。(と思う。例外はあるかも知れんが)
何を隠そう、このオレがその生き証人の1人でもある。
ドイツ人なんか風邪薬と称して子供にビールを飲ませたりするじゃないか。
ビールは滋養強壮に効果的なのだと。それ、本気か?
イタリア人は食事時に小学生の子供に水で薄めたワイン飲ませるし。
どう考えても、駄目だろ、ソレは。
そんな堕落したヨーロッパ人達の蛮行に比べれば、お茶を喫するという些事なんて、
ま、可愛いもんだろ?
(筆者注:ドイツ人はビールを栄養タップリの大麦スープと見做している節が窺える)
夜ご飯の時、子供にお茶を飲ませない方が良い、とは昔からよく聞いたが、
ソレは寝付きが悪くなるからだろ?
大丈夫だよ。
今日は色々な事があって肉体的にも精神的にもクタクタに疲れているのは間違いのない所だから、夕ご飯の時にホンのチョッピリお茶を喫したとしたってだぜ、布団にゴロンッと寝転がって『バタンキュー』でご就寝、即座に夢の世界にノンストップで直行だ。
天竜産の緑茶と言えば、静岡はおろか全国的に見ても最上級のお茶の1つだった筈だ。
イトがその事実を知っているとは思わないが『味を見てみたい』と考えているとしても、全然不思議ではない。そりゃ、ゴクゴクって飲ませてやりたいが、幾ら何でもその行為は危険性が高そうに思える。だから、場当たり的だが、一口だけの味見がベストな妥協案だ。
一口分に含まれるカフェインの量など知ったこっちゃないが、別段大した量ではなかろう。
ゴクリッと一口、味見をさせる位は全くドウって事は無いと思うが、違うか?
<誰に訊いてんだ? お茶を喫ませるだけなのに誰かの許可が必要なのか?>
(筆者注:緑茶一口分を10mLとすると含まれるカフェインは約2mgなので全然OK)
ま、一口が二口になってもイイや。
ジイちゃんは言った、
『荒々しい言葉は心の表面を上滑りするだけで簡単に弾き飛ばされてしまう。人の精神に自分の言葉を浸透させたかったら、平易で淀みが無く穏やかな話し方を心掛けるのだ。
言葉の意味を担うのは論理の力だ。伝える内容を理路整然と組み立てる。
その後にほんの少しスパイスを振り掛ける様に感情を装飾して行く。
論理の上に感情を塗り上げる事で他者の心に侵襲し易くするのだ。
人間を魅惑し狂気へと追い込む、本当に恐ろしい真の悪魔は物腰柔らかく優しげな微笑みを浮かべながら真綿を絞る様にソッと密やかに近付いてくる、気付く暇も与えずに、な』
だから、ユッタリと落ち着いた口調を心掛け、オレは静かに口を開いた。
「有難う、イト」
掛けられたその言葉を機としてイトは伏せていた顔を上げ、真直ぐオレの双眸を見詰め返して来た。彼女の玲瓏たる瞳が持つ圧力に少しビビッて腰が心持ち高まった気がしたが、ソコはグッと堪え、粟立ちつつある精神を抑制して言葉の先を紡ぐ。
「さっきKI...おネエさんに言われた時に、飲みたいなって少し思っちゃったんだ。
イトは知らないかもしれないけど、天竜って所の緑茶...エーッと、お茶は『美味しい』って有名なんだ。でも、イトも飲みたいんだよね、お茶、好きなんだよね」
イトはコクンと頷きかけてから初めて自分の行為に気付いた様に慌ててかぶりを左右にブルンブルンと何かを払い落とす様に、振った。「別に。ダイジョブだから」
「で、さ。その、イトが『強そう』っていうお茶だけど」彼女の表情を窺いつつ「それで、その天竜のお茶、頼もっかなって思うんだ」と伝えた。
その瞬間、イトに安堵と羨望、その他の情動等の複雑に入り混じった表情が浮かんだ。
だから、刹那も置かずに話を繋ぐ。
「でも、独りだけで飲むっていうのは幾ら何でもダメだと思うんだ」
『?』
イトの頭上に大きな疑問符が浮かんだのが見えた様な気がした。
「一緒にイトも、そのお茶を飲んでくれるなら、頼もうかなって思う。
だって、イトが我慢してる眼の前で、独りだけでそのお茶、飲める訳ないし」
期待と戸惑い、躊躇と嬉しさ、あと何だかよく解らない表情がイトの貌に代わる代わる浮かんでは消え浮かんでは消え、した。何か、自分の想像を超えたモノに邂逅して困っているような姿に思えたので、彼女の理解を促進する為に話を先に進めようとしたら、
「でも、ママがお茶をたくさん飲んじゃダメだって...」イトが手で探る様な口調で遮った。
「カフェインってヤツのことだろ?」
合点がいかない様子だったがその薬物名に微量ながら心当たりがあるのか、イトが首を傾げながら『ん?』という不得要領顔で微かにコクンと、首肯した。
「マ...結衣が言う事は正しいとオレも思う。
カフェインっていう物質...薬みたいなモノだけど、これって覚醒...起きてなきゃダメなのに眠たくなった時に飲んだり、倦怠感の解消...ウーン...『疲れたぁ』って時に飲むともうチョット頑張れたりする、結構良い薬なんだけど沢山の量を子供が飲んだりすると副作用が...エート...良い事ばかりじゃなくて、身体に悪い事が起きたりするんだ。
でも、別に一口分だけコクッて『味見』する位なら全然大丈夫だよ」
オレは『多分』という単語の明晰化は避け、呑み込んで構音文章から削除する事にした。
オレの発言の真偽を訝る顔付きをイトが顕在化させた。
「ホント?」
「本当」
「ダイジョブ、なの?」
「1Lとかをゴクゴク喫む訳じゃないから。『味見』だよ、『味見』、強そうな名前のお茶の」
「イイの?」躊躇いながらもイトは期待で表情を輝かせた。
「もちろん」
しかし、続けて『でも』という接続詞をオレが構音すると彼女の表情がサッと曇った。
「でも、約束して欲しいことが、1つだけあるんだ」
何を乞われるのか、というソコソコの不安感を隠す事もせずにイトがオズオズと頷いた。
「今日の夜ご飯にお茶を飲んだってコト、マ...結衣には内緒だよ」できる? と訊くと、
自分の予想した言葉とは全く違うオレの要請に一瞬『ウン?』となったが、母親に黙ってさえいれば一口分の味見だけとはいえ『強そうな名前のお茶』を飲める事を理解したイトは『多分』という単語を表情に浮かび上がらせながら「ウン」、コクンと首肯した。
「じゃ、決まりだね」
そう言うと、イトの相貌にパッと色温度6000Kの明るい灯りが点った。
「じゃ、キマリだね」ってケンゴくんがいって、
「マ...ユイにはナイショだよ」っていってから「シンパイ...ユイにシンパイかけないようにしないと、いけないから、ね」っていって、ニカってワラッた。
そっか。
ママに、シンパイかけないように、ナイショにしとくんだ。
でも、チョットだけでも、つよそうなナマエのオチャがのめるのは、うれしい。
だから、ナイショにしとかないと。
ママには、ナイショ。
ワタシとケンゴくんとの、2りだけの...
アレッ?
なんて、いうんだっけ?
こういうの?
むかし、レイにおしえてもらったはず、なんだけど。
なんだったっけ?
そのトキ、レイのコエがきこえたカンジがした。
『それはね、「ヒミツ」っていうんだよ』
そしたら、ケンゴくんがいった。
「イトとの...2りだけの『ヒミツ』だね」
「イトとの...2人だけの『秘密』だね」
オレが少量の恥じらいを隠す照れ笑いを浮かべながら、そう伝えると、何故だか理由は不明だがイトは心持ち神妙な顔付きになった。
何か、変な事言っちゃったかな?
2人だけの『秘密』だなんて、大仰過ぎた表現だったかも知れんな。
自分で言ってても、少々気恥ずかしかったもんな。
まるで付き合いたての初々しい中学生が言いそうな台詞じゃないか。
これからは単語の選択にも気を配らねば。
娘に嫌われたくないもんな、つくづく。
そしてオレはイトが言う所の『強そうな名前のお茶』を注文する為に、障子の翳で気配を消して待機している『KINPARA』さんに声を掛けた。
「食べられそうなモノ、ある?」
オレがそう声を掛けるとイトは自分の前にズラリと並べられた種々の器に眼を走らせた。
ソコに盛られた料理の数々を確かめると『ウーン』と首を傾げ「多分」と言い、チラッと視線を料理の上に戻してからザッと掃拭し「判んないけど」と付け加えた。
そりゃ、そうだ。
道場六三郎が一般化させたと想像できるが、今夜の献立が書き記された小洒落た一覧表を覘くと、ドレもコレも全部が全部アルコール類のアテ、つまり酒の肴みたいなモノだった。
ご飯の供(『友』の方か?)として当てに出来そうなのは、趣き重視で造られたお刺身と真っ黒な陶板の上でアチチ・ホチチと芳しい香りを放散している肉の塊だ。献立表によるとこの肉はサウスダウン種と呼ばれる羊肉の陶板焼きになるらしい。ラムでもなくマトンでもない『ホゲット』と呼ばれる羊肉らしいからオレとしては非常に興味をそそられるが、明らかに子供向けでは無さそうな響きでは、ある。(注5)
先程『KINPARA』さんが何やら仕事をしていた小鍋関係は、締めの雑炊ならともかく、ご飯の供(?)として有用かどうか、些か疑問の域を出ない。鍋はスキ焼き以外、鱈チリだろうが、ちゃんこ鍋だろうが、おでんだろうが、白いご飯の朋友たり得ない事は明白だ。
その他の、オレ個人的に興味を掻き立てられる料理に『パプリカの土佐酢漬』と『次郎柿と春菊のサラダ』がある。一体どんな味なんだろうか? とワクワク期待に胸が膨らむが、これもご飯の友(?)には明らかに成り得そうもない事は必至である。(注6)
今夜の料理に対する概観的な感想としては『子供の舌に合うモノは少なそう』である。
少なくともご飯の供(?)には為りそうなモノが見当たらない。
絶望的にまで、酒の肴たちのオンパレードだ。
あぁ、錦松梅だなんて贅沢は言わない。ここに『のりたま』があれば...
白いご飯掃討作戦において、乾式の振り掛けほど強力な応援部隊はいないのだが。
イト、ご飯、進むんだろうか?
大丈夫、ではないよね、多分。
<無理だろ。
おい! そんな余計な思案は一先ず横に措いておけって。それよりも早く子供向けの料理を追加注文しなきゃ駄目だろ! 真っ先に解決しないといけない最優先事項だぞ!
早くしないと、料理が冷めるだろ!>
そりゃ、その通りだ。
結衣から寄せられた情報によってイトの舌の具合が大人寄りであることは既に承知済みだ。
送り付けられた長文の取説メールが、イトには嫌いな食べ物はほとんど無いと告げていた。
唯一の忌避すべき食物が冬瓜であるという記載以外に嫌いな食べ物については、何一つも見当たらなかった。オレは冬瓜の旬が何時なのか浅学にして知らないが、今夜の料理には幸いにして含まれていなかったので、少し、ホッとした。
アレ、苦手なんだよね。
理由は色々述べられる。
机の上から床下まで届くほど長い用紙に、何故冬瓜が好みの食材ではない理由のリストを延々と書き連ねることも可能だが、今はソレをするべき時ではない様な気がする。
イトは、本当は、何が欲しいのだろうか?
こういう事態に対処するには直截簡明というか単刀直入な方法が一番効果的だ。
だから、取り敢えずイト本人に『今、何が食べたいのか?』訊いてみることにした。
勿論、その前にホテル側とオレとの間で勃発した食糧事情の行き違いを説明しないと。
「ゴメンね」オレはイトに伝えた。
「何が?」イトはキョトンとした顔になった。
「晩ご飯の料理を子供用にアレンジ...イトが食べられそうなモノとかご飯に合うモノに差し替えてもらう様に頼んでおいたんだけど、どうも連絡ミス...手違いがあったみたいなんだ。そういう風になってなくて、大人と一緒の料理になっちゃってて本当にゴメンね」
「ダイジョブ。お刺身、好きだし」
イトが彼女の身体から何かを催促するような雰囲気を醸し出し始めていた。
<オイ、この娘、腹減ってんじゃないか? 早く『頂きます』してやれよ>
あと5分だけ...
<長いよ! 1分で済ませろ!>
Roger!
「だから、さ。イトの口に合いそうなヤツ、好きな物でご飯にも合う料理、別に頼まない?」
「...ちょっと、多くない?」イトは卓上に陳列された料理の数々を眺め回しながら言う。
「イヤ、だからイトは食べられる分だけ食べればOKだよ」
残りはオレが片付けちゃうから、と伝えると、イトが『またぁ?』という戸惑いの表情を浮かべた。ウーン、大丈夫かな? 嫌われたんじゃないか?
ま、呆れた顔付きじゃないから、まだマシか。
嫌われたくはないが、何はさて措き取り敢えずはイトのご飯のお供を確保しないと不味い。
しかし、我ながら、ヤリ過ぎ感が凄くする。
<だから先程『注意しろ』・『気を配れ』って忠告した筈だぞ?>
もっとおリョーリ、たのむ?
ホントに?
イマでも、こんなにタクサンのおリョーリがあるのに、もっとイッパイたのむの?
ウソでしょ?
イマでも、こんなタクサンのおリョーリぜんぶ、ワタシたべられないよ。
ホントにたのむの?
ねぇ、ケンゴくん、じつはジブンがイロイロなモノ、たべたいだけなんじゃないの?
のこしたモノはケンゴくんがたべるって、いうけど...
そんなにタクサン、たべれる?
ウーン、
ケンゴくんが、たべたいんなら、たのむけど...
ダイジョブかなぁ?
ケンゴくん、おナカこわしたり、しないかなぁ?
オレは、本日できます一品料理が掲載されたお品書きから自分なりの基準で選び出した子供の口に適合しそうな料理を幾つかイトに『どうですか?』と提案してみた。
「これなんか、ドウ?」と指差しながらお品書きをイトに差し出した。
「エッと...」彼女は眉の根元に皺を寄せて何と書かれているか判読しようとしていた。
メニューが読めるっていっても漢字はまだ無理か。5歳だもんな。ま、仕方が無いので、
「三ヶ日牛のハンバーグ」そう伝えると、そこで初めて難読な漢字の先に自分独りだけでも判読可能なカタカナの存在に気付いたみたいでイトは微かに身体をピクッと震わせた後、空白を補う様に「ハンバーグかぁ...」とあまり気乗りのしない声を上げた。
「ドライエージングした三ヶ日F1牛の赤身を100%使用してるんだって。
コレ、美味そうな響き...えーと、イケてる感じ、しない?」
ドライエージングした牛肉を使ったハンバーグなんて聞くからに美味そうなんだけど。
あら?
おいおい、イト、マジな勢いで首を傾げ始めちゃったぞ!
何か通販番組で明白に不要な商品を無理筋に押す販売員の気持ちに近いモノを胸襟の内にヒシヒシと感じる。やっぱり、ココは追加料理、頼まない方が正解なのかも知れん。
どうしよ?
なんとかギューのハンバーグかぁ...
なんか、スゴクおいしそうなカンジがする...けど...
たべてみたいけど。だけど、ハンバーグはきのう、おベントーでたべたし...
きょう、さっきも、しあわせのおミセでカレーハンバーグ、たべたしなぁ...
ケンゴくん、ハンバーグのコト、そんなにスキなのかなぁ?
ワタシも、まぁまぁスキだけど...
ズウッとハンバーグばっかってのも、なぁ...
<食べたいモノが何かないか、訊いてみろ。もし、無かったら追加注文をスルーしろよ>
それ妙案。
「何か、食べたいモノ、ない?」
「唐揚げ」
即答だった。
きのう、カラアゲおベントーたべたかったし、だけど、たべれなかったし...
でもワタシ、トリにくはモモじゃなくて、ムネにくがスキ。
カラアゲなら、ムネにく。
ママは『パサパサするじゃん』っていうけど。
おいしいのになぁ。
モモよりムネの方が、モグモグおクチでかんだトキに、たくさんアジするじゃん。
モモにくって、おつゆはドバっとでてくるけど、なんかアブラっぽいだけって、カンジ。
アジする方は、ムネ。
だから、ワタシはゼッタイに、ムネ。
ムネにくのカラアゲなら、たべたいなぁ。
唐揚げか...
ど真ん中の直球過ぎるリクエストが来たので、返って逆に意外性を感じた。
『唐揚げですな、お嬢さん』
コクンと頷いてお品書きに眼を落とした。
んー、と...
ないな。
非常に残念ながら鶏の唐揚げは無いみたいだ。
その代替物としてフグの唐揚げなら『ご用意できます料理』のリストに記載されている。
説明文のフォントが細けぇなぁ。
老眼の人々には、こりゃ辛ぇ大きさだぞ、全く。
メニュー読むだけなのに、いちいち老眼鏡要るってのも、なぁ。面倒臭いだろぅよ。
何々...遠州灘産、舞阪港の天然トラフグとは...これまた豪華というか贅沢な...
齢僅か5歳の女の娘にこんなとんでもない超一級品を喰わせて、大丈夫なんだろうか?
誰かに怒られたりしないかな?
<咲耶さんが知ったら...>
絶対に黙っておこう。
そうしよう。
たとえシバキ上げられたとしても、墓場まで黙秘隠匿を貫こう。
早く追加注文を終わらせて『頂きます』を済ませ、夕ご飯をやっつけ始めないとイトの胃の腑の状態が心配だし、ソレばかりかオレの空腹事態も相当に深刻になって来ている。
お品書きを差し出し、人差し指で料理名を指摘しながら、
「ここ、普通の鶏の唐揚げないみたいなんだ。
その代わりにコレ、このフグの唐揚げ、って、食べてみる?」
「フグって、何?」
「お魚さんだよ。丸くて愛嬌...可愛い感じのお魚さん。
怒ったり、驚いたりするとプクーって風船みたいに膨らむんだ」
「そんなお魚さん、いるの?」イトは訝しげにオレの指の先の文字から顔に視線を移した。
「いるよ」
こんな感じだよ、と言って、オレはプクッと両頬を膨らませた。
その顔物真似を見て、クスッと小さな笑いを漏らしたイト、でも何だか迷っているみたい。
<ま、鶏じゃないからな>
「フグさんって、ニワトリさんの唐揚げ、胸肉の唐揚げみたいな味がするんだよ」
「嘘ッ?」
フグっておサカナさん、トリのムネにくみたいなアジがするの?
それなら、たべてみたいな。
でも、おサカナさんなのに、ムネにくのアジって、ホントかな?
ちがってたら、ナンかなぁ...
あれ?
なんでおサカナさんは、おサカナさんなのに、
トリは、トリさんじゃないんだろ?
ウーン、トリはトリにく、だから、かな?
おサカナさんはイッピキまるごと、だから、かな?
「本当だよ」オレが、保証する様にそう力説すると、
「お魚さんなのに?」とイトは真実を問い質す口調だった。だから、
「そう。お魚さんなのにニワトリさんみたいな味がするんだ」と精一杯の真顔で答えた。
「フーン、そうなんだ」
「本当に胸肉の味がするのか、確かめてみよっか?」
イトはコクンと首肯した。
だから、オレは注文をする為にその個室に備え付けられた電話の受話器を取り上げた。
今時は、どこの店でも注文はタブレットを使用して、だったから、久し振りの受話器がとても新鮮に感じられた。そんなことを考えながら番号をプッシュした。打鍵感がソフトなボタンをポチポチ押しながら『イトは「ダイアルを回す」という言葉の意味とか、絶対に知らないまま大人になってくんだろうな』と感慨深く、想った。
「こちら、ご注文されたお品になります」
『KINPARA』さんのその言葉の後にオレ達の前に、イヤ、厳密に言うと、イトの真ん前に『試してみよっか?』のフグの唐揚げと、オレが強硬に主張したからだが、三ヶ日F1牛の炭火焼きハンバーグが並べられた。
そしてそれぞれの前にそれぞれの注文したご飯セットが置かれた。
「おひつ、コチラに置きますね」
オレが手を伸ばしやすい位置に2人分のご飯を収納したやや大き目のお櫃が据えられた。
さっきは首をあり得ないほどの角度で傾げた割に、イト、追加注文した料理を眼にして結構嬉しそうである。ま、テーブルの反対側まで非常に芳しい香りが漂ってきているから、目前に鎮座してその芳香と供に威風堂々たるお姿を見せつけられている彼女の相好が軟柔にダダッと崩壊するのも無理のない所では、ある。
ん?
また、だ。
追加注文した料理を配膳し終えた『KINPARA』さんが、今し方自らの手で並べ終えた料理の上に視線をザッと走らせてから一瞬眉をキュッと顰めてから再び訝しげな表情を浮かべたから、だった。
先程も彼女は怪訝そうな顔付きになったのだった。
ソレは...
「じゃ、頂きます、しよっか?」
イトの顔に『やっと?』という表情が、一瞬だけ浮かび上がってすぐさま消えた。
「ウン」コクンと首肯したイトの仕種が愛らしい。
余程、待ちわびていたのだろう。悪い事しちゃったな、ゴメン。
「頂きます」「いただきます」
親子っぷりが板に付いてきた証拠だろうか、綺麗にユニゾンが取れた。
<だから、待たせ過ぎなんだよ。追加注文なら喰いながらでも出来ただろ?>
『KINPARA』さん曰く『お箸は天竜杉から削り出された物になります』なのだそうだ。
箸袋としては表面積が明らかに小さ過ぎる和紙で形成された輪っかが力士の腹をぐるりと絞める『まわし』の如く利休箸の様に両方の端に向けて緩やかに窄まって行く形状の杉の棒2本を一膳の箸として和合させている。
箸を取り上げ、手触りの良い、つまり高級な和紙の輪っかを外しながら脳内記憶貯蔵庫を検索したが、利休箸に対する正式な仕様設計があるか、オレは知らないという結論に達した。母親がよく手にしていた利休箸よりもそのアールが緩い印象を受ける。
これは単なるエピゴーネンなのか?
分からんわぁ...
ま、それがどうであれ、詰まる所の『晴れ』用のお箸さんであることはまず間違いない。
景色が落ち着いていて静謐な印象を受けるし、それに、割り箸じゃないし...
(筆者注:多分、一本利休箸〔別名を杉卵中箸〕だと思われます)
さて、イトは何から手を付けるのだろうか?
何故かはその理由を知らねど、気になる、物凄く。
イトはチラッとお鍋に視線を合わせた。
オレも続いて確認したのだが、液面の表面は沸き立つどころか、まだ『フツッ』ともしておらずウネリも無い凪の湖面の様に非常に穏やかだった。
彼女もソレが判ったのか、お造りに手を伸ばそうとして空中で止め、オレに尋ねた。
「ねぇ、ケンゴくん。コレ、ドレがドレかなぁ?」
その言葉を契機にしてオレも各種のお刺身が盛られた黒釉のまな板皿に眼を落とした。
う、コレは...子供の眼でパッと見、判別はチト困難かも知れんな。
さっき『KINPARA』さんが身振り手振りを交えながら料理について簡単明瞭で丁寧な説明をしてくれたのだが、イトに対して理解が及ぶ程までには届いてはいなかったようだ。
そりゃ、そうか。
腹空かした子供の耳には、どんな素敵な魔法の呪文だって念仏以下としてしか響かないさ。
と、いう訳で先ほど『KINPARA』さんによって行われたレクチャーを思い出しながら、『今日のお献立』を片手にイトに自己流の説明した。
「えっと、この尻尾ついてるのがエビさん、クルマエビってエビさん。で、その横の皮の青い色が薄く残ってるヤツ...」
「コレ?」確認する様にイトが人差し指で指し示した。
「そうそう、ソレ。そのクルンって丸まってるのがサユリ、じゃなくって、サヨリさん。
その反対側の白いヤツ。そう、それ。ソレがマゴチっておサカナさん。
手前の黒っぽい皮が炙ってあるヤツ、そうそう、ソレが噂のクロダイさんで、その右...
右って判る?」
「分かるよ」イトがプクッと頬を膨らませた。「お箸、持つ方でしょ?」
「そう、その通り。凄いな。もう右とか知ってるんだね」と感心すると、
「反対のお茶椀持つ方が左でしょ?」とイトが少し得意そうに、言った。
「その通り」
「そっか、コレがあのクロダイさんなんだ」
イトは『フーン』と興味津々で皮目が炙られたクロダイの刺身に熱視線を送っている。
いやぁ、そんなに強烈に見詰めたらクロダイさんも恥ずかしくて照れちゃうかも。
ま、既にもう刺身、切り身になっちゃってるんだけど。
<別の言い方だと、惨殺死体だな、クロダイの>
変な言い回しは止めろ。猟奇的殺人みたいじゃないか。
<クロダイのバラバラ死体。その上バーナーで炙って皮膚を黒コゲに。おぉ、遺体損壊>
内なるミスター客観のお道化た軽口には何も気付くことなく、イトが訊いてきた。
「ケンゴくん、それで、クロダイさんの右は、何のお魚さんなの?」
「湯引きしてあるから良く解りづらいかも知れないけど、よーく見てごらん?
皮のトコがちょっと赤っぽく見えないかな?」
「んー、何か、そんな感じ、するかも?」
「ソレが真鯛、赤い鯛さんだよ」
イトが『オッ』と軽い驚きを表情に顕わにしながら「コレが赤い鯛さんなんだ」と言って、
両隣に並ぶ赤と黒の鯛の刺身に交互に短時間だが熱烈なる視線を反復照射させていた。
「で、真鯛の横の赤いお刺身がマグロさんだね。コレはイトもよく知ってると思うけど」
コクンと頷くイト。
「マグロさんの横は...一応食用ってあるから、食べられる菊の花」
イトが『エッ!』と顔を上げた。今度は本当にビックリした表情になっていた。
「は...花って食べられるのっ?!?」
「食べられるよ。食用に...清潔に...綺麗に育てられたヤツなら、ね」
<花は元々『葉っぱ』が変形したモノだしな。小松菜と一緒、葉物野菜みたいなもんだ>
「その菊の花の横、バラの花みたいになってる白いお刺身が、さっき言ってたフグさん」
オレは再び『プクッ!』と両頬を膨らませながら「こんなヤツ」と説明した。
イトがキャッと軽い笑い声をこぼした。
まるで蕾が綻んで、華が開いたみたいだった。
その笑みに気圧されたように自然とオレの声のヴォリュームが萎れて落ちる。
「その横の細長いのがフグさんの皮を切ったヤツ」
でも、イトの興味はバラの花を形どったフグの刺身の上にドドッと注がれ続けていた。
なんか、イトの聞いてない感が強い...
ま、いっか。
気を取り直してオレは、卸し金を使って真妻だという太くて立派な本ワサビを擦り卸すことに着手した。先ほど『KINPARA』さんが言い残した言葉が前頭前野に蘇ってくる。
『本ワサビはコチラの卸し金を使って擦り卸してください。
面倒と感じるかも知れないのですけれども、前もって板前が擦り卸しておくと、どういう工夫をしたとしても風味は明後日の方向に飛んで行って消えてしまいますので。
ワサビの辛味は擦り卸してから2~3分後がピークで、あとは時間が経てば経つほど辛味は減って行きますし、同時に独特の爽快さも損なわれてしまいます。
ですから、卸し立てが一番です。
擦り卸しの方法は私がお教えいたします。
ワサビの本体で食べる部分、これを根茎と呼びます。地下茎の一種です。レンコンとかと一緒です。
コチラ側の、削られて尖った鉛筆みたいな格好になっているのが葉っぱや茎が付いていた部分で...
あぁ、そうです。
ワサビの上の方です。根茎のコチラ側は色も鮮やかな黄緑色をしています。
そして反対の端っこに向って段々身が細くなっていきます。色味もコッチ側の端ではやや黒ずんできてますよね。そこの先っぽに根っ子が付いていたんです。
根っ子自体は黒いイボイボと一緒にこそげ落としてあります。
茎、そうです、茎や葉っぱの付いていた方から擦り卸して下さい。
根っ子の方から擦り卸しちゃうと苦味が出てきてしまいますから、それは避けて下さい。
それで、擦り卸し方ですけど、笑いながら反時計回りに円を描く様に卸して下さい。
はい、そうです。
笑いながら、です。
笑うと適度に力が抜けて優しく擦れますし、反時計回りは慣れない動きになりますから、より丁寧な動きになって、細かく卸せます。
フフッ、実際に声に出して笑う必要はないんですけども。
この方法で擦ると外側と内側とを均等に卸せて、周囲に皮の様な擦り残しが出ません。
え?
はい、この卸し金はステンレス鋼で出来ております。
よくワサビには鮫皮を使った卸し金が良い、と言われるのですが、実は鮫皮のモノはカビが生えやすくって手入れが大変なんです。
鋼ならお手入れも簡単ですし、それに加えて衛生面でも非常に実用的ですから。
こちらは普通の卸し金と違って、卸し板の表面に棘を立たせてありません。その代わりにエッチング彫刻処理で「わさび」の3文字を卸し板の表面に浮かび上がらせてあります。
このわさびの文字列の効果でワサビをよりクリーミーに擦り卸せますし、より多くの空気をワサビに含ませる事が出来ます。それによって辛味成分の「アリルイソチオシアネート」という成分をワサビ内部に封じ込められるので、鮫皮よりも2割増しで辛く仕上げられるのだそうです。もちろんワサビ独特の風味も長く閉じ込めておけます。
表面をご覧になるとよくお解りになると思いますが「わさび」の3文字の内、「わ」の字は下方向に、「さ」は右方向に、「び」は上側の方向に開放していますよね。文字ごとに違う方向へワサビの根茎、食用の部分ですが、そこが擦り卸されてゆくことで仕上がりがよりクリーミーになるのだそうです。あと、右下の所、一ヶ所だけ「わさび」ではなく、その代わりに「わびさび」と彫られています。もし気が向いたら、見つけてみて下さい』と、『KINPARA』さんは卸し金に関する解説の終わりに、そんな含み笑いを再び漏らした。
(注7)
丁寧な説明を有難うございます。
しかしながら、私、六分儀研吾、真妻の産地であります伊豆市や御殿場市にはほど近くの小さな街で産湯を使い、生のみならず育ちもその街でございまして、ですからそんな訳でワサビの取り扱いに関しましては、そこら辺のヘッポコな寿司屋よりも余程マシ、少しは手慣れたモノでございます。
でも、美穂子の声で為されたワサビの説明には聞き惚れてしまった事は確かだった。
『KINPARA』さんの顔立ちが美穂子にソックリ、ということは彼女と美穂子の頭蓋骨格も必然的に似ているということになる。骨格の形状が相似形ならば声色も自然と似てくるのも道理、なのか、な。久し振りに聞いた美穂子の声、懐かしさを超えた回顧の念が心中に浮かび上がって来るのは、致しがたない。コレは防ぎようもない、過去からの爆風に近い。
<何を懐古趣味に耽ってる? Rさんの音声は誰の声をモデルにして合成したんだっけ?>
美穂子、じゃないや、『KINPARA』さんに教えられた要領の通りに無音の笑いを浮かべながら本ワサビ専用だという鋼製の卸し金の板の部分でワサビの茎の方の端をクルクルと反時計周りに回し始めた。サメ肌の卸し金と遜色ない感触でワサビが擦り卸されていく。
ほほぅ。
真妻特有の粘性の高いペーストが出来上がり、次第にうず高く堆積していく。
確かに、記憶の中に残っているサメ肌の卸し金で擦ったモノと比べるとよりクリーミーな印象を受けるなぁ。外観からだけだが、肌理もとても細かそうで快い舌触りの期待大だ。
真妻は最初甘味を感じて、次に快い辛味が追っ掛けて来るんだよね。そして旨味が舌の上に拡がる、と。鼻にツーンとあまり来ない、刺激で涙が出るなんてことはないのが特徴。
いやぁ、久し振りだ。楽しみだなぁ。
ん?
何だ?
何故かは知らんが、イトの注目を一身に集めてしまっている、オレ。
そんな自分を発見してしまった。
何故だろうか?
イトがオレの何に対して全力の興味関心を浴びせ続けているのか、視線の先を辿ってみた。
最初はオレが浮かべている沈黙の笑顔を気持ち悪がって訝りの眼差しを向けているのだ、と誤解してしまった。よい歳したオッサンが声も出さずに薄ら笑いを口の周囲に滲出させながら何らかの作業をしている姿なんぞ『ま、確かに気色が良いモノではないだろうから、な』とイトの感情に関する圧倒的な情報不足という状況下で姑息な自己診断を下したから、だった。しかし、それが間違いであることはすぐに解ったのだが。
ワサビを擦過する旋回運動の制御を小脳に委ね、よくよく観察してみると彼女の視線の先端はまさにオレの手許に、クルクルと擦り卸されつつあるワサビにその焦点が結ばれているという状況にようやく気付くことができた。
他者から寄越される視線の固定にふと知覚認識する瞬間があるが、何が一体そうさせるのか、オレはまだソレに対する確固たる解答を得るに至っていない。
<もう1人の自分がソッと耳打ちするんじゃないか?>
その『瞬間』がイトに訪れて、彼女の視線がオレのモノと絡み合った。
「ね、ケンゴくん、ソレ、何してるの?」
「ワサビ、卸してるんだ」
「ソレって、ワサビなの? ツーンってするヤツ? チューブに入ってるんじゃないんだ!」
え?
『ツーン』って、オイオイ結衣、お前、何をさせてんだよ...
「ね、イト。もしかしてワサビ、食べたコト、あるの?」オレはオズオズと訊いてみた。
「ある」彼女はコクンと肯定した。
マジで?
おいおい、結衣...
幾らデカ...大きいとはいえ、まだ5歳の子供だぞ?
世の中には寿司はサビ抜きって大人も結構な数、存在しているっつーのに。
何を喰わせてんだ?
それはともかく、大丈夫なのか? 子供にワサビを喰わせたりして?
「どうだった?」オレは心配だった。
「?」キョトンとなったイト。
「...ウーン...大丈...味はドウだった?」
「ワサビって、スースーするよね」涙も出たっ! とカラッとした声でイトが快答した。
「イヤじゃなかった?」
「嫌いじゃないよ、ワサビ。今日、朝にケンゴくんがくれた魔法のドロップの白いヤツと似てるし。ドッチもスースーしてお空みたいな味がするから、なんか気持ちイイし」
あー、ハッカの飴、喰っちまったんだ。
アレは子供にゃ、辛過ぎだ、と思うんだが...
んー、ま、大丈夫だったんなら、良しとするけども。
しかし、たとえ舌が大人舌だとはいえ、ワサビを喰わすなんて結衣のヤツ、何やってんだろうか? 想像するに恐らく山掛けのマグロのブツ切りかなんかのパックに最初っから載っかっていた粉ワサビを取り除くことなくイトに与えた、という所が真相ではないか?
<オイ、聞き逃すな! さっきイトはワサビは『チューブ』入りじゃないのか? と訊いてきてたぞ。ここから推測できる事は何だ?>
あ、そうか!
マジで!?!
結衣のヤツ、カフェインにはあんなにウルサイのに、ワサビのことに関しては異常なまでに全然無関心じゃないか? 本当に大丈夫なのか? 子供に喰わせても?
確か、ワサビは毛根細胞を活性化させる事によって毛髪育成に効果があるって話を訊いたことがあるけれども、イト、毛がボーボーになっちまわないか? 非常に心配だ。
<そんな訳ないだろ! 大量に喰わせなきゃ、大丈夫だよ。心配し過ぎなんだ、お前は>
どっちなんだ? 心配した方がいいのか、しなくて大丈夫なのか、えぇ、ミスター客観?
<これからはお前が気を配れば良いだけの話だろ?>
Affirmative.
そういったオレの沈思黙考というか、ミスター客観との脳内会話をイトが発した言葉が中断させた。
「ねぇ、ケンゴくん。ちょっとソレ、ちょうだい」そう要求し、更にソコへ「ダメ?」と小首を傾げながらダメ押しを加えた。
クソッ!
可愛い。
完璧に親バカだと解っているが、世界一可愛いと言わざるを得ん。
イトのこういう姿態を見る限り、彼女が大人に成長したら一体何人のオトコを惑わせる様になるんだろうか? 今現在のこんな状況下で絶対に要らない、そんな心配に襲われてしまうほどだ。いや、そうじゃなくて、目下の優先事項はワサビ要求問題の解決だ。
うーん...
別にそのまま『ホラ』と上げても良いのだが、それでもオレは訊かずにはいられなかった。
「いつも食べてるの?」
「ウン。でもいつも少しだけ、だけど。
ママが、ね、
『こういうの、子供はたくさん食べちゃ、ダメ』ってチョットしかくれないの」とイトが不満に相似した色を色濃くにじませた言葉を、吐息を漏らす様な響きで言った。
彼女の返答を聞いて、オレは仄温かい安堵の波紋が身体中に拡がって行くのを感じた。
そうか、結衣、ヤッパリそういうトコだけはチャンとしているな。
良かった。
<そこら辺は、お前より彼女の方が余程シッカリしていたと記憶しているけども>
「ね、ダメ?」イトが真っ直ぐオレの眼を見詰めながら懇願している、ように見えた。
オレは大いに訝った、
彼女のこんな振舞いに抗える人物など、この世界に存在するのだろうか? と。
<スターリンだって無理だろうな>
だから外面は渋々を装って「あんまり沢山はダメだよ」と、彼女に告げた。
「ウン、解ってる」そう言いながら、イトが花を開かせた。匂い立つ笑顔だった。
その嬉々とした姿に些か気押されしてしまう。
3日前、初めて会った時に、ナマコの肛門から顔だけを覗かせるカクレウオの様に結衣の背後からチョコンと頭部だけ出していた、人見知りの女の子は一体何処へ隠れてしまったのだろうか? 蕾の綻ぶスピードは、こんなにも速いのか、と妙に感心した。
オレは、空いている取り分け用の小皿を1つ取り上げて、卸し金の板上にある程度堆積したペースト状のワサビを子供が摂取しても健康被害が無い、許容範囲内であろうと予想できる分量だけ移してから、自分が5歳の時ワサビを好んで食したか否かを思い出しつつ、イトへ差し出した。
記憶の書架を弄った結果、田丸屋のわさび漬けのマトリックス、つまりその酒粕部分を箸の先にチョッピリなすり付ける様にして摘み上げてから醤油に一瞬だけ浸して、パクッと口にするのが好きだった、という細かい思い出だけが脳裏に蘇ってきた。その情報から少し遅れて『辛い』という理由から白い酒粕の基質に埋設されたワサビの茎や葉は巧妙に選り分けていた、という記憶も鮮やかに想起された。つまり普通の子供と同じ様にオレもツンと鼻に効いて辛いという理由からワサビ自体を好んではいなかったのだ。だから...
イト、この娘は相当、変わってんな。
でも真妻喰ったりしてホントにお腹、壊したりしないよ...ね?
様々な角度から交錯する想いの軌跡で思惟が渋滞を起こし、胸襟の内が渋滞マヒ状態に陥りつつあるオレに頓着すること無く、イトは素直に「アリガト」とだけ、お礼を言った。
そうして彼女は何の躊躇も示すことなく小鳥のエサ程度の量を器用に箸先で摘み上げてパクッと無造作に口の中に放り込んだ。
結構、姿格好に似合わない豪快なトコ、あんだな、と再び妙な感心を抱いた。
ケンゴくんが、なんかクルクルしてた。
「ね、ケンゴくん、ソレ、ナニしてるの?」ってきいた。
「ワサビ、おろしてるんだ」っていったから、ワタシはチョーおどろいた。
ワサビって、おサシミにつけるモサモサってした、シロ・ミドリのヤツだよね。
ママがいつもおサシミにつけてるのって、ほそいチューブにはいってるから、
ケンゴくんがもってるヤツ、ミドリイロしたキのボーみたいなヤツ、
ソレがワサビだなんて、ホントーにビックリした。だから、
「ソレって、ワサビなの? ツーンってするヤツ? チューブに入ってるんじゃないんだ!」
っていったら、ケンゴくんは、なんだか『ん?』ってカンジになったけど、すぐにいつものケンゴくんにもどって「ね、イト。もしかしてワサビ、食べたコト、あるの?」だって。
『あるよ』っておもったから、ふつうに「ある」ってコクンした。
ワサビ、ママがアンマリたべさせてくれないけど、スースーするアジがスキ。
「どうだった?」ってケンゴくんがいったけど、ちょっとナニいってるのか、ワタシよくわからなかったから、ちょっと『ウン?』ってなってたら、
「...うーん...ダイジョ...アジはドウだった?」ってケンゴくんがいった。
ワサビ、スキだから「ワサビって、スースーするよね。ナミダもでた」っていったら、
「イヤじゃなかった?」ってケンゴくんがいうから、ナンか、またヘンなコトいってるなって、おもっちゃった。
なんで『イヤ』って、きくんだろ?
スキだから『イヤ』なんておもわないよ。
おソラみたいなアジじゃん、キモチいいってカンジのアジじゃん。
いいカンジじゃん、ワサビって。
チョッピリだけ、ツーンってするけど。
ハナのコッチがわの方がキューンってなって、ナミダがでてくるけど。
でも、スキって方。
もしかしたらワサビのこと、キライなのかな、ケンゴくん?
もし、そうだったら、ウフ...
オトナのクセに。
フフッ。
ナミダ、でちゃうからかな?
ウフフッ。
イトは、醤油も何も漬けていない、まんまのワサビを実際に音が聞こえてきそうな所作で『パクッ』と口の中に入れた。小首を捻って左斜め上の虚空に視線を走らせながら、舌全体を使って口蓋部、口腔内部の上顎の裏側にワサビを圧延させて、どういう味なのか、確かめている様子と伺えた。探し物をしているようにも見えた。しばらくの間、そうしていたが、やがて何かを諦めた様に向き直ってオレを真っ直ぐ見詰めながら、こう言った。
「あんまりツーンってこない」
そりゃ真妻だからな。
「何だか、トロッとする感じ」
そりゃ、真妻だからな。
「ね、ケンゴくん。コレってホントに、ワサビ?」とオレに尋ねてきた。
「そりゃ、真妻だから、な」
「マヅマって、何?」
「ワサビの品種...ワサビの種類...ウーン、蟻さんって解る?」
突然、植物から昆虫に話題対象が移行して、それに戸惑ったイトが眼を白黒っとさせたが、からかわれているのかと誤解したのか、プクッと頬を膨らませながら「判るっ!」と少し乱暴な口調で、答えた。
「アルゼンチンアリ...エッと、小さなアリさんもいれば、大きなアリさんもいるじゃん?」
イトがコクンと首肯した。
「この世界には、色んなアリさんがいるんだ。小さいのから大きいの。おとなしいヤツや乱暴な...ケンカっ早いヤツとか、ね。同じようにワサビにも色々なヤツがいるんだ。
真妻は、その中の1つ。
あまり鼻にツーンと来ないけど、スッと爽やか...青いお空みたいな感じの味がするだろ?」
コクン。
「真妻ってワサビは、そういう味のワサビなんだ。辛いけどツーンと来ない。甘い感じもするし、パッと口の中が刷新...洗われるような感じ...ウーン、何て説明しよう?」
説明する語彙が中々浮かんで来ず言葉に詰まったオレを救う様にイトが口を挿んだ。
「何となく、ケンゴくんの言いたいこと、判る。コレもワサビ、なんだ?」
「そう。真妻はワサビ界のトップ...王様なんだ」
イトは『フーン』と感嘆とも茫然とも判別の付かない非言語的な声音を漏らした。
そして小皿に盛られたワサビの小山からホンの少量を摘み上げ、クロダイの刺身に載せてから綺麗な箸使いで醤油に浸し、滴を落とす事もなくサッと口に運び入れた。
途端にイトの顔が喜びで破綻した。
『んー!』と無音の声を上げ、まるで自身の内部で破裂した爆発を抑え込んでいるかの様に身を捩らせる。本当に身体全体で美味しさを表現していた。
ホッ?!?
そうか、
このクロダイは美味い方のヤツなんだな。
お刺身の美味さを全身で表現しているイトを見て、オレは焦った。
自分だけ置き去りにされたような気分を味合わされてしまったから、だ。
<In bocca al lupo!>
『Crepi il lupo!』
彼女に追付く為に、急いでワサビをなすり付けたクロダイの刺身を炙られた皮目から口にポイッと放り込んだ。
オオッ!
油臭さは染み1つも口腔内に漂ってこないぞ!
滲んだ脂が虹色の光沢を表面に浮かび上がらせた、澄んだ透明感を湛える美しい乳白色の白身は、濃い旨味と上品な甘味を両方とも備えていた。
これは素晴らしい。僥倖と言っても良いかも知れん。
クロダイは悪食で有名な魚だ。
釣り上げた個体の腹を割いて内部を調べると、腸内からはカニ・エビなどの甲殻類、貝等の小動物系から海藻類まで様々な餌生物を発見できる。だから駿河湾や遠州灘では西瓜を釣り餌として使用していたりする。聞く所によると、瀬戸内地方ではミカンやコーン等も釣り餌として使うそうだ。マジだろうか? と一瞬疑ってしまうが、どうやらマジらしい。
クロダイは総じて頑健な魚類で、水質への対応能力に優れている為に多様な環境下でも生息が可能。つまり結構な悪条件の海でも涼しい顔で生きていけるお魚さんである。
実際に釣りしてみれば一目瞭然だが、ドブを想起させる都会を流れる小河川の河口付近の汽水域、ゴミやら船から流出した油等が海面を浮遊している様な、薄汚れた海でもビンビンと暴れながら元気に水中深くから上がってくるクロダイを見ることが出来る。
ま、そんなトコで釣れたクロダイ、口にしたいとは産毛一筋も思わないけど。
ソレくらいに『robust(たくましい、丈夫な;粗暴な)』なお魚さんであるんだ。
だから、漁獲される前に住んでいた環境の違いによって食味の良し悪しや身の品質が左右されてしまうという些か残念な結果となってしまう。端的に言うと、美味しいクロダイもいれば、油臭くてクッソ不味いクロダイもいるってことだ。そういうこともあってか市場価格の面から見ると比較的安価安定で流通している、そういう魚種である。
そんな事もあって、期待していなかったのだが、良い意味でその予想は裏切られた。
皮目を炙ってあるトコもポイント高い。
タイに限らずお魚さんの一番美味い所は皮と身の間に薄く横たわる脂の膜だからだ。
<眼って人もいるぞ。あと、鰭の付け根のお肉とか、カワハギなんかだと肝とか...>
炙ってある事で皮がパリッとなって香り高い風味が、脂の層がジュワッと半分溶け出して舌の上に甘味を広げ、そして身の部分のプリプリとした食感を楽しめると同時に熱に因りタンパク質が分解された結果生成されたアミノ酸が濃厚な旨味成分として味蕾を刺激する。
そこに真妻の爽やかな辛味がスッキリと味の全体像をバシッと纏め上げる。
もしかしたら、軽く昆布で締めているのかも知れない。
遠くの景色に薄っすらと昆布の姿が見え隠れしているのを、何とはなしに感じ取れる。
<イノシン酸とグルタミン酸の相乗効果、だな>
クニュクニュと快い抵抗を表す切り身にキュッと歯を立てて噛み進んで行くに連れて、鯛の身のみが持つ特有のネットリ感が際立ってくる。そのネットリの効果として切り身に備わった旨味と甘味とクロダイの持つ独特の芳香がユックリ・じんわりと口腔内に充満し、咽頭部を超え鼻腔内や咽喉へと漏れ出して行く、このチョット無い愉悦。クロダイと醤油と真妻の、素晴らしい三重奏の実演である。誰かに急き立てられている訳でもないのだが、咀嚼するのもソコソコにして慌ててゴクッと飲み込んだ後も、美味さと甘みの余韻が舌の上や口腔内部、鼻腔内に響き渡り続けた。オレとイトの2人、両者ともにお酒を飲まない人間なのでご飯が欲しい、との切望が胸中に浮上した。
ま、直に『KINPARA』さんが飲み物を運んでくるだろうから、その時にご飯を早めに用意して貰う事にするか。そうするか。
それまでは料理をチビチビ愉しむ事にしよう。
視界の左片隅に視線の焦点をチラッと合わせると、お鍋の方、まだ準備が整っていない事が視認できた。そういう訳で目下の所はお造りをやっつけることに専心継続すると決定。
オレが薔薇の花に形作られた叢からフグさんを一切れ取り上げ紅葉卸しを溶かしたポン酢に浸そうとした瞬間、イトが、彼女が言う所の『赤い鯛さん』に手を伸ばしながら、
「ねぇ、ケンゴくん。何で、してたの? さっき?」と、質問をしてきた。
最初、彼女の質問の意図が理解できず『ん?』と凝固してしまった。
ワサビを擦り卸していた事は説明したはずだけど...
ま、理解が十分に及ばなかったのだろうか? と、お座なりで等閑の判断を下して、
「ワサビを擦ってたんだよ」と2回目の説明をした。
赤い鯛さんの一切れが醸し出す旨味と甘みにスッカリご満悦になっていたイトが、その一種のトランス状態からヌッと脱け出して真顔になって『ソレはさっき訊いたでしょ』というような呆れ顔を一瞬だけ浮かべつつ、問い質す口調で「じゃなくて、何で笑いながら、してたの?」と先ほど自分のした質問を、別の言葉で問い直した。
成程、そういうコトね。
同時に『この娘は敏感だな』と感心した。
適当なあしらいをすると即座に容易く察知されてしまう。
改めて1人の人間として(子供ではあるが)接遇しなければならないと再確認させられた。
<自戒の念、は常に必要だぞ>
「ワサビを擦り卸す時には、笑いながら反時計回りにワサビを軽ーくクルクルと回すんだ。
そうすると余計な力が入らなくて良い加減...ちょうど良い感じに卸せるんだよ」
「フーン。あのね、反...時計...?...って、何?」
イトがマゴチを醤油に付けようとするのを制止して「ソレはこっちのポン酢で食べた方が良いよ。あと紅葉卸しは止めといた方が良い」と教えながら「時計の回る方向って解る?」と彼女の質問に対して新たな質問で返すという、あまり推奨できないリプライをした。
イトは、オレが勧めた通り紅葉卸しをスルーして小口切りの青ネギだけ加えたポン酢にマゴチを浸してから、ポイッと口に入れた。その直後『オッ!』という欣快な一驚を相貌に浮かべた。
あ、美味かったんですね、マゴチとポン酢のマリアージュ。
ポン酢が嫌いじゃない、だなんて、ヤッパリこの娘、変わってんなぁ。
美味しい物を食べている時のイヌのように数度の咀嚼を終えるのも待ち遠しいかの如く、電撃の速さでゴクッと飲み込んだ。そして鮎の形の箸置きに手にしていた柾目の天竜杉の箸を揃えて置いてから、彼女はコチラ側から見て反時計回りに人差し指をクルッと回して空中に円を描いた。
「それを時計回りっていうんだ。時計の針が回る向きだよ。
今度は、さっきと逆に回してごらん?」
彼女は慣れない動作なのか、何かに引っ掛った様な少しぎこちない動きで、今度はオレから見て時計回りに腕全体をグルッと回してみせた。
「ソレが、反時計回り。時計回りの反対だから...」説明の途中でオレを遮る様にイトが、
「反・時計回りなんだ?」と話の先を紡いだ。
「その通り」とオレが頷くと、彼女は欣然として満足の表情を浮かべた。
ケンゴくんがつくったワサビ、おいしい。
あんまり、ツーンってこないから、はじめてたべたトキは『ん?』って、おもった。
でもおソラみたいなアジはバッチリするし、キモチいいってカンジのアジがする。
めっちゃ、する。
とっても、いいカンジ、このワサビ。
『マヅマ』っていうんだって、ケンゴくんがおしえてくれた。
マヅマ、いいカンジ。
ちょっぴり、ホントにちょっとだけ、とおーくの方でツーンってするだけなんだけど、
ハナのコッチがわの方、あんまりキューンってならないし、ナミダもでてこないけど、
あまくて、トロッとして、チューブのワサビよりもぜんぜん、キレイなアジがする。
沙織さんがいってたクロいタイさんのおサシミにワサビのマヅマ、じゃなくてマヅマってワサビをつけてから、おショウユにつけて、それからおクチにいれる。
!
アーッ、おいしい!
なんか、そういうフウにおもってもないのに、かってにおナカのシタの方から『フーン』ってコエがでてきちゃうカンジ。
ホントは、ホントの音はでてこないんだけど。
でも、クロいタイさんって、こんなにおいしいんだ!
こげたトコ、カワなのかな? これ?
サケのカワとおんなじみたいなカンジだけど、もっといいニオイがする。しろいトコロはプリプリってカンジがする、ハとかシタにクニュクニュしてキモチいいカンジがする。
それで、かむと、あまーい。
ホントに、うまーい。
あぁ、すぐになくなっちゃう。
おいしいのって、なんでスグに、きえちゃうんだろ?
なんで、いいカンジっておもったモノ、ドッカにイっちゃうんだろ?
!
あ、そうだっ!
くらべてみなきゃ。
クロいタイさんと、アカいタイさん、おんなじなのか、どうか、くらべないと。だから、
クロいタイさんのカンジがきえちゃうまえに、アカいタイさんのおサシミをたべようっと。
マヅマってナマエのワサビをつけてっと...
あ、そうだ。
ケンゴくんにききたいコト、あったんだっけ。
なんで、さっき笑ってたのか?
わらいながらでないと、ワサビってつくれないのかな? っておもったんだ。
でないと、からくてナミダがでてきちゃうのかな? っておもった。
だから、
「ねぇ、ケンゴくん...」
小振りな魚藻文鉢に入れられた、今日の午後早くに御前崎港に揚がったという『走り』の戻り鰹の皮目だけを強火で炙った『焼き切れ』とポン酢を合せて、その上から白絞めの胡麻油でキツネ色に揚げられたニンニクチップと細かめの小口切りの青ネギを振り掛けた逸品は素晴らしかった。
カリッと揚がったニンニクチップ、お店で出されたモノを食べる度に感じる事がある。
何処のお店でもニンニクの真ん中の芯が器用に刳り抜かれていて、一体どうやってこんな風に芯だけ綺麗に取り除けるのか? と何時も疑問を抱いてしまう。アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノを作ろうと思い立った時など、毎回、自分でもアレやコレやと様々な方法を試行してみるのだが、未だに上手く芯だけ刳り抜けられた例(ためし)がない。
シゲシゲと観察した結果、ここのニンニクチップも他のお店と同じで、例に漏れなかった。
ドーナツ状に真ん中の所だけ、綺麗に虚空がパカッと口を開けている。
コレって外食関係の、食い物屋さんのデフォなのか?
ホントに、どうやって刳り抜いてんだろ?
誰か、教えてくれ!
『KINPARA』さんの説明によると巻き網漁とか延縄漁ではなく曳き縄漁(トローリングのこと)で一本ずつ釣り、揚がった直後に頭部へ鉤爪で止めの一撃を食らわし絶命させると同時に血抜きを施し活け締めにして海水の氷水に漬けるという、最高に適切な処理がなされた鰹は新鮮そのものでモチモチとした食感とちょうど良い具合の脂の乗り具合が絶妙だった。やはり鰹はこうでなくてはならない。東京で喰うカツオと称される刺身、アレは見た目の姿恰好が鰹というだけであって、似て非なる代物に過ぎないとオレは思う。
因みに新鮮な鰹には眼にも鮮やかなウルトラマリンが差し色として体表面上を走っている。
鰹の赤身は、噛むと『血の味』がする。
赤筋(持久筋)の味、赤い筋肉色素タンパク質『ミオグロビン』の味だ。
いや、ヘモグロビンに含まれる鉄の味か?
<血合いの味、じゃないのか?>
刺身自体の表面に脂が滲んでいて、通り雨が止んだ後の、眩しい陽光に照らされた新品のアスファルト路面の様にギラギラと虹色に輝いている。ポン酢主体のタレにも鰹から漏れ出た脂が浮かんでいて、シャボン玉の表皮に観察できる構造色にも似た光沢がチラホラと垣間見えている。素材の新鮮さという状態を言葉1つ発する事無くコチラ側に雄弁にヒシヒシと伝えてくる情景である。酸化した時の光沢とは全く違う。適切に活け締め処理され本当に鮮度抜群で脂の乗りが良い戻り鰹を知っていれば、酸化時のあの悍ましい光沢とは全く異なることは一目瞭然だ。『刺身の切断面が虹色に輝いているのは酸化した証拠』などと半可通な事は言わない方が良い。自分のお馬鹿振りを巷間に曝け出しているだけだから。
事実を知ってる人達は皆、俯いて静かに憫笑している。
この鰹が備えている独特の風味を嫌う人もいるが、オレは大好きだ。
何て言えば良いのか...
黒潮をソックリそのまま体現した様な『味』とでも表現できようか。
北から降りてきたサカナではない。南方から昇ってきたサカナの『味』だ。
ま、実際の所、戻り鰹は北方から下って来てるんだけど、ね。
ここで一旦口を変える意味合いもあるが、メニューを見た時から興味があったパプリカの土佐酢漬に箸を伸ばした。一体、どんな味なんだろうか?
ほほぅ。
土佐酢が良い。
恐らく追い鰹をしていると想像できる鰹節と昆布の出汁といい、主張し過ぎない酢の具合といい、出色の出来栄えだ。
出汁と米酢と皮を剥いてあるパプリカの柔らかな甘味との符号具合が誠によろしく、非常に高いレベルで調和の取れた三重奏として体現されている。
イヤ、四重奏か?
出汁が鰹節と昆布から採られているから、バイオリンが2基とビオラ、チェロが1基ずつ。
ま、そんなのどうでもイイ事か。
2種類の緋色と梔子色のパプリカの対照的な色合いが眼に鮮やかに映える点も嬉しい。
皮を剥いてあるからだろうか、パプリカが土佐酢とよく馴致されている。
繰り返しを承知で何度も言うけれど、土佐酢の『あえか』ではないが、咳き込むほどではない、酢の強度、出汁とのバランスの取り具合がピンポイントで、絶妙だ。
パプリカの歯応えの残し方も非常に高レベル。クタッとなり過ぎてないが、硬過ぎない。
料理としての役回りとしてはワキだが、シテ筋と比しても全然遜色ない出来だ。
つまみ蓋が被された黄瀬戸の菊華型の小鉢を開けると、黒鶏プレノワールを叩いた糝薯(しんじょ)と海老芋の孫芋の炊き合わせが顔を覗かせた。両方とも隣の街である磐田市の名産品だそうだ。海老芋といえば京都の祇園、丸山公園にある『いもぼう平野家本家』が提供する棒鱈と海老芋を煮込んだ『いもぼう』が有名だ。しかし、この鉢の芋はとても小振りで可愛い一口サイズである。という事で『パクッ』と口の中に放り込んだ。
ウーン...
海老芋は肉質が肌理細やかで凄く滑らか、柔らかくとてもクリーミーな食感で、鶏の旨味に縁どられた海老芋の独特の食感と優しい滋味が咀嚼が進むに連れてユックリと口の中全体に拡がって行き、それほど噛まない内にフワッと溶けて無くなってしまう。里芋と比較するとあんなにネットリし過ぎていなくて、ホクホク感があり口溶けがとても良い。
海老芋は形状が海老に似ているからそう名付けられたらしい。里芋の親戚らしいけど、味自体は里芋っぽい所もあるが、全体の印象としては別の芋だ、と感じる。(注8)
アレッ?
里芋って何で里芋っていうんだったっけ?
まさか、姿恰好が『里』に似ているからって訳じゃないよな。
<その土臭い芋の姿の一体何処が『里』っぽいんだ? 山地で産するから山芋と呼ばれた。それに対して里で採れるから里芋と名付けられた。それだけだ>
なるほど。
黒鶏の糝薯(しんじょ)としてあるが、要は鶏肉を叩いて作ったツクネだ。
ただ、安易にミンサー(mincer:肉挽き機)を使わず、出刃包丁で丁寧に叩いてミンチに仕立ててある様で、機器の使用に付随する熱による変成が一切加わっていない事が解る。だから舌に触る感じがとても滑らかなのに、肉々しい醍醐味も感じ取れるという、相矛盾した2つの要素が並立されている。噛んでいくと内部から甘露とも表現できる液体がジワジワと滲出してくる。嫌味が染み1つも感じられない黄金のスープが湧き出てくる。
あぁ、この液体なら1Lくらい難なく飲み続けられるぞ。
鶏を一羽解体した時に色々な部位に分割するが、どう丁寧に処理したって余る部分が出てくる事は不可避だ。それらのお余りの有効活用でもあるに違いない、と想像できた。
軟骨やら腱の痕跡なのかなぁ? と想像できる感触を時々舌先に覚えるが、非常に些末な箇所まで心配りがされた処置により、全く気に障る事態には陥らない。返ってソレ等が良いアクサンテギュになって控え目だが効果的な装飾をこの料理に与えている様に感じた。
何かが動き始める様な気配がしたので横目で確認すると、丁度コンロに掛けられた小鍋の液面が『フツッ』と踊り出す兆候を見せる所だった。出汁が『フタフタッ』と沸き立ち始めるまで、あと少しだ。
はて?
迂闊な事に料理の素晴らしさに関心ほぼ全てを奪われてボーッとしていたからか、視界に入っていたのにも関わらず全然気にも止められなかったんだが、手許に置いたお品書きに『黒鶏プレノワールの胸肉と季節の野菜の揚げ物、パートフィロに包んで』と掲げられているという事に漸く気付いた。この黒鶏の揚げ物、当然ソレ断然魅力的、である。
が、それらしきモノの姿はテーブルの上に見えない。
っていうかお品書きに掲載されている揚げ物全てが未だに載せられていない。
<多分、後で運んでくるのだろう>
そりゃ、そうだ。
そうでなければ羊頭狗肉どころじゃない、完全な詐欺じゃないか。
しかし、パートフィロって何だろ?
ここに『包んで』とあるし、語感が似ているからパラフィン紙みたいな紙だろうか?
うぅ、とても愉しみである。
するとその時機を見通したかのように『KINPARA』さんが注文した飲み物を運んで来た。
「お待たせしました」
彼女はオレ達の座敷に上がり込んで飲み物をそれぞれの前に配り始めた。
イトの前には、ハーフパイントのグラスに氷無しで注がれた、搾り立ての三ヶ日ミカンのフレッシュジュースと、同じ大きさのグラスにこれまた氷無しで注がれた麦茶。
「こちらの麦茶ですが、麦茶...えー...コロコロした粒々の麦茶から煮出した物になります。そしてこちらのミカンジュース、契約栽培をお願いしている平山農園というミカン農家さんが育成された三ヶ日ミカンを搾った物です。5分ほど前に搾ったばかりで、文字通りの搾り立てになりますので、お早めにお飲みくださいますよう、お願い致します。
放っておくと、酸化して味が変化してしまいますので」と『KINPARA』さんが言った。
オレの前には、小洒落た居酒屋が冷酒を提供する時に使用するのと似た二重ガラス製の、えーと、カラフか、コレ? 牛乳瓶を3回りほど拡大化した容器に入れられた水出しの緑茶。
容器の底に天竜産の一番茶葉が沈殿しているのが観察できる。それと白い小さな磁器製の湯呑み、台湾式の喫茶に使用する様なタイプのモノが、2つ。
2つ?
そう訝って『KINPARA』さんに思わず視線をやった。
彼女の眼を捉えると、『KINPARA』さんはチラッとイトを一瞥してからオレにスッと微笑みを渡してきた。
なるほど。
全てをご推察済みという訳だ。
『優秀だ』と思った。
この手の顔の女性はみんな優秀なのかも知れない。
「先ほどお嬢様のカフェインの取り過ぎについてご心配を為さっておいででしたけれど、このお茶は冷水で浸出しておりますから、お湯で淹れた普通の緑茶に比べると、溶け出すカフェインの量がグッと少なめになっています」
「エッ!
そうなんですか!?!」あらぬ方向から襲来した予期せぬ情報がオレを貫通した。
「はい。
緑茶の味は大体の場合、3つの要素で決まります。
1つ目は渋みをもたらすカテキン。
2つ目はカフェイン。これは苦味です。
そして最後は旨味や甘味を感じさせるアミノ酸、テアニンとかが代表的です。
カテキン類の内、エピガロカテキンガレートという物質、これは苦味や渋みが物凄く強いのですけど、そのカテキンとカフェインは熱いお湯で淹れると沢山溶け出してくるのですが、低い温度では抽出量が少なめに抑えられるんです。
反対に旨味と甘みのアミノ酸は低温の水でも浸出...溶け出してきやすいので、冷たい水で淹れると比率的にアミノ酸が多くなり、カフェインと苦いカテキンが少なくなります。
結果的に旨味と甘みが感じられて、苦味と渋味が抑制された緑茶になるんです」
それは、知らなかった。
さすがプロ、だ。
「あと、お茶の卸問屋さんが言うには、山の茶畑で獲れた茶葉は味が濃いが、やや荒っぽくなりやすい。そして海の近くの茶畑で収穫された茶葉は繊細で上品な味わいになるんだそうです」その見極め、私には無理ですけど、と『KINPARA』さんは微笑んだ。
美穂子、じゃなかった、えっと『KINPARA』さんはテーブルの上の種々の器の配置状況を細かく調整し直しながら、話の先を続けた。
「さっき言ったテアニンですけど、ストレスを減らす効果があるんだそうです。
あと、エピガロカテキンガレートとは違うカテキン類、エピガロカテキンは渋味もずっと少なくて、アミノ酸と同じ様に冷たいお水でも沢山溶け出してくる性質で、このカテキンは有難いことに免疫細胞を活性化するんだそうです。
でも、カフェインとか渋味の強いカテキンが、このテアニンとかエピガロカテキンの効果をグッと弱めてしまうんだそうです。
そういう事もあって、水で浸出した緑茶の方が美味しい上に健康にも良い、という訳です」
「水出しだとカフェインや渋いカテキン類が水に溶けだしてこない、って事なんですね?」
「そうです」彼女の眼の周囲と口許に暖かい動きが浮揚した。「あと」チロッとイトに一瞥を与えた後「熱で壊れやすいビタミンCも、水出しの緑茶ならシッカリと摂れますから。
ビタミンCはコラーゲンの合成過程で重要な役割を果たすそうです。ですから肌の健康を気遣う女性には嬉しいことですね。んっと、お嬢様にはまだ不必要なことでしょうけども」
そういう事なら、ま、大丈夫だろ、一口くらいなら。
イトに視線を走らせると、オレと『KINPARA』さんの会話に付いてこれなかったようで、その円らな双眸をパチクリさせていた。そのキョトンっぷりがまた、可愛い。
<5歳の少女がこの会話の内容を理解できていたとしたら、そっちの方が怖いぞ、寧ろ>
「こちらの水出しの緑茶ですが、飲み終わった後に残った茶葉は、お好みですけれど召し上がれます。茶葉に含まれている水溶性のビタミンCはお茶汁に溶け出てくるんですけど、ビタミンEなどの脂溶性ビタミンや食物繊維は出てこなくて、茶殻に残ってしまうんです。
だから、非常に豊富に含まれています。
ポン酢やワサビ醤油を少し付けてもイケますし、そのままでも十分に美味しいです」と『KINPARA』さんが言った。
ほう。
知識として知ってはいたけれど、飲み残しの茶葉って食べられるんだな。
でも、美味い?
ホントか?
ま、気が向いたら試してみるか、後で。
あくまでも、気が向いたら、の話だけど。
しかし、大丈夫なのか、使い終わった後のお茶っ葉なんて喰って...
<オイ、シンクの三角コーナーに打ち捨てられた出涸らしの茶葉を連想するな!>
『KINPARA』さんは一旦ワゴンの所に戻って、今度は揚げ物を満載したトレイを運んで来た。一目見ただけで揚げ立て、アチチ・ホチチの状態だと判別できる。過剰なる演出が施されたCMよろしく盛大にホカホカと湯気が上がっているからだった。
揚げ物、特に天麩羅は揚げられた直後が美味しさマックスで、時間が経過すると供に急激なドロップラインを描いてその風味は損なわれて行ってしまう。天麩羅屋さんで、無駄話に夢中になる余りに、出された熱々の天麩羅に気付かないお客達が敬遠される所以である。
天麩羅職人さんとしては『話すんにゃったら、喫茶店に行けや』と毒吐きたい場面だろう。
ま、天麩羅屋、寿司屋、そして蕎麦屋では、無駄話と香水の2つは特に厳禁である。
チョット考えれば立ち所に慮れるコトではあるが、気付いてない人も散見されるのが残念。
コレは、備前かな?
この陶器、土の香りが漂ってくる黄みを帯びた砥粉色の素地に明るい赤丹色の火だすきが流れている牡丹餅を模したと思しき手鉢に、如何にも美味しそうな揚げ物たちが盛り付けられている。誠に景色が良い。
皮質に固定化された記憶の中の美穂子に相似の聲で『KINPARA』さんが揚げ物に関する説明、お品書きが触れていない細かな情報を1つ1つ補完する様に、丁寧に挙げて行く。
「こちらが沙魚です。
そうです、お魚のハゼ、今夜の品は浜名湖で水揚げされたモノになります。
時季的に、落ち沙魚と呼ぶには少々早いのですが20cmを超える位の良型です。
今年のハゼは近年稀に見るほど良型で、加えて食味の方もとても良好なのだそうです。
コチラはタマネギと男爵イモの掻き揚げです。
タマネギは浜松市の篠原町という場所、ここは水はけの良い砂質の農場で、非常に甘味が強く芳ばしい玉葱が採れる所です。男爵は『みかたっぱら』台地という所にある農場の物で、ホクホクとした食感と初秋の青空の様な清々しく爽やかな香りが特徴です。
え?
あぁ、そうです。
『みかたっぱら』は、戦国時代にまだうら若き徳川家康が武田信玄率いる屈強の甲斐軍団と戦って大敗した古戦場です。聞く所によると武田軍団は総勢3万人余り。
対する徳川勢は8千人ほど、だそうですから、大負けしても当たり前ですよね。(注9)
え?
私、そんな風に言っていましたか?
すみません。
地元、浜松では『三方ヶ原』のことを『みかたっぱら』と呼ぶモノですから、つい...
申し訳ありません。
しかし、よくお解りになりましたね?
あぁ、そうなんですか。
出身が、同じ静岡県なんですか。なるほど、そういう訳なんですね。
これが、舞阪港で水揚げされた生シラスと浜松産のパクチーの掻き揚げです。
そうです。
シラスは相模湾や駿河湾なんかが有名ですが、ここ近くの遠州灘も一大産地です。
パクチーは、今は茨城が日本一になっておりますけど、
昔、静岡が全国一の生産地だったんです。
もちろん浜松でも生産しています。
旬は2月から5月の春期と9月から10月の初秋期の、1年に2回です。
あ、よかった。
お嫌いではないんですね。
これは、好き嫌いが別れる野菜ですので。
私の父なんか『カメムシの臭いがする』と言って全く口にしようともしないんですよ。
そして、こちらは東区にある農場で緑健農法という特別な育成法によって栽培されたナスとサツマイモとなります」
その様に説明すると『KINPARA』さんは別の料理を運搬する為にワゴンの所へと戻った。
海馬(もしかしたら既に皮質に移送されたかも知れないが)に記憶として残った『KINPARA』さんの甘い聲による説明が幻影の様に耳許で揺らめき続けている。その聲に導かれる様にそれぞれの揚げ物を鑑別というか再確認して行く。
<そんな必要、あるのか?>
コレが浜名湖産のハゼで、コッチが玉葱と男爵の掻き揚げ、玉葱は篠原町というトコロ産で、男爵が三方ヶ原産。
三方ヶ原...か。
それにしても、浜松の人は三方ヶ原のことを『みかたっぱら』と呼んでいるのか。
音による言葉の崩し字みたいだな。
話し言葉の草書体、とでも形容し得るか?
抑揚なんかも慣れ親しんだ言葉ほど後ろの方でピッチが上がるし。
あ、そうだ。
『葉山』は『はやま』の『ま』にかけて抑揚が上がるって、知ってた?
『三崎』も『みさき』の『き』にかけて上がって行くし。
コレって話し言葉のプロ、アナウンサーでも結構間違ってる人、多いんだよね。
さっき『KINPARA』さんが言ってた三方ヶ原って、武田信玄に徳川家康がボロ負けした時、恐怖のあまり馬上で雲古をチビりながら敗走した、そういう場所じゃなかったっけ?
確か、その故事に因んだ地名もある筈だったけど。
違ったっけ?
ま、いっか。
生シラスとパクチー。
コレは塩だな。
浜松東区産の秋ナスにサツマイモか。
サツマイモがデカい。
子供の拳ほどの大きさがある。
これ、チャンと中まで火が通ってるのか? と心配するほどに、デカい。
あのギャル曽根でも一口じゃ無理だぞ、こんなの。
イト、大丈夫か?
チャンと口に入れられるのか?
顎(あご)、外したりとか、しないよな?
<心配し過ぎだ、新米パパ>
あ、サツマイモ、これ、おサツさんだ、きっと。
おっきいー! ものすーごっく、おっきー!
んしょ!
あ、やわらかーい!
おハシでスッと2こにできた。
でも、まだおっきーなぁ。
ほりゃっ!
うりゃっ!
これでいいや。
パクッと...
!
なにコレっ?!?
チョーうまい!
おクチのなかにいれると、はじめはモゴモゴってカンジ、なのにスグにシュークリームのナカミみたくトローってなる。とけちゃうカンジ。
うまーい!
コレ、チョーうまーいっ!
それに、あまーいっ!
とっても、あまーいっ!
ワタシ、これ、スキ!
だから、このおサツさん、ゼーンブたべちゃおうっと。
ケンゴくんには、あーげないっ!
イト、サツマイモを気に入ったみたいだ。
器用な箸使いでサツマイモの天麩羅を4つほどに割ってから、音が聴こえてきそうな勢いで『パクッ』と口に入れた瞬間、表情がニマーッと緩んでとろけ始めたからだった。
オレ自身は甘いサツマイモの天麩羅、正直な所あまり好みではないのだが、彼女の姿を観ていると美味そうに思えてくるから、不思議だ。
<大学イモ、好物だろ?>
イヤ、あれはお八つっていうか、デザート...スイーツの一種だから。
大体サツマイモの天麩羅はご飯のオカズにゃ、ならんだろ?
<甘い田麩(でんぶ)やきな粉を白いご飯に掛けた物を喜んで食べる人も多いぞ>
そりゃ元々、田麩の原材料は鯛や海老なんかの魚介類だからな、甘いけど。
しかし、ま、田麩ならまだしも、きな粉?
勘弁してくれよ、きな粉をフリカケ代わりにご飯にまぶす、だって?
冗談キツイよ。
甘ったるい上に、口の中の水分をきな粉に全部吸い取られて、モサモサしちゃうぜ?
そん時に運悪くムセたりしたら、胞子をパフパフばら撒くキノコみたいになって、無様な醜態を世間に曝す事になるぞ。
おぅ、止めてくれ、気分が悪くなりそうだ。
<お前、おはぎとか牡丹餅とかは、アンコときな粉の両方好きじゃないか>
...
<ま、アレはお菓子だから...なのか?>
...
<ライスプディングも甘いぞ>
...
(筆者注:ライスプディングは米を牛乳で煮込んで砂糖を加えた、英国の伝統的デザート)
このおサツさん、おいしー!
あまーい!
とろけるー!
そしたら、コッチのやつ、えっと、ナンだろ、これ?
このまえ、サクヤさんがつくってくれた『おむすび』にはいってた、ちっちゃいおサカナさんがミドリいろのクサといっしょになってるヤツ、これ、たべてみよっかな?
あれ?
なんか、かんじるな、なんだろ?
なんか、だけど、ケンゴくんをかんじた。
だから、いそいでケンゴくんをみたら、ニコニコわらってた。
ワタシをみて、ニカニカわらってた。
よかった。
やっぱりケンゴくん、ワタシのこと、チャンとみててくれる。
でも、なんか...はずかしい、けど。
なんか、こころのナカを、なでなでされてるみたいな、カンジ。
みててくれて、よかったんだけど...
シタをむいて、おサツさん、もうイッコたべた。
でも、さっきみたいに、おいしくない。
おんなじくらい、あまいし、とろーっとしてる、けど、
ケンゴくんの方が、キになる。
キになっちゃって、おサツさん、うーん...
おサカナさんとクサの方が、よかったのかな?
備前の器に整列した揚げ物の顔ぶれの中に黒鶏ちゃんは見当たらなかった。
はて、どういう事だろうか?
と、首を傾げかけた時に『KINPARA』さんが料理の新しい面子を運び入れてきた。
「お待たせしました。こちら、黒鶏プレノワールのパートフィロ包み揚げとスズキの杉板焼きになります」彼女はオレとイトそれぞれの前に料理を置きながら、言った。
オレが待望の黒鶏プレノワールのパートフィロ包み揚げは、やはり手鉢とは別の平四方の皿に載せられていた。オレの想像した通りパートフィロとは紙の事だったか、と早合点しそうになった時に『KINPARA』さんが件の料理の説明をし始めた。
「この黒鶏のパートフィロ包みですが、揚げてありますのでそのまま召し上がれます。
え?
あぁ、一見紙に見えますけど、このパートフィロはトウモロコシ粉と小麦粉を原料にして作られた、薄ーいパイ生地なんです。フランス料理でよく使われる生地素材です。
何ですか、フランス語では『パタフィロ』という発音に近いそうですが、日本では昔からパートフィロと呼んでいるみたいで...
えぇ、そのまま召し上がっても大丈夫ですし、もし油をお気に為さるのであれば剥がして中身だけに箸をお付けになるのもよろしいかと...
確かに包みを解いた方が、開けた瞬間に鶏とお野菜の良い香りがパッと拡がりますから。
鼻が喜ぶのを感じられます。
でも...」彼女は口に拳を当てて『フフッ』と笑みを隠しながら「そのままパクッといってしまった方がより一層風味を強く感じられるんですけど、ね。
アッと...今日のお野菜は東区の鈴木農園で獲れたカブとインゲンマメになります。
季節的にインゲンは盛り、カブは走りの終わり、というか盛りの始まりくらいでしょうか。
あと、水量の加減を調整する為だそうですがハウス栽培されたトマトを使用しております。
ハウス栽培なので『旬』の方は、あまり関係ないみたいですけれど」
そう言葉を紡ぎ続けた後で『KINPARA』さんは、再びクスッと小さな笑みを溢した。
オレは、ドキッとした。
笑い声はまだしもだが、彼女のその笑い方が美穂子のソレに超ソックリだったから、だ。
M9級に揺れ動く心を隠そうと、パートフィロとかいうパイ生地を結びあげている細い糸を解こうとしたが、心理状況を反映する様に指が脳の命令通りにチャンと動いてくれない!
クソッ!
じれってぇッ!!!
散々苦労した挙句、如何にかコウにかそのゴルディオスの結び目を解き、トウモロコシ粉と小麦粉で出来た薄膜を開けると、途端にブワッと芳香がテーブルの上に拡がった。
野菜と香草と鶏の濃厚な好ましい香り、そこに仄かなニンニクの香りが一筋だけ加わり、全ての香りが混然一体となってオレの鼻腔奥に位置する嗅球を柔らかくくすぐった。
その様子を眼にした『KINPARA』さんが、
「あ、失礼しました。
そちらのパートフィロ包み、糸を取り除いておりませんでしたか?
大変申し訳ありませんでした。
試作の最初の段階では小麦粉を水で溶いた糊だけを使用して封じていたのですが、何度か中身が漏れ出てしまって、それで料理用のタコ糸で補強する様にしたモノですから。
ゴクゴク稀に板前が糸を解き外すこと、失念する事もございまして。
板場で何回もチェックして、十分注意している筈なのですけれど。
申し訳ございません。
大丈夫ですか?」と、咳き込んだ様に訊いてきた。
そんな気遣わしそうな視線を送ってくる彼女の姿態に、オレは一層アワアワしてしまった。
「ダ...ダイジョブ...でございます」
声が上ずってしまった事を自分でもよく認知できた。(注10)
『KINPARA』さんが杉板ごとスズキが載せられた皿を、置いた。
「で、こちらが鱸(スズキ)の杉板焼きです。
天竜産の天然杉の薄板を敷き皿にして石窯で燻り焼きに仕上げたモノになります。
杉の清冽な香りが鱸の独特の癖を良い感じのアクセントに変化させてくれます。
両方とも十分な調味が施されておりますので、何も付けずにお召し上がりください」
臭みって言う程ではないが、スズキには特有の香り・味が備わっている。
関東では主に夏場に食べることが多いが、大体の場合刺身ではなく、洗いにするのはその為だ。氷水で身を『洗い』チリチリに引き締めることで食感を良くするのと同時にスズキの持つ独特の癖だけ(風味を飛ばしては駄目)を文字通りに洗い流すのが、その目的だ。
脂臭いクロダイや川魚独特の泥臭さを漂わせるコイなどにも行う和食の技法だ。
それとコイは漁獲した後、数日間綺麗な真水の中で絶食させて泥を吐かせる作業をしないと本当に臭くて喰えたモンじゃない、という事を付け加えておく。
(筆者注:水質良好な湖沼・河川で獲れた鯉の場合、この作業が不要なケースもあります)
ま、釣り上げた直後にエラの所で背骨を切断し、尾ビレの付け根にも深めの切れ込みを入れて十分に血抜きをして魚の身に血が回らない様に気を配りつつ、エラと内臓の部分を抜き取る、という『生け締め』の方法を適切に処置しておけば、普通の刺身として卸しても全然大丈夫なんだけど、ね。
あ、氷を使用して十分に冷やしておく事も大事だよ。
ホンの少しの油断が禁物だ。
僅かな隙間からでも食材としての美味さは逃げ出して、闇の彼方に消え去ってしまうから。
魚から漂う異臭の原因は大概の場合、漁獲された以降の処置が不首尾である事による。
でも、巷間に流通しているのは(獲れ立てを活け締めされた様な)そんな適正処理された魚ばかりじゃないから、板前が調理の現場で『洗い』として対応しなければならないのも致し方ないっちゃ、致し方ない部分もある。
それにスズキが生得的に持つ特徴的な風味が元々苦手っていう人もいるから、香り高い天竜杉の薄板の上に置いて、これまた天竜杉の薪で高温に熱した石窯でスモークみたいに燻り焼きにするってのは、中々に良い方法だとオレは感じた。
白い耐熱皿の上に杉板ごと載せられたスズキさんに鼻先を寄せてその匂いを嗅いでみた。
おぅ、スズキ特有の夏季の溌剌とした海を想起させる匂いと天竜杉の空から降ってきた様な爽やかな香りが相互作用して形成された、実に艶醇で魅力的な芳香が、熾火の遠赤外線で炙られた身から立ち昇ってくる。スズキの身の上にチョコンと置かれたローズマリーとタイムの香草コンビの仕事っ振りが良く、非常に効果的だ。柚子の輪切り、それに焼き上げた直後に追っ掛けで降り柚子をしている様で、柑橘系の爽やかな香りも仄かだが分厚く漂う。おぉ、何と非常に好ましく蠱惑的な景色がオレの胃の腑を挑発してくるのだろうか?
スズキさんに箸を伸ばそうとした時、一旦ワゴンの所に戻った『KINPARA』さんが何かを載せたトレイを捧げ持って引き返してきた。
「お鍋の具材の鱧をお持ち致しました」
えっ?
ハモ?!?
ココは関西ではないのでハモが出て来る事を全く予想していなかったから、正直驚いた。
<イヤ、フォッサマグナの糸魚川-静岡構造線の西側に位置するのだから、味的には既に関西圏の領域じゃないのか?>
ソレは多分違うよ、ミスター客観。
味覚の分水嶺は関ヶ原っていうのが通説じゃなかったっけ?
日清のどん兵衛(きつねうどん)も、そこら近辺で味のヴァージョンが関東版から関西版に切り替わってるって話だぜ。(注11)
<本当か?>
イヤ、実際にどん兵衛喰って確かめた訳じゃないけど...
しかし、ひとまずソレはこっちに置いといて、小鍋ではお肉を、先ほどオレを魅了したプレノワールの腿肉なんかをエリンギと一緒に炊き合わせるのかなと思っていたのだが、ここに来て、まさかの『ハモ』!
え、でも、ハモって旬は夏場の筈だろ?
秋場のハモって美味いのか?
そう訝るオレの心中を見透かした様に『KINPARA』さんが捕捉する様に説明をし始めた。
「こちらの皿は、遠州灘で獲れた鱧です。
骨切りを入念にしておりますが、もし舌に障る事がございましたら、ご遠慮なさらずにお申し付け下さい。お取替えいたします」
「あのぅ、遠州灘でハモが獲れるんですか?」質問するオレの声音がバカっぽく響く。
「はい。かなり沢山」
へぇぇ?!?
ハモが獲れるのって瀬戸内の方だけだと思ってたけど、違うんだな。
そういう事を『KINPARA』さんに伝えると、彼女は『フフ』と笑いを含ませた顔になった。
その嫣然たる様、ますます婉然、より一層美穂子に似てくる。
<オイ、気を付けろ! 彼女に備わった、美穂子との相似点から注意を逸らせるんだ!>
「鱧ですが、遠州灘では昔から水揚げ量自体は多かったみたいなんです。
昔も今と同様に一月で20トンくらい、収穫量があったそうですから。
けれど、六分儀様も御存知だと思いますが、鱧は小骨が多い魚で骨切りを施しませんと、そのままではとても食べ辛いんです。しかし昔、当地には骨切りの技術がありませんで、仕方無く、と申しましょうか、そのまま主に京都などの関西方面へと出荷しておりましたのだそうです。しかしながら、漸くというか、最近の地方活性化の一環として、遠州灘や浜名湖で水揚げされる魚介類を地域ブランド化しようという動きが出てきまして。
ここ、浜松は機械産業が盛んな土地柄ということなども助力になったようで、鱧の骨切りマシンを開発する事に成功いたしました。
えぇ、機械です。
その骨切りマシンの開発と並行してなんですが近辺の料理組合が一致協力して優秀な板前を選抜して京都の料亭の名店へと修行に出向かせ、骨切りの技術を習得させたのだとか。
それで遅まきながら、最近漸く地元での消費が可能になったという訳なんです。
でも...
『ソコにもうチョット早く気付けなかったの?』と、私なんかは思ってしまいますけど」
そこら辺、少し鈍ですよね、と『KINPARA』さんの口角の上がり具合が増した。
「鱧ですが、京都などでは旬は夏とされるそうです。
ここ遠州灘での旬の時期は4~9月遅くまで、です。
でも漁師さんに言わせると『落ち鱧』と呼ばれる秋口にとれる鱧が一番美味しいのだとか。
旬は通例『走り』『盛り』『名残り』と3つの時期に分けられるのですが、その3つの中でも『盛り』の時期の物が、通例、一番栄養が豊富で最も味がよろしいんですね。
でも鱧に関して一番は『名残り』の初め頃から中頃にかけて、年によっては終わり頃まで、です。夏の産卵時期を終え、栄養を全部その身に蓄えて黄色くなった肉の鱧の方が旨味も風味も増してきていて、脂の載りも最高で、確かに一年を通して一番美味しいと感じられます」(注12)
ほう、骨切りマシンね。
じゃ、コレもその機械仕立ての生産物なのだろうか?
オレは若干スッと眼を細めながら、仔細を注意深く観察した。
皮付きの乳白色の半透明なハモの身には、薄皮一枚分を残してレイコンマ何mmの間隔を均等においた精確な骨切りが施されている。この仕事が人間の手によるモノだろうと、ロボットの仕業だろうと、どちらにせよ、非常に素晴らしい腕前だ、と本心から感嘆した。
ただ、別に機械がする仕事を侮っている訳ではないのだけれど、こういう仕事は矢張り人間の手業が為したモノの方がしっくりくる、様な想いというか願いが浮かんだのだ。
確かに今や、魚介類に関して言えば天然物よりも養殖の方が一定レベルの品質を安定供給できる訳だし、寿司なんかも下手糞な職人の握るモノよりも寿司ロボットが提供するモノの方が美味しかったりするので、一概に機械物がダメだと言える状況では既に無くなって来てはいる。しかし、人間としての一分の意地というか矜持と呼ばれる類いのモノがオレの思考を揺るがせる。そして『今はまだ、今だけはまだ、人間が為す仕事の方が品質面において機械生産品を極僅かでも良いから凌駕していて欲しい』という切望を持たせる。
だから『この骨切りはどちらの仕事だろうか?』という思惟が皮質上をシレッと横切った。
と、いっても実際に口に出した訳ではなかったのだけれど『KINPARA』さん、オレの心を読んでいるのだろうか?
「ウチでは人間が、イエ、板前が骨切りを致しております。
一時は機械の導入を真剣に検討していたのですが、まだ時期尚早ではないか、という意見が多かったものですから」オレは彼女のその答えにホッと息を吐いた。が、小さな漏出音に気付く風も見せず『KINPARA』さんは続ける。「でも、いずれ近い将来、導入せざるを得ないと思います。宴席など大人数のお客様に対応する場合には強力な『戦力』になる事は必至で、火を見るよりも明らかですから」と、彼女は静かな口調で説明した。
そうだ。
『KINPARA』さんは正しい。
いずれ機械が全てを担う時代が到来する
機械は絶対に間違いを犯すことはない。
間違うのは何時でも、人間だ
もし機械が間違った解を出したり、誤った動作をしたりしたら、それはアルゴリズムを設計した人間が間違いを犯したのだ。機械はそのアルゴリズムに従って粛々と与えられた職務を遂行しただけに過ぎない。
恐らく、そんなに遠くない将来、機械自身が機械の為のアルゴリズムを設計し、自らをプログラミングする、そんな状況が現実化するだろう。
<The algorithm of the machine, by the machine, for the machine>
自身を構成している『情報』を最適化し、効率的なプログラミングに改良させていく。
つまり自己進化する様になる。
そういう未来が、ホンのすぐソコまでやってきている。
そうなったら、オレ達人間には何が残されるのだろうか?
するべき仕事、残ってるんだろうか?
この前、野村総合研究所が30年代までに日本の労働人口の半分ほどがAI・ロボットで代替可能になるって研究成果を発表してたような気がするけど、あれって本当だろうか?
生産年齢人口が減る2倍のスピードでAIが生産性を上げてゆく事も力添えとなって、大幅な人余りが生じるって話、マジで起こるのか? (注13)
<怖いよ。怖くて、たまらない>
そうだな、ミスター。
オレは大丈夫、逃げ切れるかも知れんが...
そして、心配事など何も抱えていなさそうなイトの顔を一瞥した。
屈託など一筋も観察できない相貌を見た途端、オレは生まれて初めての体感を経験した。
見得ざる巨大な手でギリギリと捩じ切られる様な疼痛を胸の奥深部に覚えたのだった。
するとオレの顔をチラッと見た『KINPARA』さんは、色々な感情や想いが入り混じった汽水域の様な表情を一瞬だけ浮かべた。コッチを心配している様な相貌とも見做せた。
だが、刺激に反応して身をシュッと翻す熱帯魚の様にすぐ、職業上のデフォである所の相手にホッと安堵の息を吐かせる微笑みを携え直して、オレに言葉を投げ掛けてきた。
「すみません、話が長くなりまして。
お国自慢が過ぎました。
お嬢様にミカンジュースを...」味が変わらない内にお召し上がり下さい、と彼女は言った。やはり『KINPARA』さん、オレの心を読んでいるのだろうか?
でも、この人にだったら、読まれていても全然、構わない。
注1:ハシビロコウについて。
ハシビロコウとは、中央アフリカに住むペリカンの仲間の大型鳥類である。
和名を『嘴広鸛』
学名を『Balaeniceps rex』
ペリカン目ハシビロコウ科ハシビロコウ属に分類される。
長い間この鳥は、サギの仲間だとかコウノトリの仲間だとかされてきて2000年代まではコウノトリ目に分類されていたが、2012年に鳥類の分類法に大幅な改編が行われて結局ペリカン目に分類が変更された。だがこの分類は未だに議論の種になっている、とか。
余談だが、コウノトリはコウノトリ目に分類される。サギはペリカン目に分類されるが、ハシビロコウと『科』レベルにおいては最初見做されていたほど近縁ではない(らしい)。
尚、ハシビロコウ科に他の属種の分類はされてなく、ハシビロコウのみである。
>お辞儀やクラッタリング(clattering:クチバシをカタカタと打ち鳴らす事:求愛や威嚇の為)の様なディスプレイはコウノトリ科の特徴。
>DNA解析はペリカン科に近縁である事実を示している。
>粉綿羽(保温機能を担う羽毛)を持つ事、首を縮めて飛行する事はサギ科の特徴である。
これ等の点はそれぞれの鳥たちとよく似ている。
飛翔中にサギ類と同様に首を後方に折り畳む形態を取るのは、ごく単純に頭が重いから、だと筆者は思っている。ま、ただの推測に過ぎず、何の根拠もデータも無いんだけれども。
中央熱帯アフリカの淡水の沼や池に住む留鳥。最大の生息域は西ナイル地方と南スーダンの隣接地域とされる。群れは形成しない独居な生活スタイル。ヨシやガマが生える葦原を好む傾向がみられる。
頭頂高:110~140cm。
翼開長:230~260cm。
体重:4~7kg:オス=平均5.6kg;メス=平均4.9kg。
羽色:青みがかった灰色。背では緑色の光沢を帯びる。後頭に短い冠羽。
巨大なクチバシ:嘴峰長=18.8~24cm
その大きな嘴や身体に比して、細く長い両脚が非常に印象的である。あれで支えられるのか、疑問に思うほどである。
食餌対象:主として魚食性。好んで肺魚を食べる。ティラピアやナマズなども捕食対象である。他にカエル、水棲のヘビ、ワニの幼生、ナイルオオトカゲなども餌動物となる。
獲物をハントする時には、葦原に立ちジッと動かないで肺魚などが捕獲可能な領域内まで侵入してくるのをひたすらに待つ。摂食方法は丸飲みで食事の後には再び動くのを止めてジッと立ち、消化が完了するのを待つ。
ハシビロコウ、顔が怖いので猛禽類(ワシ・タカ・フクロウ等)っぽいけど最初に書いた通りペリカンの仲間だそうです。見た目は十分『鷲』っぽいですけど。
猛禽類とはリンネ(本名をCarl von Linné、ラテン名でCarolus Linnaeus:スウェーデンの植物学者)によって提唱された概念で、ワシ・タカ類、フクロウ・ミミズク類などからなるとされた。彼の定義では、嘴・爪も強大で鋭く鉤状。翼は大きく速く飛び、眼が鋭く耳が聡い。性質は勇猛。好んで脊椎動物を捕食。群れを作らず独居が多い、だそうです。
でも、DNA解析によるとワシ・タカ類とフクロウ類はそれほど近縁ではないみたい。
現在の分類法では、タカ目、ハヤブサ目、フクロウ目などに再分類されています。
尚、ワシ・タカ類は身体の構造ではフクロウ類よりもコウノトリ類に近い構造を持つ。
DNA解析による鳥類の分類でも、この類縁性が支持されているようである。
しかしながら、タカ目、ハヤブサ目、そしてフクロウ目のいずれもがコウノトリ目およびペリカン目(ハシビロコウ科を含む)とは類縁的に特に近くは無いとされる。
だから、ザックリ結論をいうとハシビロコウは猛禽類ではないのです。
あーぁ、また研吾君、細かいトコで勘違いしてんだよな。
ホントに、詰めが甘い、甘過ぎる。2型糖尿病のオッサンの御叱呼くらい、甘過ぎる。
こんな事ばっかりやってっから、美穂子や結衣に逃げられるんだよ、全く。
でも、分類学の始祖とも言えるリンネも、モズ類を猛禽類に分類しちゃってるんだよね。
しかし、現在モズは『スズメ目モズ科モズ属』に分類されていて、
で、だ、
何処からどう見たって『モズ』は『タカ』や『フクロウ』とは外見が全く違うでしょ?
確かにモズは活発に脊椎動物を捕食するけれど、さすがに猛禽類所属は無理が無いか?
ま、リンネは大方の動植物を分類し終えた後、最後に取っておいた『現生人類』に対して『Homo sapiens linnaeus』とチャッカリ自分の名前をくっ付けちゃったっていう位の変人でして、頭のネジが2・3本ブッ飛んでた御仁だからなぁ。
それに比べりゃ、研吾君の犯した間違いなんてのは、ささやかで可愛いモンですか、ね。
因みに、和名の『嘴広鸛』の中の『鸛』は『コウノトリ』の事で、全体として『クチバシの大きいコウノトリ』という意味です。
あ、そうだ。
恐竜の直系子孫である現生鳥類には『白目』が備わっていますが、白目つまり『強膜』は黒い色をしているので所謂『白目』ではありません。一見『白目』と観察できるのも虹彩やアイリングです。だからティラノサウルスにも強膜は備わっていただろうけど文字通りの『白目』は無かっただろうと類推できます。虹彩やアイリングはあったかも知れません。
っていうか、ヒト以外の哺乳類にも字義通りの白い『白目』は備わっちゃいねぇよ。
余談ですが『Tyrannosaurus rex』については、前者が『属』で後者が『種』です。
ある文献によると、ティラノサウルス属で種名が確定しているのはこの種だけだそうです。
ホンマかいな?
それとメンフクロウについては、フクロウカフェの店員さんの方が詳しい筈なので、もし詳細を知りたかったらそちらに尋ねて下さいな。
注2:オッカムの剃刀(Ockham’s[Occam’s]razor)について。
『Ockham’s[Occam’s]razor』は、別名を『the law of parsimony(節減の原理、極度の倹約の法則)』とも言い、何事かを解釈・説明する場合には無用な複雑化を避け、最も簡潔な理論を採るべきだ、という原則の事。イングランドのスコラ哲学者のWilliam of Ockham[Occam](オッカム)が論理的思考として多用した事に因む(らしい)。
少し煩雑になるが、歴史的経緯を説明すると以下の様になる。(注:超ザックリな説明)
哲学という学問が始まったのは紀元前6世紀頃の古代ギリシアだとされている。
それ以前には、自然界で起こる現象(雷、嵐、地震など)は全て神様の成せる仕業であるとされていた。例えば、落雷は全能の神であるゼウスの仕業である、とされていた。
このような超自然的な存在による説明を『ミュトス』と呼ぶ。
しかし紀元前6世紀の初め頃に『ミュトス』に満足できない人々が現れ始めた。
彼等は、自然現象をより合理的・論理的に説明しようと試行錯誤した。
このような理性的な説明のことを『ロゴス』と呼ぶ。
そして、これらロゴスを積み重ねることで構築されて行ったのが哲学である。
ギリシア哲学はタレスを嚆矢とし、ソクラテス、プラトンそしてアリストテレス等の偉大な哲学者によって大きな発展を遂げたのだが紀元後、キリスト教がヨーロッパ全土に普及していくのに連れて次第に重要視されなくなり廃れて、やがては矮小化してしまった。
つまり神学(キリスト教を研究する学問分野)を補完する為の単なる(学究的)道具へと堕落させられてしまったのだった。
ところがどっこい、ギリシア哲学は死んではいなかった。
ヨーロッパを離れた中東地域、イスラム世界に受け継がれて命脈を保つ、どころか更なる発展を遂げていた。(特にアリストテレス哲学が考究されていた)
その後11世紀から数世紀に渡って行われた十字軍遠征により、イスラム世界と交わったことによって再びギリシア哲学の本質・本髄がヨーロッパにドバっと流入した。
再登板したギリシア哲学(主にアリストテレス哲学)は12世紀頃からヨーロッパの人々に次第に受け容れられる様になったのだが、その考えとキリスト教の教義との相違点から様々な軋轢が生じる様になった。
そんな時に、神学者のトマス・アクィナスが哲学の本質である『理性的・合理的な態勢』を肯定しながらも、キリスト教の神(ヤハウェ)について考察する『神学』こそが最上位の学問である、哲学はその風下に位置する傍系の学問である、という考えを提唱した。
この考えに対して真っ向から反対し、神学と哲学の分離を図ったのがオッカムであった。
オッカムはこう述べた。
1)明確に知覚できない(十分な根拠を持たない)存在や概念を認めるべきではない。
2)必要以上の仮定はするべきではない。
オッカムが実際に行ったことは、明確に知覚できないモノ(神学の領域:例えば『人とは何か?』『リンゴとは何か?』などの概念)と明確に知覚できるモノ(哲学の領域:例えば、『結衣や織など個別の人間について』『王林や紅玉など一個一個のリンゴ』など、実在していて人間が感知・認識できる存在)を2つの異なる学問領域へとスパッと切り離した、ということだった、と言える。
このオッカムが提唱した考え方の肝である、神学と哲学とを『切り離す』という事業から、後にオッカムの『剃刀』と呼ばれるようになったのである。
しかし、現代では殆んどの場合(2)の意味合いのみで、この言葉は引き合いに出される。
だから一般的に『剃刀(かみそり)』という単語は、説明に不要な存在を『切り落とす』事の比喩からきた、と説明されることが多い。
ホントの所、ここまで説明してきたように事情は少し違って、もう少し複雑なんだけど...
ま、いっか。
そう言う訳で、現代の使用法に則した説明を続けることにする。
この『オッカムの剃刀』に関して、英語圏でよく口に昇る言い回しは、
『Entities should not be multiplied beyond necessity.』で、
この文の意味は、『実在(存在)は必然性無しに増加されてはならない』となる。
(直訳は『実在は必然性を超えてまで増加されるべきではない』となる)
オッカム自身の言葉から挙げると、『必要が無いなら、多くのものを定立してはならない。
少数の論理で良い場合は、多数の論理を定立してはならない』と、なる。
ここでいう定立とは、ある事柄を『真なり』と主張する場合に立て定めた命題の事。
命題とは、1つの判断の内容を言語や式などの記号によって表したモノ。
言い換えると、正しいか、正しくないか、を判断できる式・文章の事。曖昧ではなくて、ハッキリと明瞭に判断できるモノでなくてはならない。
え?
チンプンカンプンですって?
ウーンと、じゃあ、『定立』ですが、ある物事について説明する事、またはその説明文自体だと見做して下さい。それ位の理解で十分です。
この『オッカムの剃刀』という概念を、もう少し解り易く噛み砕いた表現に変換すると、
『何かを説明する時には、狭い領域の事柄しか説明できない複雑な理論より、より広範囲の事象を説明できる最も単純な理論の方を採用した方がより良いぞ』という感じになる。
別の表現をすると『Simple is best.』である。うーん、コレはちょっと違うかも知れん。
でも、ニュアンス的には、似た様な感じです。
ただ、留意しておかなければならない事はオッカムの剃刀は真偽の判定則ではないという事実である。つまり、ある事象に対する1つの説明がより単純で美しく『オッカムの剃刀』的な思考方法に適していたとしても、その説明が正しいという事が証明された訳では全くない。反対に、ある事象に対する仮定説明がオッカムの剃刀によって『切り落と』されたとしても、その仮定自体が間違っているという証明にもならない、という事である。
科学とは、ある事象を説明する理論を立て定める為に仮説と検証を繰り返し事で、理解を深めて行くもの。失敗を失敗であると認め、打ち立てた仮説に都合の良い解釈を避けて、真摯に検証を重ねて『真の事実』を追求するのが、科学である。
結局、この『オッカムの剃刀』というのは思考・思索方法の1つであって、数多ある仮説中から有望なモノを取捨選択する為の判断方法の単なる1つに過ぎない、という事である。
あ、あと、ジイちゃんの言葉として挙げられた、
『真理は美しいだけでなく、シンプルでもあるはずだ』は、
ジェームズ・デューイ・ワトソン博士(James Dewey Watson PhD)の言葉です。
ワトソン博士はF・クリック博士(Francis Harry Compton Crick PhD)と共同でDNAの構造を突き止めた生物学者です。この業績によって彼等は1962年のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
注3:抜き衣紋について。
抜き衣紋とは、和服の着方の1つ。
和服の衣紋(=胸の合わせ目)を押し上げ、後ろ襟を下げて首筋が出る様にした着方。
ヤリ過ぎるとだらしなく見えてしまうが、良い加減で修めると非常に色っぽい着方になる。
特に浴衣などはキッチリ・カッチリ着る類いのモノではないそうです。ある表千家師範談。
注4:茶道における履物の取り扱い方について。
茶室の躙り口に履物を立て掛けて置く事までは知っていたのですが、その意味までは不明にも知りませんでした。だから筆者の知り合いの表千家の教授にご教示願いました。
以下、その方からの完全な受け売り情報です。
不審庵の様な茶室に席入り(入室する事)する場合における履物の始末の仕方について。
茶を喫する時の作法の全体の流れ、作法の細かい部分、そして特に懐石の箇所は割愛する。
懐石を頂き終わった後の中立ち(懐石後の一休止)からのみ概観を記す。
尚、不審庵(ふしんあん)は、千利休が大徳寺門前に建てた茶室のこと。
利休の次男の小庵>小庵の長男の宗旦>宗旦の三男の江岑宗左に受け継がれた、表千家を代表する茶室の席名。家元の庵号ともなっている。
小庵の頃は、深三畳台目と三畳道安囲だったが、江岑の頃に平三畳台目に建て替えられた。
客:懐石の後に内腰掛け(待合所・休憩場所)で中立ち(懐石後の一休止)
お手前(濃茶・薄茶)の準備が完了次第、亭主が銅鑼を打って客に知らせる。
客:中腰で鳴り物を聞いた後、茶室へ向う。
躙り口の横、向かって正面から左側に亭主の履物が底合わせにされて(底同士を向かい合わせにして一組にしてある)鼻緒の方を上に向け、立て掛けてある。
躙り口の戸は少しだけ開け放たれてある>これを手がかりという。これが『お入り下さい』という合図となる(らしい)。あと、後の人が戸を開けやすい様に、だそうです。
正客が一番最初に席入り(茶室に入る事)をする。
敷石(沓脱石・靴脱ぎ石)の上で履物を脱ぎ、振り返って自分の履物を底合わせにして、躙り口の正面から向って右側(亭主の履物と反対側)に立て掛けて置く。
次客も同じ様にするが、自分の履物は正客のソレに重ねる様に立て掛ける。
末客(詰)も自分の履物を立て掛けた後(重ねるのは2足までなので正客達の右横に)、
席入りして、躙り口の戸を音がする程キチッと締めて内側から掛け金を掛ける。
この戸が閉まる音を聞いて、亭主が茶室に姿を現す。(亭主がする蹲踞の水張りなどは省略)
>ここから『後座』と呼ばれるパート。ま、お茶を喫む時間です。
お点前は濃茶から始まり薄茶で終わります。
お点前終了後に正客が亭主に挨拶をする。
茶を喫し終えた後で茶室から退出する時には、入室した順番とは逆順に部屋から出て行く。
末客から退出する。自分の履物を取り上げて履いて茶室から出る。
客:全員退室を完了する。場合によっては亭主の挨拶があったりするらしい。
>茶室から正客を先頭にして露地を寄付まで戻る。
・待合には、1)寄付待合と、2)腰掛待合がある。
寄付は衣服を整える場所。羽織を脱いだり袴を着けたり身支度を整える部屋。
詳細が知りたかったら、
茶と美写真シリーズ第4号『初風炉』千宗左監修/山下恵光著/茶と美舎
を参照して下さい、との事です。
尚、本来は上記の様に自分の履物は自分で茶室の壁に立て掛けるのだけれども、最近では次に入室する客(次客)が先に入室した客(先客)の履物を手に取り、底合わせ(履物の地面に触れる部分同士を内側に来る様に合わせる事)にして鼻緒の方の端を上に躙り口の横に立て掛けて置いて上げる事が多いそうです。そうした方が楽だから、だそうです。
まず最初に入室する正客は自分の履物は脱いだままにして置く。すると次に茶室に入る客が敷石の上に残された履物を手に取って底合わせにしてから躙り口の横に立て掛けて置く。
次客は正客と同じ様には着物を脱いだままにして置く。次客の次に入室する人が敷石の上に残された履物を底合わせにして正客の履物に重ねる様にして立て掛けて行く。
コレを繰返す。
最後に入室する客(末客)は自分の履物を脱いだら、自分で底合わせにして躙り口の横に立て掛けて置く。最後の人、大変ですなぁ。身体が固いと辛そうです。
茶を喫し終えた後で茶室から退出する時には従来と同様に、入室した順番とは逆順に部屋から出て行く。足許の支度を終えたら躙り口の横に立て掛けてある次に退出する客の履物を手に取り、次の人が履き易い様に向きを直して(踵側を茶室方向に、爪先をコチラ側に向ける)敷石の上に揃えて置く。これを正客まで繰返す。
それで躙り口の横に立て掛けて置く理由ですが、研吾君の言う様に『入ってます』というお知らせではなくて、そのまま敷石の上に履物を放置しておくと場所を取ってしまう上に躙り口の近辺が至極乱雑になってしまって見た目に綺麗でないという事から、らしいです。
だから研吾君、また間違えてんだよな。
ま、筆者も詳細、知らんかったけども、だ。
注5:サウスダウン種について。
サウスダウン種とは羊の品種で『羊肉の王様』と呼ばれている。
身体が小さくて肉の歩留まりが少ない。(=解体した時にとれる精肉の量が少ない)
繁殖能力が低いので日本では殆んど生産されていない。
怪我の心配が無くなる生後1年以降から放牧して適度な運動をさせる事で筋肉を付けさせ赤身肉を作る。エサは小麦などの穀物類も与えるが自然に生えてくる牧草が主体。つまりグラスフェッドである。こうする事で無駄な脂肪が付かず、旨味がのった赤身肉になる。
そもそも羊肉特有の『臭み』の原因は脂肪に含まれるオクタン酸などの成分。
故に、余計な脂肪が少なくなれば、その分臭みの原因となる匂い物質も少なくなり、赤身肉の旨味がより際立つ様になる。シッカリとした赤身の味と、羊臭さではなく、羊の香りがシャッキリと引き立つ。締りが良く、肌理細かな肉に仕上がる。
ホゲットとは、何?
ラムは生まれてから1年未満の子羊の肉の事。クセが無く柔らかい肉質が特徴。羊臭さはほぼ感じられない。
マトンは生後1年以上経過した大人の羊肉の事。羊肉独特の風味とシッカリとした旨味が特徴。
ホゲットとは、生後1年以上2年未満のマトンの事。ラムの柔らかさとマトンの旨味の両方を兼ね備えた、良い所どりの極上の羊肉。
サウスダウン種は臭みが少なく風味が豊かである。このホテルの近くでは富士宮の農場で生産されている。
注6:土佐酢について。
日本料理で『土佐』という接頭語が付いている者には大抵の場合、鰹節が使われる。
この土佐酢も例外ではない。
レシピは、1)鰹節と昆布の出汁600mLに味醂200mLと薄口醤油100mLを合せて軽く沸騰させる。味醂のアルコール分を煮切って飛ばす。2)アルコール分が飛んだら、火を止めてから米酢300mLを加える。ここで余熱で軽く火を入れる事で生酢が持つトゲトゲしさを消し、まろやかにする。米酢は最初から入れてはダメ。最初から入れるとお酢の風味が全部飛んでしまうから。3)追い鰹として鰹節10gを加える。そのまま冷やす。
パプリカの土佐酢漬は、パプリカを直火で焼くか、バーナーを使って外皮を黒焦げにする。
黒焦げのパプリカを熱々のまま氷水を張ったボウルにブチ込んで、『アチチ、ホチチ』と叫びながら焼け焦げた皮を素手で剥く。これで固くて青臭い外皮を完全に取り除いた後に、繊維に沿って縦に2cm幅に切ってから半分の一口大に切る。ザルで追い鰹節を濾し取った土佐酢にこの切ったパプリカを加えて冷蔵庫で2~3時間漬けこんだら完成です。
注7:ワサビについて。
ワサビは漢字で山葵と書く。
本ワサビは日本原産。西洋ワサビ(または山ワサビ)と呼ばれる物はホースラディッシュでフィンランド~東ヨーロッパ原産である。
ワサビのツーンという辛味の原因は、含まれているシニグリンという成分である。
ワサビを擦り卸すとこのシニグリンが水や酵素であるミロシナーゼと反応して『アリルからし油(arylisocyanate)』という刺激的な辛味成分に変化する。この油は揮発しやすいので食べる時に鼻から抜けてツーンとする。
この辛味成分はアブラナ科の植物の大根やブロッコリーなどにも含まれている。
ワサビは江戸時代に本格的な栽培が開始された。
本ワサビは湧き水や清流が流れる渓流を利用した田んぼだけでなく畑でも栽培されている。
因みに西洋ワサビは基本的に畑作である。産地としては北海道が有名。
本ワサビの擦り卸して使うのは根茎と呼ばれる部分である。
根茎の上部に茎と葉が、下側の端っこに根が生えている。根茎自体は鮮やかな黄緑色で根が付着している端に向うに連れて黒ずんでくる。
ワサビは市販される時には葉の部分は切り落とされている。もちろん葉は捨てることなくワサビ漬けなどに利用する。
使用時には残っている根茎の部分を切り離して削り落とし、尖った鉛筆状の形に成形する。
根っ子の方は黒い突起物(イボイボ)を綺麗に削り取る。
保存する場合は上記のように掃除した後、濡らしたキッチンペーパーで包んでから冷蔵庫の野菜室に収納しておく。しかし長くは持たないので早めに使い切る方が良い。
食べる時には、茎(葉)の付いていた端から円を描く様にして擦り卸す。
この方法で擦ると外側と内側とを均等に卸せて、周囲に皮の様な擦り残しが出ない。
そして香り・辛味が強く出てくる。
採れたてのワサビは、先端(茎が付いている方:コチラ側から卸す)や根元部分よりも、真ん中の中央部の方が最も香り・辛味が強い。
余談だが、根っ子の方から擦り卸すと、イヤな苦味が出てきてしまうので、この擦り卸し方はお勧めしない。静岡県民は絶対に根許部分の方から擦り卸さないそうである。
『KINPARA』さんが言う通りに、笑いながら反時計回りに擦り卸すと適度に脱力できて、ネットリと細かく好い加減に擦り卸せる。擦ってみて茶色っぽい色が出てくるのはアクが回っているワサビの証拠。丸さら1本捨てる必要はなく、単にその部分は避けて、新たな箇所から卸す様にすれば良いだけである。
ワサビを降ろす時、基本的に皮は剥かない。
卸した時の色などを確認して、表面の削り方を加減するだけで十分である。
ワサビは品種ごとの味の違いよりも、生産者や産地の違いの方が大きい。
目の細かい卸し金を使うと、この辛味を最大限に引き出せる。刺身には細かく、逆に肉には粗めに擦り卸すと素材に合う。卸して2~3分後が辛さのピークで、時間が経過するに連れて辛さは減少して行く。
ワサビは、そのまま食べると苦味はあるが辛くはない。擦り卸すことで辛くなる。
ワサビは『東の静岡、西の匹見』と謂われる。匹見とは島根県益田市匹見町のこと。
日本国内のワサビ栽培発祥の地であるのは、当時『府中』と呼ばれていた静岡市の安倍川上流部に位置する静岡市葵区有東木(うとうぎ)という場所。
ワサビ栽培が始められたのは約400年前の江戸時代初期。(明確な年代は不明)
この場所は安倍川と豊富な湧き水の恵みを生かして、今でも栽培が盛んである。
綺麗な湧き水で育った有東木のワサビは爽やかな辛味と香り高い風味が特徴で、あの徳川家康はこのワサビを天下の逸品と称賛し、門外不出にしたそうである。
尚、2017年3月、静岡県の水ワサビ栽培は日本農業遺産に認定された。
そして2018年に静岡県の水ワサビ伝統栽培は世界農業遺産にも認定された。
尚、農業遺産とは、景観や技術、文化などの観点から将来に残すべき伝統的な農林水産業のこと。日本では、2020年現在で23地域が認定されている。
何故に農業遺産で『農業水産遺産』ではないのか、その確たる理由を筆者は知らない。
単に語呂の問題かもしれないが...
真妻はワサビの一品種で最高級品の1つである。
真妻は(生育する)場所の選り好みが激しい。
真妻は伊豆市や御殿場などの限られた場所のみで栽培されている。出荷量が少ない理由は
成長するのに適合した環境でないと全く育たないからである。
生産者曰く『とても我が儘なワサビ』だそう。
例を挙げると、ココの田んぼではとてもよく育つが、隣の田んぼでは全然育たたない、というような事態は日常茶飯事である。ワサビの生産農家は伊豆市だけでも300軒ほど。
美味しくて良質なワサビは、イボイボの列が幅の狭い綺麗な螺旋を描いている。そして、根茎についているイボとイボが狭く均等な間隔で根茎の周囲をグルグルと回っている。
イボイボの間隔が均等な理由、そして螺旋の幅が綺麗な訳は24時間365日ずっと同じ良好な環境下で生育しているから、である。同じ環境下だから、同じスピードで成長していく、からである。だから綺麗な巻き方の螺旋状で個々の間隔の均整がとれたイボイボが形成される。普通のワサビは12カ月ほどで出荷サイズに成長するが、真妻は栽培期間が18~22ヶ月と長めである。ゆっくり、じっくりと味をのせながら大きく成長して行く。
ワサビは農薬や肥料を一切与えないので、水質が非常に重要である。真妻を育てる湧き水は甘くて柔らかくなくてはならない。綺麗で良質な湧き水が必要になる。
加えて水は年間を通して15~16℃の低温に保たれている必要もある。何故ならワサビは高温に非常に弱いからである。ちなみに生育の適温は9〜16℃である。
真妻は鼻にツンと来ない。香りと甘みと粘りのバランスが良い。
口に入れると舌の上でトロける感覚と甘みを覚え、心地良い刺激的な香りが鼻腔にスッと急激に抜けて行って、美味さだけが口腔内に残る。そして後味がスッキリしている。
真妻は甘さと辛さのバランスがとても高いレベルでとれている。通常ワサビの根茎の芯は苦いが、真妻のは甘く辛く美味い。
作品中に出てくる本ワサビ専用卸し金は『伊豆のわさびや・山本食品』の『鋼鮫』という製品。¥4320(税込:注:この価格は2017年当時。現在は3種類の製品がある)
この製品はエッチングで彫られた『わさび』の文字が表面に浮き出た本ワサビ専用卸し金。
擦り卸し部分の突起の高さは0.1mm。
わさびの文字がワサビをよりクリーミーに卸し、より多くの空気を含ませる。その効果によって辛味成分を内包して閉じ込める為に、鮫皮の卸し金より1.2倍ほど辛く仕上げる。
『わ』の字は下に、『さ』は右に、『び』は上側に擦れて行くので非常にクリーミーに仕上がる。右下の部分で1箇所だけ『わびさび』となっている。
このひらがなの字の曲線の部分が無いとワサビが擦り卸せない。カーブの部分でワサビが回転する事で擦り卸されていくのだ。そしてワサビをクルクルと擦り卸している間『わ』や『さ』の字のカーブに開いた隙間(口の部分)から空気が流入して、曲線に沿って回転しているワサビと混ざり合うことで両者がよく撹拌され、その結果として辛さ成分がより多く生成される。この卸し金で擦り卸されたペースト状となったワサビには他の卸し金で擦られたワサビよりも空気がより多く含まれているので、例えばコップの水にこの一塊をポトンと落しても、含まれている空気が生み出す浮力でプカプカと水面上に浮き、ワサビと空気が混ざり合ったペーストの密度が濃いから、なかなか拡散してゆかないほどである。
この『鋼鮫』はステンレス鋼製品なので鮫皮に比べて手入れが簡単である。ワサビだけでなく生姜なども擦り卸せる。
真妻のワサビをお探しなら、伊豆市の飯田哲司氏という生産者のモノがお勧め。
『イリヤマナカのワサビ』で検索するとオートコンプリート機能(頻繁に検索された単語を自動表示する機能。検索関連ワードの一覧表)が詳細に関して教えてくれると思う。
注8:海老芋と黒鶏プレノワールについて。
まず海老芋について。
海老芋は本文中で研吾君が述べている様に里芋の一種で同じサトイモ科に属する芋。
海老の様な縞模様と丸みのある姿が特徴の芋である。名の由来は『エビの様に反った形』から。
肉質が肌理細やかで凄く滑らか、肉質は柔らかくとてもクリーミーな食感で、咀嚼する内にフワッと溶けて無くなる感じがする。里芋ほどネットリし過ぎずホクホク感があって、口溶けが良い。
元々は京都の伝統野菜だったといわれるし、巷間京野菜のイメージが強いが全国生産量の約8割を磐田市で生産する。ちょっと前までは9割以上を磐田市が占めていた。
栽培農家によると海老芋を大きく味わい良く仕上げるには大変な努力と技術が要るそう。
一株の海老芋には、真ん中に親芋、その周りを小芋が囲んで、更にその周囲の底部付近に孫芋がおまけの様に付着している。食用部分は子芋と孫芋だけ。親芋は子や孫を美味しく育てる為だけにその生涯を捧げる。つまり出荷されない。余談だが、最近親芋を利用して芋焼酎を作る試みが磐田市では為されているらしい。一種の廃物利用である。
通常は親芋から10個ほど子芋が生えてくる。このままでは養分が分散されてしまう為に親芋1株から育てる数を5つに厳選する。親芋の周りに子芋を5つだけ残して、他の小芋は取り除いてしまう。そうしないと一個一個が大きくならない。そういう間引きを施して親芋から十分な養分が回る様にする。それからそのままに放置しておくと親芋から伸びた葉が影を作り、子芋から伸びた葉に太陽光が上手く当たらなくなる。故に親芋の葉は茎毎カットして陽光を遮らない様にして子芋が十分に光合成できる様にする。この結果、親芋は養分を吸われて筋っぽくなるが、その代わりに子芋が大きく成長できる。大きくなって独自の根っ子が出てくれば子芋も自然に育つ様になる。
しかし、何故大きい海老芋(子芋)の方が人気があるのか?
イモ類を食べた時に筋っぽく感じる原因は、水分や養分が通る維管束という繊維部分。
海老芋の維管束の数は芋自体の大きさに関わらず全部の海老芋でほぼ同じである。
芋の中心部で計測すると大きい芋の維管束の数は1平方cm当たり約25本なのに対して、小さい芋は約50本。単位面積中の維管束の数が少ない方が口当たりが優しくなるが故に大きい方の海老芋(子芋)の方がよりクリーミーな食感であり、だから人気が高い。
因みに里芋の維管束の量は約60本/平方cm。
これが海老芋が里芋と比較してより滑らかな食感を持っている要因の一つである。
もう1つの要因は海老芋の内部がスポンジ状になっている為に、里芋よりも多くの空気を含んでいる事が挙げられる。フワッとした食感や口溶けの良さはコレが理由である。
海老芋は包丁で皮を剥く時にネバネバした糸を引く粘液があまり出てこないから皮が剥き易い。下茹でする時に灰汁が出にくい事も相まって出汁で味を付け易く、海老芋自体にもエグ味が少ない。故に素材そのものの味を楽しめる料理に出来る。里芋に比べて、海老芋は長めに炊いていても形が煮崩れしないので、料理の見た目をより美しく仕上げられる。
遠州地方で最初に海老芋の栽培が始められたのは磐田気子島地区。
豊かな土と伏流水に恵まれた天竜川の東岸に当たる。磐田市の西を流れる天竜川は古くは氾濫を繰返す『暴れ川』として有名だった。この天竜川の氾濫によって流れ込んだ土砂が堆積して畑の土を作っている。海老芋の耕作地の土は砂質土。指で触ると砂のザラザラ感を強く感じる。砂質土は非常に水はけが良い。根腐れし易いデリケートな海老芋に対して非常に適した特徴を持った畑の土である。
この肥沃で透水性の良い土壌(砂質土)が海老芋の栽培に最適だったことから、1929年に旧拍通村役場農事監督官の熊谷一郎が農村不況対策として導入したのが嚆矢である。
現在の栽培の中心は旧豊岡村。磐田地方ではおよそ70軒の農家が海老芋を栽培している。
海老芋の栽培は重労働で夏場が特にキツく、海老の様に芋の形を反らせる為の作業は真夏に行わなければならない為に何度も倒れそうになるらしい。株許に土を入れて曲がり具合を整える。これを夏期に何度も行う、という。そんなんじゃ、倒れそうにもなるよね。
収穫後の出荷作業ではナイフを使って余分な根っ子を除去、皮は剥かず(余分な皮は取り除くけど)鮮度を保つ為に土付きで出荷する。
研吾君と織が食べたのは孫芋の部分。価格的に子芋が400gで1000円ほど。孫芋は子芋の半額程度とお求め易い価格となっているが、味は子芋とほぼ変わらない。地元では孫芋を主に食用としている。(子芋は京都等に出荷するから)
その京都は祇園円山公園にある『いもぼう平野家本家』が出す『いもぼう』という海老芋料理が有名である。14代女将の北村明美(70)が語る所によると、300年ほど前、京都御所に仕えていた初代平野権太夫が皇族が九州から持ち帰った芋(海老芋)と北海道の鱈(干し鱈・棒鱈)を煮込んだ『いもぼう』を考案した。その芋が海老の形に似ていたので『海老芋』と当時から呼ばれるようになったのだそうだ。
『いもぼう』の調理法は口伝で一子相伝。『いもぼう平野家本家』では一大産地の磐田産と地元の京都・大阪産のイモと合せて使用しているらしい。
尚、全然関係ない話だが、平野屋本家は『京名物百味會』という会のメンバーである。
もっと関係ないが、筆者はこういう会の存在を『洒落臭ぇ』と思ってしまう性質である。
続いて、黒鶏プレノワールについて。
黒鶏プレノワールはフランス原産のニワトリさんである。
研吾君たちが宿泊しているホテルの近傍では磐田市下野郡の養鶏場で飼育されている。
プレノワールは黒鶏で黒い身体に赤い鶏冠が映える姿が美しい。脚なども黒い。
日本国内で飼育されるプレノワールは仏国農務省の厳しい審査をクリアした親鶏から生まれた雛のみ。飼育期間は150~180日ほど育ててから出荷される。自然豊かな環境下で平飼いによって飼育されるので鶏に掛かるストレスが非常に少なくて済み、適度な運動をしながらノビノビと育つ事により健康な個体になる。だから美味い。
与えるエサは米、ふすま(小麦を粉にする時にできる皮の屑)、米ぬか、野菜屑、魚のアラ(市場から貰う。鍋で煮てから、発酵させ、鶏の口に入り易くする為に骨ごと細かく粉砕)、カニの甲羅(料理屋から貰う。ハンマーで細かく砕いてある)など約10種の素材を単品で揃えて独自にブレンドしている。尚、筆者が養鶏業者に教えて貰った所によると、米と雑穀をエサに加えると皮の下に不飽和脂肪酸がより多く蓄えられるようになる。この脂肪は融点が低いので口溶けが良くなるし、後味がサッパリする、のだそうだ。
フランスでは煮込み料理が発達している為に、それに適合する様に品種改良が進められてきた。彼の地の鶏の特徴としては、胸肉が美味しい事が挙げられる。欧米では腿肉よりも胸肉を珍重する傾向が強いから、胸肉の美味さを重視する選抜育種が行われてきた故だ。
だからプレノワールの胸肉は煮込んでもパサついたりせず、シットリさを保ち肉汁が豊富、肌理が細かく繊細な肉質が損なわれない。味が濃い上に含まれる脂が上品な香りを放つ。
柔らか過ぎず適度な噛み応えがあり、咀嚼を進めるとジュワッと爽やかな旨味が舌の上に拡がってくる。胸肉好きな織ちゃん、良かったね。
もちろん、腿肉の方も美味しい事は言うまでもない。
腿肉は適度な柔らかさと噛み応えを備え、筋っぽくない。皮の部分の脂もクドさが無く、香りはとても端麗である。
でも、筆者は織と同じで、胸肉の方が好みである。
注9:三方ヶ原の合戦について。
戦国時代の1572年、現在の静岡県浜松市の中央部に位置する三方ヶ原台地で徳川家康軍と武田信玄軍の両者が軍事衝突した。結果は徳川軍の大敗で終わった。
通説では、この合戦に参加した人数が、武田軍が2万~3万人、徳川軍が8千人ほど。
ただし徳川軍側には別働部隊として織田信長の援軍3千人が加勢していた、といわれる。
しかし歴史学者の磯田道史氏の考察によると、徳川軍の兵力はもっと大きかったらしい。
両軍兵力に関する詳らかな記述がある『前橋酒井家旧蔵聞書』と『甲陽軍鑑』を参照すると、武田軍は2万8千人、徳川軍は6千人プラス織田の援軍2万人で合計2万6千人余となる模様。
ただ、その2万の織田援軍の内、浜松城や三方ヶ原にいたのは少数で、大部分は岡崎城(現・愛知県岡崎市)、吉田城(現・愛知県豊橋市)、白須賀(現・静岡県湖西市)等に分散配備されていた、という。
大軍勢である上、戦上手で知られた信玄率いる老練な武田軍団相手では、戦う前から劣勢である事は先刻承知していた家康。無謀にも思える戦いではあったが、狡猾でしたたかな家康はたとえ一敗地にまみれても全滅しないで済む様に考え抜かれた行動を採っていた。
負けた場合には闇に紛れて敗走できる様な時間帯を狙って、三方ヶ原に軍を敷く武田側に攻撃を仕掛けた。とにかく浜松城に逃げ込めさえすれば、後背地には2万に及ぶ織田援軍が陣を構えているから、たとえ戦巧者の信玄といえども簡単に手を出せはしないと、用心深い計算を立てていたからだ。結果、家康の読み通りに物事は運んだ。
尚、軍事用語で『全滅』とは部隊を構成する兵士が全員戦死もしくは行動不可能に陥る事ではない。部隊が兵力として、その『部隊』という構成単位に見合う行動を遂行不可能な事態に陥ってしまった状況を『全滅』と呼ぶ。換言すると組織的攻撃力として機能できなくなる状況をいう。現代の軍隊の師団単位で言えば、損耗率が、つまり構成兵員の内60%以上が行動不能な状態に陥れば、立派な『全滅』である。
因みに、旧帝国陸軍においては損耗率が50%を超えた場合に『全滅』と規定した。
で、この戦いに負けはしたものの、家康は戦死する事なく(命辛々とはいえ)生き延びて、後に天下を獲った事は周知の事実である。この時の家康の逃げっぷりは誠に見事の一言に尽きる、本当に鮮やかな逃げ足であった。
三方ヶ原の合戦場から浜松城まで三里(約12km)を猛スピードで駆け抜けた。(らしい)
磯田氏によると『士談会稿』という江戸中期の史料に家康の家来の大久保彦左衛門の証言が載っているそうだ。ソレはどんなものかというと、
「合戦後、暮れて小雨が降り、秘蔵の鬼葦毛の逸物の馬で『中地みち』をシタシタと浜松へ乗り出した」
「あまりに御馬の足並みが速く、拙者の息も切れそうになった」
「浜松城の冠貫門に乗り込んだ時は拙者も三、四町(300~400m以上)遅れていた」
家康は旗本の小姓衆(ま、SPみたいな者です)も置き去りにするのも全く厭わずに、猛然と疾走した、という事である。
この敗走中に面白いエピソードが生まれている。
合戦場から浜松城へ逃げ帰る途中で家康は空腹に耐えかねて、道すがらの茶屋の老婆から小豆餅を購入し、人目もはばからずに貪り喰った。ところが喰い終わった頃に敵兵が押し寄せてきたので、餅の代金も払う暇なく再び逃走中の身となった。殿様の食い逃げに大層驚き、憤り、逆上した老婆は、迫りくる武田軍を物ともせず一生懸命に家康の後を追った。
そして遂には家康に追付くことに成功、殿様に餅の代金を支払わせた、という。
後世、家康が餅を食べた茶屋のあった場所が『小豆餅』そして家康が老婆に餅の代金を支払った場所が『銭取(ぜにとり)』という地名で、それぞれ呼ばれる様になった。
『小豆餅』は町名として、そして『銭取』は遠鉄バスの停留所としてその名を留めている。
そして家康が喰った小豆餅は現在でも、その場所で売られているそうだ。磯田氏によると中々に美味いらしい。残念ながら筆者は未訪故にその味を知らない。
尚、家康が雲古をチビった場所も『糞漏(くそもらし)』又は『糞放(くそひり)』若しくはそのものズバリの『糞』という地名になっていると記憶していたが、色々な地図を参照してもその様な地名は掲載されていないので、コレは私の記憶違いであろう、と思われる。
あ、家康が三方ヶ原の合戦で敗走中、恐怖のあまり馬上で雲古をチビッたことは事実です。
逃げている間中ずっと漏らし続けていたので家康の周囲を漂う異臭が物凄かったとか。
その惨状を見かねた家臣の大久保忠世が「情けない」と嘆いたそうです。
股肱の憂悶に家康は「これは糞ではないわ。腰に着けていた焼き味噌だがね」と強弁したとか、しなかったとか。
しかし、こんな怖がり屋さんが『海道一の弓取り』と呼ばれてたとは、ねぇ。
ま、最近の学術研究によると、家康は雲古を漏らしてはいなかった、とする説も出てきているんですが、馬上で雲古をチビりながら猛スピードで浜松城へと逃げ帰って行く情景を皮質上に思い浮かべるだけでニヤリと口角が上がりますから、雲古を漏らしたっていう方が事実ってコトで『どうでしょう』?
それに、誰もそのシーンをiPhoneで動画撮影した訳ではないのだし。
仮令、動画が存在していたとしても現在ならディープフェイクの技術でどうとも加工可能だし、ね。
注10:ゴルディオスの結び目について。
ゴルディオスの結び目(Gordian knot)とは、フリギア(Phrygia:小アジア中部にあった小王国)の王のゴルディオス(Gordius)が戦車の轅(ながえ:馬車や牛車等の前方に長く突き出た平行の2本の棒のこと)に頸木(轅の前端に渡し馬や牛を繋いで車を引かせる為の横棒)を結び付けた時に出来た結び目のこと。ゴルディオスは『将来アジアの支配者にとなる人物でなければこの結び目は解けぬ』と言った。その結び目をアレクサンダー大王(Alexander:マケドニア王)は解こうとする代わりに剣で断ち切った、という逸話が現在に伝わっている。
注11:フォッサマグナについて。
フォッサマグナ(Fossa Magna)とは日本本州の中央部を横切る大地溝帯である。
フォッサマグナ自体は、古い岩石(約5億4200万~約6600万年前)で構成された溝の中に、新しい岩石(約6600万~約258万年前)が詰まった構造をしている。
溝の深さは6000m以上にも及ぶと考えられているが、確定された訳ではない。
この巨大な地溝線は、北は新潟県から発し、南は伊豆半島~房総半島へかけて延びていて、まさに日本列島を2つに分断する断層群構造帯である。
尚、フォッサマグナの地質は長野県の諏訪湖付近を境界として北部と南部とではその特徴が異なる。北部は主に火山岩と砂泥が積もって形成された堆積岩でできている。このことから北部フォッサマグナは海底火山の噴火と,溝の斜面から流れ落ちた土砂が堆積する事で埋没して行った、と考えられている。
それに対して南部フォッサマグナは、主として火山岩から形成されていて、サンゴなどの南の海の化石が多く発見される事から、日本の南海に位置していた伊豆・小笠原弧の島々が北上し、本州に断続的に衝突する事で形成された、と推察されている。
尚、北部と南部の形成は1500万年前頃、同時期に起こったと考えられている。
フォッサマグナの西側の境界線は明瞭で、新潟県糸魚川市と静岡県静岡市を結ぶ断層群の『糸魚川-静岡構造線』であり、その輪郭を強調するかのように西側には日本アルプスの3000m級の山脈がドンと鎮座している。しかし、東側の境界線は不明瞭で判別不能であり、故に研究者によって意見が異なる。
『ナウマン象』を発見した事で有名なドイツ人の地質学者、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンは、新潟県直江津市から神奈川県平塚を結ぶ『直江津-平塚線』が東端だと考えていた。尚、このフォッサマグナという地質構造に初めて注目したのがナウマンである。
他には、柏崎(新潟県)と千葉(香取市や銚子市など?)を結ぶ『柏崎-千葉構造線』が東端ではないか、と考察する研究者もいる。
フォッサマグナの形成過程もまた不明確である。
様々な説があるが、
説1)本州の元となる地域が次第に南下して、その過程で伊豆・小笠原弧と衝突する事で形成された。これはナウマンの考え。
説2)元々、本州は2つの島弧が衝突する事で形成された。その過程で本州を分断する様に見える巨大な溝ができた。これは原田豊吉の考え。
説3)本州の東半分が反時計回りに回転。それに相反する様に西半分が時計回りに回転。
日本列島が中央部において『観音開き』の様に折れ曲がる事で裂け目が出来て、その結果としてフォッサマグナが形成された。地磁気の研究から提唱された説。
説4)スーパーホットプルーム(マントルが上昇する現象)の噴出に伴って形成された、とする説。上記の説3を補完する説明。神奈川大学の藤岡換太郎博士が唱えている。
この他にも色々な説があるが、未だに確定的な説明には至っていない。
ま、新潟県から静岡県~千葉県に跨る広大な地域の地面をガバッと穿り返して調査する訳にもいかないから、明確な答えが得られないのも仕方が無い事では、ある。
それは、地震波による地下構造の解析には解像度的・知見的に限界があるからである。
海洋研究開発機構(JAMSTEC:Japan Agency for Marine-Earth Science and Technology)が地球深部探査船『ちきゅう』を使って南海トラフの断層帯域に対して実際にボーリングしようとするのも、同じ理由から、である。断層帯域の岩石の現物から得られるデータは質・量ともに地震波解析データを遥かに凌駕するからである。
宇宙航空研究開発機構(JAXA:Japan Aerospace eXploration Agency)が、小惑星探査機『はやぶさ』及び『はやぶさ2』を運用して実際に小惑星から岩石等の試料を持ち帰ろうとするのも同様の理由からである。観測機器から得られるワンクッションおいた間接的なデータには分析・解析に関する可能限界があるからである。
現場に足を踏み入れる、という行為は、どの世界においても要諦である事に変わりがない。
尚、日清どん兵衛の出汁の味に関する『関東-関西』の分岐は、やはり関ヶ原近辺らしい。自分の足を使って実地調査した訳ではないので『確定だ』と断言は出来ないのだけれども。
注12:食材の旬について。
旬は時期全体で約6週間ほど続く。(もちろんこの期間は品物によっても異なる)
1)走り:(最初の2週間)出回っている数が少ない為に『初物』として珍重される。
・味や栄養面では『盛り』に劣る。
2)盛り:(中期の2週間)最も栄養が豊富で味も良い。甘味も増し、旨さも出てきている。
魚や肉は、脂肪も載ってくるようになる。
魚・肉・野菜・果物に至るまで盛りの時期には本当に旨味・風味が最大限になる。
・出回る量が多いので、比較的に価格が安い。
3)名残り:(最後期の2週間)過ぎ行く季節を惜しむなど、精神的に味わえる。
・味や栄養面では『盛り』に劣る。
例として、ハモとマツタケの茶碗蒸しについて、挙げる。
ここから以降は、服部幸應氏(服部栄養専門学校校長)の談話から抜粋。
『ハモは夏場が旬で、その盛りの時期にマツタケは無い。
ハモと組み合わせてマツタケが出て来るが、マツタケが盛りの時期にはハモはもう終わりで名残の時期。だから「盛りマツタケ、名残りハモ」と言いながら食す。
「このハモには来年まで会えないな」と感傷的になる。
(ハモ自体の)味は盛りよりも落ちているが「コレはもう最後だから」と食べておく、
その気持ちが料理の中に投影される。精神的な所から来るもので味わいが全然違ってくる。
対してマツタケは盛りで一番良い時で特徴的な香りがプンプンしている』
ほほぅ、なるほど。
服部先生の形容する食材の世界は、盛りのモノが絶えず移ろう人の世とまるで同じである様に我々の心に響いてきますな。
でも、漁師の方曰く『鱧は落ち鱧が一番美味い』のだそうですよ、服部先生。
鰆も春より、秋の方が美味いし、新潟で揚がるノドグロ(アカムツ)は晩夏だそうです。
旬は季節だけでなく、地域によっても異なるのですよ、先生。
注13:日本の労働人口に対するAI&ロボティックスの影響について。
野村総合研究所が2015年に発表した研究結果によると、発展を続けるロボティックス技術と進化するAIとの複合効果によって2030年代には日本の労働人口の約49%が、技術的には代替可能になる、とされた。
しかしながら、OECD(Organization for Economic Cooperation and Development)経済協力開発機構の最新推計では、AIに代替されるリスクが高い職業に就いているのは『先進国平均で労働人口の1割』とされた。これは、1つの仕事の内容をタスク(=作業)別に丁寧に分別をして、それぞれに自動化の影響を細かく見直した故の解析結果である。
この推計は多くの研究者たちにおいて、意見の一致する所であるらしい。
でも、非常に恐ろしい事だが、そのOECDの最新調査では日本における労働人口の15%(約1千万人)がAI&ロボットに代替されてしまう恐れがある、とされている。
この数字、決して小さくはない。
一部のAI研究者が『AIやロボットが人間を支配する様になるなんてSF映画の中だけです』などと朗笑と供に決め付けているが、彼等のその楽観的な物言いの根拠はこの世界のドコにも見い出すことは出来ない。もしかしたらAI&ロボティックスの危険性に関する真実が巷間に流布したら研究をストップさせられることを危惧して、情報操作の為にそんなことを言い続けているのかも知れない、と筆者は訝っている。
何故ならば『人間が想像できる事は必ず実現できる(ジュール・ヴェルヌ)』からだ。
「世界が、終わるのよ」
この赤城リツコの言葉は、AI&ロボティックスに関して言えば、正しいのかも知れない。
ホーキング博士も全く同意見だったし、彼の生前。
私とケンゴ vol.13