私とケンゴ vol.12

 黄色のペグマン、じゃない、『使徒』みたいな見た目のピンが動きを停めた。
ちょうど今夜泊まるホテルに着いたトコみたいだった。
 タップしてホテルの情報を表示させる。すると浜名湖畔にある『かんざんじ温泉』っていう温泉街でも格式の一番高いと言われてるトコだった。サイト情報によると将棋の名人戦とかもよく行われるらしい。父が将棋を趣味としてるから名人戦ってのがファッション界で言えば3大コレクションのパリとミラノとニューヨークを合体させたくらい凄いモノなんだ、ってことだけは知ってた。
 だから『チョット、こんな凄いホテルに泊まってダイジョブなの? ヤバくない?』って思って、あわてて研吾に確認メールした。
 しばらくするとテーブルの上に置いたiPhoneがバッハの無伴奏チェロ組曲第一番前奏曲を奏で始めた。
 ヤープ・テル・リンデン、って演奏家だったっけ?
(筆者注:この演奏、実はコリン・カー)
 画面表示を見なくても誰からか判る。
研吾からの返信だった。
私たちが付き合い始めた頃に、バロックと呼ばれてる時代の曲の中で彼の一番好きな曲を研吾専用に設定して、2人が離れてからも消すのを忘れてそのまま残ってたヤツだった。
あの日、私が研吾の部屋から出てった時、設定をサッサと抹消しとけば良かった。
そこの点だけは、後悔してる。
 だって今、私はこの曲が掛かるのを本当に心待ちにしてるから。
その上、この曲が掛かる度に自分の尻尾がパタパタするのを如実に感じ取れちゃうから。
そんな自分自身に何でか知らないけど『イラッ』としてしまう。
ううん。
知ってる。
何でか、分かってる。
自分のホントの気持ちには、もうとっくに気付いちゃってたから。
でも、ソレを絶対に認めたくなかった。
どうしても認めたくない、私の若さから、ヤラかしちゃった過ちってヤツを。
 もし、認めちゃったら...
紗瑛ちゃんの、冷たく乾いた声が耳の奥底で蘇ってくる気がするから。
 ブルブルッと犬みたいに首を振って変な考えを吹き飛ばそうとした。
 余計な事は考えないようにする。
iPhoneを取り上げてチェックすると動画が添付されてた。メールの本文の方を開くと、
『宿泊代は気にしなくて構わない。
宿泊費用は全て、オレが払うから。
結衣はガソリンと高速代だけ負担してくれればOKだ。
それだけで十分だよ』
 マジ?
『ホントに、ダイジョブなの?』って返信すると、
『大丈夫だ。
これは、イトちゃんを今まで放ったらかしにしてしまった、
パパ候補としての、せめてもの償いだよ。
この旅行中、本物だけを見せて上げたいんだ。
イトちゃんも喜んでいるみたいだし。
今は、窓にかじり付いて外の景色をジッと観てる。
確かに9階だけあって、部屋からの眺めが抜群に良いからな。
沈んで行く夕陽が素晴らしく、秋の風景を彩っている』
『分かりました。織のこと、よろしくお願いします』
『了解』
 メールのやり取りが終わった。
まぁ、研吾が良いなら、良いけども。
パパ候補、ね...
でも、だから研吾、織は君の娘じゃないって。
 『ふうッ』って知らないうちに、タメ息が出た。
 何か自分の吐いた『嘘』にしばり付けられていっちゃう気配が濃厚にただよってくる。
温かい泥みたいなモノに首までハマって、そこから永久に脱け出せない予感がした。
 あぁ、イヤだイヤだ。
首をブンブンと振って、そんな不愉快な予感を頭から追い出した。
気を紛らわせるために、研吾のメールに添付されてる動画を開くことにした。
 研吾が動画を送ってきたのはコレが初めてだった。
何でかっていうと研吾、ズッとガラケーだったから。
 多分ガラケーでも動画とか送ったりできると思うんだけど、彼がそゆコトしてるの、
私は見たことなかった。
 付き合い始めて3ヶ月くらい経った頃だと思うけど、こんなことがあった。
 夜、帰宅してから代わりばんこにお風呂を頂いてからのことだった、と憶えてる。
彼が本格的に煮出した麦茶を、あ、夏だったからもちろん冷蔵庫で冷やしたヤツだけど、それを飲みながら2人で普通の話をしてたら、いつの間にかケータイの話題になった。
 私は、研吾とお揃にしたかったから、彼にiPhoneを勧めた。
『絶対にiPhoneにした方がイイと思う。便利だし。それに大体さ、研吾Macじゃん』
『これで十分だよ。こと足りてるし』研吾が、ガラケーを手に取りながら、言う。
『ホントに便利だって、コレ。ネット検索できるし、色んなことがバッとできちゃうし』
『いいよ、全部PCでデキるし。要らないモノは持たないんだ。知ってるだろ?』
 研吾って、いつもは柔軟な考えする人なんだけど、こゆトコは譲らないんだよね。
つねに己を貫き通そうとするっていうか、信念曲げないってゆーか。
 そゆトコ、もう少し臨機応変でいてくれても、バチ当たらないって思うんだけど...
『それに、タッチパネルがオレの指を認識してくれないんだ』研吾が真実を告白した。
 私は、何言ってんの? と思ったから、彼に自分のiPhoneを渡した。
『チョット、やってみて』
 研吾は『ほらっ!』って感じで、私に見えるようにパネルの上で指を滑らせる。
 アレ? 反応してるよ?!?
『嘘吐きッ! iPhone、チャンと反応してくれてるじゃん!』って責め立てたら、
『アレッ? おっかしいな? 何で反応するんだろ?』彼が不思議そうにパネルを見た。
『いつもは、反応しないの?』
『微動だにしない訳じゃないんだ。反応が本当にまだるっこいんで、じれったいんだよ』
『じゃ、何で今は絶好調で、クルクル動いてるの?』
 研吾は天井を見上げて、ウーンって感じで少し考えた後、私に向き直って、言った、
『結衣の、だから、じゃないか?』
 その言葉を聞いた瞬間に、もうiPhoneのことなんて、どうでもよくなった。
必死で我慢しようとしても自然と笑みがこぼれてくる。だから、私は、
『ね、しよ』と微笑んで、彼の手を取った。

 そっから先は、想い出さないことにした。
あの頃は、幸せだったなぁ、って今つくづく想う。
 ホントに大切な物は失って初めてその大切さが分かる、って昔、誰かが言ったらしい。
そなの、かな?
 ケータイのことを話した夜に、その時に交わした会話の端切れがポツンと蘇ってきた。
『iPhone、必要になったら、持つさ』
 彼はそう言った。
今、必要になったんだ、研吾。
 あの時、私が出てったその時に研吾がiPhoneを持ってれば、
Google Mapがサービス開始してさえいれば、
位置情報監視アプリが配布されていさえすれば、
彼が、そのGPSアプリを使って、私を見つけ出してくれてたはずだったのに。
 そしたら、また再び2人で暮らしていけてた。
今とは違う、別の未来が待ってた、はずだったのに。
『アンタ、絶対後悔するから、将来』
とうとう、紗瑛ちゃんの突き放すような乾いた声が、頭の中に響き渡った。
私は、ゼッタイに後悔なんか、してない。
でも、温かいモノが両方の頬を伝って落ちてくのを感じる。
何だよ、コレは...
後悔、してないって、言ってるじゃんか!
 急いで手で拭い取った。
 なんか、最近やたら涙もろくなってる。
きっと、織を手放さなきゃいけなくなったからだ。
 気を取り直して、彼からのメールに添付された動画をポチッとした。
 何、これ?
織が嬉しそうに笑いながら、はしゃいでいる姿が映っていた。
直接自分の眼で観なくても、動画からでもたやすく高品質だと分かる服を彼女は着てた。
 服のせいなのかどうか、織の笑顔がキラキラと輝いてて、まぶしい。
確かに落ち込んでても、良い服を着たりすると、スッと気持ちもいいカンジに変るけど。
そゆコトなのかな?
 でも、久しぶりかも知れない、
彼女がこんなに笑ってる姿を見たのは。
 ダンナがいなくなってから、織はソレ以前と同じようには笑わなくなった。
まるで、自分が悪いことしたから健爾が消えた、みたいに思ってたのかも知れない。
 私が何かを言っても、小さな笑みを浮かべるだけの、影の薄い子供になってしまった。
最近、特にあのロリコン野郎の事件の後には、織はアンマリ感情というモノ自体を、表に出さなくなっちゃってたし。
そゆ彼女の姿を見る度に、超ロクでもないオトコを部屋に引きずり込んだ自分が嫌で嫌で、だから、織に合わせる顔がなくて、逆に素っ気ない態度になっちゃってた。
 だけど、心の中でズッと『ゴメンね』って謝り続けてた。
 動画の中で、織が笑顔でコチラ側に話しかけてきて、研吾が何かを答えていた。
 織、ホントに良い顔してる。
まだ父親が失踪する前で、健爾と私と3人でいた時に見せてた笑顔とも違った、私も見たことの無い、初めての別の種類のはじける笑顔を見せてる。
研吾と、だからかな。
あの人と一緒だから、かな。
 そう思い至った瞬間に、私は自分の胸の内側に何かがポッと点ったような感覚を覚えた。
何だろ、コレは?
単なる胸騒ぎとも違うような気がする。
 まるで嫉妬...ちょっと、何、考えてんの?
私の...自分の娘だよ、織は。
焼きもちを焼くような相手じゃないでしょ?
 じゃ、何? コレ?
そんな奇妙な想いを丸ごと払い落とすように、首を左右にブンブンと振る。
 今日、何度目だろ?
首を振ってばかりの私がいた。
色々な感情がグルグルと渦を巻いてて、だから頭の中がグチャグチャになってしまって、
これ以上、この動画を見続ける勇気が湧いてこなかった。
 冷静な気持ちで観られない。
だから、いったん切ることにした。
『ふぅ』
 溜め息も今日、何度目だろ?
 顔を上げると、窓の外に夕やみが忍び寄ってきていた。
『マズイな。お店に連絡しとかないと』
 昨日、最後の夜を織と一緒に過ごすために風邪を引いたことにして、ズル休みを決めた。そして、チーフの五十嵐さんに『今日、体調がすごく悪くて行けそうにもありません』と欠勤の報告をした時『もしかしたら、明日も無理かもしれないです』と保険を掛けてた。
 だからだと思うけど、私が「やっぱり今日もお休みさせて下さい」と電話連絡すると、
五十嵐さんは「分かりました。しっかり治して来てください」とだけ優しい口調で答えた。
 そんな彼のユッタリとした態度から、超優秀なマネージャーとして、私の欠勤をカバーできる体制を既にバッチリと整えていたってことを、強く感じ取れた。
 ごめんなさい、五十嵐さん。ズル休みして。
でも、今日は頭がグシャグシャになってて、何も手に付きそうも無いんです。
ホントにごめんなさい。
それでは、失礼いたします、と電話を切ろうとした時に、五十嵐さんが、
「今、有野さんが来店されていますが、私からお話しておきますね」と言って「それではお大事に」と通話を切った。
 弘行、来てるんだ。
こんなにも早い時間なのに?
早過ぎだろ、まだ開店したばっかだよ。
何か、話があるんだな、と察した。
きっと芸能界のデビューがどうとか、の話に違いない、かも知れない。
ついでにSEXをしようって流れをこのオトコは思い描いてるんだと、感じ取った。
『ふぅ』
コッチの方もどうにかしないと、ダメだな、と思った。
 認めたくないけど、自分の気持ちに気付いちゃったから、彼とこれ以上は付き合えない。
早いうちに清算しないと。
弘行との関係を終わらせたら、私の芸能界デビューの話は白紙に戻ることくらいは分かる。
そんなことは簡単に予想できる、世間知らずの首の青い中学生じゃないんだから。
 迷いがないか、どうか、自分でもハッキリとは分からない。
 それでも、芸能界と研吾、その2つを比べたら答えは簡単に出た。
正直なトコ、そんな自分に、少しビックリした。
私って、そんなに思いっ切りよかったっけ?
も少し、ジタバタするかと思ってた。
心の中はまだグチャグチャしてて整理が付いてないけど、まぁ、イイか。
 今の今まで、自分の本当の気持ちを認めたくなかった。
それは、紗瑛ちゃんの言葉を受け入れたくなかったから、ただそれだけ。
あの時、自分の望んだように物事が運ばなかった、ソレが気に入らなかっただけ。
とっても小さな、どうでもいいコトにこだわり過ぎてた。
意地とか余計なプライドとか、要らないモノに惑わされてた。
 でも、もう、イイ。
紗瑛ちゃんに軽蔑されようと何されようと、どう思われようと、全然構わない。
事実をチャンと認めよう。
そう心に決めたら、楽になった。
 私は、研吾が好き。
女優なんかに成れなくても、いい。
そんなの、どうでもイイことだって、自分にとって不必要なことだって今、分かった。
私は、やっぱり『運命の人』を選ぶ。

 晩ご飯を食べようと外に出た。
最初は昨日買っておいたシーフードヌードルで済まそうとしたけど、独りで部屋にいると気分がドン底まで落ちていってしまいそうだったので、外食することにした。
 旭町の県道沿いにある全国チェーンの定食屋さんに足跡を刻み込むように歩いて行った。
夕ご飯の時間なのに、お店の中は意外と空いていた。
 食券を買ってから、窓際のテーブルに席をとった。
店員さんがやってきてお茶を置いた後に、食券を取り上げ「肉野菜炒め定食と生サンマの塩焼き単品ですね」と確認してから半券を千切り取って、立ち去った。
 色だけであまり味のしないお茶をユックリと飲みながら周りを見渡した。
家族連れが何組かいるのみで、あとは男性の一人客ばっかり、女性独りってのは私だけ。
 コレが都内中心部とかの『大戸屋』なんかだと女性の一人客も全然当たり前なんだけど、町田のような郊外の定食屋さんでは、私のようなお客はホントに珍しい存在みたい。
 誰も好奇の視線を向けてこないのが奇跡なくらいだ。ありがたいけど。
中身が半分になった湯呑みを両手でもてあそびながら、自分の心の内側を探ってみる。
まだ、グシャグシャしてて散らかり放題だけど、手探りでどうにか当たってみた。
さっき、何で、織に嫉妬にも似た感情を抱いたのか、今となってはそれはよく理解できる。
 彼女が研吾を独り占めしてたから、だ。
バカらしい。
 研吾が織を女性として、本気で相手にするなんてあり得ない。
彼は...研吾が小さい女の子を好きなロリコン野郎なワケなんかないんだから。
そのことは、私は十二分に知ってるはずじゃん。
確かに、重度の脚フェチではあるけど。
 だから、何を心配してんの?
ホントに、馬鹿らしい。
自分自身にアキれた瞬間に、店員さんがやって来てテーブルの上に、
「こちら肉野菜炒め定食と生サンマの塩焼きになります」と定食を置いて「ごゆっくり、どうぞ」と言い残して立ち去った。
 精神的にヤラれててもお腹は空く。
ご飯を食べなくちゃ、死んじゃうし。
 私だけなのかな?
よくドラマなんかでは、心を病むと食事ものどを通らなくなるっていうシーンがあるけど。
悩み事があると、普通の人はお腹、空かなくなるんだろうか?
それとも空腹に気付かなくなるほど何かが気懸かりになるのかな?
私は、お腹空くけどな、どんな時でも。
それほど真剣に何か一つの事を考え続けたことが無いだけ、なのかな?
 そんなコトを考えながらも、箸を取った。
 何を置いてもまず、生サンマの塩焼きに眼が向いた。
サンマを食べるのは今シーズンで、お初だった。
初物を頂く時は、東を向いて笑いながら食べろと両親から教わった、寿命が延びるから。
 お店でそんな振る舞いをすると、えっと何だっけ?
イカれてるって意味だけど、ホラ、アレ、あ、そうそう、『奇矯』な人物って思われちゃう。
 でも、そうしないと寿命が75日、延びそうな感じがしなかった。
けれど、両親の教えには背くことになるかも知れないけど、関東のしきたりに従って西の方を向いて口許だけで音がしないように静かに笑いながら、箸で割り取ったサンマ一切れに小指の先ほどの大根おろしを載せてから、口に入れた。
 美味しい。
塩加減もほど良い加減。
大根おろしがサンマの脂をまろやかにして、舌により親しみやすい感じに変えてる。
ほろ苦い腹ワタを噛みしめた時に、頭が少しだけシャッキリする気がした。
 そういえば、研吾は生の大根、アレルギーだったな、と想い出した。
こんなに美味しいのに、食べられないなんて可哀想。
生の大根を食べると、運が悪けりゃ、窒息死しちゃうって言ってた。
大げさだなぁ、子供じゃないんだから。もういい大人なんだから、そんなコトないでしょ?
メインの野菜炒めも具材がシャキシャキしてて全然水っぽくない。こゆ感じ、私の好み。
 定食についてくる日替わりの小鉢、今日は切り干し大根の煮物だった。
これも美味しいな。素朴な感じがして、いい。母もよく作ってくれたことを想い出した。
 今、改めて気付いたコトは、私って意外と『茶色』の食べ物が好きなんだってコト。
短かった高校生活のホントにわずかな記憶に、クラスメイトたちの大部分がお弁当の中に詰められた『茶色』のおかずを嫌ってた、ってヤツがあるんだけど、私は彼女たちが何で『茶色』を嫌ってたのか、その当時は全然理解できなかったし、今でも理解不可能だ。
 だって、美味しいじゃん。
色味なんて、口に入れちゃえば見えなくなるんだし、何にも関係ないと思うけど。
『茶色』のおかずが嫌いだって、みんな口々に言ってたけど、
でも、あなたたちの好きな唐揚げも『茶色』のおかずだよ。
ハンバーグだって、ドッチかっていえば『茶色』だし、焼き肉もそう。揚げ物は全般的に『茶色』じゃん。海老フライも、コロッケも、メンチカツも、トンカツも。
おかずじゃないけど、パンケーキもワッフルも見た目は十分に『茶色』だッ!
結局、彼女達は醤油の『茶色』が嫌なんだと思う。
だったら、醤油無しで1ヶ月、暮らしてみればいい。
 絶対に無理だから。
今はもう慣れたからダイジョブだけど、上京した直後なんかは東京の濃口醤油に口が全然合わなくて大変だった。コトあるごとに鹿児島の甘い醤油が欲しくて欲しくてたまらなくなってホントに困った。紗瑛ちゃんも同じだったようで2人して濃口醤油に砂糖を混ぜて使ってたほどだった。それくらい醤油は人生に根づいた大切な調味料なんだ、と思う。
 見た目と味、どっちが大事なのか、そんなの簡単じゃん。
 形はイビツだけど本当に美味しいお饅頭と、とても恰好は綺麗なんだけどクッソ不味いお饅頭のどちらか選べって言われたら、私は見てくれは悪いけど本当に美味しいお饅頭の方を一瞬の迷いも無く、選ぶ。
 普通、そうじゃない?
 違うのかな?
ま、いっか。
どうでもいいコトだし、他人のコトなんか。
 だから私は、美味しい定食を口に運ぶのに集中することにした。

 定食を何一つ残さず食べて、会計を済ませ、プラプラとアパートの部屋に歩いて戻ってきた時には、だいぶ頭のグシャグシャ度のレベルも治まってきてた。
 歩いてく途中、部屋に戻る途中でコンビニに寄った。
店内は明るくて、活気を感じる音楽が流れていて、棚には品物がギュッと押し込まれてた。
コンビニには何でもある。
こっちの期待を裏切られることは、ない、と私は思う。
『絶対にないか?』と言われれば『多分』って答えると、思うけど。
 そういう風に他人を追い詰めちゃう人っているなぁ。
逃げ場のない所に追い込まれると、人ってとんでもないコトやらかしちゃう。
えっと、何てゆうんだっけ? そういうの?
うーん、と...
あ、そうそう『自暴自棄』だ。
周りの人から見たら、明らかに無謀って感じるコトとか、ズンガズンガしちゃうんだ。
 でも、アレって、やってる本人にとっては超真剣なんだ、って思う。
周囲の状況があまりにも切羽詰まってるんで、何でもイイから何かをしなきゃって、半分パニックになりながら手当たり次第にその時できるコトを、必死に行動してるだけなんだ、って思う。
だから、私はそういう人を非難したりは、できないな。
自分も、昔、そういう状態だったコト、あるし。
 白々っと明るい店内を歩いて行って、一番奥にある陳列ケースの扉を開けて、そこから冷えたペットボトルを2つ、緑茶と麦茶を取り出した。
レジに向おうとして振り向いてから、気付いた。
 だから、もう一度、冷蔵ケースの扉を開けて、麦茶だけを棚に戻した。
 会計を済ませると、乾いたカサカサと耳触りな音を立てるレジ袋、一層大げさにブランブランさせて、ユックリと部屋まで歩いてった。
 鍵開けて部屋に入り、リビングに行って安物の食器棚から綺麗なコップを1つ取り出す。
ワザと癇に障る音をガシャガシャ立てながらレジ袋の中からペットボトルを取り上げて蓋をひねりお茶をコップに注ぐと一口ふくんで、研吾が送ってきた動画の続きを観た。
 その中で、織はピンクのワンピを着ていた。
店員さんだと思うけど、女性の声で『ベビーピンク』って聴こえた。
 女の子のためのピンク色だから、織にピッタリなのかも知れない。
そう思ってた時、私の耳たぶを恐ろしい単語たちが叩いた。
『テキサス産のエクストラウルトラファインのオーガニックコットン』や『動体裁断技術』や『細番手のカシミア』とか、だ。
 ファッションを少しでも齧ったことのある人なら、この単語が意味するトコがどういうモノなのか、分かると思う。それは、プライスタグを見るのが怖い単語ってこと。
まぁ、ワンセットくらいなら、値段もそんなにまでは行かないかって、そう考えてた。
 でもその値札を見たくないワンピだけだと思ってたら、次のセットアップが待ってた。
私の想像だけど、多分、森とか自然とかをイメージした感じの茶色ベースの素敵なセットだった。ここにも『カシミア』とか『アンゴラウール』とか空恐ろしい単語が出てきた。
それに、アクアスキュータム・チェックのプリーツスカートなんて見たことない。
大体、アクアスが子供用の服飾品を扱ってたことすら知らなかった。
 これで終わりだよね、って思ってたら次は青ベースのセットアップ。おそらく海とかをイメージしてるんだと思う。
その次は都会っぽいギンガムチェックのシャツドレス。
最後は、とてもピュアって感じの純白のドレスワンピだった。
ここで、とりわけて恐怖そのものの単語を(多分)店員さんが出してきた、
『日本国産のオーガニックシルク100%』
 ウソ、でしょ?
デキの悪い冗談、よしてよ。
 あのさ、これ、全部買う訳じゃないよね、研吾?
ザックリと見積もっただけでも、合計で50万は軽々と超えちゃうかも、だよ。
 昨日の晩、研吾が送ってきたメール、恐ろしく長いメール。
超長いから読んでて途中で眼がしばしばしてきちゃうくらいの、物凄い長文メールだった。
 研吾、まだトグル入力なのかな?
だとしたら一体何時間かかったんだろう? ってくらいの長さ。
 全部で7000文字あった。
長過ぎるから、まだ全部は読めてない。
 でも、最初の半分読んで分かったことは、研吾がこの6年の間何をしてたかってこと。
何もしてこなかった。
ずっと、あのアパートの部屋に引きこもってた、ってこと。
 だから、イイって、研吾。
そんな凄い服なんか、そんなにイッパイ買わなくてイイ。
今まで6年間も仕事らしい仕事をしてこなかったはずだから、そんなの払える訳ないし。
ってか、稼ぎなんて全然なかったんでしょ?
 イイよ、研吾。
買わなくて良いってば。
 向こうに、鹿児島に行けば父と母がイヤっていうほど織に買い与えてくれるから。
えっと、お父様とお母様も普通の祖父母なんだから、孫の織にはメチャクチャ甘いから。
だから、君が織の服を買う必要なんて、ドコにもないんだから。
織と君は何のつながりも無い、たまたま通りすがりの赤の他人同士なんだよ。
『今まで放ったらかしにしてしまった、せめてもの償いだよ』
 研吾の言葉が、頭の裏側に蘇った。
放ったらかし?
当たり前じゃん、赤を通り越して緋色の他人なんだから。
 君のDNAは産毛1本すらも入ってないんだよ、織には。
だから、止めてよ、そゆの。
 君がそんなコトすれば、ようやく治まった心の嵐が、また再発達しちゃうじゃん。
 結局、私の願いもむなしく、研吾は5セットを全部購入した。
ふぅ。
 一体ドコからそんなお金を引っ張ってこれたんだろ?
大体R32にかけた費用だって、どうやって工面したんだろ?
あの『オチビさん』を売っちゃってたとしても、全然足りないと思うし。
『考えても分からないことは、考えないことにしているんだ』
研吾の口癖が頭に浮かんだ。
 それも、そうだね。
だから、放っておこう。
 ヤリ過ぎてると思うけど。
だけど、放っとく。
ホント、研吾、またヤリ過ぎてる。
買い与え過ぎだよ、たとえ自分の娘だと誤解してたとしても。
こんな風に時々、彼、重たくなるんだよな。
研吾はいつも『適宜』とか『適量』とか『適切』とかを見極めるのに鋭くて、とても的確だった。でも、極たまにリミッターが外れちゃって暴走することがあった、今日みたいに。
そゆ時は、正直なトコ、少しウザかった。
 でも、ソレはそんなにイヤな肌触りじゃなかったのも、ホントのコトだけど。
研吾はいつも超真剣で、私のことも真剣に考えてるって痛いくらいヒシヒシと感じたから。
 だけど、チョットばかし、ううん、受け取り方によっては、チョー重たかったんだよね。
私に依存してる? そんな奇妙な気配もうっすらとだけど、何となく感じ取れたし。
誰かのことを想って何かをして上げる時って、きっとドコかでその人に依存してるんだと思う。まるで自分の心の一部が、自分の精神が、その人と重ね合せになってるような。
その人がいるから、自分も生きていられる、みたいに『依存』しちゃってるのかも。
別に悪いことじゃないと思う、チャンと距離感を保つことさえできてれば。
何て言うんだっけ?
自分のことを愛する気持ち...
あぁ、自己愛だ。
相手のことを想ってるつもりでも、回り回って結局自分のことを愛してるんだと思う。
その人に自分のことを投影してるから、自分と一心同体みたいになっちゃってるから、
ついつい距離を詰め過ぎちゃって、相手に重過ぎる負担をかけちゃうことになって、
だけど、そのことに気付けない。両方の眼の玉が近視になっちゃってるから。
全然、周りが見えてきてないから。
相手の内側に自分がいれば、その部分を、っていうか相手を丸のマンマ愛しちゃうことになっても不思議じゃないよね。
何か、相手を鏡代わりに利用して、そこに映った自分の姿を愛してるだけみたい。
だから自分がした行為を相手に拒否られた時に、とんでもないダメージを受けちゃうんだ。
自分が自分自身に否定されることなんて、普通はまずあり得ないもんね。
相手は、自己愛の写し絵。
だから、相手のことを思いやるとか何とか言っても、結局自分自身のことを慮ってるだけなのかも知れない。
だけど、そうだとすると、人って自分のことだけしか愛せないのかな?
それは少し、淋しい感じもするけど...
でも、ホントのトコは、そうなのかも知れない。
難しい理由や理屈は全然分からないけど、何か、そゆ風に感じる。
 ね、研吾。
何度も繰り返すけど、織は君の娘じゃないって。
それに、そうやって織に依存し過ぎると、彼女には重過ぎる負担をかけることになるよ。
受け止められないくらいの大きい『想い』は、結局は負担でしかないし。
 織は、君自身じゃないんだから。
それに子供なんだよ、織はまだ。
後々で起こる反動が怖いって、今でも分からないのかなぁ?
 彼に教えてあげた方が良いのかな?
織に拒否られないためにも研吾に、控えるようにとか、適切な行動とか、教えた方が...
 でも、そうやって色々考えたけど、結局、何もしなかった。
放っておくって、決めた。
何もしないってことを選んだ時に、私は自分自身のことを『ズル賢い女』だと悟った。
同時に『嫌なオンナ』だとも、分かった。
 でも、自分の望むモノを手に入れるために私ができることは、それしか無かったから。
だから、研吾に伝えることは、しなかった。
何も。
そして、私はメールの続きを読まないことに決めた。
きっと私の知らない研吾がそこにいる。
心の底から知りたい、彼が何をしてたのか、絶対に知りたい。
だけど、読まない。
 これはズル賢い私への、罰だ。
こんなの超簡単に破れる。
でも、読まない、って決めた。
だって、これは罰なのと同時に、神様へのお願いごと、だから。
 残りの半分を読まなければ、そうしたら私の夢は叶うんだって。
私の望むことが本当になるんだって。
ちょっとだけややこしいけど、そういう風に、天に願いをかけることにした。

筆者注:
Google Mapの正式版の開始時期はは2010年8月6日からなので、結衣が研吾君の部屋から出て行った時にはもうサービスしています。位置情報監視アプリのサービスが提供され始めていたかは定かではありませんが、Google Mapにも、相手の位置情報を検知・確認できる機能が付加されているので、それを使えば研吾君が結衣の居場所を特定する事は、十分に可能だったはずです、彼がスマホを持ってさえいれば。
研吾君、ガラケーだったんだよね。じゃ、無理。
因みにGoogle Mapのベータ版サービスは2005年に開始。
Street Viewは2007年から利用できました。
黄色のヒト型のアイコンはペグマンです。コレを右下の定位置から引っ張り上げて任意の場所に設定する事でStreet Viewを使えます。ぶら下げている時にプランプランしていて、まるで縛り首にされている様に見えて仕方無いのですが。
これって、どうにかならないのかな?
あ、結衣がいう所の『!』の上部分みたいなアイコンは『ピン』もしくは『マーク』です。
普通はMap上で建物などの位置を示す為に『刺されて』います。通常、付加される情報は緯度と経度のみですが、任意で名前等のラベル付けが出来ます。移動するクルマに付けられるかどうか、私は知りません。えー、この物語はフィクションです。悪しからず。
あ、敏いキミはもう疑問に思っていることでしょう。
アパートを出て行って以来、結衣はずっと同じiPhoneを持ち続けてたのか? と。
もちろん結衣は研吾と別れた後に当然iPhoneの機種変してます。内部に蓄積されたデータの引き継ぎをキャリアショップの店員さんが完璧に行ったからこそ、研吾に関するデータは新しいiPhoneにも入っているのです。と、いう事にしておきます。ま、残念ながら多くの機種変のケースでは大概、どこかしら内部データは毀損されてしまうのが普通ですけど。
初物を食べる時、関東地方では西の方角を向いて笑いながら食すと寿命が75日延びるとされています。『何故に西か?』というと西方浄土にいらっしゃる阿弥陀如来(お釈迦様)に感謝を捧げるため、とも言われています。(もっと卑俗な理由もあります)
寿命の延びが75日である理由は、江戸時代の死刑囚は処刑の前に食べたい物を所望できる慣習があったそうで、ある時にある死刑囚が季節外れの食べ物を所望したため、その食材を手に入れるのに75日かかった、という故事に由来しているみたいです。本当かな?
関西地方では、初物を食べる時には東を向きます。
これは万物の源泉たる太陽に日々の恵みへの感謝を捧げる為だとか。もちろんより卑近な理由もあります。興味がある方は『初物 食べる 方角』で検索をしてみてください。
アクアスキュータムは、正規品として子供服を扱ってない筈です。女性物はあった様な気がします。確かめてないので何とも言えないですけど。バーバリーが女性物を扱っているから同様に取り扱っているんじゃないかなぁ。
あと国産のオーガニックシルク100%について、ですが、未販売ではあるものの山形県の庄内地方で『小石丸』という在来種の蚕(かいこ:絹糸を吐き出す芋虫)が完全無農薬で飼育されています。数年以内には市場に出てくるんじゃないかな?
ま、結衣の言う通りにプライスタグを見るのが恐ろしい程のお値段である事だけは間違いありませんけど。



なんか、テが、ネチョネチョする。
なんだろ?
ケンゴくんとつないだ方のテだけ、ネチョネチョ。
ウミ、じゃなくてミズウミにいれたテだから、かな?
どうしよ?
テをあらいたいカンジがするけど、ケンゴくんが『イヤ』ってならないかな?
せっかくミズウミが、ショッパイって、おしえてくれたんだし、
ケンゴくんが、キをワルくするよなコトとか、したくないんだけど。
でも、ネチョネチョ。
どうしよっか? って、かんがえてたら、
ケンゴくんが、
「ね、ココでまっててくれる? ちょっとトイレに、いってきたいんだ」って、ゆった。
チャンス!
って、おもったから、ワタシも「ワタシもトイレにいく」って、ゆった。
「じゃあ、イトちゃんがサキだったら、トイレのマエでまっててね」って、ケンゴくんがゆって、オトコようのトイレに、はいってった。
ワタシも、テのネチョネチョをあらいたいので、オンナようのトイレに、はいった。

 イトと手を繋いでプラプラとそぞろ歩いてホテルへと戻った。
しかし、汽水湖とはいえ流石に塩水だけある。
一掬すくおうとして湖面に差し入れた両手が、乾くに連れて表面がネチョネチョしてきた。
 子供の頃は夏になると、実家の眼の前に拡がる駿河湾で海水浴をするのが毎年の恒例だった事を想い出した。海パン1つを身に着けたのみで素足にビーチサンダルを突っ掛け、家を出て海岸に向ってそのまま海にドブン、泳ぎ疲れると海から上がってビチョビチョに濡れたまま家に帰って風呂場に直行、32℃設定のぬるま湯で全身にまとわりついているネチョネチョを砂と共に洗い落としたモノだった。当時、不思議に思ったのがオレが遊泳していた海岸は砂浜ではなく砂利だらけだったのにも関わらず、細かい砂粒がビッシリと身体中にこびり付いている事だった。
 ま、今なら海水中を浮遊、漂っている微小な砂の粒子が原因だ、と理解できる。
 で、その時に感じたのと同じ『ネチョネチョ』が両方の手の表面を粟立たせている。
非常に不快だった。そんな状態の手でモノに触れたらそのネチョネチョを伝染させてしまう事になる、それも不快感を覚える一因だった。だから、オレは激烈に後悔していた。
 こんな不浄な手でイトと手を繋ぐべきでは無かった。
とりあえずトイレに行くと言ってホテルのロビーに設置された洗面所に駆け込めば、オレの両手のネチョネチョは洗い流す事が出来る。が、しかしイトに何と言って彼女自身の手を洗う様に促したらいいのだろうか? 如何にしたらイトの気分を害しない様にそう仕向けられるのだろうか? 子供だから、そういう事をあまり気にしない筈だと思われるし。
 触ったモノをベタベタにしない様に手を洗おうね、なんて提案してみろ、
『私って、そんなに汚いのかな?』とか誤解されかねない。イトを傷付ける可能性がある行為は絶対に避けなければならない。だから、どういう対応を取ったら良いのだろうか?
 オレは、彼女と同じ年頃の時の自分を想い出し、泥だらけの手で三時のお八つを手掴みにしようとして母親に『手を洗いなさい』とヤンワリと叱られた場面を皮質上に再現した。
子供という時期にオレは『汚れ』とか『清潔』とかに非常に鈍感だった、と憶えている。
東京医科歯科大の藤田紘一郎名誉教授によると、適度に『汚い』環境下の方が子供は免疫機構を正常に構築できるのだそうだ。アレルギー抑制系の発達にはその方が良いとも言う。
もしかしたら子供達が『汚れ』に精神的に『強い』のは、生得的に備わった本質が免疫系を『正常』に発達させようと企図・遂行しているから、なのではないだろうか?
 アレ? 話が逸れかけてきている兆候をヒシヒシと感じる。
 だから、グイッと話を元に戻そう。
イトも子供なのだから当然、彼女も『汚れ』に鈍感であると考える方が理に適っている。
 だから、どうやって手を洗う事を促そうか?
どうすれば彼女の気持ちを損なう事なく、目的地に誘導できるのだろうか?
<連れションって成り行きも確率的に十分にあり得るぞ。嚆矢を射ってみろ>

なるほど、なかなか良い事を言う、ミスター客観!
 オレは試してみる事にした。
「ね、ココで待っててくれる? ちょっとトイレに行って来たいんだ」とイトに声を掛けた。
 すると彼女はその言葉を待っていたかのように、顔をピカッとさせながら、
「私もトイレに行く」と言った。
ラッキー!
連れション作戦、大成功!
 結衣のマナーに関する躾けは完璧に近いモノがあるから、イトが用を済ませた後で手を洗う事は必至だ。ま、用を足し終わる前に色々な個所を手で触る事になるけれど、それは楽々と無視可能な微々たる付随被害に過ぎない。オレは、
「じゃあ、イトちゃんが先だったら、トイレの前で待っててね」と男性用洗面所に向った。
「うん、判った」とイトは手を振った。
 望んだ通りの進行状況になりそうな雰囲気だった。
その事にオレは満足して、足取りも軽やかにトイレの門を潜った。

「ハヤミサオリです。よろしくお願い致します」
「六分儀です。こちらこそよろしくお願いします」
『ピンポンッ!』という軽やかなチャイムの音に反応して「ハーイ」と気の抜けた返事をしながら部屋の扉を開けると、そこにシュッとした女性の従業員さんが1人、立っていた。
 名札をチラッと確認したら『早見』とあった。これで苗字の漢字をどう綴るのか判った。
それで、名前の『サオリ』の方はどう綴る?
『沙織』? 『早織』? もしくは『紗織』?
ま、そんなトコに落ち着くのだろう、か。
 イトの温泉大浴場への入浴を介助(補助?)する為に差遣されて来たのが、早見さんだ。
早見サオリさんは薄い紺色をした半袖・七分丈の裾の作務衣に似た服でそのスラッとした肢体を覆っている。蜂蜜色をした手脚がとても伸びやかだ。
 身長はオレよりも2~3cm位は高そうな印象を受けた。
しかし視線の発信位置が非常に高く、当然の事ながらオレは彼女を見上げる格好になった。
顔の表面積が違い過ぎるコトから、起こる現象だ。オレの相貌よりも2回りほど小振りな顔をしている上、とても首が長いので、それだけ眼球が上部に位置する事になり、だから視線軸の位置が彼我の身長差から予想される箇所よりも大幅に高高度に存在しているのだ。
彼女は、何世代にも渡って飼い慣らされた結果、人間によく馴化したキツネの子供を連想させる非常に愛くるしい相貌をしていて、はしばみ色をした瞳が象徴的な心象として残る。
 彼女から受ける全体としての印象は、一瞥した時には『華奢な人だな』と思うだろうが、しばらく接している内に何故か知らねど、どういう訳だか力強さを感じられてくる。
早見さんが身体を動かす度に、半袖口から覗いている両腕に、丈夫そうで強靭そうな腱が透明感のある薄い皮膚を透過して見え隠れするから、かも知れない。
保育士という仕事は類型的な印象とはまるで違って相当な力仕事だ、という話を聞いた事がある。もしかしたら、きっとその時に鍛えられたのかも、とオレは推察した。
 年齢は20代前半に見受けられるが、オレの女性に対する、特に年齢に関しての鑑識眼のレベルは人類史上で最低クラスだから、この当て推量はおそらく間違っていると思う。
行ってても精々30前だとは思うけど。
ま、正直に言って、とても魅力的な女性では、ある。
初めて会った時と同じ様にイトは、今度は結衣ではなくオレの背後に隠れながら顔だけチョコンと出して早見さんを見詰めていた。自分にとって彼女が『良い人』なのか、それとも『悪い人』なのかを見極めようとしている雰囲気がイトの思念を発生源として漂い始めており、辺り一帯を濃厚に支配しつつある。改めて視認する必要もない位に明白な事だ。
この娘、やはり人見知りが激しいんだと再確認する事、だけはできた。
 ま、物を喰ったり、買ったりといった一過性の関係じゃなく、直截に表現すれば『裸の関係』を結ばなければならない人物となる訳だから、そりゃ真剣にもなるよね。
そう思い、確認の為にイトの相貌に一瞥を走らせると『この人、どういう人なんだろう?』という懸念を抱えているのが丸解りの表情を浮かべていた。やはり、思った通りだった。
さて、どうしたモノか?
そんなイトを安心させる為に、どういう振舞いを採れば最適解なのか、少しの間迷ったが、円滑な人間関係を確保する為には何はともあれ、とりあえずは挨拶だ、と判断して、彼女に早見さんに挨拶をする様に促す事にする。
「イト、早見さんにご挨拶なさい」と彼女の顔を見降ろしながら、言った。
 初めて(厳密に言うと2回目ではあるが)『ちゃん付け』省略で自分の名前を呼ばれて、イトは『エッ!』という軽い驚きの表情を浮かべたが、瞬時に『幸福』と『満足』が混交した微表情の群れがソレに取って代わった。オレは初めて『さん付け』無しで呼ばれた時の結衣の相貌の変化を想い出した。こういう所にも、遺伝子の力が及んでいるのだろうか?
女性は呼び捨てにされる事に『嬉しさ』を感じる生物なのだろうか?
<おい、個別の案件を『敷衍』して普遍化・一般化するんじゃない!>
 確かに、ミスター。その通りだ。
「...織...です。よろしくお願いします」
 手探りというか『オズオズ』とおっかなびっくりという感じでヒッソリと挨拶の言葉をイトは口に出した。早見さんはそのホッソリとした腰を屈め、しゃがみ込む様にしてイトと目線を合わせて、質問した。保育士資格を持つだけあってとても自然でフレンドリーな振舞いだった。どんなに固いガードでも即座に蕩かしてしまう様な接し方で、どんなに疑り深い人間においても猜疑心を一抹すらも抱かせる事ない、全く隙が伺えないモノだった。
「いと...ちゃん? どういう字を書くんだろう? もう漢字とか、判る?」
「はい」イトは返事を返し「織物の『織』って書きます」と説明した。
 凄い。
5歳なのに、チャンと説明できている。
やっぱ、オレの遺伝子、入ってないかもなぁ。早見さんは、そんなオレの心風景に構わず、
「じゃ、私と同じだ。私の『沙織』って名前は『サンズイ』...そうだな...点点点って、点みたいなものが3つ縦に並んでる横に『少ない』って書く漢字と、織ちゃんと同じ織物の『織』って書くの。でも、凄いね、5歳なのにもう自分の名前の漢字が判るんだね」と、
自分の手に『沙』と『織』を順番に綴って見せながら早見さんは、イトに微笑んだ。
 ビンゴッ!
やはり『沙織』だったか。
<イヤ、3つも候補を上げればドレか1つは当たるだろうよ>
沙保里、という可能性だってあった筈だぜ。
<レスリング選手以外、見た事ない綴り方だぞ。他の例、知ってるか?>
イヤ、知らん。
 イトが自分の周囲に張り巡らせた『懸念』とか『不審』と呼ばれる空気がサッと見事に打ち消されて払拭されているのを感知して、オレは驚いた。早見さん、流石にプロである。
そりゃ、泣きながら保育園に登園してくる幼児たちをあやす仕事に毎日精勤していただけの事はある。一人や二人といった些細な数では無かっただろうし。
 オレは身体をズラして自分の背後に隠れているイトを早見さんの方へ近付く様に促した。
チラッとオレの顔を見上げて、何かを確認したかのようにコクンと軽く1つ頷くと、早見さんの方にソロソロッと歩み寄った。
 早見さんは「ちょっと手を出してみて」と声を掛け、イトがソロッと右手を差し出すと「こういう風に書くんだよ、私の名前」と言いながら、手の平の上に人差し指で『沙・織』と一文字ずつ、綴った。掌の上を早見さんの指先がクルクルとなぞる様に動くのが幾分かこそばゆいのか、イトは恥ずかしそうな照れ笑い(?)を浮かべながらも興味津々という態度で『沙』と『織』という文字を自分のモノにしようとしていた。(ように見えた)
<漢字に関すれば『沙』はともかく『織』はイトにとって既に自家薬籠中のモノだろ?>
 彼女の学習意欲が凄い、ってことを表現したいだけなんだよ、ミスター。
細かい事は放っておいてくれないか?
 人間関係をより強固なモノにするオキシトシン、別名『絆ホルモン』は女性同士の間においてはただ単にお喋りをするだけでその分泌量がお互いに増加するのに対して、男性の場合には相手との『スキンシップ』がその分泌量増大化に必要とされるらしい。
だが女性の場合でもまた『真』なのだろうか?
オレの背後にカクレウオの様にイトが隠れていた時と比べて、触れ合った後、といってもお互いの手だけだが、彼女達2人の間に安座する空気が前より暖かくより親和的なモノに変化しているという事実を、そこはかとなく感じ取れる。我々の親戚筋である所の『霊長類』の動物たちの間でもグルーミングに代表される『スキンシップ』は集団内の緊張緩和や個体間の親和性の増大に多大なる貢献をしているというからソレはそうなのかも知れん。
 イトと早見さんが顔を見合わせて、笑い合っている。
シュッシュッと早見さんの人差し指が手の平の上を滑る度にイトが浮かべる『はにかみ』と形容できる表情・姿態が、彼女が大分早見さんに打ち解けてきた事をオレに告げている。
早見さんの細く長い指の甲側の蜂蜜色と掌側の真白色との対照性がとても際立っていて、その実(蜂蜜色)と虚(真白色)の皮膜、間の部分に非常に官能的な印象を覚えた。
<お前、それは些か変態チックに響くぞ。っつーよりもマニアック過ぎないか?>
 だって、仕方無いじゃないか。早見さんの指、かなり魅力的なんだもん。
<指だけ、じゃないだろ?>
 ミスターの鋭敏で的確な指摘は無視することにして、早見さんに声を掛けた。
「じゃ、早見さん。イトの事をよろしくお願いします」
「承知しました」早見さんはイトの手を握って「さ、行こっか?」と声を掛けた。
 イトは早見さんの顔を見上げて素直にコクンと頷いた。
オイオイ、イトさんよ、早見さんに馴れるのがちょっと早過ぎやしないか?
オレの場合と全然、違うじゃねェか。
相手が女性だとはいえ、相当な具合で中間的要素の大部分を端折ってないか?!?
<細かいことで嫉妬すんなって。早見さんが発散する魅力にヤラれてんだよ>
魅力、ねぇ。
ま、数多の保育園児を魅了して来ている実績は想像するに難くないので、イトの人見知りがいくら激しくとも、彼女を籠絡するのはそれほど困難な事業ではないだろうけども。
だから、オレはこの現況をもたらしたのは、経験の差であると主張したい。
その職業的経験の違いに加えて、指だけじゃない、早見さんが有する、その蠱惑的である本質もイトをたらし込む事を可能にする一因なんだろう、とオレは推察する。
<そういう事になるのかも知れんな>
『たらし込む』より『たぶらかす』の方がより穏当で適合な表現法になるのだろうか?
<どちらにも『騙す』という要素が含まれているから、そこら辺どうでも良いんじゃ?>
 イトと連れだって大浴場へと向って歩みを進める早見さんの後姿を、油断するとスグに閉まろうとする部屋の扉を押さえながら、見送っていた。彼女の形の良いおケツが身体の動きに合わせて半拍遅れで同調しながら連動している様相は、とても魅惑的と眼に映った。
<あぁ、なるほど。解った。お前さんとイト、親子で彼女にメロメロって訳だ>
『メロメロ』って言葉は適切な選択肢ではないと思うが。
ま、性格とか遺伝的背景とかが、オレやイトに適合している人物みたいに感じているだけだよ。それに、イトにオレの遺伝子の力が及んでいるかは、まったく五里霧中の案件だぞ。
<そうだな>
ま、そこら辺は、今はいっか。
確かに早見さんのおケツは一見に値するし。
<お前、意外とおケツ好きだな。脚フェチじゃなかったっけ?>
脚とおケツの間に明瞭な分水嶺線とか引かれているか?
<形の良いおケツは脚から独立排除的、イヤ、独立峰的に存在している様にも映るけど>
膨らみが2つ連なっているから独立峰じゃなくて連山系だよ。
大体おケツってヤツはだな、そこに続く脚が無かったら、おケツ自体に意味なんかないぜ。その2つは分割不可能、不可分な存在なんだよ、オレにとって。
<早見さん、結衣の脚やおケツよりも、魅力的か?>
...
<もう、ワザワザ発話しなくても、良い。既に、お前は返答し終えているから>
...
 手を繋いで階下の大浴場へと向う2人の後背を見送りながら、オレはチョットした幸福感に包まれていた。早見さんを見上げてイトが何か喋り掛けている様子が見える。一頻りの質問タイムが過ぎると、早見さんが何事かを返す様にイトに喋り掛けていた。
 何か、2人からとても良い雰囲気が醸し出されているのが、容易に窺える。
 初めてイトが、そこらに遍在している、普通の幸せそうな子供に見えた。
本当に、良かった。
イトが幸せなら、オレも幸せを感じる、それを改めて再認識した瞬間だった。

はじめは『ハヤミさん』って、ゆってた。
そしたらハヤミさんが「サオリって、よんで」って、ゆったから、
『サヲリさん』ってよぶコトにした。
サヲリさんとローカをあるいてった。
カドをまがって、エレベーターってゆう、ちいさなヘヤに2りで、はいった。
ママやパパ、じゃない、ケンゴくんとイッショのトキもそうだけど、
ウエやシタのトコロへゆくトキ、エレベーターってヘヤにはいる。
そうすると、ジドーでシタやウエにゆく。
あるかなくても、カッテにゆくのが、とってもフシギ。
カイダンのぼらなくてイイから、ラクだけど。
ちいさなヘヤに、はいると、
スルーってカンジで、トビラがミギとヒダリのリョーホーから、シマッた。
ハヤミ...サヲリさんがボタンをポチッとすると、ゴトンって音がして、
エレベーターがうごきはじめた。
「キョウ、オンナぶろは2かいの『エンシューえまきのユ』なんだよ。
むかし、リョーシさんがリョーにホントにつかってたタキヤぶねっておフネを、おフロにカイゾーしたロテンぶろがあるんだ。よかったねー」ってサヲリさんが、ゆった。それで、
「タキヤぶねって、ね、おフネのウエで『かがりび』をたいて、サカナやカニをとったりしたおフネなんだよ。『かがりび』って、イトちゃん、わかるかな?」
ウウンってクビをふったら、サヲリさんが、
「そうだな...『たきび』ってわかる?
んー、しらないか。
マキとかスミとかも、ナンだかわからないかなぁ?」
「スミ、しってる」って、ゆったら、サヲリさんは、
「えぇ! よくしってるねぇ!?!」って、おどろいたカオをした。
「ヒロオのおジイサマとおバアサマのトコにいたときに、みた」
「へぇ、シチリンとかあったのかな?」
ううん、シチリンってしらない、ってクビをふって、
「おショーガツに、ちかくのジンジャで『どんどヤキ』ってあったから」
「えぇ? 『どんどヤキ』しってるの?」
コクンってして、
「おバアサマが、おモチをくださって、
『どんどヤキ』でヤイてたら、マックロになっちゃった。
そしたら、おジイサマが『スミになっちゃったね』って、わらって、
たべたら、にがかった」って、サヲリさんにゆった。
「えッ?!? たべちゃったの?」
コクンってして、「でも、ママに『たべちゃダメでしょ』ってゆわれた」
「そりゃ、そうだ」ってサヲリさんは、ニコッとした。サヲリさんがハナシをする。
「そっか、織ちゃんは『どんどヤキ』しってるんだ。じゃ、ハナシがはやいね。
その『どんどヤキ』みたいなヤツ、そのちいさいヤツを『かがりび』ってゆうの。
『ひ』って、わかるかな?
そう、オリョーリとかにツカう『ひ』
こうカクんだよ」ってサヲリさんは、ゆってワタシのテのひらで、モゾモゾっとした。
サヲリさんのユビがうごくたびに、チョットくすぐったい。
でも、へぇ、『ひ』って『火』ってかくんだ。
火よーびの『火』とおなじだ。
うん?
『火』って『もえる』ってコトだよね。
火よーびって、もえるのかな?
うーん、
ま、いっか。
サヲリさんは、ゆう。
「その『かがり火』をおフネのウエでたいて...火をつけて、おサカナさんやカニさん、エビさんをよんできて、とっちゃうの。そうゆうリョーなんだよ。
それを『たきやリョー』ってゆうんだけど、
そのリョーにつかうおフネをおフロにしてあるんだ。
ろてんブロだから、おソトがみえて、とってもキモチいいよ」
ろてん、ってナニ?
そうゆったら、サヲリさんが「おフロがね、おソトにあるの」ってゆったから、
ワタシ、おどろいた。
おソトにあるなら、ハダカ、まるミエじゃん。
そう、おもってたらサヲリさんは、
「だいじょぶ。ホカからみえないから」ってワラッた。
みえないなら、いいけど。
サヲリさんは、とってもオシャベリなヒトだった。
こんなによくオシャベリするヒト、ウマれてはじめてだったから、ちょっとビックリ。
ママは、あんまりオシャベリじゃない。
マチダのパパは、どうだったか、よくオボエてないや。
でも、オシャベリじゃなかったようなカンジがしてる。
ママのオトコたちは、どーでもイイ。
あんなヤツら、ホントにどーでも、イイ。
オシャベリでも、シャベらなくても、どーでも、イイ。
いきてても、しんでても、ドッチでも、イイ。
カンケーない。
あ、オシャベリじゃないけど、ママはパパ、じゃなくてケンゴくんとイッショだと、
ケンゴくんのコトだと、とってもオシャベリになる。
うれしそうにイロんなコトをオシャベリする、ようになる。
たぶん、ケンゴくんがスキだから、だ。
だから、ナンでケンゴくんと『バイバイ』したんだろ?
ワタシには、ナンでなのか、よくわからない。
パパ...ケンゴくんは、オシャベリがいるトキは、チャンとオシャベリするけど、
いつもはニコニコしてるだけ、イラナイことはゆわない。
ケンゴくんは、あんまりオシャベリじゃない。
でも、ソレはイヤなコトじゃない。
オシャベリしなくても、ナンかいいカンジのカンジになるから、いいカンジ。
あれ?
ナンか、『カンジ』がおおいカンジがする。

2かいのデッカイおふろについた。
アカイぬのがピラピラってしてるトコを、サヲリさんと2りで、はいった。
なんか、いいニオイがする。
そうゆうと、サヲリさんが「キのかおりだよ」ってゆった。
キのかおり、ってなんだろ?
キって、あのキだよね。
マチダのアパートにも、キとかあるけど、そんなにニオイしないんだけど...
「さ、おフロにはいろ」ってサヲリさんは、ゆって「織ちゃんはジブンでぬげるかな?」ってゆったから「ウン」ってコクンした。
いつもシャワーするみたいに、ジブンでフクをヌギヌギした。
サヲリさんが「ここにいれてね」ってゆったハコ(?)に、ヌギヌギしたフクをいれた。
ひらべったいヒモをグルグルっとしてできたカンジのハコ(?)だったので、
「これ、なんてナマエなんですか?」って、きいてみた。
そしたら、サヲリさんは「トウってキでできたトウカゴ...『カゴ』だよ」ってゆった。
カゴ、か。
おぼえとこうっと。
「はい」ってサヲリさんがタオルをくれたから「ありがとうございます」ってゆった。
ママじゃない、ほかのオンナのヒトのはだかをみたの、はじめてだった。
サヲリさんのハダカは、とってもキレイだった。
日よーびに、ときどきアパートのちかくの『コメダ』にママといく。
そこにいくと、ワタシはいつも『ホットケーキ』をたべるけど、
ついてくるメープルシロップがとってもスキ。
サヲリさんは、メープルシロップみたいなイロをしてて、とってもステキ。
それになんか、カッコいいカンジがする。
でも、チョットはずかしいって、おもっちゃった。
だからクルッてうしろをむいちゃった。
そしたら、それまでのカンジと、サヲリさんのコエがかわったカンジがした。
なんか、沙織さんってカンジになった。
「織ちゃん、こたえたくなかったら、こたえなくてもイイんだけど…」
沙織さん、それまではカラッとしてて、きいててキモチいいコエだったんだけど、
ワタシが、うしろをむいて、セナカをみせたら、
イマは、カピカピってカンジの、キンキンしたコエになっちゃってる。
沙織さん、やさしいカンジでゆおうとしてるのは、わかるんだけど、
だから、ホントがわかっちゃう。
とってもコワいカンジで、ゆってるのが、わかっちゃう。
ワタシは、だから『ん?』っておもって、沙織さんの方をむいた。
「織ちゃんのセナカにあるのって、それって『アザ』だよね?」って沙織さんがゆった。
沙織さんは、やさしくワラいながら、ものすごくコワいカオをしてた。

『アッ!』って、おもった。
2ばんめのオトコにケラれたあと、ママとイッショにおイシャさんにいった。
キューキューシャに、はじめてのった。
ピーポーピーポーってズーッと、なってた。
ピーポーピーポーって音が、ナンかおもしろくて、わらいそうになっちゃったけど、
ママが、ホントにないてたから、わらうの、ガマンした。
おイシャさんは、おじいさんだった。
まゆげがしろくて、ながかった。
目が『へ』のジみたいなカタチ、してた。
おイシャさんは、ワタシのまぶたをベローンってしたり、
『シタをだしてみて』って、ゆったり、
ヒダリのテ、3ぼん、ユビをたてて『ナンぼんあるか、ワカルかな?』とかゆったりした。
ピンクいろのフクのおねーさんが、ワタシをちがうヘヤにつれてった。
そのあと、ワタシ1りで、シロくておっきいキカイのナカに、はいったり、した。
キカイのナカでは『ドーン、ドーン、ドーン』っておっきな音がズッとなってた。
けっこうナガイあいだ、キカイのナカにいた。
『ドーン、ドーン、ドーン』って音がしなくなったら、ピンクのおねーさんが、
『ハイ、オツカレさまでした』って、ゆって、キカイからだしてくれた。
おねーさんとテをつないで、ママのトコロに、もどった。
おジイサンのおイシャさんは、ズッとないてるママに、やさしいコエでナンかゆってた。
『セナカの...』とか『アザは...』とか『ハントシかかる』とか。
おイシャさんから、かえるトキに、タクシーでかえるトキに、ママが、
『ゴメンね、織。イタかったでしょ?』って、なきながら、ゆって、
『でも、イノチにベツジョウは、ないって』って、なきながら、ゆった。
ベツジョウってなんだろ? っておもった。
だから『ベツジョウって、ナニ?』って、ママにきいたら、
『しんじゃうコトは、ないって』って、なきながら、ゆった。
そっか、ワタシ、だいじょぶなんだ、っておもって、チョットあんしんした。
『でも、アザがきえるのに、ハントシくらいかかるって』って、ママがゆった。
アザって、ナンだろ? っておもったから、
『アザって、なに?』って、きいたら、
ママは『ケラれたアト。ケラれたアトが、きえるのにハントシかかるって』って、ゆった。
ハントシって?
『ハントシって、1月が6こぶんだよ』って、ママがおしえてくれた。
ヒト月が6個か、ながいな、ハントシって。
でも、ハナゴエだったから、ママのゆってるコトをきくの、けっこータイヘンだった。

そっか、セナカに、まだアトがあるんだ。
それで、きっと沙織さんは、ケンゴくんがケッたんじゃないかって、おもってるんだ。
ちがう!
ケンゴくんじゃない!
ケンゴくんが、したんじゃない!
ケンゴくんじゃない!
でも、どうやって、ゆえばイイ?
なんてゆったら、沙織さんがわかる?
ケンゴくんじゃないって、わかる?
どう、ゆえばイイのか、わからない。
どうしよう?

レイなら、おしえてくれたかも、
どうすればいいのか、おしえてくれたと、おもう。
でも、レイはもういない。
どうしよう?

アパートのまどから月のひかりがはいってくる。
レイのほっぺを、アオジロくしてる。
「ねぇ、しってる?」って、レイがゆった。
なんのコトか、まだ、ゆわれてないのに、
ワタシは「しらない」ってレイにゆった。
レイは、カプカプわらいながら、
「織、まだナニもいってないよ」って、ゆう。
「なんのコト?」って、きいたら、レイが、
「ヒトはね、マイニチマイニチ、いつも『ウソ』をついてるんだよ」って、ゆった。
「ウソ? ってナニ?」って、ワタシはきいた。
「ホントのコトをいわないで、ホントとちがうコトをいうこと」って、レイがゆった。
「ホントのコトじゃない、こと、を、ゆうんだ」
「そう。織も、もうじき『ウソ』をつけるようになるんだよ」
「それって、イイことなの?」
「ウソをつくのって、とってもメンドくさいことなんだ。だから、コドモにはムリなんだ」
「ワタシ、もうコドモじゃないよ」
「キミは、まだコドモだよ。でも、もうすぐコドモじゃなくなる」
「そしたら...」
「そしたら、織、キミはウソがつけるようになるんだよ」
「でも、ソレってイイことなの?」
「あのね、いろんなコトをするのに『ウソ』がヒツヨウになるコトがあるんだ」
「よく、わかんない」
「2つ、ウソには2つあるんだ」
「2つ?」
「そう、2つ。1つ目は『やさしいウソ』で、2つ目が『きれいなウソ』なんだ」
『やさしいウソ』と『きれいなウソ』か。
レイは、ワタシの瞳をジッとみつめながら、ゆう。
「ウソって『クチ』に『キョ』ってかくんだ」そうゆいながら、レイはワタシのヒダリのテのひらに『口』ってモジと『虚』ってモジをモゾモゾっと、かいた。
「ウソって『嘘』ってかくんだ」って、ワタシがゆうと、レイは、
「そう。『虚』ってカラッポってイミなんだ。カラッポのコトを『口』にするから『嘘』さ。
1つ目の『やさしい嘘』は、ホカのヒトのことをおもって口にする『嘘』
マワリのヒトたちをキズつけないようにするための『嘘』なんだ」って、ゆった。
「マワリのヒトをキズつけないための、嘘」レイのゆったコトを、もっぺんゆってみた。
「そう。もう1つの、2つ目の嘘『きれいな嘘』は、ジブンのことをダイジにするための『嘘』だよ。自分をキズつけないようにするための『嘘』さ」
「それって、チガウんだね、ぜんぜん」
「そうだよ。もし、織がダレかをまもってあげたいとココロからおもったトキには、
『やさしい嘘』を、つかなくちゃいけないかもしれない」
「嘘って、ホントのコトじゃ、ないんだよね?」って、ワタシがきくと、レイは、
「そうだよ。ニセモノのことだよ」って、ゆった。
「じゃ、アンマリ、ゆいたくないな」
「じゃ、いわなきゃイイ」
「でも、ダレかをまもりたいトキには『やさしい嘘』をつかなきゃいけないんでしょ?」
「それよりも、イチバンつよくて、いちばんスゴイやり方があるよ」
「どうすればイイの?」
「ショージキに、ホントのコトだけを、いえばイイ」
「ショージキに、ホントのコトを、ゆう?」
「そう、ショージキにホントのコトだけを、いうんだ。
ホントのコトは『嘘』なんかよりも、ズッとつよいよ。
このセカイでイチバンつよいやり方。
ホントのコトをいっちゃうと『嘘』の方ってメチャメチャかるくてペラペラだから、
ピューって、ドッカにとんでいって、きえてしまうんだよ。
ホントのコトって、とってもオモタイんだ。
でも、キをつけないといけないコトがある。
ホントのコトって、ものすごくツヨいから、
とっても、とってもオモタイから、
チャンと、ウマくいわないとキミのマワリのヒトたちをキズつけちゃうんだ。
『きれいな嘘』みたいに、ね。
だから、ホントのコトをいうトキは、くれぐれもシンチョウにしなきゃいけないよ。
織が、ホントにダイジだ、とおもってるコト。
ゼッタイにまもりたいヒトやモノ。
そういうコトだけ、そういうトキにだけ、つかうやり方だよ。
どれがダイジなコトなのか、ダレがゼッタイにまもりたいヒトなのか、
チャンと、みわけないといけないよ。
でも、織ならウマくやれると、おもう」
そうゆって、レイはまたカプカプって、わらった。

そうだ、ショージキにホントのコトを、ケンゴくんとのコトを沙織さんにゆおう、
レイに、おしえてもらったように。
もう、レイはいないんだ。
だから、ケンゴくんはワタシがまもらないと。
キノウのヨル、ピザをたべてるトキに、ママがゆった、
『ケンゴはメチャメチャつよいけど、ホントに嘘っていうくらいヨワイから』って。
ママのゆってること、ぜんぜんイミがわからないけど、
ケンゴくんがヨワイなら、ワタシがナンとかしなきゃ。
だから、
あのヒトは、ワタシが、まもる。

「チガウよ、沙織さん」ってワタシはゆった。
「ナニがチガウの?」って沙織さんがきいてきた。
「これって、ワタシをケッたのって、パパ...ケンゴくんじゃない」
「パパ、じゃないのね」
「ケンゴくんじゃ、ない。
パパ...ケンゴくんとあったのって...3日まえだもん。
だって、ケンゴくんとはじめてあったの、3日まえ、だから」
「パパ...じゃなくて、ケンゴくんとあったのは、3日まえがはじめてなのね?」
ワタシはコクンってした。
「それまで、ホントのパパがいるって、ワタシ、しらなかったし」
「ほんとうの、パパ...」沙織さんが、ちっちゃなコエでゆった。
「ケンゴくんは、ホントのパパだからかも、しれないけど、だから、とってもヤサシイ。
ワタシのコトを、ホントにタイセツにしてくれる。
ナニかあっても、おっきなコエとか、だしたりしないし、
ってゆうか、アンマリしゃべんないけど。
ママが、ワタシを1りきりコンビニのまえにポイッてしたトキは、ママにおこってたけど。
ケンゴくん、いつもニカニカわらってるし、
ってゆうか、ワラッてるトコしか、みたことないけど。
あ、クルマをウンテンしてるトキは、カッコいいカオしてる。
ときどき、ボーっとしちゃうけど。
でも、ウンテンしてるトキは、ビシッとしてるし、ちょーイケてる。
ワタシ、コドモだけど、
でも、ワタシのコトをチャンとカンガエてくれてるのがわかるし。
ママとはゼンゼンちがう。
ケンゴくんは、ワタシのコトをチャンとみててくれる。
ホントに、ケンゴくんはママとちがって、チャンとしててくれるの」
沙織さんは、コクンって1つしてから、
「わかった。ケンゴくんは、ちがうんだね。
パパが...ケンゴくんがしたんじゃないんだ。
織ちゃんのパパをみれば、ソレはナンとなく、そうなのがわかる。
ワタシも、ホイクシしてたトキにイロイロなママやパパをみてたから、織ちゃんのパパが...ケンゴくんが、とってもやさしいヒトだってのは、わかるよ。
だから、ソレをしたのが、ケンゴくんじゃないのはわかった。
でも、じゃあ、ダレ?」って、きいてきた。だから、ワタシはショージキにゆった。
「オトコ。ママの、2ばんめのオトコ」

 今日の男風呂は3階の『大正ロマンの湯』という名の大浴場の方だそうだ。
オレとしては女風呂として設定されている2階の『遠州絵巻の湯』の方に心惹かれるモノがあったのだが、本日の設定が既にそうなっているのだから、その厳然たる事実の前では一般宿泊客一個人の力では如何ともし難い。どうやったって引っ繰り返せっこない。
 昨日や明日ならこの設定がテレコになっているので、ま、タイミングの妙なるかな、だ。
今日という日が前後一日どちらかにズレてさえいれば、2階の大浴場は男専用だったのに。
こういうのを『マーフィーの法則』と呼ぶのだろうか?
今頃、イトや早見さんが『うあぁー』という雄叫びを上げながら入浴している筈の2階の大浴場には合計で7つの内湯があり、その昔『タキヤ漁』という伝統の漁法に使用された木造船で『タキヤ船』と呼ばれているらしいその船を丸のまま『湯船』として再利用したという舟形風呂が露天風呂として設置されているそうだ。
これは非常に興味をそそられる意匠だ。
 ホテルの受付で貰ったパンフレットによると『タキヤ漁』というのは昔ながらの漁法で、今現在も現役の漁として残っているのはここ浜名湖だけだそうだ。語源は『たき火や漁』でまさにその字の如く『篝火(かがりび)』を焚いて海(湖)の中を照らし、水中を泳いでいる魚やカニ・エビなどをヤスやモリで突いて獲る漁だそうだ。エビやカニは夜行性なので夜間が漁獲時機であるし、陽が暮れた後は昼行性の魚類などは動きが鈍くなるので漁猟の絶好機となるらしい。ま、現在は松明を燃やす代わりにLEDのライトを獲物の探索の為に直接水中に沈めるという。コレは昨今の照明事情からすれば、当たり前の話だな。
漁のシーズンは5月から9月末とあるから、今期はもう終了している。漁獲できるのはセイゴやマダカ(スズキの幼魚と若魚:マダカは遠州地方の方言で『まだか? まだスズキと呼べる大きさまで成長してないか?』という所から来ているそうだ)・チヌ(クロダイ)・キビレ(キチヌ)・コウイカ・マゴチ・サヨリ・クルマエビ・タイワンガザミなど。
 ドレもコレも相当に美味そうである。
特に泳ぐカニである『ガザミ』の名前は美味そうに響く。味噌汁とかは風味絶佳だろうな。
 いや、そうじゃなくて、だ。
 話が逸れてしまった。
喰い物の話となるとつい我を忘れてしまう、オレの悪い癖が出てしまった。
 天然温泉の露天風呂の浴槽がその昔、実際に漁業に使用されていた船をリサイクルしたモノって、本当に面白いよね、って話だった。温泉の湯船が実際の『船』だなんて洒落が利いてるぜ、全く。この眼にシッカリと焼き付けておきたくなるのは必定じゃないか。
 違うかな?
その『タキヤ船』とやらを湯船としてそのまま使用した露天温泉に浸かりながらボーッと眺める夜の浜名湖は非常に素敵だろうと容易に想像できる。
チョロッと空想しただけでも、とっても魅力的だ。
浜名湖を横切って刷新され、鮮烈さを取り戻した空気に上半身を洗われて、時の経過も忘れてしまい、十分以上に長らく温泉に浸かっていれば逆上せ気味になるだろう。そんな時には積年の酷使に耐えて角がスッカリ丸みを帯びた船縁に腰を掛けて、身体の火照りを取りながら、戸張が降りるに連れて光彩豊かな夕景から深沈とした夜景へと変化して行く、そんな眼前に拡がる風景をただ茫洋と望む。想像するだけでも非常に魅惑的な情景である。
しかしながら、その桃源郷は現在の所、Y性染色体のキャリアが脚を踏み入れる事を絶対に許されない禁断の地である。だが『駄目だ』と禁止されればされるほど、余計に想いが募ってしまうのは、人間の性質として洋の東西を問わない。ロミオとジュリエットの2人も双方の親達から『良い良い。出自には構わず若い者同士で万事よろしくやりなさい』と呆気なく許されていたら、アレ程にまで彼等の恋心が燃え盛る事は遂に無かったろうよ。
 何たってオレにとって『タキヤ船』の露天風呂に浸かれるチャンスは今日一日だけなのだから、一目ですらも『観る事が叶わない』という厳然たる現実が返って逆効果的に焦心を駆り立てて、オレはいても立ってもいられなくなってしまった。
『今まで歩んできた人生の中で巡り合った風呂、その全てよりも超絶的に素晴らしい露天風呂が自分の手の届く範囲にある』
 そんな風に想像にドライブが掛かって妄想へと膨らんでいき、空恐ろしい程の蠱惑性を含む様になってしまう。出奔した悍馬の如く疾走を始めた妄想が暴走して膨張を続けて、遂には弾けて割れた思惟がオレの両足を無思慮にも2階の女風呂に向かわせようとする。
<おいおい、裸の男がウロウロ闖入していったら『遠州絵巻の湯』は蜂の巣を突いた様な大騒ぎになる事、間違い無しだぞ?>
それもそうだな。
あ、じゃあ、目の不自由な人を装ってフラフラと侵入して行くってのは、どうだろう?
<ダメに決まってるだろ? 何を考えているんだ、お前は?>
そうだよね、仕方無いな。
『タキヤ船』の露天風呂は諦めるとするか。
しかし、何とも残念だ。
胸襟の内にうずたかく積もった心残りの量が半端ない。だから、頭を冷やす為に一旦建物の外へ出て、ホテルの1階部分に設置された駐車場に停車してあるR32をチェックする事にした。

 どうやら季節は抜き足差し足ですぐ傍まで忍び寄っていたようだ。
西に位置する山々の彼方に夕陽が釣瓶の様に落ちるや否や空気が急速に冷えを増してくるのを皮膚を通して感じた。色無き風がシャツの細い糸のコットン生地を貫いて侵入する。涼しいというよりも『寒い』と形容した方がより正確な感じがしないでもない。ただ強い風ではなく優しく肌を撫でるような微風だったから、それほど不快と感じる事は無かった。
というよりも清清とした凄凄、つまり涼風(すずかぜ)に吹かれて、大変に心地良い。
ま、気持ちの良い『寒さ』というヤツだ。
昼間はヤル気のある太陽の熱気にジリジリと焦がされるので、まだまだ夏が続いている様にも錯覚させられるが、気付かぬ内に地球はニュートン力学に則って公転軌道を粛々と進み、季節は着実に秋の深部へと移行しつつある事を改めて思い知らされた。
 冷気が、妄想で膨脹して熱を帯びている自己意識を良い具合にクールダウンしてくれる。
一風変わった湯船を体験する為だけに女風呂へ侵入しようとする、その様な常軌を逸した行為を妄想とはいえ考察対象に上げてしまうという愚かな自分を顧みて反省するのには、非常に適切な環境条件を、浜名湖の自然が与えてくれた。
 オレは手に持っていた特殊な鏡を展開・伸長した。
それは手鏡にテレスコピック式のポインター(指し棒)を結合させた様な格好をしている。
その先端の『手鏡』部分をR32の床下へと差し入れて機体の底部を隈無くチェックした。照度はバッチリのLEDが機体床部に隠された暗部を隅々まで照らし出す。整流効果を期待して取り付けてあるCFRP(精確に言うとタフポリマー)製のスキッドプレートが底部のほぼ全体を覆っているので主要機器であるトランスミッションやプロペラシャフト自体は視認しづらいのだが、どうやらGPS発信機の様な怪しげな機器は取り付けられていない事だけは何とか確認できて、ホッと胸を撫で下ろした。(注1)
イシガメヘビ野郎の姿を再び見掛ける事は無かったのだから、こちらの位置取得の為にR32にGPS機器を取り付ける隙などあり得ないと判ってはいたが、念押しの確認作業だ。
自分でも『超』が付く位の心配性だと思うが、こういう事に関しては念には念を入れても何も実害はない。コレをする事で自分の眼で直接確認でき、結果として精神状態の平穏も得られるし、な。
ま、一種のおまじない、心の安定剤に過ぎないが、とても有用な作業でもある。
 ん?
鏡を使うなんて、何か『原始的』に響く、だって?
確かにプレートにイメージセンサーを装備させておけば、鏡を覗き込む為に腰を中途半端に屈めるという無理な姿勢を取らずに済む。モニターで確認すりゃ良いだけだから、な。
でも、タイヤが弾き跳ばす小石はセンサーを破損させ得るし、飛び散る泥はセンシングの精度を低めてしまう。だからパット見は原始的に映ったとしても、返って鏡の方が合理的なのだよ。ま、厳密に言うと精緻で高価なソニー製のイメージセンサーをギアやシャフトなどの主要機器を常時監視する為にトレイの内側に10個ほど設置してあるけど、ね。
オレは検査結果に満足して屈めた腰を伸ばし、米軍がイラクやアフガンで使用しているのと瓜二つの伸縮自在の棒を取り付けたLEDライト付きの鏡の照明を消してから、サクッと折り畳んで格納し、おケツのポケットに収納した。
直後、身体へ覆い被さる様に降りてきた暗闇に平衡感覚を奪われて、少し眩暈を覚えた。
慌てて眩惑を振り払おうとして、煌びやかな色彩の喧噪が終末を迎えて足早に縹色一色に染まりつつある蒼穹を仰ぎ見る。呼吸を心持ち深めに摂るように息遣いを調整した。
極端な明暗の差にオレの三半規管は常に脆弱性を示す。そこに立ち眩みも加わったからだろうか、ヴァーティゴ(virtigo:空間識失調:平衡感覚を失って上下左右が解らなくなること)にも似た現象が起こってしまったのだろう。
この身体に生得的に備わった神経系の欠陥である。
強力なLEDの明度と優秀な特殊部隊員の様に周辺に忍び寄ってきていた陰翳との落差は、オレの身体をふら付かせるのに十分以上の効力を持ち合わせていた。
だから、感覚器官の揺動を落ち着かせるのに数秒ほど掛かった。
 ふう。
色々と厄介で面倒臭いな、この身体は。
オレは溜息を1つ吐いてからかぶりを振って、Y性染色体保持者専用に指定された3階の大浴場に向う事にした。
初秋の宵が暮れかけていた。
完全に真っ暗になった訳でもなく、だから足許が不自由になる事もない。
しかし空は縹色から濃い群青色へと変わりつつあり、その色が冷たい大気に浸透して行く様な印象を受けた。この黄昏と呼ばれる時間帯は時に人間を非常に感傷的にさせる効能を発揮するが、それは周囲の空気の色が深藍(こきあい)に染め上げられる事に起因するのかも知れない、と別に思わなくてイイことを、考えていたりした。
おっと、部屋にいったん戻って浴衣と替えの下着を取ってこないといけない、な。
風呂上りに一糸纏わぬ素っ裸でホテルの廊下を闊歩していたら警察に通報されかねないし。
公共の場で衣服を着用するってのは、文明人としての最低限のマナーな訳で、人品賤しいとはいえ、幾ら何でもそれ位は実践しておかないと、イトにも示しがつかないから、な。
<粗にして野だが卑ではないって、誰の言葉だったっけ?> (注2)
知らん。
きっと誰か、偉いさんだろ?
という訳で、目的地を9階の部屋に再設定し、エレベーターのコンソールパネルにある『9』と印字されたボタンをポチッと押した。

 オレは3階の大浴場から部屋に戻って1人で白湯を飲んでいた。
別にお茶を淹れて喫んでも全然構わないのだが、自分だけでその行為をしてしまうとイトを差し置いて何か1人だけ抜け駆けをしている感覚を拭い切る事が出来なくなるとの予感がして仕方がなかったから、白湯を飲むだけに止めて置いた。
ま、口寂さを誤魔化す為だから、飲用可能なら何でも良かったのだ。
オレは、部屋に置かれていた一棹の小型タンスの中に用意されていた二枚の内、大人用浴衣を身に付けていた。
別に寒くはないのだが、これも用意された羽織(のような物)をその上から羽織っていた。
 浴衣と羽織にはホテルの名前が染め抜かれている。
最初にお世話をしてくれた仲居さんによると、この浴衣は遠州名産の『注染』という技法で染められた浴衣だそうだ。
『ここ、遠州地方は水と風に恵まれておりまして注染そめに最適な環境なのでそうでして。
明治20年代頃から現在まで脈々と受け継がれております、伝統的な染色法でごさいます。
なんですか、繊維の一本一本を染める注染は、生地が本来持っている伸び縮み具合を損なうことが無いそうで、それで柔らかく優しい感触、風合いを生むのだそうでございます。
あと、「ぼかし」と呼ばれます独特な表現方法がございまして、それがとても趣きの深い柄を醸し出しているのだとか』と仲居さんは手の甲で口許を隠しながら、微笑んだ。(注3)
 オレは白湯をもう一口含み、舌の上を酒のように転がした後、ユックリ飲み下した。
<白湯で噎せる(む・せる)と、ホントに見っとも無いもんな>
その通り、ミスター。
噎せる原因の多くはモノを飲み下すという行為に起因する。
飲み下さなければいけないモノが食べ物だろうが、想定外の事象だろうが、同様だ。
慌てての一気飲みは忌避事項だと、ジイちゃんに教え込まれている、骨の髄まで。
 ま、なんだ。
今夜の男性専用に設定された3階の大浴場『大正ロマンの湯』もそれなりに良かった。
開放感を覚える広々とした空間を様々なステンドグラスの一群が修飾していて、大浴場という非日常の世界に相応しい豊かな彩りを装備させる事により『晴の日』としての特別性を的確に演出できていた。湯船が漁船でない事を除けば何の不満も無い、素晴らしい夜の浜名湖の眺望を縦覧できる露天風呂も備えられていたし、な。
 だから、オレは非常に満足していた。
ま、未だに『タキヤ船』に相当な量の後ろ髪を引かれているんではあるんだけど。
体験したかったなぁ、つくづく。
 温泉水自体も質が良く、無色透明のサラサラで引っ掛る所がほぼ無い、非常に摩擦係数の低いお湯が皮膚の上を滑って流れ落ちて行く様相がとても小気味良い。
浴場の入り口に立てられた効能書きに、ここの温泉はNa-Ca塩化物温泉(食塩水)で塩分濃度の高さは日本屈指だ、とあったので舐めてみたら『ウヒョっ!』と声が自然に上がるほど塩辛かった。茹でられるスパゲッティの気持ちが少しだけ理解できた様な気がした。
『もし温泉が枯れても浜名湖の汽水を直接沸かせば、誰も気付かないんじゃないか?』
そういう邪な考えが不意に念頭に浮かび上がって来ちゃったくらいの軽い衝撃を覚えた。
<イヤ、十分過ぎる位に気付くだろ!>
そうかな? 気付くかな?
<だって、この土地に湧く温泉水にのみ備わった独特な効能とかあるだろ?>
そりゃ、そうだな。
<それで、一体どんな効能があるんだ?>
低張性で保湿保温効果に優れ、効能がとても豊かだそうだ。
<それだけか? 適応症について、もっと詳細情報をくれ>
皮膚疾患、筋肉痛、疲労回復、冷え症、倦怠感、虚弱体質、肩こり、腰痛、神経痛などに効果が見込まれる、と書いてあった様な気がするな、多分。恐らく。だったかも知れん。
そうじゃないかな?
<もう、いい>
何やら『泉質別』とか『一般的』とか書いてあった様な気がするけど、もういいのね?
<...>
よし、閑話休題だ。
 白湯をまた一口飲み下してから、iPhoneの画面で現在の時刻を確認する。
イトと早見さん、女性陣2人が2階の大浴場に向ってから既に1時間以上が経過していた。
オレの記憶が確かなら、早見さんは『40分位で戻るようにします』と、言い残した筈だ。
ま、晩ご飯の予約時間にはまだ30分ほどの余裕もあるから、それほど焦燥に駆られてはいない。当初の40分の予定が延び延びになっているのだから、きっと愉しい時間を過ごしているんだろう、と想像する。それならば、OKだ。
遅れそうな雰囲気になったら、レセプションに連絡を一報すれば済むだけの話だし、な。
 でも『タキヤ船』のお風呂、そんなに愉しいのかな?
左斜め上の空虚な空間に視線を走らせながら、彼女達2人の入浴シーンを想像した。
しばらくの後に『愉しそうだな、ウン』という結論に達した。
<セクハラだぞ>
想像すらもNG事項なのかい?
<早見さんはともかくイトに関しては、な。お前って性愛対象が幼児童女だったっけ?>
いいえ、心身健やかなる大人の女性が、好きです。
<それと、何はともあれ、まず脚な、お前の場合は>
想像ったって全然淫猥なイメージじゃないぞ。至って明朗横溢健康快活な心象に過ぎない。
それに、だ、大体だな、イトはオレの娘だぞ。
<まだDNA鑑定してないし、本当に遺伝的系譜に名が連なってるか確定してないだろ?>
良いんだよ、DNAなんか知ったこっちゃない。それがどうであれ、イトは、オレの娘だ。
あのさ、自分の娘が朗らかで愉しそうにしている情景を思い浮べて、何が悪い?
オレは、そういう機会や場所をイヤっていうほど彼女にプレゼントするんだ、
これから一緒に過ごす数日の間に、な。
<大学の心理学の授業で習った『paternalism』って単語、憶えてるか?>
父親なんだから、当然の振舞いだろ?(注4)
<ヤリ過ぎると返って逆効果で嫌われるぞ>
そこら辺は十分に気を付ける心算だ。
あんなに外側が綺麗で可愛くて、ちょっと引っ込み思案だが内側も綺麗な娘に嫌われたくないもんな。だろ?
<そこら辺は解ってるんだな。でも注意しろ。解ってても出来ない事も、あるから>
了解。
 こんな様な感じに、ミスターとの脳内チャッティングをして無為な時間をつぶしていると、出し抜けに『ピンポン』とチャイムの音が部屋のドアの方向から響いてきた。
ようやくイトと早見さんが戻って来たようだ。
 オレは扉を開けて2人を向かい入れる為に『よっこらせ』と立ち上がった。

「ただいまーっ!」
初めて耳にするレベルの大きな声量で、イトが帰着の挨拶の言葉を発した。
そんな大きな声を出すだなんて、よっぽどお風呂タイムが楽しかったのかな?
随分と声がはしゃいでいて、今朝再会した時とは別人の様な快活さが振舞いに現れている。
 それを感じ取った時に少しだけ早見さんに嫉妬の念を抱いた。ほんの少しだけ、だが。
 イトは、オレが着ているのと同じ柄の子供用の小さな浴衣と、これまた小さな羽織を身に着けていた。今日着用していた服と下着を容れたレジ袋を両手で抱き抱える様に持っていた。早見さんはというと、先程と同じ『作務衣』姿だった。
 2人とも上気した顔をしていた。非常に有意義な入浴タイムを過ごせた事が容易に表情から推察できる。時折、2人で顔を見合わせ『フフッ』と笑い合っているのが微笑ましく眼に映るのと同時に柔らかい妬み嫉みが『花の風巻』の様にオレの心の中で舞い踊った。
<自重しろ、自重>
 ま、単にパパ候補に過ぎない素人が、プロの保育士の手練手管に敵う訳はないのだから、ここはひたすら痩せ我慢だ。鷹揚で泰風な態度を維持しなければいけない。父親としての威厳と余裕を損なわない様に行動するんだ。大人としての振舞い、自然で泰然自若な挙措。
という訳で次の言葉を可能な限り平常心を装って、構音した。
「お帰りなさい」
「あのね、ケンゴくん。私、お船のお風呂に入ったよ!」
イトは、こちらが思い煩った葛藤を知ってか知らずか、とっても陽気な声でオレに告げた。
 ほう、そうですか。
それはよろしいですな、イトさん。
「お船のお風呂があったんだ?」
「あのね、沙織さんが教えてくれたんだけど、昔そのお船でタイさんやスズキさん、あと...何だっけ?」と、ソコまで一気呵成に喋ってから言葉に迷って、イトは助けを求める様に早見さんの顔を見上げた。すると、早見さんは優しい微笑みを口許に浮かべながら、
「サヨリさんね」とイトを見下ろしながら、柔和な声音で教えた。
 イトは、コクンと1つ頷いた後、
「そう。『サユリ』さん。タイさんとスズキさんと『サユリ』さん。あとエビさんとかカニさんとか、獲ったんだって、そのお船で」と嬉しそうな表情を披露した。
あのね、『サヨリ』は魚類で『サユリ』は映画スターだぞ、イトさん。
大体、『さん』付けすると、全ての要素が擬人化されちゃって、何が何だか解らなくなるよ。
『スズキ』さんって、サカナだろ? 『イチロー』の方じゃないよな?
<当たり前だろ? なんで『イチロー』が浜名湖をピチャピチャ回游してんだ?>
「あのね、『サユリ』さんってスッゴク細いんだって。知ってた?」
ほうほう、そうですか。たしか奈良公園で鹿の糞を食べていた人ですよね。
「そうなんだ。そんなに細いんだね、『サヨリ』さんは」
 イトは、オレの返答に満足した様に、眼を細めて、話し続けた。
「うん、細いんだって。それから、タイさんって黒いんだって」
イヤイヤ、それはチヌ...クロダイでしょうよ。
普通の鯛は赤いヤツです、シャア専用MSみたいに。
「ほぅ、黒いんだね」
「うん。黒いんだって。あとお腹とかに付いてるヒレってトコが黄色いヤツもいるって」
 キビレですな、それは、多分。
オレは、さも感心した風体に見える事を願いながら『ハハァ!』と頷いた。
「ねぇ、ケンゴくん。タイさんって美味しいんだって。知ってた? 食べたこと、ある?」
「うん。知ってる。食べた事がある。とっても美味しいお魚さんだ」
「そうなんだぁ。食べてみたいなぁ」夢見る様な眼をして、イトが小さな願望を漏らした。
「あ、でも、食べたっていっても、ほとんどは赤い鯛さんだけどね。黒い鯛さんは釣りをして釣れた時だけ。だから、あんまり数...多くはないんだ」
「ふーん、赤いタイさんもいるんだね」
 イヤ、赤い方がメジャー路線を驀進中ですよ、イトさん。
 するとイトが首を傾げながら疑問を呟いた。
「黒いタイさんと赤いタイさんが結婚したら、子供は何色なんだろ?」
 マダイとチヌは種が違うっていうか、マダイ属とクロダイ属という風に『属』レベルで異なるグループに分類されている事が示す様に遺伝的に遠いので、自然交雑はしませんよ。
「うーん、そうだね。赤い鯛さんと黒い鯛さんの子供ねぇ?
もしかしたら、右半分が黒くて、反対の左半分が赤い子供が生まれるかも知れないね」
 奇妙奇天烈なオレの返答を咀嚼しようと小首を傾げながら努力していたイトがいきなり向き直ってプクッと頬を膨らませながら抗議する。
「もう、そんな訳ないじゃん。ケンゴくん、私が子供だと思ってバカにしてるでしょ?」
「そんな事、ないよ。イトちゃん。子供が何色になるのか、ちょっと判らないだけだよ」
『ケンゴくんも知らないことあるんだね』という言葉が濃厚に含まれた「フーン」という吐息の様な返事をイトがした。しかし瞬時に気を取り直して彼女は話を続けた。
「あのね、そのお船で、夜にお魚さんを獲るんだって」
「じゃ、ライトで照らさないと真っ暗で、何も見えないね」とオレが言うと、イトが、
「そうなんだって。どんど焼きって、知ってる?」と眼をキラキラさせながら訊いてきた。
「お正月にやる焚火みたいなヤツだよね。お団子とかお餅を焼いたりするヤツだっけ?」
『ケンゴくん、やっぱり色んな事知ってるんだね』という表情を嬉々として浮かべながら、
「どんど焼きの小っちゃいヤツで湖をピカッてしながら、お魚さんを獲るんだって。
カニさんとか、エビさんとかは夜じゃないと獲れないんだって、沙織さんが教えてくれた。
あのね、お船のお風呂に入ってる時に」と、イトが前のめり気味に忙しなく言い募った。
「そっか。お船がお風呂だったんだっけ、ね。お船、大きかったかい?」とオレは訊いた。
「うん。すっごい大きかった」
 そういった後、イトは早見さんを再び見上げてニコッと笑った。早見さんも微笑み返す。
裸の付き合いを経て彼女達は2人の関係のその絆の深度を増加させる事に成功したようだ。
非常に羨ましい。
女性同士は言葉を交わし合うだけで『絆ホルモン』という異名で呼ばれるオキシトシンの分泌量が其々の体内で増加して、その結果として相手との関係性をお互いに深め合う事が出来るそうだ。お喋りするだけで、関係性が深まるって...何で女性だけ?
何故、男性はそうじゃないんだろうか? 不公平だよ、神様!(注5)
 イトが無邪気に「ケンゴくんの方のお風呂はどうだった?」と訊いてきた。
『ま、ソコソコでした』というナオザリな言葉を飲み込んで、別の穏当な表現を適用した、
「えー、ステンドグラス...色付きのガラス窓が、とっても素晴らしい...綺麗だったよ」
「えー、良いなぁ」とイトが羨ましそうな表情を浮かべる。
 いや、イトさん。
あなたの方が全然、羨望の的ですから。
 それにしても...
それまで平坦で単調だった彼女の感情に多様な起伏が散見される様になってきている。
イトが今、顕現化させている天真爛漫な振舞いは彼女の年齢に相応のモノで、それ自体は非常に好ましい現象なのだが、それを引き出したのがオレではないという事実が口悔しい。
<誰が誘因だって構わないじゃないか。肝要な事は、イトが...想像に過ぎないけれど、この年頃の女の子としては彼女が随分と過酷な経験を積んできたという事は間違い無い訳で。だから要諦はその場所からイトが回復する事と、人間として成長して行く事だろ?>
ま、ソレはそうなんですけどね。
<それを担うのが自分じゃないとか何とか、そんな些末な事で不平を漏らすなんて、お前らしくないぞ。イトの幸せが最優先事項だろ? どうした? 変なモノでも喰ったか?>
イヤ、晩飯がまだなんで。どうにも腹が減って、敵わないんです。
<あと少しで豪華な晩餐だ。我慢しろ、この腹っ減らしが!>
はぁ、全身全霊をもって努力いたします。
「でも、お船のお風呂に入る、だなんて普通じゃ経験できる事じゃないよ。凄いじゃない」
オレがそう言うとイトが本当に嬉しそうに、しかしその嬉しさを必死に隠そうとしながら、
「そっかなぁ...でも、綺麗なガラス、観てみたかったけど...」と囁く様に言ったので、
「今度、また来た時に観ると良いさ」と水を向けると、サッと表情を点燈させたイトが、
「ホント? また連れてきてくれる?」とすがり付く様な感じで、訊いてきた。
「もちろん」この近くを通ったら、寄ろうよ、と彼女の輝く笑顔に、答えた。
 その返答を聴いたイトは『んーんッ』というゼロdBの歓声を上げながら身を捩り、満腔の満足感と幸福感を小さくて細い身体全体を使って表現した。
そんな彼女を眼にした瞬間、オレはそれまで感受した事の無い巨大な多幸感に襲われた。
自分の娘が喜んでいる姿を見るという、何でもない些細な事が、こんなにも身体の内側に歓喜を呼び起こす起因となるとは、今の今まで想像すらした事も無かったのでそんな自分自身に心の底から驚愕した。そんなオレ達2人を優しい眼差しで早見さんは見守っている。
何故だろう、早見さんがオレに投げ掛ける視線が先ほどより柔らかさを増している様にも感じ取れる。ん? 何か、したっけ? オレ?
しかし、喜びと嬉しさに支配されているイトの現状に接して、前にも何処かで同じ様な光景と出逢った事があるという想いに襲われた。所謂『déjà vu(既視感)』というヤツだ。
何処でだったっけ?
 そんなコトをそぞろに考えていると、イトのお風呂での体験の報告が終了してオレとの会話に句読点が打たれた事を察知したからか、早見さんが「良かったね、織ちゃん。
お船のお風呂のお話を、ケン...パパも喜んでるみたい。良かったね」とイトに声を掛け、
「それでは、私はコレで失礼いたします」とこちらに向かって頭を下げた。だからオレも、
「いえ、こちらこそ大変お世話になりました」と慌てて頭を垂れて礼を述べた。
 無駄の無い足運びで早見さんは廊下を歩き去って行く。小股の切れ上がった形状の良いおケツが左右にプリプリと揺れ動いている姿態を眺めるのは脚フェチにとって愉悦である。
エレベーターホールへと繋がる角を曲がる直前に彼女はこちら側を振り返ってから、イトに向って手を振った。そこに社交辞令的なモノは一切匂い立たない、とても暖かさと慈愛に溢れた『袖振り』で『肉体は別れても魂は一緒にいる』という言伝が込められていた。
 古来から日本において魂が宿ると信じられている服の袖を振られたイトが、早見さんの消えた方向から眼を放さず食い入る様に見詰めながら、手をブンブンと振り続けていた、
まるで早見さんの『袖振り』が、彼女の魂を引き寄せてしまった様に。
「お風呂に入っている時に、早見さんと何をお話したの?」オレはそうイトに尋ねた。
何気ない会話の心算だったのだが、オレの質問を聞くと彼女は手を振るのを止めて、顔を伏せて押し黙ってしまった。
 しまった!
不用意だったか? 不味い事を訊いちゃったかも?
その刹那、そう感じたのだが、どうやら杞憂だった様だ。
 俯いたままイトは、柔和な微笑みとも形容できる表情を浮揚させて一言だけ「内緒」と呟いた。そして悪戯っぽい眼付きでコチラを見上げた。彼女の母親と同じ小悪魔的な瞳をしていた。そのイトの妖しげに輝く双眸に眼を奪われている内、先程の歓喜に満ち溢れていた彼女が見せた態度と瓜二つのモノに何処でオレが出逢ったのか、ようやく思い出した。
オレ達2人の結婚を不可避なモノとする為に妊娠という既成事実を作ろうと思い定めた時の、結衣とソックリだった。
 その事実に決して軽くない衝撃を受けたオレが茫然自失の荒野で迷子となり、その窮地からの脱出路を探し倦んでいる醜態を、イトが不思議な生き物を見る顔付きで眺めていた。
それでもコチラが困っている事を敏感に察知したのか、表情を気遣わしげなモノへと変貌させて「どうしたの? ケンゴくん? だいじょぶ? 私、何か変な事、言った?」と尋ねた。
 声音に真実の『憂慮』の念が濃厚に滲み出ている。
マズい! こんな事で彼女に負担を掛ける様な事態は回避しなければいけない。だから、
「ん、何でも無いよ。少し...大分、お腹が減っちゃっただけなんだ」と虚言を吐いた。
 オレの当座を彌縫する為の嘘をそのまま飲み込んだイトは「そっか。ケンゴくん、一杯食べるもんね」と安堵の息を吐き、コチラの相貌を見据えたまま、ニコッと笑顔を見せた。
 ま、腹が減っているのは事実だから、な。
「さてさて。じゃ、用意して晩御飯にしよ」イトの屈託ない笑顔を見ながらそう伝えると、
「うん、わかった」抱えていたレジ袋に眼を落としながら「これ、置いて来るね」とイトが言い残して、雪駄を脱いで部屋に上がった。彼女の後ろに続いて部屋に上がりながら、
「お腹、減ったかい?」とイトの背中越しに問い掛けると、
「うん。お風呂で沙織さんと色んな事、一杯お喋りしたら、お腹スッゴク減っちゃった」と答えた。振り返る事は無くそのまま前を向いたままだったので、少しくぐもって聞えた。
 えーと、一体何を早見さんとお話したのでしょうか、イトさん?
非常に気になる所ではあるが...
しかし胃の腑が切々と訴え上げる緊迫度が増した飢餓状態を捨て置く訳にはいかなかった。
だから、今の所、その疑問は心のキャビネットに仕舞い込む事にした。
「お待たせっ!」作業を終えたイトが、トロットで駆け寄ってきた。
 ま、さては何を置いてもとりあえずは、1日目の晩餐のお時間である。

注1:スキッドプレートについて。
スキッドプレートとは、アンダーガード又はアンダープロテクターとも呼ばれ、ラリー車など悪路を走行するクルマで、エンジン下部や床下の走行装置を路面の突起や撥ね石から保護する為の板(プレート)。スキッド(skid)は滑材(物を滑らせる板)や引き摺りの意。
尚、研吾君がR32に装備させてあるモノは防護用というよりもクルマのフロア部分と路面との間に流れる空気を整流し、ヴェンチュリー効果(venturi effect:空気の流れのような流体が狭く絞ってある通路を流れると流速が増加し、結果的に負圧〔物を引き付ける圧力〕を生じる原理)を利用して、ダウンフォース(下向きの力)を得て、タイヤを路面に押し付ける作用を狙いとしている。ダウンフォースによってタイヤが路面にギュッと押し付けられるとトラクション(駆動力)を効率良く掛けられるので、クルマの挙動を安定化でき速く走行する事が出来るようになる。この点ではスキッドプレートというよりもF1でいう所のアンダートレイ(フロア)に機能的に近い。
これは言わずもがな、であるが、
こーゆー改造を施行する場合、各所の強度・剛性などをトータルで見直さなければならない。それを怠れば全体のバランスを崩し、施行前よりクルマの性能をダウンさせてしまう帰結となるからだ。ボディ補強もまた同様。全ては全体のバランス、が大切である。

注2:『粗にして野だが卑ではない』という言葉について。
この言葉は、明治生まれで(1886年2月20日)昭和にかけて活躍した実業家である石田礼助(本名:石田禮助)が日本国有鉄道総裁に就任した後、初めて国会に登院した時に発した言葉である。(@1963年)
元々は三井物産代表取締役社長だった。

注3:注染について。
注染とは、布地の染色法。明治時代に発展した技法で大阪が発祥の地だとされる。
布の染めない部分に型紙を使って糊を付け、糊が乾燥した後で染める部分の周囲に糊で土手を作り、その土手の内側に染料を注いで布を染める技法。
染料を注ぎ入れる際に布の裏側(下方)から吸引機を使用して染料を染めたい部分全体に行き渡らせ、余分な染料を回収する。
染料を注いだらその上から糊を塗る。こうして糊で蓋をする事で布が染め上る。

手ぬぐいの場合を例に採ると、
未裁断の長い生地に手ぬぐい1枚分ずつ型紙を当ててから、防染糊(染色を防ぐ薬剤)を塗り、ジャバラ状に何層にも折り重ねる。そのまま作業台に載せ、模様の周りに糊の土手を作って染料が必要無い部分まで流れ出ないようにしてから、染料を注ぐ。
一通り染めたら裏返して反対側からも同じ作業をする。
(注:吸引器を使用すると、この裏側からの作業は不要となるみたいです)
注染は、1枚ずつ型を当てて染める技法に比べて、沢山の色を使って20~30枚を一度にドカッと染められる効率的な方法。
留意しなければならない点として、糊を置く場所は上から下までビチッと揃えておかなればならない事。
そして糊の量にも注意しなければならない。糊の量が多過ぎると模様がつぶれ、少ないと生地の裏側まで糊が及ばない。
使用する染料にも5種類ほどあってそれぞれ染まり具合が微妙に違うので、職人は自分の眼で見て調整する必要がある事にも留意しなければならない。
以上、注染の職人さんの受け売りでした。

注4:paternalism(パターナリズム)について。
paternalism(パターナリズム)は日本語で『父親的温情主義』や『父親的干渉主義』などと訳される概念の事である。端的に説明すると、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益の為だとして、対象者本人の意志は問わずに、介入・干渉・支援することをいう。
対象者個人に十分な判断能力・自己決定能力が備わっていても介入・干渉するケースもあれば、対象者に十分な判断能力・自己決定能力が備わっていないケースも、当然あり得る。
別の側面から見た場合、介入・干渉を受ける者と被保護者が同一の人物であるケースと、介入・干渉を受ける者と被保護者が別個人のケースがある。
あー、また余計な説明書いちまった。
研吾君パートを書いてると彼の『重箱の隅つつきまくり』性癖が憑依してくるんだよね。
困ったもんだ、全く。

注5:オキシトシンについて。
オキシトシンとは、脳内で産生される物質で、別名『絆ホルモン』または『抱擁ホルモン』とも呼ばれるホルモンの一種。(少量だが心臓などでも分泌される)
愛情・優しさ・信頼感の形成を媒介するホルモンである。
脳内では主に視床下部から分泌される。
オキシトシンの特徴を以下に簡単に記す。
1.出産時に大量に分泌されて陣痛を誘発する。1906年にこの作用を及ぼす物質として初めて発見された。
2.赤ちゃんにオッパイを吸われる事で分泌される。この時、分泌されたオキシトシンの働きで母乳が出るように促進される。
3.赤ちゃんの泣き声を聞くと母親の胸が張るのもオキシトシンが原因である。どうやら母乳を与える為の準備らしい。
4.授乳中には母子ともに大量に分泌される。その分泌されたオキシトシンの効用で母子の絆が深まる(強まる)。
5.(特に母親に)子供を保護したいという気持ちを促す。
6.心を癒したり、身体の苦痛を和らげたりする。実際の傷に対する治癒力を高める。
ストレスを感知すると分泌が促されるコルチゾール(ホルモン)の分泌メカニズムに干渉してコルチゾールの分泌量を抑制する。つまり結果的にストレスを軽減する。
7.相手の気持ちを読み取る能力(共感力)を上げる。
8.親しい相手との肌の触れ合いは免疫システムを刺激して身体の防衛機能を高める。
好ましい感情を抱いている相手に肌を愛撫されると皮膚の圧力センサーが活性化してオキシトシンが分泌される。同時に迷走神経(脳から腹部に達する副交感神経の一部)も活性化される。迷走神経は、ほぼ全ての内臓の活動を支配し恐怖心やストレスだけでなく愛情や満足感もコントロールしている。
9.社会的な交わりを進め、種の存続を確実なモノにしていると考えられている。
10.人間だけでなく、他の社会的な動物(アリやラットなど)同士の関係にも関わっている、と見做されている。オキシトシンを活性化させたラットは常に仲間と関わりを持つ様になる。何がオキシトシン分泌の引き金になるのかは未解明だが、このホルモンが無いと社会性が低下する。

感情はホルモンと神経伝達物質によってコントロールされている。そしてこうした物質の分泌は意識的に制御できる。何度も言及するが『愉しい』から『笑う』のではなく『笑う』から『愉し』くなるのである。
オキシトシンは我々の生活をより充実させるだけでなく、より健康にしてくれる。

オキシトシンは、女性同士の場合には言葉のやり取りだけで分泌される。つまりお喋りするだけでオキシトシンの分泌量が増加する。ところが、男性は言葉だけでは分泌されない。男性においてオキシトシンの分泌量が増加する為にはスキンシップが必要となる。
母親は出産に伴いオキシトシンの濃度が何もしなくても自然に増加するが、父親は子供とのスキンシップを必要とする。オムツを替えたり、抱っこしたりしないとオキシトシン濃度は増加しない。
因みに、男性においてオキシトシンが一番大量に放出されるのは射精した瞬間。

人間の場合、オキシトシンが無いと恋に落ちる事はない。恋愛している時の脳活動を観察すると、親が子供に愛情を注いでいる時とソックリである。
ヒト以外の動物(例えばネズミ)には恋愛感情というモノは無く、あるとしたら子供に対する愛情だけで、この時にヒトと同じ様にオキシトシンが大量に分泌されている。
それがヒトとなると『バグ』が起こって子供以外の特定の相手に対しても身体機能が反応してオキシトシンが分泌されてしまう。つまり『恋愛はまるで我が子への愛情にソックリ』となる。適用の順序的には『恋愛>子供』ではなく『子供>恋愛』なのだ。

オキシトシンの濃度が高いと対象者への愛情が強くなり、他者に対して『排他的』になる。
オキシトシンが分泌されると、仲の良いヒトとはより強い信頼関係を結ぶようになり親密性を増加させるが、仲が良くない人とはより疎遠となり、しばしば攻撃的になる。
子育てをしている動物は警戒心が強く、不用意に接近してくるモノを攻撃するが、これもオキシトシンの効果である。自分の子供が一番でソレ以外の『危険性』を孕んだモノ全てを『敵』と見做して排除する。恋愛関係でもこの特徴は顕著に散見できる。
尚、母親が見知らぬ他人に不要にベタベタと我が子を触られたくないと思うのも、病原菌などの感染から自分の子供を護ろうとする、防衛本能から生まれる自然な恐怖心である。
オキシトシン濃度が高いと対象者への愛情は強くなり、自分の事よりも相手の事を優先する利他的な振舞いをするが、相手が自分の思い通りにならない場合には、いきなり攻撃に転じて対象の相手を屈服させようする事がある。この時に、自分の思った通りになるまで徹底的に攻撃を継続する。時に、常軌を逸した行動に出る可能性もあるので要注意である。

イヌと人間は見つめ合ったり触れ合ったりするとお互いのオキシトシンの分泌量が上がる。違う種の動物同士間でこの現象が起きるのはイヌと人間のみである。この現象は麻布大学獣医学部教授の菊水健史らによって発見、2015年に科学雑誌『Sience』に発表された。

私とケンゴ vol.12

私とケンゴ vol.12

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-10-27

Copyrighted
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