私とケンゴ vol.11
「じゃ、切るよ」オレが電話を切ろうとすると、
「イトのこと、よろしくお願いします」結衣が頼んできた。
「判った」って話を終えてから、ポチッと切った。
5秒前まで耳朶を優しく叩いていた結衣の声色がこの前とは変わった様に感じていた。
3日前に会った時の6年振りの会話の時とはまるで違う、秋葉原で初めて道端で出逢った時にオレに投げ掛けてきた、あの時の彼女の声質にソックリだった。
イヤ、違う。
結衣が勤めていたメイド喫茶のビルの隣のアニメグッズ店の柱にもたれ掛かってウトウトしながらバイト上がりを待っていた時に、彼女が発した『お待たせ』という掛け声に非常に似ている様に思える。
何でだろう?
ま、同一人物なのだし昔の声色に戻ったとしても何も不思議ではない筈だが、何かが違う気がしてならなかった。まるで、2人があの当時の関係に戻った様な聲の響きに聞こえた。
しかしケータイから発せられてくるデジタルな音声は、彼女の生の音声ではないのだ。
直接、生で聞く場合とは幾分かズレが生じても少しも変ではない。
だから、所詮は気の所為に過ぎないと思った。
デジタル合成音の成せるマジックなのかも知れない、と思う事にした。
そして、彼女から教えられていた番号をポチッとして、鹿児島で首を長く伸ばしてイトの到着を待ちわびている筈の佐伯さん、つまり結衣の御両親にも電話を掛けた。
『イトちゃんの体調を考慮して一週間ほど掛けてノンビリと送り届ける事にしました』と伝えると、電話に出た結衣の父親は、
『ソイは本のコテ良かちお考えでございもすな。承りしもした。あげなヤッセン娘の我儘を聞いて、こっまでキチンと為さって下さるっとは、オイ達、夫婦には望外のコツでございもす。アイガトさげもす。ナイ卒、イトのコツをよろしくお願い致しもす』と返答した。
オレは『それでは失礼いたします』と電話を切った。
しかし、結衣のお父さん、訛りがキツいな。
まさかと思うが、こんな調子で毎日の講義の教壇に登っているんだろうか?
イヤイヤ、それはあり得んだろ、幾ら何でも。
何を言っているのか、学生たちがサッパリ理解できんだろ、アレじゃ。
記憶が確かなら、彼は言語学者の筈だ。だからあえて鹿児島弁を使っているのかも知れん。
鹿児島の中でも頴娃という地方の方言はキツ過ぎて、地元の鹿児島の人たちでさえ理解できない事が多いと聞いたが、普通の鹿児島弁でも十分にキツイ。何となく薄っすらボンヤリと理解できる程度で、難解さは非常にハイレベルだ。
話の背景とか文脈がチャンと理解できているからこそ聞き取って内容を把握できているのであって、もし何の情報も無くポンっと差し出されたら、多分全然一言残らず理解できないで、ポカーンと口を開けたまま、白く凝集沈殿してしまうだろう。
でも結衣の口から『方言』と言った類いのモノが飛び出た事を1つも憶えていない。
彼女が喋る時、使っていたのはNHKのアナウンサーも驚く位の『The標準語』だけだった。
これは非常にすこぶる興味深い事実だ。
推考するに値するかも知れん。そんな風に物思いに耽っているとイトが袖口を引っ張って、
「だいじょぶ? オジさん」と声を掛けてきて、そこでオレは漸く我に返った。
「ああ、ゴメンね。オジさん、少し考え事しちゃってた」ゴメン、と言いながら彼女の顔を覗いたら、こちらを気遣うような表情を浮かべていたので、少し驚いた。
5歳の女の子でも、他人の事を心配したりとか出来るんだなぁ、と感心したりもした。
イトは、オレの返答に安心した様で、『ホッ』と表情を変化させた。
今、イトとオレがいるのは、焼津市の三右衛門新田という所に在る日本全国にチェーン店舗の展開を広げているハンバーグ専門のファミリーレストランに併設された駐車場だ。
この地名が示す通り、きっと三右衛門さんが墾田した土地なのだろう。誰だか知らないが。
何で高速道路という長時間運転するのに適した場所から、交通状況が複雑なモノにならざるを得ない下道に降りたのかというと、『イトの体調を慮って』というのは単なる建て前に過ぎなかった。
あのイシガメヘビ野郎を撒く為に採った行動だった。
ポルシェ911ターボS、左ハンドルなのにも関わらず、フロントバンパーの左角に擦過傷を負わせてしまった事実が、奴さんが超絶的にクルマの運転が下手糞な事を証明している。
猫の目の様にクルクルと変わる下道の複雑怪奇な交通事情にはおよそ適応できないと、オレは推察したのだ。いくらDCTのセミオートマだとはいえ車幅の大きいワイドボディの911ターボでR32に付いては来れないと推量したからだ。(注1)
ま、ヤツがぺドファイルである事はほぼ100%間違いない事は簡単に推測できているから、広義の意味合いでいえば、この回避行動も『イトの体調を慮る』範疇に入るのかも。
東名を清水ICで下道に降りてから走る事、およそ1時間半、それ位が経過した頃、つまり、つい今し方15分程前にイトに「お腹、減ってない?」とオレは声を掛けた。
決してイトの胃の腑の具合に気を使った発言という訳では無い。
実の所、腹が減っていたのは、このオレだった。
朝飯が消化吸収の良い御蕎麦だった為か、急に空腹感を覚えてしまったのだ。
手許不如意とか周囲に飲食可能な物が見当たらない等といった、そういう緊急事態の時には幾らでも空腹を耐え忍ぶ事は可能だが、今は経済的に困窮している訳でもなく食べ物を提供してくれる施設が皆無という訳でもない。現に車窓を数多の牛丼屋さんやファミレス等といった飲食物を出すお店が去来...バンバン通過して行く状況である。
自分独りだったら、とっくに何かを口にしていた筈だ。
段階的な引きの画になる時の井之頭五郎氏の気持ちに、オレは激しく共感していた。
テディ・ベアを、綺麗に揃えた太腿の上にチョコンと載せたイトがオレの顔を見上げながら『ウーン』という感じで首を傾げた。
何度見てもこの娘がこうする仕草がとても可愛く感じられる。
「ちょっと」彼女が答えた。
「お八つって感じかな?」と訊ねると、イトが、コクンと首肯した。
ま、イイ。
お菓子だろうが何だろうが、口に出来るのなら大歓迎だ。
「何が良いかな?」
再びイトが首を傾げる。
『可愛いなぁ』
本当にこの娘が、オレの実の娘だと良いな。もしソレが事実だとすると、赤ちゃん時代という殺人的に手の掛かる厄介な子育ての苦労を回避する事が出来た訳だ。それは非常にオレにとっての都合の良い、謂わば良い所取りの『摘まみ喰い』になるのかも知れないが。
故に結衣と、まだ顔を知らないもう一人のパパ、緒方健爾さんに、心中密かに感謝した。
オレは、イトに完璧にヤラれ始めている自分に、この時はまだ、気付いていなかった。
ただ、DNAがどうであれ、この子は絶対にオレの娘だ、と固く想い始めていただけだった。
そうだ。
この娘を護るのは、オレだ。
たとえ、代償としてこの世界が滅んだとしても、オレはこの娘を護る。
そう、想いを決めただけ、だった。
トーメーっていうクルマしかハシレないドウロからおりて、しらないマチのナカをハシってるトキに、パパがきいてきた、「オナカ、ヘッてない?」って。
どうなんだろ? っておもって、スコシかんがえた。
アサ、ツナマヨのおにぎりをタベたし、
ドロップを2こタベたし、
トロロそばと、おイナリさんもタベたし、
あんまりヘッてないかも、っておもった。
でも、ナンかオツヤみたいなモノがほしいかなぁ? だから、
「ちょっと」って、ゆった。そしたらパパが、
「オヤツってカンジかな?」って、ゆったので、ワタシはコクンってした。
そっか、オツヤじゃなくて、オヤツか。
「ナニがイイかな?」って、パパがきいてきたので、またウーンってかんがえた。
かんがえてたら、ウチのアパートのちかくにあるハンバーグのおミセがあった。
しあわせの音のハンバーグやサンだ! って、おもって、
「アッ!」ってワタシがゆったら、
パパはシュッとRさんをハンバーグのおミセのチューシャジョーにイレた。
スゴイっ!
パパ、ウンテンじょうず。
「何が良いかな?」
『ウーン』
小首を傾げながら考えているイトが突然「アッ!」と小さな叫び声を上げた。
何も皮質に浮かべる事無く身体が勝手に反応する。
後方と左側の安全を確認してから、左側のターンシグナルランプを点滅させて、ブレーキを踏むと同時にヒールアンドトゥでブリッピングしてエンジンの回転数を合致させながらシフトをダウン、ステアリングを操作してR32をお店に併設された駐車場に乗り入れさせた。全て無意識の内の動作だった。
オレの小脳ちゃん、スムースに働いてくれて、アリガトよ。
こんな芸当が出来るのも赤城さんが仕上げたボディの強度と剛性が高いから。それに加えて岡田さんが調整したセミアクティブサスがR32の挙動を安定的に、完璧コントロールする。ブレーキ担当の山本さんが組んだカーボンセラミックブレーキの抜群の制動力の効果たるや、驚異的だ。慣れないとコーナーの遥か手前で停止しちゃう位、利きが良い。
イトが叫び声を上げる直前、1台前のクルマがウィンカー点灯無しで急に左折をした為に、徐行というよりも殆んど停止する事を強いられて、『さて加速だ』という状況下で車速は時速30kmにも満たなかった事も幸いした。急制動の時に助手席に座っている人物の胸に手を差し伸べて彼女が自分の頭部をフロントグラスに強打してしまう事から回避させる、そんな振る舞いも不必要だった位、だ。この行為自体は美しく見えるが、本当はステアリングをシッカリ両手で握っていない方がより危険度が高いので、注意が必要だ。最近のクルマにはナビ側にもエア・バッグが装備されている事がデフォなので、要らない行為とも言える。
しかし、このR32にはナビシート側にもエア・バッグは実装されていないのでイトに対して必要になる機会もあるかも知れない。アレ、何か、話がズレ掛けている様な気がする。
ま、しかしながら、全ては結衣のおかげかも知れないな。
何かを買いに一緒に行く時、交差点の手前3mで「アッ、ここ左ッ!」とか指示されるのとか日常茶飯事だったもんな。昔日の彼女の出鱈目なナビには相当、鍛えられたモノだ。
ただでさえ挙動がピョコピョコし易いJA11だったもんな。
よく走らせられたよ、今じゃ無理かも知れん。若かったし、今よりも動体視力や反射神経とかが、段違いに高レベルだったからこそ可能な離れ業だなぁ。しみじみ。
お店が道路の左側に立地していた事に加えて、駐車場が店の向こう側に併設されていた事も幸運だった。通過する順に表現すると『お店>駐車場』といった按排。これが手前に駐車場で向こう側にお店の様な真逆の配置だと難しかったかも知れない。
<イヤ、完璧に無理だろ>
何か、超久し振りの登場って感じがするぞ、ミスター。
<そげなコツ、どうでん良かっ>
何故に薩摩言葉?
ま、イイや。
R32を駐車場に乗り入れさせてから気付いた、ここが全国的に有名なハンバーグ専門のファミレスだという事に。オレの記憶が確かならば、ここ、静岡県にはご当地限定の有名なハンバーグファミレスチェーンがあった筈だ。そっちの方が良いんじゃないかな? とも一瞬思ったが、イトがここに何かしらのこだわりがあるらしいので、ま、ここで良いのか。
R32を空いているパーキングロットに停めてから、
「大丈夫? ハンバーグとか食べられる?」と訊くと、イトが、
『ウーン』と首を捻ったので、オレが、
「ま、イトちゃんは食べたい物を食べたいだけ食べなさい。残りはオジさんが引き受け...食べちゃうから。全然残して良いからね」と伝えると、彼女は『ホッ』と微笑した。
結衣と鹿児島の佐伯さんへの電話を終えてから、クルマから降りた。
お店の外装には木材を多用している。屋根は静かな緑に彩られていた。全体として落ち着いた雰囲気を醸し出そうとしていると感じる。だが、結局の所は普通にファミレスだ。
店内に入ると何とかというアイドルグループの何とか桃子さんに似ている店員さんが、「何名様ですか?」と問い掛けてきた。
何名に見えるんだ? 2名以外の何かに見えるのか? お前の角膜は濁っているのか?
という疑問が皮質上を過ったが余計な事は言わず「2名です」とスッと軽めに受け流した。
「お煙草をお吸いになりますか?」
「いいえ。禁煙席でお願いします」
「かしこまりました」と店員さんが答えて、オレ達をテーブルへと案内した。
テーブル番号26番の4人掛けのテーブルを指し示すと、彼女は、
「こちらで、よろしかったでしょうか?」と訊ねた。オレは『文法がよろしくないぞ』と胸襟の内で呟きながらも「大丈夫です」と対抗して、曖昧な表現で返した。
店員さんは一礼するとテーブルから離れて、キッチンの方へ戻って行った
外国人が日本語をマスターするのに非常なる苦労を払わなければならない理由が解る様な気がした。通常の会話にも阿吽の呼吸というか、腹芸が必要なのだからな。
店内、木材をふんだんに使用した内装が心を平静にさせるが、レストランとしてはソレが正解なのだろうか? もっとワクワクさせなきゃいけないんじゃないか?
お客さんの心模様をフツフツと沸き上がらせてアレやコレや注文させまくった方が利益率が高いんじゃないのだろうか? もしかしたら、ココはとても良心的なのかも知れないな。
ま、イイけど。
黒いビニール製の作り付けの長椅子、多分木のシートを表面に張ったプラスティック製のテーブル、かと思ったら、無垢材だった。表面はラミネート加工してあるけど。
こういうトコ、贅沢にしているんだなぁ。
席に着くとオレはイトにメニューを差し出して「好きな物を好きなだけ頼んでイイよ」と言った。すると、イトは「ママに、食べられる分だけ、頼みなさいって、ゆわれてる」と答えたので「大丈夫だよ、残しても。オジさんが全部食べちゃうから」と再び、伝えた。
『ホントに?』というような表情を彼女が浮かべたので、オレは、
「オジさんのお腹は底無しなんだ」と言った。
どうも『底無し』の意味が理解できない様で、イトは首を傾げて微妙な顔付きだった。
だから「心配ないさ。イトちゃんは自分の好きな物を好きなだけ食べなさい。イイね」
そう言うと納得が行った様で、彼女はメニューに眼を通し始めた。
『読めるのか、メニュー!』
イトに釣られる様にオレもメニューに眼を落とした。
しかし、メニューが馬鹿デカいな。
チョットした窓くらいあるぞ。まあまあ威圧感あるし。
壁の様にイトの身体を完全に遮蔽しており、全く姿が視界から消え去ってしまっている。
メニューを支える両手だけがポカッと覗いているのが、少し面白くて微笑みを誘う。
このハンバーグ・ファミレスは北海道が発祥の地だと聞くが、いわゆる北海道臭さとは無縁のメニュー構成だった。ラム肉がある訳でもないし、ジンギスカンも提供されてない。
バーグディッシュと呼ばれる、木製のワンプレートの上にハンバーグとご飯とサラダ、そしてプチトマトが1つ載っかったモノが主流らしい。もちろんご飯等が別のハンバーグステーキというモノも用意されているが、周囲を見渡して売れ筋商品を確認した所、お客さんの大半はバーグディッシュを注文している様子だ。
という訳でオレもバーグディッシュを頼む事にした。
あとはドレを選択するか、だ。
胃の腑の状況を鑑みるに結構な量が喰えそうだ。勿論、イトの分も考慮に入れなければならないが、大根卸しが載ったおろしそバーグ以外なら、OKだ。
オレ、生の大根、ダメなんだよね。
アレルギーがあって、食べると胸がムカムカしてしまうんだ。
あと、コーヒーも大量摂取すると、胸焼けが酷い。
一杯位が限界なのです。
アッ!
いかん!
オレはメニューに顔を近付けてバーグディッシュのサラダを注視した。
そのサラダは、キュウリとニンジン、そして『大根』の細切りから構成されていた。
これは駄目だ、回避しなければ。
ほぼほぼ『エッグカリーバーグ』に納まりつつあった自分の決断を変更しなければならなかった。仕方ない。ステーキ類にしよう。鉄板で提供されるとあるから、もしサラダが付いていたとしても、大根に火が通せる。最悪、味噌汁の中にブチ込めば大丈夫だ。
調理されて火が通ってさえいれば、オレの大根アレルギーは勃発しないんですよ。
「何にする?」オレは、悩んでいる風のイトに訊ねた。すると彼女が、
「うーん、ここのお店のカレーって辛いのかな?」
オレは呼び出しのベルを鳴らした。
件の何とか桃子さん似の店員さんがササッと小走りに駆け寄って来た。
「御注文、お決まりに成りました?」
「すいません。あの、このカレーバーグにかかってるカレーって辛いヤツですか?」
「ハイ。当店のカレーは30種類のスパイスをオリジナル調合しておりまして、スパイシーで、結構辛めになります」
オレはイトちゃんに視線を移して「結構辛いって」どうする? と尋ねた。
「ウーン...」イトちゃんは難しそうな顔をしながら唸った。
ま、子供にゃ辛いカレーは無理だから、他から候補を見付け出すまでもう少し時間を貰った方が良いな。そう思って『注文、もう少し待っていただけますか?』と御願いしようとすると、そんな状況を見透かしたように店員さんが、
「カレーの方、辛くないモノに変える事が出来ますが?」どうします? という様な顔付きで質して来た。
「え? 出来るんですか?」
「ハイ。大人の方でも辛いのが苦手って方が意外と多いので。お子様の為に用意してある甘口のカレー『おこさまカレー』のソースに差し替え変更が可能なんです。一応、当店の裏メニューとなっております」と店員さんが言って「というか、実は全店舗で行っております、暗黙周知のサービスです」とニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「カレー、辛くないのに出来るって」オレが伝えると、イトは、
「じゃあ...ウーンと...このエッグカリーバーグ...いいですか?」と訊いてきたので、
「もちろん」じゃ、注文イイですか? と何とか桃子さんに尋ねた。
「はい。承ります」と店員さんはPOD(Portable Operating Device:注文をポチッとする機械)を腰から取り上げて注文を取る態勢を整えた。そんな彼女に対して、オレは、
「この娘に甘口のカレーに差し替えたエッグカリーバーグを1つ。オレはエッグバーグステーキを1つとライスと味噌汁をそれぞれ1つずつ。以上をお願いします」と伝えた。
「ライスとお味噌汁でしたら、こちらの和セットをご注文頂くとサラダも付いてお得ですが」どうなさいますか、と提案してきたが『その大根が問題なのだよ』と胸の内で『チッ』と舌打ちをしながら「いえ。オレ、生の大根、アレルギーあるんです」と正直に吐露した。
『あぁー』という表情をしながら、何とか桃子さんは全てを納得した様だった。
バーグステーキにはガルニとしてサラダではなく、代わりにポテサラとポテトフライが付いているからだ。
「以上でしょうか?」何とか桃子さんが注文を確定しようとしたので、
「イトちゃん、他に何か欲しくない? 甘い物とか?」とオレが尋ねると、イトが、
「うーん...イチゴのアイスかな、これ?」とメニューを指差した。
「ストロベリーソフト。そうだね、イチゴのアイスだよ。食べる?」オレが訊くと、
「いいですか?」とイトが心配そうに訊いてきたので、
「大丈夫だよ。食べられる分だけ食べれば」
「はい」
「じゃ、このストロベリーソフトもお願いします」オレが店員さんを見上げながら言うと、
「かしこまりました。ストロベリーソフトの方、食後にお持ち致しましょうか?」
何とか桃子さんが、そう提案したのでオレがイトに「どうする?」と訊いた。
イトが、コクンと首肯したので、オレは店員さんに「そうして下さい」とお願いした。
「承りました」何とか桃子さんは、そう言ってからペコッと一礼して、立ち去った。
馬鹿丁寧に『ご注文の方、繰り返させて頂きます』などと確認をしない自然な振る舞いが、彼女に対する好印象をオレの心の中に残した。
さっきは『角膜は濁っているのか?』などと毒吐いてしまって、済まない事をしたな、と心中独り芝居で、立ち去る彼女の後姿に向って、謝罪した。
オレ達の前にそれぞれ注文した料理が置かれた。
「お待たせしました。ご注文の品になります」何とか桃子さんがペコッと頭を下げた。
たまにヘッポコな店員だと『食後』に、と念を押していても間違えて料理とデザートを一緒に持ってきてしまう事があるが、この店員さんはその手合いではなかった。
「カレーソースですが、万が一辛い方の物だった場合は遠慮なくお呼び下さい。直ちに、取り替えますので」と彼女は言って、再びペコッとしてから踵を返して立ち去った。
ホウ。
優秀だ、と思った。
先日のガストの何とかアスカさんといい、今日の何とか桃子さんといい、この所オレは、ファミレスの店員さんには恵まれているな。
ソレが何だ、と言われれば、何でもない事だが。
<イヤ、ソレって普通の人間なら、全然普通に立ち居振る舞える事だから>
ソレが出来ない人が世の中に急加速度的に増えている気がするんだよ。
<確かに>
脳内でのミスターとの会話を中止して料理を楽しむ事にする。
物凄く腹減ってるし。先程から胃の腑の要求度の激しさがマシマシだし。
「じゃ、食べよっか?」イトの顔を探った。
「うん」彼女がコクンとした。
「頂きます」「いただきます」
愛鷹PAの時よりも声が揃った気がした。
イトは箸を取り上げて最初にまずサラダから食べ始めた。オレは少し疑問に思ったので、
「サラダからでいいの?」と訊ねると、
「ママが、お野菜から食べなさいって、ゆう」とイトがオレの顔を見上げながら答えた。
結衣、食べる順番で血糖値の上昇具合が違ってくることはオレも承知してるけど、イトは5歳だぞ、まだ。そんなのどうでもイイんじゃないか? との想いが皮質に湧出したので、
「ソレは気にしなくても良いから、好きな物を好きな順番で食べた方が良いよ」と伝えた。
イトは少しビックリした様子を見せたが、やがてコクンと頷いて、ニコッと微笑んだ。
それでも彼女はサラダに箸を伸ばそうとした。だが途中でその手を止めて顔を上げ、オレを正面から真っ直ぐ覗き込む様に見詰めながら「ホントに、いいの?」と訊いた。
『うん』と大きく一つ頷いた後に「いいんだよ」と彼女に促す様に言う。
するとイトは安心した心模様を表情にアリアリと浮かべながら目玉焼きとカレーが載せられたハンバーグに箸を付けた。小気味良い箸使いを見せ、一口分の黄身・白身・カレー・ハンバーグのワンセットを作ると、器用にも一滴も溢さず大きく開けた口の中に、入れた。
彼女の顔に嬉しさが到来したのを感じた。しかし一瞬だけだったが、同時に少しばかりの悲しみも表情の中に浮かび上がった事も見逃さなかった。
何故だろう?
期待が外れてしまった時の見られるような『悲しみ』の微表情だった。(注2)
そう思ったが、沈思に耽る暇をオレの胃の腑は与えてくれなかった。
だから一旦この問題は脇に措くとして、竹で組み上げられたバスケットからカトラリーを取り上げ、自分の食事に勤しむ事にした。
パパが「スキなモノを、スキなじゅんばんで、たべた方がイイよ」ってゆってくれたので、
アンシンしてハンバーグをたべた。
とっても、おいしかった。
でも、しあわせの音はナラなかった。
ワタシ、パパのコト、いっぱいスキになってたから、ゼッタイなるっておもってたのに。
もっとイッパイ、もっとイッパイ、スキにならないとダメなのかな?
マチダのパパじゃなきゃ、ダメなのかな?
こっちのパパも、ホントにけっこうなカンジでスキになってるんだけど、な。
チョーやさしいし。
ナンとなく、ワタシをまもってくれてるって、かんじるし。
まだ、スキが、タリないのかなぁ?
どうしたら、しあわせの音、なるんだろう?
わかんないや。
ソウおもって、チョットだけ、かなしかった。
「ふぅ」
イトが吐息というか溜息の類いのモノを、吐いた。
視線を送ると、明らかに食べ過ぎている様子が窺え知れたのでプレートの上に眼を移すと5分の3以上が残されたエッグカリーバーグの残骸が網膜に映像を結んだ。
この娘、綺麗に食べ残すな、とオレは妙な感想を抱いた。
目玉焼きとカレーとハンバーグとご飯がそれぞれ5分の2ほど公共事業の掘削工事の様に綺麗に削り取られている。オレは、
「お腹、一杯に成っちゃった?」とイトに尋ねた。
「ウン」彼女はコクンとして肯定した。
「アイス、食べられそうかい?」オレが彼女の胃の腑の蓄積状況を心配すると、イトは、
「甘いから、多分」だいじょぶ、コクンと首をやや傾げながらも首肯した。
だから店員さんを呼ぶ為にチャイムを押した。
件の何とか桃子さんがスタスタとやって来て、
「ストロベリーソフト、でしょうか?」とイトの顔に視線を走らせた後、オレに尋ねた。
「ハイ、お願いします」と答えると、彼女はイトの前のプレートに視線を移してから、
「こちら、お下げ致しましょうか?」と訊いてきたので、
「いえ。私が残りを片付けてからで、お願いします」ペコッとしたら、
「承知いたしました」と何とか桃子さんは一礼の後、立ち去った。
「お待たせしました」の一言と共にコトンとイチゴアイスが盛られた器を卓上に置いて、何とか桃子さんが一礼してから、立ち去った。
彼女は無駄な行為を一切しない。そこはオレにとって非常に高評価なポイントだ。
イトはニコッと破顔してスプーンを取り上げてストロベリーソフトに夢中になった。
甘い物は別腹というのは本当なんだなぁ。(注3)
オレはイトの食べ残しを喰いながら、思った。
え、何?
大根、どうしたって?
大丈夫。
ハンバーグステーキが載ってた鉄板がまだ十分に熱かったから、ソコに移動させて入念に火を通してから、念の為にホノ暖かい味噌汁にブチ込んでから、胃の腑に納めた。
ま、イトの手前、アレルギーで苦しむ事になっても喰わなければならなかったけど。
結果として大丈夫だった。
アナフィラキシーは起こらなかった。
良かった、良かった。
オレの腹も満たされたし、良かった、良かった。
注1:DCTについて。
DCT(Dual Cluth Transmission)とは、マニュアルトランスミッションの構造を持って、電子制御された2つのクラッチを使って自動変速するトランスミッション。1速、3速、5速の奇数段と2速、4速、6速などの偶数段を受け持つクラッチを別々に働かせ、交互にシフトアップやシフトダウンを繰り返し変速する。
このシステムでは、トルクの切れ目のないスムースな変速が可能である。
因みにR35GT-Rは6速DCTである。故にオートマ限定免許でも運転可能。
注2:微表情について。
微表情とは、抑制された感情が無意識の内にフラッシュの如く現れては消え去る微細な顔の動きの事。1960年代にハガートとアイザックという研究者によって発見された。
後に心理学者のポール・エクマン博士によって実用化された概念である。
人間は言葉選びを巧妙にコントロールする事で自分の本当の思惟や感情を隠蔽する事が出来る。同様に表情・声質・身体の仕草も巧みにコントロールして相手から自分の本音を隠す能力を保持している。しかし、コレらのチャンネルを管理制御するのには其々に難易度の差異がある。
感情の漏洩し易さ、つまりコントロールが困難な順番でいうと、1)身体の動作 2)声質 3)表情 4)言葉使いである。しかし、確かに身体の動作を見れば『本音』が解るとはいえ、表情や声質の方にこそ詳細な情報が込められているのも事実である。
例えば、表情から、相手が今抱いている軽蔑感・嫌悪・悲しみ・罪悪感を明確に区別して読み取る事が出来るが、相手の仕種からは、軽蔑感・嫌悪・悲しみ・罪悪感を明確に区別して認識する事は不可能である。
故に0.2~0.5秒ほどフラッシュの様に現れる微表情と微動作(抑制された感情が無意識の内に提示範囲外に断片的に表出する身体の動き。提示範囲とはアゴの下から腰の上を示し、断片的とは体の一部分を指す)そして声の質・トーン・『えー』とかの言葉にならないパラ言語・言葉使いの変化など、これ等を注意深く観察し、情報を統合する事を通して総合的に『相手の感情』を認識する事が出来る。
人間が感情をコントロールする時に採用する戦略は大まかに2つに分類できる。
本当の感情を抑える『抑制』と、感情を過剰に出す『表出』である。
表情を使って感情を制御するのには次の6つの戦略がある。
1.強化:本当に感じている感情を強める事。大袈裟にする事
2.弱化:本当に感じている感情を弱める事。感情を押し殺して平静を保とうとする事。
3.中立化:本当に感じている感情を、何も感じていないかの様に中立表情を浮かべる事。
いわゆる『ポーカーフェイス』である。
4.修飾化:本当の感情に新たな感情表現を注釈として付け加える事。
5.偽装化:本当に感じている感情、若しくは何の感情も抱いていない時に、本当に抱いていない感情を、さも感じている様に演技する事。
6.隠蔽化:本当に感じている感情を、別の感情で隠す事。
尚、表情には万国共通性がある事が確認されている。
つまり日本人であれ、米国人であれ、同じ感情を抱いた時に浮べる表情は同じなのだ。
万国共通な表情は『幸福』『軽蔑』『嫌悪』『怒り』『悲しみ』『恐怖』『驚き』の7種。
あと万国共通なんじゃないかな? と見做されて研究中であるモノに『羞恥』『恥』『罪悪感』『畏れ』『誇り』『楽しみ』『愉しみ』『興奮』『快楽』『安堵』『満足』の11種がある。
微表情は訓練を受ければ誰でも読み取れる様になる。
極稀に生得的にこの能力を備えている人々がいるが、彼等をエクマン博士は『ナチュラル:Natural』と呼んでいる。意味は丸きりそのままで『生まれつきの人』である。
研吾くんは、ジイちゃんから微表情を捕捉する訓練を受けてはいるが、実はナチュラルである。
注3:別腹について。
満腹であっても人間は甘い物を眼にすると胃に空きスペースが生じる事が科学的に証明されている。尚、甘味に関しては、『甘いから好き』なのではない。舌の味覚センサーを意図して遺伝的に欠損させたノックアウトマウスでも砂糖に嗜好性を示す。つまり脳は甘さを欲しているのではなくて、栄養価の高い食餌のシグナルである『糖分』という化学物質を生得的に欲しているだけなのだ。
『ホッ』とひとつ溜息をついてから研吾の画像を閉じて、またiPhoneのパネルにマップを表示させると、ピンが動き始める瞬間だった。研吾と織が1時間弱、留まっていたのは、このアパートの近くにもあるハンバーグがメインのファミレスのチェーン店だった。
健爾が失踪する前、彼がまだ元気だったころは私と織の3人でよく行ったファミレスだ。
織はソコがお気に入りみたいで『お出かけするけど、ドコがいい?』って訊くと、いつも決まってその『お店に行きたい』って、せがんだ。
ワンプレートにハンバーグとご飯が盛られていて、その上にはカレーがかけられてて、仕上げに目玉焼きが載せられた『エッグカレーバーグ』っていう料理が、織の好みみたいで、ソコへ行くと、彼女はいつもソレを頼んだことを想いだした。
毎回頼むので、何も言わなくても、お店の人が甘口のカレーに替えてくれてたっけ。
いつも織は、食事中ずっと『キャッキャッ』と嬉しそうに明るい笑い声を立ててたことを、昨日のことみたいに憶えてる。
今日も彼女はエッグカレーバーグだったんだろうか?
視線を画面から外して、天井を見上げた。
白い石膏ボードが、まるで映画のスクリーンみたいに、親子3人が食事してるイメージを浮かびあがらせる。
4人がけの木のテーブル。作り付けの黒の長椅子の片っぽに私と織が並んで座ってる。
織がいつものように『キャッキャッ』と嬉しそうに明るい笑い声を立ててる。
でも、向かい合わせの長椅子に1人で座っているのは、健爾じゃなかった。
研吾だった。
私は、研吾と織との3人でこのファミレスに行きたがってる自分を発見した。
でも、もう動揺はしなかった。
だって、私がホントに好きなのは、今の研吾なんだって気付いちゃってたから。
そして3人だけじゃない、別のバージョンのイメージも浮かんできた。
研吾の隣に小さな男の子が1人。
私と研吾の子供。
別にもうプレッピィスタイルじゃなくてもいい。
研吾との子供なら、それだけで良かった。
そしたら、とうとう溢れでちゃった涙がスーッとコメカミを伝い降りてった。
何で、自分が泣いてるのか、私はよく理解してた。
今のままじゃ、絶対にあり得ない未来だから、だ。
何て言うんだっけ?
心の底から願うこと、を?
あぁ、そうだ。
漢検で習ったっけ。
『渇望』だ。
涙が渇き始めたので、また、視線をiPhoneの画面に落とした。
ピン、だよね。マーカーだったっけ? コレ?
ピンだかマーカーだかが、スリスリと動いてる。
その動き方はとてもコミカルなんだけど、今の私の眼には悲しげに映る。
『渇望』か...
そうだ。
私は研吾との生活を渇望してる。
結婚してくれなくても、いい。
ただ一緒にいてくれるだけで、いい。
傍にいて、ニカって笑ってくれてるだけで、いい。
そんなコトを考えながら、私はマップ上をピンが移動をしてくのをボーッと見つめ続けてるだけだった。
そしたら、再び視界がボヤけたので、あわてて手で眼をぬぐった。
拭き終わって、視界がクリアになると、再び地図上のピンの動きを眼で追った、
氷の刃の上を歩くような真剣さで。
まるで、そうすると研吾との関係が復活するかのように。
R32を走らせている国道150号線は焼津市から基本的に南下を続けていたが、御前崎の岬の近辺を通過しようとする位になるとグルッと右にカーブを描いて西へと進路を変更する。ここからはとても快適な移動経路へと豹変する。ほぼほぼ信号が無くなるのだ。
ま、あるっちゃあるんだけど、街らしき街が無くなるので、常に青信号がデフォとなる。
そして平日という事も関係しているとは思うが、前後数km、走っているのはオレ達だけだ。
R150のアスファルトの上に他のクルマの影は落ちていなかった。
何でこんなにガラガラに空いているかというと、ココと並行して東西を結ぶ路線の数が多いからだ、とオレは推量する。南側から名前を上げてくと、ここR150、R1、R1バイパス、東名、新東名そして中央道。これだけありゃ他の路線と比較して少しだけ不便なR150が、人影まばらな廃道化、というよりも『ゴーストタウン』化してくるのも無理はない。
だからイトに話し掛けるのには絶好の時期だと判断してBOSEのオーディオシステムのノイズキャンセリング機能をONにして静寂を到来させてから、オレは彼女に話し掛けた。
「ね、イトちゃん」
「なんですか?」車窓を流れ過ぎてく風景を見ていたイトがこちらに向き直って、尋ねた。
「ウーンと...」
しまった!
話すべき内容は考えていたけど、どういう語彙使いで伝えるかは全くのノープランだった。
仕方ない。
手探りしながら、話して行くか。オレは、
「あのさ。イトちゃんがオレ...ボクの事を『オジさん』って呼ぶの止めないかなぁ?」
「どうしてですか?」イトが不思議そうな表情を浮かべた。
「ウーンと...イトちゃんが『オジさん』って言うと、周囲の...ボク達の周りの他の人達が『ウンッ?!?』って感じになっちゃうんだ」オレは用心しながら言葉を選んで、
「この人達、大丈夫か? って思っちゃうんだよ」と話を続ける。
『ウン?』という感じでイトが首を傾げた。よく理解できてない事が見て取れた。
何でこんな事をイトにお願いしているかというと、先ほど食事を摂ったファミレスで、イトがオレの事を『オジさん』と呼んだ時に、その言葉に件の店員さん、何とか桃子さんが過敏に反応して少し眉を顰めながらコチラに訝しげな視線を送って寄越したからだった。
その時、パッと『マズイな』という思案が皮質に湧出した。
何気なくイトが発する『オジさん』という言葉が危機的状況を招きかねない事実にオレは思惟を全然及ばせていなかったから、少し狼狽えもした。
イトが超絶的に綺麗で可愛い女の子っていうのもソレに拍車を掛けているかも知れない。
考え過ぎなのかも知れないが、このままでは女の子を連れ回している不審者と取られかねない。この時、その危険性は高いと、ミスター直感がオレの耳許で囁いたのだ。
こういう時は素直に直観に従った方が良い場合が多い。だから、オレは、
「ボクの事を...そうだな、『ケンゴ君』って呼んでくれないかな?」とイトに頼んだ。
「...『ケンゴくん』...ですか?」イトが『どうしよう』という感じで悩んでいる。
「本当は『パパ』って呼んでくれると一番都合が良いんだけど、それじゃ『嘘』吐いちゃう事になるかも知れないし...イトちゃんも『パパ』っていうの嫌だろ? オジさんの事?」
イトが『ウーン』という感じで首を傾げながら、何かを迷っているみたいだった。
「イトちゃんも『パパ』っていうのイヤだろ? オジさんのこと?」って、パパがゆった。
べつにイヤじゃないけど。
パパは、じぶんがワタシのホントのパパなのか、ワカラナイから『パパ』ってよんでほしくないのかな?
ワタシのコト、ホントにタイセツにおもっててくれてるのは、ナンとなくカンじてるから、
だから、パパってよんでも、イイっておもってるんだけど、な。
ワタシ、じぶんにはイマ、こうやって『パパ』って、ゆってるし。
でも『ケンゴくん』か。
ナンか、いいカンジ。
音のカンジがイイ。
けっこうイイかも。
イトが決意を固めた様な雰囲気で、
「わかった。『ケンゴくん』って呼ぶ事にする」と、少しだけ曖昧を含んだ微笑を浮かべた。
「ありがとう」オレはホッと安堵の吐息を吐いた。
すると何故だか、イトが恥ずかしそうに視線を太腿の上のテディベアに落とした。
『何だか変な事、言っちゃったかな?』
少しの間テディベアと向き合って何かを囁いているみたいだったが、やがて顔を上げてオレにニコッと笑顔を渡してきたから、再び息をついて安心した。
パパが、ううん、ケンゴくんが、また「ありがとう」ってゆった。
ナンでか わからないけど、またムネのトコがジーンって あったかくなった。
うれしかった。
でも、ナンか、チョット、はずかしかったから、シタをみて、テディさんにおハナシした。
『テディさん、ケンゴくんだって。ナンかヨクない?』
テディさんは、だまってる。
ナニもゆわないけど、おんなじコトおもってると、ワタシはおもう。
だってテディさん、ニコニコわらってるから。
だから、アンシンしてパパ、じゃないや、ケンゴくんを、みあげて、ワラッた。
そしたらケンゴくんも、ニカってワラッた。
ケンゴくんの『ニカッ!』にドキッとした。
ワタシは、また、はずかしくなってテディさんに『ねぇ』ってはなしかけた。
イトがR32の排気音を好んでいるのでノイズキャンセリング機能をOFFにした。
そのまま西に進路を取ってR32を走らせ続けた。
海岸の脇に植えられた防砂林沿いを進んでいたR150は天竜川に近付いて行くに連れて道沿いの建物の数がドンドンと増して行った。
段々と『街感』が高まって行く。
天竜川に掛かっている橋を渡る頃には、周囲の風景は日本の何処ででも見られる田舎のロードシーンに成っていた。つまり近代日本に遍在する、見慣れた郊外の原風景だった。
ファミレス。スーパーストア。コンビニ。何かの事務所。不動産屋。土建業。町中華。
小料理屋。スナック。ドラッグストア。特定郵便局。自転車屋。自動車整備工場。バス停。
実際には乳児を載せる事が不可能な手押し式の小さな『乳母車』を押す老婆。交通を妨げているという自覚も無く2人仲良く並びながら自転車で路肩を逆走してくる高校生の馬鹿ップル。ターンシグナルランプを点滅させる事なく、唐突に左折する軽自動車のワゴン。
『ビーン』と甲高い音を撒き散らかしながら商品が冷めない様に全速で走るピザの配達便。
ドミトリー効果なのか、揃った歩調で細過ぎる脚を運んでいる下校途中の女子小学生2人。
子供を前後に2人載せた自転車を疾走させる主婦。そして並び立つ、一般の家屋の群れ。
1時間ほど前まで交通の流れはとても気持ちの良いモノだったが、今は多少停滞気味だ。
大体、クルマの量が多過ぎる。
渋滞じゃないだけ、マシだが。
R150は石原町という交差点でR1とクロスする。
そこで左折してR1に入った。こちらの方は片側2車線なので流れが幾分かスムースだった。
西に進路を取った。
浜名湖の『今切れ口』と呼ばれている、遠州灘との連結水路の上を通っている浜名バイパスという名称の自動車専用道路の始点である坪井町という交差点で、西へと向かうバイパスをスルーして右折、北へと進路を変更した。
大きな河川に掛かった『とびうお大橋』という橋を渡ると、直近の目的地であるイオンモール浜松志都呂が眼に入ってきた。(筆者注:河川ではなく、もう既に浜名湖の一部です)
このイオンモールという施設が日本の郊外の原風景の1つとなってもう何年も経過した。
それなりの規模の街なら2~3個は建設されているだろう。
浜松という都市は政令指定都市だそうだから、5~6個位は立地しているかも知れない。
と、思って、ファミレスにいた時に食事を喰い終えてから、グーグル先生で検索すると、モールと呼ばれるイオンは2つ、市内の端っこ同士に存在している事が解った。
思ったよりも少ないな、と感じたが、別にどうでも良い事だから即座に思念から消した。
2つの内、進行経路を上手く取れば必要以上に時間をロスしないで済む方に立ち寄る事にしたのだ。イオンモールなら服飾を扱う店もあるだろうし、靴売り場もあるだろうと簡単に推量ができたから、ここでイトの身に着けるモノ一式をビシッと揃える成算を立てていた。
別に高級品に拘っている訳では無いから、ココで十分だ。
浜松の市街地中心部、浜松駅の傍には百貨店が1つあるらしいが、一体どの位の規模なのかサイトの情報からではよく読み取れなかった。店内にショップ数はソコソコあるらしいが品揃えのクオリティが不明だ。ま、新宿・伊勢丹程は無かろうて。一地方都市だし。
それに浜松の街中に分け入ってゆく暇が惜しかった。そんな事してたらかなりの時間ロスになる事は考える必要も無い程、自明の理だった。
ま、アクアスキュータムはあるらしいけれど。(注1)
それは、松島先生が好んだブランドだったから、知っていた。
冬季になると、いつも先生が首の周囲に巻くマフラーの灰白色の地色に群青色と茶色の線が走るチェック柄がバーバリーよりも落ち着いた雰囲気を醸し出している情景を、オレは好ましく思ったものだ。
しかし子供服とか扱っている様なブランドでは無いだろうから、ここはスルーで十分だ。
あのチェック柄を身に纏ったイトの姿態を眺めてみたい気持ちが無いでは無かったけれど。
オレはイオンモール浜松志都呂の一階の駐車場にR32を停めた。
平日の午後だからか、空いているパーキングロットの方が多かった。降りる前にオレは、
「イトちゃん。ここで服とか買っちゃおっか」と伝えると、
「服?」首を傾げて彼女が訊いて来る。
「そう、服」
「服なら、着てるよ?」
「そういうヤツじゃない。もっと素敵で、もっとキミに似合う服」とだけ、答えた。
しばらくイトは怪訝そうな顔付きをしていたが『ま、いっか』と納得した感じになって、コクンと首肯した。
「フク、かおうよ」ってパパ、じゃなくってケンゴくんがゆったから、
「フクなら、きてるよ」ってゆった。そしたら、
「そういうヤツじゃない。もっとステキで、もっとキミに、にあうフク」ってゆった。
だから、もっとステキなフクって、もっとにあうフクって、ナニ? っておもった。
でも、わからなかったから、とりあえず『コクン』ってしたら、
ケンゴくんが「じゃ、いこっか」ってゆってドアをあけた。
イトと手を繋いでプラプラと館内に入って行って、エントリーホールの隅に設置してあるラックから館内の案内説明書を一枚取り上げて広げ、目的の場所を探した。印刷された文字情報と地図情報から、これから訪れるべき店舗が何カ所か、判明した。
一軒目は子供服の専門店と明記された『Norm Core For Children』というお店だった。
2人で手を繋ぎながら、店の中に入って行く。
店内には女性が1人、立っていた。
身長はオレと同じ位でサッパリとした肢体を黒のパンツスーツで包み込んでいる。
足許に一瞥を走らせると、低めのヒールでベージュのパンプスだった。
女性の歳を一目で見抜く程の眼力をオレは備えていないので何とも言えないが30前後だと思われる、大人の雰囲気を周辺に散布している彼女がコチラを見て笑顔を浮かべながら
「いらっしゃいませ」と挨拶を渡してきた。
多分、ボブと呼ばれるショート・カットに仕上げられた栗色の髪が素敵だった。
よく見ると上がった口角と目尻にはそれなりの皺が寄っているから、事に依るともう少しだけ歳を喰っているのかも知れないが、それでも素敵な笑顔に変わりはなかった。
高慢ちきなお店で店員が見せる接客用の上辺だけ取り繕う為の薄っぺらい笑みではなく、心が込められた暖かい微笑みだった。
『ここなら信用が置けそうだ』とオレに一瞬で思わせたから、これがもし接客用だとしたら、彼女の演技力は超一流という事になるだろう。カンヌとかで主演女優賞間違い無しだ。
オレとイトは、そろりと店内へ足を踏み入れる。そして彼女に声を掛けた。
「すいません。私はファッションに疎くて。
だからこの娘に似合いそうな服をご提案頂けませんか?
もし、この娘が気に入ったら購入したいと考えています」女性はイトに眼をやると、
「とても綺麗なお嬢様ですね。畏まりました。それでは数点、合わせてみましょうか?」
と答えた。そして「まず、お嬢様のサイズを測らせて頂けますか?」とオレに訊いた。
必要な作業だから、もちろんオレは頷いて、承諾した。
彼女は慣れた手付きでイトからスカジャンを脱がしてサッと折り畳むとカウンターの上においた。服飾関係の人がよく使用している細めのテープメジャー(巻尺)でイトの身体のアチコチのサイズ、首回りだったり裄丈だったり胸囲やウエスト、腰回りなどを素早く計測しながらメモを取った。イトの身体に関する数値を得ると、店内に飾られている服飾品にザッと鋭い眼を走らせて、ポンと軽く1つ頷いた。
既に彼女は幾つかプランを組み立て終えた様子だと、窺えた。
ナンか、いいカンジのおみせだった。
イイにおいがイッパイしてた。
キレイなフクがイッパイあった。
おネエさんもキレイだったし、やさしそうで、ホントにいいカンジだ。
だから、どゆフクなんだろ? っておもった。
「最初にご提案したい一揃いが、こちらになります」
彼女がラックから取り上げたのはピンクのワンピースの様に見えた。
「これは緩めのAラインのワンピースになります。
Aラインがあまり強調されていないので色々なTPOで活用できると思います。
この生地は僅かに青みがかった極淡いピンク色をしています。
この色はベビーピンクと呼ばれる色で、女の子のベビー服の標準色になります。現在ではこの色物全てをベビーピンクと呼ぶ様になりました」そう言ってカウンターの上に広げて、
「ここ、袖口と襟元と裾にローズピンクの縁取りが施されております。ベビーピンクと比べると濃くてやや紫みの、ピンクの薔薇の様な明るい色合いです。
胸許に切返しのリボンが縫製されていますが、これもローズピンクです。
このワンピースにはレースやフリルといった装飾が殆んど施されていません。
とてもシンプルですが上品さに満ちていると、私は感じています」と続けた。オレは、
「確かに、シンプルですが淋しいって感じはしませんね」ワンピース全体に目を走らせた。
「素材が上質なエクストラウルトラファインのオーガニックコットンなんです。どうぞ、触ってみてください」そう促されて、オレとイトは服の上に指を走らせた。するとイトが、
「ふわっふわでスベッスベ!」と驚きの声を上げた。店員さんが微笑みながら、
「コレは米国、テキサス産の物なんです。オーガニックコットン、つまり有機栽培された綿は柔らかい肌触りが特徴です。オーガニックコットンは繊維が細くて短いので肌によく馴染みます。だから柔らかく感じるんです。そういう柔らかさを備えていますので、産まれ立ての赤ちゃんを包む『おくるみ』やベビー服等にもよく使用されるんです。
綿の有機栽培が難しいので価格が割高になってしまうのが欠点なんですけども。
あと、熱でくっ付きにくいので加工が困難という事もあって、全てを縫製しなければならない点も高価格の原因の一つですね」と説明した。
彼女はワンピースの上に薄いピンク色のカーディガンを重ねた。
「このワンピース、袖口がほぼノースリーブに近いので秋が深まるとお召しになり難いと思います。そこで、この『淡墨桜色』のカーディガンを上から羽織ると丁度よろしいかと。
これは細番手のカシミアですので、保温性は抜群です」
カーディガンの仄かに灰色がかったピンクという色合いからはそんなに暖かみを感じ取れなかったが、触ってみる様に促されて手を触れてみると流石にカシミア、保温性の高さは容易に期待できる。店員さんがカーディガンの上に純白の靴下を重ねた。
「これは生地自体に伸縮性を備えさせる為に裏糸だけ化繊を使用した麻93%の靴下です。
意外に思われるかもしれませんがコットンって吸水性があまり高くないんです。それに対して麻は水分を良く吸ってくれて乾くのも早いので、蒸れ易い靴の中でも常にサラサラの肌触りです。締め付け感もなく、足首に跡が残りません。とても快適なフィット感です」
そして彼女は最後にバックルームから持ってきた箱の中から革靴を一足取り出した。
「女の子用のモンクストラップ付きの革靴です。計測したサイズだとコレがよろしいかと。
この靴のストラップは調整可能になっておりますので、結構サイズは柔軟に対応できます」
小ッちゃなヘヤのなかで、おネエさんが、きがえるのを、てつだってくれた。
ピンクのフク、とってもスベスベしててキモチいい。
このクツシタ、ナンかヒンヤリする。
でも、イヤじゃない。チョーいいカンジ。
「おジョウさま。カミのケがすこし、みだれていますから、ブラシでととのえましょうね」
そうゆってワタシのカミのケをトイてくれた。
ヤッパリ、このヒト、とってもヤサしい。
それに、このおネエさんから、いいニオイがしてくる。
そう、おもってたら、おネエさんと目があっちゃって、すこし『ドキッ』とした。
そしたら、おネエさんが『ニコッ』ってわらった。
だから、ワタシ、こんなオトナのヒトになりたいって、おもった。
イトが試着室から出てきた。
『ほぇ』という声にならない驚嘆の呻き声が無意識の内にオレの口から吐いて出た。
凄ぇ。
ホントに凄い時には感嘆符が語尾に付かない事もあるんだな、とオレは悟った。
前にイトの事を『可愛いけど、山本直樹の漫画のヒロインみたく薄幸の佳人』の様だと評したけれど、衣装チェンジだけでココまで変わるモンかねェ?
江口寿史が描く所の『洗練されて垢抜けた超絶的にイケてる女の子』みたいに変身した。
試着を手伝ってくれた店員さんが「お嬢様の御髪、少し乱れておりましたのでブラシで梳かして整えてみましたが、よろしかったでしょうか?」と尋ねてきた。オレは、
「ありがとうございます。男性ではそういう所にまで気が至らなくて」と詫びると、
彼女は『フフッ』と微笑んだ。オレが、
「動画を撮っても良いでしょうか?」と訊くと、店員さんは少し眉を顰めて訝る様な表情を浮かべ、明らかに戸惑っているみたいに感じ取れた。
だから「後で動画をこの娘に見せてドレが一番好みなのか決めさせたいのです。鏡よりもそちらの方がこの娘にとってより判断し易くなると思いますので」とオレが説明すると、
彼女は『あぁ』と納得が行ったみたいで「分かりました。どうぞ」と許可してくれた。
iPhoneで動画を撮りながらオレはイトに「どう? 良い感じかい?」と訊いたら、イトが、
「ウン。すっごく良い感じ。それにコレ、とっても動きやすいよ!」と喜びと共に答えた。
店員さんが「この服は動体裁断技術を使用して裁断・縫製されているので、動き易さも抜群なんです」と言い添えた。(注2)
イトの眼がキラキラと輝いているのがよく解って、オレはとても嬉しかった。
「お次ですが、最初の一揃いはガーリーな方向へ大きく振りましたので、ガラッと変えて『森』をイメージさせるセットアップをご用意いたしました」と店員さんは言って、
一揃いの服飾品をカウンターの上に並べ始めた。
「こちらがフィールドコートです。
フードが付いているので一見ダッフルにも思えますが、そこまで重たくない印象です。
この色味はマホガニーと呼ばれます。
あ、そうです。
樹木のマホガニーから採られています。
赤みが強い茶色ですね。
コレにはアンゴラヤギから採れるアンゴラウールを使用しています。だから薄手でも非常に保温性が優れていて暖かいです。
どうぞ、お触れになってみて下さい。
非常に滑らかで心地良い感触でしょう?
そして、それに合わせるのがコチラのカシミアのライトウエイト・セーター。
エボニー、つまり黒檀の色です。襟元がハイネックになっているので暖かい空気が逃げませんから、北の方から不意に寒気が降りてきても大丈夫です。
それで、こちらのプリーツが付いた膝上丈のミニスカートを合せてみたいと思っています。
え?
ああ、そうです。
このチェック柄は『アクア・スキュータム』のチェックです。
通常は灰白色の地色に茄子紺、イギリスの方々は『ロイヤル・ブルー』と言い張るのですけど、それとハシバミ色のラインが交差していて、とてもシックな印象を受けるチェック柄なのですが、この時代、いえ、このロットの地色は、どちらかというと亜麻色に近い白で、その為でしょうか、全体として茶系統色が強調される印象を受けます。
いえ、決して経年劣化からきた色味ではございません。
これは私の想像に過ぎませんが、多分染料の割合を間違えたか、染料を納入する下請けのメーカーを切り替えたのか、そのどちらかだと思われます。
おそらくの所は、後者でしょう。
しかし、そのおかげでよりシックさが増しています。怪我の功名という感じでしょうか?
これはロンドンの古着専門店で仕入れた物です。五点だけ倉庫から出てきたそうなんです。
だから、古着なのに未着用という、とても面白い存在ですね。
もちろんリージェントストリートにあるアクアス本店の取り扱い、正真正銘の正規品です。
あぁ、『Aqua・scutum』なのに『アクアス』と略するのは日本だけの慣行だと思います。
まぁ、ソレで通じるので良いんじゃないかと、私なりに解釈していますが。
ここのウェスト部分が調整可能になっていますのでお嬢様の成長具合に合わせて伸長可能です。多分、思春期くらいまで着用が出来るかも、と想像できます。
ソックスは白では無くて、利休色、つまり強い緑みの薄茶色です。
勿論これも先程と同じで、素材は麻です。
ここに合わせるのが、この黒鹿毛色のアンクルハイのブーツです。
靴下、結局隠れちゃって見えなくなるんですが、消臭を確保するためにも必要ですから。
このブーツにはバックスキンを使用しています。
あぁ、そうです。シカ皮を鞣した素材です」
店員さんにコーディネイトされた服飾品を身に纏ったイトが、試着室の前で一回クルッとターンをした。スカートがヒラッとしたので、何故だかオレは狼狽して視線を外した。
「ねぇ、ケンゴくん。チャンと見て」イトが抗議をしてきたが、何やら気恥ずかしいので、
「うん。チャンと動画、撮ってるよ」と誤魔化した。
『もう!』と、イトが頬をプクッと膨らませた。
そういう仕草も可愛いと感じてしまう。
「お父様、大丈夫です。お嬢様にはアンダースコートをお召し頂いていますから」
お父様と呼ばれて身体のアチコチがこそばゆく面映ゆい感覚に襲われた。誤魔化す為に
「えーと、『underskort』って、所謂『見せパン』ってヤツですか?」と訊く。
「そうです」
なら大丈夫か。
オレは安心して画面の中のイトを見詰め直した。
妙な雰囲気に変調してしまったこの場を取り繕うために、オレは店員さんに、
「しかし、緑色を1つも使わないで『森』を表現できるのは素晴らしいですね」と言った。
「有難うございます。
でも利休色が緑と言えば緑に見えなくもないですけど」と彼女は笑った。
「千利休が好んだから『利休色』と呼ぶんですか?」オレが質問すると、店員さんは、
「いいえ。この色と名前は江戸時代に初めて登場しましたから、安土桃山時代に活躍した千利休、つまり表千家、裏千家、武者小路千家の始祖と直接の関係はない筈です。
おそらく江戸の染め屋や呉服屋が『利休っぽい』という事で名付けた名称だと思います。
利休鼠・利休茶・利休白茶など、緑みのくすんだ色には必ずと言っていい程、利休の名が付けられていますから」と答えたから、オレは『流石はプロだ』と胸襟の内で感嘆した。
(筆者注:アンダースコートの正しい英語表記は『underskirt』で、コレって和製英語)
「次は『海』をイメージしてみました」
店員さんが用意したのは、サックスブルーの長袖シャツに、デニムの八分丈のパンツ。
(こういうのを、カプリパンツまたはサブリナパンツと呼ぶと店員さんが教えてくれた)
フードが付いた生成り色のパーカー。
ジョンブリアンという色名の鮮やかな黄色の麻製でくるぶし丈の靴下。そして...
「あえて冒険してココにオレンジ色、例えばクチナシとベニバナで染める『黄丹』の様なオレンジを合せてみたいのですが、残念な事に、ただ今手持ちの品がございません。
ただウチから2階へ降りて頂くとモールの中ほどに『Snappy’s』というスニーカー専門店がございますので、そちらを伺って頂くと、多分在庫があると思います。
お嬢様がこの一揃いをお選びするならば、私が電話で確認いたします」店員さんが言った。
「有難うございます」と深厚な彼女の配慮にオレは感謝した。
その後、都会をイメージしたというセットアップが一揃いと純潔さをイメージしたというセットアップが一揃いを店員さんはオレ達に提案してきた。
合計で5セット分、イトはその全てを試着させて貰った。
オレと2人で動画を見比べながら、イトが『ウーン』と迷いに迷っていた。
「ドレも素敵だねェ。だから選び切れないかな?」オレが訊くと、イトはコクンと頷いて、
「ドレが良いと思う、ケンゴくん?」とアドバイスを求めてきた。だから、
「ドレか1つ選べないなら買っちゃおっか? 全部?」とオレが答えると、
イトが『エッ!?!』と弾かれた様にオレの顔を見上げた。
彼女はその小さな顔に大きな驚きの表情を浮かべていた。
「...だって、お金いっぱい掛かっちゃうよ?」と心配そうに訊いてきたので、オレは、
「大丈夫。任せておきなさい」と答えてから、店員さんに「こちらはカード使えますか?」と尋ねた。一応お店に入る前にクレジットカードが使用できる事を入り口付近に貼られたステッカーで確認していたけれど、お店によっては手数料支払いの関係でカードの使用を忌避する所もあるから、用心の為の再確認をする。
店員さんも驚きを隠せないまま「...はい...承っております」とだけ、答えた。
「大丈夫だって。ね、買っちゃおう。結...ママにも見せて上げようよ」とイトに言うと、
「怒られないかな? ママに?」と彼女が先回りして心配した。だからオレは、
「大丈夫だよ。結...ママのお金を使う訳じゃないし」とイトが得心の行く様に説得する。
「イイの? ケンゴくん?」イトがオレの双眸を覗き込んだ。
「うん。コレはイトちゃんを今まで放ったらかしにしてしまった、お詫びの一部だよ」
オレは本心から、そう思っていた。
ようやくイトは納得したみたいで『コクン』と頷いて「ありがとう、パパ」と囁いた。
え?
今、何て言った?
『パパ』だって?
人に感謝されるのがこんなに嬉しい事だとは、今の今まで想った事が無かった。
胸襟の内に暖かいモノがジンワリと拡がっていき、やがて満腔の幸福感の海でオレは溺れそうになった。イヤぁ、それにしても『パパ』って良い言葉だなぁ。響きが素晴らしい。
でも、もう一回聞きたいなぁ、と強く願ったが、そんなオレの心模様を無視する様に、
「ねぇ、ケンゴくん。この服のドレか、着ちゃっててもイイかなぁ?」イトがこちらの顔を覗き込みながらポッとお願いしてきたので、平静さと鷹揚な態度を何とか保持しながら、
「良いよ。ドレにする?」と頷いてから、イトと2人で選び始めた。
何か、もう二度と『パパ』と呼んでくれない様な、嫌な予感に襲われてしまっていた。
だから、オレは小刻みにプルプルと首を揺すってパパ候補としてその最悪な恐怖の予想を振り払おうとしたが<最悪の予感ほど、必ず現実となるものだ>というジイちゃんの箴言をミスター客観がオレの耳許で再び繰り返した。
よしてくれよ、ジイちゃん。
もう、あんな事は二度と御免だよ。
オレは『ドレにしようか』と服を選ぶ事に夢中のイトに焦点を結びながら、そう思った。
おネエさんが、きがえるのを、てつだってくれた。
「おトウさまが、シンパイなさってるから、このアンダースコートをハキましょうね」
そうゆうと、おネエさんがパンツのウエにヒラヒラしたモノがついたパンツをはかせた。
ゼンブ、きがえがおわると、小っちゃなヘヤのカーテンをひらいてから、おネエさんが、
「じゃ、クツをハキましょうね」といってクロいクツをはかせてくれた。
ゼンブきがえてから、「ジャーン」ってゆいながら、ケンゴくんにみせた。
「どう?」ってゆうと、ケンゴくんは、
「...スバラらしい。キレイだ。サイコウにイケてるよ、イト」ってゆってくれた。
ヤッタっ!!!
結局イトは一番初めに提案されたガーリーなコーディネイトの一揃い、ベビーピンクのワンピースを選んだ。そして店員さんの手を借りて着替え終えると、試着室から出てきた。
この服装を観るのは2度目だが、まるで初めて観る様な新鮮さを感じた。
天使の天姿だ、との印象を受けた。
「どう?」イトが首を僅かに傾げながら訊いてきた。
「...素晴らしい。綺麗だ。最高にイケてるよ、イト」思わず『ちゃん』付けを忘れた。
イトはオレの返答に満足したのか『ニコッ』と笑顔を浮かべる。
彼女の母親とソックリの、世界の構成要素、全てを溶融する様な拈華微笑だった。
「合計で72万8400円、税込みで78万6672円となります」と店員さんが告げた。
「じゃあ、コレでお願いします」オレはアマゾン・アメックスを彼女に差し出した。
荒川自動車の会社員だった頃(ま、今でもそうだが)に作ったVISAでは一括払いだろうが月賦払いだろうが、どちらでもこの金額じゃ限度額を大幅にオーバーしていて使えない。
先月だったか、ポイントが貯まるからとアマゾンのクレジットカードを申請したのだが、2週間後に送られてきた封筒からカードを取り出して、何気なく眼をアメックスに落とした刹那、オレはビックリして人生初の二度見をした。
『ナイじゃ、コイは? ナイで、こげなコツをすっどじゃ?』と何故か再び薩摩言葉が出る。
何故なら、頼んでもいないのにアマゾンは『ブラックカード』を送り付けてきたからだ。
『オイオイ、年会費幾ら搾り取るんだよ?』と思ったが、同封された規約書を熟読すると一月当たり1万円以上アマゾンで物品を購入すれば会費を支払う必要はない事が解った。
ま、書籍代だけで月1万円位は使っちゃうから大丈夫か、と納得してダイソーで買った300円の黒い合成皮革製の財布にカードを仕舞った。
支払金額に上限枠が無いというブラックカードの特徴を『そんなの必要ねぇ』と思っていたが、今現在、非常に役立っている。
しかしオレがメインバンクとしている三菱UFJの口座に預金してある残高は、アマゾンサイドがブラックカードを送り付けるほどの量ではない。だからヤツ等は何らかの手段を用いて猟犬さながらオレの所有する別の口座の存在を嗅ぎ付け、そこに蓄蔵してある資産の量をバッチシ把握しているのだと悟った。
全く油断ならない連中だ。個人情報を渉猟・収集しまくっているな。
ま、オレを担当してくれているウェルス・マネージャーの高橋さんが言うには、カードの審査ではよくある事らしいし、こちら側に実被害は皆無なので、ま、いっか。
店員さんは差し出されたカードを見てギョッとしたのか『ビクッ』と身体を震わせて、オレの相貌を見詰め始めた。しかし如何にも無遠慮な態度だと気付いたのか、彼女は顔をパッと伏せながら「失礼しました」と囁く様に言ってカード受付の処理を始めた。
「一括、でしょうか?」
「はい。一括でお願いします」
支払いが終わって、店員さんが「それでは『Snappy’s』さんに連絡を入れてみます」と言った瞬間に、オレのiPhoneが着信音を鳴らし始めた。だから店員さんに断りを入れてから「もしもし」と電話に出ると、海の向こうから遠く渡ってきた様な女性の音声で、
「もしもし。六分儀研吾様の携帯電話でしょうか?」と尋ねてきたので、オレは、
「はい。私が六分儀ですが」と答えた。電話の相手は、
「ただ今、浜松市のイオンモール浜松志都呂に所在する『Norm Core For Children』という店舗で六分儀様のアメリカンエクスプレスカードが使用されましたが、六分儀様におかれては何か異常はありませんでしょうか?」と訊いてきたので、オレは、
「いえ。何も異常はありません。今回は私が使用しました」と答えた。
コールセンターの女性の話す言葉使い、文法とかイントネーションが何か違う気がした。
だから、海外からかも知れないと、オレは推量した。
「そうですか。履歴の中に今までこのカードが使用された記録が御座いませんでしたので、万が一ですが盗難などにお逢いになったのではないかと、当方のAIが指摘しまして、このようにお電話を差し上げた次第で御座います」
「大丈夫です。御心配をお掛けしたようで誠に申し訳ありません」
「いえ。それでは、この78万6672円のお支払いは...」
「そのまま決算処理して頂いてOKです」
オレは『結構です』という表現を意識的に避けた。
「承知いたしました」
「では、よろしくお願い致します」
「騒ぎ立てて申し訳ございませんでした」とコールセンターの恐らく中国人が言ったので、
「全然、騒ぎではないですよ。寧ろココまでケアして下さって有難いと感じています」
オレはそう告げると「それじゃ」と電話を終えようとした。相手が、
「これからもお取引の方よろしくお願い致します」と言った直後にスルッと通話を切った。
イトの衣装を収納する大きなバッグが必要だと、オレは判断した。
だから『Norm Core For Children』と同じ並びの4軒先にあった、様々な種類のバッグを扱っているお店に寄り、高校で体育系の部活をしている部員が持っていそうな位の大きさの防水加工が施された丈夫なアラミド繊維製でアッシュ色の肩掛けバッグを1つ購入した。
一旦1階の駐車場まで降りてR32のトランクに荷物を収めてから、2階まで上がって、店員さんに教えられた『Snappy’s』というスニーカー専門店でオレンジ色(黄丹というらしいが)と白色のナイキのスニーカーを購入した。イトのサイズは20cmだった。
ヤッパリ子供だなぁ。
可愛らしい足をしている。
<イヤイヤ。5歳だから。足のサイズが20cmって、十分以上に大きいから>
ま、そんな些末なことは放っておいて、いよいよ今夜の宿屋に出発進行だ。
<オイ、無視するんじゃねェ!>
スニーカーが入った紙袋を下げてイトと手を繋ぎながらモールの通路を歩いていると、離れ小島のようにポツンとお店があったので、何とは無しに一瞥をくれるとアクセサリーショップだった。店頭にぶら下げられて展示されている物の中にトルコ石のペンダントを発見した。トルコ石、英語で『turquoise』というが、ジイちゃんではない、他の誰かから得た情報によると、この石は『旅人の守護石』だそうだ。
他者から貰う事で一緒に幸運ももたらされる、とその人は言っていたと憶えている。
イトも旅の途上だ。
だからタリスマン(talisman:お守り)の意味も込めて彼女にプレゼントする事にして、一番シンプルなデザインで一番秀麗なヤツを手に取った。
駐車場に戻りR32に乗り込んでから「コレ、お守りだよ」と言いながらオレはイトの首にトルコ石のペンダントを付けた。彼女は『もう、充分だよ。お腹イッパイ』という表情を一瞬だけ浮かべたが、俯いてから「アリガト」と小声で言った。
彼女のそんな態度にオレは内心『迷惑だったかも?』と心配になった。
パパ、じゃなくてケンゴくんが、とってもキレイなアオイロのペンダントをつけてくれた。
『きれェ!』って、おもった。
けど、こんなにイッパイしてもらったら、パパ、じゃない、ケンゴくんに、
『ワルイな』って、おもった。
だから、うつむいちゃった。
そしたら、ケンゴくんがシンパイそうなカンジになっちゃったから、
『ホントはウレシイんだよ』って、ゆおうとおもったけど、ナンかハズカしくて、
チャンとゆえなかった。
だから、ケンゴくんのカオをみて『フフッ』ってワラッた。
そしたら、ケンゴくん、アンシンしたみたいで、
「じゃ、だすね」ってゆって、アールさんをうごかした。
『やり過ぎちゃったかな?』
オレの悪い癖の1つだ。
いつもは適正な量と時間を心掛けているんだけど、時々リミッターが外れてしまって、
してはいけないと解ってはいても、ヤリ過ぎちゃう事があったっけ。
昔、結衣にもよく『ヤリ過ぎだし、多過ぎ』と注意されたし、
乾麺のソバとかウドンも茹で過ぎて余らせちゃう事、結構あったし。
誰だったか『ヤリ過ぎる位ヤッて初めてちょうど良いのだ』って言ってた気がするけど。
気になってナビシートに座るイトにチラッと視線を向けると、彼女がクルッとオレの顔を見上げて『フフッ』と笑った。
ソレを合図に、R32を発進させた。
注1:アクアスキュータムとは。
アクアスキュータム(Aquascutum)は、LondonのRegent Streetにある高級紳士服店の老舗のAquascutum Ltd.のブランド。Aquascutumの『aqua』は『水(water)』の意で、『scutum』は『盾・擁護者(shield)』の意である。紳士服だけでなく女性物もあります。
確か英国王室御用達じゃなかったっけ?
違ったかな?
筆者はバーバリー(Burberry)よりも落ち着いた雰囲気のコッチの方が好みです。
ホントに余談だけど『aqua』は『閼伽(あか)』と同じ語源で、『閼伽』は仏前や墓前に供える『水』の事です。コレは古代インドの文語である梵語、つまりサンスクリット語です。
ま、英語もサンスクリット語も同じインド・ヨーロッパ語族だから、珍しい事では無いよ。
注2:動体裁断技術とは。
動体裁断技術は人体工学と解剖学から開発された技術。脱力した胎児の恰好を基本にとり動作した時などの皮膚の動きも計算して裁断・縫製する。故に緩過ぎずキツ過ぎない適度なフィット感が得られ、同時にとても動き易い服に仕上げられる。
買い物を無事に終えたオレ達は『雄踏バイパス』と呼ばれる道路を西に進路を採った。
そのまま直進して浜名湖大橋という、湖上を走る橋の上をR32で進んで行くと、まるで海の上を走っているような錯覚に陥った。すると、イトが思わず声を漏らした、
「気持ち、イイっ!」
ホントだ。
空の青と海の碧が絶妙なグラデーションを形成していて、その中を飛んでいく様だった。
ま、ホントは浜名湖は汽水湖なので、立派な『湖』なんだけど。
今夜の投宿予定地の『かんざんじ温泉』に入ろうとしている時にイトが声を上げた。
「何、アレ? ケンゴくん、箱がお空を飛んでるよ?」
箱?
イトの指が示す方向に眼をチラッとやると、ロープウェイが山に登って行く途中だった。
「アレはロープウェイだよ」とイトに教えると、
「ハトさんやセミみたいに羽根が無くても、お空を飛べるの?」と訊いてきたので、
「近くまで行って、何で空を飛べるのか、見てみよっか?」と提案すると、イトがコクンと頷いて「見てみたい」と答えた。
頷いた時に彼女の首許でトルコ石が軽く揺れた。
シンプルなデザイン、ミステリアス・セッティングなのでピンクのワンピースと喧嘩する事も無く、穏やかに調和を醸し出してきている。エルメスのチョーカー似の黒いチェーン(か? 何て呼ぶんだ、この部品?)もワンピとの橋渡しとしての一役を買っている。
(筆者注:『chain』には『首飾り・首に掛ける輪』の意味もあるのでチェーンで多分OK。
設定的にはこのチェーンはエルメス製のチョーカー〈中古〉です)
ああ、そうだ。
オレは、誰がトルコ石が『旅人の守護石』と教えてくれたか、漸く想い出せた。
美穂子だった。
彼女との卒業記念旅行、旅先でさっきの石屋の様なお店にフラッと立ち寄った時に、
「ねぇ、知ってる? 研吾」とトルコ石を手に取りながらその事を教えてくれたのだった。
トルコ石をアラビア語で『ファイルーズ』と呼ぶのだとも、教えてくれた。
そして美穂子はシンプルな造りの物を1つ選んで買い、オレにプレゼントしてくれた。
彼女は手ずからオレの首に巻いてくれた後、衆目環境なのをガン無視して唇を重ねてきた。
美穂子にとっても、オレにとっても、2人にとっての初めてのキスだった。
そのトルコ石はアパートの押し入れの中に仕舞い込んだままだった事も想い出した。
ま、トルコ石は太陽光線に弱いからな。
それで、いい。
美穂子のことを想い出したついでに、マツケンで一緒だった院生の岩清水さんの言葉を海馬が皮質内の貯蔵庫から引っ張り出して来た。
『鉄道が終わったから、コレからは索道だ』
彼は鉄道を全線制覇し終えた後でこう叫んだ、らしい。
岩清水さんは、妄想で鉄道旅行を楽しむオレとは違って、ガチの『乗り鉄』だった。
彼に依るとロープウェイも鉄道の一種なのだそうだ。
ここからは彼が教えてくれた、ロープウェイに関するプチ薀蓄(うんちく)だ。
鉄道は、所謂『鉄道』と『索道』とに大きく2つに分類される。
『鉄道』は電車(ディーゼルなどの気動車も含む)、モノレール、ケーブルカー、路面電車の4種類に細分類されるが、コイツ等は外観からしても『鉄道』ぽいよね。
それに対して『索道』の方は普通索道と特殊索道の2つで、普通索道は車両があって雨に濡れないロープウェイとゴンドラの事を指す。この2つの乗り物は日本全国で168路線あるそうだ。
特殊索道の方は車両が無いので雨に濡れてしまうリフトの事をいう。リフトは日本全国では2000ヶ所以上稼動しているらしい。年に一回しか稼働しない特殊な所もあるそうだ。だから岩清水さんも『リフトはスルーする』とリフトの制覇は最初から諦めていた。
でも彼と会わないようになってから十数年経つから、もうとっくにロープウェイやゴンドラは全路線制覇し終えている事はまず間違いのない所だ。だから、オレの推測に過ぎないが、絶対にリフトの全路線の制覇を目指して彼は躍進中であろう。
岩清水さん、気張れッ!
ロープウェイの山麓駅に併設された駐車場にR32を乗り入れさせた。
『かんざんじロープウェイ』と看板に読める。
岩清水さんに依ると東日本ではロープウェイ、西日本ではロープウェーと表記する事が多いのだそうだ。ここ、浜名湖は関ヶ原よりも東に位置するから『ロープウェイ』という表記なのだろうか?
ま、ウドンを喰えば出汁の色具合で判断できるな、浜名湖が東日本なのかどうか、が。
クルマから降りて2人同時に見上げると、ちょうどピンクの地に青色のラインの車両が空中を飛ぶ様に登って行く光景だった。オレはイトに、
「ね、あの綱みたいなヤツ見えるだろ?」と訊いた。すると彼女は、
「あの紐みたいなヤツにぶら下がってるんだね」とオレの顔を見上げた。
「そう、あの綱、ワイヤーっていって、丈夫な鋼...鉄で出来ているんだ」
「だから、あの箱をぶら下げても大丈夫なの?」イトが訊いてきた。
「そうだよ。人を乗っけても大丈夫なんだ」とオレは答え「乗ってみるかい?」と尋ねた。
『ウーン』と首を傾げたイトが「落ちちゃわないかな?」と不安を口にする。
「大丈夫だよ。『ロープウェイが落ちた』とかニュースで聞いた事ないから」とオレは笑う。
「じゃ、乗ってみたい」とイトが笑顔を見せた。
切符売り場の優しい雰囲気のオバさんが「大草山の頂上にはオルゴールミュージアムがありますから、お時間がありますからお寄りするとよろしいですよ」と勧めてきた。
時間はまだ4時を少し回った所だったし、今夜の投宿予定のホテルも徒歩でも移動可能なほどに近かったので、その『オルゴールミュージアム』とやらにも立ち寄る事に決めて、ロープウェイの往復切符とミュージアムの入場券のセット、大人は¥1450で、小学生以下が¥700する一連の切符セットをオレとイトの2人分、購入した。
平日だからなのか、夕方という時間帯のせいなのかロープウェイの客車の中は無人で、オレ達が占領独占できていたから、進行方向に背を向けて最後尾に陣取る事にした。
石清水さんに依ると『ロープウェイは間違いなく下の方が景色が良いので、登って行く時は最後尾で進行方向を背にして、下を見ながら登って行く。だから下りの時は先頭の方が良い』のだそうだ。ま、立つべき場所は結局の所、同じ場所になるのだが。
彼は「ロープウェイは基本的にどんな急峻な場所へも登って行けるから景色の移り変わりが劇的で5~6分のひとっ跳びで絶景が望める、まさに『魔法のじゅうたん』なんだよ」と、遠い所を眺める様にスッと目蓋を細める眼付きをしながらオレにそんな話を聞かせた。
ロープウェイのベストシーズンは、空中からダイナミックに紅葉が望める今、『秋』なのだそうだが、ここ浜名湖の近辺では山はまだ粧う事を知らないでいた。
だから紅葉はしていなのだが、紅葉のハイシーズンだと浜名湖の湖面とのコントラストで映えるだろう。落日の時間帯なんか最高じゃないだろうか、とオレは想像した。
「それでは、かんざんじロープウェイ上り線、発車致します。揺れますのでご注意下さい」
と若い女性の声でアナウンスがあってから、車両が動き始めた。
石清水さん情報だが、ロープウェイの車両のことを正式には『搬器』と呼ぶらしい。
この搬器の始動時の揺れはそれ程でも無かった。
ちょっと『ユサユサ』と微弱に震えた位だった。
ほう。
切符売り場で手にしたパンフレットによると、このかんざんじロープウェイは日本で唯一湖の上を渡って行くロープウェイだそうだが、中々に爽快な光景が眼前に拡がってきた。
下を見ると凪いでいて穏やかな縹色の湖面に雲が映り込んでいた。
山麓駅の近くにある遊園地に設置された観覧車がその輪をユックリと回しているのが判る。
舘山寺の温泉街の向こうにも浜名湖が悠然とした姿を現し始めて、沈む事に対して最後の抵抗を示しつつも厳然たる自然の摂理には抗えずに傾いて行く太陽の放射する秋特有の燦々とした透き通った陽光を、湖がキラキラと揺らめかし煌々と反射している様が望める。
対岸の山並みも、いまだ粧う事に無関心だった。逆に滴る様な常盤色の緑が眼に嬉しい。
背景の空も、白い雲がまさにポッカリと浮かんでいる、セルリアン・ブルーだった。
ノンビリと『時』が経って行く夕方が近い、秋の日の午後だった。
「ねぇ、ケンゴくん。凄く綺麗じゃない?」イトが光景から視線を外さないまま、言った。
「そうだね」とても綺麗だね、とオレはイトを見降ろしながら、答えた。
イトのオレに対する態度に変化が訪れてきたと、オレは感じていた。
ハンバーグ・ファミレスで食事をして以降か?
イヤ、違う。
オレの事を『オジさん』と呼ぶのを止めさせて『ケンゴくん』と呼ばせ始めてからだ。
彼女の発する言葉の群れから『です・ます』といった生硬なモノの姿が消えて、ずっと打ち砕けた表現になり、口調からも硬さが薄れて、話し振りが子供らしさを取り戻した様に思える。振舞いや仕種や姿態からもオレに対する親密性を明確に読み取れるようになった。
2人の間に存在していて間を隔てていた透明な壁が消え去ったのだ、と思った。
今朝のオレ達からは、ちょっと想像できない『proximity』の近接っぷりだ。(注1)
オレ自身は名前というモノに拘泥しない性質だ。
自分という人間を『identify』でき得るのであれば、何と呼ばれようとも全然構わない。
六分儀研吾でも、低身長のメッシでも、755番でも、何でも良い。(注2)
しかし、イトのオレへの接し方の変化に邂逅して、名前というモノは本当はとても大切なモノなのかも知れないとも、考え始めてもいる。『名は態を表す』というのは正しいのかも知れん。ま、名前の画数にこだわるという行為に賛同は出来ないが。
その行為には、全く意味が無いし。
ま、ここは、イトとの親密度が高まった事実を、素直に『嬉しい』としておこうか。
パパ候補として。
だから、もう一回だけで良いから『パパ』と呼んで欲しいなぁ。
違う心模様を胸襟の内に抱く2人の眼前に浜名湖がその偉容を徐々に披露しつつあった。
ロープウェイのシタにでっかいウミがみえる。
パパ、じゃなくてケンゴくんが「ウミじゃなくて、ハマナコっていうミズウミなんだよ」って、おしえてくれたけど『ミズウミ』ってナンだろうって、おもったから、
「ねぇ、ケンゴくん。ミズウミってナニ?」って、きいたら、
「ミズウミっていうのは、マミズ...ウミみたいにショッパくないフツウのミズがたまった、でっかいミズたまりみたいなモノだよ」って、おしえてくれたんだけど、
「あのね、タダシクいうと、このハマナコは『キスイコ』だから、ショッパいシオミズなんだ」っても、ゆったから、ワタシは『ウン?』っておもった。
ショッパいの、ショッパくないの、ドッチだ?
それに、ウミってショッパいの?
わかんない。
そうゆうと、ケンゴくんが「じゃ、あとでハマナコ、なめてみようか」ってゆった。
なめる?
どうやって?
こんなデッカイ『ミズウミ』を、どうやってなめるんだろう?
ワタシは、かんがえるのにトッテもイソガしかった。
ま、いっか。
ワタシは、かんがえるのをやめてシタをみるコトにした。
キレぇ。
ウミ、じゃなくてミズウミがアオイ。
ソラもアオイけど、ちがうアオ。
とってもキレイ。
ソラ、とんでくカンジがとってもステキ。
ロープウェイって、いいカンジ。
でも、ケンゴくん、ありがと。
ワタシ、ものすごくウレシイ。
ロープウェイ、ホントにいいカンジ。
ダイすき。
ホントに、スキ。
ワタシ、スキ。
ホントに、スキ。
山頂駅に着くと、併設されている『浜名湖オルゴールミュージアム』に入った。
館内に人影は無かった。
ま、平日の、午後も遅い時間帯だから、な。
1階はミュージアムショップやオルゴール手作り体験工房などがあった。受付に置いてあった館内案内書に依ってオルゴールを陳列展示してあるのは2階だと判明したので、そのままスルッと2階に上がった。
驚いた。
オルゴールとあるので、オレはてっきり昭和時代の家庭に典型的な光景である、黒電話の横に置かれた手回しゼンマイ式の小っちゃいヤツのコレクションを展示してあるのだと、思い込んでいたのだが、全然違ったからだ。
色々なオルゴール、金属板を弾いて音を鳴らす種類の物や空気の圧力でリードを震わせて吹鳴するタイプの物とか、40数種類あるオルゴールの殆んどが木製でかなりの大型、タンスほどの大きさを誇る、威風堂々とした物ばかりだったからだ。
小さな手回し式ゼンマイ仕掛けのタイプの物とは比するべくも無い程、大仕掛けで精巧な様々なタイプのデカいオルゴールばかりが陳列展示されていた。
「小っちゃいヤツじゃなかったんだな」思わずそう呟くと、イトが、
「フフッ」とオレを見上げながら笑った。
2階と3階の間に天井は無く、吹き抜けとなっているので、この中のドレであっても音を奏でればさぞかし良い音色に響くのだろうが、演奏時間は既に終了していたので、実際に自分の耳で確かめる訳にはいかなかったのが少し残念ではあった。
木製の古めかしいオルゴールを従える様に正面の一番良い場所に灰色の無骨な金属製の箱、イナバ物置の大型のヤツくらいドデカい筐体がドデンと設置されていた。
『何じゃろかい、これは?』
そう思って説明パネルに眼を走らせる。
以下は、パネルによる説明だ。
「これは、浜松市中区中沢町のヤマハ本社工場第4号館の屋上に先月まで設置されていたミュージックサイレンです。その音色を多くの市民に愛されていたのですが主に老朽化の為に68年の長い歴史に幕を降ろしました。
これによって日本全国で稼働するミュージックサイレンは5台を残すのみとなりました。
開発は戦後間もない1950年で、従来の工場のサイレンは『空襲警報』を想起させて不快だと、当時の会長の川上嘉市氏によって発案されました。この時に、初号機がヤマハ本社の第4号館の地上27mとなる屋上に設置されて稼働し始めました。
第1世代のミュージックサイレンは国内外に合計で184台を出荷するに至りました。
主として公共施設、学校や工場に設置されたようです。
1989年には、第4号館の屋上に設置されていた初号機が撤去され、交代で第2世代のミュージックサイレンが設置されました。第2世代のミュージックサイレンは12台が生産されて各地に出荷しました。
この第2世代も1998年に生産を中止する事となり、2011年にはメインテナンスサービスも停止しました。
ヤマハ本社第4号館屋上に設置された第2世代のミュージックサイレンは、老朽化が進んで修理が必要な個所が増えていきましたが、修理の為の部品の調達が困難となって、
止む無く本社での吹鳴停止を決断する事になりました。
まだ稼動中のミュージックサイレンは三重県伊賀市と大分市に第1世代が1台ずつある他、奈良県天理市と愛媛県八幡浜市に第2世代が3台残るのみとなっています。
本社屋上に設置されていたミュージックサイレンは、総重量は約1.5tで幅が1.5m、高さは2.5mほど。高層ビル用の大型の空調室外機ほどの大きさです。
風向風速にもよりますがが半径5kmの範囲に音が届きました。
円形のドラムが回転する事で内部の空気を圧縮し、その空気が『窓』から放出される時に音が出る仕組みです。窓の数・ドラムの回転数で音程が変わります。
音程が異なるサイレンを多数設置して、窓の開け閉めをコントロールする事で楽曲を演奏する仕組みになっています。合計で24音出すことが可能でした。
演奏する楽曲は、午前8時に『埴生の宿』
午後12時に『菩提樹』
そして午後5時には『家路』もしくは『月の光』を。毎日吹鳴していました。
最終日は17:00に『蛍の光』で68年間のフィナーレを飾って、吹鳴を終了しました」
(筆者注:現実世界でのミュージックサイレンの終了は2018年12月28日でした。
あと、サイレンは吹鳴停止後に分解されたそうなので、博物館に展示はされていません)
ヤマハ本社に設置されていたというミュージックサイレンとやらは、大きな物置小屋程の巨体だった。上側は灰色の鉄板で四方が囲まれていて、下3分の1程度が開口部分となっている。その内部に円形の『ドラム』とやらが装備されており開口部の側面はスリット状になっていてエアコンの送風口に似た形状をしている。恐らくココから音を吹鳴するのだろう、と容易に想像できた。
説明には重量が1.5tとあるが、さすがにこのミュージアムの床がその大質量に耐えられる筈も無いから、恐らくは内部の機器の大半を除去、取り外してあるのだろう。
ま、表現してみれば、コレは一種の剥製な訳だ、ミュージックサイレンの。
説明パネルの横に赤い丸型のスウィッチが装備されている。説明文を読むと、
『このスウィッチを押すとミュージックサイレンから約3km離れた場所で聴く演奏音を疑似体験できます』とあった。オレはイトに、
「この大きなヤツの音が聴けるんだって。どの曲か、聴きたいのあるかな?」と訊いた。
『ウーン』と首を傾げながら彼女は懸命に考えていたが、結局は、
「どれも、多分、私、聴いたこと、無いと思う」と答えた。ならば、夕方が近いので、
「じゃ、この『家路』を聴いてみよっか?」と提案すると、イトはコクンと頷いた。
ポチッと、な。
アコーディオンが吹奏する音が最も近い、色濃く哀愁を帯びた聲の綾が琴線を柔らかく愛撫したので、些かセンチメンタルな情緒をオレは抱いた。
『遠き山に日が落ちて...』と右側の皮質が勝手に歌詞を脳内再生し始める。
イトはどう感じているのだろうと、彼女に視線を落とすと眼を閉じて耳を澄ましている様に見えた。やがて、繋いでいた手を外し、しがみ付く様にオレの腕を掻き抱いて細くて小さな身体を押し付け、寄り掛かって来た。感情的な支えを求めている様にも感じられた。
そういう親和欲求の現れ方に少し驚いたが、パパ候補者の1人として、素直に嬉しかった。
演奏が進んで行くに連れて、彼女の呼吸が落ち着いて静かになり、深い淵の底に降りて行く様に感知できた。
アレっ?
寝てるんじゃないか?
そう思ったが、演奏が終わるとパチッと眼を開けて「他の、聴いても良い?」と尋ねた。
オレはコクンと首肯して「じゃ、次はドレにしよっか?」と彼女と2人で選んだ。
「じゃ、この『イエジ』を、きいてみよっか?」ってケンゴくんが、ゆったので、
コクンってした。
ケンゴくんがアカいマルをポチッとおすと、ナンか、フガフガしてる音がでてきた。
ナンか、とってもさみしそう。
でも、かなしいってカンジじゃ、ない。
ユウガタってカンジ。
ほら、ユウガタって、ナンかしらないけど、さみしいじゃん。
そゆカンジ。
目をとじて、きいてみる。
ナンか、もっとさみしくなる。
さみしいから、ケンゴくんにキュッとした。
『イヤがるかな?』っておもったけど、ケンゴくんはキにしてなかったから、よかった。
こうすると、ムネのなかが、しずかになるカンジ。
さみしいってゆうのが、なくなってくカンジ。
イイかも。
ケンゴくん、あったかい。
それに、ヤッパリお日さまのニオイがする。
いいカンジ。
だから、もうチョットつよく、キュッとした。
いいカンジ、だ、とっても。
ワタシは、ゼンゼンさみしくなくなった。
続いて『埴生の宿』と『菩提樹』を聴いた後に、屋上の展望台へ上った。途中でイトに、
「さっきの曲の中で、ドレが良かった?」と尋ねると、
「一番最初のヤツが好き」と答えた。
オレも同じ意見だったから、何だか知らないが『ホッ』と胸を撫で下ろした。
誰もいない展望台に2人で上がる。すると、
「うあぁぁーッ!」
イトが、由比PAで駿河湾を観た時と同じ歓声を、上げた。
駿河湾と比べても決して引けを取らない、浩然たる眺望が眼下にバーッと拡がる。
イヤ、入り組んだ陸地と浜名湖の湖面が綾なすタペストリーの様な風景の方が幾分かは勝っているとも感じられる。ま、太陽の高さも関係してくるから一概に決め付ける訳にはいかないが。
だが、見事な光景である事には違いない。
先程、ロープウェイのなかから眺めた景色と基本的な要素に違いは無いのだけれども、高度が増した事と微風がそよ吹く屋外である事で、爽快感が相当に割り増されている。
ユックリと落ちて行く秋の日が湖面に浮かび上がり揺蕩う縮緬の皺の様な漣をキラキラと煌めかせている。
アレッ?
『秋の日はつるべ落とし』じゃなかったっけ? (注3)
ま、いっか。
イトの方に視線を移動させると、彼女もこの偉大なる自然の光景に魅入られている様だ。
憑りつかれた様に、ジィーっと見詰め続けている。
ま、何だ。『憑りつかれた』という表現は、この状況下において些か不穏当かも知れん。
<じゃ、どんな表現なら適切なんだ?>
ま、ちょっと今すぐには思い浮かばないんだけど。
<そうだな。『見惚れる』はどうだ?>
あ、それ採用。
雄大な浜名湖の偉容に見惚れているイトと2人で並んで、落日の時が近付く秋の午後をオレは愉しんでいた。するとイトが『家路』を聴いている時と同じ様に、オレの腕を掻き抱いて彼女自身の体重をコチラに預けてきた。
嬉しいが、少し戸惑う。
『こんな急速に親密度は深まるモノなのだろうか?』
オレに対する呼び方を変えただけで?
だが、彼女の母親も初めて出逢ったその時から自然と腕を組み合せてきた事を思い出した。
コレも、遺伝ってヤツの仕業だろうか?
ま、いっか。
誰かが言った様にしよう。
『Don’t think. Feel!』
だから、オレはパパ候補として、覆い被さってくる多幸感を大切に噛み締める事にした。
何気ない普通の事でも、こうやって特別なモノに変化して行くのだ、と強く感じた。
カゼさんが、ふんわりとほっぺをなでてく。
きもち、イイっ!
タテモノのオクジョーにでたら、ものすごくキモチよかった。
目のまえが、パーってカンジ。
「うあぁぁーッ!」
しらないのに、コエがでちゃった。
ウミ、じゃない、ミズウミが、パーってカンジ。
チョーきれいっ!
チョーおおきい!
ナンか、ミズウミがキラキラしてる。
お日さまがニシにきてるけど、ケンゴくんがヨコにいるから、ゼンゼンさみしくない。
チョーいいカンジ。
でも、エイっ!
さっきと同じみたいに、キュッとした。
ケンゴくん、コッチをみてニコッとした。
だから、私もニコッとした。
いつまでも、みてたいな。
ケンゴくんとイッショに、みてたいな。
ずっと、このまま。
今夜投宿するホテルにチェックインした。
ホテルの一階部分に設置されている駐車場にR32を停めてから、ホテルの玄関に向かった。
先程、ロープウェイから見た時には白亜の建物に見えたのだが、近くから見上げた外装の色は落ち着いたアイボリーの様に感じられたから『何故だろう?』と不思議に思った。
表と裏の色を違えているのだろうか? だとしたら、何の為に?
威風堂々としたホテルだが、建設された土地の形状の所為なのか、真ん中で『く』の字に折れ曲がっている姿を見せている館舎に、これまた『何故だろう?』という疑問が湧いた。
30代位の女性の、笑った顔が素朴で素敵な仲居さんに先導されて割り当てられた部屋へと脚を運んだ。イトの衣服を入れたバッグが意外に重かった。女性には持たせられない程の重さなので『お持ちしましょう』という仲居さんの申し出を『重いので』と断った事は正解だった。こんなの持てる訳が無い。舘山寺温泉で一番格式の高いホテルだけあって、仲居さんは無理強いはせずに『承知いたしました』と微笑んだ。こういう所に社員教育の差が現れる。お客さんの望む事を鋭敏に察知してマニュアルを臨機応変にアレンジする事が出来るのが一流の接客担当者なのだと、オレは思った。
しかし浜松の女性、接客担当者は自然な笑顔を浮かべる事に長けているな。
イオンモールの服屋さんにしろ、この仲居さんにしろ、土地柄が違うのだろうか?
それともこの女性2人が特別なのだろうか?
しかしこのバッグ、重たいな。衣服、ま、あんだけの量じゃな。
軽い素材である繊維から織られた衣服と言えども、総重量は重たくもなるさ。
案内された部屋は9階に位置していた。
「どうぞ。お入りください」と開けられた入り口から中に入った。
12畳ほどの畳張りの客間の向こうに、8畳位の絨毯張りのリビングが併設されていてテーブルと椅子が2つ置いてあった。その展望リビングスペースのよく研かれて染み1つ無いガラス窓の外には浜名湖の開けた眺望が、ドバっと広がっていて非常に開放的だった。
歓声こそ上げなかったが、イトが窓までトロットで駆け寄って行って外を眺め始めた。
オレは荷物を置き台に乗せてから、仲居さんに2つの懸案事項を相談した。
お風呂問題と浜名湖の味見問題だ。
温泉地の大きなホテル形式の宿泊施設には内風呂が部屋に設置されていない事が多い。
多分、コレはオレの憶測に過ぎないが、配管等のメインテナンスが難しいのだと思う。
金属だろうがポリマー製だろうが温泉水にヤラれてすぐに駄目になってしまいそうだ。
腐食性の高い温泉水もある事だし。
このホテルもその例に漏れなかった。
ま、大浴場の方が浩々と開けっ広げで爽快感満載だから、な。
しかし男風呂に連れて行くには、イトは少し成長し過ぎている。
ソレにオレ自身も些か気恥ずかしさを感じるだろうし。彼女も戸惑うかも知れんし。
今朝の段階よりも格段に2人の仲が深まっている事は察知できているが、裸の付き合いが出来る程にまで深化している訳では無い、と思うし。
結衣によると確か、彼女の父親が姿を暗ましたのはイトが3歳半の時だそうだ。
その頃の記憶など、そんなに保持できているとはチョット想像できないから、丸裸の男性など知らないに決っている。その造作の酷さを見て驚愕すること請け合いだ。
それに他の宿泊客の不躾な視線から彼女を護らなければならない。
イシガメヘビ野郎の様なぺドファイル(小児性愛者)がいないとも限らないからな。
と、言う訳で仲居さんに素直に相談する事にした。
「あの...この娘のお風呂の事なんですけども...」と伺うと、仲居さんはイトを一瞥して、
「お嬢様は3年生位に見えますけれど」お幾つでいらっしゃいますか、と質問をしてきた。
オレが「今5歳なんですけど...」と答えると、彼女は少し驚いた風だったが、
「大きゅうございますね。それなら大丈夫です、10歳未満のお子様なら当ホテルの単独幼児童入浴支援サービスが、受けられます」と言った。
何じゃ、その聞きなれないサービスは? と彼女の答えを咀嚼できずに苦労していると、
「お客様の様にシングルでお子様をお連れになって来館される方が近年増えてきまして御要望が高うございましたので、保育士免許を持っている従業員にお子様の入浴に付き添わせる、というサービスを先月より始めました」と仲居さんが説明した。現在のオレの様な状況下では大変に有難いが「そんな事までして頂けるんですか?」と訊くと、仲居さんは、
「はい。このサービスは無料で行っていますが、結構お客様から評判がよろしいんです」
「無料?」保育士免許持ってる人材を確保した上に、無料のサービス? 経営、大丈夫?
そういう懸念を伝えると仲居さんが「はい。このサービスがあるから当方をご利用して下さるお客様も大勢おりまして。それに保育士という職業は仕事の量・質ともに非常に負担が大きいとの事で、辞めてしまわれる保育士さんも多いのだそうです。お給金も仕事量と比較すれば、とても少ないのだそうで。そういう人達がこのホテルで働いております。
それに、就業時間内に堂々と大浴場に浸かれる訳ですから、担当者達からも大好評です。
お給金を頂戴した上に、お客様としての立場で温泉も頂ける訳ですからね」と微笑んだ。
そうか。そういうシングルファザー/マザーの様な人もお風呂場での事故を懸念する事無く安心してこのホテルを利用できるという訳か。ホテル側としても幼児が単独でお風呂に入って、それで事故ちゃったりされた日にゃ当面の間はホテル自体の営業が困難になる筈で、だったらワザワザ保育士を要員として用意していても全然ペイはするっつー事情か。
なるほど、納得だ。
イトに眼をやると、窓に顔をくっ付けて下を覗き込んでいる。興味津々という感じだ。
彼女の背中越しに丘が見え、そこに大きな仏像に見える物体が立っている様が窺える。
アレは何だ?
そう思ったが、今はオレはお取込み中で忙しいから、スルーして放置する。(注4)
もう一つの懸案事項である『浜名湖味見問題』も仲居さんに相談してみた。
「この娘、まだ海がショッパイ事を知らないんです。まぁ、浜名湖は汽水湖ですが、塩辛いという事を教えてあげたいんです」と言うと、仲居さんはニコッと笑いながら、
「ホテルの裏側に夏期限定の海水浴場がございまして、そこの場所なら『味見』をなさったとしても大丈夫だと思います」と彼女は答えた。
よし。問題は解決だ。
2つの懸案事項を脳内の既決の箱の中に納めて、懸念事項のフォルダーから消去した。
ホテルの裏側にある小道を降りて行くと岩礁帯に挟まれた小さな海岸に出た。
白い綺麗な砂浜だった。
イトには着替えをさせた。
ピンクのワンピから今朝着ていた白いTシャツとティファニーブルーのショートパンツとピンクのクロックスに着替えさせた。何かが起こって濡れるとマズイな、と考えたからだ。
ただ、用心して寒さ対策の為に淡墨桜色のカシミアのカーディガンを羽織らせておいた。
「イトちゃん、ココで待ってて」と彼女に告げてからオレは1人で波打ち際に歩み寄った。
水が綺麗だ。
汽水湖は、非常にデリケートで繊細な環境だから、チョットした事ですぐに水質や海底環境が悪化しやすいと何かのドキュメンタリー番組で言っていたが、この海岸の水質の状態は意外な程によろしい様だ。(注5)
両手で海、じゃない汽水湖の水を一掬すくい上げようとしたのだが、中々上手くいかない。
クソッ!
コップを持ってくるべきだった、と痛感した。
何度試してみても指の間の僅かな隙間から水は逃れ出て行ってしまっていてイトに味見を試させられるだけの水量を確保できない。
「ゴメンね。上手く掬えないや。表面はショッパイと思うんだけど」と言いながら、右手の人差し指を舐めると、そこそこの塩っぱさを感じた。イトに歩み寄りながら手を見せる。
「こうやって舐めると、確かにショッパイんだけどね」
すると唐突にイトが身を屈めて、オレの左手の人差し指をパクッと咥えた。
『!』と彼女の表情の上にエクスクラメーション・マークが浮かんだ。イトが口を離して、
「ホントだ! ショッパイよ! ケンゴくん!」とオレを見上げながら、驚きを顕わにした。
そう言った後で、再びチューチューと今度はオレの中指を吸い始めた。
指を舐っている舌の感触が、くすぐったいというか、こそばゆいというか、形容し辛い。
その時にオレは、何かさせてはいけない事を彼女にさせている様な感覚に急襲された。
無心にオレの指を舐め続けるイトを見ていて、後ろめたい背徳感で胸が一杯になった。
確かに彼女の振舞い自体は『味を確かめたい』という子供に特有な無邪気で天真爛漫なモノで、ソコに他の不純な空気感は一切含まれていないのだが、何かヤバい感じを覚えた。
早く止めさせなければ。
でも、何て声を掛けたら良いんだろう?
そうやってオレが狼狽えていると漸くイトが指から口を離してくれて、姿勢を真っ直ぐに戻すとこっちを見上げながら、言った。
「ホントだった。ショッパイんだね」
ニコッと笑った、その表情に邪気は微塵も浮かんでいなかった。
その笑顔にオレは、思わずドキッとした。
何で、5歳の女の子にドキッとしてんだ、オレは?
その理由を探求しようとする企図は浮かんでこなかった。触れない方が良いと判断した。
だから、心の棚の奥の方に仕舞ってそのまま封印する事にした。
ホントだった。
ケンゴくんのユビをなめたら、ホントにショッパかった。
だからケンゴくんに、
「ホントだ! ショッパイよ! ケンゴくん!」って、ゆった。
そしたらケンゴくんは『そうだろ』ってカンジでニコッとしたから、
ワタシはスコシ、はずかしくなって、だから、ベツのユビをチューチューした。
そっか、ホントにショッパイんだ、っておもった。
ミズがショッパイってワカッたから、ケンゴくんのユビをなめるの、やめた。
ケンゴくんのカオをみたら、ナンかチョットへんなカンジ。
『ウン?』ってカンジ。
ダイジョブかな?
ユビなめちゃったから、きもちわるい、とか、きたない、とかおもってるのかな?
でも、スグに、いつものケンゴくんにモドッて、
「わかった? こんどウミにいったら、そっちもなめてみようか?」って、ゆった。
ウミ、やっぱしショッパイのかな?
ワタシは、しりたくなったから、コクンってした。
「じゃ、ヘヤにもどろう」って、ケンゴくんがゆって、ワタシとテをつないだ。
よかった。
きたないって、おもってないんだ。
そっか、よかった。
ワタシは、ホッとした。
注1:proximityとは。
このproximityの直接的な意味は『近接』だが、Interpersonal Communicationという学問領域では『近接性』という概念として扱われる。
人が他者とコミュニケーションをとる時に、相手との関係性によって許容できる範囲の距離のコトを表す。または逆に、相手との間の距離によって、当該の人物との親密性を計るモノでもある。
専門的に言うと、空間を用いた非言語コミュニケーションの一種。相手との関係の親密さや公式/非公式の度合いに応じて相互作用する際の距離が設定されるとする考え方。
1)親密距離(45cm以下)匂いや息遣い、体温などが感じ取れる距離。恋人、親子、親友など気の置けない関係において見られる。
2)個体距離(45~120cm)友人や知人と通常の会話が交わせる距離。
3)社会距離(120~360cm)商談などの仕事の話が出来る距離。
4)公衆距離(360cm以上)公園などがつつがなく行える距離。
親和欲求の高さ、不安や緊張の低さなどが対人距離を縮める要素である。
男性よりも女性の方が短い距離を設定する傾向にある。一般的に女性は行為を抱いている相手(性別を問わない)に対しては気軽にスキンシップをする事は容易に理解できるはず。
距離は相手と向き合う方向の『前方』だけでなく、全方向で意味を持つ。一般には前方に長く、後方左右に短い楕円形の空間が形成される。
例を挙げると、お互いに好き合っているが、まだ恋人関係にまで発展していない2人の間に横たわる距離は、恋人同士の『距離』よりも大きい。この事は容易に納得できると思う。他人同士で抱き合う位に接近する事は通常の場合、無い。
当然だが、満員電車のような特殊なケースは除く。
親密性が高い程、2人の距離は自然と近付いて行くし、低ければ遠ざけようとする。
この行為も『proximity』で説明できる。
それだけではない。
戦争などの状況下で敵を殺さなければならない時、白兵戦でナイフを用いて相手を無力化しなければならない時よりも、2000mの遠く彼方から敵兵を『sniping(狙撃)』する方が『人を殺す』という事への心理的抵抗感は減少し、心理的ストレスも薄れるから、躊躇う事無く、トリガーを引けるようになる。
使用するの兵器がミサイルならば、もっと心理的抵抗感は希薄になるか、無くなる。
この事柄も『proximity』で説明できる。
ま、気が置けない友人がジャレつく様に、腕を組んで来ても全然気にならないだろうが、面識がまるで無いオッサンが突然ギュッと抱き付いてきたら、ブっ飛ばすでしょ?
ソレです。
尚、心理学的に『楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなるのだ』という概念があって、ほぼ正しいと証明されています。
これと似たロジックなのですが、インターネットで『proximity』を検索すると『時空間的に近接している人間とは、親密性が高まり易い』なんて事が説明されています。
確かに『逆もまた真なり』の様に、非常に近い距離間で接している内に相互の関係における親密度が増して行く事は想像に難くないです。しかし、私の所持しているInterpersonal Communicationの教科書はその事象に言及しておらず、講義においても教授が説明したという記憶が無いので、ここではそういう憶測は避ける事にします。
ま、遠くの親戚より近くの他人とも言いますがね。
注2:『identify』について。
『identify』は、とても日本語訳し難い単語で、無理矢理すると『…が誰〔何〕であるかを明らかにする;…の身元〔正体〕を確認する;鑑定〔識別〕する』等と訳せますが、それでも『identify』は『identify』であって訳し切れないのです。
ま、コレはコレで仕様が無いよね。
研吾君が言いたいのは、自分が自分であると判別できるのであれば、名前にそれ程拘らないという事です。
注3:『秋の日はつるべ落とし』について。
『秋の日はつるべ落とし』とは釣瓶(つるべ:水を汲む為の桶)が井戸の中に落ちる時は、急速に落ちる事から、秋の夕陽は沈むのが早い事を比喩的に表現したモノ。
別に剥げ散らかした悪瓶が、イイエ、笑福亭鶴瓶師匠があのダミ声で「アーッ!」という断末魔の絶叫を上げながら井戸の底へと真っ逆さまに落下していく痛快な出来事では全然ありませんので、ご注意を。
では、本当に秋の太陽は沈むのが早いのだろうか?
答えからいうと『YES』だ。
日の入りが最も早いのは、昼の長さが1年で最も短い冬至の約半月前になる。つまり12月初旬の深まった秋の頃である。
そして日の入りの時刻は秋期に急速に早まる。日毎に1日当たりで約10分早くなる。
(と、資料にあるが、ホントか? ペースが速過ぎないか? 1分の間違いじゃないか?)
何故かというと、地球の地軸が天球上の北極に対して23.5度傾いているからだ。
この結果、太陽の沈む位置が1年を通して変動する。
日の入りの位置の移動を記録する為に、午後4時の太陽の位置を1年間分、毎日観測してその座標を記録しておく。この座標全てを線で繋ぐとアラビア数字の『8』の形になる。
『8』の字の一番頂点の部分が夏至の日に太陽が位置する箇所。そこから、反時計回りに上の丸の左側を降りて行って交点を通過して『8』の下側の丸の右上の部分が秋分。
『8』の一番底の部分が冬至。そこから今度は時計回りに昇って行って下の丸の左上の部分が春分の日に太陽が地平線の下に沈む位置となる。
『8』の字がそのまま正立しているのだったら、太陽は冬至の日に一番早く沈む事になるのだが、実際は『8』の字が右斜めに約45度倒れた形をしているので、この事から理解できる様に秋分から冬至前までの間が、太陽の沈む位置が地平線に最も接近する事になる。
だから『秋の日』は太陽が『つるべ落とし』の様に早く沈むのだ。
この太陽の周年位置変動の事を『アナレンマ(analemma)』と呼ぶ。
あと、地球の公転軌道が真円ではなく楕円軌道である事も関係している。地球が最も太陽から離れる『遠日点』は、太陽と地球との平均距離およそ1億5千万kmから約500万km遠ざかる。印象とは反対に遠日点は夏期に起こる。だから夏から秋・冬に向って太陽に近付いて行く事になり、コレも日の入りを早くする一因となっている。
もう理解できていると思うが、太陽に最も接近する『近日点』は冬期に起こる。
余談だが、日の入りの時刻が一番遅いのは夏至の約半月前。日の出が一番遅いのは冬至の約半月後である。
注4:巨大な仏像について。
舘山寺温泉の館山(△50m)という丘陵地に巨大な聖観音菩薩像が立っている。
全長16mで昭和10年(1935年)に建立された。
この菩薩像が建立されているのは、曹洞宗秋葉山舘山寺。
舘山寺の本堂が館山の中腹にあって、そこから少し山を登ると、その昔、弘法大師が立ち寄って、しばらくの間お篭りに為られた洞窟がある。この洞窟を『穴大師』と地元の人達は呼んでいる。弘法大師はこの穴に21日間篭って石に仏様を刻んだ、といわれており、その仏様はまだ残っている。穴は腰を屈めないと入れない位に天井が低く、2mほど奥に行った突き当りには金網が張られており、無数の絵馬が吊るされている。この『穴大師』は眼病平癒のご利益があるらしく、ほぼ全ての絵馬に『眼病平癒』と書かれている。穴の中は突き当りに置かれた台の上の数本の蝋燭が灯す焔だけが頼りで昼間も非常に暗いので、コレで本当に『眼病平癒』のご利益があるのか? と疑ってしまうほどだ。
こんな中にいたら、余計に眼が悪くなるんじゃないか?
尚、『石仏』との説明を寺の人から受けたが、穴大師の横壁に掲げられた説明看板上には、『弘法大師様御自作の自像』とある。アレ?
邪魔くさい絵馬をかき分けるとその奥に弘法大師が彫ったとされる石仏が見える。
経年劣化で石が風化して顔の輪郭が落ち、顔全体がぼやけてしまっている。眼は薄っすらと解るくらい、鼻も磨り減って半分以下に。首から上は灰色の石で出来ているが、身体は黒い岩で出来ており細部は不明瞭でぼさっとしている。だから首だけがボーッと闇の中に浮き上がって見えて、何も知らなければ、相当不気味に感じるだろう。
そこから遊歩道(?)に沿って歩くと巨大な聖観音菩薩像を拝められる小さな広場に出る。
足許から見上げると白い菩薩像は、かなりデカく感じる。多分、コンクリート製だと思う。
どうでもイイ事だけど、案内の立て看板には、聖観世音菩薩とあり、しかも昭和12年に建立された、とあるけど...
観音菩薩? 観世音菩薩?
昭和10年、それとも12年?
ドッチが正しいんだ?
ま、情報、コレだけです。
こんなもんで十分でしょ?
注5:浜名湖について。
浜名湖は静岡県で最大の湖。そして太平洋側で最大の汽水湖とされる。
面積は64.91平方km。
周囲は約114kmで貯水量は0.35立方km。
平均水深は4.8m。(別の資料によると5.6m)
奥浜名の方に2ヶ所だけ特異的に10数mの水深の深い箇所がある。
尚、最大深度は16.6mである。
およそ500年前の明応地震(1498年)で河口付近で地崩れが起きて『今切口』という連絡水路状の部分が出来て遠州灘と繋がり、淡水と海水が入り混じった汽水湖となった。
海水と淡水の両方の栄養分が集まる為に生物が豊富で、一説には全国最多の種類の生物が生息していると言われている。明確な数字は不確定だが魚介類だけでも700種類以上が棲息している事が確認されている。。
この浜名湖は、河川法では川、漁業法では海の扱いとなる。
浜名湖の様な汽水域では『edge effect』が働く為に生物相が豊かになる。『edge effect』とは生物群集の推移帯などでの『界面効果』または『際縁効果』と呼ばれる現象である。
違う環境(汽水域の場合は『淡水領域』と『海水領域』)が出逢って混交して行くと生物を育むのに非常に適した環境になり、非常に多くの種類の生物がソコで生活する様になる事。
汽水域を例にとる。
浜名湖の様な汽水湖で生物相や植物相が多種多様になる理由は主に2つある。
理由の1つ目は『グラデーション:gradation:漸次移行・勾配』が発生するから。
塩分濃度が0%の淡水から3.5%の海水まで緩やかに移行して行く環境が出来る。
例えば、塩分濃度が1%ほどだとシジミが生育し、3%に近くなるとアサリやハマグリが生息する様になる。植物も同様に、淡水を好む種から海水を好む種まで多様な種の植物が繁殖してゆく。
この現象を『界面作用』と呼ぶ。
2つの異なる環境が出合い混じり合う場所(界面)では生物多様性に富むのである。
理由の2つ目は汽水域は『緩衝帯』となるから。汽水域は河川でも河口付近において発生しているが、この場所では河川の流れがとてもユックリになる。海に流入しようとする『河の水』と、打ち寄せる波の力で『河の水』を押し戻そうとする『海の水』が衝突するので、河の流れも緩やかになり、海の波も静まるからである。水の流れ方が穏やかになった河口付近では、砂が堆積して溶存酸素量が豊富になる。この状況は生物にとって好環境なので、多種多様な生物が育つのだ。汽水域は別名『生物の揺りかご』と呼ばれている。
この現象を『緩衝作用』と呼ぶ。
河口付近では、環境が穏やかで生物が生育するのに適したモノへと変化するのだ。
この河川の河口部のスケールが巨大化したモノが汽水湖である、と見做す事が可能である。
だから浜名湖の様な汽水湖では多種多様な生物や植物が多数繁殖できるのである。
しかし、非常にデリケートで繊細な環境である為に、各要素の微細な変化に対しても敏感に反応する。(河川からの淡水の流入量の変化や生活排水・工業廃水の漏出など)
故に、水質や海底環境が簡単に悪化し易い。
私とケンゴ vol.11