私とケンゴ vol.10

「じゃ、切るよ」と研吾が、心の中に染み透ってくるような低めのバリトンで言った。
「織のこと、よろしくお願いします」って私が言ったら、
「判った」って話を終えてから彼は電話を切った。
 今日の朝、約束の待ち合わせ場所のコンビニに織を残してアパートに独りで戻ってきた。
部屋に入ってベッドにドサッと横たわると速攻で眠りに落ちた。
昼すぎに眼が醒めてからTVをオンすると『ひるおび』がやってて、お天気担当の森さんが恵さんに『昨日言ってましたよね? 今日は寒くなるかもしれないって。全然、暖かいじゃないですか』って甘噛みっぽく責められてた。いつものことだけど面白くて、笑った。
 織と研吾の現在位置を確認しようとしてアプリを立ち上げたら、東名じゃなくて静岡県の焼津市ってトコの下道を走ってたから『何で下道?』って疑問に思った。
だから『ちょっと、どうして下道走ってんの?』ってメールを送った。
そしたら10分くらい経ったころに、研吾からさっきの電話が来た。
『織の体調のことを考えて予定を変更する。鹿児島まで1週間くらいかけてのんびり行くことにした』みたいなことを言ってた。そっか、織のことを考えてのことなんだ。
仕事を再開するって言ってたけど、それまでに一月くらい掛かるとも言ってたから、時間はイッパイあるんだろうし、それで織のことを一番に考えての変更なんだ。
 良かった。
 やっぱり研吾に頼んで正解だった。
一緒に暮らしてた頃の彼は、引き受けた事はチャンと最後までやり通す人だったし、今もソレは変わってないんだ、って判って何か妙に嬉しかった。
ホントに復活したんだなって思った。
 だけど、とても不思議なんだけど、最近の私は頻繁に研吾のことを考えてる。
気が付くと何故か彼のことを考えてる私がいる。
とっても不思議だと思う。
恋愛感情は綺麗サッパリ消えちゃってるし、もう一回復縁しようとも思わないけど、でも何故だか全然判んないけど、研吾のことばかりが頭に浮かんでくる。
 まだ若干の眠気が残ってる頭に不意に『あの日』の記憶がドバッと蘇ってきた。
『あの日』もそうだった。
今と同じように研吾のことを思い出してた、アパートの部屋に帰るクルマの中で、
ずっと。

 あの日、私の体調は最悪だった。
昼、眼が覚めたときに全然寒くもないのに身体がブルッと震えて『ア、こりゃダメかも』って思った。何とかベッドから起き上がっても立とうって気に全然ならかった。ベッドに腰掛けて15分くらいボーッとしてた。どうにか立ち上がるとリビングを通って洗面所に向った。リビングを通り過ぎる時、もう起きてた織が「ママ、おはよう」って声を掛けて来たけど、返事するのも億劫だったので無視してそのまま洗面所に入って鏡でチェックしたら、真っ青な顔をした別人がいた。それからノソノソと顔を洗ったり歯を磨いたりしたけど、その間もズンズン身体の具合が悪くなっていくのがアリアリとわかった。
『風邪じゃなさそうだけど』何なんだろうか? と思った。
 何かを口に入れないといけないって思ったんだけど、水を飲み込むのが精一杯だった。
コップ1杯分の水を15分くらいかけてようやく飲み下すことができた。
 寝室に戻ってパジャマを脱ぎ捨ててベッドの上に放り投げた。
『今日、何着てこう?』
いつもは10分もかからず決められる、そんな簡単なことにも苦労するくらいに頭が重たかった。凄く努力しないと考えがまとめられなくてホントに困っちゃってた。
 結局、濃いグレーのTシャツとデニムのサブリナパンツに腰丈の白のスプリングコートを合せることにした。感じる寒気を少しでも抑えたかった。髪をブラシで梳かすのも面倒くさくてボサボサのままアップにまとめ上げてその上からビーニーをかぶせて誤魔化した。
家を出る時に、いつもするように織が抱き付いてきた時、正直ウザかった。
だけど織が私を見上げて「ママ、だいじょぶ?」って心配そうに訊いてきて、その表情に胸がキュンっとなったので「大丈夫だよ」と無理して笑って彼女を抱きしめ返した。
織の眼を覗きこんで「じゃ、ママ、お仕事行ってくるね」と言ってから、
居間のテーブルでラップトップのパソコンをパシャパシャしている大樹に声を掛けた。
「大樹、織のこと、チャンと見ててよ」 
「あぁ」右手を上げて、画面から目を離さないまま大樹が短い返事をした。
 大樹、脇坂大樹は今、私が付き合ってるオトコだ。
今年の2月の終わりごろに八王子にあるイオンモールで出会った。
娘と手をつなぎながら、バカでかいモールの通路を2人でプラプラ歩いてる時に、織が何だか分かんないけど、何かにつまづいて転びそうになった時にサッと手を出して娘を支え転ばないように助けてくれたのが大樹だった。その後に、3人でモールの中にあるスターバックスで私と織がストロベリーフラペチーノを飲んで、大樹がトールサイズのホットコーヒーを飲みながら、さっき助けてくれた事への感謝とか、親子2人で暮らしているシングルマザーなんです、とか、色々な話をした。そしたら大樹が、
「僕はフリーランスでウェッブデザイナーをしているんです」と言った。
 彼のお父様が若くしてお亡くなりなった後、結構、歳の離れたお兄様が一家の大黒柱としてメッチャがんばった、とか、お兄様は奥様とお子様が長女と長男の4人家族だ、とか、
あと、彼とお兄様のお母様、それにお手伝いさんの7人で北区の西ヶ原に暮らしてるって言ってから「兄には頭が上がらない、いわば冷や飯食いの居候なんですね」と薄く笑った。
「今日は八王子に住んでいる友人の家を訪れた帰りなんです」と大樹が織に笑いかけた後、私の顔を見ながら、バリトンの声音で、言った。
大樹のとび色の瞳が印象的だった。
背がスラッと高くて細マッチョでトカゲ顔だけどそこそこシュッとしたイケメンだったし、彼の話の仕方がスマートで洗練されていたし、育ちの良さも感じられたし、何よりも織に対して優しくて良い感じだったし、「子供好きなんです」って言ってたので、
何か良いかもって思ったから、2人でLINEのIDを交換することにした。
1週間後に私と織と大樹の3人で上野動物園にパンダを見に行った。
織はパンダを見るのが初めてだったので物凄く興奮してた。
キャッキャッ笑いながら跳ね回っていた。
私と大樹は織を真ん中にして3人で手をつなぎながら色々な動物を見て回った。
 結局パンダを合計で3回見た。
織は大満足の感じで、とても嬉しそうだった。
元ダンナの健爾と一緒にいる時以来見たことが無い、ハジけるような笑顔だった。
 動物園から近い御徒町の洋食屋さんで遅めのお昼ご飯を食べた。
織はチキンライスにベーコンエッグをトッピングしたモノ、私はハヤシソースのかかったオムライス、大樹は牛カツレツ定食をとった。とっても美味しくて私たちは大満足だった。
 気付いたら私と大樹は付き合うようになっていて、気付いたら大樹は彼の実家を出て私の住むアパートで暮らすようになっていた。
 最初は良かった。
彼は私にも織にも優しかったし、全てが上手くいってた、と思う。
 大樹はSEXには淡白で、あまり求めてこなかった。
私は、別に嫌いでもないけど、生きてくのにSEXがどうしても必要ってタイプじゃなかったから『それはそれで良し』だった。健爾がいなくなって正式に離婚が決まった後に最初に付き合うことになった男に比べれば、遥かにマシだったから。
 そいつは深野真人って名前でフジテレビの製作部に勤めてるディレクターだった。
仕事仲間と4人で私の勤め先の六本木のキャバクラに何かの集まりの3次会でやって来たのが深野との出会いだった。神戸大学でアメフトのキャプテンをしていた男で、背も高くガタイも良くて、ジャニタレやメンズノンノに出てる人気モデルとまではいかないけど、それなりの容貌だった。名刺交換したら、裏にLINEのIDが手書きで記されていた。
 相手をするつもりなんか更々無かった。でも、あるオフの日の夕方、家の近くのスーパーに買い物へ行ったら夕方のニュース番組で生中継をするためにテレビのスタッフが大勢やって来ていて、その中に深野もいた。コイツは目敏く私を見付けると声をかけてきた。
 その内に深野は自分独りだけでお店に現れるようになり、いつも私を指名した。
そうやって話を重ねて行く内に、まあまあ話す内容も面白いし、典型的な体育会系だったけど常に陽気で性格も悪くはないみたいだし、それにフジテレビなら芸能関係にも何かしら伝手があるだろうと思って、試しに付き合ってみる事にした。その頃から研吾と結婚するってなった時に一回はあきらめた芸能界入りという昔の夢がボワッと復活していたから。
 でも付き合ってみて、初めてコイツとSEXをした時に激しく後悔した。
AVの見過ぎで乱暴なプレイほど女性が喜ぶと勘違いしているバカだったから。
こちらの受け入れ態勢がまだ全然整ってないのに無理矢理、力任せに挿入して乱暴に腰を前後に振るから、痛いだけで、ひとつも気持ち良くなかった。
女性の身体って物凄くデリケートなのに、そんなことは全くお構い無しのあんな乱暴なSEXなんてAVの中だけのフィクションなのに、そんなことにも気付けてない、救えないバカだった。
だから、してるときに「ちょっと、もう少し優しく丁寧にして」って頼んだんだけど、深野は変ることなく全然優しくしてくれなかった。そして付き合い始めて3週間たった時、SEXしてる時に行為のあまりの荒っぽさにブチ切れて突き飛ばし「痛ぇんだよッ!!! テメェっ!!! ちったぁ、コッチのことも考えろッ!!!」って怒鳴りながらベッドの上に立ち上がって、深野の右のコメカミに鋭い回し蹴りを一発入れた。
反撃して来るかな? って思って型を構えたら、予想に反して深野は泣き出してしまった。大きな男が真っ裸でサメザメと涙を流すシーンはホントにキモく『もう、マジ無理』って思ったから、独りでサッサと服を着て「もう2度と連絡してくんじゃねェ!」って言い捨てて、それでも泣きつづけてる深野を置き去りにして独りでホテルを出た。
それ以来、コイツの顔は2度と見てない。
 だから大樹が求めてこないのは正直助かってる。
正直に言うとあんまり上手くないし。
しかし細々とだけど求めてきたのは付き合い始めて最初の2ヶ月くらいで、最近は単なる同居人になってしまってる。
 前のダンナの健爾も淡白だったしSEXが決して上手かったって訳じゃないけど、色々な時にギュッとハグしてくれたり、寝る前とかに『愛してる』とか『スキだよ、結衣』とかささやいてくれていたから、それで十分満足だった。私は常に言葉にしてくれてないと、ダメなんだ、と思う。
 もう駄目かも知れないな。
ハグしてくれることもないし、言葉をかけてくれる訳でもないし、だから、大樹とは終了の時が近いような気がした。関係を続けてゆく意味があんまし無いような気がする。
 あと大樹が何を考えてるのかサッパリ分からないことが、ちょっと怖かった。
トカゲ顔のせいか時々本当にハ虫類っぽく見える時があって、そゆ時は不気味って感じた。
でも織の保育園が全然見つからないし、私が仕事をしてる時にああやって面倒見てくれる。だからベビーシッターみたいなモノだと思えば、良いのかも知れない。
シッター代、払わなくても良いし。
 六本木に向う列車の中で私はそうやって昔の事を思い出したりどうでも良いことを考えたりすることで体調不良を抑え込んでいた。そうしないと、あまりの辛さに気を失いそうだったから。奇跡的に車内が混んでいなかった事だけは幸運だった。ホントに六本木まで出るのだけでも大変で、何度も家に帰ろうと思ったくらいに大変だった。

 その日は、ホントに最低だった。
お店に着いてからもドンドン体調が悪くなっていくばかりで、絶不調の底が見えてこなかった。ドコまで下があるんだって思った。
当然フロアに出ても失敗続きだった。お酒の種類や量を間違えて飲み物をビルドしてしまう、腕が当たってグラスをひっくり返してしまう、なんてのはまだマシな方だった。
 いつも私を指名してくれる常連の澤口俊之さんが来てくれたのでテーブルに着いてから、「こんばんは」って挨拶した時に澤口さんの名前が頭から飛んでしまって口にできなくて、そのまま何も言わずに3分くらいの沈黙を作ってしまったのが、最大の失敗だった。
 澤口さんは、前のダンナの健爾が入社した時に初めて配属されたテレビコマーシャルの製作部署で副部長をされてた方だった。澤口さんが初めて3人の部下を連れて来店されたのは、私が深野を捨ててから1週間くらい経ったときだった。
澤口さんは、5cmのヒールを履いた私より少し高い位の背丈で、お腹も全然出てなくてシュッとした体格をしていて上質なカシミア製の黒いスーツがピッタリと似合っていた。
 後で聞いたら時間の許す限りジムに通って体を鍛えているんだって。         
澤口さんは『人間、50を過ぎると筋肉量が減るばかりですからね』って笑った。
その時に、彼の隣に偶然着いて名刺を交換したら、健爾が勤めてた超大手広告代理店の製作部統括本部長と書いてあったから、思わず「私の前の主人が同じ会社に勤めてました」と口に出してしまった。
そしたら澤口さんが、何気ない口調で「何て方ですか?」と尋ねてきたので、
「緒方健爾です」って答えたら、サッと顔色を変えられて、
「エッ?!? 緒方君ッ?!?」って驚いて叫んだ。
そして自分は健爾の元上司で、健爾が別の部署に配置転換した後に精神的に病んで失踪したことを知って、とても心を痛めていることをポツポツと告白し始めた。
「あの時、彼の配置転換を認めるべきではなかった。手許に置いておくべきだった」って言った後「大変、申し訳ない。奥さんには本当にご迷惑をかけてしまった。すみません」
って頭を下げたから、私は慌てて「イエッ! 部長さんのせいじゃないですから。謝らないで下さい」って、こっちも頭を下げた。
 その後、私の本当の名前とか、健爾がいなくなってからどうしたのか、今はどういう暮らしをしてるのか、とか訊いてきた。澤口さんの態度は本当に真面目で真摯な感じだった。
 それから澤口さんは3日に一遍のペースで来店されるようになった。
強いお酒は苦手で生ビールを好んで飲んだ。その飲み方はとてもスマートで綺麗だった。
本当に紳士でお触りなんか全然なかった。下ネタなんかも1個も口にすることはなかった。
それどころか、いつも私の為になるように、接客で役立つような面白い話ばかりをして下さった。毎回じゃなかったけど私の誕生日とか織の誕生日なんかの節目の日にはドンペリを入れてくださったりもした。
きっと自分が犯した罪を補う? 違う、何だっけ? そうだ、贖うためにそうされているのかも知れないって思ってる。健爾が失踪したのは澤口さんが原因じゃないんだけど、
きっと心苦しいんだろう。健爾のことを思うと罪の意識で苦しいんだろうって思う。
でも、それとは関係なくて、本当に澤口さんは優しくしてとっても良い人だ、って思う。
何か、東京のお父さんみたいに感じている。
 だから、とっても他に変えられない、大事で大切なお客さんだった。
 あの日、澤口さんは、自分の名前が出て来なくてアップアップしてる私を見て、
「大丈夫ですか? 顔色もとても青いし、今日は早引けした方が良いと思います」と言って、『チーフを呼ぶように』と、そばを通りかかった黒服に命じた。
 少し経ってからチーフマネジャーの五十嵐幹夫さんがやって来て、澤口さんがチーフに、「ミハルさん、今日は早引けさせた方が良いでしょう」と私の源氏名を上げて、言った。
「そのようですね、わかりました」と五十嵐さんは答えて一礼し私をバックに連れ帰った。

五十嵐さんは「どうしました? 身体。具合が悪そうだけど? 顔色も酷く青白いし」と私に尋ねた。前の店で一緒だった時から彼の口調の丁寧さは変っていない。キャストには『さん』付けだし、年下のスタッフは『君』付けで呼ぶ。態度も本当に紳士的だ。
「ハイ。何だかよく解らないけど、結構辛いです」自分の顔が歪んでいるのがわかった。
「そうか。ミハルさんが消えると戦力的には厳しくなるけど...でも、今日は早引けした方が良いみたいですね」
「判りました」そうさせてもらって、と私は素直に受け入れた。
「じゃ、加藤君に送らせますから」
「まだ電車がありますから...」私は薄く笑った。
「こんな早い時間じゃ小田急キッチキチで、乗ったら余計に体調悪くなるだけでしょう? 送迎業務が通常よりもチョッピリ早くなるだけだから、気にかけることは全然無いですよ」
「有難うございます」じゃ、お世話になります、と私はホッと一安心した。

「じゃ、出しますね」と黒服の加藤さんが一番後部に座ってる私を振り返りながら言った。
「お願いします」とだけ、私は答えた。
黒のハイエースが地下の駐車場から地上へと出るために動き出した。
 私は普通の女性と同じで、別にクルマに詳しい訳じゃない。
研吾と付き合ってた時によく見たヤツ、荒川自動車の白のハイエース、研吾が乗ってた小さいジムニー、ヤナイさんって人のポルシェ、父のBMW540i、それと研吾が昔に乗ってたっていうGT-Rだけ、見分けられる。他は違いが良く分からない。
 この送迎用のハイエースは荒川自動車で使ってたヤツよりも何か豪華な感じがする。
シートの座り心地も数段階、快適だ。
 地上に出ると太陽はもう沈んでいて、夜の街に点る灯りがギラギラして眼にウザかった。
だから、眼を閉じた。
『今現在が辛くて苦しいなら、過去の良いことを思い出せばいい』って誰かが言ってた。
誰だったっけ?
 あぁ、研吾だ。
『現在が辛く苦しいモノなら、過去に起きた良い出来事を思い出せばいい。未来でも構わないけど、まだ実現してない新しい事を考える方がより多くのエネルギーを必要とする。ソレって疲れるから。元気じゃなければ未来のことは考えられない。
過去は違う。
辛い体験や苦しい経験は忘れるように人間はできているので、喜びとか楽しみといった感じのポジティブな出来事しか思い出さない』
とか言ってた、と思う。
ホントはもっと漢字が多かったけど。
 研吾、彼の手が欲しい。
こーゆー辛い時には、本当に欲しくなる。
手だけで良いから。
 研吾の手は魔法の手だった。
毎朝、美味しい朝御飯を作ってくれた。
休みの日は、お昼はどこかにお出かけしてそのまま外食ってパターンが多かったけど、晩には部屋に戻ってきて、研吾がホントに美味しい和食中心の夕ご飯を作ってくれた。
 彼の手はスクラップとしか思えないポンコツを直して、卸し立ての新車以上、ビカビカに仕上げることもできた。私にはドコをどうすればそうできるのか、本当に不思議だった。
 こういう風に私の体調が最悪の時には、研吾が優しくマッサージしてくれたっけ。
言われた通りに私がシャワーを浴びて少しだけピシッとなって寝室に入ってくるとベッドにうつ伏せに寝かせて、マッサージ用のオイルを自分の手にぬってから、右腕の手首からマッサージを始めた。右ひじを通り過ぎて脇まで来ると、今度は反対側の左腕の手首から同じように優しく揉みほぐしてくれる。両腕が終わると今度は右脚の足首から膝を、違う、何て言ってたっけ? 膝の裏側、あぁ、そうだ、『ひかがみ』だったっけ。
ひかがみを通って太腿の付け根まで。終わると左脚を同じように足首から股間まで。
 腕と脚が終わると、背中を周りの方から、腕の付け根やおしりから中心へと、まるで私の中にある悪いモノを全部、心臓へと集めるようにマッサージをした。
 毒素を中心に集め終わると、今度は逆に中心から周りの方へ、心臓から脇や脇腹そして脚の付け根へとマッサージをしていった。ボディが終わると両腕と両脚を一本ずつ脇から手首へ、股間から足首へと、ていねいに揉みほぐしてくれる。
背中側が終わると「あお向けになって」と彼が命じて、私は素直に従う。
腹側も背中側と同じように周辺から中心へ、ソレが終わると今度は中心から周辺へと本当にていねいにマッサージして揉みほぐしてくれるんだった。
 研吾のマッサージが終わる頃には、私の中から悪いモノが全て出てしまったように身体が軽くなって体調が回復していることがほとんどだった。
でも面白いのが、私の体調が回復すると、なんとなく2人ともそんな空気感になってしまって、マッサージをする前には私の体調が絶不調でそんなコト考えられるような場合じゃなかったのに、何か、ほぼほぼ毎回SEXって流れになったのは今でも不思議に思う。
 あぁ、研吾の手が欲しいって強烈に思った。
手だけで、いい。
でも、何で研吾は私を捨てたんだろう?
あの時、何で追いかけて来てくれなかったんだろう?
何で、紗瑛ちゃんの部屋まで迎えに来てくれなかったんだろう?
 
研吾と初めて会ったのは、秋葉原だった。
その日の10日前に実家を出て上京したばかりだった。
私はある施設に1年半ほど隔離されていて、ようやく外に出ることを許された日の朝に、その施設から出て電車と路面電車を乗り継いで鹿児島市内の鴨池1丁目にある私の実家に戻った。到着できたのは、陽が沈む寸前だった。
「ただ今戻りました」って声をかけながら玄関に入ると、
黒い大島紬の着流し姿でお父様が立ってらして、
「お帰いやんせ」って仰った。
家の匂いは私が慣れ親しんだものと全く同じで、全然変わってなかった。
居間に行くとお母様が「お帰りなさい」って言いながら、こぼれ出た涙をハンカチで押さえた。普通に「ただ今戻りました」ってだけ答えて、テーブルに着くために腰を下ろした。
 白いタートルネックのサマーセーターにジーンズを身にまとってる彼女は、実際の歳よりも若く見える。私の記憶の中のお母様と全く変わらなかったから、何だかホッとした。
 もう既にお父様はお風呂に浸かった後だったので、お母様が、
「結衣、先に、食事の前にお風呂を頂きなさい」と言ってくれた。
 この家のお風呂に浸かるのはホントに久しぶりだった。
 秋田県でとれる十和田石を組んだ浴槽に浸かると、身体全体が潤ってく気がした。
お風呂場の壁も十和田石で、眼に優しい緑と青が混じった柔らかい色合いが懐かしかった。
 お風呂から上がり、プーマのチェリーピンクのジャージに着替えてから、居間に戻った。
「お風呂を頂戴しました」とお父様に伝えると、彼は無言でうなずいた。
 お母様が夕ご飯として用意して下さったものは彼女の故郷の名物料理で、お祝いの時に出す塩漬けの骨付きバラ肉と野菜を煮合わせたワンホネヤセと得意料理の鶏飯だった。
ワンホネヤセの肉はとても柔らかく口の中でほどけて私の舌の上全体に美味しい豚肉の味が広がった。鶏飯も昔と全然変わらない、懐かしくすら感じる、ホントに同じ味だった。
施設で出される、栄養だけはチャンとしてるけど人間味が感じられない食べ物とは全然違うと感じた。お母様の手料理は、私が憶えてる味と1mmも違わなかった。
 夕食が済んでから私は両親に東京に行く、と打ち明けた。
「東京?」お父様はつぶやいた後「東京へ行って、どげんすっとな?」って訊いてきた。
私は、芸能界に入って活動、できれば女優として活動して行きたいと言った。
ソレが夢なんです、とも言い添えた。
「女優?」お父様の声のボリュームが上がって「おハンは、あげなコツを仕出かして置いて、まだそげな浮ついたコツを言っちょっとか? 他人様にあげなご迷惑をおかけしたち、おハンは、何ち考えっちょッ?」
「でも、私の人生は私のモノです」好きなように生きたいです、って言ったら、
「分かった。どうしてでん、そげなコツをしたく思ッちょっとなら、仕方なか。
そいなら、おハンの好きなように生きたら、良か。
じゃっどん、そいでん、こん家を出て行くっとなら、親子の縁を切りもんそ。
良かか? 二度と、こん家の敷居を跨ぐコツは許されんっとじゃ」ってお父様が仰った。
 分かりました、って、立ち上がって自分の部屋に戻った。
ドアを閉めると、まず勉強机の右側、一番上の引き出しを開けて中身を取り出した。
次にその引き出し自体を机から取り外した。そして中を覗きこんで底板を確認した。
『ホッ』
 どうやら見つかってなかったようだった。
中学3年の遠足で阿蘇山を登山した際にお父様から頂いたヴィクトリノックスを2番目の引き出しから取り出すとメインの刃を開いた。1番目の引き出しの二重底の上板の部分を刃先を慎重に使ってこじ開け、取り外した。
ホントの底板との間に隠してた架空名義の通帳とキャッシュカードを眼にして再びホッとした。通帳とカードを取り上げてから二重底の上板をはめ直し、引き出しを机に戻してから再び中身を戻し入れた。そして、クローゼットを開け、私が小3の時の誕生日に両親から贈られたプレゼントが入ってた山形屋の紙製の大きな手さげ袋を1つ、手に取った。
音を立てないようにドアをソッと開けて、音を立てないように注意して廊下を歩いて行って、お父様の書斎に忍び込んだ。アルバムをしまってあるキャビネットをソッと開けてアルバムの横に置いてある箱のふたを開けて、中から家族写真の現像済みネガフィルムを全部、取り出して紙袋に入れた。
自室に戻って、旅行用の大きなトランクケースの中に服とか下着とか必要な物をつめ込んでいった。でも、フィルムは全部で写真が千枚分以上あるから量が半端無かった。
だからトランクケースの3分の1くらいはフィルムでギューギューだった。
仕方がないので、施設から帰ってくる時に使った40Lのリュックの中身をベッドの上にぶちまけて空にして、替わりにこれからの生活に必要な物をつめ込むことにした。

荷物をまとめて居間に戻った。
正座して父と母の2人の顔をシッカリと見つめながら、
「17年間、本当にお世話になりました。ありがとうございました」って、深々と頭を下げた。長い間下げ続けた後、顔を上げると、父は無言で私を見つめてた。母は泣いてた。
私は、そのまま玄関に向かった。

 家を出ると、市電の騎射場駅から路面電車に乗って天文館へ行った。
その晩は天文館のG3アーケードにあるネットカフェに泊まった。
 そこのネットカフェには大きなコインロッカーが置いてあって、500円で24時間も預けられる。明日は、街の中をウロウロ歩き回らなければいけないので邪魔なトランクを空いてたトコに押し込んだ。これで、明日、動き回れる。リュックは仕方ないと諦めた。
 身体を動かさないといけない時、ジャージはとても便利だ。
だから、その夜は12時間パックで取った禁煙フラットの個室の黒いビニール製の冷たい床にプーマのジャージを着たまま、寝た。着替えることが面倒くさかったから。
 翌日の朝、近くのコンビニでお茶とツナマヨとタラコのオニギリを買って、イートインコーナーがあったので、そこで食べた。母の料理に比べたら紙を食べてるみたいだった。
 お茶とオニギリを買った時に「すいません。レジ袋、大きめのものにして頂けますか?」って頼んだら、マッチ棒みたいな男性の店員さんが必要以上に大きい袋につめてくれた。
『まぁ、大は何とかをかねる』って言うらしいから、別に良いけど。
 何とかって何だったっけ? って思いながら、みずほ銀行まで歩いて行った。
 当時はATMの現金引き出しの最高額は1回あたり100万円だったと憶えてる。
違ったかな? かも、だけど。
 だから、5台並んだATM、左端から順に100万ずつ、合計で5回引き出した。
引き出すたびにコンビニの袋に、現金を入れてった。
 前に、現金を入れるなら白くて不透明なレジ袋が1番だよ、って教えてもらったことがある。そんなこと知らなくても良いじゃん、ってその時は思ったけど、今、役に立ってる。
 誰も、そんな普通のレジ袋に大量の現金が入ってるなんて想像もできないから。
 高1の時に買ってもらったケータイは、とっくに解約されてたから新しいヤツを買いにソフトバンクのキャリアショップへ行った。東京に出たら今1番イケてるiPhoneを買うつもりだったので『取りあえずメールが使えれば十分』と考えて、プリペイド式のケータイを購入した。銀行口座とかの情報が要らないのでソコが面倒くさくなくて、都合良いから。
 16歳の誕生日に取った有効期限がまだ切れてない原付免許証と健康保険証を身分証明のために見せたら「今、お持ちのケータイのデータをお入れしましょうか?」と言われたけど、プリペイドケータイの登録人数の上限は30名分だったので、
「自分でデキます」って断った。
 結局、合計で30分もかからずに、新しいケータイを手に入れられた。
 お昼ご飯には、まだ少し早かったけど11時をホンのチョット過ぎてたのでマックに行って昼食を摂った。店内にはチラホラって感じの人数のお客さんたちしかいなかったので安心して、すみっこの方のコンセントが使える4人がけのテーブルに1人で座ってビックマックのコンボを食べながら電話番号とかメアドとかの必要な情報をプリペイドケータイに移した。勝手にコンセントを利用してケータイのバッテリーを充電しながらだったけど、コレって電気の窃盗になるんだろうか?
まぁ、いいか。
誰も何も言わなかったし。
 データを移し終えてから、隣の座席に置いてあるリュックの中身を取り出し、テーブルの上に置いておいた現金入りのレジ袋を丸めてリュックの下の方に入れた。それから中身をつめ戻した。これでコレからの生活資金を盗られる心配は少なくなる。
今朝、オニギリを食べたコンビニのイートインコーナー、テーブルの隅にポリ袋がつまった箱が置いてあって、既にふたが開けられてたので『勝手に使っていいんだ』と勝手に解釈して、8枚ほど頂いた、無断で、だけど。
ソレを、しまってあったリュックの内側ポケットから取り出す。
 おなじ場所から、架空名義の通帳とカード、それとヴィクトリノックスも取り出した。
そして、スイス製の万能ナイフに付いてるハサミをオープンした。
 父の話では、本来このハサミは針金なんかを切るための物らしい。
だからかも、知れない。
 通帳はおろか、キャッシュカードも面白いように楽々、スパスパと切れてく。
お正月に頂くスルメのように細く切り分けてから、今度は小さな正方形を作るように直角に横側からハサミを入れてった。
 10分後、通帳とカードはそれぞれ、紙の砂の小山とプラスティックの砂の小山に変身してた。小山をそれぞれ4つに分けて、別々のポリ袋につめてから、口をしばった。
 ビックマックを食べ終えてから、古いケータイをリュックに押し込んで、席を立った。
幸運なことに、お昼ご飯タイムで混みだす前に店の外に出られた。
 天文館をプラプラ歩いてると、施設でお世話になった先生たちの厳しくも優しい顔を思い出した。何か、あれだけして下さったのに今、私は悪いことをしてる、って申し訳ない気持ちでイッパイだった。『更生できて良かった』って仰られた時の先生の笑顔が浮かんだ。
『先生たち、ごめんなさい。これが最後です。このお金がないと私は生きてけないんです』って思って、『緊急避難なんです』とも思った。
実際、犯罪行為で手に入れた訳じゃないし。
 架空名義の通帳とカードはお金になる、ってことは十分知ってた。
でも、これがホントに最後だって心に決めてた。
 だから、捨てることに全くためらいは無かった。
粉々にしたのも、だから、だった。
 天文館のアーケードをプラプラ歩いてる途中でコンビニを見つける度に、通帳とカードの残骸がつまったポリ袋をそれぞれ一つずつ、ゴミ箱へ捨てた。
通りがかりのコンビニ4軒で、残金が102円の通帳とカードの全てを捨て終えられた。
そしたら少しだけ心が軽くなった、気がした。

 その晩、福岡行きの深夜バスに乗った。
 幼い頃は乗り物全般がダメで、動き始めるとスグに酔っちゃう感じだった。
子供用の酔い止めの薬もアンマリ効かなかったから、遠足とかは超大変だった。
けど、思春期に入るくらい、高校に上がる時くらいから酔い止めも効くようになって、
身体の調子さえ良ければ、酔い止めも飲まなくても平気になったので、助かってる。
 でも、今夜は用心して大人用の酔い止めを飲んでおいた。
 正解だった。
バスの中自体は結構きれいで気持ちが良い感じだったけど、震動とか揺れがかなりヤバい感じでよく眠れなかった。ウトウトしては眼が覚める、というのを繰返してるだけだった。
 酔い止めを飲んでなかったら、アウトだったかも。
それで、次の日の早朝に福岡に着くと速攻でネットカフェに禁煙フラットタイプの個室を10時間パックで取って、壁だけで仕切られた狭い空間の中で泥のように爆睡した。
 夕方、ネットカフェを出て、博多駅近くのフレッシュネスバーガーで朝・昼・晩の3つ分兼用の食事を、全部まとめて摂った。期待以下でも以上でもない普通の味だったけど、施設とは違って自分の食べたい物を食べたい時に食べられるのが最高に嬉しかった。
 お金がない訳じゃないから新幹線でピュッと行くってこともできたけど、先は長いんだし、だから、東京まで再び深夜バスを利用した。発車した後にバスの運転手さんが、
「今日は日本で一番長距離を走る深夜バス、キングオブ深夜バスの『はかた号』新宿行をご利用いただきましてまことにありがとうございます」ってアナウンスを始めた。
『私、日本一の深夜バスに乗ってるんだ』ってチョットおかしく思えて、笑った。
昨夜の経験で身体が深夜バスに慣れたのか、疲れてたからなのか、それともはかた号のバスが性能いいのか、分からないけど、その夜はよく眠れた。
後で、この夜のことを想いだした時に気付いたんだけど、私、酔い止め飲むの、忘れちゃってた。だから、この時はホントに疲れてたんだなぁ、って思ってる。
朝、新宿につくと紗瑛ちゃんが迎えに来てくれてた。
紗瑛ちゃんは私より一つ年上の従姉妹で、親戚の市来家の長女でとても面倒見がいい人だ。
東京外国語大学の英語科に通っていて、巣鴨にあるオートロック付きのマンションの6階に住んでる。私が、あんなことをヤラかしてしまった後でも普段と何も変わらない態度で接してくれてた、ほとんど唯一の人だった。何回か施設に面接にも来てくれた、とっても頼りになる人だった。だから、甘えてるのは分かってたけど、ヤッパリ甘えることにした。
昨日の夜、ハンバーガーを食べながらメールを送っておいた。
文面はこんな感じ。
『明日、東京に出ます。しばらくの間、泊めてください』
『了解。新幹線?』って返信が来たから、
『違います。深夜バスに乗ります』
『はかた号?』
『そうです』
『じゃ、明日、新宿で会おうね』
『?』
『新宿まで迎えに行くから』
『場所を教えてくれれば、私ひとりで紗瑛ちゃん家に行けます』
『いいって。明日は伊勢丹に用事があるから、ついでだよ』
『分かりました。ありがとうございます』
『じゃ、明日ね』
『よろしくお願いします』
って、こんな感じで私は上京してきた。
 その頃にはAKB48が『大声ダイヤモンド』というシングル曲を出してブレイクしかけてたからか秋葉原全体が物凄く盛り上がってる感じがして、それでドンキホーテの近くにあるメイド喫茶で働くことにした。芸能界って世界に潜り込むためにはAKBに入るのが一番の近道に思えたから当然オーディションを受けるつもりで、でも次のAKBの追加メンバー募集のオーディションが開かれるまでにはまだしばらく時間がかかりそうだし、待ってる間ずっと何もしないと所持金が減って行くばかりだし、それに先回りしてアキバという街の空気感を知っておこうって意味もあった。
この時、私はオーディションに落ちるって可能性もあるってことを思いもしなかった。
まぁ、色々あって結局は受けてないんだけど。
 私のバイト先は正統スタイル(?)のメイド喫茶で、典型的なメイド服で接客しているお店だった。ただ面白いルールがあって、それはシフト時間終了間際の15分になると店の外に出て路上でフライヤーを配らなければいけないってヤツだった。
 常連のお客様はそれぞれお目当てのメイドさんがいて、そのメイドさんがあと15分で上がりです、ってなる時、その際際の時間帯にその娘目当てのお客様が来店しちゃったら、お互いが困ることになるから、ってのが面接時に私が説明された、この変てこなルールが存在してる理由だった。
でも実際に働いてみると、お目当てのメイドさんを持つ常連のお客様たちは一人残らずその娘のバイトのシフト状況をお店側以上に把握してるので、私が働いている間にそんな奇妙なすれ違いは一回も起こったことがなかった。
「サクヤちゃん、もうすぐ上がりだからフライヤーお願いね」とバイトチーフの美樹さん(メイドネームは『ほむら』)がメイドネームの『サクヤ』で私に話しかけてきた。
「分かりました」と答えて内心『多過ぎるかな』って思うくらいのフライヤーの束を持ってお店から出た。エレベーターでビルの5階から1階まで降りて歩道に出た。
 幸いなことにフライヤーは意外と速いスピードで捌けて行った。
この当時は今よりも3cm低かったから169だったけどメイドとしては背が高いので珍しさからかも知れないけど、差し出したチラシの受け取りを拒否る男性はほとんどいなかった。私の偏見かもしれないけど、秋葉原の歩道を歩く男性の平均身長は全国的に見ても低いと思う。小っちゃい男の人が多いって感じる。
 その時、私の眼の前をオイルやススで汚れた白いツナギの作業着を着た小柄な男性が、通り過ぎようとしてるのに気が付いた。誰かが歩いてくる気配なんか全然感じなかったから焦って、その男性の手許にフライヤーを差し出して「お願いします」って声をかけた。
 それまで疲れ切ったような感じで俯いて地面を見ながらトポトポ歩いていた男性が顔を上げて私の顔を見上げた。
その瞬間、私の身体の中を電撃が走った。
その人は身体全体から『疲れ切ったぁ!』って感じを漂わせていたけど、眼だけは違った。
私の17年間の人生でこんなにキラキラした眼をした人に今まで出会ったことが無かった。
施設にいた時に勉強して獲った漢検2級の問題、アレっ? 3級の問題だったかな、まぁ、どっちでもいいけど『眼光炯炯』っていうのがコレなんだって思った。
私は少し緊張して「お疲れだね、整備士さん」って、その男性に話しかけるのが精一杯。
今でいうとメッシ、背の低いメッシって感じの体型をしてるその男性は、瞳を煌々とさせながら「ひとつの仕事を成功させたばかりなんだ」って、低くよく通るバリトンで答えた。
その時、男性の身体の周りをビカビカって超サイヤ人みたいな黄金色のオーラが包み込んだような感覚に襲われた。嘘じゃない。ホントに孫悟空みたいなオーラだった。戦闘態勢を取った時に超サイヤ人の悟空を覆う黄金色のオーラ。
その黄金色のオーラがビカビカ輝いている時に整備士さんから台風みたいな颶風のような『圧』を感じた。その瞬間、私の下腹部にトクントクンと音を立てる何かが宿った。
何、コレ?
この感覚、何?
 そう思った瞬間に、私の中の直感が、耳許でささやいた。
『この人だよ。この人に会うために、アナタは生まれてきたんだよ』

 絶対に逃がせない。
この人が運命の人なら、絶対に逃がしちゃダメだ。
そう思った。
手に持っていたフライヤーの残りを彼に押し付けながら整備士さんに言った。
「私、あと10分くらいでバイトを上がれるんです。近くにレトロな雰囲気が満載の良い感じのカフェがあるから一緒にお茶しませんか」緊張してたから、アワアワしてしまって噛まないように伝えるのが精一杯だった。自分でも無茶苦茶な誘い方だって分かってたけど、この時は男性を逃がさないように、それだけを考えてて必死だったから、手段なんか選んでる暇も余裕も私にはなかった。
 整備士さんは明らかに眠そうだったけど「はい」って頷いてフライヤーの残りを受け取ってくれた。「ありがとうございます」5分で戻って来ますから、と言い残して店に戻った。
 美樹さんに「フライヤー全部、捌けました」と嘘をつくと彼女は素直に信じてくれて、
「じゃ、ちょっとフライングだけど、上がって良いよ」と許してくれた。
「ありがとうございます」って答えてから他のメイドさん達に「お先に失礼します」と声をかけながら速歩でバックへ戻り、ドアを閉めてお店から見えなくなると私は更衣室へと全速力のダッシュで向かった。神速で私服に着替え終わると、従業員専用の出入り口からエレベーターへと急いだ。待ってる時のエレベーターは来るのが本当に遅い。私は『↓』と表示されているボタンを叩き続けた。ようやく扉が開いたので箱の中に飛込んで『1』を押した後に今度は『閉』のボタンを連打した。
 行って帰ってくるのに合計で3分かからなかったと思う。
整備士さんと別れたその歩道に戻った時、ソコに彼の姿はなかった。
『嘘ッ! 逃げられた?』って思って辺りを見回すと、隣のアニメグッズ店の柱にもたれかかって寝てる彼を発見できた。
「お待たせ」って声をかけて整備士さんを起こしてから、彼が抱えてたフライヤーを受け取って自分のリュックに押し込んだ。これは今度のシフトの時に配ればいいって考えた。
「さ、行こう」って彼と腕を組んだら、整備士さんはちょっと驚いた感じに思えたけど、素直にそのまま組み合せてきてくれた。私と彼は連れだってレトロなカフェに向った。
その時、私が着てた服は初夏用のサマーウェイトの白いフィールドコートに白Tシャツ、Tバックじゃないとかがんだ時にアンダーの生地が、はみ出ちゃいそうなくらいに超絶短いルノワール・ピンクのショートパンツだった。そしてナイキの赤いスニーカーを履いてた。
 後になって彼が告白した、『オレは脚フェチなんだ。あの時の結衣の姿恰好を観て眠気がブっ飛んだよ。完璧に眼が醒めた』って。
この彼の告白以降、私がショートパンツを穿く比率はかなり上がった。
 整備士さんを連れて行ったのはAKB劇場の裏手にある古い雑居ビルの一階にあるカフェ白磯という純喫茶だった。外観はどうみても昔の喫茶店で、店の中は昭和の香りが濃厚に漂う雰囲気満載だった。私自身は平成の生まれなので、昭和が一体どんなものなのか全然知らないんだけど、この店を私に紹介した昭和生まれの美樹さんがそう言っていたから、きっとそうなんだろうって思ってる。現代的なドリップマシンを使わないで、コーヒーは一杯ずつサイホンとかいう理科の実験器具みたいな物で淹れる、そういう店だった。
名前の判らない観葉植物が壁際にポツンと一つだけ置かれていた。
カウンターに5席。4人掛けのテーブル席が3つのとても小さなお店だった。
何となく店の雰囲気が少し田舎っぽく感じられて小洒落たスタバにまだ慣れてない私にはピッタリいい感じで、ここに来ると東京というストレスがたまりまくる街で暮らしてザワついてしまった心がスーッと落ち着いて行くのが分かった。
東京に住み始めて、まだ10日しか経ってなかったけど。
窓際のテーブルに席を取った。
整備士さんは物珍しそうに店内を見まわしてから、メニューを開けた。
「へぇ、今時珍しい。チキンライスがあるんだ」
「チキンライス、お好きなんですか?」と訊いたら、
「母親がよく作ってくれたんです」美味かった、って答えた。
「今でもお母様に作っていただいたりするんですか?」って尋ねたら、
「母は、一昨年の秋に亡くなったんです」って答えたから、私は超慌てて、
「すいません。余計なことを訊いて」って頭を下げた。
でも整備士さんは優しい笑みを浮かべながら「もう何も引きずってないから、大丈夫です」それから「付け加えると父も昨年の2月に他界しているんです。兄弟も親戚もいないし、言ってみればいわゆる『天涯孤独』ってヤツですね」と言って「両親のことは忘れるようにしているんです。いつまでもしがみ付いていると父も母も成仏できないでしょうし、ね。
それに、必要な時に思い出せれば、それで良いので」と続けた。

 お店のご主人の初老の男性がオーダーを取りにやって来た。
整備士さんはチキンライスとコーヒー、私は章姫というイチゴを使ったイチゴパルフェを注文した。オーダーと呼ぶよりも注文って言った方がこの店の雰囲気にピッタリ来る。
「私、佐伯結衣っていいます」
「オレ...僕はロクブンギケンゴです」
どういう字を書くんですか? って訊くと店の紙ナプキンを一枚取り上げて胸のポケットに差してあった水性ジェルインクのボールペンでサラサラと書いてから、渡してきた。
『六分儀研吾』
 私は「ペンを貸してみて」ってお願いして、手渡されると自分の名前を書いてからナプキンを研吾くんに返した。彼は一読すると「弘法大師と同じ『佐伯』ですね」と言った。
「弘法大師って?」何となく聞き覚えのある名前だったけど確信できなかったから訊いた。
「平安時代の偉いお坊さん。幼名...小さい時の名前が『サエキマオ』っていうんです」
彼が同じ紙に『佐伯真魚』って書いて私に手渡した。
名前に『魚』が入ってるなんて、面白い。
そう伝えると「昔の人の名前にはよく動物の名前から取ったモノも多いんですよ」って教えてくれた。「たとえば坂本龍馬とかですね。龍と馬の両方が入ってるでしょう?」
絶対にこの人、超頭良いって感じたから「大学とか出てるんですか?」って尋ねたら、
「東工大...東京工業大学です」って答えた。
 父の同僚の吉田教授が以前に准教授をなさってた国立大学だから、知ってた。
この人、ヤッパリ超頭良いじゃん。
話す口調に何となく品の良さも感じられるし、浮付いてなく落ち着いてるトコもいい感じ。
決してイケメンじゃないけど、顔の造りも左右のシンメトリーが整ってるし、ボディも均整がとれてて、ホントに低身長のメッシって感じだった。
昔、父に「顔や身体の左右のシンメトリーが整っている個体のゲノムは優れている」って教わった。
 やっぱり私の直感、正しかった。
この人が私の運命の人だ。
その時、そう確信した。

 私たちはそのカフェ白磯で3時間も話を続けた。
チキンライスやコーヒー、イチゴパルフェは結構最初の方ですぐ空になってしまっけたど、私たちは話し続けた。私の誕生日が9月23日と伝えると研吾くんが「オレ...僕は5月23日生まれです」って教えてくれた。同じ23日生まれなんだって分かって、
『ヤッパリ、コレ運命だよ』って確信が強まった。
 話し始めて1時間もすると彼と私の話す言葉から『です・ます』が消えていた。
大分粘ってから追加のコーヒーを頼んで、また私たちは話を続けた。
2時間くらい経った頃に私が「苗字じゃなくて結衣って呼んで」って頼んだら、それから研吾くんは私のことを『結衣さん』って呼ぶようになった。
『さん付け禁止』ってお願いしても呼び捨てにしてくれなかったけど。
 従姉妹の部屋に居候してるって話して、早く自分の部屋を見付けなきゃいけないんだ、ってポツっと漏らしたら「じゃあ、オレの部屋くる?」って彼が提案してきたので、その話に速攻で乗っかった。ビッグチャンスだと思った。
 3時間いても何も文句を言わない御主人に、居座ってしまったお詫びを言ってからお店を出た。出会った時は4時前だったのに、もう夕方を過ぎて夜に突入しかけていた。
 秋葉原駅の近くにあるショップで私は着替え用のアンダーを買った。そして、ドラッグストアで歯ブラシとタオル、クレンジングシートや化粧水、乳液なんかを買った。
明日、私は休暇でシフトが入ってないし、研吾くんも代休を取ってた。単なる偶然なのかも知れないけど、私にはそう思えなかった。ホントに運命の出会いなんだって信じてた。
研吾くんは「明日は久しぶりの休み。でも何の予定も立ててなかった」と、苦笑した。
 よく見ず知らずのメイドに誘われてレトロなカフェに行ったよね、って訊いたら、
「眠気覚ましにコーヒーが飲みたかったんだ」って研吾くんは私を見上げながら答えた。
 腕を組んで歩く私たちを街行く人たちは好奇の視線でジロジロ見てきてるけど、彼は何も気にしていないのが分かる。自分に自信があるからなんだ、って思った。
他人からどう思われようと、自分のしたいことをする人なんだ、って頼もしく思えた。
あ、でも、一回やってみたかったから『恋人つなぎ』をしてみたけど、コレは失敗。
研吾くんと私の腕の長さが丸っきり違ってるんで、歩きづらくなるだけだったから。
結局、普通に腕を組み合せるだけにした。
それでも私は十分満足だった。

横須賀線を走る列車のシートに座ってる間中ずっと彼は私にもたれかかって寝てた。
私たち2人は、歩く時は出来ない『恋人つなぎ』で、ずっと手をつないでいた。
肩に掛かってくる彼の重みがホントに嬉しかった。
 トクントクンと音を立てる何かは、消える気配もなく、ずっと私の下腹部にいる。
 あ、紗瑛ちゃんにメールするの忘れてた。だから、
『超絶にイケてる人に出会いました。今日は帰りません。玄関のカギ締めて大丈夫です』って送信した。そしたら、
『気張れ!』って鹿児島弁で返信が来た。

 横須賀駅に到着してバスに乗り換えた。研吾くんは、バスへ乗り換える時だけ起きてた。
バスに乗ってる間もずっと彼は寝てた。
でも『ドコで降りるのか、まだ訊いてなかった』って考えが浮かんできて少し焦った。
『どうしよう?』って思ってたら、
録音されたテープが「次は『武山』『武山』お降りのお客様は停車ボタンを押してください」ってアナウンスすると、ムクッと彼は起きてピンポンと停車ボタンを押した。

 研吾くんの部屋はコンクリート造りのアパートの2階にあった。
彼はドアを開けると「どうぞ。さ、入って」と私を促した。
「お邪魔します」って言いながら、中に入った。
 6畳の個室が2部屋とリビングとキッチンを兼ねた部屋が1つという間取りだった。
「お腹減ってない?」研吾くんが訊いたので
「減ってる」って正直に告白した。
「パスタで良いかな?」早くできるし、と彼が言ったので、
「うん」って了解した。
彼は大きめの鍋に水を七分目くらい水を張ってからガスレンジに載せて火を点けた。
「あ、今日はニンニク関係はチョット...」とお口の匂いを気にして、そう告げると、
「うん、分かった。じゃ、カリオストロのミートボールスパゲッティにするね」と言った。
『カリオストロ』って何だ? って思ったので、シンプルに尋ねた。
「カリオストロって何?」
「ルパン三世ってアニメの映画。ルパンの2番目に映画化したヤツで『となりのトトロ』の宮崎駿が監督してるヤツ。DVDあるから観る?」って研吾くんが料理しながら答えた。
「へぇ。あの宮崎って監督さん、トトロみたいな映画ばっかりじゃないんだ」って言うと、
研吾くんは「本当の宮崎さんは兵器マニア、戦争マニアでその上、超ロリコンなんだ。小学生でも高学年になると興味を無くすらしいから、ゴリゴリのロリコンだな」って笑った。
 お湯が沸くと結構な分量の塩を入れて、完全に溶けたのを確認してからパスタを捻じって投入した。冷凍庫からミートボールの袋を取り出して耐熱皿に中身をコロコロってしてからレンチンした。もう1つのガスレンジにテフロンのフライパンを載せて、レンジから出した解凍済みのミートボールをコロコロって入れて火を点け、焼き始めた。それから、頭の上の棚の扉を開けて、キューピーのミートソースのレトルトパックを2つ取り出すと封を切って中身をフライパンに注ぎ入れた。するとジュって音が鳴った。
「あ、そうだ。訊くの忘れたけど、何かアレルギーある? あと食べられないモノとか?」
研吾くんの質問に私が「昆虫以外なら大丈夫」と答えると彼も「オレもイナゴとか苦手」と笑ったから、私も釣られて笑った。
 それから研吾くんは、ガスレンジの上の造り付けの棚から小さな赤い缶を取り出した。
ティースプーンの柄を使ってその缶の蓋をこじ開け、中から黄色い粉を小指の爪先くらいの分量をすくい取って、フライパンの上でジュージュー言ってるソースにパラッと加えた。
「それ、何?」
「魔法の粉」
 マホー?
それって、もしかしてヤバいヤツじゃないよね?
一瞬だけ彼の真意を疑ったけど、すぐに何の粉か、分かった。
懐かしくて、とっても食欲をそそのかす芳しい香りがパーッてキッチンに広がったから。
 私は、ほんの少しだとはいえ、研吾くんを疑ってしまった自分に『メッ!』ってした。
『この人が、そんなコトする訳ないでしょ、何考えてんの!』って、すっごく反省した。
そして、だから、ホッと息をつきながら、彼に訊いた。
「カレー...粉?」
「正解」って彼はニカって笑った。
「それって、入れると...?」
「カレー粉とトマトって相性、とっても良いんだ。チキンライスにも入れると美味いよ」
「ふーん」
 この人、料理のこととかも詳しいんだ。
『でも、それってお母様に教わったのかな?』って、思えたから『料理、勉強しなきゃ』って決心した。誰だったか忘れちゃったけど、誰かが言ってたような気がする。
『男を逃がさないためには、まず胃袋をつかめ』って。
お料理、全然できないけど、勉強しよっと。
 研吾くんは、ゆで上がったパスタをソースとミートボールに加えてから器用な手付きでフライパンをあおって中身を混ぜ合わせ、1本つまんで味を確かめてから塩と胡椒をパラパラっと振りかけて、バージンオリーブオイルをクルッと一周かけまわし、仕上げにパルメザンチーズを鬼のように大量に振ってバサッバサッと大きくフライパンをあおってから「はい。できました」と、また笑顔を浮かべた。

 市販のソースなのに物凄く美味しくできたミートボールスパゲッティと、野菜室に転がってたキャベツを千切りにした物に微塵切りのガリとちりめん山椒を振り掛けて、そこに少しの量のポン酢とソコソコの量のバージンオリーブオイルをかけまわしただけっていう、とってもシンプルだけどメチャメチャ美味しいサラダを食べた終えた後、お風呂に入った。
最初に研吾くんがシャワーを浴びた。『お先にどうぞ』って彼は勧めてくれたんだけど、私は断って「研吾くんからどうぞ」って返した。
15分ほど経ってから彼が出てくると入れ替わるように私が浴室に入った。
 身体の隅々まで綺麗にしとかなきゃ、って思ったのでいつも以上に入念に身体を洗った。
 シャワーを終えた後、洗面所で新品の歯ブラシを使って入念に歯を磨き始める。
『虫歯、無くて良かった』って、この時にホントにシミジミ思った。
歯を磨き終えた後、私のピンクの歯ブラシをまだ濡れてる青の歯ブラシが入ってるコップに、2本が隣同士になるように、差し入れた。
秋葉原で買ったアンダーパンツだけ穿いてから研吾くんに借りた白いTシャツを頭からズボッと被った。Victoria’s Secretで買った必殺の勝負パンツだった。借りたシャツは男物だからか、凄げぇ大きかった。小柄だけどヤッパリ男性だもん、違うよね、って思った。
お風呂から出て行くと同じような格好をした研吾くんが「これだよ」と言って『ルパン三世・カリオストロの城』っていうアニメのDVDのジャケットを差し出して来た。
 前に地上波で放送してたヤツだ。
「私、コレTVで観たことある」って告げると彼は「どうだった?」と私の評価を訊いた。
映画の最初の方のカーチェイスと、その後のルパンがお城の屋根を走るシーンがメッチャ面白かった、って言うと、
研吾くんは「中々お目が高い」と笑った。
ベッドに2人並んで座り、カフェでしてた話の続きを再開した。
私は研吾くんについて色々なことを知った。
大学でクルマのエンジンの勉強をしてたこと。
御両親がお亡くなりになって、大学院への進学をあきらめたこと。
海が見たくなって三浦半島をうろついてた時に、荒川自動車っていう自動車の整備工場に就職が決まったこと。
ここ最近になってエンジンの整備を任されるようになって、今日初めて仕上げたクルマ、フェラーリっていうメーカーの『F40』って物凄いスポーツカーを納品したこと。
 そういうことを話してくれた。
だから、私は自分のことを何も包み隠さず、彼に伝えた。
1週間前に買ったばかりのiPhoneの中に入ってる家族写真を見せながら、色々と話した。
研吾くんと同じように一人っ子なこと。
両親のこと。
そして私がヤラかしてしまった事件のこと。
施設に入らなきゃいけなくなってしまったこと。
そこを仮退院してから10日しか経ってない、ってこと。
そして両親に勘当されてしまったこと。
芸能界に入ろうとして上京したこと。
 研吾くんは私が話をしてる時、ずっと黙って聞いていた。
告白を終えると彼は私の瞳を覗きこんだまま「復活できて、本当に良かった」って言った。
 私が「こういう私でも、だいじょぶ?」と尋ねると、研吾くんはコクンと大きく頷いた。
彼の返答に夢見心地になった私は、大胆だけど瞳を閉じて自分の方から唇を重ねてった。
研吾くんは私の唇を優しく受け止めると両手を背中に回してきてキュッと抱き締めた。
 終わったかなって思って顔を離すと彼は私の鼻の頭にチュッとしてから、次におでこに柔らかいキスをした。研吾くんの顔を見つめながら、
「今したの、私のファーストキスだよ」って素直に告白した。
「本当?」って研吾くんは軽く驚いた。
私はコクンと頷いた。
「じゃ、あっちも?」彼が訊いてきた。
私は再び頷く。
「初めてが、オレで良いの?」
「初めては、研吾くんが、いい」
「withmyhonor.」
英語っぽかったけど研吾くんの発音が良過ぎて何を言ってるかサッパリ分からなかった。
「何て言ったの?」って訊いたら、
彼は、分かりやすい発音でもう一回同じことを言った。
「WITH MY HONOR」
「何て意味?」
「我が名誉はキミと共にあらん」

女性の偉いお坊さまが花芯と呼んだんだ、と研吾くんが教えてくれた、その部分を彼は優しくツイばむように吸いながら、右手の人差し指と中指の腹で私の入り口に優しく柔らかい愛撫を繰返していた。最初はチョットくすぐったかった。けれど、段々と気持ち良くなってきて、その内に今まで体験したことのない快感が下腹部から広がってきて、最終的にはその感覚に身体の全体が覆われてしまった。身体中に広がる快感の波が、私の身体をユサユサと揺り動かしてるみたいだった。
でも同時に『私はどうなっちゃうんだろ?』って恐怖のような物が降りても来てたので、
「ちょっと研吾くん、怖い。止めて」って言おうとしたんだけど、声に出そうとした直前に絶頂へと昇らされてしまった。
まだ処女なのに『イク』ってことが何なのか、教えられちゃった瞬間だった。

 私が『イク』という人生で初めての体験をした後、研吾くんは口許を私の耳許に寄せて、「ゴメン。今日はこれ以上、出来ない」と、ささやいた。
え? 私、何か嫌なことしたかな? って思って、眼を開けて「どうして?」って尋ねると、
「まさか、こんなことになるとは想定してなかったんで、コンドームを用意してないんだ」って告げた。
「そのまま、して」
「え! 大丈夫なのか?」
彼の顔を見上げながら、コクンって頷いた。
「外に出すよ」って彼が言ったから、
「中で、イって。初めてだから、記念だから」と頼んだ。
「赤ちゃん、授かっちゃうかもしれないよ?」と研吾くんが心配したので、
「今日は安全日」って微笑みながら、嘘をついた。
運良く赤ちゃん授かっちゃえば、私から逃げれなくさせられる。
絶対に逃がさない。
誰にも渡さない。
研吾くんは私のモノ。

「本当に良いのか、結衣?」
そこでようやく『さん』が取れた。
だから私も『くん』を取って「うん、研吾ぉ」って頷いた
研吾は「with my honor.」とちょっと前に言った言葉をもう一回、繰返した。
 彼が「結衣、入るよ」って言葉をかけてきたので、
コクンと頷いて眼を閉じた。
ゆっくりと静かに入ってきた。
でも、入口でためらうように立ち止まって動かなくなった。タイミングを見計らっていたのか、少し経ってから再び動き始め、ゆっくりと奥まで入ってきた。
想像を超えた激痛に自分の眉毛がゆがんでしまうのをアリアリと感じた。
まるで穴の開いてない文庫本に先の丸まった鉛筆を突き刺して行くような鈍い激痛だった。
 奥まで達するとまた立ち止まって動かなくなった。
しばらくしてから、研吾が「動くよ」って耳許でささやいた。
私は眼をつぶったまま、コクンってした。
 彼は、一定でユッタリとしたリズムで、刻む込むように自分の身体を動かし始めた。
 想像してたよりも全然、痛かった。
こうなってとっても嬉しかったけど、研吾が身体を動かすたびに下腹部に鈍い激痛が走って、がんばって我慢してたんだけど、つい『痛い』の「イっ!」が口から漏れ出ちゃった。
そしたら研吾が動くのを止めて、私の眉毛が苦痛にゆがんでいるトコを見てから、
「大丈夫? 辛そうだから、もう止めよっか?」って訊いてきた。
それじゃ、記念日にならないよ、って思った。だから、
私は「だいじょぶだから、止めないで。最後までチャンとして、お願い」って答えた。
研吾は私の眼をジッと見つめながら「この痛みって『ハカ』って呼ぶらしいよ」それから「分かった。じゃ、もう何も訊かない」って私のおでこに柔らかくキスを1つした。
私は研吾の眼をジッと見つめながらコクンと頷いて、また眼を閉じる。
彼が再び動き出すと鈍い激痛も復活した。私が声を出さないように必死に耐えていると、いきなりさっき体験したのと同じ快感の波が下腹部から全身へと広がってくるのを感じた。
『何で?』って思って固く閉じてた眼を開けて下の方を覗きこむと、研吾が身体を動かしながら右手の親指で私の花芯を優しく愛撫してた。
 激痛と快感の両方を同時に感じなきゃいけなかったから結構忙しくて、私の頭はプチ・パニックを起こしかけてたけど、割と冷静に『この人、器用だな』って感心してたことを憶えてる。

私の中で果てた後、研吾は私をキュッて抱きしめて、おでこにまた1つキスをした。
「ありがとう。オレを選んでくれて」って言った。
嬉しかった。けれど、ひとつだけ、
私は、彼が唇を重ねてくれなかったので「何でおでこなの?」と不満を漏らしたら、
「さっき、口でしたから」と研吾が言い訳した。
そんなことまで考えてくれてるんだって、私は余計に嬉しくなって自分の方から唇を重ねて舌をからませた。
キスを終えると研吾は「じゃ、終わるね」って、身体を動かし始めた。
彼が、私の中から出て行くのを下腹部に感じた。
入ってくる時と同じように入り口で一旦、立ち止まる。
こゆの、何て言うんだったっけ?
後ろ髪を抜かれる? だったっけ?
あぁ、違うや。
後ろ髪を引かれて、立ち止まっているような感じだった。
 しばらく経つと、私の中からスルッと出て行った。

してる最中は激痛に『何だよ、コレッ!』って思ってたけど、彼が私から出て行った後は、想像してたより痛くはなかったな、って感じてた。
何でだろ?
研吾が入り口で立ち止まったことになんか関係あるのかな? って思ったから、右横にいる彼に顔を寄せて「何で、私の入り口で立ち止まったの?」って単刀直入に訊いた。
そしたら彼は「結衣の呼吸の具合を観察していたんだよ」って答えた。
「呼吸?」
「結衣が息を吐くタイミングでキミの中に入っていけるように。
キミから出て行く時は、結衣が息を吸っている時に。
あと、出て行く時には『Peak-Endの法則』も関係しているけど」
「ピーケンのロウソクって、何?」発音が良過ぎて何言ってるか、全然サッパリだった。
「ピーク・エンドの法則。
内視鏡って知ってるだろ? 先端にカメラが付いたチューブを口から挿入して胃の内部を検査する機器だけど」
「何となく」うろ覚えだったけど、ホントに薄っすらとだけどギリギリ、イメージできた。
「機器自体は改良はされているし、施術中には麻酔もするんだけど、ヤッパリ痛いんだ。でも、痛みってのは『ピーク』つまり最大に痛い時と『エンド』終了の時の痛みの度合いで『全体』の痛みの印象具合が決まる。
実際、施術中はずっと痛みが続くんだけど、記憶として残る『印象』としての『痛み』は最大時と終了時の2つで決まってしまって、残りの痛みは全部忘れてしまうんだ。
で、この2つの内でより影響力が高いのが終了時の方。
だから、優秀な内視鏡医は内視鏡を抜き取る時に一気に抜いてしまわないで、先端部が咽喉に差し掛かった時に一旦この抜き取り作業を中断して、その部位に先端部を停止させる。
しばらく咽喉に滞在させた後でスルッと抜き取ると、終了時つまり抜き取り時にあんまり痛みを感じなくて済むんだ。つまり終了時の痛みが結構なレベルで和らぐ。だから、この方法で施術すると患者が受ける痛み全体の印象は『あんまり痛く無かった』ってなるんだ。
終わり良ければ全て良し。終わりこそ常に王冠です、って誰かが言ってたけど本当なんだ」
えーと、何かい?
研吾の話した内容には漢字が多過ぎて、私の脳では変換し切れなかったけど、彼の言いたいことは、私に『あんまり痛く無かったな』って思わせるため、出て行く時に私の入り口で立ち止まったってこと、なのかな?
「私に、痛みを感じさせないように、ああしてくれたの?」
「そうだ」って研吾が微笑んだ。
チャンと私のことを考えてくれてたんだって思って、胸がキュンってした。
それに、この人、ホントに頭良いんだって感心した。
でも、処女の私をイカせたり、痛みを感じさせないようにするテクを持ってるなんて、
絶対にコイツ、経験人数が半端無いだろ? 三桁くらいイッてんじゃね? って思ったので、
恐る恐る「研吾にとって、私って何人目?」と尋ねた。そしたら、
「結衣が2人目だよ」って答えた。だから、
『嘘でしょ?』って思って研吾の眼を覗きこんだら、彼の瞳に嘘は浮かんでいなかった。
ホントなんだ、ホントにホントなんだ、ってちょっと感動した。
でも当然、私はその研吾の最初の女の人が、どういう人なのかメチャメチャ気になった。
「最初の人って、何て名前?」
「ヤマダミホコ、高校の同級生」
「付き合ってたの?」
「いや、一緒にいた期間の内、最後の3日間だけ、付き合った」
「どゆ人?」
「とても美しい人だった」
ふーん。
でも、じゃ、実質的には、私が研吾の初めてのオンナじゃんって思った。
この人を絶対に離さない。
絶対に逃がさない。
やっぱり私はこの人に出会うために生まれてきたんだって、その時に完全に確信した。

「ね、もう一回、しよ」
「痛かっただろ、本当に大丈夫?」
「だいじょぶ、だよ」
「でも、まだ無理だよ」あと20分くらい経たないと復活しない、って研吾が情けなさそうな感じで、言った。
「じゃ、私が元気にしてあげる」
アンアンのSEX特集で読んだように、して上げればいいんだって思った。
 初めに研吾の唇にキスをしてから、次に彼の胸の小さな乳首にキスをして段々と下の方に降りて行った。そして小さくなって、うなだれているのをお口に含んだ。
「イっ!」と研吾が小さく叫んで「ゴメン、仮性だから歯が当たると痛いんだ」と言った。
気を付けなきゃ!
いったん、お口を離して「ゴメン、初めてだからよく分かんなくて。気を付けるね」って彼に謝って、注意しながら再び含む。
 お口でしてる内に段々と大きくなってパンパンに膨らんできて『どうしよ?』って思ってる間にもドンドン大きくなってきてて、その内に大きくなりすぎてお口にチャンと含み切れなくなって、持て余すっていうか『ウエッ!』とか、しそうにもなってきちゃった。
どうしたら良いんだろ? って困ってたら、
「ありがとう。もう、大丈夫になったから」と研吾が言った。
それから研吾が形勢を入れ替えて、私の花芯を優しく吸い始めた。
1回目と違って、彼の指は入り口を通りすぎて私の中に入ってきた。
彼の指は内部を一通りグルリと探って私が一番敏感に反応した箇所を見つけだすと、そこへ長押しのタップみたいに指の腹全体を優しく押し当ててきた。指先はユックリと小さな円を描くようにして快感を生み出す場所全部にじんわりと圧力を与えてくる。そうして、指先から快感の輪が広がっていって、花芯から広がる快感の波と重なり合うと、その波の高さは2倍以上に膨れ上がって私はアッという間にイカされてしまった。
 結局この夜、研吾は私の中で3回、果てた。
『絶対に、このオトコを離さない。絶対、誰にも渡さない』
研吾との初めての行為が終わった後、私は胸の内で、そう誓った。
そうだ。
このオトコは私のモノ。
 私のケンゴ。

 翌朝、何か良い匂いが漂ってきて、それに釣られて私が目覚めると、研吾はもうとっくに起きて横からいなくなっていて、キッチンで彼がゴソゴソしてる気配がした。
「おはよう」って言いながらリビング兼キッチンに入ると、ライトグレーのスウェットを着てる彼がこっちの方へ顔を向けて「おはよう」って答えた。
何してるの? って尋ねたら、
2人の朝ご飯、って微笑んだ。
 研吾の手許を見ると、良い香りの源の美味しそうなお味噌汁が鍋の中で温められていた。
「顔、洗ってくるね」って言って、洗面所に向った。
 置いてあったビオレ洗顔フォームで顔を洗い、ガム・デンタルケアを多めに使って歯を念入りにみがいた後、リビングに戻るとちゃぶ台の上に2人分の朝食がもう並べられてた。
「食器がバラバラだけど、ソコは許してください」って彼は笑った。
 ちゃぶ台の上には、ピカピカ光ってるご飯が盛られたお茶椀が2つ、具がジャガイモと玉ねぎのお味噌汁が入れられたお椀も2つ、そして焼きジャケが載せられたお皿も2つ。
お新香が入ってる小鉢も2つ。
確かにお茶碗とお椀、お皿は同じ物じゃなかった。小鉢だけはお揃いだった。
「だいじょぶ」って私も笑う。すると、
「はい」って彼が明るいグレーで膝丈のスウェットパンツを差し出した。
「ありがと」って、私は脚を通した。薄手のコットン生地が心地よく素肌の上をすべる。
 着てるTシャツが隠してくれてるとはいっても、確かにパンツ丸出しはちょっと気恥ずかしかったから、貸してくれて、ありがと。
「さ、食べよう」って研吾が誘った。
 私が座布団に座って、同じように手を合わせて「頂きます」「いただきます」って言った。
2人の声はユニゾンから少しズレた。でも全く気にならない。
 私はお椀を両手で取り上げて、お味噌汁を一口飲んだ。

美味しい!
具がジャガイモと玉ねぎのお味噌汁って初めてだけど、こんなに美味しいんだ。
そう感想を伝えると研吾は嬉しそうに「意外に思うかも知れないけど、おジャガさんとお玉さんって、最強コンビなんだ」って言って、研吾は味噌汁を一口飲んで大きく頷いた。
お魚のアユの形をした箸置きから竹製の割り箸を取り上げ、横倒しにしてから扇を開くように割ると、私の手許を見てた研吾が『ヘーッ』と感心した。
 何かおかしいコトしたかな? って思って「どうしたの?」と訊くと、彼は、
「チャンとした作法で割り箸を割れる人って結構少ないと思う」って言った。
私は彼の答えを聞いたその時、色々なマナーをキチンとしつけてくれた両親に感謝した。
 まず焼きジャケに箸を付ける。
口に入れると普通の塩ジャケとは明らかに違ったので顔を上げ「これ、何?」って訊くと、
「あぁ、酒粕に漬けてあるんだ」って研吾が答えた。
「こゆの、売ってんだね」って私がつぶやいたら、
「生鮭の切り身を買ってきて自分で漬けておいたヤツさ」口に合う? って彼が尋ねた。
私は「スゴく美味しい」コレ、普通のより好き、って正直に答えた。
 白く輝くご飯が美味しい。一粒一粒が立ってる感じがした。
研吾にそう伝えると「炊く前に内釜ごと、冷蔵庫で冷やすとそうなるんだ」って言った。
へーっ、この人何でも知ってるな、とメチャメチャ感心した。
って、感心したんだけど、ワシワシ食べ進んでる彼の手許を見た時に何か違和感を持った。
お箸を2本とも右手の中指に載せてるっていう、とても変わった箸の使い方をしてた。
 私の視線に気付くと研吾は「ゴメン。昔、事故った時に中指の先っぽをアスファルトの路面で削っちゃってさ、無理すれば持てないことは無いんだけど、正しい持ち方すると、何て言うか、中指の先っぽがムズムズしちゃって『アァっ!』ってなるんだ」
だから仕方無く、こうやって持ってるんだ、って恥ずかしそうに言い訳した。
「それで上手く食べれるの?」って訊いたら、研吾は、
「大丈夫。何でも慣れだよ」と答えて、箸先で物をつまむ仕種をしてみせた。
「事故った時、痛かった?」って訊いたら、
「いや、それほどでも無かったよ」って彼は笑った。
 私は『そっか、良かった』ってホッとして、再びおいしい朝御飯に戻った。

 朝ご飯の後、研吾が淹れてくれた掛川ってトコの緑茶を飲みながら2人の今後のことを話し合った。私は大きめの縦長の湯呑、彼はコーヒー用のマグカップでお茶を飲んでいた。
 昨夜、SEXが終わった後に彼と話をして、今後はこのアパートで2人が一緒に暮らして行くってことはもう確認済みだった。でもメイド喫茶への通勤代が幾らになるのか想像もつかなかったので、ちょっとソコだけが不安だった。
 私のバイト先のメイド喫茶を経営する会社は、秋葉原だけでも5店舗、経営してるお店を全部合計すると都内に20店舗あるっていう、割と大きな会社だった。
だからかも知れないけど、通勤手当のようなモノ(後で研吾に訊いたら『福利厚生っていうんじゃなかったかな?』って教えてくれたっけ)も結構手厚くって、鹿児島なんかじゃ全然考えられない金額、1日当たり2千円までなら支給してもらえるというかなりの高額設定だった。キャバクラじゃないんだから普通は、こんなのあり得ない。
 でも、そのメイド喫茶の系列店は『そこらをウロチョロしてるアイドルよりも容姿的に優れてる女の子しか雇わない』ってポリシーを持ってて、だからソコで働いてるのは当然可愛い娘ばかりだったんだけど、そゆ娘を確保するために『そういう高額設定にしてるんじゃないかな? 広い範囲、埼玉や千葉の奥の方、北関東なんかからも通勤ができるように』
って研吾が『何故このメイド喫茶が高額設定してるか?』についての自分の考えを言った。
『ターゲット・エリアが広ければ広いほど、可愛い娘の絶対数は増えるから』とも言った。
絶対数って、どゆ意味? って訊くと、
「何かと比べて多いとか少ないとかじゃなくて、何も考えずポンと数えた数字のことだよ」
「ふーん」何でも知ってるな、この人。まるでヤフー知恵袋みたい。
結局、募集する範囲が広ければ広いほど、可愛い娘が多いってこと? って重ねて訊くと、
「正解」と彼が笑った。
 そして私の通勤コストを調べるために研吾は本棚からデカいJTBの時刻表を取り出した。
「何でそんなの持ってるの?」クルマの整備士なのに、と私は疑問を口にした。
「オレ、鉄ちゃんでもあるんだ」毎月買ってる、と研吾が照れ笑いした。
手広いなー、この人。
「ほら、同じ走る機械だから」と彼はあわてたような感じで、付け加える。
「何鉄なの?」と訊くと、
「妄想鉄。時刻表をもとに空想上で鉄道旅行の気分を味わう、鉄ちゃん」と答えた。
 研吾はボタンがメチャメチャいっぱい付いてる変わった電卓を使って秋葉原から横須賀駅までの距離を計算して64.4kmと割り出した。
「こっから横須賀駅が1番近い駅なんだ?」私が訊くと、
「もしかしたら衣笠って駅の方が近いかも知れないけど、夜とか横須賀留とか多いんだ」と説明して「大丈夫。毎日オレが送り迎えするから」と付け加えた。
「イイよ。ここだって夜遅くまでバスあるんでしょ?」って言うと、
「クルマで横須賀駅まで20分くらいしかかかんないし。このアパート、バス停から結構歩くし。歩いてくる途中に街灯ないトコもあるから」心配、って研吾が静かに笑った。
マメだな、この人、って思ったけど、ホントに嬉しかったから、彼の頬にキスした。
 それから研吾は時刻表の後ろの方のピンクのページを開いて何かをメモし、電卓を使って計算を終えると「それでは、計算結果をご報告いたします」とおどけた。
「1カ月定期を使うと、正規運賃と比較して1回あたり0.895つまり約1割安いです。3ヶ月だと、0.850で約1.5割安くなって、6ヶ月だと0.803で約2割もお得になります」と計算の結果を発表した。
「2割っていうと...」私が暗算しようとして右上を見上げながら計算を終える前に、
「一回当たりの運賃は約900円、楽々と通勤手当の範囲内だね」と研吾が答えた。
 やった!
私は両手を上げて、ガッツポーズした。

あぁ、そうだ。
秋葉原から横須賀の通勤のことに関係して、あのことも思い出した。
研吾の性格をよく表してるって感じがする、思い出だった。
一緒に暮らし始めてしばらく絶った時に研吾に通勤の苦労をグチったことがあった。
その時、私は何でか知らないけど研吾をからかいたくなって、ワザと試すようにグチった。
「山手線、乗ってるのは短いから痴漢の心配とかってのはアンマリないんだけど」
「うん。それは良いことだな」痴漢されたら言えよ、次は一緒に行くからって彼が言った。
「どうして?」一緒に来るの? って私が疑問すると、
「結衣から少し離れた所で、つねにキミを見守る」
「それで?」
「痴漢野郎がヒョコヒョコ出てきたら、とっ捕まえて警察に引き渡す」
そこまでする? って嬉しかったけど、ワナをかけるように私はグチを言い続けた。
「山手線から横須賀線に乗換えが大変なんだよね」
「ま、ホームが離れてるからな」研吾がワナには全然気付かないで何気に相づちを打つ。
「東京駅にさ、5番線に着くじゃん?」
「外回りだからな」
「そっから、横須賀線のホームって地下だから、結構歩くんだよね。階段もあるし」
「ま、東京駅自体が設計とか施工とか、時代が古いからな。地下しか場所ないし」
「あーあ、ここに来る前は巣鴨から秋葉原まで、山手線1本で行けたのに」グチを重ねる。
「厳密に言うと山手線と東北本線だけどね」
「?」
「山手線は外回りでいうと品川から始まって新宿を通って田端で終点。田端から東京までは東北本線。東京から品川までは東海道本線になるんだよ。だから巣鴨-田端間は山手線で、田端-秋葉原間は東北本線を走ることになる。
だから山手線と東北本線の2本を走るんだ。
ま、普通は全部が山手線で通用するから区別しなくても全然大丈夫なんだけれども、ね」
 やった!
研吾は私の仕かけたワナに見事に引っかかった。
絶対に研吾だったら山手線とかでも細かいことまで知ってると思ったんだ。
前に自分のことを『鉄ちゃん』だ、って言ってたし、
大体、細かいんだ、この人、そゆ数字とかデータとかに
でも、私は一緒に暮らしてて彼が何でそんなに細かいか、理由はチャンと分かってた。
彼の基本はサイエンティストだから。
そういう人たちは数字やデータを絶対におろそかにしない、私の父がそうであるように。
でも研吾は数字とかデータには細かかったけど、実生活に関することにはとても大らかでユッタリしていた。だから彼と生活してて、私は嫌な思いをしたことがひとつも無かった。
よく安いドラマに出てくる姑がするように、机の上を指でなぞってほこりチェックなんて下らないことなんか全然しなかった。でも、こゆコトには全然超細かい。だから、
「そんなこと、どうでもイイじゃん!」って私が声をワザと荒げると、
「ゴメン。ホントにどうでもイイことだった」彼はペコッとしてから私の眼を見つめた。
「反省してる?」って訊くと
「うん。反省している。要らない情報だった」って答えた。
チョットからかっただけなのに、研吾っていつも真面目なんだから。
 私は、からかってゴメンって意味で「許して上げる」って研吾の頬にチュッとした。
自分が何でこんなコトしたのか、ホントは判ってた。
私は研吾に構って欲しかったんだって。
 彼とジャレ合いたかっただけなんだって。

 通勤問題を解消した後、私たちはシャワーを浴びた。
「結衣、先に入れよ」って研吾は言ってくれたけど断って、
私は「研吾が先に入っちゃって」って半ば強引に彼を先にした。
彼が浴び終えると続いて私も浴びた。
貸してくれた白色のTシャツと昨日秋葉原で買ったパンツって格好で歯を磨いてると、ダークグレーのTシャツとジーパンって格好の研吾が洗面所に入ってきて、
「コレで良いかな」と言いながら、私に青いジャージの上下を差し出してきた。
「ヴん」って口に歯ブラシ入ってるから、くぐもった返事になった。
昨日穿いてたルノワール・ピンクのショートパンツは今日は絶対に無理、着れない。
だって昨日Victoria’s Secretで買ったアンダーはレース付きの普通サイズだったから。
かがんだりしたらショートパンツの裾からアンダーの生地がはみ出ちゃう。
研吾が貸してくれたジャージは濃い青色のアディダスだった。
何か裏原の古着屋で売ってそうなビンテージぽくって良い感じだったので、
研吾にそう言うと、彼は「別に中学の頃から着てるだけだよ」って笑った。
物持ちいいな、この人。
 紗瑛ちゃんに『お昼ごろに私の荷物を取りに行きます』ってメールを送信した。
そしたら速攻で『了解』って返信が来て、
『彼氏とクルマで行きます』
『じゃ、私が彼氏さんを鑑定してあげる』
『よろしく、お願いします』
『じゃ、楽しみに待ってるね』
『はい』

 アパートの2階から降りて駐車場に行って研吾のクルマに初めて会った。
緑がかった灰色の変な色の小っちゃなクルマだった。
正直『小っちぇッ!』と思った。
 父が乗ってるBMW540iと比較すると3回りくらい小さかった。
「はい」って研吾が助手席のドアを開けた。
アリガトって言いながら乗り込むと、車内のあり得ない狭さに『狭ッ!』って思った拍子に思わず「狭いッ!」って口から飛び出てしまった。
 研吾は「そうだな。オレでも窮屈に感じる位だから結衣には狭すぎるかも知れないな」って言って「ヤッパリ電車で行こうか?」と提案してきたけど、
「荷物、でかいトランクが一個と40Lのリュックが一個あるから、電車だとちょっと無理かも...」と私が答えると「大丈夫。オレが、かつぐから」と彼が言った。
でも...「だいじょぶだよ。このおチビさんで行こうよ」と私から再提案した。
「本当に大丈夫かなぁ」と言いながら私の足許をチェックしてクリアなことを確認すると「じゃ、閉めるよ」と研吾はドアを閉めた。
気の使い方が半端無い、この人。
私、ホントに良いの、とっ捕まえた。
 研吾が運転席に乗り込んできたので、
「いつもそうやって何かを挟まないように確認してから閉めるの?」って尋ねた。
当たり前だろ、って感じで「もちろん」って彼は答えてからエンジンをスタートさせると研吾は「3分くらいアイドリングしなきゃいけないから、少し待ってね」と言い、そして
「コイツってラダーフレームだから、走りがちょっとピョコピョコするんだ。できるだけスムースに走らせるつもりだけど、気になったら言ってね。走り方変えるから」と続けた。
「ラダーフレームって何?」私は訊いた。
「このクルマ、ハシゴみたいな形をした骨格、それをラダーフレームっていうんだけど、ソコに走行するのに必要な部品、エンジンとか、タイヤをつなぎ止めておく部品のサスペンションメンバーとサスペンションとか、タイヤとか、とにかくクルマが走るために必要な部品がこのラダーフレームって骨格に付けてあるんだ。今オレ達が乗っているキャビン、客室のことだけど、ここはそのフレームに載っけてあるだけなんだ。もちろん、むやみに外れないようにボルトでチャンと止めてあるけどね」と研吾が説明した。
「普通のクルマは違うの?」
「今のほとんどのクルマはモノコックで作られている。モノコックっていうのはフレームとボディが一体化した造りなんだ。軽く作れるし大量生産に向いているんだけど、ラダーフレームと比べると強度が低くなる欠点がある」と説明が続く。
「ふーん。でも何でこのおチビさんにはわざわざラダーフレームってヤツを使ってるの?」
「コイツはクロカン...クロスカントリー車で悪路...荒野...山とか砂漠とかの普通のクルマじゃ走れない場所を走るためのクルマだから。そういう荒れた場所をモノコック車で走行するとボディが、ゆがんじゃうんだ」
「あのさ、『ゆがむ』って『曲がる』ってこと?」
「そう」
「おかしいよ。鉄とかの丈夫な材料で作られてるクルマが曲がっちゃうなんて、あり得ないでしょ」って私は少し驚いたし、研吾の言ってることをホントに疑った。
『鉄が、曲がる?』
「そう思うかも知れないけど、本当のことなんだよ」と彼はマジな顔付きで言った。
『マジなんだ!』
 あれっ?
でも、何かおかしいな?
「え、でもでも...」
「何だい?」
「あのさ、前にテレビでチラッとだけ観たこと、あるんだけど」
「何を?」メーターみたいなトコをチェックしてた研吾が眼だけ動かして、チラッと私を見た。その横顔が結構イケてて、だから、ちょっとドキッとしちゃった。
「地球のどっかを走ってる、何とか『ラリー』っていうクルマのレースなんだけど、
そこら辺を走ってるような普通のクルマがちゃんと舗装されてない砂利道みたいなトコをガンガン爆走してたように記憶してるんだけど。
でも、ゆがむとかそういうんじゃなくて、全然ダイジョブそうに走ってたっていうか、
どっこも壊れてなさそうだったけど」
 そしたら研吾は顔を起こして、私の方を向いた。
 うぉ、視線がまっすぐっ!
「それは悪路じゃなくて、グラベルだよ。
グラベルってのは、アスファルトやコンクリートで覆われてないだけで、チャンと『舗装』された道路なんだ」
『ウン?』ってなったから「アスファルトとかコンクリでバーッと固めちゃうのが『舗装』なんじゃないの?」って、訊いてみた。
 研吾は「そうだな」って、私でもなく、誰でもない、多分、自分に言い聞かせるような口調で漏らしたあと「これから話すことは広義の定義じゃないし、公式の見解でもない。単なるオレの持論だ、と思って欲しいんだけど」って、真剣な顔つきになった。
 えっと、何だ?
『定義』とか『見解』とか、何となくは分かるんだけど、それ、ホントはどういう意味?
って、一瞬思ったら、
「ん、言い直そっか。舗装について、これから言うことはオレだけの考えなんだ。
本や辞典、ネットとかに挙がってる情報とは違う。
もちろん、オレ個人の意見だから間違ってるかもしれないけど、それを承知の上で聞いて欲しいんだ」
『考えてたことが顔に出ちゃったかな?』って思ったけど「うん」って頷いた。
「一般的にグラベルは天然の非舗装路、つまり人間が作った訳じゃなくて、自然に出来上がった舗装してない道路のことを指すんだ」
 ふーん、天然の舗装されてない道路...ん? アレっ? おかしいな? 何か、変だな?
「ね、研吾」
「何?」
「何か、どっかおかしくない?」
「?」
「道路って、天然って、自然にできるもんなのかな? 道路って?」
「良い質問」
 えへっ、ほめられちゃった。
「道路って、どういう風に出来ると、結衣は思う?」
 道路? どういう風にできるか?
うーん、そうだなぁ?
答えがある訳じゃないけど、なぜだか知らないけど、見上げて天井の隅っこを探しながら、
「多分、多分だよ。
誰かが森の中とか草原とかを歩くじゃん?
きっと1人だけじゃ全然道にならないけど、何人も何人も同じ場所を通ったら、なんか道が、細いヤツだと思うけど、道、できそうなんだけど」
「そうだよね。通るのに便利な場所だったら、同じ所を何人もの人が繰り返し通っていくよね。そうやって人が通るから、そこが道になっていくんだ、って思うんだ。
でも、それって『天然』かな?」
「自然に発生...しては、ないかなぁ?」だって、人が足で踏み固めてるもんね、って口からポロッと漏れでた。
「そう。
オレもそう思う。
だから『天然の非舗装路』って言葉、オレには少しおかしく響くんだ」
「確かに、そうかも。
だって、クルマ一台分の横幅って、2mくらいあるのかなぁ、3、4人とかで肩組んで、横に並んで歩いて行かないと、それくらいの広い幅、跡なんか絶対につかないし、
それに、そんなの物凄く不自然なコトだし。
そんなの『造ろう』って決心してやらないと、絶対にしなさそうだし。
その時点でもう、天然じゃなくなっちゃってるって感じがするし」
「ま、道を作るのは人間だけじゃない。
動物も道を作るよね」
「けもの...道ってヤツのこと?」
 研吾はコクンと小刻みに頷いた。
「ウン。でも獣道って細くて不明瞭...キチッと整備された印象は薄いよね?」
今度は私がコクンって頷いた。
「でも、アルゼンチンって南米の国は大西洋に面しているんだけど、その沖合いにポツンとフォークランド諸島って島々が浮かんでるんだけど、
その島に生息...住んでるジェンツーペンギンはエサ場の海から営巣地...ヒナを育てる場所までの1.5kmくらいを走って通うんだ、往復を毎日、毎日、何百羽もの集団で。
そうやって毎日通ってる内、何年か経つと立派な道が出来てるんだよ」
「へー」ペンギンが道を作る...んだ?
「そう。
メチャクチャ立派な道。
人間が造ったかと見間違うほど立派な『非舗装路』だよ、幅10mくらいある」
「そんな、なんだ」
「大きな道になると、幅が100m以上のもある」
「ひゃ...100?」
「そう、100」
「ふーん...」
「天然の非舗装路を『グラベル』って呼ぶんだけど、人工的に造った非舗装路、つまり人が造った砂利道とか地面むき出しの道路は『dirt』...ダートって呼ぶんだけど...
あ、石畳って分かるかな?」
「何となく」フランスとかイタリアとかにありそうな響きだけど、って言うと、
「正解」
 えへっ、当てちゃった。
「道って放っておくと草がボーボー生えたりしてすぐに道じゃなくなっちゃうじゃん?
昔、2000年以上前の話だけど、その頃のローマでは平らに削って形を整えた石を道の表面にバーッと敷き詰めて、草が生えてこないようにした『道路』が造られてたんだ。
馬車なんかの車輪でワダチ...道路がデコボコにならないように養生...先回りして手当するため、ってこともあっただろうな、って推測...想像できる。
でも、その道路って造るの大変、手間と時間がかかるんだ、チョット想像しても分かると思うけど」
「うん」
確かに。
昔は今みたいな便利な機械とか無かっただろうしなぁ。
お寺の境内とか神社の参道に敷いてある敷石とか、削るの、超メンドっちそうだしなぁ。
「じゃあ、さ、人が通りやすくするためとか、馬車なんかを走りやすくするために道路の表面を整えるのが『舗装』なの?」
「オレはそう考えてる。
だからヨーロッパでは道路を舗装するために石を設置...道路の表面に嵌め込んだんだよ。
人とか馬とか、馬車なんかの交通を滞りなく円滑に進めさせるために」
「昔の人って結構、頭良いんだ」
「で、今から200年くらい前、19世紀の初めくらいにある人物が凄い発明をしたんだ」
「どんな?」
「macadamisation...マカダミゼイション、略して『macadam』っていう舗装工法」
「マカ...ダム?
マックの姉妹店とかじゃ、ないんだよね?」
「違う。マカダム。
スコットランドの技術者、John Loudon McAdamって人が発明したから、その人の名前を頂いて『macadam』って名付けられた道路の構築法なんだ。
道路の基礎の部分、一番下に大きめの石をベースの層として敷き詰めて、その上に砕石、岩を砕いた石や砂利を覆い被せてから踏み固めるんだ。雨水が内部に浸透...浸み込んでいくと基礎部分がすぐにダメになりやすいから、それも計算して周りの土地よりも道路を盛り上げてカマボコみたいな形にすることで水はけを良くして、内部に浸み込む代わりに道路の表面を伝って周囲の低い土地に流れて行くように設計したりしてね。
彼は、ローマ時代から綿々と...ズーッと続いてきた石畳による道路の造り方をガラッと一新させたんだ。この方法は、もう、飛躍的な進化と言ってもいいくらい、なんだ。
実際、McAdamさんの発明以降、瞬く間に各地へと広まったし、この工法は」
 研吾の台詞、なんかやたらに漢字が多いし、それにプラスして英語の発音が良過ぎで、頭の中で変換するの、少し大変なんだけど、まぁ、なんとなく理解できるから、いっか。
「そのマックアダムって人が発明したのが...えっと、何だっけ?」
「マカダム舗装。
今でもこの舗装工法、使うことあるんだよ。
オレの実家の裏を通る砂利道なんかも、これだったし」
 ふーん。
あれっ?
おかしいな? 何か、変だな?
砂利なのに舗装って、さっきと違うじゃん。
「グラベルって公式だと、天然の舗装してない道路、だったよね?」
「ウン」研吾の唇、端っこが少し持ち上がった、ように見えた。
「ダートってのが、人工的に造られた舗装してない道路、なんだよね?」
「ウン」研吾の目じりがクッて下がって、口許が満足そうに上がった。
「じゃ、なんでマカダムさんのは『舗装』なの? アスファルト、敷いてないじゃん?」
「みんな『舗装』って概念...言葉の意味を間違えてる、とオレは思うんだ。
砂利舗装、これはマカダム舗装とほぼ同じ意味だけど、砂利とか砕石を接着剤代わりの土と混ぜた物を道路の表面に敷いてロードローラーで踏み固めるだけの、舗装工法のこと。
工事にかかる費用も安いし、工事期間も短いのが利点なんだけど、頻繁にメンテを必要とするんだ。定期的なメンテを少しでも怠るとアッという間に『非舗装路』化しちゃうんだ。
だから、今はあまりしなくなっちゃった舗装工法なんだけどね。
ま、マカダムさんがマカダム舗装を発明した当時、19世紀初期にはまだロードローラーはなかったと思うけど」あ、ロードローラーって分かる? って研吾が訊いてきた。
『ウーン』って、頭の中をクルクルって検索してたら、チカッと何かが閃いた気がした。
 昔、お父様やお母様によく読んで頂いた絵本の表紙、黄色い大きなクルマが、タイヤの代わりにデッカいローラーを前後に着けた、優しそうな顔のクルマが、パッと浮んできた。
「あ、もしかして『のろまなローラー』のローラーさん?」
「正解」研吾がますますにこやかな顔つきになってきた。
えへっ、また当てちゃった。
「つまり、アスファルトやコンクリートとかで道路の表面を覆い被せてなくても、それは立派に『舗装』ってコト、なんだよね」彼の顔に優しい笑みが浮かびつづけてる。
 なるほど!
「それに、ラリーなんかのレースを行う道路なら、絶対にキチンと整備されてるはずだし。
そんなの『天然の非舗装路』である訳がないじゃん。
だからオレはさっきグラベルを『舗装された砂利道』って言ったんだよ」
 ふんふん。
「悪路はさ、そんな舗装された砂利道とは...」
「違うんだ、よね?」
「ウン、全然違う」
 悪路ってヤツが、研吾の...何だったっけ?
あ、そうそう『定義』だ、彼の定義だと、どういうモノになるのか、チョー知りたかった。
字面から何となくは理解できるんだけども。
でも、その前に一個、ハッキリさせておきたいことがある。
「ね、研吾」
「何?」
「グラベルとダートは、何となく分かったんだけど...」
 私の話の続きを促すように、研吾のハシバミ色の瞳が妖しげに輝く。
「うんと、砂利道がグラベルだとしたら、アスファルトはそのままアスファルト?」
「tarmac」
「え? 何? 何て言ったの?」だから発音、良過ぎなんだって、研吾。
「ターマック。縮めずに言うと『tarmacadam』...タールマカダム」
「ん、じゃ、マカダムさんになんか関係、あるの?」
 研吾の眼の周りに、面白がってる表情が浮かんでる。
「さっき説明したマカダム舗装、覚えてるだろ?
砂利とか砕石をのろまなローラー君で踏み固めただけの舗装だったよね。
タールマカダムは、砂利とか砕石とかコウサイ、コウサイってのは鉄なんかをセイレン...えっと、アクって分かる?」
「アク?」
「そう、アク。鍋...水炊きとかするとモワッと出てくる灰色のヤツ」
「あぁ、灰汁!」知ってる、って答えると、彼はニカッと一瞬だけの爆笑を浮かべた。
「鉄とかの金属をチャンと使えるようにする時、それを精錬っていうんだけど、その精錬作業の時にドロドロに溶けた真っ赤な鉄から灰汁みたいな余計な物が出るんだ。
それを『鉱滓』って呼んでる。鉄のオリとかカスって意味だよ。
細かく砕いた石、砕石やその鉱滓とか砂利なんかを道路の表面に敷き詰めてからローラー君でギュッと圧縮するんだ。そのあと『tar』...石炭からコークスっていう加工製品を作る時にジワジワっと滲み出てくる黒っぽい焦げ茶色のネバネバした液体をタールって呼ぶんだけど、そのタールを転圧した砕石や砂利に浸透...えっと」
「浸透って、浸み込ませるってことでしょ?」
「そう、その通り。
石たちをギュッとさせてからタールを浸透させて固める舗装方法のことを『tarmac』って呼ぶんだ。
厳密に言うとだけど、ターマック舗装とアスファルト舗装は違う。
アスファルト舗装は、タールじゃなくて、アスファルト混合物ってヤツを使う。
アスファルトは、石油からガソリンとか灯油を精製...蒸留する時に残り物として余る、黒っぽくて暗い焦げ茶色のネバネバした泥みたいなヤツ。温度が高いと液体だけど、温度が低くなると固まるっていう、不思議なヤツなんだ。
半固体...柔らかい固体...生キャラメルみたいなヤツだ、って理解すれば良いと思う。
物凄く昔、大体5000年以上前のエジプトとかメソポタミアの時代から使われてた素材なんだけど、その生キャラメル、じゃないや、アスファルトと、砕石や砂利なんかの骨材と、石灰粉ていう隙間を埋めるための材料を混ぜ合わせた物がアスファルト混合物なんだ。
これを道路の表面に敷設...舗装したのが...」
「アスファルト舗装、なんだ」
「その通り。
タールを使ったタールマカダム舗装は、普通のクルマ用としては耐久性が低いからメンテが頻繁に必要になったり、夏の暑い日にタールが溶け出してクルマを汚したりするから、あまり使わなくなっちゃったんだ。
今は耐久性があって、機能的にも優れたアスファルト舗装か、コンクリート舗装がメインの選択肢だね」
「じゃあ、マカダムさんの舗装は使われなくなっちゃったんだね?」
「ウン。
でも、タールマカダム舗装が採用されなくなった現代でもコンクリートで舗装された道路以外のアスファルト舗装のような砕石を高粘度材料で固めた舗装のこと、そしてその舗装がされた路面のことも両方、ターマックって呼ぶ習慣が残ってるんだ。
ま、タール舗装、全然使わないわけじゃなくって、工事作業が簡単で工事期間もそれほどかからないから、応急修理的な感じで使われることもあるらしいけど。
ここ、日本じゃなくて、アメリカとかで、ね」
「ふーん、でも、じゃ、アスファルトの道路って、石とかが混ざってんだね」
「普段は気にも留めないから、気付かないかも知れない。
みんな、道路自体に興味ないだろうし、目的地ばっかりに気を取られているから。
でも、ほんの少しだけでも注意を払えば、例えば敷設したて...アスファルト舗装をしたばっかりの道路や、舗装してから何年も過ぎた古いアスファルトの路面をジーッと見ると、混ざってる石がよく分かるよ」
 黒いアスファルトの表面のトコにあるボツボツしたヤツのことなのかな?
それなら見たことあるけど。
そっか、アレって、石だったんだ。
 さて、これで、ハッキリさせたいことをチャンと明確にできた。
だから「じゃ、悪路は?」
「悪路は『cross-country』だよ。
えっと、悪路ってのは...ウン、そうだな、今度連れてくね」
「え?」
「実際に観た方が早いから、理解するのが」
 やったっ!
ドライブの約束、もひとつ、ゲット!

 研吾が「コイツ、手に入れてから1週間しか経ってないから、メンテナンスしたくらいで何もイジってなくてオリジナル状態なんだ。だから、余計にピョコピョコすると思う。
特にリーフスプ...板バネ...ウーンと、タイヤとボディを連結しているサスって部品があるんだけど、そいつにはスプリング、つまりバネが付属しているんだ。
何のためにかっていうと、凄く平たく説明すると振動を抑えるために付いているんだよ。
コイツのバネは『板バネ』って呼ばれるタイプで、バネの性質を持つ鉄鋼板を何枚も積み重ねてあるヤツなんだ。シンプルな構造で安く作れるし、振動吸収能力も悪くないんだけど、発進する時と特にブレーキを掛ける時に激しく上下動しちゃう『悪い癖』があって...乗り心地が少し...イマイチって感じ。部品とか替えて調整すればいいんだけど...
コイツの板バネ、完璧にオリジナルのままなんだ。
だから乗ってる時に、もしかしたら福島会津地方のお土産『赤べこ』みたいに首がグラングランするかも知れない」って言ったけど、知らない単語がイッパイ出てきて『?』って感じで内容が今一つ理解できてなくて、でも、とりあえず『激しく揺れるかも』ってことだけは分かったので、面倒クサそうなワードの大群をひとまず横に置いといて、私は、
「イジるって、ドコを?」と訊いた。
「フレーム以外全部」と彼が言った。
「ふーん」
 事実、一緒に暮らし始めて1年くらい経ったら、おチビさんの色は黒に塗り変えられ、エンジンはアルトワークスとかいう別のクルマのエンジンと交換され、サスペンションとかいう部品も交換され、シートも交換され、最初この時に受けた印象とは全く違うクルマになった。彼がイジった黒のおチビさんはとっても可愛くなり、凄くカッコ良くなった。
 エンジンの音が、何か、落ち着いてきたような感じがした。そしたら、研吾が「動かせるようになるまで、あと少し。もうチョットすると、エンジンの音色がサッと変わるから。
それまで、待ってね」コイツ古いんだ、と言ったので、
「古いって、どのくらい古いの?」と尋ねたら、
「95年製だから14年前のクルマ」と答えた。
14年前?!?
そんな古いクルマ、チャンと走るの? って思ったので、
「だいじょぶなの? 古過ぎじゃない?」って、素直に質問した。
私のその言葉を予想してたみたいに研吾が「フレーム車では普通のことだから」と笑った。
「14年前なら、相当安かったんじゃない?」と私が言うと、
この質問も予想済みらしく、彼は「ドコもイジってない完全なノーマルな機体だったからソコソコしたよ。珍しいんだ、このクルマで完全オリジナルって」とニコッとした。
その『ニコッ』にドキッとしながら私は「幾らしたの?」って訊いた。
「税金とか各種の費用は別で、105万くらいした」彼はニコニコしながら答えた。
「エッ! ソレちょっと高くない? 研吾、ボラれてんじゃないの?」って言ったら、
この言葉も予想してたみたいで、彼は「安いと思うよ。ウチの社長が紹介してくれたトコだし。通常の場合だったら150万とかしてもいいくらいだしね」とニコニコした。
「ウーンと、元のお値段ってお幾ら?」私は彼の顔を見つめながら、訊いた。
「確か150万くらいじゃなかったかな」研吾はクルマの天井を見上げながら、答えた。
14年物の中古車と新車の値段が一緒とか絶対に、あり得ない。
そう疑問に思ってると、ニコニコしてる彼が、
「リーバイスだってビンテージ物だと軽く100万とか超えるじゃん。それと一緒だよ」と私が納得できる例を示してくれたので素直に受け入れた。
なるほど。
「ところで、何て名前」このクルマ、って尋ねると、研吾は、
「JA11、モデル名ジムニー」って答えてから「エンジン暖まったから、出すよ」と告げた。

 連れてった研吾を紹介した時、彼を前にして紗瑛ちゃんは明らかに戸惑った顔をしてた。
何でかっていうと、お世話になった最初の夜に紗瑛ちゃんに、
「結衣ちゃんは、どういう男の人がタイプなの?」って訊かれた時に、
「私の好みのタイプは、シュッとしたイケメンで背が高くて細マッチョの男性です」って答えたからだ、と思う。その時に紗瑛ちゃんが、
「じゃ、エグザイルっぽい感じかな?」って言ったので、
「あそこまでワイルドじゃなくてもイイですけど」って答え『フフっ』って2人で笑った。
 なのに、エグザイルどころかオカザイルですらない低身長のメッシを連れてったから。
 紗瑛ちゃんは、私の知ってる限りいつもボブだったし、今もそう。
切れ長の眼が涼しげな和風の整った顔立ちをしてる。スラッと背が高くて一見華奢だけど、実は小1の時から薬丸示現流を習ってて、剣道3段で超強い。道場でも男子たちと対等に戦えるらしい。私が部屋に転がり込んできた時から彼女の部屋着はずっと道場オリジナルの紺のジャージ上下だったけど、今日は私が彼氏を連れてくって言ったからか、ワイル・E・カヨーティがプリントされたTシャツにレモンイエローの8分丈のスキニーパンツを穿いている。その彼女が怪訝な顔で交互に私と研吾を見比べてた。
「このトランクとザックだね」と研吾が確認した。
「ウン」私が頷くと「じゃ、運ぶから」と言ってザックを背負い、トランクを軽々と持ち上げて部屋の床を引きずらないようにして運んで行った。彼が部屋から出て行くと、紗瑛ちゃんが妙に小声になって「ねぇちょっと、アレが超絶にイケてる人?」って訊いてきた。
 えーと、どう説明するかな? って考えてると、研吾が丸めた白い厚めの麻布と大きめの赤い作業用のケースを手にして戻ってきた。このケース、ツールボックスっていう名前だって、後で研吾が教えてくれたっけ。
「えっと、何するんですか?」って紗瑛ちゃんが急にアタフタした感じで研吾に訊いた。
研吾の代わりに私が、
「ほら、紗瑛ちゃん、ノキアで買ったベッド、まだ組み立ててないじゃん。研吾はクルマの整備士やってるから、そゆの強いんだよ。彼に組み立ててもらおうと思って」
『あぁ』という顔付きになった紗瑛ちゃんが「よろしいんですか?」と研吾に尋ねた。
「ハイ」頷きながら研吾が一言だけ答えた。
 仕事用のモードに変化した研吾を見た紗瑛ちゃんが『アレっ?』という顔付きになった。
研吾は、紗瑛ちゃんがこの部屋に引っ越してきてから2カ月以上放置されてる段ボール箱10個をキッチンへ移動させて空きスペースを作った。紗瑛ちゃんの部屋は10畳の部屋にダイニングを兼ねた広めのキッチンが付いた1Kなので、そうしないと作業する場所が取れないからだ。彼はベッド用のマットレスを壁に斜めに立てかけてツールボックスを重しがわりにして勝手に動かないようにした。床を保護するために厚い麻布を広げるとノキアのベッドが梱包されている段ボール箱をカッターを使って丁寧に開け始めた。開けながら研吾が呪文のように「Whythentheworld’smineoysterwhichIwithswordwillopen.」って、言った。
相変わらず研吾の発音が良過ぎて、何言ってるかサッパリ分かんなかった。
紗瑛ちゃんもキョトンとしてた。
 だから発音良過ぎなんだって、研吾。
「今度は何て言ったの?」私が尋ねると、昨夜と同じように分かりやすい発音で、研吾は
「WHY, THEN THE WORLD’S MINE OYSTER, WHICH I WITH SWORD WILL OPEN.」って、言い直した。
「どういう意味?」って訊くと、
「この世界は牡蛎のようなモノ。私の剣でその貝殻を開けてみせよう」と彼が訳した。
『えッ?!?』ってなった紗瑛ちゃんが「ソレって、もしかしてシェークスピアですか?」って研吾に質問をすると、彼は「そうです。『The Merry Wives of Windsor』日本語訳では『ウィンザーの陽気な女房たち』っていうと思うけれど」とスラッと答えた。
 紗瑛ちゃんは超驚いてるみたいで私の方を見て『何者、この人?』って顔付きをして、
その後、研吾の方をまた見て「でも文法的には『mine』じゃなくて『my』ですよね」って問いただすような感じで言ったら、研吾は、
「シェークスピアの時代は、所有格の『my』を使用する代りに『mine』を『Iの所有代名詞』というよりも形容詞的に使ったんです。『my eyes』と表現する代りに『mine eyes』という風に。主に母音と『h』の前に置かれます。時には名詞のあとに置かれる事もあります。
この時代に『my』の方はというと『h』以外の子音字の前に置かれるんですね。
これは『ウィンザーの陽気な女房たち』に登場する脇役で、この世には自分の意のままにならないことは何も無いと思い込んでるPistolという名の大言壮語を口癖としている無頼漢、つまり社会不適合者のオッサンが言う台詞なんです」と、これまたスラッと答えた。
『ホントに何者なの?』って恐ろしいモノを見る眼付きのまま紗瑛ちゃんは私を見てきた。
 研吾は段ボール箱からベッドの部品を全て取り出すと、完全にそろってるかを設計図に記されてる部品票を見てチェックして、全部そろってるかを確認した後で「これは木ネジを使っているから、仮組みは出来ないな」とひとりごとを言ってから口をつぐんで黙って組み立て作業に取りかかった。

 紗瑛ちゃんが1月かけても組み立てられなかったノキアのベッドを研吾は20分もかからずに組み立て終えた。その早業に眼を白黒させながらも紗瑛ちゃんが彼にお礼を言った。
 そしたら研吾は「電動工具を使ったからですよ」と全然普通だった。
3人で麻布の上から移動させてフローリングの床に完成したばかりのベッドを設置した。
研吾がベッドの脚が床と当たる部分に何かを置いてて、そこに3人でユックリと降ろした。
「何、下に敷いたの?」って私が訊くと、研吾は「そのままだと、いくら緩衝剤付きでも床が木のフローリングだから傷付いちゃうだろ? 出て行く時に戻ってくるはずの敷金が減額されないように傷付き防止用のパッドを敷いたんだよ」と答えた。
 ホントに用意周到だな、この人。
紗瑛ちゃんを見ると、何で私が研吾のことを『超絶イケてる人』って言ったかを、やっと理解し始めてるみたいで、私と視線が合うと軽くコクンと頷いた。
「じゃ、ついでだから他の段ボールも開けて中身を取り出して、整理しちゃいましょう」って研吾が提案したら、紗瑛ちゃんが「そこまでしてもらちゃうと...」って言いかけたんだけど、研吾が「なんでも『ついでに』の方が早く物事が済むモノですよ」って1つ目の段ボール箱を開け始めた。今度はあの呪文みたいな事を言わなかった。
私たちに、いちいち説明するのが面倒臭くなったきたのかな?
 紗瑛ちゃんは「すいません。じゃ、お言葉に甘えさせていただきます」って言った時にちょうど研吾が箱のふたを全開にした。そしたら研吾の顔が真っ赤になって急いでふたを閉じ直して「これ、オレ、できない」って片言になりながら私たち2人の方へ寄越した。
何で? って顔付きをした紗瑛ちゃんがふたを開けるとブラやパンツがギッチリ入ってた。
「すいませんッ!!!」って紗瑛ちゃんも顔を真っ赤にしながら叫んだ。
3人の間に妙な空気と真っ白な沈黙がやってきた。
しばらくして妙な空気が開けられた窓から外に出て行くと、それまで必死にこらえてた紗瑛ちゃんの肩が細かく震え出して、結局は耐え切れずに笑い出してしまった。
私も彼女に釣られるように笑い出した。
最後に残った研吾もヤッパリ無理で我慢し切れずにカラッとした笑い声を上げ始めた。
 そうして3人で顔を見合せながら大声で笑い続けた。

結局1時間ほどかけて段ボール箱10個分の荷物の整理が終わった。
私と紗瑛ちゃんの2人が整理した分を合わせたよりも多くの段ボール箱が研吾の手によってサバかれた。段ボール箱の中身はどれもグチャグチャで、何も考えずに手当たり次第に突っこんであった。メチャメチャな入れ方だったから余計に時間がかかった。
でも研吾は箱を開け中身を取り出すと1つ1つていねいに整理して、使われる場所ごとに仕分けてから適切な場所にしまう、という彼のその作業振りはホントに見事だった。
私は、彼が見せたユックリとした滑らかで無駄がなく俊敏な動きを、それまで見たことが無かった。背の低いメッシぽい身体つきに似合わない、ネコのような滑らかな動きだった。
 全ての作業が終わって紗瑛ちゃんが「有難うございました」と研吾にお礼を言った時にはもう彼女の顔のドコにも『何で超絶イケてる人?』という疑問を発見できなくなってた。

 研吾が段ボール箱を分解し始めたので「ちょっと待ってね」と彼を止めて、紗瑛ちゃんに「この小さいヤツもらっていい?」って尋ねたら、こんなのどうするの? って顔付きをしたけど、彼女はスルッと「いいよ」って許可してくれた。
「このプチプチもいい?」
「もちろん。好きなだけ持ってきなよ」紗瑛ちゃんが笑った。
ありがと、って言いながらお皿とかコップを包んでたプチプチ、えーと、コレって正式な名前、何て言うんだろう? まぁ、今はいいか。ソレを必要な分、集めた。
そして、宅急便で送るための荷物を梱包し始めた。
 小っちゃい段ボール箱の中に、そのホントの名前が分からないプチプチを敷いてから、トランクの中からクルッと巻いた山形屋の紙の手さげ袋を取り出して、敷いたプチプチの上に置いた。手さげ袋の周りにもプチプチを入れて箱の中でゴロゴロ動かないようにした。
 最後に紙袋の上に手紙を添えてからプチプチをかぶせて、箱のふたを閉じてガムテした。
そして私は、梱包する時に散らかしてしまったゴミを拾って、コンビニの袋に集めた。

残された段ボールの箱9個分は、研吾が綺麗に折り畳んで紙製のひもでくくりつけた。
それで最終的な問題は誰がこの箱の残骸を処理するか、だった。
 結局、このマンション付属のゴミ集積所に折り畳まれた段ボール箱を持って行く役目は研吾がすることになった。
私よりは低いけど、紗瑛ちゃんも明らかに研吾より身長が高いから体格を理由にはできない。でも、私と紗瑛ちゃんが顔を見合わせた後で2人して同時に研吾の顔を見つめると、研吾は『ふう』と溜息をひとつ吐いて「それを解決するのが私であるという不運を呪おう」って言った。そしたら「それって、ハムレットですか?」って紗瑛ちゃんが彼に訊いた。
「その通り」ってさっきよりも彼女と打ち解けた様子を見せてる研吾が頷いた。
「私、今、授業で習ってるんです、ハムレット」紗瑛ちゃんが言った。
「紗瑛ちゃん、東京外大の英語科なの」と私が付け加えると「なるほど」って彼が言った。
研吾はもうシェークスピアとかいうヤツを英語で言うのは止めたっぽかった。
 私は、ヤッパリいちいち説明するのが面倒臭いんだ、と思った。
ただ元の英語の文章を知らなかっただけかもしれないけど。
 研吾がゴミを集積所へ持って行くために部屋から出て行くと、さっきと同じように小声で紗瑛ちゃんが「ホントに超絶イケてるじゃん、彼氏。ドコで見付けたの、あんな超優良物件?」って、さっき言ったこととは真逆のことを言ってきた。
「道端で」って私が正直に答えると、
「そんな訳無いじゃん、道端って」ジェシカじゃあるまいし、って紗瑛ちゃんはあきれた口調だった。ホントなんだけどな、って思ってたら、紗瑛ちゃんが研吾の特徴を上げてく。
「身長も高くないし、そんなにイケメンでもないけど、仕事は早いし、頭の回転も速いし、他人の心を察することも出来るし、人柄も超良さそうだし、何たって、超絶優しいじゃん。
彼氏さん、大学とか出てるの?」って訊いてきた。
「東工大だって」
「あらま」紗瑛ちゃんが驚く感じで「先輩から聞いた話なんだけどさ、『合コンしたくない大学』って検索すると『東工大』って出るんだって。でも、それってツマンないかも知れないけど全然チャラくなくて真面目ってことじゃん。付き合う相手としては『ウーン?』かもだけど、でも、それって逆に言えば、結婚相手に最適ってことに、ならなくない?」
「そうかな?」
「絶対そうに決まってるって」紗瑛ちゃんは少し言いにくそうに「それで、もう、した?」
「うん」って答えると、まだ処女の紗瑛ちゃんは興味津々って感じで、
「どうだった?」って質問してきたので、私は正直に、
「本チャンは激烈に痛かったけど、指とお口で合計3回、イカされちゃった」って言った。
答えを聞くと紗瑛ちゃんはしばらく黙って私を見てた。その内に彼女が溜息交じりに、でもホントうらやましそうに「あんた、めちゃめちゃ運良いね」って言った。

 一カ月がかりの長い引っ越し作業を終えたらお腹が空いたので3人で近くにある餃子屋さんに行った。本店が千葉の野田市にあるというホワイト餃子巣鴨店というお店だった。
 私と紗瑛ちゃんがご飯を一緒に頼もうとしたのに研吾は頼まなかった。
何で? って思って「ご飯、要らないの?」って訊いたら、彼は「オレの母方の祖母が満州ハルビンの生まれで引き揚げ者なんだ」って言って「あっち、本場じゃ餃子はご飯と一緒に食べないんだよ」って言った。
「何で?」って私が訊くと、
「肉に野菜に小麦粉、コレってサンドウィッチと成分が一緒だろ? サンドウィッチを副菜にしてお握りを一緒に食べる人、いる?」って研吾が答えたから、私と紗瑛ちゃんが、
『えーと』ってなってると「ま、そこは好き好きで、個人の自由だから」って彼は笑った。
そんな研吾を見て紗瑛ちゃんが私の耳許に顔を寄せて囁いた、「彼氏さん、柔軟だね」
 私たちは焼き餃子を40個、そして水餃子を32個注文した。私と紗瑛ちゃんはご飯を頼んだけれど、やっぱり研吾は頼まなかった。
 店員さんが「焼き上がるのに15分から20分くらいかかります」って言って奥に引っ込んだ。それに釣られるように研吾は「お手洗いに行ってくる」と席を立った。
紗瑛ちゃんが「ここの餃子って一種独特なんだよ。何か、焼くっていうよりも、揚げてあるって感じがする」て私に説明した。そしてまた顔を寄せてきて小声で、
「研吾さんって剣道してたのかな?」て訊いてきた。
「何で?」
「何か、身体の動かし方が和式っぽい感じがするし...」
和式ってトイレじゃないんだから、って思った。
「それに肝付右兵衛って先生と同じ匂いがする」って付け加えた。
「キモツキ・ウヒョーエって、誰?」って私が訊くと、
「薬丸示現流の偉い人。80越えたおジイちゃんなんだけど、強いの。何たって8段だし」
「8段...って凄いの?」
私の質問に紗瑛ちゃんはコテッてなった。「凄いよッ! 日本全国でも何人もいないし。
アンタんトコの沖縄空手の『宮城先生』みたいなモン」
「あぁ...」彼女の説明でようやく分かった感じがした。すると紗瑛ちゃんは、
「肝付先生って、普段話してる時はとっても穏やかで優しいおジイちゃんって感じなんだけど、ウチの先生と指導の手合いをするってなった時、めちゃめちゃ凄い『気』がバアって出て、メッチャ凄い圧だったんだよね。ウチら、全員圧倒されちゃって動けなくなっちゃって、固まっちゃった。ウチの先生だって物凄く強いんだけど、肝付先生の前だと何もさせてもらえなくって、子供扱いっていうのかな、ウチの先生、ボロ負けだったの。
もう、剣術家としてのレベル? 格が違い過ぎるっていうか。
だから、もしかしてだけど研吾さんもめちゃめちゃ強いんじゃないかなって感じたんだ。
何か、肝付先生と同じような空気感があるっていうか。
さっき作業してた時に、動きに無駄が一切ないのに余裕があるって感じたし。仕事モードに入ると顔付きも違ってたし。身体の動かし方がネコみたいなのも肝付先生にソックリ。
あのさ、肝付先生と会った時に気付いた事があるんだ。
抜身の真剣は大して怖くない。
それよりも、鞘に納めてある方が、怖い、って。
研吾さんって、普通の時は結構ノンビリした感じなんでしょ?」
「うん。優しいし、大らかでユッタリしてる」
「多分、ああいう人は、真剣に何かに取り組む時、とんでもない『気』を出すんじゃないかな」アンタ、感じたことないの?、って彼女は訊いてきた。
 多分、アキバであった時に私が見た超サイヤ人みたいな黄金色のオーラのことなのかも知れないけど、紗瑛ちゃんに言っても信じないだろうから、首を横に振った。
彼女は『ホントに?』って感じで私の顔を覗き込んできた。
「アンタの言う通りホントに道端に落ちてたんなら、宝くじの1等当てるよりスゴいよ」
 そうする内に、研吾が戻ってきた。
彼が手をブラブラさせてたので、私は「どしたの?」って訊いた。研吾は紙ナプキンを2・3枚取って手を拭きながら「ここのお手洗い、ブロワーが無いんだ」って腰を下ろした。
「ブロワーって、何?」って訊くと「ガーって、手に付いた水を吹き飛ばす暖かい空気を出す機械。日本だと『ハンドドライヤー』とかって言ってるヤツかな?」って彼が答えたので「ハンカチ、持ってないの?」って、知らず知らずの内、私の語気が尖ってくる。
 研吾は冷静に「ハンカチって1回目は良いんだけど、2回目以降に問題が出てくるんだ」
「どゆこと?」
「人間の手には皮膚常在菌って細菌が住んでいるんだ。別に何も悪いことはしない。逆にこいつ等がいないと皮膚の健康が保てないくらい。で、手を洗うだろ? そしてハンカチで手に付いた水分を拭き取るとする。細菌って増殖、つまり子供を作るためには水分が絶対に必要なんだ。手の皮膚の表皮の角質層からはがれた細胞とか、皮脂腺から出る皮脂とか流し切れてない石ケンの成分とかを、細菌が栄養源にして増えてゆく時に、水分が要る。
乾いているハンカチなら問題ないけど、手を拭いてハンカチが濡れている状態なら、そこが細菌たちの巣窟になるのに時間はそんなにかからない」
「研吾、ゴメン、日本語で言って」私が頼むと、今度は紗瑛ちゃんが、
「研吾さんが言いたいのは、濡れたハンカチを乾かさず、濡れたままにしておくとバイ菌がドンドン増えてくってことだよ」って説明し直した。
「そうなの?」私は研吾と紗瑛ちゃんの顔を交互に見ながら、訊いた。
「多くの細菌が好むのは大体20から35℃の間だから、濡れたハンカチをパンツなんかのポケットなんかに入れておくってのは、わざわざ自分で細菌を養殖しているようなモノなんだ」と研吾が説明した。そして、
「でも、結衣が持っていてほしいって願うなら、持つようにするけど」と言ってくれた。
ウーン...
「一応、形だけってことで、持っててくれる?」って言ったら、あっさり「良いよ」と彼は笑った。そんな私たちを紗瑛ちゃんが『馬鹿ップルだ、コイツ等』って首を左右に小刻みに振りながら、あきれ果てたような感じで、見てた。
 そこへ餃子が運ばれてきた。
焼き餃子が20個のった大きなお皿が2つに水餃子が16個のったお皿も2つがテーブルに置かれて、続けて私と紗瑛ちゃんの前にそれぞれご飯が置かれた。
 焼き餃子はヒダヒダを下にしてこんがりキツネ色に焼かれたおしりをコッチに向けてる。
見た目は大きめの稲荷寿司って感じ。
それに対して水餃子の方は白くクタって感じで皿の上でヘタってる感じ。
 私たちは小皿を取って各々タレを作りはじめた。
私は普通に醤油とお酢とほんの少しのラー油で作ったけど、紗瑛ちゃんの作ったタレは、ラー油メインでソコに醤油を一回ししたヤツだった。
「ソレって、美味しいの?」って紗瑛ちゃんに訊くと、
「コレが、ホワイト餃子本店流の基本のタレなんだって」と彼女が答えた。
 何か、翌日のおトイレがツラそうなんですけど、って驚いてると、研吾が店員さんに、
「スイマセン、お砂糖を頂けませんか?」って頼んだから、紗瑛ちゃんと2人でビックリした。「お砂糖?!? 何するの? そんなの頼んで?」と訊くと、研吾はニコッと黙った。
 厨房から戻った店員さんが、小皿にお砂糖を盛ったヤツを研吾の前に置いて「これで、よろしいですか?」と問うと「これで十分です。ワザワザありがとうございます」と彼が感謝した。そして研吾は自分用の小皿に砂糖を親指の先くらい入れてからお酢を鬼のように加えた。そこにコショウとラー油を少し加えて「ハイ、完成」ってニンマリと笑った。
 私と紗瑛ちゃんはコワゴワって感じで「それ、美味しいの?」って声をそろえて尋ねた。
「美味しいよ。オレの実家ではお酢っていうと寿司酢、つまり甘いお酢を使ってたんだ。普通のお酢じゃ甘味が足りないから砂糖を追加することで補っているんだよ」と答えた。
醤油を数滴加えても香りがフワってなるから、それも魅力的なんだけど、って付け加えた。
「頂きます」
「いただきます」
「頂きます」
 手を合わせた後、紗瑛ちゃんと私は焼きから、研吾は水餃子から食べ始めた。

何これっ?!? 美味しいっ! 焼き餃子の皮がパイ生地みたく軽くてフワフワしてる。
あー、皮の内側の方、少しもっちりって感じもいるなぁ。
揚げ餃子っぽくみえるけど、クドくなくて割りとアッサリとした味がする。
中身の方、野菜が多めって感じだから、そのせいかな?
 研吾は水餃子を口にして一言「美味い」と言っただけで、その後は黙々と食べ始めた。
私も紗瑛ちゃんも女性にしては良く食べる方だと思うけど、何せ餃子一個の大きさが割と大きめのお稲荷さんくらいなので、多くて、焼き5個に水が3つくらいが限界だと思った。
 注文は研吾がしたんだけど、だから内心『コレ、あきらかに頼み過ぎだ』って思ってた。しかし、彼はワシワシと喰い進んで行き、アッという間に一枚目の水餃子を空にしてしまった。研吾はもう一枚別の小皿を取り上げると醤油とお酢と砂糖を入れてかき回し、ラー油をタップリ加えて新しいタレを作った。そしてそのタレで焼き餃子を食べ始めた。
 研吾の食べっぷりがとってもよくって、私は食べることも忘れて、見とれてしまった。
気付くと横の紗瑛ちゃんもウットリと見てる。
 鹿児島の女性の特徴なのかも知れないけど、モリモリたくさん食べる男性をとても魅力的だって思っちゃう。しかも、研吾はホントに美味しそうに食べる。
 その時に、ヤッパリ、研吾は超絶イケてる人だ、って私は思った。

 結局、研吾は焼き餃子を30個と水餃子を26個を食べた。
それだけじゃ足りなくて、ホワイト餃子の名物だというトン汁とご飯を追加注文して一粒も残さずに綺麗に食べつくした。
よく喰うな、この人。
「いやぁ、腹減っててさ。久しぶりに水餃子を食べたからか、胃にドライブがかかって」
止まんなくなっちゃったんだ、って研吾はハニかんだ照れ笑いを浮かべた。
「水餃子、何か思い出とかあるの?」って私が訊くと、
「オレん家は、餃子はいつも手造りで、しかも水餃子だけだったんだ。小6の時に初めて街の中華屋さんに親子3人で行って、その時だよ、初めて焼き餃子っていうのを見たの。
『餃子です』って言われながら、回るテーブルに置かれた皿を見てオレは驚いたね。
何じゃ、これ? って?」焼いてあるんだもん、って彼は懐かしそうに言った。
 紗瑛ちゃんが「ところで、この娘は研吾さんとは道端で会ったって言ってるんですけど、ホントですか?」って話題を変えた。
「ハイ。秋葉原の駅に向かっている時に声をかけられて」研吾が彼女を見ながら言った。
「何でまたアキバに?」彼女がまた質問をした。
「修復をし終えたフェラーリF40というクルマを納品しに行ったんです」
フェラーリという名前が出た途端に紗瑛ちゃんの顔がピカってなった。
実は彼女、F1とかいうクルマのレースの大ファンだったから。
私が紗瑛ちゃんの部屋に転がり込んだ夜に、どっかの外国でそのレースをやってて、私は眠いから先に寝ちゃったんだけど、彼女はずっと起きてレースのTV生中継を観てた。
 翌朝『おはよう』ってした時、紗瑛ちゃんの眼はメッチャ赤かった。
「F40ってちょっと前のクルマですけど、やっぱり凄いんですか?」紗瑛ちゃんが興味津々って感じで研吾に訊いた。
 研吾はフフッと笑いながら「あくまでも、当時は、ってことですね。フェラーリって今もそうなんですけど、良いのはエンジンだけなんです。ボディとかは、ポルシェのようなドイツ車と比べるとペラペラです。特にF40のボディは楕円のスティール管を曲げて作ったチューブラーフレームの上に複合素材でできたボディカウルをかぶせてあるだけなので、余計にペラペラしているんです。あの時代のフェラーリ全般に言えることですがエンジン自体も精度が悪すぎてすぐに燃料漏れやエンジンオイル漏れを起こしてしまう。このことで車両火災を引き起こしてしまって、そのために失われたF40の機体も少なくないんです」
 紗瑛ちゃんが顔付きを曇らせながら「研吾さんはフェラーリを嫌いなんですか?」って尋ねると、彼は「いいえ。大好きです」と微笑んだ。
彼の返答に混乱した紗瑛ちゃんが、
「でも今、フェラーリはエンジンだけでボディは駄目だって」って反論すると、研吾は、
「フェラーリというクルマは唯一無二で、類い稀な存在です。替わりが無い。他に、あのような存在はちょっと見当たらない。官能的でもあって、本当に特別で素晴らしいクルマです。良いから好きで、悪いから嫌い。それじゃ何も見えてこない。それでは対象物に関して1つも理解出来はしない。ネガティブな部分も飲みこんだ上で『好き』にならないと。特にクルマはそうです。でないと表面をカスめて終わりです」って、ていねいに説明した。
 紗瑛ちゃんの曇り顔が『なるほど』ってパッと明るくなって「そういうモノなんですね」と研吾に確かめるように言うと「そうです。人でも同じですよね。良いから好きになるって訳じゃないでしょう? 自分でも知らない内に恋に落ちてしまうだけなんだと思います」
 そしたら紗瑛ちゃんは、ニヤッと意味ありげな笑いを浮かべながら私の方を見て、
「じゃ、研吾さんにとって結衣は、どうなんですか?」って彼に反撃した。
彼はチラっと私を見てから紗瑛ちゃんに「昨日納入したF40なんですが、自分で言うのも何なんですけど非常に素晴らしく仕上げられたんですね。自分が担当したのはエンジンだけでボディやサスペンションは他の専門家が担当したんです。我々は新車以上になったと自負しています。けれど、そのF40も結衣という女性の存在の前ではカスんでしまう。
色あせて、クスんでしまって、その存在自体がボヤけてしまう。そういう感じです。
オレは彼女と巡り合えて、本当に幸せです。
彼女がいるからオレの人生が彩り豊かになる。彼女の存在がオレに意味を与えてくれる。結衣と出会って2日しか経っていませんが、オレにとって替わりがいない人だと思っています。本当に特別な人だ、と断言できます。ま、それにF40なんて結衣と比べれば単なるクルマであって、本当、ただの機械に過ぎない、のですから」と言った。
「ハイハイ、ごちそうさま」って紗瑛ちゃんが冷やかした。そして、研吾の返した言葉にウットリとしてる私の耳許に口を寄せて「ホントに良いオトコ見付けたじゃん、アンタ。この人を逃がしたら駄目だからね。こんなオトコは、滅多にいないんだからね」って、
彼女はささやいてから、ニヤって笑った。

 お支払いの時になって少しもめた。紗瑛ちゃんが、
「今日は本当に助かりました」って食事代を支払おうとすると、研吾が、
「学生さんに払わせる訳にはいかないよ」と自分の財布から一万円札をカルトンに置いた。
「えっ、でも...」彼女がためらってると、研吾が、
「将来、市来さんが社会人になった時に、学生と何かあるかも知れない。その時に、今日の分を支払えばいいんです。お金は天下の回り物...違うな。うーん、そうだ。
情けは他人(ひと)の為ならず、と言うでしょう?
これは、『情け』を他の人にかけるのは、その人の為ではない。他の人にかけた『情け』が世の中を巡り巡った後で自分に還ってくるから、そうするっていう意味です。
将来、あなたが誰かにかけるであろう『情け』はこの世界を回游して結局あなたに還る。
そういうことです。
ま、給料をもらっている人が支払うのは、当たり前っちゃ、当たり前じゃないですか」
 紗瑛ちゃんはアゴに手を当てて、少しの間『ウーン』って黙って考えてたけど、
「分かりました。じゃあ、今日はご馳走になります」と微笑んだ。研吾は、
「それで良いんです」ニコッと笑った。

 手を振り続ける紗瑛ちゃんに見送られながら、彼女のマンションを出発した。
「ね、研吾。途中でどっかのコンビニに寄ってくれる?」とお願いすると、研吾は、
「OK。ちょうどアソコにローソンがあるから、アレで良い?」と指差したので、
「うん」って、コクンした。
 研吾は道路と歩道の段差でガタンってならないように慎重にJA11をローソンの駐車場に入れてクルマを停めてから、しばらくの間エンジンをかけたままにしてた。
1分くらいしてからキーをひねってエンジンを止めた。
「じゃ、宅急便、してくるね」と彼に言ってドアを開けた。

 必要な情報を宅急便の受け付け用紙に記入してから、
「よろしくお願いします」って店員さんに渡すと、
「かしこまりました」って40代くらいの小太りなオバさんが、受け付けてくれた。
 研吾のトコに戻ると、
「何、送ったの?」って何気なく彼が尋ねてきたので、私は、
「家族写真のネガ。勝手に持ち出してきちゃったから、お詫びの手紙も添えたんだ」
と答えた。彼は「昨夜、見せてくれたヤツ?」ってワタシを見たから、
「ウン」って、コクンした。
「アレって自分でiPhoneに落としたの?」
「ううん。カメラのキタムラで、ヤッてもらった」
「へぇ。そういうサービスもしてるんだね」研吾が感心してるみたいだった。
 そして「じゃ、出すよ」って言うと、エンジンをプルプルとスタートさせた。
その時、荷物を梱包した時から気になってたことを、研吾に尋ねた。
「ねぇ、この梱包する時に使う『プチプチ』って、ホントの名前、何だか知ってる?」
すると彼は「プチプチ? 衝撃吸収材のこと? クッションシートとかエアクッションって、呼ばれているんじゃなかったかな、確か」ググってみれば、って提案してきた。
 言われた通りにググるとヤッパリ『エア・クッション』だった。
さすが、私の彼氏だけのことはある。
 JA11をユッタリと滑らかに走らせる研吾の横顔を見ながら、そう思ってた。

横須賀へと戻るクルマの中で、私はさっきから疑問に思ってたことを研吾に訊いてみた。
「紗瑛ちゃんの部屋に行った時、何か最初、態度がギコチなかったよね、どして?」
「彼女の顔、ストライクゾーンど真ん中なんだ。だから、緊張しちゃって」と彼が答えた。
「付き合ってる私の前で、ソレ言うかな?」自分でも表情が見る見る内に険しくなってくのを感じる。「元カノのミホコさんって人の顔も、あゆ感じだった?」と訊くと、
「同じ傾向かも。でも、本当のことだから、仕方ない。しかし、外見ってのはきっかけの1つに過ぎないとオレは思う。結局は中身で、その人のことを好きになるんだよ」
「私の中身は?」どんな感じ? って尋ねた。
「一見eccentric...イヤ...exoticだけど、実はちゃんとしている人」
「エグザイル...じゃなくって、エグゾ...何とかって、何?」
「エグゾティック」
「何て、意味?」
「魅惑的」
私は、研吾の言葉に満足して、安全運転を続けてる彼の頬にチュッとした。

『ホントに良いオトコ見付けたじゃん、アンタ。この人を逃がしたら駄目だからね。こんなオトコは、滅多にいないんだからね』って紗瑛ちゃんの声が聞こえて、私は目覚めた。
知らない内に寝ちゃってたんだ。
そう気づいて身体を起こした時に、両頬を涙がスーッと伝って落ちてった。
運転してる加藤さんから隠すようにソッとハンカチで拭いた。
 あの時、紗瑛ちゃんの部屋に2人で行った時以来、研吾は私との約束を守って使わないハンカチをいつも持ち歩くようになったことを、ふいに思い出した。
何で研吾は私を捨てたんだろ?
何で、紗瑛ちゃんの部屋まで私を迎えにきてくれなかったんだろ?
研吾が私を捨ててから何万回も繰り返した質問を、再び自分自身に問いかけた。

 研吾の部屋を飛び出して、紗瑛ちゃんのマンションに再び転がり込んだ時、彼女は私に『研吾さんのトコに戻った方が良いよ。あんな人、滅多にいないよ』と真剣なまなざしを向けながら、忠告した。
私は『イヤだ。研吾が迎えにきてくれるまで、絶対に帰らない』って返した。
すると紗瑛ちゃんは『研吾さん、今、大変な時期なんでしょ? ソコまで頭が回らないかも知れないじゃない。絶対、アンタの方から折れた方が良いと思うよ』とも言った。
『イヤだっ!』私は拒否した。
彼女は何かを言おうとしたけど、口に出かかった言葉を飲みこんでしまった。そして、紗瑛ちゃんは小刻みに首を左右に振りながら『ふぅ』って溜息を1つ、吐いただけだった。
 それから一週間経っても研吾が姿を見せることは無かった。
だから私は別れることを決めた。紗瑛ちゃんにそう告げると、
『良いの? このまま別れて?』って彼女が訊いてきたので、私は、
『イイ。もう、あんな研吾なんか、知らない』と答えた。
『アンタ、絶対後悔するから、将来』と彼女は乾いた声で、告げた。
 あの時、紗瑛ちゃんが言い放った言葉は、今でも鮮明に憶えてる。
ゼッタイに後悔なんてしない、私は!
私は強く、そう思った。
 紗瑛ちゃんとは今でも連絡を取り合ったり、たまに会ったりもするけど、この日以降に彼女が研吾のことに触れたことは、無い。まるで触っちゃいけないモノのように、全く彼のことを話題に上げようとは、しなくなった。話すのはいつもファッションとかの他愛もない、下らないことだけになった。まるで彼女は何かを怖がってるみたい、だった。

 メイド喫茶を辞めてキャバクラに転職したのは、秋葉原に行きたくなかったからだ。
研吾と初めて会った場所だったし、彼のイメージが残ってるって私は思ってたからだ。
だから、別れることを決めた次の日、メイド喫茶を辞めることをチーフの美樹さんに電話で告げた。研吾との事情は彼女にも伝えてあった。ので、正直に成り行きの全てを話した。
『それじゃ、仕様がないか』と彼女は苦笑しながら、許してくれた。
『電話でごめんなさい。でも...』と詫びたら、
『仕方ないよ。研吾くんとのことを思い出したくないんでしょ?』
 美樹さんは私が秋葉原に足を踏み入れなくても済むように全部を処理してくれたっけ。

 眠ったからか少しだけ楽にかんじたけど、相変わらず私のとても身体は重かった。
走るハイエースの窓の外を見慣れた光景が流れ去って行く。
 送ってもらってる立場としては何だけど、加藤さんの運転はあまり上手くなかった。
っていうか、研吾が上手すぎなんだよ! クルマの運転!
 私は全然後悔なんて、してない。
再び、そう思った時に自分のアパートへ到着した。
「着きました」と加藤さんが私を振り返りながら、告げた。

「ありがとうございました」
「じゃ、お大事に」って加藤さんは言い残してハイエースを発車させた。
 ノロノロした足取りで私はフラフラと2階の自分の部屋へ上がっていった。
鍵を開けて無言で玄関のドアを開け、中に入った。

シャワーをあびた
アタマをフキフキしながら おへやにハイると
ママの2ばんめのオトコが、パジャマのしたとパンツをぬぎなさいって ゆった
2ばんめのオトコの目は、こわい
さいしょ、いっしょにパンダを みにいったトキは キにならなかったけど、
ヘビの目とおなじカンジがする
1ばんめのオトコもおなじ、ヘビの目だったけど、
2ばんめのオトコの方が ものすごくコワいヘビの目だ
だから、だまって ゆわれたトーリに パジャマのズボンをおろしてから、
パンツもおろした
2ばんめのオトコが ねなさい ってゆったので、ねた
そしたら、2ばんめのオトコが ワタシのアシを パカッてひろげた
それから、ワタシのおマタを なめはじめた
はじめて2ばんめのオトコが ワタシのおマタをなめたのは
ママとイッショにすんでから、チョットしてからだった
それから、2ばんめのオトコは まいにち
ママがいないトキは、まいにち
ワタシのおマタをなめる
おマタをなめてるトキ、2ばんめのオトコは いつもテをじぶんのズボンにイレて
ナンか、ゴシゴシしてる
チョットすると、ウッ! って ゆって、2ばんめのオトコは なめるのを、やめる
なめてるトキ、ちっともイタくない
ナンにも かんじないけど
2ばんめのオトコが なめたアト、ワタシのおマタがヨダレでビチョビチョになる
もう1かい シャワーをあびなきゃ、だから
ホントはイヤだ
でも、2ばんめのオトコのヘビの目が チョーこわいので
だまって ゆわれたトーリにしてる
いつもは スグに ウッ! って ゆうのに
キョウは まだウッ! って ゆわない
だから、オナラが したくなってきた
オナラしたら ゼッタイ、2ばんめのオトコはおこる って おもった
だから、がんばってガマンした
ガマンしたけど
プッ!
あ!
でちゃった
そしたら2ばんめのオトコは、せんめんじょへカケアシした
チョットしたら 2ばんめのオトコがおヘヤにハイってきた
ものすごくヘビの目だったので
たたかれる っておもった
だから、ママに ゆわれたトーリに
オトコが たたこうとしたら
オナカをシタにして テでアタマをかくして
カメになるんだよ って ゆわれてたから
カメになった
そしたら、2ばんめのオトコがアシでけってきた
イタいっ!!!!!
なんども、なんども けってきた
イタくて イタくて ウッ! って なった
ちんじゃう!
ちんじゃう!
ワタシ、ちんじゃうよ!
たすけて、ママ!
2ばんめのオトコは、ワタシをけるの、やめない
たすけてッ!

 私はリビングのドアを開けて中に入った。
教えた通りに『カメ』の恰好をしてる下半身丸出しの織をオトコが蹴ってるのが眼に飛込んで来た。ドアの開く音にビックリしてオトコがこちらを振り返った時に私と眼が合った。
オトコの眼は血走っていた。
 私は瞬時に状況を理解した。
「ナイをやっちょッ!!!!!!!!!! コンやっせんぼっがッ!!!!!!!!!!」
 故郷を出て以来、一言も口にしなかった鹿児島弁が思わず、ついて出た。
「イヤーッ!!!」って猿叫を上げながら、オトコの左ひざにローキックを入れた。
 すると支えを失ったポールのようにオトコが、ゆっくりと崩れ落ちていく。
スローモーションで倒れてくオトコの左のこめかみにミドルキックを回し入れた。
オトコがヘニャって折れ曲がるように崩れ落ちて、腹ばいで床に突っ伏した。
「研吾と私の一粒種じゃ! 大事な一人娘じゃ! ソイにワイはナイをヤッちょっとかッ!」
私の怒鳴り声が壁に反射して『ウワーン』という不快な共鳴音が部屋中に響き渡った。
オトコが自分の頭を両手で抱えたので、それには構わず腹にローキックを放つ。
横っ腹から鈍い音がして「ウッ!」ってオトコが苦痛の声を上げた。
「子供好きっちッ!!!!!! こげな方かッ!!!!!! クソがッ!!!!!!」
 頭から離して両手で腹をカバーしたので、今度は脚をいったん振り上げてから、かかとをオトコの後頭部へ落とした。
「ワイはナイをしよっとかッ!!!! 馬鹿たいがッ!!!! こんヤッせんぼッ!!!!」
 こんな奴に私の拳は使わない。
手で触るのも汚らわしい、拳がけがれる。
私の手は、一番大事な彼と織を慰撫するためだけにあるんだからっ!
だからッ!!!
キックだけでケリをつけてやるッ!!!
「私と、研吾の、大切な想い種に、ワイはナイをやっちょっとかッ!!!」
また頭をカバーしたので今度は腹。
腹をカバーすると今度は頭。
「死んだら良かろがっ!!!!!」
部屋の中に『ガシっ!』『バシっ!』『ドスっ!』って肉を叩く時に出る音だけが響いた。
しばらく蹴り続けてると後ろから織が、
「やめてッ! ママっ! ちんじゃうから、もうやめてッ!」って叫びながら、抱き付いてきたので『ハっ?!?』って我に返った。
 私の足許で、オトコがボロ雑巾のようになってた。
「ウウッ!」ってうめき声を上げてたので、死んではいなかった。
 織に「ママ、もうダイジョブになったから」って言って、彼女の小さな両手を離させた。
 部屋の壁にかかってたオトコのジャケットのポケットを探り、キーホルダーを取り出して私の部屋のカギを取り外すと、残りをボロ雑巾に叩きつけた。
 オトコが使ってたパソコンのコンセントを引き抜いて左の脇に抱え、髪の毛をつかんで右腕1本でオトコを引きずっていって玄関から外に蹴り飛ばした。そしてアパートの共用廊下にペタッとへたり込んでるオトコに向かってパソコンを叩きつけた。
「出てけッ!!!!」
そして、引きずってる時にオトコの背中から廊下に落ちたキーホルダーを拾うと玄関に戻って、再び叩きつけてから、
「往ねッ!!!!!! 2度とそんツラ見っせんなッ!!!!!! もし戻ってきたら、
そん時は殺すっど!!!!!!!!」
良かなッ!!!! って言ってから『バンっ!!!』って乱暴にドアを閉め、カギを掛けた。
 リビングに戻ったら織が床にペタンって座ってたので、抱きしめてから顔を確かめるように覗き込んだ。両手で彼女のほっぺたをさすりながら、
「だいじょぶ? 痛いでしょ? ゴメンね、あんな奴連れてきて。すぐ救急車を呼ぶから」って声をかけたら「ママ、ありがと」って織が言った。
 涙があふれてきて、止まらなくなった。
早く救急車、呼ばないと。
 涙声だったので住所とか理由とかを係りの人が聞き取れなくって、何度も繰り返さなければいけなかった。「もうそちらに向かってます」って言われて「よろしくお願いします」って電話を切ってから織にパンツとパジャマのズボンを穿かせてると、床に付いた血の跡が眼に入った。後で拭かなきゃって思った時に、ベージュ色のジャケットが床に落ちてることに気付いた。
 オトコに叩きつけてやろうと玄関のドアを開けると、もう誰もいなかった。

 ジッとして全く動き出す気配のしてこない「!」の上だけの部分みたいな形のアイコンを見つめながら、そんな昔のことを思い出してた。顔を上げて部屋の中を見回すと、織がいないだけで少し広がったような感覚に襲われて、淋しさが胸にこみ上げてきた。
 この部屋は健爾と織と私の3人で暮らしてた部屋、そのモノだった。
健爾との離婚が受理されて広尾のお養父さまとお養母さまの家を引き払ってから、ここへ移り住んできた。奇跡的に同じ部屋がちょうど空いてたから、ここに決めた。
 もし、健爾が戻ってくるなら、広尾の実家じゃなくて、こっちだと思ったから。
ホントは広尾でお世話になってる時も、折を見てはチョコチョコこのアパートに来て、彼が戻ってないか、確かめてた。だから私たちが広尾に移ってから1年の間、ずっと空きっぱなしなのは、知ってたし。そんな長い間、誰も借りようとしなかったのはヤッパリ運命で、私はここで待っていなくちゃダメなんだ、って、その時には思えた。
 織がいなくなってもダイジョブだ、って考えてたけど...
昔のことを思い出してる時に私、気付いちゃった。
 織がいなくて、ホントに淋しい、って。
 自分で気付けなかっただけ。
織がいなくて淋しさを感じていたのだ。
織がいなくなって無性に淋しい。
でも町田じゃ通わせられる保育園がいつまで経っても見付からない。
待機児童の順番だって全然後ろの方だし。
だから、このまま単に待っててもダメなのは私にだって分かってる。
それに、また、あんなロリコン野郎がヤラかしたこと、もう二度と御免だ。
 ロリコン野郎が姿を消してから、毎日毎日が不安で一杯だった。
傷が癒えたら、再びココにやってくるんじゃないかってホントに心配だった。
 部屋のカギは証明カード付きのディンプルキーで、簡単にスペアキーを作れないようなタイプだったけど、アイツだったらしまってある証明カードを探り出してて勝手に合い鍵を作っててもおかしくなかったから、管理人さんに事情を説明して、ドアの鍵を交換してもらった。交換が終わるまでの1週間、私はホントに気が気じゃなかった。
だから、今、付き合ってる弘行には部屋の鍵を渡してない。
怖いから。
お金的にはシッターとか余裕で頼めるけど、知らない他人を部屋に上げたくない。
怖いから。
 このまま織を町田に置いておくのは危険だ、とさえ思う。
だから鹿児島の両親に預けた方がいい。
そしたら、織も幼稚園にも通わせてもらえるだろうし、絶対この方が良い。
教育的にも良いだろうし、成長するためにも友達とかって絶対に必要だと思うし。
 でも、今、私は底無しの淋しさを覚えてる。
だから、昔のことを、研吾のことを思い出してたのかも知れない。
楽しかった彼との生活を。
 いつだったか研吾が言ってたことを、また思い出した。
『辛い時や苦しい時は、楽しかった過去のことを思い出すと良いよ。
現在のことを考えるってことは、今まさに直面している辛いことや苦しいことと対峙するってことだから、それはしない方が良い。それが出来るってことは、そんなに辛くもないし、苦しくもないって証拠だから。
未来のことを考えるってことは、まだ手にしてない何か新しいモノについて考えるってことで、これをするにはとても大量のエネルギーが必要になる。ただでさえ弱っているのにそういう新規なことを計画するのは避ける方が良い。よけいに疲れるだけだから。
記憶は不思議なモノで、辛いことや苦しいこと、悲しいことは忘れやすく、愉しいことや良かったことだけが残りやすい。だからそういうポジティブな思い出を起こし出せば良い』って、言ってた。
 研吾、キミの言うことはいつも正しいよね。
あの日、ブチ切れして、あのロリコンを蹴りまくってる時に、つい、
『研吾と私の一粒種じゃ! 大事な一人娘じゃ! ソイにワイはナイをヤッちょっとかッ!』って思わず叫んでたけど、織は君のホントの娘じゃないよ。
そんなこと、絶対にあり得ないから。
野々原さんが、社長さんが亡くなってから、荒川自動車の経営は上手くいかなくなった。
常連のお客さんが一人、また一人って来なくなってった。
 きっと、かも知れないけど、社長さんが亡くなった3日後に、東北の方で物凄く大きな地震があって、それで日本中がパニック状態になっちゃってたから、そのことも何か関係してるのかも知れない。だからかも? なんだけど、お客さんはドンドン減ってった。
 最後まで通ってきてくれてた銀色のポルシェのヤナイさんもいつの間にか来なくなった。
そうしてお客さんが誰もいなくなってしまって、結局工場を閉鎖しなきゃいけなくなった。
 仕事を失ってしまったら、研吾は全く違う人になってしまった。
失業保険をもらって毎日毎日をツブすように暮らしてる研吾は、私の愛した研吾ではなくなってしまった。外側が同じなだけの中身が全く違う人間になってしまってた。
就職先探しもしないで、毎晩、私の身体を求めるだけのダメ人間になってた。
 彼がハツラツとしていた時、SEXが終わった後は必ずギュッと抱きしめてくれてキスをしてくれたのに、段々とおろそかになっていった。私の中で果てるとスグに寝てしまうようになった彼。私を性欲解消マシンとしてだけ扱ってるような気がしてならなかった。
行為自体の内容は前と変わらず、彼は優しかったし、何度も絶頂まで昇らせてくれたけど、何かが決定的に違ってしまっていた。彼の心を感じ取れなくなってた。
だから、その頃、ホントに研吾は私が見たくない姿をしていた。そんな見たくない人の子供なんて欲しくなくなってしまって、彼に黙って陰でコッソリと避妊用ピルを飲んでた。
だから織が研吾の娘だなんてこと、絶対にあり得なかった。
でも何でだろう?
私は織が研吾のホントの娘なのかも知れないと、思い始めてもいる。
そんなこと、ある訳がない。
ピルを毎日飲んでたんだから。
単なる思い違いだよ。
織のことをいまいち真剣に考えられないのは彼女が研吾の子供じゃないからかも知れないって考えたことさえあるじゃん。
 何でだろ? って考えてたら、とんでもないことに気付いてしまった。
研吾が私を捨てたのではないってこと。
私の方から落ちている駄目になった研吾の姿を見たくなくて、研吾を見限ったんだって。
自分の愛した男性がダメになってく姿をそばで見たくなかっただけだったんだ。
研吾から離れたのは私の自分勝手なわがままだったんだって。
ホントはそんな落ちてる研吾を、私が支えて上げなければいけなかったんだって。
あの時、紗瑛ちゃんが何を言おうとしたか、彼女が飲みこんだ言葉が何だったのか、今私はようやく理解できた。
研吾がおかれている状況をよく理解して、彼を受け入れなければいけなかったんだ。
できる限りの優しさで受け止めて上げなければいけなかったんだって。
 それなのに、私は自分の気持ちを優先して、研吾の前から立ち去ってしまった。
捨てたのは、私、だ。
でも、何、言ってんの?
誰が捨てようが、どうでもイイじゃん。
別に研吾とヨリを戻したい訳じゃないんだし、実際は私の方が研吾を捨ててたとしても、何かがダメになることなんか全然ないんだし。ヨリを戻したい所か、愛してもないんだし。
人としては好きかも知れないけど。
だから、私が彼を捨ててたとしても実害はないじゃん。
でも、何で私、こんなにアワアワしてるんだろ?
 研吾との初めての夜を思い出したからかも知れないけど、そういえばあの時に、研吾が処女を失う時の痛みについて何か言ってたな、って思った。
 何て言ってたっけ?
あぁ、そうだ、『はか』だ。
どんな字を書くのか知らないけど、ヤフーで検索すると、検索候補の一覧の中に『破瓜』ってあって『破れる』ってあるから、コレかもって『破瓜とは』をポチッとした。
意味を説明するサイトに跳ぶと、iPhoneの画面には次の文字が浮かんでいた。
『破瓜:「瓜」という字を二つに割ると八の字が二つできることから、
1.八+八=16で女子が16歳のこと。
2.八×八=64で男子が64歳のこと。
3.処女膜が破れること』ってあった。
 やっぱり研吾は何でも知ってるんだな。
あの時、研吾が私を捨てなければ、イヤ違う、私が彼を捨てなければ、彼の子供を産んだんだろうな、って思った。
 織がホントに彼の娘だったらな。
でも、何故か私は、織が研吾のホントの娘だと思い込み始めてしまってる。
織が研吾の娘だなんて、絶対にない。あり得ない。
でも、なんでそんな変なことを思い込み始めてるんだろ、私?

その時に気付いた、
織が研吾とのホントの子供じゃなければ、彼とのつながりが無くなっちゃうってことに。
私、研吾とのつながりを失いたくない。
イトが、彼とのラインがつながってさえいれば可能性はまだある。
切れたらアウトだ。
可能性はゼロになる。
ゼロは嫌。
それだと夢も見れない。
ゼロじゃなきゃ、ホントにかすかにでも可能性さえあれば、夢見られる。
夢を目標にだって変えられる。
 研吾との子供を授かるって夢を目標にできる。
そう、私は気付いた。
私は研吾の子供を産みたかったんだってことに。
健爾じゃなくて、研吾の子供が欲しかったんだってことに。そして今も産みたいって。
彼とのつながりを失いたくないから、織を研吾の実の娘だと思い込みたいんだって。
織が、研吾との唯一のつながりだから。
 そゆことに気付いて物凄くビックリした。
 咲耶さんに結婚を認めてもらおうとして避妊を止めることにした夜、何度か本チャンをした後、研吾が復活するのを待ってる間、彼が言ったことを不意に想い出した。
『避妊のefficiencyなんだけど、コンドームは96なんだ』研吾が言った。
『エピネフリン...って、何?』と疑問を私は口にした。
『違うよ、それはepinephrine。アドレナリンのこと。止血剤や強心剤、ホルモン薬だよ。
オレが言ったのはEFFICIENCY。日本語に訳すと「有効度」とか「能率」のことだよ』
『ふーん。で、どういう意味なの?』
『SEXの時、膣内射精をした場合にドレくらいの確率で妊娠を防げるか? っていう意味』
『その数字、96って? どゆ意味?』
『100回の膣内射精をしたとして、その内の96回は避妊に成功するって確率ってこと』
『えっ!?! じゃ、残りの4回は?』
『確率的に言うと、コンドームをしていても100回に4回は妊娠する可能性があるってことだよ』
『ホント?』
『あぁ。厳密に言うとこの数字にはコンドームの誤った使用方法も含まれている。
例えばコンドームって男性器を膣内へ挿入する前から着用しておかなければいけないんだ。でも、大抵の人達は、最初「生」でしてから、途中でコンドームを着用するだろ?
それって駄目なんだ。
男性が射精するずい分と前に尿道球腺、つまりカウパー腺から粘液が分泌されるんだ。
尿道内の潤滑の具合を良くするために、ね。
しかし、その粘液には精子が含まれている可能性があるから、最初からコンドームを着用してないと、全然意味をなさないんだ』
『ふーん。じゃ、間違った使い方してる場合も含めてるから、96なんだ』
『そう。でも避妊用に使われる低用量ピルもefficiencyは98しかない。ピルを使用してても100回の膣内射精のうち、2回は妊娠しちゃう確率になる。
避妊に関して言うとピルも完璧じゃないってことだね。
因みにピルとコンドームの併用でefficiencyは99まで上がる。でも決して100にはならない。人間のすることに完璧は無いってことかな」と研吾が低く笑ったコトを憶えてる。
そう。
避妊用ピルを飲んでても100回のうち、2回は妊娠する可能性がある。
だから、織はその内の2回、つまり、奇跡であってて欲しいと私は願い始めてた。
 でも...
 でも...
 でも、オトコとして好きじゃない人の子供が欲しい?
愛してもいないオトコの子供が欲しい?
どゆコト?
何でだろ?
 考えてたら1つのことに思い当たって、一昨日、澤口さんが言ってたことを思い出した。
『男は女性の初めてのオトコになりたがる。女は男性の最後のオンナになりたがる』
えっ?!?
嘘っ?!?
私は、研吾の最後のオンナになりたがってる自分を発見して、メッチャ動揺した。
自分で自分に超ビックリした。
私、研吾が好き。
昔の記憶の中の『研吾』じゃない。
3日前に会った、一度地獄に落ちてそこから這い上がって来た、よりパワーアップした研吾が好き。
最初の研吾じゃない、今の研吾が好き。
私は同じ人に2度目の恋をしてる。
『初めての人』だった人にもう1回。
初めてのオトコに再び、新しく恋をするだなんて、今の今まで想像したことも無かった。
久々にまた、正真正銘の、本当の恋に落ちちゃった。
そのことに気付いて私はガク然となった。
だから、だ。
だから、織をコンビニに独りで置き去りにしたんだ。
ホントに非道いことしてるって思ったけど、研吾に会いたくなかったから。
彼に会ったら『好き』って思いが感情を揺らしてメッチャうろたえるって、彼を無意識に避けたんだ。
3日前は確実に織を鹿児島に送ってくれるようにするために、意識して研吾に気がある振りしてた。演技してた。
そう思ってた。
その時は本気でそう演技をしてる、って思ってた。
だから、普段は着けない香水、研吾からの初めてのプレゼント、シャネルのN゜19をワザワザ着けてったんだ、って、意識して。
でも、ホントは違った。
その時はもう既に、彼との、2度目の恋に落ちてしまってたんだ。
どうしよ?
どうしたら、良い?
何でも知ってるから、研吾なら教えてくれるかも知れないけど、コレだけは訊けない。
『訊ける訳がないじゃん、バッカじゃないの? 結衣!』って胸の内で自分自身を罵った。
私は、自分がどうしたら良いのか、サッパリ分かんなかった。
iPhoneのフォルダーに1枚だけ残してある研吾と私の2ショット写真を表示させてから、その中で、ニカって笑顔を浮かべてる『最初』の彼に『どうしたらイイと思う?』って、心の中で尋ねることくらいしか出来なかった。
何も出来なかった。
何も思い付かなかった。
私はただ、ボー然としていた。

筆者注:AKB48の10thシングルの『大声ダイヤモンド』の発売時期は2008年10月22日なので、2009年5月末という設定は時系列的には全く合っていないのですが、この作品はフィクションなので大目に見て下さい。
実はこの間に11thの『10年桜』が2009年3月4日にリリースされています。
あと、秋葉原にVictoria’s Secretがあるかどうか、私は知りません。無いんじゃないかな?
確か、この前年に初代のiPhoneが日本でも発売されたと記憶していますけど、秋頃じゃなかったっけ? ならOKですね。それと、この時点で、イケアって日本に上陸してたっけ?
尚、カメラのキタムラは 顧客にネガや写真プリントを持ち込んでもらってスマホの中に落とす、なんてサービスを提供してませんので、悪しからず。
『男を逃がさないためには、まず胃袋をつかめ』と結衣は言ってましたが、コレは西洋の諺(ことわざ)で、正確な表現は『The way to a man’s heart is through his stomach.』
この文章を日本語に訳すと『男心をつかむには胃袋から』になります。
ま、結衣の言い回しでも大意は合っているんですが、ね。
踵落としは『テコンドー』の技です。しかし空手が朝鮮半島に伝わって『テコンドー』の原型となったので、そこは大目に見て下さい。
 山手線ですが、この注釈文を書いている時にドンピシャで『チコちゃんに叱られる』でチコちゃんがその理由をバラしちゃっているんですね。(2020年9月11日放送分)
だから、何故山手線が『山手線』と『東北本線』と『東海道本線』の3つから成り立っているのか、知りたいならばチコちゃんのその放送回を見た方が早いし、より解り易いです。
ま、超簡単にその変遷を描写すると、一周34.5kmほどの山手線、その品川~田端間(外回り)が厳密な意味での路線としての山手線で、田端から東京までが東北本線、東京~品川までが東海道本線となるのは、作中で研吾君が言及した通りです。
日本の鉄道事業は、1872年5月17日から品川(現在の品川駅とほぼ同じ高輪地先)~横浜(現在の桜木町駅付近)間の仮営業が始められたことを嚆矢とします。そして同年の9月12日に新橋(現在の汐留)~横浜の間で正式開業が為されました。
この路線は官設鉄道で(=国有)、後の東海道本線です。
東北方面は、1883年に上野~熊谷間で日本鉄道東北線が開業しました。
日本鉄道会社は当時の華族の人達によって設立された私設鉄道会社でした。発起人の筆頭は岩倉具視です。
翌年の1884年にその路線が高崎まで延長されます。
両路線を結合しようとしたのですが上野~新橋間は用地取得が様々な理由から困難だったために、品川から渋谷、新宿を経て埼玉県との境界である赤羽駅まで迂回する線路を設計・敷設しました。この路線が完成したのが1885年です。
開業当時の名称は日本鉄道品川線です。つまり、この路線も私鉄でした。
当時の日本は貧乏で、鉄道に回す為の予算が確保できなかったことから、官設ではなくて私鉄が主流だったのです。西南戦争の影響などで政府の財政は物凄く逼迫していました。
そして茨城・福島方面から東京へと石炭などを運搬する目的から日本鉄道によって土浦線が敷設されて日本鉄道東北線に接続、その接続地点に田端駅が開設されます。(1896年)
この路線(当時は田端~水戸。別の私鉄への乗り入れ有り)が現在の常磐線に当たります。
その後、石炭を横浜まで運ぶために、赤羽をスルーする形で田端駅と池袋駅を直接線路で結びました。この田端~池袋間の名称は豊島支線。(1903年)
日本鉄道は鉄道国有法の施行により1906年に政府に買収されて国有鉄道となりました。
1909年に豊島支線と品川線を1つにまとめて山手線という名称になります。この時の路線の形状は『C』型です。尚、この時の読み方は『やまのてせん』でした。
1919年に山手線は、中央線・東海道線・東北線へと乗り入れて、中野~新宿~東京~品川~池袋~田端~上野という『の』の字型の路線となります。
そして1925年に最後に残されていた上野~神田間が開業して山手線の周回路線が漸く完成という訳です。
つまり山手線は、田端~品川間は東北本線と東海道本線という別の路線に乗り入れている格好になるのです。
因みに、山手線の正式な読み方は『やまのてせん』で、実は最初からこの名称でした。
しかし終戦直後にGHQがローマ字の併記を要求してきた時に、間違えて『YAMATE Loop Line』と振ってしまった事から、日本語でも『やまてせん』と呼ぶようになりました。
しかし、1971年3月7日に本来の名称である『やまのてせん』に戻しました。
(ローマ字での表記は『YAMANOTE Line』)
あ、そうだ。鹿児島から上京する際に結衣が取った行為(架空口座からの現金引き出し)は、多分、じゃなくて、完全に犯罪に当たります。
刑法の第一六一条が規定する『偽造私文書等行使』に抵触すると思われます。判例を参照すると『一般人をして実在者の真正に作成した文書と誤信させるおそれが十分にある以上、その名義人が架空であると実在であるとを問わず、本罪は成立する』とあるので、架空名義のカードの使用も本罪が成立します。
結衣は、自分でも弁明している様に、実際に犯罪行為を働いて稼いだ500万ではありませんし、架空名義の口座を偽造した実行犯でもないし、このケースでは直接的な被害者がいないから、詐欺罪などは適用されないと思われます。
この法令に抵触した時に科される刑罰は、刑法第一五九条が規定する『私文書偽造等』(使用する目的で実際に私文書〔通帳を含む、何らかの権利、義務、若しくは事実証明に関する文書若しくは図画〕を偽造した者が問われる罪)が定める刑罰と『同一の刑に処する』とされていますから、裁判にかけられた場合は、三ヶ月以上五年以下の懲役を言い渡される可能性があります。
これは決して軽い刑罰ではありません。
 ま、実際は彼女の年齢を考慮に入れなければなりません。結衣は犯行当時は17歳なので結局の所、少年法が適用となるでしょう。家庭裁判所へ送致されて、比較的軽い処分の保護観察処分で済むのか、それとも女子少年院へ収容されるのか、ドッチかの処遇に決定される事になると思われます。けど現在、結衣は26歳。裁定が下って『女子少年院送致が適当』とされた場合、本当に送致されるのかどうか、私は判りません。
ただし結衣が弁解している様に、刑法第三七条が定める『緊急避難』に該当する可能性も十分にあり得ます。
この法令の第一項は『自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、または免除することができる。』と規定しています。
え?
何を言っているか、サッパリ判らない? ですか?
 それではご説明を致します。
この法令が何を言っているかというと『コレをしないと死んじゃう』という時に採った行動が社会的に鑑みて許容できる範囲内であれば、ソレを罪には問わないという意味です。
例を挙げると、誰ががアナタを殺そうとしてショットガンで発砲してきた場合に、必死になって反撃して、投げた石が相手の頭部を直撃し、結果的にその人を殺してしまったとしてもアナタは罪には問われない、という帰結になる事をこの法令は保証しています。
ま、アモの種類にも因りますが、ショットガンで撃たれればアナタは即座にミンチ状態になっちゃって、抵抗するも何も、全然何にも出来ない筈なんですけれどもw
 あ、アモとは『ammo』で『ammunition』の略です。意味は『弾薬』です。軍事用語で、厳密に言うと『弾薬・弾丸・砲弾・手榴弾・ロケット・ミサイル等の総称』になります。
もちろん核・生物・化学兵器等も含まれます。
話を戻すと、
この時、結衣の所持金は僅か数万円。
施設に収容されていて働いていた訳でもないので、架空名義の口座以外に預貯金はありません。普通のバイトで生計を立てて行くのは結構厳しいです。ダブルワークしなきゃ駄目ですね。それにリーマンショック直後なので、そう簡単にバイト先を決められる状況では無かった訳ですし、ね。
 そしてこの時、結衣は17歳。
水商売を始めとした風俗で働く事は当然不可能です。何らかの技術を持ち合わせている訳でもないから、生のたつきを求めれば自然と援助交際の様な裏社会の仕事に行き着きざるを得ません。故に彼女の案件に刑法第三七条第一項が適用される確率は低くないでしょう。
ま、それに刑法第一六一条の公訴時効は5年なので、何だ、もう時効成立してんじゃん。
っつーか、あれだけ用意周到に後始末したら、絶対に発覚しねーよ。
現在に比べて、監視カメラの精度も低く、設置件数も少ない上に、画像解析能力も陳腐な2009年当時では、検挙するのは絶対に無理。
 どこぞのアイドルグループが掲げる『恋愛禁止』のお題目も『バレなきゃOK』な訳で、
ヤラかした事の重大さを無視すれば、本質的には同じなんでしょうか?
 ま、結衣、人を殺した訳じゃないし。
保護観察下において、彼女が取った上京という行動はNGなのです。本来は住居を移転する場合、前もって保護観察所に届け出ないといけないのですが、鹿児島の地方更生保護委員会で結衣を担当する保護司の人が尽力して、東京の保護観察官への取り次ぎを円滑に行ったから、大した問題にならなかったのです。
この保護司や保護観察官そして身元引受人と結衣、研吾君とのエピソードは物語の後半で描かれる予定です。ネタを少しだけバラしちゃうと、ここで咲耶さんと結衣との確執の種が盛大に蒔かれちゃっています。そりゃ、ダンナが素性も知れぬ小娘の...閑話休題。
あ、彼女が収容されていた『施設』が何なのか? 何でソコへ送致される事になったのか?
それは、この物語のラスト近くで研吾くんが胸襟の内で呟く予定なので、その理由はここでは割愛します。
ま、この2つが何なのか、勘の良いキミはもう薄々気付いちゃってると思うんだけどな。

私とケンゴ vol.10

私とケンゴ vol.10

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-10-27

Copyrighted
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