私とケンゴ vol.9
Rさんがピピッと耳障りな警告音を発した。
『あの男なのか?』と一瞬は思ったのだが、そうではなくて後方から物凄いスピードで接近してくる赤いSUV(Sports Utility Vehicle:スポーツ多用途車)に関しての警告に過ぎなかった。走行車線をノンビリと走っているR32にアッという間に追付いてサッと風の様に追い越して行ってビュッと視界から消えてしまった。
アレは何だったんだろうか?
あまりの彼我の速度差によって車種をよく確認できなかったが、多分ランボルギーニから発売されたばかりのウルスだろう。何とも乱暴な走りっぷりだった。
最近は『アオリ運転』なんてのが横行しているようだから、煽られないだけマシか。
何で『アオリ運転』なんかするのか、その理由は解らないがクルマを操縦する事によって起こる身体の拡張が原因なのかも知れない。名人と謳われる裁縫職人さんは裁断用ハサミのポイント(刃の切っ先)まで神経が通っていると言われるが、ソレが身体拡張性だ。
ヒトの脳がやっている事は単純なデータの入出力であって、人間は単純なデータのインプット・アウトプットの連続で周囲に拡がる複雑な『世界』の構造を理解して行くだけだ。
脳は感覚器官からのデータを受け取って、処理した後に運動器官へ作動データを出力している。つまりセンサーデータが脳に入力されて、その刺激に反応した一連の神経ネットワークがアクチュエーター(作動装置)に向けて作動データを出力するという関係に過ぎないから、脳にとってセンサーやアクチュエーターが人間の身体であってもクルマの機体であっても何ら変わらない。
大型で速いクルマに乗る>自分の身体が拡張された幻想を抱く>全能感>アオリ運転。
って感じなのかも。
あ、あと、高級車に乗る事でステイタスを得ようなどと考える人が多い。
凄いクルマを所有する事が自分に意味を与えてくれると信じているのだろうが、完全に間違えている。クルマが人に意味を与えてくれるのではない。アイデンティティの核には成り得るかも知れないが、ソレは切っ掛けに過ぎない。空気中の水蒸気が雨粒を形成する為にエアロゾルが必要なのと同様に。
逆だ。
人がクルマに意味を付加するのだ。
え?
前にも言ってたけど、話の内容が今一つストンと腑に落ちて来ないって?
じゃ、解り易い例を挙げよう。
誰かが道端で石塊を拾ったとする。彼だか彼女だか知らないが、その人は件の石塊を掲げて、高らかに宣言する、「コレは神の分身である」と。その瞬間から彼若しくは彼女にとってその石塊は『神』になる。そう、偶像だ。
実像では無く虚像でも無い。偶像。人の思惟だったり哲学だったり思想だったり、そういったモノが物に意味を与えるのだ。
他の例を挙げる。
ある農夫が自分の畑の周囲に群生している野生の花の美しさにふと気付く。
その美しさから栽培して園芸品種にしようと企てる。やがて可憐な青い花を咲かせる野草には『矢車菊』という品種名が与えられて市場で盛んに取引される様になる。
だが、畑の畔に自生していた時には、彼以外の誰も単なる雑草としか見做していなかった。
そうだ、その農夫が『青い花』に意味を与えたのだ。
この世界のあらゆるモノには意味など全く所与されていない。
もちろんソコにはヒト自身も含まれている。
全てのモノに意味を付加するのは、人間の思惟であり意志だ。
ま、実際には人間に意志など備わっていないのだけど、ね。
意識には主体性が伴っていないし、そもそも意識とは何か? どうやって生成されるのかすら理解できていないのだ。覚醒する時に自分で『目覚める為のスイッチ』をプチッと押して起きている訳ではなくて、何だか良く解らない内に自然に目覚めている。起きると人間は自分には『主体』が備わっていると勝手に勘違いしているだけだ。実際は、起きるのも寝るのも『身体』任せなのに、自分の『意志』でそうしていると錯覚しているだけだ。
自分で自分の身体を動かしているというのは幻想に過ぎない。
君が右手を挙げる時『右手を挙げよう』と意識する数コンマ秒~数秒前に、君の脳内では既にニューロン・ネットワーク(神経細胞回路)の発火が始まってしまっている。これは数々の実験によって証明済みな事実だよ。俄かには信じられないかも知れないけど。
だから『意志』とは、自分が実行した行動を後付けで説明する為の意識の一領野に過ぎないと言えるんだ。
閑話休題。
そう、クルマは人間に何も与えてくれない。
ドライバーやオーナー自身がクルマに意味を付加して行くのだ。
余談になるかも知れないが興味深い事実を紹介しよう。
ここにラインアウト直後、つまり工場出荷ほやほやのR32が2台あるとする。
1台をA氏が、そしてもう片方の1台をB氏が所有して走行させるとする。
A氏は5000回転をリミットとして1000kmの慣らし走行を終えた後、約6千回転~7千回転でR32を走らせようと意識的に心掛ける。元々RB26DETTというエンジンは高回転時に最高の性能を発揮する様に設計されているから、その回転帯はRB26DETTにとって一番美味しい回転数に当たるのだ。
一方B氏は、A氏と同様に5千回転をリミットとして1000kmの慣らし運転を終えた後、エンジンを労わる様に3千回転~5千回転の比較的に低回転で走行する様にする。遠い将来に至るまで新車同然の状態で動態保存しておき自分のステイタスを保持する為に。
両者が3万km走行した後でA氏のR32とB氏のR32を比較してみる。
すると、A氏のR32は高回転まで気持ち良く回る上とてもパワーが出ている。
反対にB氏のR32は高回転帯まで回る事は回るが、全然パワーにパンチが無い。全くパワフルでないエンジンに成ってしまっている。
個体差は当然あるが、結局2つのRB26DETTの出来を左右したモノはドライバーがクルマを如何に扱ったか、言い換えれば、どういう意味付けをしたか、である。
スポーツカーをスポーツカーらしく操縦したのか、単なる自分への箔付けとして取り扱ったのか、その違いだ。高回転時にパワーが抜けてしまうRB26DETTに存在理由は無い。
そう、エンジンはドライバーの扱い方で成長の仕方が激変する。
人が意味を付与する事でエンジンは育まれて行くのだ。
何でそんな事が起こるかといえば、低回転領域でのみ使用され続けるとエンジン内部の至る所にスラッジ(sluge:燃料や潤滑油が変質して出来た固まり。ゴミ)が溜まってしまうからだ。だから理論的にはエンジンをオーバーホールして全てのスラッジを除去すれば元の状態に戻る筈なんだけど、癖ってのは一度付くと中々取れないのは人間と同じで、大抵の場合は二度と高回転型エンジンへとは復活しないんだよ。
さて、もうそろそろ次の目的地が近い。
そこはイトに見せておきたい場所の1つだ。
長時間、クルマを安全に運転し続けるのにはコツってヤツがある。
一番大事な事は、ステアリングをキツく握りしめない事、だ。グイッとは持たず手はただ添えるだけにする。運転がヘタな奴ほどステアリングにしがみ付く傾向がある。力一杯握ってしまうとシビアで微細な操舵が出来なくなるから、だ。機体の挙動はおケツで感知するモノだから、力を入れていたら全然感じ取る事が出来ない。身体には、特に上半身には全く力を入れない。だから疲れない。手では無くて腰でステアリング・コントロールするイメージを持つように操作する。ま、当然手でも操作するんだけども、腰で操舵する事を意識しながら機体をコントロールして行くと結果的に疲労はかなり軽減する。
あと、自分の腕を超えた『走り』はしない。
別にレースに参加している訳では無いのだから。常に自分の領域、己のテクニックの範囲内で機体をコントロールする。そしてクルマにも限界以上のモノは絶対に求めない。
クルマの運転に運動神経は関係ないし、体力も人並みでさえあればOKで、十分以上のモノはそんなに必要ではない。眼から入力される情報を基盤として、如何にして自分の手や足で操作するか。身体全体を使う事は無く、だからソレは『感覚』である。
疲労を軽減する為には、時々メーターでチェックしながらコンスタントにクルマをズッと同じ速度で走らせる事も重要だ。晴れていても途中で雨が降っても、同じスピード。
あ、だから危険なスピード域で走る事は、しない。
雨天下でも安全に機体を走らせられる速度域を保つ。
コーナーが来ても、上り坂でも下り坂で同じ速度で走る。
あ、コレ、高速道路での話だよ。
下道、つまり市街地を走る場合とか、峠道やランプ(ramp:高速道路への進入路・退出路)なんかだと、話はまた別になってくるから、ね。
高速道路は全て基本的に同じ速度で走行する事を前提に設計施工されるからだよ。
直線だから『よし、ちょっとスピードアップ』という事も全くしない。雪が降っても大体同じ位の感覚で走る。とにかくスピードを繊細にコントロールする事を心掛ける。殆ど、ブレーキも使用しない。だから疲れない。
そして安全に走る為には周囲の視覚情報が必須。人間は視覚情報に頼って生きている生物だから。周りをよく見るだけで貰い事故は凄く減る。自分のクルマを取り巻く環境に関する情報量が多い人ほど安全に走行させられるし、速く走ろうと思えば、走れる。
周囲の状況情報をどうやって把握認識できるか。
ソレが『上手くて安全な運転』につながってゆく、とオレは思う。
あ、安全な運転に関してもう1つ。
人間には約2時間おきに眠くなるリズムが備わっている。
交通事故の内、死亡事故の原因の約2割が、居眠り運転だというデータがある。
何でかっていうと『ブレーキが掛けられないから』という非常に解り易い理由からだそう。眠気を簡単に察知できる現象がある。眼がゴロゴロして来たり、眼が痒くなってきたりするのが眠気のサインだ。自分の身体にソレ等が現れ出したら休憩を取った方が良い。
このサインを放置しておくと、次いで眼球の動きが緩慢になって行き、最終的には眼を開けたままで『脳』が寝てしまう『瞬眠』という状態に陥ってしまう。瞬間的な時間に過ぎないのだけども、眠った状態になって危険察知するのに遅れてしまう。
運転の前日には十分な睡眠を取った方が良い事は、直感的に解るよね。
前の日に7時間寝た人と比較して、5~6時間睡眠の人の事故リスクはおよそ1.9倍。
4時間未満の人だと、11.5倍にまで一気に跳ね上がる。
だから巷間言われる『2時間おきに20分休憩』というのは正解なんだ。
交通事故を研究している医学者は、コーヒーなどのカフェインを含んだ飲み物を摂取してから20分位の仮眠を取る事を推奨している。カフェインは、摂ってから20分ほどで薬効を発揮し始める。だから大体の人は、およそ20分の後にスッと清涼感と共に目覚める事が出来る。
だが、カフェインを摂ってもオレは1時間以上爆睡してしまう悪癖を持っているので寝ない事に決めている。ソレは20分以上寝てしまうと脳が完全に睡眠状態に移行するからだ。
こんな事態は回避するに限る。
だから、20分の休憩は取るけれど、寝ないで軽いストレッッチをする事にしている。
コレであっても結構シャッキリ・ポンとするから、オレにとっては必要十分だ。
という訳で休憩を取る為に由比PAに乗り入れた。
愛鷹PAを出てから2時間経った訳ではないが、ココもオレのお気に入りのPAだからだ。
東名高速の由比PA(下り)は日本全国で随一、唯一無二のパーキングエリアだ。
その理由は、何にも無いから。
トイレと数基の自動販売機が設置されているだけで他には、ホントーに何にも、無い。
ただ、日本一といっても良い位に素晴らしい景色があるだけ、だ。
そう、ココにはイトに是非とも見せてあげたい景色があるからだ。
パーキングロットの1つにR32を停めた。周囲に他のクルマの存在は確認できない。
つまりオレとイトの2人がPAを独占している状態だった。
「ウワァ...」
R32から降りて洋々たる駿河湾の威容を眼にしたイトが驚きの声を上げ、その後で息を飲み込んで黙りこくってしまった。ジッと眼の前に拡がる海に見入っている、イヤ、見惚れている。
今日は、荒れ模様だった先日とは打って変わってベタ凪だ。
ウサギは1つも跳んでおらず水面は滑らかでバッチリと太陽光を反射して耀きオレを眩惑しようとしたが、オークリーはその威力を如何なく発揮して紫外線を遮断したから、光量の割には全くと言って良い程、眩しさは感じなかった。(注1)
ま、このオークリー、安いモンじゃないし、チャンと効果を証明したって事だ。
イトがオークリーを外して裸眼で30秒ほど駿河湾を見渡した後、再び掛け直した。
色付きレンズを通さない本当の景色を直接自分の眼で確かめたかったのかも知れない。
色付きレンズではあるが、そんなに色彩の変化は起きない筈だけど、な。
設置されている展望台に2人で乗った。
雄大なパノラマが乗る前より3倍増しで眼前に広がっていった。
青い空と碧い海、そして伊豆半島が南に伸びてゆく。
香貫山を発端とする沼津アルプスを始めとした山塊に緑が豊かだ。
季節的には『山粧う』時期なのだろうが、山は未だに滴っている、って言うか、滴り過ぎて漏れまくっている、緑が。
地形的に伊豆半島先端の石廊崎は見えない筈だから、あの突端は大瀬崎(おせざき)、イヤ、アレは波勝崎だろうか?
ドコが何処だか、サッパリ解らない。
アクリルのクリアボードに書いとけば良いのに、東京タワーとかスカイツリーの展望台みたいに。それかARアプリ(拡張現実アプリ)を利用してスマホをかざすと画像中に地名が浮き上がって見えるようにすれば良いのに。NEXCO中日本も気が利かん連中だね。
しかし一体、ドッチなんだ?
大瀬崎か波勝崎なのか。
伊豆半島の付け根部分からニュッと駿河湾へと突き出した『砂嘴』が大瀬崎だ。子供の頃から地元を出るまでの間に何回も訪れた事がある細長い岬だ。岬の根元付近にある大瀬神社の鳥居を潜って、確か国の天然記念物の『ビャクシン樹林』に入って敷設されている小道を進んで行くと『神池』と呼ばれる小さな池にぶち当たる。海に囲まれているのにも関わらず、淡水を満々と湛えているという不思議な池だ。
時間があれば此処もイトに見せて上げたかったが。
ま、仕方ないか。
イトは今、駘蕩とする絶景に夢中な様だから、コレでOKだ、としよう。
「ここでチョット、きゅうけいしよっか」
おじさんパパが いった。
コクンってしてから、まわりをみたけど、ワタシたちしか いない。
あと、さっきのトロロそばをたべたトコロとちがって、ナンにもない。
トイレとジドウはんばいキがあるだけだ。
こんなトコロでナニするんだろうって おもったけど、
パパがさきにおりたから、ワタシもおりた。
「うわぁ!」
ワタシのマエに、おおきいミズタマリがある。
スゴイっ!
ナンだろ、コレ?
コレって、もしかしたら、ウミってやつ、かな?
でも、スゴイきれい。
そうおもってたら、パパが「こっちおいで」って いって、ワタシとテをつないでから、
タカクなっているダイみたいなトコロへ、2りでアガッた。
うわあぁ...
スゴイ...
ナンだろ、コレ?
ソウおもったから、パパに「コレって、ウミですか?」って きいてみた。
そしたらパパはチョットびっくりしたカンジで、
「うん、ソウだよ。スルガワンっていうんだ」って いった。
スルガワン、か。
ウミって ナンだか、くちゃい、じゃないや、クサい。
でも、とってもキレイ。
いいカンジ。
ウミがドコまでおおきいのか、しりたかったから パパに、
「コレって、ドコまでなんですか?」って きいた。
「コレって、ドコまでなんですか?」イトが訊いてきた。
多分、海が何処まで続いているのか知りたがっているのだ、と推察して、
「そうだね。この駿河湾の先にはペルー...イヤ...チリって国があるんだ。
何万キロも...物凄い遠くに、だけど。Rさんで行ったら一月くらい掛かるかも知れない。
ま、クルマだから海を渡って行けないけれど、ね」と答えた。
イトは一瞬『ん?』って顔付きをしたが、何となく子供なりにも消化できた様で直後には納得のいった空気を発散させた。
しかし、5歳なのに海を観た事、無かったなんて。
結衣のヤツ、何やってんだ、全く。
クルマ持ってるなら海なんかスグだろうに。
というか、ウチに来た時にR134を通って帰ればイトに観させられた筈なんだが...
子供の情動の発育の為には、そういう事も大事だ、と思うけどな。
精神や身体が健康に育つ為には自然と戯れる事が肝要だ、と思う。それは今も昔も変わらない事柄じゃないのだろうか。人格形成の要諦なんじゃないのか?
金網が貼られたフェンスの向こう側の足許には消波用のテトラポッドがゴロゴロと何個も設置されていて、押し寄せる波がピチャピチャと静かで穏やかな音を立てている。
『松濤』という言葉が皮質に上がって来た。
意味的には真逆だが。
本当に穏やかな海だ。波も無く風もない。こういうのをメバル凪という。
『メバルは凪を釣れ』
これはジイちゃんの言葉ではない。
野々原精一、親父っさんの言葉だ。
親父っさんはクルマが好きだったけど、ソレを別としたら釣りにハマっていた。
今の若い人の言葉で表現すると『沼ハマ』で、沼沢に身体ごとズブズブの状態だった。
オレが荒川自動車に入社して3年が経とうとしている春先、3月の初めの事だった。
近所で伝統野菜である三浦大根を育てている田中さんが、農作業に使用しているスズキの軽トラック『Carry』を定期点検のために荒川自動車に持ち込んだ、いつもの様に。
田中さんの作る三浦大根、味が抜群に良い。肉質が緻密で汁気がタップリ。生で食べると非常に甘く、どこか梨に近いシャリシャリとした食感を覚えるほどだ。
ま、オレは生の大根にアレルギーを持っていて火が通ってないヤツは駄目なので喰わないんだけどね。
で、だ。
件の田中さんも大の釣り気狂いの1人で、親父っさんのライバルとも言い得る人だった。
そのライバルが昨晩に釣り上げた全長30cmのシロメバル、スマホで撮影した写真を、これ見よがしに披露して散々自慢したもんだから、親父っさんの闘志に火がボッと点いた。
メバルは一年を通して何時でも釣れる魚種だ。しかし産卵期が(注:地域差あり)春先の3月で、その時期が旬になる。だから『春告げ魚』との別称を付されている。この時期は筍のシーズンでもあるので、この季節に釣れるメバルを『タケノコメバル』という異名でも呼んでいて特別に扱い非常に珍重する。
親父っさんも釣り人の例に漏れず、毎年春先は連日連夜の様にメバリング(ワームなどのソフトルアーを使ったメバルのルアー釣りの事)に精を出す人物だった。
ライバル心に点った灼熱の炎に焦らされた親父っさんは、田中さんがキチッと整備が施されピシッと仕上げられた軽トラに乗って風の様にヒュッと立ち去るや否や、いても立ってもいられなかったのか、文字通りに地団太を踏みながらオレに、
「オウ、研吾。後は頼んだぞ」と言い残すと、アッと言う間にハイエースに釣り道具を積み込み、逸る心を堪えながらもイソイソとホームとしている釣り場へと向かってクルマを発進させてしまった。咲耶さんがビュッと風の様に駆け寄って、県道に出ようと一旦停止しているハイエース越しに清めの鑽火(切り火)を飛ばした。
「まったく。仕様が無い人だよ」彼女が言った。
その逃走犯が憧れる様な俊足っぷりにオレは甚だ呆れてしまった。
『親父っさん。メバルは夜行性だって、この前に言ってたじゃないですか。太陽が沈むにはタップリと時間があります。だって、まだ午後3時ですよ』と独りゴツを胸内で呟いた。
ま、そんな事を言っても詮無いので、オレは黙って眼の前の仕事を片付ける事にした。
ま、結果からいえばその日は坊主、つまり釣果ゼロでのご帰還となったのだった。
親父っさんがホームとする釣り場に着いた時に彼を迎えた自然状況はウサギさんがピョンピョンと跳ね回っている荒れる海原で、凪を釣らなければいけないメバル釣りにとってはまさに地獄絵図だったそうだ。だから、彼は竿を出す事も無くガクッと肩を落としながらションボリ、午後4時前にスゴスゴと帰ってきた。
そして待つ事3日。
天候が落ち着きを取り戻し『メバル凪』が復活、潮周りも大潮でソコソコ良いその好日に、捲土重来という言葉をアリアリと顔に浮かべながら親父っさんが、再びオレにこう告げた。
「オウ、後は頼むぞ」(注2)
『釣りって、そこまで人を狂わせるモノなのかねェ』とオレは盛大に溜息を吐いた。
その晩に、咲耶さんが親父っさんのケータイへ3度目の電話を掛けたのは座敷の柱に掛けられた時計の針が午後12時を過ぎた頃だった。しかし返ってきた答えは、またしても「お客様がお掛けになった電話番号は...」という女性の無機質な声で録音された定型文でしかなかった。咲耶さんは訝しげに眉を顰めて、電話を切った。
親父っさんは釣行の時は常にケータイの電源をオフるので、その事自体に異常は無い。
だが、問題は『時間』だった。
『寝るのも仕事の内だ』
この自説を曲げる事無く夜釣りに行っても必ず毎回、午後10時前には帰宅したから、だ。
親父っさんが狙う時間帯は夕まずめ(夕方から落日して黄昏れを過ぎて完全に暗くなるまでの時間域)とその後の2~3時間だけで、計った様に同じ時間に戻ってきたから、だ。
何かが起こった事だけは、間違いなかった。
午後4時頃にウキウキと親父っさんが釣行へと旅立ってから、何分も過ぎない内に買い物へと出掛けていた咲耶さんが『ドコドコドコドコ』と威勢の良い排気音とともに47年製のFLに跨って帰って来た。アフターアイドルをキッチリ30秒間してから、場所を探している様に聞こえる『ドコダッ、ドコダッ』という些か不整脈的なエグゾーストノートを排出するエンジンを切って、ヘルメットの防護スクリーンを跳ね上げてから、
咲耶さんがオレに尋ねた。
「あの人は?」
オレがリールをリトリーブする仕草をすると(retrieve:リールを巻き上げる事)彼女は、
「またかい」と笑った。
咲耶さんは黒革のライダースーツで肢体を包んでいた。この時は確か54歳だったと思うが、たおやかで伸びやかな姿態は彼女の年齢を確実に20歳は減少させていて、オレの眼にも少々眩しく映った。もしかしたら黒い革の特性でもたらされる現象なのかも知れない。
アレッ?!? 峰不二子って歳、幾つだったっけ?
このFL、ハーレーデイヴィッドソンはフロントサスペンションすら付属してなくて残存していたのはエンジンとリジッドフレームだけという殆ど残骸状態のスクラップから苦労して親父っさんがレストアしたバイクだ。アイドル時の排気音が不整脈気味なのは彼の腕前がヘッポコだからではない。ハーレーのV-Twinエンジンは須くそういうモノなのだ。
ソコが味だし。
誰にも真似できない、ハーレーのみが備えられる何物にも変え難い唯一無二の特徴だ。
低回転時には4回の燃焼の内の1回が失火して燃焼してない様に聴こえるが、この特徴はハーレーに備えられた1206.7ccの45度V-Twinという独特なエンジン構造がもたらすモノだ。それにプラスして装備された2つのピストンが1つのピンでクランクに結合されているので、通常は『ドン、ドン』と燃焼する筈の所を、ハーレーのV-Twinは2回の燃焼の間隔が本当に近く、排気音(燃焼音)が1つの様に重なってしまうので『ドコダッ、ドコダッ』という不整脈的なモノとなるのだ。
もっと詳細な事を言うと、45度V-Twinというエンジン・レイアウトは、変則的な燃焼のリズムを刻む為にクランクの回転に支障を来してスムースに回転してくれない為に低回転ではエンストの危険性が高まる。ソレを防止する為にフライホイールを重たくして慣性力が大きくなる様に設定されている。これが排気音の変則的なリズムに拍車をかける。
あ、あとロングストロークっていうのも関係している。
ロングストロークってのは、シリンダー・燃焼室の内径をボア、長さをストロークと呼ぶが、ボアよりもストロークの方が長いって事。
この47年製のFLのエンジンのボア×ストロークは、87.3mm×100.8mmだ。
ね、ストロークの方が長いでしょ?
コレも『ドコダッ、ドコダッ』というエグゾーストノートに貢献している。
もし、この『ドコダッ、ドコダッ』という排気音が無いのならソレはハーレーでは無い。
似て非なるモノ、同じ様な形状をした別種のモーターサイクルだ。
この47年製のFLナックルヘッドはオリジナル状態ではなく、クラッチは左足部分から52年製のパンヘッドの様に左の手許、左グリップ部分へと移設されているし、
元来は左グリップに設定されている点火タイミングなどは現代的にコンピューター制御のタイプへと変更されている。センサー類もバシバシ実装されているし、マニアックな事を言えばキャブレターもツインキャブだし、エンジンスタートもキックでは無くてセル式に変更されているという、まさに逸品だ。
ま、乗るのが女性の咲耶さんだし、重たい機体を扱わなければいけないのだから、少しでも負担を減らそうという親父っさんの心配りなんだろう、と思う。
しかし実の所、咲耶さんはキック方式の方が好みなのだそう。
シフトチェンジが、四輪車と同じ様なクラッチペダルを踏んで手でシフトレバーをガチャガチャするハンドシフトから、殆んど全ての現代のモーターサイクルが採用している方式の手でクラッチコントロールをして足でシフトペダルを踏んでギアチェンジをするフットチェンジに変更した点については彼女は喜んで満足していたが、セルスタートには渋い顔を見せた、と親父っさんは苦く笑っていた。
フューエルタンクの左上に設定されている燃料コックを開いてキャブにガソリンを送ってからチョークを閉じて3回の空キック。左のグリップをイジって点火タイミングを遅らせ、メインスイッチをON。スロットルを軽く開きながら、円を描く様にキックを一発、
でエンジンスタート。(注3)
この一連のプロセスがハーレーに乗る為の一種の儀式なのだ、と咲耶さんは言う。
「セルじゃ、味も減ったくれもないよ」だって。
因みにナックルヘッドの事を日本ではカマキリ(ヘッド)という。
これはOHV(overhead valve)というエンジン構造が関係していて、コレはカムシャフトをシリンダーヘッドより低い位置に置いてプッシュロッドとロッカーアームという部品を利用してシリンダーヘッドに取り付けられているバルブ(吸排気弁)を作動させるエンジン形式で、そのプッシュロッドとロッカーアームが作動する様が蟷螂(カマキリ)の前腕の動きに似ている事から来た二つ名だ。
ま、同じOHVだから、パンヘッドもショベルヘッドも、カマキリと呼ばれても構わないと思うんだけども。
しかしハーレー愛好家の中でもこの愛称を知る者は少ない。
余程の人、相当なエンスージアストでなければ、知らない。
ショップの店長やハーレー関係の雑誌編集者さえ知らないのだから、ま、当たり前っちゃ当たり前、か。
オレはジイちゃんに教わったから、知っていたが。
『無知とは恐ろしいモノだな』
ジイちゃんは、よくそう言っていた。
この真意は『自分の無知に気付く事無く、未知の事を口にした他人を嘲笑する類いの人間が多い』というモノだ。他者が馬鹿げた事を言ったのではなく、ただ単に自分が知らないだけなのに。だからオレも常に自戒している。
オレは、この世界の様々なモノについて無知だ、と。
オレの知らない事実でこの世界は満ち溢れているのだ、と。
咲耶さんが『仕様が無いねェ』という雰囲気でオレに言った。
「ま、いつもの様に10時前には帰ってくるだろうから、晩御飯はチャチャッと先に2人で喰っちまうとするかね」
「はい」
「今日のメインは豚シャブだよ」
「いいですね」
「アンタの好きな全家福(チャプスイ)も作ろうか?」
「アリガトウございます」
「仕方無いよ。アンタにとって鍋物は御飯のオカズにならないってんだから」
「すいません」
オトコが簡単に謝るんじゃないよ、と微笑しながら咲耶さんはカマキリヘッドから降りた。
その晩、オレが咲耶さんから連絡を受けたのは、午後10時半を少し回った頃だった。
定時の午後5時に仕事を終えてから親父っさんと咲耶さんが住む、会社の裏手に立地している住宅に立ち寄ると、お勝手で夕ご飯を調理している咲耶さんが玄関のオレに向って、
「先にお風呂、入っちゃいな」と声を掛けてきた。
通常の事なので一切遠慮する事無く「お先に頂きます」と彼女に返事をしてからお風呂場へ向かった。と言っても風呂ではなくシャワーを浴びただけ、なんだけど。
風呂から上がって座敷に行くと卓袱台の上は総満艦飾だった。
薄くスライスされた葉山ポークというブランド豚のロースがフグの薄造りの様に綺麗に並べられた大皿が卓袱台の真ん中にドデーンと置かれていた。その横にはシャブシャブ用のお野菜、ミズ菜と斜めに千切りされた白ネギが盛られた皿。付けダレはポン酢とゴマダレの2種類、それぞれ片口の碗に容れられ出動の時を待っている。薬味は分葱と七味だ。
この豚シャブは昆布出汁と煮切られた清酒が半々のスープでシャブシャブする、常夜鍋の変化球版だ。コイツを喰らうと身体の芯からポカポカして来る事、まず間違いない。
豚ではなく鶏の胸肉を使った全家福(チャプスイ:ま、野菜炒めです)は御飯の強い味方。
味付けが最高で白飯が進む、進む。進み過ぎて困る位だ。咲耶さんは「別に普通の味付けだよ」と素っ気無い態度だけど。ベースは醤油でソコに加えられたオイスターソースの旨味と紹興酒の香り高さ、そして隠し味の砂糖が全体をクルッとまとめ上げている。
昆布出汁で温めた豆腐の上に載せられた鰹節が踊っている、冷奴ならぬ、通称『温やっこ』。
あ、小口に切られた青ネギと擦り卸した生姜も載ってます。大きなお椀に、これは前の晩の残りを温め直した筑前煮。でも、作り立てよりも味が滲みているから、2日目のヤツの方が断然美味いのだ。ホウレン草を軽く湯がいて土佐醤油で洗った御浸しが嬉しい。
青ネギとオカカを混ぜ合わせた小粒の納豆を半分に切った油揚げで包んだものをテフロン加工のフライパンで表面をカリッカリッに焼き上げた、コレ、名前は何て言うんだろう?
ま、名前はチョット判らないけど、美味い。火が入る事で納豆臭さが無くなるのが納豆好きのオレには些かの残念ポイントでは、あるが。(筆者注:名前は無いと思われます)
そして欠かせないのがお漬物、イヤ咲耶さん曰く「違うよ。お香子(こうこ)だよ」
こんな感じの咲耶さん特製の品数豊富で栄養バッチシの夕ご飯を鱈腹平らげた後、愛車の黒いJA11(ジムニー)を運転して自分のアパートへと戻りMOOCの1つのEdx上で開かれるMITの名物教授による自動運転とAIに関する非常に興味深い講義を受けようとしてMacbook Proを立ち上げていると、
結衣から『8時05分の横須賀留に乗れた。到着は9時20分』というメールが届いた。
迎えに行くのを忘れない為に、横須賀駅までクルマで大体20分、道が混んでいれば30分ほど掛かる事を計算に入れてガラケーのアラームをプラス5分のアディショナルタイムを組み入れて8時45分にセットしてから第一回目の講義にログインした。(注4)
講義はとても素晴らしいモノだった。
機械学習の深層学習や強化学習の活用によりAIが格段の進化を遂げる事によって近い将来には自動運転が必ず実現化するだろう、という論旨を明快で豊富なデータを許に検証して行く教授の真摯な発言内容にオレは感銘を受けた。
講義を受けている途中で結衣からメールが届いたので、一旦視聴するのを中断した。こういった状況では、インターネットでの講義は非常に楽で快適である。トイレタイムも自由自在で取り放題だし。
彼女からのメールを開いた。
『超最悪!!!
今日さ、すごく暖かいからショートパンツ穿いてってるじゃん?
そしたら横に座ってる、デブで禿げ散らかしているオッサンがジロジロ見んの。
マジ、キモッ!!!
最悪、リーマン、最悪!!!』
オレは微笑しながら返信した。
『もしも、お触りとかしてきたら、顔面に正拳突きを入れてやれば、良いよ』
『そうする。じゃ、ね。XXX』(筆者注:英語圏で Xは『キス』の意味。研吾が教えた)
結衣は4歳の時に習い始めた沖縄空手3大流派の一つである剛柔流(宮城流)を鹿児島を去って上京する17歳の時まで続けていて、オレの見る所、かなり強い。
彼女に言わせると沖縄空手は組手よりも形を重要視しているそうだが、彼女はフルコンタクトでもイケそうな空気感を十分に備えている。だから相当な腕前と見定める事が出来た。
禿げたサラリーマンさん、触らぬ神に祟り無し、だよ。
ボッコボコにされちまうぜ、多分。
さて、講義再開だ。
ポチッと、な。
結衣を横須賀駅まで迎えに行った。
改札口から出てくる彼女は、ダントツに美しかった。
周囲の他の女性など一切、眼に入らなかった。
イヤ、視覚情報としては入力されてきてはいたのだが、オレの脳が認識しなかったのだ。
付き合い始めて、いや同棲を始めて2年が経過しようとしているのにも関わらず、彼女の姿態を見るとオレは必ず新鮮な驚きを感じ、下腹部の辺りに軽い疼きの様なくすぐったさを覚える。時空間を共有している時は当然だが、こうやって少し離れた所から彼女の一挙手一投足を眺める時も完璧な幸福に覆い尽くされているという感覚にオレは毎回襲われる。
結衣はオレの姿を認めると嬉しそうに手をブンブン振ってトロットで駆け寄ってきた。
「大丈夫、だった?」オレは尋ねた。
「何が?」結衣はキョトンとした顔になった。
「禿げ散らかしたオジサン」
ああぁ、という表情を浮かべた結衣が「睨み付けたら、寝た振りした」と舌をペロッと出して、笑った。サックスブルーのショートパンツからスラッと伸びる長くて白く形の良い素足が眩しい。健康そのものを体現している印象を受ける。傷も染みも痣も1つも無いし、不断の努力を費やして眼を相当に凝らさないと毛穴はおろか産毛すらも見えてこない。
以前、彼女に『脚とか、無駄毛を剃ってるの?』と尋ねたことがあるが、返ってきたのは『別に、何にもしてないよ』という言葉とキスだった。
腰丈の白いスプリングコートがよく似合っている。3月初旬の夜だが今日は異常気象な位に暖かいのでボタンは閉めていなかった。今年の初めに購入した服なのだが、その晩オレに『ジャジャーン』と自分で効果音を付けながら披露した時『ソレはコートじゃなくて、ジャケットじゃないのか?』と訊いたら、彼女の顔がいきなり険しくなって『コートだよ! よく見て! ジャケットとはラインが違うじゃん! ホラッ!』と叫びながら両手で着ている『コート』の輪郭を何度もなぞる様な仕種をしたのだけれど、残念ながらオレにはその2つの衣類の差異というモノがサッパリ理解できなかった。しかしファッションセンスは結衣の方が数十段階もランクが高いので、オレは抱えている疑問を心の棚に仕舞い込む事にして得心が行った顔付きをしながら『ウン、そだね。やっぱりコートだね』と同意すると彼女は一瞬で機嫌を直して、嬉しそうに『そうでしょ?』と最高の笑顔を浮かべた事を鮮烈に憶えている。
その時の彼女の振舞いは『豹変』という言葉を定義するのに最適なモノだった。
「さ、帰ろッ」と結衣が腕を絡み合せながら帰宅を促してきた。
短躯で決してイケメンとは形容できないムサい男と、長身でとびっきりの美人の女性が腕を組んで楽しげに歩く様子に対して周囲の人々は好奇の視線を無遠慮にもジロジロと浴びせて来たように感じ取れたが、オレと結衣は全く意に介さなかった。
ま、オレ達2人は幸せだったのだ。
周りの反応など、どうでも良かったのだ。
その瞬間に世界が滅びたとしても、オレ達2人は笑顔のまま、だったろう。
オレと結衣が同棲しているアパートに到着したのは午後10時の15分前位だった。
「研吾、お風呂、先に入っちゃって」結衣がアップに纏めていた髪をほどきながら言った。
「あぁ」オレは風呂場に向った。
しかし、今度もまたシャワーだけなんだけどね。
結衣も疲れている筈だから自分の方が先にお風呂に入りたいだろうに、彼女は絶対にオレに順番を譲る。何度か一緒に入った時以外は必ずオレを先に回した。
これは鹿児島のデフォなのだろうか?
彼の地では昔懐かしい『女性が男を立てる』という気風が、今なお色濃く残っているのだろうか?
尊敬している上野千鶴子先生がこの光景を見知ったら卒倒しそうだな。
オレが本日3回目のシャワーを浴びた後、結衣が続いて浴びた。
入浴後に2人でニュース番組を視聴していると、どちらともなくそんな雰囲気になった。
立ち上がるとオレと結衣は手を取り合ってベッドへと向かった。
彼女の潤いを帯びた瞳が蠱惑的だった。
その昔、付き合い始めて、というか同棲を始めて1年半が過ぎた頃だったか。
その頃にはもう既にオレ達2人は当然結婚というモノを意識し合っていた。プロポーズこそ未遂だったが、お互いの気持ちは通じ合っていて、遠くない未来にオレと結衣が一緒になる事は既定路線だった。ま、後に『違う』って顛末になったんだけど、ね。
オレの両親は2人とも鬼籍に入っていたし、結衣が話したがらなかったから理由は不明だが、彼女は鹿児島の両親から『良かか? 二度と、こん家の敷居を跨ぐコツは許されん』と言い渡され完璧に勘当状態だったから「だからさ、挨拶とか、別に、要らないから」と結衣に言われていた。
と、いう事もあって結婚に対する障害は無い筈だった。
イヤ、1人だけ、いた。
咲耶さんだった。
社長夫妻にそれと無くオレ達2人の結婚を匂わせた時、親父っさんは結衣に対して常に寛大で鷹揚な態度でいたから「オウ、良いじゃないか。早く所帯を持っちまえ」と言ってくれたが、咲耶さんは「ダメだよ、あの娘だけは」他の娘なら良いけどさ、と反対した。
就職先が見付からなくて野良犬状態で彷徨しているオレを、何処のドイツだか素性もよく解らないのにも関わらず『雇ってやんな』という鶴の一声で採用してくれた咲耶さんの想いを無下にする事など絶対に出来ない訳で、だから、オレと結衣は途方に暮れてしまった。
その年、秋霜が初めて降りた日に、結衣が何かを思い付いた表情を浮かべながら、
「あのさ、先に赤ちゃん、授かっちゃえば良くない、かな?」と提案してきた。
ま、子供が出来ちゃえば咲耶さんも諦めて、オレ達の結婚を認めてくれるかも知れないな。
そういう結論に想い至ったオレ達は、だから、その日から避妊する事を止めた。
結衣はベッド脇の小さなサイドチェストの引き出しに常備してあったサガミオリジナルの0.1mmを「もう要らなくなったから、コレ、ポイね」と捨てて、嬉しそうに笑った。
この時、彼女が浮かべた輝く笑顔の燦然さを、今でも忘れらないでいる。
オレに最後の審判が下る、その瞬間まで憶えているだろう。
その日の夜、行為の最中に「授かるなら、女の子が良いな、君に似た」とオレが言うと、
「ダメ。絶対に男の子」と結衣が反対した。
幼稚園に上がる時に紺ブレ(紺色のブレザー)とベージュのチノパンという米国東海岸のトラッドなプレッピースタイルにするのが夢、と彼女は幸せそうにオレを見上げた。
ま、ドッチでも良いか。丈夫に生まれりゃ、と言ってからオレは行為に戻り没頭した。
もしかしたら、非常に優れたスタイリングの能力を持っているのにも関わらず結衣が、イトの着る服について非常に無頓着な理由の一つが、コレなのかも知れない。
女の子でなく、イトが男の子であって欲しかったから、かも知れない。
こんなのが理由になるのかは判んないけど。
結婚を確定させる為に避妊を回避する事に決めたこの日、結局オレ達は合計7回、した。
解決策を発見できた喜びなんだろうか、オレが果てる度に結衣がお口で再び奮い立たせてくれた結果だった。
翌日の太陽は幾分か、黄色味が強く感じられた事を強く覚えている。
その日、オレは多少フラ付きながら、それでも何とか仕事をこなしていったのだった。
穏やかな3月の初旬の夜だった。
ベッドの上で行為をしている間に2人を覆ってくれていた羽毛布団が床に落ちてしまったが、それに気付かない位の、本当にとても暖かい夜だった。
ま、エアコンを『自動』にしてあったけどね。
漫画の『釣りバカ日誌』に出てくる非常に印象的な言葉に『合体』というモノがある。
このワード自体はプラモデルメーカーの青島文化教材社が持つ登録商標だそうだ。
第一戦目をヤラかし終えた後で、そんな事を思い出していると結衣が「もう復活した?」とオレの顔を覗き込んできた。「まだなら、お口でしてあげるけど?」と拈華微笑する。
ま、そこそこ復活して来てはいたので「腹筋、痛くない? 大丈夫?」と逆に訊いた。
幾度となく羽化登仙の極致に昇り詰めたからか、蕾は完全に綻んだみたいで、匂い立つ様な花開いた表情を浮かべながら結衣はコクンと頷き、顔を寄せ、唇を重ねてくる。
キスをし終えてから「今日、2回目だね」また、イカせて、と結衣が言って、微笑んだ。
この世界の全てがとろける様な笑顔だった。
で、彼女の潤びた花芯を再び啄もうとした時に、オレのケータイの着信音が鳴った。
咲耶さんだった。
ガラケーのスピーカーから聞こえる彼女の声にただならぬ緊迫感が色濃くにじんでいた。
オレはその気になっている結衣に「社長が戻ってきてない」と超簡単な説明をしてから、JA11に飛び乗って、会社へと急いだのだった。
時計の長針が6と表示された箇所を過ぎた。
咲耶さんが無駄な事と判っていながらもメールを送信しておいてから、再び通話を試みた。
全く意味の無い行為で徒労に終わった。
無機質な声色の女性が定型文を暗唱するだけだった。
「咲耶さん。待ってても仕方無いです。親父っさんのホームは判ってますから行ってみましょう」とオレは言った。
「連れってってくれるかい?」童女みたいな雰囲気で彼女が囁くように、訊いてきた。
「ハイ」
オレと咲耶さんはJA11(ジムニー)で親父っさんのホーム釣り場に向った。
彼のホームは油壷という場所の諸磯湾側、神明社の近くで浜諸磯の岬の突端の沖に伸びる波止(はと:波止めの防波堤)だ。ソコに向う間中、2人とも一言も発する事は無かった。黙りこくっていた。ズッと車内には重苦しい沈黙が沈殿していた。
R134から分岐している県道に入って親父っさんがいるであろう場所に近付くに連れて、その沈黙が質量を増加して行き最終的には劣化ウラン並みの質量になってしまった。
その時に、オレと咲耶さんが共有している想いがあった。
ソレは、最悪の予感だった。
『最悪の予感ほど必ずと言って良い位に、現実化するモノだ』と昔、ジイちゃんは言った。
ジムニーが波止に近付く程にその言葉が脳裏に蘇ってきてしまい、オレは憎悪とも形容できる様な感情をジイちゃんに対して初めて、抱いた。
何て事言うんだよ、ジイちゃん!
そんな事、あってたまるかッ!
親父っさんがクルマを停めるいつもの場所に荒川自動車所有の白いハイエースが停められていた。人影は無かった。救急車のサイレンも聞こえない。3月の初めにしては異常な位に暖かくて過ごしやすい穏やかな夜があるだけだった。
車内に誰もいない事を確かめた後、2人で波止へと登った。
波止の上に人の動きは無かった。
最奥から2基目の常夜燈の基部に見覚えのあるケース類が3つ、ジグヘッドやワーム、そして各種の用具や器具、予備のリールを収納してあるタックルケースとクーラーボックス、硬質樹脂製のロッドケースが、ポツンと取り残されていた。
クーラーボックスを開けて内部を調べてみると30cm近いメバルが3匹、活け締めにされた状態で納まっていた。(注5)
氷輪が冴え冴えと冷たく輝いていて、皓々たる白い翳を海表面に落としていた。
翳が静かな波の作用で揺らめいて、水面をひび割れた鏡の様に青白く煌めかしている。
誰もいなかった。
非情に輝く月とオレと、咲耶さんだけだった。
咲耶さんとオレは落水を疑った。
親父っさんは釣りの時には常に自動膨張式のライフジャケット(救命胴衣)を着用する。
だからオレは常に携帯しているシュアファイヤーで波止の根元から突端まで親父っさんが海面上に浮いていないか確かめてみる事にした。2人で波止の根元まで戻ってから、
「咲耶さんは、ココで待っていてください」オレが言うと彼女は微かに頷いた。
相模湾側から始めた。
波止の一番先端まで行くと、今度は諸磯湾側に移って同じ様に防波堤のコンクリ壁の波際を強力なLEDライトで照らしながら波止の根元まで歩いて戻った。
何も確認できなかった。
何かを期待している顔付きの咲耶さんに被りを振って何も見つけられなかった事を無言で伝えるのが辛かった。
10分ほど待った。
もしかしたらトイレタイムかも知れないと判断したからだ。
しかし15分待っても誰もやって来なかった。
咲耶さんはケータイを取り出して警察に電話した。
「ハイエースの所で、待ちましょう」オレは提案した。
彼女は小さく頷くと「アレ、持ってこうかね」と親父っさんの道具類を指差した。
「現場の保全を考えると、止めておいた方が良いです」
そっかね、と咲耶さんは呟いて、踵を返した。
その瞬間、オレは閉ざされた胸襟の内で、非常に後悔した。
『現場の、保全? だと?』
他者の心を慮る事が出来ない、共感力ゼロで最低のクズ野郎だ、オレは。
一旦、構音した言葉を時空間から消し去るための消しゴムは存在しない。
オレは激甚なる後悔に苛まれながら彼女の後を追った。
この世界には贖う事が決して不可能な罪というモノもあるのだ、とこの時、知った。
最初にパトカーで地域巡回している警邏係が2人、白黒のヴィッツでやって来た。
彼等が親父っさんについて色々な事を咲耶さんとオレに質問していると、もう1台、コレはクラウンベースのパトカーが三崎署からやって来て、2人の警官が質問の輪に加わった。
オレがLEDライトで防波堤の波際を探ってみた、と伝えると4名の内で最年長とみられる40代後半の巡査部長が「では、我々がもう一度捜索してみます」とオレ達に告げて、彼等は波止の上へと登って行った。
咲耶さんとオレは波止には上がったが捜索には加わらず、根元で彼等の作業を見守った。
シュアファイアーの半分以下の光量しか照射できない明らかにパワー不足のマグライト似の官給品で海面を照らしているのが見えた。
10分後、根元に帰ってきた彼等の表情から、何も無かった事が容易に推察できた。
「では、現状を撮影します」と件の巡査部長が言って、親父っさんのボックス類を撮影し始めた。銀塩フィルムの一眼レフとデジイチ(デジタルの一眼レフ)の2種類のカメラを使ってパシパシと撮っていった。数十枚撮った所で、彼が「捜索ですが」と口を開いて、
「明日の朝、日が昇ってから、という事になる筈です」と冷酷な宣告をした。
咲耶さんとオレは、まんじりともしないで事務所にいた。
壁に掛けられている時計は『後少しで夜明けだ』と告げていた。
2人とも黙っていた。
キャビネットに常備されている狭山茶が注がれた湯呑が其々の前に置かれていたが、咲耶さんもオレも手を付ける事は無かった。
帰ってきて早々に「お茶でも、淹れようかね」と咲耶さんがポツリと言って、淡々と準備を進めて完成させた飲み物だった。ジッと俯いていたオレは差し出されたお茶に視線を合わせたまま「頂きます」とだけ言ってから一口含んだが、味は全くと言って良い程しなくて、ただ単に色の付いた白湯に過ぎなかった。
そして数時間の放置の後、今はもう完全に冷めきってしまっていて、只の色水だった。
『色の静岡、香りは宇治よ。味は狭山で止め刺す』だ、と?
笑わせるなッ!
これは単なるカフェインの供給源だッ!
味など一筋も感じられんわッ!
こーゆー状況で『美味いッ!』と感じさせられる、そーゆーお茶を作ってから、言えッ!
胸の内で埼玉のお茶農家に八つ当たりをしながら、オレは何かの到来を待っていた。
この時、他の事は念頭に浮んで来なかった。
親父っさんの事だけだった。
事務所に戻って早々に、結衣へ『今日は戻れない』とメールを送り、
『社長さん、だいじょうぶ?』と返信が来て、
結衣は親父っさんの方にはよく懐いてたからな、と思いながら、
『厳しいかも知れない』と再返信すると、
『野々原さんが無事だって、祈ってるから』
『有難う。もう寝て』
『ウン。お休み』
『お休み』
と数度のやり取りを終えてしまうと彼女に関する事柄も前頭連合野から消えた。
親父っさんだけ、だった。
オレは1つの事を、それだけを後悔していた。
清めの鑽火。
メバル釣りにイソイソと出掛けて行く彼に、誰も切り火を打ち掛ける事はしなかった。
咲耶さんが買い物に出掛けて不在だったのだから当然、火打ち石と火打ち金を打ち付けて親父っさんに清めの鑽火を切り飛ばす役目を担わなければいけなかったのは、オレだ。
そんな重要な験担ぎを失念した、頓馬でトントンチキな己自身をオレは罵り続けていた。
親父っさんを襲った奇禍を引き寄せてしまったのは、オレだ。
オレが原因なのだ。
だから、ずっとオレは胸襟の内で自分自身に罵詈雑言を浴びせ続けていた。
朝日が昇ろうか、というタイミングの午前6時を少し過ぎた時に、事務机の上の電話が鳴った。咲耶さんが受話器を取り上げてから「はい、荒川自動車ですが」と答えた。
その後「はい」という返答を3回繰り返してから「有難うございました。今からそちらへ向かいます」と言って受話器を置いた。そして昨日と同じ言葉を彼女は囁く様に口にした。
「連れてって、くれるかい?」
何も訊かなかった。
咲耶さんの口調から全てが把握できたからだ。
オレは、漸く顔をあげて咲耶さんの双眸に視線を合わせると「ハイ」と首肯した。
R134から分岐する県道26号、通称『三崎街道』を南に向かい、三崎町六合(むつあい)に入ってすぐの左手に県合同庁舎と並んで三崎警察署がある。
オレは咲耶さんを乗せたJA11を三崎署の駐車場に乗り入れさせた。
降りたくはなかった。
現実を不確定のまま、モラトリアムにしておきたかった。
しかし咲耶さんは恬淡とした態度で静かにドアを開けて出て行ってしまったので、仕方無く彼女の後を追ってトボトボと歩いて行き警察署内へと入って行った。
玄関の前に警官が2人、六角棒の様なモノを持って仁王像の様に立っていたが、オレ達を咎める事無くすんなりと通過させた。まるで、オレ達2人にコレから降りかかる厄災が何なのかをよく知悉していて一抹の憐憫の情から誰何する事を止めた様に思えた。
係りの女性に案内されたのは、遺体安置所だった。
白いテーブルの様なベッドに親父っさんが寝かされていた。
顔に白い布が掛けられていたが、見た瞬間に確認できた。
頭の先に台が置かれていてその上に小さな線香立てが載っていて線香が3本白くて細い煙を暖房が入っていない部屋の空気中へユラユラと流し、立ち昇らせていた。
三崎漁港所属の漁船が今朝早くに操業中、海面上に浮かんでいる所を、発見したそうだ。
落水時に自動で膨脹するライフジャケットはその使命を果たして立派に機能していたが、不運な事に波止から落下する際にコンクリート壁の縁に後頭部を強打して、そのショックで意識を喪失したらしい、と係りの人が咲耶さんとオレに伝えた。
その女性は、海水の温度は陸上の気温から一月から二月ほど季節が遅れる為に今朝の海水温は6℃しか無くて、この数字は低体温症の危険性が高まる10℃を大幅に下回っている故に、意識喪失したまま体温低下が原因で死亡に至ったものと思われる、と検視医が所見しました、と静かな声で説明した。
そして「救命胴衣を着ておられたからか、お顔から上は水面下に沈んでいなかったおかげでしょう、一般的な溺死体などとは違って、お顔が本当に綺麗です」と続け、
ご覧になりますか? と尋ねられた咲耶さんは小さく頷いた。
顔に掛けられた白い布を取り去ってから、その女性は深々と頭を下げて哀悼の意を示した後、音を立てずに部屋から立ち去った。
咲耶さんはまるで温める様に夫の顔に、両頬に自分の両手を添えて、絶対に口を利く事は無い夫に低い声で語りかけた、
「早いよ、アンタ」
彼女は寂しそうに笑った。
「寒かったかい?」
咲耶さんは、夫の両頬を自分の両手で温め続けながら、そう尋ねた。
オレは、何も言えなかった。
彼女に掛けるべき適切な言葉をオレの皮質内の語彙帳に全然見付け出せない。
様々な想いが脳の中を渦巻きながら刺激を発散しているので努力しないと考えを纏める事が出来そうにも無かったからだ。ざわつきが心のヒッグス場と化していて胸の内をざらつかせていたからだ。ジイちゃんや美穂子、母親と父親を失った時と同様の悲愴感と絶望感と喪失感に襲われて、無力な存在に堕ちてしまっていたから、だ。
圧倒的な無力感がオレを専制支配していた。
でも言い訳に響くかも知れないが、こんな時にどんな言葉を口に出来ると言うのだ?
何と声を掛ければ彼女の悲しみを少しでも緩和できるのか、もし知っている人がいるなら、教えろッ!
その内、どこからか歌声が聞こえてきた。
簡単な旋律の歌だった。とても小さな歌声だったので耳を研ぎ澄ませないと聞こえない位だった。何時か何処かで聞いた事がある様な歌声で『こんな時に誰だろう?』と思った。
しばらく経ってから、ようやく誰だか判った。
歌を歌っていたのは、咲耶さんだった。
彼女は夫の冷たい両頬を自分の両手で温める様に挟んで、子守唄を囁くように歌っていた。
我が子が安心して眠れる様に。
全ての母親がする様に。
その光景を見てオレは少し狼狽えた。同じ部屋に居ても良いのだろうか?
2人きりに、してあげるべきではないのだろうか?
彼女の歌声はオレの感情を激しく動揺させて思惟をそれまで以上に支離滅裂に散乱させた。
だが、オレは間違えていた。
歌ではなかった。
咲耶さんは泣いていたのだ。
泣き声がまるで優しい歌声の様にオレの耳朶に響いてきただけ、だった。
オレは無力だった。
何も出来なかった。
ただ、彼女と彼女の夫の傍で呆然と立ち尽くすことだけしか、出来なかった。
オレは、無力でチッポケな人間だった。
注1:『ウサギが跳ぶ』について。
『ウサギが跳ぶ』とは海面に白波が立つ現象の事をいう。白く波立つ様をウサギに例えた。
『ウサギが跳ねる』ともいう。
注2:メバルについて。
メバルは複合種群である。多型があり100年以上研究者による議論が続けられていた。
10年ほど前まではザクッと『クロメバル』と、そう総称されていた。
ようやく2008年に、京都大学の甲斐嘉晃と中坊徹次がシロメバル・アカメバル・クロメバルの3種に分類した。しかし差異が極僅かで見分けるのが困難故に漁業・流通関係では未だ、全体的に『クロメバル』と呼ばれている。
メバル:硬骨魚類:スズキ目メバル科メバル属(メバル科=Sebastidae)。
では、3種のメバルの本当に極微な違いを以下に述べる。
1.シロメバル:胸鰭軟条(胸ビレにある柔らかいヒダ。棘とは違う)の数が17の個体が多い。尚、胸鰭軟条は先の方に行くと分岐するので根元で数える。
腹ビレ・尻ビレは茶色の個体が多い。
体色は白っぽい、または茶色っぽい個体が多い。しかし赤色や黒色の個体もいるので注意。
生息域は岩手・秋田~九州。浅海の岩礁域に済む。最大体長は32cm。
学名は、Sebastes cheni Barsucov,1988。(正式には、学名を書く時にはイタリック文字でアンダーラインが必要になるが、これは論文ではないので省略する。最初の2つの単語が学名。Sebastesが属名でcheniが種小名でこの2つを組み合わせて種名とする。
続く2つの単語はBarsucovが学名を付けた論文の著者で1988年に出版された事を指す。
これ等は引用であり学名には含まれないが国際動物命名規約で少なくとも一回は引用しろと勧告されているので、ここでも従った。尚、属名と種小名以外の学名表記〔引用、略号や『科』以上の学名の事〕にはローマン体を用いる。以下同様)
最も普通に釣れて、最も大きくなるメバルの種。
尚、この3種の間で遺伝的な違いは殆んど無いとされている。
これは、人間における大陸系統の違いに相似している。尚、現在では人種とは言わずに、大陸系統とか人口集団と言う。
2.アカメバル:胸鰭軟条の数が15の個体が多い。体色は赤っぽい個体が多い。
体高は低く、頭部は小さい。腹ビレ・尻ビレは赤っぽい個体が多い。
胸ビレが長くて先端が肛門に達する個体が多い。
生息域は北海道南部~九州。浅海の藻場に住む。最大体長で25cm。
本当にシロメバルと見分けにくい。
学名はSebastes inermis Cuvier,1829。
3.クロメバル: 胸鰭軟条数は16の個体が多い。
体色は黒っぽい個体が多い。腹ビレ・尻ビレは黒っぽい個体が多い。
生きている時に体側の背ビレ基部の体色が青みがかるか、緑がかるかする為に比較的見分けやすい。
最大体長は30cm。
生息域は岩手・石川~九州。浅海の岩礁帯に住む。外洋に向いた磯。内湾には少ない
学名はSebastes ventricosus Temminck and Schlegel,1843。
ココまで書いて来て何だが、本当にどうでもいい微細な違いだなぁ。
ま、良いや。
毒喰らわば皿までだ。
知ってる事、全部書いてやる。
メバルは夜行性で採餌は夜間。活発な肉食性でエビやカニ等の甲殻類や小魚を捕食する。
卵胎生、つまり雌雄で交尾をして体内で孵化させ仔魚として出産する。産卵の時期は冬季(1月~3月)。1年を通して年中釣れる。
旬は1月~3月。食味は抜群で特に煮付けにすると最高である。
余談だが、本文中に筍の時期に釣れるメバルを『タケノコメバル』と呼ぶと書いたが、
ややこしい事に、その例とは違う同科同属の別種として『タケノコメバル』という和名をもつメバル種もいる。身体の模様がタケノコの皮の色合いにソックリな事から、この名が付いたらしい。滅多に釣れない希少魚である。本家のメバルと同様に白身で美味い。
メバリングだが、ソフトルアーを使ったメバルのルアー釣りである。
ルアー釣りに使われるルアーには色々な種類がある。
1.ソフトルアー=ジグヘッド(錘付きの針)若しくはワームフック(錘無し)を使用して使うルアー。柔らかい素材で出来ている。
2.メタルジグ=鉛製でジギング(このジグを沈め落としたり巻き上げたりして釣る方法)の為のルアー。当然重たい。様々な形状・色・重量の物がある。
3.ミノープラグ=プラスティック製や木製。浮かぶタイプや沈むタイプがある。
沈むタイプには泳ぐ層域の違いによって、表層タイプ・中層タイプ・深層タイプの3種類がある。
4.バイブレーションプラグ=比重が高いので沈みやすいタイプのミノープラグ。
この他にスプーン(食事用のスプーンから柄を取り去った形状のルアー。その昔釣り師が湖に落としたスプーンに鱒が喰い付いたのを見て使用し始めたらしい)やスピナー(スプーンの部分がクルクル回るルアー)などのルアーもあるが海釣りには使用しない事が多いので、説明は割愛する。興味を持ったならググって下さい。
メバリングには(1)のソフトルアーを使う。
常夜燈の明暗部やシモリ周りの底付近などメバルがいそうな箇所を探って行く。
メバルが夜行性なので当然夜釣りが基本だが、夕まずめが最も好調の事が多い。
ルアー釣りは基本的に『向こう合せ』であって、メバルが喰ってくれるのをリトリーブ(retrieve:リールを巻き上げる事)しながら待っているだけだが(当然様々なアクションを付けながらルアーを引いてきますが)、エサ釣りの場合は早合わせは禁物である。
あ、『合わせ』っていうのは、魚がエサに喰い付いた時に針を掛ける為に竿をしゃくり上げる動作の事を言う。
エサ釣りのケースでは、コツッと小さな当たりがあったら道糸を送り出す。するとメバルがスーッと引き込むが、ここで早合わせをしてはいけない。更に竿先を下げる。するとゴツゴツと当たりがあるので、竿先を上げてシッカリと針掛かりをさせてから巻き上げる。
よく『メバルは当て潮を釣れ』と言われる。
当て潮というのは、自分の方向に向いて流れてくる潮の事。沖に撒き餌を入れても足許にメバルが寄ってしまっている。メバルは上方45度を向いてエサを待っていて、沖から流れて来たエサを喰う。メバルは、潮に向って下から斜め45度でエサに向って行くので、ソレを計算に入れて仕掛けを投入するポイントを決めると良い。
しかしメバルの釣り方とか、ホントにどうでも良い情報だな。
何か、御免なさいね。
サカナ関係はこの後もバシバシ出てくる予定なのですが、もうこんな些末な事は書くのは止めますね。学名とかなんて、余計な情報、そのモノだもんな。知らなくて良いことだし。
ホントに、ゴメン。
注3:キャブとかチョークとかについて。
キャブとはキャブレターの略で、気化器の事。ガソリンを微粒化して空気と適当な割合で混合し、運転状態に応じてエンジンに供給する装置。フロートチャンバーという一定量のガソリンを蓄えておく部分とベンチュリーというガソリンと空気を混合する部分から形成され、霧吹きの原理でガソリンを微粒化する。
チョークとは、キャブレターに吸い込まれる空気の量を少なくする事によって混合気(空気と微粒化したガソリンの混じったモノ)を濃くする装置。空気の量を絞る(choke=絞ることでエンジンが冷えている時に始動性を良くする。
尚、現代のクルマにこの2つの装置は備えられていない。
キャブレターに代わってノズルから燃料を噴出させるインジェクター(インジェクション)という装置を採用している。チョークは燃料噴射方式に替わった為に装備されなくなった。
セルとは、セルフスターターモーター(self starter motor)の略。このモーターはエンジンを始動する為のモーターでイグニッションスイッチにより作動する。しかし、一般的に『セル』と言えば『始動装置』そのものを差す事が多い。
厳密に言うと始動装置はスターター(starter)と呼ばれる。
あ、アイドルとか知らないかな?
アイドルとはアイドリング(idling)の略で、スロットルべダルが踏まれず、エンジンが空転している状態の事。この時のエンジンの回転数はエンジンが安定して回転できる最低限に抑制されている。元々は『仕事をしていない』という意味。
注4;MOOC(Massive Open Online Course)とは。
大学などの教育機関がインターネットを通じて講義を行う事。課題を提出したり、試験を受けたりする事で履修を認定する制度もある。大抵の場合は無料。地理的・時間的・経済的・年齢的に制約される事無く世界の著名な大学の教育に接する事が可能。
MOOCには多くのグループが存在しており、研吾が利用しているのは『edX』と呼ばれるグループ。このグループにはMIT(マサチューセッツ工科大学)を始めとして他に美穂子が通ったハーバード大学、ボストン大学、カリフォルニア大学バークレー校、そして日本の京都大学が加盟している。
現実の世界においては、MOOCの嚆矢となるMITxは2011年12月にMITによって始められた。多数の大学が協力して運営する本格的なMOOCであるCourseraが2012年2月からスタンフォード大学、ミシガン大学、プリンストン大学、ペンシルバニア大学等から形成されるグループによって開始された。つづいて2012年秋になるとMITxが拡大されてedXとなり、ハーバード大学、ボストン大学、カリフォルニア大学バークレー校、そして京都大学などが加わった。
ですから、現実世界をそのままトレースするとケンゴ君は実際にはedXで講義を受講できない事になりますが、まぁ、そこはフィクションなのでお許しを。
もちろん設定上の話ですが、2017年10月の時点でedX内のハーバード大学が提供する講義の中に、日本語で『行動経済学』と訳される『Behavioral Economics』という学問領域において『Inborn or Acquired?:Why does a human being lie?(生得的または後天的?:なぜ人間は嘘を吐くのか?)』というのがあります。(もちろんフィクションです)
この講義を担当しているのはAssistant ProfessorのMs. Mihoko Yamadaです。
彼女は未婚のシングルマザーで、この時点で13歳になる可愛い娘さんが1人います。
ん?!?
注5:活け締めとは。
活け締めとは、漁獲した魚が生きている状態の内に、背骨を切断するなどして生命活動を停止させて体内から血液を除去する行為。これを行わないと圧倒的に身肉が臭くて不味いモノになってしまうので一流の釣り師なら必ず行う。自然から与えられた恵みを粗末に扱うのは犯罪であってソレは単なる殺害行為である。
もう少しレベルの高い締め方として『神経締め』という方法があるが、それは物語の後半において釣りに超詳しい人物によって説明がされる予定なので、ここでは割愛する。
オックスフォードカラーのシャツの袖を引っ張られて、オレはフッと我に返った。
左下に眼を降ろすと、イトが心配そうにオレの顔を見上げている。
イカンな。
スリープモードに陥ってしまっていた。
こういう現象をアメリカ陸軍では『シャッター反応』と呼ぶらしいが。その昔、ベトナム戦争を米国が戦っていた時に、友軍である南ベトナム軍の兵士がよくコレに陥ったらしい。
また、やっちゃった。
気を付けねば。
そう反省すると、
「ゴメンね。オジさん、ちょっと考え事しちゃって、ボーッとしてた」と彼女に詫びた。
「何、考えてたんですか?」イトは小首をクッと傾げた。
「昔のことだよ」イトちゃんが生まれる、ズウーッと前の事、と答えた。
「ふーん」興味無さそうな生返事だった。だから話題を変える為に、
「海、満足した?」オレは腰を屈めて視線をイトに合わせた。コクンっと彼女は頷いて、
「大っきかった」と柔らかく微笑んだ。
その微笑はオレに、結衣との関係がまだ良好だった頃に彼女がよく披露した笑顔を想起させたから、少し狼狽えてしまった。この世界を構成している全てをとろかす様な、笑顔。
ヤッパリ母子なんだな。
「じゃ、行こうか?」
コクンと頷いたイトが手を繋いできた。その振る舞いがとても自然な事に少し驚いた。
次第に、馴染んできたのかも知れない、オレに。
打ち解けてきたのかも知れない、オレに。
そう思うと、無性に嬉しかった。
展望台から降りてR32の所へと戻った。
観想の法はオレへ『このPA内には誰もいない』と伝えてきている。
念の為、周囲を360度グルッと見渡してみたが、誰の姿も確認できなかった。
イトとオレと、R32だけだった。
件のイシガメヘビ野郎の存在が認められないという状況を非常に好ましく感じた。
Rさんが、接近しつつあるオレ達の姿を視認して、あと1mという所まで来た時にナビ側のドアロックを解錠した。その時、Rさんのそういう振舞いに初めて気付いたのか、イトがほんの僅かピクッと反応し、そしてビックリしている様子に感じ取れた。
彼女がオレの顔を見上げた。何かを訊きたそうにしていたから、
「どうしたの?」と誘い水を振ってみたが、
『ううん』と無言で被りを振った。
「上着、Rさんに乗る前に、脱いじゃおうか?」と提案すると、
「うん」と頷いて、イトはスカジャンを脱いだ。そして器用な手付きでサッと折り畳んだ。
彼女から、コンパクトに纏められた上着を受け取ると、助手席側のドアを開けてから、
「はい。座ってね」と促した。
イトがナビシートに納まると、ドアの動線上に何も挟まるモノが無い事を確認してから
「じゃ、閉めるね」と声を掛けて、パタンと閉塞した。
コックピット側に回ってドアを開けてから中でシートベルトを締めているイトに言った。
「これからさ、下道...この高速道路を降りて...普通の道を走る事にするから」
「どしてですか?」イトは『ん?』という表情を浮かべた。
「鹿児島まで3日位で行く心算だったんだけど、もうチョットのんびり行こうかなって」
彼女の双眸を覗き込む様にしながら、そう告げると、
「だいじょぶ、なんですか?」とイトが心配した。(様に見えた)
「何が?」
「いっぱいお金、掛かっちゃうかも?」
「大丈夫。その心配はいらないよ」オレは笑った。「ビューンって、早い方が良いかな?」
イトは小首を傾げて少しの間『んー?』と考えている様子だったが、やがて、
「のんびり、が良い」と答えた。
「じゃ、決まりだね」とオレは笑った。
おじさんパパが「普通の道でノンビリ行こうよ」っていった。
ワタシもRさんだとヨワないし、
おじさんパパも、いいヒトだってワカッタし、
イッショにいて、ナンか いいカンジだから、
「ノンビリが、いい」っていったら、
おじさんパパが「じゃ、きまりだね」って、ピカッて笑った。
パパがわらったトキ、ドキッとした。
ワタシのオナカのしたの方で、また、トクン、トクン、トクンって音が、なりだした。
ナンだろ? コレ?
ワタシ、ナンかヘン。
ドライバーズシートに身体を滑らせてコックピットに納まると、オレはイトに言った。
「今晩泊まるトコ、今、予約しちゃうね」
多分、いまいち理解が行かないのだろう、曖昧な感じで、彼女がコクンと承諾した。
腰のホルスターからiPhoneを取り出して起動させる。
ま、気に入らないトコは一杯あるが、こういう時にはスマホはとても便利な機械だ。
その事実は認めなければならない。
旅館やホテルについて検索する必要は無かった。
今後は中央構造線沿いに進路を取って行く予定をもう既に立てていた。(注1)
大学生の時からこのルートを走破してみたいという想いがあったので、以前から色々なデータを収集して来ていた。特にアパートの自室に引き籠もっていた時期は、空白な時間を頼りとして中央構造線を解説する沢山の書籍を読んだり、ネットで調べたりしていた。
ま、実際にこのルートを辿った事がある訳でもないので、土地勘があるという事でもないのだが、これから進んで行くであろう道程の状況についてはソコソコ知識を保持していた。
だからルート上に点在する宿泊施設についてオレはチョットした心当たりがある。
オレは、今日の宿泊予定地の電話番号を直截、グーグル先生に尋ねてみる事にした。
注1:中央構造線について。
構造線とは断層(地層のずれ)の事を意味する。
中央構造線は、諏訪湖西側に端を発して天竜川の東側に沿って南下、太平洋側に出て行く途中で西南方向に曲がり豊川に沿って進んで行く。渥美半島に沿って西へと伸びて行き、伊勢湾口を横断して紀伊半島へ上陸、櫛田川に沿って西へ。続いて紀ノ川に沿う形で更に西へ進む。淡路島の南岸を掠める様に紀伊水道(紀淡海峡と鳴門海峡)を渡って、四国に上陸する。吉野川に沿って西方へ。松島を経由する形で西方へ。佐田岬半島に沿って更に西へ。豊後水道(豊予海峡)を渡って九州へ上陸する。そこから先は不確定である。
どうやら大分県の国東半島と佐賀関半島の間を通っていることは確からしい。
大分市南方の大野川流域辺りは中生代末期の堆積岩に隠されていて断層の経路は不明瞭。
九州中央部は阿蘇山の下に隠れている模様。
総延長約900km。
この構造線が西南日本を内帯・外帯に分割している。
内帯(日本海側:領家変成帯)ジュラ紀のユーラシア大陸の付加体が白亜紀に高温低圧型変成を受けたもの。
外帯(太平洋側:三波川変成帯)白亜紀に低温高圧型変成を受けたもの。
ジュラ紀末期~白亜紀初期(1億4千万年前~1億年前)にユーラシア大陸の東縁で起きた構造線(断層)の横ずれ運動が大元の原因である。
第三紀~第四紀にかけても構造線(断層)の横ずれ運動を起こした痕跡が認められる。
私とケンゴ vol.9