私とケンゴ vol.8
逗葉トンネルを抜けて少し進むと逗葉新道の終点を迎える。
そこから道なりにクルマを走らせて行くと自動的な感じで横浜横須賀道路の逗子IC(インターチェンジ)に誘導される。だから非常に楽だ。
後は完ぺきに道なり。
針路は『北へ』だ。
横横を走るクルマの流れはとても順調だ。
可愛い仔猫ちゃんの提言というか指示に従って置けば、まず間違いは起こらない、
彼女は日本道路交通情報センターからも最新情報を得ているから、だ。
それに加えてGoogleやYahoo! Japanなどからも交通情報を提供して貰っている。
Google MapやYahoo! カーナビを実際に使用して走行している、若しくは直近に『走行した』利用者たちから収集したリアルタイムな交通情報である『プローブ交通情報(Probe Traffic Information:probeは探測装置のこと)』をスルッと直に頂いているのだ。
その上、Googleからはただ今絶賛開発中の高精度3Dマップの情報の提供も受けているが、コレはトップシークレット中のトップシークレットだから他言無用をお願いするね。
トヨタやホンダ、そして地図大手のゼンリンが出資するダイナミックマップ基盤(DMP)という日本の会社も高精度3Dマップを開発中で、オランダに本社を構えるヒアという地図情報サービス世界大手の会社と業務提携したりなんかして一応は頑張ってはいるのだが、彼我の違いは非常に大きくて、Googleの資金力や情報収集能力は彼等のソレを遥かに凌駕しているから、こっち(Google)を利用するのは当然だ。
あ、2Dの地図マップだけはゼンリンのを採用している。何故ならゼンリンの社員さん達が足で稼いだ現在進行形の詳細なデータは他では得難いからだ。良いトコ採りって訳だ。
ま、Yahoo!やGoogleは営利企業だから、いずれ仔猫ちゃんが完成した暁には儲けの種に充分なると睨んでいるに違いないが、な。その時を見据えての『先行投資』だ。彼等が提供するのは『資金』ではなくて『情報』ではあるけど。
高度に発達した情報化社会では、経済の源泉は『情報』であり、個人に備わった『知識』や『知性』なのだから、この状況は当然の帰結なのかも知れない。
加えて仔猫ちゃんには『全国交通事故多発交差点マップ』という日本損害保険協会が発行している大層便利なモノも装備されていて、その場所を通過する少し前にコクピットにいるオレに対して自動的に情報が伝えられるから、とっても楽チン。
無論GPSを利用して緯度や経度などの位置情報も得ている事は言うまでもない。
しかしGPSの情報単体では精度が低過ぎて信頼性がイマイチ(というよりもイマサン位)なので、補完するために準天頂衛星である『みちびき』1~4号から得られる日本独自の位置測定情報を利用する。『みちびき』は高度3万5800km上空で八の字型のモルニア軌道を1日掛けて一周する。等間隔で3機を飛ばして置けば、1機当たり8時間ずつ交替交替で日本の上空に滞在できる計算になるが、『みちびき』の運用体制は1機多い4機体制である。ま、故障などの不具合による測位衛星としての運用が不可能になる危険性を考慮した予防的措置だろう。ドレかが、潜在的予備機って訳だね。米国GPS衛星が発信する位置情報には数m~数十mの誤差が生じるけれど、みちびき4機が提供する数字にはわずか2~3cmの誤差しか含まれない。
それに加えて、このR32の機体に搭載されているジャイロスコープ等の慣性航法システムやGセンサー等の感知装置の群れから上がってくる情報と、先に言及した高精度3Dマップの情報とを組み合わせることで、自機の位置情報を補正するマップ・マッチング技術を装備してある。
これは近い将来に実現するだろう自動運転の世界では必要不可欠なシステムであることは言わずもがな、だろ?
(筆者注:2017年当時に準天頂衛星みちびきの4機フルでの運用体制はまだ整っていなかった。まぁ、この作品はフィクションなので、そこらの細かい所はどうかお許しを)
交通の流れに乗って走行していると様々な想いが頭蓋骨の裏側を通過して行く。
父親が亡くなった3時間後にオレは病院に到着した。
母はオレと父が見守る中、晩秋なのに春のような穏やかな雰囲気が漂う病室内で静かに息を引き取った。早くにして無くなる事は不幸なのかも知れないが、彼女の最後の審判の刻がそんなフンワリとした状況の許で訪れた事は僥倖と言い得るモノなのかも知れなかった。
苦しむ事も無く眠る様に逝った母。
それと全くの真逆、気を失う事も出来ずに腹部に突き刺すような激痛を感じながら永遠に続くかの如くの煉獄の苦しみの中で亡くなった父。
しかし、彼の死に顔はとても穏やかだった。
父は母、自分の伴侶を失ってたった独りで残りの人生を生きて行かないといけないという拷問からようやく解放されたから、かも知れない。
死に目にすら会えなかったオレは、無理矢理そう思い込むようにしていたのだ。
父の同僚の話によると、彼は営業先で『腹が痛い』と言いながらしゃがみ込んでしまったのだそうだ。相手の会社の人が即座に119に電話を入れて下さったので、倒れ込んでからわずか5分後という神の如き速さで救急車が到着したのだが、それでも死神の指先からは逃れる事は叶わず病院に搬入される頃にはほぼ絶命していたそうだ。
父を襲った腹部大動脈瘤破裂の死亡率は、たとえ病院に搬送されたとしても45%に上るとも言われるから、避けられない死だったのかも知れない。
だからオレが傍に居たとしても何も出来なかっただろう。
しかし、オレは居るべきだった。
今でも激しくそう思っている。
もしかしてオレが横に居たら『アジャラカモクレン・キューライス・テケレッツのパー』と唱えて2度パンパンと柏手を打てたかもしれないのだ。
フザけて言ってる訳では、決して無い。
親を亡くした人ならオレの気持ちは解る筈だ。
神や霊、オカルトといったモノを一切信じないオレでも親を助ける為には、人知を超えた超越的存在にすがり付きたくなるのだ。
母を亡くし、続いて父まで他界した。
両親ともに一人っ子だったから親戚と呼べるような存在はいなかった。
ま、関係の筋を追って行けば必ず誰かには辿り着けるのだろうが、どうやったら良いのか、サッパリ解らなかったから、そこには全く手を触れる事無く、葬儀には両親の知人、実家のご近所さんと父が勤務していた会社の人達、そして営業でお世話になった会社や同業他社の人々を呼ぶだけに止めた。
通夜、葬儀、そして納骨という人の『死』に伴う一連の行事を終えるや否やオレは実家の整理に取り掛かった。
ジイちゃんや美穂子そして両親すらいない土地に何の用もなかったから、その街を捨てる事に何の躊躇も無かったし、後ろ髪を引かれる様な想いなど耳掻き一杯分も無かった。
借金は無かったが資産もほぼゼロだった。
実家は借家だったから、ま、当たり前か。
母親の生命保険金は父が使い果たしていたし、その父自身に掛けられた生命保険も自分で解約、全部飲んでしまっていた。
父さん、ようけ飲んだのぅ。
ソレだけ飲めば満足できたかい?
でも、52歳って随分と若過ぎやしないかい?
ゴメンな、放ったらかしにしてしまって。
母さんの匂いが染みついた家に居るなんてオレには耐えられなかったんだよ。
父さんは母さんの匂いだけでも感じていたかったのかな。
自分で自分のガン保険を解約するだなんて、母さんが存在しないこの世界に未練は無かったんだね。自分がどうなっても構わない、死んでも構わないって思ってたのかな?
親孝行する前に2人とも逝ってしまうなんて、オレの予定には、そんなの全然無かったよ。
そんな想いを皮質の上に浮かべながら遺品を整理していた。
旧家である蛇オトコの家と違ってオレの家は遡行しても3代か4代前までしか先祖を辿れない位の庶民的家庭だったから『お宝』と呼べるような物は全く無かった。
だから、形見として2人が大切にしていた物だけを、洋装作りが大好きだった母が大事に使っていた東京の鍛造ハサミ専門の鍛冶職人が丁寧に火造りした大きな裁断バサミ1本と写真も趣味だった父が愛用していたライカとカールツァイスのレンズ5本、そしてその件のライカで撮った家族の写真を貼り付けたアルバム6冊とシマノの釣り道具だけ残して、残りは全部処分する事に決め遺品整理業者に後始末を委託する事にした。
父の会社が弔問金という名目で死亡退職金を支払ってくれたから、そこから葬儀費用と家の撤去費用を捻出できたが、その2つを清算した後にオレの手許に残ったのは300万円足らずだった。
だから、オレは東工大の大学院修士課程に合格していたが、進学は諦める事にした。
1年間の学費が約90万円。
修士は2年だから、ソレかける2で、ま、大体200万円。
その当時オレは上野下の駅にほど近く、大家さんの住まう母屋と同じ敷地内に建てられた全室合せて8部屋で平屋のアパートっていうか下宿みたいな所に一月5万1千円で居住していた。聞く所によると建築以来40年は軽く経っていたそうだから外観が古めかしいのは仕方のない事ではあったが、小まめな手入れの成果か修繕が隅々まで行き届いていて一応ピシッとしていた。通常ソレくらい古いアパートなら風呂無し・共同トイレという状況が設備のデフォなのだろが、大家さんは気の回る人でオレが1年生の4月に入居した時にはアパート全室が既にリフォーム済みで各部屋にはトイレとシャワールームが備え付けられていた。建てられた時に部屋の大きさはキッチン4畳が付いた6畳の1Kだった間取りが、後付けしたトイレとシャワーの分だけ狭くなってしまった事には苦笑を禁じ得ないのだが。
「ごめんなさいね、六分儀さん。こんなに狭くなるとは思ってもみなかったのです」
と大家さんは詫びて頭を下げた。
オレは慌てて「イヤッ、全然大丈夫ですから」トイレとシャワーがある方が全然OKですから、と少し頓珍漢な答え方をした。
大家さんは左近允満佐子という70代後半の女性だった。
いつも丁寧に梳いた白髪を綺麗にまとめ上げていて、そして常にスラッとした身体を和装で包み、つまり着物姿だった。
小柄だがスッと背筋が伸びていてシャンとした貴婦人の空気を周囲に漂わせていた。
彼女が洋服を着ていたシーンには出逢った事は無い。江戸っ子が喋るベランメエ調の江戸弁ではなくて、山の手の人たちが使う上品な『東京弁』で喋る人だった。
庭で会うと必ず「ごきげんよう、六分儀さん」と声を掛けて下さった。
大家さんからぞんざいな扱いはされた事が無い。彼女の辞書には『ぞんざい』という単語は載っていないのだろう。
で、だ。
そんな感じで人が居住していくのに非常に適したアパート代が2年で122万4000円。
決して高い金額ではないが、当時のオレには負担できない数字だった。
霞喰って生きている仙人ではないのだから喰わなきゃ死んじゃうから、この上に食費というモノがおぶさって来る訳だし。
バイトで生活費を稼ぎ出すという方法は非現実的な選択肢だった。
院生というのは研究するのが本分であるのでバイトする事に長い時間を費やせない。
文系の方の実態がどうなっているのか知らないが、少なくとも理系の大学院生に夏休みのような長期休暇は無いも同然である。だって実験の対象が忖度してくれて休む事を認めてくれる訳では無いからだ。盆だろうが正月だろうが実験は継続していて止まる事を知らないからだ。当時のオレは部屋代を含めて10万あれば暮らして行けた。この数字をクリアするには1日平均で3400円ほど稼げば良いのだが、バイトに割り振れる時間は1日に2時間が良い所。時給1700円なんてバイト、今も昔も存在するのか?
(筆者注:現在は塾講師など時給2千円のバイトが存在していますが、当時は、なぁ)
東大生なら家庭教師として働けば東大ブランドも後押しとなるからソレ位は稼ぎ出せるだろうが、東工大の看板では無理。時給千円もいくのかあやしい。
奨学金という手段もあるけれどオレは既に日本学生支援機構から学部生であった4年間、毎月10万円の奨学金を支給されており、返済総額が合計645万9360円にも膨れ上がっていて、コレを240回で返済して行かなくてはいけなかったのだ。
毎月26914円ずつを返済して行く。
これを240回も続ける。
つまり20年掛けて、だ。
ネットに上がる情報によると日本学生支援機構の取り立ては街金より追い込みが激しいらしい。奨学金を借りる為に必要な連帯保証人は亡くなった父だったが、その他に保証人がもう1人必要だったので、父が遠い親戚に当たる人物に頼みこんで保証人になって貰った。
母と父の葬式にも参席して頂いた田代さんという父と同年代の男性だった。
彼と初めて会ったのは、母の通夜を催した秋の夜だった。
小柄で猫背の、安っぽい鼠色のスーツに身を包んだ人だった。
彼からはオドオドしたというか、しょぼくれたシマリスみたいな印象をオレは受けた。
彼から一応の説明は受けたのだが、田代さんと父との関係がどの様な系統になっているのかサッパリ理解できなかった。どうやら血は直接は繋がってはいないらしい事だけ判った。
ま、とにかくオレが支払いを滞らせると、連帯保証人の父は亡くなっている訳だから、自動的に田代さんの方に取り立ての追い込みが行く。彼に迷惑を掛ける訳にはいかない。
修士2年。
そして博士課程が3年。
合計で5年という事は現在の借金額の、少なくとも2倍。
2倍以上に借金が膨脹してしまうという事だ。
40年掛けて返す?
どう考えても不可能だ。
学費だって支払わなくてはいけないのだし。
学費2年分しかないんだぞ、オレ。
それにポスドクの仕事があると決まった訳でも無い。
ポスドク、つまり博士号を取得した人が得られる非常勤の研究職の事だが、数が超少ない、とても限られた職業枠なのだ。その上、当時の文科省が無計画に推進した無謀な博士号取得者倍増計画によって博士号所持者が大増加、民間企業は博士号を取得した人間を雇用するのを嫌う傾向があるが為に、必然的にみんなが本当に数少ない研究職に群がって阿鼻叫喚の地獄絵図の様相を呈していた。
ポスドクの職を運良く得られたとしても、ソコからがまた難しい。
そこから正規で常勤の教職員である講師になるのが、超困難。
講師>助手>助教>准教授>教授って道のりを順調に歩いて行ける人間など極僅か、だ。
ジイちゃんは言った「タフであるというのは、『強い』という事ではない。
何か厄介な事が突然持ち上がった時に『フム、これは厄介な事だな』と認識したその後に一切の私情を挟む事無く冷徹かつ客観的に自分を取り巻く現状を正確に把握する。そして厄介事を回避もしくは消滅させる為の対応策を考え出し練り上げた後、実際に粛々と対処して行く人間の事を『タフ』であると言うのだ」
自分自身と周囲を取り囲んでいる『現実』ってヤツを冷静に分析すれば、解は1つしかない事は自明の理だった。最適解を捻り出すのに5分も要らなかった。
そしてオレは進学を取り止める事を伝える為にマツケンを訪問する事にした。
この用事はメールや電話などでは伝えられない、とても大事な事だから、だ。
オレからの『明日、研究室にお邪魔します』というメールを受け取った時に、松島さんは即座にピンと来たようだった。
ノックすると、くぐもった声で「どうぞ」という返事が返ってきた。
「失礼します」と言いながらドアを開けて中に入った。
白衣はドア近くのコートラックに掛けられていて、松島さんはスーツ姿で自分のデスクの横に立っていた。ダークブルーのシングルスーツ。白のコットンシャツに黄色地で小さな動物たちが散りばめられた小紋柄のネクタイ。
先生、今日も相変わらずビシッと極めてますな。
松島さんは座るようにソファセットの内、二人掛けのソファを右手で指し示した。
オレが「進学は諦める事にしました」と彼に伝えた時、
松島さんは「そうか」とだけ言った。
そして大学院の事には何も触れず別の事を話し出した。
彼は左手を上げてソコに巻かれた時計を右の人差し指で指差したながら言った、
「コレ、話はしたっけ?」
「はい」
銀色のベゼルとサファイアガラスが眼に眩しいクロノグラフ、落ち着いた雰囲気を醸し出している茶色の皮巻のバンド、ソレはロレックス社製のデイトナというモデルだった。
「重複になるかも知れないけれど、コレは、この時計は僕が開発主坦だったエンジンを搭載したレーシングマシンが92年にデイトナ24時間レースで総合優勝したことを記念して購入した物なんだ」松島さんは思い出深そうな相貌をしながら言った。(注1)
「92年。
この年からロレックスがスポンサーになって優勝者にデイトナというクロノグラフを贈り始めたんだよ。当然これを貰えるのはレーサーだけで僕達の様な裏方には贈られる事は無かった。でも、自分の手掛けたエンジンが優勝したんだ。とても嬉しかった事を昨日の様に覚えているよ。だから記念の為に自分で購入したんだ。一介のサラリーマンにとっては非常に高価なモノだったけど、少し無理して買ったんだ。
打ち砕けない困難や乗り切れられない様な状況に対峙しなきゃいけなくなった時に、コレを見て自分を奮い立たせられるように、ね」
92年当時、松島さんは日本の自動車メーカーのレーシング部門でエンジニアをされていた。そして彼が主任担当を務めて開発したエンジンが搭載されたレーシングマシンが見事にフロリダ州デイトナに位置するDaytona International Speedwayで毎年1月の最終週と2月の初頭に開催されるデイトナ24時間レースで総合優勝したんだ。(注2)
この出来事は日本のメーカーにとって初めての快挙となった。
その時に達成した761laps(周回数)は2017年に破られるまでズッと最高記録だった。
「で、その自分を奮起させなきゃいけない機会は予想をはるかに上回るスピードでやって来たんだ。デイトナが終わって一月も経たない内にレーシング部門から一般車の開発担当に回されちゃったんだ。ま、社内の派閥抗争に巻き込まれた形での左遷さ。
関係の深かった上司が社内政争に破れたんだね。
僕は失望したよ。
レースの世界で生きて行くのが僕の小さな頃からの夢だったんだから、ね。
失意のどん底を這いずり回る様な毎日だった。
会社に行くのが嫌でたまらなかったな。
出勤する為にベッドから起き上がるのも苦痛だった。
そんな時、ある日の朝、出勤電車に揺られながらある雑誌を読んでたんだ」
網棚に捨て置かれていたヤツなんだけどね、と言いながら松島さんは少し苦笑を漏らした。
そして背もたれに体重を預けると、彼は脚を組んでプラプラと揺らし始めた。
足許はビスポーク製(bespoke:注文専門の靴工房)らしい黒の外羽根式のプレーントゥの様に見えた。脚を組んでパンツの裾がズリ上がっても脛の皮膚が見えない様に長めの黒い靴下を穿いていた。
そして言葉を選ぶようにユックリと次の言葉を紡いでいった。
「その雑誌のあるコラムに書かれていた言葉の上で僕の眼が留まった。
そこにはこう書いてあった。
『価値が無いと思われる生を生きる行為こそ尊い。その行為が生きるという義務に従う事の道徳的価値を持つからだ』
カントという哲学者の言葉の引用だった。
そのコラム自体の内容はもう記憶の森の奥深くに消えちゃったんだけど、ね」
フフッと笑みを漏らした後、松島さんは次の言葉を紡いだ。
「この言葉に出逢った時にね、僕は気付いたんだ。
自分の思い描いていた人生とは違うかも知れないけど、
望んでいた職業でも無いかも知れないけど、
やってきた現実は予定していた未来と異なっていても、
過ぎて行く毎日が願っていたモノじゃなくても、
人は生きてゆかなければいけないんだって。
生き抜いてゆかなければ駄目なんだって、ね。
たとえ、ただ毎日毎日を消化してゆくだけの日々だったとしても。
それは、さ、この世界に生まれ落ちた者の義務であり、権利なんだって」
松島先生が何をオレに伝えたいのか、よく解った。
彼はそんなオレの心模様を見て取ったかのように話を続けた。
「天職なんて案外と向こうの方から転がってくるものかも知れないね。
どうやったらソレを見付けられるのか、僕には解らないけれど。
僕が今、大学で教鞭を取っているのは、偶然に頼る部分が大きいんだ。
東大大学院で同期だった友人と街中で偶然再会したのが切っ掛けさ。
その友人てのが、ここの大学院の教授をしてる雑賀君だ」
キミも彼は見知っているだろう? 松島さんはそう言ってからソファセットのテーブルの上に放置され続けていてスッカリ冷め切ってしまっている静岡茶を一口含んでから、
先を続けた。
「彼の紹介で僕はこの大学に職を得ることが出来た。
とても幸運だったと思う。
学生と接するという新しくて僕にとって未知の領域に踏み入る時はドキドキしたね。
イヤ、鼓動が高まるって意味では『ワクワク』の方が適した言い方かも知れない。
本当に学生さん達とワイワイ、あーでも無い、こーでも無いって侃侃諤諤やってる時とか、実験してる時とか、教授職って楽しいんだなぁって思ったよ。
自分が会社員の時に感じた事が無かった、ホントに味わった事の無い未知の新感覚だった。
『教える』っていうのは、本当に新鮮な体験だった。
学生さん達に僕の持っている知識や経験を教えていると、同時に学生さんからも色々な事を教えられるんだ。教える事でね、僕は学び直しているんだよ。
僕一人では気付けなかった事を学生さん達が気付かせてくれるんだ。
コレって、とてもスリリングな体験だとは、思わないかい?
知的探究心をくすぐられるんだよ。
己独りでは辿り着けなかった場所まで行けるんだって、思えるよね。
自分の知識や経験から離れて物事を考えられる人間なんて、この世界には存在しない。
自身の内側にある知識や経験にみんな囚われているので自由な発想なんて初めから不可能。
この桎梏から解放されるための方法がたった1つだけある。
それは他者と交流する事。
自分の考えと他者の考えをぶつけ合う事で、思惟を緊縛している『偏見』から脱出できる。
自由に視点を動かして、多種多様な角度から物事を観察する事ができる。
もしかしたら真の客観的視点に立てるかも知れない。
教えて、そして教えられる事で、『新しい天体』に辿り着けるかもしれないんだって、思う」
ジッとオレの眼を見据えながら松島先生は話を続ける。
「僕はね、今、思っている。
この大学教授という仕事は、僕の天職だったんだって、ね」
オレは松島先生に「どうすれば天職に巡り合えるのでしょうか?」と問うた。
「嫌いな事をやらないこと、だね。
中学生くらいだと、嫌いなものを克服する必要があるかも知れないけど、
やりたくない事をしないと自分のやりたい事ができない時には、やらなきゃいけないし、そういう例外はもちろんあるんだけども、
キミはもうその『嫌いなものを克服』するって段階は卒業してる筈だよ。
だから自分に正直に生きるのが良いと僕は思う。
世の中で何が流行っているのか? なんて気にする必要はないよ。
流行り廃りとか関係なく、それよりも時間を忘れるくらい、疲れも感じないくらい楽しい事を尊重してゆけば良い。
でも、自分が一番好きなモノはそう簡単に見つからないかもしれない。
そういう時には、一番でなくても良い、どちらかと言えば『好き』なモノであれば良い。
嫌いな事をやらなければ良いんだよ、六分儀さん」
別れ際に松島先生はオレに言った。
「僕には大嫌いな言葉が1つだけある。
他人に対しても、自分に対しても使った事は一度も無い。
だって1つの例外もなく、みんな必死になってこの世界で一生懸命生きているんだからね。
でも、あえて今、キミに言おうと思う」
そして一つ大きな息を飲んでから松島先生はよく通る低音の声でオレに、告げた。
「頑張れ」
お礼を言ってドアを閉めようとした時に松島先生が声を掛けて来た。
「あ、チョット待って」
ドアノブに手を掛けたままオレは「何ですか?」と言った。
「六分儀さん、何か就職の当てはあるの?」
「いえ。皆目。全くもって暗闇の中、です」
「そう」
松島先生は右斜め上に視線を移動させながら何かを思い出していた。
10秒ほど思惟を巡らせてから視線をオレの顔の上に戻してから、口を開いた。
「カーグラフィック、って知ってるよね?、もちろん」
「はい」
クルマが好きな連中の中に株式会社カーグラフィックが発行している超有名自動車雑誌の名前を知らないヤツなど存在しない。
あ、もちろん日本限定ね。日本に限って言えば、だからね。
でも知らない内に会社の名前変ってたんだよな、昔は二玄社とか言ってなかったっけ?
いつ変わったか、全然気付けなかったんだよね。
「僕の教え子の学生さんでホンダに就職した人がいるんだ。
彼は、もちろんエンジニア希望だったんだけども、広報部門に配属されちゃったんだと。
社内報、いや社内誌っていうのかな、会社内部で配布する雑誌の編集部に回されたんだ。
最初は不貞腐れたっていうか、すっかりヤサぐれちゃったらしいんだ。
そりゃそうだよね。クルマの開発がしたくってホンダに入ったのに、全然関係ない雑誌の編集なんて仕事に就かされたら、モチベーションが下がるさ。当たり前だよ。
誰だってそうなるさ。
でも与えられた仕事をこなして行く内に編集って仕事に興味が湧いてきて、俄然楽しくなっていったらしくて、さ、就職して2年後かな、転職しちゃったんだ、カーグラに」
クルマ好きはカーグラとかCGとか略するのがデフォだ。
松島先生は話を続けた。「彼、今、大分偉くなっているみたいで編集部でデスクしているって、この前の正月に送って来た年賀状に書いてあったんだ。
キミから送られて来たメールを読んだ時に、何と無く感じたんだ、
進学取り止めるって話かなって。
だから、先走って御免なんだけれど、彼に連絡を入れてみた。
メーカーやサプライヤー(部品製造業者)とかは、今の時期からじゃ厳しいとは思うけど雑誌の世界なら多少は都合が付くかも知れないと思って。柔軟だからね、あの世界は。
それで、キミの事を先方に伝えたんだ。
メカニズムの原理はもちろん知悉しているし、メカニックとしての才能にも非常に富んでいて、その上ドライビングテクニックはプロレーサーにも全然引けを取らないって。
いや、そんな顔をしないでくれ。
キミの実力は相当なモノと僕は認めているんだ。
別に贔屓目に見ている訳では無いんだよ。
六分儀さん。
キミはもっと自分に自信を持った方が良い。
いや、違うな。
もっと客観的で公正な視点から自分の実力を見極めた方が良い。
確かに『謙虚』とか『控え目な態度』というのは、この国では美徳とされている。
しかし、科学の世界では公正でフラットな視線を持つ事が大事だと僕は教えた筈だよ。
上からでも無く下からでも無い、同じ地平上で判断しなきゃいけないって。
誇張化するでも無く、矮小化するでも無い、事実を事実として受け入れる態度が肝要だ。
偏向つまりバイアスが掛かった視線で物事を見る時、人は簡単に誤謬の世界に誘われてしまうのさ。
いいね、フェアでフラットな視線だよ。
常にソレを心掛けてないと正しい判断なんか下せないんだから、ね。
ソレは科学だけじゃない。自分自身を評価する時だって同じだ。
自分自身を買い被る事も無く、その反対に卑下する事も無く、ただ俯瞰の視点から素直でフラットな視線で自分を観測する。コレはとても大切な事だよ。
大体さ、大風呂敷を拡げた所で、向こうだってその世界のプロなんだから本当の実力なんかはすぐに見抜くさ。だから大法螺なんかを吹いたって仕様が無いだろ?
よし、話を元に戻そう。
キミの話をしたら、彼は相当な興味を抱いてくれたようだった。
もし、キミさえ良ければ彼に就職の事、依頼するけれども」どうかな、と言った。
「有難うございます。でも、しばらくは自分自身でジタバタしてみます」
そうか、と松島先生は言ってコクッと1つ軽く頷いた後「よけいな事しちゃったかな?」とオレに尋ねた。
「とんでもありません。とても嬉しいです。
でも、自分で、自分の力だけでやれるだけヤッてみたいんです」
「そうか、そうかも知れないな。でも、やるだけやっても駄目だった時には、遠慮しないで連絡を寄越しなさい」いつだって良いからね、と松島先生は仰った。
「はい、有難うございます」オレは答えた。
「僕の名前を出しなさい。
自分で言うのも些か面映ゆいっていうか、気恥ずかしいっていうか、おこがましいけれど、
僕の名前は自動車業界に限って言えばだけど、それなりに皆から認識されているので、ね。
本当に、遠慮なんかしちゃダメだよ。
ジタバタする時は、何でも利用するんだ。
溺れる者ワラをも掴むってよく言うだろ?
まぁ、僕はワラよりは幾分かは役に立つと思うよ」松島先生はそう言って、微笑んだ。
オレは涙が出そうになった。
最後に松島先生はオレにこう告げた。
「六分儀さん。
元気で、
取り敢えず、元気で」
トヨタや日産、ホンダなどの自動車製造メーカーは絶対に無理だ。
エンジニアに関してのみだけど、大体そういう所は公募する事など無く大学の研究室に直接必要な人員を伝えてくるのがデフォだ。だから可能性はゼロ。
可能性が極僅かでも存在しているならオレはチャレンジするだろうが、ゼロならするだけ無駄だ。そんな無駄な事に時間を費やす事はしない。
オレは可能性がごく微量でも残存していそうな自動車関連会社を手当たり次第に接触してみる事にした。
Motor Fan illustratedという自動車専門誌がある。
カーグラフィックと違ってコチラは知る人ぞ知る、といった具合の本だ。
何故なら中身が超専門的で、その世界に入るための敷居がかなり高い。
ソコソコのクルマ好きという人が、手に取って読み出してみたとしてもチンプンカンプンで内容がサッパリ把握できないだろう。この雑誌を購読している人は余程のクルママニアか自動車関連会社のエンジニアくらいだろうとオレは推量している。
ある自動車評論家なんかは、このMotor Fan illustratedに掲載された記事から得た情報を、さも自分が発見したかの如くの姿勢で、全く違う週刊誌上で得意げに披露している。その正々堂々とした直球ど真ん中なパクリっ振りには『呆れる』を通り越して正直、感心するというか『尊敬』の念すら胸中に浮べてしまうから不思議だ。
えーと、何を話していたっけ?
あ、そうそう。
その件のMotor Fan illustratedだけど、オレは創刊号から毎月、一冊も欠かす事無くキチンと購入して愛読している。青天の霹靂の様にいきなり就職を模索しなければならなくなったこの2月から遡ること半年、母の乳ガンが一応寛解していた頃に購入した、確かNo.18だったかな、SUPPLIER the Bibleと銘打って日本に在るサプライヤー全57社の特集記事が組まれていた。サプライヤーってのは自動車の部品を製造してトヨタなどの自動車メーカーに供給している会社だ。(筆者注:別に自動車だけに限った話ではありません)
ソコにはトランスミッションやクラッチの製造会社から電子制御システムを開発している会社、プラグを供給している会社も載っていたし、エアクリーナー関連の部品、ターボチャージャー用のタービン、バッテリー、ECU(Electronic Control Unit:既に説明済み)、
ショックアブソーバー、ブレーキ、バネ、モーター、そしてドアをボディに装備させる時に絶対欠かせない部品であるヒンジに至るまで、まさに自動車を構成している全ての部品製造会社が網羅的に紹介されていた。
オレはその紹介記事の最後に書かれていた電話番号に片っ端から電話を掛けまくった。
その時ヒシヒシと痛感させられたのは松島先生の名前の偉大さ、だった。
就職に関する問い合わせという事で1つの例外も無く全ての会社が、最初は3年生が掛けて来たとばかりの対応をした。
『3年生のインターンはもう既に終了いたしました』とか、
『エントリーシートの受け付けは6月からです』とか、だ。
そこでオレが「当方、4年生です」と告げると受け付けてくれた人事課の人たちは皆一様に絶句した。ある会社の人事担当者は電話口で引きつった様な笑い声を上げた位だった。
しかし、オレが一連の事情をザッと概説してから切札として『松島先生』の名前を出すと、これまた皆図った様に態度を一変させて「御事情はよく判りました。弊社の人事課で一度検討いたしますので、お時間を頂けますか?」と言い「申し訳ありませんが、もう一度お名前を伺えますか? あとコチラから連絡を差し上げますので、お手数ですが電話番号を頂戴できますでしょうか?」と続けるのだった。
松島先生、アンタ凄ぇよ。
結果としては収穫はゼロで、一社も採用してくれはしなかったのだが、掛かって来た電話の対応は皆非常に丁寧で『採用できなくて弊社としても大変残念です』みたいな内容の事を異口同音にオレに告げたのだった。やはり一社の例外も無く、身元照会ではないけれど松島先生へオレの事に関して問い合わせをしていて、その時に彼は物凄く高い評価を与えてくれたらしい。ある会社などは「松島先生は六分儀さんの事を『僕が今までに受け持った学生の中でトップです』と評価されておりました。あの方は御世辞を一切仰られない方として業界でも有名ですから、当社としてもあなたを採用できない事は悔しいというか、忸怩たる思いで一杯です」とまで言ってくれた。
有難かった。
他人から評価される事がこんなにも嬉しい事だとは、その時まで思いもしなかった。
あ、でも『忸怩』って『恥ずかしい』って意味だから、その担当者さん、文脈から類推するに少し脈外れなんだけどなぁ。そこは素直に『残念』で良いんじゃないでしょうか?
<どうでも良いだろ? そんなの>
こうるさいミスター客観は放って置くことにする。
3社ほどだったが、来年まで待ってくれれば採用・入社を検討できるから、新卒扱いとするので、今年の6月に改めてエントリーシートを弊社まで提出して欲しい、との嬉しい言葉を貰えた。この言葉には力付けられたし、ほんのちょっとだが自信が湧いて来たのだった。
『どうしようか?』
そういう事を常に考えながら、ジイちゃんと一緒に直したカブで徘徊を繰返して不安な日々を一日一日潰していた。XR250Rは東工大に入学する前に売却して学費の足しにしたんだけど、ジイちゃんの匂いがする(様な気がする)カブはどうしても手放せなかった。
純エンデューロモデルを公道用に改造したという珍しい機体だ、という事も後押ししてXR250Rは結構高値で売れた。ま、こんな事は本筋とは関係ないか。
とにかく最優先とすべきは奨学金の返済だ。
しょぼくれてはいるが親切な男性、田代さんに迷惑を掛けてはいけない、絶対に。
アルバイトをして奨学金を返しつつ来年の採用に望みを掛けるか?
しかし事情はどう変転するか判らない。
採用担当の人が人事異動してしまうかも知れない。その可能性は大いに存在する。
1929年と1987年に起きたBlack Mondayを端緒とする大恐慌の様なデッカイ経済的事変が起こらないとも限らない。(注3)
就職先なら転職行為が頻繁な海外に目を向けても良いんじゃないだろうか?
イヤ、ダメだ。
クルマの会社や自動車関連の大手サプライヤーは、ドイツを中心として位置している。
ジイちゃんのお蔭で英語は(米国東部エスタブリッシュメントの英語だけど)ペラペラだ。
しかしドイツ語は挨拶くらいしか知らない。
もしかしたら、ドイツの会社でも社内共通語は英語が採用されているかも知れない。その可能性は低くはないけれど、それでも普段の日常会話にはドイツ語が用いられている、と見做して置かなければならないだろう。
大体、経験値低く博士号すら持たない日本人を、プライドの高いヨーロッパ人達が雇うだろうか? そもそもの大前提としてどうやってエントリーすればいいのだろうか?
五里霧中どころか、海底の泥中から蒼穹を見上げようとする行為に等しい、ように感じる。
『やはり美穂子と一緒にHarvardに留学した方が良かったのではないか?』
そうまで思った。
美穂子が米国に旅立った後にチコッと調べたら世帯年収が6万5千USドル以下の場合には学費は免除されると言う事が判ったからだ。父の年収はドルに換算すればそのリミットを下回っただろう事は確実だった。片田舎の中小企業だったからね、父が勤めていたのは。
寮費だけなら何とか工面して貰えただろうし、オレが頑張れば返済不要の奨学金すら獲得できていたかも知れない。
後悔からか、そんな必要などないのにも関わらずこの年の2月下旬に実施されたTOEFLのペーパーテストを受験してみたりもした。
初回で630点、満点を獲得できた。
小学5年からジイちゃんに東部エスタブリッシュメントの米英語を叩きこまれたから当たり前って言えば当たり前、か。
これまた本当にそんな事調べても意味など全く無いのに、米国の大学に留学する為の準備スケジュールなんかもネットで検索してしまって、恐ろしい現実を知らされてしまった。
悔しい事に美穂子が告白した時に準備を始めていればギリギリで間に合ったという事実だ。
マジ?
クソッ! チャンと調べなかったオレのミステイクだ。
ここまでオレがした事は全て、胸中に宿る『後悔』の二文字を太字にした上アンダーバーを引いて強調し、その存在をより強固なモノにさせただけだった。
この『後悔』はどんなに振り払おうとしても、送りオオカミの様にズッと付き纏った。
こんなんじゃ美穂子に合わせる顔が無い。
そして季節が動き春風そよぐ時季の3月21日の朝、オレは決意した。
久し振りに目覚めが良かったからかも知れない。
目蓋を開けて見慣れた天井の板の上に視線を迷走させて何千回も見ているので完璧に記憶の倉庫に記銘済みの節痕に一瞥を与えてから、肚を決めた。
松島先生に頼もう。
『自分で決めたい』なんて言って大見え切っちゃったりしてるから、忸怩たる想いがあるけど、背に腹は代えられない。
お金を稼がないといけない。奨学金を返さなきゃいけないし、ご飯も喰わなきゃいけない。
ご飯、喰わないと死んじゃうから、な。
ホント、お金が無ければ米も魚も野菜も買えない。
お金の力は偉大だ。
全ての事を解決できる訳では無いが、少なくとも不要な不幸を回避できるからだ。
そうだ、頑張って仕事してお金を稼ごう。
クルマ雑誌の編集員、良いじゃないか、良いじゃないか。
きっと色々なクルマに乗れるぞ。
カーグラフィックなら外車も乗り放題だろうし。
もしかしたらCGTVとか出演できて、松任谷正隆に会えるかもしれん。(注4)
思い描いていたモノとは違うけれど、少なくともクルマ関係には違いない。
肚が決まったらスッキリした。
そしたら突然、海が見たくなった。
理由は全然判らない。でも見たくなったもんは仕方ない。
行きたくなったら、行っちゃいな、だ。
だから湘南方面へ行くことにした。
当地の天気を確認する為にTVを点けると丁度『めざましテレビ』が終わる所だった。
「今日の占いカウントダウン!
今日の占いでーす。
今日、最も運勢が良い人はふたご座のアナタ。
ずっと探していたモノが見付かりそうな予感。
海の傍に行くと良いかも。
ラッキーポイントは大人な感じのスウィーツ」
TVが見切れてしまって天気を確認できなかったので177に電話を掛けた。
「今日の神奈川県湘南地方の天気は晴れ...」
これだけ確認できればOKだった。
で、カブにヒラリと跨って軽やかにキックスタートでエンジン始動、ソローッと出発した。
ウッカリ地図を携行する事を忘れた為に当然の如く道に迷ってしまった。当時、iPhoneはまだこの世界に登場しておらず(設定ではこの年の秋頃に発売が開始されている)iPhone誕生以降に雨後の竹の子の様に地球上に遍在する様になった『スマホ』など誰一人として想像すらしてなく(スティーブ・ジョブズを除く)、その筐体はまだ濃い霧の中に隠れていて現実世界にはただの一台も存在していなかった。
だから青看板(行先などを記してある青い看板)を唯一の頼りとしての独りカブの旅を続けた。下宿のある上野下を出たのが午前8時をチョット周った位、それで湘南海岸沿いを走る国道であるR134に何とか辿り着けたのが昼過ぎ。ま、頼みの綱が気紛れに姿を現す青看板なだけにR134を、アッチへウロウロ、コッチへウロウロ、と彷徨うオレなのだった。
ま、海は十分に見えてるから、これで良しとするか。
しかし腹減ったな、何か喰わなきゃ死んじゃうよ。
何か無いか?
しかしドレもコレも高そうな店だな。
さすがに高級避暑地の『葉山』が近いだけある。
でもチェーン店は敬遠した。東京でも、っていうか日本全国で喰える料理は今日はパス。
三浦半島の独特な喰い物を何か...
葉山の御用邸の前の二叉路を右に曲がって坂を登って行く途中で左手に美味そうな店構えをした所を見付けて、直感がピンと閃いて駐車場に向けてハンドルを切った。
洋食屋さんかな?
オレは小洒落た木製の看板に眼をやった。
『鴫立亭』って名前なのか。
アレッ?
その下に小っちゃくPatisserieって書いてあるぞ。
アチャッ!
ケーキ屋さんか、コレじゃ腹に溜まらんぞ、全然。
米の飯じゃなきゃ力も出ん。
しかし他の店を探す余裕が1mmも残って無いほど、腹が減っている。
窓ガラス越しに覗くと、どうやら店内にはケーキを喰える場所が用意されているようだ。
近所の人達だろうか、数人がケーキをフォークで突きながら紅茶などを嗜んでいる様子が窺える。何処か別の店でランチを食した後のデザートタイムって感じだ。
イカン、胃の腑が緊急事態、飢餓一歩手前だ。
仕方無い。
妥協だ。
ここで何か喰ってから米の飯を探そう。
そうしよう。
記憶の貯蔵庫に保持されている多種多様なケーキのイメージを検索しながら、ケーキの中でドレが一番腹に溜まるか、と考えながらドアを開けて鴨居を潜った。
「カルバドスって、あのカルバドスですか?」(注5)
オレは染みや曇りなどが何一つ無くピカピカに磨き上げられた透明なガラス製の陳列ケース内にサッと眼を走らせた後、ピンときたケーキを指差しながらポップに書かれてある名前を店員さんに告げた。
「そうです」
リスの様な小動物を思い起こさせる容貌をした女性の店員さんが答えた。
でも植物食系じゃなくて肉食系のリスに違いないという印象をオレは受けた、何でか知らないが。ところで肉食のリスっているのだろうか?
ま、イイや。
きっとパティシエのデフォなのだろう、コックさんとはチョット違う感じの白い作業着を着ている。ボブカットの髪の上にはこれまた白色の帽子が載っていた。
全体としては似てるんだけどコックさん達が着ているヤツと微妙に違うんだよね。
何が違うんだろう?
違う、そんなコト考えている余裕は無い。
オレの胃の腑が先程から激しく喰い物を要求し続けている。
さ、どうする?
カルバドスねぇ。
昔に一回だけ飲んだ事あるけど、リンゴの風味ってそんなに感じ取れなかった様な気がしたな。しかし気になる、非常に気になる。オレの勘は『コレだ』と告げている。
よし、これキープ。
後は...と、
結局、最終的に選択したのはカルバドスという未知のケーキと栗のクリームをモリモリッと盛り上げたポピュラーな形状からかけ離れたエジプトのクフ王のピラミッドを鋭角にしたような四角錐の形をしたモンブラン、3月という時期的なものもあるのだろう、季節限定の桜の砂糖漬けを使ったという桜のムースに、ケーキといったらイチゴのヤツが超ド定番だが、この店のヤツは変化球でコレまた鋭角なピラミッド型の土台に薄くスライスされたイチゴが鱗状にビッチリと貼り付けられている変り種、割れたガラス状態のチョコの薄片の一群がブスブスと表面にビッシリ突き刺さっているガトーショコラにホイップされた生クリームとカスタードクリームがキチキチに詰められたシュー・ア・ラ・クレーム、袋井産のクラウンメロンを使った緑色が眼に映えるムースなど合計で10個のケーキ類と紅茶セットをオーダーした。
「紅茶は何に為さいますか?」透き通ったソプラノで店員さんは訊いてきた。
そうだな、オレの好みはフレーバーティの一種であるアールグレイだが、あの独特の香りは桜やメロンの香りを楽しむにはむしろ邪魔物になる確率が高いかも知れん。
だからココはド定番だが「すいません、ダージリンを下さい」
「はい、判りました」
<イヤ違うぞ、オレ! ココはウバにしておけ>
皮質に巣食うミスター客観がオビワン・ケノービの様にオレの耳許でささやいた。
慌てて「イヤ、待ってください。ウバ、ありますか?」と訊くと、
「ハイ、ご用意できます」
「それじゃ、ウバにして下さい」
「かしこまりました」店員さんはメモに書き付けた後、顔を上げて「あちらがイートインコーナーとなっております。お好きな席にお付きになってお待ち下さい」と言って店内の北東側に設置されている喫茶スペースを左手で指し示した。
店員さんに『イートインコーナー』と呼ばれた空間は、葉山という土地柄だからか非常に洗練された雰囲気を漂わせていたから、オレは若干の違和感を覚えて戸惑った。
『もっと相応しい呼称を考えた方が客受けが良いんじゃないんだろうか?』
天然木材を贅沢に使用した内装が喫茶スペースを落ち着いた空間に演出している。
入り口から一番奥に設置された一際大きなテーブルに主婦の人達だろうか? 4人の妙齢のご婦人たちが早めのアフタヌーンティを愉しんでいるのが見える。スペース内に他の人の姿は無かった。オレは人混みがあまり好きではないのでこの状況は非常に好ましい。
歓談(閑談?)に勤しむ御婦人たちとは距離を置く事に決めて反対側に設置された4人掛けにしては小振りで無骨とも言える位シンプルデザインのテーブルに着くことにした。
家具にあんまり詳しくないので良く判らないのだが、英国調って言うんだろうか? 強めのニスの色調がシンプルなデザインの木製テーブルに艶やかさと重厚感を与えている。
椅子、コレ、ココのデザイン、何て言うんだったっけ?
脚の先っぽがクルンと丸まったデザインに仕上げられていて猫の足みたいだ。
何っつーんだったっけ?
ジイちゃんに教わった筈なんだけどな。記憶の湖の底深くに沈み込んだままで浮かび上がって来ないぞ。チャールズ二世とかいう王様が関係しているっていう無駄な知識はチャンと覚えてて思い出せるんだけど。
ま、いっか。
椅子を手前に引くとその丸まった椅子脚の先と天然無垢の床板が擦れてギーッという耳障りな音を立てた。その音に反応して妙齢のご婦人たちが一斉にこちらに視線を寄越した。
謝罪代わりの軽い会釈をすると、ソレでこちらへの興味関心を失ったようで彼女達は再び閑談に時を費やし始めた。音を立てない様に腰を下ろし抱えていたモトクロス用のチンガードが装着されたヘルメットを隣の椅子の座面にソッと置いた。
本とかの暇をつぶす用の物は装備して来なかったオレは手持無沙汰に陥ってしまい、注文したケーキとウバが来るまでの空白な時間を消す為に彼女達を密かに観察することにした。
身なりからすると結構裕福な印象を受ける。
料理をする様なタイプには見えなかったから、きっと成城石井などで高級な惣菜でも購入するのだろう。やはり経済の力は偉大だ、と強く感じる。
有閑マダム達、優雅に午後のティータイムをお愉しみ、か。
ダンナたちは今も一生懸命働いてるんだろうに、アンタ達を養うために。
時間潰しに耽溺する暇があったら幾分か家事の方に割けばいいのに。
惣菜を買うよりも少しくらい不味くても奥さんの手作りの料理の方がダンナさん達は喜ぶんじゃないだろうか。ま、激烈に不味いモノなら話は別だけど。
腕に自信が無くても、毎日丁寧な仕事をする事を心掛けて少しずつでも精進を重ねて行けば、もしかしたら数年後には栗原はるみの様な素敵な女性になっているかも知れないのに。
こんな考え方は古臭い上に男性至上主義にも聞こえるかも、だ。
<女は家庭に、なんて20世紀の考え方だぞ>
働かなくてもよい人間たちを羨んでいるだけなのかも、だ。
<専業主婦とは限らないぞ。もしかしたら休日が一緒の日になったので女子会を久し振りに開催しているだけなのかも知れん>
おぅん? 『La fête de filles』か?
そうだな、ミスター客観。
<それに、たとえ主婦だとしても、気晴らしの時間は必要じゃないか>
確かに。
でも、もし専業主婦の人達だったとしたら、彼女達に尋ねたい質問が1つある。
<何だ?>
何故アナタ方は専業主婦という職業を選択したのですか? とね。
物心ついてから十数年の間、母の主婦としての働きっぷりを見知っているから、専業主婦という仕事が如何に大変なのかは一応理解しているつもりだ。しかしその仕事は潰しが全然利かないとオレには思えるのだが、な。
ダンナさんが突然リストラされるかも知れない。夫が実業家であって馘首を心配する必要が無くても、事業に失敗する可能性はそこら中に遍在しているし。
ある特定の環境に適応し過ぎた種は、その環境が激変した時に絶滅する。
専業主婦を継続してゆけない様な環境変化が起きた時に彼女達はその変化にどう立ち向かってゆくのだろうか?
稼げるだけの技術や才覚があれば良いだろうが、技術は維持するのに日々の鍛練が必要でソレを怠ればアッという間に錆び付いてしまう。才覚も宝石と同じで磨き上げてやらないと光り輝く事は無い。
リスクヘッジとして何らかの措置を講じてあるんだろうか?
<しているんだろうよ>
こんな下らない事を考えている内にさっきの肉食系リスの店員さんともう一人、アンパンマンに出てくるジャムおじさんを女性にした様な印象を発散している同じパティシエ姿の店員さんがオレの昼食、いや米の飯を追い抜いてフライング登場のデザートを運んで来た。
2人掛かりとは、御迷惑をおかけしますな。
リスさんがケーキ類を搭載した方を、ジャムおじさんがポット・カップ・ソーサーとカトラリーから構成される紅茶セットを搭載した大きめのトレイの運搬を各自が分担している。
「お待たせしました」とリス店員さんが言ってから、彼女達は芸術的とも言える位に壮麗にケーキ達が並べられた藍色の模様が入っている白い磁器の大皿と紅茶が容れられたこれまた白い磁器製のポット、カップ、ソーサーにティスプーン、そしてフォークなどのカトラリーをテキパキと手際よくテーブルの上にセットし始めた。配置作業が終わると2人はペコッと頭を下げてから揃えた様にユニゾンで、
「ごゆっくりおくつろぎ下さい」と言って立ち去った。
オレは彼女達の口許、唇の端が奇妙に歪んでいるのを見逃さなかった。20代男性が単独でケーキ屋に来店、10個もケーキを注文して独りで喰おうとしている、という珍現象を目の当たりにして笑いを堪えるの必死だったのだろう、と判断した。
店のバックに戻った今、噛み殺していた感情を破裂させて爆笑しているに違いない。
男性だって甘いモノ喰いたい時くらい、あるよ。
ま、そんな事は放って置け。
どうせ将来にも同じ様な状況は必ずやってくるのだから、な。
アイドルみたいな雰囲気の店員さんに柱の影で笑われる、みたいなヤツ。
何年か後に現実となりそうな予感がビシバシする。
でも、幾らなんでも10個は多過ぎだったかな?
<オイッ! 腹が減ってたんじゃないのか?>
そうだった、忘れてた。
あまりの空腹さ加減が飢餓感を麻痺させちゃってたよ。
伊万里焼の様な紺色の控え目な装飾が施されたポットを取り上げて、慎重に狙いを定めて注ぎ口から紅茶をカップに一滴も溢さない様にしながら丁寧に注いだ。
こういう時、腹減ってる時は特に、慌てるとドバっと溢しちゃうんだよね。
蒸気と共に立ち昇ってきた芳香がオレの鼻腔をくすぐった。
やったッ!
ウバに変更、大正解だッ!
オレの勘、大当たりッ!
ピーク・クオリティの香りがする。
1年間の内でわずか2週間しかないクオリティ・シーズンに収穫される非常に貴重なウバはサロンパスの成分であるサルチル酸メチルの匂いを放出する。
それがピーク・クオリティの香りだ。
あ、サロンパスって聞いて顔をしかめたね。
別にイヤな香りじゃない。湿布薬のあのツーンとする臭いとは違ってコレはとても鼻に優しい。爽やかな芳香と言えばいいのかな。味に関して言えばウバは紅茶の中では漢方っぽい印象を舌の上に残すが、その何割かはこのサルチル酸メチルの存在がもたらすモノだ。何故なら人の味覚の大半は嗅覚に依存する感覚だからだ。その証拠に風邪を引いて鼻が詰まると料理の味が全く分からなくなるでしょ?
アレッ?
疑ってる?
もし疑問に思うなら、鼻を摘まみながらご飯食べてみて。
一発でその疑念は解消するから。
しかし、このウバだ。
凄いな、葉山って土地は。
普通にこんな凄ぇ紅茶がポンって出て来るんだからな。
東京にだって中々ないんじゃないか、こういう店は。
ウバの色は紅茶としては比較的薄い方で、むしろ濃い目の緑茶に近い感じだ。
カップを取り上げるとその濃厚な香りが一層湧き立った様に鼻を衝いた。
香りもどちらかと言えば緑茶に近いかも。
一口ウバを啜ってみる。
うーむ、味も典型的な紅茶のソレとは少し違う感じの印象を受ける。漢方薬っぽい。
少し渋みが強いかも。ウバとダージリンは1200m以上の高地で栽培されるそうだから、こういう香り・味になるのだろうか? この二つはこれら以外の紅茶と比較すると香りと渋味がより強く出てくると何かで読み聞きした記憶がある、何だっだか忘れちゃったけど。
オレは素直にその香り高さと味に満足した。さすがアッサム(インド)、キーマン(中国)と並び称される世界三大紅茶の1つだけの事はある。(筆者注:ウバはスリランカ)
アレッ?
ダージリンって三大に入ってないんだな。
今、気が付いた。(筆者注:ダージリンはインド高地、ヒマラヤ山脈の麓の山岳地帯。世界三大紅茶については諸説あります。ダージリンが入っている分類も当然あります)
さて、意を決して片っ端からケーキどもをやっつけていく事にするか。
お皿の上は満艦飾風に彩られている。
ドレからにしようかなぁ?
よし、決めた。
やはり先陣を切るのは謎のお菓子ちゃん、カルバドスだ。
銀製のフォークで真っ二つにして片方を開けた大口に放り込んだ。
美味いッ!
使用しているカルバドスが特別なモノなのかも知れないが、銀のフォークで切り取った一片を口の中に入れた瞬間に、バッと豊かなリンゴの風味が口腔内全体に拡がる。甘味は抑制されているが、量とか質とかが全ての材料に関して完璧で一筋の過不足も無く、完全に調和しているので、不満などは一切感じない。コレ良い。凄く良い。美味い。
アッちゅう間にカルバドス、この世界から消滅。
飢えた胃の腑に染み渡って行くのを感じる。
お次は4角錐型の不思議な形をしたモンブランさん。
オオッ!
モンブランだ、モンブラン。
変な形をしていても、やっぱりアナタはモンブランでした。
コチラも美味いなぁ。
栗の香りが堪らないよぉ。
さてネクストバッターボックスに控えているのは、ジャーン、鱗みたいに苺がビッチリとくっ付いているケーキ、これも分類上はショートケーキになるのだろうか?(注6)
ま、いいか。
ウワッ!
美味いッ!
苺の程良い甘みと酸味が良い具合に生クリームの脂肪分と絡み合って、単なるショートケーキを一段階上の食べ物に昇華させているぞ。
良い。
この店、素晴らしい。
オレの選択眼は間違ってなかった、大正解!
さて、お次は、と...
さっきオレは『頼み過ぎ』かも知れんと言った。
前言撤回だ。
アッという間にケーキ達は胃の腑の暗闇の中に消えて行ってしまった。
うーむ、この原因は主に2つ。
1つは、このぺストリー達が非常に美味いからだ。
犬と同じ様にオレの喉は美味い物をスルスルと通過させてしまう。
母によく『またハグハグしてる。もっとよく噛みなさい』と注意されたものだった。
2つ目は、ペストリー1つ1つがあまりにも小さ過ぎる事だ。
カルバドスを例にとると四角錐底部の四角形の一辺の長さは4cmほどだろうか?
小さいなぁ。
二口で完食しちゃうよ。
せめてあと1cmデカければ、三口までは持続させられるんだが...
ま、美味い物は瞬時に消えるもんだ。
バッフェ方式のレストランなんかでも本当に美味しい料理はアラッという感じで瞬間蒸発してしまうじゃないか、そうだろ?
オレは空気を載せているだけになった大皿を見降ろしながら、コレも残存容量が僅かとなりつつあるウバを慎重に啜りつつ、そんなどうでも良い事を考えていた。
そう、デフォルト・モード・ネットワークと呼ばれる状態に陥っていた。
つまりボーッと生きていた訳だが、その時にオレの耳朶を打ったのは部屋の反対側で女子会を開催している有閑マダム4人組の会話だった。漏れ伝わってくる会話の端々を聞くともなしに聞きながらウバを飲んでいた。
「...それで、そう言った訳」
「フーン、ソレはソレで良いんじゃないかな。ところで、甘いケーキばかりだと、何か時々こう『cackleberries and grunts』みたいな塩辛いモノが欲しくならない?」
「そうそう、塩昆布とか、ね」
「いいね、それ」
「ヤッパリ小豆には塩、だもん」
「粒あん、絶対に粒あん」
「それってスイカに塩ってのと同じなのかな?」
「ちょっと違うんじゃない?」
「あ、そういえばこの間、秋谷の...」
何じゃ、これは。
午後の白い空白の時間を潰している有閑マダム達のグループの気怠くて超微速的な会話の進行状況はオレにとって意味不明の箇所だらけだ。
甘いケーキが喰いたくてココに来たんじゃないのか?
粒あんとか漉しあんとか、流れに全然関係なくない?
『cackleberries and grunts』って何じゃろ、ホイ?
(筆者注:俗語で、ベーコンエッグの事です。ちょっと御下品な表現なので使っちゃダメ)
ま、いっか。
残っていたウバを飲み下す。
美味かったなぁ、ペストリーもウバも最高だ。
満足満足。
さて、チェックを済ませてメインディッシュ、お米の飯の探索に出発だ。
オレは4人組に気付かれない様に音を立てない為の最大限の注意を払ってシューッと椅子を後ろにズラしスッと腰を上げた。
出発する為にカブに跨ってショウエイのヘルメットを被りアゴ紐を結んでいる時、オレは皮質内に鎮座するミスター客観に詰問されていた。
<確かにお茶もケーキも美味かったが、いささか高過ぎやしないか、値段が。
あんなに小さなケーキが一個平均で500円ほど。
加えてお茶のセットが1000円とは。
合計で6千円のデザートってのは、どうだ...あり得なくないか?
そんな出費している余裕は今のお前には無い筈だが、どうした、おい?>
良いんだよ、松島先生にお願いするって決めたんだから。
<流行のリファーラル採用ってヤツだな>(注7)
ああ、そうだ。
<もし首尾が不調に終わったら、どうするつもりだ?>
そんな事は無い。
松島先生が仰られた事に誤謬、つまり間違いというモノは存在していない。
<不測の事態って言葉、知ってるか?>
もちろん。
<それでも彼を全面的に信用するんだな? それで良いんだな?>
そうだ。
そんな事は絶対に起こり得ないが、もしも地球上に暮らす76億人の人々が松島先生を疑う事態に陥ったとしても、オレだけは彼を信じる。
彼は、彼の言葉は信用に値する。彼が『こうだ』と言う時、ソレは確実にそうなる。
お前、ソレを疑うか?
<イヤ>
それに、もし不測の事態とやらが訪れたとしても、だ、コレはオレの人生なんだ。
オレが自分のケツを拭くだけだ。
ジイちゃんと2人でヴェガ・シシリアのウニコを飲んでいる時に、彼は言った。
『イイか?
自分の人生に対して責任を背負っているのは自分自身だけだ。
だから好きな様に生きろ。
他人様に迷惑を掛けなければ、何をやっても全然構わない。
なにせ全責任を負ってるのは、お前一人なんだから、な。
責任を取る代わりに好きな様に生きる権利を神様から与えられているという訳だ。
心臓が拍動を停止するまで、全身全霊を掛けて自分が心の底からやりたい事だけを、やれ』
そう言った後でいつもは感情の起伏を顕わにしないジイちゃんが珍しく高らかに笑った。
そうだな、ジイちゃん。
その通りだ。
テイク2は無いんだからな、人生には。
三浦と言えばマグロだ。
という訳で半島の先端に位置する三崎港を目指す事にした。
アソコに行けばマグロ料理の1つや2つはあるだろう事は確実だ。
国道134号を南に進路を取った。
先程昇って来た坂道を今度は下って行って葉山の御用邸の前のY字の交差点を左に曲がって海沿いを走って行く。プラッと現れた青看板に三崎港の文字が現れている事を視認して進路に間違いが無い事を確認、安心してそのまま南下を続けた。
道の右側、海沿いにも、そして左側の山麓沿いにもポツポツポツという感じで食事が出来る店が現れるが、どいつもこいつもレストランだったりカフェテリアだったりで米の飯を提供してくれそうな所では無さそうだ。ま、いい。三崎港に行けば絶対にマグロが盛大に搭載された鉄火丼や魚種豊かな海鮮丼を提供してくれるお店が存在している筈だ。
あ、さっきのケーキ屋さん、イートインスペースの代わりにカフェテリアの方が響きが軽やかで爽やかじゃないか?
帰りにもう一度寄って教えた方が良いかな?
『気味悪がられるだけだと思うが』
それもそうか。
あっと、海沿いにカレー屋を発見。
ダメだ、閉まってるみたいで照明が点いていない。
仕方無い、スルーだ。
大楠山に至る脇道が丁字の形でR134に接続してくる交差点を過ぎて少し行くと右手、海側に何やら大きな建物の群れが見えて来た。
何じゃい、アレは?
突然現れた白看板が表示する所によると市民病院を除くほとんど全てが自衛隊関係らしい。
オレは軍隊というシステムが生理的に好きになれない。
何のカンのと理由を並べ立てても所詮は人殺し若しくはその潜在的予備軍の集団だからだ。災害時の人命救助などと綺麗事を言っても、構成員に教授されるスキルはただ単に人々を殺傷する為の技術で、それ以外には使い道の無いモノだから、だ。
あー、桑原桑原。
ジイちゃんは言った『軍隊で習う事は非常にシンプルだ。軍人の仕事は出来るだけ多くの敵兵を殺し、可能な限り敵側の弾丸を自らの身体で受容して盾となり、味方の被害を最小限に止めるという事だ。殺し、殺される。それが軍隊の本質だ。ソコにヒロイズムなどという陳腐なモノは存在していない。「非情」に実存主義で現実主義な世界だ』と。
そんなの、滅法ゴメンだ。
だからタイミング良く出現したT字の脇道に衝動的に逃げ込む様に左折した。
ターンインする直前に青看板に視線を走らせると『県道26号』という文字と『横須賀市市街』という名称を確認できた。
マグロは諦めてカレーにしよう。
横須賀はカレーで有名だからな。
さっきの閉店中のカレー屋をスルーしてから、腹が急速にカレー腹に変化しつつある様だ。
よし、カレーに照準ロックオン。
カレーが横須賀の名物になった起源には東郷平八郎という旧帝国海軍元帥が関わっているみたいだが、この際、ソレは無視する事にしよう。大体、ヤツが舞鶴時代に奨励したのは肉ジャガじゃなかったっけ?
そげなコツは、どうでん、良か。
何でか知らんが薩摩弁になってしまったが、それは横に置いておいて、
結局の所、オレの現在の最優先事項は、米の飯を喰うという事だ。
道なりに走って行くとこの道路沿いにはクルマのディーラーが多い事に気付いた。
日産、フォルクスワーゲン、トヨタカローラ、ホンダ。
チョット数えただけでこんなにもある。
もし『不測の事態』が勃発したらディーラーに就職って手も『アリ』だな。
おっと、赤だ。
赤信号で停止しているクルマの列の後ろに並ぶ格好でカブを停止させた。
その時、ふと誰かに呼ばれたような気がして、声が到来してきた方向、左側に頭を回す。
ホウ、964カレラRS。
銀色のポルシェ911-964カレラRSがおケツをこちら側に向けて駐車していた。
ププッとクラクションを鳴らされて我に返った。
カレラRSをズッと見つめ続けていたらしい。
夢中になって1つの事に没頭しちゃうとシャッター反応の様に機能停止に成っちゃう時があるんだよね。幸いにもクルマ運転してる時や勉強してる時、メカをイジっている時とかには発生しないから助かってるんだけど。
左手を上げて後続車に詫びると、車道との段差が傾斜面によって解消されている部分から歩道に乗り上げてなるだけ歩行者の迷惑にならない様に際々にズリズリと引き寄せてからスタンドを展開してエンジンを切りカブを停車させた。
964カレラRS。
オレの記憶が確かなら総生産台数は2398台で、日本に正規ルートで輸入されたのは、えっと、230台だったかな。
そんな希少なモデルが何故ココに?
よく観察するとRSが置かれているスペースは工場の敷地内の車寄せの様な場所だった。
何の工場なのか確認しようと顔を上げると白地に黒々と太字で『荒川自動車』と書いてある看板が掲げられていた。フラフラッとまるで夢遊病者のような足取りでRSに近寄って行く。その途中で事務所なのだろうか、ガラス越しにデスクや書類棚などが見える部屋の壁に1枚のポスターが貼られているのが眼に入った。
『何だろう?』
何のポスターなのか確認する為に近付いた。
それはポスターでは無かった。
『自動車整備士募集中』と白い紙にマジックで太々と書かれた人員募集の張り紙だった。
男の相貌に浮んでいたのは明らかに困惑という感情だった。
戸惑っていたとも表現できるかもしれない。
男はソファセットの独り掛けの椅子に深々と腰かけてオレの顔を困った様に見詰めた。
オレは2人掛けの広々とした方の椅子に浅めに腰かけて彼の視線を受け流す様にしていた。こういう時、先に口を開いた方がその場のヘゲモニー(hegemony:支配権・主導権など)を掌握できる事は知っていたが、何となく黙っていた方が良い様な気がしていたので開口するのは止める事にした。
数分前に、オレが「失礼します」と声を掛けながらドアを開けて事務所に入ると、奥の机に着いて何やら書類と格闘していた男がコチラに顔を向け「はい」とだけ答えてから立ち上がって「何のご用でしょうか?」という当然の質問を投げかけて来た。
「あのぅ、表に張られている整備士募集の張り紙広告を見たのですが...」
『ああ、アレね』という表情を浮かべながら「じゃ、ソコに座って下さい」とソファの2人掛けの方を左手で指し示した。オレが指定された椅子に腰を下ろすと、男はユックリと歩み寄って来て木製のテーブルを挟んで設置されている独り掛けの椅子に対面する格好で腰掛けた。
『ジイちゃん?』
風貌は違うのに、何故かジイちゃんを連想した。
記憶の中のジイちゃんよりも少し小柄だったが、それでも男の身長は優に180cmを超えていた。玄武岩の大きな塊から削り出した岩石の表面に皮膚一枚を貼り付けた様な質実剛健を絵にしたような顔貌にはグランドキャニオンを思い起こさせる皺が幾筋も刻み込まれていた。太く長い見るからに丈夫一徹の両腕の先にはそのままでも十円玉を曲げられそうなゴツくて頑健な手が付いている。年齢は50代後半か60代前半に見える、よく解らないが。しかし、そうだとしたら身体から発散されてくる雰囲気は非常に若々しく、そして年齢の割に長い脚をしていて、だからツナギの作業着が良く似合っていて格好良かった。
だから、相貌や容姿は違うけれど、何となくジイちゃんを思い出したのかも知れない。
あ、そうだ。
可愛がっていた中堅のお笑い芸人から掛かってくる電話にいつも「ハイ、勝新太郎ですが」という第一声を発していた俳優さんに雰囲気がソックリだ、という結論にオレは達した。
「履歴書を拝見できますか?」男が言った。
「スイマセン。つい今しがた、張り紙を見たばかりなので。用意してないんです」とオレが答えると、男は次に繋げる言葉を失った様に押し黙ってしまったのだ。
2人の間には相変わらず沈黙が横たわっていたが、ソレは重量が大きく居心地が悪くなってしまう種類では無く、海外電話に付き物の、まるで実際の会話をしている様な暗い太平洋を横切って一万キロ彼方から到来する、気詰まりしない沈黙だった。
しかしこのまま黙り続けて会話を進めなければ、何も始まらない事も確かだった。
その時、表でフラットシックスの音が鳴り響き始めた。
男とオレは音に引き寄せられるように外に視線を移した。
銀色のカレラRSが工場の奥の方に向って移動して行く所だった。
「従業員さんですか?」
「いや、家のカミさんです」と男が答えた。
そして立ち上がって入口の方へ歩いて行き、ドアを開けてからカレラが言った方向に向かって「オーイ、お客さんだッ! 終わったらお茶を淹れてくれないかッ!」と大声で言った。
戻ってきて再び同じ椅子に腰を下ろしてから「失礼しました」と男は言った。
オレは空間を埋めるために就職の件とは全然関係ない事を話し始めた。
「あんな希少なクルマ、RSをあんな風に停めておけるなんて、治安が良いんですね?」
「イヤ、まぁ、治安は悪くないけど。アレはお客さんの要望でサイドブレーキ引いてないんです」と男が言ったので、オレは「アア、1速に入れてるんですね?」と訊いた。
男はスッと僅かに眉を上げ微かに眼を見開いてから「そうです」とだけ言った。
「実際に運転した事が無いので耳学問に過ぎないのですが、ポルシェのシフトパターンはリアと3速が入れ辛いらしいんです、ね?」オレが訊いた。
「そう、どちらかというと1速と3速の距離が近いので2速からシフトアップする時に間違えて1速に入れやすいんです」でも、リアに入れるのも難しいんですが、と男は答えてから、リアの位置が日本車と違うんで、と続けた。(注8)
知識としては知っていたが実際にソウなんだと確認できて、オレは少し感動した。
「リアは1速の左横、でしたっけ?」と言うと、
男は軽く頷いて肯定した。
「なるほど。ギアシフトが特殊なので、昼間だったら少々放っておいても大丈夫という事なのですか?」
「イヤぁ、ポルシェ専門の窃盗犯グループの手に掛かったら全然ダメですから、一応盗難防止システムは搭載させてあるんです」アッという間に持ってっちゃうからね、アイツらは、と男は苦く笑いながら、言った。
「オーディオすら積んでないRSに盗難防止システムですか」オレは感心した様に言った。
ああ、まぁ、と男は声にならない声を漏らした。
オレと男の間を専制していた沈黙は日光に照らされて雲散霧消する霧の様に何処かへ後退して行ったようだ。気詰まりでは無かったから無理に会話をしなくても良かったのだろうが、沈黙自体は歓迎すべき状態ではないし、言葉のキャッチボールをしていた方が自然だ。
その時に「すいません、お待たせしちゃって」と言いながら奥さんが事務所の北側にある扉から入って来た。どうやらそちら側が工場になっているらしい。
「お茶、淹れてくれ」と男が言うと、
「何度も言わなくてもいいよ、チャンと聞こえてるから」と奥さんが答えて、隅っこに設置されたキャビネットからお茶の道具一式を取り出して淹れるプロセスに取り掛かった。
奥さんを見て、何となく柴又の団子屋に勤めている設定で引っ詰めの髪形をしたお姉さん役を演じている女優さんを連想した。なんか言葉の端々までチャキチャキしている印象だ。
夫婦の間でチラチラと交わされる視線の交流から、男が奥さんにオレという人物の値踏みをする様に依頼している様な雰囲気を感じる。そりゃ、そうだ。
あ、まだ、オレ、名前告げてないや。興奮していたのかポッカリと忘れてた。
「あのぅ...すいません。ついウッカリしていて、自分の名前を言ってなかったですよね。
オレ、イヤ、僕は六分儀研吾と言います。今月に東京工業大学工学院・機械系・学士課程を卒業しました」と頭を下げながら男に告げた。
すると男の顔が少し緩んだ、様な気がした。
勘違いかな?
違ってなかった。
奥さんがお茶を男とオレの前に1つずつ置いてから、
「アラ、そうかい。じゃ、セイイチさんの後輩じゃない。ウチの人も東工大の出身だよ」と言った。
セイイチさん?
どういう漢字なのかは未だ不明だが、少なくともこの男の名前がセイイチだという事と、大学の先輩であるという事実は判った。
「アンタ、自分は名前言ったのかい?」
「あ、イヤ、実はまだ...少しビックリしちゃったから」
もう仕様が無い人だね、という顔をしながら奥さんが言う。
「この人はね、ノノハラセイイチ。ここの社長兼整備士。それで私が妻で副社長のサクヤです」
オレはサクヤさんにペコッと頭を下げた。
サクヤさんはセイイチ社長の方を向いて「なんでビックリしてたのさ?」と訊いた。
「イヤ、あの...整備士の募集で来たんだが、履歴書持ってないって言ったモンだから」
「履歴書なんか後で構わないじゃないか。チャンと面接してあげなよ」
「まぁ、そうだな。えーと整備士の資格は?」セイイチ社長がオレに尋ねた。
「いえ、まだ取得していません」
「じゃあ、メカニック...整備の経験は?」
「大学の研究室で4年間BNR32、GT-Rのレストアとチューニングを。内燃機関の高効率化の研究に関係しているのですが、その作業の中では、主にエンジンを担当していました」
セイイチ社長の顔がもう少し綻んだ様に感じた。
「研究室はドコ?」
「松島麗次郎先生の研究室です」
「マツケン、だね?」
凄ぇ! 松島先生の名前はこういう所まで響いてきているのか?
「そう、じゃあ、主にRB26に関して作業をしていたんですね?」
「ハイ、そうです」
「エンジンの整備やチューニングについて、ですが、一番大切な事は何だと思いますか?」
セイイチ社長はオレの双眸を貫く様に見詰めながら、問うた。
「...バランスだと思っています」少し考えた後、オレが答えた。するとセイイチ社長の口角が僅かに上がって、非常に楽観的な判断をするならば、微笑を浮かべた、様に思えた。
「それで、何でこんな唐突な感じで来たんですか?」募集の張り紙を見てスグじゃなくても、とセイイチ社長は言った。
「あのう、少しおかしなコトなんですが...」オレが少し言葉に詰まって言い淀むとサクヤさんが「別におかしい事でも何でも良いから、言っちまいな」と助け舟を出してくれた。
はぁ、と息を吐いた後でオレは「あの、赤信号でココの前に停車している時に誰かに呼ばれた気がして、声のした方を向いたら、あのカレラRSがいたんです」と言った。
オレの非科学的な告白にサクヤさんとセイイチ社長の2人は顔を見合わせ黙ってしまった。
しばらくの間、事務所内を空白の時間が支配していたが、オレの顔を見て何か決心した様な顔付きで「カレラRSに呼ばれたってのかい?」とサクヤさんが訊いてきた。
「ハァ、あの...別にそういうオカルトチックな事を信じている訳では無いんですが...」
「オマエさん、この子、雇ってやんな」サクヤさんがセイイチ社長に言った。
「オイオイ、ソイツはチョット性急だと俺は思う」履歴書だってまだなんだから、とセイイチ社長が小さめに反論した。
「大丈夫だよ、この子なら。きっと機械の声が聞こえる様に成るさ」サクヤさんがオレを見て、微笑みながら言った、「絶対」
保土ヶ谷バイパスを降りるとR246を東に進路を取った。
しかしスグに左折して町田街道へと入って北へと進んだ。
因みにそのまま真っ直ぐR246を東進すると、程無くして右手に東工大のすずかけ台キャンパス(横浜市緑区長津田町)がその姿を現す。
キャンパスの南側に高尾山と呼ばれる高さが100.4mの小さな山がある。
東京八王子市の高尾山と何か関係があるのかどうか、オレは知らない。
約束の地、原町田に向ってクルマを走らせて行く。
不意に、小3の時にジイちゃんに尋ねられた事を思い出した。
『何によって憶えられたいのか? 今、答えられるとは思わない。でも50歳になっても答えられないのなら、人生を無駄にしたことになるぞ』
「他者からどの様に規定されたいのだ?」
ジイちゃんの言った事がサッパリ判らなかったのでキョトンとするだけだった。
オレの頭の上に大きな疑問符が浮かんでいる事を悟ると、ジイちゃんは質問の内容はそのままに違う言葉を採用した。
「どんな人物だと認識されたいのだ?」
「他のひと達から?」
「そうだ。何によって自分を憶えられたいのか、言い換えれば自分の特質、他人とは違う特徴、自分と他の人々とを区別する何か。他者には無く、自分だけが備えるモノ、だ」
オレは小さな灰色の脳細胞を駆使して答えを出そうとした。
「...仕事...とか?」
「ソレも可能性としてはあり得る。職業、人柄、属性など、様々なモノがお前と他者の間に境界線を引くかも知れない。だが、その中で何をもってして、他の人々に記憶されたいのだ」
そんなコト、わからないよ、オレ、まだ小3だぜ。
表情に浮かんだのだろう、ジイちゃんが口の端に微かな笑みを携えながら続きを言った。
「今はまだ答えられなくても構わない。お前の人生は始まったばかりなのだから、な。
だが、将来50歳になった時にも答えられないのだとしたら、お前は自分の人生を無駄にした事になるぞ。
時の矢は速い。
兵は巧遅より拙速を尊ぶ。
人生を選択するのに早過ぎるという事は、決してないのだ」
ジイちゃんの言葉が想い出される。
ソレが胸の底をコチョっとくすぐってオレを呆然とさせる。
ま、現実的には町田街道、クルマの数はそんなに多くは無く、流れは至って順調だ。
大丈夫、約束の時間にはまだ余裕が余りあるさ。
だが、微かにスロットルを踏み増した。
今なら胸を張って、答えられるよ、ジイちゃん。
オレは、他人から『超一流のエンジン屋』だ、として憶えられたい。
超の冠が付いた、だ。
注1:ロレックス・モデル・デイトナについて。
ロレックス・デイトナは正式名称が『コスモグラフ・デイトナ』で1963年から発売されているモデル。プロのカーレーサーのニーズに応える様に設計された信頼性の高いクロノグラフ(chronograph:ストップウォッチなどの機能を備えている腕時計)とタキメーター目盛(tachymeter:速度計)が刻まれたベゼル(bezel:時計のガラスのはまる溝縁)が400km/h(マイル表示可)までの平均速度を正確に計測する事を可能にする。
注2:デイトナ24時間レースについて。
フロリダ州デイトナにあるDaytona International Speedwayで行われる耐久レース。
1962年から開始され、以来毎年1月の最終週と2月の初頭に開催されている。
ル・マン24時間とスパ-フランコルシャン24時間と合せて世界三大耐久レースと呼ばれている。
高速オーバルコース(Tri-Ovalと呼ばれている。三角オムスビを上下逆さまにした格好をしているから。Ovalは楕円の意:コース距離は4.0234km)と、途中に組込まれたテクニカルセクション(1.7066km)の2つでコースレイアウトが構成されている。故に一周の長さはトータルで5.73km。
このデイトナ24時間レースには毎年55台以上が出場するのでコース上は何時も超過密状態である。
1992年、VRH35Zというエンジンを搭載した日産NismoR91CPというレーシングカーが日本勢として初めて総合優勝した。ドライバーは星野一義、長谷見昌弘、鈴木利男(予備:アンデルス・オロフソン)。この92年からロレックスがスポンサーとなり優勝者に腕時計のデイトナを贈る様になった。
このVRH35Zを開発したのが、それまで日産中央研究所に所属していた林義正氏。
元々はエンジンの専門家であるが、この時はクルマ全体の統括開発責任者であるCカー・プロジェクトマネジャーに就任していた。
因みにベルギーのスパとフランコルシャンという2つの街にまたがって建設されているサーキットであるCircuit de Spa-Francorchamps(一周7.004km:2007年~)で毎年開催されているスパ-フランコルシャン24時間レースにおいて、1990年にR32がGr.N(グループNというクラス)に出場、1・2・3フィニッシュしている(クラス優勝)。その翌年の91年には前年に引き続きR32はGr.Nでクラス優勝、Gr.A(グループAというクラス)に出場したR32が総合優勝した。この時、Gr.AのR32は2位のクルマを20周以上引き離してゴールするという、とんでもない快挙を成し遂げている。
ドライバーは服部尚貴、アンデルス・オロフソン、デビッド・ブラバムの3人。
注3:Black Mondayとは。
Black Mondayを直訳すると『暗黒の月曜日』となるが、アメリカにおいては二つの経済的事変を指す。
1.1929年10月28日の月曜日:この日ニューヨーク証券市場でダウ工業平均(株価)が13%と大幅下落した。これを契機に世界的大不況(=the Great Depression)が発生した。
2.1987年10月19日の月曜日:この日ニューヨーク証券取引所で株価が暴落し、世界的株式不況の口火を切った。
この小説の設定では、ケンゴが荒川自動車に入社してから数ヶ月後の9月に米国金融大手のリーマンブラザーズが経営破綻して倒産。これを『リーマンショック』と呼び、世界的な大不況の嵐が吹き荒れた。ケンゴ君、ラッキー。多分3社とも内定とかくれなかったと思うよ。
注4:CGTVについて。
カーグラフィックに関連してカーグラフィックTV というTV番組が製作されておりBS朝日にて放送されている。地デジ化以前は地上波のTV朝日でも放送されていた。
出演者は松任谷由美のプロデューサーで彼女の旦那様でもある松任谷正隆とCGの編集員。
ナレーションはガンダムのアムロ・レイ役で有名な古谷徹。
注5:カルバドスとは。
カルバドス(Carvados)は仏北西部に位置するBasse-Normandie地域圏のイギリス海峡に臨む県。県都はCaen。(カン)カルヴァドス地方産のリンゴ酒(シードル)を蒸留して作られるアップルブランデーも同じくカルバドスと呼ばれる。研吾と店員さんの会話に上った『カルバドス』はもちろん後者でアップルブランデーのカルバドス。
注6:ショートケーキについて。
日本ではスポンジ生地と泡立てた生クリームを合せたモノは全てショートケーキと呼ぶ。
だからケンゴ君が食しているペストリー類の内、ムース類やシュー・ア・ラ・クレームを除く残りの全てがショートケーキ。ガトーショコラも生クリームを使用していれば日本ではショートケーキの仲間に入る。尚『gateau』は仏語で『デコレーションケーキ』の意味。
では何故ショートケーキというモノが出来たか?
不二家の創業者である藤井林右衛門が約100年前に渡米した際にショートニング(食用加工油脂)を材料に使っている『ショートケーキ:short-cakes』に遭遇してその美味さに感動、日本でも売り出そうと考えた。
『short』という単語本来の意味は『サクサクした食感』で、その当時のアメリカにおいての『ショートケーキ』はその意味通りにサクサクした食感のビスケット生地2枚でホイップした生クリームを挟んだお菓子だった。だが藤井はこのままでは日本人の口に合わないと判断、ビスケット生地を食感がカステラに似ているスポンジケーキ生地に変更するという日本人向けのアレンジを施した。昭和30年代からショートケーキがは日本全国に広まっていったが、その時イチゴと生クリームの組合せが一番人気となった。最初はホール(切り分けてない丸いまんまのケーキ:whole:『そっくりそのまま』という意味:米国ではこの状態のケーキをround〔円形物の意〕とも呼ぶ。半分に切った丸いケーキはhalf-round。尚、方形のケーキの場合は丸くないのでroundは使わない)のみで販売されていたが、お客さんの要望で最初から切り分けられているモノも発売するようになり、これが大ヒット。
やがてこの切り分けられたケーキがイチゴの載った『ショートケーキ』の一般的イメージとなった。筆者は米国で本来のサクサクしているショートケーキ(イチゴ入り)を食べた事があるが、とても美味しかったと記憶している。現在なら日本でもウケると思う。
注7:リファーラル採用について。
リファーラル採用とは、求職先の会社に勤務する社員の紹介による採用。
Referral:面接後求職者を求人先に回付する事。
注8:ポルシェ911のマニュアルミッションのシフトパターンについて。
ポルシェのマニュアルミッションのシフトパターンでリアのギア位置は1速の左横に設定されている。日本車は5速車なら5速の真下、6速車なら6速の右横だ。
え?
シフトパターン自体が解らないって?
じゃあ、説明が簡単な4速車で超シンプル解説する。
シフトレバーという棒を操作してギアをチェンジするんだけど、その棒を『H』の形に沿って動かして使用するギアの切り替えをする。
『H』の横線の真ん中がニュートラルでギアが繋がっていないフリーの状態。ここにシフトレバーがあるとエンジンが掛かっていても前にも後ろにも進まない。
『H』の左側の縦線の頂点にシフトレバーを入れると1速。
左の縦線の最底部に入れると2速。
右側の縦線の頂点に入れると3速で最底部に入れると4速。
5速は3速の右横に設定される。6速は4速の右横。
え?
何故トランスミッションが必要になるのかって?
ガソリンエンジンやディーゼルエンジンの様な内燃機関は低回転時にはクルマを発進させるのに十分なトルク(力)を出力できない。最大トルクはガソリンエンジンの場合、4千~6千回転、ディーゼルの場合は2千~3千回転くらいの時にそれぞれ出力される。
こんな高回転の時にクラッチを接続すると駆動装置全体が破壊されてしまう。しかし何の工夫もしなければクルマは永久に発進できない。そのため必要な出力が得られる様にエンジンの回転数を高め、それを変速機構で減速してトルクを増やさなければならない。
この際に利用される機構がトランスミッションである。トランスミッションは別名を変速機と言うが、ギアの回転数とトルクの間にはある関係がある。
例として2つのギアを挙げる。
1個目は半径1のギアで2個目は半径5のギアだ。
円周は2πr(2×円周率×半径)だから1個目のギアの円周は2πで、2個目のギアの円周は10πになる。1個目のギアがエンジンの出力側で2個目のギアがタイヤ側だと仮定する。この2つを組み合わせた時に、そのギア比は1:5になるが、これは1個目のエンジン側のギアが10回転する際にタイヤ側のギアが2回転する事を示している。
つまりエンジンの回転数を『変速』する結果になる。だから『変速機』と呼ばれるのだ。
回転を減らす時は『減速』、回転を増やす時には『増速』となる。減速するとトルク(力)が増え、増速するとトルクは減る。上の例でいうと、(タイヤ側で)回転数は2分の1に減り、トルクは2倍に増えることになる。この関係はギア比を上げても下げても変わらない。
回転数を5分の1にするとトルクは5倍になるし、回転数を2倍にする様なギア比にすればトルクは2分の1になる。この時に出力自体には変化が無い。
あ、この『出力』とはトルクと回転数を掛け合せたモノです。
この原理を利用してトルクを増大しているのがトランスミッションである。
しかし変速比が1個だけではクルマの速度が高まるに連れてエンジン回転数が上昇し過ぎてトルクが落ち込んでしまうのだ。変速比を変えながら、つまり使用するギアを切り替え切り替えして行けば常に最大トルク付近の回転数を使い続けられ、加速し続けられる。
燃料消費率の低い(燃費が良い)回転数を使い続ける様にすれば、燃費が良くなる。
トルクとは、捻じりモーメントで、軸を回転させようとする力の事。単位は『Nm』。
現在は『Nm』を使うが、説明するには昔の単位である『kgf・m』の方が理解しやすい。先に説明した様にトルクとはある回転軸を回す力で、回転軸から1mの長さの棒を直角に出し、その先端に1kgの重さを加えた時に、回転軸に生じる回転力が1kgf・mとなる。
1kgf・mは約9.84Nmで1kgf・mに重力加速度1Gの9.8を掛けたモノに等しい。
トルクはクルマの加速に関係していて。大きい程加速力が強くなる。
トルクは、エンジン回転数が低い時には小さい。エンジンの回転数が上昇するに連れてトルクは大きくなっていき、ある回転数域でトルクが最大になる。ソレ以上の回転数では逆にトルクは小さくなっていく。これをグラフ化したモノが『トルク曲線』で理想的な形はなだらかな台形である。ケンゴのR32のエンジンはこの理想形にかなり近くセッティングされている。
エンジンの出力とは、一定時間にどれだけの仕事が出来るかを意味するモノ。トルクと回転数を掛け合せたモノでパワーとも称される。正式な単位は『W』だがクルマに関しては長い間『馬力』を使ってきた。ま、未だに使用されている。馬力の単位は『ps』もしくは『HP』で1psは735.4Wになる。出力(馬力)は最高速度に関係している。馬力が大きい程、最高速度が出せるはず、理論的には。これをグラフ化した出力曲線の形状は『へ』を左右逆転した様な格好をしている。理解を得る為にトルクの存在をあえて無視すると、出力とはエンジンの回転数であり、延いてはタイヤの回転数にも直結する。1分間という基準単位時間内にタイヤがより多く回転すればするほど、よりスピードが増大化するということは直感的にも納得できると思う。エンジンの回転数を示す単位であるrpmはrevolutions per minuteの略で、直訳すると『一分間当たりのエンジンの回転数』である。
尚、エンジンの回転数=タイヤの回転数では無いことには留意しなければならない。
エンジン車では発進する為に、回転数を減らしてトルクを増大化しているからだ。
普通のクルマだとエンジン回転数が3千回転の時に1速ギアで約200回転までタイヤの回転数が減速されている。この数値はもちろん車種によって違う。
BNR32に関して言うと、一速でエンジン回転数が3千回転の時にタイヤは約227回転している計算になる。一速の変速比が3.214で最終減速比を4.111として計算した数字である。
えーと、最終減速比と変速比(厳密に言うと違う機構が担当している)を総合した総減速比を説明する為には紙面が10ページ以上必要になるので残念ながら割愛せざるを得ない。
それに別に知らなくても良い知識だから、要らないでしょう?
どうしても知りたいのなら、Motor Fan illustrated No. 147を参照してね。
余談だが、モーターは始動時から最大トルクを出力できる。現在の主流である同期モーターはある程度の高回転まで最大トルクを維持できる為にトランスミッションは必要無い。
停止した状態からそのまま最大トルクが出せるので電動車は加速性能に優れている。故にエンジン車から電動車に乗換えた人たちが口々に「もうエンジン車には戻れない」というのも肯ける話である。だから2012年に発売開始という古いモデルにも関わらず、日産ノートe-Powerはバカ売れしているのだ。
ここから第三部
テディさんのてのさき、
キラキラって してる、アオいろのクルマがみえる
コッチに はしってくるクルマ
アールさんだ!
アールさん、きてくれた
おじさんパパ、ヤクソクまもってくれた
よかった!
ワタシは うれしくなって、
うれしいのにナミダが でそうになったので
なかないようにテディさんを ギュッとした
こんどは、イテッ って ゆわなかった
『アレッ?』
オレは指定された場所、原町田5丁目に立地している町田市健康福祉会館から道路を挟んで真向かいに位置するセブンイレブンの前にクルマを停めてから、店の方に眼をやった時に独りぽっちのイトちゃんを発見して、軽く驚いた。
第2飯田ビルの一階で路面店だからなのか駐車場は併設されていなかったが、クロネコヤマト宅急便の2トントラックが停車できそうな位に広い歩道が敷かれていた。しかし歩道と車道の段差が気になったのでそのまま道路上に路駐することにしてハザードランプを点滅させてから後方確認した上でドアを開けてR32から降り、後部を回ってコンビニの店先に近寄って行った。(注1)
すると店の前に設置されたベンチにポツンと座っていたイトちゃんが立ち上って、コチラに駆け寄って胸の中に飛込んできてオレの腰に手を回して、抱き付いてきた。
まだ、1回しか顔を合わせてないから、そんなコトされるほど親しくない筈だ。
どうしたのだろうか?
彼女の気持ちを推量しながら、母親が赤ん坊をあやす時に良くやる様に小さな背中を右手でポンポンと軽く打ち続けた。父親的気遣いに当たるのだろうか、この行為は。
支える様にソッとあてがった左手に彼女の細い身体が発している小刻みな振動がヒシヒシと伝達してくる。
何か、泣いているみたいな雰囲気を濃厚に感じた。
おじさんパパがアールさんから おりてきて
ワタシの方に あるいてくるのを みて
ナミダが でてきちゃった
なんかガマンできずに はしっていって
おじさんパパに キューっとした
まだ あってから そんなにイッショにいないから
そんなに ヨクしらないから
おじさんパパ、おこるかな? っておもった
けど、おじさんパパは やさしく
「どうしたの? だいじょうぶ?」って ゆっただけ
せなか ポンポンしてくれてる
カゼひいたときみたいに、ポンポン
おじさんパパ、とても やさしい
ポカポカしてて あったかい
それに、イイにおいが する
お日さまの においが する (注2)
「どうしたの? 結衣...ママは、ドコ?」とオレが尋ねると、イトちゃんは、
「帰っちゃった...んです」と顔をオレの胸に押し当てたまま、くぐもった声で答えた。
なんだと?
5歳の女の子をコンビニの店頭に置き去りにするか、普通?
オレは「もう大丈夫だから。オジサンが、もうちょっと早く来れば良かったね、ゴメンね。
怖かっただろ、独りで?」と訊いた。
かぶりをブンブンと振りながら「怖くなかった...です」とイトちゃんは答えた。
そりゃ、泣いて当然。
周囲の人間は全員、見知らぬ他人なんだろうし、1度会っているだけ、顔を見知っているだけで、もしかしたら遺伝上の父親である可能性は否定できないが、その関係性の実態はほぼ他人同然であるオレなんかにでも、『知っている』という事実のみが頼りとなるから、
ヒシっと抱き付いてくるのも当然なのかも知れん。それは容易く理解できる事だ。
クソッ!
アイツ、一体何をやってんだ?
どういう神経してれば、こんな酷いネグレクトが出来るんだ?
アメリカでは、こんな風に子供を独りで放置すると、たとえ親であろうと児童虐待で即時逮捕されちまうんだぞ、確かにアメリカに比べれば治安状況は遥かに良好だが、特にこんなにも可愛い子、誘拐されても、全然ッ、オカしくないぞ、クソッ!
オレはイトちゃんの背中を優しくポンポンする事を止めて、右腰にクリップで装着させてあったG10製のケータイホルスターからiPhoneを引き抜いて結衣に電話を掛けた。
ップップップップップ...プルプルプルプルプルと発信音が鳴った後、ガチャッと通話状態になった瞬間、『冷静に話す事』を心掛けようとしていた前頭前野の思惑を、ヒラッと飛び越えた大脳辺縁系が感情のヴォリュームを勝手に上げてしまって、
つまり、オレの発した言葉の語気を荒っぽくさせ、詰問口調にさせた。
「結衣っ、オイッ、お前、何やってんだ? イトちゃんを独りぼっちで放置するなんて...」
「...お客様が掛けた電話番号の...」
クソッ!
電源オフっていやがる。
あ、子供の前で荒っぽい口調で怒鳴るのは良くない行為だって、何かで言ってたな。
「ゴメンね、汚い言い方で喋っちゃって」とオレはイトちゃんに優しい感触で伝わる様に最大限の努力を払って、言う。
彼女がかぶりを振って「だいじょぶ、です」と答えた。
「イトちゃんに、言ってる訳じゃないからね」
ウンウンと彼女は首肯いた。
細いコットン糸で織り上げられたオックスフォードカラーのシャツの布地を通して彼女が涙を流しているという事実が伝わってきた。
結衣、本当に何を考えてるんだ、全く。
フゥと、意図無く溜息が口から漏れ出てしまった。
仕方無い。
とりあえず、メール送っとくか。
そしてメールを送る為の操作をし始めた時、オレが路駐させているR32が町田街道に軽い渋滞を創り出している事にようやく気付いた。トランクリッドの右下部に貼られている燦然と輝かしい『GT-R』のバッジが放つ威光に気圧されているのか、誰一人として文句も言わなかったし、クラクション1つ鳴らさなかったから、気付くのが遅れたのだ。
オレは首を曲げて彼女の耳朶に直接「イトちゃん、みんなの迷惑になるから、クルマに乗っちゃおうか?」と出来るだけ優しい口調で、言った。
胸から顔を放してオレを見上げながら、イトちゃんが「判りました。テディさん、取ってきてイイ、ですか?」と訊いてきたから「うん、もちろん。でも慌てなくて良いんだよ。チャンと待ってるから」と伝えた。
彼女はトロットという感じの速度でさっきまで座っていたベンチに駆け寄ってピンク色のリュックサックを持ち上げてから空いている右腕でテディ・ベアを抱え上げて、やはりトロットで戻ってきた。
オレはナビシート側のドアを開けて彼女を乗せようとしたのだが、その時に後続車のドライバーと眼が合った。無意識の内にお辞儀をして謝罪の意を示した。その時にR32に乗り込もうとしていたイトちゃんがオレのした行為に気付き立ち止まって振り返ると、同じ様に後続車に乗っているドライバーにペコッと一礼をした。
すると後続車のドライバー、オレと同じ位の年恰好に見えるが、ニコッと顔を綻ばせた。
オレとイトちゃんは、やはり周囲から見れば、親子に見えなくもないだろうから、男親と久し振りに面会を果した綺麗な女の子だ、と受け取っているのかも知れない。こんな可愛い子にペコリと『ゴメンなさい』って感じでお辞儀されたら、誰だって嫌な気持ちを維持できないだろうと思う。
もしかしたら、この男性も娘さんがいるのかも知れないな、とオレは推量した。
彼女をR32に乗せてからドアで挟んでしまわない様にする為に注意深い視線をイトちゃんの身体にサッと走らせて安全確保を確認してから慎重に助手席のドアを閉め、後部を回ってから運転席側のドアを開けて、もう一度後続車にペコッと頭を下げてから乗り込んで、「そのリュック、後ろの席に置いておくね」と言って彼女から受け取ると後部座席にソッと置いた。そして彼女がシートベルトを締めている事を再視認してから、ユックリとR32を始動させる。ハザードを切ってから、再度2回だけ点滅させて後続車に『ありがとう』の気持ちを伝える事は忘れなかった。
「じゃ、だすね」っておじさんパパは ゆって
アールさんを はっしんさせた
おじさんパパ、うんてんヤッパリ すごくウマい
アールさん、ゼンゼンゆれたりしない
きょうのアサ、ドタバタしてたからトラベロップQQ のむの わすれちゃった
すごいドタバタだったから、
スグにコンビニについたから、
オキたばっかで アタマぼーっとしてたから、
ママのうんてんでも よわなかったけど
おじさんパパのウンテンするアールさんなら、トラベロップQQ いらないかも
でも のんだ方がイイよね、たぶん?
『ダイジョウブですよ、そんなクスリなんかノマなくてイイから』
え?
ワタシはビックリしてマワリをみた
オンナのひと、ヤッパリいない
ダレなのかな?
アールさん、じゃないよね?
『ウフフッ』
ま、いっか
ナミダが でちゃったから
ほっぺたが ちょっとベタベタしてる
ママがきせてくれたジャンパーのうでのところで、ふいてみる
でも、ナミダだけで よかった
ハナミズ でちゃってたら、おじさんパパのシャツ よごしちゃうモン
ソウッとおじさんパパのシャツみると、なんかムネのところ ぬれてるみたい
でも おじさんパパ、ナンにもキにしてないカンジ
よかった
でも、ぬらしてゴメンなさい おじさんパパ
キョウのおじさんパパ、このまえとフクがちがう
このまえはウエとシタが くっついてる、ナンかフシギなフクだった
キョウは、ナンかふつうなカンジのフク
しろいシャツに ママがデニムパンツってゆうヤツ
あと、カッコいいメガネ、イロがついてるメガネもかけてる
このマエは、キリッとしてた
でもキョウは、このマエのときよりも、やさしそうなカンジがするのは ナンでだろう?
キョウは、のんびりしてるカンジ
とっても、いいカンジ
おじさんパパ、とても にあってる
それでね、おじさんパパ きてくれて ホントにアリガトウ
ワタシは シュンシュンって とおってく マワリのけしきを みながら
うれしくなった
うれしくなって またナミダがでそうになって
だからガンバって、ガマンした
しかし何で結衣はあんな駐車場も併設されてないコンビニを待ち合わせ場所に指定したんだろうか? 住んでる近くに幾らでもあるだろうに、もっと都合が良い店が...
横目でチラッとイトちゃんを一瞥すると、スカジャンの袖で頬に付着している涙の残滓を拭っていた。脇に抱えていたテディベアをキチンと揃えた両太腿の上にチョコンと載せている。
よかった。
もう落ち着いたみたいだ。
しかし先程のオレの電話での対応はダメダメだった。
自己抑制不能状態に陥ってしまった。感情がオーバードライブに入って語気を荒くしてしまったけれど、子供の前ではもっと冷静沈着でなければ、ダメだ。
法律的に今現在、オレはイトちゃんの保護者なんだから、な。
イカンイカン。
ジイちゃんは言った、『怒りという感情がもたらすモノは負の側面ばかり持つという訳ではない。怒りは何事かを成し遂げるための効果的な促進剤に成り得る。ソレは静かに燃える青く冷酷な焔だ。コントロールが万全ならば、怒りは成功の源でもあるのだ。反対にアンコントロール状態にある怒りは破滅的な結果をお前に与えるだろう。
イイか、必要なのは爆発的に燃える紅蓮の炎では無い。
チロチロと細く長く燃え続ける青い種火なのだ』と。
そうだな、その通りだ、ジイちゃん。
オレはジイちゃんが感情のままに行動したり、語気荒く言葉を発する所を見た事が無い。
一時的にでも乱れてしまった気息を再度調整する様に意識して自分の息を『凝らす』ように心掛ける。静かに呼吸を透明にして行く。
ふう。
正しく整った気息が還ってきた。
自分の子供かも知れないからなのか、この子の事になると自制が効かなくなる嫌いがあるな。以後は何時もにも増して気を付けよう。
助手席でチョンと座っている彼女に一瞥を走らせた。
しかし、結衣は何でこの子にこんな格好させてるんだろう?
オレはファッションに疎い。
知識も見識眼も無いに等しい、普通のイケてないオッサンだ。
しかし、そんなオレでもイトちゃんの着ている服の不統一感には充分気付く事ができた。
ティファニーブルーのショートパンツ、キュロットっていうヤツなのか、コレはまだ良い。
何でこんなモノ着せてるんだ? って疑問に思うのが、背中に龍の刺繍が入っている身頃が青で袖が白色のスカジャンだ。昔、結衣と同棲している頃に、横須賀市のどぶ板通りにあるスカジャンの専門店のプリンス商会に2人で行った時に彼女が購入したヤツだと思う。
あのさ、結衣。
サイズが全然イトちゃんの身体に合ってないじゃないか。
いずれイトちゃんも大きくなるだろうが、今はブカブカだぞ。
スカジャン自体は柄も形も格好良いヤツだが、サイズが合ってない所為で逆に不恰好にみえてしまう。アイツ、ファッションにはウルさい筈なのに、自分の事とかにはホントに超ウルさいのに、イトちゃんの着る服には何でこんなに無頓着なんだろうか?(注3)
不思議だよ、ホントに。七不思議の内の1つだ。
町田街道を本町田方面へと北上する途中で右側に広めの駐車場を併設してあるコンビニを発見して、反対車線の車列が途切れたわずかな隙を衝いてR32を空いているパーキングロットに乗り入れさせた。このコンビニ、ま、ローソンだが、何で立ち寄るのか?
理由は2つ。
一つ目は舳先を反対方向に振って南下、東名高速の横浜町田ICに行く為にUターンをしなければならないから、だ。
二つ目は、結衣に再び電話を掛ける為。
オレは降りる前にイトちゃんに声を掛けた。
「イトちゃん、朝御飯食べた? お腹空いてない?」
「...チョット...」
「そうか、じゃ、コレ」
そう言ってから小さな缶を彼女に差し出した。
おじさんパパが、
「じゃ、コレ」ってゆって
ミドリいろのちいさなカンカンをくれた
ナニ、コレ?
なんですか? って ゆったら
「ほんとうはサクヤさんが、おに...おむすびを つくってくれるハズだったんだけど、
コシをやっちゃって...コシが、イタいイタいに なっちゃって、
おむすびを つくれなくなったんだ。
サクヤさんが、つくってあげられなくて、ゴメンって」
そうか、サクヤさんのおむすび、たべられないのか
ガックリ...
「で、さ。咲耶さんのお結びが日本で一番美味しい朝御飯になるのかなと思うけど、無理になっっちゃったから、さ、その代わりに日本で二番目に美味しい朝御飯を御馳走するよ」
「二番目...ですか?」とイトちゃんが訊いてきた。
「そう、二番目」
咲耶さんのお結びが食べられないと判った時にガックリという感情をアリアリと相貌に浮かべたイトちゃんは、オレの次の言葉に『ふうん』という多少の訝りを含む微妙な表情へと変化させた。そしてオレが手渡したサクマドロップスの缶を興味深げに見詰めた。
「でも、二番目の朝御飯を喰わせて...食べさせてくれるお店、ちょっと遠いんだ。
大体...そうだな...1時間くらいかな。
だから、お腹空いてるんだったら、ソコに着くまでソレでしのいで...ソレ舐めてれば、さ、少しの間だったら大丈夫だから」
『エッ』って感じで彼女はオレを見上げた。
「そのアメ...ドロップは、ソレって魔法のドロップなんだよ」(注4)
おじさんパパは、
「ソレってマホーのドロップなんだよ」って ゆった
「なめると オナカがすいてるの、わすれちゃうんだ」って ゆった
ホント?
ほんとに オナカすいてるの わすれるの?
ほんとに ニホンで2ばん目にオイシイあさゴハン、なの?
「何か飲み物買ってくるけど、何が良いかな?」オレは訊いた。
小首をかしげて考えている仕草がとても可愛らしくて少しドキッとしてしまう。
しばらくしてから「お茶...」と答えたから、
「冷たいの、それとも温かいヤツ?」と重ねて問うと、
オズオズという空気感と共に「...あったかいお茶、良いですか?」と言って、オレの眼を見詰めた。何か、小さなシマリスが『いじめる?』って言ってる雰囲気だった。
「もちろん」イイかい? 遠慮しなくて良いんだよ、とオレは彼女に伝えた。
彼女はコクンと首肯いた。
「他に欲しいもの、ある?」
イトちゃんは首を振って「ない...です」と答えた。
「ロック...ドアに鍵を掛けておくけどソコのソレ、そう、ソイツをクイッとやれば内側からは簡単にドアは開けられるからね。誰か知らない人が来てもドアを開けちゃダメだよ」
絶対に、判ったかい、と言うと彼女はまたコクンと首肯いて「判りました」と言った。
R32から降りるとドアをロックしてから、店内へと向かった。
おじさんパパがドアをシメるまえに、
「あんまりタクサンなめちゃうと、
ニホンで2ばんめのアサゴハンが、たべられなくなっちゃうから、
スコシだけ、2・3コに した方がイイよ。
それから、そのナカのシロいヤツは、なめるとオクチのナカがスースーするから
なめない方がイイとおもうよ」って ゆった
ソウゆってから、コンビニへ はいってった
ナニにしようかな?
いろんなイロのドロップが はいってるみたいなカンジ
フタについてるテープが、はがれないや
おじさんパパ、はがしておいてくれれば よかったのに、な
んしょ、エイッ!
ようやくはがれた、
はがれたけど、フタがかたいー
あかないー
エイッ!
パカッ!
やったぁ!
ナニがでるかな?
ホイッ!
ミドリいろのドロップだぁ
オクチのなかに、ポイッと
ん...
ミドリのいろのドロップ、
なんかヘン
キューリのにおいがする
オイシイから、まぁイイけど
ボリっ!
あー、かんじゃったぁ
バラバラだぁ
こうなるとスグに きえてっちゃう
あーぁ、なくなっちゃったぁ
さ、つぎのドロップさんはダレかな?
ホイッ!
コレっておじさんパパがゆってた、シロいやつだよね、きっと
ナカに、もどそっと
もう1かい、エイッ!
また、シロだ
いいや、なめちゃえ
シロいドロップ、
なんだコレ?
クチのなかがスースーする
チョットからい
でも、キライじゃない
ピーマンとおなじ、ソラのあじ
うーん、ソラじゃないや
ナンだろ?
ヨルのお月さまみたいなカンジ、がする
ヤッパリ出ないな、アイツ。
再び電話を掛けたのだが、結衣のケータイの電源は切られたままだった。
イトちゃんを独りぼっちでコンビニに置き去りにした真意を質そうと思ったのだが、どうもオレとの接触を避けている濃厚な空気感というヤツを、無機質な声で『電波が届かない場所か、電源が切られている...』と告げるアナウンスの中に明確に見出すことが出来る。
接触回避っていうよりも拒絶とかに近いかも。
ダメだな、こりゃ。
こういう感じになると結衣は梃子でも動かなくなる。
ジイちゃんが表現した様に『曳家で使用されるデカい油圧ジャッキ』でも頑としてピクリとも微動だにしない。
全く、困ったヤツだ。
どういう理由なんだろう? 大事な一人娘をセブンイレブンの店頭に置き去りにするなんて、皆目見当が付かない。
「ふぅ」
無意識の内に今日2度目の溜息が漏れ出た。
オレは諦めてiPhoneをホルスターに戻しコンビニ店内に入って飲み物を調達する事にした。
しかしお茶が良いなんて渋い趣味してるな、5歳児のクセに。
普通はオレンジ・ジュースとかじゃないのかな?
オレはそう思いながら店内を散策して自分用に冷たい麦茶を冷蔵庫から取り出した。
会計を済ます直前にレジ脇にある保温棚からイトちゃん用に温かいお茶を手に入れてから、レジカウンターに調達物資を2つ載せた。
「袋、別の方がよろしかったでしょうか?」と青と白の縞々の制服を着た中国人の店員さんが尋ねて来たので「いえ、コチラの温かいお茶の方だけ袋に入れて下さい」と頼んだ。
彼はPOSシステムを器用に操作して一瞬で値段をデジタル表示させた。
「248円になります」と、麦茶のペットボトルに会計済みを証明するテープの断片を貼り付けながら、彼が言った。オレが千円札を渡すと「千円からお預かり致します」と言いながら長年の修練を思わせる無駄の無い動きでレジに仕舞い、
「お釣りの752円になります」とオレにチャリチャリと小銭を渡して来た。
素早い動きだな、Slow Handってヤツだな、と思っているとイトちゃん用の温かいお茶を一番小さいであろうレジ袋に収めて手渡してくる。(注5)
「ありがとう、学生さんですか?」オレは受け取りながら、彼に尋ねた。
「ハイ。大学院生です」店員さんはキリギリスを思い起こさせる容貌をしていた。
胸に付けられたネームプレートに『王邦明』とあるのを確認しながら、
「留学、天津からですか?」と訊くと、
オレの質問に一瞬だけ少し驚いた感じに見えたが、すぐに表情を和らげて店員さんは嬉しそうに「イイエ、遼寧省の大連からです」と答えた。
「失礼かもしれませんが、専攻は何ですか?」
「セラミックスです」
「もしかしたら、東工大ですか?
「ソウです」
「そうなんですね」
オレはポンと一つ頷いてから多分すずかけ台キャンパスに付設されている応用セラミックス研究所に通うのであろう後輩(?)に対して何か声を掛けようと思い、脳内を検索したのだが日本語の語彙集の中には適切なモノが存在してなかった。だから院生なら英語でも大丈夫だと判断して次の言葉を掛けた、
「Take it easy. Easy Man. Hanging there.」
「Thank you, Mister. Anyway, I’ll work hard. That’s it all.」
オレは今度は大きめに頷いてから「ありがとう、それじゃ」とだけ言ってレジ前から立ち去った。
「アリガトウございました」と彼はペコリとお辞儀をしながら、言った。
院生だから、果たして後輩に当たるのかは疑わしい所ではあるが、こういう場合には大抵『頑張ってくださいね』などの日本語における激励の類いの言葉を掛けるのが普通だろう。だが松島先生と同じでオレも『頑張れ』という表面的な『励まし』の言葉が、嫌いだ。
とても偽善的に響くから、だ。
頑張っていないヤツなど、この世界には存在していない、とオレは思っている。
この時、ちょっとだけ英語ってヤツが羨ましくなった。
偽善的ではない励ましの言葉の世界がとても豊穣だからだ。
ドアを開けると丁度、一台の銀色のFD3Sが駐車場に乗り入れて来る瞬間だった。
R32から2台分ほどパーキングロットを挟んだ場所にFDは停止した。そして20代前半に見える痩せ型で背の高い青年が運転席側のドアを開けて降りて来た。白地の何やら横文字が印刷されたTシャツにデニムパンツ、足許はニューバランスのスニーカーだと窺えた。
FDの後ろを回って助手席側のドアの前まで来ると霹靂に打たれた様に青年は棒立ちになって、彼は一向にコンビニに入ろうとせずに魅入られた様にR32を見詰め続けた。
そんな様子を見てオレは一抹の不安に駆られた。
クルマじゃなくて助手席に座ってオレを待っているイトちゃんに興味を示している可能性も充分ある。
ぺドファイルじゃ無ければいいが。(筆者注:ぺドファイル:pedophile:小児性愛者=子供を性愛対象とする性的倒錯者のこと。いわゆるロリコン)
ま、可愛い仔猫ちゃん改め『Rさん』が作動している限り、キャビン内にいるイトちゃんの身は完璧に安全なんだけれども。何故ならRさんには客室内部にいる人物の安全を最優先する為のアルゴリズムが組み込まれている上に、彼女がR32の操作や操縦を許可するのはオレと咲耶さん、そして免許保持者では無いけれど、イトちゃんの合計3人のみだから。
この3人以外はR32を起動させる事すら出来ない。っていうかキャビン内に侵入する事すら不可能である。
現在、R32の機体は完全にRさんの管理下にある。
だから彼女はオレとイトちゃん以外の人間がドアを開ける事を決して許したりはしない。
そしてRさんは、呆けた様に自分を見詰めている青年を監視すべき対象人物として最高警戒レベルでその一挙手一投足を注視しているだろう。
ま、青年、全く微動だにしないけど。
オレは青年の興味の対象がイトちゃんではなくてR32である事を願いつつ自分のクルマへと歩み寄って行った。
「こんにちは」
オレはR32から1mほど距離を置いたまま呆然と立ち尽くしている青年に声を掛けた。
驚かせない様に、ソッと。
それでも彼は白昼夢からいきなり現実に力ずくで帰還させられた様にビクッと我に返って振り返るとオレに半分まだ覚醒できていない視線を寄越しながら口を開いて、
「アァッと...あのぅ、このR32のオーナーさんですか?」と訊いてきた。
「ハイ」オレは答えた。
青年の容貌からオレは気の弱そうなモグラを連想した。
「物凄く綺麗というか、とても丁寧な仕事がされてるクルマですね」青年が言った。
「有難うございます。まぁ、そうですね」自分でもそう思います、とオレは言った。
ま、ボディの仕上げ自体は、スーパーウルトラ板金工の赤城さんだからな。
「この色は純正じゃないですよね?」青年が尋ねた。
「ハイ、元々はクリスタル・ホワイトだったんですよ」
「色以外は全然ノーマルに見えますけど...」彼は視線をR32に一瞬だけ戻してから言った。
「そうですね、ほぼノーマル仕上げです」とオレは答えて「もう第2世代のGT-Rは性能的には第一線級ではありませんから、如何にしてこの先も乗り続けて行くかって話になってますし。もうギリギリ限界のチューニングをする事も無いかなって、最近は思っているんですよ」ソコは人によって考えの異なる部分ですけど、と続けた。
エンジン見ますか? と訊くと青年は顔をビカッと輝かせて「お願いします」と言った。
運転席側のドアを開けてダッシュボード下部に装備されたレバーを操作してフード(ボンネットの事)をオープンできる様にした。
おっと、イケねぇ。
イトちゃんの事、忘れるトコだった。
助手席にチマッと座ってオレを見詰めている可愛いお嬢さんに声を掛けながらビニール袋を手渡した。ま、ホントはビニールじゃなくてポリエチレン製だと思うが。
「イトちゃん、コレお茶。オジさん、このお兄さんと少しお話するからソレ飲みながら待っててくれるかな?」
彼女はポリエチレン製の袋を受け取ってから、コクンと首肯いた。
「ありがとう。すぐ済むからね」
おじさんパパ、ダレかシラないヒトと たのしそうにしゃべってる
おトモダチなのかな?
ギンイロのひらべったくってウネウネしてるクルマで きたオトコのヒトだ
そうしたら、おじさんパパがドアをあけて
「コレ、おちゃ。ソレのみながら、まっててくれる?」って ゆった
おじさんパパ、とても たのしそうだから
おじさんパパが たのしそうだと、ワタシも たのしくなるから
コクンってした
そしたら おじさんパパは、ピカッてわらって「ありがとう」って ゆった
ワタシ、オトナのヒトに はじめて ゆわれた
はじめて「ありがとう」って ゆわれた
ナンでか わからないけど、ムネのトコがジーンって あったかくなった
ガサガサッ
クイッ、カカカッ
ゴクン、
アッチィ!
ドアを閉め直すとR32の前方に回った。見た目は重厚感タップリだがカーボン製だから実際は非常に軽量で強靭なフードをパカッと開けてから「どうぞ」と青年に告げた。
青年は『ホゥ』と声にならない感嘆の声を漏らしながらエンジンルーム内を覗き込む。
しばらくの間、何かに取り憑かれた様に色々な個所に視線を走らせ続けた。
「綺麗ですね。色が抜けやすいヘッドカバーの塗装も完璧に残っているし、インテーク・パイプの上の文字も見事に残っているんだ...
コレってカバーとか焼き付け塗装とかでヤリ直してるんですか?」青年が訊いてきた。
「いいえ、そこはマンマで何もイジッてません」
それでこのクオリティか、凄いな、と彼が囁いた。
そのうち裏地、フードの裏側の独特な模様に気付いて「このボンネット、カーボンですか?」と訊いた。
「そうです」オレが答えると、
「カーボン・カーボンみたいですけど」
「ハイ、ドライ・カーボンです」
オレの返答に彼がウヘッと顔をしかめさせた。
もしかしたらリアル・カーボンの恐ろしいまでの高価格に想いが飛んだのかも知れない。
そして漸くエンジンルームの常連であるバッテリーの不在を認識したのだろうか、
「バッテリーは...トランクとかに移設させてあるんですか?」と彼は尋ねてきた。
「ハイ。蓄電池は熱に弱いですから」
人間は1つの差異に気付くとドミノ式に他の相違点も認識できる様になる事が多い。
「エンジンの位置がバカに低い...」オレに対する質問では無くて確認する為だけの単なる独り言の様に響く口調で青年が呟いた。「バッテリーが無いにしては空きスペースが殆んど無くてギチギチに詰まってる...コレって、もしかして、ドライサンプに変更してあるんですか?」(注6)
「ハイ」
なるほど、と彼が囁くように相槌を打った。何かについて自分の考えを纏めようとしている雰囲気を感じ取れる。顎に指を当てながらブツブツと呟く様な彼の独りごつは続いた。
「ドライカーボンにドライ・サンプ...軽量化...マスを低く...低重心化と中心化...
まるでM3CLSかGT3RSみたいだ...しかし高性能を狙ってるのでは...ない」(注7)
面白そうなので、口を挿む事は止めて何も言わずに少しの間、放って置いた。
「軽さは最大の武器、だ。クルマの運動性能に関して言う言葉だけど...軽ければ機体に掛かるストレスが軽減されるはず...そうか、判った」青年が顔を上げてオレの顔を煌々とした視線を送ってくる。まるで『エウレカ』と叫び出しそうだった。
「このR32、乗り続けて行く事が目的のチューニングなんですね」彼が言った。
「正解です」オレが答えた。
「サスとかは、どうしてるんですか」ノーマルですか? と彼が訊いてきた。
「いやぁ。ノーマルの方が応力...路面からの突き上げや轍とかからくるストレスへの対応を考慮すればノーマルを採用した方が良いかも知れないんですが、コレには別のヤツを装備させています」オレは答えを続ける「知り合いというか仲間にサスの専門家がいるので彼に任せたんですよ。結果、アクティヴ・サスペンションを採用する事になりました」
ま、油圧ダンパーとコイルスプリングを使っているから正確に言うとセミ・アクティヴ・サスペンションに分類される代物だけど、な。(注8)
え?
聞いてないって?
前に言ってなかったっけ、オッカシいな。
「へぇ、アクティヴ・サスペンションですか。なるほど、そのシステムもクルマの長寿命化に役立ててるってコトですね」と青年は驚嘆の溜息を漏らしつつ感想を述べてから、
「それじゃ、エンジンとかボディとか、別々の人に看て貰ったという感じなんですか?」と続けざまに訊いてきた。
「そうですね。エンジンは私が組みましたけれど、ボディはまた別の人にお任せしました」
「エンジンは御自分で?」
「ハイ」一応整備士なんで、とオレは答えて、財布から名刺を一枚取り出して青年に渡すと彼は覗き込む様にソレを見詰めた。文字一つ一つに錘鉛を落とす様に読んでいる。
「荒川自動車...六分儀研吾...さん?」青年が言った。
「ハイ」
「...確か荒川自動車は...6年ほど前に廃業したって話を聞いたんですけど」
「あぁ、再開したんです」オレは答えた。
「...」
「まぁ、ホントの、本格的な再開は一ヶ月くらい先になる予定なんですけど、ね」押し黙ってしまった青年との間に横たわりつつある虚空を包み隠す様にオレは言った。
青年は何かを考えている様子で黙ったままだったが、数十秒間の沈黙の後で、
「僕の友人が前に荒川さんにお世話になった事があるんです」と彼が口を開いた「御記憶じゃないかもしれませんけど白のFC(FC3S・2代目のRX-7)で、廃業...じゃないや、休業する3ヶ月くらい前にエンジンのオーバーホールをお願いしたって言ってました」
「ああ、憶えてます。オーナーさんは確か佐々木幸輔さんだったと記憶してますけど」
「そうです。幸輔です」よく覚えていましたね? と青年が言った。
「私自身がオーバーホール、エンジンのオーバーホールを担当しましたから」
「そうなんですか!」驚きを隠せない口調で青年が言った。
「ええ」
「先代の社長さんだと思っていました」
「イヤぁ、あの頃は殆どの件で自分が担当していました、オーバーホールに関して言えば」
それまで優しい色を帯びていた青年の口調に『嬉しさ』の色が加わったのを感じ取った。
「イヤぁ、アイツ喜ぶぞ、きっと、この話を聞かせたら」青年が言った。
「?」
「幸輔ですけれど、ヤツのFC、走行距離がそろそろ3万kmを超えそうなんですよ」
「アァ、この前、組んでからですか?」自分が組んだ佐々木さんのロータリーエンジンのスペックなどの概要を記憶の倉庫から引っ張り出しながらオレは彼に問い掛けた。
「はい、そうです」
「あのエンジンは、パワーを300馬力チョイに止めておく代りにトルクを下から出す、という注文だったと憶えています」オレは皮質に浮んだ情報を口に出した。
「はい。ヤツのFC、昔は500馬力超のハイパワーチューンだったんですけれど、91年製の最終型とはいえ、えーと、6年前のあの頃でちょうど20年物、クラッシックカーの範疇に充分に入ってましたから、そのままではキツイって事で...」
「そうですね、工場に搬入して来た時の仕様はカリカリのチューニングでした」
「ヤツ、最初は諦めてたんですよ。もう走る為のクルマじゃなくなるって。でも、荒川さんで組んで貰ったFCに最初乗った時にビックリしたんだそうです。乗り易くなっているのは当然っちゃ当然なんですけど、スペックの数字からは遠く掛け離れたパワフル感に驚愕したんですって」
「イヤー、そこまでのモノではないです」
「そんな事は無いです」青年の口調に熱さが帯び出した。「僕もあのFC、乗らせて貰った事があります、一回だけですけれど。ホントに驚きました」
「どんな所にですか?」オレは尋ねた。
「ホントに速いRX-7って大体ドレもコレも最低で450馬力以上はあるじゃないですか。
でも、あのFCはたったの300馬力しかないのに450馬力のFDよりも速く走らせられる。クルマ自体に軽快感があるって言うか、とてもエンジンのフィーリングが良いんです。トルクも下からグッと来るし」ホントに数字じゃないな、って思いました、と彼が言った。
「あのエンジンは500馬力を300馬力にするってイメージで組んだんですよ」
「なるほど」
「何かを得る為には何かを捨てなければならない事がある。
ピークパワーを捨てる。その代償としてトルクを増強させられるという訳です。
限定的な出力で効率的に速さを得る。高い操縦性と乗り易さ、そういう事を常に心掛けてあのFCを組み上げたんです」
「ロータリーの組み上げに、何かコツとかあるんですか?」
「うーん、ロータリーってエンジンは、構造的には菱餅みたいにポンポンって重ねて構成されているでしょう? だから締め付けトルクが要諦なんですよ。
もちろんトルク指定はあるんですけれど、製造過程で生じる個体差や使用環境から来る劣化の具合とかも考慮しなければいけなくって。だがらドレもコレも全く同じ締め付けトルクで良いという訳でも無いんです。機体ごとの極僅かな差異を念頭に置きながら組んで行くんですね。絞め付けがキツ過ぎれば上まで回転してくれないし、反対に締め付けが甘いとパワーが抜けてしまう。締め付けトルク、1g単位の差異で全く違ってくるので。
ま、皮膜的というか、微妙な落とし所があるんですよ
プリセット型のトルクレンチ、もちろん知ってますよね?」
「もちろんです」青年は『当然!』と力強く頷いた。
「アレって素人の方が犯す間違いで多いのが、これよくあるんですけど、『カチカチッ』って2度締めしている人いますよね? ダブルチェックの為に」
『エっ!?!』という表情を青年は浮かべて「ダメなんですか?」と訊いた。
「ハッキリ申し上げると、完璧な間違いです」
『アチャーッ』という顔をしながら彼は天を仰いだ。オレは、
「プリセット型のトルクレンチは、ハンドル部分で設定したトルクの数値に達した、その瞬間にラチェットの付け根が『カチッ!』と音を発するのと同時に首を振ってくれるので『アァ、設定トルクに達したな』と判ります。しかし、本当はこの『カチッ!』という音がするか、しないか、微妙な感じ、それ位ソフトに締めてやらないといけないんです。
ウチで使用しているデジタル式のスナップオンはピーク表示でトルクの数値が把握できるのですが、勢いを付けて締めるとレンチが幾ら高精度でもトルク指定までキッチリ締まってくれない事が解ります」と伝えると、青年は
「そうなんですか?」と素直に、驚きを隠さなかった。
「ロータリーってシールがゴムの事が多いんですけど、勢いを付けて締めてしまうとゴムが馴染んでシーリング効果を発揮できる状態になる前にレンチに設定してある規定トルクに達してしまうので、結果として締まり具合が緩くなったりするんです」
「へー」
「2度締めさせると、つまり『カチカチッ』って音を鳴らすと締め付けトルクはオーバーに。
『エイヤッ!』って勢いを付けて回すと締め付け不足に。
ま、そういうボルトの締め付け1つとっても、プロとアマは全然違うんです。数回に分けて締めて行って規定トルクに達する直前では締め付けるのを止めずユックリと回して行く。
音がするか、しないかの微妙なトコで終了させるんです。これ、結構慣れが必要なんです」
青年は『成る程、納得』と首肯した。
「あのFC、運転した時にとても強い接地感を得られた事を強烈に記憶しています」
オレはコクンと1つ首肯した。
「私の本職はエンジン屋でボディは専門ではないんだけれど、知り合いのプロの板金屋さんに教えを乞うなどして補強、FCのボディにも手を入れたからかも知れませんね」
「FCもそうですけど、特にFDなんかは軽量化するためにボディの強度を犠牲にしちゃってますもんね」
「そうですね。そこへ500馬力のハイパワーが加われば当然...」
「すぐにガタがくる、と」青年が腹に溜まった嘆きを吐露するように呟いた。
オレは首肯いて「結局『走り』ってボディ次第なんです」と彼に告げた。
青年はパワーを得る為に代償として差し出したモノの激甚な大きさに慄きながら、言う。
「それに500馬力級だと割合短い走行距離でオーバーホールしなきゃ駄目だし...」
「ソレ位の高出力エンジンだと、大体1万kmごとに分解整備が必要になりますね」
「そんなに短いんですか?」青年はビクッと弾かれた様に驚きを顕わにした。
「ハイ。1万km走行させる度にバラしてクリアランスを調整しシールなんかの消耗部品を交換する。作業費も込みで20~30万くらい掛かる計算になります。でも工場側の利益は殆んど無いに等しいんですけど、ね。」ボランティアに近い、苦笑と共にオレは言った。
「あのFCは3万km乗りっ放しでOKって言われたと幸輔が言ってました」
「確かに。マージンを残して安全性を高めてあるから。定期的にオイルさえ交換してくれればエンジンなんてそう簡単に壊れるモノじゃないんですよ。ハードチューンは別にして」
「あのぅ、幸輔に教えても良いですか?」
「それは会社の再開のコト、でしょうか?」
「はい」
「もちろんです、ただ、さっきも言った様に一月くらい後の話になってしまうんですけど」
「あ、全然OKです」
青年は喜びの表情を顕在化させながら話し続ける。
「アイツ、きっと跳び上がって喜ぶだろうな、この話をしたら。
幸輔のヤツ、ホントに途方に暮れてたんです。
こんな凄いエンジン、他の誰が組めるんだろうって。
どのチューナーに依頼したら良いのか、サッパリ皆目見当も付かないって」
「そんな凄いですかね?」
「もちろんです」何を言ってんだ? このオッサン、という表情をしながら彼が言った。
「そうですか。そう言って貰えるとチューナー冥利に尽きます。ありがとうございます」
「それで...あの...」青年は一瞬だけ言い淀んで構音しかけた言葉を飲み込んだが、逡巡を振り払う様に軽く首を振ってから再び口を開いて「幸輔のが終わってからで全然十分なんですけど」と続けてから「僕のFDも荒川さんでお願いしたいんです」と言った。
青年らしいキッパリとして率直で直截な物言いだった。
「僕は音尾拓海と言います」
「オトオ・タクミ、さんですね」
オレとオトオ君は彼のFDの前まで移動して、綺麗に磨かれた機体を眺めながら話を続けた。
フロントバンパー下部に砂利などの小さな異物がぶつかって形成される擦過傷が見受けられる。飛行機で言えばFOD、Foreign Object Damageだ。一瞬のチラ見でもタイヤの角の部分が磨り減っているのがアリアリと解った。両方とも彼が本気で走っている証拠だ。
オトオ君がフードを押し上げてエンジンルームの内部を開陳した。
「コレはどれ位のパワーを乗っけてあるんでしょうか?」オレは尋ねた。
「正式にシャシ・ダイナモで計測した訳じゃないんですけど、450馬力くらいはあると思います」オトオ君が答えた。(注9)
「エアクリのボックスは純正品のままなんですね」(注10)
「ええ、中身は当然違いますけれど」
「エンジンルームの内部、見た目はまんまノーマルですね」
「ノーマルらしさを大事にした仕様でって、そう心掛けて組んで頂いたんです」
「失礼に響くかも知れないけど、さっき駐車場に入って来た時に聞いた限りではエンジンの圧縮、少し抜けてる様に感じたんですけれど」
「はい。もう2年くらい乗りっ放しなので...やっぱ抜けてますかね」
「音から判断するに、ですけど。さっきも言った通り、ロータリーってシールがゴム製の事が多いので。メタルよりも劣化が早くて、だから圧縮も抜けが早くなるんです」(注11)
「そうですか、やっぱりね」
「先程のお話ですが、お引き受け致します」私で良ければ、ですが、とオレは言った。
オトオ君は眼を煌々と輝かせながら「よろしくお願いしますッ!」と静かに叫んだ。
オレはもう一枚、名刺をオトオ君に手渡しながら「じゃ、再開したら連絡します。教えて下さったメールアドレスでよろしいのですね?」
「はい。念のために空メールを今送るので...」オトオ君は取り出したスマホを器用に操ってオレ宛にメールを送信すると、一瞬の間を置いてから腰に装着してあるiPhoneが着信を告げるメロディを鳴らし始めた。
ホルスターから取り出してメールフォルダーを確認。
『FDの件、宜しくお願いします。音尾拓海』
「ハイ。承りました」オレは顔を上げて音尾くんに直接、言った。
「それじゃ、再開の連絡、楽しみに待ってますので」そう言って、音尾くんはニコニコしながら右手を差し出して来た。
オレはその手を握り返してから「なるべく早く再開します」と言った。
その容姿からは想像できないほどの熱意のこもった握手を、彼はしてきた。
アールさんに はいってきて、
「またせちゃって、ゴメンね」って おじさんパパがゆった
べつにマッテなかったので、クビをウウンってふった
「ドロップ、どうだった?」
おいしかった、ヨルのお月さまみたいなあじがした って ゆったら
「あ、しろいヤツ たべちゃったんだ?」って おじさんパパがゆったから
コクンってした
そしたら「大丈夫だった? オクチのなかがスースーしなかった?」
だいじょうぶでした
ワタシ、あーゆーのスキです って ゆったら
「フーン、シタがオトナなんだね」って ゆって
「クルマの...アールさんのナカだと、アツくなるから そのジャンパーぬいだ方がイイよ」
おじさんパパが そうゆったので、
コクンってしてから シートベルトをビローンッて もどした
それからジャンパーを ンショって、ぬいだ
たたんでから、アールさんのうしろのセキ、リュックのとなりにおいた
もうイッカイ シートベルトをビローンってしてカチャっとしめた
そしたらおじさんパパが、
「さっきワタすの、わすれちゃってゴメンね。このメガネをかけて」って ゆって
おじさんパパが かけているみたいな イロつきのメガネを わたしてきた
かけるんですか?
って きいたら、
「コドモの目はシガイセン...かけないとスグに、つかれちゃうんだ
キョウは、いっぱいハシるからね
イヤかな?」って ゆったので、
ウウンって、クビをふってから、パシャパシャって ボーのトコロをひらいて、かけてみた
おじさんパパをみると、パパのメガネにワタシが うつってる
メガネをかけたワタシ
「とっても、にあってるね」っておじさんパパが ゆって
「じゃ、しゅっぱつするね」って ゆってから
おじさんパパがアールさんのエンジンをブルンってさせた
しらないオニイさんが ギンイロのひらたくてウニャラウニャラしてるクルマのトコで
ペコッて してから、テをふったので
ワタシのしらないヒトだったけど
おじさんパパが、テをあげてから そのヒトにペコッとしたので
ワタシもペコッとしてから テを3かい バイバイってふった
そのヒト、ワタシにイマ きづいたみたいだ
チョットびっくりしたカオしてた
クルマのコトしか、みてないんだな って おもって
ナンか、おもしろかった
R32のノーズ(舳先)を南に向けて先程走って来た経路を逆向きに進んで行く。
町田街道を抜けたら保土ヶ谷バイパスを経て東名横浜町田インターチェンジから東名高速に乗る予定だ。モニターをチラ見すると現在午前10時18分、朝御飯を摂取する用の目的地までは大体1時間くらい必要となる道程だから、到着予定時刻は11時20分前後になるなぁ。これでは朝食って呼ぶにはちと、遅過ぎるか。
ま、ブランチって事で良いだろう。
助手席のイトちゃんに一瞥を与えて彼女の様子をソーッと窺うと、車酔いの兆候は全くといって良いほど伺えなかったので先ずは一安心だ。彼女の様子からは口の中がキューッとなって生温かいヨダレが口腔内を満杯にするくらい溢れ出て来てひたすらに我慢しているって印象は全然受けない。きっと酔い止めが効いているのだろう。
窓の外を流れる景色に興味津々って感じでジーッと眺め続けている。
その白色のクルーネックのロングTシャツに包まれた小さな背中は、何か、眼前に広がる自分の知らない未知の世界に相対して喜び、そしてウキウキしてるみたいに見える。
良かった、良かった。
セミ・アクティヴ・サスペンション故の絶大なる恩恵だな。
それプラス岡田さんの緻密で精確なセッティングのお蔭で、このR32は殆んど揺れない。
ま、サスペンションのモードはカンファタブル(comfortable:快適な)を選択してるし。
これなら大丈夫だろう。
さて、悠々として急ぐことにしよう。
少しでも早めのブランチにする為に。
オレはスロットルをほんの少し、何者も気付かない程度にクッと踏み増した。
R32はオレの気持ちと同調する様にごく微量だけ、加速した。
注1:ハザードランプについて。
非常点滅表示灯のこと。正式にはハザードフラッシャーと言う。
ハザード(hazard)は危険でフラッシャー(flasher)は点滅信号の事。走行中緊急停止する場合や路上で緊急停車している時に、他のクルマとの衝突を避けるため、前後左右の方向指示灯(ウィンカー)と補助方向指示灯(サイドフラッシャー:ボディ側面に装備されたウィンカー)が同時に点滅する装置を言う。通常はキャビン内のダッシュボードに操作ボタンが備えられている。このボタンには赤い三角形の表示が付けられている。
尚、渋滞時に車列への割り込みをさせてくれた場合など、後続車に謝意を示す時に、このハザードランプを2回ほど点滅させる暗黙のマナーがある。路線バスは必ずします。
ま、一般車の場合はしないクルマの方が多いかも。
注2:お日さまの匂いについて。
天日干しした時に布団に付着するお日さまの匂いの正体は、太陽光線中の紫外線が綿を形成しているセルロースなどの物質をわずかにだけ分解して、アルデヒド・脂肪酸・アルコールなどの別の物質に変化させる事によって生じる匂いである。これ等の内のアルデヒドだが、コレは『官能基』と呼ばれる有機化合物の部品で、『機能を与える部分』を意味する。つまり、有機化合物がどういう働きをするのかを決定する部分である。
あ、有機化合物ってのは、炭素を骨格として、ソコに水素や酸素、窒素、、硫黄、リンなどが結合した分子の事を言う。
で、アルデヒド基(aldehyde)が付いた香り成分には、炭素の数が5つのペンテナールという分子があり、コレはリンゴの香りがする。炭素数が8のオクテナールはクルミなどのナッツ類の香りがする。これ等はとても心地良い匂いであるが、炭素数9のノネナールは加齢臭の原因分子であり、その上、アルコールの分解プロセスで合成されるアセトアルデヒドは毒物である。(二日酔いの原因はコレ)
だから実際に研吾が『お日さまの匂い』を発散させている訳では無く、ポカポカと暖かい(温かい)ことからくるイトの連想に過ぎないと思われる。
注3:スカジャンについて。
スカジャンとは、横須賀ジャンパーの略称で戦後米兵が米軍のパラシュート生地に刺繍を入れてジャンパーにしたのがスカジャンの始まり。どぶ板通りに位置する1947年創業のプリンス商会が発祥。プリンス商会は元々雑貨や洋服を進駐軍相手に販売していた。
現在の女将さんの父親が創業者。スカジャンは1人の職人がミシンを使って手作りしているから、一つ一つ柄が微妙に違うのが特徴。
筆者はスカジャンよりもA2フライトジャケットの方が好み。
ま、ジャンルが全く違うんですけれども。
注4:サクマドロップスについて。
サクマドロップスは東京都目黒区にあるサクマ製菓株式会社が販売するキャンデーである。
味は8種類で、その内訳はイチゴ・ハッカ・リンゴ・スモモ・レモン・メロン・オレンジ・パインになる。
織が食べたのは最初のがメロンで次がハッカ。メロンはキュウリと同じウリ科の植物なので、織が『キュウリみたい』だと思ったのも当然である。尚、キュウリに砂糖や蜂蜜をかけたモノはメロンの味がするらしい。筆者は試した事が無いので何とも言えないが。
似た名前の飴に東京都豊島区池袋にある佐久間製菓株式会社が製造販売しているサクマ式ドロップスがある。こちらは『キャンディ』という名称で呼ばれている。味は8種類で、イチゴ・リンゴ・ブドウ・オレンジ・パイン・レモン・チョコ・ハッカである。
両者とも缶入りと袋入りがあるが、サクマドロップスの方は緑色でサクマ式が赤色の包装となっている。
余談だが、ケンゴが『魔法のドロップ』と呼んだ理由は、このサクマドロップスが『火垂るの墓』という作品の中で重要な役割を担っている物品だからである。ジブリが映画化しているが元々は野坂昭彦が書いた自伝的小説。小説の中で主人公の少年は妹を餓死させてしまう筋書きになっている。野坂があるTV番組に呼ばれた時、この話をしてアシスタントをしていた女性アナウンサーを号泣(というよりも慟哭)させて呼吸困難に陥らせてしまうという騒動を起こしたのだが、その後で楽屋に戻ってきた野坂はマネージャーに向って以下の言葉を告げたという。「ま、僕の妹は今でも生きていますが、ね」(当時)
そう、現実には野坂昭彦の妹さんは小説とは違って餓死しなかったし戦後も長く生き続けた。(というか、多分まだ御存命中だと思う)
『火垂るの墓』のジブリの映画版が地上波などで流される時は何時でもこのエピソードが『実話』扱いで、彼の妹さんは本当に亡くなっている態になっているから、真相を知っている筆者はその度に複雑な気持ちを抱く羽目に為る。
あのね、私小説といえども結局はフィクションなのです。
ま、完全なノンフィクション作品などこの世界に存在しない、という方が真実なのですが。
注5:Slow Handについて。
極限まで無駄を無くした動作である為に想像を超える速さとなり、それ故に逆にユックリに見える現象のこと。Slow Handを遣える人間には単なる素早い動きに見えるらしい。
注6:ドライ・サンプについて。
エンジンの潤滑方式の1つで、ウエット・サンプと対比して使われる用語。潤滑油を溜めておくオイルリザーバータンクを設け、オイルポンプで潤滑の必要な個所に給油し、サンプ(オイルパンの事:シリンダーブロックの下に取り付けられ、エンジンオイルを溜めておく部分)に落ちたオイルをスカベンジ・ポンプ(オイル回収ポンプ)で別のタンクに送り、ここで空気が混ざって泡立っているオイルから空気を分離した後でメインタンクに戻すというやり方。ドライ(dry)は『乾いている』ことを意味している。因みにウエット・サンプのウエット(wet)は『濡れている』の意。ウエット・サンプと比較して使用するオイルの量が少ないのでドライ・サンプと呼ばれる。システムが複雑になるのが欠点だが、オイルパン部分を浅く設定できるのでエンジン高を低くする事が可能になり、溜まっているオイルが少ないために加減速や旋回時のオイルの片寄りによるトラブルが起こらない事からレース用などの高性能エンジンに採用されるシステムである。高速コーナーを旋回中にオイルが遠心力によって片寄ってしまうとオイルポンプが空気を吸い込んでしまう事があるのだ。こうなるとポンプが幾ら高性能でもオイルを送り出せなくなってしまう。
余談だが、BNR32をニュルブルクリンク・ノルドシュライフェに初めて持ち込んだ時に1周も出来ず僅か半周でストップして仕舞ったのは、長い高速コーナーで1.2Gを超える横Gが長時間持続する為にエンジンオイルが片寄って油圧低下が起こった事が主な原因だった。
この問題への対策としてオイルパンのバッフルプレート(仕切り板)の形状を工夫する事で解決できた故に、ノーマルのR32はウエット・サンプのままである。
じゃ、ウエット・サンプって何かというと、エンジンの一般的な潤滑方式。殆どの市販車はこの方式を採用している。サンプに落ちてくるエンジンオイルを溜め、コレをポンプでエンジンの各部に送って潤滑するというサイクルを繰り返すシステム。
注7:一応の説明を。
M3CLSとはBMWの3シリーズにおけるトップオブザライン(top of the line:最上位機種)であるM3からの派生車種。CSLはCoupe Sports Lightweightの略。ノルド・シュライフェでの記録は7分50秒。GT3RSはポルシェ911-996GT3RSの事。RSはRacing Sportsの略。ノルド・シュライフェでの記録は7分47秒。
この2台は徹底的な軽量化と重心位置の低位置下と中心化が図られている機種である。
注8:アクティブ・サスペンションについて。
通常のバネとダンパー(ショックアブソーバー)の代わりに空気圧や油圧で作動するアクチュエーター(作動装置)を使い、各種のセンサーでクルマと路面の状態を検知してコンピューターによりアクチュエーターの動きをコントロールし、サスペンションとして働かせるシステム。
あ、サスペンションの説明してなかったっけ?
サスペンションを日本語訳すると『懸架装置』になる。車体と車輪をつなぐ装置で、路面からの衝撃を吸収するバネ(スプリング)、バネの動きをコントロールするショック・アブソーバー、車輪の動きを制御するアームやリンクによって構成されるシステムの事。
アクティブ・サスペンションに話を戻すと、コンピューターが状況を瞬時に判断して積極的にサスペンションシステムを最適状態にする事から、能動を意味するアクティブという言葉が使われている。油圧や空気圧シリンダーとサーボバルブ(フィードバック制御系バルブ。状況に応じてバルブの働き具合を自動制御する)だけで働くものをフルアクティブ・サスペンションと呼び、通常のバネとダンパーから構成され、バネレート(バネの硬さ・柔らかさの事)やダンパー(ショックアブソーバー)の減衰力を可変としたものをセミアクティブ・サスペンションと呼ぶ。研吾のR32に装備されているシステムは後者である。織が酔い止めを服用せずに研吾のR32に乗っても車酔いを起こさないで済むのは、研吾の運転技術が超一流である事に加えて、機体の振動をほぼゼロに抑えてしまうこのセミアクティブ・サスペンションの恩恵に与っている部分も大きい。
注9:シャシ・ダイナモについて。
シャシ・ダイナモとは、シャシ・ダイナモメーター(chassis dynamometer)の略称。
コレは主としてクルマの動力性能を計測する為の装置。排気ガス測定を室内で行う為にも使われる。ローラー上にクルマの駆動輪を乗せてエンジンの動力によってローラーを回転させて、走行抵抗を動力吸収装置で、加減速時の慣性抵抗をフライホイールで代用させて実際の路上走行を再現するモノ。
現在のトレンドは、シャシ・ダイナモから、クルマの実際の走行をより正確に再現可能な『ダイナ・パック』に移行しつつある。この機器はローラーを採用していないのでタイヤによる(接地面との)抵抗を極力排除できるといった特徴を備えている点が強みである。
シャシ(chassis)とは、車台の事。自動車からボディ(車体)とその付属品を除いた部分、すなわちエンジン・駆動系・サスペンション・ステアリング系・ブレーキ系・走行装置などの総称。現在は大型トラックやバスなど、ラダーフレームを備えた車種のみに使用される用語。
ただしモノコック構造の乗用車でも上記の部分からエンジンを除く、いわゆる足周りなどの部分を指す言葉として使われる事がある。
ラダーフレームとは、ハシゴ型のクルマの骨組み・骨格。これにボディ(キャビン・客室)、エンジン、駆動系、サスペンションなどが組み付けられる。ラダーフレーム構造の利点は、路面やエンジンからの振動やノイズがフレームを経由してボディに伝わるので、静かで乗り心地の良いクルマが得られる。そして非常に丈夫なクルマに仕上げられる。フレーム自体が物凄くタフで軽く100年以上の使用に耐えるから、ボディがボロッとなってきたら、ボディだけを交換する事でクルマを簡単に再生させられる。欠点は、クルマの大きさの割に重量が大きくなる事と、フロアが高くなって車高が高くなる事。同時にクルマの重心位置も高くなるので、運転する時に独特の操縦技術が必要になる。加えてフレームとボディの間に捻じれが生じて、クルマの挙動がピョコピョコしやすいのも欠点である。
モノコックとは、フレームとボディを一体に作った車体で、現在の乗用車の殆んどがこの形式を採用している。軽量な割に車体剛性を高くする事が出来、床面が低いという利点がある。フレームとボディが一体化しているので車全体で応力を受け止める事が出来る。故に走行性能や操縦性能に優れる事も利点。欠点は、エンジンやサスペンションをボディで直接支持する為に振動やノイズを低く抑える事が難しくなる事。フレーム装備車と比較して強度(剛性とは違う概念。これについては物語中で解説を赤城さんがする予定)が低くなることも短所である。赤城さん曰く「モノコックなんてのは大量生産用で安価な使い捨てのボディだ」そうです。尚、モノコック(monocoque)はフランス語で『貝殻』の意。
英語では、frameless construction、米語では、unitized constructionとそれぞれ、呼ぶ。
余談だが日本では、よくchassisのことを『シャーシ』と発音するが、正確には『シャシー(チャシー)』若しくは『シャシ(チャシ)』であるので、完全に誤った言い方である。
注10:エアクリについて。
エアクリーナーの略。
エアフィルターやエアストレーナーとも呼ばれ、エンジンに吸入される空気中のゴミを除去するフィルターで、吸気音を低減する働きもする。エアクリーナーボックスに内蔵されるエレメント(濾材:ゴミを濾し取る部品)には紙や繊維を用いる乾式とオイルを使用する湿式がある。乾式が一般的だが、取り付け場所やサービス上の問題などでエレメントの交換が難しい場合に湿式が用いられる。余談だがFDの純正品のエアクリーナーボックスには『MAZDA』のロゴが入っているので一目で判別できる。
注11:圧縮について。
圧縮比のこと。
エンジンの圧縮行程において混合気(燃料と空気の混ざったモノ)がどれだけ圧縮されるかを、燃焼室の圧縮前の最大容積と圧縮後の最小容積の比で示すモノ。
ガソリンエンジンの理想の圧縮比は14:1と言われている。
ガソリンエンジンでは圧縮比が高いほど出力は大きくなるし効率も高くなるが、同時に異常燃焼が起こり易くなって不具合が生じる為に、一般レベルでは7~11:1ほどに設定される事が多い。
R32に搭載されているRB26DETTはターボチャージャー付きエンジンなのでオリジナル状態では圧縮比8.5:1と低めに設定されている。
エンジンが組み立てられた時に設定された圧縮比は徐々に低下して行く。これはエンジンを構成している部品が次第に劣化して行くことが原因である。パンパンに膨らませた風船が次の日には萎んでしまっている事をイメージすると理解し易いかも知れない。
圧縮が抜けてしまっているエンジンは当然パフォーマンスに劣る。
「コレ、あそこのテーブルまで、もっていってくれる?」って おじさんパパが ゆった
それから、ミズの はいったトーメーなコップを2つ、ワタシにテわたした
「コボシても ゼンゼンへいきだけど、じぶんのフクに ひっかけないように、ね」
コクンってしてから、おじさんパパがゆったテーブルにコップをもってった
コボサないように、シンチョーに もってった
テーブルにおいてから、おじさんパパのトコにもどった
みせのオバさんとナニか はなしてる
「すいません、トロロ蕎麦を2つとお稲荷さんを一皿、お願いします」とオレは注文した。
「はいよッ!」推定50代後半から60代前半の妙齢のご婦人の店員さんが威勢の良い声で返事をした。アレッ? 妙齢って幾つくらいの年齢の事を言うんだろうか?
(筆者注:妙齢とは『うら若い年頃の事』なので研吾君の使用例は完璧に間違いです)
店員さんは白い三角巾で頭髪を覆い、パッと見は割烹着に映るコレも白色の作業着を着ている。そのフックラとした外観から、彼女が提供する料理はドレもコレも美味いに違いないという確信に近似した考えを人々が抱くであろう事は想像するに難くない。
東名のパーキングエリアに設置された軽食堂に誠に相応しい出で立ちの店員さんである。
その上、券売機で食券を買って店員さんに提出するっていう無粋な購入方法では無くて、口頭で直接に注文するという、いささか古めかしくも響くスタイルも非常に好ましい。
高校生の時に、バイトの給料が口座に振り込まれて懐事情が比較的良好になるとワザワザ東名高速にXR250Rで乗り入れてココの、愛鷹PA名物のトロロ蕎麦を喰いに来るのが、オレの抱える密かな楽しみの1つだった。もちろん美穂子と駄弁っている方が遥かに楽しくて軽く3億倍位は愉悦度が大きい時間だったのは本当の事だったけど、コレは以前にも言及したかも知れないが46時中彼女を拘束するって事は非現実的な話だから、トロロ蕎麦は戦力的にはチョット貧弱だったけれど、まぁ、代替要員として採用していたって事だ。
ただ、気懸かりな事が1つある。
それは先程視界の中にヌッと飛び込んできた一枚の看板に表記された一連の文言だ。
記されていた文字列を脳内再現すると、こんな感じの内容だ。
『愛鷹PAの食堂及び売店はリニューアルを致します。改装工事の為に約1ヶ月半の間、閉店となります。当PAをご利用になられるお客様各氏にはご不便ご迷惑をお掛け致します事をお詫び申し上げます。しかしながら愛鷹PAの利便性をより一層高める為に必要な工事であります故に、何卒皆様のご理解を頂戴したく、ここに深くお願いする所存にございます。
尚、再開時期の詳細情報につきましてはNEXCO中日本のウェッブページをご覧ください』
件の看板には改装計画に基づく簡単なPA全体の間取り図の様なモノも記載されていた。
それによると現在の外部開放型で吹きっさらしの軽食堂は閉鎖系のフードコートなるモノに変更されるらしい。軽食堂の横に癒着するかの様にプチッと寄生している、メインの商品構成を地元の名産品などとする小さな売店は、コンビニの併設という店舗配置へと進化させる計画の様だ。
ま、この改装によって食事環境は清潔になり、より利便性が増す事は確実だから殆どの人はこの改装計画を諸手を上げて歓迎するだろう。
だが、オレにとっては大切な思い出の場所がまた消失するって訳だ。
何でもかんでも清潔に、綺麗に、便利にすれば良いってモンじゃないとオレは思うんだが。
世の中から猥雑さ、如何わしさや、白でも黒でも無い曖昧なグレーな領域、美醜のドッチとしても認識できないモノなんかが消えて行けば行くほど、息苦しさが増して生き辛くなる様に感じるのは、世界でオレ独りなんだろうか?
時代の潮流ってヤツには誰も抗えないのだし、仕方無いと受け容れるしかないのかも。
しかし願わくば新装開店後にもオレを今も魅了し続けている『トロロ蕎麦』だけは残しておいて欲しい。
日本で2番目の朝ご飯を注文する前に、用心の為に結衣から送られてきた長文のメールをチェックしてイトちゃんの食事に関するトリセツを再確認した。
ソレによると、だ、彼女に目立ったアレルギーは無い。
嫌いな食べ物も殆んど無い。
なるほど、なるほど、イトちゃんが好んで食べる料理はオッサン臭いモノが多いのか。
タコの塩辛が好きで、裂きイカとかエイヒレとか、酒の当てみたいなモノが好物。
納豆もOK。
野菜は何でも食べられるけれど、唯一ダメなのが、冬瓜。
オレも冬瓜、ダメなんだよな。
こんな所まで似ているなんて、本当にオレの娘なのかも知れん。
子供なのにも関わらず、ピーマンとかセロリが好き。
変ってんなぁ。
苦くないのかな?
ピーマンの苦みってアルカロイド系だから、嫌いな方が生物としては正常なんだけども。
(筆者注:アルカロイド〔alkaloid〕は植物塩基で毒性が高い。例:ニコチン・コカイン等)
大抵の子供が苦手とする酸っぱい物もOK。
アレッ?
オッカシいなぁ。
酸味とか苦みって生物的には忌避するべき味覚の筈で、だから子供は避けるんだよね。
苦みは毒に通ずるし、酸味は腐敗物に関係しているから、なんだけど。(注1)
ま、オレも小さい時からイルカのタレとか大好物で、周りの大人達から「変ってるねェ」と感心(?)された覚えがあるから、こういう事も『アリ』なのかも、知れん。
(筆者注:イルカのタレとはイルカ肉の干物。塩干しとミリン干しがある)
本当にオレの娘、なのかなぁ?
何々、えーと『マグロのブツ切りの山掛けとかも全然平気で、むしろ喜んで食べる』だ?
あのさ、結衣、お前、5歳の女の子に何を喰わしてんだよ?
マグロの山掛けって喰わすか、子供に、普通?
子供が好きな料理って、カレーとか、ハンバーグとか、鶏の唐揚げとかじゃないのか?
メールには『ツナマヨのオニギリ喰わせて置けば大丈夫』って書いてあるけど、さすがにソレだけじゃ栄養が全然足りないだろ?
アイツの皮質内に栄養という概念は存在しているのか?
ビタミンとかミネラルなどの必須栄養素に関する単語が脳の記憶貯蔵庫の中にインプットされているのか、甚だ疑問だよ。一緒に暮らしていた時にそういう類いのモノが生きていく上で如何に重要なのか、を教えた筈だったんだけど、な。偶然っていうか奇跡的にツナには脳の神経細胞の構成成分であるEPAやDHA等が豊富に含まれてはいるんだけれども。
ま、これで『トロロ』という食品はセーフな事が解ったから、良しとするか。
ソバに対するアレルギーも特に認められない、か。
タタタッとトロット音が駆け寄ってきたから、確認する為にその方向に首を回すと予測通りにイトちゃんの姿が視界に入った。車外に出るので予防的措置を講じて客室内では脱がせていたスカジャンを羽織らせたのだが、全くと言って良い程に似合っていない。
サイズがブカブカで彼女の身の丈に適合していないという事もあるが、青白のスカジャン自体がイトちゃんが醸し出している雰囲気と全然マッチしていないのが、その最大要因だと思う。オークリーを外したからか、眩しそうに少し顔をしかめながら走って来る。
サングラスを外させたのは周囲の人達を困惑させたくなかったからだ。
日本に暮らす人々は子供がサングラスをしている姿を見慣れていない。
実際の所は、子供の眼の方が紫外線に対して脆弱なので、小さい時から掛けさせておく方が白内障予防に良いのだ。白内障は生涯に浴びる紫外線の照射量に比例して、その進行度合いを増速させるという。加えると、加齢黄斑変成も紫外線の照射過多が引き起こす。
これ等の老人期に起こる疾病を防ぐ為の唯一の対策法が幼児期からの屋外でのサングラスの着用だ。推奨されるのは、UV400とか紫外線カット99%とか表示されている物だ。
ま、蕎麦を手繰る場所は壁が無いので吹き曝しではあるが、頭上には紫外線を遮蔽する屋根があるので、一応安心である。本当の所は食事の間も彼女には着用させておきたいが。
あれ、ご飯を食べる時、サングラスを掛けているのって、マナー違反になるのかな?
ま、いいか。
オレも今は額の上にズリ上げているし。
イトちゃんに掛けさせていたオークリーは、今現在テディ・ベアが掛けている。
しかし、ホントに服が浮いているな。
よし、買おう。
何か、別の、彼女に本当に相応しい衣服を買おう、何処かで。
足許に眼を移すと先日初めて会った時にも履いていたピンクのクロックスに素足を突っ込んでいる。靴下くらい穿かせてあげてもバチは当たらないと思うけど、な。
足の甲の根許部分に渡してある、コレ、何て名前なんだ? ブリッジかな、踵に回して固定する時に使用するヤツだからヒール・ストラップか、右脚側の内側の留め金部分が壊れていてプランプランしている。外側の所の接合加減も大分怪しそうで、今この瞬間にも外れてしまっても驚愕という感情は全然湧きあがって来ないだろう事は確実だ。
そうだ、買おう。
頭の天辺から足の爪先まで、ビシッと一式揃えてあげよう。
イトちゃんが近傍まで走って来た丁度その時、例の軽食堂に相応しい容姿のオバちゃんが、
「ハイよッ! お先に稲荷さんが、お1つッ!」と威勢のいい声で言いながら、稲荷寿司が2つ乗せられた小皿をカウンターに載せた。
テカッと艶光りした茶色の御揚げさんがクルッと包み込まれていて見るからに美味そうなお稲荷さんが乗った小皿をオレは取り上げてイトちゃんに手渡しながら「コレ、テーブルに持っていってくれる?」と言い「持っていったらオレが...オジさんが後からお蕎麦を持っていくから、テーブルで座って待っててね」と続けた。
コクンと1つ頷いてイトちゃんはソーッと歩き出す。
恭しく捧げ持つ様に運ぶイトちゃん、その姿が、一生懸命な様子が非常に可愛らしく思えて、心の底から彼女の存在を好ましく感じているオレがここにいて、少し驚く。
この子がホントに自分の娘だと良いな、と、そこはかとなくボーッと考えていたら、
「ハイよッ! お待ちっ! トロロ蕎麦が、お2つッ!」と、
オバちゃんが、輪唱の様にトントンとリズム良く2つ、丼鉢をカウンターに載せた。
「有難うございます」とお礼を言ってから、オレ用の蕎麦だけに七味をパラパラっと振りかけると、箸容れから割り箸を二膳取り上げ唐辛子が程良く散布されたトロロ蕎麦の丼鉢の上に橋を掛ける様に箸を揃えて、ペシッと置いた。
そういや、結衣の前でこの仕草をすると常に彼女に叱られたものだ。
『研吾ッ! ソレ駄目だって、何時も言ってるじゃんッ! 渡し箸はダメなんだよッ!』
彼女に言わせると『三途の川を渡す』の意味に通じるので縁起が悪いのだ、と。(注2)
結衣はそういうトコ、ウルサかったんだよな。別にどうでも良いだろうに、こんなの。
大体、人は死ねば否応なしに三途の川を渡らなきゃならないんだよ。
縁起が悪いとか言い得る様な状況下じゃないと思うよ、オレは。
ま、オレ自身は『彼岸』のような非科学的な事象は一切信じていないので、端からどうでも良いことなんだけど、な。人は死ねば分子の段階まで還元されるだけの存在に過ぎない。
それだけだ。
この肉体に『魂』などというモノは宿っていたりはしない。それ以前の問題として人間に自らの『意志』すら備わっていない事は、一連の科学的実験によって既に証明済みだ。
異論もあるだろうが、ソレが事実だ。
左右の手、それぞれに一碗ずつ担当を命じ、丼鉢の縁に親指を引っ掻けて高台を人差し指を除いた残りの3本で支える様に縦にガシッと鷲掴みにし、町中華でよく見掛けるオバちゃんの様に親指を出汁の中に突っ込まない様に注意しながら、持ち上げる。別に親指が汁に浸っている事を非難している訳では無い。トロロが掛かった出汁は想像を遥かに超えて『熱い』からだ。指なんぞを突っ込んだ日には重篤な熱傷を負う事は間違いないからだ。
だから出汁を一滴も溢さない様に慎重の上にも慎重を重ねて、テーブルに向ってソローッと一歩一歩、能のシテの様な足取りで歩いて行った。
「いただきます」イトちゃんは、自分の前にトロロ蕎麦が置かれると、両手を合わせてから、小さいけれどハッキリした声で、そう言った。
オレが「はい、これ」と言いながら割り箸を渡すと「ありがとうございます」と言って、彼女は受け取った。子供らしからぬ滑らかな手捌きで箸を横倒しにしてから、まるで扇を開く様にして割り箸を上下二つに割った。
ふーん、結衣のヤツ、こういう所はチャンと躾けてるんだな。
大人でも正しいやり方で箸を割れないヤツ、多いもんな。
おっと、イケねェ。
熱いって事を注意喚起しないと。
「ね、イトちゃん。そのお蕎麦さ、物凄ーく熱いから、一杯『フーフー』ってしてから食べるんだよ、イイね?」オレは彼女の瞳を覗き込む様にしながら、言った。
イトちゃんは「はい」と言って、コクンと首肯いた。
おじさんパパが「あついから、イッパイ、ふーふーしてからたべるんだよ」って ゆった
ドンブリのなかは シロかったので、あんまりアツそうに みえなかったけど、
はい、って ゆってから、コクンってした
おハシを ズボっといれて、おソバを もちあげてから
フーッ
フーッ
フーッ
って3かい した
もう、いいかなって おもったから
ママに ゆわれたトーリに
ズルズルって、音をたてて すすろうとしたら、
アチッ!
まだ、ぜんぜんアツいや
フーッ
フーッ
フーッ
フーッ
フーッ
フーッ
もう、いいよね
ズルズルっ!
!?!
なにコレッ!
ちょーウマいッ!
ホントに ウマいッ!
おソバの うえにかかってる、このシロいやつって、
コレってマグロのおサシミに かかってるヤツだよね
トロロってナマエだったっけ?
でも、コッチの方がちょーウマいッ!
マグロの1000ばい、ウマいッ!
おソバとスープと トロロがあわさってて
ちょーウマいッ!!!
ぜんぶイッショに くちのなかに はいってきて
ちょー、ウマいッ!?!
おじさんパパの ゆったコト、ウソじゃなかった
ホントだった
ほんとうに ニホンで2ばんめにウマいアサゴハンだぁ
やったぁ!
マホーのドロップ、2こでやめといて よかった
ドロップも おいしかったけど、こっちのおソバの方がワタシ、すき
ね、おじさんパパ
ゴメンなさい
ちょっと、ウソかなって ワタシおもってた
サクヤさんのオムスビとおなじくらい おいしいタベモノがあるワケないって、
そう おもってた
2ばんめにオイシイあさゴハンなんて、あるワケないって おもってた
だから、ゴメンね
ホントだったんだ、ね
それで、ね
アリガトウ
こんなにオイシイごはんを、ごちそうしてくれて
ありがとう。
スルスルッと小気味良い音を立てながら器用に蕎麦を手繰っているイトちゃんを見ていると、何故か知らないが非常に嬉しくなった。咲耶さんのお結びを頬張っていた時と同じ様に彼女の顔がビカビカっと輝いて見える。
良かった、どうやらお気に召したみたいだ。
さてさて、オレも冷めないうちに喰おうっと。
<トロロ蕎麦は、餡掛けウドンやカレーと同じ位、冷めにくいだろ、オイっ!>
脳の片隅で誰かが何かを言ってるが、完全無視だ。
2人の初めての朝に結衣がして見せた同じ作法で箸を割ってから「頂きます」と言って、丼鉢を持ち上げた。
おっと、忘れてた。
箸を持ちながら拝んじゃ駄目だったんだっけ。
ソロッとイトちゃんをチラ見すると幸いにもトロロ蕎麦に夢中でオレの失態には気付いていない様子で『セーフ』だ。しかし他の多くの事に関してはぞんざいなのに、何でこういう事だけはキチッとしてるんだろうか、結衣のヤツ?
イトちゃんの箸使いの所作が綺麗なのは、やはり結衣が躾けたっていうか、教え込んだからだろうけど、もっと教えなきゃいけない大切な事がある様な気がしてならないんだが。
ま、いいか。
しかし彼女の喰い方は相も変わらず『賢者の食べ方』で、傍から見ていても実に美味そうに映る。そんな姿に数秒ボーッと見惚れていたら、腹が「プビューン」という情けない聲を上げた。イカン、猛烈な飢餓感に襲われようとしているオレが、いる。
取り敢えず、眼の前のドンブリをやっつけよう。
だが、気を付けろ、オレ!
コイツはとんでもなく、熱いッ!
一見すると湯気も大して発散しておらず、素知らぬ顔で適温である事を装っているが、
チョー熱い。
熱い物を食べる習慣を持っている生物は人間だけだそうだ。
ま、そりゃそうだよね。他の動物、火使わないもん。
いい歳をした大人だが、傍目を気にする事無く、蕎麦を手繰り上げて盛大にフーフーする。
熱さを感知する部位である舌先の三叉神経を気遣って、必要以上とも思える位に息をフーフーと吹き掛け続ける。
もう良い加減に冷めたかな?
作法通りにズズズッと盛大に音を立てながら蕎麦を啜り上げる。
この『啜る』という作業も蕎麦やラーメンの美味さの要因の一つだと思う。
『啜り上げる』ことで麺の周囲の空気を巻き込み、蕎麦や出汁の香りをより一層引き立たせるからだ。ま、厳密に言うと蕎麦は『麺』ではないんだけれども。(注3)
こんな時には、筋肉力の構成の違いで吸引力の弱い西洋人を憐れむ。
この愉悦とも形容可能な風味を一生掛かっても経験出来ないのだから、な。
可哀想なヤツ等だ。
ナポリタンを啜り込んだ時の、あの絶佳とも言える味を知らずに死んで逝くのだから、
哀れだよ。
フハハハハハハ...
ズルズルっ!
うん、美味い。
オレの記憶の中にある、そのまんまの味だ。
この世界に、変わらないモノが存在している事を今日、オレは確認できた。
表面を覆っているトロロが蕎麦出汁の上層部と混ざり合ってプクプクと泡立ち、見た目はまるでカプチーノの様だ。だが蒸気で撹拌されたミルクと違って、山芋の擦り卸しの肌理にはワザと粗さを残しているので、そのトロロ&蕎麦出汁の混合物は全体ではトローッとしてはいるのだが、そこかしこに存在する小さな山芋の粒子がモロモロとした食感の妙を生み出して、程良いアクサンテギュとなっている。この、出汁の上に載せられたトロロが介在役、いや仲介者となって蕎麦と出汁が混然一体となる事を可能にしており、その両者にトロロを合せた三者がまさに『聖三位一体』へと昇華して口腔内に飛び込んでくるのだ。
それに追っ掛けて口腔から鼻腔の奥へと立ち昇って来るブーケが本当に素晴らしく芳醇だ。
味(風味)とは味覚と嗅覚が合体したモノだという事が良く理解できる瞬間だ。
出汁は昔と変わらず鰹節と鯖節に鰯節。それに昆布だ。
本枯れの雄節と利尻昆布から煮出される一番出汁と比較すると、やや幾分か荒っぽいかも知れないが、この方がソバには非常にマッチしている、と思う。昆布由来のグルタミン酸と鰹節を筆頭格とする『節』連中から抽出されたイノシン酸のパ・ド・ドゥ(pas de deux:二人舞踏)が醸し出す旨味の相乗効果、それに加えての蕎麦自体の芳香が真にたまらない。
擦り卸された山芋の上にチョンとウズラの卵が1つ割り落とされているのが何故だかお得感を提供してくる。ココも昔と全く同じで良い。
薫り高い地元産の醤油とこの甘味は味醂だろうか、それとも三温糖か、ちょっと家庭では再現できない絶妙で独特の甘辛味である。振り掛けられた耳掻き一杯分程の青海苔が食欲を刺激する芳香を漂わせ、良いパンチを効かせてくる。ココもポイント高いなぁ。
しかし表面に浮かぶトロロ泡の存在がとても愛おしい。
こーゆー泡って、何て言うんだっけ?
スプマンテは違うよな、多分『s』から始まる単語だったと思うんだけど...
(筆者注:英語では『spume(スプーム:n:泡)spumescent(adj:泡だった~)』です。
フランス料理ではサイフォン〔泡立機器:炭酸ガスで瞬間的にホイップする器具〕で作る泡状のソースやムースをエスプーマ〔espuma:泡〕と言います)
昔、高校の修学旅行で訪れた京都、その...何だっけ?...ちょっと駅の名前が想起できないが、ま、とある駅で列車の待ち合わせの時間にグループ全員で『駅ソバ』を食した事がある。みんなは月見やたぬき(京都では『きつね蕎麦』をこう呼ぶ。東京での『たぬき』に相当するのは『ハイカラ』)などを注文したが、メニューに『トロロ』と表示されている事をオレは目敏く発見し、狂喜乱舞しながら注文したのだった。しかし、期待に胸をパンパンに膨らませていたオレの前へ「お待たせしました」の言葉と共に置かれた蕎麦の上には擦り卸しの山芋は載せられておらず、代わりに数枚の『トロロ昆布』がフニャラフニャラと悲しげなダンスを踊っていただけだった。
『何じゃ、コイは?』と何故だか鹿児島弁で、心の中で舌打ちをした事を憶えている。
『どういた? どういたがじゃ、この蕎麦は? トロロ昆布なら、昆布を省略せんでチャンと「トロロ昆布」とフルで書いておくがじゃッ!』と続いて今度は土佐弁で毒吐いたのだった、もちろん心の内で。
ふうっ...
昔馴染みの蕎麦を手繰っていると頼んでもいないのに、向こうの方から勝手に想起してきて様々なエピソードが矢継ぎ早に脳裏に再生されてくる。
思い出したい事も、忘れてしまいたい事も、だ。
何せ、約20年振りだから、な、この蕎麦との邂逅は。
仕方無い、か。
ジイちゃんとの事。
生まれて初めて飲んだ赤ワインの味。
美穂子との思い出。
彼女の首筋から立ち昇って来てオレの鼻腔を撫でた芳しい香気を今も色鮮やかに憶えている。下から見詰め上げる女性の眼は、何故あんなにも大きく見えるのだろうか?
出し抜けに、彼女が上げた初めての聲が鮮烈に蘇って、オレの耳朶を再び優しく叩く。
そんな風にオレが過去からの爆風に曝されて、半ば呆然としながら蕎麦を口に運んでいた時、不意に視線を感じて顔を上げると、イトちゃんがオレの手許を注視していた。
彼女の視線の軌跡を追う様にオレも自分の手許に眼を落とす。
なるほど、コレね。
上側の箸を人差し指と中指で挟み込むという常道の作法から逸脱する様に、上と下の両方の箸を中指先の横っ腹に乗せるという一種の荒業テクニックで箸を使っているからだ。
オレは彼女の瞳を凝視しながら、言った。
「気付いちゃった? おじさんの箸の持ち方、変だろ?」
イトちゃんが『ウーン』って感じで迷いながらも、小さく頷いた。
「おじさん、さ、昔バイクに乗ってた時に転倒...コケちゃって、右手の中指の先っぽを
5mmくらい...」オレは箸を持ったまま、親指と人差し指で5mmという間隔を呈示しながら「アスファルトの路面で削っちゃったんだ。グローブ...手袋するの忘れてて、さ。それでね...」中指の先っぽを彼女がよく見える様に指し出しながら「神経が通ってない...ウーンと...右手の中指を上手く使えなくなっちゃったんだ。だから、こんな変な箸の持ち方しかできないんだ。マナー違反でみっともない持ち方って解ってるんだけど、こういう風にしか持てないんだ。ゴメンね」と説明した。
『ううん』と、かぶりを振ってから「その時、痛かったですか?」と彼女が訊いてきた。
「いいや、そんなに痛くはなかったよ」とオレは嘘を吐いた。
すると安心した様にイトちゃんは再び『蕎麦に夢中』という作業に戻って行った。
通常の持ち方、所作で箸を使えない事も無いのだが、やってる内に中指の先の内側からむず痒さが湧き上がってきて耐え切れなくなり、再び我流の箸使いに戻してしまうのだ。
唯一箸使いのみで見られるモノで、他の作業では一切生じることがない現象であるのが、我ながら不思議だ。何でだろう?
ま、いっか。
折角のおソバちゃんが冷めちゃうよ。
<トロロ蕎麦なんだから、簡単に冷めやしないぞ!>
ミスター客観が何か言っているが、完無視だ
だから、オレも彼女に倣って昔懐かしいトロロ蕎麦に没頭する事にした。
するとその思惟の空隙を狙い済ましたかのように、再び追想が脳内に湧出したのだった。
「おおかったら、のこすんだよ。ムリして、たべなくてもイイからね」
って、おじさんパパが ゆった。
カオをあげて、おじさんパパの瞳をみながら、コクンってした
「それからさ、これ」って ゆって、
おイナリさんが2つ のってるおサラをワタシのほうへ ズリーっとおしてきて
「おイナリさん、1個ずつ。ハンブンコしようね」って ゆった。
おイナリさん、スキだから チョーうれしかった。
おハシでつまんで、パクッとした。
!!!
なにコレっ!
ちょーウマいッ!
アマくてショッパイおあげさんと、なかのチョットすっぱいごはん、
ウマーいッ!
ワタシ、このおイナリさん スキっ!
セカイでいちばん、スキっ!
イトちゃんがお稲荷さんにパクッと齧り付いた瞬間に、ピカって顔の輝きが明らかに増光したのが解った。ここのお稲荷さんは抜群に美味いんだ。お揚げさんの煮染め方が的確、施された技術は多過ぎず、足りない箇所も無い。まさにストライクゾーンのど真ん中である。包まれた酢飯の酸味や甘味に関しても過不足なし。ご飯の炊き具合も完璧。
真に『良い加減』である。
ただ、オレは田舎出身者なので鄙のデフォである濃い味を好む。だから、自分独りの時はタラーッと一筋の醤油を垂らしてから口の中に放り込むのが常だが、今日はイトちゃんと一緒なんだ、醤油はスルーしておこう。塩分過多だしな。そろそろ中年の域に差し掛かるのだから、健康に気を使ってもバチは当たらない筈だし、な。
オレは残された稲荷寿司の片割れを箸で摘み上げて、ポイッと口に入れた。その刹那、口腔内部全体にジュバッと甘辛い汁が行き渡る。舌や軟口蓋・咽喉に埋設されている味蕾という味蕾の全てが『美味いよー』という喜びの信号をオレの脳幹に伝えた。
咀嚼すると御揚げさんの香ばしさと酢飯の爽やかな酸味が相まって芳醇な口中香へと昇華し、口腔から鼻腔の奥へと昇って行くのをアリアリと認識する。
魚介の寿司とはまるで違う領域の『美味さ』だ。
御揚げさんのツルッとした表面とボロボロってした裏面の舌触りの違いも美味さの要因の一つに数えても良いかも知れない。風味には食感からも何らかの寄与があるに違いない。
酢飯から立つほのかな昆布の香りも揺るぎ無い美味さに多大に貢献している。
オレは、対蹠的な味覚である甘味と塩味(鹹味)の両立が『美味さ』の要諦なのだと思う。
何だろう、ホッとするっていうか、安心するっていうか、この店のお稲荷さんは常に裏切らない。日本の鉄道が秒単位で精確なのと同じ位に、裏切らない。飲み過ぎた次の日の朝に口にするシジミの味噌汁と同じ位、裏切らない。
飲み込むのが『惜しい』と思わされる位に、美味い。溶けて流れ去って行くのが悲しい。
永遠に喰い続けていたい。
オレは、この味のチューイング・ガムが欲しいと渇望した。
コレも憶えている味、そのままだった。
未来永劫、存続していって欲しい味だった。
ふぅ、おソバを ゼンブたべたら オナカいっぱい。
おいしかったぁ!
でも、おソバのシルが いっぱい のこってる。
トロロとシルがイッショになってて、とっても おいしんだけど、もう ムリ。
オナカに ハイんないや。
さっき、おじさんパパに「おおかったら、のこしてイイよ」って ゆわれたけど
いつもママに、だされたモノは ゼンブたべなさいって ゆわれてて
だから、どうしよう?
って おもった。
でも、やっぱりマホーのドロップをなめたセイかも、だけど
ホントに、オナカが いっぱいになっちゃった。
だから、がんばって ゆうきだして、おじさんパパに ゆってみた、
「すいません、オナカいっぱいです」って。
そしたら、おじさんパパは「そりゃ、そうだよね」って わらった。
プカプカって、わらった。
そして、ワタシのドンブリをテにとって
ワタシが のこした おソバのシルを、
おいしそうに ズルズルーって のんだ。
あ、ゼンブ のんじゃった。
きたないって おもわないのかな?
だから、
「ヒトの たべたのって、イヤじゃないんですか?」って きいたら、
「そりゃ、しらないヒトのモノは、イヤだけど」って ゆって
「でも、イトちゃんは しってるヒトだから、ぜんぜんイヤじゃないよ」って ゆって
「オジサンが こうやってイトちゃんの のこしたモノをたべちゃうの、イヤかい?」
って きいてきたから、
ワタシ、ぜんぜんイヤじゃなかったから、
『ううん』ってクビをふった。
そしたら、おじさんパパはニカッてわらって、
「キミは、たべたいモノを たべたいだけ、たべなさい」って ゆって、
「オナカいっぱいになったら、いうんだよ。もう、オナカいっぱいだ、って」って ゆって、
「のこったモノは、おじさんが ゼンブたべちゃうから」って ワラった。
ナンか、ワタシ、ちょっとハズカしくなった。
でも、
でも、
でも、チョーうれしいって おもった。
「ゴチソウサマでした」
「ご馳走様、でした」
オレが彼女が残した出汁を飲み干した後に、2人で同時に手を合わせた。
「さっ、行こっか?」オレは丼鉢と小皿を重ね合せながら、イトちゃんを促す。
割り箸をどうしようか少しの間、迷った。
丼鉢の縁に渡して置いて『渡し箸』状態にしようという考えが一瞬だけ脳内を駆け巡ったのだが、ソレは廃案にして素直に丼鉢の中に突っ込む事にした。
ここで『渡し箸』にしても結衣に対して感情的な理由から意地を張っているに過ぎないと思ったからだ。それに縁に渡した割り箸が何かの拍子にズリッと滑って地面に落下してしまう可能性も否定できない。そんな事になったら、余計に面倒臭い。
無駄なグルコース消費は回避するに限る。
だが、使った箸を空の容器に突っ込むという所作が『嫌い箸』に相当するのかどうか、
不幸な事にオレは知らないのだ。
ま、いいか。
結衣はココにいないのだし、見てないし。
飯を喰うという行為ではなく、食事が終わった後で、器を返却するだけだし、な。
(筆者注:多分『嫌い箸』には当たらないと思われますが、確かな訳ではありません)
返却台の棚に、空の器と小皿、そしてプラスティック製のコップを置いてから、
「ご馳走様でした」と店のオバちゃんに声を掛ける。
「ゴチソウサマでした」とイトちゃんも意外と大きな声でお礼を言った。
オレが「久し振りに食べましたけど、昔と全然変わってなくて、美味しかったです」と、言葉をつなぐとオバちゃんは「有難うございました。また、どうぞ」と笑って返した。
食堂を出てからイトちゃんに尋ねた。
「トイレは大丈夫? この先ちょっと長い距離...遠くまでズウッと走るよ」
トロロ蕎麦を食べてポカポカしたのだろうか、少し上気した様な顔をコクッと傾げて自分自身と短い会話を交わした後に、彼女はオレを見上げながら、
「行って来ても良いですか?」と訊いてきた。
「もちろん、良いよ」急がなくても良いからね、とオレは答えた。
「わかりました」イトちゃんはそう言って、踵を返して洗面所に向おうとした時に、
「そのスカジャン...ジャンパー、邪魔になるから脱ぐと良いよ。お蕎麦を食べて温かくなっただろ?」オレがそう尋ねると、イトちゃんはコクンと頷いた。
キチンと折り畳まれたスカジャンを受け取りながら、オレは彼女に、
「クルマ...Rさんの所で待ってるからね。ゆっくりで良いから、ね」と言った。
「ハイ」と首肯したが、やはりイトちゃんはトロットでお手洗いへと向かった。
走らなくても良いのに。
でも、彼女の走る姿を見送りながら『美しい』と思った。
子供特有の『バタバタバタッ』という走り方では無いからだ、と気付いた。
重力の桎梏から解放されている様にオレの眼に映る。
同時多発的に『人の創る美術は総て自然の模倣だ』と、誰かが昔言った言葉を想起した。
ランボーだったっけ?
アリストテレス?
美術じゃなくて、芸術だったっけ?
フッ!
大袈裟だな、我ながら。
ミスター客観に指摘される前に自分で自分に対して指摘した。
スカジャンを小脇に抱えてユックリとR32の停めてあるパーキングロットに向うと、10mほど手前で1人の男性が背中側をこちらに向けて、R32の前に立っているのに気付いた。
どうやらR32をジッと見定める様に見詰めているみたいな、そんな雰囲気を感じ取った。
まるで『常夜燈』に群がってくる夜行性の昆虫みたいだ。
モグラを連想させる音尾さんの顔を思い浮べながら、そう思った。
ま、話がしたいのだろう。
クルマ好きって人種は、何故だかクルマについて語り合いたがる習性を持っているからな。
そんな事をツラツラと考えながら自分のクルマに近付いて行った、その時に、
ソイツの後姿に視線を照射している時に突如、脳内のセンサーが警戒警報を発令し始めた。
ミスター直感がオレの耳許で囁く<気を付けろ。コイツはpersona non grataだぞ>
間違っている事もあるが、大抵の場合『直感』は正しい事を告げている。
そうだ、間違いない。コイツは『取扱要注意人物』だ。
用心しろ、オレ。
言葉使いや立ち居振る舞いに最大限の注意を払え。
相手の一挙手一投足を注視しろ。
オレは身体から無駄な力を抜くことで敏捷性を高められるようにした。動きの速さと滑らかさを最大化・最適化させられる様にする下準備だ。
そうだ、コーディネーションだ。
異なる複数の動きの連結であり、瞬時の状況把握であり、空間認識であり、リズムやバランスの変化への対応法だ。あらゆる身体の動作に含まれる無駄を極限まで減らして最小限の動きで目的を達成する為の方法だ。
今、オレの姿を外部から観察すれば『ヨロッ』とした印象を受ける事、まず間違いない。
背筋を伸ばして胸を張った状態では関節や靭帯・筋肉などが突っ張ってしまって、いざという時に素早く行動に移れないからだ。この態勢を古くは『弱法師』と呼んだ。
毎年2月に行われる東大寺二月堂の重大な行事の1つである『修二会』で『お水取り』を行う坊さんたちが使う身体の動かし方だ。古代中国の遁甲兵術を起源とする。遁甲とは忍術の事だ。だから忍者や剣客なども使う。全部、ジイちゃんの教えだ。
G10製のホルスターからiPhoneを取り上げ、集音マイクに向かってソッと囁いた。
「Can you hear me, Clotho? Pay attention to that guy as much as possible. Permit use of the stun if necessary. Keep your eyes on him absolutely.
Do you understand what I mean? Over.」
「Affirmative, Master. Over and out.」とRさんが無機質な合成音声で冷静に答えた。
昨夜『可愛い仔猫ちゃん』から『Clotho』に音声認識のコード設定を変更して置いて良かった。こういう時に『可愛い仔猫ちゃん』じゃ、なぁ。緊迫感が違ってくるから、な。
『Clotho』って単語を採用した事に、特に深い意味はない。
イトの名前について結衣と話した時に、フッと頭を過った運命の三女神の内の一柱の名前を借りただけだ。人間の生命の糸を紡ぐ女神の名前はRさんの二つ名にこそ、相応しい。
さて、これで準備は完了だ。
常夜燈が捕虫燈に変身、だ。
ん、何だい?
ただ今、絶賛取り込み中なんだが?
『捕虫燈』って何だ、だって?
捕虫燈ってのは、ほんの少し前まで使用されていた機器だ。街灯やコンビニの照明として電灯や蛍光灯が設置されていた頃、群がる様に集まってくる夜行性の虫の関心をコンビニ店内の照明から逸らせて誘き寄せ、電撃ショックで焼き殺す機器の事だ。別名、殺虫機。
そうだ。
夜中のコンビニの軒下(?)で『バチッ! バチッ!』と音を立てていた直方体の機械だ。
今は、街灯もコンビニの照明も夜間営業のスーパーも省エネと経費削減の為にLED照明を採用しているから、この手の機器は既に絶滅危惧種だけど、な。
ん、またかい?
何で電灯や蛍光灯には虫が集まるのに、LEDには集まらないのか? って?
虫は電燈や蛍光灯が発する光に含まれている紫外線に反応して誘き寄せられている。
しかしLEDの殆んどは紫外線を放射しないタイプの光源だ。
だから、虫はLED照明を無視する。
説明、もう良いかな?
もしRさんとオレとの会話内容が知りたければ、英和辞典を引いてくれ。
iPhoneをホルスターに戻しながらR32に歩み寄って行く。
ヨロヨロとよろめきながら頼りなさげな歩き方で近寄って行く。
別に具合が悪い訳では無い。
コレは『咒師走り(ずしはしり)』または『禹歩(うほ)』と呼ばれる歩き方だ。
若しくは『弱法師の歩み』。
そう、コレが件の忍術の歩き方だ。
あ、弱法師ってのは謡曲(能)の1つでモデルとなったのは四天王寺の遊僧。遊僧とは僧形をした咒師のことだ。咒師ってのは、舞踊で何かを伝える人らしいが、よく知らない。
もしかしたら『咒師』とか『修二会』とかに関してのオレの講釈に誤謬つまり間違いが含まれているかも知れないが、今は忙しいので、また後で。(注4)
戟尺の間合いを計りながら近寄り、最大限の注意を払いつつ、静かに男に声を掛けた。
「コンニチワ、何でしょうか?」
オレの言葉で、振り返った男からは、オレはモサッとしたイシガメを思い浮べた。
ソイツの身体から漂ってくる雰囲気が、ノッサリという印象をオレに与えたからだった。
だが、ヘビの眼をしていた。
おじさんパパに メイワクかけたくなかったから、
ハシってトイレに いそいだ。
やっと ついた。
ついたら ナカからオバサンが でてきて、
チョウドよかった、いまソウジが すんだトコロだよ。
って オバサンが ゆって、
キレイに しといたから、きもちイイよ って ゆって、
せいだいに つかっちゃって オジョウちゃん、って ゆって ビカッてわらった。
オバサンにペコッとしてから、ナカに はいった。
ホントだ、めちゃめちゃキレイだぁ!
ピカピカしてるぅ!
ちっちゃいヘヤに はいって、
キュロットとパンツをズリズリって おろしてから、
トイレにすわった。
ふぅ。
ナンでなんだろう?
トイレにすわると なぜか ふぅって ゆっちゃう。
おもしろーい!
ワタシはフフッって わらった。
おじさんパパなら しってるかも。
フフッ。
知識や経験といった情報を何も持たなくても、人間は蛇という生物に対して恐怖心を抱く。産まれ立てホヤホヤの赤ちゃんだって一丁前に、怖がる。
すまない。
冗談だ。
産まれ立ての赤ちゃんの視力は0.03位しかないから、絶対に蛇を視認する事は無い。
ま、オレの言いたいのは、蛇という概念を持たない子供ですら、怖がるという事だ。
襲われた事もなければ、見た事すら無いのに、だ。
興味深い事に、子供が蛇についての情報を得て、危険な種とあまり危険ではない種の2種類がいると知ると、ま、人によってだが、危険性の低い種の蛇の尻尾をつかんでグルングルンと振り回したりして遊ぶ事も珍しくはない。知識を得る事で怖くなくなるのだ。
生得的に何故に人が蛇を怖がるのか、その原因は不明だ。そう出来ているとしか言えない。別に誰かさんが蛇にそそのかされてリンゴを口にしてしまったから、ではない。
その証拠にチンパンジーの子供も怖がる。
『リンゴ食べさせられちゃった事件』が原因なら、チンパンジーの子供が怖がるという事実を説明できないからだ。ま、リンゴの件は単に『神話』だ。実際の出来事ではないしな。
匂いを感知する為にチロチロと出し入れされる、赤くて細長い先端が二叉に別れた舌が、『イヤッ!』って人もいるだろうけれど、多分、蛇に備わった眼が、人が怖がる要因なのかも知れないとオレは当て推量している。
あの、何処を見ているのかサッパリ解らない、眼。
人間の眼に備わっているのに、他の生物の眼にはない特徴は何だと思う?
答え、それは『白目』の部分だ。
あ、ここでいう『生物』とは鳥類と哺乳類に限った話だ。
何故なら白目、専門的には『強膜』という組織を眼球器官に備えているのは、現生動物としては鳥類と哺乳類に限られるからだ。
ただ、人間以外の鳥類・哺乳類に属する種が備えている『白目』すなわち強膜の色は黒または非常に濃い褐色である。そう、白目なのに『黒い』のだ。
白目が本当に『白い』のは人間だけである
確実なデータや物的な証拠に裏付けられている訳ではないから、単なる推測に過ぎないが、
人間以外の『生物』の強膜の色が黒い理由は恐らく『社会性』という言葉に繋がってくると考えられる。
え?
よく見掛けるメジロって鳥にはチャンと『白目』があるよ、って?
残念でした。
メジロの眼の周囲にある白い円環は『アイリング』と呼ばれる単なる模様だ。
因みにアデリーペンギンの眼の周りの白い輪っかも『アイリング』で、ただの模様。
この『アイリング』はディスプレイ(繁殖期にオスが行う誇示行動)に関係している模様らしいが、詳しい事は専門家に訊いてくれ。それを説明している暇は今、無い。
あ、あと質問される前に先回りして答えを言っておくが、多くの鳥類に観察できる瞳の周囲の『白』かったり『赤』かったり『黄色』かったりする円環状の部分は『虹彩』だ。
人間の眼にも備わっている組織で、瞳孔の周囲をグルッと取り囲んでいる円盤状の膜だ。
アジアの人々の場合、黒っぽい茶色や濃い褐色をしている事が多い。ヨーロッパ系の中には青かったり緑がかっている(帯緑色という)光彩を持つ人々もいる。
虹彩の役割はカメラでいう所の『絞り』に相当する機能を担っている。つまり環境中の光の強度に反応して伸縮し、眼球内部に侵入する光量の調節をして網膜に到達する光の具合を加減している組織だ。
何?
『白目』と『社会』の関係なら「じゃあ昆虫類で社会性生物のアリやハチはどうなるんだ?」だって? ま、確かにそれはそうなんだけど、そこまで敷衍して行くと話が超絶ややこしくなるので、ソイツ等に関しては、今は一旦横に措いておく。大体ソイツ等、複眼だし。
それに、そもそも昆虫に強膜、つまり『白目』は備わってないじゃんか。
大体、社会を営んで行く為には『他の個体の思惟や思考、感情』を類推する能力という、結構高度な能力が関わってくる筈で、生得的にプログラミングされた仕組みに従って行動している昆虫が同集団の他個体が『何を考えているか?』を推量している様にも思えない。
だから話を簡単にする為にこの項では以降『生物』≒『哺乳類』として取り扱う事にする。
イイね?
何故、他の生物(ヒト以外の哺乳類)には『白目』が無いのか?
白目が有ると、その個体が何処を見ているのか、何に関心を抱いているのかが他の個体から丸解りになるから、だ。生存戦略上、人間以外の生物にとってその状況はマズい。
生物は生き延びるために『嘘』を吐く。
食糧を確保したり、自分の遺伝子を残す為に出来るだけ優れたゲノムを備えた繁殖相手を娶る事が出来る様に、同種の他個体を『誤魔化す』能力を生得的に得ている。もちろん、捕食者の眼を眩惑させて逃げ延びて生き残る為にも各種の様々な『嘘』を吐く。
再びチンパンジーの話だが、彼/彼女は仲間の群れを食物の在り処から遠くへと誘き出して、後で独りで戻ってきて自分だけで食べたりする。
哺乳類以外の植物や鳥類が体色を変化させたり、カモフラージュ(擬態)したりするのもこの『誤魔化し』の一種だ。そう、コイツ等も自らの生存戦略の為に『嘘』を吐くのだ。
その為には、自分の考えている事が必要以上に他者に伝わるのは忌避しなければいけない。
白目が有ると視線の辿り着く先は丸解りとなり、延いては自分の関心事まで丸裸になる。
生存戦略上、そんな状況は非常に好ましくない。他の個体を出し抜くのが困難になる。
だから一般的に生物は黒目だけを表側に出していて、白目の部分は皮膚の下に隠している。
より正確に言うと、強膜を黒くして虹彩や動向との境界部分を不明瞭にしている。
これによって『自分が何処を見ているのか?』を他個体に識別不能な状態に陥らせている。
さて、ようやく本題に入れる。
何で、人間には白目が有るのか?
それはヒトはより高度で複雑な『社会性生物』だから、だ。
ま、チンプも社会性生物の一種だが『白目』を備えていない。しかしながら、コレを説明しようとすると超弩級にお話が面倒臭くなるので、残念だが割愛する。
興味を持ったなら京大でチンパンジーを研究している松沢教授に質問してくれ。
オレよりも明快で精確な解答を下さることは先ず、間違いない。
大体、今現在のオレは御取込み中でとっても忙しいんだ。
人間の話に戻る。
アフリカ大陸の東の端っこで何百万年も前に人間のご先祖様が森林を出でてサバンナ地帯へと進出して時から、彼等はコミュニケーションの能力を発達させてきた。というよりも生き残る為には、意思伝達のあらゆる方法を発展させなければならなかった。
その内の1つが『白目』の存在だ。
ヒトは元来雑食だが、Homo sapiensの直接のご先祖様は肉食傾向を高めた。
生物は生きて行く為にはタンパク質を摂取する必要があるが、植物と比較して肉は蛋白源として非常に優れた食物だ。必須アミノ酸を全て包含しているから、身体を維持して行く為の必要摂取量が比較的少量で済む。捕食者に怯えながら摂る食事の時間は保安上とても脆弱だが、それを短縮できるのは肉食の利点の1つでもある。最初は肉食の捕食者たちが食べ残した獲物の残骸をscavengeする事で必要とされる肉を賄っていたが、次第に自分達で狩猟する様になった。(注5)
え?
『scavenge』って、日本語に訳すと何て意味だって?
適切な日本語が今チョット思い当たらないんだ、語彙不足なモンで。
うーん、一番近いのは『残飯処理』かな。
ま、捕食者に襲われて無残にも食べ散らかされちゃった被食者の遺骸を渉猟する生活を脱け出して自ら率先して能動的に狩猟して餌動物を確保する様になった事で、より高度なコミュニケーション能力を必要とする様になった。
言語という意志伝達手段を掌中に収めることに成功できたのはHomo sapiens sapiensと我らが同胞のHomo sapiens neanderthalensisの2種だけだ。
あ、オレはネアンデタール人をHome sapiensの亜種(subspecies)と見做している。
何故なら両種ともアフリカ大陸において共通の祖先Homo heidelbergensisから、それぞれ進化したし、そもそもサピエンスとネアンデタールは交雑が可能だったからだ。
(もしかしたらネアンデタールはユーラシア大陸において別個にハイデルベルグから進化した可能性はある。ドイツのハイデルベルグ近郊でハイデルベルグ人の化石が発見されたからだ。ハイデルベルグ人をHomo erectusの亜種とする説もあり、その場合の学名は、 Homo erectus heidelbergensisとなる。尚、ここら辺のデータ類は2017年現在で閲覧可能な文献を参照している。故に最新のデータは違う事実を示しているかも知れない事を筆者はお断りしておく。発見1つで人類史は容易に書き換わる)
事実、アフリカ出身の以外の現代人のゲノムの1~4%はネアンデタール人由来で、髪の色、白い肌、そして病気への耐性等に関係する遺伝子を彼等から受け継いでいる事が判明している。大体、彼等は交雑できるんだ、亜種以外の何物でもないさ。
この事実を無視しようとする輩は、自分達Homo sapiens sapiensを何か、選ばれし心清らかな生物として特別の場所に隔離・安置しておきたいだけの、下らない連中に過ぎない。
Sapiensの同胞には、ロシアのアルタイ地方で発見されたHomo sapiens denisovaって存在もあるんだし、な。自分達だけがこの世界で特別な存在だ? 全く無理な物謂いだ。
話を『言語』について、戻す。
ネアンデタール人と比較しても、より高度な言語能力を獲得できた我らがご先祖様だが、現代と違って被食者を圧倒できるような銃砲の様な武器を所持していなかった。
黒曜石や燧石(火打ち石)等を利用した斧や槍くらいが精々あったかなぁ、といった所。
ま、弓はおろか『atlatl(spear-thrower:投槍器)』すらも発明される随分と前の事だし、獲物を捕らえる為には相当な近距離まで接近しなければならなかっただろう。
そんなCQB(Close Quarters Battle:交接戦闘)の状況下で大声で指示を飛ばしたりするのは無謀。仕種やジェスチャー、相手の表情といった非言語コミュニケーションの手段に頼らざるを得なかっただろう事は容易に推察できる。
そこで『白目』の意志伝達ツールとしての側面が際立って役立つ様になった。
肉食を始めたのはアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)かアウストラロピテクス・アファレンシス(-afarensis)だと推察できるが、捕食者の眼を盗みながら彼等の『残飯』を掠め取る事においても周囲環境に対する監視体制は常時欠かせなかっただろう。危機的状況が迫っている時でも必要以上の大きな警戒音を叫ぶ事は可能な限り避けようとしたかも知れない。でないと返って捕食者の注意を引き寄せちゃうからだ。南米のホエザルと違って林冠に暮らしてない身としてはその状況は回避したい。
だから強膜の白化現象、つまり『白目』の発達は彼等から始まった可能性は十分にある。
目配せだけで仲間たちに注意喚起を促せたら集団全体としての生存確率は上がる筈だから。
時代が下って、Homo habilis若しくはHomo erectusの時代に原始的な狩猟が始まってからは、余計に『白目』による意思伝達は重要な要素になって行った筈である。
サピエンスやネアンデタール達が所持・使用する武器よりも、素朴で貧弱な道具しか利用できなかった訳だから、彼等の子孫達が行った狩猟と比較しても当然より近接状態で狩猟する事を強要されただろう事は明白だから。
言葉も利用できなかったし、脳容量の視点から当て推量しても身振り手振り等の非言語コミュニケーションツールのレベルも推して知るべし、ってトコだし。
彼等、狩猟初心者にとって『白目』の存在はとても貴重だったと思うよ。
ここで『白目』仮説に対する理解を深める為に興味ある心理学の実験をご紹介する。
小学生低学年くらいの年頃の少年少女を集め、2つのグループに分ける。
そして、それぞれのグループに課題を与える。
課題の内容は何でも良いが、グループの全員が一致協力しないと完成できない物とする。
一方のグループは自由に言葉を交わせるが、代償として仲間の表情(もちろん視線の動き等も含む)は一切窺えない様に設定する。
もう片方のグループは言葉を発する事を禁じられるが、表情の内、眼の動きだけだが仲間同士でお互いに自由に視認できる様に設定される。
さて、どちらのグループの方が課題をより早く終了させられるか?
答えは、君の推測通り、言葉を離せない代わりに視線の動きを確認できるグループの方が有意の差を付けて格段に早く課題を終わらせる事が出来た。
そうだ。
言葉よりも、視線の行先や眼の表情といったモノの方が集団で一致協力して何かの課題を遂行するのに役立ったという訳だ。
これは現代でも古代でも事情は全く変わらない(筈だ)。
強膜(白目)が白い方が視線の行き先や眼の表情をより強調できる。
強膜が白い個体同士が形成した集団の方が狩猟を成功させる確率は高かっただろう。
そうして長い年月の自然選択の結果、白目の部分を備えたご先祖様が生き残って来た訳だ。
白目が存在しているから相対する人物の視線の先が何処を向いているのか簡単に捕捉できる。『当該の人物が何を考えているのか?』『関心事は何か?』を推測したり、心模様を慮ったり、思いやったりする行為の為の一助を担っているのだ。
君が愛している人の表情を窺う時、相手の眼をつぶさに観察するだろう? 違うかな?
これって、人間の形成する社会の安寧秩序を維持する為にも非常に有効な機能の1つだ。
人間が保持する他の個体の思惟・思考を推し量ったり、感情を類推・共感したりする能力は動物界随一である。写真の被写体として一番面倒で厄介なのはヒトだ。何故ならヒトがこの世界で一番感情が豊かな動物だからだ。そんな感情横溢な生物『ヒト』の思考・思惟を推察できるのは、この世界広しといえども同じ種の『ヒト』だけである。
その類推・推察という行為を行うのに他者が持つ『白目』の存在が非常に役立っている。
だからこそ、ヒトは何処を見ているのか判らないヤツを無意識の内に怖がる。
ソイツの精神世界を一切推定する事が出来無いからだ。
蛇を怖がる理由は恐らく其処ら辺りに転がっていると、オレは思う。
蛇が何処を見ているのか、サッパリ解らないからな。
因みにイヌは視線や指差しなどが指し示す意図をある程度理解できるそうだ。
ヒトに指差しをされると、普通の生物は『指』自体を見てしまうが、イヌは指が指し示すその先の方向に注意を向ける事が可能だし、ヒトの視線を読み取るテストでは我々の同胞とも言えるチンパンジーの正解率が約60%であったのに対して、イヌは80%程だった。
このイヌが保持する『読み取り力』はヒトとの2万年以上前からの共同生活によって培われきた特別なモノだと言われているらしい。
あと、蛇は瞬きをしない。
ソレも恐怖を生み出す源泉かも知れない。
因みにサイコパシーのレベルが生得的に高い人間も瞬きの回数が際立って少ない。
えーと、蛇が瞬きをしない理由は超簡単。
目蓋が無いから。
今は昔、蛇のご先祖様がトカゲとの共通祖先から分岐した後で彼等は生存空間として地下空間を選択した、まるでモグラの様に。モグラの眼が退化している事から理解できる様に光が一切無い地中での生活には眼という視覚器官は全く必要無い。必要のない器官を抱えたまま生きていくのは単にエネルギーの無駄使いである。不要な器官を捨てればその分のエネルギーを他の器官を進化させる方に回せる。地中に潜伏したまま長期間、眼を閉じた生活を続ける内に何時しか蛇のご先祖様の『目蓋』は癒着して皮膚(と鱗)の一部と化してしまった。
で、ここからが面白い所だが、一旦居住環境として地下を選択した蛇のご先祖様は、どういう考えなのかサッパリ理解不能なのだが再び地上を生活空間として選択、ニョロニョロと地面の上まで這い出てきた。さあ、ココで大問題となったのが『眼』だ。
地上環境で生き延びていくには視覚情報は重要だ。
もちろん嗅覚や触覚、聴覚の3つだけでも生きてはいけるが圧倒的に不利だ。眼が見える方が、種の存続に有利に働く事は自明の理である。退化して皮膚と同化した目蓋をどうにかしないと全く視覚情報が得られない。
しかし、地球の生物に備わった特徴の一つに、一旦退化してしまった器官や組織は絶対に復活しないというモノがある。
蛇のご先祖様はこの難局に対してどう対処したのか?
幸いにも眼球自体はまだ退化していなかったから、何とかなりそうだった。
結局、彼等は目蓋を復活させなかった。
その代わりに、目蓋に相当する皮膚の部分を透明にする事で視覚情報を再び手中に収める事に成功したのだった
ま、蛇に手はないんだけど、ね。
目蓋を欠損しているのだから、永遠に瞬く事は無いって訳だ。
おっと、オレは取り込み中だった筈だ。だからコレで蛇の眼についての説明を終わる。
ママに ゆわれてるトーリに、テをあらった。
ミギテのユビをイッポンずつ ヒダリテの5ほんでクルクルって ネジルみたいに、
クルクルって あらう。
ミギテのユビが ゼンブおわったら、
つぎは こーたい。
ヒダリテのユビをイッポンずつ ミギテの5ほんでクルクルってネジって あらう。
りょうほーが おわったら、
ミギテのおもて と、
ヒダリテのおもて
それから、リョウテをこすりあわせて あらう。
ココのトイレ、チョーきれいだし、
セッケンのえきもついてるから、いいカンジ。
アワがブクブクって なる。
いいカンジ。
ジャー
ママが いつもココロのなかで 20かぞえてるアイダ、ミズであらいなさい
って ゆう。
だから、あらわなきゃ ダメだ。
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、16、
17、18、19、20っ!
あ、ここには ブオーって あったかいカゼをだすキカイがある!
ブオー
ミギとヒダリのテを こすりあわせて、
ブオー
コレが ついてるトイレって、だいたいキレイ。
ココみたいに。
テもかわいたから、もどろっと。
「コンニチハ、なんでしょうか?」オレは、蛇の眼を持つイシガメ野郎に声を掛けた。
ソイツは振り返った後、オレに何かを値踏みする様なジトッとした粘着質な視線を無遠慮浴びせかけてきただけで、挨拶の言葉一つさえも発する事は無かった。
オレは何の形態も取らずに『無業の位』でヨロッと立っている。
辛抱強く返答を待ちつつもオレは、相手の胸辺りに曖昧で漠然とした視線を結びながら、同時に自分の周囲360度を監視していた。
と言っても、当然キョロキョロと首を捻り回して周りを見ていた訳では無い。
顔は相手に向けたままだ。
『敵』と対峙している時には、何か一つの特定のモノに対して視線を固定してはいけない。
何も見ないのだ。
ボーッと全体を見る。
『何も見ない』という事は『全てを見ている』というのと同じ意味だ。
君の耳には、矛盾している様に響いているかい?
人間は入力情報の多くを、約55%を視覚に頼っている。
残りの内、約38%が聴覚、余った7%が嗅覚・触覚だ。
だが、こういう時に重要なのが後者の御三方だ。
この聴覚・嗅覚・触覚のトロイカが、オレの眼に周囲360度のパノラマを映させている。
古くは『観想の法』と呼ばれたモノだ。
何、難しい事じゃない。
視覚に障害を抱えている人々が毎日実行している事と同じ、だ。
耳で、自分の周囲から漂い伝わってくる様々な音を拾い上げ、
鼻で、辺り周辺の空気中に浮かんでいる、天然・人工取り混ぜての匂い物質を嗅ぎ取り、
肌で、四方八方から押し寄せ、一瞬佇んでから流れ去る大気の運動を感じ取って、
足の裏で、多様な要因で搖動する微かな大地の振動(震動?)を読み取る。
これ等にプラスしての、視覚情報だ。
前後左右上下の全方位4次元時空間に全身全霊の注意を払う。
そうやって自分を中心とした周囲全体の状況を常に把握し続ける。
どんな事象も、どんな変化も見逃さずに、だ。
ジイちゃんは言った、
『攻撃する瞬間に、その相手とは違う敵に背後に付かれるようなヘマなぞ、そもそもしてはいけない。自分が敵を攻撃する瞬間には、背後から自分を攻撃しようとしている次の敵はドイツで、ドコにいて、どういう経路を辿って接近してくるのか、周囲で起こっている事態全てを前もって見極めて置く事は当然、済ませておかねばならない。状況の先読みだ。
そして敵が自分の想定外の動き、起こり得る確率を上回るような機動力を見せたとしても、瞬時にその状況を回避できるだけの準備をしておかなければならない。そのためにも相手側にコチラ側の運動・挙動展開を未来予測させてはいけない。
行動を起こす直前に改めて周囲を視認しなければならない様な、低レベルの状況認識など、するな。自分の周囲で起こっている全ての事象を把握し、未来における状況パターン展開を可能な限り、予測しておけ。どんな些細な情報もおろそかにするな。
この世界に無駄なモノなど1つも無い。
ま、人によっては、心で読む、などと非科学的な事を口にするが、な』と。
観想の法。
当然、コレもジイちゃんがオレに残した遺産の1つだ。
ジイちゃん、ありがとう。
ココでコレが役に立とうとは、今の今まで思ってもみなかったよ。
ジイちゃん曰く『完全に会得すれば「世界の全てが今どうあるのか」を心で見通す事が出来る』そうだが、心とかの精神的な事は科学的に検証できないのでオレは無視している。
他者はおろか自分自身にさえ『心』があるかどうか、客観的に識別・立証できないし。
ま、今のこのままで十分有用な代物だから、そこら辺はどうでもイイ。饅頭は見てくれではなく味が全てだ。美味ければ、それで良い。だから、関知せず放っておく事にするさ。
男は、身長が180に僅かに届かない感じ、痩躯だがプックリと出た腹が垂れ下がっていて醜悪だった。体型は、そうだな、腹に脂肪が付き過ぎたマッチ棒を想像すると、それが一番近い。イヤ、細長いメークイーンに割り箸を2本突き刺した感じの方がより近いか。
外観から受ける印象から判断するに、年齢は40前後だろうか?
黒髪が量だけはフサフサと豊かだが、キューティクルが不足していて全く艶めいていない。
長袖で薄手の黒のニットを着て、サマーウエイトのカフ無し(cuff:裾の折り返し)で恐らくカシミアであろう黒色のパンツを穿き、そして足許は黒のプレーントゥを履いている。全て上質なモノだ、との印象を持った。
だが袖口から伸びている両手、トックリ、いやタートルにしては短いからハイネックか、襟元から生え出ている首、そして顔の表面を覆う青白い肌の肌理は粗い。
しかし、何処も彼処も、黒。
そう、男は全身が黒一色だった。
黒という色は謂わば『坊さん』の色で、見る人の心を落ち着かせて、着ている人間の印象をノーブルなモノへと昇華する、そんな色の筈だ。
しかし、男が醸し出している『モサッ』という空気感が全てを帳消しにしてしまい、ノンビリと草を食む『イシガメ』にしか見えない。むしろ黒をココまで野暮ったく『着こなす』って、コレも一種の才能なのかも、知れん。パッと見は『人畜無害』な印象だ。
だが、眼は『毒蛇』のソレだった。
<コチラ側の情報の漏洩は可能な限り抑制されなければならない>ミスター客観が耳許で囁く。<イトの存在も隠匿した方が良いぞ>そして<第一種警戒態勢だ>と続けた。
All right.
ミスターに無言で答えた。
イト、出来るだけ長ションベンしててくれ。
心の中でそう祈った時に、
「これ、オタクの?」黒い男がヘラヘラと気色悪い薄ら笑いを浮かべながら、尋ねてきた。
「そうですが」
長い沈黙の後ようやく発話された返答を聞いて、オレは自分の推察が間違っていた事に気付いた。黒い男の容姿は初老時代突入時のソレだったが、声質から結構若いと判明した。
30前半、いや20代後半だろう。
声色に若いヤツ特有の『甘え』が色濃く滲んでいた。
ハシった。
『ユックリでいいからね』って おじさんパパは、ゆったけど、
ヤッパリ、ハシろうっと。
アレッ?!?
ママに かってもらったクロックス、ピンクのクロックス、
ウエに ついてるヒラタイひも、みたいなのがトレちゃった。
だからかもシレナイけど、はしりにくい。
ボロッと なったからかな?
コロんじゃうとイタいから、ちょっとユックリにハシろうっと。
あ、おじさんパパ、またダレかと おハナシしてる。
ダレだろう?
きょうのアサ、コンビニで あったヒトかな?
ギンイロの ひらべったくってウネウネしてるクルマで きたオトコのヒトなのかな?
アッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
アイツ、
おじさんパパがイマ はなしてるオトコ、
ママの2ばんめのオトコ。
ううん、チガウ。
ホントの2ばんめのオトコじゃない。
おなじオトコじゃない。
でも、
でも、おなじオトコじゃないけど、2ばんめのオトコみたいなオトコ、だ。
おんなじカンジだ。
おなじ 目を してる。
ヘビの目だ。
どうしようっか?
ちかくに イキたくないけど、
ゼッタイに イキたくないけど、
それだと、おじさんパパを こまらせちゃう。
どうしたのかなって、おもわせちゃう。
そうだ。
ママはキノウのヨル、ピザを たべながら ゆった。
ケンゴはツヨいヒトだよって、ゆった。
ママは 4さいのトキからカラテって ゆーヤツをならってて、
10ねんくらい、ならってたら めちゃくちゃツヨくなって、
ドージョーってトコで、コドモのなかでは 1ばんツヨくなったって ゆった。
そんなトキにドージョーに ミヤギせんせいって 1ばんエラいせんせいが きたって、
ちっちゃかったけど、ものすごくツヨかったって、
ママは ゆった。
ミヤギせんせいは しゃべってるトキは、ノンビリしてて フツーのおじいさんってカンジ。
でも、ママのドージョーのせんせいと カラテをしたトキ、
めちゃめちゃツヨかった、って ママが ゆった。
ただ、たってるだけでも、めちゃくちゃアツリョクをかんじたって、ゆった。
アツリョクって、ナニって おもったから、
アツリョクって、ナニ? って ゆったら、
ママは、タイフーってオボえてる?
って ゆったから、
マエにタイフーがきたトキのコト、ちゃんとオボえてたから、
カゼがビュービューすごくて、
ソレ オボえてたから、
コクンってしたら、
ママが あんなカンジの ものすごいカゼみたいなヤツ、
目にみえないヤツ、
そういうカンジの、
みえないテでギューっと おされるようなカンジのチカラ、
そういうのだよ、って ゆった。
ママが、わかった? ゆったから、
いそいで、コクンってした。
ホントは チョットわかんなくって、
『ウン?』ってカンジだったけど、
コクンって、した。
そしたら、ママは、
ケンゴもミヤギせんせいと おんなじニオイがしたんだよね、
ソバにいるトキは ノンビリしてて、
ユッタリしてるんだけど、
あるトキ、とんでもないアツを だしてた。
そのトキに、ものすごいアツをカンジたんだ、って ゆった。
ケンゴは、つよいよ、
ワタシなんかよりゼンゼンつよいよ、って ママは ゆった。
ホントかなぁ?
おじさんパパ、ちっちゃいから。
ママよりズーッと、ちっちゃいから、
ホントにツヨいのかな?
でも、ママのゆったコト、しんじよう。
おじさんパパは、ツヨい。
だから、ダイジョブ。
おじさんパパは、ツヨい。
でも、ちっちゃいからなぁ。
ちっちゃいから、2ばんめみたいなオトコのカオが まるみえだよ。
ホントにおじさんパパ、ちっちゃいなぁ。
いけない、
ダメだ。
しんじないと、ダメだ。
おじさんパパは、めちゃくちゃツヨい。
ツヨいひと なんだ。
ね、パパ、
しんじて イイよね、おじさんパパ。
現在、オレの網膜には通路一本分の虚空を隔てた大型車用のパーキングロット上に黒のポルシェ911-991ターボSが停車されている情景も映っているが、まさかコイツのじゃないよな?
黒つながりだけに、って?
止してくれよ。
こんな奴が911に乗ってるだなんて言ったら本物のポルシェライダーに叱られちゃうよ。特に、箭内さんに。
箭内さん、感受性高いからコイツをチラ見しただけで気絶しちゃうんじゃないか?
少し長めの一瞥を911に走らせると、左前側のバンパーに盛大なる擦過傷らしきモノを認めた。
オイオイ、左ハンドルなのにソコ擦るか?
ホントにコイツのなのかも知れん。
頼むよ、イト。
もうしばらくの間、長ションベンしててくれ、頼む。
何とか口車に乗せて追い払うから。
オレは視線の先で焦点を結ばないまま、辺り一帯を望見の眼差しで見ていた。
誰も一言も言わない空虚な沈黙が時空間を支配していた。
そうやって、ただ、ボーッと見ていると、イシガメヘビ野郎がケツのポケットから分厚い長財布を抜き上げて、ソコから取り出した名刺をオレに差し出して来た。営業という過酷な職業とは全く縁の無いオレは両手で恭しく下賜頂く事などせずに、左手1つでユッタリと滑らかな動作で素早く、受け取った。ジイちゃんの教えの通りだ
『いいか「Slow is smooth. Smooth is fast.」だ。意味は解るな?』
イシガメヘビ野郎から視線を外さない様に、名刺を掲げて視界の中に入れてから表面上に記載されている文字列に一瞥を走らせた。
『矢部興産 取締役専務 矢部真嗣』と読めた。
矢部興産?
聞き覚えのある会社名だが...
「知ってるでしょ、ウチの会社。オタク、横浜ナンバーなんだから、さ」と男が言った。
あぁ、確か横浜にある貿易会社だ。
太平洋戦争の敗戦後の混乱期に初代がドサクサ紛れで商売を始めて、朝鮮戦争がもたらした空前の規模の『特需』という大波に乗っかって会社の屋台骨を強靭で確かな物へと成長させて、高度経済成長期には企業としての規模を拡大化させ、多角的な事業へと展開をして行った、そんな会社だ。現在は海外貿易だけではなく、タクシー会社経営やアパレル事業、ファミリーレストランのフランチャイズチェーンなどの常道ビジネスはおろか、娯楽産業つまりパチンコ店のチェーン展開までと、幅広く手掛けている地元の一大企業だ。
巷間の話では一族経営の会社だそうだが、そうか、コイツが跡継ぎなのか。
何代目だろう?
年恰好からで言えば3代目か4代目、ってトコか。
オレも『三代目』と呼ばれる事が多いが、随分と違うモノだな。
「浅間迪彦です」名刺は持ってないんで、すいません、とオレはシレッと嘘を吐いた。
今後も未来永劫に渡って矢部興産なる大企業と縁を結ぶ由もないから、ここで本名を名乗る必要など毫も無い。偽名で十分だ。コイツに与える情報は少なければ少ないほど、良い。
咄嗟に口を衝いて出た名前はあの高名な私立探偵の名前をもじったものだった。だが、運が良いのか悪いのか解らないが、イシガメヘビ野郎は何も知らない様だ。反応は普通の名前を聞いた時と同じで「ふーん」という気の抜けたビールの様なモノだった。
ま、変名は江戸時代までは特に珍しいモノでは無かった様だし。
人々は色々な理由でかなり頻繁に自分の名前を変えたらしい。
菊池源吾や大島三右衛門とか、あと才谷梅太郎とかね。
忌み名と言って本名を名乗る事も通常はしなかった。
今、現在のオレにとっても自分の本名は『忌み名』だ。呪いを掛けられない様に御用心だ。
「この頃、GT-Rって色々話題じゃない」イシガメヘビ野郎はニヤニヤ笑って「僕さ、見えるでしょ、アレ。あそこに停めてある黒のポルシェターボに今は乗ってるんだけどさ、手に入れてから3ヶ月に成るんだけどさ、ツマンナク成っちゃったってゆーか、運転しててもさ、コッチに『何もくれない』って感じでさ、全然ワクワクしないんだよ」
オイオイ、ホントにコイツがあの911ターボSのオーナーなのか?
冗談キツいよ、止してくれ。
箭内さん、気絶しちゃうよ。
大体、クルマから何かを得ようとするなんて、何も解っていないポンコツのする事だぞ。
よく経済の世界では『カネに色はない』と言われる、らしい。
カネ自体には何の意味も付随していないという事だ。
道端に偶然落ちていた所を拾い上げた1万円も、汗水垂らして働いて稼ぎ出した一万円も、同じ1万円に過ぎない。だが、人が『1万円』から受ける感慨の度合いは後者の方が何倍も深いだろう。人の『こころ』がその紙切れに意味を付与するのだ。そして使い方もまたカネに意味を与える。競馬などのギャンブルでパッと散財するのか、またはその一万円で家族に美味しいディナーを用意するのか、どちらの方が『こころ』の充足具合が良いか、満ち足りるか、自明だ。ま、大穴を当てるって事もあるがね。
結局、カネに意味を与えるのは、人間だ。
クルマも同様だ。
ソレがどんなクルマなのか、自分にとってどういう存在なのか、そのクルマに乗る事で何が実行可能になるのか、そういった意味合いを与えて行くのは、人間の方だ。クルマが人を修飾するのではない。人がクルマを修飾するのだ。
そうだ、クルマにも色は付いていない。
そんな事を考えながらも、ずっと無業の位で立っていた。
コレもジイちゃんの教えの1つだ。
柳生新陰流の奥義らしい。
傍目に今のオレはヨロッと立っている胡乱で愚鈍なオトコに見えるかも知れない。
だが、何の形でも無いという事は、何の形にも成れるという事だ。
初期設定の低さは柔軟性の高さに化ける。
何も見ない
何モノにも成らない。
これは、それぞれ、
『全てを見ている』
『あらゆる状態を重ね合せている』
という意味だ。
何事かに眼差しの焦点を結んでいると、他の情報を得られない。
ある一つの状態に居座っていれば、咄嗟に他の態勢へと移行する事が出来ない。
事態は流動的であらゆる速度・方向へと変化し得る。
全てを見ていなければ、変化を感知・認識できないし、たとえ運良く感じ取れたとしても、
何かの形態を取っていると、その変化に対応し切れない事が多い。
何の形でも無い『無業の位』でいれば、何モノにでもなれる。
どんな状況の変化にも対応して即座に態勢を整えられる。
だから突然ヤツの口から飛び出してきた意外な言葉の一群も軽い体捌きでヒラリと躱す事が出来た。
「これさ、このGT-Rさ、僕に売ってくれない?」
観想の法が、上手いコト言いくるめてイシガメヘビ野郎を立ち去らせる時間を稼げる程イトのションベン・タイムは長続きしなかった悲しい事実をオレに伝えていた。
最初はトロットで駆け寄ってくる足音を感知したが、やがて立ち止まって『どうしようか?』と悩んでいるかの様にしばらくの間佇んだ後、ようやく逡巡を消化できたのか、ゆっくりと脚を忍ばせながらコチラに近付いて来ている。イシガメヘビ野郎もイトを視界の内に認めたのだろう、視線がオレの向こう側へと動いて、ジトッとした多湿な眼付きに変った。
気に障る眼付きだ。
コレは大いに気に入らない。
ヒタヒタと足音が近付いてくる。彼女の脚で後一歩という所まで来た時に驚かせない様にユッタリと振り向いた。
ちっちゃいなぁ、おじさんパパ。
ぜんぜんワタシが かくれないよ。
2ばんめみたいなオトコがコッチをみた。
ブルっ!
あー、イヤなカンジ。
あのトキは ママが助けてくれたけど...
おじさんパパ、ホントにママよりツヨいの?
みたいなオトコ、みたくない。
ゼッタイに、みたくない。
ゼッタイ、イヤだ。
目をみないように、シタをみてよう。
おじさんパパのカゲが みえる。
あともうスコシで パパに、おじさんパパに...
おじさんパパのアシが みえた
アッ!
あとスコシのトコで おじさんパパがクルーリって ふりかえった。
敵に背中を曝すのは自殺行為だが、危険を承知で振り返った。
俯いて路面を見ていたイトが微かにピクッとなって『エッ?!?』という感じで軽い驚きとともに顔を上げた。
イトの顔は青白く能面のようだった。
彼女のこころに湧出した苦痛を少しでも緩和する様にオレは口角を上げて如来像が浮かべているアルカイックスマイルを真似た。腰を屈めて視線を彼女の眼の高さに合わせる。
オレの頭部の造作の良くない方の片面を視界の中央に認めるとイトの相貌に極僅かにだが血色が湧いた。
「トイレ、大丈夫だった?」と、オレは尋ねた。
コクンとイトは頷いた。
「じゃ、乗ろうっか」
コクン。
肩に手を回すとイトはギュッと身体をくっ付けて来た。
イトとイシガメヘビ野郎との間に入って障壁として作用する様に振る舞いながらR32のフロント部分を周回してナビシート側に移動した。
その間、オレはずっと壁役に徹した。
ドアノブに手を掛けようとする瞬前にカシャっと軽い作動音とともにロックがRさんによって速やかに解錠された。ドアを開けると、イトがシートにポンと座らせてあったテディベアを取り上げてギューと抱き締める。
「はい、座って」オレが言った。
シートベルトを締めてあげながら、その作業形態を利用、装備してあるインストルメントパネルにソッと顔を近寄せてイシガメヘビ野郎に聞こえない様に、低い声で囁いた。
「Clotho, Protect Ito against any attack. Guard her without any exception.
This is a top priority.
Permit use of any devices equipped on you to execute my order.
And...if possible, alleviate her pain.
Do you understand what I mean? Over.」
「Yes, My Lord. Over and out.」とRさんが囁き返した。
えッ?!?
このコエって、やっぱりアールさんだったの?
おじさんパパが、テレビみたいなところに カオをちかくして、
ナニかゴニョゴニョ ゆったら、
ときどきハナしかけてくる オンナのひとのコエで、
モニョモニョって ゆった。
でも、ちょっとチガウ。
いつもは、もっとヤサシイかんじで はなしてくる。
イマは ロボットみたいなカンジ。
ナンか、つめたいカンジ。
ちょっと、イヤ。
イトに一瞥を走らせて確認すると、彼女がテディベアをギュウっと抱きしめて、微かに震えているのを認識した。出来るだけ彼女の心情の空模様を乱さない様にソッとドアを閉めて行き、最後の残りの10cmまで来た所で腕を振り抜いてバスっと完全に閉塞した。
そのコンマ数秒後、カシャと軽い音を鳴らして自動的にロックが施錠された。
Rさんがオレの下した命令を忠実に履行していると理解した。
ドアロックの音を軽めにチューニングしておいて良かった。
イトに必要以上の負担を掛けなくて済んだはずだ。
ま、オレ自身が通常のロックが発する『ガシャンっ!!!』という威圧的な機械音が好きではない事が、計らずも功を奏したという格好だ。
え?
そんな事まで調整できるのかって?
無論だ。
ドアチェッカー次第でドアの閉まり具合が変わるのと同様の事だ。(注6)
ポルシェやベンツなどのドイツ車の重厚なドアの閉鎖っぷりの大部分はこの小さな部品が担保している。
『ダイジョウブですよ』
えっ!
アールさん、また やさしいカンジに もどってる。
『ダイジョウブ。ワタシがあなたを、まもるから』
えッ!?!
『だから、アンシンして』
え?
『さぁ、イキをすって』
すぅ
『イキをはいて』
はぁ
『すってぇ』
すぅぅ
『はいてぇ』
はぁぁ
『すってぇぇ』
すぅぅぅ
『はいてぇぇ』
はぁぁぁ
『すってぇえぇぇ』
すうぅぅぅぅぅ
『はいてぇえぇぇ』
はあぁぁぁぁぁ
コイツのイトを観る時のジトッとした湿度100%の眼付きが非常に気に入らない。
まるで何かを鑑定するかのように頭の天辺から足の爪先まで舐め回すように視線をはいずり回している。このイシガメヘビ野郎、絶対に小児性愛者で間違いない。
引き籠もっていた6年という比較的長い期間にオレは幾つかの習慣を持つ事になった。
引き籠もりって言ったってアパートの部屋に閉じ籠って外に一歩も出ない、なんて事は、ま、人によってだが、決してそんな事は無い。だって家から出ないと食糧は三日も経たずに枯渇してしまうから。最低限の行為として、喰い物を手に入れる為に外に出なくてはならない。ピザや中華の出前だけで一生を送れるか?
現在はアマゾンという有難い(?)企業が存在していて、家から一歩も出る事無く生活してゆける事が保証されているが、オレが引き籠もっていた時分には、日本におけるジェフ・ベゾスの威光は今ほど強烈ではなかったために、否応なしに外出せざるを得なかったのだ。
夜の戸張が落ちて世界を闇が支配する頃になると、他人の視線も夜陰に紛れる様になって破砕するから、オレの外出行動は常に夜だった。最初は単なる食糧確保の行動だった。
だが、次第に単に歩くという行為自体が好きになり、何の目的も無くアチラコチラをウロウロと徘徊する様になった。歩きながら哲学する行為を『逍遥主義』と呼ぶらしいが、
なに、そんな高尚なモンでは無い。歩いていると心の平穏が得られるから、だけだった。
そんな目的地の無い絶望的なウォーキングを続けている内に少しだけ回復したのか、住んでいたアパートから5km程離れたTUTAYAに立ち寄って雑誌や単行本、文庫本なんかを読む様になった。もちろん立ち読みだ。併設されているスターバックスを利用する事無く、何とかフラペチーノを愉しむカップルの横で本棚に向って何時間も立って読んだ。
今思うと、本の中に逃避したのかも知れない。とにかく活字が載っていさえすれば、エロ本でも何でも一切合財委細は全然構わなかった。
この習慣は未だにオレに備わっていて離れて行かない。
だから今でも週刊文春に掲載されている能町みね子さんのコラムは毎週欠かさず読む。
無論、立ち読みである事は昔と変わらない。
<買えよ。今なら何万冊も買えるだろ?>
静かにしろ、ミスター客観。今は御取込み中だ。
先週のヤツはドラえもんの映画のポスターの話についてだった。
その中で彼女はポスターを『LOの表紙によく似た筆調』と評していた、と憶えている。
『LOというのはロリコンの人専用の雑誌らしい。オレもTUTAYAの店内をほっつき回って渉猟している時、18禁雑誌専用の棚に透明なフィルムでラップされたアニメ絵の表紙の雑誌の存在には気付いてはいたが、小さい女の子に興味はないのでスルーしていた。
能町さんによると『LO』は普通に書店で売られているのが驚きな位過激な内容だそうだ。
オレは小さい女の子に性的な興味が無いのでロリコンという人達の内心がよく判らない。
確かに可愛いとは思うが、オレにとっては、イヌやネコが可愛いというのと同じ意味合いであって、そんな子供に性的な関心を抱けるのが驚きではある。
昔、高3の時に通いなれた理容店が改装の為に一時閉店する事になって、他店に一見客としてお邪魔した事がある。ま、物心ついた時から今現在に至るまで常に坊主刈りなので自宅でも何の困難なく刈れてしまう髪型なのだが、オレは理容店の中に漂う気怠い空気感とシャボンと整髪料が混じり合った独特の匂いが好きなので、つい理容店に足が向いてしまうのだ。で、結果から先に言うと、違う店に行ったことは間違いだった。
通いなれた理容店のオッサンは、坊主刈りでもチャンとハサミを使って刈り込んでくれて、所謂『オシャレ坊主』に仕上げてくれる人だったのだが、代打として選択した店のオバちゃんはバリカンを豪放磊落に駆使するタイプだったのだ。
そんな恐怖のバリカンタイムが待っているとは毫も予期する事無く先客の散髪が終わるのをベンチに座って静かに待っていたオレは、空白の時間を持て余してしまい本棚に並んでいた漫画本の中から特に何を選ぶ訳でも無く、適当に眼に付いた一冊を取り上げた。
森山塔という人が作者の漫画だった。
無造作に本を開くと、
『何じゃ、コイは』
オレは思わず、何の縁もゆかりもない鹿児島の言葉で内心叫んだ。(今は全然あります)
小さくて可愛い女の子とむくつけきオッサンが何やらイケない事をしていたから、だ。
えーと、こーゆーのを好きな人もいるんだろう、と思って速やかにページを閉じて本棚に戻したのだった。あー、ひったまがった。ビックリしたぜ、あの時は。
ま、漫画やアニメであれば誰も傷付ける訳でもないし、他人に迷惑さえかけなければOKだとは、思う。オレの記憶が確かならば、それならば児童ポルノ法にも抵触しない筈だし。
だが、コイツのネトーっとした粘着質な眼付きは、迷惑そのものだ。
オレですら気色悪く感じるのだから、イトが真っ青になるのもよく理解できる。
オレはR32の後部を回ってコクピット側のドアノブに手を伸ばす。
触れる直前にRさんが解錠した。
コクピット側のドアを開けようとして思い止め、手を引っ込めた。途端に再びカシャンと音がしてロックが施錠された。出来るだけイトを遮蔽しておきたかったからだ。
オレは、イシガメヘビ野郎に向き直って、毅然と宣言した。
「売りません、絶対に」
「何で? 幾らでも出すよ。お宅の言い値で良いさ」イシガメヘビ野郎がニヤけた顔で笑う。
「売り物じゃないんです」
「お宅がさ、見た事もない様な金額を出すって言ってるのさ。このGT-Rはさ、今アメリカとかで物凄く人気があるらしいジャン、それならさ、僕も満足できるかも知れないジャン。
何か、よく知らないけど、オークションで何千万とかで取引されてんでしょ?
それだけ人気があるって事はさ、それだけ特別で、何かさ、特別なフィールをくれるんじゃないの? ポルシェってさ、言われてるほど凄いモノを与えてくれる訳じゃないんだよ。
いいからさ、売った方が良いよ。僕の為にさ、動けばさ、また他の良い事が起きるかも知れないからさ。」
何を言っているんだ、コイツは?
今まで自分の思うがままに、我が儘を押し通して生きて来れたのだろう、坊ちゃん育ちで甘ちゃんの顔付きな訳だ。コイツが社長になったら早晩、矢部興産は倒産する事、確実だ。
何でこんな奴が生きているんだろうか、この国には。
どういう育ち方をしてきてるんだ?
久々に向かっ腹が立った。
イヤ、業腹がグラグラと煮えたぎって来た。
<落ち着け。紅蓮の怒りの炎を燃やすんじゃない。事態に冷静に対処するんだ>
ミスター客観が何か言っているみたいだが、知るかッ!
「一億」
『エッ!』という表情を浮かべたイシガメヘビ野郎に対して続けざまに言う。
「円じゃないし、USドルでも無いです。
ビットコインで1億。1億BTC、ビシッと耳を揃えて持ってきたら、考えてやっても良い」
イシガメヘビ野郎は絶句して機能停止状態に陥った様で、微動だにしなかった。
そのまま放置し、ドアを開けてコクピットに乗り込んだ。
「じゃ、出すね」とイトに声を掛けてからエンジンをスタートさせた。
アイドリングが落ち着いたのを確認してからR32をバックさせる。
大型車用のパーキングロットに停車している黒の911ターボSの前を通過する際に
『タスケテッ!』と聞えた様な気がしたが、恐らく幻聴か何かだろう。
オレは、非科学的なオカルトや超常現象の類いは一切信じないのだ。
しかし、まぁ、取り敢えず、毅然として拒絶の態度を保った事だけは確かだ。
オレとイトは爬虫類のくせに鳩が豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべて立ち尽くしているイシガメヘビ野郎を置き去りにして、懐かしの愛鷹PAを後にした。
オレは、華麗なる手捌きでステアリングを操舵しながら、巧みなるスロットル・ワークで機体の挙動をコントロール、氷上を滑るカーリング・ストーンの様にスイーッとR32を移動させながらRさんに、
「Clotho, Keep strict watch over him and his black Porsche-911-991-Turbo-S.
Don’t neglect your duties. You gat it? Over.」と命令を下した。
「Affirmative, Master. I have already executed a close watch over them.
Their any movements are always placed under my surveillance.
Right now, there is no existence of either in 3kilometers radius around us.
Over and out.」
さすがRさんだ、仕事が早い。
Rさんは一度危険だと認識すると、人間なら既に把握している容姿や歩き方や振る舞い方などの行動パターンを解析して画像認識で割り出す。クルマに対しては車種、ナンバー、損傷度など外観における特徴を認識して、これまた画像認識で割り出す。その析出度合いは人間のソレを遥かに上回っている。眼の形で容疑者を見分けている警察の通称『見当たり』と呼ばれる手配共助係なんぞ彼女の足許にも寄れんよ。言うまでも無く全ての情報はマザーコンピューターにも送られていて詳細は向こうで解析する。
ナビシートに座っているイトを横目でチラッと見る。
可哀想に。
震えは止まったようだが、顔に血色は戻ってきていないし、テディ・ベアをギュッと抱きしめて俯いたままだ。懸命に気息を整えようとしているのか、呼吸がユックリで深い。
5歳なのに自分をコントロールする術を身に着けているのか、凄いな。
日本で2番目の朝飯を喰ったばっかりなのに、な。
余程あのイシガメヘビ野郎が気持ち悪かったのだろう。
子供という人は洞察力に優れた慧眼の持ち主なのだな。
直感で全てを見抜けるのかも知れない。
今オレがイトの為に出来る事は唯一つ、可能な限りR32を滑らかに移動させる事だけだ。
こういう時、人は放っておいて欲しいと思う事が多い、からだ。
先程、勢い任せてRさんにイトの精神的苦痛を緩和しろ、などと言ってしまったが、
アレはどうだ?
彼女にそんな機能は備え付けられてはいない。
ディズニーの映画作品でもインプットしておけば、何とかしたかも知れないが。
イヤ、ディズニーではなく『ウォレスとグルミット』シリーズの方がより良いか。
R32の乗り心地を最高のレベルに保つ事だけを考えて、コクピットに座っていた。
クルマの乗り心地は、上下動だけなら振動が描くラインはI型。これに横揺れが伴うとO型になり、更に横揺れが大きい場合には○型に近付いて行く。横揺れに大きなロールが伴うと∞型になる。こうなると車酔いに陥り易いのだ。(注7)
現在、R32は振動、ほぼゼロ。
オレのテクニックも中々だな。
<岡田さんのサス・チューニングのおかげだろ、何を自己満してんだ?>
うるさいぞ、ミスター。
イシガメヘビ野郎に対するオレの振舞いを採点すると、99点だ。
まずまずといった所だろうか。
残りの1点は、もしかしたら致命的な失態を演じてしまったかも知れないという懸念からくる減点だ。
あの手の人間は、相手が普通の言動・振舞いをしていても一方的に『攻撃された』と思い込み易い性向を持つ場合が多い。というか、ほぼ、そうだ。
敵意や他者の邪魔をしたいというような悪意を抱いている人間ほど、相手の表情・仕草などのノンバーバル・コミュニケーション情報を敏感に察知できる。相手が少しでも誤魔化そうとしたり、逃避行動をおこそうとしたりすると、逆ギレしてあらぬ怒りを覚える傾向がある。やがて、その怒りが別の怒りを呼び込む事で激昂へと発展させて行ってしまう。
こういう状態になると係争当事者の間だけでは解決できない。
沼沢に脚を踏み入れてしまったのかも知れん。
『ビットコインで、一億だ』と言った時のヤツの貌が視覚野に浮かんでくる。
あのイシガメヘビ野郎は絶対に暗号資産(crypt-asset:以前は仮想通貨crypt-currencyと呼ばれていた金融商品)の事について詳細を知らない。ビットコインの発行数の上限が決まっていて、2100万枚しかない事すら知らない。それは表情を見た時に容易に察知できた。ビットコインの発行が始まったのは2009年の1月3日からだ。(4日の説アリ)
コンピューターやプログラミングに造詣の深い人間のみがその存在に気付いていて注目していただけだった。一般の人々が括目し始めたのは2013年のキプロスを発端地とする金融危機が勃発した時だった。その際に資産の逃避先として利用された事でようやく人口に膾炙する様になった比較的新しい金融商品だ。大衆が知らなくても、むしろ当たり前か。
今頃スマホに巣食っている『グーグル先生』に真実を伝えられて、オレにおちょくられたと怒髪天を突きまくっている可能性が高い。
不味い状況を自ら招き寄せちゃったのかも知れん。
そこまで想到できなかった未熟で至らない人間だ、オレは。
オレの首まで生温かく柔らかくてバッチいモノに浸かっている状態の心象が皮質上に浮んでくるのを止める事が出来ない。ああいう輩に対しては法律も国家権力も無力な存在であって何の効果も発揮できない。
仕方無い。
厄介事が持ち上がったら、自力で解決するしかない。
ジイちゃんは言った。
『日本人は起きて困る事は起こらないと思い込む事を得意とする人々だ。
起きて困る事なら準備をすれば良いだけの事である。
「起きないんじゃないかな?」と主観的かつ楽観的に、良い方へ良い方へと考えて対応を先送りにしてしまうのだ。
オマエはそんな状況にだけは、陥ってはならない。
直面した現状を真正面から見据えて、状況を把握して、あらゆる対応策を画策して、その中から最善手を選択して、実際に行動する為の準備を整えておく。
事象が発生した時には、粛々と対応して行けば良い。
状況は全て流動的で簡単に変転する。様々な事象が要因に成り得るから絶える事無く二転三転する。だから、あらゆる変化に即応できる様に準備しておけ。
現実世界には予めのシナリオが用意されている訳では無い。実行可能な対応策が1つだけ、などというお粗末なコトはするな。ソレはバカのする事だ。代替案を、Back-up(予備)やLast-ditch(最終決戦用兵器)をチャンと用意しておくのだ。
そして状況が完全に終了するまで決して気を抜いては成らない。
常にlogically、rationally、reasonably、realistically、practically、pragmaticに行動しろ。
イイな?』
その言葉が記憶の図書館から蘇生されると心の中からザワつきが消えて行くのを感じた。
皮質内に青白く小さな焔がポッと点る。冷たくて静かに燃え続ける、そんな焔だ。
『全ての選択肢には必然的に間違いが含まれている、と考えなければならない。
お前のも眼前にAとBという2つの選択肢があったと仮定する。
例えば、Aを選んだとしよう。
その選択に従って行動をして行ったら結果的に間違いそうだと途中で判明した。
しかし「Aは間違いだ」という事が解って、やり直す為にBを再び選択しても、ダメだ。
お前を取り巻く状況はもう既に変化していて、そもそもの選択ずる為の前提すら変わり果ててしまっているからだ。それに、もしかしたらBの選択肢も誤っているのかも知れない。何人たりとも選択前に戻って、Bという別の道を選び直す事など不可能だ。
だから選び取る前に注意深く状況を観察して、一番間違いが少なそうな選択肢を採る。
最優先事項が把握出来ていれば答えは簡単だ。
一番厄介で一番困難で一番面倒な選択肢が正解だ。
まぁ、間違えたら間違えたで、少々乱暴なやり方ではあるが、力技で「ゥオリャっ!」と間違いを『正解』に変えてしまうという方法もあるが、な』ともジイちゃんは言った。
今、現在に至るまでこのジイちゃんの言葉の『間違いを力業で正解に変えてしまう』というのが一体どんな方法なのか、考え続けているが未だにその解に辿り着けていない。
ただ、オレの現時点での最優先事項は、イトを無事に鹿児島に送り届ける事、だ。
再びヤツが迫ってきたら、仕方無いが中立化、物理的に無力化するだけだ。(注8)
え、どういう意味かって?
文字通りの意味さ。
うん?
もし、そうだとしたら、狂ってるって?
『Though this be madness, yet there is method in’t.』
ん? 何て言ったかって?
気狂いの割に筋道が立っている、見掛けほど無謀では無い、って感じかな。
オレが正気だろうが狂気だろうが、ソレは関係ない事だ。
警察も国家も頼りにならなくて、その上、どんなに言葉を尽くしてもまるで理解を示さない人間は、自分の欲望や願望を実現する為には手段を選ばず、決してあきらめる事を知らない粘着質で『シツコイ』人間は、実力をもって排除するしかない。
そのための手段をオレは幾つも実装している。
全て、ジイちゃんに叩き込まれた知識と技術だ。
そして、あのイシガメヘビ野郎には一欠片も備わっていない。
身体の動かし方を見れば一目瞭然で察知できる。
見るも無残に膨張した下腹部が、体調維持に失敗している事実をもオレに伝えている。
ヤツは、何も知らない。
もちろん、侮ってはいけない。
オレの知らない事を、ヤツが知っている場合があり得る。
過大評価もダメだが、過小評価も危険だ。
公正でフラットな視点から相手の力量を予測推断しなければならない。
だが今の所、鑑定結果は先程言った通り、変わる事は無い。
ヤツは、何も知らないのだ。
『There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy.(この世には君の人生哲学全てを超える数多くの物があるのだ、ホレイショウ)』とイシガメヘビ野郎に向って、オレは胸の内で独りごつた。
ナビシートに一瞥を走らせる。
良かった。
もう落ち着いたみたいだ。
先程まではギュウっとテディ・ベアを抱きしめていたが、今では両太腿の上にチョコンと載せて倒れない様に手を添え、軽く支えているだけだ。テディ・ベアに掛けさせてあったオークリーを再び自分に掛け直して、窓の外を流れて行く微分化された風景を眺めている。
彼女の気息に変調は感じ取れなくなり、今は通常の呼吸状態に戻っている。
彼女が醸し出す気配にも緊張している様は一切、伺えなくなった。
良かった。
本当に自分で精神状況をコントロールできた訳だ。凄いな。
オレが5歳の時にこんな芸当ができただろうか?
イト、
どの様な状況に陥っても、この娘の安全だけは確保しなければならない。
ソレは『最優先事項』の筆頭に記されている。
何が起こったとしても、この娘は、オレが護る。
絶対に。
よし、対処法がある程度、定まったし、覚悟も決まった。
ソレを規定できた頃にはザワめいていた心の海面は治まって静かな凪に変転していた。
注1:酸味と苦みについて。
酸味は腐敗が進行中である事を示唆する味である。何故ならバクテリアが活動する時には酸を排出するからである。酸はどの酸であっても『酸っぱい』味がする。塩酸も酸っぱい。生物が腐敗した食べ物を回避できる様に酸味は『嫌な味』になった。
ただし酸味には腐敗した食べ物の味だけではなくクエン酸の様な生命活動に有益な酸の味もある。
苦みをもたらすのはアルカロイドなどの毒分子である。ニコチン・コカイン・モルヒネ等がそうである。ニコチンはタバコに含まれているので一見毒では無さそうであるが、実際は猛毒である。疑念を抱かれるならばタバコ一本分を解して金魚が泳いでいる水槽に撒いてみると良い。数分後には金魚は全滅しているから。
苦み担当の味細胞は多様な種類の毒物質を一手に引き受け、どんな毒分子と結合しても一様に『苦い』という信号を脳に伝える。ヒトには25種類ほどの苦み担当の味細胞が存在しているが、コレは五味覚の内で最多。
尚、通常言われる『味』とは厳密にいうと『味覚』と『嗅覚』が合わさった『風味』の事である。食べ物を口に入れて咀嚼すると舌の上にある味蕾で五味を感知する。味蕾は内部に数十個の味細胞を含んでいる組織であり、80%は舌先・舌の根元部分・舌の側縁後方に分布している。残りの20%は咽喉(ノド)・軟口蓋(口腔内奥の天井部の軟らかい部分)に分布している。余談だが咽喉の味蕾は水だけでも反応する事が知られており、コレが所謂『咽喉ごし』を生んでいる。味細胞が味覚を感知すると同時に食べ物を咀嚼する事で様々な香り成分が生じ、口腔内を通じて鼻の奥に立ち昇って行く。鼻の奥で感知するのは、この『口中香』である。専門的には後鼻腔性嗅覚という。食べ物の味わい(風味)の約8割はこの嗅覚に依存していると言われている。ヒトは、こうして同時に感知する味覚と嗅覚を総合して『風味』を感じているのだ。
では五つの味覚についての軽い説明を。
1.甘味:砂糖やグルコースなど:生命を維持する為のエネルギー源の味。
2.旨味:グルタミン酸・イノシン酸・グアニル酸など:生命活動に必要なアミノ酸や核酸の味。
3.鹹味(かんみ:塩味の事):塩化ナトリウムなど:生命活動に必須なミネラルの味。
4.酸味:クエン酸は生命活動に有益な酸の味。同時に腐敗した食べ物の味や未熟な物の味(熟していない果実など)でもある。
5.苦み:アルカロイド(植物塩基)など:毒成分に対する味。
尚、辛味は味覚では無くて、痛覚の一種である。味覚は味覚神経>延髄>孤束核(脳幹)のルートが担当するが、辛味は三叉神経>脊髄>皮質のルートで脳へ伝えている。
辛い物を食べると身体が熱くなるが、これは本当に『熱さ』を感じてるからである。辛い物(たとえば唐辛子など)を食べると口腔内の粘膜上に存在するTRPV1(トリップヴイ・ワン)という受容体が反応する。このTRPV1の本来の働きは43度以上の『熱』に反応するというモノだ。何故43度以上の熱に反応する受容体が存在しているかというと、43度以上の熱は致死的な刺激、言い換えると身体にとって危険で(意識を失ったり、重篤な状況に陥ったりして)命を失う可能性を含む刺激だから。この類いの命の危険が迫る強い刺激(43度以上の熱)を感じたという信号をTRPV1から伝達された脳は『痛み(痛覚)』という信号を身体の各所に出して、命が危険に曝されている事を知らせる。『痛み』という信号は、脳が『お前、このままだと死んじゃうぞ!』と通告している最後通牒なのである。
カプサイシンの様な辛味成分にもこのTRPV1は反応して『ヤバいぞ、コレ!』という信号を脳に伝達するのだ。ま、完璧に『43度以上の熱だ』と勘違いをしちゃってるんだけど。
故に『辛い物』を摂取すると『熱さ』を感じるし、舌、口唇や口腔内部等の部位に『痛み』を感じるのだ。付け加えると、翌日には肛門付近にも相当な『痛み』を感じる。
あれっ? 肛門の粘膜上にTRPV1受容体って存在してたっけ?
私は知らないので興味を持った方はググって下さい。尚、ネット情報が正確か否か、当方は一切関知しませんので、悪しからず。査読の洗礼も校閲の通過儀礼も受けずじまいで、内容や表現に関する攻防の応酬を経ていない表面上だけの『活字』情報を盲目的に信じるのは世間知らずの青二才の振舞いだ。ネット情報に関して言うならば大抵の場合(あのWikipediaですら)何処かしら間違ってんだけどね。ま、話が逸れたので元に戻す。
しかし、何故命に係わる様な刺激をもたらす『辛い物』を喜んで摂取する人たちが存在するかというと、生命を脅かす様な危険な刺激を受け取った脳は『これは正常な状況では無い』と判断し、β-エンドルフィンという脳内伝達物質を分泌させるから。
これは別名で脳内麻薬と呼ばれるモノで、主に2つの重要な働きをする。
1つ目は痛みを抑制するという作用で、2つ目は強い快感を引き起こす事で幸福感を覚えさせる作用である。ザックリ言うと、ヒトを(痛みを抑制し、快感を与える事で)苦痛に耐えられる様にする物質である。β-エンドルフィンを快感を覚えるメカニズム的な観点からいうと、覚醒剤やコカイン等の違法薬物がもたらすのと同じ程度のかなり強い快感を生成する誘因となっている。だから忘れがたい非常に強い快感を求めて、辛い物を何度も繰り返し摂取する内に、自然と『辛い物』に対する『依存』が生まれてくるのだ。
あ、依存するっても『辛い物』を摂取する事は全然違法じゃありませんので、ご心配なく。
身体に悪いっつー点では、全然同じなんだけど。
熱い物や辛い物を好んで食するのは、人間くらいです。生物的にはクレイジーだよね。
そして渋味だが、カテキンなどが粘膜上のタンパク質に変成作用(収斂作用)を及ぼす事による感覚機能で、コレも痛みや触覚に近い反応である。
味覚は延髄を含む脳幹で基本的選別・反射的反応を処理しているので皮質は関係なく、脳皮質にダメージを負っていても味は判別できる。
あ、あと脂肪成分についてだが、味細胞の先端に脂の受容体タンパク質であるCD36とGRP120が存在しているので『味覚』として感知しているらしい。(不確定な情報である)油の主成分であるトリアシルグリセリドとは反応しないが、ソレがリパーゼ(lipase:膵液などに含まれる脂肪分解酵素)によって分解されて脂肪酸になると反応する様になる。口腔内にリパーゼは少ししか存在していないので食品中にある既に分解済みの少量の脂肪酸と反応しているらしい。
故に、近い将来は『五味』ではなく『六味』として扱われる様になるのかも知れない。
注2:嫌い箸(忌み箸)について。
嫌い箸(忌み箸)とはお箸の作法において、してはいけないとされるマナー違反の事。
以下に主なモノを記す。
1.洗い箸:汁物などで箸先などの部分を洗う事。
2.受け箸:箸と器の両方を片手で持ったままお代わりを要求する事。
3.拝み箸:拝む様な格好で両手の親指の股の所に箸を横倒しで真一文字に挟み込む事。
4.落とし箸:箸を床に落とす事。
5.重ね箸:1つの食べ物ばかり食べ続ける事。
6.噛み箸:箸の先を噛む事。
7.銜え箸(くわえはし):箸の先を銜える事。
8.返し箸:大皿から取り分ける時などに上下逆さにして持ち手の部分で料理を摘まむ事。
9.掻き箸:食器に口を付けて料理をガーッと掻き込む事。
10.練り箸:箸を料理に突き刺して練る事。
11.持ち箸:箸を持ったままお椀・器を持つ事。使わない時には箸置きに置くのが作法。
12.千切り箸:箸を両手に1本ずつ持って料理を千切る事。
13.撥ね箸:嫌いなモノを避ける事。
14.二人箸:食器の上で2人が同じ料理を同時に挟む事。
15.器越し:器を手で持たずに箸で料理を取る事。和食では器を手で持つのが作法。
16.指し箸:箸で人や物を指し示す事。
17.舐り箸(ねぶりばし):箸先を舐める事。
18.移り箸(帰り箸):一度取りかけてから、別の料理に箸を向ける事。
19.直箸:個人の箸で大皿から取る事。取り分け専用の箸を使うのが作法。
20.戻し箸:一度料理に箸を付けたのに食べずに器に戻す事。
21.上げ箸:口より上に箸を挙げる事。料理を落としやすいから。
22.移し箸(拾い箸):箸から箸へ料理を受け渡す事。火葬後の御骨拾いの箸使いだから。
23.移り香:おかずからおかずへと連続して箸を進める事。間にご飯を口にすれば前のおかずの味が残らない。
24.刺し箸(突き箸):箸で料理を突き刺す事。
25.透かし箸:魚の中骨の間から下の身の部分を掻き出す事。骨は取り外して身の向こう側に置くのが作法。
26.そら箸:器まで箸を近付けておいて料理を取らない事。
27.竹木箸:不揃いの箸で食べる事。弔事の御骨拾いでは竹と木の箸を使用するから。
28.握り箸:幼児の様に箸を一本の棒のように握る事。
29.振り上げ箸:手の甲より高く上げる事。箸の汚れた部分を他人に曝す行為だから。
30.振り箸:箸先に付いた汁などを振り落とす事。
31.迷い箸:ドレを食べようかと御膳の上で箸をウロウロさせる事。
32.こすり箸:割り箸を割った時に出来るササクレをこすって落とす事。ササクレなどは手で引っ張れば取れるから、そうやって処理する。
33.込み箸:箸で押し込む様にして料理を口中に一杯詰め込んで頬張る事。
34.横箸:箸先をスプーンの様に使って料理を掬い上げる事。
35.探り箸:引っ掻き回して器に盛られた料理の中身を探る事。
36.叩き箸:箸で器を叩く事。
37.立て箸:箸をご飯に縦に突き刺して箸休めする事。弔事の枕飯を連想させるから。
38.涙箸:料理の汁や醤油などをポタポタと垂らしながら口へ運ぶ事。
39.もぎ箸:箸先に付いたご飯粒を口でもぎ取る事。
40.楊枝箸(せせり箸):箸を爪楊枝代わりに使って歯をほじる事。
41.寄せ箸:箸で器を引き寄せる事。
42.渡し箸:箸をお椀や器の上に渡し置く事。『三途の川を渡す』の意味に通ずるために縁起が悪いとされる。(でも、コレって普通にするよね)
43.揃え箸:箸をテーブルなどに突き立てて箸先を揃える事。
44.こね箸:料理を掻き回して自分の好きな物を探す事。
45.手皿:器を持たず、手を皿代わりにして箸先から滴り落ちる汁などを受ける事。
46.二膳使い:両手それぞれに一膳ずつ持って料理を食べる事。こんなの論外だよ。
ふぅ、疲れました。
箸の使い方ひとつ取っても、こんなに沢山の忌避事項が在るんですね。
でも、9番の『掻き箸』ですが卵掛けご飯とか、どうやって食べろっていうんだろうか?
34番の『横箸』でスプーンみたいに使っちゃダメって言ってるのに、どうすりゃ良いのか、筆者にはサッパリ解りません。別途、茶碗蒸しみたいに匙を使えって事?
それに筆者は「頂きます」って言う時に、つい3番の『拝み箸』しちゃうんだよなぁ。
あと、10番の『練り箸』だけど、納豆どうすんの? 練ってない納豆なんて美味いはずが無いじゃん。箸じゃなくて別の用具で掻き混ぜろっていうんだろうか?
確かに納豆を練る為の専用の道具は販売されては、いますけれど、ねぇ。
もっと気楽に喰いたいよ、ご飯くらい。
注3:麺について。
麺とは、小麦粉(場合によっては大麦粉も含む)を使用した料理の事である。故に蕎麦粉を使用して作る『蕎麦切り(細長く切られた蕎麦の事)』は厳密に言うと『麺類』には分類されない。だから食品表では常に『麺・蕎麦類』と表示されているのだ。
読んで字の如く『麺』は『麦を面状にする』ので、餃子や小龍包も麺類である。疑問に思うなら同様の形容をしたラビオリが立派なパスタの一員として数えられている事を思い出して欲しい。同じ理由で蕎麦粉を使用したパスタは麺類では無い。Trentino-Alto-Adige州などのイタリア北部では蕎麦粉のパスタは日常よく登場する料理である。美味いですよ。
注4:咒師とか修二会とかについて。
ケンゴくん、所々間違えてますな。
先ず、咒師ですが、呪文を唱えて加持祈祷を行う僧の事。法会の後に呪文の内容を猿楽・田楽などの芸の形で演じる人です。
猿楽は日本の古代・中世に行われた芸能。滑稽な動作や曲芸を主とするものでしたが、後に歌舞・物まねなどを演じる能・狂言の源となりました。
田楽は平安朝から行われた舞踏の一種で元々は田植えの時に行ったものですが、後の世に遊芸化して行って、特に鎌倉・室町時代に盛んであったそうです。
尚、能と剣術は何やら深い関係があったそうで、特に能の金春流と剣術の柳生新陰流は、ズブズブの深い関係だったそうです。柳生家の当主は能の極致を学ぶ事が家訓で、金春家の当主は柳生新陰流の剣の奥義を修行する事が家訓であったと何かに書いてありました。
で、咒師と弱法師の話に戻りますが、弱法師というのが四天王寺の遊僧(=咒師)だ、というのは正しくて、呪文を説明する時に舞う猿楽や田楽などの舞踊の足の運びを『咒師走り』と呼び、その中に現れるのが『禹歩』と呼ばれる型です。禹歩はヨロヨロとよろめいている様に見える歩き方でして、そこから四天王寺の遊僧(咒師)の事を『ヨロヨロしているお坊さん』つまり『弱法師』と呼ぶようになったのだそうです。古代中国の遁甲兵術が起源というのも正しいのです。『禹歩』とは、元々は古代中国の夏という国の王様の禹の歩き方という意味です。そこから転じて貴人が外出する時、陰陽家が呪文を唱えて舞踏する作法へとなりました。
設定では、ジイちゃんが陸軍中野学校二俣分校で甲賀流忍術14世の藤田西湖(ふじた・せいこ)に忍術を習った事になっています。それに加えて彼は直心影流の免許皆伝者でもあります。この流派の起源は前述した通りに上泉信綱の師である松本備前守を流祖とする剣術の一流(多分陰流だったかな?)ですが、先ほど登場した柳生新陰流とは、まぁ親戚関係みたいなモノでして、ジイちゃんは、戦後復員した後に尾張柳生の免許皆伝者と交流を持つ内にこの秘伝である能の体捌きや足運びを伝授されているって設定になっています。プロの人間は流派は違えども同じプロの人に対しては何も包み隠さず全てを教えるっていいうのは、どの世界でも同じなのですね。
ま、現在は侍が跳梁跋扈する時代じゃないし。
見る人が見れば当然の如く気付くので黙ってても無駄だし。自分の知識と経験を他者と分かち合う事で、両者それぞれが進歩できるって事ですね。
当然、クルマの世界もそうなっております。
えーと、能・剣術の体捌き・足運びの話に戻ります。
この体捌きと足捌き、何種類かありますが物語後半でケンゴ君が使うのは『西好水(せいごうすい)』と呼ばれる体捌きと『一足一見』という脚使いです。
能の金春一族の第7代金春太夫七郎氏勝は柳生新陰流の始祖である柳生宗厳の弟子で印可(免許皆伝の事)を与えられるほどの腕前だったそうです。そして彼の父親である第6代金春太夫八郎安照と柳生新陰流の開祖の柳生石州斉宗厳はお互いに、金春流の秘伝で奥義の『一足一見(いっそくいっけん)』と柳生新陰流の秘伝で奥義の『西好水』をお互いに交換したそうです。
当然、ケンゴ君にも『一足一見』の脚捌きと『西好水』の体捌きは、ジイちゃんを通して両方とも伝授されています。
この2つは多分、金春流の能を観劇すれば現在でも見られる筈です。
ホントかな?
余談になりますが、能と剣術の相性が良いのは、恐らく能が非常に体力を必要とする舞踏である事から来ていると推察されます。重たい装束を身に纏い、能面がズレないように注意しながら移動し、謡い、舞う。ある能役者によると『体力的に女性では無理』だとの事。
だから戦国武将たちも剣術家達もこぞって能を舞ったのでしょう、身体の鍛練として。
逆に能役者が武将として振舞い、戦に参加した事もあったそうです。
因みに日本には主に3つの舞踏があり、体力的に厳しい順に、1.能、2.舞、3.踊、なのだそうです。
修二会ですが、前年の穢れを払う懺悔の行と新年の平安・豊穣祈念を行う式で、毎年旧暦の2月に様々なお寺で営まれる法要です。東大寺での通称が『お水取り』です。
何でこんなニックネームが付けられているかというと、本行の終わり頃に修二会が行われている二月堂近くの井戸から水を汲み上げる儀式があり、ソコからこの呼び名が定着したそうです。尚、その神聖なるお水を汲み上げる井戸の名前は『若狭井』です。そのお水は日本海に面した福井県若狭市付近の海岸からやって来ていると信じられております。若狭市沿岸の海の底では海底湧水と呼ばれる湧き水(真水)が噴出しているそうなので、全くの出鱈目であるとは言い切れない節が見えちゃったり、なんかしちゃって。
古代の人々、この事実を知っていたんでしょうかね?
お水取りの正式名称は、東大寺二月堂『修二会十一面観音悔過』。
奈良時代の752年に二月堂開祖の実忠和尚が始めました。以来途絶えることなく毎年行われているそうで、先の戦争中も営まれていたそうです。毎年、2月20日から前行が営まれ、3月1日~3月14日まで本行が営まれます。
正式名称に『二月堂』とある様に東大寺境内にある国宝のお堂、二月堂で営まれる法要です。東大寺や同じ華厳宗の末寺から選ばれた11人のお坊さんが俗世間から離れて集団生活を送りながら法要を営みます。この集団を『練行衆』と呼びます。彼等はお堂で1日に6度、祈りを繰返すのだそうです。本行の間、食事は1日1回。過酷ですねぇ。
そして本行の間、夜の戸張が降りると毎晩、童子(練行衆の付き人)が松明(たいまつ)で練行衆をお堂まで導きます。その後、童子たちはお堂の舞台から松明を付き出してグルグルと走り回ります。よくNHKのニュースでこの映像が流されたりもしますね。
お堂に入った練行衆は十一面観音菩薩像の前で懺悔をして、新年の天下泰平・五穀豊穣を祈願するのだそうです。『懺悔する』とは、何事に対しても『度が過ぎる』ことへの懺悔なのだそうです。食べ過ぎとか、恵方巻きの廃棄量が多過ぎるとか、作品完成まで時間が掛かりすぎるとか、ですね。
毎年見に行こうかなぁと思っていると、既に終了状態って顛末になってしまうのが不思議。
何でだろ?
あ、ケンゴ君、ここで訂正したこと以外は正確な事を言ってます。
ま、設定に過ぎないんだけど、幕末に『剣聖』と謳われた直心影流第13代の男谷精一郎信友の弟子の1人が勝海舟でして、ケンゴ君、同門になるんだなぁ。
柳生新陰流の奥義も難なく使っちゃうし。
なんか、凄っげえ大袈裟な話になって来た。
大丈夫か、コレ?
注5:必須アミノ酸について。
地球上の生物の身体を形成するのに利用されているタンパク質は22種のアミノ酸が鎖状に繋がる事で構成されている。真核生物が利用するアミノ酸は21種で、人間が利用するアミノ酸は20種。(だった筈。うろ覚えです。ただ今Biochemistryの教科書を捜索中)
その20種の内、9種を人間は体内で産生できない。だから摂取した食物から取り入れるしか方法がない。
この9種を(生存の為に必須ゆえ)『必須アミノ酸(essential amino acids)』と呼んでいる。
食肉に含まれている動物性タンパク質は必須アミノ酸9種全部を包含しているが、大豆に代表される植物性タンパク質は、この必須アミノ酸の全てを含んでいない。特に神経伝達物質の材料となるフェニルアラニン(phenylalanine)とトリプトファン(tryptophan)の2つの重要なアミノ酸は動物性タンパク質にのみ含有されている。厳密にいうとバナナやナッツ類、納豆などには成分として微量に含まれているが、必要摂取量をカバーするのにはかなり困難を極めるので、ビーガン(vegan)の様な厳格な完全菜食主義者は食事に相当に注意を払わなければ簡単に栄養失調に陥る。
加えて植物中心の食生活ではビタミンB12を摂取不可能であるから、この要因も栄養失調に拍車をかける。
っていうか、よく生きていられるな、と筆者は感心する。
まさに、コレも人体の神秘であろうか?
パプア・ニューギニアに暮らす、ある部族は彼等の大腸内部に住んでいる腸内細菌が必須アミノ酸を合成する事で必要なタンパク質を補完しているらしいから、ビーガンの人々の腸内においても同様な状況が生起しているのかも知れない。でないと死んじゃうよ、絶対。
(腸内細菌ではなく、おそらくサプリメント等で補っていると推測できる)
因みにパプアニューギニアの部族が保有する腸内細菌が行っているタンパク質合成行程を説明するのに、1)窒素固定(空気中の窒素>アンモニア>アミノ酸を合成)若しくは、2)尿素再利用(尿素>アンモニア>アミノ酸を合成)の2つの説があり、これらの合成過程の内、どちらか(または両方)でアミノ酸(タンパク質の基本構成要素)を生成しているのではないかと科学者たちは推論しているが、未だに事実は未解明である。尚、普通の人間がタンパク質不足に陥ると様々な障害が起きる。障害の内で主だったモノを挙げると、1)傷が治りにくくなる。2)疲れやすくなる。3)疲労が抜けにくくなる。4)頭の回りが鈍くなる。5)皮膚にたるみや染みが増える、などである。
そういえば、日本人の大腸内には海苔の様な海藻を分解する腸内細菌が共生している事実が判明している。この細菌類は他の大陸系統の人々の腸内には存在していない。どうやら古来から海藻類を摂取していた日本人にのみ特異的にこの共生状況が起生したらしい。
本当に、人体の神秘だなぁ。
だから、もし将来において君が菜食主義に傾倒する事があるなら、乳製品・卵も摂取する菜食主義である『lacto-ovo-vegetarian(ovolactarian)』を選択する事を強く推奨する。
尚、『lacto』が乳製品で『ovo』が卵の意。勿論この2つが動物性タンパク質の源になる。
でも、肉喰った方が超簡単です。
人間のご先祖様も肉を喰ったから脳の容量を増大化できた訳でして。
付け加えると、9種の必須アミノ酸は以下の通り。
1)イソロイシン(isoleucine):肝機能や筋肉の強化。神経の働きを助ける。疲労回復、成長促進。
2)ロイシン(leucine):肝機能や筋肉の強化。運動時のエネルギーとして活用。
3)リシン(lysine):成長を促進。組織修復に不可欠。抗体の材料になる。ほとんど全てのタンパク質の構成成分。
4)メチオニン(methionine):血中コレステロールを下げる。活性酸素を除去する作用。解毒作用。老化予防。
5)フェニルアラニン(phenylalanine):神経伝達物質のドーパミン(dopamine)、ノルアドレナリン(noradrenaline)、アドレナリン(adrenaline)などの材料となる。不安感・緊張感を緩和する効果がある。
6)トレオニン(threonine):酵素の材料となる。成長・新陳代謝の促進に不可欠。
7)トリプトファン(tryptophan):神経伝達物質(serotonine)の材料となる。鎮静作用があり、免疫力を高める効果もある。不足すると鬱(うつ)症状の原因になり得る。睡眠に関係しているホルモンのメラトニン(melatonin)も誘導されるので質の良い睡眠の為にはトリプトファンを含んでいる肉類を摂取した方が良い。
8)バリン(valine):肝機能・筋肉を強化。成長促進。運動時のエネルギーになる。
9)ヒスチジン(histidine):赤血球や白血球の形成に関わり、特に幼児の発達に不可欠。
尚、この9種は全て『L体』です。『L』は『levorotatory』の事で『左旋性の』の意です。
こういった化学物質には『L体』と『D体(dextrorotatory:右旋性)』の両方があります。
自然界で見られるのは大抵の場合『L体』のみです。同じ元素を同じ量だけ使って化学物質を構成しているのですが、右手(D体)と左手(L体)の様な鏡像関係にある2種類の別の物質が組み上がるのです。この2種、構成元素は同じですが、殆んどの場合において化学反応は異なります。もしも興味が湧いたなら『サリドマイド(thalidomide)』をググってみて下さい。でも、止めた方が良いかな? ちょっとショッキングな情報含んでいるんで。
あぁ、こういう情報とか英語表記は完全に余計で、あまりにも情報過多ですなぁ。
今後、こういうのは控えます。
ま、結論を言うと健康の為には『肉を喰え』です。哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類、昆虫類のどれでもOKです。あれ? キノコなんかの菌類はどうだったっけ?
ユーグレナ(euglena)の商品名で有名なミドリ虫もOKじゃなかったかな?
藍藻類のラセン藻(スピルリナ:spirulina)も必須アミノ酸を豊富に含んでたと思うけど。
お勧めは、鶏の胸肉。
疲労回復に効果があるとされるイミダゾールジペプチド(imidazoledipeptide)という物質が多量に含まれています。そのまま焼くとパサつくので、酒蒸しなどがお勧めです。
耐熱皿に鶏胸肉を置いて塩・胡椒をしてから、ネギの青い部分(捨てる所)と生姜の皮を載せて、日本酒(あれば紹興酒)を少量振り掛け、軽めにふわりとラップをしてレンチン。
600Wで7~8分くらいでしょうか?
取り出して火が通っているか確かめる為に竹串で刺してみる。火が通ってない様だったら再び3分ほど追加でレンチン。胸肉の大きさによって時間の掛かり具合は結構、変ります。
塩を香草塩に、日本酒を白ワインに変えると洋風になります。その場合、ネギと生姜の代わりにエキストラヴァージンのオリーブオイルを少々振り掛けて下さい。あればトマトやタマネギ、そしてニンニクを載せてみてもOKです。特にニンニクは鶏肉に相性抜群です。
あ、バクッと喰らい付いた時にまだ中が生煮えっぽくても再びレンチンしちゃえば大丈夫。
基本的に肉の内部には細菌等はいませんから。汚染されている可能性があるのは肉の表面だけです。あ、腐った肉は別ですよ。バッチリ内部まで細菌等で汚染されちゃってます。
注6:ドアチェッカーについて。
オープンストップやドアチェックリンクとも言う。
ドアを全開、または半開きの状態に保持する装置。クルマを傾けた時や風のある時、ドアが独りでに動いてクルマへの乗り降りの邪魔にならない様にする物。
ドアのヒンジにノッチ(刻み目)やスプリングと組み合せて取り付けられている。
ドアの開度は60~70度が一般的である。
注7:ロールについて。
ロール(厳密にはローリング:rolling)とは、走行中のクルマの運動の中でクルマが旋回したり横風を受けた時の横方向への傾きのこと。
この運動形態には全部で3つあるので残りの2つにも言及する。
ヨーイング(yawing)とは、クルマが左右に頭を振る様に動く運動で、重心を通る鉛直線(Z軸)の回りの回転運動のこと。
ピッチング(pitching)とは、突起を乗り越した時や急ブレーキング時などのクルマの前後の上下運動のこと。船の揺れを表す言葉を流用したモノ。クルマの重心を左右に貫く直線(Y軸)を考えると、この軸の周りの回転運動になる。制動時のピッチングはクルマの舳先が下がる(路面方向に潜り込む)現象として特にノーズダイブと呼ぶ。
これら3つに加えて、もう1つ。スクォート(squirt)という挙動がある。コレはクルマを加速させる時に機体の後部が沈みこむ挙動の事である。
注8:中立化と無力化について。
『中立化』はインテリジェンス用語(intelligence:諜報機関)で、『無力化』は軍事用語。
英語ではどちらも『neutralization』
尚、無害化も軍事用語の1つで無力化とほぼ同じ意味合いを持つ。
研吾君は、帝国陸軍中尉で諜報員、そしてゲリラ要員であったジイちゃんによって教育を施されたが為に、この様な言葉遣いを慣用する。
意味としては両方とも同じ行為を指す。
それは『味方(友軍)に被害をもたらさないようにする為に、その存在を消去すること』
端的に言い換えれば『当該の対象人物を殺害すること』である。
私とケンゴ vol.8