私とケンゴ vol.4
ワゴンRに乗り込もうとドアを開けた結衣が振り向き様に、
「何、持ってるの?」サッキから、とオレに言った。
小脇に抱えていたボール紙の箱を手渡しながら、
「危険だからコレに履き替えろよ」と言うと、
結衣は「ナイキ?」と言いながら開けた。
「何コレ? 普通のスニーカーじゃん」コレが何か、という様な眼付きでオレを見る。
「ミュールじゃ運転しづらいだろ、スニーカーに履き替えた方が良いよ」
「いいじゃんコレで。ちゃんと運転できるし」
「危険だろ? もし、スロットル...アクセル踏んでる時にヒールの部分が床との間に挟まったりしちまったら二進も三進も行かなくなる。左足ブレーキングしても全然止まらないよ、どっかに衝突するまで。オレは、結衣が事故に遭うのはイヤだし、それにイトちゃん乗せてんだぞ。オレの娘かも知れない女の子なんだから、もっと用心深く行動してくれよ」
「何ソレ? いきなり父親面して」ウルサイな、と言いながらも割合と素直にドライバーズシートに腰を下ろして履き替え始めた。
「それに、もう流行じゃないんだろ?」オレは言った。
「そういや、歩いてる時カスタネットみたいな音たてるから、嫌いって言ってたもんね」
『ミュールって米国ではファックミーシューズ(Fuck me shoes)って呼ばれてるんだぞ』と思ったが、発話は回避して黙っておく方が良いと判断した。
カッタいな、このナイキ、と結衣が不満を漏らす。
新品だからな、まだ慣らしてないんだ、とオレは謝った。
結衣が若干の笑いを含むくぐもった声で「研吾、足のサイズ、私と一緒だったんだよね。身長だけじゃなくてそーゆートコも、ちっちゃかったんだっけ。忘れてた」と言った。
ナイキを装着すると上半身を起こして結衣は「コレで、良いでしょ?」と言った。
「これから運転する時はいつも、そのナイキに履き替えてくれ」
「細かいなぁ」
「事故ってのは、そういう細かい所を原因として発生するモンなんだ」
くれぐれも気を付けて欲しい、と、オレが言うと、
ハイハイ、判りました、という後ろ向きの受諾を結衣が示した。
ドアを閉めてからエンジンを掛けて運転席側の窓を全開にした結衣が「コレ、返すの忘れてた」借りパクしちゃうトコだった、ペロッと舌の先を覗かせながら言って差し出した。
オレは、手渡されたiPhoneのホーム画面を閉じてから作業服のポケットに仕舞った。
まだ誰も持ってないヤツだからさ、一瞬ギっちゃおうかな? とも思っちゃったんだよね、と言い「でも、何で最新のiPhoneを、研吾は持ってる訳?」まだ売ってないヤツでしょ?
と続けて結衣が質問したので答えようとすると、オレの気勢を制する様に「ユースケさんのトコでしょ? そのiPhoneの出処、違う?」と結衣が被せて来た。
将にその通りだったので、オレは無言で肯いて結衣の推定が正しい事を表現した。
「なるほど。ユースケさんなら手に入れられないモノなんか、無いモンね。さすがペーパービュー・ユースケだね」結衣が言った。
「ペーパービューじゃない。パーヴェイヤー(purveyor:調達者)だ」オレが誤りを訂正すると結衣は「別にイイじゃん、ドッチだって」変わんないよ、と全く意に介さなかった。
いや、全然意味が違いますけど。
ニヤニヤしながら結衣が言う「スマホを持つ意味なんて解らないって言ってたのに、最新のiPhoneを、しかも発売前の。さすがにストラップは着けてないけど、あんなに批判してた保護ケースまで装着済み、だなんて、変われば変わるもんね」
「どういう理由か解らないがシェル(shell:外殻)の表裏、両方ともガラス素材だからな。落としたら確実に割れる。外側が傷ついても全然構わないが中身にまでダメージが及ぶとマズい。保護ケースは必要だから装着したまでの事だ。ストラップは邪魔になるだけだから、着けない。それだけだ」
「でもドコで買ったの? 本体の販売がまだなんだから、売ってないでしょ?」
「自分で作った」
「ウソっ! 作れるの、こんなにチャンとしたヤツ?」
「整備工なら誰でも作れるさ」別に難しい技術を必要とはしないしな、とオレは言った。
「その保護ケース、何で出来てるの?」ツナギのポケットを指しながら結衣が言った。
「ジュラルミン」
「ジュラシック・パーク?」
ドコをどういう風に聴けば『ジュラルミン』が『ジュラシック・パーク』に変換されるんだろうか、最初の『ジュラ』の部分しか合致してない上に長さも韻律も違うのに。
結衣の言語野の働きっぷりは一種独特でエキゾチックなモノではある。
昔はソコも好きなトコだった。
「ジュラルミンA2017。アルミ合金の一種だよ」オレが言うと、
フーン、と感心した様に小刻みに頷いてから結衣が言った「仕事が綺麗だよね、研吾の作るモノはみんな。ソレだってホントは簡単に出来る物じゃない位は私にも判るよ。たった一個のケースを作るのにワザワザ図面とかも引いたんでしょ? それから何とか盤とか...えーと...何とかって言う機械を独りで操ってコツコツと形に仕上げてったんでしょ?」
やたらに『何とか』が多いが、旋盤やフライス盤、それにボール盤の事だろうか?
ソイツ等だけじゃコイツは完成させられないけど、結衣の言いたい事は良く理解出来た。
そして落下の衝撃に充分耐えられる様に、iPhone本体とケース・フレームを接触させないフリーフローティングセッティングにしたり、衝撃吸収材を適切に配置したりする為に
3Dキャドソフトで試行錯誤しながら設計した時間を、費やした約12時間を、フッとオレは思い出した。
やはりオレは機械をいじるのが性に合ってるのだ。
機械仕事に没頭している時は、食欲も性欲も睡眠欲すらオレを誘惑する事は無い。
高度な集中力を保ったまま何時間でも作業に費やす事が出来る。
疲労も感じないし、苦労だとも思わない。
「研吾はさ、やっぱりツナギが似合うよ。
今日さ、キミのアパートに行く前に直接工場に来たのは、何故だか判る?
送られて来たGT-Rの画像を見た時に、
あ、研吾は復活したんだな、って解ったんだよね。
だから、絶対に工場にいるって思ったんだ。
当たったでしょ?」
「ああ」
「よく健吾は、さ、必要って言葉よく使うじゃない。
一緒に暮らしてる時は、『必要必要って、っるさいっ!』って思ってた。
だって、さ、コレは必要だから持つ。
コッチは必要じゃないから、持たない。
そゆトコ、嫌いだった。
だって、何が今、自分にとって本当に必要なのかなんて判らない事って有るじゃん、絶対。
全ての事、神様じゃないんだから、判るワケないじゃん。
昔、ある人に言われたんだ。
『無用の用』って考え方があるって。
意味、知ってるでしょ? 研吾なら」
「荘子だ。不用と思うものがかえって大きな用を成す事、だ」
「やっぱり。研吾、知ってるんだ。
私の知らない事もホントに良く知ってるし、研吾が本当に頭良いのも判ってる。
でも自分にとって何がホントに必要かって決めるの、きっと自分じゃないと思う。
パッと見で『コレ、必要無いな』って思って、捨てた後に、さ、
『あ、ヤベっ!』って、自分でも思いがけず必要に為った事ってあるでしょ?
要らないって思ってても、必要になる時って向こうから、来ちゃうんだよ。
自分が決めるんじゃない、
自分の周りにある...何て言うのか...こう、何...眼に見えない何か...」
「自分を取り巻いてる『状況』とかの事か?」
「多分。
そんな感じ、かな。
生きてく上で逆らっても無駄な事って多いじゃん?
幾ら努力してもどうにも成らない事。
ソレって『運命』って呼ばれるモノなのかも知れないけど、
自分の力では変えられない、
どんなに頑張って動かそうとしても1mmも無理、
重くて、硬くて、大きくて、
そうしてる内に、コッチの方が疲れちゃってダメに成っちゃう。
そういう人間の力を超えた何だか解らないモノが、
その人にとって、何が本当に必要なのか、
何が不必要なのか、を決めてくんだと思う。
研吾は、さ、全部自分で決めようとするじゃん。
決められると思ってるじゃん。
ソレって、間違ってる。
絶対、あるもん、自分でどうしようも出来ない事って。
きっと、さ、『運命』とかを自分の力で切り拓いてく事なんか絶対に、無理なんだよ。
やって来るものを素直に受け容れる事だけなんだと思う、人に出来る事は。
与えられた道を歩いていって、さ、分かれ道に出くわした時に、
ドッチの道を選ぶ事くらいしか、人には出来ないんだ。
もしかしたら、そんな事さえも前もって決められてて、さ、
何にも選べない、選ぶ事さえ出来ない、かも。
って、この頃、ふと思うんだ」
そうかも知れない。
結衣の言う通りなのかも知れない。
人の一生の内に起こる事や出逢う物そして人達、
何も無駄なモノなど、無いのかも知れない。
自分の意志で決断し選び取ったと思っていても、ただ単に『運命』が与えたロードマップに従ってトポトポと歩いているだけなのかも知れない。
だけど、たとえ脳科学が『人間に意志など備わっていない』という事実を証明しつつあるとしても、人生の行程表が、わずかな選択肢を除いて最初からほぼ全ての部分で決定済みであったとしても、
でも、オレは力の限り『運命』ってヤツに抗っていたい。
『自分の人生は、自分で決めろ』
ジイちゃんは、そう言った。
オレもその考え方に同意する。
結衣は先を続けた「でもさ、GT-Rの画像を見た時も、今日、実際にあって研吾の顔を見た時も、同じ事を感じたんだよね」
「どんな事?」
「研吾にはクルマが、クルマ関係の仕事が『必要』なんだって。
きっと『運命』が決めたんだよ、ソレ。
だって顔付きが全然違うもん、6年前と。
昔、アキバで初めて出逢った頃と同じ顔付きしてるよ、今」
セブンイレブンの駐車場から県道へとワゴンRを出そうとする直前ふいに停止させてから、見送ろうとしているオレに耀々たる視線を合わせてきて、結衣が質問した。
「また会いに来ても良いかな?」
虚を衝かれて少しアワアワしかけたが臍下丹田に力を集中させ踏ん張り何とか持ち堪えて、
結衣の、その煌めく双眸を見詰めながら、言った。
「それは、結衣自身が決める事だ」
ママのキゲンが、イイ
フフフーンとか はなうたをウタってる
織
ナニ? ママ?
ケンゴのクルマ どうだった?
なんかすわるトコが テパテパしてた
また、まちがえてる ってママがゆった
テパテパじゃなくて ペタペタでしょ ってゆった
ペタペタ?
そう、ペタペタだよ
フーン、ペタペタか
ワタシがそういうと
ママはウフフって、ワラってから
また、フフフーンって よくわからないウタをうたう
いつもそう
ママのおもったカンジになると
ママはスゴく キゲンがよくなる
でも そうゆうトキ、ママはワルいヒトのカオに なる
あまりみたくないから
ジイっとピンクいろのクロックスをみてた
そして おじさんパパのコトを ズッとかんがえてた
おじさんパパは、なんか いつもノンビリしてる
とてもユックリ、のんびりしてるのに
でも とてもハヤい
ママみたいに よけいなコトをしないから
ハヤいんだ とおもう
ひつようなコトしか しないからだ、とおもう
ガタンとクルマがゆれた
おじさんパパのうんてん ってイイな
よわないように ガンバらなくてもイイから
ママのうんてんと ゼンゼンちがうから
ヒザのうえのテディさんをみた
プランプランしてたミギのめを
チャンとなおしてくれた
おじさんパパ、いいヒト
あんなオトコのひと いるんだ
ママのオトコとぜんぜん ちがう
マチダのパパと チョットにてるかも
パパかもしれないヒトだから なのかな?
さっきも そうおもったけど
ホントに そうなのかな?
ママのオトコ
1ばんめのオトコ
2ばんめのオトコ
そんで いまのオトコ
ぜんぶイヤなヤツ
そんで コワいヤツ
グワンってクルマがゆれた
ウワっ!
2ばんめのオトコのかおをおもいだしちゃった
イヤだ
アイツだけは おもいだしたくない
ママのオトコって
みんなヘビみたいな目をしてる
ぜんぜん目をパチパチしない
ホントにヘビみたいで、きもちワルい
クルマにヨイそうになるから ベツのをかんがえる
おじさんパパの目を かんがえようっと
マチダのパパ、ヒロオのおジイサマ、カゴシマのおジイサマ
みんな とてもやさしい目
おんなじカンジなんだけど
おじさんパパの目は すこしちがうカンジがする
やさしそうなんだけど ソレだけじゃないカンジがする
瞳の そのむこうに ナニかわかんないけど
なんか ある
でも なんだかわからない
もしかしたら おじさんパパも コワいオトコなのかも
ガタン
でも、
もういっかい、もういっかいだけ
シンジてみよう
懐かしい音が聞こえた。
荒川自動車が所有のクルマを保管しているガレージの清掃を終えてから、一時外に出してあったクルマ達を再び庫内に収納しようとしていた時だった。
バタバタという空冷フラット6特有の音に振り向くと、銀色の911が県道から駐車場へと乗り入れて来る瞬間が網膜に映った。
コチラの邪魔に成らない場所に停車するとドアが開いて、これまた懐かしい人がヌッと姿を現した。
「ヤッパリ、再開してたんだね」
「御久し振りです」オレはペコンと挨拶をした。
親父っさんが若い頃からのお客さんで、箭内隆正という人だ。
箭内さんは、アレ、幾つだったっけ? 最後に会ったのは確か6年前で、当時50代後半だったと記憶しているから、今は60歳とちょっとだと思う。
だから区分的には初老の範疇に入るのだが、背はオレより拳2つ分ほど高くサッカーのミッドフィルダーの様な身体付きをしており体調が整えられた事が判る外観からは実年齢を推定する事は困難で、とても若く見える。
かなりヤリ手の音楽プロデューサーなのだが、物腰は柔らかく人当たりは常にソフトだ。
職業柄からか何時もシュッとした恰好をしているが今日も通常と違わず、番手の多いコットンの白いオックスフォードカラーのシャツとジーンズを身に着けて、灰色のスニーカーを履いている。
近くへ歩み寄って行くと、助手席のドアが開いてスラリとした女性が出て来た。
箭内夫人の有美子さんだった。
タバコ一箱分ほどオレより身長が高く、箭内さんより五つ年下なので推定50代中盤だがその割には手足が長く、彼女を観る度にアマゴ(関東以北ではヤマメ)の画像イメージを連想するくらい華やいだ雰囲気を漂わせている。だが、着ているモノは至ってシンプルで落ち着いた印象を残す、常にそういう装いだ。
今日は縹色のサブリナパンツにレモンイエローのスニーカーと補色同士で揃え、トップは白地にグレンダンの紅蓮マークがプリントされたTシャツとややもすると素っ気無い位だが、足りない部分は全く無い。
ジャズを歌うシンガーで、斯界では超有名な人だからかも知れないが、身体から醸し出されるオーラと言うか雰囲気なのか霊気かオーラか、上手く形容できない何だか解らないモノが簡素な服装を補完して、彼女を特別な存在へと昇華している。
ま、服なんてのは肉体を護る為の単なる防御シールドに過ぎない。
『馬子にも衣装』とも言われるが、結局の所、中身が全てを決定するのだ。
ジイちゃんは常々言っていた『装丁で本の中身を判断するな』と。
ジャケ買いでの失敗は誰しもが経験する事だ。
有美子さんが軽く頭を下げたので、オレも慌ててピョコンとお辞儀を返した。
2人は同じ世界で働いているけれど、箭内さんが有美子さんをプロデュースする事は無い。
以前、ソコに話題が及んだ時に「ヤッパリさ、冷静ではいられないと思うんだ。私情っていうか欲目とでもいうか、そういう感情が湧いてきて客観的な判断が下せなくなると思うんだ。プロとしての仕事が出来なくなりそうで、だから怖いんだ」と箭内さんが言った。
かと言って仲が悪いと言う訳では無く、仕事関係では別々の道を歩いていても、私生活においては2人の軌跡はピタッと重なり合っている様に見える。
熟年の、しかもこの国の人間には珍しい位、この夫婦の関係は良好そうだ。
もしかしたら子供さんに恵まれなかった事が2人の仲をより一層と強めたのかも知れない。
ま、各ご家庭の内情は外観からは窺い知る事など出来ないのが真実だから、箭内さん夫婦の本当の関係が如何なのかは、オレにとって永遠の闇の中である。
知らなくて良いコトでもあるし。
咲耶さんの話では、2人は十五、六年前に都内からこの半島に引越しして来たのだそうだ。
「この前、先週かな? 横須賀市街から帰って来る時にココの前を通ったら研吾くんが動いてるのが見えたからさ、再開したのかな? って思って」箭内さんが言った。
「今日は、産直センターにマグロを買いに行く予定だったから。なら、ついでに寄って確かめてみれば、って言ったのね」有美子さんが夫の顔を見上げながら話を繋いだ。
産直センターというのは、港の近くに在る三崎マグロ産直センターの事で、場所柄、品質の良いマグロが安い値段で購入できる人気のショッピングセンターだ。
今夜は家で手巻き寿司でもするんだろうか?
「へぇ、何を買われたんですか?」オレが尋ねると、
「本マグロの中トロ。アイルランド沖で獲れたヤツ。」箭内さんが答えた。
「でもこのヒトの本命は違うのね」有美子さんが悪戯っ子の様に真実を暴露する。
「なんですか、その本命というのは?」
「とろまん、しかも『あんと浪漫』のヴァージョンの方」ね、という感じで夫を見る。
「えっ?!? あんこのヤツですか?」オレは驚いた。
ん? とろまんが何だか解らない?
とろまんというのは産直センター内のお店で販売している肉まんの一種で、お肉の代わりにマグロを餡に使っている饅頭だ。三浦の特産のキャベツも入っていてシャリシャリとした食感が良いアクセントに成って食べて楽しく美味しい一品と成っている。一方『あんと浪漫』は簡単に言えば『あんまん』の一種で、こし餡の中にミンチ状にしたマグロ肉が混ぜ込んである代物だ。食べると何かの粒々を舌先に感じるがソレがマグロ肉である。
好きな人は好きだが、そうじゃない人はあんまり、という人を選ぶ食べ物である。
「こっちに引っ越してから判ったんだけど、このヒト結構チャレンジャーなのね」食に関しては、と有美子さんがオレとダンナさんとを交互に見ながら言った。
髪上げにした小顔がクルクルと動き、それに連動して首許のネックレスのトップに付けられたハート形のムーンストーンがフラフラと左右に揺れる。
「君は食べた事無いからそう言うんだよ。食べてみなよ、意外とイケるから」
箭内さんがそう言うと、有美子さんは『ウヘッ!』という表情を浮かべたがシリアスなモノではなくてむしろ会話を愉しむ為の潤滑剤という感じだった。
「研吾くんは、どうなの?」と箭内さんに問われたので正直に、
「一回だけ試した事があるんですが...やっぱり...」と吐露した。
「ダメなんだ?」
「いやぁ、何て言うか、その、不味くは無いんですが...頭が受け付けないって言うか...感情が許してくれないって言うか...マグロの肉って言う先入観が...」
うーん、と唸りながら、オレと有美子さんの顔を見廻してから、
「酢豚にパイナップルとかが、ダメなタイプなんだ?」箭内さんは言った。
「ハイ」残念ながら、とオレは答えた。
イヤ、賛同はしたいんですよ、賛同は。
でも、なぁ。
しらすアイスとかも苦手だし。
夫とオレとのやり取りを傍で眺めながら『そんなコト言う為にココに来たの?』という表情を有美子さんが浮かべ出した事に目敏く気付いた箭内さんが本題を切り出した。
「先週ココ通った時に青いヤツが眼にチラッと入ったんだけど、アレなのかな?」
箭内さんの視線の先がR32に向いてる事は、確認しなくても判る。
「そうだと思います」
「アレ、32?」
「はい」
「見せて貰ってもイイかな?」
「もちろん」
案内する様に先に立ってR32の傍まで行った。
「スゴク綺麗な色!」有美子さんが言った。
「これはサファイアの青、なのかな?」箭内さんが確認した。
「そうです。コーンフラワーブルーです」
「コーンフラワー、って何の花?」有美子さんが尋ねると、
「矢車菊だよね、研吾くん」確か、と箭内さんが言う。
「そうです」
ヨーロッパ原産の耐寒性一年生植物で元々は穀物畑の縁に生えてくる雑草だったのだが、その青紫色の花のあまりの美しさから園芸植物として育種されたのだ、とオレは続けた。
「だからcornflowerなんだ」有美子さんが感心した様に呟いてから
でも、私にはタンザナイトの青に見えるけど、な、と独りごちた。
「タンザナイト、宝石ですか?」目敏く気付いたオレが訊くと、
「あ、イイの。気にしないで」と有美子さんが言った。
タンザナイト、どんな石だろ?
ま、イイや、後でググってみるか。
エンジン見ますか? と尋ねると、
御願い出来るかな? と箭内さんが遠慮がちに言った。
「もちろん」と言いながら、運転席に行ってフード(ボンネット)を開く為のレバーを引いてからR32の前に周り込んでロックを解除しながら片手でフードを持ち上げて固定した。
「ビカビカだねぇ。ノーマルに見えるけど...」箭内さんが言った。
「ハイ、ほとんどノーマルです」
「ヘッドカバーやインテークパイプの上の文字まで綺麗に残ってるんだ。コレって、塗り直したの?」(注1)
「いえ、洗浄しただけです」
「それだけで、このクオリティか」凄いね、と箭内さんが言って、
「ノーマルって事は、280PSのまま?」と重ねた。
「いえ、カムシャフトを交換してるので、420~430位は出てます」
「へぇ、カムは東名パワードかHKS?」
「いえ、特注のワンオフで」
「特注?」
「はい、下からのトルクが欲しかったんで」(注2)
なるほど、という表情を浮かべながら「で、コレってデモカーになるの?」と箭内さんが尋ねた。(注3)
「いえ、オレ...僕の個人車です」オレは答えた。
「ふーん。売り物じゃない、とは思ったんだけど」個人車か、と箭内さんが呟いた。
「何か?」オレが訝しげに訊くと、
「イヤぁ、売り物なら、欲しいかなって」チョット思っちゃったんだよね、と言った。
「え、でも、箭内さんはポルシェ一本槍だったんじゃ?」
「イヤぁ、これだけのモノを見せ付けられちゃ、滅茶苦茶に食指をソソられるよ、クルマ好きなら当然だと思う。高いレベルの、本当に良い仕事してる」
「有難うございます」オレは素直に嬉しかった。だから「今はまだ慣らしが終わってないのでアレなんですけど、終わったら少し乗ってみますか?」と申し出てみた。
「ダメだよ、自分のクルマを他人に貸しちゃ」少し喰い気味に、箭内さんが否定した。
「?」
「自分のクルマを他人に貸すって事は、自分の眼鏡を他人に貸すって事と本質的に同じだからね。貸さないだろう? 眼鏡は」ルノアのブリッジを押さえながら箭内さんが諭した。
あの、その眼鏡、調整した方が良いですよ、多分フレームが少し歪み始めてますから。
でも、何も口には出さず軽く肯くだけにした。
すると、何故だか判らないが、箭内さんがモジモジとし始めた、
まるで好きな男子に告る事を躊躇う中2の女子の様に。
短時間だが非常に長く感じられる真空の時間が流れる。
身体の動きに同調からやや僅かにシンコペートしてメタリックシルバーのテンプルが陽光を断続的に反射している。フレームに嵌め込まれたグラスは、本当に良く観察しないと判らない位に薄いグレーのスカイライトレンズで、コチラの方は何も発散する事は無かった。
UVを99.99%カットするレンズを使ってるって事は多分、ドライブ用だな。
辛抱強く次の会話を待ち続けると、彼はチラッと横を見て妻の顔に浮かんだ『ハッキリ言いなさいよ』という表情に決断を促されて意を決した様に箭内さんが重たい口を開いた。
「で、さ、ホントの本題なんだけど」箭内さんは話を切り替えた。
「?」
「僕の方から勝手に離れて行っちゃったから、こんな事を御願い出来る立場じゃ無い事は重々承知しては、いるんだけど...」
「?」
「僕のRSさ、そろそろ車検なんだよ。今回は御願い出来るかな?」
!
オレは、思いも寄らない突然の依頼にコンマ数秒間だけフリーズしてしまった。
「車検ですか?」
「そう」
マジっ!?!
オレと箭内さんそして有美子さんの3人はR32から離れてポルシェ911-964カレラRSへと歩み寄った。
「もう大分クラッシックに成って来ちゃったから、替えても良いんだけどね、新しいヤツに」そう言いながら箭内さんは愛車を優しく撫でた。
だが、言葉とは裏腹に、態度からは買い換える気は産毛程も無いって事がありありと判る。
それに整った景色、つまり立派に隅々まで整備が行き届いた外観をRSがしているからだ。
「コレってディーラー物のRSでしたよね?」
「そう」
「このクルマは、手放しちゃいけないクルマの一つですよ」
「そうかな?」
「そうです」空冷の時代が一番911らしい911ですから、とオレは強く言った。
「そう? そう言って貰えるとオーナーとして嬉しいよ」
ポルシェの中でもとりわけモデル911は特別なクルマだ。
ラインナップされた内で最も乗りにくいが、それ故に最も愛されているモデルでもある。
その証拠に今まで生産された総数の6割以上が稼動状態を維持しながら保有されている。
ま、全部で何万台あるのか、今はチョット判らないんだけど。
とにかく沢山の動態可能な台数が存在している事は確かだ。
そんなクルマは滅多に無い。大抵の場合、事故に遭ったりして全損(修理が非常に困難な
までに壊れてしまった状態)に成ったら、サッサと新しいクルマに買い換えられてしまう。
新車に交換した方が断然安上がりだから、だ。
たとえ多大なコストを支払う事に成ったとしても絶対に修復したい、とオーナーに覚悟させてしまうクルマは、この世界でポルシェ911、フェラーリ、そしてGT-Rの3つだけだ。
箭内さんが所有する911-964カレラRSは総生産台数がわずか2398台という希少なモデルで、日本には92年モデルとして230台ほどが正規輸入されたのみだ。
ま、並行輸入もされたから全部で何台持ち込まれたのかは不明だが。
え?
964って、何の数字かって?
911はクルマのモデル名称で、964はモデルのタイプの形式名称。
理解し易く成る様にR32で説明すると、スカイラインGT-Rがモデル名称で、BNR32が形式名称。同じGT-Rでもモデルチェンジ後は形式名称が変えられる。それと同様にポルシェ911も、モデルチェンジ後には形式名称が変更になる。
964は911としては3代目のモデルになる。(前2つは901と930)
RSはRacing Sportの頭文字で、つまりサーキットを走る目的で開発されたモデルだ。
徹底的な軽量化が図られており、ベース車種である一般的なモデルの911カレラ2から120kg(資料によっては70kg)も車重が削減されて乾燥重量で1250kg。
だが軽量化の実現と引き換えに数々のコンフォート装備も省略されていて、パワーステアリングは当然の如く省かれているし、オーディオシステムも付いていない。集中ドアロックもスルーされている。エアコンも装備されてないし、内装も取り払われ最低限の物しか付いていない。そもそも最初からオプション設定すらないので、これらの快適装備をオーダー時に特別注文する事も不可能という、将に乗る人を選ぶクルマ、というか乗る人に覚悟を要求するクルマだ。
速さを得る為に快適性を犠牲にしたのがカレラRSというクルマだ。
あ、ついでに言うと、後部座席も除去されているけど、元々911の後席は大人が座れるほど大きくないし実用に耐えられないシート構成なので、ソコはどうでも良いポイントだ。
イトちゃんでもギリギリもしくはアウトな位に、超狭い。
座席と言うよりも荷物置き場と言った方が正確かも知れない。
「今回はエンジンのオーバーホールもお願いしたいんだ」(注4)
「走行距離は、今、どれ位ですか?」オレは尋ねた。
「オドメーター(走行距離計)は、今、18万km位を指してるね」
「前回のオーバーホールは...」
「ここで御願いしたのが最後だから、6年前か」
オレは6年前の事をシュッと思い出した。
そう、この911のエンジン、オーバーホールを担当したのはオレだった。
自分でも結構良い感じに組めたと記憶している。
「あの後さ、結構な距離、少なくとも3万は走らせてるから。この911、年代物だしね」
「25年物でしたっけ?」オレは訊いた。
「まぁ、大体そんな所。若かったよなぁ、手に入れた時は」と箭内さんが懐かしそうに言い「新車で手に入れた時は、嬉しかったんだよ、本当に」とつないだ。
並行輸入車ではなく正規ディーラーから新車で購入して以来ずっと丁寧に乗り続ける。
本物のポルシェライダー、特に911ライダーには、こういうタイプの人が多い。
チューニングするか、オリジナルのまま乗るかは、ソレはまた別の問題だ。
『チューニング』=『乱暴な扱い』では無いからだ。
チューニングとは『調整・調律』の事である。
端的に言えば、チューニングとは『マージン(margin:余白・無駄)』を削って行く作業だ。
壊れない様にメーカーによってクルマに与えられた『余裕』を無くして行って、機体が持ち合わせたポテンシャルの限界ギリギリまで機械を追いこんで行くのが、チューニングだ。
ま、ヤリ過ぎてブッ壊しちゃったら、失敗なんだけど。
あ、機械に弱いドライバーだってチューニングを無意識の内にしている。
シートの位置調整やステアリング(ハンドル)のテレスコピック調整(前後の位置調整)なども立派なチューニングだ。
チューニングとは『カスタマイズ(customize)』つまり自分の好みに合わせて調整・改造する事でもあるからだ。
服装で例えれば『着こなし』だと言えるかも知れない。
「かと言って、別に調子を落としてる訳じゃないんだ。エンジン自体はすこぶる良いフィーリングを保ってるよ。でもさ、年が年じゃない? 人間で言えば初老の域に入ろうかって頃合いだからさ、人だって40過ぎれば人間ドックに入って身体の具合を検査するじゃない? 6年で3万kmだろ? そろそろかなぁって」箭内さんは言った。
オレは『成る程』という様に軽く首肯いた。
「この6年の間、ポルシェの正規認定工場をあちこち当たってみたんだ、オイル交換とかね、簡単なヤツ。でも何か納得いかないって言うか、いまいちピンと来ないって言うか。荒川さんでヤって貰った時みたいな感触、ウーン、印象って言えば良いのかな? 荒川さんから戻って来た時にRSは、たとえソレがオイル交換みたいな簡単な整備だったとしても、新車の時に感じた安心感、絶対に事故らないし故障しないって言う保障? そんな感じの雰囲気を毎回、身に纏わせて帰って来てたんだよ。でもさ、ソレが無いんだ、他の工場から帰って来た時は、さ、全く」箭内さんはポツリポツリと話を続けた。
オレは自覚が無い笑みがこぼれ落ちてくるのを感じた。
話は続く。「義理を欠いてる...道理が立ってない...ウーンと...筋から言ったらアウトなんだけど...だから、本当に心苦しいし申し訳無いんだけど、厚かましい事この上ないのは、僕も良く判ってるんだけど...」箭内さんが苦渋の色が塗られた言葉を吐いている。
「判りました。お引き受けいたします」先回り的にオレの方から歩み寄った。
「ホント?!?」箭内さんの表情から憂いが払拭された。
「はい、喜んで。ヤラせて下さい」オレは承諾して、車検がいつ切れるのかを尋ねた。
「今年の12月なんだ」
オレは整備工場としての受け入れ態勢が整うまでにあと最低2週間はかかる事を伝えた。
「手配できる代車がまだ来ないんです。オーダーはしてあるんですが」
「あ、僕、代車は要らないよ。普段使いのクルマならあるし」
箭内さんは左側に立つ妻をチラ見しながら言って「それに、12月まではあと2ヶ月くらいあるから、そんなに急ぎでもないし」と続けた。
「そうですか」オレは目算が立ったのでひとまず安心した。
「ね、アレってボディの方は大分イジってるよね」R32を指差しながら箭内さんが訊いた。
「はい。ウチと取引して頂いている板金屋さんに依頼して仕上げて貰いました。簡単な板金ならオレ...僕でも可能なんですが、今回は手に余るくらい大掛かりなヤツだったので。やはり『餅は餅屋』ですから、専門家に任せました」
「事故車だったの?」
「いえ、事故歴は一切無い上物なんですけど、少し干からびてるって言うか、くすんでしまってるって言うか、萎れかけてたって言うか、くたびれて来てたって言うか、そんな感じだったんで、手を入れて貰ってシャッキリさせたって所です」
「成る程ね。だから、か。アレさ、外装は、もしかしたら、カーボン?」
「はい。CFRP、ドライカーボンです」
ま、厳密に言うとカーボン・タフポリマーでCFRPとはチョッピリ違う代物なんだけど。
箭内さん一人だったら一文字目から説明するけど、今日は有美子さんが同伴している。
詳細に至るまでの説明をしたら彼女を独りぼっちで置き去りにしてしまう事は眼に見えているから、割愛した方が賢明だ。だから、良い所を全部端折って飲み込む事にした。
「全部?」
「サイドルーフレールだけはノーマルのままです。クオーターパネル(リアフェンダーの事)を外したり交換した機体は『修復歴有』ってなっちゃうんで、下取りの事を考えると誰でも腰が引けるんですが、この機体に関しては端から手放す心算は産毛すらもないので」
「ヤッパリ、錆び関係?」
「はい。R32の定番の1つですから、リアフェンダー内の錆び発生は。
でも開けてみたら、全然必要無いってくらいビカビカに綺麗だったんですけども。
ま、最初からフェンダー内にドライカーボンのブレースを組み込む予定だったんで。
ついでにインナーフェンダーも新調できましたし。他の細かい所も手当て出来ましたから」
「凄い仕様だね、軽量化を狙って、なのかな?」
「それもありますけど、本当の目的はボディの強度と剛性を上げる事です」
「なるほど、ね。やっぱり弱い?」
「ハイ。R32のボディって、R34やR33と比較すると、相当に脆弱なんですよ」
「まぁ、時代が違うからね」
「えぇ。でも、やっぱりスゴイですね、箭内さん」
「何が?」
「見ただけでカーボンって解るなんて」
「さっき、ボンネットの裏を見たし、この前さ、動いてる所を見たし。その時に結構イジってあるボディっぽいなぁ、って印象を受けたんだよ、ね」
「動きを見ただけでソレが解るのは、凄い事ですよ」
「そんな事、無いよ。タマタマ、さ。
でも、このボディ、カーボンの所と鋼板の所、色の違いが全然判らない。凄い仕上がり具合だね。ドコのショップ?」
「赤城板金さんです」とオレが教えると箭内さんの表情がサッと変わった。
「赤...赤城って...あの赤城板金?」
『あの』って『どの?』と思ったが、ま、考えてる事は同じだろうと見積もり、素直に
「はい」と言った。
「でも、あそこってドイツ車とフェラーリ専門なんじゃ...」
「はぁ。でもウチは親父っさんからの知り合いなので」
「...成る程」
「御存知なんですか、赤城さん?」
「イヤぁ、JAFか何かの定期刊行物で、読んだ事がある位で、実際には...」
箭内さんが再びモジモジし始めた。
その様子から彼の言いたい事がソレと無く推し量れたので忖度してオレから口火を切った。
「もしもボディの経年劣化を気に為さってるのなら一度、赤城さんに診て貰いませんか?」
「え? 出来るの? あのR32みたいな徹底的に凄いヤツじゃなくて、アラインメント(alignment:整合性)を補正するって感じの、えーと、単にボディを『仕立て直す』って感じの、それ位のホントに軽めのヤツをお願いしたいんだよ?」
「もちろん。可能だと思います」ちょっと訊いてみますね、と断ってから電話を掛けた。
呼び出し音がキッチリ2回鳴ってから、赤城さんが出た。
「おう、どうした、三代目?」野武士の様な声がオレの耳道内で響く。
「赤城さんに診て貰いたいクルマがあるんですが」
「おう、何時までだ?」
「いつ...ですか?」
「そうだ、納期だ。何時までに仕上げりゃ良い?」
「いや、違うんです。急ぎじゃなくて」
「事故車じゃないって事だな」
「はい、少々古いクルマなので。ボディをシャッキリさせたいという依頼なんです」
「車種は?」
「964のカレラRSです」
「判った」
「12月に車検なので、ソレまでに」
「ま、現物を見てからじゃないと何とも確かな事は言えやしないが、大体一ヶ月は掛かると見て置いてくれりゃ、充分だ」
「判りました」
「持ち込む前に連絡、寄越せよ」イイな、と言ってから電話が切れた。
相変わらず単刀直入、簡潔明瞭で豪快な喋りっぷりだな、赤城さん。
竹を割った様な声は、いつ聞いても後味スッキリである。
ま、実際の所、ケータイは相手の声をソックリそのまま発話再生している訳では無く、電子回路内に備蓄された約6万種類の声音パターンの内から相手の声質に最も近いヤツを選択して再生しているので、本当の声では無い。言うならば、ヴァーチャル音声だ。
「OKが出ました。引き受けて下さるそうです」オレは言った
「本当!?!」驚きの声を箭内さんが上げた。
「ええ、でも一月は掛かると。ソレ位は見積もって置いて欲しいと」
「一月? だいじょぶ、だいじょぶ。そうか、引き受けて頂けるんだ」
「代車が整い次第、すぐ取り掛かります」
「イヤイヤ、大丈夫。さっきも言った様に、普段の足用ならマカン・ターボがあるから」
ウオっ!
普段使いに1000万円超のポルシェ製SUVですか?
金って、有るトコには有るんだなぁ。
<金ならお前も腐るほど持ってるだろ?>ミスター客観的が耳許で囁く。
今は、な。
だが、生まれてからズーッと倹しい生活を送って来たから、精神パターンは切り替えられないよ。切り替えるつもりも、毛頭ないし。
脳内のウルサイ小言幸兵衛は放って置いて、箭内さんと取り引きの話を続ける。
「代車の件は別としても、他にやらなければいけない準備作業があるので、お引き受けできるのは、やはり2週間後位に成りそうです」
「OK、万事OK」
「有難う御座います。では、受容れ体制が整い次第、コチラからご連絡差し上げます」
「了解、了解」ウンウンと嬉しそうに箭内さんが頷く。
「ね。来て良かったでしょ?」有美子さんが『全く、オトコって意気地が無いんだから』という表情を浮かべながら夫に言った。
「うん」
箭内さんは傍らの愛妻に少年の様な笑顔と共に、好々爺の様に素直な返事を渡した。
「今日は勇気を奮って来て、本当に良かったよ」箭内さんはRSに乗り込む直前に言った。
オレは返事をする事無く、ただ微笑を浮かべるに止めいて置いた。
これから自分の為す仕事で返事をしよう、と思ったからだ
「ずっと気に成ってたんだよ。もちろんRSの事もそうなんだけど、荒川さんがホントに復活するのかどうか、って。でも、本当に良かった」
じゃ、連絡待ってるから、と言ってから箭内さんはRSを発進させた。
県道に出て行こうとした911がパッと停止して助手席から有美子さんが飛び出し、オレの方へと駆け寄って来た。
「どうしました?」驚いて尋ねると、
「忘れ物っ!」と有美子さんが答えた。
オレは周囲を見渡して『忘れて行く様なモノ、何か在ったっけ?』と探索したのだが発見できず、改めて「何か、忘れてましたっけ?」と有美子さんに尋ねた。
「さっき、私『ついで』って言ったでしょう? アレって逆だから」
「?」
「今日、コッチに来た訳は、研吾くんにオーバーホールを依頼する方が本命で、とろまんの方が『ついで』だから。口実が無いとココには来れなかったの、隆正くん。気弱だから」
「口実、ですか?」オレは阿呆みたいにオウム返しするしかなかった。
「そう、口実。あの人、アナタを裏切った、ってズッと苦しんでたの。結果的に『荒川自動車』を事実上の廃業へと追い込んでしまったのは自分じゃないのか、って。
心にトゲが刺さったみたいに、ずっと後ろめたさを感じてたの。
だから先週かな、ココの前を通った時にアナタが生き生きと働いてるのを確認できた時、物凄く嬉しかったんだって、言ってた。
あと、あの青いスカイラインを見て感動したんだって」
「感動ですか?」
「隆正くんに言わせると、本当に凄いクルマは他車を圧倒するオーラを放っているんだって。ただ他人から又聞きしただけで、そんなクルマなんて一度も見た事は無かった。
そんなの唯の都市伝説だろうって思ってた。
でも、あの青いスカイラインを見た時、その物凄い存在感に震えたんだって。
心が揺さぶられる様な衝撃って本当に身体も震わせるんだねって、笑いながら彼は言った。
そして『ホントにそんなクルマって存在してるんだ』って事実に感動したんだって。
で、そのオーラを放出してるクルマを組んだのが研吾くんだって悟って、心の底から後悔したの。何て馬鹿な事をしたんだって。だから、あの人を許して上げて」
「許すだなんて。自分の力不足が全ての原因でしたから」
「RSの、あれだけのエンジンを組める人間を力不足だとは、誰も言わない。
何で、アナタの前から人々が去って行ってしまったか、判る?
アナタに欠けていたものは『力』じゃない。
『自信』よ。
自分の為した仕事に対して自信を持ち得ない人間については、他者はその力量を正確に評価できない。公正な視点を持つ事が出来ず、歪んだ視線で得られた情報を基にバイアスの掛かった評価を出してしまう。そして間違った判断を下してしまうモノなの」
「自信なんて、持てませんよ」
「あの人がドレだけの工場を回ったか、知ってる? 10や20じゃ利かない。アナタの組んだエンジンはソレだけ凄かった。圧倒的でさえあった。ドコの仕事も彼を満足させられなかった。本当はね、アナタが組んでから、この6年で3回も組み直したの。でも全然、彼は納得できなくって。アナタの組んだエンジンの存在感が幻想、ううん、怨霊の様に付き纏って離れて行ってくれなかったんだって。だから、見たでしょう? さっき。
研吾くんが依頼を受けてくれた時の顔?
本当に嬉しそうだった。
自分の手掛けたシンガーがグラミー獲った時よりも、喜んでた。
それに物凄く安心してた。
心の底からホッとしたの。
澱の様に心の淵に溜まっていた『悔恨』てヤツが消え去ってくれたから。
裏切られる立場より、他人を裏切る方が結果的に自分の心を腐食させてしまうの。
能動的な態度って、ポジティブな状況では素晴らしい結果をもたらしてくれるけど、
ネガティブな場合では、反動の爆風で自分がヤラれちゃうモノなの。
だから、御願い。
あの人の為にエンジンを組んで上げて。
人間、失ってしまってから初めてその価値が判る事がある。
物事の本質って、そういうモノ。
彼は、失ってから初めて研吾くんに備わった才能の、本当の『価値』に気付けたの。
あと、謙虚ってのとは違うから。
謙虚である事は美徳とされてるけど、自信が無いって事とは全然関係無いから。
謙虚って、別の言葉で言えば『韜晦(とうかい)』。
自分に備わった才能や力を他人の眼から隠す事。
ソレって、自分に対して確たる自信を持っていなければ、到底出来ない事なの。
自分の力をこれ見よがしに誇示する人って多いけど、大抵の場合、その人に真の力なんて備わってないし、自信も持ち合わせてはいない。
力も自信も無いから、大仰に振る舞って、浅薄な『力』を見せびらかすの。
ギャーギャー騒いでるから、他の人達は『アイツは何か持ってる』って勘違いを起こしてしまう。ただ、それだけなの。
ね、研吾くん。
自信を持つ為に必要な事は、ひとつだけ。
公正で客観的な視点を我が身に備える事。
他者に対する視点だけじゃなくて、自分自身を公正に判断できる視点を持ちなさい。
貶める事も無く、持ち上げる事も無い。
そういう視点を持つの。
ね、アナタの組んだエンジンって、本当に凄いんだから。
自分では、その凄さに気付いてないだけなんだから」(注5)
それだけを一気に言うと有美子さんは踵を返してRSへと駆けて行き敏捷な動きで乗り込んだ。
箭内さんがクラクションを軽くパフッパフッと2回鳴らしてから県道に出て、RSは海洋を回遊するサメの様なユッタリとした動きで悠然と秋谷の方角へと戻って行った。
注1:ヘッドカバーとは、
シリンダーヘッドのカバーでボンネットを開けると一番最初に眼に入ってくるパーツである。シリンダーヘッドとはエンジンの頭(ヘッド:head)の部分。シリンダーブロックの上にガスケットを挟んで組み付けられており、シリンダーとの間で燃焼室の大部分を形成する。その形状がエンジンの性能を決定してしまう程の重要部品の一つ。
シリンダーブロックとは鋳鉄やアルミ合金で作成されたエンジンの中心となる部品。
そしてシリンダーとはエンジンのシリンダーブロックに設けられた筒状の孔。この中をピストンが往復運動する事でエンジンの駆動力が生成される。
インテークパイプとは空気(または空気と気化したガソリンが混じった混合気)をシリンダーに導くパイプ。
注2:カムシャフトとは、
エンジンで吸気や排気を担うバルブという部品を開閉する為のカム(ある周期運動を得る為のパーツ。ここではバルブを開閉する運動を生起する)が取り付けられているシャフト(軸)の事。
東名パワードとHKSはクルマの超有名なチューニング会社。チューニング業界の双璧を成している。両者とも自社製品としてGT-R用のカムシャフトを各種揃えており、ドロップイン(調整無しでそのまま使用できる部品)のパーツなので大変便利である。大抵のチューナーはどちらかのカムシャフトを選択して使用する。ワンオフ部品は通常採用しない。
ワンオフとは特別注文された1回限りの部品の事。目標を達成する為に最適なパーツを得る事が出来るが、一品物であるが故に高価になる。
重複になるが、PSは馬力(仏馬力の事:HPは英馬力)つまり出力で最高速度に関係する数値。トルク(単位はNm)は加速性能に関わる数値。両者とも大きい方がエンジンの性能が高い事を示す。
注3:デモカーとは、
チューニングショップなどが自社の技術を披露し実物宣伝する為に製作されたクルマの事。通常は技術の粋ととんでもない額の資金が注ぎ込まれる。
注4:オーバーホールとは、
機械を分解、洗浄、点検、修理、調整などを行う事。GT-Rの場合、エンジンのRB26DETTをニッサン直系のNismo大森ファクトリーにオーバーホールを依頼すると最低でも250万円は掛かる。コレを高いかと見るか安いと見るのかは全てオーナーの心構え次第である。筆者は、出荷当時の状態に可能な限り戻してくれるので、妥当な値段だと思っている。
注5:たとえ同じエンジンであったとしても、
組み立てる人間に依ってエンジンの性格は大きく変わる。
同じ部品、同じ作業工程であったとしてもだ。
同じ材料と同じ調理器具で麻婆豆腐を作ったとしても料理する人が異なれば完成した料理の味は違ったモノになる。それに似ている。
ちなみに通常のエンジンはベルトコンベアの脇に十数名の作業員が立ち並んだ流れ作業によって組み立てられていくが、現行のGT-RであるR35のエンジンは一人の作業員が最初から最後まで単独で組み立てて行くので、厳密に言うと個体ごとにエンジンの性格が異なっている。感じ取れるかどうかは、全てドライバー次第。
いそがなきゃ
いそがないと お日さまが しずんじゃう
ママとのやくそく、お日さまがしずんだあとは イエからでちゃダメ
おソトはこわいから
ヨルはこわいから
ヘヤのなかでジッと してなきゃダメ
って ゆわれてるから
アッ!
イテっ!
こりんじゃった
んしょ
ミギのひざがズキズキするけど、チはでてない
よかった
アッ!
あーあ、クロックスのひもが カタッポだけどキレちゃった
ママが かってくれたピンクのクロックス、こわれちゃった
これ、ママおこるかな?
こまって すこしクロックスをみてたら
おじさんパパのかおが ポンって でてきた
おじさんパパなら チャンと もとどおりにナオしてくれるかも
あと3日したら おじさんパパといっしょに カゴシマにいく
アシタのあしたは あさって
アサッテのあしたが 3日ご
3日ごのコトは ナンていうんだろ?
アシタアサッテかな?
わかんないや
ま、おじさんパパなら タブンしってるから
こんど あったときに ゆってみようっと(注1)
あ、ヤバい
こんなコトかんがえてたら
お日さまが いなくなっちゃう
いそがないと ダメだから
ころばないように、キをつけて いそごうっと
でも、なんで2つもナマエがあるんだろ?
お日さま
タイヨー
オナジなのに2つ なまえがある
ふしぎだし、おもしろい
レイがいてくれたら
ナンなのか おしえてくれるのに
コレもおじさんパパ おしえてくれるかな?
あ、ダメダメ
いそがないと
お日さまが いなくなっちゃうし
おベントーが なくなっちゃう
いそぐ
ころばない
いそぐ
ころばない
スーパーについた
よかった
お日さま、ぜんぜんウエにいる
スーパーのナカにはいって おベントーがならんでるトコに いそいだ
うわぁ
よかった
いっぱいある
ハンバーグ、
カラアゲ、
ナンだ、コレ?
やきそばとアカいごはんが いっしょにいるおベントー
ま、いいや
でも、キョウはイイ日だ
ママのキゲンがいいから
よるのゴハン、コレでかいな ってゆって
ママが1000円 くれた
この1000円ってカミが ひとつあると
おベントーが4つも かえる
でもキをつけないと ダメ
ママにおしわったトーリに
半額ってシールがついてるヤツじゃないとダメ
半額
ママからおしわったカンジは、コレだけ
あと 円ってヤツもおしわった
ネダンってトコにかいてあるヤツ
半額シールがついてると
ネダンってヤツが はんぶんになる
おベントーが はんぶんになるんじゃないのに
なぜかネダンは はんぶんになる
フシギ!
どうしようかな?
カラアゲたべたい
でもハンバーグもいいな
シャケが はいってるヤツ、
これはパス
サクヤさんがつくったヤツの方が オイシイもん、ぜったい
ゼンブに半額シールがついてる
カラアゲとハンバーグのどっちか
どっち?
500円の半額だから
250円か
2つとも、かってもダイジョブだけど
ママが あしたもキゲンがイイか、
ワカラナイから
2つは かえない
たべるモノがないと、オナカが すいちゃうし
オナカが すいちゃうのが、ズーッとだと
たぶん しんじゃうから
がまんして どちらかにしなきゃ
やっぱり、ハンバーグにしようっと
ツクエのよこにたってるオネエさんに ハンバーグおベントーをわたした
オネエさんはピッとやってから、
おハシつけますか?
ってゆったので
おねがいします ってゆった
オネエさんはおベントーとおハシをガサガサいうフクロにいれて、
270円になります ってゆった
いつも、そう
500円の半額だから250円って、ママはゆうけど
なぜかオネエさんは、270円って ゆう
20円、どうして ふえるんだろう?
ま、いいや
おベントーが かえるから いいや
テーブルとイスが イッパイおいてあるバショにいった
おベントーは いつもココで たべる
おカネをはらわなくても のんでイイ おチャとおミズとおユがあるから
チンするキカイもあるから
あと、おベントー うちにもってかえると
ママが、ゴミがふえるって ゆって
キゲンが ワルくなるから
いつもココで たべる
チンしようって おもって
シカクいキカイの方へいくと
しらないオジサンが キカイのマエにいた
なにか チンしてる
だから、オワるの まってた
まった
まった
まった
まった
ながい
まだ、チンしてる
なんか、ゼンゼンおわんないや
ママが
チンをズーッとしてると おベントーがバクハツするよ
って ゆったから
バクハツすると しんじゃうよ
って ゆったから
ソローって にげた
ウチのチンは こわれてるから
おベントー あったかくするのはムリだ
しょうがないや
ウチにかえって
そのまま たべようっと
ウチに いそいだ
でも、あんまり いそぐと
また、コロんじゃうから
ゆっくり いそごうっと
そしたら うしろから
ウー ウー ウーって 音がして
だからうしろをみたら
ショーボーシャが ウーウーいいながら はしってきた
ワタシのよこを ビューンって いっちゃった
はやーい
ショーボーシャは アカいろ
でも、ムカシは ときどき イロがかわった
お日さまのヒカリがあたってるときは アカいろなんだけど
クラいところにいくと クロいろに いろがかわった
ママにゆうと
そんなコト、あるワケないじゃん
ってゆわれた
ホントにかわるのにな、っておもった
でも、しらないうちに ショーボーシャのいろが かわらなくなった
ずっと アカいろのまま
ショーボーシャが はしってくカンジになった
なんでだろ?
フシギだ
あ、
お月さまがでてる
キレイ
あったかそうなキイロだ
でも、まんまる じゃない
チョットはじっこがへん
アシタのアシタ、アサッテのアシタ
それくらいには まんまるになるかも
お月さまは まるくなったり
ほそくなったり
いなくなっちゃったり するんだよ って
レイがおしえてくれた
そのときに日と月ってカンジも おしえてくれた
お日さまの日から アシが2ほんビローンって のびたのが月だよ
って おしえてくれた
あ、やばい
お日さまが いなくなっちゃう
いそごうっと
ウチへかえるミチをはしった
ころばないように
はしる
シンゴウがアカだ
アカだから とまれだ
ここのシンゴウをわたれば、あとチョットでウチにつくから
よかった
お日さま、まだウエにいる
シンゴウのよこに おミセがある
ハンバーグのおミセだ
パパが、
マチダのパパが、 マダいたときに
パパとママとワタシの3にんで よくきた
ワタシは いつもハンバーグと、ゴハンと、おヤサイが
なかよくイッショに おサラにのってるヤツを、
あったかいヤツをたべた
おいしかった
おミセのなか、ガラスのむこうに
ヒトがいる
オトコのひと、オンナのひと
それから、ワタシくらいのコドモが2にん
パパとママとコドモたち、なのかな?
なんか、とてもうれしそう
うれしそうに わらってる
しあわせってカンジで、みんなわらってる
わらってる4にんから、音がでてる
ガラスのむこうだから きこえないんだけど
音が、ホントに、でてる
音が きこえる
しあわせの音、だ
しあわせの音を だしてるんだ
しあわせの音だから
ガラスのむこうからでも、きこえるんだ
いいな
パパがいたころは
ワタシもママも、そしてパパも
しあわせの音を だしてたようなカンジがする
でも、いまは でない
ウチで、ひとりで おベントーを たべてるからかな
ひとりじゃ ダメなのかもしれない
4にんは ホントにしあわせってカンジ
しあわせ
どうしたら そうなるんだろ?
そんなコトかんがえてたら
おじさんパパのカオを おもいだした
おじさんパパ、あのオムスビ たべてるのかな?
サクヤさんのつくった オムスビをたべてるのかな?
いいな
きっと しあわせの音をだしてるんだ、イッパイ
いいな
注1:明後日の次の日は『明々後日(しあさって)』。
その次の日は『彌な明後日(やなあさって)』になる。
余談だが三重県では明々後日とは言わず、代わりに『ささって』(3日後なので、という理由かららしい)と言い、彌な明後日の事を『しあさって』と言うので注意が必要である。
「ご馳走様でした」
「御粗末さまでした」
オレは、工場の裏手、家庭菜園が設けられた中庭を挟んで位置する咲耶さんの家の座敷で夕食を終えた所だった。
昔ながらの卓袱台の上でオレを出迎えてくれた料理は、いつも通りに美味かった。
庭で採れた茄子を揚げてから煮浸しにして、下ろし生姜と青ネギの微塵切りを添えたモノ。
昼間買って来た釜揚げシラスとタマネギを炒めてから溶き卵でとじた煎り玉子風のモノ。
カラッとジューシーなブリの唐揚げに油淋鶏風のタレが掛け廻されたモノ。
鶏のササミ肉をサッと湯引きした物を1cmほどの厚さに引き切りしてから、醤油・酒・味醂などを混ぜ合わせたタレにチャッと潜らせ、目の細かい卸し金で擦られた山葵(ワサビ)や海苔・ネギ・大葉・ゴマを載せたモノ。
シメジ・エノキ・エリンギ・シイタケなど沢山のキノコを葉山牛と一緒に炒めて、オイスターソース・砂糖・醤油・紹興酒などでシンプルに味付けしたモノ。
松輪のサバは酢でシメる事無くそのまま刺身にされていた。昼に水揚げされた、刺身でもイケるほど超新鮮な生け締めのヤツなので薬味は当然、生姜では無く山葵だ。
味噌汁の具は、三浦の青首大根ならぬ、伝統野菜の三浦大根を千六本に刻んだモノと丁寧に油抜きされた油揚げの細切り、ソコに卵が1つ割り落とされた非常に美味い逸品。
お新香は、もちろん糠漬けだった。(注1)
イトちゃんに出された物とは少し違い、大人用に卸し生姜が添えらえていた。
ま、全てが家庭料理っていうか、京都で言えば『御番菜(おばんざい)』ってヤツだ。
毎日食すモノだから、特別感は不要だ。
それよりも食べて飽きの来ない事の方がもっと重要だ。
厳密に言うと『御番菜』と言う言葉を京都の人はあまり使わないそうだが。雑誌か何かが『御番菜』と使い始めたのが30年くらい前で、この言葉はソコから歴史が始まったそう。
(筆者注:朝日新聞のコラムがその発祥源だそうです。もちろん諸説ありますが)
タップリと喰ってオレは過剰気味に摂取した食べ物と満足感で膨れた腹を撫で回した。
しかし、昼間イトちゃんが食べていたスペシャルなオニギリ、じゃなくて御結び、
アレを喰いたかったなぁ。
仕方無いか、
作って欲しいとリクエストするの忘れてたもんなぁ。
お茶を淹れながら「落ち着いてもっとユックリ食べなさい。子供や犬じゃないんだから。誰も盗りゃしない。早食いは身体に毒だよ。あと、良く噛まないと」と咲耶さんが言った。
ハイ、と言いながらオレはコクンと頷いた。
「昼間来てた女の子、織ちゃんだったっけ?」
「ええ、そうです」
「一心不乱にハグハグ食べてる姿なんか、ソックリじゃないか。やっぱり隠し子かい?」
「違います」とだけ言って『多分』と言う単語は飲み込んで隠した。
「ま、美味しそうに食べる芸当なんてのは、訓練して身に着けられるモンじゃないから、ソレはそれで決して悪い事じゃ無いんだけど、さ」
咲耶さんは何か言いたそうにしていた。
多分、イトちゃんについてだ、と思う。
さっき、料理を口に運ぶ僅かな隙間の時間にシレッと鹿児島行きの件を伝えたからだ。
彼女が言いたい事は何となく推量できる。
だが、こちらからは何も言わず、ただ黙ってお茶を飲み続けた。
狭山よりオレの地元のヤツの方が、断然美味い。
でもコレはコレで良い。
黙り続けていると、咲耶さんはあからさまに方針転換して念頭に鎮座している最優先事項第1番にランク付けされた話題から離脱、全く違うコトを口頭に上した。
「慣らしに出るのかい?」
「はい。今夜中に済ませちゃおうと」オレは言った。
「気を付けるんだよ、今日は晩から風が強くなるみたいだから」
「判りました」
お茶を飲み終わると、オレは両手を合わせて再び「御馳走様でした」と言った。
「イイかい、チャンと無事に帰って来るんだよ」
「はい」
咲耶さんはオレの双眸を見詰めながら、返事を受け取り静かに首肯した。
アイドリングを5分程してエンジンが落ち着いた事を確認してからガレージからR32を出した。自製のテレメトリーシステムが拾ってくる各種のデータをiPadProのモニター上に確認すると、全ての数値は良好のようだ。異常は何も発見されない。
エンジンの音が変わる。
起動のショックから全てが落ち着きを取り戻した証拠だ。
結構な数の人間が『アイドリングは短時間で切り上げるべきだ』と主張する。
マフラーの性能が落ちるし劣化が進むからだ、と言う。
長時間のアイドリングやチョイ乗りなどマフラーが暖まって無い状態での使用では排気ガスが冷却されて結露、水がマフラー口から延々と出る。コレがマフラーの劣化をもたらす。
発生する水蒸気が消音材を濡らして消音効果が減少。排圧による消音材の飛散やカーボンによる目詰まりも劣化を促す。
だからエンジンをかけたら短時間で出発、走りながらのエンジンの暖気をするべきだ、と。
そして短時間走行をなるべく控える。
この心掛けがマフラーの性能維持を可能にする
確かにその理由自体は正しいと思うし、最近の車ではアイドル自体不要に為っているから、ま、正論かも知れない。
ハイブリッドやアイドリングストップ車を思い浮べると良いかも知れない。
エンジンオイルまで一昔前では考えられなかった0w-20とか5w-30なんて低粘度の種類が主流になっていやがる。(注2)
エンジン自体の精度が相当に上がっているから、判らんでも無いけど。
低粘度のオイルの方が始動性が良くなるし。
燃費も向上するし。
だが四半世紀も前のハイブリッドなど影も形も無かった時代の車に当てはめるには無理がある。特にターボ付なら尚更だ。
だからR32に使っているのは15w-60という古い時代の遺物みたいなオイルだ。
ホントは最新の製品だけど。
R32の様なクラッシクカーの範疇に足を踏み入れつつある車で、アイドルを省略して発進しようとしても不可能、疑うならやってみると良い。
エンジンがフガフガしてしまってエンストしまくり状態に陥るのが落ちだ。
それにそんな事をしたら確実にエンジンにダメージを与える事になる。
マフラー大事でエンジンをぶっ壊す顛末なんてまっぴらゴメン。
だから、オレは断固として暖機を実行する。
暖機無しでクルマを発進させるなんて、準備運動無しで400mダッシュする様なモノだ。
そんなのエンジンに良い訳が無い。
結局、何かを得る為には何かを捨てなきゃいけない。
エンジンとマフラーだったら、当然オレはエンジンを取る。
ま、エンジン屋だからな、オレは。
マフラーは所詮消耗品だと割り切らなくてはならない。
エンジンの為の補機だ、と。
大事なモノはどちらなのか、よく考えた末に出した答えだ。
それに取り換え時期がやって来るまでに優秀なマフラー職人がより良い製品を開発してるだろうし。ソレを採用すれば済む話だ。
ん?
マフラーって何って?
マフラーは、別名サイレンサーとも呼ばれる。
エンジンの燃焼ガスをそのまま外部へ排出すると爆音になるので消音しなければいけない。
そのための装置だ。
ま、ホントの所、完全な消音なんて出来ないから、実際は減音だ。
だからSilencer(消音器)ではなくSuppressor(減音器)という事だ。
ギアを1速に入れるとソロソロと発進させた。
エンジンの暖機は済んでいるが、ミッションやドライブシャフト、プロペラシャフトの暖機がまだ完了してないから、発進後にいきなりスロットル(アクセル)ペダルを踏み込む事など厳禁である。最低でも10分は低速・低負荷で走らせなければならない。(注3)
ま、コイツに載せているRB26DETT、オレが組んだエンジンは意図的に下から、つまり低回転域から太いトルクを出す様に調整してあるので、スロットルペダルを少し踏むだけで必要なスピードを提供してくれる。だからその点では、あまり気を使わなくても良い。
ノーマルのRB26DETTでは、こうは行かない。
下でのトルクが全然って言って良い位に、貧弱だからだ。
それを解消する為にサードメーカーから後付けの可変バルタイ機能付きのシステムキットが発売されたりもしてる。
え、バルタイって何だって?
バルタイってのは『バルブタイミング』の略で、シリンダーに吸排気を行うバルブと言う部品の開放閉鎖時期の事だ。この開閉タイミングの取り方次第でエンジンの性格がガラリと変わってしまう、それ位重要なモノだ。可変バルタイというのはエンジンの運動状態に応じてバルブタイミングなどを変えて適正な出力やトルクを得たり、広い回転域で吸排気効率を高める事によって燃費改善を図るシステムである。
だが、この機体には取り付けてはいない。
オレの自製でAIが組み込まれたMCU(Main Control Unit)つまりコンピューターで総てのパラメーター、一切合切を一括集中管理している。
例えばヘッドランプは周囲の状況を自律的に判断して自動で点消灯するし、対向車が来れば相手のドライバーを眩惑させない様に配光を可変制御する。
え?
漢字が多い?
言い換えると、勝手に点いたり消えたりする上に、対向車や先行車に照射ビームを当てて眩しい思いをさせない様に、それと歩行者を暗闇に紛れ込ませて見落としてしまわない様に照明が当たる範囲を自動で調節する機能がR32のヘッドランプに装備されているって事。
どうやって制御してるのかって?
このヘッドランプシステムは、LEDチップを多数配列したアレイ式ADPを採用している。照射範囲を84セグメント化(分割化・区分化)していて、機体の各部(もちろんヘッドランプシステム内にも)に設置された紫外線領域から可視光そして赤外線領域までカバーする光学式イメージセンサー(カメラ)、ミリ波レーダー、LiDARと超音波センサーそれにレーザーセンサー等の各種センサーから送られてくる対向車や先行車そして歩行者の情報をMCUの内部で退屈のあまり欠伸を噛み殺しているオレの可愛い仔猫ちゃん(AIの事)が、チャチャッと統合処理してからヘッドランプの点消灯および遮光範囲(光を遮る場所)を決定、瞬時に実行する。(注4)
エンジンも、ま、似た様な感じで制御されている。
愛しのAIちゃんが、必要な情報を各種センサーで収集してエンジンの状態を判断し最適な運動状態へと導いて行くのだ。
と言っても、このクルマにAIが丸のまま搭載されているという事とはチョット違う。
可愛い仔猫ちゃんが処理するタスクは、割と軽めで手早さが要求される作業だ。
速度を求められないが、重たくて複雑な処理...んーと...深層強化学習つまりいわゆるディープラーニングとかは、別の場所に置いてあるスパコン(サーバー)が担当している。
ディープラーニングが必要とする処理能力は莫大なので、クルマじゃスペースが足りないからだ。その処理用に800テラフロップスのスパコンを何台か別の場所に用意してある。
この仕掛けについて、スマホの翻訳機能を例にとって説明する。
翻訳の様な複雑な処理は君の手許にあるスマホの処理能力では手に余る位に重たい。
だから、インターネット経由でクラウド上にあるハイスペックなコンピューターにデータを送り、ソイツにデータ処理を担当させて出力してきた計算結果だけを送り返して貰う、というプロセスが必要だ。コレをクラウドコンピューティングという。長所は複雑な処理が出来る事で、短所は計算するのに時間が掛かる事。通信速度は光の速度を超えられないからだ。クラウドを形成しているコンピューターは世界中に散在しているからね。
けれども現実世界でクルマが直面するシーンでは、それでは遅過ぎる場合が多い。
だからその時その場で咄嗟の判断が要求されるシーンでは、この機体に搭載された可愛い仔猫ちゃんが瞬時に適切に処理する。反射的で軽くて簡単な処理だから充分可能だ。
コレをエッジコンピューティングという。
エッジコンピューティングと一口に言っても様々だ。
自動運転などのクルマを制御する場合、スマホ一台分の少量の半導体で済む翻訳作業なんかのケースとは違って、トランクルーム全体を占有して仕舞う程の膨大な量の半導体及びその周辺機器が必要になる。だが、このR32に搭載されているAI『可愛い仔猫ちゃん』の大きさは普通のラップトップPCより一回り大きい位だ。性能的にはトランク一杯にギッチギッチに詰め込まれた現在走行試験中の自動運転車に用いられてる半導体の山と同等のスペック。何でそんな急激にコンパクト化されたかというと半導体産業の雄であるNVDIAが開発した超小型(5cm×3)で超低消費電力性能を示す自動運転車用プロセッサーを先行試験運用的に使用させて貰えているからだ。この超先進的なCPUのお蔭でスペースを割く事無く我らが『可愛い仔猫ちゃん』を搭載できたと言う訳。そのコンパクトサイズのお蔭でコンピューター(半導体)の大敵である電磁波と熱への対策もバッチリで、ハニカム構造(蜂の巣みたいに6角形が集合した構造)の電磁波遮蔽シールドと液冷方式の冷却装置の設置を楽々可能にさせてくれた。
同じ言葉を使っていても指し示す内容が違う場合がある。
その典型例がエッジコンピューティングに成るのかも知れない。
それに対してクラウドコンピューティングはというと、もっと重たい、例えば、どういう時にどういう場所で歩行者は横断してしまうモノなのか、とか、対向車がどういう挙動を示すモノなのか、とか、そういう情報を集めて、その蓄積されたデータから学習して特徴的なパターンを見つけ出して行く、そういった感じ。
例えば、この時期、この時間帯、そしてこの場所ではこういう交通状態でこういう事故の危険性がある、みたいなパターンだ。
この様なタスクの場合に緊急性は低いから、処理能力抜群のクラウドさんにお任せする。
現実世界の交通状況から仔猫ちゃんが得た情報をクラウドさんに送り、処理をして貰う。処理して得た学習結果をクラウドさんは仔猫ちゃんに行動パターンとして戻す。
そして送られてきたパターンを基盤にして自分が今現在得ている情報を処理してから、
仔猫ちゃんは実行する。
そんな感じのシステムだ。
自動運転には必須の処理だが、R32の様なヒトが運転するクルマには本来は不要なモノだ。
何でそんなモノが載ってるかは、ま、オイオイ説明する、と思う。
しないかも知れないけど。
県道に出て東へと舳先を向けた。
クルマなので、車先って言った方が正しいのかも知れない。
オレは海沿いの道を走らせるのが好きだ。
潮風を浴びせるのがクルマにとって悪い事なのは充分承知しているが、オレの好みなのだ。
窓は開けないし空調は常に内気循環が基本原則だから海の香りを感じたい訳では無い。
エアコンを付けっ放しにしているからだ。
この事はあまり知られていないが、エアコンは季節を問わず、常時使用するのがお勧めだ。
理由は幾つかある。
1つは、エアコンはオイルを配管内の各部に循環させながら働いている。使用しないと潤滑の為に必要なオイルが回って行かない。そしてオイル切れを起こしてカラっカラっに乾いてしまった箇所から次々に壊れて行くのだ。
2つ目は、内気循環にするとウィンドウが内側から曇り易くなるので、ソレを防ぐ為にエアコンを使用する。
え?
何で外気導入にしないで内気循環するのかって?
外気導入にすると外から異物、ゴミやホコリ、小さな虫やら落ち葉なんかがエアコンのコンプレッサー部分に吸引されてしまい、延いてはソレが故障の原因となるからだ。
例としてはドレーンホース(排水ホース)の詰まりが上げられる。
異物が腐って凄くクサい臭いがキャビン内に充満したり、最悪の場合、排出されるべき水がドンドン溜まって行ってしまい限界点を超えると車内に漏水してくる事がある。
3つ目は、エアコンに限らず機械というモノはONにした時に一番大きな負荷が掛かるという事実だ。何でも、と言う訳では無いが、機器は出来得る限り付けっ放しにした方が故障は確実に少なくなる。
R32は古いクルマだから、エアコンシステムも旧く使用している冷却媒体も既に製造廃止となったフロンR12だし、エアコン自体にトラブルを抱えている個体も多い。
オレのは、最新式のフロンR134aエアコンキットに総取り換えしてある。ニッサン純正部品では無いが、その性能の高さと信頼性から現在では日産ディーラーでも取り扱っているという由緒正しき社外品だ。
えーと、何の話だったっけ?
そうそう。
海沿いの道を走らせる理由だったね。
別に深い意味が有る訳でも無い。
ただ単に『好き』というだけの話だ。
何で好きなのか。
何でだろう?
理由はハッキリしないが、多分、その一つはオレが生まれた家が海岸から1kmほどしか離れていない土地に建っていたからだ、と思う。
海はオレにとって身近な存在で、あって当然の場所だったからだ。
横横(横浜横須賀道路)に乗る時は何時も県道を西へと進路を取って国道134号に出る。そこから北上を続けて葉山の御用邸の前の二叉(Yの字)を右に曲がりダラダラと続く坂道を登ってドンと突き当りの丁字をこれまた右折、県道311を東に直進すると何時の間にか逗葉新道に入って数分後、すぐに出口がやって来るので降りるとソコに逗子IC(インターチェンジ)が隣接しており、ソコから横横へ流入、という少し遠回りの道程を採る。
何でかって言うと御用邸前までの沿岸沿いを走る道が、コレがまた良いのだ。
道のアップダウンや曲がり具合がとても楽しいし、
溺れ谷や海食崖、磯浜や海面下の岩礁、ガレ場に砂浜と、入れ替わり立ち替わりに現れる非常に変化に富んだ地形が眼を喜ばせてくれる。
そして、穏やかな相模湾はとても優しい。
だが、今夜は咲耶さんが言う通りに、風が強い。
ここ三浦半島は1年を通じて穏やかな気候で、台風も滅多に上陸しないし地震も起こらない。ま、後者に関しては断層帯がバッチリ走っているから無縁と言う訳にはいかないが。
この断層帯は地下深くに身を隠して静かにしている様に見えるが、所々で露頭が地表面に姿を現しているから、永久にジッと潜伏していてくれる訳では無い事は自明だ。
良い例が、鎌倉の大仏さんだ。
奈良とは違って、こちらの大仏さんは野ざらし。
何でかっていうと、津波で家が流されちゃったから。
ま、最近じゃ『大仏殿が津波で流されちゃったのはデマだ』なんて資料も散見される。
それらの歴史資料によっても建立当初に大仏殿が建設されてたのは確実な事らしく、ただ大仏殿の倒壊の原因は津波ではなく地震なのだそうだ。
何だ、結局の所はどっちにしろ、地震じゃないか。オレみたいな歴史学の素人にとって、大仏殿が打っ壊れた原因が津波であろうと、地震であろうと、どちらであってもそんなに違いはない。海底崩落>海底地滑りが原因の津波なんて地震に比べりゃ確率は低いはずだ。
まぁ、何だ。地震は何時来るのか解らないのだから、必要以上の心配をしても無駄だ。
ただ、実際起こった時に対応できる様に、対策を用意して置けば良い。(注5)
昔、杞という国の人が、天が崩れ落ちて来ないか、と心配して夜も眠れなかったそうだ。
オレは、毎晩よく眠れる。
ここは穏当で人間が暮らして行くのに適した土地だしね。
そんな静かな土地でも何年かに一遍の割合で、とんでもない強風が吹き荒れる事がある。
大体、冬場の夜だ。
その時には、高波が洗礼と為ってアスファルトの路面に叩きつけられる。ソレを浴びない様に走るのも、スリル満点で少しワクワクするとは思うのだが、やらない。
あんなシーンの中はJA11ででも走らせたくは、無い。
ジムニーなら、多分シレッとした顔で乗り切るだろうし、全然大丈夫だとは思うけど。
ま、そんな日は家でジッとしているのに限る。
『人間の不幸は総て、部屋でジッとしていられない事から来る』とジイちゃんは言った。
ま、オレの場合、家にジッと居過ぎたんだけども。(注6)
今日は、それ程の強風が吹き荒れそうな予兆は、無い。
だが、とにかく風が強い日は海岸沿いを走る道は避けた方が得策なのは確かだ。
だから何時もとは逆、昼間イトちゃんと走った様に県道を東に向かって衣笠ICから横横に乗る事にした。
今日1日で500kmほどの慣らし走行を終了させなくてはならない。
明日と明後日の2日間を全て調律作業に費やしたいからだ。
ま、本格的なチューニングは無理だから、余裕を持たせた軽いヤツに為るが、それでも時間は有れば有るほど助かる訳で、慣らしは今日中に何とかした方が良いって事は明白だ。
下道で500kmって言うのは絶対無理だから無論高速道路を使う。
高速なら手近な所では『首都高』がある。
横横から首都高へと流入するには、釜利谷JCT(ジャンクション。分岐点の事)で並木IC方面を選び、幸浦から首都高速B湾岸線に乗れば良い。本牧JCTから大黒JCT方面に進み横浜ベイブリッジを渡ってそのまま北東に進み続け、有明JCTで首都高速11号台場線に乗換え、レインボーブリッジを渡って本州に上陸したら芝浦JCTで首都高速1号羽田線に移る。そこからは自由に路線を選択すれば良い。
首都高にニュルブルクリンク・ノルドシュライフェを発見した奴がいる。
何だか解らない単語が出て来たって?
ニュルブルクリンク(Nurbrugring)ってのはサーキットの名称だ。
ドイツの西部に位置するフランクフルト(Frankfurt)から北西へ約80km進んだ所にコブレンツ(Koblenz)という街がある。モーゼル川とライン川の合流地点なので古くからヨーロッパ水上交通の要衝として栄えてきた。その街から西へ約60km、そこのEifel丘陵にニュルブルクリンク・サーキットは位置している。古いコースと新しいコースがあり、古い方はドイツ語でNordschleife(ノルドシュライフェ)と呼ばれる。意味は『北コース』である。建造されたのが1927年で、1976年までココでF1GPが開催されていた。現在F1は新しい方のGPコースで時々開催される。(ホッケンハイム・サーキットと交代開催的な感じ)
ノルドシュライフェ(通称オールドコース)の全長は20.832km。
コースには公道の部分も含まれている。
貸し切りの日以外は一般に開放されているので旅行者でも走行可能だ。
ノルドシュライフェの通行料は25ユーロ、プラス保険料やタックス等。
だが生半可な運転技術と安易な気持ちで挑むのは、危険だ。
何故ならこのノルドシュライフェの別名は『緑の地獄(Green Hell)』だからだ。
その恐ろしさを思い付くままに書き留めると、高低差300m(60階建てのビルに相当する高さ。だから丘というよりも山地に造られた山岳コースと言った方が正確かも知れない。故に走行中に耳がキーンと為る人もいるとか)、人工的に造成されたサーキットじゃなくて、自然の地形に沿って造られているのでコースの構成が超複雑で上り下りも激しい。170以上のコーナーがあり、その中でも200km/hの下り坂をブレーキングしながらブラインド・コーナー(道の先行きを目視できないコーナー。深い森林が視界を塞ぐので。だから『緑の地獄』と呼ばれる)なんて腐る程ある。クルマがピョンとジャンプする、いわゆるジャンピングスポットも多数存在している。スロットル全開のストレート区間は1分以上も続くし、当然その時スピードは300km/hを優に超える。
それに加えて恐ろしいのが、路面の状況だ。
ひとつとして同じ状態の場所が無い。
女心や秋空の様にクルクルと変化する。
古い石畳の上に直接アスファルト舗装を施してあるからスケートリンクの様にツルツルと滑り易い。その上、補修状態が最悪でまるで下手糞なパッチワークの様にツギハギだらけなので、その縫い目の様な接合部分がクルマから接地感を奪い余計に滑り易くしてしまう。
ニッサンがBNR32を持ち込んで初めて走行した時には1周ラップする事も出来ず、旋回時の激烈な横Gに機体が耐え切れなくて破損、わずか半周でストップして仕舞ったほどだ。
そんな世界一過酷と言われるコースで一般生産車は1周8分を切る事は不可能だとされてきた。
1989年、発売直後のBNR32が8分20秒11の記録をマークする。
1992年、ホンダNSXタイプRが8分3秒。
そして1995年、BCNR33(R33GT-R)が8分の壁を破る7分59秒の記録を出した。
現在トップの記録を保持しているのはポルシェ911GT2 RSで6分47秒3だ。
(2017年9月20日現在)
GT-Rはというと、現行のR35 Nismoの記録は7分8秒679で、第5位である。
ま、大体GT-Rの記録は2013年にマークしたモノだし、クルマ自体のお値段が結構違うので、直接比較するのはかなり無理があるんだけれど。
そんな具合に超過酷なサーキットなので素人さんは『世界最速のタクシー』の異名を轟かせるBMWリンク・タクシー(BMW-Ring-Taxi)をチャーターする事を強く推奨する。
ただ利用できる期間は4月から10月まで。
加えてチケットは発売後に瞬速でソールドアウトするのでご注意を。
(筆者注:異なる文献によると『Green Hell』と呼ばれるのは、北コース(Nordschleife:ノルドシュライフェ:20.832Km)とGPコース(4.542Km)の両方を統合したコースの事だ、とある。世界的に有名な耐久レースのニュルブルクリンク24時間は、この総合コースで開催される。総合コースの全長は25.374Km。本当、長ぇなぁ。)
アレッ?
それで、何の話をしてたんだっけ?
あ、そうそう。
首都高ニュルの話だったね。
首都高も知っての通り、超複雑なコース(?)設定だ。
前の東京オリンピックに間に合わせる為に突貫工事で造られたので、合流・分岐の設定が複雑怪奇で滅茶苦茶、人間工学というモノが全然考慮されていない。
地方から上京した人間にとってはラビリンス(迷宮)かダンジョンである。
それに建造から50年以上が経過しているので老朽化が激しく路面状況も悪いを通り越して最悪レベル。
と、コレだけ見てもニュルにソックリ。
<見つけた奴は確か、東京ニュルって呼んでなかったか?>
良いんだよ、首都高ニュルで。
東京っつーより、首都高ニュルの方が、何かこう、カッコいいじゃないか、響きがさ。
<まぁ、どちらでも良いがね>
それで、何だっけ?
あぁ、首都高ね。
この首都高をポンポンと繋いで行くと、ノルドシュライフェに似た全長約20kmのコースが完成する。
その構成内容はこうだ。
芝浦JCTを起点とすると首都高速1号羽田線を北東に進み浜崎橋JCTでC1都心環状線の外回り(麻布・六本木方面)へ流入、そのままグルリと周って江戸橋JCTで9号深川線に移り、辰巳JCTでB湾岸線に入る。南下を続けて有明JCTから11号台場線に入り、レインボーブリッジを渡って芝浦JCTに戻る。
コレをグルグルと何周も周回を続ける。
一周が約20kmだから25周すれば大体500kmの走行距離だ。
近いし安上がりだし、お気軽に利用できる。
が、今日はパス。
理由は一つ。
このR32、どうやら相当に目立つ存在らしい。
赤城さんが相当に頑張って仕上げてくれたおかげで、妙に他人の眼を引いてしまう。
あの根っからのポルシェ党の箭内さんが色気を見せたくらいだ。
首都高に巣食う『首都高ランナー』に眼を付けられるのは、火を見るよりも明らかだ。
『?』って思われる前に言っとくが、
首都高ランナーって呼ばれている連中がいる。
チューンしたクルマを駆って首都高を縦横無尽に走り回ってる人々だ。
もちろんスピード制限なんて、遵守しない。
湾岸線の羽田と大井の間、超高速エリアでは300km/h以上のスピードで走る。
東京湾トンネル出口付近のコーナーは240km/h以上で曲がって行く。
そんな愉快な連中だ。
<お前も、昔はよく走ってただろ? 大学のマツケンで作り上げたR32で>
昔の事は、よく覚えていない。
正確を期すと、首都高ランナーは問題では無い。
接すると彼等は意外と礼儀正しい人々で、首都高を走るプロだからだ。
プロにはプロの世界が在り、その世界にはチャンと厳然たる暗黙のルールが存在している。
それさえ守れば、何も危険な事には為らない。
<イヤ、全然危険だから>
厄介なヤツ等は、首都高ランナー『かぶれ』だ。
首都高ランナーにかぶれて恰好だけ気取っているヤツ等が、始末に負えない。
ルールを無視して突っかかって来る。
こちらの状況など全く考慮する事無く、配慮無しでバトルする事だけを念頭に傍若無人に活動しているから、危険この上ない。
当然、周囲の一般車や路面状況、交通状態も考えていない。
というか、何も考えてないのかも知れない。
そんなヤツ等と遭遇するのは回避したかったので、通行料がお高めでウルサイ連中がいない東名高速を利用する事にした。
浜松辺りでグルッと引き返して来れば大体500kmくらいだ。
でも、この風、ネット情報によると静岡県側でも大分強めに吹く予定らしい。
由比の近辺では駿河湾のすぐ傍を通るし、浜名湖なんか海の上を通過する。(注7)
だから潮風を避ける為に比較的山沿いを進む新東名高速を行く事にした。
調べてみると浜松いなさICという所でUターンすれば距離的には丁度良い事が判った。
だが、残念な事にそのインターの周囲にはガソリンスタンドが存在していない様だ。
だから、足を延ばして東名の三ヶ日ICまで行かないとダメだ。
三ヶ日にはIC出入り口すぐ傍にENEOSが在るみたいだし、運悪くソコが休業でも県道を
南下して都筑という場所まで行けばガソリンスタンドが1つあると、モニターが表示している。ソコも駄目なら国道362を西に向かって走り三ヶ日駅まで行けばGSの表示が出ている。全部ダメなら、新東名に戻って帰り際に浜松SAスマートIC(サービスエリアとETC専用のICが併設されている施設)に寄れば良い。上下線ともENEOSがあるし、ミニストップもあるから美味しいコーヒーも飲める。ま、ガソリンの料金はちと高いが。
と言う訳で、オレは横横を北上してそのまま保土ヶ谷BP(バイパス)に入って、東名高速横浜町田ICから浜松方面に向かう事にした。
注1:三浦市の秋冬大根(10月~3月)収穫量は全国第1位。
生産されている99%は青首大根で、地元の伝統野菜である三浦大根の生産量は極僅か。理由は三浦大根が大き過ぎて小さい家庭では使いきれない事から廃れて行ってしまった。あと、下膨れに胴体が膨らんでいるので収穫する時に畑から抜きづらい事や、育成期間が青首に比較して1.5倍掛かる事なども栽培が敬遠される理由。ただ、味は良い。肉質が緻密で非常にジューシー、噛めば噛むほど瑞々しさを感じる。甘く梨に近いシャリシャリとした食感。三崎港で上がったマグロのカスを肥料として使っている。
注2:エンジンオイルの15w-60の様な表記について。
15w-60を例に挙げると、前者の15wは低温時の性能を表しており、数字が小さければ小さい程、低温時に柔らかい、寒さに強い、エンジンの始動性が良い、エンジンの燃焼効率が良くなり燃費が向上する等の特徴を持つ。低粘度で冬季向きのオイル。
後者の60という数字は高温時の性能を示し、大きければ大きい程高温時に、硬く、熱に強く、高速走行やスポーツ走行に適していて、耐摩耗性に優れ、エンジン音が静かになる等の特徴を持つ。高粘度で夏季向けのオイル。
注3:ミッションとは、
トランスミッションの略で変速機の事。手動式(マニュアル式)と自動式(オートマティック式)がある。ギアを数個ほど組み合せてあり、その組合せ方を変化させる事でエンジンから出力された駆動力の回転数(速度)を小さくし、回転トルク(力)を増幅してからタイヤ側へと伝達する。何でこんな面倒臭い事をするのかというと、内燃機関(ガソリンエンジンやディーゼルエンジンなど)は低回転の時には大きなトルクを出せないので、仕方無くギアを使って実用レベルまでトルクを増幅するのだ。コレに対して電気モーターは停止状態からでも最大トルクを出せる。故にEV(電動車)はスタートダッシュが速く、高速の合流などでは超楽チンでストレスフリーである。この事から所有するクルマを一旦EVに変えてしまうと、もう2度とエンジン車には戻れないと多くの人々が言っている。
BNR32はマニュアル式5速。
プロペラシャフトとは、FR車においてトランスミッションとディファレンシャルギアを結び、動力を伝える推進軸。通称ペラ。
ディファレンシャルギアとは、コーナリング時にクルマの旋回軸に対して外側のタイヤを速く、内側のタイヤを遅く回転させてタイヤにかかる負荷を減らす差動装置。略称デフ。コレが無いと上手く旋回できない。
ドライブシャフトとは、最終減速装置からタイヤへと駆動力を伝達する駆動軸の事。略称は無いと思う、聞いた事無いし。
余計かも知れないが、一応エンジンからタイヤまで駆動力が伝達されていくプロセスを簡略にまとめると、エンジン>トランスミッション>メインシャフト>トランスファー(これは4WDのみ必要な装置。駆動力を前輪と後輪に分配する。R32は4WDなので当然搭載されている)>プロペラシャフト>ファイナルギア(最終減速装置:デフはこの中に組込まれている)>ドライブシャフト>タイヤとなる。
注4:アレイ式ADBについて。
アレイ(Array)とは配列の事でADBはAdaptive Driving Beamの略。ADBの直訳は『順応性のあるヘッドランプの照射ビーム』で意訳すると『対向車や先行車を照射して眼を眩ませない様に、そして歩行者の存在を把握できる様に光のビームを照射する範囲を変化させるヘッドランプ』である。アレイが意味する事は、照射範囲を変化させる為に多数のLEDチップを並べて設置してあるシステムであるという事。ケンゴのR32に装備されたヘッドランプの基板には84個のLEDチップが横並びで一列28個、それが上下に3段重ねられている。
光学式可視光カメラとは、可視光つまり人間の眼で認識できる電磁波(光の別称)を感知するカメラの事。このR32に装備された光学式カメラは赤外線領域と紫外線領域の電磁波も感知できる。
ミリ波レーダーとは、ミリ波という波長の電磁波を利用したレーダーの事。レーダーは対象物に電磁波を照射して反射されて戻って来るまでの経過時間や戻って来た時の電磁波の変化などから相手の詳細な情報(進行方向や距離など)を得るシステム。
LiDARとはレーダーの一種で、通常のレーダーはマイクロ波という電磁波を利用しているが、LiDARは代わりにパルスレーザーを使用する。
注5:三浦半島断層群が東西に走っている。武の付近では衣笠・北武断層帯と武山断層帯。
注6:本当はパスカルの言葉。
注7:浜名湖は汽水湖。海の塩水と湖の淡水が混じり合っている。面積は約65平米km。
河川法では川、漁業法では海に分類されている。室町時代に地震と津波により海と湖を隔てていた土地が陥没して淡水湖に海水が浸入、汽水化した。この海との連繋部を現在では今切れ口と呼んでいる。
私とケンゴ vol.4