私とケンゴ vol.3
注9:パワフルとトルクフルについて。
パワフルはパワーつまり出力(馬力)の事でトルクフルはトルクの事。
まずトルクだが、回転運動で捻じりモーメントの事。角運動量。単位はNm。軸の周りに回転運動を起こさせる能率を表す量だが、説明する為には大学レベルの物理の知識が無いと難しいので、割愛する。車に関して言うと、エンジンが生成するトルクの事で、この数値が大きいと加速性能が良い。コレだけで充分である。
次にパワーつまり出力(馬力)だが、並進運動で仕事率の事。一定時間にどれだけの仕事が出来るかを意味する。仕事(J・ジュール)を経過時間(s・秒)で割った数値。正式な単位はW(車の場合はWも使用するが、慣例として馬力を用いる。1馬力を1PSと表記する。1PS=735.4W)ザックリと言うと、この数値が大きいと最高速度の伸びが良い。つまりスピードが出る。
トルクは瞬間的な力で、出力(馬力)は継続的な力とも言える。トルク(瞬間的な力)を持続する事で、どの程度の仕事が出来るか、一定時間内にどれ位重い荷物をどれ程遠くまで運ぶ事が可能かを表す数値が出力(馬力)だと言う事ができる。
ま、トルクは加速性能、出力(馬力)は最高速度に関係すると認識すれば充分。
なにせ一般向け専門書も間違えている位に十分ややこしいので。
ママが、織、アレだよってゆって あるきだした
なんかシカクいタテモノのまえに
アオいクルマが とまってる
うわぁ、スゴイきれい
とてもキレイなクルマだ
ね、スゴいね、みてみな、織
カオがうつってるよって ママがゆった
ホントだ
カオが、クルマにうつってる
カガミみたい
なんか、すいこまれそうなカンジでヤバい
こんなきれいなアオって みたことない
ジィっと みつづけてたら
ママとパパかもしれないヒトは2人で
なんかワカラナイはなしをしてる
いきなりママが、
ワタシのショジョ、うばったくせにって ゆったら
パパかもしれないヒトが、まえよりもよけいにアワアワしだした
チラチラとワタシの方をみながら
なんか、よくわからないコトを ちいさなおおごえで ゆってた
ママはパパ(?)のゆうコトをスルッとかわして
うらめしい
みたいなカンジで なにかをゆってる
あーあ、パパ(?)がママに からかわれてる
ママが、ほかのヒトを からかうときは イツもこうする
パパ(?)かわいそう
そんなに あせらないでイイのに
でも、ショジョって なんだろ?
しらないコトバだ
なんか だいじなモノかな
ママのだいじなモノをパパ(?)が とっちゃったのかな
なんか チョットわかんないや
しばらくしたら ママがわらいながら ちがうよ みたいなことをゆって
そしたらパパ(?)もあんしんしたみたい
ホラね
やっぱり、からかってただけ だったジャン、パパ(?)
でもママ ホントにうれしそう
やっぱり、このヒトがすきなんだ
なら、このヒトとケッコンすればいいのに
3ばんめのオトコじゃなくて
このヒトと イッショにいればイイのに
そんなコトを かんがえてたら
パパかもしれないヒトが しゃがんで
ワタシのカオとおなじたかさに なった
パパ(?)がゆった
とっても やさしいこえだった
ホントのパパとも チョットちがう
ちょっとミミが くすぐったいカンジがする
やわらかくてキモチいいカンジの ヒクめのこえ
オジサンはね、ケンゴってゆうんだ
よろしく、ね
イトちゃんのママがゆうんだ、オジサンに
イトちゃんをカゴシマのおジイサマとおバアサマのトコロへ つれていってほしいって
でも、イトちゃんは のりものにヨワイ...ヨッたりするんだろ?
だから、オジサンのウンテンするクルマにのっても
ダイジョウブなのか、たしかめたいんだ...んーと、ヘイキなのか、しりたいんだ
ワカルかな?
ウンって ワタシは コクンとした
じゃ、クルマに のってみるかい?
ドキッとした
パパかもしれないヒトの目とワタシの目がピトッて あって
チョーびっくりした
なんかムネがドキドキする
でも、やさしそうな目が ワラってる
ううん、ホントは目はワラわないけど
なんてゆえばイイのかな、でも、たしかにワラってるんだモン
そうだ、瞳だ
目のまんなかのチャイロのまるいトコ、瞳
瞳が わらってるんだって おもった
ソコは瞳っていうんだよって レイがおしえてくれた
瞳ってカンジをかくんだよ、
目と立と里っていうジが くみあわさってデキてるんだよって
レイが、おしえてくれた
目は カオについてる目のこと
立は 立ちあがるの タツこと
里は ちっちゃなマチのこと
ってゼンブ レイがおしえてくれた
カンジって、カクカクしててシカク スゴイおもしろいカタチしている
ワタシは あんまりカンジをしらない
ウチにはあんまりホンがないから
ワタシのよめるホンがないから
ジは ひらがなとカタカナしか わからない
ワタシの名前の 緒方織と 瞳と あとチョットしかシラナイ
ひらがなとカタカナだって ウチにあるエホンで おぼえた
はらぺこイモむし ジョー
と
クルクルこねこ
この2つで おぼえた
ママのかってくるホンにはジが あんまりノッてない
なんか、ふくとかバッグとかサンダルとかが ノッてるだけ
あと そーゆーのが いくらとか、ネダンしか ノッてないから、やくたたず
よんでも ゼンゼンおもしろくない
もっと チャンとしたホンを かえばイイのに
って いつもおもう
そんなコトかんがえてたら
パパ(?)がクルマのドアをあけて
さ、じぶんでノレるかい? ってゆった
ウンって、して
イスにすわった
うすいチャイロのイス
でも なんかキレイ
レイがはいてたクツとおなじ いいニオイがする
でも なんかイスが テパテパする
イスがテパテパして アシがくっつくカンジがして ヘンなきもち
きもちワルくはないけど、なんかコチョコチョされてるカンジ
ダイジョウブかな?
ヨワないかな?
ヨッたりしたら
ツナマヨとか モドシたりしたら
このクルマ、よごしたりしたら
パパ(?)おこるんじゃないかな?
シンパイしてたらパパ(?)がゆった
シートベルトを しめられるかい?
ウンって、コクンして シューッとベルトをひきだした
なにコレっ!
チョーきもちイイ!
スゴイきもちイイ!
こんなキモチいいシートベルト、私はじめて
このクルマ、ちがう
ママのクルマと なにがちがうか わかんないけど
ゼンゼン、ちがう
『ハジメまして』
ダレかの こえがした
したから まわりをグルッとみてみた
いっしゅん レイかなって おもったけど
ううん、レイじゃない
もっと おとなのオンナのヒト
そしたら また こえがする
『コレから、ヨロシクね』
ダレだろう?
レイのつぎのヒトかな?
だとしたらウレシイ
だけど チガウようなキがするのは、なんでだろう?
まさか、このクルマがシャべったワケじゃないよね
テディさんとおんなじ、だもんね
『ウフフッ』
また、きこえた
オバケかな?
いっしゅん、どうしよー? っておもったけど
だまってるコトにした
ゆったら
たぶんママは イヤなかおをするし
パパ(?)は フシギそうなかおになると おもったから
だから、
だまっていた
「結衣、事務所に行ってコーヒーでも飲んでれば良いよ。たぶん1時間くらい掛かるぞ」
「いい、クルマのトコに戻ってる」と結衣が言った。
「クルマ、ドコに置いてあるんだ?」オレが尋ねたら、
「セブン」と結衣が答えた。
アソコに停めといたら他のヒトの邪魔に成るから、コッチに持って来いよ、オレが言うと、
イイよ、セブンでウロウロしてるから、私、嫌われてるモン、と結衣が俯きながら小声で言った。
「誰に?」
「咲耶さん」
思い出した。コイツ、意外と敏感なんだった。
誰が自分を嫌いなのか、鋭敏に感じ取るんだよな、昔から。
相対する人物が、敵か味方か一瞬で見抜くからな。
特別な能力でも身に備えているんかな?
「そうか、ホントにイイのか?」
「うん」
「じゃ、戻ったら電話入れるから」
判った、と結衣が頷いた。
番号は変えてないんだよな? と尋ねると、
「メアドも変えてないでしょ」と答えて「今時Lineじゃないなんて、前時代的だよね」と結衣は、口の端を奇妙な形に歪めながら、言った。冷笑とも形容出来る表情だった。
「オレ、キライなんだ。SNS」
「ホントに頑固だよね。何だっけ、TVAだったっけ?」
「違う。NSAだ」
「ソレって何の略?」
「No Such Agency...、そんな機関は存在しない」
「何ソレ?」
「とにかく個人情報をネット上にダダ漏れさせるのは危険だって話だ、ソレも自ら進んで」
「エーッ? だって便利じゃん!」
「目先の便利さに眩惑されて自分の安全保障を自分で脅かすのは、アホだって事」
「そんなの陰謀説だよ、単なる」結衣が言った。(注1)
「そういうのを、お気楽な楽観主義者の希望的観測って言うんだよ」
「また、難しい漢字で煙に巻こうとする。そゆトコ、キライ」
「昔の一時期だとしても、そういう男が好きだった時代もあったろ?」
「昔、じゃないモン」横を向きながら結衣が、そう答えたので、オレはドキッとした。
「えーと、コレだとチャイルドシートは要らないよな」と呟きながら、助手席にチョコンと座っているイトちゃんの方に向きを変えながら、狼狽を誤魔化そうと試みる。
背中越しに結衣の言葉が飛んで来る。
「ね、聞いてる、研吾? 昔じゃないよ、昔じゃないんだよ」
『今、別の彼氏いるんだろ?』という想いが皮質の上に浮かび上がる。
「結衣。今、その話は無しだ。いいな?」振り返りながら、オレは言った。
ウッと気圧された様に一瞬、縮こまった結衣が不承不承頷いて、押し黙った。
ママがコンビニにイったのを みおくってから
パパかもしれないヒトは ウンテンセキにのりこんできた
またせてゴメンねって ゆってから
テにもっていたナニかを ハンドルがついてるネモトのトコにさした
なんだろ? っておもったから みてみると
イエのカギにソックリなヤツだった
ワタシがのぞいたコトにパパ(?)が、きづいて
ああ、コレか
そうか、イマは こんなのツカわないモンな ってゆった
コレはね、クルマのカギだよ
このクルマは、しはんせいき...ウーンと、20ねんくらいまえのクルマだから
こういうカギが ひつようなんだよ、エンジンかけたりするのに
それとか ドアをあけたりするのに、さ
そう、パパ(?)はゆって カギをまわしてエンジンをかけた
キュルルッってゆったあと
ボワッ、ボボボボボッボオボォォォォ...って
エンジンは、さいしょはチョットだけウナったけど
すぐにシズカになって シューンって おちついた音になった
でもパパ(?)はクルマをハッシンさせない
なんかイロイロなトコをみてる
なにしてるんだろ? って おもってると
また、パパ(?)はワタシにきづいて
こうやってかくにん...そうだな、いろいろチェック...
うーん、と...うんてんしても ダイジョウブなのか みているんだ
すいおん、ゆおん、ねんあつ、ゆあつ、でんあつ、はいきおん、オールグリーン
って パパ(?)がゆった
なんのコトだろ?
じゅもん、みたいなものかな?
じゃ、だすよ イイ?
ってパパ(?)がゆった
ワタシがコクンってすると
パパ(?)はワタシとのあいだに立ってるボウを ひだりてでスコスコしてから
じゃ、いくね ってゆってから クルマをはっしんさせた
スゴい
ぜんぜんグラグラとかユサユサとか しない
なんかコオリが テーブルのうえを ツーってスベってゆくみたい
パパ(?)は べつにナンでもないカンジで シカクいタテモノのまえから
おおきいドウロにクルマをだした
パパ(?)が また、まんなかに立ってるボウを シュコシュコした
シュイーンってかんじで クルマがスピードをあげる
そしたら
ホァアァァアァー
って音が
せなかの方から とびこんでくるようになった
でもイヤなカンジは ゼンゼンしない
ウルサクないし、キライじゃない
けっこうスキなタイプ
それにパパ(?)、うんてん、じょうず
パパ(?)のうんてんを音にすると
シューン、スワッ、スィーィ、シュー、パッ、スゥイーン ってカンジで
とってもキモチいい
パパ(?)のにくらべると ママのやつは
グワッ、ギュイーンッ、ギャギャギャギャッ、ギャルルッ、ドカッ!、ギャーン、バキッ!
さいごの音は、ドアミラーをデンシンバシラに ぶつけたときの音
キノウのまえの日に、2人でスーパーにいったとき
ひだりのドアミラーを、おもいっきりぶつけた
しかも イキとカエリで 1かいずつ
だから、2かいもぶつけた
だから、ドカッ! とバキッ!
そんなのに くらべれば パパ(?)うんてんは すごくテンゴクだ
たぶん トラベロップQQはいらない
ママが パパ(?)はうんてんがウマいって ゆってたけど ホントだ
ホントにチョーじょうず
それに このクルマ とってもいいカンジ
ワタシ、このクルマ、すき
『ドウいたしまして』
また、へんなコエが きこえてきた
でも、ま、いっか
マドから おソトを のぞいてみた
いろんなおウチがビュンビュン、うしろにとんでゆく
ママのときと オナジなんだ とおもうんだけど
でも、いつもとちがうカンジがした
ねぇ、テディさん
いいカンジだよね
ワタシのヒザのうえで テディさんは ダマって すわっている
あいかわらず ムクチだ
ヌイグルミだからだ
イキてないから、だ
だからコエが きこえたのは
やっぱり キのせいかも しれない
と、おもった
「この娘、保育園とかはどうするんだ?」セブンの駐車場に置いてある黒いワゴンRの横に立っている結衣にイトちゃんを引き渡しながら、疑問に思ったのでオレは訊いてみた。
「ダイジョブ、通わせてないから」結衣がガリガリ君をかじりながら、答えた。
「え? 幼稚園もか?」
そう、ソレが何か? というカンジで結衣がコチラを見ながらコクンと頷いた。
オレの皮質上には、
『小学校に入学する6歳の時点で既に認知的到達度(つまり学業成績の事)の違いには有意の格差が生じているから、0~5歳の幼児期間中の教育投資は非常に重要である』とか
『11歳までに認知的スキルの基盤は固定されてしまうので、就学前教育への投資は必須』
とかの文章がチラホラと漢字変換されたが、本当に言語化しちゃうと大変な事に成るのは確実なので、黙諾せざるを得なかった。
しかし、背格好は大きいとはいえ、まだ5歳の女の子を独りで家に残してキャバクラ勤めって、して良い事なんだろうかって疑問に思う。
『母である事は私をより良い働き手にする。また働いている事が私をより良き母にする』
そういう誰かの言葉をオレは思い出した。
アレッ?
じゃ、ダンナさんの実家を出てからこっち、この娘はズッと夜独りで家にいたって事か?
それは、マズい。
相当にマズい。
じゃ、鹿児島に連れてく方がマシってか、全然良いじゃないか。
夜に独りで居なくても済むし、結衣の御両親に頼んで保育園、じゃないか、近くに鹿児島大附属の幼稚園が在るって言ってたな、ソコに通わせて貰えればまだ間に合う筈だ。
子供の人格形成において非共有環境(家庭以外の環境つまり学校のクラスメイト、校外のスポーツクラブや学童保育の仲間達などとの間に起こる相互作用の事)が決定的に重要な事をオレは思い出した。
パパ(仮)として、何かが心の中に産生された事を、今ハッキリと自覚する。
「で、何時にする?」とオレは訊いた。
「連れてってくれるんだ?」結衣が質問に質問で答えた。
「ああ、仕方無い」パパ候補だもんな、とオレは言った。
ニコッと笑って喰いさしのガリガリ君をオレに手渡すと、
「3日後で、どう?」と結衣が訊いて来た。
綺麗な歯形がクッキリした痕として残ったガリガリ君の遺骸を持て余して、
こんなモノを手渡されても困るんだけどな、と思いながらも、オレは「OKだ」と答えた。
周囲に存在するクルマを無意識の内にチェックするのは整備工の習性なのだろうか、結衣の横に駐車してあるワゴンRを注意深く観察している自分に気付いた。
ボディが傷だらけで、可哀想過ぎる外観をしている。
『助けて』という悲鳴が聞こえる様だ。
「コレ、結衣のか?」ワゴンRを指差しながらオレは言った。
コクンと結衣が頷いた。
「工場に持って来いよ。診るから」簡単な板金だって出来るし、とオレは言った。
「それ、イイ」
こういう時に、特に今みたいな時に、日本語の曖昧さは非常に厄介だ。
だから、イイってドッチだ? とオレは尋ねた。
要らない、と結衣は答えた。
『何で?』とか『別に、遠慮するなよ』とかは、言わなかった。
必要なら、言うだろうと思ったからだ。
2人の間に横たわる時空間に、沈黙という真空が到来した。
自然は真空を嫌う。
以前の2人が付き合っていた時代は、その真空が心地良く感じられる事が多かった。
何も喋らなくても、言葉で空間を埋めなくても、2人でいるだけで、それだけで良かった。
今は違う。
2人とも時空間の真っ白な余白が、怖いのだ。
昔とは何かが、決定的に変わった、とオレは悟った。
コンビニの横に設置されているエアコンの室外機が重苦しい低音で唸りを上げ始めた。
沈黙って、本当の『無音』じゃない。
何の意味も無いノイズが、沈黙の輪郭を刻み付けて行くのだ。
黙り続けているとオレ達2人の間の無音の距離がドンドン拡がってしまう。
ヤバい。
正解が何か解らないけど、何でも良いから行動を起こさないと。
でないと、この矢鱈に質量のデカい虚無ってヤツに2人とも押し潰されてしまう。
だが、オレがアクションを起こす前に、結衣が沈黙を破った。
「それ多分、当たってるよ」と、指先で示しながら結衣が言った。
手許に眼を降ろすと、サイダーブルーの残骸から木の棒が頭を覗かせていて、ソコに微かにコゲ茶色の文字の羅列が見え隠れしていた。
注1:研吾が言いたい事は、
NSAがX-Keyscoreというソフトを日本政府に提供した事によってプライベートな情報が日本政府、特に公安関係にダダ漏れする危険性が非常に高い、という事である。
X-Keyscoreはキーロガーの一種でパソコンやスマホ及びガラケーの、どのキーが押されたかを瞬時に認識して入力されたデータがどの様な単語なのか、それにその文章にどの様な意味が有るのかを分析する。そして予め登録されている危険ワードの一覧表と比較対照して、その文章が持つ危険度を判定する。もし危険度が高ければ、その文章を発信した人物を特定し、以後その当該人物が行う全ての通信を傍受・記録して(GPS情報が付随していれば勿論そのデータも)逐一その行動を追跡するというプライバシー保護の観点からするとかなり問題のあるソフトである。このソフトにとって言語の違いは特に問題には為らないが、ソフトの出した分析結果を解析する人間にとって母語とは違う言語を取り扱うのは困難を伴う。NSAは米国の連邦政府機関でその職員の殆どの母語は英語である(入局する為には米国籍が必要)為に非ヨーロッパ言語の日本語の解析は不得手である。故に日本語で通信される情報を収集分析する為にNSAは日本政府にX-Keyscoreを提供したのである。コレは陰謀説では無い。元NSA職員のスノーデン氏の告発によって明らかに成った事実である。でも、信じるか信じないかは、アナタ次第です。
NSA(National Security Agency)は米国・国家安全保障局。
TVA(Tennessee Valley Authority)はテネシー川流域開発公社。大恐慌の対策の為に1933年設立された公営会社。テネシー川(米国中部)にダムを建設して発電・治水・用水などを営む。
米国ではNSAやFBI、CIA等の情報諜報機関を揶揄する時によくTVAを引き合いに出す。
シニカルな人々は、NSAは国家安全保障局の略ではなく、『Never Say Anything(何も言うな)』や『No Such Agency(そんな機関は存在していない)』の略称だ、とまで言う。
少なくとも筆者の周りではそうでした。
ま、どれもこれもNSAが超秘密主義の国家機関である事がそもそもの原因なのだが。
別れしなに結衣がヘンな事を言いだした。
「ね、研吾のケータイ見せて」
「別に良いけど」と言ってから、トロトロと溶けて行くガリガリ君の遺骸に充分気を払いつつ、少し苦労しながら荷物の持ち手を変えて、ツナギの腰の部分にあるポケットに空いた右手を突っ込んで先月新しく購入したケータイを慎重に引き上げると結衣に手渡した。
「スッゴイ。最新のヤツじゃん」でも、漸くiPhoneにしたんだね、と結衣が言った。
必要に為ったからな、と答えると「昔は、私が幾ら説得しても、頑ななまでにガラケーにコダわってたのに」変われば変わるもんね、と結衣が何かを納得した様な口振りで言う。
そして指をパネルの上でシュシュと走らせてホーム画面を呼び出そうとしてロックが掛かっている事を確認するとクルリと表裏を入れ替えてオレにディスプレイ側をかざした。
「アレ?」認証できないよ、と結衣が言った。
「顔認証はオフってるんだ」オレが言った。(注1)
「何で?」便利って話だよ、と結衣が不思議そうな顔で言った。
「便利かも知れないが、この顔認証機能ってヤツは危険性が高い」
「どんな危険性?」
「簡単に障壁を突破できる可能性がある事を払拭できていない」
ゴメン、日本語で言ってくれる? と結衣が半ば呆れ顔で言う。
じゃ、判り易く説明するぞ、と言いながら、前頭前野の中で話す内容をまとめた。
「廉価なスマホの顔認証システムにはIR、つまり赤外線を用いている。
カメラの横に穿たれた小さな穴から赤外線を照射して、使用者の相貌...顔から反射して戻ってくる光線の具合を測定している。お面なんかのような平面な紙に描かれた2Dの絵と人間の様な3Dの造作物からの反射は、その特徴に違いがある。
赤外線に反応する物が平面であると、スマホ側で立体的なマッピングが出来なくなるので『これは顔じゃない』って判定されるんだ。
コイツは、このiPhoneは違うシステムを採用している。
この顔認証システムには『Face ID』って名前が付いてるんだが、アップルが最近買収した会社の技術、1秒位の短い動画を撮影してから登録してある使用者の動画データと比較してロックを解除する方式らしい。顔面の筋肉の微細な動きを捉えて動画に落としたモノを解除キーとして使うから、例えば使用者の顔を3Dレーザースキャンして得た画像データを使用して3Dプリンターによって作成された御面とか持ち主の寝顔とかでは解除できないとされている」
「じゃ、イイじゃん」完璧じゃん、と結衣が言った。
「ま、待てよ。顔の筋肉で一番動くトコって、ドコだと思う?」オレは尋ねた。
うーん、何処だろ、と言いながら、ちょっと結衣は考え込み「眼っ!」と答えた。
「惜しい」
「じゃ、ドコ?」
「マブタ、だ」
「あー、なる」
JKみたいなオカシな略し方が気に障ったが構わずに、
「ヒトは数秒間に一回必ず瞬きをする。一回当たり何秒かは個人差があって、ヒトそれぞれで違う。1秒以下のヒトもいれば、2~3秒のヒトもいる。大人の男性の平均は3秒に1回、女性はやや少なくておよそ4秒に1回。子供はかなり幅が広い。少ない子は12秒に1回、多い子供は3秒に1回強だ。
話はズレるけど、嘘を付いてる時にヒトは瞬きが増えるってよく言うだろ? アレは間違いだからな。ヒトは嘘を付いてる時には、瞬きの回数が減る」とオレは告げた。
「何で?」結衣が『ホント? ウソじゃないの?』という感じで訊いて来る。
「嘘を付く為には、ヒトは集中しなければいけない。集中すると瞬きの回数は減少する。現在進行形で付いている嘘の中身の整合性を取らなければ為らないので必死に大脳皮質をフル回転させているから、運動神経が瞬きの信号を筋肉へ伝達するのを忘れちゃうんだ。
研究者によっては瞬きしている間は脳活動の一部が休止しているって主張しているヤツもいる位だ。だからヒトは自身の瞬きの回数を正確に把握できていないんだ、とさ。
反対に緊張すると瞬きの回数は増える。だが、瞬きの回数だけで嘘を付いてるとか真実を話してるとか、決定的に判る訳じゃない。物理的な要因、つまり太陽が眩し過ぎるとか、眼にゴミが入ったとかの、嘘とは全く関係ない要素が引き起こした、単に眼球に潤いを与える為の物理的な機能が現れてるだけなのかも知れないからだ。ネット上に氾濫している『嘘』を見破る為のサインとかジェスチャーの殆どに科学的根拠はないんだよ。非言語コミュニケーションの形態の一つを取り出して、それだけで判断できる程ヒトの心理や感情はシンプルじゃない。ヒトは一番感情が豊かな動物なんだ」
「じゃ、どうするの?」結衣が言った。
「その人の言動と非言語的コミュニケーションツール、つまり表情・動作・声のトーン(声の高低や音量などの音響的特質)・声のスタイル(言葉を伴った話し方の特徴)・パラ言語(『え~』とか『う~ん』という様な、言葉に成らない言葉の事)などを観察してデータを収集する。そのデータを基盤として活用、ソコから相手の本心を可視化する為に高度な質問テクニックを駆使する必要がある」
「メンドくさ」結衣はゲッソリした表情を浮かべた。
『ま、相手が高レベルのサイコパシーの場合、嘘を見破るのは非常に困難なんで何をしても無駄な結果に成る事が多い』と、オレは思ったけれど、関係無い事なので黙っていた。
「話が大幅に逸れたから戻すと、この顔認証システムが瞬き、つまり目蓋の動きのみに依存していれば、障壁を突破するのは簡単だ。これはスイスにあるIDIAP研究所の生体認証の専門家、セバスチアン・マーセルによって証明されてる方法なんだが、iPhoneの顔認証システムはヒトの相貌を立体的に認識する技術を採用しているらしいので、3Dプリンターと使用者の顔のデータを使って立体的な御面を作る。そして眼の部分を刳り抜いて自分の眼の動き、つまり瞬きを認証システムが認識できる様にするだけで、簡単に突破は可能だ」
「それじゃ、ダメじゃん」
「ま、3Dプリンター自体が日本じゃまだまだそんなにメジャーな存在じゃないし、そもそもコレは2014年の話だ。そんなに前の研究だから既に新しい技術が開発されて当然だろう、多分このiPhoneの顔認証は安全なのかも知れない。この映像認識技術にはディープラーニングが使用されているみたいだから、本人認証に関するデータの蓄積量が多くなればなる程、システムが弾き出す『解』の正確性は高くなるから突破は難しくなる。
ま、オレもお面を作って確かめた訳じゃないから何とも言えない」
「つまり研吾のしてる事は単なる取り越し苦労って訳じゃん」と結衣は『ダメだ、コイツは』という様な表情を浮かべながら、言った。
「予防的措置だ。危険性は出来るだけ小さくして置きたい」それにパスワードを打ち込むのなんて造作も無い事だからな、と言いながら結衣からiPhoneを取り戻してロックを解除して「これで、使えるけど。何に使うんだ?」と手渡しながら、訊いた。
「いいコト」と結衣は言いながら、慣れた手付きで操作した。
クルクルと滑らかに動く綺麗な指先を見てると昔に良く眼にした光景が蘇ってオーバーラップする。その重なりが引き寄せる憧憬の虜囚と成って勘違いの陥穽に落ち込んでしまい、まるで3人が本当の家族だという幻想を抱いてしまいそうになる。
顔認証は画面を見つめるだけで瞬時にロック解除されるけど、画面から顔を逸らすとスグにまたロックされちまうから、オレ以外は使えなくなるんだぞ、とか、さっき指を上下にシュシュッとしてたけど、本当はパネルを下から上にシュッと一回滑らせるだけでイイんだぞ、などと自分の本当の関心の行方とは全く関係ない事を考える様に必死で務めていた、
気を紛らわせる為に。
「オッケー。これでインストール完了っ!」と結衣がはしゃいだ感じで、言った。
「何したんだ?」Lineとか入れたんじゃないよな? とオレは訊いた。
「アプリっ! GPS使って居場所を追跡するヤツ」結衣が答える。
「冗談じゃないぞ。何でそんなの入れるんだ? いわゆる監視アプリだろ?」目的は何なんだ? とオレは上擦らない様に努めて静かに尋ねた。
だって私の大事な可愛い娘が同行するんだよ、と結衣は言って「研吾の事は、さ、信用してるけど、万が一ってコトもあり得るじゃん、この世の中」危険はドコに潜んでるか、判らないって、研吾もよく言ってたでしょ? と、ニコニコしながら続けた。
ま、確かに一理はあるな。
「それに、織を実家に連れてくのが終わったら、即座にアプリを削除すれば済む事だし」
そう言い終わると結衣は『でしょっ?』って表情でオレを見た。
注1:この物語は、
2017年9月下旬~10月上旬のどこかで起こった事と設定しているので、ここで登場するiPhone Xはこの時点ではまだ発売されていない。発売は11月3日であった。でも小説なのでコレくらいのフライングはお許し願いたい。
別に8でも良いのだが、顔認証の危険性について述べたかった。それだけの理由である。文中に登場するセバスチアン・マーセルは実在の人物で生体認証の専門家。認証技術の防護性と脆弱性を研究している。
何故、研吾が手に入れる事が出来たのかについては物語が進むと理由が出て来る。(と思う)
もとのトコにかえってきたら おじさんパパが、
ワタシのかおをジッとみながら
ダイジョウブだった?
ってゆった
ぜんぜんヘーキだったので ウンってした
そしたら おじさんパパがニコッてしたから、ワタシはドキッとした
瞳を、おじさんパパの瞳をみると
ワタシのオナカのなかで 音がなりだす
トクンッ
トクンッ
トクンッ
って 音がなりだす
こんなのハジメテだ
どうしたんだろ?
なんかヘン
クルマにのったから、かな?
あたらしいクルマのヨイかた かな?
でも おじさんパパのうんてんは とってもキレイだった
スィー ってカンジだったから
ぜんぜんキモチわるく ならなかったし
イマも キモチはわるくない
ただ、3にんのこびとがオナカのなかで トントンしてるみたい
だから べつのコトだとおもった
でも、たくさんクルマにのった
こんなに のったの、よわずに のったの、はじめて
だから はじめてクルマにのるコトをたのしいって おもった
さいしょは のんびりしたマチのなかを
クルマがキモチよく はしった
ちょっとのあいだ はしったらトンネルにはいった
そしたら、おじさんパパが ナニもしなかったのに
パッとライトがキューについて マエをあかるくしはじめた
マホウみたいだ
このクルマ やっぱりドコか、ヘン
それにライト あかるすぎ
まるで タイヨウがヒカってるみたいに あかるい
コレとくらべたらママのクルマのライトは チョーしょぼい
トンネルを ぬけたら
ひとりでに ライトがきえた
やっぱりオバケなのかな、このクルマ?
ちょっとしたら おじさんパパが
きぬがさインターからヨコヨコにのるから
って ゆった
ヨコヨコってナンだろうって おもったから
ガンバって おじさんパパにゆってみた
ヨコヨコって なんですか?
そしたらおじさんパパはチラッとワタシをみたあと、ゆった
ヨコヨコはジドウシャセンヨウドウロで...ウーン...
...ヨコハマ・ヨコスカ・ドウロってゆうのがホントのなまえなんだ...
それでバイパス...ウーンと...クルマだけが ソーコーするドウロだよ...
わかる?
って ゆわれたから
でもチョットわからなかったから
ウーンって なってたら
おじさんパパは
そうだな...ふつうのドウロはヒトがあるいてたり...
ジテンシャとか はしってたりするよね?
でも、ヨコヨコは クルマだけしか はしっちゃダメな...
クルマだけが はしれるトクベツなドウロなんだ...わかる?
なんとなくワカったので ウンッてコクンしてから
ヒトがあるいたりしたらダメなんだねって ゆったら
そのとおりって ゆって、おじさんパパは、ニカッて ワラッた
そのワラったカオをみたときも ちょっとムネがドキッとした
ぜんぜんチガウんだけど レイがワラったときと おなじカンジ
プカプカって わらう
ニカッて わらう
ぜんぜんオナジじゃない
でもソックリだ
でもおじさんパパは みんなにみえてるから
レイとはちがう
そんなコトを かんがえてたら
ジンジャのトリイみたいなヤツのしたを クルマがとおった
ぼうが2ほん、とおせんぼしてたのが、ピュッとあがって
そこを クルマが、サーってとおった
そのあと グルーっとまわりながら うえの方にのぼっていって
それまで はしってたドウロより ちょっとひろめのドウロにでた
そしたらクルマがグーンってなった
ホワーンって音がおおきくなって
すごいスピードでまわりのケシキがビュンビュンって うしろにとんでく
きもちイイ
すごく、きもちイイ
なんかウレシイそんでタノシイかんじ
このクルマだから、ウレシイのかな?
なんて ナマエなんだろう? このクルマ
おしえてホシかったから
あのって
ゆおうと おもったけど
なんて ゆったらイイか、わかんなかったから、やめた
このヒト、なんて よべばイイんだろ
パパ?
ホントのパパかもしれないけど、パパってゆうのは ちがうとおもった
ワタシにはマチダのパパがいるし
おじさんってゆえばイイのかな?
おじさんパパ?
マチダのパパと ゴチャって イッショになったらダメだから
でもこのパパ(?)も とてもやさしいから
それに おじさんパパは じぶんのコトをオジサンってゆうから
それと ホントのパパかもしれないヒトだから
だからおじさんパパでイイのかも
でも
ホントには ゆわない
そういうコトは ゆわない方がいいと
なんでか わかんないけど
そうおもった
だから
ムネのなかで ジブンだけに ゆうコトにした
だから
あのって ゆうコトにした
で、あの、ってゆったら
ん? ってカンジで おじさんパパがワタシをみた
ああ、ゴメンね、ちょっとウルサいかな?
って ゆって
ワタシとおじさんパパのあいだにあるキカイを いじった
そしたら音が、きえた
さっきまでホワーンってケッコーおおきな音がしてたのに
キューにしずかになった
チョーふしぎ
やっぱマホウのクルマだ、コレ
コレで はなしやすくなったねって おじさんパパはゆってから
なんだい? っておじさんパパがゆった
だから
あの、このクルマ、なんてナマエですか?
ってゆってみた
ああ、コレはね、っておじさんパパはゆったあと
このクルマは ね、
じーてぃーあーる...ウーンと...あーるさんにー...ちがうな、
えっと...アールさんって、ゆうんだ ってゆった
アールさん
イイなっておもったから
すてきなナマエだねってテディさんにゆったら
『アリガトウ』
って さっきのオバケが、また ゆった
うん? ってなったけど
コワくないから、べつにイイや
オバケかもしれないけど、やさしそうだから
やさしそうなコエだから
べつにイイや
それに なんか、なれちゃった
だから、へいき
ニンゲンの方がズッと コワい
とくにママのオトコたちは コワい
でも なんでかな?
おじさんパパは ゼンゼンやさしい
ママのオトコじゃないからかな?
パパかもしれないヒト
だからかな?
ね、そうだよね
ってテディさんにゆった
テディさんが すこしワラったカンジがした
キのせい
キのせい
でも きょうはキのせいがチョットおおい
ま、イイか
ワタシは おソトをみる
ビュンビュンとまわりのケシキがうしろに うごいてく
ハヤすぎてケシキが とけてく
アイスみたいに とけてく
オモシローい
いつもはキモチわるくならないように
モドシたりしないように
イッショけんめいだから
ケシキなんて みれない
ヨワないと こんなケシキがみれるんだ
ワタシはウレシクなって
ジーっと おソトをみてた
おじさんパパがドアをあけてくれたので
んしょ ってオリた
『じゃあ、マタね』
ってコエがした
でも もうコワくない
ダイジョブだから
やさしいオバケだから
コワくない
オリたら、
シカクいたてものをユビさして
おじさんパパが
コレは コウジョウってゆうんだよ、ってゆった
コージョーってナニ?
っておもったから、ゆってみた
コージョーって、ナンですか?
コージョーって ゆうのは...ウーン...そうだね、クルマのビョウインかな
そっか、クルマのビョーインか
じゃあ おじさんパパはオイシャさんなのかな、って おもった
だから
パ...おじさ...えっと...オジサンはクルマのオイシャさん なんですか?
って ゆってみた
そしたら、おじさんパパは ニコってなって、
まぁ そんなモンかな
ってゆった
それで、
クルマも なおせるけど、イトちゃんのクマさんも なおせるよ
って ゆってからワタシのミギテをもった
コッチ、おいで
って ゆって おじさんパパはあるきだした
ふたりで ポクポクあるいてく
なんか のんびりしてる
ママみたいに、セカセカしてない
それに、
おじさんパパの て あったかい
マチダのパパと おんなじ
なんか、ウレシい
ホントのパパだと、もっとウレシい とおもった
イトちゃんが、疑問を含んだ眼差しで工場の建屋を見ていたから、
「コレは工場っていうんだよ」と言ったら彼女はピョンとオレの顔を見上げながら
「工場って...何ですか?」と問い掛けて来た。
ま、クルマの病院みたいなモノかな、と答えると、
オジサンはクルマのお医者さんなんですか? と訊かれた。
「ま、そんなモンかな」と答えた時に、右眼の取れ掛かったテディベアが視野に入った。
ブランブランしてる。
付け直さなきゃ、直ぐに取れちまうな、コレ。
その垂れ下がり具合が近過去に起きた出来事の記憶を鮮やかに蘇らせそうになったので、軽く頭を振って払い落としてから、イトちゃんに言った。
「クルマも直せるけど、イトちゃんのクマさんも直せるよ」
そう言ってから彼女の手を取って歩き出した。
2人してポタポタと歩いて行く。
5歳の女の子と手を繋ぐなんて、生まれてから30余年、初めての事だ。
幼稚園の頃はカブトムシやトンボを追っかけるのに忙しくて女の子なんて視界に入って来なかったからな。
Pedophile(小児性愛者)の人々、つまりロリの人達の気持ちはサッパリ理解できない。
けれども手を繋いでみると、満更悪いモノでも無い。
エロス、といっても卑猥で淫猥な所謂『エロス』ではなく、生命力と言う意味だが、その太陽の如くの大きなエネルギーの存在を感じ取れるからだ。
大人しいっていうよりも、元気無いなぁって印象を受けるイトちゃんでさえソウなんだから、無駄にエネルギーを発散している元気一杯の他の子供達なら、圧倒されてしまうかも。
あのエネルギー、発電に使えないかな?
歩いている内に違う方向に想いが走って行く。
そうだよな。
あの日の夜の記憶がハッキリと蘇ってくる。
結衣、初めてだったんだよな。
幾らこの娘が8歳に見えたとしても、8歳の筈は無かったんだ。
あまりの衝撃に焦ってしまって、この娘は8歳だ、8歳なんだから、8年前に結衣は処女だった訳で、だからオレの娘である筈がない、なんて思っちゃったんだよな。
<論理的に破綻しまくってるだろ、お前はバカなのか?>とミスター客観的が言った。
それに結衣と初めて出逢った時に、彼女はまだ17歳で、もしイトちゃんが今8歳だとしたら、イトちゃんの4月21日と結衣の9月23日という誕生日を計算に入れるとオレと出逢う少し前に産んだ事になる訳で、結衣は織ちゃんを施設の中で出産した事になる。
施設に1年半くらい隔離されてたと、結衣はあの夜に告白した訳で、妊娠できる環境下に彼女はいなかった訳で...
<ある訳ないだろ! 男性が1人もいない環境だぞ! 処女懐胎でもしたのか?>
無いな。
キリストの降誕でもあるまいし。
でも5歳か。
オレの子供かも知れない女の子。
背丈は大きいけれど、手自体は輪郭が丸まっていて洗練されていない、ヤッパリ子供の手をしている。でも滑らかで保湿が充分な肌の感触は母親とソックリだ。
遺伝って、凄ぇなぁ。
オレの遺伝子達、チョットは発現しているのだろうか?
飽く迄も仮定の問題で、もしもオレの娘だとしたらだが、イトちゃんに顕示されたphenotype(表現型:遺伝子群によって発現された形質・外観の型)を観察する限り、オレが贈った23本の染色体はすべて惰眠をむさぼっていて全然起動していない様な気がする。
寝てないで少しは働けよ、お前達。
もしソコに、彼女の細胞核の中に潜んでいるのなら、だけど。
一緒に歩いていく内にイトちゃんと歩調のリズムが合っている事に気が付いた。
綺麗に揃っていて、それが凄く心地良い。
プラプラと歩いているだけなのにリズムが同調して行く。
無理矢理に揃えようとしている訳では無く、自然と2人の呼吸が合って行く感じだ。
本当に血を分けた娘なのかも知れない、と思い、彼女の顔を右斜め上から見降ろす。
すると落ちて来た視線に気付いたのか、イトちゃんがオレを見上げた。
彼女の顔を見た瞬間に、素地からの柔らかい笑顔がナチュラルにこぼれ落ちるのを感じる。
すると最初の頃に抱えていた緊張が次第に潤びてきたのか、彼女もようやく屈託が感じられない微笑みを、オズオズとだけど、浮かべ返してくれた。
ぎこちないながらもコミュニケーションが無理なく取れるようになって来た事が今はただ普通に嬉しい。
それに、こんだけ綺麗な娘なら、この状況はコレで、良いか。
けれども容姿は別として性格だけは結衣に似ないで欲しい、と父親(仮)は思う。
だから、鹿児島行きは彼女の人格形成のベクトルを良い方向に転換させるチャンスかも知れないな、と再び強く思った。
工場に隣接している事務所の扉を開けて「さ、入って」とイトちゃんを招き入れた。
彼女はソロッと部屋の中に入って来た、興味深そうにクルクルと色々見回しながら。
事務用の無機質な灰色の机が3つ、テーブル1つと2人掛けの長いソファが1つそして1人用のソファが2つの来客用ワンセット。書類などが綺麗に揃えて収納されているキャビネット(コレも無機質な灰色の金属製である事は言うまでも無い)が北側の壁に3つ林立している。初秋の柔らかくも鋭い陽光が南、県道側に設けられた大きな窓から差し込んでいて内部と調度品を明るく照らしていた。
そして「さ、ソコに座って」と言いながらオレが指し示したソファにチョコンと座った。
2人用ソファに座ってもまだ、首をアチコチに回しているので、居心地が悪いのかと思い「どうしたの?」と訊くと、
「あの...ココ...クルマはドコですか?」と彼女が尋ねて来た。
オレは彼女の訝しげな視線に納得しながら「ああ、この部屋はね、事務所...ウーンと...色々な書類...書き物をする所なんだ。工場は隣。後で見せるね」と答えた。
フーンという感じで彼女はコクンとうなずいた。
大事そうにギュっと左脇に抱えているテディベアを指差しながら、
「治して上げるから、そのクマさんを少し貸して」とオレは言った。
彼女は、一瞬『ドウしようか?』と躊躇した後、恐る恐るヌイグルミを差し出して来た。
右目が取れ掛かっている可哀想なテディベアを受け取って自分の机の上にソッと置き椅子を引いて腰を下ろし引き出しから裁縫道具を取り出した。
何故、自動車整備工場が裁縫道具をも備えているかって?
コレも社長の教えだ。
クルマの整備をしている間、幾ら注意を払っていても作業用のツナギが破れてしまう事がある。実際、ツナギの生地は丈夫だし縫製もシッカリしているから滅多に無い事だが、絶対に起こらない事象と言う訳では無い。
プロとして本当はそんな事があったらいけないのだ。だってソレはツナギを何処かに引っ掛けたり、グリグリと擦り付けたりしてしまった証拠だからだ。事故相手がベタ打ちされたコンクリートの床なら良いが、何よりも尊重しなければならない顧客のクルマが相手で、それも毀損してしまっていたら、さあ大変ってコト。
けれども、不可避な現象でもある。
形あるモノはいずれ壊れる運命にあるから、だ。
とにかく最重要事項は整備を依頼されたクルマをチャンと仕上げる事と、その為の仕事に支障を来さない様にするってコトだから、ほつれや破れは見つけ次第間髪入れずに直す。
事故を起こす要因を出来る限り減らす事、道具や部品を引っ掛けて落とし木端微塵に破壊したりして取返しの付かない状況に陥る事を防ぐ為だ。ま、予防措置である。
だから1日の作業が終わった時、普段着に着替えた後で汚れた作業着をチェックするのはオレの日課に為っている。勿論、毎朝ツナギを着る前にも当然点検をする。
ま、昔と違って最近主流のツナギにはボタンが付いてないから、その点では楽になった。
薄茶色をしたヌイグルミの地色に1番近い糸を選んでチクチク直して(治して?)いると社長夫人の咲耶さんが事務所に入って来た。
咲耶さんは、身長はオレより少し低い位だがスラッとしていてしなやかな印象を受ける人だ。彼女の容貌を観る度に、トランクケースをぶら下げて背広に腹巻き、中折れハットを小粋に斜め被りしたオジサンが「ヤア! みんな元気でやってるか?」と帰宅の挨拶をするシーンがオレの皮質の上に再生される。年齢は...60...幾つだったっけ?
浅黄色のジョギングスーツを身に纏っていたから、日課としている高速ウォーキングからの帰りだと知れた。軽く上気して汗ばんでいる姿からは真の年齢を推察する事は難しい。
オレはチクチクする手を止めて尋ねた。
「今日はドコまで行ったんですか?」
「大楠山まで」ふもとに京急あるから便利だしね、と咲耶さんは答えた。
スーパーならもっと近場に、それも何軒も在りますよ、という台詞が思い浮かんだが口には出さず飲み込んだ、別に買い物に行った訳じゃないだろし。
額に浮かんだ汗を黄色のハンカチで抑えながら咲耶さんが言った、
「隠し子かい?」
「いえ、ち...違います。結、ゆ...友人の娘さんです」
しどろもどろの返答を受け取った咲耶さんは、心の中を掻い堀りする様な眼付きでオレを見詰めた後、イトちゃんへと視線の先っぽを移すとキッチリ5秒間は彼女の顔を見定め続けた、まるで何かを値踏みする様に。
「嬢ちゃん、名前は?」
「緒方...織...です」とイトちゃんが答えた。
結衣の娘から一瞬も視線を外す事無く咲耶さんが「衣を結う為には『糸』が必要だもんね。あの娘にしちゃ上出来な方の名付けじゃないか」と言った。
バレてるな、こりゃ。
クゥ...
何とも言えない一種独特な緊張が漂い出したその時に、イトちゃんのお腹が鳴った。
「お腹、空いてんのかい?」
感じ取れるかどうかギリギリの線上で、微かにイトちゃんが頷いた。
「待ってな。今こさえてやるから」
表情を崩す事無く咲耶さんはそう言って事務所から出て行こうしたが立ち止まり、忘れ物に気付いた様に頭を軽くひねってから、振り返りざまにイトちゃんへ尋ねた。
「嬢ちゃん、アンタ、何かアレルギーあんのかい?」
大きな疑問符がイトちゃんの頭の上に浮かんだのが解ったので、オレは助け舟を出した。
「イトちゃん。何か、食べちゃダメって結...ママに言われてないかい? 食べると危険...ウーンと...食べると身体が痒く...カイカイに成ったり、息が苦しく成ったりする様な、えーと、息がゼーゼーする、そんな食べ物とかは、あるのかな?」
オレの方を見てからかぶりを振り、それから視線を咲耶さんに戻してもう一度首を振った。
そうかい、そう言って軽く一つ頷き、
「結構、毛だらけ、ネコ灰だらけ」
咲耶さんはそれだけ言い残すとニコリともせずに事務所から出て行った。
おじさんパパが さくやさんってゆってるオバサンがでていった
ちょっとコワかった
なんかオメンみたいなカオだもん
オバサンがでていったら
おじさんパパが またチクチクはじめた
テが スゴイはやさで うごいてる
でも、ナンでだろ?
ハヤいのに とってもユックリ
のんびりしてるカンジ
そんなコトかんがえてたら
できた!
っておじさんパパがゆって
ホラ、みてごらん ってゆったアト
ワタシにテディさんをわたした
うわぁ なおってる
さっきまでとは ゼンゼンちがうカンジ
ピカピカってカンジ
テディさんも うれしそう
わらってるカンジに みえる
アリガトウございます
そう ゆったら
どういたしまして って おじさんパパがゆった
おじさんパパのカオ、ニコニコしてる
なんかウレシイ
おじさんパパが わらうと
ワタシも うれしくなって わらう
テディさんをみたら わらってる
なんかウレシくて テディさんをギュッとした
イトちゃんがテディベアをキューと抱きしめながらニコニコしている姿をボンヤリ見ているとオレは今まで経験した事の無い未知の感情を抱いている事に気付いた。
何だろ、コレ?
でも彼女は相当に嬉しそうだから、まぁ、コレが何でも構わないや。
それにしても結衣のヤツ、未だに何も出来ないのかな?
一緒に暮らしていた時も炊事、掃除、洗濯といった家事全般が超苦手で手を出そうともしなかった。ご飯も出来るなら外で買って済ましたいって感じで、朝ご飯だけは毎日オレが簡単な一汁二菜、炊飯器で炊いたご飯と茅乃舎の出汁パックを使って作った味噌汁、それに加えてアジの干物やサケの粕漬けとかを焼いたりしたオカズとパック入りのお漬物なんかを用意して、無印良品で買った卓袱台に並べて2人向かい合わせで食べたモンだった。平日のお昼と晩は銘々個別に食べるのが日常だった。結衣は当時勤めていたメイド喫茶の賄い飯で済ませ、オレはというと社長夫人つまり咲耶さんが作った料理を社長とオレとの3人で喰うと言うのが通常のパターンだった。
え?
休みの日は、どうしてたのかって?
勿論、朝昼晩3食ともオレが作った。何処かにお出かけって時の昼食は外食だったけど。
一応ジイちゃんに料理の基本は教え込まれていたし、調理工程自体が嫌いでは無かったので、全く苦では無かった、科学の実験や機械の組立てと何ら変わらないとも感じていたし。
そんなこんなだから、結衣が裁縫を得意とする筈は微塵も無い訳か。
町田のダンナさんが弱ってる時にも自分で作らずに店の惣菜を買ってきた位だからな。
未知の感情から気を逸らす為に、そんなコトを考えながらイトちゃんが喜んでいる情景をボンヤリ眺めていると、お盆を掲げた咲耶さんがオシリを器用に使ってドアを開けながら後ろ向きに事務所に入って来た。毎日の高速ウォーキングの効果で彼女の動きには無駄が無くそして滑らかでしなやかだ。ジョギングスーツから清潔なギンガムチェックのコットンシャツと良い感じに色落ちしたリーバイスに着替えている。
ホントに幾つだったっけ? このヒト。
お盆の上には、見るからにチンチンの味噌汁を満載した黒塗りの御椀と大振りなオニギリを2つ搭載した白磁の皿が載ってるのが窺える。
中身何だろ?
オレの食い意地の張った思いに呼応した様に「お結びの中身はサケとジャココンブだよ」と、咲耶さんが言った。
「ジャコってシラスですか?」甲殻類の蝦蛄じゃなくて、とオレが尋ねた。
「そうだよ」咲耶さんが答えながら来客用のテーブルの上にお盆を置いた。
そしてイトちゃんに教える様に指差しながら「コッチが焼いたサケをバラバラにほぐしたのを混ぜ込んだヤツで、コレがコンブの佃煮と釜揚げシラスを混ぜ合わせたお結びだよ」それから、味噌汁の具は豆腐とネギと油揚げだよ、と言った。
咲耶さんは姿勢を真っ直ぐに伸ばした後オレの方へと向き直って「今日はサケが特売だったんだよね。それに、シラス、久し振りに冷凍じゃない釜揚げも売っててさ」と続けた。
えっ?!? ホントに買い物行ったんですか、芦名まで?
そう思ったけど口にチャックをして何も言わなかった。
結衣とは別の意味で地雷原のヒトだからだ。
「熱いから気を付けな」咲耶さんが見降ろしながら言うと、
「イタダキます」
イトちゃんが手を合わせて小さな声でそう言うと両手で御椀を取り上げて1口啜った。
!
オイシイっ!
この おミソしる うまい!
それに あったかいたべものって スキ
なんか、ホッとする
御椀に口を付けた瞬間、イトちゃんの顔が輝いた。
オレの机からイトちゃんが座ってるソファまでは大体2m弱あるが、ココからでも明確に認識出来る位に味噌と出汁が放散する心地良い芳香が部屋全体に充満しつつある。
だから、そりゃ美味いに決まってる。
イトちゃんは、一旦お椀を置いてから箸を取り上げて中身の探索に取り掛かった。
エッジがピンと立った豆腐を摘まみ上げて『パクッ』という声を立てない擬音と共に口の中に放り込む。
『!』
エクスクラメーション・マークが彼女の頭上に浮かんだのが見えた。
歩いて5分の所に位置するお豆腐屋さん特製の国産有機栽培大豆と天然にがりを使用した醤油無しでも全然喰える位めちゃめちゃ美味い木綿豆腐だから、そりゃ、イケるよね。
田舎風に全体をぐるりと海苔で巻かれたオニギリが気に成った様で、物珍しそうにクルクルと全貌を観察した後で三角形の頂点にパクッとかぶり付いた。
!
何コレ!
チョーうまい!
チョーおいしい!
あったかーい!
ホカホカだぁ
サケって こんなにオイシイんだ
いいニオイ
コンビニのヤツとはゼンゼンちがう
サケもボロボロするしょぼいヤツじゃなくて デッカいし
ナンだろ、コレ?
ちっちゃくてカタいタネみたいなモノが はいってる
かむと チョーいいニオイがする!
ゴマみたいなニオイ!
このオニギリ、チョーうまい!
それに、ノリってこんなに いいニオイだったんだ
イトちゃんは一つ目のオニギリを制覇した後、小皿に盛られたお漬物を口に入れた。
しかし、この娘は子供のくせに実に器用に箸を使うな。
ちゃんと正しくて綺麗な持ち方だし、オレより上手いかも知れん。
おうおう、『うんめぇ』って文字列が顔に浮かび上がって来たぞ。
その糠漬け、美味いだろ?
咲耶さんが毎日キッチリ2回、手で掻き回し続けて何十年も掛けて熟成させた糠床だからな。健康な乳酸菌さん達が頑張った成果が、その漬物だよ。
彼女は嫌いな物なんか無いって様子で嬉しそうにキュウリや人参なんかを、次から次へと口の中にポンポンと放り込んで行く。
賢者の食べ方だ。
『綺麗に食べる事は努力すれば身に付ける事が出来るが、美味そうに食べられる事は生得的な物、言わば生まれ持った才能だ』とジイちゃんは言っていたが、その通りだと思った。
味噌汁を一口すすった後、イトちゃんは2個目のオニギリに手を伸ばした。
『!!!!!』
さっきよりも格段に大きな感嘆符が彼女の頭上に浮上した。
ビックリした様にパッと口を離して、自分が齧り付いた噛み跡をシゲシゲと見詰めている。
その様子じゃ、ソレはシラスと昆布のオニギリで間違いないな。
1個目のヤツは焼いたサケを荒めにほぐした物と刻んだ炒りゴマ、それに庭で栽培している大葉を微塵切りした物をアツアツのご飯に混ぜ込んだヤツで、コレはこれでかなり美味い逸品だが、2個目のソイツはスペシャルだ。新鮮な釜揚げシラスと咲耶さん御手製となる昆布の佃煮にゴマと青紫蘇、そこに加えてコレも自家製の新生姜の甘酢漬けつまりガリの微塵切りが混ぜ込められてる筈だ。ガリは新生姜の皮を剥いてからスライスしたヤツを酢・砂糖・塩・利尻昆布から取った出汁を混ぜた特製のマリナード(マリネ液)に2週間も漬け込んである実に手間の掛かった一品で、コレを混ぜ込んでいるからシラスの臭みも無くなるし、って言うか本当の所、超新鮮な釜揚げは魚独特の嫌な臭いは一切しないし、反対に一層と食欲を湧き立たせる非常に香しい芳香を備えてるからコレは少々オーバースペックなのだが、やらないよりも断然に美味しくなるから、ま、混ぜた方がベターだ。
それにガリを混ぜる事によりオニギリが寿司の領域へと侵攻する、そういう思いがけない嬉しい副反応も付随してくる。だからオレは鮫皮で丁寧に摩り下ろした真妻(ワサビの一品種)と一緒に食べたいな、そのオニギリは。
毎回食べる度に強烈にそう思うが、中々その機会は訪れてくれない。
真妻、高いし。
希少だから、手に入らないし。
地元にいた時は意外と簡単に入手できたと記憶してるんだがなぁ。
イトちゃんは一心不乱にハグハグしている。
そうやって夢中でパクついてる彼女を見ていると何故だか嬉しくなって来た。
チロっと咲耶さんに一瞥をくれると同じ事を思っていたのか、能面の様だった顔がほころびかけている感じに見える。ま、作ったモノを美味しそうに食べてくれる事が、料理した者にとって一番の称賛だからだ。
結衣は、食べ方は綺麗だったし箸使いも持ち方も申し分無かったけれど、傍から見てもお世辞にも『美味しそう』には見えなかったからな。
2人の関係が最悪に険悪に成った理由は意外とこんな所に隠棲してるのかも知れない。
その時、ホウ、と声に為らない声を咲耶さんが漏らした。
その無声の声に釣られて咲耶さんに視線を送ると、彼女の顔が満足そうに輝き始めているのが見えた。
良かった。
母親の事はともかく、イトちゃんの事自体は気に入ってくれたみたいだ。
彼女の眼差しが慈眼と呼ばれるモノへと変化しつつあった。
ホッとしてそんな2人を交互に見ていると咲耶さんと眼が合ってしまった。
そんな必要は全く無いのだが、途端にバツの悪そうな顔に成って「お茶は、狭山産だよ」と言いながら伊製のコーヒーメーカーが天板の上に乗るサクラ材で組み上げられたキャビネットの方へと振り向き、ガラス戸を引き開けてお茶道具の一連を引っ張りだした。
でも背中越しであっても、『嬉しい』と言う感情がヒシヒシと伝わって来た。
ジイちゃんは言った『幸福は己自ら作るモノであって、それ以外では無い』と。(注1)
色々な意味に解釈できる一文だが、今はこう思う。
幸せを構成している一つの重要な要素である『嬉しい』という感情は、ホイッと他者から与えられるモノではなくて、物事を経験した時に自分自身の内部で己の力によって生成させる、もっと主体的で能動的なモノなのだ、と。
だから、オレは今、何故か知らんが、非常に幸福だ。
このオニギリ、チョーおいしい!!!!!
なんかアマくてスッパくて、チョーうまい!!!!!
なんか シロくてちっちゃいおサカナさんがイッパイいる
1こめのオニギリにも はいってたゴマみたいなニオイのヤツもいる
コンブもいるし ミドリのヤツもいる
それにアマくてスッパくて ちょっとピリッとするヤツもいる
でも、やっぱり チョーうまい!!!!!
こんなおいしいモノ つくってくれるなんて
このサクヤさんってオバサン、ホントはいいヒトなのかもしれない
ママには ぜったいにムリだ、つくれない
おいしいからビュンってカンジで オニギリたべちゃった
おミソしるとキューリとニンジンと、コレなんだ? しろくてカタいヤツと
これしか のこってない
なんか すこしカナシイ
オイシイたべものって スグなくなる
もったいないからおミソしる ユックリたべようっと
ムリだ
オイシイから たべちゃう
キューリもニンジンも、しろくてカタいヤツも ゼンブたべちゃった
オイシイのって なんかスグに いなくなっちゃう
オナカいっぱいだけど チョットざんねん
そうおもってたら サクヤさんってオバサンが
オチャは、サヤマさんだよ ってゆったから
サヤマさんって ダレだろ?
そうおもってたら サクヤさんってヒトが
まるくておっきなヤツと ちいさなコップみたいなモノをテーブルにおいた
サクヤさんってヒトが まるくて もつトコがニュってしてるヤツをもって
コップに ナニかをいれようとして かたむけたら
クチバシみたいなトコから オチャがジョロジョロって でてきた
オチャってペットボトルに はいってるんじゃないんだ!
チョーおもしろい!
オチャ、のめるかい?
ってサクヤさんってヒトがゆったから
コクンって してから、のんだ
なにコレ?
ホントに オチャ?
いいニオイがする
それに、なんか アマくてトロッとしてる
チョーいいカンジ
おいしい
なんか しみじみする
でもオチャつくるキカイが すっごくキになったので
さっきよりもチョットふわふわしたカンジになったみたいだったし
ダイジョブそうだったから
がんばって サクヤさんってヒトにゆってみた
コレなんですか?
「コレは急須、それでコッチが湯呑」
イトちゃんに教える様に一つ一つ指し示しながら咲耶さんは答えた。
ところが今一つ要領が得られなかった様で得心が行かず『?』という疑問符がイトちゃんの頭の上に浮かんだ様子を見て咲耶さんは「じゃ、実際にやってみようかね」と言葉を残すと事務所に備え付けられた小さな流し台へ行って一度しか淹れてないからまだまだ新鮮で全然使える筈の御茶葉を捨ててしまった。
豪快だなぁ。
さすが神田生まれの江戸っ子、チャキチャキっとしてるな。
咲耶さんは戻って来ると「ココ、急須のこの蓋を外して、ホラ、先ずお湯を入れて急須自体を温めとく。温まったら一旦お湯を捨てちゃって、次にこの茶入から茶さじってお匙を使って御茶葉をこういう風にして容れて、ここで湯呑を温めといたお湯をこういう感じで注ぎ入れて、さ、ホラ、蓋を閉じたら、こうして蓋に空いてる小さな穴を急須の注ぎ口に合わせて、葉っぱが潤びるまで少し待ってから、淹れると。ホラ、立派な御茶の完成だ。淹れ終わったら急須の蓋を外しとく。蓋したまま放っとくと御茶葉が蒸れちまうからね」と言いながら実演して見せた。
驚きでイトちゃんの眼が丸くなってる。
結衣、ペットボトルばっかなのかな?
ウワァっ!
スゴい!
マホウだ
キュースってヤツと チャイレってヤツと ユノミってヤツで オチャができちゃった
カンタンだ
ペットボトルのオチャよりおいしいから
それにカンタンだし
なんでママ、こっちのオチャにしないのかな?
『咲耶さん、抹茶じゃないからソレは茶入じゃなくて茶筒と呼ぶのが正しいのでは?』という言葉達が頭を掠めたが、御口にチャック、思うだけに留めて置いた。
それにしても咲耶さんはホントにマルチタスクの女だな。
彼女のサッパリとした顔からは確実にシャワーを浴びた事が窺えるし、それから冷凍貯蔵してあるご飯をチンして、サケを焼いてほぐし、裏に回って家庭菜園から青紫蘇を回収したり、ゴマを炒ってから包丁で刻んだり、鰹節削り器で本枯れの雄節を削って昆布と合せて出汁を引いてから豆腐と油抜きした油揚げで味噌汁を作り、糠床から漬物を取り出したりと、ここまでの超複雑な行程を10分間掛かるか掛からないかで済ましてしまう超早業。
歌舞伎の早変わりよりも数段階、スゴイ。
オレには到底不可能な作業である。
ま、男性より女性の方がマルチタスクに向いた脳構造をしてる傾向があるんだけど。
あー、イトちゃんの満ち足りた幸せそうな顔を見ると、腹が減った。
オレの分は無いのかな?
って、オレも腹っ減らしで食い意地が張ってるな。
<昼飯、さっき喰ったろ? しかも鱈腹>とミスター客観が言う。
でも、なんかイイな、この感じ。
そんな事を考えていたら唐突に咲耶さんが、
「アンタ、このお茶、そう、今淹れたヤツ、アンタが飲みな」とオレに告げた。
「えッ?!? それはイトちゃんのお茶じゃないんですか?」
「頓珍漢なこと言ってんじゃないよッ! 子供がお茶をガブガブ飲んじゃ、毒だよッ!」
そう言いながらお茶の入った湯呑をオレに手渡し、イトちゃんの前にもう一つ別の湯呑を置いてから、一旦その場を離れてキャビネットの横に設置されている小型の冷蔵庫から、NY州コーニングにあるガラスメーカーであるコーニング社製のパイレックスを取り出してコチラに戻ると、その透明なガラスポットから茶色い液体をイトちゃんの湯呑に注いだ。
「ほら、麦茶だよ。子供がお茶を飲み過ぎると返って身体に毒だからね。
ソイツ、すぐ飲んじゃいけないよ。
手で持って1分くらい待ってチョット温めてから、飲みな」とイトちゃんに言った。(注2)
アリガトウございます、って ゆってから
ムギチャがはいったユノミを りょうほうのテでもちあげたら
ツメタっ!
ひんやりしたかい?
って サクヤさんが ゆって
そうやって チョットあっためてから、のむんだよ
って サクヤさんが ゆって
イドミズくらいのオンドが いちばんおいしいんだから、ね
って サクヤさんがゆった
いどみずって なんだろ?
パイレックスの中身は咲耶さんが麦茶を煮出したモノだ。
精麦しないままの大麦を殻付きのまま炒った物を麦茶と呼ぶ。ソレを煮出して出来る茶色の液体も麦茶と呼ばれる。煎じる前の固形物もお茶と呼ばれるし、煎じ出した液体もお茶と呼ぶのと相同だ。ココは数学的には『相似』と言った方が正確だが。
通常の茶漉しの半球形の網部分を2つ、向かい合う様に組み合わせた球形の専用茶漉しに麦茶を入れて水と共にヤカンに容れて火に掛けて沸騰するまで煮出した液体のムギチャの味わいは格別だ。芳ばしい香りが非常に高く、その風味の奥は相当に深い。
咲耶さんによると麦茶の飲み頃の温度は井戸水のソレ、13度から15度くらいだそうだ。それくらいの温度の時が一番、薫り高く味わいも豊かなのだと言う。
オレもその意見に完全に賛同する。
比較するのもバカらしいが、水出しのパックやペットボトルとはレベルが全然違う飲み物に仕上がっている。昔は麦茶に砂糖を溶かし入れて飲む人もいたそうだが、ソイツは味の判らない舌が鈍感な野郎だ。そんな事をしたら、麦茶の味わいなど永劫の彼方へと素っ飛んで行って消滅してしまう。本当の麦茶はコーヒーに匹敵する位の味わいを秘匿している。
オレの言葉の正しさは、
イトちゃんを見ていれば、判る。
ほら、彼女の頭上にエクスクラメーションマークが立った。
!
ナニこれッ!
チョーうまいッ!
ママが ついでくれるペットボトルのやつとゼンゼンちがうッ!
すっごい イイにおいッ!
あー、オハナにイイにおいが スーっていく
アジもゼンゼン、こいッ!
あー、のんじゃうッ
ホーッとなりながら、ゼンブのんじゃった
そしたら サクヤさんが
もうイッパイ のむかい?
って ゆったから
コクンってして
おねがいしますって ゆった
そしたら、サクヤさんが
ムギチャを ついでくれた
あー、ゴクゴクのんじゃう
オイシイっ!
あーぁ、なくなっちゃった
でも、おいしかった
ユノミってナマエのコップをおいてから
テをあわせて
ごちそうさまでした
ってゆったら
サクヤさんが おソマツさまでした ってゆった
おソマツさまって ダレだろ? ってかんがえてたら
おじさんパパが クチにあったかい? ...えーと...おいしかったかい? ってゆった
「超...すごく美味しいオニギリ...です」と、オレに向かってイトちゃんが答えた。
すると咲耶さんが20分前の過去からは想像できない位の柔らかい口調で「違うよ、コレはお握りじゃなくて、御結びだよ」と彼女を見降ろしながら声を掛けた、薬師如来像似のアルカイックスマイルを浮かべながら。
そうか、コレってオニギリじゃないんだ
オムスビってゆう ちがうタベモノなんだ
だから こんなにオイシイんだ
コレつくったサクヤさんって カミさまなのかも しれない
ワタシのヨコにしずかにスワってるテディさんをみて
ホントにオイシイよ ってちいさなコエでゆった
テディさんのりょうほうの目がピカって ひかったカンジがした
2人のやり取りを傍から見ている。
先程までの無機質な状況とは打って変わり、部屋の中に暖かい雰囲気が放散し始めていた。
無数の窒素分子や酸素分子たちがニコニコと笑って踊りながら空気の中を漂い浮遊している様子が実際に眼に見えるようだ。
ま、分子は陽子と中性子と電子の集団で感情は無いから、本当は笑ったり踊ったりしないんだけど。
『人と他人の縁を結ぶ為に握られる食べ物が、御結びである』
ジイちゃんはそう言った。
本当にそうなのかも知れない。
御結びとオニギリは似て非なる食べ物なのかも、とオレは思った。
注1:本当はトルストイの言葉。
注2:カフェインと子供の摂取状況について。
カナダ保健省によると子供に対する1日当たりのカフェインの摂取量の上限は次の通り。
4~6歳:45mg/7~9歳:62.5mg/10~12歳:85mg。
150mL(1カップ)中の含有量は、
コーヒー:90mg/紅茶:45mg/煎茶:30mg/コカコーラ:15mg/ココア:10mg。意外とコーラが少ないのが驚きである。
カナダ保健省の上限摂取量はかなり確かで、これ以上の摂取は何らかのマイナス作用が起きる恐れが大きい数値であるとされる。可能ならば、脳の発育期である6歳までは摂取量をゼロにする必要があると神経行動薬理学者の栗原久は言う。
しかし、静岡県の子供たちは小さい頃から浴びる様にお茶を飲んでいるそうです。それでも『何か弊害が起きた』という話を噂でも聞いた事が無いので『本当か?』と疑いたくなるのですが、カフェインも薬物の一種である以上は『毒』の範疇にあるので気を付けるに越した事は無いのでしょう。
結衣は織にお茶を与え始めたのが、彼女が5歳に成ってからで、摂取量も一日コップ1杯までに制限しています。そういう所はシッカリしているんですが、他がなぁ。
私とケンゴ vol.3