私とケンゴ Vol. 1

dedicated to Lian-Hua,
to Yui,
to Ito
and
to Sarah, oops, sorry, to Nao.



時    「まだ1人足りないな。隠れてるのは判ってる。ワシを騙そうたって駄目だ。
      こら、お前、『恋人』と言われてるやつ。お前の相手にお別れを言うんだ」
第一の子供「『時』のおじいさん、ぼくをあの子といっしょに行かせて下さい」
第二の子供「『時』のおじいさん、あの子といっしょに残れるようにして下さいな」
時    「だめだ。もうあと三百九十四秒しかない」
第一の子供「ぼく、生まれない方がましだ」
時    「勝手に選ぶことはできないぞ」
第二の子供「『時』のおじいさん。あたしの生まれるときは、あんまりおそすぎます」
第一の子供「あの子が生まれてくるときには、ぼく、もういないだろう」
第二の子供「あたし、もうあの人に会えないんだわ」
第一の子供「ぼくたち、ひとりぼっちになってしまう」
時    「そんなこと、ワシの知ったことじゃない。そんなことは『生』の所へ行って頼むんだな。ワシはただ命じられた通りに、一緒にしたり分けたりするだけなんだ。さあ行くんだ」
第一の子供「いやだ、いやだ、いやだ。あの子もいっしょに行かせて」
第二の子供「この子残しておいて。残しておいて」
時    「さあ、死にに行くんじゃないぞ。生まれに行くんだ。さあ、行け」
第二の子供「しるしを残して行って。たった一つでいいから、どうやってあんたを見つけたらいいのか教えて」
第一の子供「ぼくはいつだってきみを愛してるよ」
第二の子供「あたしは一番悲しいものになるでしょう。それで、あんたはあたしがわかるはずよ」

メーテルリンク(堀口大學・訳)『青い鳥』第五幕 第十場 未来の王国(新潮文庫)より




きょうの私の上は、とっても『あお』
i Pad を、クルクルすると、
やまの蒼、
うみの藍、
そしてお空の、青。
みんな、おんなじ『あお』なのに、
なんか、ふしぎ。
おもしろいっ!
みてると、
ピュッとソッチがわに、つれてかれそうな、
クロっぽいってカンジの、青。
そんなお空に、
つれてかれないように、
かおを、おろした。
あ、




『腕をブンブン振り回して歩く女には、気を付けろ』
その警句が脳内皮質に再生されたのは、仕上がったばかりの機体の前で長い満足の吐息をひとつ吐き終わった直後だった。
そう教えてくれたのはジイちゃんだ。
ジイちゃんはその後こう続けた『そういう女は大抵思い込みが激しい。一旦こうと思い定めるとテコでも動かない。っつーか、曳家に使う、超が10個くらい付いた馬鹿みたいに強力な油圧ジャッキをもってしても重く固くて微動だにしない』
ホント?
疑うオレの顔を覗き込みながら『このタイプは思い込みが激しい上に自分は絶対的に正義の側に立っていると信じ込んでいる。だから自己主張が激しい』
ウソっ!
『気を付けろッ!』
ジイちゃんは小さいけど鋭く叫んだ。
その時オレはただ茫然と、タガネで削り割った様なジイちゃんの顔を見上げる事しか、出来なかった。
何故鮮明に蘇って来たのだろう、今頃?
オレは訝った。
記憶が正確ならばコレが皮質の中に仕舞い込まれたのは、オレが小学...1年の時の事だ。
大仰な言い方だが、ほぼほぼ四半世紀も前の事で、
だから何故突然頭上に浮かび上がって来たのだろうか?
コーンフラワーブルーに彩られた機体の表面に映った自分の顔をボーッと眺めながら理由を探した。
歪みの無い平滑なボディに浮かんだオレの相貌は平凡そのものだった。
イケメンと言うには程遠いが、不細工と言う程でも無い。
ちゃんと眼が二つ、鼻が一つ、口も一つ。
それぞれが想定される所定の位置に、ま、何となく納まっている。
審美を問われる要である左右のシンメトリーも一応は普通に整合性が取れては、いる。
ただ、顔相学的に言えば、真正面から見た時に鼻の穴が覗いていると『金が溜まらない』とされているらしい。
その予想は、半分は当たりで、残り半分は外れだ。
顔相学も所詮は統計学の一種だから、結局の所は確率論だ。
降水確率が30%でも雨が降る時は降るし、お天道様が笑う時は笑う、
そんなモンだ。
イヤ、違う。
そんな事じゃない。
ジイちゃんの事だった。
それに何であの時そんな事をオレに伝えたんだろ?
6歳の男の子にとって大事な物は、クワガタであり、カブトムシであり、手に取ると直ぐに丸まって玉に成るダンゴ虫だったり、グワッグワッと鳴くアマガエルだったりで、正直女性の事なんかどうでも良い、っつーか興味が全然湧いて来ない存在だったのだ、当時は。
大体、毛も生えて来ていないガキんちょに女性の特質を話した所で『ポカーン』って口を開けたまま呆然とするだけが関の山じゃないか、一体全体何考えてたんだ、ジイちゃん?
そんな余計な事を考えながら、ジイちゃんの言葉を多少持て余し気味に転がし続けていると、別のフレーズが前頭前野腹内側部(注1)に続け様に到来した。
『最後に頼むモノは、勘だ』
『どゆ事?』
『イイか、戦争を遂行するに当たって最重要事項は二つ、LogisticsとIntelligenceだ。
Logisticsは兵站(輸送、宿営、糧食・兵器・装備・人員の補給管理、傷病者の処置などを行う軍事業務)でIntelligence は情報・諜報だ。どちらを欠いても致命的だ。情報が無い場合、例えば「敵が今現在何処で何をして今後何処へ行って何をする心算なのか?」を正確に把握していなければ戦闘をする場所、つまり前線すら構築できない。全ての戦闘が不期遭遇戦(予期されていない出合い頭の戦闘行為)という事に成る。そして「敵が使用している装備の種類と性能及び数量はどれ位なのか?」より基本的なモノで「敵側の勢力はどの程度の規模なのか?」「味方側の損耗率はどの位なのか?」「友軍の要求事項は何か?」それらの様な情報も無い状況下においては兵站も全く覚束なくなる。
当たり前の事だな。
どの種類の兵力を何処へ、どの位の単位数を送り込めばいいのか、想定しようがないからだ。戦闘をすれば弾丸は消費される。だがこの場合には兵士から要求される補給を担保する事も不可能な作業に近くなる。弾薬を撃ち尽くしてしまえば高性能なライフルでも単なる棍棒だ。近代戦で木の棒などクソの役にも立たない。そんな事では勝利など闇の彼方に消え去る。この事実を証明する良い例がアメリカの遂行したベトナム戦争だ。
結局、負けただろう?
だから勝つ為には、敵に関する正確で最新の情報を獲得して分析を行い、その上で必要な人員と装備を的確に前線に投入する事が必要に成る。
だが情報が得られなかったら、どうする?
完全に外部から途絶された環境下で情報を一切得られない場合は、己の勘に頼る他は無い』
『大丈夫なの?』
『大抵の場合、直感が指し示す方向は正しい。しかし間違ったベクトルを採用してしまう事もある。その頻度は決して少なくは、無い』
『間違ってしまったら、どうすンの?』
『話は簡単だ。選択が間違いだったと悟ったならば、その後に可能な限りの努力を注ぎ込んで強引にでも己の為した決断を正しかったモノに変換するのだ』
ウソだろ?
半ば呆れ気味に心の中で呟きながらオレはジイちゃんの顔を見上げた。
この時は、中学に上がった頃だったから12歳だったと思う。
小学校の時に比べれば大分成長して背も高くなっていたが、如何せんジイちゃんは身の丈6尺(180cm強)という戦前生まれにしては超が冠された大男だったから、何時まで経っても飼い犬が御主人様を見上げる様に視線を上に向け続けなければならなかった。
ま、今ジイちゃんがココに居たとしても、結局の所は見上げ続ける事に成るんだけど。
オレ、小さいし、今も。
『Intelligence(情報)とLogistics(兵站)。この二つを軽視して粗略に扱う軍事組織に於いては勝機を掴む事自体が至難であり、故に勝利を収める事など到底不可能である。このケースの見本はお前の身近な所に転がっているから、充分に良く理解出来るな?』
『ウン、ウン』
そう言い放ったジイちゃんのこちらを睨みつける様な双眸から放たれた圧力のあまりの強さに気圧されて、オレは縦にブンブンと激しく首を振った。
帝国陸軍少尉時代の苛烈な経験に裏打ちされた精神が生み出す斥力は、尋常ではなかった。
ジイちゃん、オレは無謀な作戦を立案して、無理矢理に実働部隊に強行させ、結果的にこの国自体を壊滅状態へと追い込んだのにも拘わらず、結局何の責任も取らず戦後も安穏と生き続けた大本営の人間じゃないぞ、と反論したかったのだが、一切の口答えを許さない雰囲気が辺りに濃厚に漂っていたので、何も言わず黙っていた。
でも、何でこんな事を立て続けに思い出すんだろ、今?
何なんだ、一体?
歪み、淀みや皺の様な視線が絡め取られる引っ掛りが何も無い、摩擦係数が極度に低く抑えられたボディの表面に浮かんでいる間抜け面を見降ろしながら、オレは答えの出ない問い掛けを自分自身に投げかけていた。
最表層に施されたクリアコーティングの上で凡庸な男の顔が輪郭までクッキリとした画像を結んでいる。滑らかな曲面に沿って像自体は引き伸ばされたり縮められたりで面白い顔へと変換されてはいるんだけど。
でも、赤城さんの作り上げたこのボディは完璧だ。
少なくとも現時点で得られる最高のモノだ。
このボディの仕上げの凄さは一目見ただけで簡単に(プロじゃなくても何となく)判る。
うねる、撓む、たれる、弛む、捻じれる、よじれる、歪むと言った板金業界のNGワードとは無縁の出来栄えだ。
これはボディの中心核たる鉄鋼板やカーボン・ブレース(カーボン製の補強材)が、非常に丁寧な作業を施される事で当初の設計思想をそのまま高精度に実現しているからだ。
え?
意味が判らないって?
言い換えると、設計した人間が『こういう感じで造ってね』と図面に描いた理想像をそのまま現実の世界に再現した、って意味だ。
設計士の思い描いた理想のライン。
赤城さんは最新の機器を使わず(ちょっとは使ったと言ってはいたが)昔通りに自分の手だけでボディを作り上げた、らしい。
製造年数だけで言えば25年も前の機体だから製作技術も稚拙な上に材料自体も低品質だったから最新の車種と比較すると外装に使用されているボディパネルの出来も今一つで、だから眼の前に在る機体に装備されたパネルの滑らかな曲面を手で打ち出した、らしい。
ま、細かい事を言えば実際に手で叩き出した平滑面は、リアフェンダー(注2)やAピラー(注3)までもがカーボン・タフポリマー製だから、結局の所サイド・ルーフ・レール(ドア最上部と屋根の間の部分)ただ1つだけなんだけど。
鉄鋼板はコレだけで、他の外装パネルは全て外注のカーボン・タフポリマーだし。
でもパネルを内から裏支えしているボディの骨格構造(フレーム、構造パネルやピラー等)がビカビカに仕上げられていないと、こういうカッチリとした表現には為らない。
そして勿論カーボンパネルの表面処理を施したのは、赤城さん本人だ。
チリ(外装のボディパネル同士の隙間)がビタッと合っているボディ。
量産車では中々到達できないレベルの仕上がり。
細く均一な間隔を挟んでボディパネル同士が高低差無く接合されている様は実に見事だ。
この事実が高い剛性と大きな強度をハッキリと明示している。
工作精度の高さ。
フィッティングがパーフェクト。
これだけビシッ、ビタッと決めるのは容易な事じゃない。
将にタイトフィットだ。
そして辺りに漂うソリッド感。
最小限の許容差で組み上がった機体は、他者の追随を許さない。まさにドンピシャに製作されているボディ。
と、何故だか沢山の言葉の羅列が皮質上に立ち昇って来るが、嬉しさがソレを許容する。
そしてボディの表面が磨き上げられた鏡の様にツルッツルッ、ビカビカ。
塗装の力だけでは素地の素性の悪さを誤魔化せない。
素地である鉄鋼板やカーボンパネルの表面が完全なる平滑に仕上げられているからこそ、こんな風に波紋一つ立っていない湖面の様な像反射を可能にしている。
明鏡止水ってこんな感じなんだろうな。
この様に表面上に取っ掛かる部分が何も無いので製造工場から出荷されたばかりの完全な新車の2倍位の強度・耐久性がある様な、カッチリとしている印象を受ける。
実際、計測したデータの解析結果からはコイツが新車以上の強度を持っている事は判っているが、数値はあくまでも数値に過ぎない。人が受け取る印象はソレとは次元を別にする。
 一瞥で人間の『眼』は数値以上のモノを獲得出来るのだ。
一例を挙げると、コレはやや特殊なケースなんだけど、ある21歳の女性は散歩の途中で道端に群生しているシロツメクサ(クローバー)の中から遅疑する事無く瞬時に四つ葉の個体を探し出せる特技を持っているそうだ。四つ葉のクローバーの発生確率は1万分の1。つまり表現を変えると、彼女は1万本を概観する事で群れの中から唯1本の四つ葉のクローバーを選り分けられる才能を持っているという事に成る。彼女のこの異才が或るTV番組で取り上げられた時に『何故そんな事が可能なのか』という謎を医者や科学者達に解明させようとしたけれど結局、理由は解らず仕舞いに終わったらしい。
こういう事例を見聞きする度に『人間って凄ぇ!』と感嘆させられる。
データに上がってこないモノを感じ取る能力が生得的に備わっているんだ、と。
因みに件の女性は四つ葉だけでなく六つ葉のクローバーも良く見付けるそうだ(六つ葉の発生確率は1600万分の1!)
何故そんなに簡単に四つ葉のクローバーを見つけ出せるのか問われた時に彼女は以下の様に答えた。「リンゴの中にイチゴがあったら、すぐにわかるじゃないですか。同じ赤でも」
リンゴが山と積まれた中にイチゴが一個...
三つ葉のクローバーの群生地の中に四つ葉...
そんな異能の人は横に置いておくとしても、オレに代表される普通の人間にでも比較的容易に出来る事がある。
例えば、自動車のボディの塗装に隠された素地の違いは、剥離剤を使って引っぺがさなくても、見ただけで判別が可能だ。
普通の量産車の外装は高張力鋼板と呼ばれる強度が高い薄くて軽い鉄鋼板(場所によっては軟鋼板と呼ばれる比較的低強度のモノが使用される。この種は衝突した時に変形させる事で運動エネルギーを吸収したいゾーン等に採用される)とプラスティック製のパーツで構成されるのが通常だ。その上に数種類の塗料が何層にも渡って塗り重ねられている。
だから道行く車や路駐しているヤツをチラ見しても同じ色の塗装が施されている様にしか思えない。だが注意深く眼を凝らして仔細に観察すると、違いに気付く。
その微かな差異が認識できる。
え?
全く違わないって?
うーん、これには少々コツがいるんだよね。
一番判り易い場所は、トランクリッド(=トランクのふた、車種によってはリアゲート:鉄鋼板製)と隣接するリアバンパー(大抵の場合はプラスティックのポリプロピレン製)の境目。
慣れれば太陽光の許でも簡単に見分けられるんだけど、と言うか板金塗装面の仕上がりをチェックするのには太陽光の許がベストだとされているんだけど、一般人には些かハードルが高いので別の方法、例えば夜の暗闇の中でLEDライトで照らし色々と光線軸の角度を変えて試せば、鉄鋼板とプラスティック製の素地が放つ反射光に潜んでいる微妙な違いが判る様に成る。
色自体というよりも反射の違いという感じだ。
ま、判ったからって『ソレが一体何の意味?』って事でもあるけど。
それに夜中にライト片手にグルグルぶん回していると警邏中の御巡りさんに見咎められる恐れが大なので、やらない方が良いかも知れない。
え?
何で色が違うのかって?
思いっ切りザックリと言うと、素地の材質の違いが大きく影響している。
簡単に説明すると塗装は、下塗り(下地作り)・中塗り・上塗り(仕上げ塗り)の3つの行程から成っている。でもその全部を含めた塗装自体の厚さはたったの0.150mmしかない。煙草の箱を包んでいるセロハン紙2枚分と同じ厚さだ。そんなに薄いので最下層の素地(鉄鋼板やプラスティック)で反射された光を簡単に透過させてしまう。樹脂製パーツ(プラスティック)自体の色は黒に近いグレーの事が多いし、鉄鋼板の色は鉄色つまりメタリックシルバーだ。だから反射してきた光の色が違うのは当たり前だとも言える。
え?
光は塗装の表面で全部反射するんじゃないのかって?
意外かもしれないが、そうじゃない。
ウーンと、どうしようか。
そうだ、光の透過を感じ取れる簡単な実験がある。
明るい所で眼を閉じてみて欲しい。
どう?
明るさを感じないか?
厚さが数mmの目蓋を光は簡単に透過して網膜上に在る桿体細胞(視細胞の1種:明暗を感知する。色を感知するのは錐体細胞)を刺激するから、明るさが感じられるんだ。
同様に光は車の塗装面を容易に透過して最下部の素地(鉄や樹脂)で反射して外へと飛びだして行く。その時に塗装面内の塗り重ねられた各層間の境界面から別個に反射して来た光たちと相互に干渉(強めあったり弱め合ったり)し合い融合して最終的に人間の眼に飛込んで行く。その結果として最終的な色が決定する。
後は、塗装法の違い(鉄鋼板は電着塗装で樹脂製パーツには吹き付け塗装が用いられる)や、製造環境の違い(温度・湿度・工場内の空気の流れ方・塗装の乾燥して行く速度)そして下地処理の違い(鉄鋼やアルミには防錆剤の塗布が不可欠:錆び止めしないと塗装してあっても絶対に錆びるから:プラには基本的に不必要)なんかも関係してくるんだけど、あまりにも煩雑に成り過ぎるので割愛します。
ま、通常の量産車のボディは部分部分で微妙に色が異なるって事を理解してくれれば良い。
高級車に成れば成る程、より丁寧な塗装を施されているから色の差異は小さくなるけれど完全に無くす事は不可能だ。そして年数が経過すれば紫外線等の影響によって更に色の違いはハッキリして行き、誰の眼にも明らかにその差異が映る様に成ってしまう。
隠そうとしても隠し通せるモノでは無い。
だが、目の前の機体に色の差異は全く認められない。
何度も眼を凝らして違いを探し出そうとしても、全然出て来ない。
赤城さんの仕事は将に完璧だ。
この機体を組み上げるのに使用された主要パーツは様々な強度を持つ各種の高張力鋼板(要するに強靭な鉄板)及び軟鋼板とカーボン素材(CFRP=Carbon Fiber Reinforced Plastics:炭素繊維強化プラスティックとか炭素繊維強化樹脂複合材と呼ばれるモノ)の3種類。主にこの3つで製造されている(勿論プラスティックやウレタン、ゴム、アルミ製品そして各種ポリマー製品なども使用されている事は言うまでもない。あくまでもボディを構成している主要なパーツの事だ)
でも全く違いが判らない。
カーボン素材は炭素原子から、そして鉄鋼板は鉄原子から形成されているから地色は全然違う。だからそれぞれの外装パーツからの反射光が異なっていて当然だ、という予想に反して、全く一緒だ。
透明度の物凄く高い湖を覗き込んだ時に網膜に映る、クリアブルーを何百層も塗り重ねた様な印象を残して行く透徹の『青』が外装パーツの表面上に体現されている。
『オーダー通りに仕上げたぜ』
そんな風に赤城さんは事も無げに言いそうだ。
この恐ろしく完成度の高いボディに見合う仕事が、オレは出来ているのだろうか?
そう自問した。
だけど直ぐに思い直した。
オレはヒヨっ子だ。
赤城さんとオレとでは経験値が違い過ぎる。
それにオレはエンジン屋だし。
自分の能力以上のモノなど発揮できる訳が無い。
だから、可能な限りの最大限の努力を払う。
出来る事を一つ一つ、たとえソレがどんなに小さなモノであっても疎かにしないで、丁寧に地道な作業を積み重ねて行く。
親父っさんに教わった最も重要で大切な『基本』だ。
しかし、オレはその『基本』が出来ているのだろうか?



多分、



いきなり大きな跳躍をしようとすると大概、着地した時に足をグキッと挫く羽目に為る。
親父っさんはそんな意味の事をよく言ってたな。
地力が大事って事だよな。
今、現時点ではその地力のキャパシティはまだまだ充分とは言えない。
だからコレはコレとして、自分の出せる最大限のアウトプットとして素直に受け止めなければいけないんだ。
ま、一応の満足はしているし。
ベストには未だ遠いけれど、悪くは無い。
そして目指している到達点も同じベクトルの延長線上にあるのを感じる。
『この機体と一緒に走る時間を可能な限り延ばす』という目標だ。
機械のズレは機械で補正する。
親父っさんに教わった通りのやり方。
クルマの生存期間を可能な限り、延ばす。
終わりの時を出来るだけ向こうへと押しやる為のチューニングだ。
このまま進めて行けば良いのが判っている。
ソレが心地良いし、だからの満足感なんだ。
アレッ?
イヤイヤ。
こんな事を考えようとした訳じゃ無い。
何だったっけ?
そうだ。
『腕をブンブン振り回して歩く女には、気を付けろ』
このジイちゃんのフレーズが何で頭に浮かんで来たのか、だった。
<情報と兵站>と頭の後方、右上にいつもいるもう一人の自分が囁く。
そうだな。
情報を集めなければ何の判断も下せないもんな。
悪い予感しかしないけど、現状を認識しておかないと駄目な事は判っている。
現実ってヤツを真正面から見据えないと。
その作業を後延ばしにすればする程、状況は悪化の一途をたどる。
放置しておけば自然と改善されるって事は、絶対に無い。
顔を上げて周りを見渡した。
リフト(修理点検の為に自動車を昇降させる機械)が2つ在るだけの小規模の整備工場。
工場建屋の前には車寄せと言うか車置場と呼ぶのかは知らないが、整備前や整備後の車を駐車して置く為のやや広めのスペースがある。
太陽光の許で点検する為にソコに停めてあるコーンフラワーブルーの機体。
コンクリートが打たれた地面から上がって来る暑気の名残の様な微かな熱気。
何も変わった所は感じられない。
日常と全く変わらない寸分違わぬ同じ光景が、何故か悪い予感を更に加速させる。
気が進まなかったけど、ずっと機体を眺めていても何も始まらないので踵を返して重たい一歩を踏み出した。
工場と一続きに成っている事務所スペースの脇を通って県道全体が見渡せる歩道へと出た。
片側1車線の日本全国何処にでも存在している由緒正しき田舎の県道。
小1の時に習ったルールは『右を見て、左を見て、また右を見て』だった。
だから右を見た。
方向で言えば西、相模湾の方角だ。
白と赤と青のトリコロールカラーを身に纏った京急バスが腹に響くディーゼルエンジン特有のけたたましい重低音を撒き散らかしながら右からやって来て左へと通り過ぎて行った。
三崎口からのバスだろう。
横須賀駅行というデジタル文字が前面上部に掲げられていた。
眼の前を通過して行くバスの搭乗口横に貼られた表示を見て漸く気付いた。
へーっ、今はスイカとパスモが使える様に成ったんだな。
長い間ずっと部屋ン中に籠ってたもんな、そりゃ時代は動くわな。
妙な納得をしてポクッと軽く一つ頷く。
違うだろ!
下らない事して時間稼ぎするのは止めて早く状況を確認しろよ、オレ!
さて『左見て』だが、この時点で悪い予感は不吉さを2倍以上倍増させており、その強大な質量が首を回すと言う簡単な行為を相当に困難な事業に格上げさせてしまっている。
暗雲は指数関数的に増加を続けて今やオレの頭上を完全に覆い尽くそうとしていた、
こんなに晴れてるのに、な。
出来る事なら振り返り様にダッシュして戻り、飽きが来るまで存分に仕上がった(赤城さんが言う通りに未だ『フェーズ1』だけど)機体を眺め続けたかった。
だけど、
逃げちゃ、ダメだ。
逃げちゃ、ダメだ。
逃げちゃ、ダメだ。
現実から逃避しても何の解決にも成らない。
覚悟して左に首を振った。
プラプラ徒歩で3~4分程度の近所に在るセブンイレブンの駐車場から、女が歩いて出て来るのが視界の端っこに映った。
左腕をブンブン振り回してズンガズンガとこちらにやって来る。
必要以上に激しくブンブンさせているのでアップにたくし上げた黒髪が左腕の動きに同調してワッサワッサと左右に揺れているのが、ココからでも丸解りだ。
スラッとした長身をタイトな黒いワンピースがビタッと覆っている。
ノースリーブなのにタートルネックっていう、寒いのか、暑いのか、オレからしたら理解不能な変わった形状の服だ。(注4)
ひざ丈のスカート部分から伸びる長くて形の良い脚が交互に前後動している。
もっと簡単に『歩いている』って漢字変換しろよ、オレの言語野、特にウエルニッケ野!
肩から下げているケリーくらいの大きさのバッグが髪の毛の動きとややズレてシンコペーションを踏んでグラングランしているのが窺える。
反対のもう片っぽの方に掛ければいいのに、と思い、
振り回されているのが左腕だけなので『右腕は?』とそちらに視線をくれると、背丈から推察するに3年生位だろうか、1人の女の子と手を繋いでいる。
誰だ?
思考・判断を司る前頭連合野は既に解析を終えて答えを弾き出していたがソレを認めるのが怖くて現実逃避の為だけの問いかけをもう一度重ねて自分自身へと投げ掛ける事にした。
誰なんだ、一体?
<判ってるくせに>
頭の裏側に巣食っている常に冷静沈着で客観的なもう一人のオレが静かに諫言を呈した。
キチンと現実ってヤツを受け止めろ、と。
でもチキンなオレは中々現実受容体制を整えられない。
そうやって事実を受け止める事を逡巡している内に女(と女の子)がオレの眼の前1mの近距離までやって来てしまった。
うわっ!
「久し振り、研吾」
女はニコニコ笑いながら、開口一番そう言った。
身長が172cmある上に10cm位のヒールが付属したミュールを履いているからオレは当然の如く女の顔を見上げる事に成った。100人いれば100人全員が(好みか好みで無いかは別として)美人と判定するのは間違いない非常に目鼻立ちが整った顔は、心の底からの笑いに彩られている。
最悪の予感は大抵の場合、現実化すると言われる。
その通りだ。
オレの20代を滅茶苦茶に破壊して暗黒の時代にした佐伯結衣が眼の前にいる。
これから起こるだろう厄介事を想像しようとしてオレは震撼した。
多分、予想を遥かに超える面倒な出来事が起きるのは間違いない。
何が起こるんだろう?
心残りの太陽が久々にやる気を発揮して大気全体を白銀に輝かせたけれど、時季の圧力は強くて残念ながら空の天井を高く持ち上げてしまっていた、そんな初秋の昼時だった。

注1:前頭前野腹内側部とは、
感情を伴う記憶が論理的思考と一つに成って意思決定が為される部位。直観力及び直感力による判断を司る部位

注2:リアフェンダーとは、
自動車のトランクリッドから左右側方に垂れ下がる様な格好で、後輪の周囲を覆っている一対のパネル。回転するタイヤ自体及びタイヤが撥ね飛ばす石、泥、水などから乗員や歩行者を保護する為の部材。クォーターパネルとも呼ばれる。
これに対して前輪の覆いは単にフェンダーと呼ばれる。

注3:Aピラーとは、
見掛け上自動車の乗員室(キャビン)の最前部で屋根を支えている柱の事。多くのクルマでは、フロントフード(ボンネット・エンジンルームの蓋)から生える様なデザインでルーフ(屋根)を支持している。柱は左右一対で、前方からAピラー、Bピラー、Cピラー(ワゴンタイプの車にはDピラーが備えられている場合が多い)と呼称される。
実際は各々、ルーフとフロントボディ、ルーフとアンダーボディ、ルーフとリアボディを連結していて、車体の強度、剛性や衝突時の乗員空間などの確保の為に必要不可欠な骨格構造材である。クーペタイプの様にBピラーが無い車種も存在する。
厳密に言うとピラーは内部の骨格構造体である。
例えばケンゴの前に在る機体は、リアフェンダーのスキン(表面)が伸びてサイドルーフレール(ドア最上部と屋根の間の部分)からAピラーの表面までグルッと覆っている(サイドパネルアウターと呼ばれるパーツ)のでA、B、C全てのピラーは外観からでは確認できない。

注4:
研吾君は、ホールター〔halter〕の事を言いたいのだと思われます。
ホールターとは、前身ごろから続けた布や紐を首の後ろや背で結わえて留めるようにした、両袖が無く、背中がパックリと開いた、結構過激なスタイルの女性用ドレスのこと。
日本ではホルターネック(halter neck)とも称されますが、この言葉を厳密に解釈すると、胸から続いた布地・紐・ストラップなどを首の後ろに回して固定する様にデザインされた女性用の衣服のストラップの1種、となります。つまり首回りのデザインのことを意味し、ドレス全体のことを指してはいません。故にドレス自体を言い表したい場合はホールターと言うべきでしょう。
ま、こんなの細か過ぎるコトなので、そんなの誰も気にしないでしょうけども。



きょう ママは アサからニコニコしてる
ママがニコニコしてると ワタシも ウレシくなる
きょうは めずらしくママが アサはやく おきた
いつものママは おひるをすぎないと ベッドからおきてこない
おしごとが ユウガタからヨナカまで ズウーッと あるから
だから いつもオヒルまで、ずっとねている
いつも ママはベッドからおきると すぐにテレビをつけて
おきにいりのバングミをみる
2じかん ほーそーしてる ながいばんぐみだ
ホントは11じから3じかん やってるけど きっとママはしらない
オキテこないから
モリさんって ゆわれてる
いつも ショボンってしてるヒトがセツメイする テンキヨホーをみて
わらいながらテレビに もんくをゆう
あたらないじゃん
とか
わからないっ、て ダメじゃん
とか ブツブツいう
もんくを ゆっても モリさんは テレビのなかに すんでるワケじゃないから
ママのことばは ぜったいトドかない
でも きょうは アサはやく おきてきた
ハミガキしたあとでママが
おなか すいてる?
と きいてきたので
ウンと ゆうと
コンビニいってくるね といって
おそとに でかけていった
テレビのなかで しらないオジサンとオバサンがプンプンおこっている
ナニに おこってるのかな?
もうすこし なかよくすればイイのに
それを チョットみていたら
ママがビニールぶくろをもって かえってきた
オニギリかってきたよ とママがいって
テーブルのうえにオニギリをだした
ツナマヨあるよ
そうママがいって オニギリをいっこ ワタシに てわたした
ガチャガチャとウルサイ音をだす とうめいなビニールをはがして ツナマヨをたべた
いつものコトだけど
オニギリのまわりにある とうめいなビニールは じゃまだ
ノリがじょうずに でてこない
いつもバラバラに しちゃう
テーブルの うえに パラパラこぼれて きたなくなるから、キライ
でもツナマヨは おいしい
ポテチよりも おいしい
ホントは、タラコの方がスキだけど
いつもは ママが ねているので
おナカがすいて アサはやく おきちゃっても
たべるモノが ない
だから キッチンを たんけんして
なにか たべるモノが ないか、ガンバってさがす
あんまりウルサクするとママが おきちゃうから
アサはやく おきると ママは ぜったいキゲンがワルいので きを つけないとダメだ
だから ソッと シズカにコソコソっと さがす
たんけんすると いつもポテチがみつかる
だいたい おなじバショで
だから たんけんは いつも みじかい
音を たてない
それだけ、チュウイする
ポテチを音がしないように、ソッと食べる
ポテチは ショッぱいし、すぐに あきる
でも、おなかが グウッとならなくなるから、うれしい
きょうは、ツナマヨ
ツナマヨは、おいしいから チョーうれしい
オイシイっておもって たべるとチョーおいしい
ポテチよりも、ウーンと おいしい
でも、タラコはもっと グーンと おいしんだよ、ね
ホントは、
ホントは、
ホントは、ツナマヨのオニギリって、あんまりオイシクないって おもう
ポテチより おいしいだけ
ポテチより ましなだけ
でも、オイシそうに たべないとママのキゲンがワルくなるから
いつもガンバって、オイシイって おもう
チョーおいしいって、おもう
そう おもってると、なんか オイシクなってるキがする
ママは、ワタシがツナマヨがスキだって おもってる
でも、ホントはツナマヨのこと ワタシあんましスキじゃない
ワルいヤツじゃないんだけど
ホントは、オイシクないんだもん
ホントはタラコの方が ゼッタイにスキ
あのツブツブが いいカンジ
ノリもタラコの方が いいカンジだとおもう
タラコ、おいしい
でもタラコは130円もする
チョットたかい
ツナマヨは105円だから やすい
やすいから、ツナマヨってママにゆう
でもホントは、タラコにしてほしい
きっと、ズッと、タラコにして ってゆえないんだろなぁ
オニギリがいっぱい、テーブルのうえに ある
でも、タラコは ない
ツナマヨとオカカだけ
ウメボシも ないんだぁ
スキなんだけどな、ウメボシ
ツナマヨを たべちゃったから、ママにきいた
もうひとつ たべていい?
いいよ
ママはニコニコしながら、ゆった
ムギチャも かってきたから
そうママは ゆって ペットボトルのキャップをひねって
ワタシに、わたしてくれた
ねえ、織
なに?
きょう、これからオデカケするから
オデカケ どこに?
いいトコ
うん、わかった
クルマ、だからさ、おクスリのみな
うん、オニギリを たべおわったら、おクスリのむ
ママはニコニコして、オチャをのんだ
ママはキゲンがイイと、とてもヤサしい
だから、きいてみた
ママ
なあに?
テディさん、いっしょにツレていって、イイ?
イイよ
やった!
ワタシは、うれしくなって ムギチャをのんだ



 久し振りに見た結衣は、経年劣化を一切感じさせず、相変わらずに綺麗だった。
だからかも知れないけど、上ずった上に口が回転してくれなくて上手く言葉が出て来ない。
それでも何か言わないと頭が爆発してしまいそうだったので、『何で来たのか』という空間を埋める為の取り敢えずの言葉を出力しかけたオレのアタックに被せる様なタイミングで、結衣は振り返り様に彼女の陰に隠れる様に立っていた女の子に「さ、イト。御挨拶なさい」と言った。
オレはその言葉に促される様にその女の子に視線を移した。
「オガタ...イト...です」と結衣の後ろから首だけを出した女の子が言った。
その消え入りそうな小さい声をオレは苦労しながら受け止めた。
「オガタ...イト?」
オレはオウム返しの様に呟いた。
親戚の子なんだろうか?
姪っ子だか、従姉妹だか、はてさてハトコだか知らないが、
何でココに連れて来てるんだろう?
っつーか、一体全体、何で結衣がココにいるんだ?
何年振りに成るんだっけっか?
忘れようとしても忘れらない、あの日の朝。
『アンタ、この頃ちょっと違う』という受容れるのが難しい言葉をオレに向って投げ捨てた後、デヴィッド・カッパ―フィールドがその身に備えた魔力を全開にして消し去った様に、彼女が部屋から出て行った朝。
残されたのは、窓から差し込む初夏の太陽光によって存在を暴露された浮遊散乱する無数のホコリ、今も耳の裏に響き続けている『バシンッ』というドアが閉められた時の乾いた音、そして拒絶された衝撃で皮質が一時活動停止状態に陥ってしまい(鏡を見てないので断言できないが)きっと生涯一のアホ面を無人の観客達に曝し続けていたであろうオレ。
その衝撃は完全には消去されてなかった様で、再び響き始めてオレの頭を揺さぶる兆候を見せ始めた。
 イカン、落ち着け。
このままじゃ、また思考停止するぞ。
虚無が支配する空間をこの場所で再現するのは、真っ平ゴメンだ。
落ち着く事を最優先事項にするんだ、オレ。
呼吸だ。
大事なのは、呼吸だ。
気息を整えろ!
息を『凝らす』事だけを心掛けるんだ、ジイちゃんに教わった通りに。
下腹に位置している臍下丹田の上に意識全ての焦点を集めて、呼吸を透明にして行く。
良し。
気息をアイドル状態に戻す事に成功した。
でも6秒も掛かっちゃって、だから、ジイちゃんが居ないって事に感謝する。
もしも横に立っていたら、
『こんな奴だったのか』と呆れ返り、突き放す様な視線を落とされるのは必至だからだ。
 違うんだ、ジイちゃん。
実際に結衣を眼の前にするとアワアワしちゃって、狼狽から自分を救出できなくなるんだ。
情けないけど。
 ジイちゃんに教わった事は沢山ある。
野営に関する事なら、道具が一つも無い状況下での火起こしから始まって、厳冬期の山中で独り真っ裸で一晩快適に過ごす方法とか、糸や針を欠いた時に魚を獲る技術とか、ナイフ一本でイノシシを捕獲する手段とか、光源が1つも無い漆黒の闇のなかで精神を上手くコントロールして平常心を失わない為の呼吸法や思考法、思考を暴走させた挙句に本来なら無用な想像で悩み苦しむ結果に陥らない様に上手に回避する方法とか、先入観や偏見に囚われる事など無く周囲に拡がる世界を在るがままに受け入れる技術とかも、だ。
 だが、結衣だけは例外だ。
付き合っている時でさえ、毎日が新鮮な存在だった、良い意味でも悪い意味でも。
昨日に結構な時間を共にしていても、翌朝に顔を合わせるとコクンという音を起てて強大な重力を有する特異点がオレの内側に誕生する。
そんな具合で、加えて今回は何年も間を置いての久々の再会だ。
そりゃ、アワアワっても為るよ、ジイちゃん。
<言訳はいいから、シャンとしろって!>ミスター客観的が苦言を呈した。
色々と錆び付いちまってンのかな、オレは?
早いトコ、鍛え直さなきゃ。
<イヤイヤ、今そんな事は心の棚の隅っこに仕舞って、暫くの間は放っておけって!>
現状認識の方が先だ、オイ。
とにかく情報を収集しなければ何も出来ないぞ。
何か言おう、御座なりの言葉で充分だ。
懸命の努力の結果として「何で、ここに来た?」とだけ言えた。
「クルマ」
「え?」
クルマ?
免許取ったのか、アレだけ運転するの嫌がっていたのに。
イヤ、変な感心してる場合じゃない、そうじゃなくて、
「違うって。何でいきなりココに来たんだって訊いてるんだ、連絡も無しで」
「ああ、そっち」
『ソッチ』って『ドッチ』だよ?
激しく散乱するオレの想いには一切の考慮を払う事無く結衣は妖しく微笑みながら続けた。
「だって、メールを寄越したの、ソッチじゃん」
え?
メールって、何それ?
「ビックリだよ、いきなりだもん。6年も放ったらかした挙句に、じゃん」
6年?
そんなに経ったのか、あの朝から。
アレッ?
『放ったらかした』だって?
イヤ、違う。
オレを捨てて勝手に出て行ったのは、お前じゃないか。
そう言おうと思ったのだが、下手に口を挿むととんでもない方向に状況が進行してしまう可能性が大きい事は経験から熟知していたので、その台詞は飲み込む事にした。
「メール、オレ出したっけ?」
「今時、メールなんて珍しいから、驚いた」
チョットね、と続けてから『クスッ』と漫画みたいな音を立てて、結衣は笑った。
 クソッ!
コイツ、やっぱ綺麗だな。
肌理の細かい剥きたての卵の様な白く小さな顔の上でアーモンド型をした眼が、チェシアキャットみたいに耀いている。藍鳶色をした虹彩が相変わらず深い印象をオレの心に残す。
世間では『肌の白さは七難隠す』と言うらしいが、コイツの場合は隠すべき代物は1つも持ち合わせていない様に思う、少なくとも外観上は。
遠くから見た時はビタッと密着して身体を覆っている様に思えたのだが、傍らで改めて見ると黒のワンピースは(正式名称は何て言うんだ、コレ?)身体のラインに合い過ぎていて動くのに窮屈って程でも無く、適度な遊びがあってボディの輪郭をシッカリと包み込んでいる絶妙なフィッティングって印象をオレに授けた。
タッパが有って細身だけれど出るトコはしっかりと出ている身体付きだから、世間一般の性愛対象が女性であるストレートな男性達の殆どは、結衣を一瞥するや否や、服越しからでもオッパイもおケツも麗しい形状をしている事は簡単に判別できるのでソコは一時脇に置いておいて、灰色の脳細胞をフル回転させ(妄想の中で)ワンピごとアンダーウエアをガバッと引っ剥がし、乳首の形状とか乳輪の大きさや色とか、下の方の植物相の具合はどうなっているんだと、想像を膨らませるのに物凄く忙しい事だろう。
 だが、オレはしない。
別にオレが清廉潔白で高潔な聖人君子だからでは無い。
何故なら一緒に暮らしていた2年余、文字通り『毎日』見ていたからだ。
隅から隅まで良く御存知の物件です、ハイ。
胸の奥に在る想いとか気持ちとかはダメだったけれど、身体だけは頭の天辺から足の爪先まで充分に理解出来ていた、筈だ、多分。
記憶の貯蔵庫に残っている結衣は透明感満載の白い肌をしていたが、
 現在の彼女においても同様に、ノースリーブから伸びる長い腕も、膝丈の裾からスラリと伸びている脚も、限りなく透明に近い白色をしている。
えーと、初めて出逢った時にコイツは17で、それから2年チョットの間一緒に暮らして、バンッという音と共に消え去ってから6年経過したとすると、25、うーっ、確か結衣の誕生日は9月23日だった様に覚えているから、26に成ったばかりか。
女性は25を過ぎると美白に気を配る様に成ると聞くが、コイツはそんな事、気にした事なんかないんだろうな。無駄毛も剃った事ないって、何時だか言ってたし、な。
ま、オレ的には灼けた肌も、結構好みなんだけどな。
 アレレッ?
まだ、未練タラタラなんかな?
吹っ切った筈なんだけどな、6年も掛かっちゃったけど。
そういう想いに囚われた途端、嗅球が働きを始めて懐かしい香りを意識の上に昇らせた。
シャネルのN゜19。
初めて2人で過ごした結衣の誕生日にオレがプレゼントしたフレグランスだ。
横浜駅に隣接した高島屋の化粧品売り場を2人で何をするでもなく、ただプラプラそぞろ歩いていた時に偶然手にした、えーと確かアレはパルファムだったか、それともオードゥパルファムの方だったっけか、どちらだったか記憶が定かではないけど、とにかく結衣がその香りを非常に気に入って、それで誕生日にプレゼントする事に成った。
あの時、彼女はとても喜んでくれた。
それからというモノ、いつも耳朶の後ろに着けていた。
なんかチョット嬉しい、まだ着けててくれて。
あ、耳朶の後ろだから、パルファムの方か。
高かったモンな。
シャネルのN゜19はココシャネルのプライベート・フレグランスで香りはfloral note 、green note 、woody noteで『自らの意志を感じさせる香り』だ、と売り場のお姉さんが教えてくれた記憶が皮質の端っこに残っていたが、でもその香りだけが懐かしさを覚えさせた訳じゃ無い。彼女に生得的に備わった生物本来としての匂いが、身体全体から放散される芳しい香りが、N゜19のフローラルな香りと渾然一体となる事で1プラス1が3にも4にも成る相乗効果を引き起こす、結衣だけにしか纏えない独特の香気がオレの脳内の嗅球を直撃したのだった。
匂いと言う感覚情報はの脳味噌にダイレクトに届く。
一番原始的なシステムだからだ。眼も耳も舌さえもなかった太古の時代、あらゆる生物が生存する為に頼りとした唯一の情報収集器官だったからだ。
詳しく言うと、匂いの情報は鼻腔の奥にある嗅上皮に集まる嗅神経細胞から嗅球へ伝えられ、嗅皮質を経てから海馬(記憶に関わる脳領域)と扁桃体(感情を司る脳領域)そして前頭野(匂いの質を判断する脳領域)の3つを直撃する。これに対して視覚や聴覚は刺激の信号がそれらを担当する脳領域に届くまで4、5カ所を経由するから直接性に欠ける。
 嗅覚情報は嗅球と嗅皮質の2つの経由地点しかない。そして匂いや視覚情報からソレが何の匂いであるか、理性的に判断する『前頭野』よりも、記憶や感情を担当している海馬や扁桃体の方に信号がより早く伝わる。その為、何の匂いであるかを認識する遥か手前で、記憶がパッと蘇るのだ。
或る匂いを嗅いだ時に、遠い昔に経験した記憶が突然蘇ったり、その時に襲われた感情に再び心を揺さぶられたりするのは、この為だ。
感情が強く結びついた記憶ほど、より鮮明に想起(思い出す事)しやすい。
五感の内で、嗅覚が一番強く感情を揺さぶるからだ。
実はヒトの嗅覚は意外と敏感だ。
五感の殆どを視覚と聴覚に頼っている為にヒトの嗅覚は鈍感だ、と長い間信じられてきたが、コレには科学的根拠が無いという事実が最近判明した。
19世紀の研究に『ヒトは匂いに関わる脳の領域(嗅球)の割合が他の動物に比べて小さい』というモノがあって、コレが『ヒトの嗅覚は鈍感だ』という説の根拠に成っていただけだった。例えばマウスの嗅球の大きさは脳の2%、対してヒトは0.01%しかない。だが実際には、匂いに関わる脳神経(嗅球のニューロン)の数はヒトと動物の間で大きな違いは無い。更に匂いの種類によってはヒトが動物よりも敏感に感じ取れるものも有る。
一例を上げると、バナナの香りに対してヒトはイヌやウサギよりも敏感だ。ヒトの嗅覚が他の動物よりも劣っているという事に科学的根拠は無く、想像以上に嗅覚はヒトにとって重要な感覚だ。サイエンス誌に掲載された論文によれば、ヒトは一兆種類もの匂いを嗅ぎ分ける能力を持つらしい。一兆って、そんなに匂いって種類あるんだって、感心する。
でも、何かの匂いが、例えばカレーの匂いが遠い日の記憶を呼び戻す事は結構ある。
匂いを嗅いでアリアリと、将に眼の前に遥か昔の情景が蘇る事は、珍しい事では無い筈だ。
そんな事を考えいたら、無意識に彼女の芳香を胸イッパイ吸引しようと鼻がクンカクンカと音を立てて脈動し始めた事にオレは気付いて、恥ずかしさを感じ、強制終了させた。
<未練タラタラか?>ともう一人のオレが耳許で囁いた。
ウルサイ。
そんな事は、無い。
結衣の眼を見上げるのに疲れたので視線を降ろして行くと、見慣れた筈のオッパイの蠱惑的にまでも魅力的な造形の良さにドキッとさせられてしまい、ソレ切っ掛けで感情が暴走を始めてせっかく苦労して収斂させた気息を再び乱しそうに為ったので、そのままソコで停止せずに通過する。
お腹の辺りまで来ると妙な記憶映像が脳裏に浮かび『ヘソ、形が綺麗だったな』と思い出していた時、まるでナマコの肛門から恐る恐る首を出すカクレウオの様に、結衣の後ろに隠れていた女の子がチョコンと顔を覗かせた。
反射的にそちらへと眼が向いた。
この子、整った顔立ちしてるな。
まぁ、まだ子供だし、あどけなくて稚い童顔だけれども、各パーツの形状具合や配置状況を考慮すると、順調に育っていって大きくなったら男達が放って置かなくなるんだろうな。
エッ?
何の前触れも無くフラッシュバックの爆風がオレを襲った。
 結衣と初めて会った日だった。
付き合い始める前だったか後だったか、つまりレトロなカフェだったのか、それともオレのアパートだったのか、そこの記憶が定かではないけど、結衣に千枚近くの写真を見せられた事がある。家のアルバム丸ごとをiPhoneに落とした物だった。
保護用透明マニキュアが塗られた形の良い爪がタッチパネルの上をクルクルと走って17年間の記録を次々に表示させた。デジタルカメラに切り替わる以前の銀塩写真約10年分余はカメラのキタムラか何かに頼んでデジタルデータ化して貰ったらしいが、その中の一枚、小学校に上がる前の初春に桜の木の下で撮られた写真、屈託なく笑う結衣の顔が記憶の湖の底からフワッと浮かび上がって来て眼の前の女の子の相貌にシンクロして重なる。
エッ?
結衣?
女の子は、感情が揺らいだオレの顔を不思議そうに見詰めた。
ウソだろ?
想定外の大きさの衝撃が初めて襲来した時に、たとえ猛烈な訓練を受けていたとしても、人間は混乱の渦の中へと投入されてしまって、そんな状況下では皮質が作動不全に陥いるから考えも惑乱するし発話機能も損なわれる事を、この時にオレは身を以って理解した。
「あの...まさか...あの...この子って...」とフラフラしながら言うのが精一杯だった。
「え?」結衣は最初怪訝な顔をしたが、数秒後に『ああァ』と得心した様にコクンと1つ軽く頷いて言葉を繋げる。
「そ、私の娘」
「...コ、コ、コ...こぉお?!!?」
頭の後ろに住み着いたもう一人のオレ、ミスター客観的が<お前はニワトリかっ!?>と突っ込んで来たが無視してスルーした。
え、だって、違うだろ!
年月の寸法が著しく間違ってるじゃないか。
すると結衣が脇にどく様に左にズレて自分の後ろに潜んでいた女の子を前面へと出した。
後ろからモジモジしながら出て来た女の子を見極める様に観察した。
女の子の頭の天辺はオレの胸の辺りに位置している。
デカいっちゃデカいけどオレの顔が幾らデカくても首と合せて35cmくらいだろうから165から引くと、その差は約130cm。
子供の体格の事は良くは知らないが、小学3年生としても結構大柄な部類に入るのではないだろうか?
<虚偽の申告するなよな、オレ>
ムッ。
申し訳ありません。
今、多少のホラを吹きました。
起床したばっかは頑張れば165あるけど、お昼を過ぎれば160ソコソコに縮んでしまいます。お詫びして訂正致します。
ま、ソレは良いとして、だから起き抜けのオレと同じ165は無いとしても、この娘は125位か?
ソレにしたってだぜ、どうやっても小学3年生にしか見えないぞ。
そうだとすると10歳だろ?
<オイ! しっかりしろ! 小3なら8歳か9歳だ!>
そうか、そうだな。
でも、隠し子いたって事なのか?
結衣と相似形の小さな顔がホッソリというか痩せた身体の上に載って不安そうにコチラを見ている。ロングの黒い髪は無造作に伸びたって感じでチャンとブラッシングが為されていない様だ。首の回りがテロンと伸び始めた長袖で明るめのグレーのスウェットを頭からブカッと被せられた様に着ていて、明らかにサイズが合っておらずデカ過ぎて長い袖が両方の手の大部分を覆い隠してしまっていて指先が微かに覗くだけだ。その裾際からは緩衝するモノが何も無いままニョッキリと素足が伸びている様にも見えたが、女の子が動く度にチラチラと青いデニム生地が、極僅かにだが窺えるのでショートパンツを穿いている事が判った。パンツから(というかスェットから直接生え出した様に見えてしまうが)露出した長い脚は健康的とは言い難い白い肌をしていて、靴下を履いていない足はピンクのクロックスに差し込まれている。本当に筋肉と骨が皮膚の下に格納されているんだろうか、と疑わざるを得ないくらいの細さだ。
欠食児童という現代では死語と成った筈の言葉が言語野に浮かんだ。(注1)
結衣、ご飯をキチンと食べさせてるのか?
それに定期的にメインテナンスが施されている様にはとても思えず、全体として見た時に『ダラしない』という印象が残ったのが非常に気に障る。
街中を走っているクルマ達の中にもチラホラ見かけるが、素性はとても良いのに維持管理や保守保全、整備が行き届いておらず本来のスペックを生かす事が出来ていないクルマ達、仕事柄そういう機体はとても眼に付いてしまい、気に為って仕様が無い。
同じ気持ちを今、感じている。
山本直樹が描く薄幸の美少女を想い起こさせられる。
左脇に如何にも大事そうにギュッと何かを抱えているの気付いて『何だろ?』と眼を凝らすと、ケンブリッジ大学卒業で実はスーパーが付くインテリなのも関わらず、常に『ウホウホ』としか言わないコメディアンが抱えていたのと同じ様な薄茶色のテディベアなのだと判明した。
でも、問題は年齢だ。
幾つなんだ?
「あの...」と口を開きかけた瞬間、結衣が爆弾を破裂させた。
顔を見降ろしながら、滑らかな口調で娘に話し掛ける、
「イト、この人が本当のパパよ」

注1:欠食児童とは、
第2次世界大戦中及び戦後に日本に遍在していた、極度の食糧事情の悪化によって慢性的に食べる物を欠く状態に置かれた子供の事。特にタンパク質の摂取状況が最悪で、蛙やイナゴやカブトムシの幼虫・蛹等の昆虫類も皆で競う様に捕えて食糧とした。敗戦後はGHQが状況改善する為に本国(米国)では豚のエサである脱脂粉乳を緊急輸入してミルクの代替品として学校給食で配布させた事は有名。
ちなみに戦後の闇市で一番の御馳走は、占領軍の廃棄した残飯を煮込んだ、時々タバコの吸い殻が混じっている『進駐軍の残飯シチュー』(信じられないかも知れないけど実話)。
GHQ=General Headquarters:連合国軍総司令部の事。戦後日本を占領統治した機関。
初代最高司令官はDouglas MacArthur元帥。



2こめのツナマヨを 食べおわってから、
ママが わたしてくれたトラベロップQQをクチにいれた
コレをなめると、クルマにのっても きもちがワルくならないから、
それにサイダーみたいなアジがして おいしいから、
スキ
それに、こなのクスリだと のみヅラいから キライ
ケホケホッ ってスグに なっちゃう
トラベロップQQは、なめてるだけで シゼンにとけてく
QQって、どうゆうイミなんだろ?
って、いつもおもう
ママに きいても
しらない、って ゆうから
ずっとワタシだけで かんがえてる
でも、イミはワカラないままだ
QQを キューキューってよむ、ってママはおしえてくれた
すうじの9も キューってよむから
Qと9は オナジなのかな?
だから、9とQの ちがいに ついてズッと かんがえてる
でも、こたえは でてこない
サ、でかけるよ
ウン、わかった
チャンとテディさん、もった?
ウン
きょうのママは、いつもとちがう
ヨルのおしごとに いくときの おめかししたカッコウじゃない
3ばんめのオトコが くるときのケショウとも、ちがう
なんか、ふつうにオシャレして、ふつうにケショウしたってかんじ
それに いつもとはチガウにおい
アサってカンジの いいにおいがする
ちがうけど、
でも、ゼンゼンいつもよりキレイ
なんでだろう?
いつもコウすれば、イイのに
へやをでて、かいだんをおりてチューシャジョーにあるママのクルマにのった
ママのクルマは、クロくて ちっちゃくて カワイイけど
ママのうんてんがヘタクソだから あちこちキズだらけで、かわいそう
ナオしてあげれば、イイのに
ママに そうゆうと
いつかね
って、いつもコタえる
だから、このごろは ゆわなくなった
ゆっても、ナオしてあげないからだ
シートベルトしな
ウン
ワタシはシートベルトを ひっぱるのが、スキ
シューッとシートベルトが のびる
そこがスキ
ママはボタンをおしてエンジンをかけると、ブーンブーンと音を2かい させてから
チューシャジョーを、はっしんした
ドコいくの?
いいトコ
ふーん
テディさんに ゆってみた
いいトコ だって
でもテディさんは、ナニも こたえなかった
ヌイグルミだからかな
ミギの目がとれちゃいそうで ブランブランしてる
だから、きをつけないとダメだ
ワタシのトモダチはテディさんだけ なんだから
いなくなっちゃったら、たいへん なんだから
ホントに ひとりぼっちに なっちゃう
むかしは、テディさんと もうひとり ちがうトモダチがいた
レイって いうコだった
セが たかくて ほそくて イロがしろくて フワフワしたコだった
カオが ちっちゃくて、テとかアシが スウッとながかった
カミがみじかくて、でもソレが とても にあっていて、とてもステキだった
カミがステキなカタチしてるね、って ゆったら
ボブってカミガタだよ、って おしえてくれた
レイは よくワラった
プカプカってワラった
レイがワラうと、セカイがパーッとアカるくなった
レイは、パパがいなくなって すこししたらワタシのトコに きてくれた
ワタシがさみしくて、なんか ないてたら
しらないうちに ヨコにすわっていて、なぐさめてくれた
いつも ピンクのふくを きてた
ステキなクツ、ちゃいろのクツをはいてた
シカのカワだよ、っておしえてくれた
シカって、なに?
そう ゆうと、
シカは、どうぶつだよ
と、ゆった
どうぶつって、なに?
そう ゆうと、
どうぶつは、いきているモノだよ
と、おしえてくれた
いきてるって、なに?
キミが いま してるコト
ワタシ、いま なにしてるの?
いきてる
だから、ワタシがいきてる ってどーゆーコト?
このセカイが、キミをコウテイしているってコト
コーテーって、なに?
キミを、セカイが うけいれて くれてるってコト
うけいれて くれてるって、なに?
ココにキミが いてくれる、それだけでウレシイって、このセカイが よろこんでいるコト
そういって レイはワラッた
ワタシもワラった
レイと いっしょにいると、なんだか しらないけど、たのしかった
だから、ウレシかった
いつも、ワタシが あいたいとおもうと、きがつかないうちにソバにきてくれた
でもレイはふしぎなコで、ワタシにしか みえなかった
ワタシはレイとしゃべったり、フザケっこしたり、イタズラを しあったりしたけど
ママや
ママのオトコとかいうヤツには、みえなかった
そんなオンナのコは、いないんだよ
と、ママはゆった
いるもん
そうゆって、ワタシは となりのヘヤにいった
やっぱり
レイはソコにいて、ワタシをみてプカプカってワラってた
うれしくなって、ワタシもワラったけど
プカプカって、うまくワラえなかった
でも、それでも よかった
ふたりで、カオをみながら ワラった
それから、1ばんめのオトコが いなくなってから チョットたったら
あたらしい2ばんめのオトコが やってきた
そしたらレイは、きてくれなくなった
たくさんイッパイよんだのに、ぜんぜん こない
おへやのなかを、いっしょーけんめいイッパイさがしたのに、いない
ワタシは、クチをきいてくれないテディさんを かかえながら、ないた
レイは、どこかに いってしまった
べつのセカイに いったんだ
そう、おもった
このセカイに、ヒトリで のこされちゃった
ワタシは、ひとりぼっちに なった



「パパパパパパパパパパパパパパパパ...パパぁアぁ?!?」
「そう、パパ」結衣が答えた。
その言葉にへし折られる様にポクッと首が曲がりオレは女の子の顔に視線の焦点を結んだ。
娘はオレを見上げていた。
懸命に自分と共通する部分をドコか1つでも探し出そうとしていて、オレの顔の上に縦横無尽に視線を走らせていた。まるで顔の表皮に存在する全ての細胞にレーザー光線を当てるかの如く真剣に捜索を続けていた。だが結局の所、相似する部分は何も発見できなかった様で「ホウッ」と溜め息を1つ吐いた後に、発見を諦めて黙って静かに項垂れた。
イヤイヤ、お嬢ちゃん、お待ち為せぇ。
確かにお前さんの整った顔立ちに比べれば多少、イヤ、かなりトッ散らかってるかも知れないが、それでも共通する部分は確かに存在してるぞ。
眼は2つあるし、鼻は1つで、口も1つ。
それに耳だって2つワンセット、ちゃんと揃ってるだろ?
<お前は一体、何を言ってんの?>
頭部後方に宿る『ミスター客観的』の的確な指摘はガン無視する事にして結衣を見上げながら、オレは言った「この子...」アレッ、名前、何だっけ?
さっき聞いた筈なのに『爆弾』の衝撃に吹っ飛ばされて、どっかに消えて行っちまった。
だから咄嗟に「名前、何だったっけ?」と続けたら、結衣は呆れ気味に答えた。
「相変わらず他人の名前覚えるのがヘタだね、研吾。イト、オガタイト」
「イト?」
「そう、イト」
「どういう字、書くんだ?」
「織物の『織』。自分の力で運命の『イト』を手繰り寄せて人生をシッカリと織り上げて欲しいから、織って書いて、『イト』って読ませようかなって」
思ったんだよね、って言った後で結衣がニコッと笑った。
その幾分邪気が含まれた笑顔を受け流しながら、オレは思った。
運命の糸って、ギリシア神話に出て来る運命の三女神か? (注1)
もしもソレに因んで付けたとすると、結衣、大問題だぞ。
その『運命の三女神』って響きは非常に良いけど、ソイツ等は3人が3人とも揃って全員見るに恐ろしい程の醜悪な老婆なんだぞ、チャンと調べたのか?
あ、一応は神様だから『人』じゃなくて『柱』か。
<どうでも良いだろ、ソレは>とミスター客観的が言った。
確かに。
「この子、イヤ、イトちゃんは、本当にオレの娘なのか?」オレは心がジリジリするのをヒシヒシと感じながら、息も絶え絶えに、尋ねた。
永遠とも思える間の後で、結衣は答えた。
「まぁ、候補の1人ね」
「候補って?」
「そう、候補」
候補って何だよ、ソレ?
大体、時系列的に無理があるだろ。
<もう1回、自分で確認してみろ>
えーと、小3って事はだな、小1で6歳から7歳に為って、小2で7歳から8歳だろ。
だから小3だと8歳か9歳って事に為るよな。最低8歳と仮定してソコに十月十日を足すと約9年になるよな。
 結衣と初めて会ったのは、大学を卒業するってなって、就職先が見付からずにジタバタした後にココ『荒川自動車』に入社してから1年ほど経過した5月の終わり位だったっけ。
 あの時、オレが24で結衣が17だったな。
で、その後2年間同棲してて、『バタン!』という大音量と共に結衣が消えたのが...
ソレが6年前の出来事だから、だから、余裕でセーフじゃん。
それに知り合った時は結衣の腹はペッタンコだったし、出逢う前に生まれてたとしたらオレは全く関係無い訳だしな。
加えてもう1つ、オレがパパじゃない事を確証する揺るがし難い事実も有るし。
あの時、結衣が嘘を吐いて無かったら、だけど。
ま、彼女の反応具合から言えば、嘘じゃないと思うし。
でも、そういう事柄を指摘する前に少しでも『パパ』への当選確率を減らそうと次の質問をした。
「何人いるんだよ、その候補ってのは?」
「約2名。君とダンナ」
その『約』って何だよ?
アレッ?
「ダンナ...って結婚したのか?」
「うん。でも別れちゃったから、正確に言えば『元』ダンナね」
オレは或る事実に漸く気付いて弾かれた様に織と呼ばれる娘の顔に一瞥を送った後で向き直り結衣を見上げて、訊いた。「じゃ『オガタ』ってのは...?」
「そう、ダンナの苗字」
姓が変わるって意外とスペクタクルな事なんだなぁって思ったんだよね、と結衣は言った。
何故か気に為って、どういう漢字を当てるのか尋ねたら『どうでも良い事、訊くんだ?』みたいな顔をしたが、結衣は「普通のオガタ」と答えた。
「普通って『緒方洪庵』の『緒方』か?」
「誰それ?」
「え? 知らないのか?」
「知る訳ないじゃん。俳優さんか何か?」
「違う。阪大医学部の創始者」
へー、偉い人なんだね、と聞き方によっては小馬鹿にした響きがにじむ口調で言った。
そして「まあ、知りたいんだったら教えるけど、糸偏に医者の者。それに方角の方」と、さして関心が無い風に結衣は続けて言った。
「緒方洪庵って村田蔵六や福沢諭吉の師匠さんなんだけど」
「それ、3人とも知らない」
「福沢諭吉くらいは判るだろ?」
「1万円の人?」
「そうだ」
結衣は『ふーん』と全く気が入って無い相槌を打った。
「JIN-仁-にも出て来たじゃないか。ほら、武田鉄也が演じたヒトだよ、一緒に観ただろ、確か。覚えてないのか?」
「出てたっけ?」結衣は、覚えて無ーい、と軽い調子で返して来た。
ま、イイ。
厳密に言えば、阪大医学部、つまり大阪大学の医学部のルーツを辿って行くと緒方洪庵が興した蘭学と医学の学校である『適塾』に行き着くってだけであって、洪庵さんが直接的に大阪大学医学部を創設した訳ではないから、必要以上にこだわる事は無いし、それに、
このまま進行すると会話が無意味に漂流を続けるだけだから、話を本道に戻そう。
「ソレはこの際置いておくとして、とにかく時系列を明確にしたいんだ」
「どうゆう意味『ジケイレツ』って? 英語とかドイツ語?」と結衣が訊いて来た。
「日本語だよ、正真正銘の。時系列ってのは『物事が起きる順番』だ、簡単に言えば」
「さすがだね、東工大卒。頭ッ、良いよね!」
お前、バカにしてるだろ?
そう尋ねたかったが、そんな事言ったら話のベクトルが明後日に向くのは確実なので、腹の中に仕舞い込む事にして「順番をキチンと整理したいんだ。オレ達が別れたのが6年前だろ?」と続けた。
「そう。梅雨時だったね。冷たい雨が降ってて6月なのに、寒かった」と、結衣が言った。
何言ってんだ? お前が出て行った時は梅雨の中休みでピー缶の快晴日だったじゃないか。
「その後、何時ダンナさんと知り合ったんだ?」とオレは訊いた。
「1週間後、位かな。よく覚えてないけど」
1週間?
ソイツは些か速攻過ぎてるんじゃないか? 別れた一週間後って。
皮質にその言葉の一群が浮かんだが、無視してオレは話を先に進めて「どういう訳で知り合う事に成ったんだ?」と尋ねた。
「私が勤めてたキャバのお客さん」
会話の流れ的には文法の誤用が為された文章だな、と一瞬感じたけれど、一応意味は通じているので問い質して訂正させる事はスルーして(そんな事したら話が拗れまくって収拾が付かなくなる事は必定だし)新たに生じた別の疑問を伝えた。
「キャバ? キャバクラの事か? メイド喫茶はどうしたんだ?」
「辞めた。研吾に捨てられて、直ぐに」
だから、捨てたのはオレじゃない。
「何で?」
「あのさ、研吾。ご飯食べてゆくにはお金がいるの。働かないとお金は稼げないの」
「メイド喫茶だって立派な仕事じゃないか?」
「捨てられた女が独りで生きて行くのって、大変なんだよ」知ってる?って感じの表情を浮かべながら結衣は言った。そして、色々お金掛かるし、と重ねる。
そう言っている間に結衣の眼がジンワリと潤んできた。
「だから、オレは捨ててない!」涙を見たらドキッとして自制の箍(たが)が緩んだ弾みで不用意に言ってしまった、禁句を。
「何、言ってんの? 捨てたじゃん、ボロ雑巾捨てるみたいに」結衣の双眸に紅蓮の怒りの炎が突如として浮かび上がる。
「あの日、あの朝、プイッと出てったのはソッチじゃないか」とオレが言うと、
「本当に私が大事で、本当に必要だったら、追掛けて来るでしょ、絶対」と結衣が返した。
「転がり込むのだって従姉妹の紗瑛ちゃんの部屋以外ないの、研吾なら解りそうじゃん、絶対。1週間、ずっと待ってたんだからね」迎えに来てくれるの、と彼女は続けた。
相転移が起こって雰囲気が一変し、辺りに険悪なムードが漂い始める。
不条理は世界中に遍在しているが普段は隠されていて見えない。でもヒョンな拍子に圧倒的な速度で顕在化する、こんな具合に。
ヤバい。
コレはヤバい兆候だ。
HALO降下訓練中(高高度降下低高度開傘)に輸送機から合図も無しに突き落とされて地雷原のド真ん中にポトッと着地してしまった、って感じで心許無い事この上ない。
この爆弾は上手に処理しないと確実に爆発するだろう。
そしてその被害は途轍もなく激甚である事は簡単に予想できる。
彼女がしてる事は、レトリックの摩り替えという生易しいモノではなく、道なき道を驀進しながら立ち塞がっている道理を蹴散らし弾き飛ばして、完璧に破綻している論理を強引にねじ込むという荒業だ。完全に理不尽極まりない振る舞いだったし、一種の狂気の様なモノさえ感じ取れるのが結構、怖い。
しかし、こういうトコ、昔と全く変わって無いな。
無軌道っぷりは、未だ健在だ。
『言葉は銃弾と同じだ。一旦、発せられてしまえば取り戻す事は出来ない。言葉に、消しゴムは無い。だから発話する時には慎重の上にも慎重を重ねて適切な言葉を選択しなければいけない』って、ジイちゃんに教わった。
そうだ、その通りだ。
コイツの特質を誰よりも熟知している筈のオレが不用意な発言をしたのが、そもそもの間違いだった。口を開く前に、よく考えなければダメだったんだ。
よしッ!
結衣の言ってる事は無茶苦茶だが、当時の状況説明をしたり、彼女のロジックの中の誤謬を指摘するのは一旦、脇に置かないとダメだ。多分、何言っても聞きゃしない。
だから、何よりも話の流れを修正する事が現在の状況下における最優先事項だ。
仕方無い。
いつもの手法を採る事にした。ただひたすらに『謝る』という対症療法だ。
「判った。追掛けなかったオレが悪かった。オレが間違えてた。ゴメンなさい」
「反省する?」
「ああ、反省している」
「OK。許してあげる」そう言って結衣はニコッと笑った。
その言葉が発せられると共に、立ち込め始めていた黒い空気はダイソンが吸い上げるが如くに一瞬にして消失した。
ふう、何とか最悪の状況だけは回避出来た。
しかし、コントか、コレは?
瞬間湯沸かし器というよりも操作不能のプラズマ溶接機を相手にしてるみたいだ。
結衣を相手にする時には慎重の上にも慎重に会話を進めて行かなければ、と改めて痛切に感じたので、これからは真っ暗闇の中を手探りで進む様に抜き足差し足忍び足で地雷を踏まない様にソロソロと注意深く用心しながら言葉のキャッチボールをする事にした。
「1週間って、つまりダンナさんとはキャバクラで初めて出逢ったって事で良いんだな?」
「そう。私が体験入店した日。つまり初日」
「それで意気投合した、と」
「スンゴイ気が合ったの。最初からビタッと」運命かと思った、と結衣は言った。
じゃ、オレって存在は一体何なんだ?
そんな事言われちゃ、気分良くないぞ。
心の奥底では『ムッ』と成ったが、複雑な内心を悟られない様に努めて平静を装う。
カモフラージュは成功した様で結衣はオレの荒天の様な心模様に気付く事なく話を進めた。
「ダンナはそーゆータイプのお店に来るの、初めてだったみたいで凄く緊張しててさ、で接客するの初めてじゃんコッチも、メイド喫茶と全然違うし、手順とか作法とか対応の仕方とか。だから妙にお互いにぎこちないワケ、まるでロボットみたく。でもそういう所を含めてピチッと上手くハマったんじゃないかな」って思うんだよね、と結衣は言った。
ビタッなのかピチッなのか、ドッチなんだ?
それに何がピタッとハマったんだ?
真空を作るのが嫌だったので聞かなくても良い事を訊いてみた。
「何て名前?」
あんまり関係ないと思うけど、と結衣は言ったが、「緒方ケンジ」と教えてくれた。
「研吾の後にケンジ。5の後が2だからウケるよね」ホント、と続けた。
そして、研吾はさ、どうでも良いような超細かい事まで気にするよね、昔から、と結衣は言って「だからさ、訊かれる前に言うけど、ケンジのケンは健康の健。ジは何かこう、雨みたいな奴の中にバッテンがボンボンボンボンて感じのチョー複雑な字」
「イシハラカンジの『ジ』か?」
「何それ? 新種の昆虫か何か?」
「昆虫じゃない。人間だ。石原莞爾。旧日本帝国陸軍中将だ」
「キューニホンテーコクリクグンチュージョーって、何? ミュージシャン? 中国語か何か?」結衣が言った。
「頭の中でチャンと漢字変換しろよ。幾ら何でも『日本』くらいは解るだろう?
確か、漢字検定二級を取ったんじゃなかったっけ? ついでに言えば、秘書検定も」
「そんな漢字、問題に出ないでしょ?」
 ま、そりゃ、その通りだが...
昔の軍人さんだよ、とオレが言うと、フーン、とヤル気の無い言葉が返って来た。
「満州事変とかで習ったと思うけど?」
「東京事変は知ってるけど、ソレ知らない」
結衣は、それに私、中卒だし、と続けた。
「中学でも教わるぞ。それに前、施設にいた時に高卒認定取ったって教えてくれたじゃないか」と指摘すると、彼女は「最終学歴はあくまでも中卒」とシレッと言い返したので、オレは黙るしかなかった。
何かを材料にして反攻に転じようかと思ったがスルーした。
何処に地雷が埋設されているか把握できていないから、な。
トラップだらけだよ、ホントにそこら中。
「それで...」とオレが言い掛けると
「ま、早い話、その日の内に...」と濁した文末にも関わらず明快に理解出来る回答を結衣はオレに手渡した。
なるほど。
「私、研吾に追い出されて紗瑛ちゃんに厄介になってたけど、いつまでもそんな事出来ないじゃん? それで、どうしよっかなって考えてた時だったんだ。結局その日は」ダンナのアパートに泊めて貰える事に為ってさ、と結衣は言った。
オレは追い出してない。
それにその流れは何処かで聞いた事がある話だ。
「つまり要約するとだな、オレに『追い出されて』行く当ても無く紗瑛ちゃんにお世話になっている内に所持金が乏しくなってきて困った挙句、メイド喫茶を辞めて歩合が良くて金が稼げて加えて現金を日当払いしても貰えるキャバクラに転職した。
そしてまさに転職したその日に運命の人『健爾』さんに邂逅、いや出逢った、と。コレで良いか?」オレは確認した。
「さすが東工大卒。上手いコトまとめるねぇ」感心、感心と、結衣は言う。
お前、絶対バカにしてるだろ?
「それで続きはどういうストーリーに為るんだ?」
『ウーンと』という感じで左斜め上を見ながら結衣が言った。「それで一緒に暮らす様に成ったんだよね。ダンナが勤めてたのは超が10個くらい付く大有名広告代理店だったんだけど、入って1年目で未だ研修中のヒヨっ子新入社員だったから給料有り得ない位安くて仕方無くキャバの仕事は続けてたんだけど、3ヶ月くらいしたら私、思いっ切り体調が悪くなって、コレは研吾が呪ってるからかも、とか一瞬思ったんだけど」
誰が呪うんだ、誰が!
ストップ!
自制しろ、オレ。
自制するんだ。
セルフコントロールの心構えが大切だ。
オレが黙っていると結衣が「もしかしてって思って近くのドラッグストアで妊娠検査薬を買って来て試したら、ビンゴッ!」右手で逆ピースを出しながら「授かっちゃってて」と言ってペロッと笑った。
逆ピースは、ココ日本では誰も気にも留めないけど、ロンドンでやったら殺されても文句が言えないくらい破壊力が大きくて恐ろしいジェスチャーだぞ、と教えようかとも思ったのだが、地雷かも知れないので黙っていた。(筆者注:逆ピースは女性器を意味します)
「で、急いで向こうの御両親に御挨拶して、その後...」
「入籍したのか?」
「そう」
「結婚式は?」
「してない。ダンナがもっと偉くなって給料が良くなってからでって、2人で決めたんだ」
不条理で不合理な行動ばっかする癖に、妙にチャンとしたトコがあるんだよな、コイツ。
刺身は3切れずつ並べると『身切れ』に通ずるからダメで、4切れだと『死切れ』だからもっとダメとか。オレからしたらどうでも良い事に変に拘るんだよな。
それで更に奇妙な事は「じゃ、刺身は何切れずつ並べるのが正解なんだ?」と訊いたら、突き放す様に「知らなーい」と答えたからオレはコントみたいにズッコケた覚えがある。
それからオレの両親の事も『御父様』とか『御母様』とか馬鹿丁寧な呼び方するし、それから、箸の持ち方が酷くてまるでジャガイモに棒が2本突き刺さっているみたいな惨状を呈していたので『見苦しいな』って感じたから自分で苦労の末に矯正したとか。それから...
この状況下で考えなくて良い絶対に必要無い事ばかりが頭に浮かんでくる。
アッ!
その時、オレは重大な事実に遅まきながらも漸く気付いた。
驚愕と共に、結衣の右隣に立ってオレと結衣の言葉の応酬を居場所が無い様な表情を浮かべた顔を右顧左眄させながら見上げている女の子、もとい、イトちゃんを見た。
非常に左右のシンメトリーが取れた整った相貌に比して、彼女が浮かべている表情に小3にしては圧倒的な稚さと幼さとあどけなさが濃厚に漂う。
アレッ?
この子幾つだって?
チョット待って。
結衣がダンナさんと知り合った3ヶ月後に妊娠してるのが判ったんだよな?
じゃ何か?
この娘は、えーと2人がキャバクラで初めて出逢ったのが6年前だろ?
ダンナさんのアパートにシケ込んだその当夜に運良く命中した、としたってだぜ、赤ちゃんってのは少なくとも十月十日はお腹ん中にいるんだから、
えーと、



5歳?



アウトッ!
オレ、アウトだ。
少なくとも父親の候補者として立候補せざるを得ない状勢だ。
しかもその当選確率は決して低くは無い。
結衣が出て行く前の晩、シちゃってるもんな。
結衣が『出て行く』だなんて考えは微塵も無かったから、普通にヤッちゃってるもんな。
咲耶さんに結婚を認めて貰える様に、つまり出来ちゃった婚を狙って避妊してなかったし。
イヤイヤ、簡単に諦めるな。
諦めたらソコで終わりだ。
未だ確定した訳じゃ無い。
オレじゃない可能性は十二分に有る、と信じたい。
「イトちゃんて、5歳か?」
「うん、よく判ったね。さすが東工大卒業。そういや数学、得意だったもんね」
お前、からかってるな?
「この娘、いや、イトちゃん、5歳にしてはデカ...いや、大きいんじゃないのか?」
「うん。よく『何年生?』とか『3年生?』とか訊かれるモン。まぁ、私もコレ位の身長だったから、5歳の頃」と結衣が言った。
遺伝子の力って、凄ぇなあ。
結衣も、付き合ってた2年の間で3cmも身長伸びたもんな。
不確定要素を排除する為に結衣に質問を重ねてみた。「この娘、イトちゃんの誕生日って、何月何日?」
「何時だっけ、誕生日?」結衣がイトちゃんを見降ろしながら尋ねた。
「...4月...21...日です」とイトちゃんが答えた。
ホゥ、それだと誕生石はダイヤモンドだな。
って、そんな事考えてる場合じゃないぞ、オレッ!
結局減らそうという目論見は見事に外れてオレの方の弾丸が命中してる確率が少しばかり増加してしまった。
カレンダー的に計算上は、ピッタリじゃないか。
子供を持つ為に必要な覚悟や気概というモノとは縁もゆかりも無いままボンヤリと生きて来て32年余。こんな風に崖っぷちの際の際へと追い込まれるとは、想いも寄らなかった。思い設ける事無く支えなければいけない(かも知れない)他者の生命の重さをオレは今、ヒシヒシと感じている。人の命は地球よりも重い、って誰かが言ったらしいけど、ソレってトンデモナイ質量だぞ。地球の質量は6兆tの10億倍。大き過ぎて想像も付かない重さだよ。他者に対して負わなければならない責任の質量に想いが寄って、オレはその重大さに愕然とした。
でも、仕方無い。
本当にオレの娘なら、その責任は果たされなければいけない。
オレは、娘(仮)の秀麗眉目な顔を見降ろしながら「オレがパパだ、というのは確実なのかな?」と質問を続けた。漸く肚が据わったのか声が震える事も無かった。
「判んないんだ。だって『追い出される』前の晩、3回もしてるじゃん」しかも生で、と結衣が言い「この娘、頭良いんだ。もう自分の名前を漢字で書けるんだから」と駄目押しの一言を加えた。
そんなのあんまり関係ないと思うけど。
だって『勉強が出来る事と頭の良さは、実は関係ない』ってジイちゃんに言われててさ、その時にはチャンと納得できなくて、結衣が出て行ってからの悪夢の様な6年間を息絶え絶えに成りながらも何とかやり過ごす事が出来て、最近何ヶ月か前に漸く暗闇から脱出できた時に、やっと何とかジイちゃんの言葉の本当の意味を解き明かす事が出来たんだ。
勉強は机上に浮かぶ幻想の様なモノで『人生』を実践して行く上では役に立たない事の方が多い。勉強は『頭を良く』する為の単なる道具や手段に過ぎない。論理性や構成力や段取り力を養う為には非常に便利なツールなんだ。それだけなんだ。だから頭を良くする為の道具は勉強以外にもまだ沢山有る。
ジイちゃんは、こうも言っていた。
『脇目も振らずただ只管に一つの事に専心して来た人間は、ある閾値を超えた時に自分の熟知した馴染み深い世界では無い、別の世界の事象を理解できる能力を身に纏うものだ。色々な事を同時にこなせる器用な人間は非常に少ない。平凡で有触れた才能しか持ち合わせていない者は、一つの対象を選択して自分の持てる資源を傾注した方がより効果的な場合が多いと思う。まぁ、人生の様々な場面で決断を下すのはお前自身だがな』
『勉強ができる』というのは端的に言えば『情報処理能力が高い』という事だ。それならコンピューターや最近流行の人工知能の方が人間より数千倍も優れている。ヤツ等は絶対に間違えないし疲労も感じない。電気が供給されている限り規則正しく正確に働き続ける。ヤツ等が何かを間違えた場合、ソレは設計した人間が犯したミスだ。機械たちは人間の命令通りに粛々と職務を果たしたに過ぎない。
だが『頭が良い』は、その事とは完全に次元を異にする。
『頭が良い』の中には『生き抜く為の力』つまり『人生力』みたいなモノが濃厚に含まれているとオレは今、そう思っている。『人生力』って言葉が有るかどうか、疑問だけど。
『人生力』は、この世界に埋設してしまっていて肉眼で補足するのが困難な抽象的な物事を掘り起こして視覚化・具現化して行く作業、言い換えれば、与えられた問題を解く作業の真反対、自ら問題を見つける、探し出す、作る、そんな様な『創造』の作業だ、とオレは理解している。
昔、オレが生まれる随分前に田中角栄という男が大蔵大臣(大蔵省は現在、財務省と金融庁に分割再編成されている)だった頃、国家公務員試験第I種(現・総合職)に好成績で合格して大蔵省に入省した東大法学部卒業生(大蔵省にキャリアとして入省できる人間は東大法学部卒にほぼ限定されている)の新入省職員20名が大臣室に呼びだされて待っていると、田中角栄がドアを開けて入って来て、列を作って並んでいる20名の端っこから一人一人握手をしながら相手の双眸を覗き込んで「やあ、何々君。シッカリやりたまえ」と職員の名前を言いながら挨拶をした。職員達は誰一人として自己紹介をしていなかったが、秘書官が耳打ちする事もないまま、田中角栄はメモを見る事などもしないで、一人の名前も間違う事も無く整然と挨拶を終えた。
そうやって田中角栄は先ず、列を作って立ち並んでいる秀才たちのうず高いプライドの壁をいとも簡単にブチ破り、彼等の度肝を抜いた。
その後に続けて田中角栄は「諸君の上司、先輩にはバカがいる可能性がある。諸君が折角素晴らしい政策を提言したのに上司たちは理解しないかも知れない。その時にはオレの所(大臣室)に来い」と大臣訓示をした。
その言葉に新入職員同期20名はメロメロにヤラれてしまって田中角栄という漢(おとこ)に心酔した、という事だ。
物凄い人心収攬術(収攬:しゅうらん:人々の心をとらえる事)だと思う。
東大法学部を超優秀な成績で卒業し(大蔵省のキャリア官僚には大学時代に外交官試験や司法試験に合格している人間がゴロゴロいる、というか、ほぼ全員がそう)大蔵省という『省庁の中の省庁』に入省したエリート中のエリート達が、尋常高等小学校(現在の教育制度においては、ほぼ中学に相当)を卒業しただけの漢(おとこ)に一瞬でゴロンと転がされたのだった。
この話から引き出せる事は、東大法学部卒業生は『勉強が出来る』人だが、それに対して田中角栄は『頭が良い』人である、という事実だ。
角栄の人間力は絶大なモノだったのだろう。
生きて行く為に学歴は絶対必要条件ではないって事がよく解るよ。
ま、ジイちゃんのお蔭でオレは勉強だけは出来たけど、頭が良いかって問われると正直な所『ウーン』と為る。生き抜く力が有る人間は6年も引き籠もったりしないだろうし、な。
だが、遺伝子的には、オレである可能性は否めない、残念ながら。
でも「大手の広告代理店なら、ダンナさんだって良い大学を卒業してんだろ?」と訊くと、
「ウン、出てる。一応、東大」
そうだとすると、オレの確率は下がるな、少し。
それに結衣だって遺伝子的には知能レベルは高い筈なんだし。
大体、子供の知能は母親由来なんだそうだから、動物実験では、だけど。
因みに子供の性格は父親由来だそうだが...
ま、結局の所DNAを調べなきゃ、真相はハッキリしないな。
しかし何故ここに来たのか理由が今一つ不明だったので「で、ココに来たのはその事を、つまりオレがパパかも知れないという事を伝える為なのか?」と訊くと、
「ううん。違う」と結衣が答えた。
まさか、縒り(より)を戻したいとか言い出すんじゃないだろうな、オイ。
「じゃ、何の為に?」
「あのさ」結衣の眼が再度妖しい輝きを帯びる「この娘、実家に連れて行って欲しいの」

注1:運命の三女神(the Fates)とは、
人間の生命の糸を紡ぐClotho、その糸の長さを決めるLachesis、その糸を断ち切るAtroposの3人。

私とケンゴ Vol. 1

私とケンゴ Vol. 1

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-10-27

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