嘘つきフキちゃん

嘘つきフキちゃん

フキコのフキは大ぼら吹きのフキ、音楽を愛する気弱な小学生佑が仲良くなったのは、学校中に知れた秀才で、学校中に知れた大ぼら吹きのフキちゃんだった。深い友情で結ばれた二人だが、実はフキちゃんには大きな秘密があった……。小学生たちの友情と成長を描く、ハートフルファンタジー。

フキコのフキは大ぼら吹きのフキ

 手をつなごうほら 僕の右手は君の左手と
 君の右手は あなたの左手と
 冷たい手 あったかい手 大きな手
 つながれば 何より強いチェーン
 地球を回すのは僕らのチェーン
 未来を次々結び付けるチェーン

 音楽室に子供たちの歌が響いている。澄んだ声、にごった声、か細い声、野太い声。発声はでたらめで要所要所音が外れ、もしも、未熟な子羊たちを美の峰に導くことを使命と考える音楽教師であれば、きっと渋い顔をして、このガチョウの雄たけびやムクドリのわめき、ドバトのゴモゴモを、天使の歌声に鍛えあげるための、練習プランを申し渡したことだろう。
 だが水原先生は、指揮棒を振りながら、丸眼鏡の奥の目をにこっとした。彼女は音楽の先生で、この新生五年二組の担任でもある。彼女の微笑みの理由は、子供たちの歌声が不揃いなその分、生きのいい個性を感じさせる伸びやかなものだったからだ。
 窓の外には、力いっぱいに涙をこらえているような曇天が、真四角に切り取られていた。一学年三クラスの児童数の割に、大慶寺小学校の面積は狭い。平成元年に建て替えられた校舎と遊具のややくたびれた校庭を圧迫するように、敷地ぎりぎりにまで建物が迫っている。
 学校を取り囲んでいるのは、歴史の澱の降り積もった黒ずんだ街並みだった。建てられた年代は、江戸、明治、大正、昭和と様々ながら、令和の今では「レトロ」とひとくくりされる、情緒ある建物がひしめいている。
 この地区の歴史は藩政時代の初期にさかのぼるという。細く入り組んだ道はよそ者をだます手管に富み、区画区分はまるで不規則。この三月から大慶寺町に引っ越してきたばかりの吉本佑は、ひと月のうちにもう五回も迷子になっていた。
 どこか和の色を感じさせるチャイムの音が校内に響き渡った。水原先生は譜面台の前で両手をパンパンと叩いた。古風にきっちりと編み込まれたおさげ髪を、背中で弾ませながら伴奏をしていた佐々木さんが、ぱたりとピアノをやめる。
 「はい、皆さん、四時間目はこれでおしまいです。教室に戻って給食の準備に入ってください。それにして吉本君」
 先生から急に水を向けられて、佑は、譜面をしまう手をぴたりと止めた。ひょろひょろ伸びたもやしのように頼りなげな体を猫背にしたまま、顔を先生の方へ向ける。
 「君はとってもいい声ね。音程もリズム感もいいし、歌詞に感情が入っている気がする。十月の合唱コンクールのソロのパート、やってみる気はないかしら? 」
 佑は優しい二重瞼の目をぱちぱちさせた後、小さいながらもはっきりとした声で答えた。
 「はい。僕が音楽にできることなら」
 後列の中央に立っている背の高い男子が、一瞬牙をむくような目を佑に向けた。透き通った水に真っ赤な絵の具を落としたように、彼を中心に非難めいたざわめきが広がっていった。子供たちは目に動揺を浮かべ、瞬きの回数でお互い戸惑いを確認しあった。
 「裕也君の役じゃない? 」
 か細い女子の声が言い、佑ははっとしてさらに目をぱちぱちさせたが、水原先生はもう譜面台をたたんで音楽室の外へ出ていた。
 その時から何となく、佑を取り巻く子供たちの親密さが変化したような気がして、居心地が悪くなった。佑の不安にとどめを刺すように、午後の雨に備えた紺色の傘が、無残にも壊されていた。空は五時限目の途中から盛大に泣き出していた。

 佑は猫背をより一層折り曲げるようにしてて、とぼとぼと雨の中を歩いた。
 学校の右隣は、築城と同時に建てられたという青松寺というお寺だった。遠近法の見本のような長い漆喰壁が続き、その上の方にのぞく黒松が、細い葉にずっしりと雫を滴らせ、その重みでしっとりと垂れ下がっていた。白壁の下を雨水が勢いよく流れているため、佑は流れに半分足を浸すようにして、壁を右側にたどっていく。このルートを外れてしまえば、まだどこをどう歩いていいのか分からない。
 初めて体感する北東北の四月は、関東の感覚からすると二月末と変わらなかった。雨はじんじんと冷たく、息が白くけむった。防寒ジャケットの下のセーターまで雨に濡れたが、佑の鼻が赤いのは寒さのせいだけではない。
 靴箱の前で、佑が壊れた傘を見つけて呆然としている横を、クラスの子供たちは素通りして帰っていった。しらじらしく今日遊ぶ約束の話なんかをして、誰一人目を合わせなかった。
 やがて寺の白壁は尽きる。狭い道幅をより狭く、古びた町をより古くする最後の仕上げのように、電柱が並び電線が垂れ下がっている。そしてそれに圧迫されるように、時代劇に出てくるような黒ずんだ木造建築群が建ち並んでいた。今、それらの家並みは、強まってきた雨に白っぽくかすんでいた。
 家々は現代の住宅と比べて、横に三軒分ほどは幅がある。一階も二階も、通りに面した壁のかなりの面積を格子窓が占めていた。今の時代、その奥にはぴかぴかの板硝子がはまり、その隙間から洗剤の青い容器や紅椿を活けた花瓶が、銀色の雨の紗の向こうにのぞくのだった。
 木造の家々の間にはまるように、古いコンクリートの家々もある。大半が商店だった。洋品店、燃料店、コップ酒やモッキリを出す酒屋(佑はいつかのぞいてみたいと思っていた)、いずれも壁に昭和の時代の遠くなったことを感じさせる傷みがある。それも今は雨に濡れ、地図のように見える染みが黒く浮かび上がっている。
 不規則なYの字型に交差した曲がり角を、間違えないように一番右端に曲がる。そこで雨脚は今一段と激しくなった。佑はたまらず一軒の町屋の軒先に足を止めた。自宅マンションまであとまだ十分ほどの道のりが残っている。
 電線が唸ったかと思うと、強い風が吹きつけた。雨粒が白い線を描いて通りにしぶきをあげる。その湿っぽい匂いの中に、心高まるようにかぐわしい香りを感じて、佑は目をあげた。向かい側の蔵付き町家に、「珈琲豆専門店くらっこ」と書かれた茶色の看板が掲げられていた。店先には飴色の灯りが、嵐の海から見る灯台のようにともされていた。
 引き戸が開いて、六十代と思しき、紺色のワンピースを着たおばあさんが姿を現した。その後ろから、ふわふわのショートカットの女の子が、元気いっぱいに飛び出してきた。くしゃくしゃに皺の寄った青いスカートがひるがえる。その体は、ひょっとしたら風に乗ってどこまでも飛ぶくらい軽いんじゃないかと思われるほど、重力を感じさせなかった。
 あれ、と佑は思った。見覚えのある子だ。一瞬だけ考えてどうりでと思った。佑と同じ五年二組の小鳥谷(コズヤ)風姫子さんだ。小鳥谷さんとは話したことはないが、とっても目立つ女の子だ。
 小鳥谷さんも佑の姿を認めた。吊り上がって離れたとび色の目が、おもちゃを見つけた猫の目のように輝いた。小鳥谷さんは傘もささずに佑の前へと駆けて来た。小さなつむじ風が小鳥谷さんの周りに巻いて、真っ直ぐ落ちてくる雨粒をぐにゃりと曲げる。意地悪に佑に吹き付けるのと同じ風がまるで、濡らすまいとえこひいきして吹いているかのように見えた。
 「タスク、どうした? 傘ないの? 」
 佑は一瞬言いよどんだが、素直に事情を話した。
 「僕の傘、壊れちゃったんだ」
 「じゃあ、家で休んでいくといい。服も貸してあげるよ」
 「え? 」
 「フキコの家はここだよ」
 小鳥谷さんは佑が軒を借りていた立派な町家を指さした。
 「いいの? 小鳥谷さん? 」
 「フキちゃんでいいよ。ね、いいよね、おばあちゃん」
 「フキちゃんのお友達? いいわよ、もちろん」
 フキちゃんと一緒にコーヒー豆専門店から出てきたおばあさんは、傘を差しながらゆっくりと通りを渡ってくるところだった。体形隠しのダボダボしたワンピースの上の銀色のショートボブが、丸っこい頬を包んでいる。余分な脂肪なんて無さそうなフキちゃんとは似てないなあ、と佑は思った。


 佑はフキちゃんの家でシャワーを借りて髪を乾かした。外から見て、まるで時代劇に出てくるような家だなあと思っていたが、中も相応に古い。
 玄関の間口は広いが格子戸が外光を遮り、室内は日が暮れたみたいだった。そこから奥に向かって石畳の土間が細長く続き、その右手にはいくつかの部屋の上り口がある。一番手前の座敷にはかつて商家であった頃の名残なのか、雑誌が山積みになってはいたが、番台らしきものが残されていた。
 すべての建材がずっしりと古く湿気た家だった。浴室へ行くときに通った小部屋の飴色の床板は、歩くたびにキイキイと鳴いた。それなのに、風呂場は現代式のユニットバスで、ぴかぴかの洗濯機が置いてある。
 その後で通された居間は、天井が無く吹き抜けの造りになっていた。見上げれば高い所に大きな梁の渡された屋根裏が見える。神棚があり、黒光りする箪笥が幾つも置いてある。四月だというのにストーブが焚かれ、パッチワークの布団をかけた、大きなこたつが一つ置いてあった。その上に、お煎餅と、読みかけの新聞と老眼鏡が散らばっている。
 佑はこたつに足を突っ込んで冷えた体を温めた。フキちゃんが吊り上がった眼でにこにこと微笑みながら、佑の向かい側に座った。開いたままのお煎餅の袋に手を突っ込んで、ぽりぽりとかじる。そうしてもう一枚を佑に差し出した。佑も遠慮がちに小麦で出来た甘いお煎餅をかじった。おばあさんがさっき買ってきたコーヒー豆で、カフェオレを淹れて運んできた。お煎餅にカフェオレなんてと思っていた佑だったが、飲んでみれば案外悪くはなかった。
 佑は紺色の春のニットとチノパンに着替えていた。きちんとした男の子用だった。服の形としては、どこか流行とずれた、古臭いデザインだ。佑は丸くて優しげな二重の目をぱちぱちさせて言った。
 「これは誰の服なの? フキちゃんのじゃないよね」
 「これはフキコのお兄ちゃんの遺品なんだ。お兄ちゃんは三年前、ニラと水仙を間違えて食べて死じゃったんだ」
 「ええっ、そうなの? そんな大事なもの、僕が借りちゃってもいいのかなあ? 」
 「大丈夫、大丈夫、その代わりに、お兄ちゃんの好物だった花鳥庵の『樹氷の舞』っていうお菓子を買ってきて。お仏壇に挙げて拝むから」
 「うん分かった。そうするよ。ありがとうフキちゃん」
 佑は、お兄ちゃんが亡くなって、フキちゃんがどんな気持ちで日々を過ごしているか想像して、胸が押し寿司の箱に入れられたみたいにズーンとなった。瞳を陰らせた佑を見ながら、フキちゃんは屈託もなく笑っていた。
 佑はフキちゃんのおじいさんのものだという黒い大人の蝙蝠傘を借りて家路についた。おじいさんは、地区の老人会の集まりの、カラオケ大会に行っていて留守だった。

 その晩の吉本家の食卓にはニシンの焼き物をメインに、菜の花と小海老のパスタ、春キャベツと葱のスープが並んでいた。どれも料理好きの母親、のどかの手によるものだ。
 淡いラベンダー色のカーテンで、街の夜景に目隠ししたマンションの部屋に、ガーリックの香りが充満している。新品のファブリック類には確かに、ちょっとずつ生活臭がしみこみつつある。
 リビングにはモーツアルトのクラリネット協奏曲が流れていた。吉本家ではいつも食事時にクラッシックが流れる。お父さんこだわりの大きなオーディオが、演奏者の息の音さえ細密に再現していく。佑はこの曲を聴くと、いつも牧草が青々と生い茂る、初秋の田園風景を思い描いた。
 リビングダイニングの一番いい場所では、アップライトピアノが、カラーの花を形どった間接照明に照らしだされている。そこにさっきまでお父さんがいじっていたギターや、今佑が練習しているクラリネットやヴァイオリンが、ケースに入った状態で寄せ置かれている。
 吉本家はプロの音楽一家だ。父親の樹はチェロ奏者、母親ののどかはフルート奏者だった。二人が市のフィルハーモニーに移籍してきたことに伴い、関東から越してきたのだ。
 佑はフキちゃんに助けてもらった経緯を、傘が故意に壊されていたらしいことを抜かして話した。
 お母さんは上品に薄い唇をとがらせて、フルートの音色のように柔らかい声で佑にお説教を垂れた。
 「佑は用心が足りない。気を付けて傘を抜かないと、幾つあっても壊してしまうわ」
 「うん、お母さん、ごめん……」
 「それにして、コズヤさんだったっけ?ご親切にもよくしてもらって。さっそく『花鳥庵』というお菓子屋さんを探さないとね」
 「ああ、見つけたよ。結構有名なところらしいね。棟梁橋のたもとに支店がある」
 お洒落に剃り残したひげをさすりながら、お父さんがスマホを検索しながら言った。
 「佑、街に慣れるがてら、一人で買いに行ってみたらどうだ? 」
 「ええっ!僕やだよ、迷っちゃうよ」
 「なあに、地図で見たらここから二つぐらいしか曲がり角はないよ。この窓から見える橋のたもとだよ。通りからでもこのマンションは見えるだろう。目当てにして歩けば迷うこともない」
 「ええ、僕やだよ、怖いことはしたくない」
 「佑はいつまでたっても赤ちゃんねえ。いいわ、最初の一回だけお母さんが一緒に行ってあげる。でも、一回で覚えなさい。その後は、お母さんが食べたいお菓子を買いにお使いにやらせるからね」
 「……はあい……」
 「のどかは過保護だね。男の子には冒険が必要なのに」
 お父さんはぶつぶつこぼしながらも、ニシンをつまみにビールをあおった。だが結局佑は、次の日の午後にお母さんと花鳥庵に行って、目当てのお菓子を買ってきた。そしてその日のうちにフキちゃんの家を訪ねて、お菓子を届けに行ったのだった。
 フキちゃんの家の呼び鈴を鳴らすと、出てきたのは七十歳ぐらいのがっしりとした、白い角刈り頭のおじいさんだった。
 「どこのボンズだ? 」
 おじいさんは言った。土地訛りの、ちょっとぶっきらぼうな口調だ。佑はすっかり怖気づいてしまった。大人の男の人が苦手なのだ。
 「あの、その……、風姫子さんと同じクラスの吉本佑です。昨日雨が降った時、家に上げてもらって服と傘を借りたので、ありがとうって……。死んだお兄さんの好物の、お菓子を買ってきてほしいと言われたので……」
 佑は顔を真っ赤にして、頭を低くし、紙袋に入っているお菓子を差し出した。
 おじいさんは鬼のお面のようにぎょろっと大きな目で佑を見ていた。佑はすっかり縮みあがって、猫背をさらに縮こめるようにしてぶるぶると震えた。その時フキちゃんが土間の脇の小部屋からひょこっと顔を出した。
 「フキコー! 」
 おじいさんがぎょろっとした目を見張ったまま叫んだ。
 「吹いたかー! 」
 「うん、吹いた」
 フキちゃんは笑って、踊るようなステップを踏んでこちらにかけてきた。おじいさんはぎょろりとむいていた眼を三日月のように細めた。そして、豪快にがははと笑いながらフキちゃんのふわふわの髪をかき回した。
 「あの、ええと……、吹いたって……? 」
 「ああ、嘘だ。フキコに兄なんていない。真っ赤っかな嘘話だ」
 「ええええええええー! 」
 佑は仰天して叫んだ。
 「フキコのフキは大ぼら吹きのフキ」
 おじいさんはそう言ってまたフキちゃんの髪をかき混ぜ、その後で、ついでというように佑の腰のない猫っ毛をごしごしと撫でた。フキちゃんはうろたえたり怖がったり、きまり悪そうなそぶりなどみじんも見せないで、ふわふわにこにこと笑っていた。
 「おっ、『樹氷の舞』だ。フキコこれ大好き。佑もこっちに来て一緒に食べよう」
 フキちゃんは佑の差し出した手から、紙袋に入ったお菓子をひったくると、踊るように居間の方へと駆け出して行った。
 おじいさんは腹が寄れるほど笑い転げ、目に涙を浮かべて、佑の背にごわごわした手のひらを当てた。
 「ほら、ボンズ来い」
 佑は転校して来てから伝え聞いていた、フキちゃんについての色々な噂を、頭の中にめぐらしていた。
 その全ては、フキちゃんが稀代の大噓つきだということに尽きるのだが、昨日の佑には、あんなにも屈託のない目をして、目の前の女の子が嘘をつくなど、まるで思いもつかなかったのだ。

 ハローウィンの仮装パーティーが近づいていた時のことである。
 多くの男子の関心は、学校一可愛いと評判の脇坂さんが何の仮装をするかだった。彼女は当日までのサプライズだと言って、それを秘密にしていた。
 フキちゃんは大勢の男子に、脇坂さんが人気のディズニープリンセス、ラプンツェルの格好をするとつぶやいた。
 結果、パーティーでは、ラプンツェルの相手役、十人以上のフリン・ライダーが間抜けに勢ぞろいすることになったのだが、脇坂さんは実際には、やはりディズニープリンセスのエルサの仮装をした。
 またある年、不良予備軍の葛巻君は、夏休みが終わりそうなのに、宿題も自由研究も工作も手付かずだった。
 葛巻君はクラスメイト達を脅して、宿題を押し付けにかかった。そんな時フキちゃんの方から、自分がすべて肩代わりしてあげると申し出たのだ。信じられないことに、フキちゃんは学校中に知れた秀才だった。
 葛巻君は不当に得た宿題を先生に提出して安堵しきっていた。だから、始業式の翌日、先生に呼び出された時には呆然とした。
 フキちゃんは自分の作文を、葛巻君が自分を脅して宿題を肩代わりさせたという小説仕立てにしていた。葛巻君は大目玉を食らったわけである。
 フキちゃんに担がれた者たちは、皆それぞれにフキちゃんに詰め寄った。そんな時フキちゃんはいつも、ぎょろっと白目をむいて、両手を頭の上にのせて叫ぶのだ。
 「うっそぴょーん! 」
 そのあまりにも罪を感じていない表情に、担がれた子供たちは取り合っても無駄なのだと悟るしかなかったのである。

 転校早々クラスの子たちから、佑はフキちゃんに気を付けるように、信用してはいけないと教えられていた。それなのに今回、全くガードが甘いことにすっかり担がれてしまったのだ。
 「フキコのフキは大ぼら吹きのフキ」
 おじいさんはフキちゃんの「ホラ」に随分寛容なようだ。こたつに足を突っ込んで、笑い合いながら、二人は「樹氷の舞」を食べる。佑も成り行きでご相伴にあずかる。
 おばあさんがカフェオレを四人分運んできた。
 「佑君、また来てくれてありがとうね。フキちゃんがお友達を連れてくるのは珍しいのよ。どうかこれからも仲良くしてね」
 どうやら佑は、フキちゃんの仲良し、と目されてしまったらしかった。
 「樹氷の舞」はふかふかしたマシュマロ地に甘いチョコーレートのかかったお菓子だった。佑の食道を、ほっこり熱いカフェオレがつうっと通過していった。

佑の夢、音楽とフキちゃん

 次の日から毎朝、フキちゃんは毎朝佑を迎えにやって来た。フキちゃんのお家は佑の家よりも学校に近いはずなのに、わざわざ遠回りしてやって来るのである。
 「タスクー、迎えに来たぞ」
 「フキちゃんおはよう。佑、早く靴を履きなさい」
 お母さんはマンションのベランダからにこやかに手を振り返すと、有無を言わせぬ勢いでランドセルを押して佑を送り出す。どうやら新しい街で、息子にお友達が出来たと安堵しているようだった。だから佑も、フキちゃんの問題行動のことを打ち明けて、出来れば遠巻きにしていたいということを言えないのだった。
 「タスク、青松寺のお地蔵さんのよだれかけを一枚取って学校に行くと、今日のテストで百点取れるよ」
 フキちゃんはまるで登校中に鉛筆でも買っていこうとでもいうような気軽さで、そんなことを言い出す。佑は水しぶきを浴びたように顔をしかめ、抗議するように言った。
 「フキちゃん、またそんな嘘っぱち、いくら僕が騙されやすいからって! 先週は愛染明王さんのお札を煎じて飲めば想いが通じるって言いだしたから、僕、お腹壊しちゃったじゃないか! 」
 「ほんとにほんとにほんとだよ」
 フキちゃんの鳶色の眼は、王子様に眠り姫の消息を教える妖精の瞳のように澄み渡っている。佑は思わずつばを飲み込んだ。
 「ほんとに百点取れるの? ……」
 フキちゃんは一瞬にやりとした。その後で、白目をぎょろっとむいてがにまたになり、頭の上に両手をのせて叫んだ。
 「うっそぴょーん! 」
 佑の全身からは力が抜けた。これだけ素直なお友達をだましても、フキちゃんには罪の意識などこれっぽっちもないようだった。
 「だってさ、フキコの嘘を信用してくれる確率が高いのは、一番にタスクなんだ。タスク、騙してくれって顔をして歩いてるよ。50フォントぐらいの大きさの活字で顔に書いてあるよ。フキコとしては、そのご要望に応えないと。それにフキコがタスクを担ぎに来なかったら、タスク学校へ行きたくないなんて言い出すだろ。さ、お地蔵さんのことはさておき、今日は新ルートを開拓するぞ」
 フキちゃんは青いスカートを腿に張り付かせたまま駆けだす。その化繊交じりの生地は、半年以上洋服ダンスで奥に丸まっていたかのようにくちゃくちゃだ。おばあさんがきちんと洗濯しているのに違ないのに、なぜかフキちゃんのスカートにはいつもしわが寄っている。佑は弱弱しい声で懇願する。
 「フキちゃん、僕あんまり危ないことはしたくないんだ……」
 「なあに、大丈夫。この白壁を乗り越えて、お寺のお堂を通って近道して行こう! 」
 「ええっ、中! 中は駄目だよ、この間だって、知らない人のお家を通って、怖いおじさんに見つかりそうになったじゃないか! 」
 「じゃあ、お墓の中を突っ切って行こう。十分は短縮できる計算だ」
 「ええーっ!駄目だよ、僕やだよ! 」
 だが結局佑は、フキちゃんに押し切られて、冷たい墓標が立ち並ぶ墓地を駆け抜けて学校の裏口をくぐった。学校に着いても佑の胃袋は揺れ動き、きゅっと痛くなりそうだ。地縛霊を十体ばかり引き連れて来てしまったのではないかと不安になる。
 佑が蒼い顔で肩で息をしていると、まだ他に誰もいない教室に、高校生でも通るくらいに背の高くて、長い栗色の髪をハーフアップにした女子が、教壇に飾る水仙の花の水を替えて入ってくるところだった。
 「おはよう、フキちゃん、佑君。今日も仲良しだね」
 「おはよう、宮野さん」
 佑の青白い顔にはかああっと血が上り、耳たぶまで苺チョコレートのような色になる。同じクラスの宮野優梨愛さんに話しかけられるたびに、佑の幼い心は燃え上がった。
 宮野さんは明らかに子供服ではないような、ベージュのカットソーと黒いストレートラインのパンツを着ている。その服を盛り上げる体の曲線は小学生離れしている。佑はクラスの男子が、「優梨愛はDカップだってよ」、と噂話しているのを何度も耳にしていた。
 「ねえフキちゃん、英語の作文を見てもらいたいんだけど」
 「どれどれ、ああ、ここスペルが違う、hが一つ足りない……」
 佑は、親し気にフキちゃんと話す宮野さんの、シェルティー犬のように知的な横顔を盗み見ながら、その心が、顔やスタイルの良さにもまして清らかなことを、尊いことだと思うのだった。
 フキちゃんはクラスの中でも浮いている。あからさまに差別しなくても、フキちゃんを警戒して距離をとっている子がほとんどだ。だが宮野さんは、例えば席が隣だったり、押しアイドルが一緒だったりするほかの女子と同じように、分け隔てなくフキちゃんに話しかけている。そして佑に対しても。
 「佑君は英作文出来た? もう余裕なの? 」
 宮野さんが大きな胸をプルンと揺らして佑に向き直った。
 「あああああ……、一応やったことはやったけど。間違ってるかもしれないし……」
 「フキちゃんに見てもらえばいいんだよ。二人はほんとに仲良しなんだから」
 佑の胸にチクリと、真っ赤な薔薇のとげのようなものがが突き刺さる。
 「う、うん」
 できれば、そんな風に言う宮野さんともっと仲良しになりたいなあ……。佑の想いは言葉にはならなかった。
 「おはよう、優梨愛ちゃん」
 「おはよう」
 「おはよう佳乃ちゃん」
 急にがやがやとほかの児童たちが教室に入ってきた。皆、宮野さんにだけ挨拶をして、佑とフキちゃんには声をかけない。
 一瞬去りかけた胃袋の痛みが急激に戻ってくるようだ。
 「ああ、フキちゃんだけでない、僕だって十分にクラスの中で浮いている……」
 きっかけは合唱のソロパートを引き受けた時だと自分でも察しがついている。
 「おはよう! 」
 中学生並みに背の高い男子が入ってきた。グレーのパンツを履いたその腰から、驚くほど長いストライドの脚が伸びている。面長な顔に涼し気な笑みを浮かべ、細く高い鼻梁に貴公子然とした気品を漂わせた彼が教室に入って来ると、ざわめいていた子供たちの声のトーンが明るくなって、市中にやって来た王子様に話しかける国民のような調子で、一斉に彼に挨拶をする。
 「おはよう、裕也君」 
 「今日のセットアップはどこの? 」
 「うん、確か、イゴールとか言ったかな」
 「へえ、すごーい!」
 泉谷裕也は「スプリンク」という、地元では有力な半導体メーカーの御曹司だった。地区の一等地に大豪邸があると、佑は宮野さんに教えてもらっていた。
 大金持ちの家の力で、校長をはじめ教師たち、父兄たちに大きな影響力を持ち、さらにどこかの国の貴公子然とした容貌で、クラスの中では最上級カーストに君臨している。
 佑の不遇は、いつも裕也がやることが不文律となっている合唱のソロパートを、引き受けてしまったことが原因となっていた。
 「おはよう、吉本君」
 裕也は涼しげな目元に、軽蔑の光を宿した微笑みを浮かべて、佑に挨拶をした。
 「今日もフキちゃんと冒険してたんだろ。君は見かけによらず豪胆なんだね」
 「どうして? 」
 「ズボンにお線香の燃えさしと、菊の花びらがくっついてるよ。大方墓場を突っ切って学校まで近道したんだろう? 学校の前に朝からさあ! 」
 「すっごーい佑君、さすがフキちゃんと仲良しなだけあるね」
 子供たちが決して称賛の意味ではない歓声を上げる。馬鹿なことをしでかして捕まった人に、「よくそんなことしたねえ」とあきれ声をあげるような、そんな調子の口ぶりだ。佑は顔を真っ青にしてぶるぶると震えていた。猫背の背中がなお一層に縮こまる。
 「ほんとにすごいよ。裕也君だったら、学校の後でも出来そうもないことだもんね。結構世間体を気にしすぎるところがあるから、子供らしい思い切った冒険できなもんね」
 宮野さんが媚びへつらいのない笑顔でそう言った。裕也はちょっと鼻に皺をよせ、唇を尖らせて何か言いたそうにしていたが、ただ「うんそうなんだ、僕は小心者だから」とつぶやくだけでお茶を濁した。
 佑は宮野さんがやんわり庇ってくれたことを察して、幼い恋心を一層燃やした。
 話が裕也を中心にそれていった後で、佑は宮野さんにささやいた。
 「ごめんね、さっきはありがとう」
 「ええ、何?あたし何にもしてないよ」
 「僕を庇ってくれたじゃないか。それにして、宮野さんは泉谷君が怖くはないの? 」
 「ああ、裕也君? 裕也君は絶対女子は虐めないの。絶対だよ。だからフキちゃんだって平然と裕也君にもほら吹くよ」
 「ええええっ、そうなの? 」
 「いつだったかな? 運動会の日に、裕也君のおじいさんがぎっくり腰で来られないと嘘をついて、裕也君が油断して徒競走で二位になったから、ものすごく叱られたらしい」
 「二位で叱られるの? 」
 「裕也君のおじいさんすっごく厳しいの。絶対に守らなければならない五か条とかあるらしいよ。でも、それでも裕也君は一回もフキちゃんを虐めないよ」
 「そうなんだ」
 佑は自分に対する裕也の仕打ちを棚に上げて、彼をちょっとだけ見直した。女の子には対して危害を与えないという信条は、性格も立場も全く違う佑も、戒めとして硬く守っているからだった。

******************************


 佑の胃を痛くしながら徐々に、合唱の練習が進んでいった。
 「願いは白く輝き 太陽を貫く……」
 歌う時となると佑の猫背はピンと伸び、顎を引いて後頭部から吊り上げられたように真っ直ぐの姿勢になった。
 佑の発声は、体を楽器にして、額にビンビンと響かせる素晴らしいものだった。あと二年も経てば永遠に失われてしまうボーイソプラノ。それを彼は、学校以外の場所でも十分に磨き込んでいた。
 それを感じ取ったのか、佑を見る裕也のまなざしが余計に憎々しげになる。折触れてソロパートを辞退するようにほのめかされても、佑は取り合わなかった。優しい二重の目に気弱な表情を漂わせながらも断り続けた。
 アルトのパートの中に、調子っぱずれの狂ったバイオリンみたいな声音が混じっている。これはフキちゃんの声だ。国語も算数も、理科も社会も英語も得意なフキちゃんは、音楽だけはまるで駄目なのだ。
 練習が終わると、フキちゃんの前の列の女子数人が、フキちゃんの声のせいで、自分たちまで音程が狂うと文句を言った。フキちゃんはまるで取り合わなかった。
 「声は風だよ。風っていうのは自由に吹かないと」
 「風? 何訳わからないこと言ってるの? あたしたちが言っているのは風じゃなくて声、音! 」
 「全ての流れる空気は風だよ。枷にはめられた風ほどみじめなものはない」
 「はあ? 訳わかんない! 」
 そのやり取りを聞いていた佑は、見かねてフキちゃんに申し出た。
 「ねえフキちゃん、今日学校から帰ったら僕の家で合唱の練習をしようよ。フキちゃんの歌は確かに問題だよ。自由とでたらめは違うんだ」
 「うん、分かった」
 フキちゃんはいつも通りに、ふわふわにこにこと微笑みながら素直に答えた。佑はフキちゃんのお家まで一緒に帰って、かばんを置いたフキちゃんと一緒に自宅マンションに向かった。

 その日両親とも出かけていて、リビングのピアノや楽器は二人の使いたい放題だった。佑はアップライトピアノの蓋を開き、ドの音とソの音を鳴らした。
 「ねえフキちゃん、この音とこの音の違い解る? 」
 「うん」
 「じゃあ、この通りに音程を運んでみて」
 佑は鍵盤をたたきながら、フキちゃんの声に耳を傾けた。上ずったり上がり切れていない声から、音感ではなく喉が狂っているのだと分かった。
 「大丈夫だよ、フキちゃん、きっと発声を頑張れば音程通りに歌えるようになるよ」 
 「別に歌えなくてもいよ。みんなとおんなじ音を出して何が楽しいの? フキコは自由に何にもとらわれずに声を出したいんだ」
 フキちゃんの吊り上がった眼は、佑を不思議そうに見ている。陽だまりに吹くそよ風のような微笑みがわずかに浮かんでいて、決して悪びれているわけでも開き直っているわけでもない。
 「不思議だな」フキちゃんは言った。
 「人間って、どうしてどんどん自分の方から囚われていくように仕向けるんだろう?  フキコにはみんなして一斉に同じ音を出す意味が分からないんだ」
 佑はピアノの椅子の上で、きちんと脚をそろえて身を乗り出した。
 「とらわれないでっていうけど、それぞれがそれぞれの役割を解って、ばらばらだった心を一つにするとき、鳥の声とか、風に揺れる木の葉の音が心に働きかけるよりも、もっと強い感動を呼ぶんだよ。命令されたからじゃなく、自分から作曲家の思い通りの音を鳴らそうと頑張る演奏家は、不自由なんかとは程遠いよ。フキちゃんは本当の音楽を知らないんだ」
 そう言うと佑は、リビングに置かれた大きなオーディオのスイッチを入れて、モーツアルトの夜の女王のアリア、「復讐の炎は地獄と燃え」をかけた。よく磨かれた刃を思わせるソプラノの歌声が、自由奔放に書かれたとしか思えない旋律を、憎しみの心情すら楽しんでいるかのように歌い上げる。そのひらひらひらめく声の下を、オーケストレーションが踊るように軽やかに駆け抜けてゆく。
 曲につれてフキちゃんの体が揺れ始めた。不器用にリズムをとりながら歌手を真似て声を発する。フキちゃんの吊り上がった眼に生き生きと炎が灯り、そばかすだらけの顔にぱっと赤みがさした。
 曲が終わって佑がオーディオのスイッチを消した後でも、フキちゃんは今聴いた歌のメロディーを狂った音程でなぞっていた。
 「ね、いいでしょ? 」
 「これ全部楽譜の通りに演奏して歌っているの? 」
 「もちろん! 歌手一人、指揮者一人、オーケストラ一つに付きいろんな『復讐の炎は地獄と燃え』がある、解釈はあくまでも自由なんだ」
 「確かに、すごく自由だ! 母上のダンスが浮かんでくる」
 フキちゃんはくしゃくしゃのスカートをなおさら皺にするように座りなおして、佑ににじり寄った。
 「ねえ佑、佑のお父さんとお母さんは楽器を演奏する人なんだよね。佑もそうなるの? 将来オーケストラに入るの? 」
 佑は気の弱そうな二重の目に、芯がしっかり通っていることを感じさせる微笑みを浮かべて言った。
 「実を言うと僕は、作曲家になりたいんだ。演奏するのも歌うのももちろん大好きだけど、でも、五線の他は何も書いてない楽譜を埋めるのが、最高にわくわくするんだ。いつかこんなモーツァルトみたいな素晴らしいアリアを書いてみたいなあ」
 「ええ、作曲? 歌うより弾くよりずっと難しそうだな。でもより自由だ」
 「難しいからこそ燃えるんだよ。フキちゃん、フキちゃんはよく自由自由言うけれども、自由が一番難しいんだよ。何やってもいいって言われると案外何も思い付かなかったりする。どう歌ってもいいって言われても、ぱっと出来る人はごくわずかだよ。だから、優れた作曲は音自体を自由にするし、演奏家にも自由を与えるんだ。そこまでになるのはとっても難しいだろうけど」
 「ねえタスク、風の歌を作ってよ。埃を持ち上げて、木の葉を散らして、女の子の帽子を盗んでいく、そういう自由な風の歌を作ってよ」
 フキちゃんが吊り上がった眼を輝かせた。
 「また風? フキちゃんは風が好きだね。そういえば名前の中にも風の字があるね」
 「楽器はさあ、このピアノじゃだめだ。ピアノの音はまるで水だから。音の粒粒が水滴みたいだ」
 「フキちゃん時々鋭いね。風かあ、そうだな、息も風の一種だとすると……、笛、木管楽器かなあ」
 佑は今練習しているクラリネットをケースから出して、ビューティフルドリーマーのさわりを鳴らした。フキちゃんが手を叩いてきゃっきゃっと笑った。
 「いいね、いいね。タスク、ビャウォヴィエジャのそよ風の音がする。ねえ、タスク、タスクの初めての大作が発表されるときには、何をおいてもフキコ駆けつけてあげるからね。世界が違っちゃっていてもきっと」
 佑はフキちゃんの言葉に謎めいたものを感じとった。
 「世界が違っちゃっていても? 」
 だがフキちゃんはそれ以上は何も言わなかった。
 そのやり取りの後はフキちゃんも、勝手気ままに声を出そうとはしなくなった。二人は結構気合を入れて特訓に励んだ。そして可能な限り、毎日練習することを約束した。
 桜の花が散り、乾いた花びらを吹き上げる暖かい風が吹いていた。

大混乱の運動会

五月がやって来た。昼間の気温はようやくと上がり、薄手のシャツで汗ばむほどになった。朝晩は相変わらずストーブが手放せないが、タスクの心にも初夏が訪れた開放感が満ちていた。
 北東北では運動会が五月に行われるということを、佑は転校して初めて知った。体育の日に行うのでは、気候が寒すぎるらしい。
 四月が終わるのと同時に、運動会の準備が始まった。佑はダンスの練習の時間を、小さな胸の炎に、ガソリンや灯油をどんどん注いで、ついでにロケット花火までくべるような勢いで待ち構えていた。なぜなら、どういう割り振りなのか、男女ペアで踊る創作ダンスの相方が宮野さんだったのだ。
 宮野さんと向き合ったり手を合わせたり、そのままくるくると回ったりすると、佑の心は夢見心地になった。この世で宮野さんと自分だけに、スポットライトが当たっているかのように思う。
 だが、三回目の練習のあと、宮野さんが遠慮がちに囁いた。口元は微笑んでいたが、普段春のお日様のように輝いている目には、風が運んできた灰色の雲のような哀しみがあった。
 「佑君、あたしと踊るのやりにくくない? 」
 「やりにくい? 」
 「ほら、あたし背がでかすぎるから……。小柄でかわいらしい、フキちゃんみたいな子の方がよかったのかなあって……」
 「えええ! 全然、全然そんなことないよ! 宮野さん気にしすぎだよ」
 「そうかな……」
 「宮野さん、背が大きいことにコンプレックスがあるの? 」 
 佑は勇気を振り絞ってそんな質問をぶつけた。宮野さんは右足で白線の輪郭をいじりながらもじもじと答えた。
 「うん。背もそうだけど、体型も大人っぽ過ぎることが嫌なんだ。胸が大きくなるのも他の子と同じだったらよかったのに。
 ランドセルを背負っていなかったら、あたしは小学五年生には見えない。私服で歩いているといろんな男の人の目が突き刺さって来る。それがとっても嫌なの。
 フキちゃんみたいに小さくて細くてふわふわしていたらよかったのに。おんなじ小学五年生から見ても可愛いい子だったららよかったのに」
 「宮野さんは可愛いよ! 」
 佑は心の底からそう叫んだ。そして自分の声に驚いてゆでだこのようになった。
 宮野さんは口元をアヒルのようにとがらせて微笑んだ。
 「ありがとう佑君。佑君は優しいね。それから、あたしのことは優梨愛でいいよ、宮野さんじゃ仲良しの呼び方じゃないからね」
 佑は天にも昇る心持でその言葉を聞いていた。最高だ! 優梨愛ちゃん、優梨愛ちゃん! シェルティー犬のように知的な優梨愛の目をまともに見ることはできなかったが、心のうちからしみだしてくる愛おしさに震える声でこう答えた。
 「うん、優梨愛ちゃん」

 五月末の日曜日、運動会が始まった。
 いい天気だった。青空からは先週まで漂っていた冷たさが消えた。朝晩の気温もようやく上がり、昼間はもはや暑すぎるほどだ。真夏よりも透明で、春よりも情熱に満ちた光が、埃の匂いのする校庭にまばゆく満ちていた。
 五年二組は白組だった。六年生の応援委員長の回す銀色の旗に合わせて、皆腕を振り声をあげる。左側に陣取った紅組の陣地からも、威勢のいい応援歌がわんわんと響き、白組の応援とまじりあって大きなうねりを作っていた。
 佑は喉を傷めないように応援をしながら、こまめに水を飲んでいた。フキちゃんは佑の斜め前で、調子っぱずれの応援歌をがなり立てながら大はしゃぎだった。
 家族席では多くの父母じいじばあばたちが、スマホを構えて歓声を上げている。みな我が子我が孫の一番いい瞬間をとらえようと一生懸命だ。子供たちの出番が変わるたびに、最前列が入れ替わる。夏服や帽子、日傘のカラフルな色合いが、楽し気に入り乱れていた。
 佑はその中にお母さんの白いつば広帽と、お父さんの紺色のキャップを認めた。いいところを見せたいなと思った。さらによく見れば、お母さんの隣にフキちゃんのおじいさんとおばあさんもいる。何か楽しそうに話し合っているようだ。
 佑は徒競走では三位だった。ビリにはならないことが目標だったので、これは佑にとって大勝利だった。フキちゃんは軽々と一等になった。体の重い優梨愛は五位だった。
 最終組に裕也の出番が来た。席に戻って注視していると、沢山のクラスの女子たちが一生懸命に応援を始めた。
 「裕也くーん、頑張って! 」
 「ファイト、裕也君! 」
 「絶対一位になれるよ」
 お人好しの佑は恨みも感じずにただため息をついた。この子たちは皆裕也のことが好きなのだ。自分が優梨愛を好きなように、裕也に振り向いてほしくて仕方ないのだ。
 彼女たちは皆、校庭の隅で風に揺れているマーガレットの花のように、可愛くて健気でいじらしかった。こんなふうに誰かを好きでいることは、同じように優梨愛に片思いしている佑には、とても大切なことに思えた。
 「でも、どうして泉谷君を嫌いになれないんだろうなあ? 僕に冷たくするように差し向けているのは、絶対泉谷君なのに……」
 裕也はぶっちぎりで一位になった。
 「あれが裕也君のおじいさんだよ」
 後ろに座っていた優梨愛が指さして囁いた。
 おおよそ運動会観戦にふさわしくない、銀鼠色のダブルのスーツを着て、昔の政治家みたいな帽子をかぶった七十がらみのおじいさんが、数人の取り巻きらしき人たちに囲まれて立っていた。直線的な顔立ちと濃いしわが、マフィア映画のボスのようだ。
 彼は裕也が楽々一位で走り終えるのを見ると、手をたたいて頷いていた。そしてまたすぐに、しかめっ面しく両手を組んで直立した。
 「泉谷君大変そうだね」
 「本当にね」
 佑が思わずもらしたつぶやきに、苦笑いしながら優梨愛も答えた。

 徒競走のすぐ後、おトイレから戻ってきたフキちゃんが妙なことを言いだした。
 「イワノリイナが来てるよ」
 フキちゃんの言葉はアメンボが輪をかいているだけの水面に、小石を投げ込んだようなどよめきを生んだ。
 「ええ? あのアイドルユニットPIXYの? 」
 「うさ耳付きの帽子かぶってるの見た」
 「あり得ないよ」
 「またフキちゃんの嘘なんでしょう」
 正直佑には信じられなかった。周りの子供たちも皆、もう騙さないぞと疑りぶかく首をひねりながら、この機会だからとっちめられるだけとっちめてしまえ、とでも言うように、敵意をもってフキちゃんの周りを取り囲んだ。
 「でも、出身はこの県なんだよ、この学校に親戚の子がいるって、おばあちゃんが言ってた」
 「えー、まさかー! 」
 「そんなの信じる人いる? 」
 「第一見たのがフキちゃんだってのが信じられないんだよ」
 「もうフキちゃんには騙されないからね」
 「お前のせいで大恥かいたことは一生忘れないからな」
 フキちゃんを糾弾する子供たちの声は、意地悪な喜びに満ちていて、ここぞとばかりに力がこもっていた。フキちゃんのせいで割に合わない思いをしたことのある子供の数は、相当なものであるらしかった。
 「いいんだよ。フキコを信じなくても。その代わりフキコだけイワノリイナにサインもらっちゃうから」
 フキちゃんはいつも通りふわふわにこにこと笑っていた。吊り上がって離れた目が、小鳥を見つめる猫の目のように輝いている。それなのに佑は、その眼差しの中に一抹の哀しみを見たような気がしてしまった。佑はフキちゃんの言うことを信じたわけではないけれど、ついつい優しい目をして頷いた。
 「ふうん、そうなんだ。イワノリイナが来てるんだ」
 「佑は信じてくれるんだ」
 「うん。本当にそうだったらいいな。そういう嘘なら信じてもいいんじゃない? 」
 「じゃあ、やっぱりみんなも信じなきゃだめだ! エイッ! 」
 フキちゃんはすうと息を吸って、右足を軸にくるっと一回転した。フキちゃんの足元の方からぴゅうっとつむじ風が吹く。セージかローズマリーのように青い香りが、佑の鼻の中に立ち昇った。すると夢の中で、「あなたは王子様です」、と言われて訳なく信じてしまったような心地になり、そのとたん佑は、フキちゃんの言葉を信用しない理由のすべてを忘れてしまったのである。
 他の子供たちも夢見心地ではしゃぎ始めた。
 「そうなんだ、イワノリイナが来てるんだ。見てみたいなあ」
 「親戚の子って何年生? 誰のことだろう? 」
 「あああ、サイン欲しい! 」
 フキちゃんはわざわざ先生の目を盗んで、紅組の陣地までこの興味深い報告を広げに行った。噂は、出番を待つ暇な小学生の間に急激に広がって行った。
 「イワノリイナが来ているらしいよ」
 「本当? 」
 「見た子がいる。うさ耳付きの帽子かぶってるって」
 「その人なら俺も見た」
 「あたしも見た! 」
 ざわざわとし始めた児童たちの様子も知らずに、放送委員会の女子が達者なアナウンスを響かせた。
 「次は、五年生による創作ダンス、『雨粒の祭り』です。参加者は整列してください」
 佑の体は火が付いたように目覚めた。鼓動が大きく速く脈打っているのが、体の内側から聞こえる。緊張と甘いうずきに体をぎくしゃくさせながら、ゆっくりと持ち場へと向かう。もうイワノリイナのことなど頭にない。
 後ろから優梨愛が声をかける。
 「頑張ろうね」
 佑は優しげな二重の目を潤ませた。これが優梨愛と踊る最後になると思うと、夕日が真っ赤に燃えながら、沈んでいのを眺めているような気分になる。なるだけ一瞬一瞬を深く味わっておこう、佑はそう自分に言い聞かせた。
 そのころ、五年生がごっそりと抜けた後の紅白両陣地では、列を乱したり、興奮して声を上げる児童が目立ち始めていた。
 佑と優梨愛は最後列の右側に並んだ。その隣、後列中央には裕也と、今日は一段とおさげ髪をきっちり編んだ佐々木さん、フキちゃんはずっと前の方で、テナガザルの赤ちゃんみたいな顔をした焔君と並んで立っている。フキちゃんはダンスの前からしきりにくるくる回っている。フキちゃんもやる気満々だと、佑は好意的に受け取った。
 応援席の方を振り返ってみると、お父さんとお母さんがスマホをきっちりと構えてこちら注視している。お母さんが手を振った。佑も小さく振り返す。今日ここで撮られるであろう動画を、一生大切に保存して見たいと思った。
 ダンスが始まった。大昔の映画音楽に合わせて、雨粒に扮した子供たちがくるくると踊る。男女一組のペアが周りながら、さらに大きな回転の輪を作り出してゆく。
 佑の顔は今日の日焼けと相まって真っ赤だった。爽やかな空の下向かい合う優梨愛は、言葉にならないほど可愛かった。
 踊りの輪の中、青いハーブの匂いのする風が、校庭に渦を巻き始めていた。それはダンスに夢中になっている五年生を素通りし、後ろに座っている他の学年の子供たちにひときわ強く作用した。
 ダンスは佳境に入った。右手と右手をを合わせたペアが、遠心力に引き合い高速で回転する。佑の目には優梨愛以外のものは何も映らなかった。
 その時、紅組白組両方の陣地から、悲鳴交じりの叫び声が起こった。子供たちは立ち上がり、浮かされた眼差しで家族席を見つめ、ロープを乗り越えた。
 「イワノリイナだ! 」
 「見たい、見たい! 」
 「サイン頂戴! 」
 子供たちは校庭の中央になだれ込み、左側の家族席の方へと我先に駆けだす。
 ダンスの時間はカオスへと飲み込まれた。優梨愛としっかり手を取り合っていたのに、その手がもぎ離される。誰かが佑の運動靴を踏んで、右足が裸足になった。
 訳も分からず頭を抱えてしゃがみこんだ佑の脳裏には、最近読んだ「ギリシアローマ神話」という本の中の、「マイナデス」という章がひらめいた。お酒の神様の獰猛な信者たちが、狂ったように歌ったり踊ったりしながら、道なりにいる人を血祭りにあげたりするのだ。乱入してきた子供たちは気勢を上げ、我勝手に走り、まるで幻覚作用のあるお酒に酔っぱらっているようだ。 
 「ちょっとやめてよ! 」 
 「なにやってんだよ! 」 
 「お前らの方こそどけよ! 」
 「あ、今誰かあたしの胸触ったでしょう! 」
 校庭は大混乱となった。
 「見えた! 」
 「うさ耳帽子かぶってる」
 「イワノリイナだ! 」 
 「落ち着いてください! 落ち着いて! 何をやっているんですか、秩序を乱さないで! 」
 放送委員会からマイクを奪い取った臙脂のジャージ姿の教頭が、こめかみをぴくぴくさせながら怒鳴りつける。
 阿鼻叫喚の騒ぎの中に、フキちゃんのキャッキャッキャッと笑い声が響いていた。
 佑ははっとした。フキちゃんフキちゃん、もしかして……。佑は次の瞬間大声で叫んだ。
 「えええ? 何で信じちゃったんだろう! 」

 大混乱の創作ダンスが何とか終息を見た後、フキちゃんは教頭に呼ばれた。おじいさんとおばあさんと一緒に、大目玉を食らっているということだ。
 お弁当の時間にフキちゃんは帰ってきた。てっきり油を搾られて落ち込んでいるだろうと思っていたのに、フキちゃんは泣いたり怒ったりすねたりしている様子もなく、そのうえ開き直っている様子でもなく、いつ戻りにふわふわにこにこ笑っているのだった。
 「フキちゃん、何言われたの? 」
 「いつも通り。どうしてそんなつく意味もない嘘をついて面白がっているのかって。だってねえ、嘘ってつく意味が出来たとたん、かえって罪深くなると思わないか? あのね、家族席の方にうさ耳を被ったお姉さんがいたから、イワノリイナだったら面白いなあって思ったんだ。だったら半分ほんとにしちゃおうって思ったんだ」
 「おじいさんとおばあさんも叱られたんじゃない? 」
 「おじいちゃんもおばあちゃんも、『フキコの嘘は天使の嘘だ』っていって、フキコをいつも守ってくれるんだ。水原先生もフキコだけの責任じゃないってとりなしてくれた。今度恩返ししないと」
 「その恩返しも嘘でするの? 」
 佑の開いた口はふさがらない。
 「でもどうして、フキちゃんは大ウソつきで、油断してると担がれるって分かっているのに、みんなフキちゃんの嘘を信じててしまうんだろう? 」
 「それはね、フキコが魔法を使えるからだよ」
 「魔法? そんなの誰も信じないよ」
 「佑君、きりせんしょ作って来たから食べない? お父さんとお母さんもご一緒に」
 フキちゃんのおばあさんが声をかけた。
 「あらあ、これは何? ゆべしに似てる」
 甘いものに目がないお母さんが即座に答える。
 「なんだかとんでもないお友達だね。一緒にいて怖くないかい? 」
 お父さんが佑にそっと囁いた。
 「正直ちょっと怖いかも。でもフキちゃんは全然嫌いじゃないよ。怖いけどちょっとだけ楽しいかなあ……」 
 「フキちゃんは佑を冒険につれてってくれるんだな」
 お父さんはうんうんとうなずいて、お母さんの作った卵とベーコンのサンドウィッチをほおばった。
 お父さんの肩越しに目を上げると、優梨愛と目がぶつかった。優梨愛が小さく手を振る。ご両親と三人の弟たちと一緒だった。佑も真っ赤になりながら手を振り返す。
 優梨愛が大きく口を動かして、声を出さずに「あれ見てよ」と佑たちの後ろの方を差した。
 そこでは海外のアウトドアブランドのシートを敷いた裕也の家族が、数人のお付きの人に囲まれて、近所の料亭に作らせた、うな重や柳川丼、ローストビーフや寿司のお弁当を広げていた。佑の二重の目は、うらやましいというより呆れでまあるく見開かれた。
 一同の中心に君臨しているのは、どうやら先ほど見かけた裕也の祖父らしい。母親らしき女性はこの埃っぽいグラウンドに、浅黄色の小袖に白い帯を締めて、日傘を差しながら座っている。父親らしき人はとても小柄でカゲロウのように痩せ、広い額が寂しくなってきた生え際を強調する様も、余計に頼りなげに見える。彼は父親に頭が上がらずへこへこしている様子に見えた。
 裕也はと言えば、シートの上にきちんと正座して、背筋を伸ばして、綺麗な箸使いでうな重を食べていた。主におじいさんとやり取りしているのは、どうやら裕也のようだった。
 「泉谷君も大変だなあ……」
 さっきと同じことをつぶやいて、佑は、狭い正方形に切り取られた空を見上げた。
 お昼が終われば後は綱引きと赤白対抗リレーが残っているだけだ。もう太陽はやや天頂を過ぎ、真っ白かった雲に、ハチミツの様なとろんとした色が付き始めた。日差しは燦燦と明るいのに、吹き抜ける風はどこか冷たい。
 フキちゃんが満ち足りた表情で、今猛特訓している合唱曲のアルトパートを、怪しげな音程で歌っている。
 この日を忘れず大切に覚えておこうと、佑は強く思った。

嘘つきの理由は……

 運動会が終わった。大慶寺小学校の児童たちも元通りの生活へと戻った。祭りの後の寂しさが通り過ぎてしまえば、夏が近づいて来ることの期待感が一層大きくなっていく。プール開き、遠足、夏休み、楽しみな行事が目白押しだ。
 佑は、運動会で縮まった優梨愛との距離に、胸をときめかせていた。絶対に口に出しては言えなかったが、優梨愛の水着姿を見るが楽しみだった。
 五月最後の日、給食の後の最終時限目は、総合学習の時間だった。子供たちは、五人ずつのグループを作って、地区の歴史を研究する記事作りをしていた。グループ一つにつき一台のパソコンが割り振られ、何を調べるのか、誰にインタビューをするのかを、検索記事を参考にして決めていく。
 水原先生が席を外していたので、緩い空気が広がって、だらしなく椅子にふんぞり返り、関係のない記事や動画まで検索しようとする子もいる。
 佑とフキちゃんを入れてくれたのは、優梨愛と優梨愛と仲がいい、棒っ切れのような体をした唯葉さんという女子と、太っちょで一日中あくびばっかりしている、猿橋君という男子のグループだけだった。
 猿橋君は目に涙を浮かべてあくびをしながらも、パソコン操作の役割を怠らず、メンバーが提案したワードを、次々と検索していく。
 「佑君の目から見た大慶寺町はどんな? よそから来た人の目から見たらさあ」
 「不思議な感じだよ。歴史の迷路に迷い込んじゃった気持ちになる。特にフキちゃんのお家は、建物は江戸時代なのに、トイレとか水回りが現代だし、僕のお家にもある洗剤とかお菓子の袋が何気なく置かれているのを見ると、本当は出会うはずのなかったものが隣り合って仲良くしているみたいな気持ちになるよ」
 「ふむふむ」
 唯葉さんが頷きながら、ノートに細かい文字をびっちりと書き込んでいく。誰に言われたわけでもなく、書記役をすべて引き受けてくれている。
 「フキちゃんのお家って、あの三叉路にある一際大きいお家だよね。校外学習の時に、フキちゃんのおじいさんとおばあさんのお話を聞きたいなあ。建物の内部とかあたしたちでもなかなか見る機会無いし」
 優梨愛が提案した。ディスカッションそっちのけで、フキちゃんは鉛筆を唇の上にのっけて、椅子の上でくるくるとバランスをとっていたが、鉛筆をからんと落としながら快諾した。
 「今日頼んでみる」
 その時他のグループの一つから、黄色い声が上がった。
 「裕也君のお家に入れるの? 」
 佑は振り返って見る。裕也と女子四人のグループが盛り上がっていた。
 「僕の家も大正時代に建てられた歴史的建造物だからね。色々調べたり、おじいさまやお父さんたちに聞いたりしたらいいよ」
 裕也の周りでは、ピアノの上手な佐々木さんが、その古風なおさげ髪をときめきに揺らし、学校一可愛いと評判の脇坂さんが、大きく見開いたキャッツアイの周りをぽっと上気させている。学校にお化粧をしてくる野々宮さんが、中性的で日本刀を思わせるシャープな目をきらめかせ、毎日お菓子を焼いているという日向さんが、小動物のように可憐な顔に、健気さがにじみ出るような笑顔を浮かべている。
 このメンバー構成に、多くの男子たちは「ハーレムだ」とやっかみ半分にくさしていた。裕也のグループの女子たちは、皆他の男子児童にも人気がある子たちばかりなのだ。
 そのうえ佑が気付いた限りにおいて、裕也のグループの女子の僥倖を、歯ぎしりする思いで見つめている女子も、かなりの数に上っている。
 「いくら大勢から好かれてもなあ。泉谷君は大変だ」
 お人好しの佑は、心の中でそうつぶやくのだった。

 フキちゃんのおじいさんもおばあさんも、取材の話を快く引き受けてくれたので、次の校外学習の時間に、佑たちの班はフキちゃんの家を訪ねた。
 四月半ばの雨の日に底冷えがして湿気ていた玄関は、ひんやり感が快いほどになっていた。床は相変わらずキイキイと鳴いたが、その音は乾いていて、もの悲しさが大分薄れている。
 古い土間にユニットバスを組み込んだ水回りや、佑が感心した洗濯機を見学し、今は板張りになっておばあさんが居心地よく働ける台所も見る。フキちゃんのひいおじいさんの代まで、ここは床板も無く、薪をくべるかまどで調理していたらしい。
 この地区の町屋の特徴なども聞いた。居間の天井が無く吹き抜けとなっているのは、家主の出世を妨げないためだという。
 「神棚は居間にあるけど、仏間は別にとっている家が多いのよ」
 フキちゃんのおばあさんの案内で、佑たちは西に面した八畳間に通された。ふすまを開けると正面に、黒光りする小さな衣装箪笥が置かれていた。少し古くなってきた畳の上には、紺色の座布団が何枚か積み重なっている。
 入って右手の壁際に、大きなお仏壇が埋め込まれていた。今風のお洒落なものではなく、昔風の金や漆でごてごてと飾り立てられたものだ。
 お仏壇の上には写真が三枚飾ってあった。フキちゃんのおじいさんによく似た、そしておじいさんよりだいぶ若いスーツ姿のおじさんの写真。二枚目はそれよりも新しい、花柄のワンピースを着たおばあさんの写真だった。
 最後の一枚は、三十歳にもなっていないと見える、はつらつとしたカップルの写真だった。鮮やかな色のアウトドアスタイルで、山の頂上らしきところでポーズを決めている。
 佑ははっとした。これはもしかして……、フキちゃんのご両親なのではないか? フキちゃんの親が亡くなっているということは、フキちゃん本人から聞かされていた。二人のことは覚えてもいないということも。
 「この写真はもしかして、フキちゃんのお父さんとお母さんですか? 」 
 優梨愛が居住まいを正しておばあさんに尋ねた。
 「ええ、ええ、そうなの。二人とも飛行機の事故で亡くなったの。アイスランドのエシャン山て言う山の上に墜ちたの。せめてもの救いは旅行の時、一歳のフキちゃんを家に預けていたことだったのよ」
 おばあさんの声は少し震え、眼鏡の奥の目が涙ぐんでいた。
 「お線香あげてもいいですか? 」
 「ええ、もちろん。どうもありがとうね」
 子供たちは皆粛々と仏壇の前に座り、線香をあげて手を合わせた。
 目を開けて立ち上がりながら振り向いた佑の目に、普段の様子からは信じられないほど青ざめた、フキちゃんの顔が飛び込んできた。
 クラスで仲間外れにされても、先生たちにきつく叱られても、けろりと笑っているフキちゃんが、母犬を殺された子犬みたいに傷ついた目をして黙り込んでいた。桜色の唇は色を失い、カールした茶色いまつげが震えている。佑の胸にも、工場でプレスされる鉄製品を押し固めるような、重く焼けるような痛みが走った。
 「やっぱりフキちゃんにも、悲しいことや辛いことがあるんだ。もしかして、あんな噓をつきまくる理由も、お父さんとお母さんをなくした悲しさからくるのかもしれない」
 唯葉さんの書き込んでいた水色のメモ帳は細かい字でいっぱいになった。二三印象に残った点を話し合いながら、佑たちの班は学校に戻った。

大慶寺てんど市

 六月が始まった。
 梅雨入りは関東より半月ほど遅いので、この季節の北東北は、一年のうちで一番、お日様の光が透明な季節だった。色のついていないガラスを透かしたみたいな光が、屋根に、道に、人々の頭上に、洪水のように満ちている。
 六月最初の土曜日、大慶寺町の歴史地区のそこかしこに、赤やピンクや水色ののぼり旗が立った。初夏の風物詩、「大慶寺てんど市」が開催されているのだ。
 市内で活動している手作り作家さんたちが自慢の作品をそろえて、大慶寺町内のそこかしこに出店を開く。
 フキちゃんの家の軒下でも、消しゴムハンコを売る作家さんが、折り畳み式のテーブルを置いて実演しながら商品を並べ、そこに町中至る所から集まった子供たちが、目をわくわくと輝かせて群がっている。
 大慶寺町の住人だけではなく、県内の色々なところから、沢山の人々が集まっていた。日差しを避ける麦藁帽やキャップをかぶり、または日傘をくるくるさせ、初夏らしい軽やかな色の服を着て、自分だけの「とっておき」を見つけに来たのだ。
 フキちゃんのおじいさんはこの地区の歴史と町屋を解説するボランティア活動に参加していた。おばあさんは近所のお母さんたちと、臨時に開いた食堂のお手伝いに行っている。
 佑はどちらが誘うともなく、フキちゃんと二人でてんど市を見て回っていた。
 「すごいねフキちゃん、こんな派手で綺麗なのし袋って見たことないよ。全部手で作ったんだね」
 「見ろ、佑、お花を閉じ込めたキャンドルがある。火をつけたらいい匂いがしそうだ」
 時の流れを吸い込んで、その重みの分だけ味わいを増した静かな街並みに、太陽の微笑のような陽光が燦燦と注いでいる。空気はからりと乾き、三百年もの風雨にさらされてきた屋根や外壁も、今日はなんだか若やいでいるように見える。
 ときより弱い風が吹いていた。色とりどりののぼり旗がはらり、はらりと揺れる。日に温められた土埃の匂いが、乾いた鼻の粘膜に張り付いてくる。
 二人は日が高くなるにつれて暑くなってきた通りを、宝物を探す感覚で歩き回っった。世界には何と沢山の素敵なものがあふれているのだろう? この町だけでもこんなにあるのなら、日本中、世界中の作品を集めたら、一体どれくらいになるのだろう? 
 佑とフキちゃんは、それぞれ気に入った小物を二つ三つ買った。フキちゃんはとりわけキャンドルというものを愛していた。フキちゃんの部屋には、雑貨屋で手に入れたキャンドルや、仏具店の蓮の絵が描かれたろうそくの類が山ほど陳列された硝子戸棚があった。そのコレクションの一つに加えられるべき品を探し歩くのに、フキちゃんは時間と労力を惜しまなかった。
 ドライフラワーを閉じ込めたくすんだ薔薇色のキャンドル、水色と緑のマーブル柄の丸いキャンドル、ビー玉のくっついた硝子コップの中に、菫色の蠟と香油を流し込んだキャンドル、フキちゃんのコレクションに加えられる逸品は、普通の雑貨屋では集めきれないような品ばかりだった。
 ヒマワリ柄の手提げ袋にキャンドルを入れたフキちゃんは、通りを行ったり来たりする間にも戦利品を取り出し、指でなぞったり香りをかいだりしてうっとりと微笑んだ。
 「なんだかのどが渇いたね」
 お昼少し前、佑はえへんと咳払いした。界隈には手作り作家さんの店以外にも、アイスクリームやクレープ、スナックを売るキッチンカーが何台も止まっている。佑は手近なところに止まっている、アイスクリームの車の方を見た。
 「フキちゃん、いくら残ってるの?」
 「二千円。ね、タスク、どうせならあの店に入ろうよ。タスク、いつか入ってみたいって言ってたじゃないか」
 フキちゃんが指さしたのは、昭和の装飾が施されたコンクリート造りの、コップ酒やモッキリを出す酒屋、「矢沢酒店」だった。佑は怯えた声を出した。
 「えええ、フキちゃん、僕らの歳で入っていいの?」
 「見ろタスク、麴百パーセントの甘酒あります、って書いてある。二百円だ」
 佑は優しげな二重瞼をぱちぱちさせた。確かにフキちゃんの言うとおりだった。それでもしばらくまごまごしていたが、店の中から、自分たちよりも小さい子供が紙コップを手に出て来るのを見て、ようやく大丈夫だと思えるようになった。期待に胸をとくとくいわせながら、佑はフキちゃんと酒屋の引き戸をくぐった。
 中はコンクリートがむき出しの床の上に、テーブルとそっけない木の椅子が数脚置いてあるだけだった。テーブルの上には飲みかけのコップ酒と乾物系のつまみが並び、数人のおじさんやおじいさんが、椅子に腰かけて昼の日中から顔を赤くしている。
 「いらっしゃい」
 曲がった腰に花柄のエプロンを付けたおばあさんがにこやかに歩み寄ってきた。頭は雪のように白く、年齢は明らかに八十を超えている。佑は、ここに町内最高齢の看板娘がいるという噂を思い出した。
 「いらっしゃい、ボンズたちは甘酒か? 」
 「うん、みよちゃん、甘酒二つ」
 「しゃっこいの、ぬくいの? 」
 「冷たいの」
 佑は紙コップに注いでもらった甘酒を口に含んだ。薄く上品な甘さの中に、生姜の香りがふわりと香り、暑さに倦んだ体にしみとおっていくようだ。
 フキちゃんと二人で、甘酒のコップを持ったまま、店内をわくわくと探索して回る。和服にひらひらのエプロンをかけた面長の美人が、お銚子を持って物憂く微笑んでるポスターが、麹や漬物の入った冷蔵ケースの脇に飾られている。
 「ねえフキちゃん、これはきっと僕らのおじいちゃんやおばあちゃんが若い時のよりもずっと古いよね。大正って書いてある」
 店の奥の方を探りに行っていたフキちゃんが、佑に向かって手招きした。目がちかっと輝いている。
 「タスク、タスク、こっち来て、ここにもお店がある」
 店の奥の方に、黒い柱で区切られた小さなスペースがあった。どうやら普段はお店の人の休憩所として使われているらしい。五畳ほどの畳敷きの小部屋だ。キャスター式の台が一台置かれ、淡い色調で描かれた、可愛らしい少年少女のはがきや便せんなどがきれいに並んでいる。
 トンボの翅のように、ラムネの瓶のように透明な絵の具の色合いを、薄暗い蛍光灯が照らし出している。ぼんやり蒼い灯りの中、自分の影が映る儚いイラストを見ていると、なんだか海の底にいるような気分になる。
 「いらっしゃい」
 声をかけたのは、チューリップのような形の黒い帽子をかぶったお姉さんだった。年のころは二十歳ぐらいか、やはり黒い麻のワンピースでくるぶしまで覆い、お店から借りて来たらしい木の椅子に腰かけている。その様子は、粘土をこねて作った置物のようにも見えた。
 「これ、お姉さんが描いたの? 」
 フキちゃんが聞いた。
 「うん、そう。水彩絵の具で原画を書いて、このはがきや便せんにプリントしたの」
 「これは……、何? 妖精? 」
 佑の問いかけにお姉さんが答えた。
 「そうだよ。四大精霊」
 「四大精霊? 」
 「中世ヨーロッパの人は、この世を構成しているのは、火水風土の四代元素だと考えていたんだ。その精霊たちが四大精霊。火のサラマンダー、水のウンディーネ、風のシルフ、土のノーム」
 「これはウンディーネだ」
 フキちゃんが指さして、佑にもカラフルな水の膜をまとった少女のはがきを見せる。
 「ノームにサラマンダーもいる」
 フキちゃんは何故か居心地が悪そうにもぞもぞした。
 「あれ、フキちゃん……」
 佑は一枚の便箋に目を留めた。水仙の花のような形のドレスを着た少女が三人、手をつなぎあって踊っている。その髪の毛はふわふわのショートカットで、目は間隔が離れていて吊り上がっている。
 「このイラストの女の子、フキちゃんにそっくりだね」
 「これはシルフだよ。風の精霊。本当だね、この風の子は私の夢の中に出てきたんだけど、あなたによく似ているね」
 「そりゃあねえ……」
 フキちゃんは珍しく言葉を詰まらせた。きらきらしていた眼が、不意に目の前に絶壁を見出したかのように翳り、落ち着かなげに何度も瞬きを繰り返している。
 「フキコは本当は、風の精霊の王様の娘で、父上の命令で、人間たちに混じって暮らしているんだからね……」
 佑は一瞬冷や水を浴びたようにフキちゃんを見た。暗く残酷な予感がして言葉を失った。
 だが、それも一瞬だった。その一瞬が過ぎてしまうと、佑はフキちゃんの肩をたたいて発作のように笑いだした。
 「フキちゃん、いくら僕が騙されやすいからって、そんなの嘘だってすぐわかるよ。お姉さん、フキちゃんは学校中に知れ渡った大ぼら吹きなんだよ」
 「ふうん、そうなんだ。フキちゃんっていうの? 」
 「風の姫の子って書いてフキコ。フキちゃんは本当に風が好きなんだよ」
 「君、ボンズの方の名前は? 」
 「僕は佑」
 「ああ、天が助けてくれるっていう意味の? あたしはレイヤだよ」
 お姉さんは真っ黒い前髪の下に、深い眼差しを見せる切れ長の目を細めた。化粧っ気はまったくないのに、冬の夜空のように冴え冴えとして見える顔立ちだった。
 「玲瓏の玲に夜って書いてレイヤ」
 「玲夜さんか。じゃあ玲夜さん、そのシルフのレターセット一組ちょうだい」
 「はい。五百円です。毎度あり」
 玲夜は水色と白の格子の袋に便箋を入れて、佑に差し出した。
 「フキちゃんは買わないの?フキちゃんに似ている精霊なのに」
 「……うん、うん……」
 フキちゃんは何故だか渋って、体をもぞもぞとさせた。そしてシルフの便箋は買わずに、ウンディーネとサラマンダーが手をつないでいる便箋を一組買った。そして淡い想いにふけっているようにぼうっと黙っていた。
 佑は前の学校の友達に、この便せんを使って、ここに描かれたシルフによく似たお友達が出来たと手紙を書こうと思った。

夜のプールとウンディーネ

 六月中旬、上がり続けていた気温は、梅雨入りとともに急激にに下がった。「梅雨寒」という言葉通り、息が白くなるぐらい寒い日が続いた。
 佑の家でも掃除したばっかりのエアコンを暖房にした。聞けばフキちゃんの家でも優梨愛の家でも、ストーブは部屋の片隅に一年中出しっぱなしらしい。
 だがそれも数日、梅雨の序盤に蕭々と降っていた冷たい雨は、段々温く粒が大きくなっていった。蛙やカタツムリにナメクジ、通常嫌われがちな生き物だけを喜ばすみたいにしつこく雨が降り、やめば鉛色の鍋蓋の内側にいるみたいに雲が垂れこめている。気温の方も急激に蒸し暑くなっていった。
 どんよりとした曇天に覆われた午後、プール開きにゴーサインを出す気温と水温が出た。その翌日、五年二組の子供たちも、プール袋を提げて登校した。
 四時間目、午前遅いプールの脇に、鳥肌を立てた子供たちが並んだ。空は鉛色だった。ときより温く細かい雨が、ぽつぽつと子供たちのむき出しの肩や腕に落ちてくる。
 プール前のシャワーですっかり冷えてしまい、皆唇を紫にしながら準備体操をした。
 佑は斜め前で屈伸している優梨愛の水着姿にくぎ付けだった。大きく体をゆするたびに、豊かな胸が揺れた。体中の血がすさまじい勢いで巡っている。佑の奥底で何か狂おしいものが目覚めかけていた。それはもやもやとした正体の分からないものでありながら、小さな体の外側で、具体的な形をとろうともがいているのだ。
 プール授業が始まった。クラスの子供たちがタイムや距離を競うなか、佑は恥ずかしそうにビート版を押していた。五年生にもなって泳ぐことが出来ないのだ。どうしても水に顔をつけることが出来ない。
 息を大きく吸い込んで、何度意気込んでみても、水面に鼻と口が入った途端、深い所に飲み込まれるような恐怖が襲い、大慌てで佑は顔を水から離した。
 「タスク、何だって何がそんなに怖いの? 人間の体はもともと水に浮くようにできているんだよ。海パン一枚で体から力を抜いたら、物理の法則によって沈むはずがないんだよ」
 軽々と百メートル泳いだ後で、華奢な鎖骨を水に隠したり出したりしながら、フキちゃんが言った。
 「だって……。水の中って、まるで別の世界みたいなんだもの。僕たちの暮らしている空気の中の法則がまるで通じないような」 
 「ふむふむ。タスクは正しい。確かに水の中は別世界だ。フキコや父上の世界とは別の、ウンディーネたちの世界だ」
 「またその話? いくら僕が騙されやすいからって、そんなの誰も信じないよ」
 フキちゃんは吊り上がった眼に、猫の目のような輝きを宿して声を潜めがちに言った。
 「タスク、誰も知らないけどね、実はこの学校のプールにもウンディーネの一族が住んでいるんだよ」
 佑は珍しく奥目になって、ビート版の上に両肘をのせてフキちゃんをにらんだ。
 「やつらはすごいえこひいきなんだ。気に入った人間にはあれこれ尽くすけど、嫌いな人間には信じられないほど残酷になる。つまりは命をとっちゃうんだよ。タスクが恐れているのは後の方、二度と自分の脚で地面を踏めない可能性の方だよね。確かに奴らはそうやって、幾億人もの人間の命を貯蓄してきた」
 フキちゃんの目は三日月のように細くなった猫の瞳孔を思わせた。佑はごくりとつばを呑んだ。
 「だけどさ、好かれてしまえばいいんだよ。やつらは好いた人間にはとことん甘いんだ。いくらタスクが金づちでも、嫌でも沈まないように取り計らってくれるよ」
 「フキちゃんまた僕を担ごうとしてるでしょ」
 「いいんだよ。ユリアにかっこいいところを見せられなくっても、フキコには全然関係ないからね」
 佑の顔は瞬時にゆでだこのようになり、耳や鼻から蒸気が噴き出すんじゃないかと思われるほど、内側から動揺がはちきれそうになった。
 「どうして優梨愛ちゃんが? 」
 「誰も気づいていないとは本気で思っているのか? 皆聞こえるように噂しているよ」
 そのとき佑の後ろから優梨愛が声をかけた。
 「佑君、調子どう? 水に浮けそう? 」
 佑は胸元まで真っ赤になった。味も素っ気もないはずのスクール水着が、なぜこんなにも悩ましいのか? 鳥肌だった白い皮膚が、鎖骨や歳の割にしっかりとした肩の上に伝う雫が、佑のまだ完全には目覚めていない本能の火に油を注いでいる。よこしまな欲望を優梨愛に悟られないように、佑はとっさに短い言葉を発した。
 「うん……、うん……、きっと今週中には泳げるようになれるよ」
 「へえ、そうなんだ。頑張って、ファイト佑君」
 優梨愛が泳いで去った後で、フキちゃんが、ねばねばするキャラメルを嚙んでいるような笑顔を作って言った。
 「タスクどうするかなあ? ユリアの前で後には引けませんぜ旦那」
 「本当にフキちゃんの言うとおりにすれば、泳げるようになるの? 」
 藁にもすがるように発せられた佑の声に、フキちゃんは暗闇で光る猫の目のように瞳孔を広げて言った。
 「おまじないが必要だな。今夜、晩御飯のあと来るといよ」

 授業が終わると二人は走って帰って、晩御飯の後、フキちゃんの家に集まる許可を取り付けた。
 夕飯を手早く済ませ、約束通りフキちゃんの家を訪れた佑は、フキちゃんに連れられて、近所にある湧き水、青松清水を訪れた。江戸時代に整備されたという、由緒ある清水だった。
 湧き水と言っても池の形はしていない。銭湯の湯船のように大きな木の枠が三つばかり並んでいる。一番目の水槽は飲み水や調理に、二番目の水槽は米や野菜などを洗うために、三番目の水槽は、食器洗いや洗濯、水遊びに使うのだ。フキちゃんは木枠の横に置かれた貯金箱に、百円玉をチャリンと入れた。佑は持ってきたお茶のペットボトルで、一番目の清らかな水を汲んだ。
 大慶寺町の黒ずんだ屋根屋根がうすぼんやりと輝き始めた。分厚い梅雨の雲の隙間から、真珠のような月が輝きだしたのだ。もくもくとした雲の峰に、水銀の冷たさを宿したひかりが当たっている。まるで龍が翔けてゆくような夜だなあと、佑はぼんやり思った。
 「これからどうするの? 」
 「プールへ行こう」
 「学校のカギは締まってるよ」
 「フキコが抜け道を知っている」
 二人は人影もまばらな道を、月を見上げながら歩いた。道ぎりぎりに迫った民家の庭では、コアジサイが花弁や葉にたっぷりと水を吸い込み、反り返った姿で咲いていた。町内にいくつかある寺の敷地から蛙の声が響いている。全く音がしないよりももっと、静かな清らかな音だった。この静けさは音楽で表現できるのかなあ? 佑は頭の中で音符を転がした。 
 フキちゃんは、一見行き止まりに見える校庭に面したフェンスに開いた穴を、雑草の中から広げて辺りを見回した。そのままためらいなく入ってゆく。
 「タスクも来いよ」
 入るしかなかった。
 二人は校舎の裏手へ出た。そこは大慶寺小学校の子供たちが、理科の時間に植物を栽培する菜園になっていた。
 暗い背景の中、背の高い、そしてまだまだ伸びそうなヒマワリの影が浮き上がっている。その足元にはふわふわのドレスみたいなじゃがいもの花が、銀色の月光をほの白く反射させていた。菜園からフェンスに沿って、こんもり花を咲かせたアジサイが植えられている。道路側の水銀灯のせいで、花の色が青紫だと分かった。
 二人はそのまま菜園を通って、プールの方へと歩きだす。
 フキちゃんが手を触れると、フェンスに取り付けられた非常口にかかっていた錠前がガチャリと外れた。佑ははっとしたが、おたおたと後を追う。二人は月光の照らすプールサイドに立った。
 「さあ、タスク、お近づきの品を出すんだ。この町で最も清らかな水を。ここのウンディーネは、塩素の臭いにうんざりしているんだから」
 佑はペットボトルのキャプをとって、さっき汲んだ清水をプールに注いだ。小さな水の流れは、水銀色の月光にちろちろと輝いて注いだ。そこを中心に、プールの水面に小さなさざ波が立ち、やがてプール全体がゆったりとしたリズムで波打ち始めた。
 網の目のようなひかりの筋が、大きな生き物のようにゆらゆらとうごめく。のったり、のったり、ゆらりゆらり。佑は息をのんだ。
 「見ろ、ウンディーネだ」
 猫の目のように青く光る眼になったフキちゃんが指を差した。佑が注いでいる水を、ぱっくりと開いた口で受けながら、一人の濡れそぼった少女が水面に顔を現した。髪は月光のなか水銀に輝き、頭に青いアジサイを飾っていた。菜園の奥に咲くアジサイだった。細い体つきと反り返った鼻は、まだ佑とほとんど変わらない年ごろに見えた。
 彼女は目をキラキラさせながら、佑の注ぐ清水を呑んでいた。二リットルの水は瞬く間に底をつき、蛇口をきっちり閉めた後のような水滴が数滴、銀色の輝きを放って落ちていった。少女は名残惜しそうに、最後の一滴まで唇に収めた。
 佑は目を見張った。ウンディーネ? 本当にウンディーネ!
 彼女は悪戯っぽく微笑みながら佑の腕を引いた。佑はいともたやすく水に引き落とされた。つま先からつむじまで、恐怖がぞくりと走りぬける。だが、水は意地悪でも残酷でも理解不能でもなかった。昼間より水温は低いはずなのに、冷たくも熱くもなく、夏の夕暮れに飲むレモネードのように心地よいひんやり感を感じた。
 佑は水の中で自由だった。手で水をかき、足で蹴って、ウンディーネの少女と魚のように戯れ遊んだ。水の中は真っ暗なはずなのに、夜行性動物の目を得たように弱い光でも視界ははっきりとしていた。真珠のような月が、水のレンズを通していびつに輝いている。そこから踊るように、光がにじんで散らかっている。
 ばちゃんと派手な音がして、フキちゃんも水に飛び込んだ。佑はフキちゃんの吊り上がった眼が、水の中で緑色に光るのを見た。ウンディーネの少女の目は深い海のような青だった。水を飲むこともなくそう言うと、少女は笑って答えた。
 「あなたの目も今は、山奥の湖みたいな色をしている」
 三人はそのまま夜のプールで時がたつのも忘れて泳ぎ続けた。

 「佑、佑、起きなさい。もう、すっかり寝込んでしまって、今夜眠れなくなるわよ」
 お母さんの声がして、揺り起こされた佑は目を覚ました。
 「あれ、お母さん? 」
 佑は見まわしてきょとんとした。ここはフキちゃんのお家だった。天井のない居間の隅っこで座布団を枕に、佑はぐっすりと眠り込んでいたのだ。佑のすぐ右側では、同じようにフキちゃんが、王子様を待つ白雪姫みたいな表情で眠っていた。
 「フキちゃん? 僕たち清水を汲んで、プールへ行ったんじゃなかったっけ? 」
 フキちゃんはほのかに寝言を口ずさんではいるものの、目覚める気配はなかった。
 「お水? お水ならここにあるわよ」
 お母さんがペットボトルの水を見せた。
 「小鳥谷さんから電話があったの。お水を汲んできた後、佑が眠ってしまったから迎えに来て欲しいって」
 「僕夢を見ていたのかなあ……」
 「いい夢だったの? 」
 「うん。とっても不思議でだけど綺麗な夢だったんだ」
 そう言ってはみたものの、月光の中浮かび上がるウンディーネとその冷たい手、皮膚を濡らしたプールの水とフキちゃんの笑い声が、どんな現実にも感じたことのないほどの真実味を帯びて、体のうちによみがえってくるのを感じた。
 「僕たちは本当に魚になって、あの夜のプールで泳ぎまわったんじゃないか? 」
 フキちゃんは寝込んだまま起きなかった。おじいさんがフキちゃんを抱き上げて布団へと運んで行った。
 佑はお母さんに手を引かれて、眠い目をこすりながら家路についた。
 
 次の日、佑はほとんど抵抗も感じずに顔を水につけた。そうして生れて初めて水に浮いた。

命を弄ぶ遊びは……

 七月が始まった。梅雨も終盤に差し掛かり、テレビでは連日西日本の集中豪雨のニュースで大騒ぎだった。全く関係が無いとは言えないが、ここ北東北では、雨の猛威は少しだけ穏やかに思えた。
 降り続く雨にも、じめじめむしむしとした気候にも負けず、フキちゃんの歌の特訓は細々と続いていた。
 フキちゃんは気まぐれで飽き性で、十五分だって歌に集中できなかった。反対に佑は粘り強かった。フキちゃんの気持ちが逸れていっても、決して流されず、かといって苛立つでもなく、フキちゃんの気持ちが戻ってくるようにじっくりと促した。
 佑の忍耐の成果か、それともフキちゃんが曲がりなりにも努力したからか、フキちゃんの歌は数歩前進した。音程はやや怪しいものの、そこまで極端な外し方はしなくなった。調子っぱずれから普通のへたくそに進化した。
 フキちゃんも自分の歌が上手くなったことを自覚して、授業の合間の休み時間に合唱曲のアルトパートを口ずさんで悦に入っている。フキちゃんの前の列で、フキちゃんの調子っぱずれを責めていた女子たちは、糾弾するだけの理由がなくなったことについて、返って不満を募らせているようだった。

 ある日佑とフキちゃんは帰宅のため、青松寺の長い漆喰塀の横を歩いていた。
 じっとりと蒸し暑い午後だった。見上げても太陽の姿はないのに、その放つ熱だけがじりじりと地球を暖めている。この曇り空のせいで、余計にむわむわと熱がこもっているように感ぜられた。
 佑は水色のハンカチを出して汗を拭いた。フキちゃんは水筒の水を数口飲んだ。
 長い塀の中ほどのところで、合唱の時、フキちゃんの前の列にいる、琉美とひなたと男子数人が、通せんぼするように立っていた。佑は蒼ざめて立ち止まった。フキちゃんはいつも通り不敵な表情で彼らを見ている。
 「おい、フキコ、今日はお前の弱点をつかんできたからな」
 「あんた、ちょっと歌が上手くなってきたからって生意気なのよ」
 ひなたが後ろに隠していた左手をひょいと出した。その手の甲には、羽化したてのアゲハチョウが一羽、まだ体液の回り切らない翅をだらりとさせたまま、不安げに止まっていた。
 琉美がポケットからライターを取り出した。みるみるフキちゃんの顔が蒼ざめていった。
 「ほらほら、パーティーの幕開けだ! 」
 琉美はしゅぼっとライターを押して、アゲハチョウの一番下の脚に火を近づけた。アゲハチョウは電流が走ったかのようにびくりとして、必死にまだ飛べない翅に力を入れようとしている。
 「ほらほら、早く飛ばないと命がないぞ」
 「次は触覚にしない? 」
 触角を焼かれると、アゲハチョウは懇願するように身震いした。おろおろとまだ動かない翅をゆすり、震えながら必死に命乞いしている。複眼の目は心なしか涙ぐんでいるように見えた。
 佑は自分の耳や目が焼かれているような気がして直視できず、顔をそむけるようにして目をつぶった。
 「ほらほらお次は綺麗な翅だぞ。恨むなら俺じゃなくてフキコを恨めよな。フキコさえ生意気じゃなければ、お前を焼くなんてことにはならなかったんだ」
 「あははは、必死だー! 」
 虐めっ子たちは甲高い笑い声を立てた。不気味なフォルムの油絵のように口を歪め、目は人間だけが持っている残酷さに輝いていた。
 佑はすがるようにフキちゃんを見た。フキちゃんならこんな惨い状況を、煙に巻くように打破してくれるんじゃないか?
 だがフキちゃんは蒼ざめたまま黙っていた。色の褪せた唇をぶるぶると震わせ、その奥で噛み合わなくなった歯がカチカチと鳴っていた。見張られた目からはボロボロと涙がこぼれていた。
 「やめろー!やめろ、やめろ、やめてくれ! 」
 「あははははは、フキコが泣いた、泣いた、ざまあみろ」
 「ねえ、仕上げにこの蝶々燃やしちゃわない? 」
 「いいねえ、いいねえ」
 虐めっ子たちは脚と触角を焼かれた蝶のだらりと垂れた翅に、ライターの火を近づけた。まだ生まれたての柔らかな、くっきりと彩られた黄色と黒の模様が茶色く変色し、赤い炎が付いた。苦し気に脚でもがき、最後まで懇願するような眼差しを見せて、羽化したての蝶は炭になっていった。フキちゃんは自分が焼れているとでもいうように叫んだ。
 「うわーん、おじいちゃん、おばあちゃん、ごめんなさい! 」
 佑は呆然として、目の前で泣きじゃくるフキちゃんと虐めっ子たちを見比べていた。
 フキちゃん、どうして? どうして? いつものフキちゃんじゃないや……。
 あの怖いもの無しのフキちゃんが、弱いお腹を連打された虎のようにしゃがみ込んで、もだえ苦しんでいる。佑は分からなくなった。いつもの不敵なフキちゃんは、あれは弱い部分を隠すための強がりなの? それとも、この蝶々をなぶり殺しにする状況には、フキちゃんの最も柔らかく繊細な部分を、めった刺しにするような意味があったのか?
 そのどちらなのか、見定めようとする気持ちが強すぎて、佑は目の前の状況に反応できなかった。だから、自分にはほかにやりようがあるはずだと気が付いたのは、悔しいことに裕也が割り込んできた後だった。
 「ちょっとご免よ」 
 裕也は佑の後ろから肩を押しのけるようにして、フキちゃんと虐めっ子たちの間に立った。
 「女の子を泣かせることは、『ナイトたれ』というおじいさまの五箇条の第三条に反している。今引いてくれなければ、先生に一部始終を報告するよ。たとえフキちゃんを泣かせたことがなくとも、昆虫をなぶり殺しにしたと知ったら、先生は何て言うかな」
 虐めっ子たちの顔色が変わった。
 「何だよ、面白くなってきたところなのに……」
 「裕也君、フキコのナイトなんか投げてもいいのに」
 「良かったなフキコ、ナイト様の裕也に助けてもらって。でもお前なんかアイジンにすらなれねえよ」
 彼らは口では生意気なことを言いながらも、表情に焦りをのぞかせて、そそくさと去っていった。
 「さあ、フキちゃん、立てる? うちまで送っていくよ。吉本君、君もフキちゃんの仲良しだったら、もうちょっと戦ってくれてもいいのに。君はいつもフキちゃんに守ってもらってばかりいるね」
 佑は一言も返すことが出来なかった。おろおろと見ているだけの佑の前で、裕也はフキちゃんの手を取って立ち上がらせると、背中をさすりながら歩き始めた。
 ふと振り返ると後ろに佐々木さんが立っていた。裕也がフキちゃんを連れて行ったのを見届けるように立ち去ったのを見て、佑はどうやら佐々木さんが知らせてくれたらしいと悟った。
 長い漆喰塀の前に一人取り残された佑は、どんよりと垂れこめているのに泣き出す気配のない空を見上げた。悪意さえ感じるほどに、雲は黒い色をしている。それをすり抜けて注ぐ光は、すっかり雲の悪意に染まってしまっているようだ。
 ふと煙臭い臭いをかぎ、目を落とした。虐めっ子がなぶり殺しにした蝶が、黒い燃えさしとなって道端に落ちていた。佑はポケットからハンカチを出してそれをそっとくるんだ。その後で、家に向かってとぼとぼと歩き始めた。

 一旦家に帰ってかばんを置いた佑は、すぐさまフキちゃんの家を訪ねた。フキちゃんは二階にある自分の部屋で膝小僧を抱えていた。
 「フキちゃん、さっきはごめんね。僕何にもしてあげられなかった。あの子たちを止めることも、蝶々を守ることも、フキちゃんを庇うことも出来なかった……」
 「タスク……」
 フキちゃんの声はかすれて震えていた。
 「どんな場合でも、命を弄ぶような遊びはしてはいけないんだ。決して、決して……。蝶々は熱かったろうな、痛かったろうな、苦しかったろうな……」
 みるみるフキちゃんの目に、新しい涙が盛り上がってきたのを見て、佑はハンカチに大切にくるんできた蝶々の亡骸をポケットから出した。
 「フキちゃん、お葬式しよう。僕らでこの蝶々のお墓を作ってあげよう」
 二人はフキちゃんの家の母屋の裏手にある坪庭の、白椿の根元に蝶々を埋めた。アイスの棒にマジックで「チョウの墓」と書いて、ささやかな墓標にした。二人はしばらくの間、しゃがみ込み、じっと手を合わせていた。

 それから三日後、琉美とひなたと男子数人が蝶を焼いたことを、フキちゃんはルポ仕立ての作文にして教頭先生に提出した。
 その教頭先生は、「小動物虐待は猟奇殺人事件の前章」と、ことあるごとに集会で繰り返す先生だった。フキちゃんの作文で燃え上がった先生の義憤のおかげで、琉美やひなたたちの両親まで呼ばれる大騒ぎとなった。
 虐めっ子たちの両親は反発して見せ、大慶寺小学校の父兄の間では、世論を二分するような騒ぎとなった。そして、琉美やひななたちにとって最悪なことに、そのことによって自分たちが完全に子供たちの間で浮いてしまったのである。
 自分たちに向けられる、犯罪者を見るようなまなざしに、居心地が悪くなった虐めっ子たちは両親を言い含めて、平謝りに謝り、「もう金輪際生き物は虐待しません」と念書を書くというような運びとなった。
 そしてフキちゃんの無駄に豊かな文章表現を恨みつつ、仕返しするのはかなわないとあきらめるしかなかったのである。

お舟送りとフキちゃんの涙

 その年の梅雨が明けたのは、夏休みが始まって三日目だった。
 あれほど煮え切らなかった空が晴れ渡り、ソーダ水の炭酸の粒々さえ見えてきそうなほどに、青く爽やかに広がっている。白熱した太陽がかっかっと照り付け、バニラアイスみたいな雲がディッシャーで重ねたように、何段も積み重なっている。
 佑は少ない夏の日々を、少しでも有意義に過ごそうと張り切っていた。というのも、北東北の夏休みは、関東に比べると十二三日も短いものだったからだ。
 毎朝ラジオ体操に行き、フキちゃんと宿題をし、学校のプールでは、クロールの練習に精を出し、優梨愛の水着姿に見ほれたりした。
 その傍ら、お父さんからクラリネットの手ほどきを受け、自己流で作曲をし、フキちゃんの練習に付き合うほかに、自分のソロパートの鍛錬も怠らなかった。
 これまでにはないほど密度の濃い夏休みだった。
 
 「お舟送り」という行事の話を聞いたのは、フキちゃんの家で宿題を終えて、おばあさんの運んできたアイスカフェオレを飲んでいる時だった。
 白シャツにステテコという、昭和スタイルで団扇をあおぐおじいさんが説明した。
 「送り盆の行事だ。青竜をかたどったお舟に、供養したい人の戒名や、沢山の花火をつけて、火を放ってから川さ流すんだ」
 「うちも息子たち夫婦の供養をお願いしているの」
 「フキちゃんのお父さんやお母さんの? 」
 「ああ。もう十年経つっちゃ」
 佑の質問に、おじいさんはもうとうには戻ってこない、渡り鳥の後姿を見つめるような目で写真立ての方を見た。賑やかな結婚式の高砂の写真だった。
 「じゃあ、フキちゃんも、お父さんとお母さんを見送りに行くんだね」
 「う、うん……」
 フキちゃんはカールしたまつ毛を伏せて居心地悪そうにもぞもぞした。
 「とっても綺麗よ。ちょうど夕闇が落ちてくるころで、幾筋もの花火が、空へ向かって乱れ飛んで、それが川面にも映って。その火が消えたとき、お盆も本当に終わって、息子たちももう帰っていったんだなあって思うのよ」
 おばあさんの言葉は最後はつぶやくようだった。フキちゃんが二人を見ないようにしながら、ストローを唇で挟んで氷をかき混ぜた。佑はお舟送りに興味をそそられた。
 「何日にやるんですか? 」
 「毎年十六日よ」
 「十六日か……。僕んちでも十一日から帰省するから……」

 その晩佑は、どうしてもお舟送りが見たいので、十六日のお昼には帰ってきたいということを両親に伝えた。お父さんが言った。
 「いいだろう。お前が無理にでもと希望を言うのはなかなか少ないことだからな。だがしかし、男の子は冒険をしなければならない。一人で新幹線に乗って、大慶寺町までバスで帰って来るんだ。お父さんがお前ぐらいの時には、もう一人で時刻表を読んで、隣の県まで行って戻ってきたりしたもんだ」
 「あら樹、佑にはまだ無理よ。だって駅からここまでの路線バスにだって一人で乗れないのよ。ふわふわと道に迷って、とんでもない県まで連れていかれるかもしれない」
 佑は情けなさに耳まで赤くなった。本当のことだ。庇っているつもりの母親の言葉に、かえって深く傷つく。
 お寺の塀の通りで、フキちゃんが泣いている姿と、裕也に囁かれた言葉がよみがえる。
 君はもっと戦ってくれてもいいんじゃない?
 「僕行くよ。一人で新幹線に乗って帰って来る」
 お母さんは思わずと言った調子で叫んだ。
 「えええ、本当に? 決心したの? 」
 「うん、決心した」
 「出来る? 」 
 「出来る」
 お父さんがスパンと手を打った。
 「それでこそ俺の息子だ! よし、切符は用意してやるから、ひと夏の冒険に行って来い」

 八月十六日の早朝、佑は一人父親の実家のある関東の小さな駅から、県で一番大きな駅へ電車を乗り継ぎ、新幹線へと乗り込んだ。
 大きな駅では、あまりの人の多さとその流れの速さに、何が何だか分からなくなってしまいそうになったが、お父さんのアドバイス通りに駅員さんを捕まえて、やっとの思いで目的のホームへとたどり着いた。
 座席を確認してドキドキしながら座る。一番窓側の席だった。数えるほどしか行ったことがない、大きな街の四角いビルや雑然とした看板が、窓の外に積み重なっている。
 アナウンスが流れて新幹線が動き出した。各駅停車で終着駅が新青森だということは、確実に目的地に停車するということに違いない。佑はほっと胸をなでおろした。
 振動の穏やかなシートに身を沈め、飛ぶように現れては、見入る間もなく消えてゆく街や田畑、森林を眺め、胸をどきどきさせる。隣に座ったおじさんは雑誌を顔の上に載せて眠り込んでいるが、佑にはそんな余裕はなかった。
 佑は緊張を保ったまま目的地まで乗り、緊張したまま降りた。

 佑が無事マンションに着いたのは、午後二時過ぎだった。お舟送りは午後四時からだ。 
 フキちゃんの家へ行くと、おじいさんがいつものステテコ姿から、茄子紺の粋な浴衣姿で出てきた。おばあさんも黒に白い牡丹の描かれた浴衣を着て、フキちゃんの着付けをしているところだった。
 フキちゃんの浴衣は、白に赤や藍色の朝顔が咲き乱れているものだった。子供用の兵児帯ではなく、大人用の青い帯を締めている。それは日に焼けてはいるものの、日本人にしては随分色素の薄いフキちゃんの顔に、すっきりと映えていた。
 浴衣を着たフキちゃんは、心なしか気が浮かないように見えた。吊り上がって離れた目は、いつものひょうひょうとした輝きを鈍らせ、うわの空で物思いにふけっている。
 「佑君、佑君も浴衣来てみる? ちょうどフキちゃんのお父さんの子供の時の浴衣が残っているの」
 佑はお言葉に甘えて浴衣を着ることにした。白に黒の格子柄の子供用の浴衣。ちょうど今の佑の身長とぴったりだった。
 そのことでふと気が付いた。
 ああそうか、春に雨に濡れたとき、僕が貸してもらったのは、フキちゃんのお父さんの服だったんだ。
 フキちゃんにご両親のことを聞いても、憶えていないからなのか、引っかかっていることがあるからなのか、言葉を濁して教えてくれない。佑もフキちゃんの繊細な部分に関わっていると思うので、あえて聞き直すこともできない。
 しかしそのとき、フキちゃんは外へ出ていて、居間には佑とおばあさん、おじいさんしかいなかった。
 「ねえ、おばあちゃん、フキちゃんのお父さんとお母さんはどうして亡くなったの? 飛行機の事故だって聞いていたけど」
 おじいさんとおばあさんは黙って一瞬顔を見合わせた。その後で、いまだ消えぬ痛みが透明に輝く笑顔を作ってこう答えた。
 「ええそう。飛行機って言ってもね、ヘリコプターなんだけど。息子夫婦はね、出来ちゃった結婚だったから新婚旅行に行ってなくて、フキちゃんが一歳になった時に、一週間だけ家に預けて、二人でアイスランドへ旅行に行くってね……」
 「息子たちはな、大学のワンダーフォーゲル部で知り合ったんだ。山歩きやトレッキングが大好きで、よく山の写真を送って来たっけな。旅行に行くときも、アイスランドの手つかずの自然が見たいづって、ヘリコプターの遊覧飛行に申し込んでいたんだ。そこで乱気流に巻き込まれた……」
 おじいさんは言葉を詰まらせた。おばあさんもそっと目頭を押さえている。
 「そうだったんですか……。僕、聞かなきゃよかったな」
 佑も目を落として言葉少なく言った。
 「いいのよ。話しても話さなくても悲しみは消えることはないし、これからだって思い出すだけで涙が出てくるでしょうけど。でも、あたしたちにはフキちゃんがいる」
 「そうだ、フキコが大人になるまで絶対に守って育ててやらなければならね。今思えば、フキコを預かっていて正解だった。息子たちは、出発前、フキコを置いていくことを散々不安がっていたけど、神様が俺たちの運命を哀れまれて、一条の救いを投げかけてくれていたのかもしれない」
 「佑君、どうかこれからもフキちゃんと仲良くしてね」
 佑はうなずいた。おばあさんの言う通り、何があってもフキちゃんのお友達でいようと心に誓った。
 だが分からなくなる。フキちゃんのご両親の亡くなった理由が、どうしてフキちゃんをナーバスにさせるのか?
 自然相手のヘリコプターの事故だ。誰が悪いというのでもない。ましてやフキちゃんは一歳児で、両親のことを覚えてもいない。自分のことに置き換えてみても、両親が想い出に残っている方がはるかに辛いはずではないか?

 八月の夕暮れというものは思いもかけず足早だ。
 昼間は圧倒的な熱量で輝いていた太陽が、照り疲れたとため息でも吐くように、あっさりと傾いていく。一級河川尾代川の堤防や橋の上に集まった人群れに、菫色の夕闇が落ちてゆく。
 佑は初めてお舟を見た。船首は青竜の頭の形をしていた。船体も船尾も竜の体をかたどったものだ。その全てが木と紙とで出来ていた。なんだか雅やかな安っぽさだった。
 青や黄色の幟がはためき、戒名を記した紙が沢山吊るされている。近隣八つの地区のお舟が、夏草の繁る河川敷で出番を待っていた。
 下帯姿の男たちがお舟を担ぎ始めた。川水につかりながら引っ張ったり押したりしてお舟を水に浮かべる。尾代川は昨日までの雨の影響で、少し増水していた。
 お舟が川岸を離れると、松明の炎が付けられた。堤防の上の群衆から歓声が上がった。燃やすためだけに綺麗に飾られたお舟は、ぱちぱちと音を立てて燃え始める。
 薄紫色の川面に、朱赤に燃える炎がにじんでいる。ヒュー、ヒュー、パチパチ、幾筋もの音を立てて、舟に仕込まれた花火が乱れ飛ぶ。火薬臭い煙が立ち込め、川面の夕闇は一層色濃くなる。
 幾艘も幾艘も、お舟は流された。終りの方になるともう宵闇が落ちて、真っ黒な川面にお舟の赤い炎がそこだけ切り取られたように浮かび上がっていた。
 佑はフキちゃんと堤防の上に立ってそれを眺めていた。
 「すごいね、綺麗だね」
 フキちゃんは答えなかった。佑は振り返ってフキちゃんを見た。フキちゃんは深く傷ついた眼をして涙ぐんでいた。佑は胸がつぶれる思いがした。
 「フキちゃん、お父さんとお母さんが亡くなったこと、そんなに辛いの? 悲しいの? 」
 フキちゃんは首を横に振った。頬にきらりと光るものがあった。
 「違うんだタスク、悪いのは全部フキコなんだ……、フキコが命で遊んだから……、おじいちゃんとおばあちゃんは消えない悲しみを負ったんだ……。前にも言ったろ、フキコの父上はシルフの王様なんだ。おじいちゃんとおばあちゃんの子供の命をとった罰として、孫として二人の寿命が尽きるまで人間として生きろって……。おじいちゃんもおばあちゃんも何にも知らないで、フキコを大事に可愛がってくれる……、二人が悲しむことを、取り返しのつかないことをフキコはしてしまったんだ……」
 途切れ途切れに言って、フキちゃんは鼻をすすった。佑は当惑して目をぱちぱちさせた。
 フキちゃんの言葉ぶりに嘘は感じないのに、話の内容は到底信じられないようなことだ。
 「大丈夫だよフキちゃん」
 佑はフキちゃんの肩をたたいた。
 「おじいちゃんもおばあちゃんも、フキちゃんといられて幸せだよ」
 佑にはそれよりほかにもう言いようがなかった。
 川面では最後のお舟が燃え尽きた。大きな打ち上げ花火が揚がり、銀さびた色の街並みの上で花開いた。ドドンと破裂音がして、顔に空気の波のようなものが当たる。フキちゃんの濡れた頬に、ちらちらと落ちてゆく火花の色が映っていた。
 二人はただ黙って花火が揚がるのを見上げていた。

裕也の罠

 夏休みが終わった。
 佑はフキちゃんのおかげではかどった宿題と、モーツァルトが朝顔にもたらした影響を観察した自由研究を持って登校した。
 佑の前をフキちゃんがひょこひょこ歩いている。その両手には、大作のピタゴラスイッチの包みがある。
 フキちゃんはお舟送りの夜に、「みんなフキコが悪い」と言って泣いたことなど嘘のように、ひょうひょうと笑っている。佑にはかえって、あの時のことを聞き直すのがためらわれていた。
 教室へ着くと、真っ先に登校していた優梨愛が、一番後ろの席に座っていた。最後にプールで会ったのは三日前だ。その三日間で、優梨愛の髪形はロングから長めボブになっていた。
 佑は一瞬迷ったが、恐る恐る質問した。
 「優梨愛ちゃん、髪切った? 」
 「うん、そう。気付いてくれた? 」
 「うん。……ええと……、似合ってるよ」
 優梨愛が輝くように微笑んだので、どうやら正解が言えたのだと分かる。佑は安心して優梨愛に見とれた。
 やっぱり優梨愛ちゃん可愛いな。
 大人っぽいとか胸が大きいとかいうのは、大事だけどそれほど大事なことではないのだ。優梨愛には根本的な優しさ正しさがあった。優梨愛と話していると、自分が餡子になって、まだ温かいお餅で包まれているような心地になる。
 「おはよう」
 「おはよう。ひさしぶりだね」
 がやがやと子供たちが入ってきた。佑は何となく遠慮して優梨愛から離れた。自分と仲良くしているせいで、優梨愛がああだこうだ言われるかもしれないことが嫌だった。優梨愛は自然に他の子供たちの会話にも入って行った。
 「おはよう、皆さん! 」
 一際華やかなオーラを放つ裕也が入ってきた。子供たちは弾けるように挨拶して、我先にと彼をぐるっと取り囲んだ。
 夏休み明けの小学生というものはたいてい日焼けしている。裕也の品のいい鼻も真っ黒くてかっていた。だが、裕也の日焼けは、プールや海や外で遊んだ、他の子の日焼けとは違っていた。顔は黒いのに、目の周りがゴーグルの形に白い。腕も脚も夏休み前よりも白かった。
 「裕也君、スキーに行ってきたの? 」
 「うん、そうなんだ。ニュージーランドのトレブルコーンに行って来たんだ」
 「わあ、海外だ! 」
 「裕也君、スキーも上手いもんね」
 子供たちがわいわいと騒いだ。佑は居心地が悪くなってぼんやりと前を見た。
 本当だったら僕も、あの輪の中に入っていたいんだ。優梨愛ちゃんは優しくしてくれるし、フキちゃんだって嫌いじゃないけど、でも、僕も本当は……。

 始業式とホームルームの後、佑はとぼとぼと帰り支度を始めた。フキちゃんはピタゴラスイッチのあまりの出来の良さに、普段話しかけても来ない子供たちから質問攻めにあっていたのだ。
 教室を出ようとしたとき、裕也が声をかけた。
 「吉本君、たまには一緒に帰らない? 三叉路までは同じ方角だよ」

 中途半端な暑さだった。
 正午過ぎ、日差しは一番強い時間帯のはずなのに、もうお盆前のような晴れやかさはない。地上に興味を失いつつある太陽が、中火の加減で、じわじわと熱を加えている。
 黒ずんだ街並みは、太陽の熱でじっとりと熱くなっていた。短い影が、家々の軒下に、くっきりとわだかまっている。
 帰る道すがら話す裕也は親切で、陰でこそこそ嫌がらせを仕組んできたなんて、信じられないくらいだった。
 佑は十分に警戒していたつもりだったが、何時の間にかこの夏の大冒険のことも話してしまっていた。
 「そうなんだ、吉本君一人で新幹線に乗ったんだ。すごいなあ、僕はいまだに付き添いがいないと町の外にも出してもらえないよ」
 「泉谷君のお家、厳しそうだもんね」
 「厳しいさ! 特におじいさまが。お父さんが期待に沿えない分、僕に全てを託してくるんだ」
 「前に聞いたけど、絶対に守らなければならない五箇条って何? 」
 「ああ、それは……。第一条、常に一番たれ、第二条、リーダーたれ、第三条、ナイトたれ、第四条、文武両道たれ、第五条、以上全てをどんな手段を使っても、全力で努力して追求せよ、だよ。毎朝起きると正座して読まされるんだ」
 「ええええええ! 」
 佑は目を丸くした。
 「だからさ……、言いにくいんだけど……、合唱のソロパートが僕じゃないってわかると、とってもまずいんだ。それで……、その、吉本君、恥を忍んで頼むけど、その役僕に譲ってくれないか? 」
 裕也は真顔で言った。裕也の整った鼻が少し膨らんでいた。佑は寒気さえ感じて震えた。
 だが、佑は首を横に振った。
 「僕の方こそ言いにくいよ。『チェーン』は、ソロパートを僕がやった方が数段いい曲になるんだ。泉谷君が下手って言ってるんじゃないよ。だって君の声はもう大人びてかすれてきているじゃないか。他のことならなんでも譲ってあげられるけど、音楽のことに関してだと、絶対に妥協できないんだ」
 裕也はぐっと息をのんで数秒黙った。のどぼとけが何かを飲み込むようにごくりと動いた。目はまったく笑っていない。
 それだというのにその数秒の後、裕也は爽やかに笑って見せた。
 「そうか、そうか、分かったよ吉本君、これ以上この話をするのはやめよう。やや、ここでそろそろ三叉路だ。さよなら、また明日」
 裕也は笑って手を振り、一番左端の道へ進んだ。
 佑は、背筋をざわざわと鳥肌立てながら、遠ざかっていく裕也の黒いランドセルを見つめていた。

 二学期最初のプール授業があった日。
 佑の泳ぎは夏休み中にだいぶん進歩していた。ようやく息継ぎが出来るようになり、今日初めて二十五メートル泳げるようになった。
 すっかり気をよくして着替え、濡れた髪をかきあげながら教室に戻ると、女子たちが何だかざわざわしている。
 「許せない、絶対に許せない! 」
 唯葉さんが叫んでいる。
 佑はこそっとフキちゃんに尋ねた。
 「何があったの? 」
 「ユリアのブラジャーが盗まれたんだ」
 「えええええ! 優梨愛ちゃんの? 」
 女子たちの輪の中心で、優梨愛が眉を寄せ、当惑と気持ち悪さが入り混じったような表情で、黙り込んでいる。
 佑は憤りの表情でクラスの男子たちを見回した。この中の誰かが犯人なのかな?
 「先生に言って持ち物検査してもらおうよ」
 佐々木さんが顔を真っ赤にして言った。
 「いや、よそう。そんななぶりものにするみたいなことは。盗んだ子も今頃反省しているかもしれないじゃないか」
 裕也が言った。男子たちは何となくほうっと息をついた。佑は、それで本当にいいのかなあと、いぶかしむ気持ちで裕也の整った横顔を眺めていた。

 五時限目が終わり、佑は帰り支度を始めた。ぼんやりフキちゃんを待っていると、今日も裕也に声をかけられた。
 「吉本君、途中まで一緒に帰ろうよ」

 太陽は昨日よりもさらに地上を照らす意欲を失ったようだった。どんどん白くなってゆく日差しに、影だけが黒くコントラストを主張している。ゆらり、はらりと、豆腐屋の暖簾を揺らす風は湿気がだいぶ薄れ、寂しく乾いた秋の匂いがした。りん、りんと、どこかの家の風鈴が、白けた音色で鳴り響いている。
 始業式の日同様佑は、裕也の巧みな話術に乗せられてしまっていた。優梨愛のことについて、裕也は遠回しに、あるいは直接的に話題にした。
 「確かに、優梨愛ちゃんはホウヨウリョクがあるよね。君は少し甘えん坊だから、ああいう女の子が好みなのかな」
 「だから違うよ、優梨愛ちゃんはただの友達だよ。好みだなんて……」
 「またまたそんな照れ隠しだろ? 優梨愛ちゃんルックスも可愛いよね。特にプロポーションは高校生でも通るぐらい。だから下着泥棒の被害に遭うんだろけどね」
 「絶対に許せないね」
 佑の言葉に、裕也は綺麗な形の鼻をゆがめた。
 「許せない? だってあれは君がしたんじゃないか」
 「え! 」
 佑は言葉を失った。
 「見てたよ、君がそのプール袋の一番底に、優梨愛ちゃんの下着を入れるところを」
 「そんなことしてないよ! どうしてそんなでたらめ言い出すの! 」
 佑の声は足元からわなわなと伝わってくる震えに、不穏なメロディーを奏でた。
 「見てたよ、確かに見てた」
 「そんなはずないよ! 」
 「じゃあ、確認してみよう。そのプール袋からものを全部出して見せて」
 絶対に大丈夫なはずなのに、佑は不安になった。だが、濡れ衣を晴らすためには裕也の言う通りにしなくてはならない。
 佑は浅く息を繰り返しながら、一番開け口のところから、海水パンツ、バスタオル、水泳帽を出していった。
 やっぱり入っているはずないや。そう思って手を抜きだそうとしたとき、今までに触ったことのない、ざらざらとしたレース布と、人体のような曲線を描く、何かしなやかで硬いものの感触が触れた。
 佑の顔から血の気が退いて行った。
 裕也は血走った眼でにやりと微笑んだ。
 「あるんだろ、あるんだね」
 佑は今手に触れたものを引き出す勇気がなかったが、裕也は確信に満ちて佑を責めた。
 「そうだろう、僕見ていたもの。いくら優梨愛ちゃんが好きだからって、下着泥棒はいけない。優梨愛ちゃんに知れたらなんて思われるか。クラスの子に、先生に知られたら……」
 佑は足元からガタガタと震えた。優梨愛やフキちゃんや皆の前で、先生にきつくとがめられている自分が浮かんだ。
 「どうしてそんなことしたんですか! 」 
 「僕やってません、やってません! 」
 「でも裕也君が見ていたんでしょ」
 「でも違うんです、僕やってない! 」
 「あなたと裕也君、どちらの証言に信ぴょう性はあるでしょう? 」
 「裕也君が嘘つくはずないよ」
 「絶対に佑が盗んだ」
 やがて学校に佑の両親が呼ばれる。先生がこと細やかに、佑のしでかしたことについて報告する。
 お母さんは薄い唇をすぼめて泣き出す。お父さんはむっつりと黙り込む。本気で怒っているサインだ。
 それらの光景が、教室の外に広がる初秋の空色まで含めて鮮やかに、佑の脳裏にひらめいた。
 「黙っていてあげてもいいんだよ」
 端正に歪んだ笑顔をして裕也が囁いた。
 「その代わり、合唱のソロパートを僕に譲ってくれれば」
 佑はすがるように裕也を見た。裕也の顔は赤く気色ばみ、目は異様にぎらぎらとしていた。少年にしては赤い唇を大きく引き上げ、ぬらぬらと笑っていた。
 佑は悟る。聞き入れるしかないのだ……。
 「分かった……」
 佑の声は秋風に吹き散らかされる煙のように頼りなかった。裕也は目にあざけりの笑みを浮かべて、ピッと背を伸ばした。
 「そう、ありがとうね。早速練習を再開しないとね」
 裕也は佑に対する関心を失ったかのように、くるりと背を向けて、自宅のある方向へ三叉路を曲がった。
 一人残された佑は呆然と立ちすくんでいた。
 自分がはめられたと気づいたのは、裕也の影が陽炎の向こう側へ消えた後だった。

フキちゃんの策略がはまった!

 次の日、佑は合唱のソロパートを辞退すると水原先生に申し出た。佑の顔色が明らかに真っ青なのを見た先生は、どういう理由なのか粘り強く尋ねた。
 だが佑は繰り返すだけだった。
 「ごめんなさい、ごめんなさい、言えません……」
 ソロパートを裕也がすることになると、クラスの子供たちは皆、当然の人が当然の場所に戻ってきたと歓迎した。拍手をもって迎えられた。
 賛辞の目で裕也を見た後、小馬鹿にした表情で佑を見返した。ピアノを弾く佐々木さんが、裕也の高音に眉を寄せ、優梨愛が喉にかかって割れた声質に首をかしげるほかは、皆佑の声が、裕也のものより透明でのびやかだったことに、まだ気づいていなかった。
 去年までなら確かにそうではなかった。皆過去のイメージだけで裕也の声を聞いていた。
 五年二組の合唱の質が三段階ぐらい落ちたことに、水原先生は溜息をついた。
 その後も繰り返し佑に声をかけたが、佑はその優しげな二重瞼の目に、コップに盛り上がった水みたいに涙を浮かべて、頼りなく拒絶を口にした。

 九月がやって来た。
 夏の祝福を燦燦と浴びていたヒマワリが、干からびて頭を下げる。いつの間にか蝉しぐれはやみ、代わりに木の葉が風にそよぐさわさわとした音が、潮騒のように耳に満ちるようになった。
 白秋、その言葉通り、金色だった陽光はすっかりと白くなった。透明なガラスビーズのようなものが、空気の中で全ての波長の光を反射しているかのようだ。それはいまだに肌を焼くものの、乾いた風がふっと撫でれば、湧きかけた汗も引いてしまう。
 月も半ばを過ぎればプール授業もおしまいになった。登校する子供たちの衣服も半袖から長袖になる。通勤する大人たちも、ほとんどが薄手のジャケットを羽織るようになった。
 佑はフキちゃんの特訓をやめなかった。そして秘かに、ソロパートの練習もしていた。

 「地球を回すのはチェーン
 未来を次々結び付けていくチェーン」
 
 フキちゃんの歌はさらに進化していた。音もほとんど外さなくなり、さらにほんの少しだけ感情が入れられるようになっていた。佑は簡単な伴奏をしていた手を止めて微笑んだ。
 「フキちゃんほんとに上手になったね」
 「歌うって楽しいな。自由とでたらめが違うって、最近になって分かってきた。小さな気流がいくら自分を主張しても、大きな竜巻とか台風にはなれない。みんなで声を合わせて響かせることで、より強い大きな風の束になっていくんだね。でもね、タスク……」
 フキちゃんは両膝をついて、ピアノの椅子に座っている佑の肩に手を置いた。唇は笑っていたが、目が、真剣に、熱を帯びてキラッと光った。
 「ユウヤのソロはだめだ。せっかくの風の色が濁る。あれはタスクがやるべきだ。その方がずっと大きな強い束になる」
 柔らかな微笑みをうかべていた佑は一転、目に涙を浮かべてうつむいた。薄い唇がわなわなと震えている。
 「駄目なんだよ、フキちゃん……。こうしなと、お父さんやお母さんにまで迷惑がかかるんだ……、優梨愛ちゃんにも嫌われてしまう」
 「タスク、ユウヤにはめられたんだね。なんとなく察しはついている。ねえタスク、お父さんやお母さんに迷惑が掛からなければ、ソロパート歌いたい? ユリアに嫌われなければ。タスク自身はどうなのさ? 歌いたい? それとも歌いたくない? 」
 フキちゃんは小さな両手で佑の震える両肩を押さえた。桜色の唇がくっきりと微笑んでいた。頭の内側であかあかと炎が燃えているように、吊り上がった目は輝いていた。
 佑の丸い目からは大粒の涙がこぼれた。
 「フキちゃん、やりたいよ、僕やりたい……、ソロパート歌いたい……」
 うわーんと声を出して、佑は泣きじゃくった。フキちゃんが、フキちゃんのおじいちゃんがフキちゃんにしているように、佑の柔らかくこしのない髪の毛を、ぐじゃぐじゃにかき回した。
 「じゃあ、頼んで、タスク、フキコにお願いするんだ、ソロパート歌いたいって。タスクはフキコの友達だ。シルフは友情に厚いんだよ。どんな手を使ってでも、それこそサタンの回し者が使うような真っ黒いアイデアを使ってでも、タスクの願い、フキコが叶えてあげる」
 フキちゃんの笑顔はいつも通り不敵で、どんな立派な大人だって自分の嘘には適わない、たとえ一国の軍隊がまとまってかかって来たって、とでも言っているようだった。佑は気付くと叫んでいた。
 「うん、フキちゃん、お願い! 僕にソロパート歌わせて! 」
 「請け合った! 」
 フキちゃんがにんやりと微笑んだ。

 大慶寺小学校の合唱大会は、十月第一週の土曜日に予定されていた。放課後になれば全ての教室から熱心な歌声が響いて来る。
 五年二組の教室からも、生きがいい分ベクトルのばらけていた春から、目当てのゾーンにピタッと照準のあってきた歌声が、伸びやかに響てくる。
 だが、練習が進むにつれて、水原先生は裕也のソロにいっそう首を傾げた。更に声変わりが進んで高音がオオカミの遠吠えみたいになっている。
 クラスでもほとんどの子が気が付くようになっていた。ピアノを弾く佐々木さんは、裕也への想いと、音楽への想いの間で悩んでいるように見えた。優梨愛も猿橋君も目で、お互いの懸念を交し合う。
 「佑の方がよかったんじゃね? 」
 「裕也君、下手くそではないけど声が……」
 「あたしたちの声まで濁っちゃう」
 子供たちはささやき合っている。
 そのことに、とうの裕也だけは気が付いていなかった。
 
 その年、秋は足早に駆けて行った。
 十月になると佑は、長袖の上に薄手の上着を一枚着て登校するようになった。周りの子供たちも同じような具合だ。暖かい日もあるが、お日様が急いで降りてしまえば、もう冬が間近であることを実感させるような冷え方だった。霜が降りるまでもうあとわずか、冷たい風が渦を巻き、ささやきを漏らす木の葉も色づき始めた。
 あれからフキちゃんは一向に動く素振りが無かった。深謀遠慮なフキちゃんだから、何か大きな仕掛けを用意しているのかと思いきや、普通に登校して、普通に勉強して、歌の練習をして帰る。
 佑は一度ならず尋ねた。
 「ねえ、フキちゃん、あれは本当に本当? 僕をソロパートに戻してくれるって」
 「本当に本当だよ」
 フキちゃんはいつでも自信満々だった。

 子供たちの期待と不安をのせて、その日はとうとう訪れた。合唱大会の開催される日。
 この日は土曜日であり、午後にまたがる行事のために、弁当持参の日となっていた。佑も、お母さん特製のサンドウィッチを持って学校へ行った。
 体育館へ行くと、後ろの方の父母席はほぼ埋まっていた。赤や黄色の秋色セーターや、くすんだブルーのジャケット類が目に飛び込んで来る。嗅ぎなれないどこか甘ったるい、化粧品の匂いが漂っていた。
 ここからだと見えないが、佑のお父さんとお母さんもどこかに座っているのだろう。佑はソロパートを辞退したと言ってから、一度もそのことに触れない二人の顔を思い浮かべた。
 合唱大会の午前の部は一年生から始まり、二年生と三年生まで、午後は四年生、五年生、六年生と続く。
 小さな学年の可愛らしい合唱を、佑は虚心に聞いていた。素直な気持ちを声に乗せていて、とても気持ちがよかった。
 その合間にフキちゃんの方をもじもじと見る。フキちゃんは振り返りもしない。裕也はと言えば、泰然自若とした微笑みを浮かべて拍手喝采に余念がない。佑はどんどん不安になってきた。
 「フキちゃん、本当に僕にソロを歌わせてくれるの? それとも僕が担がれただけ? 」
 三年生までの大会が終わった。お昼休憩をはさんで、午後は高学年の部に移り進む。

 お昼時間、佑とフキちゃんは、例によって優梨愛と唯葉さん、猿橋君のグループに入れてもらっていた。
 ランチボックスを開いた佑に、優梨愛が声をかける。
 「佑君のお弁当、美味しそうだね。BLTサンドだ」
 「優梨愛ちゃんのも、綺麗なちらし寿司だよ」 
 「うちは兄弟が多いから、大量生産品なの。フキちゃんのこそ手が込んでるよ。オープン稲荷だ。おばあちゃん張り切ったね」
 唯葉さんはほとんど野菜と豆とで出来ているお弁当を持ってきた。太っちょの猿橋君には、卵焼きやウィンナーや唐揚げの入ったお弁当箱の他に、大きなおにぎりが三つもある。
 佑は心から優梨愛に感謝した。昼時に疎外感を感じなくて済むように、優梨愛が心を砕いてくれたに違いないのだ。
 佑がお母さん特製のサンドウィッチを一口ほおばった時、教室の真ん中の裕也の席の方から、佐々木さんの切々とした声が響いた。
 「裕也君、リクエスト通りお弁当作って来たよ。すみれの柄の太巻き弁当」
 すると脇坂さんも自慢のキャッツアイを見開き、張り合うように声を上げた。
 「えええっ、何言ってるの! 裕也君はあたしのお弁当を食べるのよ。あたし特製のハンバーグ弁当」
 「違うだろ、裕也はあたしのお弁当を食べるんだよ。アボカドサーモンサンドにピックルス」
 「そんなはずないよ、裕也君はあたしのお弁当を食べるの。マフィンとクロックドムッシュパンケーキ! 」
 野々宮さんと日向さんもとんでもないとでも言うように声をあげた。
 四人の女子は裕也の机を取り囲み、それぞれお手製の、豪華なお弁当を差し出して、血走った眼でバチバチと火花を散らした。
 裕也はきょとんとしていた。たっぷり十秒も経った後で、ようやっと口を開いた。
 「誰が君たちのお弁当を食べたいって? 」
 「裕也君が言ったのよ! 」 
 四人の女子は声をそろえた。
 「えっ、僕が? 僕そんなこと言った? 」
 「だってフキちゃんがこっそり教えて食らたんだもの。他の子たちが抜け駆けしようとしているけど、本当は裕也君はあたしのお弁当が一番食べたいって! 」
 佑ははっとしてフキちゃんを見た。フキちゃんは口の中にオープン稲荷を詰め込んで、右唇の端だけ上げて咀嚼していた。その微笑みの不敵さはいつにないほどで、ナポレオン艦隊さえ全艦ひっくり返してしまえそうだった。
 「何言ってるの! 裕也君が一番食べたいのはあたしのお弁当だよ! 」
 「違う! あたしのよ! だからあたし一生懸命に作ったの、朝の五時から起きて」
 「あたしなんて四時半から作り始めたよ」
 「あたしだって……」
 佑はぽかんとして、裕也の顔がどんどん真っ青になってゆくのを見つめていた。
 「でもねえ、君たち、お弁当四つなんて僕……」
 「そんなあ……、ひどい、あたし朝の四時半から一生懸命マフィンの生地作りしたのに……。裕也君に食べてもらうところを想像しながら……」
 日向さんが泣きだした。
 「あたしだって、綺麗なすみれの太巻きが出来るように、ネットからレシピを降ろして三回も練習したのに……」
 佐々木さんも泣き出した。脇坂さんは泣いている二人を見て、自分も真似して両手で顔を覆った。野々宮さんは怒鳴った。
 「涙はずるいよ!裕也、どうするんだ? 誰のお弁当を食べる? え、どうするね? 」
 裕也は顔を真っ青にして言った。
 「食べるよ、食べる、全部食べるから泣かないで頂戴! 」
 裕也は大きく息を吸い込んで、四つのボリューム満点のお弁当を、猛烈な勢いで食べ始めた。
 大きな口で太巻きをパクリ、ハンバーグをガブリ、アボカドサーモンサンドにかぶりつき、大きなマフィンを口に詰め込む。
 「うん、美味しいよ、美味しい、みんなお料理上手だね……」
 食べながら裕也の顔はどんどん真っ青になって行った。
 「あれ、裕也君、お箸が止まっているよ」
 「パンケーキのほうも食べて」
 「ゆで卵も苦心してパンダさんにしたんだから」
 「ピックルスも自家製なんだよ」
 「……うん……、美味しいよ、美味しいね……」
 裕也は胃袋のあたりを何度もさすり、水筒のお水をほとんど飲み干して、四人分の弁当を詰め込んだ。
 そうして詰め込んだはいいが、すぐにトイレに駆け込んだ。その後、紙みたいに真っ白い顔色でしばらく席で唸っていたが、見かねた優梨愛に保健室へと連れて行かれた。
 水原先生が足早に教室に入ってきて、当惑したようにみんなに伝えた。
 「泉谷君はお腹が痛くなって、合唱大会へは出られません。それでソロパートだけど、吉本君にお願いできませんか? 」 
 佑はフキちゃんの策略が鮮やかに決まったことを知った。目に力を漲らせ、強くうなずいた。
 「はい」

 五年二組の児童たちは教室で最後の合唱練習をした。その十五分で全員が、佑がソロを歌った方が数段いいと確信した。
 みんな頭の片隅にかかった、もやが晴れたような心地だった。そうだよ、こんな風にアサガオのつるが自然に絡まり合うように、声を束ねていけたら最高じゃないか!
 それは、五年二組の合唱に加えられた魔法の一味だった。塩味だけのスープに振りかけた芳醇なスパイスのように、佑の声はそれ自体際立っているのに、みんなの声と調和して、お互いがお互いを引き立て合っているのだ。
 以前はあからさまに佑を馬鹿にしていた数人の男子が、佑の肩をたたいて言った。
 「頼んだぜ佑」
 「俺たち五年二組の命運は、お前の肩にかかっている」
 「吉本君いい声してるね」
 「いいよ、いいよ、勝てるよ絶対」
 こそこそ陰口をたたいていた女子たちも、佑に素直な笑顔を向けた。

 午後一時、高学年の部が開演する。佑は今までと違うドキドキを感じながら、クラスの子供たちと一緒に体育館に座っていた。
 四年生の合唱が終わり、五年一組が歌い始める。五年二組は舞台下に待機となった。一組の合唱が終わる。
 「次は五年二組、課題曲『夢の世界へ』、自由曲、『チェーン』。指揮水原奈々枝先生、伴奏、佐々木莉麻さん」
 アナウンスが流れ、五年二組はきゅっきゅっきゅっと、ズック底を鳴らしてステージ上に整列した。
 舞台はとても高く感じられた。全校児童が父母たちがおしゃべりを止め、咳ばらいを飲み込んで、舞台上の五年二組に注目している。その期待に満ちた沈黙に、佑の緊張は最高潮を迎えた。
 佑は最前列のやや右側で、指揮を執る先生の手の動きに、針穴に糸をとすような集中力を注ぎ込んだ。
 先生が腕を振り上げ、大きく口を開けて合図する。みんなは大きく息を吸い込んだ。
 課題曲はユニゾンから始まる。安定の滑り出しだ。ピアノの伴奏の上を、滑るように歌声は伸びる。
 Bメロは二重唱、これはハーモニーを歌う喜びを知り始めた、子供たちのための入門曲。みんなの声が大きく鳴っている。まさに一束の風のように、豊かに力強く吹いている。
 フキちゃんの声もぐんぐん伸びて行っていることも、佑の感度のいい耳には聞こえた。とても楽しそうに、「自由」に、「風」を発していた。
 課題曲は滑り台を降りるように難なく終わった。次は自由曲、「チェーン」。
 先生が腕を振る。佐々木さんがいろんな音を一ぺんに押さえた和音を大きく鳴らす。曲が鮮やかに始まる。
 
 人は誰でも小さなピース
 一人ではちっぽけで弱いピース
 だけど隣り合う人と結び合えば
 強くて大きな束になる

 手をつなごうほら 僕の右手は君の左手と
 君の右手は あなたの左手と
 冷たい手 あったかい手 大きな手
 つながれば 何より強いチェーン
 地球を回すのは僕らのチェーン
 未来を次々結び付けるチェーン

 ついにソロのパートの部分がやって来た。
 佑は半歩前へ乗り出し、額にオルガンのパイプのように音を響かせて、高く伸びかなメロディーを歌った。

 願いは白く輝き 太陽を貫く
 その願い 僕らのチェーンを
 宇宙の風で回す
 
 佑のソロが終わり、曲は終章へと向かう。だがソロが終わってもなお、クラス全員の耳には、高らかに澄んだ佑の歌声が聞こえていた。その声がみんなの合唱を引っ張っていた。
 佑の歌声を芯に、クラス全員の歌声が束ねられていく。強く、伸びやかに、豊かに、軽やかに。佑は今までクラスから浮き上がっていた恨みを忘れ、ただただ無心に歌った。
 みんなの心の中にも、佑の歌声がまぎれもない、大切な仲間の歌声として響きだしていた。

 五年二組の合唱が終わった。万来の拍手が鳴り響いた。父母席からも大きな歓声が上がる。
 やりきった。佑は達成感に体から力が抜けてくのを感じた。

 五年二組は五年生の部の優勝と、高学年の部の優秀賞をとった。最優秀賞が六年生の優勝クラスだったことを考えると、これは大勝利だった。
 歓喜に沸く教室で、優梨愛は佑の姿を探した。今日の殊勲は何といっても佑のはずだった。
 「あれ、佑君は? 」
 「いない」
 「見てないね」
 「どうしたんだろう? 」
 そのころ佑は一人保健室へと向かってた。一階の昇降口の奥の薄暗い廊下に差し掛かった時、年老いた男性が、雷のように怒鳴りつけるゴロゴロガーンとした声が聞こえた。
 「恥を知れ! 恥を! 常に一番でリーダーではない孫息子などいらない! 」
 佑はびくりとして思わず階段の陰に隠れた。
 保健室の扉が大きな音を立てて開けられ、叩きつけるように閉じられた。コートの襟元に臙脂のマフラーを垂らした裕也の祖父が、鋭角的な顔を真っ赤に怒らせて、鼻息も荒く出てきた。お付きの人が二人慌てて後を追う。
 三人がすっかり視界から消えてしまってから、佑は恐る恐る階段の陰から出て、保健室の扉を開いた。
 中では保健の先生が、一生懸命裕也に慰めの言葉をかけているところだった。佑は先生に尋ねた。
 「泉谷君とお話してもいいですか? きちんと話さないといけないことがあるんです」
 先生の許可をとって、佑は裕也が寝ているベッドの脇に腰かけた。裕也は布団を頭までかけて、ひくひくとすすり泣いていた。
 「泉谷君、優勝したよ。高学年の部でも優秀賞とれたよ」
 「くっそう、全部お前がソロを歌ったからだって言いたいのか! 僕がソロを歌わなかったからだって……」
 「そうだよ。泉谷君は間違っている。みんなの音楽はソロの君を盛り立てるためにあるんじゃなくって、ソロパートこそがみんなの音楽のためにあるんだ」
 「お前とフキちゃんのせいでおじいさまに叱られた、おじいさまは全校児童の前で僕がソロを歌うのを楽しみにしていたんだ……」
 「それは君のおじいさまが間違えている」
 「おじいさまの言うことは絶対なんだ! 」
 「違うよ、誰にだって間違いはあるし、君のおじいさまがそう言っているからって、君も絶対にそうしなければならないっていうことはないんだ」
 裕也はひくひくと横隔膜をけいれんさせた。その体が細かく震えているのが、薄い布団の上からでも分かった。それでも佑はベット脇の椅子の上で身じろぎもしない。不思議なほど自信に満ちて、自分の言うべき言葉がはっきりと浮かび上がっていた。
 「笑うなら笑えよ! そうだよ、優梨愛ちゃんのブラジャー盗んで君のプール袋に入れたのは僕だよ! どんな手段を使ってでも、一番でリーダーでなければならなかったんだ。それなのに、あんな卑怯な手を使っても、ソロパートは逃げて行った……、フキちゃんにひっくり返された……。その結果クラスは優勝しました? 笑っちゃうよな、いいさらし者だ! 君も心の内側では笑ってるんだろ? 卑怯で惨めな僕をあざ笑っているんだろ? 」
 佑には自分の身に起きたことのように、裕也のすすり泣きの寂しさが、体の内に広がっていくような気がした。何を言ったら泉谷君は救われるんだろう? 何を言ったら楽になれるんだろう? しばらく考えた後、ぽつりと言った。
 「泉谷君かっこよかったよ」
 「え? 」
 「前に絶対に守らなければいけない五か条教えてくれただろ。第三条、ナイトたれ。女の子たちが悲しい想いをしないように、みんなのお弁当、頑張って食べたんだよね。そうして大ぼらを吹いたフキちゃんにも、特には嫌がらせなんかしなかったよね。泉谷君は偉いよ、かっこいいよ、ナイトだよ」
 保健室の薄い布団が、裕也の手が握りしめた形にぎゅうっと歪んだ。大きな声をあげて裕也は泣きじゃくった。その嗚咽はもつれ、唾が詰まって盛大に咳き込んだ。鼻をじゅるじゅるとすする音もする。クラスの誰にもスマートな顔しか見せない裕也が……。
 それ以上かける言葉が見つからず、佑はベッドわきの椅子に黙って腰かけていた。
 窓の外に季節外れの黄色い蝶が、力なくふらふらと舞っていた。

みんなで過ごすクリスマス

 きっかけはそう、その合唱大会の時のことに違いなかった。周りの佑に対する態度が変わった。
 「おはよう」や「またね」と言ってくれるようになった。給食の時も席を合わせてくれるようになった。グループ分けの時も声をかけてもらえるようになったし、「遊ぼう」と誘ってもらえるようにもなった。
 陰でこそこそ画策していた裕也が、あれきり佑に対して親切になったことも一因に違いない。どういう風の吹き回しなのか裕也は、佑のことをとりわけ親しい友人として扱うようになった。
 「吉本君、倉山声楽コンクールの動画もうチェックした? 」
 「え、まだ。アップされてた? 」
 「うん。上位四名の本選がアップされてるよ」
 「教えてくれてありがとう。今日聴いてみるよ」
 「そういえば吉本君、クラリネットも練習してるんだって? 」
 「うん」
 「どんな曲するの? 」
 「まだまだ初心者だから、歌曲の中でメロディーが簡単なやつとか。でも、どうせクラリネットやるんだったら思いっきり印象的な、『ラプソディーインブルー』のイントロのところとか吹いてみたいな」
 「『ラプソディーインブルー』? 」
 「うん、有名だからちゃんと聴けばきいたことあるって分かるよ」
 クラスの仲間に迎えられた佑をそっと見守るように、フキちゃんはひっそりと離れた。
 というのも、フキちゃんと周りの子供たちの間にある透明な壁は、なおもぶ厚くそびえたままだったのだ。
 合唱大会が終わってしまうとフキちゃんの歌の特訓はなくなった。フキちゃんが佑の家を訪れる理由がなくなった。ぽっかりと開いた午後の時間、佑は裕也や他のクラスの子供たちと過ごすようになった。
 だが佑はそのことについて、胸に燃え盛る火の玉がつっかえているみたいに、熱くて叫びたくなる思いに駆られるのだった。
 「フキちゃん、僕フキちゃんのおかげでみんなと仲良くなれたよ。でも何でフキちゃんはそこで一人ぼっちでそっぽを向いているの! 」

 十月が終わった。
 何かに急き立てられるように気温は滑り落ちて行った。紅葉もあらかた枯れてしまい、頭上を見上げることもなく、大慶寺町の住民は無口に初冬の町を歩いた。彼らの着ているコートはたいてい暗い色で、真っ黒い働き蟻たちが食べ物を探しに行く様に似ているなと佑は思った。本物の蟻はもう巣にこもりきりになっていた。蟻だけではない、時折蚊柱が立つ以外、昆虫らしきものは見えなくなっていた。毎朝のように霜が降り、昼間でもストーブが手放せない。お父さんとお母さんは、「寒冷地手当」の重要性について日々語り合っている。大慶寺小学校の児童たちの間でも、いつ初雪が降るのかが熱心に語られる話題となっていた。佑は裕也とこんなやり取りを交わした。
 「吉本君はスキー板も持ってないの? 」
 「うん。一回も滑ったことないんだ。みんなスキーできるの? 」
 「こっちでは冬の体育に普通にスキー授業があるんだよ。二月にはスキー合宿も予定されてるよ」
 「ええ、そうなの? 」
 「せめて今年中には直滑降ぐらいできるようならないとね」
 「うん」
 「そういえば吉本君、泳げるようになったのも今年の夏だったよね」
 「うん……」
 そう言いながら佑の胸には、「おまじないだ」と言ったフキちゃんの笑顔と、フキちゃんの家で見た不思議な夢とが炭酸の泡のようにこぷこぷと溢れ、灰色の薄紙で覆われたような初冬の空気に、初夏の下敷きみたいに青い空が、二重写しに重なって見えるのだった。

 「ねえフキちゃん……」
 十一月半ばの金曜日、佑は意を決して、自宅の町屋に帰るフキちゃんがその引き戸を引くときに、そっとお隣さんの板塀の陰から声をかけた。
 「フキちゃん、フキちゃんのおかげで僕みんなと仲良くなれたよ。でも、そのせいでフキちゃんと仲良くできないのは辛いんだ……」
 フキちゃんは、今日の晴れやかに寂しい日差しのように微笑んで言った。
 「タスク、フキコはいいんだ、タスクが幸せになったら。フキコは一人が気にならないんだ。どうせタスクとつるむ前に戻っただけなんだし。みんなと一緒に同じ行動をとっていたらいつも自由ではいられないだろ? それよかは、一人でプラプラしていた方ずっと、フキコにとっては自分らしいことなんだ」
 「嘘だ! 合唱の時はフキちゃんの歌声もみんなの声の中になじんでいた。歌うって楽しいって言っていたよね? みんなの声が一つの強い風の束になるって。それは、みんなの仲間に入って嬉しいって言う意味じゃなかたの? 」
 「確かのその時はそういう良さもあるかなあって思ったよ。でも、フキコには長く続けられることじゃない。タスクにだけ言うけれども、フキコはみんなと仲良くする意味がないんだ。フキコとみんなは世界が違っちゃうから。いずれフキコはみんなと違うところに帰って行かないといけなくなるから。もっと言うと、これ以上仲良くすると、別れがつらくなる……」
 「ねえまたその話? フキちゃんがシルフのお姫様だっていう。分かったよ、信じるよ、信じるけどでもだからって、みんなと仲良くするのは意味がないって思わない。いまみんなと過ごす時間が、いつか大人になった僕らの勇気を支えてくれる宝物になるって、水原先生も言っていたじゃないか」
 「フキコのことはみんな忘れてしまうさ」
 フキちゃんはずっと年上の大人が、自分の孫ぐらいの子供に世の無常を教えるような、哀しい微笑みを浮かべて言った。
 「忘れるんだよタスク、父上の魔法が解けてしまえば、フキコの記憶は跡形もなく消えてしまうんだ。だから……」
 「フキちゃんはそれでいいの! 僕やみんなと会えなくなって、一人ぼっちになっちゃっても」
 フキちゃんの顔色がさっと陰った。カールしたまつげを伏せ、ちらりと右に瞳を逸らして答える。
 「精霊界ではフキコに十人も侍女がいるし、千歳以上年上の兄上も五人いるから一人には……」
 「フキちゃんは僕と会えなくなっても平気なの? 僕らの友情も嘘だったの? 」
 フキちゃんの顔色はさらに陰った。
 「そんな嘘までついて、どうしてみんなと仲良くしたがらないの? 」
 「フキコは今嘘ついてない。みんな誤解している、フキコだって本当のことを言う時もある……」
 「じゃあ僕も、じきにフキちゃんのことを忘れてしまうっていうの? 」
 「……タスクは憶えている。そういう約束だから……。でもみんなは忘れてしまうよ、確実に」
 「忘れないよ、僕は忘れない、みんなにも忘れさせない! 」
 「タスク……」
 佑は唇を噛んで涙ぐんだ。紺色のダウンジャケットの袖でごしごしと目をぬぐう。歯を食いしばって何度もしゃくりあげる佑に、フキちゃんは普段よりも低く、どこかかすれた声色で、鯨が歌っているみたいに抑揚の穏やかな声で言った。
 「タスクはフキコの友達だ。永遠に友達だ。タスクだけが覚えててくれればいい。だからそんなに泣かないで。フキコは一人でもちっとも不幸せじゃないんだからね。束の間だけどみんなと声を合わせられて面白かったよ。でももうこの遊びはお終いなんだ」
 そう言うとフキちゃんは、フキちゃんのおじいさんがフキちゃんにやっているように、佑のこしのない髪の毛をかき回してくしゃくしゃっと笑い、そうして家の引き戸をがららっと開けて、佑を振り切るように帰ってしまった。
 一人残された佑は、ジャケットの袖口をじゃぶじゃぶ濡らしながら立ちすくんでいた。

 その次の週初雪が降った。
 校庭の隅に植えられた葉ボタンの、ピンクや紫の葉っぱの上に、薄荷キャンディーのような氷が凝り、真っ白いレース編みの雪が、薄く、柔らかくお姫様のドレスの裾のように落ちかかっていた。
 佑はてんど市で買った、シルフの少女の水仙のような衣装を連想した。フキちゃんの言っている嘘が本当だったら、きっとフキちゃんの着ているドレスはこんなふうな布地で出来ているんだ。
 だが、それも朝だけの光景だった。陽が高くなれば氷も薄雪も、しゃばしゃばと寂しい音を立てて跡形もなく消えた。
 その日佑は下校のため、裕也と一緒にお寺の塀の前を歩いていた。
 「ねえ、吉本君、クリスマスに何もらうか決めた? 」
 「うん。オーケストラの楽譜に決めた。譜を見ながらCDを聴いてみたいんだ」
 「それもクラッシックのやつ? 」
 「そう。ラヴェルの『ラ・ヴァルス』 」
 「知らないけど、吉本君が欲しいならきっといい曲なんだろうね。今度聞かせてよ」
 「うん」
 「でも僕にとっては、クリスマスと言ったら、やっぱ『ジングルベル』なんだよな」
 そう言うと裕也は、中学生ほどにかすれてしまった声をミュートにして、有名なクリスマス曲のサビを歌い始めた。
 その時佑の頭の上にひらめきが落ちた。
 「そうだ、クリスマス、クリスマスだよ! 確か裕也君、クリスマス会を開くとか言ってたよね? 」
 「え? うん。開くけど」
 「ねえ裕也君、お願いがあるんだ、僕に力を貸してくれないか? 」
 佑は裕也にすがるような眼差しを向けた。佑の優しげな二重瞼が狭くなって震えていた。
 「ことの種類にもよるよ。具体的に僕に何をして欲しいの? 」
 「クリスマス会の場所を変えてもらいたいんだ。フキちゃんのお家に」

 十二月は雪とともにやって来た。
 だがそれから二回雨が降って、全て雪が消えた後で春のように暖かい日が数日続いた。そしてそれから、このまま凍り付いて、生き物がすべて死に絶えてしまうのではないかと思われるほど、寒い寒い日々が来た。
 空は死相を浮かべた病人の顔のようにくすんだ灰色をしていた。そこから、どんと焼きの時に降る薄っぺらい灰のような雪が、後から後から、押し寄せるように降ってきた。
 瞬く間に道も屋根も真っ白になった。大慶寺町の狭い道を、ライトをつけた車がのろのろと行き交い、大人たちは厚手のコートを着て顔に汗をかきながら、カラフルなプラスチックのスコップで、家の前の雪をのけ始めた。
 口々に「クリスマス寒波ですねえ」とか、「年末までにはまだ一回雪はなくなるでしょうね」とか、当たり障りのない時候の話で盛り上がっている。小学校はもう冬休みに入り、今日が二十四日のクリスマスイブだ。
 フキちゃんは、最近膝が痛いおばあさんからの頼まれごとで、川船精肉店のローストチキンを買いに、隣町へと行っていたが、お昼前、ブーツでスタンプのように雪を踏みしめながら帰ってきた。
 「ただいま、おばあちゃん、チキン買ってきたよ」
 家の中はしんとしていたが、続き間の床がキイキイと鳴いた。フキちゃんは眉を寄せた。誰かが息を殺している。
 「メリークリスマス! 」
 突然十数人の子供たちと、フキちゃんのおじいさんとおばあさんが、クラッカーをパパパーンと鳴らしながら、土間と部屋を仕切るふすまの陰から飛び出してきた。
 「メリークリスマス、フキちゃん」
 いかにも安っぽいサンタ帽を被った佑が、一番前で顔を赤くしながら言った。フキちゃんが驚いて何も言えないでいると、佑の横から、クラッカーのリボンを頭に引っかけた裕也が言った。
 「フキちゃんのおじいさんとおばあさんの協力で、今年のクリスマス会はフキちゃんの家ですることになったんだ」
 「さあ、フキちゃん、行こう」
 トナカイのカチューシャを被った優梨愛が、フキちゃんの手を取って居間の方へと歩きだした。
 居間に入るとそこは、フキちゃん不在の一時間の間に、室内がめいいっぱいクリスマス使用に飾り付けられていた。
 壁には、子供たちが手分けして作った折り紙の紙飾りが何連も貼り付けられ、大きなストーブが吹き抜けの天井まで起こす乾いた熱風に、はらりはらりと揺れている。
 掛け布団も赤と緑に衣替えしたこたつの真ん中には、一目で手作りと分かる苺の乗ったケーキが三つ置いてあった。栓を抜かれるのを待っているだけのシャンメリーと硝子のコップもある。子供たちがめいめい自分のお家から持ち寄った、サンドウィッチや巻き寿司、エビフライやチキンもある。
 神棚の前には大きなクリスマスツリーが置かれ、赤や金色のきらきらとした球がいくつも吊り下がり、天辺にはバナナみたいな色の大きな星が一つ、今日の日が特別なことを教えるように輝いていた。
 そしてその周りには、軽量級の電子ピアノ、ギター、タンバリン、クラリネットなどの楽器類が囲むように置かれていた。
 優梨愛が言った。
 「どうする、フキちゃん、最初に食べる?それとも歌う? 」
 フキちゃんの驚いた眼がみるみる潤んでいった。もじもじとコートの裾を手でいじりながら、フキちゃんは小さな声で尋ねた。
 「タスク、フキコのために開いてくれたの? 」
 「そうだよ。フキちゃんは一人がいいっていうけれど、でも本当は違うと思う。上手く言えないけど、一人でいる幸せよりもっと違う何かがきっとあるよ。僕にはフキちゃんが一人でいていい理由が思い浮かばないんだ! だから、だから……」
 「歌おう! 」
 フキちゃんは佑の手を取って高く掲げた。フキちゃんの眼が、ストーブののぞき窓から見える炎みたいに赤々と輝いた。
 「フキコとっても歌いたい気分だ。クリスマスの歌を歌おう! 」
 佐々木さんがおさげ髪を背中に払いながら、電子ピアノの椅子の前に進み出て座った。瞼に赤いラメをのせた野々宮さんはギターを構え、佑はクラリネットのリードに口をつけ、裕也はタンバリンを掲げた。
 子供たちとおじいさんとおばあさんは声を合わせて、思いつく限りのクリスマスソングを歌った。
 優梨愛も、唯葉さんも猿橋君も、脇坂さんも日向さんも、みんなノリノリだった。おじいさんもおばあさんも、歳のせいですっかりガサガサした声を張り上げて歌った。
 ジングルベル、ウィンターワンダーランド、あわてんぼうのサンタクロース、ママがサンタにキスをした、ヒイラギ飾ろう、きよしこの夜……。
 散々歌ってのどが渇いた後で、シャンメリーで乾杯して豪華なお昼と、日向さんお手製のケーキを食べた。
 「ミヤビ、このケーキ美味しいな」
 「うん、ありがとうフキちゃん。一年生からおんなじクラスだったのに、フキちゃんがあたしのお菓子食べるの初めてだよね」
 「うん、初めてだ。みんなフキコに黙ってお菓子のやり取りしてたよね」
 「……、フキちゃん、恨んでる? 」
 「いいや、そうしないとミヤビがあれこれ言われるんだろ? 分かってるさ」
 「何かフキちゃん、大人」
 「当然! 内緒の話だけど、フキコは本当は今年で五百十一歳なんだ」
 フキちゃんを囲んでいた女子たちは皆、アハハと声をあげて笑った。「またフキちゃんが吹いてる」と言って、フキちゃんの肩をパンと叩いた。野々宮さんが瞼のラメを傷つけないように、浮かんだ涙を人差し指で払って言った。
 「今度からは何べんでも食べれるさ。雅はなに作っても美味しいよ」
 「アガサも、ギター弾けるなんて知らなかった」
 「うん。兄貴の影響でさ。中学生になったら自分のギターを買ってもらえることになってるんだ。80年代ロックが好きで、U2とかメタリカとかコピーしたいんだ。フキちゃん、聞いたことある? あたしたちが生まれるずっと前のだよ」
 「フキコは五百十一歳だから、そういう若い音楽は知らない。吟遊詩人の叙事詩とかおなじみだけどね」
 またフキちゃんの周りの女子たちは大笑いした。フキちゃんが周りとこんなにも打ち解けて話すことは、今までに無いことだった。
そんな親し気な空気に乗って、脇坂さんがフキちゃんのふわふわの髪の毛に触った。
 「ねえ、フキちゃん、あたしいつも思ってたんだけど、髪にオイルとかワックスとか付けないの? 」
 「なんで? 」
 「髪は女の命なのよ! あたし自分のさらさらストレートヘアーには自信があるけれども、フキちゃんみたいに外国の女の子っぽい髪にも憧れるの。もっとちゃんときれいにしていればいいのに」
 そう言いながら脇坂さんがピンクの瓶のヘアーオイルを手に出して、フキちゃんのふわふわした髪の毛にぬったくった。
 「うわ、シイナ、甘ったるい匂い! フキコの鼻は敏感だから、天然のアロマじゃないと窒息しそうになるよ! 」
 「駄目だよ詩衣南ちゃん、フキちゃんはそのまんま、何にも飾らないでいるのが一番いいんだから! 」
 優梨愛が後ろからフキちゃんの肩に手を回して、がしっと捕まえた。その横では唯葉さんが竹筒のような首でしきりに頷いている。
 盛り上がる女子たちを横目に、猿橋君をはじめ男子たちは、こたつの上のご馳走に夢中だった。佑はみんなに聞かせるために練習していた、「ラプソディーインブルー」のあの有名なイントロを、おぼつかない音程で披露していた。裕也が「ああ、これなら僕も知ってる」と感心して耳を傾けている。
 フキちゃんは佑にしか見せることのなかった、大きくくつろいだ笑顔で笑っていた。それを見つめるおじいさんとおばあさんのまなざしは心なしか潤んでいた。
 フキちゃんだけではない、佑も、裕也も、優梨愛も、みんなが笑っていた。

大慶寺町の一月から八月、そして佑の冒険

 その日からフキちゃんと、このクリスマス会に居合わせた子供たちとの間に合った透明な壁は、氷が解けるように消えた。
 クラスの主たるメンバーがフキちゃんのことを認めてしまえば、そこからフキちゃんがクラスになじむのに時間はかからなかった。フキちゃんに恨みのある、琉美やひなたたちでさえ、仕方ないなあと言うようにフキちゃんが仲間に入るのを黙認した。
 冬休みが終わって二月になる頃には、フキちゃんは一風変わった、でも面白いクラスの仲間と認知されるようになっていた。

 その冬から夏にかけて、佑は誰よりも幸せな子供だった。
 すっぽりと雪に覆われた真冬、見慣れた街並みは純白に衣装替えして、白無垢で包まれた花嫁さんのように、お澄まし顔をしている。
 スキー授業では、佑は初めて履くスキー板に苦心していた。みんな易々と校庭に積もった雪の上を走るが、初心者の佑にとっては一苦労だった。足首が固定されるうえ、踏み荒らされた雪はぼこぼこに固まっている。
 顔を真っ赤にさせて、息を弾ませて、教わった通り佑はVの字に板を運んだ。その横をフキちゃんが笑いながら追い抜いて行く。
 「タスク、遅いぞ! 」
 ブランド物のウェアに身を包んだ裕也もフキちゃんと競い合うように滑り抜けていく。優梨愛でさえも息をハアハアさせながら佑を追い抜いていくのだった。
 空は晴れあがっているのに、日差しも輝かしいのに、気温のほうは氷点下だった。それでも佑の、新品のウェアの下の背中はぐっしょりと汗で濡れた。
 雪に閉ざされた街での最初の冬、晴れの日は喜び、雪の日は雪を楽しみ、暖かければ空気を入れ替え、寒ければじっと耐える日々。
 二月になれば日差しだけがずんずん明度を増していった。相変わらず氷点下の日が続いてはいるが、大慶寺町のくすんだ街並みの上の空は、鮮やかな春色に変わった。
 雪が消え、梅が盛りに咲き誇るころ、新学期が始まった。六年生になっても、クラスは五年生の持ち上がりだった。佑とフキちゃん、裕也と優梨愛は同じクラスだった。
 今年の合唱大会の課題曲と自由曲が決まり、佑はすぐさまフキちゃんの特訓に取り掛かった。去年と違うのは、裕也や優梨愛や、他の子供たちが練習に加わったりすることだった。
 「もうどうしたって僕にはソロは無理だよ。おじいさまにもよくよく説明しているんだ。でも中学校になれば混声合唱になるだろうから、テノールのパートのソロを狙うよ」
 「裕也君ならできるよ。僕もソプラノで歌えるのは今年が最後になるだろうな」
 「フキちゃん、見違えるように音程がよくなったね。あたしにも発声方法を教えてよ」
 「いいか、ユリア、喉に力を淹れちゃダメなんだ。肩と背中からは力を抜いて、代わりにお腹を固くして、体全体が笛になったみたいに、全ての音の響きをおでこの上に当てるようにイメージするんだ」
 桜が盛りを迎えていた。短い命を燃やし尽くすように、大慶寺町のお寺で公園で川岸で、薄桃色の炎が燃えていた。
 日差しが暑いと感じ始める午後、その火はひっそりと、まるで人目を忍んでいるかのように散り始めた。人々が立ち止まって見とれているうちやがて、それは悲壮な情熱を感じさせる激しさで降り注ぐようになる。全ての春が惜しまれつつ終わってしまうことを、その身をもって示しているかのように。
 桜がすべて散り、その花吹雪さえ乾いて茶色く色あせたころ、青い香りの初夏が来た。佑たち六年生は修学旅行で海沿いの街を訪れた。
 晴れ渡る空の下、こんもりと森を背負った島々の間を進む遊覧船の上にいると、青メノウの海はそのきらめきが、常に真新しく更新されながら後ろの方へと駆け去って行くように見える。空と海の接点は白く輝いたまま、どこまで行っても変わらずに沖の方にある。
 遊覧船を降りた後、佑たちは本土にほど近い、小いさな島にある由緒ある寺を見学した。朱塗りの欄干の橋を歩いて渡れば、この世とは違う時の流れる霊場が広がっている。
 島中いたるところに石窟が掘られ、その中に何百体もの石の仏様が安座していた。まるで雨風から守るように、目に染みるような緑の木の葉が茂っている。この島は震災の被害を免れていた。風雨で洗われた古い仏様は、なんだか眠っているようだった。
 島中どこへ行っても、潮の匂いが漂っていた。しっかりと地面に脚をつけて歩いているのに、島そのものが波に揺られているみたいに感じられた。
 佑と優梨愛は並んで歩いた。交わされる会話はぎこちなく、黙っている時にはお互いに、互いの顔を盗み見た。緑の葉影の映る頬は、それでも確かに赤らんでいた。
 最後に周った縁結び観音で、二人はおみくじを引いた。おみくじには良縁についてのことが書かれていた。
 「佑君、もういい人はそばにいるって書いてある」
 「僕のにはもう頃合いって書いてあるよ」
 二人は、おみくじ売り場のそばの石灯籠に寄りかかって顔を赤くしていた。空がどこまでも青い五月の日だった。
 修学旅行が終わればすぐに運動会、運動会も終わればすぐに「大慶寺てんど市」がやって来る。今年は去年と打って変わって天候に恵まれず、少し冷たい雨が降っていた。
 しかし、町の人々も作家さんたちも、雨なんぞに負けてはいない。オレンジやピンクの幟旗は、雨に濡れてしょんぼりと下がってしまっていたが、代わりに色とりどりの傘の大小が、くるくる回りながら通りを行ったり来たりしている。
 佑も買ったばかりの雨傘を差したまま、元気よく水たまりを蹴飛ばし、雨音に音階を感じて短いフレーズを口ずさんだ。今年は去年より仲間のバラエティーが増えていた。もちろんフキちゃんも一緒だ。
 フキちゃんはいろんなキャンドルの店を探し回った。優梨愛は裏に貝殻を張った手鏡をとって微笑んでいる。唯葉さんは目ざとく豆本の並ぶ店を見つけ出し、猿橋君は手作り作品よりもキッチンカーに夢中だ。
 佑は玲夜の店を探したが、今年は出店していないようだった。
 「残念だな。優梨愛ちゃんたちにもフキちゃんに似たシルフのイラストを見て欲しかったのに」
 向こうの方から、カラフルな雨傘を差した女子たちに取り囲まれながら、裕也が歩いて来る。
 女子たちは「わあフキちゃんだー」「面白いメンツとつるんでる」などと声をかけた。フキちゃんはぎょろっと白目をむいて、頭の上に両手を置いて、裕也に「色男! 来年から日本もイップタサイセイになるよ」と叫んだ。裕也は佐々木さんや脇坂さんに向けるような完璧な笑みを作って、フキちゃんに爽やかに手を振りながら、アハハと笑った。
 梅雨が始まり、梅雨寒の季節を抜けて、豪雨の時期が過ぎ、輝かしい夏が始まった。
 佑は小学生のうちに五十メートル泳げるようになろうと張り切っていた。
 潜水すると揺らめく水の中からでも、青いソーダ水みたいな空が、どこまでも澄み渡っているのが見えた。
 もう水の中は怖いところではなかった。気のせいかもしれないが、ターンの練習の時、佑の回転を助けるように、小さな手が背中をとんと押して回してくれるような気がした。
 息が切れて悔し気に足をつくと、プールサイドに小麦色に焼けた優梨愛の水着姿があった。体にガツンと衝撃が走る。
 自分の衝動にうろたえて突っ立っていると、脇から裕也が肩を突っついた。
 「優梨愛ちゃんまた魅力的になったね。分かるよ、分かる、どうしたって見てしまうよね。でも、あんまり見つめすぎると女子たちにヘンタイのうわさを流されてしまうよ。ほどほどにね、ほどほどに」
 何年経ったところで、その夏休みの思い出を佑は忘れることはできないだろう。
 ラジオ体操に行くお寺の瓦屋根に差し込める朝日、夏なお冷たい朝の空気、それが太陽に吹き散らかされて熱を帯びてくるときのわくわく感。
 一緒に宿題をしてくれるフキちゃんの家の、冷房もないのにひんやりとした床、おばあさんの運んでくるアイスカフェオレ、それを飲み干した後、ストローをブクブクと吹いたフキちゃんの何かたくらんだ顔。
 お昼ご飯のそうめんのしょっぱさ、輝かしい光のもと、どこか眠そうだった古い街並み、敷地ぎりぎりに迫った民家のせいで、いつも薄暗い校庭の隅っこ、冷房もなく人いきれでむしむしする更衣室、プールに揺らめく日差しと塩素の臭い、入り乱れる子供たちの笑い声。
 プールが無い日に遊んだ公園。
 そこには、優梨愛や裕也や、その時ゲームする気になれなかった子供たちが、気まぐれに集まった。
 フキちゃんはおじいさんやおばあさんから教わった、古い遊び方を伝えた。三角ベースが六年二組のブームになった。日差しはいよいよ輝かしく、公園の花壇のヒマワリやマリーゴールドが、鮮烈な色で燃えていた。子供たちのはじけるような歓声も、色ガラスを透かしたように透明な光に満ちている。この町が、いや、世界全部が、夏の魔法に染め上げられていた。
 フキちゃんは言った。「みんながいてくれてよかった。そうでなければ小学生でいられるうちに、この楽しい遊び方を本当にはしないで終わるところだった」
 子供たちはそれぞれ造りの違う顔に、同じような日焼けをして兄弟みたいに見えた。大慶寺町の低い屋根屋根の中に夕日が沈むころ、名残惜しさを隠して手を振る。
 夕飯の後は音楽の時間だった。クラリネットを練習したり、自己流で作曲を試みる。
 まだまだだな、と佑は一人ごちた。全然形になっていない。基礎も発展も何もない。もっといろんなことを勉強しなければ。
 自分の足で歩いて行ける大人になるまでには、一体どれほどのことを勉強しなくてはならないのだろう? お父さんもお母さんも、フキちゃんのおじいさんもおばあさんも、どれほどの知識と経験を積み上げて今ゆるぎなく生きているのだろう? 想像するだけで気が遠くなりそうだ。
 だが佑は、怖気づいたり逃げたりする気が全くしないのであった。むしろ困難で上等だと武者震いする想いだった。
 「僕はこれから勉強すればいいんだ。へこたれずいろんなことを覚えていこう。いつか立派な作曲家になって、優梨愛ちゃんと結婚して、裕也君のスポンサーで公演して、大作発表の時には駆けつけてきたフキちゃんからお花をもらおう。その為には、ぐずぐずと恐がっていてはだめだ」 
 この夏、八月の初旬に、佑は一週間の冒険へと乗り出すことになっていた。東京のある街で開かれる、小中学生のための作曲塾に参加するのだ。親元を離れ、自分で新幹線に乗って、仲間たちとの共同生活が予定されていた。

 爽やかな夏の早朝、佑は一人新幹線に乗った。出発は見知った駅だったので迷わずに済んだが、東京駅で電車を乗り継ぐのが難関だった。目当てのプラットホームは、迷路のように入り組んだ幾つもの通路の果てにある。佑は駅員さんに聞き、手あたり次第周りの人に聞き、三十分分遅れでやっと目当ての線に乗り継ぐことが出来た。
 電車を降り、地図を片手に街を歩く。久しぶりの関東の夏は、辟易とする程に暑かった。大慶寺町の、周りの山々から冷たい風が吹き降ろしてくるような、爽やかな空気が懐かしく感ぜられた。
 会場は宿泊所を兼ねて、小さなホテルが貸し切られていた。回転扉をくぐると顔や腕を冷房の冷たい空気が包む。
 洒落たホテルではなかった。橙色をした照明は、レトロというには安っぽい古さがあったし、薔薇を織り込んだカーペットも、今までにこれを踏んだ靴裏の数を、同情を持って想像させるようなくたびれ方をしていた。
 僕はここで一週間、お父さんにもお母さんにも頼らずに過ごすんだ。
 佑はチェックインし、作曲塾のスタッフさんと簡単な手続きをした。その後はすぐにオープニングセレモニーに参加する。
 会場には中学生を中心に、佑のような高学年の子供たちも心細げに座っていた。佑にも不安がなかったわけではない。それでも、何も書いていない五線譜を前にした時のように、胸が高まるほうが勝っていた。

 それから一週間、佑は様々なレクチャーを受けた。まず簡単なメロディーを作ってみようというもの、コード進行の決め方、転調の仕組み、パソコンを使って音符を音にする方法。だが、佑が一番知りたいと思っていた作曲理論は、さわりの程度にしか取り上げられなかった。
 効果的な和声の使い方、調のもたらす効果、転調する上での約束事、佑は塾の先生に、おり触れて熱心に尋ねた。先生は言った。
 「君はよく勉強しているね。この作曲塾では物足りないくらいに、初期の段階をよくクリアしている。この先のことを知りたければ、本格的に教室に通ってレッスンを受けることだ。こういった作曲塾は、君の街には無いのかね」

 作曲塾の終わる二日前、佑と同室の同じ六年生の隼人が、テレビを見ながら訪ねた。
 「佑はI県の大慶寺町から来たって? 」
 「うん。そうだけどどうして? 」
 「事故があったらしいよ。スーパーの駐車場で車が暴走したらしい」
 佑はソファーの向こうから首を伸ばしてテレビをのぞいた。
 「ああこれはカワモトだ。僕のお母さんがよく行っているところ」
 佑は画面の中のスーパーの四角い建物を見た。画面の中のカワモトは、良く見知っているはずなのに、取り澄ました他人面をしている、近所のおばさんみたいに見えた。どうやら高齢の男女が、暴走車にひかれて亡くなったらしい。
 警察は現在身元の確認を……、アナウンサーが繰り返していた。

フキちゃんの消失

 その晩眠りについたはずの佑は、気付けば学校の隣の青松寺の、長い漆喰塀の前に立っていた。遠近法の見本のような通りにはもやが立ち込め、平行線の収束点は見通すことが出来ない。
 上空には強い風が吹いていて、それが、立ち込めるもやからあいまいに広がった菫色の雲の形を、刻々と変え続けていた。
 空は桃色の体温を感じさせる光を放ち、白い塀をスクリーンのように染めている。太陽も月もなく、星の影すらもない。洒落たランタン風の街灯が、瞬きするように、付いたり消えたりしている。
 クシュン、佑はくしゃみをした。普段着にしているTシャツと短パンからのぞく皮膚が鳥肌だっていた。
 立ち込めるもやの向こう側から、誰かが静かに歩いてきた。それは小柄な人影だった。触れれば折れそうなほど華奢で、それなのにしたたかな力に満ち満ちていた。ふわふわのショートカットの髪の毛が見えてくる。
 それはフキちゃんだった。
 フキちゃんはいつものTシャツとくしゃくしゃの青いスカートの代わりに、水仙の花のような形の、白いドレスを着ていた。その生地は、淡雪のようなレース地だった。
 フキちゃんは何時間も泣きはらしたように、赤くむくんだ顔をしていた。不敵な笑みも、人を食った眼差しも影を潜め、わずかに眉根を寄せて、涙の沁み込んだ唇を震わせていた。
 佑は黙って近づいて来るフキちゃんを見つめた。傷ついたアナログレコードが、同じフレーズを繰り返すのと同じように、佑の頭の中ではかつてフキちゃんが話した言葉が繰り返し繰り返し鳴り響いていた。
 ……いつかみんなとは違うところに帰らなければならない……
 フキちゃんは眉根を寄せたまま口角をあげて、悲壮にほほ笑んだ。
 「タスク、お別れだ。こんなに早く帰る羽目にならなくてはならないなんて、まだ心の整理もつかないけど。でもすぐに慣れるよ」
 佑は言葉を発するどころか、猫背に立ったまま、姿勢を動かすことすらも出来なかった。わずかに唇が動いたが、そこからは声はおろか、吐息さえも漏れてはこなかった。
 「タスク、ありがとう。お前のおかげで楽しい人間生活が送れた。歌う楽しみも知れたし、みんなで遊ぶ楽しさも知れた。フキコは幸せだったよ。幸せ過ぎて今が辛いくらい……、せめてもっと早く、みんなと仲良くしておけば良かったな……」
 そう一息に言ってフキちゃんは、ぐにゃりと唇をゆがめた。吊り上がった眼を無理やりに見開いて、何度か大きくまばたきした後で、フキちゃんはより一層大きな微笑みを作って言った。
 「お前については、フキコの想い出が消えることは心配しなくていいよ。友達になってくれて本当にありがとう。フキコの嘘を信じてくれてありがとう。でもタスク、もうちょっと用心して、疑り深くならないとだめだよ。大人になって悪い人から身ぐるみはがされてしまうよ」
 そう言い終わるとフキちゃんは、スンスンと鼻をすすりながら微笑み、右手を軽く上げた。
 「じゃあね、タスク、さよなら」
 そう言い終わるが早いか、フキちゃんはくるりと背中を向けて歩き出した。その姿はたちまち立ち込めるもやの向こう側へと見えなくなってゆく。
 ぼんやりとした影が消えてしまうまで、後ろに向かってひらひらと振る右手が、悲しみで満たされた佑の胸をくるくるとかき回した。

 突如ペールギュントの「朝」が鳴り響いた。
 佑ははっと目を開けた。そこには見慣れ始めたホテルの常夜灯が、影も薄く照り続けていた。カーテンの隙間からは、もうすでに暴力的にぎらついた日光が差し込んでいる。
 「もう朝だ……」
 ペールギュントの「朝」は、同室の中学生のスマホのアラーム音だった。同じ部屋に寝起きする四人が一斉に寝床の中でもぞもぞして起き上がる。
 「あれは夢だったんだ……」
 佑はほっとして薄い夏掛け布団をのけて起き上がった。まだ手や脚が鳥肌だっているのがぞっとするようなことに思われて、必死にその夢を忘れようと、今日行われるレッスンのことで頭をいっぱいにした。
 
 佑は一週間の作曲塾での日程を終え、東京駅で両親と落ち合った。そこから父親の実家でお盆を過ごし、八月の十六日の朝、一家そろって大慶寺町に帰った。両親とも、佑の語るお舟送りの話を聞いて、是非とも見てみたいと言い出したのだ。
 タクシーで家まで帰ると、すぐさま佑はフキちゃんに会いに行った。今年も一緒にお舟送りを見ようと誘うつもりだった。
 作曲塾でのいろいろな成果や出来事も、一番先に聞いてもらいたかった。何時の間にかあの噓つきのフキちゃんは、佑にとって最も信頼できる友達になっていた。
 マンションを出て、角を曲がり、入り組んだ古い路地を行く。町家の並ぶ通りに出て少し歩けば、縦縞の着物を着ているみたいに粋なフキちゃんの家が見えてくる。
 佑はいつも通り、インターフォンを鳴らしてしばらく待った。何も反応がない。佑は首をかしげまたインターフォンを押し直した。やはり誰も出てこない。
 「おかしいな」
 いつも通りだったらこの時間、誰かが家にいるはずだった。
 佑が家の前で立ち尽くしていると、隣の横井さんのおばさんが声をかけた。
 「小鳥谷さんに何か用? 」
 「ええと、フキちゃんに会いに。誰もいないんですか? 」
 おばさんは気の毒そうに顔をゆがめた。
 「事故のこと知らないの? 」
 「え、事故? 」 
 「小鳥谷さんご夫妻、カワモトの駐車場で暴走車にひかれて亡くなったのよ。お葬式は三日前にすんだわ」
 佑は真っ青になって立ちすくんだ。ホテルで見たニュース映像が頭を流れた。「高齢の男女が二人犠牲に……」「警察は現在身元の確認を……」
 あれは、フキちゃんのおじいさんとおばあさんの……。
 そこで佑ははっと気が付いた。
 「フキちゃんは、フキちゃんはどうしているんですか? 自分の家にいないのならば、どこか親戚の家にいるんですか? 」
 「フキちゃん? 」
 横井さんのおばさんは眉をゆがめた。
 「フキちゃんて誰? 」
 佑はひきつった笑みを唇に張り付かせた。
 「誰って、ここのお家のおじいさんとおばあさんの孫です。僕とおんなじ、大慶寺小学校の六年生で……」
 「小鳥谷さんのお孫さんは、息子さん夫婦と一緒にヘリコプターで落ちて死んだのよ。それからお二人はずっと二人住まいだったわ」
 佑は、自分の歯が噛み合わなくなってカタカタと震えてくるのを感じた。汗ばんでいた背中が、真冬の凍てつく吹雪を浴びたみたいに冷たくなった。
 「フキちゃんが亡くなっている? 」
 「いいえ、フキちゃんではなく、『小鞠ちゃん』よ」
 そう言うと横井さんのおばさんは、疑わしそうに佑を見た後、首を振りながら自分の家に帰って行った。
 足元のアスファルトが、地表までせりあがってきたマグマの熱にぼこぼこに割れて、体ごと地中に飲み込まれていくような心地だった。心臓はバクバクと脈打ち、口から熱い血液が噴き出しそうだった。額にびっしょりと汗をかいたせいか、摂氏三十度の気温が一気に氷点下まで冷え切ったかのように感じられる。
 佑は気付くと、いつもみんなで遊んでいる公園へと走り出していた。
 公園では優梨愛と裕也と焔君と猿橋君が、三角ベースをしていた。四人は佑を見ると、親し気に声をかけて言った。
 「あ、佑君だ」
 「帰って来たんだね」
 「作曲塾どうだった? 」
 みんなのいつも通りの親し気な口ぶりに、佑は少しだけほっとしてただいまと言った。その後で、ひりひりするほどの期待を込め、氷のように、すぐに砕けてしまいそうな微笑みを浮かべて尋ねた。
 「ねえ、フキちゃんのおじいさんとばあさんが亡くなったって……」
 四人は顔を見合わせた。
 「フキちゃんって誰? 」
 四人とも口々に聞き直した。
 「みんなも覚えていないの! 」
 「みんなもって、他に誰が? 」
 「フキちゃんと優梨愛ちゃんは、ずっと同じクラスだったよ! 」
 「ええ? そんな子あたし知らないけど……」
 「裕也君が去年のソロパートをできなくなったのも、フキちゃんが嘘をついて担いだことが原因じゃないか! 」
 「え、あれは僕が不用意にみんなのお弁当が食べたいって言ったからだったけど」
 佑は慄然とした。世界がフキちゃんの痕跡を、まるで無かったかのように消し去ろうとしている。
 「だって……、だってその遊び方を教えてくれたのもフキちゃんじゃないか…… 」
 「佑君、どうしちゃったの? 」
 「作曲塾上手くいかなかったの? 」
 熱い涙が佑の頬をつたった。
 「フキちゃんはフキちゃんだよ、嘘つきででも面白くて、とっても信頼できる僕らのお友達だよ! 」
 佑は駆けだした。思いつく限りのクラスの子たちの家を訪ねて走り回った。誰一人フキちゃんを覚えていなかった。校門からゆっくり出てきた水原先生でさえ、首をかしげて
「フキちゃん? 」と聞き直した。
 家に帰ればお父さんとお母さんにフキちゃんのことを尋ねた。二人にとってもフキちゃんはおなじみのお友達であるはずだったのに、二人ともフキちゃんを覚えていなかった。
 「それは佑の想像上の友達なの? 」
 お母さんは言った。佑はこらえられずに、二重瞼の優しい目からぼろぼろと涙をこぼした。
 「フキちゃんはフキちゃんだよ! 僕を担いだりからかったりしたけど、お友達を作ってくれたり泳げるようにしてくれたり、ソロのパートを取り戻してくれたりしたんだ。フキちゃんは本当にいたんだ! 」
 夕刻、両親と一緒にお舟送りを見る佑の頬はまだ濡れていた。
 去年と同じように幾艘ものお舟がパチパチと燃え、網膜を焼く花火を幾筋も吐き出しながら川を静かに流れて行った。それを見守る人々の親密な歓声も去年と同じだった。
 だが、佑の隣にフキちゃんはいなかった。家にも、町にも、誰の記憶にも痕跡を残さず、風のように、フキちゃんが愛したキャンドルの炎のように消え去っていた。
 「違うんだタスク、悪いのは全部フキコなんだ……、フキコが命で遊んだから……、おじいちゃんとおばあちゃんは消えない悲しみを負ったんだ……。前にも言ったろ、フキコの父上はシルフの王様なんだ。おじいちゃんとおばあちゃんの子供の命をとった罰として、孫として二人の寿命が尽きるまで人間として生きろって……。おじいちゃんもおばあちゃんも何にも知らないで、フキコを大事に可愛がってくれる……、二人が悲しむことを、取り返しのつかないことをフキコはしてしまったんだ……」
 佑は去年ここで聞いたフキちゃんの告白を思い出していた。
 「あれは、あれは本当のことだったの? 嘘つきフキちゃんが吐いた、一番信じられない嘘じゃなかったの? 」
 佑はお母さんにばれないように、小さくしゃくりあげた。
 ドドン、鼓膜を震わせながら大きな花火が揚がる。ああ去年、フキちゃんの濡れた頬を、赤や緑の火花が照らしていた。あの日焼けしてそばかすが浮かんだほっぺの下には、僕のと同じように血液が流れて熱を発していた。嘘じゃない、嘘じゃないんだ……、決して僕の妄想じゃないんだ!
 白い浴衣を着た女の子が通りかかるたびに振り返った。ずるいよフキちゃん、僕はまだちゃんとフキちゃんにさようならも言えていないのに……。

そうだ、風の歌だよ、音楽だよ!

 それから残りの夏休みを、どうやって過ごしたか佑はあんまり覚えていない。ただ周りに流されるまま、プールに行ったり公園に行ったり、宿題をしたりしたのだろう。
 作曲塾から帰ってくるまであんなにもまばゆかった夏は、すっかりと輝きを失っていた。元々北東北の夏は、お盆を過ぎれば急激に失速してゆく。弱っていく光を見ていると、なんだか自分が余生を送る老人であるかのよう感じられた。
 主を亡くしたフキちゃんの家は、おじいさんの遺言に従って町並み保存会に譲渡された。改修業者さんが入り、再来年をめどに「町家文化まなび館」という施設に生まれ変わるらしい。
 佑はいつも入り浸っていた、夏なおひんやりとしたフキちゃんの家の、居心地よく人の気配が沁み込んだ居間を思い出していた。障子やふすま紙にはおばあさんの淹れるカフェオレの香りがしみついていて、おじいさんがテレビを見ている時に横になっている畳は、いつも頭をのせるところが擦り切れていた。
 二人とも、今は骨になってお墓に眠っている。
 佑は白い百合の花をもってお墓を尋ねた。菩提寺は青松寺だと以前フキちゃんから聞いていた。「小鳥谷(コズヤ)」という珍しい苗字の墓石の後ろに、真新しい卒塔婆が並んでいた。一生懸命手を合わせる佑には、今自分の隣にフキちゃんがいないことが、フキちゃんがこのお墓に入ることが永遠にないということが、とてもむごく許せないことに思えてならなかった。
 フキちゃんが消えてしまったことよりも、その痕跡が誰の心にも残っていないことの方が、佑には耐えがたいことに思われた。「フキコのことはみんな忘れてしまうさ」フキちゃんの寂しい言葉が頭にこだまする。
 佑は、かつてここにこんな女の子がいたことを語り合い、白いかき氷にかける苺シロップのように甘酸っぱいもので、みんなの心を染め上げたかった。

 新学期が始まった。佑はうつろな気分で、半分以上をフキちゃんと仕上げた宿題と自由研究を提出した。
 「佑君、最近元気ないね」
 優梨愛が気づかわしげに言った。
 「心配だな。吉本君、何がどうしたっていうんだい? 」
 裕也も真顔で尋ねた。
 佑は頭の中でめいいっぱいに二人に対して言葉を尽くした。フキちゃん、フキちゃんがいなくなった、フキちゃんが消えてしまった、どうしてみんなあっさりと忘れてられるの? あんなにも楽しい僕らのお友達だったのに。
 だが佑の唇は力なく微笑んだまま、かすれ気味の声を発しただけだった。
 「大丈夫だよ、何でもないんだ。ちょっとうまくいかないことがあっただけだよ」

 「佑、ちょっと話があるんだけど」
 九月中頃の金曜日の晩、夕ご飯の片づけものを済ませたお母さんが言いだした。 
 「そこに座りなさい」
 お父さんも改まった調子で言う。佑はなんだか不吉な予感がして、猫背をなおさら折り曲げるようにしてダイニングテーブルに座った。
 「佑、東京の中学校に通う気はないかしら? 」
 佑は優しげな眼にこわばった光を浮かべて息を止めた。
 「佑が小学校を卒業するのを待って、東京に引っ越そうと思っているの。向こうの楽団で、とてもいい待遇の募集があって」
 「それに、佑の作曲家としての勉強にふさわしい教室があるんだ。佑、作曲塾から帰って来て、もっと本格的に勉強したいって言ってたじゃないか」
 「ええ、でもそれはオンラインでも……」
 「今から勉強すれば、ライバルにもいいアドバンテージが取れるだろ」
 「ええ……、でも、僕……」
 「とってもいいじゃない、将来音楽科のある高校に進むなら、絶対に有利に働くわ」
 そして二人は、引っ越しの計画や新しい物件探し、移籍する楽団の指揮者の話題で盛り上がり始めた。
 ああ、もうお父さんとお母さんの中では、この話は決まってしまっているんだ……、僕がいまさら何を言っても、どんなにお友達と離れたくないと訴えても、もうどうにもならないんだ、ありんこが坂道を転がるボールに立ち向かうようなものなんだ……。
 真っ先に優梨愛の顔が頭に浮かんだ。
 制服を着た優梨愛ちゃんと並んで中学校に行きたかった……。優梨愛ちゃんは大人っぽいから、きっと中学校の紺のブレザーは、とてもよく似合うんだろうな……。
優梨愛の制服の肩の上に乗った、桜の花びらを思い浮かべ、佑は黙って涙ぐんだ。
 外では電線の間に、誰にも言えない悲しみを歌う亡霊の声のような音を立てて、冬へと向かっていく風が唸っていた。

 佑はその報告を二週間ためらい続けた。先生がホームルームで話したことが、クラスメイトが佑の引っ越しの話を知る最初となった。
 「佑君、東京へ行っちゃうんだ……」
 ホームルームの後で、クラスの子供たちはみんな残念そうに佑を取り囲んだ。とりわけ優梨愛は、蒼ざめた顔いろで、サイドに流した髪の毛に隠れるように唇を噛んでいた。教室の一番後ろで、持ち物棚にもたれかけるようにうなだれている。
 「吉本君も大慶寺中学生に進学しないんだな」
 裕也が言った。
 「吉本君も? 」
 「うん、実は僕も、大慶寺中学校には進学しないんだ。おじいさまに申し出て、県北にある全寮制のインターナショナルスクールに進学することにしたんだ」
 「えええええ、裕也君も! 」
 クラスの子供たちの間に衝撃が走った。とりわけ佐々木さんや脇坂さん、野々宮さんや日向さんは、恋人に召集令状が送られてきた女性のように、驚きを通り越した悲痛な顔色で、裕也を見つめていた。
 「みんなバラバラになっちゃうんだ……」
 教室の一番後ろでうつむいたまま優梨愛がつぶやいた。佑はそのしお垂れたひまわりのような横顔を見て、思わず目を伏せた。
 大人になることの本当の意味は、僕が今まで考えてきたようなものじゃなかったんだ。それは壊れながら、何かを置いてきぼりに無くしながら、それでも前へ前へ進むしかないということなんだ……。

 去年よりもゆっくり、秋は進んでいった。今年は晴れの日が多く、明るい秋空の下には、心地よく乾いた風が渦を巻いている。
 「ここ何年間かで、大慶寺町の気候も大分温暖化したんだ。僕らが低学年の時よりも初雪も遅くなったし、雪の量もどんどん少なくなってきてる」
 そう裕也から聞かされた。裕也は付け足すように、
 「今年の秋風は何だかほんとに優しいよ。まるで秋の次にやって来るのは、厳しい冬じゃなくって春だっていうみたいに」
 と言った。それでも一週間遅れで霜が降り、子供たちの服装もどんどん厚着になって行った。
 合唱大会が終わった。六年二組は二位だった。去年のような圧倒的な一体感が得られなかったことが敗因だと、佑は分析した。分析したところで結果は変わらない。フキちゃんの言葉を思い出す。
 「この遊びはもうおしまいなんだ」
 佑はうつろな気持ちを抱えたまま、日々淡々と過ごしていた。心の中にぽっかりと穴が開いていた。その空洞は、そっくりフキちゃんの形をしていた。
 フキちゃんは、自分だけ脱落してきれいに消えたわけではなかった。フキちゃんは佑の中に根を張り、枝葉は佑の枝葉と絡み合い、消失のその日まで親密に支え合っていた。それが根こそぎ消えたことは、佑に半身をもぎ離すような、強い痛みを与えた。
 佑は作曲の試みをやめた。クラリネットの練習にも熱が入らなかった。お父さんもお母さんも、何があったか折触れて何度も尋ねたが、佑には一言も答えることが出来なかった。
 だってお母さん、『それは佑の想像上のお友達なの? 』って言ったじゃないか……。
 その言葉を胸の奥深く飲み込んで、佑は力なく微笑んで繰り返すしかなかった。
 「何でもない。今落ち込んでいることがよくなったら、きっとまた書くから……」

******************************

 
 十月中旬の土曜日、佑は川の向こうにある「アートスタジオ繭繭」を訪れていた。ここでお母さんがフルートを教えている中学生の女の子が、ちょっとしたステージに出るのだ。お母さんが用事で来られないため、代わりに花束とメッセージをもって演奏を聴いて欲しいとのことだった。
 佑は花束とメッセージを届けて、館内をぶらぶら観察して回った。蒼白い蛍光灯の光に、木目調リノリウムの床が冷たい輝きを放っている。ステージがあっても出入りする人はまばらだった。かつんかつんと響きわたっているのは、佑のブーツのかかとだけだ。
 中学生のお姉さんは、全国的なコンクールにも出場する予定だという。とても晴れやかな表情でフルートを吹いていた。佑には眩しく、直視できないほどだった。
 佑だって夏が終わる前までは、未来の方へと進んでいくのになんの苦痛も矛盾も感じなかった。夢と未来は佑にとって同義だったのだ。だが今は、どんな形であれ、未来の方へと進んでいくことが、苦しくてならないのだった。
 アートスタジオ繭繭にはステージが三つあった。ステージのあったメインホール(ほんの視聴覚室ほどの広さしかない)の他に、さらに小さなホールが二つ。一階のロビーの奥にはギャラリースペースがあって、市内の作家さんの作品が展示販売されていた。
 ギャラリースペースを見ていると、見覚えのあるイラストの便せんが陳列されているのを見つけた。水の衣をまとったウンディーネ、吊り上がって離れた目のシルフ。
 はっとして、佑は奥にしつらえられた椅子に座る人影を見た。チューリップのような黒い帽子と、くるぶしまで包み込む黒いウールのワンピースを着た若い女性が、置物のように座っていた。
 「あ、玲夜さん! 」
 佑は思わず声をかけた。あの「大慶寺てんど市」で知り合った、玲夜に間違いない。
 「あれ、君は? ああそう、大慶寺町で会った佑ってボンズだ。あの時は便せんを買ってくれてありがとう」
 「玲夜さん、今年はてんど市に出なかったね」
 「うん。留学していたんだ、イタリアに。ところで一緒にいたオナゴワラスのほう、フキちゃんは元気? あたしが描いたシルフによく似ている子は」
 佑は髪の毛一本一本が、電気を帯びてビリビリと震えるような心持になって目を見開いた。
 「フキちゃん! フキちゃんを覚えているの? 僕の大事な友達のフキちゃんを! 」
 「覚えてるって、覚えてるけど? どうしたの、それがそんなにびっくりするようなこと? 」
 玲夜はいぶかしむかのような口調でそう言って、唇をすぼめた。佑は叫んだ。
 「玲夜さんだけなんだ、僕の他にフキちゃんを覚えているのは! 」

 一時間後、ギャラリースペースの閉店を待った佑は、「アートスタジオ繭繭」の隣にある、老舗喫茶店ママンの木製の椅子に、玲夜と向かい合うようにして座っていた。玲夜はスパイスミルクティーを頼み、佑の前にはクリームソーダが置かれていた。街ゆかりの版画家の描いた絵が飾られる、白壁のくすみ加減もレトロな店内には、「アイネクライネナハトムジーク」が軽やかに流れていた。
 「じゃあフキちゃんは、君の心の中にだけしか痕跡を残さずに、風のように消えてしまったの? 」
 玲夜がにわかには信じられないという面持ちでこう聞き返した。佑は大真面目にうなずいた。少しだけ勇気が湧いてきているのは、自分の他にもフキちゃんを覚えていた人がいたからだろう。思いもかけない所で味方に出くわしたような気分だった。
 「そうなんだ。友達の心の中にも、学校の記録や写真の中にさえも、フキちゃんはその存在のかけらさえも残っていないんだ」
 そして佑は、去年のお舟送りの時に聞いたフキちゃんの告白を、ためらいながら伝えた。フキちゃんの罪に関わることだったので、なんだか勝手に話していいものだか迷ったが、これを伝えないと話の信憑性がなくなると思った。玲夜はスパイスミルクティーにも唇をつけずに、黙って聞いていた。
 「でも、どうして玲夜さんと僕だけフキちゃんのことを覚えているんだろう? 」
 「それはたぶん、フキちゃんが自ら正体を明かしたのが、あたしたち二人だったからだと思う」
 レイヤは冬の星のように輝く目に、思慮深い色を浮かべてそう言った。
 「精霊というものはとても義理堅いんだよ。約束ごとや誓いに沿って生きている。多分フキちゃんもそうなんだとおもう」
 アイスの上のチェリーを見つめた後、佑はぎゅっと目を閉じた。
 「僕はみんなにフキちゃんを憶えていて欲しいんです。みんなでフキちゃんの思い出のことをおしゃべりしたいんです。それで僕は初めて、フキちゃんが確かに僕の隣にいたことを、手で切り株の形を確認するように、ざらざらの樹皮とか、切り口のまだ乱れた手触りとかを感じるみたいに信じられるんです」
 「そうねえ……」
 玲夜はスパイスミルクティーをひとくち含んでため息をついた。
 「そう出来るようにするためならどうすればいいかなあ……どういう約束で、フキちゃんは動いているのかなあ? 」
 その時喫茶ママンに流れる「アイネクライネナハトムジーク」が、チャーミングな余韻を残して終わり、夜の女王のアリア、「復讐の心は地獄の炎と燃え」が、軽やかで短いイントロとともに始まった。良く磨かれた鋼のように輝くソプラノの歌声が、高音と低音とを自在に行き来している。
 ……風の歌を作ってよ……。
 佑の中で記憶の引き出しが鮮やかに開いた。
 春、桜が散って花弁が渇くころ、マンションの窓に踊っていた暖かな光、フキちゃんの目に灯っていた生き生きとした輝き、座ったままにじり寄った時に余計にしわくちゃになってしまった青いスカート……。
 「タスク、タスクの初めての大作が発表されるときには、何をおいても駆けつけてあげるからね。世界が違っちゃっていてもきっと」
 佑ははっとして立ち上がった。
 「そうだ、風の歌だよ、音楽だよ、玲夜さん、フキちゃんはあの時確かに僕と約束したんだ! 音楽だ、音楽だ! 」
 「音楽? 音楽って? 」
 玲夜は戸惑って眉をひょこんとあげ、急に立ち上がった佑を見上げた。佑の頭の中ではもう、風をモチーフにした短いフレーズが、渦を巻くようにあふれ出していた。

 玲夜に丁寧にお礼を言って、佑は急いで家路についた。家に帰ると真っ先に白い五線譜を取り出した。それと鉛筆を一本持って、ピアノの前に座る。
 目を閉じてピアノの一番低いファの音をたたいた。低い所に渦を巻いている風をイメージしてトリルの音を選んでいく。それがどんどん明るい日差しに温められて、砂粒や花弁や木の葉や人々の帽子を持ち上げながら、空高く舞い上がっていく。
 この晩佑はメインテーマを、荒彫りするように削り出した。

みんなを巻き込もう

 その日を境に、佑の表情には活気が戻った。真っ先に優梨愛が気が付いた。
 「あれ佑君、何かいいことあった?最近ずっと元気なかったから……」
 まだ二人しかいない教室で、優梨愛はもじもじと髪をいじった。佑は数か月以来の澄んだ眼差しで、優梨愛に力強く答えた。
 「うん。いいことっていうか、今の自分にできることを見つけたんだ。ちょっとでもいいから未来を変えたいんだ。もし僕の計画がうまくいったら、優梨愛ちゃんにもいいことが起こるって思う」
 「それは東京に越していくのと関係があること? 」
 「いいや、違うけど……」
 優梨愛は、輝きかけた顔をまた曇らせてうつむいた。
 「でも大丈夫、この曲が出来れば、絶対優梨愛ちゃんも幸せな気分になれるから! 」
 「曲? 」
 佑は顔を染めながら強調した。優梨愛は不思議そうに佑を見て、シェルティー犬のように知的な目をぱちぱちさせた。
 やがて佑の試みは急激にクラスの子供たちの間に広がって行った。
 「佑、作曲してるんだってよ」
 「人生初の大曲なんだって」
 「へえ」
 「で、どうするの? 」
 「さあ」
 「誰が演奏ずるの? 」
 「さあ、知らねえ」

 土曜日の午後に、佑は喫茶ママンで玲夜に状況報告をした。
 「作曲は急ピッチで進んでいるんだ。冬休みが始まるまでには、何とか全てのパートの譜が完成すると思う」
 佑は曲を十分間のラプソディーに仕上げる心づもりでいた。まだまだ理論に明るくなく、自由で短い形式にした方が足がつらないと思った。
 玲夜はパフェの上のチェリーを口に放り込んで眉をしかめた。
 「ねえ、佑、創るだけじゃだめだ。フキちゃんは君の大作が『発表されるとき』、って言ったんだよね。どこにそれを演奏してくれるオーケストラがいるの? どこで舞台を調達できるの? 報酬はどうするの? そして演奏者とステージを確保したところで、それまでに練習して初演に備えなくてはならない 」
 佑はぐっと息をのんだ。そこまでのことは考えていなかった。ただいい曲が出来れば、フキちゃんが会いに来てくれると信じていた。
 「演奏する楽団……、演奏するステージ……」
 「ねえ、佑、クラスの子たちを巻き込んでみる気にはなれない? 君たち6年2組全員で、君の作曲した曲を演奏するんだ」
 「6年2組全員で? 」
 オウム返しの佑の言葉に玲夜が力強くうなづいた。
 「うん。もしこの試みが成功すれば、クラスの子たちもフキちゃんの帰還を目撃することになる。君が言うようにフキちゃんを忘れないでいられるようになるかもしれない」
 「僕、そうやってみます」
 「まだまだ話は終わっていないよ」
 食い気味に返した佑を玲夜が手で押しとどめた。
 「どうやって誘うつもり? クラスメイトとはいえ他人を巻き込むには、きちんとした説明が必要だよ。なにせこれは相当な練習が積めなければ笑い話にもならない。仮にも『作曲家吉本佑初演』だ。練習のために時間と労力を注ぎ込んでくれるだけの、説得力のある説明はどうするの? それに演奏会というからには、観客も呼ばなくてはならない。それを可能にする理由、嘘でもいいからみんなをひとまとめにする理由が必要になる」
 佑はごくりと息をのんだ。猫背をなるべく伸ばすように深呼吸しながら、佑は小さな声ではっきりと言った。
 「きちんと考えてみます」
 この日も佑は、玲夜に丁寧にお礼を言って別れた。

 佑はピアノのところに置きっぱなしの五線譜の前に座って、腕組みをした。
 「クラスのみんなを説得できるだけのきちんとした理由……」
 うーんと唸りながら頭を絞る。佑の頭は、こういうことを考えるのには向いていなかった。
 フキちゃんならそんな理由を考えつけるぐらい朝飯前だったろうな。佑は苦く微笑んだ。嘘つきのフキちゃんを取り戻すための嘘、僕には荷が重い……。
 佑は一時間以上、ピアノの前に座って雲をこねくり回すように考えを巡らせていたが、結局いい案は浮かばなかった。


 月曜日、帰宅する時裕也が誘ってきた。裕也と肩を並べて、長い漆喰塀の前を歩いた。
 晴れているのに気が塞ぐような寒さだった。十一月初めの大慶寺町はすっかりと冬枯れていた。青々としているのは、寺の塀の上にのぞく黒松の葉ぐらいなものだ。作務衣を着た若いお坊さんがザッッザッと言う音を立てて、塀の前に降り積もった枯葉を掃いていた。
 どこかの犬が、松ぼっくりをくわえて歩いている。その息遣いにも、その口元に滴るよだれの色にさえも、うら寂しい冬の気配がひそんでいる。
 「吉本君、作曲は進んでる? 」
 「うん。そっちは順調なんだけども……」
 「『そっちは』? 」
 「うん。僕の試みは、作曲だけでは済まされないらしいんだ。どこかに、僕の曲を演奏してくれる人たちがいないと駄目らしい。この前、相談に乗ってくれているお姉さんに、クラスの子たちを巻き込んだら? って言われたけど、そうするだけの理由も嘘も思いつかなくて……」
 「ねえ、君がそこまでして自分で作曲した曲の演奏にこだわる理由は何なんだい? 」
 裕也は真剣に佑を見た。
 「取り戻したいクラスメイトがいるんだ」
 「僕ら六年二組は一人も欠けていないよ」
 「いいや欠けている。みんな忘れているだけだ。僕は命だって賭けてもいいよ! 」
 佑の白い顔は目の周りが赤く気色ばんでいた。裕也は真剣な眼差しのまま少し微笑み、すっかり大人びた低い声音で囁くように言った。
 「興味深いね、実に興味深い。吉本君がそこまで言い切るんなら、案外嘘や妄想じゃないかもしれない。僕らみんな何かのペテンにかけられているんだ」
 佑は目の周りを染めたまま黙ってうなずいた。
 「君がそこまで取り戻したいお友達なら、僕もみんなもきっと思い出した方がいいね。僕らのためにもなることならば、僕が喜んでお手伝いしよう。
 でも、吉本君、何も嘘を吐く必要はないよ。みんなを真正面から巻き込もう。僕らは一丸となって、忘れてしまった大切なお友達を取り戻す作戦を遂行するんだ。信じない子は賭けで釣ろう。演奏が成功した果てに見えるものを賭けてみようよ」
 「裕也君……」
 佑の声は震えていた。
 「ちょっとおじいさまに相談してみよう。演奏ステージの都合とかを考えるために。出来るだけ早く、いい知らせを持って来るから、吉本君は頑張って作曲に励んでくれたまえ」
 裕也の整った頬骨に、赤く血の色が差していた。佑はほとんど涙をこぼしそうになった。
 「でもどうしてそこまでしてくれるの? 僕は裕也君には何一つ返せないよ」
 「いいや、僕はもういっぱい受け取っている。吉本君、君は去年の合唱大会の日、僕に言ってくれたよね。『君のおじいさまがそう言っているからって、君も絶対にそうしなければならないっていうことはないんだ』って。僕のことかっこよかった、っても言ってくれた。それで僕は目が覚めたんだ。おじいさまの言うなりじゃなくって、その支配から脱出したいんだって。君の言葉が背中を押してくれて、インターナショナルスクールに進学する意思も伝えられた。本当に感謝しているんだ。
 ねえ、聞いて、僕のお父さんはひたすらおじいさまの言いなりになって生きて来たんだ。おじいさまの選ぶ学校へ行って、おじいさまの後を継ぐために会社へ入った。おじいさまの選んだ名門の、自分を愛してくれない女性と結婚して、自分の家に居たって少しも居場所がない。僕はお父さんみたいな人生は送りたくないんだ。その為の勇気を、君はくれたんだ」
 「裕也君……」
 佑の眼からは、堰を切ったように涙がこぼれた。裕也のいつもスマートに作った表情も、こみ上げる感情に押し上げられるように崩れた。裕也は尋ねた。
 「ねえ、僕らが忘れているお友達の名前を教えてくれない? 」
 「風姫子、フキちゃんだよ」

******************************

 裕也の申し出に背中を押されて、佑は作曲に熱を入れた。
 どうやら六年二組を動員して、佑のラプソディーを初演することにまとまりそうなので、佑はすべてのパートをクラスの子供たちが演奏できる楽器のものに変えた。必然的に子供たちが、普段音楽の時間に使っている楽器がメインになる。
 通常のオーケストラの主力、ストリングスの代わりに、ピアニカを何パートかに分けて入れてみよう。音の大きさの調整は難しいけれど、本物のストリングスの滑らかさを再現するには、一番適しているはずだ。
 主なメロディーラインは縦笛であるリコーダーにしよう。笛ならフキちゃんがこだわっていた風の音が出せる。シンフォニーに深みを出すために、普段みんなが使っているソプラノリコーダーだけでなく、中学校から使うアルトリコーダーもワンパート入れてみたい。上に兄弟がいる子は、お兄さんやお姉さんから借りられないかな。 
 佐々木さんにはピアノで頑張ってもらうつもりだし、野々宮さんには是非ともギターを弾いてもらいたい。佐々木さんならきっとどう作っても、完璧に演奏してくれるだろう。問題は野々宮さんだ。ジャンルが違ってロックなんだよな。クラッシックギター風のパートだったら戸惑うかな。そうだ、最初から野々宮さんが得意なように、その演奏スタイルをイメージして作曲してみよう。
 それから焔君たち三人が、地域のブラスバンドに入っているんだった。それも金管の花形、トランペットにトロンボーン、そしてシンフォニーに必要不可欠な重低音を出すチューバだ。チューバの存在は大きい。きっと曲の安定感がぐっと増す。トランペットやトロンボーンも、金管らしい華やかな響きが加わるのが嬉しい。これで真ん中ら辺に入れたいと思っていたファンファーレも可能だ。
 それに人間なら誰しも備えている天性の楽器、声もある。作詞なんかとてもできないけど、ホルストの「水星」のように、歌詞のない母音だけのヴォーカリーズが大きな役割を担う曲もある。声のいい子たちには是非とも、ヴォーカリーズで輝きを放ってもらおう。
 問題は打楽器だ。音楽室に保管してある太鼓や鉄琴やティンパニーは使えるだろうか? もし使えても、パーカッションというものは案外複雑で忙しい。ティンパニーを震わせたと思えばシンバルを打ち鳴らし、頃合いを見計らってトライアングルを叩かなければならない。習熟するだけの練習は積めるだろうか?
 そして僕が担当するクラリネットだ。フキちゃんとの約束を守るには、クラリネットのソロがないと駄目なんだ。僕が目立ちたいとかそう言うことではないよ。クラリネットが「風の歌」を奏でたときに、初めてフキちゃんとの約束を果たしたことになると思う。フキちゃんがみんなの前に、姿を現さずにはいられないほど素晴らしい曲にするには、半端なパートで済ませられるはずがない。
 佑は一人メロディーを磨き、異なる音が組み合わさった時の響き、そのバランス、リズムとテンポと強弱を頭の中にめぐらせて、五線譜に音符を書き込んでいった。

 木曜日、帰宅する裕也は緊張した顔をして言った。
 「吉本君、今週の土曜日、僕の家に来られない? あれからおじいさまに色々とお願いしたんだけども、おじいさまが是非君に会いたいって。君に会ってみて、そのおめがねにかなえば協力するって言い出したんだ」
 佑は裕也のおじいさんの、鋭角的な顔に浮かんだ怒りの表情を思い返して、手足が冷たくなるのを感じた。
 「おめがねにかなえばって……、僕で大丈夫かな? そもそも、君のおじいさんに嫌われていないかな……」
 裕也は鼓舞するように、力強くほほ笑んでみせた。
 「吉本君ならきっと大丈夫……」

佑一世一代の勝負

 土曜日、裕也が佑のマンションまで迎えに来た。佑は一番仕立てがよくて新しく清潔な普段着を着て出かけた。
 裕也の家はフキちゃんの家のある三叉路を反対側に曲がって、大きな通りを川に背を向けて進み、少し小高くなったところにあった。
 屋敷を囲む広い庭園には、紅葉やイチョウ、つつじや松の木が鬱蒼と植えられていた。下草は柔らかい芝で、木々から降った落ち葉は寂しくなるほどきれいに掃きとられていた。
 邸宅は石造りの洋館だった。佑に建築の知識はないので、どういった様式に分類されるものなのかよくわからないが、四角く、重々しく、飾り気が少なく、鈍い灰色の、頑固な老人を思わせる建物だった。裕也が両開きのドアを開ける。
 佑は裕也の招きで中へ入った。靴脱ぎ場は外壁と同じ灰色の石で出来ていた。それは佑の目に、百年の脱ぎ履きの歴史にうんざりしているように映った。
 裕也の帰宅を知った使用人らしい男性が、裕也の祖父の待つ応接室へと案内した。玄関ホールから廊下へと、ニスでよく磨かれた木の内装が続いている。応接室は玄関から左に歩いてすぐのところにあった。
 使用人が恭しくドアを開けると、グレーのスラックスの上にアラン模様の黒のニットを着た裕也のおじいさんが、腕組みをして窓を眺めていた。
 裕也のおじいさんが眺めている窓には、生い茂っている樹木が葉を落としているために、蒼空ががらんと広がっていた。壁際ではよく使いこまれた大理石の暖炉が赤々と燃えていた。紺色の厚手のセーターを着た佑の背中に一気に汗が湧いた。半分以上は緊張からくる汗だった。
 「おじいさま、僕の大切なお友達の吉本佑君だよ」
 裕也が声をかけた。裕也の祖父は「うん」と言って、深く息を吐き、腕を組んだまま佑たちに向き直った。そうして頭の先からつま先まで佑を眺めた。着ているセーターの素材やズボンの値段、洗濯は毎日しているかどうか、寝癖の付き具合とか、それを直そうとする意志があったかどうか、そういったことをすべて値踏みするような眼差しだった。
 ああ、やっぱりこの人僕のこと好きじゃないよ……。
 だがここで引くわけにもいかない。佑は、生まれたての小鹿のようになりそうな脚に力を込めて、礼儀正しく頭を下げた。
 「吉本佑です。どうぞよろしくお願いします」
 「裕也の祖父の泉谷嘉一郎だ。まず、座りなさい」
 裕也のおじいさんは、応接室のマホガニー製のテーブルセットを佑にすすめた。後ろからついてきた使用人が椅子を引き、佑は素直に席に着いた。その右脇に裕也が座った。裕也のおじいさんは窓を背負って、佑と向かい合うように腰かけた。
 ロココ調の柄のティーセットが運ばれてきて、ミルクティーとザッハトルテが、佑たちの前に静かに置かれる。
 「作曲をしているんだってね」
 鋭い目に、根掘り葉掘り疑うような表情を浮かべて、おじいさんは言った。佑はごくりとつばを飲み込んだ。
 「はい」
 「裕也は私の力で六年二組にステージを用意して欲しいと言う。そこまでして取り戻したいお友達とは誰だ? 記録にも記憶にも残っていない子供など」
 「フキちゃんは絶対にいたんです。僕だけは覚えています。裕也君は、みんなも思い出すべきだと言ってくれたんです」
 裕也のおじいさんは眉間の縦皺を深くした。
 「裕也は随分と君に入れあげているようだ。今この子は大切な時期でね、インターナショナルスクールが始まるまでに、完璧な英語力を身に付けないといけない。学校の勉強をさぼってでも、英会話を学ばなくてはならない。そんな時に、ただの小学生の作曲する曲を演奏する手助けだと? 笑わせる」
 佑はしくしく痛くなってきそうな胃袋を、一生懸命になだめながら、冷や汗のにじんだこぶしを膝の上で握り直した。
 佑は全くの無策でここまで乗り込んできたわけではなかった。用意してきた言葉ならある。それを言うなら今だ。
 「おじいさんにとっても、そんなに笑える話ではないともいます」
 佑の声は震えていたが、地下で大地を支える岩盤のように強固な力が込められていた。裕也のおじいさんが出っ張った眉骨の下から鋭くにらみつける。佑には自分の体が凍ったアスファルトにでもなったように感じられた。しかし、心臓はぎゅんぎゅんと音を立てて、ポンプの役割を果たそうと必死に血液を送り出している。
 「僕は自作曲の初演で、裕也君に指揮者をしてもらおうと思っています」
 裕也のおじいさんの鋭い鼻がぷふっと膨らんだ。脇から裕也が声をあげた。
 「何言ってるんだい、駄目だよ! 吉本君、何でも聞いた話だと、ベートーベンは耳が聞こえなくなっても、初演の舞台では指揮台に上がったそうじゃないか。吉本君の曲だろ、吉本君が指揮をするべきだ」
 「いいや裕也君、僕はクラリネットのパートを担当しなくてはならない。フキちゃんがそれを望んでいると思う。クラスでクラリネットが出来るのは僕だけだ。それに君は六年二組のリーダーだろ? 指揮者にふさわしいのは裕也君だよ。持ち前のリーダーシップでみんなを引っ張って行けばいい! 」
 裕也は持ち上げられたのにおろおろと、胸の前で腕を振った。反対に裕也のおじいさんは、俄然顔色が明るく、眼の光も生き生きとしてきた。
 「裕也が指揮、裕也が主役の指揮者……、うむ、面白い、なかなか面白い……」
 「僕に音楽の良しあしなんてわからないよ」
 「大丈夫、僕がコンマスとしてサポートするから。音楽的な方向性は示すよ。裕也君は、一番前で僕らをまとめて釣りあげて、勢いよく引っ張って行けばいいんだ」
 うろたえる裕也を佑は説得した。裕也のおじいさんは、その濁りかけの目の中に、楽しい想像をいっぱい巡らせたらしく、熱燗にありついた吞兵衛ようなほくほく顔になってこう言った。
 「よし、分かった! 君の曲をステージにかけよう。裕也が指揮台に上ることが条件だ。君はなかなかできる子らしいね。さすが裕也の友達だ。ただし、私の方で一つ条件をつけよう。君たち六年二組は、全校児童と父母全員の前で演奏するんだ! 全校児童の前で指揮台に上る裕也、ふむ、面白い」

 裕也のおじいさんが部屋を出て行ってしまってからも、裕也は佑と一緒に残って、ザッハトルテを食べながら話をした。
 「ねえ、ほんとに僕に指揮者なんてできるかな? 合唱のソロは、歌い方が分かっているから困惑しないけれど、指揮なんてどうすりゃいいのか見当もつかないよ。ピアノ習ってるから譜は読めるけど、指揮者の見るスコアって、ものすんごく何段も重なってるんだろ? 頭の中が混乱しそうだ」
 「大丈夫だよ、裕也君は、楽しい曲調の時は楽しい気分で、悲しい曲調の時は悲しい気分で、それを表情と身振り手振りに出して、心の中で歌えばいいんだ」
 そんなやり取りをしていると、やけにしっとりとしたノック音が響いた。ドアを開けて入ってきたのは黒っぽい紬の着物を着た裕也の母親だった。
 彼女は面長な顔に艶っぽい笑みを浮かべていた。涼し気な目元には淡い朱鷺色の化粧を施し、細く高い鼻梁には毛穴の存在を感じさせないほどきれいに白粉を塗っている。佑はどこかにお出かけに行くのかなと思った。
 「あなたが噂の吉本君ね。裕也は最近あなたの話ばかりしているわ。作曲をしているって? それに、おじいさまから聞いたけど、裕也に指揮者をさせてくれるんですってね」
 そう言って、裕也の母親は、しゃちほこ張って両膝に置いた佑の右手に、桜色のマニキュアを塗った柔らかい手を重ねた。佑の白い耳元がかっと火の色になった。
 「お母さん、吉本君を困惑させないで。そうやって誰彼構わずからかおうとするんだから」
 裕也の声は、切り出されたばかりで、下手に触ると指を切ってしまいそうな鉄板のように、とげとげとしていた。佑ははっとした。普段学校にいるときには絶対に見せない顔だった。実のお母さんにこんな冷たい声を出すんだ……。
 「はいはい、分かりました。息子って冷たいわね。女の子を産めばよかった」
 そう言って笑いながら、裕也の母親は佑の手を離した。急にひっこめるわけにもいかず、佑は膝の上で両手を握り直した。
 「琴子さん、ここにいたの? 探しちゃったよ」
 そう言いながら、今どきの若者風の黒っぽい上下を着た青年が入ってきた。顔立ちは彫りが浅かったが、背が高く脚が長かった。
 「あら、ごめんなさい」
 裕也の母親は、秘密めいた眼差しを彼に向けてくすくすと笑いながら出て行った。青年は、裕也と佑にあざけるような微笑みを向けた。裕也の両肩から、苛立ちの陽炎がゆらゆらと立ち昇るのを、佑は感じ取った。
 「じゃあね、裕也君、お友達とゆっくり話しているといいよ」
 二人の足音が遠ざかってしまってから、佑は地雷を踏んでしまうのではとはらはらしながら、裕也に尋ねた。
 「あれは誰なの? 」
 「お父さんのお姉さんの息子……」
 それっきり裕也は黙り込んだ。心の中で、油断していると荒ぶってくる何かと格闘しているような沈黙だった。佑ももはや、どう話しかけていいものかわからず黙っていた。
 やがて窓の向こうに、裕也の母親と従兄の姿がのぞいた。くっついたり離れたり、手を握り合ったり肩をぶつけあったり、くすくすと忍び笑いを響かせながら庭を歩いている。その傍若無人さは、佑を一層困惑させるのに十分なものだった。
 そして佑は見た。西の棟のテラスに、カゲロウのように痩せた裕也のお父さんがいる。彼の眼は庭を行く妻と甥に注がれていた。右手に火の付いたタバコを千切れるほど握りしめ、歯ぎしりの音が聞こえてきそうなほど歯を食いしばっている。
 「ねえ、びっくりしているだろ? 二人のこと、お父さんだって知ってる。おじいさまだって……伯母さんとあいつは、おじいさまのお気に入りだから、何をしたって許されるんだ。でもお父さんは……」
 「じゃあ、あの従兄のお兄さんと君のお母さんは……」
 裕也の目は潤んでいたが、絶対に涙をこぼさないという意思で、引き締まった光をたたえていた。裕也は唇を結び直して言った。
 「僕はできるだけ早く、この家を出たいんだ。そしておじいさまの敷いたレールをはみ出して、自分の道を行きたい」
 「裕也君ならできるよ。だってかっこいいもん。僕も応援するから……。寮に入ったらメールしてね。スマホが駄目だったら手紙書いてよね」
 他に何と言葉を発したらよかったのだろう? 学校ではあんなにも華々しい裕也の家の事情が、自分の家とあまりにもかけ離れていて、佑は当たり障りのない無難なことしか言うことが出来なかった。裕也の気持ちを思い描いてみると余計に、下手な慰めしか出てこない。ああ、フキちゃんともこんなことがあったと、佑は思った。
 ありきたりの言葉に精一杯の心を込めてかけると、裕也の表情は、束の間荷物を解いた旅人のように柔らかくなった。
 「ありがとう。僕、指揮を頑張ってみる」

練習が始まった

 佑の初めての大作曲が演奏されるステージは、卒業式のすぐ後に開かれることに決まった。卒業生と在校生、出席した父母たち教員たちの前で、六年二組によって佑のラプソディーは初演される。
 裕也のおじいさんは、校長先生や父母会、OB会に渡りをつけて承諾させた。
 意外にもこの試みに異を唱えるクラスメイトはいなかった。このメンバーで行う最後の、大きく有意義な行事として受け止められた。
 最もフキちゃんの存在に関しては、皆が皆信じて同意したわけではない。だが信じない子も信じないなりに、それを楽しんで乗りこんで来た。そしてもし、フキちゃんという子が本当にいたら、それはそれで、特別でドラマチックな成り行きとなるではないか。
 「佑、早く曲創れよな。俺たち練習したくてうずうずしているよ」
 「あたしはどのパートに配置されるの? 」
 「ねえ、本当に『フキちゃん』が来たらどうしよう! 」

 佑は作曲に熱をあげた。勉強がおろそかにならないことが、お父さんとお母さんが課した条件だったので、睡眠時間と遊ぶ時間を削った。動画やテレビを見てぼんやりするなどもってのほかだった。
 ひたすらピアノに向かい、音を鳴らしながら、十四のパート全ての分の譜作りに熱中した。
 その内訳である。第一ピアニカ、第二ピアニカ、第三ピアニカ、ソプラノリコーダー、アルトリコーダー、ピアノ、ギター、トランペット、トロンボーン、チューバ、ヴォーカリーズ、パーカッション、そしてクラリネット。
 全ての音色がなるべく立体的に響くよう、佑は想像力を巡らした。なにしろ、こんな編成で作曲する作曲家は皆無のはずだ。前例がないのですべてを想像で賄うしかない。
 ピアノを叩いてみるだけで飽き足らず、クラリネットを試し吹きしてみたり、ピアニカやリコーダー、お父さんのギターを鳴らしてみたりする。
 佑が孤独に音符と格闘している間にも、刻々と季節は移り替わって行った。晩秋は音もなく過ぎ去り、更に静かに、全ての音を飲み込んでしまうような冬がやって来た。
雪が深々と降り積む夜、氷点下の外気に浮かんだ、暖かい泡のような部屋の中で、佑はピアノを叩きながら、フキちゃんの想い出の数々を頭にめぐらせていた。
 自己紹介代わりに嘘をついたフキちゃん、叱られても仲間外れにされても、ふわふわにこにこと笑っていたフキちゃん、どんなに難しい勉強でも朝飯前で、でも楽譜の通りに歌うのだけは難しかったフキちゃん、平気で噓をつくのに、友達との約束ならどんな場合でも裏切らなかったフキちゃん、そして「全てフキコが悪い」と泣いていたフキちゃん……。それらのフキちゃんは、フキちゃんが愛したキャンドルの炎に鮮やかに照らされるように、くっきりと佑の中で像を結んでいた。
 それなのに、イメージは鮮烈なのに、それを具体的な音にしようとすると、キャンドルの炎はすうっと闇に消えてしまうのだ。赤々としていたフキちゃんの頬っぺたも鼻ぺしゃな横顔も、音に落とし込めるような手触りがつかめなくなる。佑は必死に心をさらい、絞り出すように音を紡いで譜に書き込んでいった。
 どの音を鳴らせば、どの楽器を使い、どんなハーモニーを奏でれば、フキちゃんのイメージに近づけるのだろう? 転調を操るには、メロディーラインを変奏させるには、どういう技術が必要なのだろう?
 佑は勉強不足を強く自覚した。ああ駄目だ、全然足りない……。頭の中に渦を巻いているフキちゃんのイメージを具体的な音にするのに、この知識と技術だけではお話にならない。もっと、もっと上手くなりたい、音楽について深く勉強したい! 
 本当に不本意ながら、佑は東京で作曲塾に通う必要性を強く感じた。自分の未来を切り開くにはそうするべきなのだ。居心地の良いこの町から旅立たねばならないのだ。
 佑は大慶寺町の古びた街並みと、優梨愛の顔を頭に浮かべた。ああ、この町は、僕の未来への中継地点だったんだ……。この先の未来は、ここを巣立ったところにしかないんだ……。

 冬休み前の最後の週、佑のラプソディーは完成した。
 散々手直しして、もうこだわることが出来ないところまでこだわりぬいた。これを改作できるとしたら、今よりもはるかに高いレベルにあって、登り切った山を易々と見下ろすことが出来るようになってからだろう。
 佑は出来上がった曲を、ガーシュウィンの「ラプソディーインブルー」に倣って、「ラプソディーインウィンド」と名付けた。
 フキちゃんとの約束から、曲名に「風」という言葉をどうしても入れたかった。

 すぐに学級会議が開かれ、みんなの意見を尊重する形で、佑が担当の楽器を選んだ。
 結果、ピアノは佐々木さん、ギターは野々宮さん、トランペットは焔君、トロンボーンは熊谷君、チューバは軽石君に決まった。第一第二第三ピアニカ隊には唯葉さんをリーダーにそれぞれ三人ずつ、リコーダーは優梨愛をリーダーに、ソプラノリコーダーが四人、脇坂さんを含むアルトリコーダーが三人。ヴォーカリーズは日向さんたち三人、パーカッションには猿橋君が当たった。もちろんクラリネットは佑で、指揮者は裕也だ。
 皆面白い祭りの準備でもしているように、目をキラキラさせていた。練習して音を合わせてみるのが待ち遠しくてたまらないみたいだった。
 早速練習が始まった。
 各パートに最低一人は配置されている、譜読みの得意な子たちを中心に、音取りが行われた。佑はあちこちのパートを回って、必要なアドバイスをした。
 「ここと次節のところは、なるべく一続きに聞こえるように」
 「ここはメロディーラインの上をすべる音だから、上ずっているように聞こえて当然なんだよ」
 「ここはシンコペーションでちょっと難しいリズムだけれど、頭に一拍飛び出す感じで」
 意外なことに、猿橋君はパーカッションに素晴らしい適性を見せた。まだ音合わせもしていないのに、彼はあくびを連発しながらも、次々とやって来る、あちこちの打楽器を叩くタイミングを決して間違えなかった。
 ピアノの佐々木さんは安泰だった。演奏技術はゆるぎなく、初見で音取りを済ませ、初日から佑に音楽的な質問をした。彼女の音は、クラスの子供たちに安心を与える骨格として作用した。
 野々宮さんの音取りも早く終わった。ロックとクラッシックの違いにも、佑の「野々宮さんをイメージして作ったから、思うように弾いていいよ」の一言に安心し、のびのびとアルペジオを奏でた。
 金管楽器三人衆も、元々演奏し慣れた楽器である、スムーズに音取りを済ませ、管楽器同士で合わせ始めた。
 リコーダー部隊も比較的スムーズに行った。元々メロディーを担当するのが主だったので、音取りは楽だったのだ。優梨愛をリーダーとして着々と練習を進める。
 ヴォーカリーズ担当も、歌い慣れた合唱の延長線上で、歌唱力に定評のある子供たちを選んだこともあり、すんなりと音取りまで終わった。
 苦戦したのはピアニカ隊だった。実は重要なハーモニーを奏でるパートであったために、思いもかけず難しい音階になってしまっていたからだ。
 上にも上らず、下にも下がり切らない中途半端な旋律を、佑は繰り返し繰り返し指導した。
 「君たちのパートは、本物のオーケストラで言ったらストリングス、和声の肝心かなめのパートなんだ。花形だよ。ここが決まらないと演奏が総崩れになる。難しいのは需要なパートだからだと思って頑張って」
 几帳面な唯葉さんを中心とした粘り強い練習で、ピアニカ隊も徐々に音を覚えて行った。
 佑は裕也の指揮の指導も行わなければならなかった。ラプソディーは四分の二拍子だったが、部分的に変拍子が採用されていた。佑はまず歌いながら自分がやって見せて、裕也に覚えさせた。体で覚えるほうが早いと踏んだのだ。頭のいい裕也は呑み込みも早く、まるで自分が作り出した曲であるかのように、堂々と腕を振り、頭をゆすった。

 冬休み前の最後の日、初めての全体音合わせが行われた。
 初めて通しで曲の全容が現れたとき、クラスみんなは興奮で顔を赤くした。
 「佑君すごい! どうしてこんなメロディーが湧いてきたの? 」
 「俺の出したこの音が、こんなシンフォニーになるんだ。すげえ、かっこいい! 」
 「最後に六年二組のみんなで、こんな曲を演奏できるんだ」
 「これなら『フキちゃん』も絶対に来てくれるよ」
 当の佑も、頭の中で響きを想像していただけだったので、実際に演奏される曲を耳にして、興奮を抑えきれなかった。思わず涙がこぼれそうになった。
 「みんな、ありがとう、僕のこんな勝手な試みに付き合ってくれて。本当に感謝するよ。フキちゃんも必ず来てくれるよ! 」
 これから卒業式までの三か月、六年二組は演奏を磨き上げ、フキちゃんをみんなの前に呼び出すのだ。すでに冬休み中も音楽室に集まって、練習する許可も取り付けてあった。

 六年二組の練習は急ピッチで進んだ。三か月しか時間がない。その上ほとんどの子が専門的に音楽を習ったことがないのである。
 それでも練習がはかどったのは、皆この試みに心底わくわくしていたからだろう。最も音感がなく下手くそな子もふてくされることなく、また取りこぼされることもなく、ひたひたと練習は進んだ。佑のラプソディーは徐々に、その立体的な構造を現すようになっていった。
 
 一月が来て冬休みが終わった。六年二組の練習は、放課後と総合学習の時間に行われた。その他に、ヴォーカリーズ隊は休み時間のたびにハーモニーの加減を確認し、リコーダー隊やピアニカ隊も、楽器を出して音合わせをした。自主的に朝練にくる子もいた。朝早く佑が学校に来るともう、金管楽器の晴れやかな響きが教室から響いていた。
 どんな練習の場であっても佑は求められれば、できうる限りのアドバイスを行った。分かることは出来るだけかみ砕いて、当の佑にもよく分からないことは一緒に考えて、共に一歩一歩進んでいった。

 北東北で過ごす最後の冬は、立春のあたりでがくんと気温が下がった。十二月と一月が比較的暖かかったため、寒さに耐性のない佑の体にはこたえた。
 二月三日から数日、この冬一番の荒れた天気が続いた。強い風が唸り、大粒で荒々しい雪片がざらざらと降り注いだ。電線は雪の重みでたわみ、古い木造の家々は押しつぶされてしまいそうだ。
 佑はマンションの三階で、電線の間をすり抜けていく、風のうなりを聞いていた。フキちゃんやその兄弟や侍女たちが、大慶寺町の屋根屋根の上でダンスを踊っている。牡丹雪を翻し、家々の風上に袴のような雪を積み重ね、吊り上がって離れた目を猫の目のように光らせながら、きゃっきゃっきゃっと笑い声をあげて回転している。
 僕らがフキちゃんを忘れても、フキちゃんの方では決して忘れない。僕との約束を憶えていてくれるなら、フキちゃんは必ず演奏を聴きにやって来る。
 佑の耳にも、自分が馬鹿な妄想に駆られて、裕也やクラスメイトを振り回しているという陰口は届いていた。主に別のクラスの父母の間から聞こえてくる言葉だった。だが佑は歯牙にもかけなかった。何を言われても動じなかった。
 フキちゃんは絶対に約束は守る。フキちゃんはそう断言したし、玲夜さんも言っていた、精霊は約束事や誓いに縛られて生きていると。
 佑は去年、フキちゃんに付き合って買った、マリンブルーのキャンドルに火をつけてみた。蝋の燃える匂いと、セージやローズマリーの爽やかな精油の香りが立った。
 佑は嘘を信じて欲しいときにフキちゃんがくるくると回転したさまを思い描く。しわくちゃなスカートが翻り、とび色の目は生き生きと輝き、そばかすだらけの頬が薔薇色に染まっていた。風が唸る。キャンドルの炎は、高気密のマンションの部屋で、ちらちらとわずかに揺らいだ。

 三月が近づいて来ると、まず空の色が変わる。
 冬の間、空は青磁器の色に似て、宇宙に届きそうな所まで立ち昇った靄のように見えた。だが、今は空は、まるで水色のパステルをぼかし込んだように、ずっと低い所にある。
 漂う雲もほっこりとした形になり、裸の枝を吹き抜ける風も、もうきりきりと身を切るほどではない。雪解けの湿った心ぬるむ匂いがする。日差しは日に日に輝きを増してゆき、日々最高気温が上がってゆく。
 路面に残った雪は粉塵で黒くなり、除雪車両に削られて小さくなっていった。暖かい日中になるとひっきりなしに、とぽとぽと雪の解ける水音が響いていた。
 着々と春が進む町に居て、僕はフキちゃんに会ったら何を言うつもりなんだろうな、と佑は思った。人間の世界を去ってしまったフキちゃんを、みんなの前に呼び出して、一体何がしたいんだろう? 何を伝えたいんだろう? 
 たとえ演奏に成功してフキちゃんが現れても、佑がこの町を去っていくという未来に違いはないというのに……。
 佑は放課後のクラス練習の他にも、クラリネットの自主練には余念がなかったし、録音を聞いて、どういうバランスをとれば、どこを強化すればいい演奏になるのか考えて、それを裕也に伝えることも怠らなかった。
 ああ僕は忘れたいんだな、もうみんなとは会えなくなることを、フキちゃんが帰ってくることで塗り替えて、そこを目指して必死に走り続けているんだ。
 この目標が達成されてしまったら、僕はいったいどうするんだろう? 何を目当てに進んでいくんだろう?
 音楽の道は確かに前に続いていくけども、僕は何のために、一体誰のために歌ったり吹いたり創ったりするんだろう?  
 それは霧の中に包まれていた。いくら目を凝らしても見えなかった。それでも佑はもう一歩も引けなかった。
 ずっと前だけを見つめる佑は、すぐそばで優梨愛が、その知的な目元を切なげに陰らせていることに、気付かなかった。

小さな恋人たち

 三月が来て二日経った。その日も放課後の練習を終えて、佑は裕也と一緒に帰った。
 その道すがら、言いたいことを何度か口に出しかけて、そのたびに呑み込むようなことを何度か繰り返した後で、裕也がこう切り出した。
 「ねえ吉本君、クラスの女子たちは、卒業式までに好きな男子に告白することで盛り上がっているようだね」
 「えっ、そうなの? 全然気づかなかった」
 佑は素で驚いた。ラプソディーのことで頭がいっぱいで、そんなことを考える余裕がなかった。
 「優梨愛ちゃんは君に告白してくれるかな」
 佑はごもごもと口だけ動かしてうつむいた。もしそうであれば、たとえようもなく嬉しいことだった。
 「裕也君こそ、沢山の女子から告白されるんじゃない? 脇坂さんとか、野々宮さんとか」
 裕也は困ったようにも憂いたようにも見える、淡い微笑を浮かべて答えた。
 「実はね、二人からもうされている。でもね、断ったよ。インターナショナルスクールに進学するし、今は誰とも付き合う気持ちじゃないって言って」
 「そうなんだ」
 「でもね、本心は他にあるんだ。別々の学校に進学しても、待ってて欲しい子がいる」
 「それは、もしかして……、佐々木さんだね」
 どうしてそうだと解ったのか、佑にも説明がつかなかったが、裕也の真剣な眼差しを見て浮かんできたのは、ピアノに向かう佐々木さんの生真面目な横顔だった。裕也はちょっとだけ驚いた。
 「よくわかったね。そうだよ、莉麻ちゃんだよ」
 佑と裕也は、そのまましばらく黙って寺の漆喰塀の前を歩いた。頭上からは北へ帰っていく白鳥の、甲高い地声が聞こえる。温みを帯び始めた風が二人の頬を優しくなでていた。ややあって佑は尋ねた。
 「じゃあ裕也君は、佐々木さんが告白してくれるのを待つの? それで待ってて欲しいっていうの? 」
 「いいや、僕は待たないよ」
 「じゃあどうするの? 」
 「自分から告白する。大体ね、告白は女子だけの特権じゃないよ。中学でも高校でも、男子だって堂々と告白するんだ。僕は初めて好きになった女の子に、自分から思いも告げないで去っていくなんてとてもできない」
 裕也は真顔だった。潤んだ眼の奥底では青い炎がごうごうと燃えているみたいに見えた。冬休み中どこにも旅行に出かけなかった裕也の頬は白く、目の周りにだけぱっと朱が差していた。佑は心からため息をついた。
 「裕也君はやっぱりかっこいいね」
 裕也は照れたように笑った後、これが本題だとでもいうように、身を乗り出して言った。
 「君はどうするの? 優梨愛ちゃんのこと。告白されるのを待つの?それとも……」
 佑の白い顔は苺チョコレートのようにポオっと赤くなった。目を伏せ、瞬きを繰り返し、もじもじと口の中でつぶやく。
 「そんな、僕、告白なんて……、されることもすることも考えていなかった……」
 「音楽のことだけ考えていたんだね」
 裕也はずっと年上の兄が、まだがんぜない弟に向けるような顔で佑に微笑みかけた。
 「ねえ、吉本君、僕ら二人して、卒業までに絶対告白しないか? 大きく開けた口にお菓子が飛び込んでくるのを待っているだけの、他の男子たちを尻目にさ。二人で出し抜いちゃおうよ」
 佑はあんまり顔が熱くなり、心臓の方もまるで止まる寸前みたいに激しく騒ぐので、すっかりとしどろもどろになり、「ああでも……」とか、「そうかな……」とか、煮え切らない言葉を口の中でひたすら繰り返していたが、二人が分かれ道に差し掛かる頃にはすっかりと、二人で競い合うようにして告白をするんだ、という話の内容は固まってしまっていた。
 裕也が分かれ道を行き、その影が町家の陰に見えなくなっってからも、佑の両頬は火の色をしたままだった。
 佑はしばらく固まったように道に立ち尽くしていたが、やがて右手と右足を同時に出すみたいな、ぎくしゃくとした仕草で、家までの道を歩いて帰った。

 裕也の告白の日はすぐにやって来た。
 裕也と話を決めた翌日、給食の後の休み時間に、裕也は意味ありげに佑に手を振って、ひっそり教室を出て行った。佐々木さんはそれより少し前に、やっぱり気づかれないように教室を後にしていた。
 下校時刻に裕也は佑を誘った。その大輪の薔薇が咲いたかのような顔色に、佑は裕也が「成功」したのだと悟った。
 「ああ、嬉しいなあ、莉麻ちゃん待っててくれるって。離れ離れになってもラインしようって。中学に入ったらスマホ買ってもらうんだって。本当に告白してよかった」
 「うん」
 佑も微笑んで頷く。漆喰塀の上からのぞく梅の蕾は大きく膨らみ、もうほころび始めるのを待つのみ。
 「さあ次は君の番だね」
 裕也が意味ありげにほほ笑んで瞬きした。
 「うん……」
 佑の端切れは悪かった。

 そんな佑がもう翌日には、告白をすることに決めたのには訳があった。
 裕也とこの話が出て以来、音楽に対する集中力がいたく乱れていたのだ。
 頭の中を全部音楽でいっぱいにして、フキちゃんを呼び出すためのラプソディーに全集中しなければいけないはずが、裕也に音楽的アドバイスをしなければならないときも、クラリネットのソロの時にも、家でみんなの演奏の録音を聴いている時でも、優梨愛の顔とそのもたらす「答え」が、暑い日のキャラメルのようにくっつきあって見過ごせない塊になり、心の真正面に居座っているのだ。
 色々と考えてみた結果、この不安から逃れるためには、一日も早く告白しないと駄目だという結論に達した。たとえ絶望するにしても、そうなってしまえばもう不安感はない。
 佑は勇気を振り絞り、放課後校舎裏に来て欲しいと書いた手紙を渡した。それを見る優梨愛の顔は、感情がないのか、それとも感情を抑えているからなのか平板だった。
 放課後の練習を終えて、佑は一人校舎裏で優梨愛を待った。
 裸の桜や木蓮が、ひっそりと花芽を膨らませていた。日光の届きづらい裏庭にはまだ雪が残っていたが、吹き抜ける風は、芽吹きの前触れの湿った土の匂いがした。風はまるで励ますように、佑の足元で渦を巻き、舞い上がっては髪を撫でた。
 息を吐いて吸うという当たり前の方法が、佑にはおぼつかなくなっていた。ぎこちなく肺を使いながら呼吸を繰り返し、関節が固まるほど緊張して、佑は優梨愛がやって来るのを待った。
 この時計の針ではわずか数分の時が、佑には永遠に続く沈黙であるかのように思われた。また強い風が吹いて、フェンス際の枯れたアジサイの花が揺れた。
 ああ、あれはあのウンディーネの……。そう思ったとき、校舎の陰から優梨愛が近づいて来るのが見えた。
 「佑君、話って何? 」
 「う、うん……」
 「みんなに内緒でお話したいこと? 」
 「う、うん……」
 佑は腰の前で両手をねじねじと組み、優しげな二重瞼の目を伏せて、右足でもじもじと地面をなぞった。
 「もしかして音楽のこと? 」
 「いや……」
 「もしかして『フキちゃん』のこと? 」
 佑はぽかんとして優梨愛を見た。
 「フキちゃん? なんで? 僕の話は優梨愛ちゃんについてのことだよ」
 言ってしまってから佑は、火事場に頭から飛び込んだみたいに、全身がぼっと燃えあがるのを感じた。どうしよう! フキちゃんの名前が出た意外さに、思わず口走ってしまった。
 また強い風が吹いた。優梨愛が唇を半開きにして髪を押さえた。その表情が魅力的で、佑は見惚れる。その時何の前触れもなく、こんな考えがぱっとひらめいた。フキちゃんが僕の告白を励ましにここに来てくれている。
 そうだよ、フキちゃんは風の精霊なんだ。姿は見えなくてもここに居合わせることが出来る。精霊界に帰ってもずっと僕の友達だから……。
 そう思ったとき、心の底から勇気が湧いた。佑は四十五度に体を折り曲げ、目をぎゅっとつぶりながら、絞り出すように言った。 
 「宮野優梨愛ちゃん、大好きです! 別々の中学校に行っても、メールやお手紙が欲しいです。僕のこと、どう思ってますか? 」
 目をつぶって体を折り曲げている佑には、優梨愛がどういう表情で自分のつむじを見下ろしているのかは分からなかった。ただ優梨愛の息の音が、かろうじて表面張力を保っているコップの水のように、ふるふると震えているのは分かった。溢れそうなのは喜びなのか、怒りなのか悲しみなのか、佑には判別がつかなかった。
 優梨愛はしばらく黙っていた。佑も顔をあげることが出来ずに、優梨愛の前で体をくの字にしたままぶるぶると震えていた。
 「ねえ、本当に佑君が好きなのはあたしなの? 『フキちゃん』じゃないの? 」
 佑はばねのように起き上がった。予期していない答えだ。驚きが不安を投げ飛ばしてしまい、佑は勢いよく言った。
 「フキちゃん? 何で? フキちゃんは友達だよ。大事だけどもお友達なんだ。僕が好きなのはずっと優梨愛ちゃんだったよ」
 「でも、だって……、あんな曲を書いて演奏までして、『フキちゃん』に会いたいんでしょ? 」
 「そうだけど、でも、そのことと優梨愛ちゃんのこと好きなのは、僕の中では何にも邪魔しあわないんだ。フキちゃんも僕が優梨愛ちゃんを好きなのを知っていて、ちょくちょくからかったり応援してくれたりしたよ」
 佑は、背中にがけっぷちが迫っていて、あと一歩後ずされば墜落してしまう人のように、決死の覚悟で言い張った。一体どういう訳で、優梨愛の中に誤解が育っていたのか。それを否定しない限り、優梨愛からはいい返事がもらえないのか……。
 「でも……、だって……」
 優梨愛は、シェルティー犬のように知的な目元に、涙の気配を色濃く漂わせて、佑の汚れたスニーカーのあたりを見つめていた。佑も自分で自分が、今にでも泣き出しそうになっていることが分かって、必死に涙腺に力を込めて目を見張った。
 恋に慣れた大人なら分かっただろう、自分がフキちゃんを好きだったら悲しい理由が、つまりは自分を好きであるからに違いないということが。だが佑は、あくまでも十二歳の、たった今人生で初めて想いを伝えたばっかりの少年に過ぎなかった。駆け引きもさや当ても、思いもつかないくらいに真っ直ぐな……。
 「僕のこと嫌い? あんまり好きじゃない? 」
 「そうじゃないけど……」
 蚊の鳴くような声で尋ねる佑に返す優梨愛も炭酸がキャップから漏れ出るような弱弱しい声音だ。
 「ねえ、フキちゃんが戻ってきたら、優梨愛ちゃんもフキちゃんのことを思い出したら、きっとそんな誤解なんて吹き飛んでしまうよ」
 佑の声は、小鳥が必死に恋を歌うみたいに、切迫としたメロディーをかなでた。どうしたら、何を言ったら僕の燃える気持ちを信じてもらえるの? まさか「ただのお友達」という言葉ではなく、「信じられない」という内容の言葉が飛び出してくるとは思っていなかった。優梨愛はうつむき加減になり、サラサラの髪の間からのぞく厚い唇をすぼめるようにして言った。
 「だったら、本当に『フキちゃん』が現れて、佑君のことはただのお友達と言ったら信じる……」
 佑は、屋根に上り切った途端、はしごを外されたような気分になった。何もかもが目論見を外れている。優梨愛の言う通りにすれば、今日から本番までの間に、佑の集中をむしばむ不安から逃れる手段はない。そしてもし仮にフキちゃんが現れなければ、優梨愛から良い返事をもらえる日は来ない。
 だが、佑は真っ直ぐに優梨愛を見つめ、大きく息を吸い込んだ。風が足元から巻いて、佑と優梨愛の髪を持ち上げた。気まぐれだけど暖かい風だった。佑は吸い込んだ空気を凛と声にした。
 「フキちゃんが僕をお友達だと言えば、優梨愛ちゃんは答えをくれるんだね。わかった、フキちゃんが誤解を解くまで待つよ。うん、僕待つ。フキちゃんは絶対に現れる」
 佑は自分が背伸びをしていることを強く自覚していた。だが、他にどうしろと言うのだろう? 演奏が終わるまで、この二重の不安と道連れをする覚悟を決めるしかない。佑は唇にわざとらしいほど大きな微笑みを浮かべ、大きくなろう、包み込もうと、必死に自分を奮い立たせるように心がけて、優梨愛を真っ直ぐと見つめた。
 「うん……」
 優梨愛は口元にに桜がほころんだような微笑みを浮かべ、もじもじと髪をいじって、シェルティー犬のような知的な眼のあたりをぽっと上気させていた。
 風がころころと笑い転げるように、乾いた草を巻き上げて、二人の周りに渦を巻いた。

 その日から佑はなお一層熱を入れて、音楽に打ち込んだ。フキちゃんと再会するにせよ、優梨愛から良い返事をもらうにせよ、それはこの演奏の出来如何にかかって来る。不安を動力源に変え、更に粘り強く熱心に、佑は演奏とその指導に取り組んだ。
 他のクラスや保護者たちの間にも、六年二組の演奏会の話題が広まっていた。当日は、全校児童と卒業生の保護者、それに加えて希望のある保護者達にも参観が認められていた。
 佑は玲夜にもフキちゃんの出現を見届けてもらうために、裕也のおじいさんを通して学校に許可をもらっていた。

風のラプソディー

 梅の花がほころび始めた。気付けば路上の雪も消えている。根雪の下から現れた、粘っこい泥を踏んでお日様を見上げれば、その光の新鮮さに、灰色の雪片の織りなした長い夢から覚めたような心地になる。
 尾代川の土手の枯れ草の下からは、バッケと呼ばれるフキノトウがひょっこりと顔を出す。春の川は水量豊かで、空の色を吸い込んだ鮮やかな水色をしていた。さざ波は白い波頭をあげて、ワルツを踊るように駆け抜けて行った。まばゆい熱を帯びた光が、そのしぶきにきらめいて散っていた。
 生まれ変わりの予感に満ちた季節だった。派手な爆発はなくとも、土の下で、樹皮や新芽の内側で、着々と準備は整いつつある。空気は冷たく夜には氷が張り、ときより気まぐれに風花が舞う。しかし数歩ごと振り返りながらも、覆しようのない春が進行している。
 そして今日、三月十日に、佑の六年間の小学校生活は終わりを迎える。佑は体のサイズよりも一回り大きい紺色のブレザーを着て、朝練のため、他のクラスの子供よりも二時間も早く家を出た。手には擦り切れるまで読み込んだ楽譜と、クラリネットのケースを持っていた。
 好天に恵まれ、風は柔らかく穏やかに吹いていた。通い慣れた通学路、古い街並みはまだ半分つらうつらしているみたいだった。歩行者を圧迫しているはずの電柱と電線が、慈しむように佑の頭上に傾ぎ垂れ下がっていた。
 フキちゃんのお家には今日も人の気配がなかった。佑は家の前を掃除していたおばあさんと、坪庭の草をむしっていたおじいさんの、生活感に満ちた姿を思い出していた。二人の体温がこの古い家に宿って、キャンドルの炎のようにあたたかな風合いを醸し出していたことを思い出す。じっと見ていると今にも、この引き戸からおじいさんとおばあさんが現れて、ランドセルを背負ったフキちゃんを送り出してくれるような気がする。
 佑は一歩立ち止まったが、すぐに振り切るように前を向いた。
 「フキちゃん、もうすぐだ、もうすぐきっと会えるよね」
 六年二組は最後の練習を充実したものにして終えた。その後で、最後のホームルームが開かれた。水原先生がみんなにお祝いの言葉を贈る。
 「皆さん、卒業おめでとう。皆さんの心に生きていく勇気は育っていますか? この小学校での生活が小さな種となり、心の中で芽吹いて、ゆるぎない、そしてたくましい勇気の木に育っていきますように。それにして皆さん、最後の大仕事が残っていますね」
 そこで一区切りして先生は、丸眼鏡の奥の目を茶目っ気たっぷりに細めた。
 「このクラスでの最後の思い出に、どうか頑張ってきてください」

 卒業式が始まった。佑たち六年二組も、体育館の一番前に設けられた席に座り、自分の名前が呼ばれる番を緊張しながら待った。
 両脇には在校生が、あどけない顔に一抹寂しさをにじませて座っている。後ろの方には正装した保護者達が、晴れやかで満足げな表情で座っている。水色のコサージュをつけたお母さんも、グレーのスーツを着たお父さんも、その中に混じっているはずだ。
 去年の卒業式よりも保護者の数が多く見えるのは、佑のラプソディーが演奏される評判が広まったためなのだろう。これは下手な演奏はできないぞ。そう覚悟を強くする。
 佑は、フキちゃんが呼ばれるはずだった出席番号のところで、心の中で呼びかけた。
 「フキちゃん、いるんだよね? 僕らのこと見てるよね? 最後は一緒に卒業しようね」
 体育館の天井でくつくつと笑うように、風がくるくると巻いた。
 やがて名前を呼ばれた佑は、ぎくしゃくと歩いて壇上に登り、卒業証書を受け取る。はにかんだ笑みを浮かべた佑に、全ての保護者、全ての在校生から、温かい拍手が送られた。
 全ての卒業生に卒業証書が贈られ、校長先生がお祝いを述べ、在校生が歌を贈り、みんなで「旅立ちの日」を歌い、卒業式は終わった。
 普段の年と違うのは、校長先生が降りたステージの上に、慌ただしく椅子が並べられ、ピアノの位置もずらされ、パーカッション一式が運び込まれたことだった。二三人の先生たちが、ビニールテープで印をつけておいた場所に、椅子や楽器を配置していく。
 六年二組は席を立って、ステージ裏に置いてあった楽器を手に、段の下に整列した。その空になった六年二組の座席の真ん中に、紙で出来たお花でごてごてと飾られた椅子が一脚運び込まれていた。フキちゃんの席だ。
 「みんな今日までありがとう。こんな僕のわがままに付き合ってくれるなんて。馬鹿馬鹿しいて言わないでさ」
 「『フキちゃん』はほんとに来るよ。さっきから体育館の天井の方で風が巻いている。あたしたちに呼びかけているみたいな音をしていた。呼ばれるのを待っているんだよ」
 黒いリクルートスーツみたいな服の襟をきっちりと閉めた唯葉さんが言った。学ランのお腹が目立っている猿橋君も合わせる。
 「僕も練習が進んで来るうちに、これで絶対『フキちゃん』が現れないはずがないって、どんどん信じられるようになってきた。うん、来るよ、現れるよ絶対に」
 「人気者だったんだね、『フキちゃん』。みんなの記憶から消えても、こんな大騒ぎを巻き起こすんだから」
 オリーブ色のブレザー姿の優梨愛が言った。まるで故人を悼んでいるようなしんみりとした口調だった。佑は言った。
 「みんなフキちゃんの嘘を警戒したり、小馬鹿にしていたこともあったけど、結局はフキちゃんの目論見通りになってしまうんだ。フキちゃんはすごいよ、天才だよ。今日もこうして僕らが演奏会を開くことも、全てフキちゃんが仕組んだことかもしれないなあ」
 そこでみんなは顔を見合わせて、膨らんでいくパン生地のようにふかふかした笑顔を作って微笑みあった。ブザーが鳴った。
 「さあ、出番が来たよ。みんな、泣いても笑ってもこれで最後だ。『フキちゃん』が一族の決まりを破ってでも会いに来たいような演奏をして、僕たちも笑って次のステージへと乗り出そう! 」 
 みんなで円陣を組み、その中心で裕也が叫んだ。
 裕也は、本物の指揮者が来ているような、ひらひらのしっぽの付いた黒い燕尾服を着ていた。どうやらおじいさんが命令して作らせたらしい。「信じられるかい? 今日この時のためだけにこんな服作るなんてさ! 」そう言って裕也は笑っていたが、彼自身まんざらでもなくノリノリだった。
 やがて六年二組の登壇を告げるアナウンスが鳴り響いた。
 「これより、卒業記念のための、六年二組の子供たちによる、『ラプソディーインウィンド』の演奏が行われます。作曲は六年二組の児童、吉本佑君によります。指揮者は泉谷裕也君。六年二組は登壇してください」
 みんなは手に手に楽器を携え、緊張と言うよりはわくわくした面持ちで壇上に上った。

 佑は持ち場の椅子の前で一瞬立ち止まり、正面を見た。水を打ったように静かだった。在校生、先生、保護者達、全ての視線が佑たちに注がれていた。
 心は燃え上がっているというのに、頭の方は自分でもびっくりするほど冷静だった。佑は保護者達の一番前の列に、お父さんとお母さんを見つけた。向かって一番右側の列に玲夜が座っている。最前列の中央では、家族と取り巻きを引き連れた裕也のおじいさんが、期待に満ちた目で見つめている。
 そうだ、そうだ、望むところだ! こんなみんなが注目している場で、フキちゃんは帰ってくるんだ! もうみんなには忘れたなんて言わせない。小学校の卒業式の思い出話をした時に、必ずフキちゃんの話題が出るくらいに印象的な出来事になるんだ。
 佑は席について譜面を広げた。みんなの席の前にも、本物のオーケストラみたいに譜面台が立ててあった。
 裕也が手で譜を開く仕草をしてにっこりと笑った。六年二組全員の注意が裕也に注がれる。紙をめくるぱらぱらとした音が、誰かの咳だけが聞こえる体育館に響いた。
 裕也君、動画を見て研究しているって聞いたけど、本物の指揮者みたいだ! 佑の口元に温かい笑みが浮かぶ。
 すうっと息を吸い込んで、裕也が腕を構え、パーカッションの猿橋君に向かって、小さく小刻みに指揮棒をふるった。
 ドドドドドドドド、地鳴りのように低くて弱い音がティンパニーから放たれる。それを追いかけるように、「アー」と歌うヴォーカリーズの三重唱が、低いファの音からトリルを交えながら、段々と高い音階へと昇ってゆく。
 そこにピアニカ隊のハーモニーが加わり、ピアノのきらめきが加わり、そこから金管楽器の爆発的な音が加わって、曲は一気にフォルテシモになる。
 それを境に幻想的な曲調から、軽快な曲調に切り替わった。弾むような指揮に合わせ、リコーダー隊が楽しげに風のメロディーを歌う。ピアニカ隊は滑るようにハーモニーを奏でる。ピアノがギャロップのリズムを作って、ギターは弾むようなアルペジオを刻んでいる。鉄琴が曲にキラキラとした表情をくわえ、チューバはバリバリと鳴って、みんなの演奏を下支えする。
 これはおととしの運動会の大騒ぎ。フキちゃんの嘘でまんまと担がれたお友達と、右往左往する先生たち。あの日の楽しかったことを、このメロディーに込めたんだ。
 やがて曲調はスピード感そのままに、滑らかでノーブルなものへと変わる。ピアニカ隊とクラリネットが掛け合わせるように、そよ風のようなメロディーを歌う。低くティンパニーが震え、チューバがおおらかな低音を響かせる。
 これは大慶寺てんど市。フキちゃんと見たキャンドルや便箋、体にしみとおるようだった甘酒。そしてここで、フキちゃんは自ら正体を明かす。
 やがて曲はテンポを落とし、静かな夜の情景を描き出す。梅雨の晴れ間の満月、誰もいない学校のプール、青いアジサイを髪に飾ったウンディーネ。まるで魚になったみたいに感じた水の、人肌のように親しげだったその肌触り。ピアノが主役となって、波打つようなグリッサンドを響かせる。ヴォーカリーズ隊の澄んだ歌声がそれを引き立てる。
 そこから曲は一転不穏になる。焼かれてしまった蝶への哀歌だ。フキちゃんの胸を満たしていた罪悪感、その悲しみを、絵画の影の部分を描き出すように作り上げた部分。ギターがマイナーコードのアルペジオを奏で、リコーダーが哀愁に満ちたメロディーを歌う。ピアニカ隊はわき役に徹し、ギターとリコーダーを引き立てるハーモニーを奏でる。
 やがて裕也が振る腕のテンポが速くなっていく。不穏だったメロディーは、徐々に明るくなり、金管楽器が輝かしいファンファーレを響かせる。夏がやって来たのだ。
 ピアノが楽しげにリズムを刻み、ピアニカ隊は分厚いハーモニーを聞かせ、ここでの主役、金管楽器が華々しく鳴り響く。炭酸の空とアイスクリームの雲、フキちゃんの家で飲んだアイスカフェオレ。佑は想いを込めてクラリネットを吹いた。この部分から、他の楽器に隠れるように、ひたひたとメインテーマを奏で始める。
 曲調は徐々にゆったりと重々しくなる。夏草と火薬のにおいの立ち込めるお舟送りの夕暮れ。ピアニカ隊が音を撚り合わせて太いロープを作るようにメロディーを歌う。全ての楽器がフォルテの強さで、ピアニカ隊のメロディーを引き立てる。やがてそれは近づいて来る。何かが起こる予感に、聴衆たちは聞き入っていた。
 裕也がパーカッションに合図を送る。ドドドドドドドドという低いドラムの音に導かれるように、佑のクラリネットのソロが始まった。
 低い所から巻き上がっていく風を、登っていく音階で表現する、曲のメインテーマとなるフレーズ。
 これはフキちゃんのテーマだ。いたずらで、ちょっと怖くて迷惑で、でも誰よりも誠実で頼りになる、フキちゃんはそんなお友達なんだ。佑のソロを、すべてのパートが優しく強く、ゆったりと支えた。
 体育館の床の上に小さなつむじ風が巻いた。それは座っている在校生の前を横切り、先生や父母席の前もふらふらと蛇行して通ったが、やがて真っ直ぐに、誰も座っていない六年二組の席の前に進み出ると、ぱっと飛散した。あたりにはセージやローズマリーのように爽やかな香りが広がった。
 次の瞬間、赤やピンクの花でごてごてと飾られたフキちゃんの席の上に、水仙の花弁のような白いドレスをまとった女の子の姿がふわっと舞い降りるように現れた。
 ふわふわのショートカットの右耳に、右手で頭を支えるように触れて、百年前からそうしていたみたいに、フキちゃんは相変わらず不敵に笑って聴いていた。在校生や先生、父母席からわっとどよめきが起こる。みんな急に現れたフキちゃんを指さして、目を見張っている。
 「フキちゃん、来たね」
 佑は心の中でつぶやいた。周りのみんなも、ピアニカやリコーダーを吹く口を離すことなく、目を見張って微笑んだ。「わあ、フキちゃんだ! 」そう口々に語るように、みんなの瞳が合図を交わす。それを見た裕也も目を潤ませて、「フキちゃん、僕も思い出した」とつぶやいた。
 六年二組の奏でる音楽は、それを機に一層輝き始めた。メインテーマを、ピアノとパーカッションをのぞく楽器が太く高らかに歌う。
みんな失われてしまっていたお友達の顔を声を思い出し、その想い出を思い出し、胸を震わせながら演奏をした。先生も在校生も父母たちも、皆フキちゃんの座っている席の方を見つめて、ぱちぱちと手を叩いた。
 やがて曲はクラリネットのこまっしゃくれた旋律を導きに、飛び切りトリッキーな終章へと向かう。
 裕也が一際大きな仕草で弾むように指揮棒を振る。三分の十二拍子のリズムに乗って、全ての楽器が高らかに歌った。金管は高く華やかに、リコーダーは風のように、ピアニカはそよぐ草のように、ヴォーカリーズは澄んだ水のように、ギターはエネルギッシュな旋律を、ピアノは輝かしいコードを、パーカッションはお腹に響くリズムを、そんな風の歌を、みんな心ひとつにして歌い上げた。
 最後のフレーズ、トリルしながら登っていくクラリネットを合図に、迫力に満ちた華麗な全和音で、曲は終わりを迎えた。
 裕也がぴたりと腕を止め、みんなににっこりと微笑みかけた。そして後ろを振り返って、胸に手を当てて一礼した。割れんばかりの拍手が起こった。だが裕也はそれが聞こえないとばかりに、目を潤ませて叫んだ。
 「フキちゃん、僕思い出したよ! 」
 「フキちゃん、あたしも思い出した! 」
 優梨愛も叫んだ。
 「フキちゃん……」
 佑もそう呼び掛けて、クラリネットを持ったまま、ステージの上から飛び降りた。みんなも「フキちゃん」と口々に叫びながら、ズック靴を鳴らしぞろぞろと後を追う。佑は息を弾ませて、ピンクのちり紙花に囲まれてちょこんと座っているフキちゃんの前に駆け寄った。
 「フキちゃん、約束守ってくれたんだね。僕の大作が初演されるときには、世界が違っちゃっていても駆けつけてくれるって」
 「もちろんだ、タスク、シルフは約束は守る、例えどんな嘘つきだってね」
 白いレースドレス姿のフキちゃんは、しわくちゃなスカートをはいていた時と同じように、鼻の付け根に皺を寄せて不敵に笑った。そして佑は見た。フキちゃんの着ている水仙の花のようなドレスのスカートにも、よくはいていた青いスカートと同じように、皺がたくさん寄っていた……。
 「フキちゃん、会えてうれしいよ……。僕フキちゃんが帰ってくることだけを考えて、この曲を作ったんだ。僕はフキちゃんにきちんとお別れもお悔やみも言っていなかった……。フキちゃん、僕、みんなと離れて東京の中学校に行くんだ、立派な音楽家になるにはそれが必要なんだ……、フキちゃん、将来僕がちゃんとした作曲家になって大作が演奏されるときも、フキちゃんは聴きに来てくれる? また会えるかな? 」
 「そんなこと心配してたのか? そんな心配より、会いたくないときにフキコがたずねていく心配したほうがいいよ。風はどこへだって入って行けるからね。寝室の空いた窓から、お腹を出して寝ているタスクのよだれを乾かしに行くかもしれない」
 脇坂さんが桃色の袴の前に握りこぶしを作って、気負いこむように言った。
 「フキちゃん、フキちゃんは本物のプリンセスだったのね。そのドレスもめちゃくちゃ素敵。中学校のお友達にも、本物の妖精のプリンセスのお友達がいるって自慢してもいい? 」
 「あはは、いいよ。精霊界一の美人だって言っておいて。シイナもフキコの友達だったらそれくらいほら吹かないと」
 菫色のワンピースを着た佐々木さんが、黙ってフキちゃんの肩に両手を置いた。そして丸く出した額をフキちゃんのおでこに当てて涙を流した。佐々木さんが震えながらしゃくりあげる。フキちゃんはちょっとだけ決まりが悪そうに、自分より頭一つ背の高い佐々木さんの頭に、伸びあがるようにして手を当てた。
 「リマ、黙って行っちゃたりして悪かったよ。でも仕方なかったんだ、父上との約束だったから……。みんなはフキコが黙っていなくなることについて、何も感じていなかったって思う? 」
 「フキちゃん、どうして忘れたりなんかしたんだろう? あたし、佑君が好きなのはフキちゃんだと誤解しちゃってた」
 優梨愛が、まるで思考停止したかのように平坦な口ぶりで言った。
 「え? 誤解? どういうこと? 」
 当然巻き起こる疑問に、優梨愛がブレーキが壊れた車のような調子でぽろぽろと口走った。
 「あたし佑君に好きだって言われたの。でも、佑君が好きなのはフキちゃんじゃないのかって……」
 佑の顔は瞬時に苺チョコレートみたいになった。
 「ゆゆゆゆゆ優梨愛ちゃん……、みんなの前でそんなこと……」
 「佑、いまさら何を言ってるんだよ。お前が優梨愛ちゃんを好きなのは、クラスでもお子ちゃま扱いされている俺だって知ってるよ」
 だぶだぶの学ランを着た焔君が細い声を張り上げた。
 「僕も知ってる」
 猿橋君も言った。
 「佑君、ばればれだよ」
 水色のワンピースをまとった日向さんも言った。
 見回せばみんな驚いた様子もなく、一様に首を縦に振っている。
 「むしろ驚いたのは、佑に告白する勇気があったってことだ。やるじゃねえか佑」
 そう言って、細身の黒いパンツスーツでばっちりと決めた野々宮さんが、佑の背中をバンと叩いた。
 「う、うん……」
 照れくさいのを通り越して、月面歩行しているかのようにふわふわした心持で、佑は生返事をした。そんなにバレバレだったのか……。裕也君みたいにクールにはいかないなあ……。裕也は心底おかしそうに笑っている。
 「ユリア、それで返事はどうするんだ? 好き? それとも好きじゃない? 」
 フキちゃんが鼻の付け根にいっぱい皺をよせて微笑んだ。まるでこの世界から数か月も消失していたとは思えないほど、親しげでひょうひょうとした微笑みだった。
 優梨愛は後ろ手に手を組んで、もじもじと足元を見たが、シェルティー犬のように知的な目の周りをぽっと上気させて、瞳を逸らしながらこう言った。
 「あたしも佑君大好き。夏休みになったら会いに来てね! 」
 クラスのみんなはパチパチと手を叩いて祝福した。在校生や父母席からも拍手と冷やかしっぽい、笑い交じりの歓声が巻き起こる。
 「やるわね佑」「それでこそ俺の息子だ! 」一際高い声でお父さんとお母さんがそう叫ぶのが聞こえた。佑は赤くなったまま冷や汗を流した。後でどんなにいじられるかわかったもんじゃない。
 「小鳥谷さん! 」
 汗だくになった水原先生が、袴の裾を乱して駆けこんできた。手には丸めた紙を持っていた。
 「小鳥谷さん、書道の畠山先生にあなたの卒業証書を作ってもらいました。みんなと一緒に卒業しましょう! 」
 そして、まだ墨の乾いたばかりの、手書きの卒業証書をかざして見せた。そして目に涙を浮かべてほほ笑んだ。
 「全く私としたことが、担任していた児童のことを忘れるなんて……」
 卒業生、在校生、父母席がわっと湧いた。フキちゃんに向かって、雨音のように大きい、温かい拍手が送られる。
 校長先生が再び壇上に登り、フキちゃんの名前が呼ばれた。
 「六年二組、小鳥谷風姫子さん」
 水仙の花のような白いドレスを着たフキちゃんは、くしゃくしゃのスカートを太ももに張り付かせたまま壇上に上がり、堂々と卒業証書を受け取った。親しみに満ちた、温かく大きな拍手がその華奢な体を包んだ。佑も今日の空のように澄み切った表情で、痛くなるほど手を叩いた。
 父母席を見ればお父さんとお母さんも一心に手を叩いていた。裕也のおじいさんも、その鋭い眼に何か震えるものを隠しているように、うんうんとうなずきながら拍手している。一番右端では玲夜が、その冴えた眼差しを壇上のフキちゃんに注ぎ、その後で佑にちらっと目配せして笑った。佑も晴れやかな微笑みを返した。
 壇上から帰って来るとフキちゃんは一転、しょんぼりと首を垂れた水仙のように弱く笑った。
 「フキコもう帰らないと……。父上からちょっとの間だけって決められているんだ」
 「そうなんだ……」
 「そんなにすぐに帰っちゃうんだ……」
 皆思いもかけないほどの早い別れに、言葉を失うほど落胆した。女子たちはフキちゃんの手を握り、レースドレスの背中をたたき、涙を抑えながらふわふわの髪に触った。男子たちも表情を陰らせて、目を交し合うその瞳の中には潤むものがあった。
 ああこれきりなんだ……。僕の起こした奇跡は、これで終わってしまうんだ。十数分だ、たったの……。何て呆気ないのだろう?
 そのとき、佑の落胆を救いあげるかのように、裕也が努めて明るい声で提案した。
 「ねえ、みんな、最後に一緒に『チェーン』歌わない? あの歌ならフキちゃんも歌えるよ。最後はあの歌でしめようよ」
 「いいね、いいね、歌おう! 」
 「ねえ、歌っている間だけはお父さんに待っててもらって」
 「シルフの王様なんだもん、小さいことは気にしないでしょ」
 そう口々に言い、みんな目に涙をためながらも、飛び切り元気な笑顔を作ってフキちゃんの肩を叩いた。フキちゃんもあのいつものくしゃっとした笑顔で、優梨愛や唯葉さんとハイタッチした。
 佐々木さんが壇上に戻ってピアノの前に座る。裕也が自分の当然の役割とばかりに指揮棒を振り上げる。
 六年二組の子供たちは、体育館の席の前に丸くなって立ったまま、木々の芽が生い茂りながら伸び行くのが見えるような勢いで、「チェーン」を合唱した。
 体育館の二階の窓からは水色の空と、流れていく、様々な形をした雲がみえた。日は麗らかで梅の花が薫り、舞い遊ぶ雀の影が、床の上の四角い光の帯に飛び交っている。
 居合わせた人々は、子供も大人もただただ暖かな拍手と、一抹の寂しさを忍ばせたため息のような歓声を送った。
 小さい学年の子供たちは、自分たちには見えない世界が見えている六年二組の姿を、まだ飛べない幼鳥が、空高く舞い上がり始めた若鳥を眺めるように見つめていた。明るい歌声は体育館いっぱいに広がり、弾むような若さが、意味が分からないまま聞いている彼らの胸をも打った。いつか大きくなったら、僕たちにもこんな奇跡のような出来事が訪れるのかな?
 大きい学年の子供たちは、案外すぐに迫ってきている、自分たちの旅立ちの日について思いを馳せていた。
 自分たちが旅立つ日はどうなのだろう? こんなふうに何か特別なことが起こって、卒業式と奇跡が分かちがたく心に刻まれたりするんだろうか? それとも、ドラマチックなことは何も起こらずに、旅立ちの晴れやかさと一抹の寂しさだけを胸に刻んで、穏やかに笑って巣立って行くのだろうか?
 大人の観客たちは、名前は定かでなくともあだ名は憶えているような、顔の雰囲気とか声の色を憶えているような、そんな幼い日のお友達のことに思いを馳せていた。ああ、こんな子がいた、あんな子がいた、皆自分と同じ年齢のおじさんやおばさんになっているはずのあの子。記憶の中では今でも大きくなりかけた子供の姿のままだ。
 もしかして、あの子も「フキちゃん」のように、精霊になってあの日の姿のまま自分たちを見守っているかもしれない。
 
 手をつなごうほら 僕の右手は君の左手と
 君の右手は あなたの左手と
 冷たい手 あったかい手 大きな手
 つながれば 何より強いチェーン
 地球を回すのは僕らのチェーン
 未来を次々結び付けるチェーン

 体育館に子供たちの歌声が響いている。澄んだ声、濁った声、か細い声、野太い声。一つ一つの声質はばらばらなのに、それぞれの個性が声の繊維の中にくっきりと浮かんでいるのに、硬く縒り合された光沢あるロープのような、強度と美しさを兼ね備えた素晴らしい歌声だった。
 その中にがらがらで少しだけ音程が怪しい声がある。
 その声は、六年二組の歌声の中心で、野や山や、古い街並みの電線の上に渦を巻く風のように、自由奔放に響いていた。
 大丈夫、僕たちはまた会える。風はどこにだって入って行ける。佑はフキちゃんの言葉を反芻する。自分が忘れない限り、いいやたとえ忘れてしまったって、フキちゃんはずっと僕の友達なんだ!
 裕也も優梨愛も他の子供たちも、自分の人生の重要な場面に、透明な風になってやって来るフキちゃんの姿を思い描いた。大丈夫、また会える。フキちゃんは僕たちを見ていてくれる。
 だって嘘つきのフキちゃんは、僕らの何よりの友達なんだ!

                了

 
 

嘘つきフキちゃん

お読みいただいてありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。文学の道はまだまだですので、これからも精進して文章を磨いてゆきます。

嘘つきフキちゃん

フキコのフキは大ぼら吹きのフキ、嘘つきのフキちゃんと、音楽を愛する気弱な小学生佑の織り成すハートフルファンタジー。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-10-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. フキコのフキは大ぼら吹きのフキ
  2. 佑の夢、音楽とフキちゃん
  3. 大混乱の運動会
  4. 嘘つきの理由は……
  5. 大慶寺てんど市
  6. 夜のプールとウンディーネ
  7. 命を弄ぶ遊びは……
  8. お舟送りとフキちゃんの涙
  9. 裕也の罠
  10. フキちゃんの策略がはまった!
  11. みんなで過ごすクリスマス
  12. 大慶寺町の一月から八月、そして佑の冒険
  13. フキちゃんの消失
  14. そうだ、風の歌だよ、音楽だよ!
  15. みんなを巻き込もう
  16. 佑一世一代の勝負
  17. 練習が始まった
  18. 小さな恋人たち
  19. 風のラプソディー