百合の君(27)
春はその暗い室内にまで侵入していた。義郎が入ると宴席で見知った若い侍が、ちょこっと会釈をした。手元の動作から、酒の話をしていたものと見える。見回すとみな欠伸をしたりくるぶしを掻いていたり、怠惰が花粉のように漂っていた。死体から腐敗ガスが発生するように、不安が胸の中に湧き出る。
間もなく、酒のにおいとともに喜林臥人が現れた。伏せた義郎の視界に真っ白な足袋と金色の袴が見える。置き畳の脇息に凭れるその顔は、やや赤らんでいるようだが、そもそも義郎は、素面の臥人を見た覚えがない。
「みな揃ったな」臥人の声を合図に、弟の木怒山由友が地図を広げる。
北に大きな湖のある刈奈羅国、南に隣接してそれぞれ刈奈羅の半分くらいの大きさで八津代、古実鳴がある。八津代は義郎がデビュー戦を飾った相手で、現在は元五明剣の出海浪親が治めている。彼らの国力は喜林の治める古実鳴とそう変わらないが、刈奈羅は狩菜湖の水運による経済力を背景に、天下一の軍をもつ大国だった。かつての将軍家を滅ぼしたのも、この国だ。
「刈奈羅の別所沓塵が、八津代に攻め込むそうです。軍を国境に進めています」
みな黙って、木怒山が続けるのを待っている。
「そして八津代の出海から同盟の誘いが来ております。ともに別所を倒し天下の覇者になろうとのことです」
木怒山が話し終わっても、誰も何も言わなかった。咳払いの声がやけに響いた。臥人が扇子で手の平を叩くと、一同の注目が集まる。真剣な、それでいて悲しそうな、媚びるようなその視線は、溺れた子供が助けを求めるようでもあった。義郎は、戦場でこのような顔は見たことがないと思った。こちらの方が命がけに見えるのは、どういうことだろう。
「五明剣などと言ってもしょせんは旧時代の遺物。出海と組んで、別所を敵に回す馬鹿はおるまい」
助け出された子供たちは、安心して泣き出した。
「そうだ、放っておけばよい」「いっそ使者を斬り殺せ」「そうすればいい手土産になる」
自分の頭で考えようとする者は、いないようだった。猿の群れでも一匹が叫び出すと他の者も追従して声を挙げることがよくあるが、目の前の光景はまさにそれだった。
血とあぶくを吐いた喜平の不思議そうな表情が浮かんだ。猿ぐつわをされ涙を流す穂乃の顔を思い出した。
カッと頭に汗が湧いたかと思うと、義郎は臥人の前に進み出た。
「殿、この同盟のお話、お受けすべきと存じます」
臥人の顔がこわばった。一同の迷惑そうな視線を感じる。義郎は宴席を思い出した。殿の注いだ酒を飲もうとしなかった時も、全く同じ表情をしていた。この者達はいつもそうだ、殿様の機嫌に流されるだけで、前進どころか踏みとどまろうとさえしない。
しかし臥人の次の言葉は、義郎の意表を突いた。
「そうかあ、その方がよいかのぉ」
その口調は、おおよそ軍議には似つかわしくなかった。
「みなの者、どう思う?」
咳払いさえする者はなかった。一同うつむいて、誰とも目を合わせないようにしている。外で鳴き交わす鳥の声が、やけに大きく響いた。視線を向ける者がいて、歌でも詠むのではないかと思ったが、さすがにそれはなかった。また床に目を落とす。
「意見のある者はおらんのか、しかたない、叔父上から順に、思う所を述べるがよい」
そこからが長かった。義郎は同盟を支持する理由を聞かれ、刈奈羅と対抗するには八津代の力が必要だと説いた。そして、今なら助けてやる立場なのだから、有利な条件で交渉できると付け加えた。
「なるほどのう」
言ったきり長老が黙ってしまったので、寝てしまったのではないかと義郎は思った。臥人が扇子で口元を隠して、大きな欠伸をした。
先ほど酒の話をしていた若い男が、たまりかねたように発言した。
「あのう、婿殿のお考えもごもっともながら、殿のご裁断をくつがえすには及ばぬかと存じますが」
まるで叱られているような口ぶりだった。何度目かの欠伸をして、ふむ、と臥人が言った。
「婿殿は別所の力をまだ知らんのだろう。婿殿がいくら強くとも、十万とも二十万ともいわれる刈奈羅の軍には勝てまい」
臥人の目は充血し、涙があふれていた。目の前にいる義郎が、見えていないかのような口ぶりだった。そのため義郎の返事は、やや遅れた。
「八津代が滅んだ後なら、もっと勝てません」
「その時は、刈奈羅に姫でも送ればよいではないか」
義郎は息を飲んだ。臥人に対する幻滅が、足元を崩そうとしていた。義郎はそれを防ごうとするかのように、手を床についていた。
私に蝶姫を降されたのも、このような考えからだったのか、彼は思った。弱い、こいつはこんなに弱い男だったのか。
義郎は初めての行軍中に遭ったあの若い夫婦を思い出した。戦えば勝てる可能性があるのに恐れて何もせず、甘んじて破滅を受け入れている。命は失くすためにあるのではない。伸ばすためにあるのだ。植物でさえもそれを知って、枝を伸ばし花を咲かせ、種を撒いているではないか。これでは阿呆鳥と同じだ。天敵が現れたら滅びるしかない。
怒りは、不思議と義郎の心をなだめた。義郎は頭を下げたまま、ぴたりと静止していた。
「じゃあ」
舐めるような臥人の声がして、頭を上げる。義郎が見たのは、臥人の後ろ姿と、一同の再び緩んだ表情だった。外はすっかり暗くなり、鳥たちの声もやんでいた。
百合の君(27)