201号室
1
201号室。二階建てアパートの角部屋。周りの建物との関係で、日当たりはあまり良くない。浴室乾燥できれば便利だなとも思うけど、わざわざ後付けするのは億劫だから、結局気合いで乾かしてる。
こっちの大学行って一人暮らし始めてからだから、この部屋に住んでもう十年は経つ。入れ替わりは激しくないアパートだが、十年も居れば、誰かが引っ越す、越してくるということはぽつぽつあった。
一年ほど前、隣の202号室に、ある女性が越してきた。
別に、その人については何も知らない。
名前は知ってるけど、名字だけだし。
歳は、俺と同じくらいかなと思うけどあくまで推測だし。
仕事は、スーツ着てるからどっかの会社でOLしてんのかなって、これも推測。
正直顔すら…よく分からない。マスクしてるし、挨拶するだけだからまじまじとは見ないし。
今時隣人のことなんて、何も知らないのが普通だろう。気にする方がおかしい。そう思いつつも、色々と考えを巡らせてしまう。
その理由は泣き声だ。毎晩隣から聞こえてくる泣き声。その泣き声は彼女が隣に住み始めてから一週間ほどで恒常化した。
声からして本人だと思う。誰かが出入りしてる様子はないから、何かされてるってわけでもないと思う。ドアが閉まる音と共に玄関に崩れ落ちるような音がして聞こえ始めるときもあれば、深夜にぐすぐすと啜り泣いているときもある。テレビの音と楽しそうな笑い声が聞こえていたのに、いつの間にか涙声に変わっていることもある。
とにかく、夜のどこかのタイミングで必ず彼女は泣く。
うちのアパートは壁が薄い上に音も響きやすいので、嫌でも隣の生活音が耳に入ってくる。俺自身はもう慣れてしまって、ここ数年は隣人の音が耐え難いほど気になるなんてことはなかったのだが……毎晩そんなものを聞かされたらさすがに気が滅入ってくる。
毎晩毎晩続く、悲痛な泣き声。それでも朝になれば笑顔を繕って「おはようございます」と挨拶をする彼女に俺は胸を痛めた。
何がそんなに悲しいんだろう。とんでもないブラックに勤めているんだろうか。それとも家族の問題だろうか。どうしても乗り越えられない過去があるのだろうか。それとも、ただ毎日不安でしょうがなくて、夜を越えるために必死で耐えている結果なのだろうか。
出勤のタイミングがちょうど重なって、話しながら一緒に階段を下ることが何度かあった。
「昨日のあれ見ました〜?ドラマの」
「ああいうのってほんとにあるんですかねぇ」
「じゃあ、――さんもがんばってください」
他愛もない話ばかりだ。遠ざかる彼女の背中を思い出しながら考える。――何がそんなに悲しいんだろう。そんなこと、俺に分かるはずもない。
それでも俺は毎日毎日飽きもせず、彼女のことを心配し続けた。洗濯機を回す音やシャワーの音が聞こえてくるとなんとなく安心した。テレビの音が聞こえてくると番組表を眺めながら「ああ今これ見てんのかな」と考えたりした。なんというか、彼女が隣の部屋で生きているというだけで、嬉しかった。我ながら気持ち悪いけど、彼女の音は俺の生活の一部になっていた。
ある夜、一際激しい泣き声が聞こえた。
残業の疲れもあって、湯船でうとうとしていた俺の意識は一気に覚醒した。酷い過呼吸と、壁に何かをぶつける音。おそらく頭を壁に打ち付けている。泣きながら。そんな姿がありありと想像できる、あまりに生々しく痛々しい音。
ひ、ひっ、う゛、はっ、はあはあはあはあ…はっ、あ゛…
今にも死にそうな声。間に挟まるずるずると鼻をすする音。どん、どん、と断続的に響く重い打撃音。それらが鼓膜を震わせる度、体の底から押し上げられる仄暗い何か。
立ち上がり、壁に耳を押し付ける。
あ゛、ぐっ…ひ、ひ、ひ、ひぅ、あ、はあ、はあはあはあ…
泣いている彼女の背中を優しくさすってあげたい。俯く彼女の顔を両手で柔らかく包んで涙を拭い、もう大丈夫だと言ってあげたい。抱きしめて、俺の肩に顔を埋める彼女の髪を撫で、それから赤子をあやすように背中をとんとん叩いて落ち着くまでずっとそばにいてあげたい。そして覆い被さって誰にも見られないようにしたい。彼女の頭を抱え込んで無理矢理にでもキスしたい。嫌だと喚いても逃がしたくない。組み敷いて隅から隅まで自分のものにしたい。
のぼせ上がった頭に映し出されるのは泣き喘ぐ彼女の姿。そんな姿見たくない。それなのに、俺の股間はパンパンに膨張していた。まざまざと見せつけられる、自身の欲望。相反する自分の姿が交互にちらつき、支配され、為す術もなかった。
はあ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああ…
もはや誰のものかも分からないほど枯れた声。風呂場にエコーするにちゃにちゃとした醜い音。乱れた二つの呼吸。不協和音。
この場に在る全ての音が鋭い刺激となって、血管が千切れそうになるほど俺を昂らせる。
「はっー、はぁー……」
ぽたぽたと床に滴る白濁した液体。俺は、いってしまった。
急激に冷えていく頭。
なんてことをしたんだ。
何もかも掻き消す耳鳴り。
なんてことをしたんだ。
なんてことをしたんだ。
慌ててシャワーをそれにあてる。火傷なんて考える余裕もない。一刻も早く、無かったことにしたくて、強い水圧で流し続けた。
しばらくその様子を呆然と眺めていた。
2
それ以来俺は、毎晩彼女の泣き声を聞きながら、自慰をするようになった。
彼女が必死に生きようともがく、その時の中に耳を傾ける、何ものにも代え難い多幸感。すり抜けようとしているのかというくらい、壁に顔を近付けて、その快楽を貪る。冷たい部屋に虚しく溶ける熱い呼吸。蕩ける思考。砂漠でオアシスに出会うみたいに夢中で扱いた。しかし一向に渇きはおさまらなかった。誰かにマリオネットで操られているかのように、滑稽な姿で自分の性器を弄りつづけた。その間だけは彼女の何もかもを手に入れたような気になれたし、反対にお前は何一つ持っていないと突きつけられもした。
今の僕には君しかいない。
そして彼女はこの壁の向こうにいて、それだけは確かに現実なのだ。下半身に走る痛みとも快感ともつかない感覚に何度も「ああ、生きてる」と思わされた。
この吐息が彼女につたわってしまったらどうしよう。ああでもそのほうが嬉しいかもしれないな――。
そうやっていつも液体になって流れてくだけの心。あなたに温められて、ゼリー状になったそれは、あらゆるものを絡め取って、見るに堪えない汚物の塊に変えてしまう。今まで積み上げてきた自分も、あなたを想う気持ちも、排水口に詰まったまま。
ああ、消えたい。
けれど、幾重にも重ねられた罪は、もう流そうにも流れない。
だから、突然決まった転勤は、ある意味一つの救いだった。
ここを出ていくのだ。全て自分の中に仕舞って、何も彼女に知られることなく。たまに話す、ただのお隣さん。それで終わらせるのだ。
相変わらずの日々。その日も俺は彼女の声を聞いていた。
――突如響く怒号。それは隣の隣、203号室に住む男のものだった。
「いっつもいっつもうるせぇんだよお前!!」
アパート中にこだまする、狂ったように鉄扉を蹴りつける音。
「ひっ…」彼女のか細い悲鳴。
「静かに泣け馬鹿野郎!!!」
「ったくよぉ……」
しんとした夜の廊下に嗄れた声が反響し、どすどすと階段を下りる音が遠ざかっていく。
それから彼女の泣き声は聞こえなくなった。
次の日も、その次の日も、彼女の声が聞こえてくることはなかった。
引っ越し前夜の、すっかり片付いた部屋で、仰向けに寝そべっている。明日にはもうここは俺の部屋ではなくなる。正直まだ、ここ以外の場所に帰る自分を想像することができない。十年いたんだ。それなりに愛着もあった。思えば彼女が隣にいたのは十年のうちの一年だけだ。十年のうちのたった一年。一生のうちのたった一年だ。
ついこないだ、彼女に会った。
「…実は、僕引っ越すんですよ」
「あっそうなんですか」
「さみしく、なりますね」
そう言った、彼女の笑顔。垂れ気味の目元に散らばる枯れた薔薇のような色をした皮下出血。
「その……」
「え?」
「すみませんでした。いままで」
「ご迷惑を、おかけしました」
彼女は俺に深々と頭を下げた。
もう隣からは何も聞こえない。聞こえないだけで今もあなたは泣いているのかもしれない。しかし俺は何もできなかった。何もしなかった。何を知っていた?確かに俺は泣き声でオナニーする屑だが、だからといって俺みたいな人間があなたに近付いてはいけないなんてただの言い訳じゃないか。あの203号室の男が来た夜、あなたに「大丈夫でしたか?」と、そう言いに行けばよかった。あれ以来あの男にぐちゃぐちゃにされるあなたの幻想が僕の脳にこびりついて離れない。あなたはその場に駆けつけた僕の腕を必死に掴んで助けを乞う。乱された衣服。傷ついた体。頬に張り付く髪。僕はまた支配される。あなたを凌辱した男にどうしようもなく嫉妬する。そして僕はあなたに今以上の傷を与えるだろう。傷を掻いて、えぐって、舐めて、剥いで、僕の傷にしてしまうだろう。そうやって、一生消えないようにしてしまうだろう。
壁に寄りかかり、耳を澄ます。そこからはもう何も聞こえない。それでも俺は手を伸ばしてしまう。
頼むよ。今できたら、何かもかも元通りになる気がするんだ。頼むよ。ぴくりとも動かないそれを握って、懸命に擦る。何かに縋るみたいに。痛め付けるような強さで。――頼むよ。気付けば涙が溢れていて。
ほんと、穴でも空いてんのかな。
散々俺を苦しめた、この不出来な粘土細工のような陰茎を、強く強く握り締めて、そのままバラバラに壊れてしまえばいいと思った。
3
暗い部屋の中で、パソコンのブルーライトだけが俺を照らしている。今の俺の生活はまるで燃え残った灰だ。ネットを開いてポルノを漁ること以外何も能動的になれなかった。曖昧な彼女のイメージは日に日に薄らいでいく。似てるのないかなと探してみても、やはりどれもしっくりこない。そんなことの繰り返しでいつも夜が過ぎていく。家に帰るのがつらくて仕方なかった。家に帰っても、帰ったという感覚がない。かといって外にいるのも苦しい。人と話すのが怖い。誰かと話していると、何か酷い嘘をついて相手を騙しているような気分になった。
俺はあなたが思ってるような人間じゃないんですよ――。
誰にも言うことは許されなかった。罪から逃れて生きながらえ、平然と街を歩いている。そんな自分に時々耐えられなくなった。死にたくなった。しかし死ぬこともできなかったので、仕事はし続けた。与えられたことをただ淡々とこなしていればいい。機械のように。つらい、なんておこがましい。つらいなんて思う暇を作らなければいい。画面の中の世界では目を背けたくなるような一方的な性行為が堂々と行われている。勿論フィクションだ。そうだ、俺は何もしちゃいない。
時計の針が0を指しても、俺は赤く濁った眼でパソコンを眺め続けた。座っているのがつらくなってきたら、今度は寝転んでスマホで続きを見た。次々タブを切り替え、その度に知らない女が俺の目の前で、微笑んだり泣いたり怒ったりよがったりした。
最近じゃもうわざわざズボンを下ろすこともしない。何回やっても結局は駄目だった。俺は勃起不全だ。
酷い頭痛がする。何が欲しいのかも分からないのに、死ぬほど欲しくて堪らなくて、たくさんの時間を無駄にした。それでもやめることができなかった。誰かに助けて欲しかった。
ぼんやりとした頭で、出勤の支度をし、部屋を出た。
閑静な街に佇むこのマンション。朝の訪れを告げる鳥の声は、やがて子どもたちの声に変わる。穏やかな陽の光を辿ると、そこには無数の人々の暮らしが広がっている。
「じゃあ――もがんばってね」
どこからかそんな声が聞こえ、辺りを見回してみると小学生と母親らしき人物がハイタッチをしていた。再び歩き出して、ふと、あのアパートの階段で交わした彼女との会話を思い出した。毎朝見せてくれたあの控えめな笑顔が、心の奥底にしまい込んでいた彼女の姿が、鮮明に蘇った。
ずっと彼女を想っていた。あの日当たりの悪いアパートの、201号室を出ても、何も聞こえなくても、ずっと頭から離れなかった。今更分かるはずもないのに、彼女が泣いていたその理由を、俺は今でも考えられずにはいられない。彼女が好きだった。好きで好きで、どうしようもなかった。そして、たぶん、それは今でも変わらないのだ。
201号室