抑圧からの解放3
抑圧から解放へと至る壮大な物語。その物語にのせられて道を踏み外してしまった。たまにあった成功と、あとは多くの取り返しのつかない失敗。解放を求める物語は偉大であった。まだ見ぬ新境地を求めて、何かに恋焦がれて、猛烈に突き進もうとする様は勇敢であり健気であったが、惨めで貧しいものを感じさせた。周囲の世界は次々に様子が変わり、風習も価値観も同じ姿を留めてくれるわけではなかった。すべてがせわしなく慌ただしく、どこかへ向かって勢いよく猛進しているのだが、行く先はどこなのかは誰も知らなかった。どうして進まなければいけないのだろう。人間には知る由もなく、ただ知りえない意図によって上から操られるがままに、各々が懸命に生きているようでもあった。解放に次ぐ解放があり、社会は混沌としながらも、日常を慎ましく真面目に生きようとしていた。それでも、目前には何か広大な新世界が開けており、茫漠として吹き荒れた何かと常に対峙することを迫られる予感があった。何をしても落ち着かず、不安で寂しいものがあった。情念がいつも刺激され、よからぬ行動を起こすことを強いてくる力があった。
どうすればよかったのか。あのとき自分にもっといい選択肢があっただろうか。しかし、孤独だったのだ。どうしようもなく魅かれのだからしかたがない。解放を促してくるのなら、そちらの方へ進まなければいけいない。かつての旧世界でのしきたりも風習もすでに忘れ去られ、もはやあの地には戻れないという焦燥が募ってくる。心の中には砂がたまっていたが、これらを排除する術もわからず、何か息苦しさを感じながらも欲望に従う硬派な生き方を自分に強いるしかない。二つの世界の間で揺れ動きながらも、新しい方へ移行しなければいけない。そこには希望というよりも、痛ましさがあった。何か刺されるような心地で、荒れ果てた地へと踏み入れる。可能性という病。向学心、好奇心、向上心という罪を背負わされて、凡庸な魂が崖を登っていく。そういう風に生きるしかなかったのだろうか。もっと怠惰に生きたかった。すべてはあのときの衝撃からだった。どうして自分にあんな衝撃が訪れたのだろう。自分のような冴えない人間が、抑圧から解放への物語に触れてしまった。
しかし、もはや解放へ突き進む流れも終焉を迎えようとしている。急速に逆方向へ舵を切っているようにも見える。これからどうなっていくのだろう。解放へと至る過程で、自分の弱さを晒してもいいのかもしれないという期待が生まれた。これまでは強がらなければいけない、自分を欺いて、自分を奮い立たせなければいけないと、常に自分に鞭打ちながら生きてきたのだが、それをしなくてもいいという期待が生まれた。虚勢を張った強さと、自身の中に見出してしまった弱さの間で揺れ動くのは、思いのほか痛いものであり、そして誰にも打ち明けることができず、もどかしさと苦しさに打ちのめされる。弱さをそのまま露呈することは下品であり、いかにして弱さを表現するかが課題であったはずだ。だが、それももう過去の話だ。すでに弱さを堂々と見せつけてもいい時代になった。抑圧から解放へと向かう物語は終わったのだ。
じゃあこれからは何が流行るんだ。隆介は上野公園の並木道を目的もなく歩いていた。今日は夕方くらいから友達と予定を入れてある。上野で遊ぶときは予定より早めに行って、昼過ぎあたりから公園でぼーっとするのが隆介は好きだった。そうして、たまには科学博物館など行ったりして、宇宙を旅したり生物の壮大な世界に触れたりしてみる。少し背伸びして美術館なども行ったりすることもあった。もっとも隆介には鑑賞する能力はなかったが。上野公園の雰囲気はくつろぐことができた。やっぱり京都の鴨川と上野公園は別格だな。色々と考えると疲れてくるけれど、その二つの場所だけは違った空気が流れており、心の底の方まで癒してくれる何かがある気がする。きっと東京から離れて別の地で暮らすことになって、ほとんどの思い出が消え去ったとしても、上野公園を散歩した記憶はずっと残るのだろうなと思った。
抑圧からの解放3