ポチさんとイト
「ねぇ、ポチさん」
足を止めることなく、私はグルッと首をもたげ、見上げながら返事を差し出しました。
「何でございましょうか、織お嬢様?」
お嬢様も歩みを続けながら、こちらを見下ろしながら玲瓏なお声を渡して下さいました。
「なんか、ようやく涼しくなってきたよね?」
私はお嬢様を見上げたまま「そうでございますね。今年の夏は厳しい暑さでしたし、その上、暦では秋に突入したのにも関わらず、猛暑が続きました。
本当に厳しく、長い暑い日々、でした」と返答いたしました。
「でも、吹いてくる風に『秋』の香りがする」
おお、何と詩的なご表現ではありませんか。
織お嬢様におかれましては、当年取ってたったの12歳!
信じられない事でございます。
『年齢を2~3歳ほど誤魔化しているのではないか?』などとの疑念を心中に浮かべてしまいそうでございます。
ま、確かに織お嬢様、12歳にしてはかなりの高身長。
ざっとお見受けした所、165cmはあるのではなかろうかと…
そして、とてもお美しい。
そんなことを申しますとアンチ・ルッキズムの思潮の嵐が吹き荒れる昨今、いささか不謹慎にも受け止められかねませんけれど、それはそれ、事実でございますから、ねぇ。
その容姿は神様が全力でタクトを振った結果だ、と言い切っても全然過言ではないのです。
スラッと伸びやかな肢体の上で微笑みを浮かべている小さなお顔は彼女のお母様にそっくりでございます。目許がキリッと引き締まったアーモンド型の大きな双眸。スッキリと通った高い鼻梁。意志の強さと健康さを感じさせるカメリア色の口唇。
涼やかな秋風が心持ち前下がりで長めのワンレングス・ボブにカットされた濡烏の髪を揺らし、その先端が肩口をサラッと舐める景色は、何でしょう、とても映像的に秀麗でございます。
左の顳顬(こめかみ)に装着された、白銀色に輝く太いプラチナ・ワイヤーに細工を施して形作られた星型の髪飾りがお髪(ぐし)をまとめ上げております。そんなアクセサリーも素晴らしいアクセントとして良い働きをしております。
織お嬢様の今日のお召し物は…
あ、そうでした。
申し遅れました。
お嬢様のお名前、『織』と綴りまして『イト』と読むのでございます。
何ですか、織お嬢様のお母様が『結衣』というお名前でして、『衣を結うにはイトが必要』との謂れ、なのだとのこと。非常に素敵な名付け方法であられますなぁ。
あ、本日における織お嬢様のお召し物ですが、細版手のカシミアで編まれた橡(つるばみ)色のハイネック・セーター。シンプル・セッティングされた真紅のカラーストーンがペンダントトップとして付加されているエルメス製のチョーカー、アクア・スキュータムの灰白色の地色に茄子紺(英国の方々は『ロイヤル・ブルー』と言い張るのですけどね)それと榛(はしばみ)色のラインが交差していて、とてもシックな印象を受けるチェック柄を配された膝丈のプリーツ・スカート。と言っても彼女の御御足が長過ぎるのが原因なのか、膝丈のはずが膝上10cmくらいのミニスカートへと変貌している事は、ま、ご愛嬌でございましょうか。
お足許は黒鹿毛色をしたアンクルハイのブーツ。
織お嬢様がまとったその装いが元々長い手脚をより一層伸びやかに見せています。
何ですか、脳科学によると長く伸びやかな手脚が動く様を見ると、精神的な平穏を得られるのだそうです。
今現在の私、非常に心穏やかでございます。
あっ!
申し遅れましたっ!
私、ポチでございます。
ミヤウチ家でお世話頂いております、しがない雑種の老犬でございます。
私の記憶が確かならば、こうしてお会いするのは1年振りになりますなぁ。
本当にお久しゅうございます。
お見受けするに貴方様も息災であられるようで、とても幸いです。
あなた様と同様に私も齢を1つだけ重ねまして、人間に換算すると後期高齢者、後期も後期、80歳を軽く超えている事になるのでございましょうか?
しかしながら、まだまだ元気でございまして、彼岸からのお呼びが掛かってくる気配など微塵もありませぬ。多少は吻に白いモノが増えましたが、足腰の方は未だ弱る事もなく、散歩も全く苦になりませぬ。まぁ、若かった頃のように散歩にお連れ下さるミヤウチ家の方々を引っ張り回して翻弄する事こそ無くなったのでございますが。
ま、今はこの織お嬢様にリードを託しておるのですが。
織お嬢様と私が散歩をしているこの場所は三浦半島の西側、相模湾に面した砂浜海岸でございます。砂浜海岸とは砂や礫(れき:ま、石のことです)などの非固結物質(バラバラに離れた状態の粒子)からなる海岸のことです。固結物質(強く結合した状態にある粒子、つまり岩のこと)からなる岩石海岸の対に当たる物でございます。
遠方に江ノ島を望む、とても眺望の良い場所でして、相当に快適な散歩コースになっております。本日はご主人のアキヒコさんが所有しているミレニアムジェイドメタリックのBNR34 M.spec Nürの定期点検および各種のオイル交換を含む整備をするために、この三浦半島中部に位置する『荒川自動車』さんにお邪魔をしている、という経緯でございます。
織お嬢様はその荒川自動車さんにおいてクルマの保守点検整備を一手に担っておいでの六分儀様の一人娘に当たられる人物です。いつの頃からか、アキヒコさんが荒川自動車へと自車を持ち込む際に奥様のサチエさん、私、そして私の娘である慧茄(えな)を引き連れることが恒例事業となったのです。
そして六分儀様が作業を為さっておいでの時間、アキヒコさんとサチエさんは荒川自動車の代表取締役社長を務められている野々原咲耶様がステアリングを握るトヨタ・ランドクルーザーJ 70(通称ランクル70〔ななまる〕)に同乗して相模湾に面した三崎港にある市場、うらりマルシェに出向くことも慣例になりました。
この複合施設は市民ホールが併設された大層な建築物となっていて、三浦の風景を描いた巨大な壁画が目印です。館内には豊富な種類の魚介を扱う市場の『さかな館』と地場の産直野菜を販売する『やさい館』があります。
ま、つまる所、待機時間を利用して新鮮な食材を調達しに出掛けるという訳なのです。
その間、我々(私と慧茄)は家でボケーッとするしかなく…暇を持て余してしまうのでございます。そして、これも何時ころかは忘れましたが、真っ白な虚無時間を過ごしている私を見兼ねた織お嬢様が散歩へと誘ってくれるようになったのでした。
ただ、慧茄だけにはアキヒコ・サチエ夫妻から外出絶対禁止の『カーフュー(curfew)』が厳命されているので、散歩に連れ出すことが叶わないのです。
「ねぇ、知ってる?」
「何を、でございましょうか?」
織お嬢様は口許にアルカイックスマイルを浮かべながら仰います。
「あのさ、『秋の日は釣瓶落とし』っていうじゃん」
「そうですね」
「これってどういう意味か、分かる?」
「はい。秋になると日没、つまり日の入りの早さが段違いに増すようになることを、井戸に落とす釣瓶、つまり井戸水を汲み上げるのに使用する桶の降りるスピードに例えていう諺(ことわざ)でございます」
「やっぱり、知ってるんだ」流石はポチさん、と織お嬢様は満足を表情に湧出させました。
「恐縮でございます」
「でも、さ」
「?」
「何でそうなのか、そのメカニズムが分からないんだよね」太陽を確認するかのように、一瞬だけ上を見上げた後、秋の強い陽光に眩惑されたのか、瞼を閉じながら俯く織お嬢様。
そして「ね、何で?」と、澄んだ双眸で私を真っ直ぐ見詰めながらお尋ねになりました。
『Heterochromia iridis』
虹彩異色症。
これは左右の眼で虹彩の色が異なる、若しくは一方の瞳の虹彩の一部が変色する形質のことです。私の娘の慧茄がそういう特性を持っていますが、実は織お嬢様もそうです。
彼女の右の虹彩は黒褐色をしていますが、左の虹彩は褐色(かち・いろ)で、紺色よりも濃い、漆黒の黒に思えるほどの暗い濃藍色をしています。織お嬢様の左の瞳を覗き込む度に、私は静嘉堂文庫美術館に所蔵展示されている曜変天目茶碗、通称『稲葉天目』の斑紋を取り囲む地の部分の濃藍色を想起します。
「そうですね…」説明のための言葉を探しながら右上へチラッと一瞥をくれました。
どうしましょうかね?
いくら織お嬢様が怜悧で聡明だといえ、当年取って齢12の少女です。
難しい専門用語は可能な限り避けなければいけません。
「1年間を通して、毎日同じ時刻に太陽の位置を観察し続けると、1年周期で太陽の位置が変化を示します。
そして,その軌跡は,直線ではなく8の字を描くのです。
この現象を『アナレンマ(Analemma)』といいます。
アナレンマは,日によって太陽の南中時刻が変化することを示しています。
どうして太陽は8の字を描くのでしょうか?
その理由は、地球が太陽の周りを回る軌道が完全な円ではなく、少し楕円になっている事と、地球の自転軸が傾いている事、地球が太陽の周囲を回る公転軌道上を移動する速度が一定ではない事が原因だと考えられます。
実は地球の地軸は公転面に対して約23.4度傾いています。
この傾きにより、地球上の各地点が受ける太陽光の量が季節によって変化し、昼の長さが変わります。更に、地球の自転軸の向きが常に一定であるため、太陽の動きも季節によって変化し、日の出・日の入り時刻に影響を与えます。
日の出・日の入りは季節によって変化しますが,正午にはいつも太陽が真南(南中)にあると予想されます。
しかし,今日真南にある太陽が,明日再び真南に来るするまでの時間はピッタリ24時間ではないので,1日ごとに南中時刻がずれます。
このような南中する時刻が1年の間に変化することで生まれるズレを『均時差』と呼びます。
均時差とは、太陽時計と機械式時計の時刻の差のことです。
地球の公転軌道が楕円形である事と、地軸が傾いている事が原因で起こる太陽の動きの変動などの理由で、太陽時計の時刻は機械時計の時刻からズレていってしまいます。
端的に言うと、このギャップが均時差です。
均時差は、1年を通して変化し、最大で約16分になります。
地球が太陽に近い位置(近日点・冬季に発生する)にある時は,単位時間当たりに公転で進む距離は大きくなります。言い換えると近日点では地球の公転速度が速くなるのです。
逆に地球が太陽から遠い位置(遠日点・夏季に発生する)にある時は,進む距離が小さくなる、つまり地球の公転速度が遅くなる訳です
ちなみに地球と太陽との間の距離のことを宇宙空間における距離の単位として用い、これを天文単位と呼んでいます。太陽-地球間の平均距離は1億5000万kmで、夏季に遠日点を迎えた時には500万kmほど遠くなります。
えー、これらの要因に加えて、地球の自転1周に掛かる時間も毎日異なっています。
だから、こういう事象が幾つも重なり合って、均時差が発生するのです。
この均時差によって生じる南中時刻のずれの分だけ太陽の位置が横にずれ,8の字を描くようになるのです。
これは人類が機械式時計を使用し始めてから現れた事象でもあります。
その前まで我々は時刻を決定するため、主として日時計を利用していました。
日時計を使うと,南中時刻=正午となるので,1年間正午に太陽を観察しても,太陽の位置は8の字を描きません。
日時計に頼らずに時刻を決められるようになって初めて,正午に南中しないという事象が発生するようになったのです。
そうです。
ただいま申し上げましたこれらの要因が組み合わさることで、太陽が毎日同じ時刻に同じ位置に見えるわけではなく、少しずれて見えるのです。そのずれが積み重なって、1年間を通して見ると8の字のような曲線を描くように見えるのです。
そしてアナレンマは、日の出・日の入りの時間の変動と密接な関係がございます。
例えば、冬至の日が1年で一番昼が短い日なので日の入りも一番早い日だと思いがちですが、実際には、一番日の入りが早い日は冬至の日より少し前だったりします。
大体11月、冬至の約半月前くらいになるのでしょうか。
ちなみに日の出が一番遅いのは冬至の約半月後となります。
このズレの原因は、何度も繰り返しますが地球の公転軌道が楕円である事、公転速度の変動と自転軸の傾きが複雑に影響しているから、なのです。
日の出、日の入りの時刻が変動する理由は上記の通りです。
では何故、秋の日没時に太陽の沈む速度が増すのでしょうか?
実は地球が太陽に最も近い位置にある時(近日点・冬季)は、公転速度が速くなるため、太陽が早く昇って早く沈むように感じます。
一方で、地球が太陽から最も遠い位置にある時(遠日点・夏季)は、公転速度が遅くなるため、太陽が遅く昇って遅く沈むように感じます。
アナレンマという現象によって日の入りの時刻が秋季に早まり、地球の公転速度が速くなることが原因でまるで『釣瓶』を井戸の底に落としたように速く太陽が沈んでしまうようになるのです。
『秋の日は釣瓶落とし』
決して笑福亭鶴瓶師匠が『ぅあぁーっ』とダミ声を上げながら奈落へと落ちていく様子を表している訳ではありません」
「ふーん」織お嬢様は得心が行った表情を容貌に湧出されました。
良かった、良かった。
ご満足頂けたようです。
切りが良いので、ま、これで説明を終了致しましょうかね。
心理的時間の進み具合などは、この際割愛しましょう。
え?
『心理的時間』って何だ? ですって?
うーん…
機械式時計などが刻む時間を『物理的時間』と呼ぶのに対して、人が意識的もしくは無意識の内に感じ取っている時間を『心理的時間』と呼んでいます。
人間には(もちろん我々イヌにも)外部の刺激を受け取る感覚器官が備わっています。
電磁波…可視光線だったら眼。
音であったら耳。
匂いであったら鼻、というように。
ところが、時間経過を感じ取るための直接的な感覚器官は未装備です。
それにも関わらず『時間が流れている』という感覚を人は持ち合わせています。
不思議ですよね。
脳科学の分野では、脳内のどこかの部位で『パルス』と呼ばれる一定のリズムを持った神経信号が出されていて、その信号の蓄積量が『心理的時間』に対応しているという仮説があります。
1960年代から、この脳内パルス発振器を探す研究が続けられているのですが、いまだにパルス発振器に該当する部位は特定には至っておりません。おそらく脳内の特定の部位だけが時間の感覚を司っているのではなく、複数の部位がパルス発振器という複雑な処理作業に関わっていると考えられます。大脳基底核という大脳の深部にある部位が秒単位の時間感覚に関係しているとされていますが、その詳しい機序は全くの不明なのです。
しかしながら、脳科学では時間感覚において重要な『パルス発振器』があることは確実視されているのです。
このパルス発振に神経活動が関わっているのなら、もし体温が上がるなどして神経活動が活発になれば(つまり代謝が上がると)パルス発振は激しくなり、パルスはより早く蓄積するはずです。すると『心理的時間』の流れが速くなり、相対的に『物理的時間』の流れが遅くなるため、時間の経過が『遅く』感じ取られるようになるでしょう。
そうです。
運動時や気温の高い夏季、そして子供時代には代謝は高い状態にあります。
ですから『心理的時間』の流れが速まり、相対的に機械式時計などが刻む『物理的時間』を遅く感じてしまうのです。
対して、起床時や大人へと成長した個体、そして秋から冬など気温が低下している期間、代謝は低い状態にあると言えます。つまり物理的時間の流れが速く感じ取られるようになるのです。
そうです。
秋には代謝が低くなる。
それゆえに人が感じ取る『周囲の時間の流れ』の進み方が速くなるのです。
これも『秋の日は釣瓶落とし』の原因の1つかも知れません。
「んーっ!」
ゆっくりと海を眺められるように砂浜海岸にポツンと設置されたベンチ、古い物なのでしょう、あちこち塗料が剥げてしまっていますが、奇跡的にもその頑健性は全く失われていない事が外観からも容易に伺えるのでございます。その丈夫さだけが売りのベンチに腰を下ろした織お嬢様は長い手脚をグーンと伸ばしてストレッチをなさいました。
彼女がそうすると、蒼穹が拡がり、その高度を倍にするかのような錯覚に囚われてしまう私なのです。彼女の腕が天球を押し上げ、空間を伸展するかの如く、です。
「今日も海が綺麗だね、ポチさん」
織お嬢様と正対するように座っておりました私、急いで首を捻じ曲げて後ろを振り向き、秋の陽光を反射して燦々と煌めきを発散させている海面に視線を走らせました。
ん〜、この体勢は年寄りには些か辛いものがありますなぁ…
「そうでございますね、織お嬢様」
あ、もう限界、でございます。
無理な姿勢は止めて拝顔できるように向き直ることにいたします。
織お嬢様が私を見降ろしながら口を開きました。
「ねぇ、また質問しても、いい?」
「何でございましょう?」
「水平線って無限って感じがするけど、ホントはどこまで拡がってるの?」
「織お嬢様、身長はどれくらいでしたでしょうか?」
「165…ううん、160くらいかな、今」
!
ご自分の身長を低めに申請するとは、一体どういう心境なのでしょうか?
ま、そこには拘泥しないことにしておきましょうかね。
「身長が約160cmの女性が水平線を眺めた場合、約4km先まで望めると思われます」
「何で4kmって分かるの?」
「何故、4kmと言えるのか?
地球は丸いため、高い位置から見れば見るほど遠くまで見渡す事が可能になります。
ま、これは身長が高いほど、水平線までの距離が長くなるという事です」
「それは何となく、直感的に分かるかなぁ…
でも、どうやって計算するの?」
「見通せる水平線までの距離は次の計算式で概算…ウーンと…おおよその数値が出せます。
d^2=2Rh+h^2
dは水平線までの距離、
Rは地球の半径で約6371km、
hは観察する人の眼の高さ(m)です。
(『^』は『乗』を意味します。つまりd^2はdの2乗を意味します)
この式に、地球の半径と女性の眼の高さを代入し計算すると、およそ4kmという結果になります。
しかし、この数値はあくまでも『大体』であって厳密なモノではありません。
何故ならば湿度や気温など、大気の状態によっても見通せる距離は変化しますし、地形や水平線との間に存在する障害物によっても見通せる距離は制限されますから」
織お嬢様が半分感心、半分呆れたようなお声で「ホンットに何でも知ってるんだね」と仰いました。
おやおや、訊かれたからお答えしただけですのに。
何か、気分を害することをしましたかねぇ?
あ、累乗数、無意識の内に使ってしまっておりました。
累乗数とは同じ数や文字を何回か掛け合わせた結果、得られる数のこと。
わかり易く言うと文字や数字の右上に小さな数字や文字が書かれているヤツでございます。
ちなみに、その小さな数字や文字を『指数』と呼んでおります。
そう、累乗は中学校の数学で初めて登場する数学的概念なのでした。
これは迂闊っ!
「すいません、織お嬢様。気付かずに中学で学習するべき数学的概念を使っておりました。
申し訳ありません」
すると「だいじょぶ。累乗数なら知ってるから」と織お嬢様が小悪魔的な要素をあえかに含んだ微笑を浮かべました。
!
小学六年生にして既に累乗数をご存知であるとは!
「でも、さ」
「何でございましょう?」
「水平線が無限の彼方にあるって方が、気分的にポエティックじゃない?」
「確かに、そうとも言えますね。
海の彼方には理想郷があるのだと信じられている地域もございますし」
「それ、何のこと?」と、織お嬢様は『ん?』という風に小首を傾(かし)げられました。
おぉ、まさに『小首を傾げる』の定義にしたい、小首の傾げ方でございます。
「ニライカナイと呼ばれるモノです」
「?」
「ニライカナイとは、沖縄や奄美地方に古くから伝わる言葉で、海の彼方にあり、神々が住む理想郷を意味します。琉球神道では、魂が帰り、また生まれてくる場所と考えられていました。
ニライカナイに関する主な特徴は次のとおりです。
生命や豊穣を生み出す神々の住まう楽土で、神々は時々やって来て、幸福や豊穣をもたらします。これは記紀の神話に登場する常世(とこよ)の国に相当するとかんがえられます。
火や稲をはじめ島人の祖先もここから渡来したとされていたそうです。
現地に住まう人々に喜びをもたらす『祝ひ(ほか・ひ)の人』と呼ばれる人々が海の彼方から時折訪れるのですが、その人達もここからやって来ると考えれておりました。
ニライカナイの神々を拝む拝所は、遠く海を見渡せる集落の前の浜や海岸の崖上、丘の上などに設けられることが多く、沖縄郷土村では海の見える西側斜面の丘の上に設けられています。
琉球開闢(かいびゃく)神話では、アマミキヨという神が、ニライカナイから降り立ち国づくりを始めたという伝説が最も有名です」
「ふーん…海の彼方の理想郷、か」
「はい」
「昔の人は無限の向こう側にそういう土地があるって想像してたんだね」
しかしながら彼女の含みを蓄えた言葉の連なりを聞くに、まさかとは思いますが無限大の『濃度』という概念までご存知であるような気がしてならなのですが…
いやいや、本当にまさか、でございますよ。
そんな事態は想定外中の想定外です。想定外の極致でございます
え?
『無限大の濃度、って何だ?』ですか?
ま、簡単に言っちゃうと無限大にも様々な種類が存在しているということです。
え?
『無限は無限で、そこには違いはないだろ』ですって?
いやー、それが存在するのですね。
無限大の濃度という概念を説明する前に『有限集合』と『無限集合』の違いを明確に理解する必要があるので、簡単にご説明いたします。
有限集合とは、要素の数が有限個である集合です。例えば、{1, 2, 3}のような集合です。
それに対して無限集合とは、要素の数が無限個である集合です。例えば、自然数全体の集合 {1, 2, 3, ...} や、実数全体の集合などが無限集合です。
そして濃度とは、集合の『大きさ』を表す概念です。
有限集合の場合、濃度は要素の個数に一致します。
しかし、無限集合の場合、要素を1つ1つ数え上げることはできません。
そこで、全単射という概念を用いて濃度を比較するのです。
2つの集合AとBの間で、集合Aに含まれる全ての要素と集合Bに含まれる全ての要素がちょうど1つずつ対応するようなケースの事を全単射と呼びます。
『濃度が等しい』とは2つの集合の間で全単射が存在することです。
例)集合A {1, 2, 3, ...}と集合B{1, 2, 3, ...}
つまり『濃度』は集合に含まれている要素の個数そのものではなく、別の集合と要素を1つ1つ対応させられるかどうかで決まる概念です。
さて、下準備が完了しましたので、無限大の濃度についてご説明いたします。
無限集合の濃度には、様々な種類がありますが、代表的なものとして、以下の2つが挙げられます。
1)可算無限:{1, 2, 3, ...}のような自然数全体の集合と同じ濃度を持つ集合です。マイナスの数をも包摂する整数全体や、分数の形で表現できる有理数全体の集合も可算無限となります。つまり『最後まで数え上げることは出来ないが、並べることは出来る無限』だと言えます。
2)非可算無限:可算無限よりも大きな濃度を持つ集合です。整数の比つまり分数で表す事が不可能な数字の無理数をも含む実数全体の集合が非可算無限の代表例となります。
数え上げる事はおろか、並べる事すら不可能である集合とも言えます。
並べる事さえも不可能という事は可算無限よりもその『強度』が大きい、とも言えるのです。
些か乱暴な言い回しになりますが、強い無限大、と言えます。
ま、無限大の濃度とは数学的に非常に重要な概念ではあるのですが、日常生活においては全く考慮する必要など無い、一般人にとっては一種の無駄知識ではありますなぁ…
「ねぇ、ポチさん…」織お嬢様が私の顔を覗き込むようにして、その玲瓏たる相貌を近付けて「無限大の濃度、って知ってる?」と蠱惑的な笑みを顕現なさいました。
!
「海の水が塩辛いって、ワタシに初めて教えてくれたのはケンゴだったんだ」
「ほう、六分儀様が…」
織お嬢様が私を見降ろしながら「でも、ね…それってホントの海じゃ、なかったんだよ」と微笑みました。
「本当の海ではなかった…とは?」私は訝しげに首を傾げます。
「それって、浜名湖っていう汽水湖、だったんだ」
「ほほぅ。浜名湖でございましたか」
「そう。で、その後、ホントの海に初めて出逢った時に、どのくらい塩っぱいか、確かめてみたんだけど、やっぱりホントの海の方が塩っぱかった」
「ははぁ…」
「ははぁ…?」
「忠実なる番犬の専門用語でございます」
織お嬢様は『また軽口が始まったよ』と相好を軽く崩しました。
「で?」
「海の塩分濃度は、領域によって多少の違いはあるのですが、一般的には3.5%前後で比較的安定しております。
それに対して浜名湖のような汽水湖は海水と淡水、真水のことですが、その両者が混ざり合うため、塩分濃度は場所や季節によって大きく変動します。
通常0.5%から3%程度の範囲で、海よりは低い塩分濃度です」
「ふーん」
「汽水湖の塩分濃度が海と異なる理由は、そうですねぇ…
河川から大量の淡水が流入、流れ入って来るために、海水が薄められるから、とか。
潮の干満、満ち引きによって、海水が入り込んで塩分濃度が上昇したり、逆に淡水の流れ込む量の方が勝る事で塩分濃度が低下したり、とか。
夏のように気温が高い時期には湖表面から水が蒸発するので塩分濃度が上昇したり、とか。
梅雨時期の降水量が多い時期だと、雨は淡水、真水ですから、塩分濃度は低下します」
「ケンゴが前に教えてくれたんだけど、湖って川なんだってね」
「河川法という法律では『河川』という用語に『公共の水流及び水面』という定義が与えられております。この定義の中には自然の湖沼(湖や沼のことです)も含まれているため、法律上は湖も河川の一種であると見做されています」
「法律上は、なんだ」織お嬢様は右斜め上に視線を送りながら「でも、何で?」とお尋ねになりました。
「行政上、その方が何かと都合が良しいのでしょう。
多くの湖には、河川が流入したり流出したりしていますから、その水系(水源から河口にいたるまでの本川や支川のまとまりを水系と言います)全体を管理する上では、湖も河川と一体的に考える方がより合理的なのです。
加えて、湖は河川と同様に重要な水資源であって、洪水調節や水の供給など、多様な機能を担っており、その管理上も湖と河川を一体的に扱う方が都合良いのだと思われます。
自然科学的な視点から見ると、明らかに湖と河川は異なるものですが、法律や社会的な側面から見る限りは、両者を一体的に捉える必要があるという事ですね」
「全ては人間の都合、なんだ」
「はぁ」
「浜名湖は、ね、色んな生き物の、何て言うんだっけ…」織お嬢様は左斜め上に視線を走らせながら「あ、そうだ。『揺籃の地』だ。生命の揺籠(ゆりかご)なんだって」って、ケンゴが言ってた、と仰いました。続けて「湖なのに『地』なんておかしいね」と笑います。
「汽水湖のように淡水と海水という違う環境が出逢って混ざり合うと生物を育むのに非常に適した場所となります。
動物や植物が多種多様になる理由は…」
「聞かせて」
「主に2つ、ございます」
「ふんふん」
「理由の1つ目は『グラデーション(gradation)』が発生するから、です。
グラデーションとは『勾配』言い換えると『緩やかな移り変わり』です。
例えば塩分濃度を例にとると0%の淡水から3.5%の海水まで緩やかに移行して行く環境が発生します。
塩分濃度が1%ほどだとシジミが生育し、3%に近くなるとアサリや蛤が生育するようになります。同様に植物も淡水を好む種から海水を好む種まで多様な種の植物が繁殖して行くのです。
この現象を『界面作用』と呼んでいます」
「かいめん、か…」
「互いに接触している二つの相の境界面のことです。一方の相が気相(または真空)の場合は,特に,表面とも言います。
理由の2つ目ですが、汽水域は『緩衝帯』となるから、です。
汽水域、実は河川でも河口付近において発生しているのですけれど、この場所では河川の流れが非常にゆっくりとなります、海に流れ出そうとする『河の水』と、打ち寄せる波の力で『河の水』を押し戻そうとする『海の水』が衝突するため、河の流れも緩やかになり、海の波も静まるから、です。
水の流れ方が穏やかになった河口付近では、砂が堆積して溶存酸素量(水に溶け込んでいる酸素の量)が豊富になります。この状況は生物にとって非常に好ましい環境であるので、多種多様な生物が発生生育するのです。
この現象は『緩衝作用』と呼ばれます」
「かんしょう…か」
「2つの物の間に起こる衝突や衝撃をやわらげること、もしくは、その物のことです。
河川法、そうですね…河川の河口部のスケールが巨大化したモノが、浜名湖のような汽水湖であると見做すことができますよね。
だから汽水湖では多種多様な生物が多数繁殖できるのです。
しかし、非常にデリケートで繊細な環境でもあるので、色々な事象の変化に対しても敏感に反応します。
例えば、河川からの淡水の流れ込む量の変化だとか、生活排水や工業廃水の漏出(漏れ出ることです)などが原因で簡単に水質や湖底環境が悪化してしまうのです」
「なるほど」
「浜名湖を訪問された時に、現地の魚介類を何か、召し上がりになったのでしょうか?」
「うん。いーっぱい食べた」織お嬢様が満面の笑みを浮かべました。
「ほほぅ。何を、でしょうか?」
「ハモさんでしょ、フグさん、それにタイさんも」
「ハモ、フグ…遠州灘の名産品ですな」
「タイさんは、ね、赤いタイさんと黒いタイさんの2種類、食べたんだよ」
「黒鯛も、でございますか」
「うん。両方ともとっても美味しかった」
「それは良ございました」
「うん!」と、織お嬢様が湧出させた笑顔は、この世界の要素を全て溶融する、破壊的なまでの威力を発揮しました。
黒鯛は生育環境によってその食味に雲泥の差が出ますから、非常に幸運でしたね。
ま、その飛び切りの笑顔が幸福を呼び込むのでしょう。
「ケンゴ、だから、だよ、きっと」
「?」
「ケンゴが初めての人だから…海のお水が塩っぱいって教えてくれた、初めての人。
だから良い事が起こるんだと思う」
「ははぁ」
「健爾パパ以外で、初めて手を繋いだ男の人もケンゴ。
健爾パパやママ以外で、私の名前を『ちゃん』付け無しで、初めて呼んだのもケンゴ。
初めて二人切りでお泊まりした人も、ケンゴ。
だから、必ず、絶対に、初めてのオト…」と、彼女は一旦構音しかけたお言葉を、コクンと飲み込んでおしまいになりました。
「?」
「ううん…何でもない…」軽く頭(かぶり)を振った後、織お嬢様が俯き様に、一種の照れ、いや恥じらいとも表現できる仄かな笑みを浮かべました。
何でございましょうか?
ま、気付かない振りを演じるのが得策なのですかね、こういう時には。
砂浜海岸にポツンと置かれた古めかしいベンチから荒川自動車さんまで緩めのスピードで歩くと約30分かかります。
織お嬢様と私はポトポトとした足取りで、のんびりと歩いて行きます。
「ねぇ、ポチさん」
「何でしょう?」私が見上げると織お嬢様の双眸と視線が絡みました。
「何で、私だけなんだろう?」
「何が? でございます」
「何で、私だけがポチさんや慧茄ちゃんたちとお喋りができるんだろう?」視線を前方へと移行させながら彼女がポツリと漏らすように呟きました。
「さぁ。何で、でございましょうね」私も前方に向き直りながら答えました。
『ふふっ』と口許に微笑みを浮かべながら織お嬢様が「ポチさんにも分からないこと、あるんだね」と私を見降ろしました。
さて、どういう解説をすれば良いのでしょうかね?
私は言葉を探りながら、答え始めました。
「一種のバグ、なのかも知れません」
「バグ?」
「そうです、バグです」
「バグってコンピューター・プログラムに関係してるやつだよね」
織お嬢様の聞き返す声音には、戸惑いが明確に現れていました。
私は、彼女の思考の揺らぎを知覚していない風を装いながら話を進めました。
「この世界は現実に起こっていることだと思われますか?」
「?」
「織お嬢様が暮らしているこの『世界』が現実である、と思ってらっしゃいますか?」
「そりゃ…えっと…ポチさん、一体何を言い始めたの?」
「ずっと昔、中国の戦国時代の宋という国に生まれた荘子という思想家が『胡蝶の夢』という説話を残しています。
ざっくりとご説明すると、荘子が夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてヒラヒラと舞い飛んでいた時、パッと目覚めました。目覚めた荘子は『私は目を覚ましたが、果たして自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも実は夢で見た蝶こそが本来の自分であって、今の人間としての自分は蝶が見ている夢なのだろうか?』と考えたのです。
つまり、夢の中の自分が現実か、現実の方が夢なのか、そう荘子は自問したのです」
「ふーん」織お嬢様は何やら難しい表情をその相貌に浮かべ「で、その荘子って人はどう結論付けたの?」とお尋ねになりました。
「彼の結論は…夢と現実、どちらが真実の姿なのか、それは問題ではなく、蝶である時はヒラヒラと宙を舞い、荘子という人間である時は沈思黙考する。
そのどちらもが真実であって、己であることに変わりはない。
どちらが真の世界であるのかを論ずるよりも、どっちも肯定して受け容れ、それぞれの世界で満足が行くように生き切れば良い。
『夢が現実か、現実が夢なのか?』
そんなことは、どちらでも良いことである。
というものでした」
「あら、ま」
「あら、ま?」
「1人の平凡な少女の専門用語」
織お嬢様が平凡だとは、決して誰も思わないと…
「夢なのか、現実なのか、確かめようがないことは放置しろって言ってる気がする」
「ま、確認の仕様がありませんからね。物理学でも『この宇宙の外側がどうなっているのか?』などのような確認不可能な事象は真剣には考えないのだそうです」
「そりゃ、そだね」と彼女は朗らかな笑い声を立てました。
「Life’s but a walking shadow, a poor player」
この囁くような私の呟きを織お嬢様は見逃しませんでした。
「それってマクベス、だよね?」
「ご存知でございましたか」軽い驚きと共に私は見上げました。
「うん。ケンゴが時々シェイクスピアの戯曲からセリフを引用することがあるから。
日本語だと『人生は歩く影法師。哀れな役者だ』だっけ?
それで、合ってる?」
「はい。その通りにてございます。
シェイクスピアの四大悲劇の1つである『マクベス』
『マクベス』は、魔女によって預言される『マクベス、王になる男』という言葉に翻弄されて彼の妻とともに時の王様を殺してしまい、その代わりに玉座に着いた後には暴政を行って、遂には破滅してしまう、ある将軍の物語です。
その第5幕第5場、マクベスは王様になる野望を妻の為に果たしたのにも関わらず、その妻が亡くなったことを告げられた際、人生の虚無を感じたマクベスが言い放つ独白は、Tomorrow Speechと呼ばれています。
『To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life’s but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.』
『明日、また明日、そしてまた明日と、
記録される人生最後の瞬間を目指して、
時はとぼとぼと毎日の歩みを刻んで行く。
そして昨日という日々は、阿呆どもが死に至る塵の道を
照らし出したにすぎぬ。消えろ、消えろ、束の間の灯火!
人生は歩く影法師。哀れな役者だ。
出番のあいだは大見え切って騒ぎ立てるが、
そのあとは、ぱったり沙汰止み、音もない。
白痴の語る物語。何やら喚きたててはいるが、
何の意味もありはしない』
(マクベス 第5幕第5場 河合祥一郎訳 あさ出版から)
シェイスクピアの時代『世界劇場(テアトルム・ムンディ)』と呼ばれる『この世界は劇場であり、劇を観る観客は神。人は皆、男と女もただの役者にすぎない』という人生観がありました。Tomorrow Speechではこの世界劇場思想を踏まえて、人間の一生を、出番の時だけ舞台に上がる役者のようで、ただの影のように虚しいとして悲嘆に暮れています」
「それが、何なの?」
「つまり、我々が生きているこの世界は虚構なのかも知れない、という事です」
「何、それ?」
「この世界はシミュレイテッド・リアリティ(Simulated reality)なのかも知れません」
「それってコンピューター・シミュレーションとかと何か関係がありそうだね」
織お嬢様のその眼差しに真剣さが宿り始めたのが伺えます。
「はい。シミュレイテッド・リアリティはシミュレーション仮説とも呼ばれますし」
「で?」
「はぁ」
仕方ありませんね。
それを解説するという難儀な事を担うのが私であるという不幸を呪うばかりでございます。
そして私は左斜め上に一瞥をし、日暮れ時が近付いていることを確認した後「この仮説のご説明をする前に下準備として、関連する事柄を説明したいのですが…」と答えました。
「Go ahead」
「Make my day」
「クリント・イーストウッドは良いから」
「では、ご説明します。
まず忘れてはいけないことが人間の意識を形成している『脳』は『頭蓋骨の中にある』という事実です」
「とうがいこつ?」
「通称名は『頭蓋骨(ずがいこつ)』です。
その頭蓋骨は言わば外部から隔絶された『暗室』です。脳は外界から遮断された孤独な存在なのです。外側の世界との接点は、主に身体からの感覚入力と、身体への運動出力です。
つまり脳と外部の世界の接続は間接的で限定的なのです。
身体情報へのインプット・アウトプットは神経繊維を伝導する電気信号とシナプスという神経細胞間で信号を手渡しする神経伝達物質が媒介しています。
この電気信号はスパイクと呼ばれ、『0』と『1』のデジタル方式です。
視覚も聴覚もデジタル信号なのです。
周囲の風景映像も聞こえてくる音も直接脳に届く訳ではありません。
網膜や内耳で、光や音などの物理情報がデジタル変換され、その電気信号が脳に届くのです。身体感覚情報の全て、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚は脳に入力される時点ではデジタル変換後の電気信号です。
この電気信号を脳は能動的に『解釈』することで『この世界の有り様』を脳の内部で再構築しているだけに過ぎません。
例えば視覚は目から入った光が網膜を刺激し、電気信号が与えられた脳が像を結ぶに至るだけです。私たちは対象そのものではなく、あくまで脳に投影された像を認識しているに過ぎないのです。
自分の頭蓋骨の外側に出てデジタル信号の根源、その発生源を実際に確かめることは不可能。脳内という、言わば途絶空間内で、そこに届けられたデジタル信号のみから外部世界を復元しなければならないのです。
私たちが認識している世界はすべて脳内現象に他なりません。認識が脳の枠を超えることはありえませんし、外部領域に何があるのか、あるいは何もないのかは絶対に知ることはできないのです」
「なるほど」
私は、できるだけ理解しやすいように、言葉の選択に細心の注意を払いながら、説明を続けました。「シミュレイテッド・リアリティ、もしくはシミュレーション仮説は2003年にオックスフォード大学の教授で哲学者のニック・ボストロム博士によって提唱された仮説です。
彼の唱えた主張を簡単にまとめると、こんな感じです。
1)我々の子孫、つまり未来の超文明を手にできた人類、またはどこか別の系外惑星に住まう、自分たちの文明を桁違いなレベルにまで進化・発展させられた外星人によって、強力な演算能力を誇るコンピューターが開発され、それを活用する事で人工意識を備えた個体群がその内部で暮らしているシミュレーションを構築している可能性がある。
2)そして、そのような文明は、管理運営しているそのシミュレーションを娯楽や研究または他の目的のために多数、例えば数十億個実行しているかも知れない。
3)シミュレーション内でシミュレートされた個体は、彼等・彼女等がシミュレーションの中にいるとは気付かないだろう。その個体たちは単に自分たちが本当の『実世界』であると錯覚している虚構の世界の中で日常生活を送っている。
これらを『事実』であると仮定した時、次の2つの世界線の内、どちらの方がより可能性が高いのでしょうか?
A:私たちは、そのようなコンピューター・シミュレーションを開発する能力を入手可能な『実際の宇宙』の住人だ。
B:私たちは、別の『世界』の住人たちが執行している数十億のシミュレーションの中で、暮らしている世界が『虚構』である事も知らず、安穏と日々を送っている住人に過ぎない。
そしてボストロム博士は、現実の状況は次の3つの内のどれかだろう、と結論付けています。
1)人類を含む知的生命体は、宇宙全体を模擬できるほどの高度なシミュレーションを行えるくらい発達する前に、ほぼ必ず絶滅する。
2)知的生命体は、彼等の文明をその段階に至るまで進化・発展させると、そのようなシミュレーションになど関心を払わなくなる。
3)私たちがシミュレーション内の住人である可能性は100%に近い。
その可能性、我々が虚構の世界の住人、つまりシミュレーション内の個体群である可能性については科学者の間でも意見が分かれていて、五分五分だという人もいれば、我々が『基本現実(base reality)』つまりシミュレートされた宇宙にではない『本当』の宇宙に住んでいる確率は『数十億分の一』だと放言する人までおります」
「ふーん」織お嬢様は全然信じていないという胸襟の内を全く隠そうともしません。そして「でも、さ。そんなコンピューター、作るのって可能なの?
私のMacbook Air M3は普通に使ってる分には十分速いけど、多分そんなシミュレーションを実行するには全然処理能力が足りないよね」と続けました。
「はい。
これも科学者によって違うのですが、ある科学者によると、この世界、つまり宇宙全体をシミュレートするのに必要最低限の情報量は6×10の80乗ビットだとの計算結果が報告されています。
また別の科学者によると、全宇宙の測定に必要なデータ量は素粒子レベルで10の10^123乗ビット。ちなみに彼は10の10^90乗ビットが人間の測定可能な限界だとも言っております」
(『^』の文字は『乗』という意味。つまり10の10^123乗は、10の123乗という累乗数が10の指数になっている、ということ)
「何だか、大き過ぎて全然想像が付かないよ」と『うへぇ』という『辟易』の定義にしたいくらいの表情を浮かべた織お嬢様。「指数にもう1つ指数が付いてるじゃん」
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」
「それって新約聖書の『ヨハネによる福音書』の冒頭の一説、だよね、確か」
「そうでございます。よくご存じですね」
「うん。ケンゴが聖書の旧約と新約、それとシェークスピアの戯曲は読んでおけ、って」
「なるほど。
この有名な一説の『言葉』とはシミュレーションを制御する基盤となるコード、つまりコンピューター言語なのだ、と見做す事が可能です」
「すべてのものは彼によって造られた。彼なしに造られたものは何もなかった」
「それも『ヨハネによる福音書』の一節ですね」
「うん。でも、さ。もしこの世界がシミュレーションだと仮定した場合に、さ。
誰が構築したの?」
「さあ、とんと見当が付きません」
「やっぱり外星人、なのかなぁ?」
「今はその存在を、便宜上ですが『Administrator』と呼ぶことにしましょう」
「それって『執行者』とか『管理運営する者』って意味になるの?」
「その通り、でございます」
「で?」
「シミュレイテッド・リアリティには様々な種類があるのだと予想できます。
例えば『水槽の中に浮かんでいる脳』とか」
「何、それ?」
「LCLという生命維持を可能にする液体が充填された水槽の中に脳が浮遊しています。
その脳はコンピューターによってシミュレートされた『世界』を知覚・認識しているため、脳はその『世界』を『現実』であると錯覚している、という状態です」
「何か…、それはイヤ」
「次に思い付くのはBMIによるシミュレーションです。
BMI、つまりブレイン・マシン・インターフェイス(Brain Machine Interface)を理解するには…ゴーグルを装着してVR(Virtual Reality)を体験することの延長線上にある、と言えば理解しやすいでしょう。
このシミュレーションでは、参加者は外部から入って来て、脳をシミュレーション用コンピューターに直接接続します。コンピューターは感覚データを彼等に転送し、彼等の欲求を読み取り、それに対する反応を返します。
このようにして参加者はシミュレートされた世界と相互作用し、そこからフィードバックを得るのです。仮想の領域内であることを忘れるために参加者の意識はAdministrator側から一時的な調整を受けるかも知れません。
シミュレーションの中では参加者はアバターを利用することで、活動をしてゆくことになるのでしょう」
「そのタイプだと『この世界はシミュレーションだっ!』って気付いちゃいそう、だけど」
「そこはAdministratorが上手く管理・運営しているのでしょう。
次の仮定は『仮想市民型』です。
このタイプのシミュレーションでは、その世界の住民は全て、そのシミュレーション世界内で生まれた者たちです。
彼等・彼女等は『現実世界』に真の身体を持っていません。
つまり、各々が完全にコンピューターによって構築された模擬実体であり、そのシミュレーションの論理に基づいて適切なレベルの『自己意識』が実装されているのです。
そのような人工意識は1つのシミュレーションから別のシミュレーションへと転送することも可能でしょう。一時的に保存しておいて、後で再起動することもできると思われます。模擬実体がシミュレーション世界から自己意識を転送する技術を使って、現実世界の人工合成された生身の身体に転写されることもあるかも知れません。
このタイプのシミュレーションでは、個々の模擬実体とその周囲を取り囲む『世界』は別個にシミュレートされるかも知れません。その場合、人工意識は周囲の世界に対して特別な力を発揮できないでしょう。つまり『自分の思惑とは関係なしに世界は続いていく』のです。しかし、もしもシミュレーション参加者の周囲の『世界』が彼等の精神の中だけに存在している場合には、彼等は思い通りの影響を周囲の世界に及ぼす事が可能なのだと思われます」
「天上天下唯我独尊、って感じ?」
「はぁ…
次に考えられるタイプとしては『移民型』でしょうか。
このタイプのシミュレーションではBMIタイプと同じく、参加者は外部の現実世界から模擬世界の中に入ってきます。しかし、その形態はBMIタイプとは異なります。
模擬世界の中に遷移する際に参加者は自己意識を転送する技術を利用して彼の精神を仮初の身体、アバターに転写します。シミュレーションが完了した時、参加者の自己意識は外界の実際の身体に戻されます。現実の世界に帰去来した時にシミュレーション内での記憶と経験は保持され続けています。
ま、BMIタイプ、仮想市民型、移民型などが混ざり合っている可能性も大いにあるでしょう。もしかしたら、自分自身以外の人物・物事は全てボットである可能性もありますね。
シミュレーション内での時間の進み方は現実世界の時間経過と同じである必要はないです。
何故なら、住人はシミュレーション内の物理的特性に従って、経験し、思考し、反応するからです。シミュレーション内の時間経過が低速になったり高速になったりしても、住人の知覚や脳や筋肉も同じように変化します。シミュレーション内での時間計測の方法もシミュレーション内の物理法則に従うため、住人は時間経過の速度が変化したことに気付けないでしょう。
ま、BMIタイプの場合はリアルタイムに近い時間経過が求められるかも知れませんが」
「織お嬢様は『ゴルディロックス・エニグマ』という言葉をご存知でしょうか?」
「それは、ちょっと…」知らないなぁ、と彼女は口籠もるように呟きました。
「物理学では宇宙・自然界の物理法則が生物にとって、都合良く出来過ぎている不思議な事実を『ゴルディロックス・エニグマ』と呼んでいます。
『ゴルディロックス』は『ちょうど良い状態』という意味合いです。
例えば、素粒子の質量、自然界を支配する4つの力の強さ、太陽と地球の間の距離や公転や自転の角度、地球大気中の酸素濃度など、これらが絶妙な値でファイン・チューイングされていなければ、地球に生物は生まれなかったでしょう。というか、この宇宙の中で星が誕生することさえなかったでしょう」
「4つの力って、クオーク同士とか陽子と中性子とかをくっつけてる『強い力』
放射性崩壊や粒子が別の粒子に変化する事とかに関係してる『弱い力』
電気と磁気に関係する『電磁気力』
それに『重力』だよね?」
「その通りです」
4つの力をご存知だとは、まさにアンファンテリブル!(enfant terrible:仏語:恐ろしいほど早熟な子供)
本当に12歳なのでしょうか?
もしかしたら、織お嬢様は人生2回目?
「その『ゴルディロックス・エニグマ』って、もしかしたら『人間原理』って考え方に関係してる?」私に視線を送りながら、織お嬢様が訊かれました。
「はい。ほぼ同じ事を言っているかと。
『人間原理』とは、宇宙の構造や物理法則が、まるで人間の存在を可能にする為のように出来ている、かのように見えるという考え方です。
つまり、宇宙がこれほどまでに生命、特に知的生命である私たち人間が誕生し、進化できるような絶妙なバランスでできているのは『何らかの理由があるのではないか?』という問いに対する一つの答えです。
人間原理は大きく分けて、以下の2つのタイプがあります。
1つは『弱い人間原理』です。
この宇宙に人間のような観測者が生息している理由は、もしも観測者が存在していなければ宇宙は観測されず、永遠に闇の中。何も起こらない、という事です。
例えば、宇宙の膨張速度が少し違っていたり、素粒子の質量がほんの僅かことなっていたりすると、星や惑星が形成される事もなく、ですから当然の如く宇宙を観測できる知的生命体が誕生する環境も存在し得なかったでしょう。
例えば素粒子に関して、ですと、この世界には17種類の素粒子が存在しており(もちろん未発見のモノもあり得ますが)それらの素粒子の性質は『標準理論』という物理理論によって正確に説明できます。この『標準理論』の中には素粒子の質量(正確を期すと『重さ』とは違う概念ですが、ま、ここでは同じと考えても差し支えありません)そして素粒子同士に働く力の強さなどに関する20〜30の基本的パラメーター(変数)があります。
このパラメーターは標準理論によって決定されている訳ではありません。ですから現在の値になっている必然性もありません。しかし、最近のシミュレーション研究は、これらのパラメーターの幾つかは、その値がほんの僅か異なるだけで、全然違う宇宙になってしまう事を示しています。
2つ目は『強い人間原理』です。
これは、宇宙は知的生命体が存在するように、最初から『設計』されているという、1つ目よりも積極的な主張です。
織お嬢様は『多宇宙論』という仮説をご存知でしょうか?」
「うん、知ってる。Multiverse、多元宇宙論のことだよね。
この宇宙は1つだけじゃなくて、他にもたくさんある、って考え方だっけ?」
本当に12歳?
「はい。その通りでございます。
その多元宇宙論を前提にすれば、この世界には複数、いえ、無数の宇宙が存在しており、その中でたまたま我々がいる『宇宙』が知的生命体が誕生するのに適した物理特性を有しているという訳です。偶然に、です。
そう、たまたま知的生命体が誕生可能な『設定』だった宇宙だけが観測されているのです」
「人間が存在できる『設定』かぁ」
「我々が暮らすこの宇宙は絶妙なるバランスを保っています。
宇宙の膨張速度、重力定数、素粒子の質量など、様々な物理定数が非常に精密に『誰かによって』調節されているように見えること。
この宇宙の広大な範囲の中で、地球のような、生命が誕生し、進化できる環境が奇跡的にも存在していること。
まるで『神様』がいるかのよう、でございましょう?」
「それがポチさんが言う所の『Administrator』な訳、ね」
「ははぁ」
ポチポチと歩みを進める我々、1人と一頭を焼き魚の芳しい香りが包み込みました。
「吉田さん家、今日はサンマさんだね」良いなぁ、と、織お嬢様が芳香の発生源たる吉田さん宅を覗き込むようにしながら、呟きました。
「秋刀魚、何故でございますか?」
織お嬢様は視線を私に戻しながら「今年も高いから、サンマさん」と微笑みました。
「色即是空、空即是色」
「何、それ?」
「これは仏教における重要な概念の1つです。
般若心経というお経の中に出現する言葉でございます。
『色』は物質や現象、
『空』は無や虚無を意味します。
この言葉は、『物質は本質的に空(無)であり、空は同時に物質を生み出す』ということを表しています。つまり、私たちの認識する世界は、実体の無いモノから生じているという考え方です」
「量子論、みたいだね」
本当に12歳?
「はい。量子論によれば何も存在していない真空中においても、ミクロな視点で見れば、絶えず物質が誕生しては消失する、その繰り返しなのだと」
「対生成と対消滅、だね」
本当に…
「はい。対生成は素粒子の反応で,ある素粒子とその反粒子とが同時に生成する現象でございます。例えば,何も無い空間注に突然何の脈絡も無く電子・陽電子対が生成される現象、とか。
そして対消滅は、ある素粒子とその反粒子の組が相互作用して消滅し別種の粒子が生成される現象。例えば電子・陽電子対が消滅して光子やミュー(μ)粒子とその反粒子などになる、などでございます」
「でも、あれとも似てるよね」
「あれ、とは?」
「ポチさんが言う、シミュレーテッド・リアリティ」
「はい。
シミュレーテッド・リアリティと色即是空・空即是色。
両者には共通するモノを感じ取る事ができます。
世界の虚幻性。
シミュレーション仮説を事実と見做せば、私たちの認識しているこの世界は、単なるコンピューター・プログラムによって構築された仮想的な模擬現実である可能性があります。
同様に、『色即是空、空即是色』も、現象世界は実体の無いモノから生じていると説いています。
実体の不在。
シミュレーション仮説では、物質や自我は、シミュレーション内のプログラムによって生成されたものであり、実体がない可能性が大きい。
仏教も同様に、物質や自我は、空(無)から生じたものであり、実体が無いと説きます。
変化の常態。
シミュレーション内のプログラムは、常に変化し続けています。
同様に、仏教では、全てのモノは無常であり、常に変化し続けていると説きます。
現象世界の捕捉方法。
シミュレーション仮説は、科学的な視点から現象世界を分析し、その虚幻性を論じます。
一方、仏教は、人間の意識や経験を通して、現象世界の虚幻性を説きます。
しかし、どちらも現象世界が絶対的なものではなく、より深いレベルで捉える必要があるという点で共通しています。
意識の起源。
シミュレーション仮説は、意識をコンピューター・プログラムによって生み出されたモノと捉える可能性があります。
仏教も、意識は物質的なものから生じるのではなく、より深いレベルで存在するものだと考えます。
この様に、シミュレーション仮説と仏教の言葉『色即是空、空即是色』は、一見すると全く異なる概念のようですが、深いレベルで共通する思想を見出すことができます」
「前に、鹿児島のおじい様、おばあ様の家にいた時、近くのお寺のお坊さんが『この世界は夢幻です』って言ってたなぁ」離れた鹿児島を思いやる様に遠くに眼をやりながら、織お嬢様が呟きました。
「仏教では、私たちが生きているこの世界(うつつ)が、夢や幻のように実体のないモノ、つまり『夢幻』であるという考え方がしばしば示されます。この概念は、一見すると抽象的で捉えがたいものですが、仏教の教えを理解する上で非常に重要なポイントとなります。
人間には不変など実体はないとする『無我説』です。
仏教では、私たちの認識する世界は、色(物質、肉体)、受(感覚)、想(思考、想像)、行(意志、心の作用)、識(意識)という五つの要素(五蘊:ごうん)から成り立っているとされます。しかし、これらの要素は、実体を持つものではなく、常に変化し、無常であると説きます。つまり、五蘊からなる世界は、まるで夢のように、はかないものであると捉えられるのです。これは五蘊皆空という考え方です。
そして縁起の法則。
仏教では、全てのモノは、他のモノとの関わりによって生じ、そして滅するという『縁起』の法則に従って存在すると考えます。つまり、この世の現象は、原因と結果の連鎖によって生じ、実体を持つものではないというのです。
自我の幻想。
仏教では、自我と思われているものも、五蘊からなるものであり、実体を持つものではないと説きます。つまり、私たちが『私』だと認識しているものは単なる幻想であり、この五蘊が、その人の『因縁』によって仮に集まっただけで、元々固有の実体は無いと説いています。
仏教における『この世界は夢幻』という概念は、私たちが生きている世界に対する深い理解をもたらし、より豊かな人生を送るための指針となりましょう。
物質的なモノに執着せず、心の平安を大切にすること。
世の中は常に変化していることを受け容れ、柔軟に対応すること。
全ての存在はつながっており、他者を思いやり互いに尊重し合うこと。
そういう事柄を仏教は教え諭すのです」
少し話が仏教方向へとズレ動いてしまっていますかね…
そういう私の思惑を敏感に察したかの如く、織お嬢様が会話の軌道修正を為さりました。
「でも、さ。
つまる所、仏教とシミュレーション仮説は同じ事を主張しているみたいに聞こえるんだけど。この『因縁』なるものをAdministratorの意志だと考えれば、キリスト教やイスラム教みたいな一神教の創造主の説明も付くじゃん」
「左様でございますね」
「で、さ」
「何でございましょうか?」
「結局、この世界がシミュレイテッド・リアリティなのか、そうじゃないのか、確認できるの、できないの?」
「シミュレイテッド・リアリティが本当かどうかを確かめる術は、現時点では決定的なものはありません。しかし、様々な角度からこの仮説を検証するためのアプローチが多くの科学者・哲学者たちによって考えられています」
「どんな方法?」
「シミュレーテッド・リアリティを検証するための、可能性のあるアプローチ、ですね。
まず思い付くのは『シミュレーションの不整合の発見』でしょう。
1つは物理法則の破綻、です。
シミュレーションには、どうしても計算の限界や近似が生じ、現実世界の物理法則と異なる現象が起こる可能性があります。
量子力学で有名な光子の二重スリット実験の結果、などでしょうか。
簡単に説明すると、この実験は観測対象の光子の動きが、人間が観測している時と観測していない時とで結果が変わるといった事です。
縦方向に二本のスリットの入った板に向かって一方向から光の粒子を照射するとします。
すると、光は一枚目の板のスリットを貫通した後、その更に向こう側の板に何本もの干渉を起こした縞模様を描きます。
しかし、これは人間が観察していなかった場合の話。
次は人間が観察しながら、もう一度、同じように光をスリットに向かって照射すると今度は二本線を描くことになるのです。
つまり、人間が観察した時と、していない時とで、それぞれ実験結果が異なったという訳です。それって、本当に不可思議ですよね。
ま、光子を含む素粒子(実際は原子なども同様)は粒子であるのと同時に波でもあるので、こーゆー事が起こるのですが。
2つ目は再現性の低い現象。常に同じ条件下で同じ結果が得られるはずの現象が、再現性の無い結果を示す場合、シミュレーションである可能性が考えられます。
3つ目はデジタルノイズ。シミュレーションには、デジタルノイズのような特有のノイズが含まれている可能性があり、これを検出できるかもしれません」
「ノイズ、ってどんなノイズ?」
「まぁ、パッと思い浮かぶのは幽霊やUMA、UFO(現在ではUAP〔Unidentified Aerial Phenomena〕未確認空中現象と呼称している)などの超常現象でしょうかね。
または前世の記憶を持っている人とか…共感覚を持っている人なども、そうでしょうか」
「なるほど」
「あとは『計算能力の限界』の検証とか、ですかね。
宇宙の複雑さを再現するには、膨大な計算能力が必要となります。現在のコンピューターの能力では、宇宙全体をシミュレーションすることは不可能だと考えられています。
計算コストを考慮する場合、シミュレーションを行うには、莫大なエネルギーが必要となります。その時に宇宙のエネルギー源を考えると、私たちの宇宙がシミュレーションである可能性は低いという意見も浮上するでしょう。
『哲学的な視点』からのアプローチも考えられます。
意識がどのように生まれるのかは、未だ解明されていません。
もし、意識がコンピューター・シミュレーションによって生成され得るモノであると検証できれば、シミュレーテッド・リアリティの実現性が高まるでしょう。
そして、自由意志。
私たちには自由意志が備わっていると考えられています。
ところがシミュレーションの中で生きているとすれば、私たちの自由意志は本当に存在するのかという疑問が生じてきます。
そうですね…
自由意志の不存在は脳科学でも示唆されているのです。
生理学者であるベンジャミン・リベットの実験は科学界に大きな衝撃を呼びました。
彼は、脳波の計測装置を取り付けた被験者が、時計の針が任意の数字を指す瞬間に手首を曲げる実験を行ったのです。予想なら手首を動かそうと思った時に脳波が立ち上がるはずです。実際には脳波が立ち上がって500ミリ秒後(0.5秒)に手首は動きました。
ところが自発的意識が感知されたのは、脳波が立ち上がってから300ミリ秒後の事でした。
この最初の300ミリ秒後の脳波は何なのでしょうか?
結果通りに見れば意識より先に脳が動いたことになります。
つまり手首を動かそうとしたのは、私たちが持っていると見做している自由意志ではないのです。
ここから自由意志は存在しないと断言する科学者は多いのです。
自由意志というモノは、もしかしたら、無意識の内にしてしまった行動に後から載せた単なる理由付け、に過ぎないのかも知れません。
もし自由意志が存在しないのなら我々は自分の意志で行動していると思い込んでいるが、実は何らかの『他』の意志にプログラミングされている可能性は否定できません」
「意志が無い…」
「もし自由意志が無いとすると、非常に困った事が起こります」
「何?」
「法律です」
「?」
「犯罪を犯した人を裁く為の法律は『人間には自由意志が備わっている』という事を大前提としています。ところが、その自由意志が存在しないとなると…」
「裁判が詭弁、になっちゃうね。罪を犯したって、その人の意志じゃないんだもん」
「はい。
ですから、裁判制度は擬制、つまり『人間には自由意志が備わっている』というフィクションの上に成り立っているのです」
「あとは?」
「科学的な実験によって検証が可能かと思われます。
何も存在していない真空中に突然素粒子が対生成したり、とか、2つの違う状態が重なり合っている、とかの量子力学における不思議な現象は、シミュレーションでは再現が難しいとされています。量子力学の実験を精密に行うことで、シミュレーションである可能性を否定できるかもしれません。
また、宇宙の構造を詳細に解析することで、シミュレーション特有のパターンを発見できる可能性があります」
「ふーん」
「私が申し上げましたこれらのアプローチはいずれも間接的な証拠であって、この世界がシミュレイテッド・リアリティであることを決定的に証明することは困難です。
加えて、シミュレーション技術が高度化するにつれて、シミュレーションであることを検出することがますます難しくなる可能性があります。つまり、超常現象のようなノイズやバグが出にくくなる訳です」
おぉ、反後(たんご)さんの家まで来ました。
ここを過ぎれば荒川自動車さんまでは、あと少し、です。
「ねぇ、ポチさん」
「何でございましょうか?」
返答しながら織お嬢様を見上げると視線が絡み合いました。
「ホントに検証は不可能なのかな」
「状況証拠のようなモノはございます」
「どーゆーの?」
「その状況証拠をご説明する前に、下準備のご説明を…」
「下準備が多いなぁ…」
「ま、そう仰らず。
『Mass-Energy-Information Equivalence』という概念がございます。
日本語に訳すとすると『質量-エネルギー-情報等価性』です
この概念が示唆するのは、質量、エネルギー、そして情報が、本質的に互いに変換(転換)可能である、という事です.
ま、これはまだ確立された科学理論というよりは、物理学、情報理論、哲学の境界領域で議論されている非常に興味深い概念です」
「蓬髪の髭おじいさんが『質量=エネルギー』って言ってたと思うけど」
「アインシュタインの相対性理論でございますね。
質量は、物質の量の尺度であり、慣性と重力の源です。
エネルギーは、物体が仕事をする能力、または変化を起こす能力です。
情報は、象や事物の状態を記述するのに必要なデータの量です。
アインシュタイン博士が特殊相対性理論で示されたように、質量とエネルギーは互いに変換可能です。E=mc²という有名な式がこれを表しています。
計算するにはエネルギーが必要であり、情報処理は物理的な過程であるため、情報とエネルギーは密接な関係があると考えられます。
この事実から、質量、エネルギー、情報が同一の根源を持つ可能性が高いであろうと思われるのです。
この考えを敷衍したのが『情報力学』という仮説的な理論です。
これによると情報は宇宙の基本的な構成要素であり、エネルギーと質量の両方を持つ物理的な存在であると定義されています。
情報力学における第一法則は、情報も熱などと同様の物理量として取り扱う必要があることを指し示しています。何故なら情報を得るには系を測定する必要があり、常に新しい情報を記録するには古い情報を消去する必要があります。この測定と情報の消去という過程には必ず仕事が必要となるため(つまりエネルギーを消費するから)情報も熱などと同じような物理量として取り扱う必要があるのだと言うのです」
「もう少し、簡単に説明してくれる?」
「かしこまりました。
情報力学第一法則は、一言で言うと『情報もエネルギーの一種である』という考え方です。
何故、情報がエネルギー(つまり質量でもある)なのか?
コンピューターが計算を行うためには、電気エネルギーが必要です。これは、情報処理が物理的な過程であり、エネルギーを消費することを示しています。
情報を生成したり、消去したりする際には、必ずエネルギーのやり取りが伴います。
例えば、データを保存したり、通信したりする際に、エネルギーが消費されます。
情報処理には物理的な制約があり、いくらでも効率的に情報処理ができるわけではありません。情報力学第一法則は、この限界を理解する上で重要な概念です
情報力学は、熱力学と深い関係があります。熱力学は、熱と仕事の関係を研究する学問ですが、情報力学では、情報と仕事の関係を研究します。
熱力学でいうエントロピーは、系の乱雑さの度合いを表しますが、情報理論でもエントロピーという概念が使われます。これは、情報量の多さを表します。
情報処理には熱が発生し、熱は情報の損失と関係があります。
情報力学第一法則は、情報がエネルギーの一種であり、情報処理には物理的な制約があることを示しています。この法則は、情報科学の基礎となる重要な概念です。
情報力学第二法則ですが、この法則によるとあらゆる現象の情報内容は最小限に抑えられる傾向があるのだそうです。つまり情報は時間経過とともに『圧縮』されていく、という事です。つまりエントロピーが減少するとも言えます」
「エントロピー、って何だっけ?」
「熱力学第二法則、です。
熱力学とは、熱や仕事といったエネルギーの形と、それらが物質にどのように影響を与えるかを研究する物理学の一分野です。私たちの身の回りで起こる、物体の温度変化、状態変化、エネルギーのやり取りといった現象を、より深く理解するために熱力学は不可欠な学問です。
例えば、冷蔵庫中に入れると物が冷える、とか。
エンジンが作動してクルマが走行する、とか。
お湯を沸かしてコーヒーを淹れる、とか。
これらの現象は、全て熱力学の法則で説明することができます。
熱力学には、自然界のエネルギーの振る舞いを記述するいくつかの法則がります。これらの法則は、非常に広範囲な現象に適用でき、科学や工学の様々な分野で利用されています。
熱力学第一法則、これはエネルギー保存の法則とも呼ばれ『エネルギーは勝手に生まれて消えることはなく、ある形態から別の形態に変換されるだけ』ということを表します。
例えば、電気エネルギーを熱エネルギーに変換するヒーターや、化学エネルギーを運動エネルギーに変換するエンジンなどが、この法則に従っています。
熱力学第二法則、これがエントロピーに関連した法則で別名エントロピー増大の法則です。『孤立系では、エントロピーは常に増大する方向に変化する』ということを表します。
エントロピーとは、系の乱雑さの度合いを表す量です。この法則は、自然現象はより乱雑な状態へと向かう傾向があることを示しています。
例えば、氷が自然に溶けて水になるのは、液体の状態の方が固体の状態よりもエントロピーが大きいからです。
ちなみに熱力学第三法則は別名絶対零度到達不能の法則とも呼ばれます。『いかなる方法によっても絶対零度(−273.15℃)に到達することはできない』ということを表します。
これは、物質の温度が絶対零度に近づくにつれて、粒子の運動が極端に小さくなり、エントロピーが最小値に近づいていくため、絶対零度に到達することは理論的に不可能であると考えられています。
熱力学ゼロ法則は、他の法則に比べて比較的シンプルですが、熱力学の基礎を支える重要な法則です。この法則は、『2つの物体AとBがそれぞれCと熱平衡にあるならば、AとBも互いに熱平衡にある』ということを述べています。
もう少し簡単にいうと熱平衡とは2つの物体がお互いに熱の出入りがなく、温度が一定に保たれている状態のことです。
熱力学ゼロ法則は温度の推移性を表しており、物体の温度を比較する際に、共通の基準となる物体(C)を介して比較できることを示しています。
例えば、AさんがBさんと体温が同じで、BさんとCさんが体温が同じだとします。このとき、熱力学ゼロ法則から、AさんとCさんも体温が同じであると結論付けられます。
エントロピー、お分かりになりました?」
「うん」
「さて本題に入りましょう。
英国のポーツマス大学(UOP)にて行われた研究によって、情報力学第二法則の存在は私たちが存在する宇宙全体がシミュレーションであることを示すとする、結果が発表されたのです。
先ほど申し上げた通り、情報力学では情報は宇宙の基本的な構成要素であり、エネルギーと質量の両方を持つ物理的な存在であると定義しています。
そして情報力学第二法則においては、あらゆる現象の情報内容は最小限に抑えられる傾向があるとされています。エントロピーの減少、情報圧縮です。
情報圧縮が起こるように世界がプログラムされているのは、この世界をシミュレートする演算機の負荷を軽減する目的があるためだと、この研究では述べられています。
そうですねぇ…
私たちの世界がシミュレーションされたモノであるのか、そうではないのかを知るにはどうすれば良いのか?
世界の外に通じる扉(あるいはログアウト画面)のような物的証拠があれば話は簡単です。
ただリクエストしても出現しないことを踏まえると、(たとえ存在したとしても)内部からの働きかけで発見するのは、まず不可能でしょう。
またシミュレーションの完成度が高ければ高いほどバグの頻度も低く、観測は困難となります。
故に今回、ポーツマス大学の研究者たちは、そのような世界の綻び(ほころ・び)を探すのではなく状況証拠を集めようとしたのです。
そのための方法として採用されたのが『情報力学の第二法則』です。
情報力学は情報の定量化や保存、伝達にかんする数学的な研究をもとにしており、第二法則では『宇宙で起こる現象は時間の経過とともに、情報エントロピーが維持されるか減少する』とされています。
一見すると難しい概念に思えますが、そんなことはありません。
繰り返しになりますが、エントロピーとは状態の無秩序さを数値化したものであり、大きな値であるほど、状態が混沌としていることを示します。
また情報力学における情報エントロピーは取り得る状態数、すなわち情報量に大きくかかわります。つまり情報力学第二法則をザックリと言い換えると『宇宙では時間経過とともに情報が圧縮されていく傾向にある』となります。
もしこの法則が普遍的なものであるならば、シミュレーション仮説を支持する有力な状況証拠となるでしょう。
というのも、私たちの世界をシミュレートする演算機が存在する場合、何らかの方法を使って情報の圧縮を行い、演算能力の節約を行っている可能性があるからです。
そこで研究者たちは生物システム、原子物理学、数学的対象性、宇宙論など複数の異なるレベルにおいて情報力学第二法則が示すような、情報圧縮が行われているかを検討しました。
さて、情報力学第二法則に従って、世界の情報は時間とともに圧縮される傾向にあったのでしょうか?
謎に応えるため研究では計算式を用いて、異なるレベルにあるさまざまなシステムの情報量を定義し、時間経過による変化が検討されました。
その主な結果を要約すれば、以下の通りになります。
1)生物システムの遺伝情報は情報力学第二法則に従っている。
ウイルスが増殖する過程で起きる、遺伝子変異。
その変異が発生するたびにウイルス遺伝子の情報エントロピーは減少していくそうです。
情報力学第二法則は、遺伝情報の時間変化にも従来とは異なる観点で切り込みます。
たとえば研究ではSARS-CoV-2(新型コロナウイルスの正式名称)の変異、すなわち遺伝情報量の変化が追跡されました。
新型コロナウイルスに起きる変異は変異株をうみだす原因になります。
研究者たちが再調査した所、SARS-CoV-2つまり新型コロナウイルスに起きた遺伝子変異の98.92%が塩基数(RNA)の欠失、つまり情報量の喪失によって起きていたことが示されました。
このような遺伝子の減少局面では、情報力学第二法則が述べる情報圧縮に似た現象が起きているのは事実と言えるでしょう。
2)原子システムが基底状態、つまり安定な時は情報量も低くなる。
原子内の電子は一定の規則に従って、内側から外側に向けて配置されていきます。
たとえば複数の電子を持つ原子の場合にはフントの法則と呼ばれる規則に従って、最も安定した状態に整列します。
ただフント法則は経験的観察にもとづいて導き出されたものであり、なぜ電子がこのような状態で存在するかについては、明確な説明がありません。
(これまでの説明は主にエネルギーバランスに基づくものでした)
そこで研究者たちは情報量という観点からフントの法則を再解釈してみました。
すると最も安定した状態では、最も電子の状態数(情報量)が少ないという事実が判明しました。
経験的に判明している電子の配置でも情報力学第二法則のレンズを通してみると、情報量の少ない状態への変化ととらえることができるのです。
3)対称性が高くなると必要な情報量が圧縮される。
宇宙に存在する様々な物体は対照的な形になるように自らを構成します。
現在、地球上に存在する多くの動物たちの体は、何らかの対称性を持っています。
また多くの個体と結晶には対称性があり、対象性はデジタル情報で構築された世界(VR世界)を最適化するのにも重要な概念となっています。
そこで研究者たちは対象性についても情報力学第二法則の観点から再解釈し、対称性の高さと情報量について調査しました。
すると対称性が高いほど、状態数(情報量)が低下していくことが示されました。
これまでの観点からは、対称性を持つのは『生物の生存に有利だったから』あるいは『重力的に最も安定するから』と考えられていました。
しかし情報力学第二法則の観点からは、情報量の圧縮が進行する過程で自然と対称性を獲得したと解釈されるのです。
4)宇宙論における情報力学第二法則。
宇宙に存在する物体が自然と対称性が高い構造をとってくれるような設定を組み込むことで、情報量の圧縮を自然に達成することが可能になります。
これまでの研究により、宇宙が加速度的に膨張し続けていることが示されています。
宇宙が膨張し続けるとより多くの微粒子が乱雑に動き、結果的に物理エントロピーは急激に上昇していきます。
しかし熱力学第一法則に従うには、宇宙の物理エントロピーは一定でなければなりません。
これは『エントロピーのパラドックス』と呼ばれています。
そこで研究者たちは膨張する宇宙では全体のエントロピーが保たれるように、物理エントロピーが増加する一方で、情報エントロピーが減少していくと考えました。
つまり宇宙全体のエントロピーは物理エントロピーと情報エントロピーの和とし表現される訳です。
たとえば宇宙の進化が進んで宇宙全体が均一になった場合、物理エントロピーは最大値に達しますが、均一な空間は区別がつかず、情報量は最小値に達することになります。
情報力学第二法則は熱力学第二法則の裏返しとなり、物理エントロピーだけでは解釈しきれない現象を補完できるのです。
このUOPの研究により、宇宙で起こるさまざまなイベントでは情報力学第二法則に従って情報の圧縮が発生することが示されました。
研究者たちは、この宇宙に存在する情報圧縮の仕組みは、私たちがシミュレーション世界に住んでいることの状況証拠になり得ると述べています。
過剰な情報の削除は演算機の処理やデータ容量を節約し、不要なコードを削除または圧縮するのに役立つからです。
もし私たちの世界をシミュレートする演算機が存在した場合、情報圧縮の仕組みを宇宙の法則に組み込むことは、メンテナンスにおいて有利に働くことは自明の理ですからね」
「そう…だね」
織お嬢様の双眸、何故か遠くを眺めている様な感じ、です。
伝わっているのでしょうか?
さてさて、ようやく荒川自動車さんに到着しました。太陽が完全に没する前でしたから、良かったです。
「やっぱり、釣瓶落としだったね」
「そうでございますな」
西の空は赤から黄色、そして縹色までの絢爛豪華なグラデーションを呈している夕焼けが満腔でございます。
『ふふっ』と微笑む織お嬢様の胸許で揺れる真紅のカラーストーン。
その宝石の上に視線が固着してしまうのでございます。
何時ぞやでしたか、そのカラーストーンに初めて眼を奪われたのは…
あぁ…そうでした。
数ヶ月前、今回と同じように織お嬢様と散歩をご一緒した時でございました。
(数ヶ月前、散歩の途中での2人〔?〕の会話)
織お嬢様が胸許のペンダントトップを指差しながら仰いました。
『何か、これ、気になってるみたいだね?』
『はい。何でしょうか、眼を離せないというか…』
『これは大三島のイネお婆様からの贈り物』
『ははぁ…』
『Argyle産の「Red Mirage」って石だって』
『アーガイル? レッド・ミラージュ?』
『そう。宝石に名前があるなんて、おかしいよね』
まさか、あの…
嘘でしょ?
あのArgyle Pink Diamond…
どう見積もっても軽く4カラットは有りそうな…
嘘でしょう?
レッド・ダイア…モンド…?
『これって、綺麗だよね』
お嬢様!
それは、そんな風にお気軽にプラプラ身に纏う様な代物ではありません!
美術館なり博物館なりに収納されるべき逸品でございます!
と諫言しようとした矢先、織お嬢様が口を開きました。
『イネお婆様が言うんだけど、
石は身に付けてないと、その価値がゼロに帰すんだって。そりゃ、そうだよね。身に纏っている人がその石に価値を与えるんだもんね』
私、グゥの音も出ませんでした。
その時、次ぐ言葉を失って路頭に迷ってしまった私を優しく見詰める織お嬢様の左の瞳が妖しく褐色(かちいろ)に輝いていました。
その虹彩が放つ妖艶な濃藍色の光芒と胸許から発散される真紅の煌めきとの競演が非常に印象的だった事を鮮明に記憶しているのでございます。
駐車スペースに眼をやると…
おぉ、タンカラーの70ランクルもご帰還済みです。
さぞかし沢山の食材を仕入れたのでしょうなぁ。
今夜の食事が非常に楽しみです。
ミヤウチ家への帰宅の道すがら、私はゴロ寝を決め込むことにしましょうかね。
何故なら、たまには外部の世界へと帰還してAdministratorとしての業務を果たさないと業務遂行継続中の同僚の執行者たちからの非難が雨嵐、でしょうから。
私にとっての『睡眠』という行為は『現実の世界』へと帰還する行為なのです。
惰眠を貪る老犬として見える、アバターとしての仮初めの姿を空蝉(うつせみ)として虚構世界の中に残して。
え?
私が何を言っているのか、さっぱり理解できないですって?
何故、私のような雑種上がりの駄犬がこの世界の理(ことわり)について何でも知っているのでしょう?
何故、人間に換算すれば優(ゆう)に90を超える年齢なのにも関わらず、足腰も弱くなる事もなく、頭脳も未だに明晰で、超優良なる健康を保てているのでしょうか?
何故、織お嬢様だけが我々のような動物の言葉を理解できるのでしょうか?
ふふふ…
良いでしょう。
今からあなたに合図を送ります。
そうしたら後ろを振り向いて下さい。
そこには全くの未知の現象が…
3、2、1、ハイっ!
どうでしたか?
何も、無かったでしょう。
そりゃ、そうです。
全部、冗談ですから。
そう、冗談w
<了>
ポチさんとイト