『アレック・ソス 部屋についての部屋』展
筆者の中で写真表現は短歌のそれと隣り合う。どちらも一つの枠内(写真では画角、短歌では定型の韻律)に情報を収め、フォーカスするポイントの置き方によって対象の正確さと曖昧さの間を広く又は狭く切り取り、その痕跡に宿る「景色」の有り様で勝負することを表現の肝としている。そう認識するからだ。
他にもある。例えば短歌は韻律のリズムに慣れてくると言葉のあやで捉える花鳥風月に二つとない心情を乗せたり、ダジャレを効かせた遊びで日常の場面を賑やかすことが次第にできるようになる。
しかしながら筆者が思う短歌の罠はここにこそあって、覚えた技術でどう韻律を整えるか。それを最優先事項に掲げてしまい、自分がしたい表現のイメージを縮小させがちになる。ここに読み手にどう共感してもらうか、どう驚いてもらうかという表現欲も絡めば、一首と向き合おうとする時間に働く圧はさらに増す。それに無抵抗で従うと嫌になるぐらい凡庸な作品しか生み出せなくなる。だからといって奇を衒った表現を試みても、今度は短歌の型に宿った長大な歴史がそのパフォーマンスを白々しいものにしてしまう。「では、どうすればいいのだ?」とここで浮かべられる疑問と、定型ないしはそれを前提にした技術に抗する意思が短歌ならでの詩情性を生むと筆者は考えるが、上記内容は光学的かつ機械的にその技法を紐解ける写真表現においても妥当するだろう。どちらにおいても先行すべきはイメージであり、技術はその後に付いてくるもの。必要があればその技術体系を進歩させ、あるいは技術的制限の打破に等しいイメージの刷新を大胆に図って、傑作と謳われる唯一の作品がこの世に生み落とされる。
この観点から見た時、短歌でいえば、スクリーンの向こうに映る間接的なイメージを「言葉を読む」という時間軸の中で脳内に浮かび上がらせる歌を詠む石川美南(敬称略)に筆者は一人の読み手として心惹かれるし、写真でいえば現在、東京都写真美術館で展示会が開催されているアレック・ソス(敬称略)の作品表現に魅了されて止まない。
人生のうちで決して短くはない時間を過ごす部屋の内装や自らの服装、あるいは髪型といった外見のあれこれに現れる人の生き様にレンズを向ける写真家は画角に収まる情報群にドラマを写し取る。大小様々に並べられたり、飾られている無機物に信じられないほど心踊らされるのも、また生命に関する有機的な営みの只中にある人間や動植物に秘められた静かなる美しさを切り取れるのも、全ての物事に対面するアレック・ソスというストーリーテラーが「そこ」にいるからだ。優れた話し手は聞き手の欲する所を熟知しながらも、聞き手の期待通りの展開や結末をそのまま話したりは決してしない。そして、意外性という仕掛けを驚くぐらい理解できる範疇に収めてみせる。
上記した展示会において筆者の中のハイライトは、大量の古本を収める本棚が背後にあるにも関わらず、それ以上に大量の古本が山のように積まれているのを撮った《Irineu‘s Library,Giurgiu,Romania》であったが、今にもぼろぼろに朽ちていきそうなその様子は安易な諸行無常に飛びつくことを一切せず、今でも売られる気満々な古本たちの商魂逞しい欲深さを捉えていて、非常にユニークな一枚となっていた。本展で初公開となる新作、〈Advice for Artists〉でも学生によって作られた石膏像の作品群を彼らの成り代わりの如き生々しさと、活き活きとした感触をもって画面いっぱいに表現している。
トンネル一つとっても、冷ややかなはずのその表面を絵画のように撮影してみせる技巧派がそれ以上にこんなにもイメージに生きる人なのだから世界的に高く評価されて当然である。技術は何のためにあるのか、そしてその技術を使って私たちは何がしたいのか。半永久的に続くこの自問自答こそ学ぶべきだと、アレック・ソスがその作品をもって雄弁に語る。筆者が短歌にいま一度チャレンジしようと直感し、いまそれを楽しんで取り組めているのも「これ」だったのだと教えてもらえた。見逃し厳禁の素晴らしい展示会、『アレック・ソス 部屋についての部屋』。興味がある方は是非、東京都写真美術館に足を運んで欲しい。
『アレック・ソス 部屋についての部屋』展