百合の君(26)
正退元年三月、古実鳴は煤又原城の向生館では桜が一本、その満開の花を若武者の掛け声に揺らせていた。奥噛の山は、まるで彼らに立ちはだかる壁であるかのように、あるいはその師であるかのように、わずかな雲を従えて悠然と立っている。
喜林義郎と名を改めた蟻螂は、本丸までの階段を上っていた。踊り場から見上げると、太陽が真正面に来て眩しかった。義郎は、太陽まで飛んで行けそうだったあの戦を思い出した。初めての友とも言える喜平を射殺され、怒りのまま跳び上がって谷をまたいだあの時。まるで後ろにも目がついているようだった。
遠くの木に登って観戦している連中も見えたし、真下にいる敵の一挙手一投足を把握できた。飛んでくる矢をすべて國切丸で防ぎ、仇の首を一刀のもとに落とした。刀を握っていないと俺は完全ではない、義郎は思った。いや、人間は誰でも不完全なのかもしれない。だから絵師は筆を取るし、商人はそろばんを持つ。
山猿と呼ばれた義郎は、その猿が羨ましいような気がした。その腕と、脚と、牙と、爪と尻尾さえあれば彼らは完全なのだ。
向きを変えて、本丸を仰ぐ。家紋が光る黒塗りの門の上から、檜皮葺の屋根が見下ろしている。
敵の侵入を防ぐため、城の階段はわざと不均衡に作られている。一歩、二歩進んで三歩目で義郎は蹴つまづいた。
下がった視線の先、石段の隙間からかたばみが覗いているのを見た。植物は人間に奪われた領土を取り返そうと、春の陽気に乗じて勢力を拡大している。そのまま屈みこんで、義郎はその草をむしった。
丸く小さな葉が指のすき間から落ちた。義郎は、初めて自分の手を見たような気がした。太く、節くれだって、血管が浮き出ている。
この手だ、と思った。この手が俺をここまで導いてきた。母に捨てられた山で、猪を殴り倒した手。この手がなければ、とっくに野垂れ死んでいた。
この手が山を生き抜き、武道大会で優勝し、戦で敵将を討って君主の娘をものにしたのだ。
もうすぐ穂乃を取り返す。いずれ喜林の力であの山賊どもを見つけ出し、磔にしてやるのだ。
ぐっとその手を握った。今日は初めての軍議だ。
百合の君(26)