おごり

「よし、じゃあそろそろお会計にするか」

私がそう言いつつ席を立つと、後輩はグラスに残っていた酒をあおった。

「はい!」

後輩の元気な声を聞くと、私の体内でエネルギーが活発に巡っていくように感じる。
彼との関わりはとても刺激的だ。

私は社会人10年目の中堅社員である。
入社した頃は新入社員として、先輩や上司や客先に何度か叱られつつも何とかこの年までやってこれた。
会社自体は小規模のため、10年目になり初めて後任の育成を務めることになったが試行錯誤の日々である。
自身の言葉を選びながら教え、また後輩の作業の様子を気にかけながら私の仕事を進めていくのは今までやってきたこととは異なり中々大変だ。
だが、後輩がどんどん頼もしくなっていく姿を見るのは感慨深いものがあるし、私のためにもきっとなると思うと意欲が湧いてくる。
そんな後輩と帰宅前に食事をしながら雑談をするのも楽しいものだ。
今の若い子は時間外労働だと言い、退社後に食事を取るなら残業請求をする者もいると耳にしたこともあるが後輩からはそんな発言は無かった。
何だ、世間の噂もあてにならないものだな。
私はレジに向かって歩きながら、そんなことを考えていた。

「あっ、先輩!
自分もお金出しますよ」

後ろからついてくる後輩が私に提案する。
私はクスリと内心微笑む。
気の利くことを言ってくれる。
もともと奢るつもりではあったが、ただ私が支払うのを黙ってみるのは気が咎めたのだろう。
私はレジに向かって歩きつつも後輩に向けて首を振る。

「今日は私のおごりだ」
「えっ」

私の言葉を聞いた後輩は呆気に取られていた。
もしや本当に割り勘にでもするつもりだったのだろうか。
そう思うと、後輩がふらりと近寄ってきた。
そのまま私の脇をすり抜ける。
向かう先はレジだった。
私は手元に違和を感じ取り視線を向ける。
手に持っていたお会計伝票が無くなっていたのだ。

私は思い出した。
数日前、後輩が私に語った冗談だと思っていた話。
昼休憩時に狭い喫煙室でタバコをくゆらせながら話していた。

『自分、奢られると申し訳無さで発狂しちゃうんですよ』

あれは本当だったのかもしれない。
後輩はふらふらと歩きながらもとうとうレジについてしまった。
お会計伝票を待ち構えていた若い店員に渡す。

「4200円になりまーす」

私は駆け出した。
ズボンのポケットに手を入れて長財布を取り出す。
指を突っ込み5千円をサルベージした。
私にも先輩としてやるべきことがある。
それを後輩に教えなければならない。
背後で私の気配を感じ取ったのか、後輩がくるりと振り返る。
足を肩幅ほど広げ、腰を落とし両手のひらを私に向けていた。
まるで取っ組み合う前のレスラーだ。
その目は虚ろなものとなり、私に視点が合っているのかも怪しい。

「おけけけけぇ!!」

半狂乱になった後輩が私に向かってくる。
何がなんでも奢らせないつもりだ。
私も足を緩めない。
後輩が私の腰に突っ込んだとき、身体に大きな衝撃が走る。
ピタリと止まる両者の身体。
私は足を踏ん張らせた。
1日1万歩近く歩き鍛え上げた足腰だ。
若い後輩には、身体能力では総合的には劣るだろうが、積み上げたものはほんの僅かな時間後輩に差し迫る事ができた。
少しづつ後輩の体ごとレジに向かっていく。
きっと、鍛えた足腰だけでは後輩にかなわなかっただろう。
だが、今の私にはもう一つの思いがあった。

「おけけけけぇっ!?」

後輩が必死に私の体を押し込もうとするが、踏み込む足は地面を後ろに擦るばかりで信じられないという声をあげていた。
私はもうすぐそこという所まで来ると、後輩の肩をポンと叩く。

「大丈夫だ。
何も気負うことはない。
不安に思うのは、返せないからと考えてしまうからだろう?
そうじゃない。
私は君に感謝しているんだ。
だから、その分支払うだけなんだ」

私は片腕を突き出して、レジに立つ店員に紙幣を渡す。

「800円のお釣りになりまーす。
ありがとうございましたー」

後輩は憑き物が取れたような表情で私のことを見ていた。

「すみません、自分…」
「いいんだ。
さあ、帰ろう」

私達は、店の扉を開いて帰路についた。

おごり

おごり

  • 小説
  • 掌編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-10-14

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