百合の君(25)
穂乃を得た浪親は強かった。二月には前城主、夢塔遠近の息子である周を下し、八津代国を平定した。
上噛島城で催された祝宴は身分の上下、国の内外を問わずあらゆる者を招待したが、その客の多さに浪親は驚いた。ざっと見ただけでもその数は三百を超え、五十畳の広間ではとても足りず、普段将兵の稽古に使っている前庭まで開放する羽目になった。武器庫にも近いその庭に、浪親は来た者を全て入れた。
花村清道とは直接の面識はなかったので、左半分が黒地、右半分が白地の着物に飛び散った絵の具なのか元々の模様なのか、色とりどりの水玉を浮かべた派手な男が名乗って掛け軸を差し出すまで、浪親は著名な絵師だと気づかなかった。
「この度は八津代国平定、誠におめでとうございます。出海様の戦のない世という理想、深く感じ入りました。つまらない物ですが、どうぞお収めくださいませ」
絵を広げた瞬間、浪親は空にいた。時間はない。ただ存在だけがある。虚空に一人、昇っているのか落ちているのかも分からない。その感覚が肉体を得て、浪親は初めて自分が水墨画を見ていることに気が付いた。水墨画と言っても縦五尺、横三尺程の紙に濃淡の異なる線が描かれているだけだ。しかし浪親が見ている間に、それは海になった。穏やかな果てしない海。墨は南海の見たこともない魚から北の凍土に至るまで、無限の色彩を持つ航海を予感させた。
「これは素晴らしい。このようなもの、本当に良いのですか」
「出海様の世が平らかならんことを祈念して作ったものです。出海様のお傍に置いていただければ、それが一番の幸せにございます」
浪親は手を震わせて受け取ったくせに、今度はそれを勢いよく掲げた。
「皆の者、名は聞いたことがあろう。花村清道殿から絵を頂戴したぞ」
真っ先にオオと歓声を上げたのは盛継だった。並作はきょとんとしている。
同じ夜、古実鳴の煤又原城でも宴が催されていた。蟻螂は隣に座る城主の娘、蝶姫を見た。白無垢姿の蝶姫は美しかった。角隠しから覗いた瞳が見上げたとき、そのまつ毛は蟻螂の心を危うく扇いだ。
宴会がはけて二人きりになると、それは一層際立った。闇に浮かぶその白い肌は、人間というよりは絵画の中の人物だった。まるで現実感がない。蟻螂は穂乃を諦めていない。だからという訳でもないが、彼は一言も発さなかった。
「慣れないお酒を飲んで私は疲れました。先に休ませていただきます」
蟻螂はほっとしたと同時、妻を、というより君主の娘を傷つけてしまったのではないかと思った。しかし、その心配は無用だった。
蝶姫は一目見た時から、蟻螂の粗野な態度を軽蔑していた。
臭い獣の皮を着込み、いきなり人を斬った話をした男。叔父の木怒山が言うように、本物の山猿だと蝶姫は思った。
蟻螂の部屋には、蝶姫とは別に床が敷かれた。二人の侍女は、仕事が終わっても正座したまま動かない。その顔はこけしのように全くの無表情で、蟻螂と自分たちの間にある虚空に目を落としていた。
蟻螂は顎で二人を追い払うと、やっと安心して布団に入った。さすが君主の娘婿だけあって、いい布団だ。こんな物はいかに狩りが上手くとも、俺が作れるものではない。もっと偉い侍になって、あの盗賊も必ず見つける。蟻螂は、囲炉裏の炎に照らされた、あの氷柱のような瞳を覚えていた。並作と呼ばれた団子鼻も。あいつらをさらし首にして、奪われた穂乃を救い出し、今度こそ本当の祝言をあげるのだ。
古実鳴の新婚は、全く別の思いを胸に、初夜を過ごした。
浪親はちょっとした嫉妬から前の夫について穂乃に尋ねたいと思ったが、やめた。武士の誇りがそれを許さなかった。
そしてあの夜ろくに顔も見なかったのは、かえって幸運だったと思った。
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百合の君(25)