耳鳴り

 耳鳴りがやまない。ずっと右側の耳がなっており、虫が住み着いてもう三年くらいになるのか。いつまでたっても慣れない。年々身体は弱っていく気がする。次第に不備になる箇所が増えていっているようだ。免疫系と神経系がおかしくなっても、検査結果には現れない。今日は疲れているのだろうか。本を読んでも頭に入らない。疲れているときは、耳鳴りの音が大きくなる。吐き気の方も少しある。文章を読むときは耳の方でも何か運動している。話し言葉と書き言葉は離れているようで、つながっている。耳鳴りが慢性化してから、どうも読書に今一つ集中できない。文章がなんだか上滑りしていっているような印象で、深く入り込んだ読書はもうできないのかもしれない。単に年のせいなのか。俺も結構な年になってしまった。感性も知性も衰えていく一方だ。こんなことは何度も頭の中でくり返してきた理屈だ。

 若かった頃は、一冊ごとの経験がもっと重みのあるものだった。この一冊でもう終わろうという心意気で読書をしていた気がする。もっと読むことに真剣だったし、あの頃は若くて健康だった。読書をするには体力がいる。特に小説というものは、頭で読むものではなく、身体で読むものだ。読むと言う行為に全身が参加するのは小説と詩くらいだろう。文章が頭を通り抜けて、身体の底の方まで響いてくるような境地に達したときに、少しだけ過去の傷が癒され、人生の見晴らしがよくなり、自分がこの世界に存在してもいいのだという自信がほのかに湧いてくる。小説にはそういう喜びがあった。しかしそれも過去の話だ。

 もう私は一冊の小説を一人の人間として扱うほどの気概も心意気も体力もない。もはや文章として読んでいるに過ぎない。衰えたのだからしかたがない。人との出会いと、本との出会いが交錯し、私の心の中でのみ栄える宇宙が生まれてくる。そういう時期もあった。現実の世界はつらいものであったが、あの頃の私は確かに祝福されていた。傷を負ったからこその賜物だった。このように小説の世界に救いを見出していた時期もある。しかし、すべては過ぎ去った。消えていった。何もかもが踏みにじられた。あのころの感情も感性も、流れ作業のように処理されて、砕かれて、今では頑迷で臆病で小賢しい人間が残った。もうあのころの読書経験は忘れてしまった。感動は消え去り、偏見だけが募っていく。どこにでもいる意地悪な老人にも、人生というものがある。一人の人が、歩んできた道は、どんなものであったとしても馬鹿にしてはいけない。そこには、きっと学ぶものはたくさんあるはずなのだ。

 俺は何を話したかったのかな。若い頃のように小説はもう読めないということを言いたかっただけだ。読後に、寂しさと苦しさを感じながら、再生感と癒しを得られるような、あの経験。もうあの頃は戻ってこない。多忙で、いつもストレスを抱えていながら、先のことなどまったく頭になかったのに読書に耽ったあの時代。自分は何をしていたのだろう。確かに愚かではあったが、あれ以外に道があっただろうか。何度も過去を問い直してきたのだ。小説を読んできたのも結局は、過去を直視するためだろう。すべては、自分の人生に自信を持つためだった。結局は無駄だったのかもしれない。儚いあがきでしかなく、何も得られなかったのかもしれない。しかし、これまでの経験が無駄だったと知るためには、多くの経験がいる。虚しさに達するためには、日々を生きなければいけない。目の前の物事をやり抜かなければいけない。まあ、こんな言い分もすべて負け惜しみにすぎない気もする。俺の生き方が間違っていただけかもしれない。

 Tは布団の上で寝転がっていた。読みかけの本は放り投げて天井を向いていた。外で車を通る音が聞こえた。不摂生と無理な労働のツケとして生じた耳鳴りの方はずっと続いている。静寂の中で一定の調子で延々と鳴り続ける機械的な騒音が、過ちの多い人生の刻印である気もした。

耳鳴り

耳鳴り

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-10-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted