服従彼女
かきました。
みなさんが期待しているようなものではなくて、ごめんなさい。
とってもライトな感じです。
人生の転機
プロローグ
「わたしを奴隷にして下さい!」
一年三組の教室に響きわたる溌剌とした声。その勢いに圧倒され、辻秋穂は椅子から転げ落ちた。その衝撃があまりにすさまじかったものだから、崩れるようにして教室がぶち壊れた。教室がなくなれば、人もいなくなる。真っ白になったそこは、まるでふたりだけの空間だった。
「あ、あの……」
アキホは、混乱する頭で自分の身に何が起きているのか必死で理解しようとしていた。頻りに目をぱちくりさせ、うめき声にも似た声を等間隔に吐き出す。分かっているのは、目の前で鼻息荒いこの女性にまったく面識がないということだった。
「え? あの……奴隷って――」
「もう決めたから!」
入学式から一カ月、アキホに転機が訪れた。
*
アキホは、極端に外部との接触を嫌う人間だった。特別根暗なわけでも、極端な人嫌いでもないが、なぜか人と上手に接することができなかった。上手に接することができないから、余計に人を遠ざけてしまう。
「どうして、こんなことに……」
アキホの人生は、悪循環に悩まされ続けていた。
月日は流れ、アキホはひとりも友達をつくらないまま、ついに高校入学を迎えた。高校生になれば何かが変わるかもしれない。新天地に期待したアキホだったが、やはり状況は変わらなかった。自分から話しかける度胸もなく、せっかく話しかけてもらったかと思えば、愛想笑いを浮かべるだけ。面白みのまったくないアキホは、誰からも受け入れられることなく退屈な日々を過ごしていた。
「コミュニケーション能力が足りない!」と、大人は叱るだろう。しかし、アキホの抱える問題は大人が解決できるほど単純な問題ではない。アキホの人生は数式ではなかった。他の頭で答えがでるものではない。アキホの問題は、アキホにしか解決できない。毎日ひとりで登校し、ひとりで弁当を食べる。だれとも一言も会話をしないまま放課後を迎え、だれに別れを告げるわけでもなく、こっそり家路につく。ゲームだけが友達だった。
アキホは、そういう人生だった。
十数年生きてみて、アキホは、孤独な自分を受け入れはじめていた。
「世界は面白くない。そういうものだ」
アキホは、難解なゲームをクソゲーと決めつけるように、人生を諦めようとしていた。はずだった。
どうしたことだろう。いま、目の前で、想像だにしてこなかった人生の転機が訪れようとしている。床に手をついたまま、アキホは頻りに目をぱちくりさせていた。
いったい、おれに何が起こっているんだ。
「わたしを、あなたの奴隷にして下さい!」
その声は、学校中に響き渡った。見覚えのない女子生徒だった。ぽんわりとして、マシュマロみたいにぷっくらな頬っぺたをしている女子だった。同じクラスの女子ではない。上履きの色が同じだから、同学年であることだけは確かだ。
「どうして、なにも言ってくれないのかな?」
知らない女子生徒が顔を傾けると、艶のある髪の毛がさらりと横に流れた。
口をぱくぱくさせることしかできないアキホは、餌を欲しがる鯉となんら変わりなかった。
「ねえ、ご主人様って呼んでいい?」
知らない女子生徒は、いまさら恥ずかしそうにもじもじ身体をくねらせた。
いきなり奴隷にしてくれと言われて、「はいそうですか」と言えるほど、アキホは経験豊富でなかった。もちろん、頭には、しっかりといやらしいシーンが思い浮かんでいるが、それはエロ本の世界だ。現実で女子に首輪をつけるなんて、あり得ないにも程がある。
「あ、あの、奴隷っていうのは、その」
「何でもするよ!」
それがあまりに大きな声だったので、アキホは身体を驚かせた。
「そう、ですよね」
苦笑いしかできない自分が恥ずかしい。エロ本だと立場が逆だ。男子が弱みを握って、女子がおどおどする。それが王道パターンだ。なのに、アキホは圧倒されていた。告白もされたことない童貞男子に、どうして奴隷なんか作れるだろうか。
落ち着け。まずは、そうだ。ゆっくりと、段階を踏んでいこうじゃないか。
「あの、まずはお友達から」
アキホは奴隷が欲しい訳ではない。できることなら男の友達が欲しかった。でも、この際贅沢は言わない。性別にこだわらず、友達ができるのならそれでいい。アキホは、自分の念願を叶えるために勇気を振り絞って手を差し出した。しかし、
「奴隷がいいの!」
差し出した手は、威勢の良い声に跳ねのけられた。アキホには、もう何が何だか分からなくなっていた。
「どうして、そこまでして」
おれが一体何をした。世界の救世主になった覚えも、不思議な能力に目覚めた覚えも、ましてや罠にはまった鶴を助けた覚えもない。アキホは昨日と同じ、アキホだった。
「もう、決めたから!」
弾かれた手を抱いて泣きそうなアキホに対し、一方的にそう言い残して、知らない女子生徒がスカートを翻そうとしたので、アキホは慌てて飛びついた。
「ちょっと待ってくれ」
藁にもすがるような気分だった。実際、その手に掴んでいるのは、知らない女子生徒のスカートの裾なのだが、とにかく、アキホはすがった。引き留められた知らない女子生徒は、くるりと降り返り、アキホに向けてにっこりと笑った。
「命令ならきく」
「もちろん、命令だ。待て」
アキホは、戸惑いながらもそう言った。
「なら、待つね」
知らない女子生徒が鼻歌交じりに待っているなか、アキホは、ゆっくりと息を吐いた。立ち上がりつつ、制服についた埃を払いながら頭の中を整理した。聞きたい事なら山ほどある。しかし、奴隷になりたい理由よりもなによりも、聞かなければならないことが、ひとつだけある。
「あんた、名前は?」
女子生徒は「そういえば」と手を打った。
「カリンだよ。東島花梨」
「カリン、さん?」
聞き覚えのない名前に訝るアキホ。彼を横目に、ぶりっ子のごとく、カリンは頬っぺたに指を刺した。
「カリン、もしくは豚野郎って呼んでね?」
第一章
数日が経った。
カリンの奴隷宣言は、冗談でもなんでもなく、アキホは、本当にカリンという奴隷を手に入れてしまった。初めは、どうせ悪戯かたちの悪い罰ゲームだろうと疑っていたアキホだったが、一度だけアキホの命じた「学校にスクール水着で来い」をカリンが忠実にこなしたことで、疑惑は確信に変わった。
「どうして、こんなことに……」
騒がしい教室のなかでひとり、アキホは項垂れていた。
耳に入ってくるのは、二か月前に突然死んだ人気俳優の名前ばかりだった。そいつがどれだけ人気だったのか知らないが、人の気も知らずに芸能ニュースに浮かれやがって。一大ニュースならもっと近くにあるだろうが。
『アキホ 奴隷を手に入れる!』という一面大見出しが、アキホの頭のなかで発行されていた。その道の専門家曰く、これは「最近の若者に見られる性の乱れを象徴するような事件」だそうだが、やかましい。はげたおっさんは、ひとり寂しく妄想でおなれ。
孤独なアキホには、相談する相手すらいなかった。
奴隷なんて、とんでもなく手に余るものを手に入れてしまった。アキホの性欲はそこまで強くないし、女子に命令してどうのこうのするだけの度胸もない。アキホはMだ。命令されたいのは、こっちの方だ。それなのに、命令してくれって。
「おれは、どうすればいいんだよ」
孤独なアキホは、項垂れていた。事態は、アキホが思っていた以上に悪化していたからだ。
まず、女子がアキホに話しかけることはなくなった。もともと根暗のせいであまり人気のなかったアキホだったが、例のスクール水着の一件が全校女子からの顰蹙を買ってしまったらしく、アキホが歩いていると廊下から女子がいなくなるほど、アキホはわかりやすく避けられていた。そうして全校女子から嫌われる半面、男子からは、尊敬の眼差しを向けられることが多くなった。
「どうすれば奴隷をつくれるのか」そんな事を聞かれても……。
「一晩だけでいいから貸してくれ」そんな事を言われても……。
どうやら、カリンは、それなりに人気のある女子のようだった。それが分かったところで度胸と経験のないアキホには、どうしようもないことなのだが。
奴隷なんかいらない。友達が欲しい。アキホは切実にそう願っていた。
「なぁに項垂れてんだよ」
項垂れて丸くなったアキホの背中が、力強く叩かれた。この声は、カリンを奴隷にして以来、もっとも親しげに話しかけてくる男子だ。名前は、たしか。
「後藤?」
「コトウだよ! 南原小刀!」
「ああ、そうだ」
南原小刀。クラスでもっとも目立つ髪型をしているやつ。アキホの持っている彼に対する認識は、その程度だった。顔はよく分からない。
「ったく、クラスメイトの名前くらい覚えとけよ」
そんなことを言われても、友達でもなんでもないやつの名前など、覚える気にもなれない。そもそも、おれは人の名前を覚えるのが嫌いだった気がする。うん。そういうことにしておこう。
「ったく、適当だなぁ。で、なにを悩んでんだよ」
どうして、それをコトウに言わないといけないのだろうか。アキホは、憮然とした顔で口を開いた。
「相談するにしても、もっと口の堅そうなやつにする」
「友達だろ?」
「気のせいだ」
「つれないねぇ」と、コトウは首をすぼめた。
そんなこと言われても仕方ない。ここで友好的な対応ができるくらいなら、とっくの昔に友達ができている。
「おれは、アキホのこと友達と思ってるのよ?」
コトウ以外に言われていたら、なんと嬉しい台詞だったことだろうか。
「そりゃ光栄だ」アキホはため息交じりにそう答えた。
「で、奴隷ちゃんはどうなのよ?」
さぁ、本題だ。コトウの爛々と輝く目がそう言っている。
コトウだけでなく、男子の興味はそこばかりだ。すこし目線をそらすと、男子だけでなくクラス中が聞き耳を立てているのが分かる。この世界には、例え偽物でも友達には何でも打ち明けなければならないルールでもあるのだろうか。
「別に……」
「おいおい、別にってことはないだろ。もうやったんだろ?」
「何を?」
「何っておまえ、男女ですることなんてひとつだけだ」
「おままごと?」
「うん……まぁ、似たようなもんだ」
期待にそえなかったようで、コトウは、がっくりと肩を落とした。
「あれ、違った?」
落ち込んでしまった友人(仮)に、どう声をかければ良いのか分からず、アキホは、きょろきょろと目玉を動かした。
「いや。別に、いいんだけどさ」
気まずい空気を授業開始のベルが断ち切ってくれたので、アキホは、ほっと胸をなでおろした。これで、コトウから解放される。
「奴隷ちゃんと仲良くしろよ」
言いたい事だけを言い残して消えるコトウ。仲良くしろといわれても、カリンは奴隷だった。どうしたって上下関係があるのだから、仲良くすることは難しかった。
「友達が欲しい……」
アキホの寂しい独り言は、さわがしいクラスの喧騒に紛れて消えてしまった。
そうこうしている間に昼休みを迎えた。
孤独なアキホは、クラスメイトのだれかに昼食に誘われることなく、こっそりと教室を抜けだそうとしていた。ドアを少しだけ開き、少しだけ顔を出して廊下の様子を探る。右よし。左よし。ミッションスタート!
「あ、御主人様だ」
アキホが廊下に飛び出すと、正面に立っていたカリンの胸に顔をうずめてしまった。正面を確認しなかったアキホのうっかりミスだ。
「わぁ、だいたんなしゅうちぷれい」
誤解だ。断じて誤解。しかし、アキホの弁明など聞く耳もたずに、まわりの女子たちは棘のあるひそひそ話でアキホの心をチクチク刺していった。ずんと落ち込むアキホを横目に、カリンは能天気な顔をしていた。
「もしかして、迎えに来てくれようとしたの?」
「あ、あぁ。もちろんそうだ。いまから、迎えに行こうとしてたんだ」顔に残るぽよんとした感触を手で拭いながら、アキホは答えた。
すると、カリンの顔が険しくなる。
「駄目だよ。ご主人様は、どすんと座っててもらわないと」
「うん。そうだな。ごめん。自覚がなかった」
どうして奴隷に叱られているのか分からないが、アキホは謝った。そうしてまた「謝らないで!」と怒られる。カリンに優しさは無用らしい。
「えへへ、でも、ちょっと嬉しかったよ」
怒ったあと、カリンは決まってアキホの腕に絡みついた。またあのぽよんとした感触が腕を包み込む。悲しいかな、それで反応してしまうのが男というものだ。このままだと自分がご主人様を受け入れてしまいそうになる。そうなれば、誤解が真実になってしまう。アキホは、ぐっと歯を食いしばった。
「うん、そうか。なら良かった。それじゃあ、おれは、これで」
ぬるりとカリンの胸から腕を抜き、「じゃっ!」とあげたアキホの手を、カリンは逃がさなかった。ぬっと伸びたカリンの左手が、アキホを掴んで離さなかった。
「待って。今日も作ってきたんだよ?」
「みたいだな」
アキホは、カリン肩からさげられたふたつの弁当箱を見ていた。
カリンは、毎日アキホのために弁当を作っていた。健気な話ではあるが、アキホは迷惑していた。アキホの鞄には、もうひとつ、弁当箱が入っている。母親の作った、冷凍食品まみれの弁当だ。どちらも残すわけにいかないので、アキホは、毎日弁当をふたつ食べていた。いくら食欲旺盛な男子高校生とはいえ、しかし、いい加減きつくなってきた。親の分を断ればいいのだが、なんと言えばいいのか分からない。カリンを彼女とは言いたくないし、「奴隷がいるから弁当いらない」なんて言う息子は、その場で勘当だ。
要するに、八方塞がりだった。
「あれ? あれれ?」
逃げられない事を悟ったアキホは、顔をしかめ、お腹をさすりながら後ずさった。
「ご主人様、どうしたの?」
カリンが心配そうにアキホの背中をさすった。
「なんか、お腹が痛いような気がするんだぜ」
「う~ん。でも、大丈夫だと思うよ。だってほら、わたしの作ったお弁当には愛情が詰まってるし」
なにが「だってほら」だ。愛情で病が治ってたまるか。
「ね、一緒に食べよ?」
アキホを逃がさないよう、カリンの手にぐっと力がこもる。
「いや~でもな~」
アキホは、チャンスを窺っていた。カリンの一挙手一投足に気を配る。落ち着くんだ。まだその時は訪れていない。がらり、近くの教室の扉が開くと、ちらり、カリンの黒目が横を向いた。
「今だ!」「あっ!」
アキホは、すばやい動きで手を振りほどいた。
「ダッシュ!」
アキホは駆け出した。振り返らず、一心不乱に駆け出した。生徒を避け、階段を昇り、屋上へ飛び出した。爽快な空気が、アキホの健闘を祝福する。
吹きぬける風。広がる青空。ああ、おれは勝ったぞ。
「いい景色だねぇ」
「どうしてさ……」
やっぱり、そこにはカリンがいた。髪をなびかせ、空を仰いでいる。
アキホは、屈するようにその場にへたり込んだ。カリンからは逃げ切れない。いや、分かってはいたことだった。
「さすが御主人様。いい場所を知ってるぅ」
カリンは気持ち良さそうに伸びをしていた。
人気のない屋上。学校で唯一心安らぐ場所だった。
「ついにばれちまった」
「わたし、だれにも言わないよ?」
そういう問題じゃない。
「ふん、ふん、ふふん」
カリンは、鼻歌交じりに着々と弁当を広げていた。どこから取り出したのか、可愛らしいシートを敷いて、そのうえに弁当をあける。
「さ、食べよう?」
すっかり準備はできていた。「花見ですか?」と問い詰めたくなるような豪華さだ。
「……うん。そうだな」
アキホは観念した。本気で拒絶すれば、カリンも引きさがってくれるのは知っている。しかし、以前そうした時に見たカリンの悲しそう顔は、もう見たくなかった。
もう、人を悲しませるのは飽きた。おれは悲しませすぎた。
アキホは、差し出されたピンク色の箸を受け取った。
「この箸だけは、どうにかならないか?」
「お似合いですよ」
ピンクの似合う男子高校生。それは褒められているのだろうか。アキホは、箸をそろえて手を合わせた。
「いただきます」
「どうぞ、めしあがれ」
野菜、肉、フルーツ。バランスの良さそうな弁当。こういうのが、愛情のある弁当っていうんだろうな。
アキホは、甘いタレの掛かったミートボールを口に放り込んだ。それは、本当に甘くて、これがご飯のおかずになるとは信じられなかったが、冷めたご飯を口にいれると、甘いタレと絡まってちょうどいい味になった。
「ご主人様、美味しい?」
残念だが、美味い。しかし、それを認めてやるのは癪に障った。
「お腹痛いのは治ったよ」
「えへへ、でしょ~」
青空の下で食べる弁当は、すこしだけ、特別な味がした。
そんな気がする。
アキホは放課後を迎えるのだった。
帰り道は、専属の奴隷が、甲斐甲斐しく家まで送ってくれる。アキホの家が海沿いなのに対して、カリンの家は山の上にある。そのことを知っているアキホは「遠いからいい」と毎日断っているのだが、カリンは諦めなかった。「送らなくてもいい」と、アキホが言うと、「家に帰るまでが調教です」と、どこかで聞いたことのありそうな台詞を言う。決まって言う。ふたりは、並んで歩く以外になかった。
放課後の影は、くっついて見えた。
「ねえ、御主人様」
すたすた、カリンが回りこんで来たので、アキホはカリンを避けるようにしてすり抜けた。歩いてさえいれば、はやく家に帰れる。はやくカリンと別れられる。
「ねえってば」
「……なんだよ」
足を止めないまま、アキホはカリンの相手をした。
「どうして、もっと恥ずかしい事してくれないの?」
またカリンが回りこんできたので、アキホはため息をブレーキに足を止めた。
「この期に及んで、まだおまえはおれの評価を下げようとするのか」
「ふぇ?」と首を傾げたカリンは、鞄をふたつ持っていた。アキホのと、カリンの鞄だ。アキホが強制的に持たせているわけでないことは、わざわざ説明するまでもない。カリンは、帰りのHRを終えて教室から出てきたアキホに対し、天才ラグビー選手のごとく鞄を奪い去り、鉄壁の守備でアキホの家まで守り抜くのだった。そんな事情を知らないまわりの人間からすれば、彼女に鞄を持たせている、とんでもない彼氏。としか映らない。そのおかげで、アキホは、ますます人から嫌われるのだった。
「だから、おまえは何もしなくていい。いいな?」
アキホがぐっと念を押すと、カリンは小さな身体をさらに小さくすぼめた。
「でもぉ、スク水、着る?」
「着たら一生調教してやんない」
「やだぁ」
カリンは、取り出そうとしたスク水を鞄に押し込んだ。
「ねえ、調教してよぉ」
「だったら、命令だ。普通にしててくれ」
「ぶ~」
カリンは頬を膨らませた。ご主人様の前で不快感をあらわにする奴隷も珍しい。
表では平常心を保とうとしているが、実のところ、アキホの背中は汗でびっしょりだった。カリンと話をしていると、カリンのペースに巻き込まれそうになる。繰り返し御主人様と呼ばれ続けると、段々とその気になってしまう。そんな自分の単純さも嫌だった。
アキホがため息をつくと、これは好機とばかりにカリンが心配する。
「ご主人様、どうしたの? パンツ見る?」
「いらない」
もちろん見たい。危うく誘惑に負けそうになるも、昼休みの屋上で、すこし強めの風が吹いたときにちらりと見えた縞々のパンツを思い出して、なんとか自分を押さえることができた。
「パンツとか、おまえは、おれをどういう目で見ているんだ」
帰り道のアキホは、帰宅部のくせにぐったりと疲れていた。
「ご主人様は、ご主人様ですがな」
カリンはあっさりそう答えた。きっと、カリンのご主人様に関する参考資料は、アキホの持っているものと同じジャンルだろう。鬼畜な主人公と悲劇のヒロイン。まるで救いのないストーリー。
漫画みたいには、なれないよなぁ。
頭の中が悶々とエロ漫画のワンシーンで埋め尽くされそうになったので、アキホは近くにあった電柱に「うおおおおおお」と、数発頭を打ち付けた。カリンが止めてくれなければ、この場で死んでいたかもしれない。
「だ、大丈夫ですか?」
カリンがハンカチで血を拭ってくれる。頭から血の抜けて冷静になったアキホは、呟くようになんの脈絡もなくこう言った。
「そういえば、コトウが、お前のこと気にしてたぞ」
「ことう?」
「おれの友達だよ。ご主人様の友達くらい覚えとけ」
「あい。で、そのコトウ様がどうしたの?」
なるほど、友達は『様』なのか。
「どうすれば、カリンみたいな奴隷を作れるのか。だってよ」
「そんなの簡単だよ」
カリンは立ち止って、両手を広げた。さあこれから名言をだしますよ、といった雰囲気を醸し出す。コトウだけでなく、世界がカリンの言葉に耳を傾けている、気がした。
「ご主人様になればいいんだよ」
世界がずっこけた。
「そうだな。その通りだ」
明日、コトウに言ってみよう。……いや、わざわざ言う必要もないか。
*
アキホの学生生活は、悪化の一途をたどった。
女子からは嫌われ、友達もいない。アキホのそばに寄ってくるのは、専属の奴隷と性欲に操られし男子高校生だった。
そして今日、アキホの頭を悩ませる要因が、もうひとつ加わるのだった。
どうして、こんなことに……。もはや、口にだすことすら憚られた。
アキホの前には、山のような大男がそびえ立っていた。振り返った逃げ道は、山男の部下たちに塞がれていた。
要するに八方塞がり。
放課後、アキホは体育館裏に連れて行かれた。もちろん、アキホだって、警戒はしていた。あのまま、トウマが素直に引き下がってくれるとは思えなかった。しかし、無愛想で有名なトウマに、人さらいをしてくれるような忠実な部下がいるなんて、いったい誰が想像することができただろうか。
「どうして、こんなことに……」
ことの発端は、数時間前に遡る。
朝のHRを前に、コトウが、滑り込むようにしてアキホの前に現れた。慌て顔のままアキホの無事を確認すると、息を切らしたその口で、トウマが、アキホを狙っていることを伝えた。
前川東馬。彼の武勇伝は、海をわたりアメリカのマフィアにまで轟いている。幼稚園のころに先生を半殺しにして以来、至る所で人々を半殺しにしているらしい。ついた異名は『動く活火山』。トウマのあとには屍も残らない。トウマの前にも後ろにも、トウマだけなのだ。
アメリカをも震えあがらせる男、トウマが、アキホを狙っている。恨まれる覚えのないアキホは、近付いて来る地鳴りにような足音から逃れるために、掃除用具の入っているロッカーに身を潜めた。そのあとの事はあまり思い出したくもないが、山のように大きな男が、そびえ立つように現れたかと思うと、ご主人様のピンチを聞きつけたカリンが、身を呈して助けてくれた事だけは覚えている。胸に残っているのは、女子に助けられてしまったという不甲斐無さ。
「どうして、こんなことに……」
そして、いまに至る。
物語にでてくるゴーレムのような男が、アキホの前にそびえ立っていた。まるで無表情なその顔は、なにを考えて言うのか察することもできない。はずだった。
しかし、勘の良いアキホは気付いていた。トウマはカリンが好きらしい。先程からもじもじしていたので、もしかしてと思っていたが、カリンの名前をだすと、トウマは顔を真っ赤にして、目を泳がせた。巨大な男が頬を赤らめるというのは、なんとも気味の悪い話だったが、この弱点を利用しない手はない。これは光明だ。
アキホは、勇気を振り絞ってトウマと交流してみることにした。果たして日本語は通じるのだろうか。
「なぁ、トウマ。これは、どういうことなんだ」
呼び捨てにすると、逃げ道を塞いでいるトウマの部下たちが一斉に騒ぎだす。餌を欲しがる雛鳥のようだ。ぴーちくぱーちく喧しい。トウマが黙らせるまで、延々と鳴き続けるのだから、やっかい極まりない。
部下たちを制し、トウマはゆっくりと口を開いた。
「単刀直入に言おう」
地の底から響くようなトウマ声は、アキホから戦意のすべてを奪い去った。カラスが一斉に鳴き始めたのは、偶然ではないだろう。
「カリンとおまえ、どういう関係だ」
改めてそう問われると、アキホは言葉を詰まらせた。
「どうと、言われましても……」
ふたりの関係は、主従関係としか言いようがない。しかし、恋する相手に「カリンはおれの奴隷だぜ!」というのは如何なものだろう。しかし「他人です」と嘘をついて、ばれたら後が怖い。というか、なぜトウマは、おれとカリンが主従関係にあることを知らないのだろうか。これだけ忠実な部下がいるのなら、学校で広まっている噂くらい耳にはいってもいいものだろうに。
訝るアキホの疑問を、トウマの次なる言葉が解決してくれた。
「奴隷とは、なんだ」
アキホは、すっきりした顔で「なるほど」と手を打った。
なるほど、そういうことなのか。
トウマは、想像以上に馬鹿らしい。アキホとカリンの関係性は知っているが、奴隷という言葉の意味までは分からなかった。それでも、カリンと特別な関係であるのなら自分は身を引こうと今の今まで『動かざること山の如し』を決め込んでいたのだが、ふとした時に聞こえてきたアキホに関する悪い評判に、ついにトウマは立ち上がった。カリンを救うのはおれしかいない。と、使命感にでも駆られたのだろう。
アキホは、トウマの全身をしげしげと眺めた。
なんだ、思っているよりいい奴じゃないか。トウマが抱いているのは、紛れもなく誤解なのだから、話せばきっと分かってくれる。
自分の正義で生きているトウマは、象徴である太陽に近付くためにぐんぐん身長が伸びたのだ。
アキホは、カリンとの関係を説明するのに適当な言葉を選んだ。あまりに正直な説明をしてしまうと、とんでもない誤解を生むことになる。
「どうした、はやく答えろ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。えっと、奴隷というのは、だね……」
アキホは慌てた。『奴隷』という言葉は、どう説明すれば綺麗になるだろうか。国語の成績が毎年『三』であるアキホに、ゴミを価値あるものに装飾するだけのボキャブラリーがあるはずもなかった。
「なんだ、奴隷とはなんだ」
トウマが急かす。アキホは慌てる。
「待て、慌てないで、話せばわかる」
「はやく答えろ」
アキホが黙っていると、逃げ道を塞いでいる部下たちが騒ぎだす。はやくしろ。ぼさっとしてんな。この豚野郎。
まったくうるさい。いや、待てよ。そうだ、こいつらがいた。
「トウマ」
すっきり顔のアキホは、呼び捨てしたことに対してピーチク騒いでいる部下たちに対してゆっくりと人差し指を向けた。
「奴隷というのは、こいつらみたいなものだよ」
部下たちが、ますます騒ぎ始めた。意味が分からねえ、らしい。
「トウマなら、分かるだろ? 奴隷っていうのは、トウマにとってのこいつらみたいな物だよ」
「ふむ」
トウマの感情のない瞳が、部下たちのひとりひとりを映す。
「お腹が空いた」といえばパンを買ってくる。「退屈だ」といえば、面白くもない話をしてくれる。「よこせ」と言えば、何だって差し出す。アキホは、そんな意志のない金魚のフンみたいなやつらのことを言っているつもりだった。トウマが部下たちをどう思っているのか分からないが、悪い感情は抱いていないはずだ。
「なるほど、友達か」
「なんだって!」
しかし、トウマは、アキホの想像以上にピュアだった。まさか、なんでも言うことを聞いてくれる友達なんて、それは友達なのだろうか。
「いや、友達というか」
アキホは混乱していた。これは、結果オーライといえるのだろうか。訂正するべきなのか、受け入れるべきなのか、アキホはしきりに目を泳がせた。
「違うのか」
トウマの鋭い眼光に、アキホは黙らされた。下手に否定すると、また面倒な事になる。だったら、トウマの思い通りに話を進めてしまえばいい。
「うん。トウマの言う通り、カリンはおれの友達だ」
「ならば差し出せ」
トウマは、アキホのずっと近くにいた。
アキホは耳を疑ったが、トウマはいつも通りのことを言ったつもりだった。なにか欲しいものがあるときは、他人お願いすれば手に入る。トウマの人生はヌルゲーそのものだった。
「友達ならば、差し出せ」
「ちょっと待ってくれ。そんなの」
横暴だ……。トウマの鋭い眼光に、アキホは再び黙らされた。しかし、アキホの心をたっぷりと冷たく満たしているのは、紛れもなく孤独だった。
「差し出せ」と、トウマは何でも握れる大きな掌を広げた。
トウマの重量感のある言葉に、アキホは押しつぶされそうになった。
首を縦にふるしかないだろう。カリンがどうなろうと、どうせ他人事じゃないか。それで、おれの人生がどう変わるわけでもない。人と人は線で結ばれていないから。関係ないだろう。そのはずなのに。
「友達と言ってもですね!」
気付いた時には、アキホは言葉を紡いでいた。へつらうような笑みを浮かべて、できるだけトウマの気分を害さないように細心の注意を払って、アキホは解決の道を探した。
「なんだ。まだ何かあるのか」トウマの掌は、何も掴まないまま閉じた。
「友達といっても、色々な種類がございまして」
「ふむ?」
わずかにトウマが怯んだのを、アキホは見逃さなかった。トウマは言葉攻めに弱い。ならばそこを攻める。馬鹿は言葉の波に飲まれて死ね。
「拳の友達。言葉の友達。絆の友達。愛の友達。遊びの友達。その日の友達。その他にも各種さまざまな友達を取りそろえている訳でございまして、ひとことに友達とくくるのは余りに早計といいますか、弘法も筆の誤りと言いますか、猿も焦れば木から落ちてしまうわけなので、河童のごとく川に飲まれないように、こう、なんといいますか丁寧に物事を進めて行かなければ、大統領だって核爆弾のボタンを押すことがあるわけなのですよ」
つらつら言葉を並べると、トウマは、ふらふら身体を揺らした。頭のなかで、言葉が渦を巻いてトウマを飲み込んでいる。あと一押し、アキホはさらに言葉を紡いだ。やがて飲み込まれると、トウマの頭から湯気が立ち込めた。
「うぬ……友達……」
壊れたロボットのように煙を吐き出しながら、トウマは錆ついてしまったかのように機械的に身体を動かした。首を左右に振り、身体を倒しては起こし、そして、
「おまえを、殺す」
拳がアキホの頭をかすめた。当たらなかったが、アキホは腰を抜かしていた。風を切ったその拳速だけで、トウマの拳が人を殺すだけの威力があることは分かる。
見上げると、さらにトウマは、拳を振りかぶっていた。今度は外さない、トウマのぎらりと光った眼がアキホに狙いを定めた。
「差し出す!」
拳はアキホの鼻先で止まっていた。アキホは咄嗟に叫んでいた。荒い呼吸で目の前に浮いている拳をじっと眺めながら、自分の意志など関係なく、自分のなかの生存本能が叫んでいた。
「いま、なんと」
「カリンは、おまえにやる。だから、殴らないで」
校門の前には、いつもどおりカリンが待っていた。アキホを見つけた時の、その無垢な笑顔は、アキホを罪悪感で苦しめた。
おれは、自分の身を守るために、カリンを、売った。ほっとしていた。
「ご主人様?」
「……ごめん。おれは、とんでもないことを」
不甲斐無さに震えるアキホの手を、優しく、温かいものが包み込む。
「ご主人様の罪は、わたしのものだから」
アキホは唇をかみしめた。嗚咽を漏らしたくなかった。
ハンカチがそっと当てられる。なんて、情けない。おれは、どこまで。
滲んだ夕陽を見ながら、アキホは励ましの雨に打たれていた。
*
結局何も言えないまま、次の日の朝を迎えた。カリンは、何時も通りアキホを迎えにきていた。「おはよう」と言った無垢な笑顔は、それだけでアキホの胸をしめつけた。
「ご主人様の鞄は、奴隷が持つ」
鞄は渡せなかった。アキホが、カリンの鞄を持ってやりたいくらいだった。しかし、それを言う勇気もない。「鞄を持つ」といって聞かないカリンに、アキホは拒絶の手を向けるのが精一杯だった。
学校につくと、校門の前でトウマがそびえるように待ちかまえていた。トウマの横を通り過ぎる生徒たちは、用心のために身を低くしていた。
「遅かったな」
「待たせたな」
逆らえなかった。この場にくるまで妄想の中では何度もトウマをぎゃふんと言わせてやったのに、いざ目の前にすると威勢のいい一言だって言えなくなる。
「ああ! あんた! また性懲りもなく!」
牙をむいて飛びかかろうとするカリンを押さえて、アキホは前に進み出た。
「できれば、優しくしてやってくれ」
カリンは、事態が思わぬ方向に進んでいることを察して、俯いたまま去ろうとするアキホの袖を小さく掴んだ。
「ご主人様?」
目の前で自分の売買が行われているのだから、カリンが目を見開くのも無理はない。
「ご主人様、どういうことなの?」
「大丈夫、トウマならきっと、優しくしてくれるさ」
それだけは信頼できる。トウマは、実はいい奴なのだから。
「わたしを、あげちゃうの?」
「そんなに、悲しい顔をしないでくれ」
「これは、命令なの?」
アキホは下唇を噛んだ。じんわりと、悔しさで赤味の濃くなった血が滲む。
「ああ、命令だ」
「そっか、そうなんだ」
アキホに合わせるように、カリンも俯いた。今日も変わらない日常だと思ってたのに、崩れた。裏切られたとは思っていない。奴隷って、そういうものだから。
顔をあげたカリンは、元気に笑っていた。
「じゃあ、わたし、頑張るね」
「ああ、頑張って来い」
カリンの瞳にアキホは映っていなかった。大きくそびえたつ男を見上げて、眩しい太陽に目を細めていた。
「よろしくね。トウマさま」
「うむ。よろしく」
振り返ることはしなかった。だって、辛いじゃん。
*
「どうして、こんなに心が痛むんだ」
アキホは胸を押さえた。後悔はしてる。それは分かっている。でも、歯向かうだけの力がない。勇気もない。だから、こうやって苦しまないといけないんだ。それが、罪を償う唯一の方法だと思ったから。
「アキホ、どうしたんだよ」
そこには、コトウが立っていた。
「……なんでもない」
「まさか、トウマに何かされたのか」
アキホは何も言わなかった。正解だけど、違う気がする。トウマは、本当に悪いやつだったか? 違う。トウマは悪くない。おれが駄目なやつだった。自分の奴隷ひとりも守れない、弱虫ご主人様だった。
「カリン……」
「カリンって……奴隷ちゃんか? 奴隷ちゃんがどうかしたのか?」
「いなくなった」
涙は流さなかった。その代わりに、言葉を机の上に零した。一滴の言葉は机の上に広がり、そのまま小さな池を作った。悲しみの池だった。そこに映るアキホの顔は、なんとひどい顔だったことだろう。
「まさか、おまえ、ふられたのか?」
「そうだ。悪いのはおれだ」
「まあ、だれだって欠点くらいはあるさ。元気出せよ」
「なにも言えなかった」
「気持ちは言葉にしないと分からない。まあ、男って生き物は不器用だからな。『好きだ』なんて、軽々しくは言えないぜ。女も、そこを察してくれると嬉しいよな」
「なのに、おれは未練がましく」
「後悔してるなら。いま、言葉にすればいい」
悲しみの池に小さな鳥が一羽止まった。波紋が広がって、アキホは顔をあげた。コトウの台詞が、はっきりとした文字となって、アキホの眼前に浮いていた。
「コトウ、いまなんて」
「あ? ったく、仕方ねえな」
コトウは照れ隠しに鼻の頭を掻いた。
さあ、名言を言うぞ。
「あの子に好きだって、言っちゃえばいいじゃん」
違う。それじゃない。
「ばしっと言ってこい」
丸まっていたアキホの背中に、勇気の一発が与えられた。
「奴隷ちゃんに、男を見せてやれ!」
その一言に、アキホは奮い立った。おれは一体何にこんなに恐れていたのか。おれがおれで生きるために、おれを押し殺してたら、それはおれじゃなくなるだろうが。
「ああ、そうだ。おれは勝つ。カリンを取り戻すために、おれはトウマに勝つ!」
「はい?」
コトウは、目をむいた。
「待ってろ、トウマ!」
アキホは、希望に目を輝かせていた。想いは、力じゃないだろう。おれに力がないのなら、この想いを言葉にすればいい。
「ちょっと待て、間違えた!」
引き留めようとするコトウの言葉は届かない。
「ゴーレム退治は勇者の仕事だ!」
「おいって!」
コトウの制止の手を振り払い、アキホは駆け出した。走り出したら止まらない。ゴールは自分の奴隷。考えるな。怯えてしまうだろ。当たり前のことをしろ。ただ、当然のように、自分の物を取り返すんだ。
「トウマはどこだ!」
教室に響き渡る声。集まる視線。息をきらしたアキホは、視線を巡らせた。トウマの席は、まるで海に浮かぶ孤島のようにぽっかり教室に浮いていた。
「あ、ご主人様だ」
トウマの前で立ち上がったカリンは、まるで緊張感のない声でアキホを迎えた。
「ご主人様も一緒にやろうよ」
トランプを持ちあげて、とびっきりのスマイル。
「ババ抜き。知ってる?」
アキホの肩から力が抜けた。カリンの前には、巨大な身体を縮めてカードと睨めっこをしているトウマがそびえ座っていた。
「トウマ、話がある」
「なんだ。いま、忙しいんだが」
じっとトランプを睨みつけたまま、トウマは不機嫌そうだった。
「トウマくんったら、ババ抜きのルール知らないんだよ」
カリンが笑うと、トウマはさらに申し訳なさそうに身体を縮めた。
「トウマ、聞いてくれ」
「なんだ、まだいたのか。用があるなら、さっさと言え」
「カリンを返してほしい」
トランプが机に叩きつけられた。机が砕けて、散らばるトランプ。ジョーカーがアキホの足元まで滑ってきた。トランプの死神は、鎌を抱えてアキホに微笑みかけていた。
「もう一度、言ってみろ」
立ち上がったトウマは、見上げるほど高い。相変わらずの無表情で何を考えているのか分からない。アキホは下がろうとした右足をぐっと踏みしめた。正直言えば怖かった。逃げ出したくなった。でも、おれはここで死んでやる。後悔はしないって、あの時に誓ったはずだろうが。
「もう一度、言ってみろ」
「カリンを返してほしい」
声が震えていた。それがどうした。どんなに情けなくても。汚くても。たとえ明日が来なくても。おれは言わなくちゃいけないんだ。
ご主人様は、だれだ。
「カリンは、おれの物だ!」
精一杯の声で叫んだつもりだった。実際に、アキホの声は学校中に響き渡った。近くにいた人たちは、あまりの大声に耳を塞いでいる。それでも、トウマが揺らぐことはなかった。人の力で山は動かせない。当たり前のことだった。
「つまり、嘘をついたのか」
「そうだ。おれは、トウマを騙した」
「殺される覚悟は」
「生まれた時から」
「そうか……」
事態の飲み込めないカリンは、おどおどしながら、睨み合う二人のやり取りを見守っていた。
「ご主人様、どういうことなの?」
「あとで説明する」
「でも、死んじゃうの?」
「あ、そうだった」
凄まじい衝撃。アキホは教室の端まで吹き飛ばされた。壁が砕ける。アキホは瓦礫のなかにいた。頭が朦朧とする。鼻血が出ている。口の中が血の味でいっぱいだ。でも、生きてる。
「なんだよ、耐えられるじゃん」
アキホは立ち上がった。膝は爆笑しているが、立てる。
「ほら、もっと来いよ」
「おれを馬鹿にしているのか」
すでに、トウマは振りかぶっていた。
降り注ぐ衝撃。地面に叩きつけられる。床が割れる。アキホの身体が床に埋まる。身体が重たい。さすがに、もう立てなかった。荒い呼吸をするのが精一杯だった。でも、足りない。これでも、まだ足りない。こんなもんじゃないだろ。後悔の前に立つものは、こんなもんじゃないはずだ。
立ち上がろうとするアキホの頭が、巨大な何かに押さえつけられた。みしみし、トウマが体重をかけるにつれて頭蓋骨が悲鳴をあげる。
「まき散らせ、きさまの脳みそ」
馬鹿野郎。そんなことしたら、死んじゃうんだぞ。そう言ってやりたかったが、牛ガエルのような声を出すのが精一杯だった。
「死ね」
「もうやめてよ!」
止めをさす直前、カリンが止めに入った。トウマの足がどくと、呼吸が軽くなるが、ずんと深くて暗い不甲斐無さが胸を満たす。またおれは、カリンに助けられてるのか。アキホは埋もれたまま制服の胸を掴んだ。
「どうして、どうしてご主人様にひどいことするの?」
カリンは、必死の抵抗をしていた。アキホを守るため、トウマの厚い胸板に向かって人生初の暴力をポカポカ振るっていた。トウマはじっとその攻撃を受ける。
「こいつは嘘をついた」
「そりゃ付くよ。人だもん! 人は嘘をつく生き物だって、お婆ちゃんみたいな人が言ってたもん」
相変わらず、なに言っているのか分かんないやつだ。
「嘘をついた人は、死なないといけないの? 嘘って、そんなに悪いことなの?」
「嘘は裏切りだ」
「いいじゃない、ちょっと見栄張ったって。かっこつけて生きる事のなにが悪いの?」
「うむ……?」
「教えてよ!」
胸を打たれ、トウマは唸った。嘘をつくのは悪いことではない? 常識から外れた意見にトウマは頭を抱えた。カリンとまともに会話ができるのは、アキホだけ。頭の悪いトウマにカリンは相応しくない。
「わ、分からない」
トウマは唸った。自分の頭の悪さに苛立ち。どうしてこんなに苦しんでいるのか、その原因を探し始めた。その間も攻め続けるカリン。「なんで」「どうして」
なぜ。どうして。ああ、分かったぞ。
トウマはカリンの腕をつかんだ。
「おまえを、殺す」
苦しむ原因は、カリンが生きているからだ。
アキホは目を見開いた。川を渡ろうとしていた意識が、カリンの悲鳴に引き戻された。
おい、ちょっと待て。トウマは、おれだろ。おれを殺したいんだろ。そうだよな?
悲鳴が、鼓膜を切り裂いた。
「カリン!」
どこにそんな力が残されていたのか分からない。アキホは立ち上がった。視界も定まらないが、おまえの居場所はすぐ分かる。馬鹿でかいからな。
「カリンは、おれが守る!」
アキホは文字通り全身全霊で山に突撃した。もちろん揺るがない。むしろはじき返された。当たり前の事だった。人は山を動かせない。しかし、それは、諦める理由にはならない。
「おれがその気になれば、山だって動かせるんだよ!」
もう一度、全身全霊を込めて、足を踏み出した。
「なるほどな」
アキホが目を覚ますと、青空が広がっていた。なんだかとっても素敵な気分だ。
そうか、おれは死んだのか。
「おはよう、ご主人様」
青空を背に、カリンはにっこり笑っていた。
ああ、そういうことか。
アキホは、カリンの膝の上で寝がえりをうった。
「ご主人様は、強いだろ」
「うん。えへへ」
雲が流れる。太陽が照らす。
青空の下で、膝枕。それはなんだか特別だった。
そんな気がした。
*
あれから数日が経った。
ようやく、顔の腫れも引いてきた。
ケンカを売って以来、トウマがアキホの前に現れることはなかった。カリンのことを諦めてしまったのだろうか。
「まったく、無茶するよなぁ」
コトウが、あきれ顔で座っていた。
「普通ケンカ売りに行くか? あのトウマに」
「自分でも、なんであんな無茶したのか分からない。でも、あの時は、なんか、カリンに会いたくなったんだよ」
「あっそ、そうかい。まぁ、おれには分からないね。あのトウマにケンカを売らなければならない理由が」
アキホは鼻の頭をかいた。
「ケンカは……予定外だった」
アキホは産まれて初めてケンカをした。もっとも、あの一方的な展開は、ケンカではなく見せしめの暴力と言えなくもないが、ケンカということにしておこう。その方がかっこいい。
よく分かんねえけどよ。と、コトウは椅子に体重を預けた。
「とにかく、アキホが無事でよかった」
「愛の力かも」
「なんだよそれ」
自分で言って、顔が赤くなるのが分かる。でも、実際にそういう恥ずかしいものがあるから、アキホは今を生きていられる。偽物の愛じゃなくて、本物の愛。
「愛の力で、トウマを倒したってか?」
「それは……」
「おい」
「はい!?」
感情のない目が、じっとアキホを見下していた。逃げようにも、アキホの身体はすっかり竦んでしまい、身動きをとれなかった。
「どうしたアキホ、愛を使え!」
コトウは机の下に隠れていた。うるさい。愛の力で人を倒せるものか。
「アキホ、愛の力ですべてを乗り越えるんだ!」
たのむから黙っててくれ。アキホは心の底からそう願った。
「愛で世界が救えるか!」
「愛、だと?」
トウマの鋭い眼光に、アキホは黙らされた。
「そうか、そういうことか」
トウマの瞳には、怯える自分の顔が映っていた。
「おまえは、愛の友達だ」
「は?」
トウマは、無理矢理アキホと握手をして、教室から出て行った。そして残されたのは、嵐が通り過ぎたあとの静寂と、ぽかんとするアキホだった。
コトウが机の下から顔をだす。
「いったい、何が起きたんだ」
言うな。もう、分かってる。
間違いない。アキホに、初めての友達ができた。
第二章
アキホは項垂れていた。
「どうして、こんなことに……」
賑やかな教室は、いつにもましてアキホを蚊帳の外へと押し込んでいる気がした。
「なんだか、益々孤独になった気がする」
アキホの粘り気のある呟きは、机の上を流れて、だらりと床に垂れた。孤独の悪化は気のせいではない。アキホがトウマと友達の契を結んでしまったがために、カリン目当てに近付いていた男子すら、アキホの元を離れてしまった。
「もうやだ、学校嫌い」
丸くなったアキホの背中をなでるコトウの手。コトウだけは、アキホの元を離れようとしなかった。それがなぜなのか、アキホには分からない。
「まあ、元気出せよ。人生いろいろあるさ」
コトウは、なんの解決にもならない名言を教えてくれた。本心からアキホを元気づけたいわけではないのだから、激励もそれ相応に薄っぺらになる。
「他人事だとおもって……」
「ああ、アキホの周りにいると本当に飽きない」
ちくしょう。へらへらしやがって。畜生め。
「おれのそばにいると、トウマに襲われるぞ」
「いやいや、意外と爆弾のすぐそばが一番安全なんだって。そういうものなんだって」
「人を爆弾呼ばわりするな」
「そうだな。爆弾の方が安全だ」
アキホが悔しそうに歯ぎしりすると、コトウは嬉しそうに手を叩いて笑った。コトウがアキホの元を離れない理由がようやく分かった。
「もういい、トウマに頼んでコトウを消してもらおう」
アキホは携帯のアドレス帳を開いた。慌てたコトウの右手が画面を押さえるように掴んだ。
「おいおい、友達を売る気か?」
「馬鹿してくるやつは、友達と認めない主義だ」
「じゃあ、おまえのためになることをしたら、おれは友達になれるのか?」
アキホは、アドレス帳を『た行』まで持って行ったところで手を止めた。
「何かしてくれるのか」
「友達の作り方を教えてやるよ」
アキホはそっと携帯を閉じた。
非常に屈辱的ではあるが、コトウは友達が多い。噂によると彼女もいるらしい。彼女はきっと不細工だろうが、友達に囲まれて毎日遊んでいるコトウの学生生活は、アキホの理想そのものだった。
「教えて下さい」と頭を下げるアキホ。コトウは、咳払いをして姿勢を正した。
「いいか、よく聞け」
空気が静まり返る。コトウの一言に、世界が期待していた。
「まず、イケメンになります」
「トウマを呼んでくる」
アキホは、世界のために立ち上がった。
「待て、冗談だ。落ち着け」
必死にしがみついてくるコトウを見て、アキホは満足気に鼻の穴を膨らませた。
「ちゃんと教えるか?」
「当たり前じゃないか。おれを誰だと思っている」
忘れていたけれど、そういえばコトウは理想の高校生だった。是が非でも友達の作り方を習いたいアキホは、落ち着いて椅子に座りなおした。
「じゃあ、教えるぞ」
「次は無いからな」
「……ああ、分かってるよ」
コトウは苦々しげに舌打ちをした。どうやら、もう二、三回あの面白くないボケをするつもりだったらしいが、よほどトウマが怖いのか、コトウは真面目に語り出した。
「いいか、まずは出会いだ」
「それがないから困ってる」
「だったら部活だ」
コトウは、自分の所属しているサッカー部を例にあげて、部活がいかに出会いのある場所であるかを説明した。
「なんでもいいから部活に入るんだよ。部活には青春が詰まってるからな」
たしかに、コトウの言うとおりだ。アキホの愛読している漫画の多くは、部活が舞台になっている。その登場人物の誰もが青春の中で輝いており、部活に恋に忙しいお前らは、いつ勉強しているのかと詰問したくなる時もあるのだが、あれでやつらの成績が悪くなければ不公平だ。お前たちのせいで、運動は崇高な物であり、勉強は低俗な物とみなされてしまったんだぞ? その自覚はあるのか? おまえたちがちょっとイケメンであるばっかりに、多くの勉強家たちが敬遠されてしまうようになったんだぞ? そして、その敬遠されている勉強家たちが、おまえたちの見ている恋愛映画を作り、おまえたちが愛を育んでいる建物を設計しているというのに、なんたる怠慢だ。おまえたちは、部活に恋愛に遊び呆けていた責任をとって、勉強家たちの恋愛をサポートするべきなのだ。そうするべきなのだ。そうでなければ、納得ができない。
「部活は嫌なのか?」
アキホは、しかめ面を指摘され、慌ててにこやかな笑顔を作った。
「そんなことないけど、いまさらじゃないか?」
今までだって、どこかの部活への入部を考えなかったわけではない。しかし、いざ入部となった時にちらつく上下関係に嫌気がさして、アキホは今の今まで帰宅部のエースでいることを貫いている。
「別に、いつだって遅すぎるってことはねえだろ。どうしても入りたい部活があるなら、頭下げてでも入れてもらえ。それが嫌なら、部員が欲しくて仕方ないところに、英雄のごとくさっそうと現れるんだな。おまえの嫌いな上下関係だって、文化系の部活なら緩いところだってあるだろ?」
「なんだか面倒だなぁ」
「おいおい、苦労もしないで他人と絆を築けるはずないだろ。友達ってのは、ただの努力の結晶だぜ?」
そうは言っても、努力で友達ができるのなら、この世からいじめはなくなっている。たぶん。
「でも、コトウの言う通りだな」
出会いから逃げていた。というのは、痛い指摘だと思った。
「だろ?」
コトウは得意げに眉を吊り上げた。
「探してみるよ。おれでも入れる部活」
「ま、トウマと友達のやつなんてどこもいれたくないと思うけどな。頑張れよ」
タイミング良く授業開始のチャイムが鳴った。
最高の捨て台詞だと思った。
「で、ご主人様は、どうしてこんなものを見てるの?」
放課後、学校掲示板に貼られた数枚のチラシを眺めるアキホの横で、カリンは背伸びをしていた。
「ただの暇つぶしだよ」
「ふ~ん。退屈なら、カリンで遊んでくれてもいいんだよ?」
「死んでも御免だ」
言える訳がない。お前たち以外の友達が欲しいから部活に入りたがってる。なんて、言えるわけがない。蝋燭やらムチを鞄から取り出すカリンを横目に、アキホは、チラシを眺めた。
卓球。天文学。漫画研究部。柔道部。剣道部。どれもアキホの興味をそそるものではなかった。
「そもそも、運動はあまり向いてないからなぁ」
だからとって、マンガの研究はしたくないし。星に興味もない。
「カリンは、部活に入ってないのか?」
「わたし? わたしは、ほら、ご主人様の奴隷だから」
「『ほら』って言われても」
「命令されれば入るけど、命令がないならご主人様のそばにぴったりだよ」
腕にひっつこうとしたカリンをぐっと手で押しのける。
「ぴったり、ねぇ」
アキホがどこかの部活に入部したところで、肝心のカリンがついて来てしまっては意味がない。女子禁制の部活があればよかったのだが、そこは盛りのついた高校生の集まり、どの部活もマネージャーという言葉に淫靡さを感じてしまっているようだった。カリンをつれて卓球部なんぞ入ろうものなら、アキホは、嫉妬の嵐に飲み込まれてしまうだろう。
それに、問題はカリンだけではない。カリンが動けば、もれなくついて来るおまけみたいなやつがいる。
アキホの隣には、山のような男がそびえ立っていた。
「トウマは、どうせ何も入ってないだろ?」
「なぜ分かった」
「トウマの入った部活は、次の日廃部になってるはずだ」
「ふむ。正解だ」
トウマのおかげで、この学校からバスケ部が消えた。その時ばかりは、アキホもガッツポーズをしたものだったが、とにかく、トウマと一緒に汗を流そうなんて歌舞伎者、日本中どこを探してもいないだろう。歌舞伎者だって嫌がる。
「ご主人様には、SM研究部とかがお似合いだよ」
「教育の場にそんないかがわしい部活があるものか」
「わたしの中学にはあったよ?」
カリンが嘘をついているとも思えなかったが、掘り下げると怖いものが出て来そうだったので、アキホは本能的に耳を閉じた。
「でも、どうするかなぁ」
入りたい部活を見つけたところで、どんな顔して「入部希望です」なんて言えるだろうか。女子だけでなく男子にさえも敬遠されてしまったアキホは、向かう所敵なしだった。もちろん味方もいない。
「こういう時、世話焼きの幼馴染か、中学の先輩がいたらなぁ」
「ひゃあ!」
カリンが手を打った。その顔があまりに嬉しそうだったので、嫌な予感がした。
「その手があったよ、ご主人様!」
「ないよ、その手は」
「もう、聞いてよ!」
カリンが廊下を踏みつけると、アキホの背中にトウマの殺気が突き刺さる。カリンを少しでも怒らせれば、すぐに殺意をむき出しにするのは、トウマの悪い癖だ。トウマは、間違いなく、恋愛と友情なら恋愛を優先させるタイプだ。遊びの途中であっても、平然とデートに行ってしまう。そういうタイプだ。乙女か。
まったく嫌になる。アキホのため息はもはや癖になっていた。
「じゃあ、一応聞くよ。どんな手?」
「あのね、サキちゃんに手伝ってもらうの」
「サキ?」
おまえの友達なんか知るか。と言いたかったが、なぜか聞き覚えのある名前だった。
「サキ、いったいどこで」
「生徒代表の言葉」
「ああ!」
トウマの呟きが、アキホの記憶を引きずりだす。頭の中で、映像がフラッシュバックを始めた。入学式。壇上。マイクの前。スポットライト。艶めく黒髪。綺麗な女子高生。はきはきと喋っていた。そうだ。
「霧島咲。生徒会長じゃないか」
「うん。サキちゃん偉いんだよ」
偉いと言われればそうなのだけど、どうしてカリンが胸を張っているのか分からない。
「サキちゃんなら、きっと手伝ってくれるよ」
カリンは、知り合いの知り合いの従妹が有名人だと誇る小学生みたいな顔をしていた。
なるほど、生徒会長に相談するのは確かに理想的な提案だとは思う。生徒のための生徒会長なのだから。しかし、この案が有効なのは、相談相手がアキホでなければの話だ。
「無理だろ。生徒会長が、おれに協力してくれるはずがない」
「え? でも、サキちゃんは、よくご主人様の話してるよ?」
「なんだと?」
アキホは知っている。女子が男子について話をする時、それは、男子の地位は脅かされる時であることを。嫌な予感が、アキホの肩にひんやりとする手をかけた。
「生徒会長は、おれのことを知っているのか?」
「もちろんだよ。だって、わたしのご主人様だもん」
アキホの知っている限り、ご主人様であるアキホに対して良い印象を抱いている女子はこの学校では絶滅危惧種に認定されている。
「やっぱりいい。相談しない」
「ええ! どうして!」
それをおれに言わせるのか、原因となっているおまえが。
「サキちゃん優しいんだよ?」
「おまえにはな」
「待って、帰らないで!」
カリンは、背中に覆いかぶさるようにアキホを引きとめた。
「サキちゃんに相談してみようよ。わたしもついて行くから」
「やかましい。おれは絶対に行かない。大体さっきからサキちゃん、サキちゃんって、生徒会長に対して慣れ慣れしいんだよ、おまえは」
カリンを振りはらうためにアキホは暴れたが、カリンは必死にしがみついた。
「だって、サキちゃんはサキちゃんだもん!」
「だから、サキちゃんってなんだよ!」
「幼馴染だもん!」
カリンは、平然とそう言ってのけた。
幼馴染。それは、小さなころから一緒に育ち、同じ環境で育まれた、どんな友人とも変えがたい存在である、と聞いたことがある。
「そう、なんだ」
アキホは一変して落ち着いた。すると、しがみついていたカリンもずるりと背中かから落ちる。
「えへへ、驚いちゃった?」
カリンは悪戯っ子みたいな顔で鼻の下をこすった。
ああ、そうなんだ。幼馴染って、女性同士でも成立するんだ。へえ、マンガの世界ではあり得ないね。いや、まったく。そんな奴に相談なんて、絶対にごめんだ。
「さらになんと、中学校からの先輩でもあるのです」
あらやだ理想的。とは思えなかった。カリンの幼馴染で、中学からの先輩後輩関係。そんなふたりの絆が深くないわけがない。幼馴染が奴隷で、おれはご主人様。それなんてエロゲ?
「やっぱり、相談はいい」
アキホは、その場から立ち去ろうとした。しかし、
「ご主人様は、サキちゃんが嫌いなの?」
「そういう訳じゃ――!」
そんなに悲しい顔をしないでくれよ。
「サキちゃん、とってもいい子だよ? きっと、ご主人様を助けてくれるよ」
そのウルウルの目に弱いんだ。
トウマの視線が言っている。「おまえ、断ったら、殺す」そう訴えている。
ああ、おれの意志は一体どこに。遠くを眺めてみたけれど、そこにおれの意志はなかった。アキホは観念した。
「会いにいくだけだぞ」
*
トウマは「おれがいると、面倒なことになるだろ」と言って帰ってしまった。いなくなって初めて分かるトウマの大切さ。いまなら、武力放棄をしない国の代表と、手をとって分かり合えるだろう。
「ここだな」
『生徒会室』アキホ達の立っている扉にはそう書かれていた。
春なのに、廊下はすこし寒かった。
「サキちゃん、いるかな」
「そりゃいるだろ。生徒会室だし」
他の教室と変わらない扉なのに、生徒会室と四文字書かれるだけで、どうしてこんなに威圧感があるのだろうか。四文字熟語でもないくせに生意気だ。
「入らないの?」
「あ、あぁ……」
アキホは緊張していた。勢いで来てはみたものの、いきなり押しかけてもいいのだろうか。こういう時、前もってアポをとるのが礼儀なのか。湧いてできてきた心配たちが、アキホの覚悟を羽交い締めで固めていた。
「わたし、先に入るね」
「へ?」
「サキちゃん、おはよう!」
カリンは、なんの躊躇もなく扉を開けた。緊張感の支配していた部屋のなかに風が吹きこむ。冷たい風にあてられた生徒会のメンバーたちは、すこし身を縮めて、鬱陶しそうな視線をアキホ達に向けた。
「あら、だれかと思えばカリンじゃない」
「えへへ、来ちゃった」
一番奥におわす彼女こそが、我が高校の生徒会長、霧島咲その人だった。大きな窓を背に、そこから差し込む太陽を背中に浴びるその姿はまるで女神だった。
圧倒的な人気と信頼を武器に、生徒会選挙に参戦。他の候補者たちを完膚無きまでにたたきのめし、支持率百パーセントという破格の数字を叩き出して生徒会長の椅子を得る。サキに負けた候補者たちは、口をそろえてこう言った。
「おれたちは、表にでるべき人間じゃない」
圧倒的人気の裏で、もうひとつ、サキを語るうえで欠かせない特徴があった。
「あら、ご主人様も一緒かしら」
アキホは身を縮めた。笑っているはずなのに冷たい目。目と目があったら石にされてしまいそうだった。
「カリンの後ろに隠れて、居心地よさそうね。男のくせに」
男のくせに。それが、サキの口癖だった。
そう、つまりはそういうことだ。サキは、重度の男嫌いだった。男であれば、それがネズミであってもゴキブリであっても全力で非難する。男でご主人様なアキホに、サキが良い感情を抱いているはずがない。
「申し訳ないです」
アキホは、できるだけサキの視界にはいらないよう身を縮めた。
「分かってると思うけど、わたしはあなたが嫌いよ。アキホくん」
サキは歌うようにそう言った。その声があまりに美しく軽やかかだったので、嫌いと言われているのにも関わらずアキホは快感を覚えていた。もっと言って欲しい。アキホは頭を振って自分を立てなおした。
「サキちゃん!?」
カリンが意外そうな顔をしていることが意外だった。幼馴染が奴隷で、アキホがご主人様で、サキは男嫌い。導きだされる答えは、アキホとサキは敵同士、だった。アキホは引き返そうとカリンの手を握ろうとした。しかし、サキはアキホの思い通りにはさせなかった。
「カリンも駄目よ」
「ふぇ?」
「あんた、いつまでSMごっこなんてやってるの?」
「ごっこじゃないもん!」
珍しく、カリンがむきになっている。さすがは幼馴染同士、気を使い合う間柄ではないということか。
「やめなさいって、わたし何度も言ったわよね?」
「でも!」
「中学の時に何があったのか。もう忘れたのかしら。前の――」
「サキちゃん!」
「……ごめんなさい。言いすぎたわ」
アキホだけでなく、その場に居合わせた生徒会メンバー全員が驚いていた。カリンが怒鳴ったことにも驚いたし、サキが謝ったことにも驚いた。とにかく、そのワンシーンは見ごたえがあった。
「サキちゃん、ご主人様を悪く言わないで」
「あら、随分愛されているのね。男のくせに」
男は、愛されてはいけないのだろうか。
「まあ、どうでもいいわ」
サキは髪をかきあげた。最初からすべて分かっていた。どうせ何を言ってもカリンは聞く気がない。アキホはどうしようもない男で、生徒の中で一番偉いのは生徒会長。
だれもわたしに逆らえない。
「それで、何の用なのかしら。男のくせにお悩み相談?」
サキの有無を言わせない上から目線に、アキホはすっかり飲まれていた。なんと言えばサキから怒られないのか、そればかりを気にしてアキホは自分の言葉を見失っていた。
「ねえサキちゃん、どうしてそんな言い方するの?」
「嫌いな人に冷たくするのは常識よ?」
「ひどいよ。わたしのご主人様なのに」
「わたしには、どこにでもいる生徒よ」
違う。サキにとって、アキホは紛れもなく特別な存在だ。他の男子生徒に対してまでこれほどまで如実に男嫌いを露わにしていたら、支持率百パーセントなんて破格の数字は達成できなかったはずだ。少なくとも、今のアキホはサキを支持していない。
「カリン、帰ろう」
アキホはカリンの手を引いた。
「え、でも」
ためらうカリンの手を引いた。
「いいから」
「う、うん」
「失礼しました」
立ち去ろうとしたアキホの背中に、サキは野次るように声を飛ばした。
「ねえ、カリンを離してもらえないかしら」
「いやです。絶対に離したくない」
振り返らないまま、アキホは答えた。
「なら、力づくで奪い返すわよ?」
サキは嬉しそうだった。どうやら初めからそうするつもりだったらしい。アキホは、まんまと誘導されというわけだ。
「いいのね?」
「……勝手にして下さい」
扉をぴしゃりとしめると、サキはいなくなった。生徒会長に宣戦布告したつもりはない。それでも、この行動が、非情な結果を生む事には気付いていた。でも、後悔はしたくない。
廊下に出ると、肌寒さを思い出した。
「ご主人様?」
「……カリン、ごめんな」
「どうして謝るの?」
どこかの教室に残っている生徒の雑談が聞こえる。さぞかし楽しい話題なのか、大きな声で笑っている。人の気も知らずに呑気なものだ。けれど、それを怒る権利などアキホにはない。人は人、よそで起こっている事件など、いかに感傷的になろうと所詮は他人事なのだ。
「カリン。おれは、サキに興味がわいてきた」
「浮気!?」
「馬鹿言うな。おれとカリンとはそういう関係じゃないだろう」
「あうぅ……」
しょんぼりと縮まったカリンの頭に手を置いて、二回だけ撫でてやる。
「カリン。おれは、サキに嫉妬しているぞ」
「ふぇ!」
「おれの奴隷を誘惑するサキって人物がどれほどのものか。おれが確かめてやる」
「ご主人様、もしかして、わたしのことを」
「よし、カリン!」
アキホの大声が廊下に響いた。
「明日、ブルマで学校に来い! 下着をつけてきたらもう調教してやんないからな!」
「えぇ!」
*
次の日、カリンは、命令通りのブルマ姿でアキホを迎えに来た。後ろを通る小学生が、カリンを指さして笑っている。失礼な小学生たちに対して、カリンは顔を真っ赤にして怒るのだった。
「命令だから仕方ないんだもん!」
「わぁ、変態の姉ちゃんが怒ったぞ!」
笑いながら逃げて行く小学生。からかわれる中学生。
「変態じゃないもん、奴隷だもん!」
「どう違うんだよ」
「あ、ご主人様だ」
玄関からアキホが出てくると、カリンは、くるりと表情を変えて、嬉しそうに手を振った。
「おはようござます!」
「ちゃんと着てきたな」
「うん!」
本物のブルマはマンガでしか見たことなかったが、なるほど、こんな不埒なものが教育の場で使われていたとは。アキホは、初めて自分の生まれた時代を呪った。
「命令通り、ちゃんとノーパンノーブラだよぉ」
「そ、そうか」
ご近所さんに聞こえるだろ。と叱ってやりたいところだったが、アキホが命令している手前、そう強くは言えない。カリンが「えいっ!」とアキホの腕にしがみつくと、むにゅっと、生々しい感覚がアキホの肘を包み込んだ。
「く、くっつくな!」
「意外と大きいでしょ?」
「しらん!」
「確認する?」
ぜひともお願いしたいところだったが、いるはずのないトウマの視線に悪寒が走り、カリンを腕につけたまま、アキホはゆっくりと歩き出した。
*
学校につくなり、アキホは、自分にマニアック紳士というあだ名が付けられていることを知った。向けられる好奇の視線に恥じらうカリンは、ぎゅっとアキホの袖を握った。
「恥ずかしいのか?」
ぎゅっと握る手にさらに力がこもる。
「うん。でも、ご主人様が喜んでくれるから」
おれは愛されてるんだな。と、いまそんな風に思ってしまうのは、人間としてアキホが劣っているからなのだろうか。
「おまえ、奴隷ちゃんに体操服着せたんだって?」
教室にはいるなり、コトウが現れた。アキホは、あしらうようにコトウの横を擦りぬけて、自分の席へついた。
「体操服じゃない。ブルマだ」
「なにを自慢げに」
ふたりの会話に対して向けられる女子からの冷たい視線。慣れたものさ。蔑みたいのならそうすればいい。まだまだこんなもんじゃない。まだ足りない。
そして、アキホの懸念していた最後の刺客が、教室の扉をぶち破ってきた。
「アキホは、どこだ」
山のような男が、ぬうっとそびえ現れた。
「おいおい、あれって」
コトウは顔を引きつらせていた。
「大丈夫さ。おれたちは、友達だからな」
教室中がトウマのせいで凍りつくなか、最も怯えていなければならないはずのアキホはふんぞり返っていた。向かって来るトウマに対して、余裕の笑みを浮かべて。
「やあ、トウマ。そんなに焦ってどうしたんだい」
アキホは見上げていた。自分を見下ろす無表情な顔。いまならトウマが何を考えているのか分かる。トウマは怒っていた。愛しのカリンに恥ずかしいことをさせたご主人様の真意を問いにきたようだ。
「おまえは、殺されたいのか」
「まさか、そこまで命知らずじゃないよ」
「では、なぜだ」
「なぜって、決まってるだろ」
アキホは、口端を吊り上げた。
「おれは、カリンのご主人様だからね」
クラスメイトは、轟音に身体を縮めた。
アキホは、教室の隅まで飛ばされた。身体が壁にめり込んでいる。頬にすさまじい衝撃がぶつかったらしいのは、頬に残るじんじんとする感触で分かる。頭が朦朧として、立ち上がることができない。マヒしているのか、まだ痛みはこない。重みのある足音が近づいてくる。影がアキホを覆った。見上げると、トウマの感情のない瞳だけが、影のなかであやしく輝いていた。
「殺さない。だが、おれは殺せる」
知ってるさ。そんなこと。痛い位に知っている。
「カリンとの絆が、おまえの寿命だ」
言いたい事だけいいやがって。
トウマが教室からいなくなると、やっぱり静寂だけが残された。口から溢れる血を拭って立ち上がるアキホ。彼に向けられるのは、憐憫ではなく、監視カメラのように冷徹な視線だった。
そうだ、これでいい。
彼女は風を切っていた。黒髪がなびく。彼女の走ったあとには、ふんわりと果物の香りが残った。スカートの中が見えようと関係ない。それどころではない。彼女の唇から悔しみの赤が滲んだ。噂は本当だった。最低だ。どうしていつもこうなる。
「アキホ!」
生徒会長の声が、昼休みで賑わうアキホの教室に響いた。アキホは、他のクラスメイトたちと同様に目を剥いて、ドアのなくなった教室の入り口を見ていた。息を切らした生徒会長が、アキホを睨みつけていた。
「これはどういうこと!」
サキの手には、カリンの小さな手が握られていた。
「どういうこと、とは?」
アキホは目を剥いたまま首を傾げた。すると、突き出される犯人のように、カリンがふたりの交錯する視線の中に立たされた。
「これは、わたしに対する当てつけのつもり? 男のくせに女々しいのね」
カリンは、恥ずかしそうに体操着の裾を引っ張った。食い込むブルマが、いまさら恥ずかしいようだった。
「当てつけなんて、言いがかりですよ。奴隷をどうしようとご主人様の勝手でしょう?」
アキホは、紳士がそうするように爽やかに笑った。反省の色を見せないアキホは、サキだけでなく、クラス中の女子から顰蹙をあびることになった。それでも、アキホは表情ひとつ変えなかった。むしろ胸を張った。
「どうです、カリンは可愛いでしょう?」
「あんた、最低ね」
女子の総意が言葉となって、アキホの胸に突き刺さった。それでも笑顔は崩れない。
「最低? カリンは喜んでいましたけど」
「普通は喜ばないわ」
「知らないんですか? カリンは、命令されると喜んじゃうんですよ」
な。とアキホが念を押すと、カリンはばれないようにこくりと頷いた。
「カリン、あんた……」
サキは歯を食いしばった。あの厚顔無恥を殴ってやりたくて、綺麗な拳がぎりぎり音をたてた。しかし、サキは堪えた。自分の手は汚したくない。それに、他の生徒たちがいる手前、無暗に感情で動くのは好ましくない。引退するまでは、優しく、頼りがいのある生徒会長でいたいから。
サキが遠慮していることを察したアキホは、畳み掛けるように言葉を紡いだ。
「よく言うじゃないですか。雨の日に傘をささない人間がいてもいいじゃないか。って。それと同じですよ」
どこかで聞いたことのある台詞を持ちだす。そういう姑息さにも苛立った。サキは冷静に言い返した。
「風邪ひくわよ。って。わたしなら、そう忠告するわ。それが、優しさじゃないかしら」
「個性を否定するんですか?」
「それも優しさよ」
アキホは、なにも言い返さなかった。優しさは否定できない。サキは、いつだって正しい。それに、変態紳士VS生徒会長でこのバトルフィールドは相性が悪すぎる。生徒会長の肩書は、人が多い所でこそ、その真価を発揮するのだから。
「カリン」
勝ち目のないことを悟ったアキホは、早々に白旗をあげることにした。名前を呼ばれたカリンは、はっと顔をあげた。
「お弁当は?」
「えっと、うん。作ってきたよ」
「じゃあ、食べようか」
「うん。屋上で待っててね」
カリンは、サキの腕をすり抜け、制止を振り切り教室へと走っていった。
「それじゃあ先輩。また」
「ちょっと待ちなさいよ」
サキは、通り過ぎようとするアキホの腕を逃がすまいと掴んだ。
「都合悪くなったら逃げるのね。男のくせに」
「生徒会長は、昼休みの終わる時間も知らないんですか?」
時計は、昼休みの終わる二十分前を指していた。
「生徒会長、おれは、お腹が空きました」
「話は終わってないわ」
サキの目の奥底で、炎が燃え上がっていた。その中で火あぶりにされている自分を見つけたので、アキホはそっと目をそらした。
「放課後に、また。待ってますから」
「ここで決着をつけましょう」
アキホを逃がすつもりはなかった。一刻も早く、カリンをご主人様から解放してやりたかった。それが、カリンのためになるとを思っていたから。サキは、手に力を込めた。アキホは、自分の腕をつかむサキの手を見つめた。こんなに細い指のどこにこれだけの力が隠されているのだろうか。爪が食い込んで痛い。
「サキさん、いいこと教えてあげますよ」
アキホは、サキの耳もとに口をよせた。ふんわりと果物のいい香りがした。
これは、桃かな?
「カリン、今日は下着つけてないそうです」
耳がキーンとなる。サキにビンタされたらしい。
「ようやく、離してくれましたね」
アキホは、解放された腕をぶらぶらと動かした。
「あんたは、絶対に許さない」
ここで泣かれるのは、具合が悪い。アキホは、さっさとサキに背を向け、屋上を目指してゆらゆらと歩いて行った。
叩かれた頬にそっとふれると、ずきんと痛んだ。
放課後、サキはアキホのもとを訪れた。
「カリンはどこ」
現れるなり、この質問だ。アキホのほかに人がいないと分かると、サキは怒りを隠そうともしなかった。殺気をそのままで、目の前にいる敵に飛びかかろうとした。それでも、アキホは飄々としていた。そう見せていた。
「校門で待たせています。もちろん、あの恰好でね。カリンに恥ずかしい思いをさせたくないのなら、さっさと話を終わらせましょう」
サキは、目の前にあった誰かの机を蹴飛ばした。机はずれただけだったが、その衝撃で椅子が倒れて、すさまじい音が教室に響いた。
「あんたは、どこまでクズなのよ」
「そんなに怒らないで下さい。きれいな顔が台無しですよ」
夕日が、教室に鮮やかなオレンジを塗った。窓際の席に座っているアキホの顔半分が、夕陽に照らされる。廊下側に立っているサキは、暗闇のなかにいた。
「それで、サキさんは、どんな用があるんですか」
「決まってるじゃない。カリンを解放しろ。それだけよ」
アキホは、首を振った。
「勘違いはやめてください。おれからカリンに近付いたことはありません。いつだって、カリンがおれに調教されたがってるんです」
「分かってるわよ。そんなこと」
「だったら――」
「でも、あんたが突き放せばカリンも諦めるわ」
さすがは幼馴染だと思った。カリンのことをよく知っている。カリンを本気で拒絶すれば、カリンはアキホの元を離れるだろう。しかし、まだ足りない。
「そうして、また新しいご主人様を探させるんですか?」
「そんなこと、わたしがさせない」
サキの瞳が、暗闇のなかでぎらりと光る。生徒会長のサキなら、カリンを普通の人間に戻せてしまうかもしれない。サキの目には、そんな理由なき説得力が満ちていた。生徒会選挙の時には、みんなこの目に騙された。
サキには力がある。人を根本から変えてしまうだけの。
「サキさんは、どうして、そこまでするんですか? カリンなんて、所詮他人じゃないですか」
「知った様な口を利かないで」
アキホは、野球部がランニングする校庭を見ながら、サキに尋ねた。
「それに、カリンは、中学のころから奴隷体質だったんでしょう? だったら、どうしてその時に改善させようとしなかったんですか?」
愚問ね。と、サキは鼻で笑った。
「もちろん、やめさせようとしたわ。でも、無理だった。あの子は、わたしの話をきいてくれないの」
「じゃあ、今回も無理でしょう」
「いいえ、わたしは昔とは違うもの。進化したの」
「諦めようと思ったことは、ありませんか?」
「友達だからって言えば、納得してくれるのかしら?」
「感心はします。納得はしません」
あらそう、残念ね。サキは遠くに視線を向けた。
「やっぱり、話さないといけないのかしら」
サキの遠くを懐かしむような視線に、アキホの期待が高まる。サキが見ているのは、暗い、あの中学時代。
「あの子の中学生活は、最後の最後で台無しになったわ」
アキホは小さく拳を握った。ガッツポーズだった。そうだ、それが聞きたかった。
「カリンの奴隷体質は、わたしの知る限り幼稚園からだったわ。最初は、幼稚園の先生の言うことは絶対にきくいい子。その程度だった。それが、小学校の高学年になると、段々おかしくなり始めたの。特定の人間にまとわりつくようになって、中学のころになると、もう完璧な奴隷になっていたわ」
違う。それじゃない。アキホが聞きたいのは、カリンが奴隷体質になるまでの経緯ではない。サキが男嫌いになるまでの経緯だ。カリンが奴隷になって、その先がきっかけになっているはずなんだ。もっと引き出したい。いまがそのチャンスだ。
アキホは、カリンの過去を鼻で笑った。
「ただのドM女子じゃないですか」
「あの子は、ただの依存よ」
サキの鋭い視線に、アキホはたじろいだ。
「中学の終わり、カリンのご主人様が何をしていたのか。いまでも許せない」
わたしが、同じ歳に生まれなかったせいよ。と、サキは悔しそうに呟いた。サキの拳が、怒りに震えている。サキは、それ以上、中学時代にカリンがなにをされたのか。その内容については、頑なに話そうとしなかった。思い出したくもない。到底話せる内容ではないのだろう。それだけ、カリンとサキは酷い目にあっていた。
「だから、今回は、今回こそは、わたしがこの学校にいる内に、カリンから奴隷体質を取り除く。わたしは、そう決めたの」
もう、後悔しないように。
ふたりは、教室の真ん中で、夕日にオレンジを塗られていた。
「おれにも手伝わせて下さい」
アキホは理想的な提案をしたつもりだった。憎み合っていた者同士が手を取り合うなんて、なんてすばらしい展開なのだろうか。しかし、サキの顔は侮蔑に歪んだ。
「あんたに、なにができるっていうのよ」
「おれはご主人様です。でも、カリンを立ち直らせたい気持ちは同じですよ」
「ブルマを着せるような人間をわたしが信用すると思うの? そんな浅知恵働かせるのなら、もっと早くするべきだったわね」
世界が、サキの色に染まった。サキの世界では、サキがルールだ。これは、藍色というのだろうか。なんだか肌寒い世界だ。サキの世界は、こんなにも温もりに欠けてる。アキホは、それが残念で仕方なかった。
「交渉は、決裂ですか?」
「当たり前よ。わたしはあなたを潰すわ」
「だってさ、トウマ」
掃除用のロッカーが軋みながらゆっくりと開いた。呼応するように、教室の扉が閉じられる。サキは、怯えた目で掃除用ロッカーを見つめていた。
「どうして、あんたが」
後ず去るサキを、巨大な影が覆う。
「おまえが、サキか」
サキは、なにも答えられなかった。迫りくる壁に押されるように、一歩、二歩と後ずさる。教室のすみに追い詰められると、へたり込むようにその場に落ちた。そんなはずはなかった。サキの情報では、こんなことあり得ない。
「あ、あんたは、アキホと」
「ケンカなんてしませんよ。トウマとおれは、愛の友達ですから」
トウマの後ろで、アキホは携帯を開いた。
「メールって、本当に便利ですね」
「あんたたち」
サキの声は震えていた。
「こんなことして、ただですむと思っているの? わたしは、生徒会長なのよ」
「アキホ。こいつは、何を言っている」
トウマの問いに、アキホは肩を持ちあげた。
「サキさん。よく分かりませんが、権力っていうのは、盾になりますか?」
「なに、言ってるの」
「サキさんは、これから殺されるんですよ。比喩でもなんでもなく、まったくそのまま文字通りに、死ぬんです」
サキの顔から血の気が引いた。それでも強気でいられるのは、サキの背中を権力が支えているからなのだろうか。
「馬鹿なこと言わないで! 男のくせに女の子を殴るなんて最低よ!」
「トウマになに言っても無駄ですよ。トウマは、性別を超えている。トウマの前にも後ろにも、トウマしかいませんから」
トウマは拳を振り上げた。まるで無慈悲。女だからと見逃す気などさらさら感じられない。なんの感情もない瞳に、怯えるサキの顔が映った。
「いや、助けて」
「さあ、ぼくために死んでください」
「いやああああああ!」
砕く轟音。壁が大きくへこんだ。
「なんてね」
サキは、死んでいなかった。アキホの命令通り、トウマが殴ったのは、サキのすぐそばにある壁だった。サキは、茫然とへこんだ壁を見つめ、荒れる呼吸を整えることだけで精一杯だった。
「一体、なにがしたいのよ」
サキは腰を抜かしていた。壁伝いに立ち上がろうとするが、思い通りに立てない。その気の抜けた姿は、さっきまでの自信に満ちていたサキと同一人物とは思えなかった。
「おれたちは、男らしく、女の人を力で脅迫しようと思ってます」
「あんたってやつは、どこまで最低なのよ」
「怖いのなら、もう、おれたちに関わらないで下さい」
「なんで!」
「アキホの言う通りにしろ」
サキは、びくっと身体をすぼめた。
アキホの狙い通り、サキはトウマに怯えていた。少し考えれば分かることだった。男嫌いなのだから、男が弱点でないとおかしい。男は暴力だ。トウマが、ぴくりと拳を動かすだけで、頭を抱えて蹲ってしまう。
「……どうして」
サキの心はすっかり折れていた。殴り合いでは勝てない。天地が引っくり返っても、トウマに勝てない。トウマの感情のない目には、人を諦めさせる力が宿っているようだ。
「サキさん、返事は『はい』ですよ」
「……もう、分かったから」
「返事は?」
サキは諦めた。
「……はい。分かりました。もう、あなたたちには関わりません」
サキの声は、しっとり濡れていた。トウマに目で合図をすると、トウマは、教室から出て行った。
「残念ですよ。おれたちはいい友達になれたかもしれないのに」
鞄を背負う。むせび泣くサキの横を通り過ぎざまに、アキホは囁いた。
「カリンは、おれが助けます」
教室には、嗚咽だけがぽっかりと浮いていた。
*
次の日、アキホが教室に入ると自分の席がなくなっていた。アキホは、自分の席があったはずのぽっかりと空いた空間に、茫然と立ちつくした。
「どうして、こんなことに……」
「アキホ、おまえ、なにしたんだよ」
「なにって?」
振り返ると、そこにはコトウが不安そうな顔で立っていた。
「おまえが生徒会長にリンチかけたとかで、学校中がおまえの敵になってるぞ」
まったく身に覚えのないデマカセに、アキホは顔をしかめた。
「馬鹿を言うな。おれは、そんなことしてない」
リンチと脅迫では大違いだ。そもそも、サキに怪我をさせていないではないか。無傷の生徒会長は、いったいどうやってリンチされたと周りに信じ込ませたのだろうか。
「これじゃあ授業を受けられないじゃないか」
「得意の寝たふりもできないな」
アキホが睨みつけると、コトウは慌てて消えた。コトウの言う通りだ。机もなしには、孤独でいることもできない。
窓のそとを覗き込むと、ちょうど机と椅子が転がっていた。
サキを侮っていた。
てっきり、敵はクラスメイトだけだ、最低でも学校中の生徒だけだと思っていた。それだけ、サキのカリスマ性がけた外れということなのだろう。
アキホのクラス担任である清木場銀六は、アキホの机が汚れていることを理不尽に怒鳴りつけた。いくらアキホが弁解しても、聞き耳もたず。おかげで、アキホは、朝のホームルームの間、ずっと雑巾で自分の机を拭かされた。
他の教師たちも、ギンロクと同じで、ことあるごとにアキホを怒鳴りつけた。
問題が解けない。姿勢が悪い。目つきが悪い。欠伸をするな。態度が悪い。まるでアキホが欠点まみれの人間であるかのように、教師たちはアキホを怒鳴りつけた。
アキホの疲れと苛立ちは、蓄積した。
もう、何回怒られただろう。
アキホは、なにが正しくてなにが間違っているか、分からなくなっていた。
いまは、こうして屋上で、カリンと向き合っている昼休みだけが、心安らぐ唯一の時間だった。
「トウマくん、来ないね」
カリンは、着々と弁当の準備をしていた。
「そうだな」
アキホたちは知らなかった。トウマはすでに早退していた。アキホのされたような直接的な嫌がらせこそなかったものの、トイレに行っている間に教科書を隠されるなど、陰湿な嫌がらせに嫌気がさしてしまった。
「どうして、こんな事になるかねぇ」
アキホは、昨日の行いを思い返していた。暴力を前に涙を流すサキ。その悲痛な表情を思い返すと、ずきりと心が痛んだ。
「ご主人様、どうしたの?」
アキホは、摘まんでいたほうれん草を弁当箱に戻し、そっと箸をおいた。
「カリンも、知ってるだろ?」
「う~ん。なんだろう? もしかして、今日はご主人様の誕生日とか?」
カリンはとぼけた。もちろん、サキの噂はカリンの耳にもはいっている。ご主人様がサキを殺そうとしたとか。カリンは、真実に触れたくなかった。噂が真実であっても、虚実であっても、サキにとっては苦しむべき結果なのだから。
「目が泳いでるぞ」
慌てて顔を隠したがもう遅い。カリンは、観念して手を膝の上に乗せた。
「えっと、あのこと、サキちゃんのこと、かな?」
「どうしてとぼけた」
「だって」
カリンは目を伏せた。こんなに厳しい顔をしているご主人様は初めてだった。真実を知りたくなかった。カリンはそう言った。
「悲しいな。カリンも、おれを疑っているのか」
「ううん。ご主人様はそんなことしないもん」
「本当に、そう思うか?」
心の奥をえぐられたようで、カリンは何も言えなかった。アキホが嘘をついてないのなら、サキが嘘をついていることになる。そんな真実も受け入れたくない。サキは、カリンにとって、掛け替えのない友人である。サキとアキホ、どちらも信じたい相手であるがゆえに、カリンはその板挟みに苦しんでいた。
「適当に取り繕うなよ。おれを疑っているならそう言えばいい」
アキホの口調が強くなる。
「そんなこと、言わないで」
「カリンはどっちを信じる」
「そんなぁ。分かんないよ」
サキは耳を塞ごうとした。しかし、アキホはその手を掴んでそうさせなかった。逃げるのだけは許さない。カリンに決めさせる。これは、カリンの問題なのだから。
「おれを信じられないのか?」
「信じます。信じてます」
カリンは、何度も頷いた。これも本心だ。しかし、サキを信じているのもまた本心。
「おれを、信じてくれるのか」
「だって……」
アキホは、カリンの涙を指で拭った。
「カリンが、おれの物でいてくれたら、おれはサキと戦える」
「わたしは、ご主人様の奴隷だよ」
「でも、カリンがおれの物だから、おれは苦しめられてるんだよ」
どくんと、カリンの心臓が重く脈を打った。
痛いよ。
カリンは胸を押さえた。
「わたしの、せい?」
「そうだ。おれが苦しんでいるのは、カリン、おまえが原因だ」
カリンの胸が張り裂けた。何もしていないのに、ただ生きたいように生きているだけで人を苦しめているのなら、カリンはこの世から消えてなくなるべきだと思った。
「わたし、どうしたらいい? どうしたら、ご主人様のお役にたてるの」
辛すぎる。声が震えてまっすぐ出て来ない。
「おれを助けたいか?」
「うん。ご主人様のためなら、わたしなんでもするよ?」
昼休み終了のチャイムが鳴った。学校中の弁当箱が閉じられ、生徒たちは授業の準備を始める。アキホの弁当箱だけには、冷めてしまったおかずが、ぎっしりと詰め込まれていた。
まだ終われない。まだ足りない。
「おれを助けたいのなら、ふたつにひとつだ」
アキホは、Vサインをするように、指を二本立てた。
「ひとつ、おれを信じてサキをやっつける」
「そんな……できないよ」
アキホは、中指をしまった。そもそも、サキとカリンを対立させる気はなかった。いつだって、人差し指はだれかに握られるものだから。
「そして、もうひとつ。カリンがおれから離れればいい」
「やだ!」
カリンの声が、屋上でこだました。校舎の中にいる生徒たちは、一斉に窓の外に目をやった。
「そんなことできないもん!」
「それでも、カリンは選ばなくちゃならない。じゃないと、おれは救えない」
カリンから堪え切れない感情が流れでた。辛い、とか、もうやだ、とか。そんなことを何度も呟いている。できることなら手を差し伸べてやりたい。でも、ダメだ。生徒会の扉を開いたのは、おまえじゃないか。
「選べ、奴隷」
潤んだ瞳に、アキホが映る。カリンは、やんわりとだが微笑んだ。そういえば、自分は奴隷だったと、自分の役割を思い出しているようにも見えた。
「それ、命令?」
「ああ、命令だ」
カリンが目を閉じると、頬に一筋の道ができた。その一滴は、顎まで伝い、アキホの膝の上に落ちた。
「……分かった」
カリンは、ごしごしと顔を拭い、すっと立ち上がった。目を擦りながら、嗚咽をだしながら。アキホは、初めてカリンを見上げた。
そうか、奴隷って、こういう角度なのか。
「どうする、カリン」
カリンは、からっきしの喉から声を絞り出した。
「いままで、ありがとうございました」
なんて期待通りなんだ。
嗚咽交じりでなにを言っているのか分からなかったが、きっとこんな風なことを言っていたに違いない。カリンは、食べかけの弁当をそのままに、屋上から出て行った。
残されたアキホは、久しぶりの孤独を噛みしめていた。それがあまりに苦かったので、ほうれん草をつまんで口のなかに放り込んだ。
空は青く、雲は灰色。おれは孤独。
当たり前に戻っただけのことさ。
これでいい。これでいいんだ。
放課後、アキホはサキに呼び出されていた。
だれも通らない体育裏。遠くから聞こえてくるのは、活気と青春に満ちた部活の声だった。
サキは、組んだ腕のなかに、納得のいかないもやもやした気持ちを抱えていた。呼び出されたアキホは、自分はなんの用もないとばかりにふんぞり返っている。
「いつまで、そうしてるんです?」
対峙してから五分間、サキは、恨みの籠った視線で、じっとアキホを睨みつけていた。まさか、アキホがこれほどまで簡単にカリンを手放すなんて、予定外だった。それだけに得体のしれない不気味さも拭えない。要するに、サキはアキホを疑っていた。
「あんた、どういうつもり」
アキホは、まだ諦めていないはずだ。そう確信していた。アキホは、うんざりとした顔で首をふった。
「いつも思うんですけど、あなたたちの質問って、いつも抽象的ですよね」
「その方が楽なのよ。いろいろと」
「あっそ」
放課後の空は、夕焼けと曇空がまざって、なんとも言い難い色になっている。
「なんの用ですか。こんなところに呼び出して、カツアゲか告白、どっちです?」
「ぞっとするようなこと言わないで。そのどちらでもなく、カリンのことよ」
「なんと」
アキホは、わざとらしく目を丸めた。
「随分耳が早いですね」
「あの子が直接、わたしに言いに来たのよ」
泣きはらした顔。振り絞るような声で、「わたしは、ひとりになりました。もうご主人様を許して下さい」って。そう言っていた。
サキは髪をかきあげた。
許す? 許すってなによ。わたしが、カリンを孤独にした? まるで、すべてわたしのせいみたいじゃない。違う、カリンはこの男に騙されている。この男が不幸になっているのは、こいつのせいだ。わたしに逆らったからいけないんだ。カリンに手を出したから、苦しんでいるの。自業自得なのに、まるで被害者みたいに。
「あなた、カリンになにをしたの」
アキホは、ちょっと待って下さいと、手を突き出した。
「その前に、サキさんは、ぼくになにをしたんですか」
「あら?」
サキは、アキホのM気質をぞくぞく刺激する冷笑を浮かべた。
「いじめられるのは、慣れてなかったかしら?」
「耐性はあるほうなんですけどね。なにも感じないって、意外と難しいですよ」
「あらそう。情けないのね。男のくせに」
「身に覚えのないことでいじめられるのは、いくら体験しても慣れないものです」
「身に覚えがない? いつの時代だって、誇張のないニュースなんてなくってよ」
「尾ひれ百パーセントじゃないですか。傷一つないのにリンチなんて、よく信じてもらえましたね」
「あのトウマって男、よっぽど悪者なのね」
なるほど、トウマを使ったのか。「わたし、トウマとアキホに襲われちゃった……」うん。潤んだ瞳のサキに言われたら、アキホですらも信じてしまいそうだった。
「さあ、次はあなたの番よ」
放課後の夕陽が、後押しするようにサキを後ろから照らしていた。それがあまりに眩しかったので、アキホは目を細めた。
「あなたは、カリンになにをしたの。どうして、解放されたはずのカリンは、辛そうな顔をしていたの?」
決まってるじゃないですか。と、アキホは嘲るように笑った。
「サキさんが、カリンからぼくを奪ったからですよ」
「わたしのせいだって。そう言うのね」
「他に想いあたる節がありませんね」
「そう、残念ね」
サキは笑っていた。アキホの答えは予測ずみだ。そのうえで、ちゃんと答えも用意していた。すべて、計算通りなのよ。
「カリンが苦しんでいる本当の理由、無知なあなたに教えてあげましょうか」
知っているのなら、最初から教えて欲しかった。
「ねえ、聞きたい?」
サキは得意げだった。すでに勝利が決まっていると、確信しているようだった。世界は自分のためにできている。サキは当たり前のようにそう思っていた。生まれた時から世界は思い通りだったから、そう思ってもおかしくはない。
「本当の理由って、なんです?」
「あなたのせいよ」
サキの鼻の穴が膨らむ。夕日を背にうけるサキの顔は、逆光のせいで暗く見えた。まるで魔女みたいだなと、アキホはそう思った。
「ぼくが、カリンを苦しめている?」
そうよ。と、サキは頷いた。
「あなたが上手に別れないから、カリンは苦しんでいるの」
「別れろといったのは、サキさんじゃないですか」
「わたしなら、もっと上手に別れていたわ」
サキの頭のなかでは、アキホとカリンとサキが、笑顔で手をつないでいるお花畑が描かれていた。蝶々がカリンの頭にとまって、ふたりは笑う。
口だけでなら、なんとでも言える。
「どうして、そう言いきれるんですか?」
「わたしはカリンの親友よ? 上手に別れることくらい造作もないわ」
だったらサキさんが分かれて下さい。とは言わなかった。アキホは、そんな友情を鼻で笑ってみせた。
「カリンからおれを奪い取って、それが友情ですか」
「言い方が良くないわね。カリンを悪友から救ってあげた。これが正しい事実」
「それは、カリンが決めることです」
「わたしは、カリンのことならなんでも分かるの。あの子は、ご主人様をつくることで、きっと後悔する。だから、わたしが守ってあげなくちゃいけないのよ。泣いても喚いても、危ないおもちゃは、取りあげないといけないの」
サキは、ぎゅっと自分の胸を抱きしめた。まるで、そこにいないはずのカリンを抱くように、優しく。
「カリン、いまは泣きなさい。いずれ、わたしの行いが、どれだけ正しかったのか気付く日くるでしょう。その時まで『ありがとう』は取っておいて。待つわ。いつまでも待つわ」
サキは、ワルツを踊り始めた。目の前にアキホがいることなどすっかり忘れて、勝利に酔いしれてしまった。アキホは、冷めた目でサキのワルツを眺めていた。そもそも無理だった。サキを言い負かそうと思った時点で、アキホの敗北は決まっていた。
サキとは、論争にならないのだから。
「……ぼくにできることを教えて下さい」
サキは、足を止めた。
「いま、何て?」
「ぼくがカリンのためにできること、サキさんなら知っているでしょう?」
落ちた! サキは、心のなかでガッツポーズをした。ついに落ちた。反抗的だったこの男が、カリンのご主人様だったこの男が、サキの前で頭を垂れている。
わたしは、ついに勝ったんだ。カリンのご主人様に。
サキは、飛び上がりたい足を地面に植えつけ、釣りあがろうとする唇をすぼめた。
「アキホ、あなたは学校を辞めるべきよ」
なんと想像通りの結果なのだろうか。サキの頭の中を読みとるのは、こうも簡単なことだった。要するに、最高のシュチュエーションを想像すればいい。ゴミひとつない部屋を思い描けば、それがサキの頭の中だ。
「どうせこのまま学校にいても、あなたはいじめの対象になるだけ。だったら、新天地に出た方が、あなたの人生のためにもなると思う」
「本当に、そう思っていますか?」
「ええ、わたしが言うんだもの。間違いないわ」
最後の選択を本人に委ねることすら許さない。サキは、どちらかといえば、トウマに近い人間だ。すべてが自分の思い通りになると信じている。アキホと真逆の人間だ。
「……分かりました」
アキホは、サキの提案を受け入れることにした。
「あと少ししたら、おれはこの学校から消えます」
「アキホくん……そう……」
シャンプーなのか香水なのか、甘い果物の香りが、ふんわり、アキホの鼻孔を撫でた。
「あなたの決意に感謝するわ。ありがとう」
「いえ、カリンのためですから」
サキは微笑んだ。まるで、天使のような笑顔だった。みんなこの笑顔に騙される。
「あなたとは、もっと早くに出会いたかったわ」
「おれも、そう思っています」
ふたりは抱擁した。争いの先にある美しき友情。そして夕陽。まるでドラマのワンシーンだった。エンドロールが流れる。これが最終回だったら、そこで終わり、もしくは簡単なエピローグが流れる。みんなが幸せ、ニコニコエピローグ。次があるとしたら、この素敵な余韻をぶち壊すような次回予告が流れる。
テレビの中の話だ。
*
アキホに対するいじめは、そのなりを潜めた。アキホを敵対視していたクラスメイトたちも教師も、まるでいじめの事実などなかったかのように日常のなかに戻っていた。
それも、サキが、仲裁にはいったおかげだった。
サキと和解した次の日、アキホは、見ず知らずの生徒に体育館裏に連れて行かれた。人気のない場所で、いきり立つ生徒たち。脅してくるが、暴力は振るおうとしない。さあこれからリンチが始まりますよ。という時に、サキが間に割り込んだ。サキは、悲痛そうな顔で、突然現れたサキに驚き立ちすくむ生徒たちにこう言った。
「やめて、わたしのために争わないで!」
涙を浮かべてそう言った。
サキのダイヤモンドのような涙に、すっかり戦意を削がれてしまった生徒たちは、アキホと握手を交わした。こうして、サキは、いじめを解決してくれた。表に立つべき人間とは、この泥臭いドラマを作れるくらい、腐った人間でないと駄目なんだ。
そしてアキホは、孤独の中にいた。
「おい、アキホ」
「なんだ、こんな時はコトウだと思っていたのに」
トウマが、アキホを影で覆っていた。
「もしかして、サキから何か聞いた?」
「カリンから」
「学校をやめること? カリンから身を引いたこと?」
「どちらもだ」
「そう」
「なにがあった」
隠しても仕方ない。アキホは、昨日の体育館裏での出来事をすべて打明けた。トウマは黙ってその告白を聞いていた。話終えると、アキホは妙に身体が軽くなった気がした。気にしていなかったが、それなりに気負っていたようだ。
「まぁ、生徒会長にしてやられた。って感じかな」
アキホは、ぐるりと肩を回した。
「このままでいいのか」
トウマの言葉の裏には、「おまえが頼めば、おれはいつでもサキを殺す」と言っているような気がした。実際、アキホが頼めば、そうしてくれるだろう。しかし、アキホは、首を横に振った。
「トウマが手をだすと、やっかいなことになる」
サキは暴力に屈しない。権力を持っているから。本当に勝ちたいのなら、サキを殺す気で掛からなければならなくなる。
「しかし、アキホがいなくなればカリンが悲しむ」
「もちろん、このままで終わるつもりはないよ」
「どうする気だ」
やることなんて、最初から決まってる。
トウマは、ポケットに手を突っ込んだ。そもそも、アキホがどうなろうと興味はない。トウマの興味は、いつだってカリンのことだけだった。だから、カリンのためなら何でもする。
「アキホ、おれの言った事、忘れたわけではないだろうな」
「カリンとの絆がおれの寿命。分かってるよ」
「なら、いい」
トウマがいなくなると、教室には静寂しか残らない。
サキ、どうせ逃げ道はないんだ。だから、おれを恐れろ。
夕焼けが教室に差し込む。サキの登場をいまかいまかと待ち焦がれるアキホは、カタカタ音をたてる机で、自分が貧乏ゆすりしていることに気付いた。
アキホは焦っていた。今日が決戦。これで、サキが頭をさげる結果にならなければ、アキホは本当に学校をやめなければならない。たとえアキホが自分の意志でやめなくても、サキがアキホを退学まで追い詰めるだろう。サキは、そういうことのできる人間だ。
サキは脚本家だから。
「あら、アキホくんじゃない」
アキホが、覚悟を決めるのを待ちかまえていたかのように、サキは教室に入ってきた。アキホを視界にいれると、ふんわりと笑う。アキホも微笑みを返す。そんなふたりは、まるで恋人のようだった。
「アキホくん、急に呼び出したりして、どうしたの。もしかして告白? それともカツアゲかしら?」
「残念ながら、そのどちらでもないですよ」
「あら、それは残念ね」
サキは、アキホと敵対していた頃とは、まったくの別人だった。全身に、ほんわりとひだまりをまとい、優しい先輩にしか思えない。整った眉。くっきりとした二重。筋の通った鼻。透き通るような肌。そして、艶めく唇はわずかに開いている。
「なによ、じっと人の顔を見て」
アキホは、はっとした。鼻が触れ合いそうな距離にサキの顔がある。
「わ、わあ!」
椅子から転げ落ちそうになるアキホを、サキは素早く手を伸ばし助けた。
「もう、なにやってのよ」
サキはあきれ顔で笑った。
「……面目ない」
首をすくめながら、アキホは座りなおした。まったく調子が狂う。ついこの間まで敵だったのに、こうも好意的に接されるとやり難くて仕方ない。もちろん、これもサキの脚本通りの展開だった。男なんて、ちょっと仲良くしてやれば、きゅんと落ちる。
アキホは、切り出すタイミングを窺っていた。アキホが「今だ!」と思うと、サキは微笑みをくれた。そうして、またタイミングを逃す。回り道ばかりで、一向に本題に入ろうとしないアキホに、サキは一拍手を打った。
「わたしとしては、いつまでもこうしてアキホくんとお喋りしていたいところなのだけれど、ごめんなさい、そろそろ帰るわ。生徒会の仕事が溜まっちゃって休む暇がないのよ」
今だ!
「それは、おれのせいですか?」
棘の混じっていたアキホの台詞が、立ち上がろうとしたサキの足にからみついた。サキは腰を浮かせたまま、固まった。
「どうしたの、そんな怖い顔して」
「おれに構っていたせいで、仕事がおざなりになったんですね」
「そんなこと……」
「サキさん、おれは今日、あなたを試しにきました」
サキの顔から笑顔が消える。
「試す? なにを?」
「本当にあなたがカリンを幸せにできるのか。おれには確かめる権利がある」
開始のゴングの代わりに、チャイムが鳴った。こんなにくい演出ができるのも、サキのおかげだ。
「男にそんな権利ないわ、男と女は違うもの。幸せの形もそれぞれよ」
どうやら、アキホは再戦を望んでいるらしい。サキは、顔の形を変えた。ならば望むところだ。受けて立とう。生徒の不満をすべて受け入れるからこそ、生徒会長だ。幸い、放課後の教室には、他の生徒は残っていない。ならば、追い詰められるところまで追いつめてやる。時にはバッドエンドも必要だ。
「でも、分かってるのかしら。カリンを幸せにできなかったあんたに、カリンの幸せを憂う権利はないのよ?」
アキホは腰を据えた。反撃の準備ならできている。
「またそうやって、サキさんは決めつける」
アキホの顔が、半分だけ夕陽に照らされた。
「サキさんは、分かり易すぎる」
サキはパターンだ。男のくせに。幸せの形。不幸の形。悪の排除。攻略本に書かれたその方法以外は、すべて邪道と決めつけるような、呆れるくらい短絡的な発想だ。
「幸せに形はない。そうは思いませんか?」
「思わないわ」
「本当に? さっき、サキさんが、幸せの形は人それぞれって言ってましたけど」
「わたしが言ったのは、男女間での違いよ。女同士で殴り合っても友情は生まれないわ。でも、ショートケーキは誰でも好きでしょ? 友達の多い人が幸せ。愛する人がいれば幸せ。毎日遊んでいれば幸せ。お金持ちなら幸せ。だれだって、幸せは万国共通で幸せよ」
そういったサキの顔は、平和の女神のように見えた。サキならば、ほんとうに世界中を平和かつ幸せできるかもしれない。でも、それじゃあ駄目なんだ。
「サキさんの言う幸せには、おれがいない」
サキの表情が固まる。すると、時間も止まった。時計は針の動きを止め、ピッチャーの投げた球は、バットにあたる直前で浮いたまま。サキが思考を巡らせているのだから、時間は止まるべきなのだ。
「あなたは、なにを言っているの?」
「サキさんの描く理想の世界で、おれみたいな人はどこにいるんですか?」
そうねえ、とサキは悩む素振りをみせた。最初から答えは決まっている。お花畑に蛾はいらない。美しい蝶々だけでいい。害虫は駆除だ。
どうせそんなことを考えているだろう。と、アキホは思っていた。
「幸せの形は決まってない。人を殺しても幸せを感じる人がいるんです」
「あら、殺しの正当化? 悪者がやりそうなことね」
「なに言ってるんですか。殺しはよくありませんよ」
あしらわれたようで、サキは前につんのめった。
「あんた、なんなのよ」
「幸せの形は、それぞれなんですよ」
「わたしは、犯罪者の幸せまで考えなきゃいけないのかしら?」
「それも必要なことです」
「嫌よ。絶対に嫌」
サキは立ち上がった。アキホはサキを見上げた。
「幸せって、不平等なのよ」
自分を見上げるアキホに、サキは美しき言葉の雨を降らせた。
「人を踏みにじるような奴に、幸せになる権利なんてない。善い行いをした人たちだけが幸せになるの。努力が報われない世界なんて、わたし絶対に許せない」
「その善し悪しは、だれが決めるんですか」
「それは……」
もちろん、わたしよ。とは、言わなかった。上に立つ人間であっても、目線は同じ位置になければならない。偉そうな指導者ほど嫌われるものはない。
「だれにでも自分の幸せを求める権利はある。それがどんなに不細工な形でも、その人にとっては価値あるものだと、おれはそう思います。こんなおれの考えは、間違えていますか?」
サキは、手を叩いてアキホの台詞を遮った。どうにも話がややこしくなってきた。これでは都合が悪い。
「もういいわ。回りくどいのはやめにしましょう」
動き出す時間。野球部の奏でる快音が、教室に差し込んだ。これからが、サキの責める番だ。
「わたしには、カリンを幸せにできない。あなたは、そう言いたいんでしょう?」
その通りです。とアキホは頷いた。
まったく、どうして男ってこうなのかしら
「それこそ、決めつけと思わないのかしら」
サキは、すべてをアキホにぶつけて、溜めに溜めこんだものを吐き出してやる。吐いたあとは、流せばいいのだから。
「わたしとカリンは友達。正直に言えば、どうすればカリンが幸せになるのかは、分からないわ。でも、どうすればカリンが不幸になるのか、それだけは知っているつもりよ。わたしは、あの子を助けることができる唯一の親友なの。女を幸せにすることは、男にしかできない? そんな自惚れが、わたしをあの子から遠ざけたの。女遊び? まるで、それがステータスみたいに。いつから女は、男のおもちゃになり果てたの? 女と男で、そんなに大きな違いがあるの?」
まったく支離滅裂。結局最後は愚痴になっていた。けれど、アキホには、サキのいいたい事が分かった。中学、当時のご主人様がどれほどの男だったのか。それがどんな結果をもたらしたのか。サキの脳裏に焼きついたシーンが、流れ込むようにアキホの頭のなかに入り込んだ。
「男なんて生き物は、欲望に支配されているの。ちょっとの気まぐれで、女を傷付ける。失って初めて、傷だらけの女の情に縋るのよ。あの日あの時、わたしがいなければ、あなたがご主人様になることはなかったでしょう」
屋上。金網。崖っぷち。なびくスカート。涙で濡れた顔には、栗色の髪がはりついた。もう、そんなことにはさせない。カリンは、わたしが守る。
「カリンは、あなたに渡せない。それは、あの子を不幸にするのと同じだから」
「おれは、カリンを幸せにできます」
「どうしてそう言いきれるのよ!」
「自信は、すべて過去に」
アキホも、すべてを打ち明けるつもりだった。サキには打ち明けよう。どうせすべてが終わるのならば、ここですべてを発散してしまおう。しかし、サキはアキホの過去など鼻で笑ってみせた。
「あなたの過去が、どれだけのものよ。それは、死のうと思うよりつらいことなの?」
「おれは死んでます」
室内なのに風がふいた。衝撃の風だ。ひんやりと足元から身体を包みこんで、心臓までのぼると、内側から胸をはげしく叩いた。うるさい。サキがそう思ったのは、自分の荒れる呼吸だった。
「そう怯えないで下さい。べつに、ゾンビではありませんから」
「お、怯えてなんか――」
サキの声は震えていた。慌てて口を押さえると、手が震えているのが分かった。そんなはずない。あいつみたいな人間が、もうひとり?
アキホは、寂しげに笑った。
「詳しい事までは話せません。ですが、おれはこの世に存在してはいけない人間です」
テレビで流れる訃報。そして、新聞の一面。さまざまな憶測は、意味のない言葉の羅列でしかなかった。アキホは、ここにいる。アキホの十数年はきれいさっぱり消滅してしまったにも関わらず、こうして地面に根を張っている。
「あなた、何者なの?」
「おれはアキホですよ。辻秋穂。あなたの後輩です」
「そう、よね」
UFOを信じないサキが、アキホの言葉は信じた。アキホは、乗り越えてる。だれにも経験できない、死線を乗り越えて、いま、サキの目の前に立っている。サキは、ひとりだけそういう人間を知っているから。死を乗り越えたアキホに、サキは、飲み込まれそうになった。なるほど、アキホが自信のあることは分かった。納得もできる。でも、それなら尚更、アキホにカリンは任せられない。
「……させない。幸せになれないあなたに、カリンを巻き込ませるわけにはいかないわ」
「またそうやって、サキさんは決めつけた」
サキの焦りに顔が歪む。アキホはその隙を見逃さなかった。
「おれは、幸せになることを諦めていません。もちろん、カリンを幸せにすることも」
「ありえない、無理よ」
「無理でもなんでも、おれは幸せになるんです」
「どうしてそう言いきれるの」
アキホは息を吸い込んだ。素直な気持ちを、胸に湛えて。
「幸せになりたいから」
アキホは、胸をはってそう言った。
「いまは、そうとしか言えません」
「なによそれ」
「どうかお願いです。おれたちを否定しないで下さい」
サキは、勢いを取り戻した。とんでも展開に圧倒されていたけれど、結局、目の前にいる男は、なんの根拠もなく女を幸せにできると思っているような、いつもと変わらない男じゃないか。
「やっぱり、わたしがカリンを幸せにするしかないみたいね」
「無理です」
「あんたにこそ無理よ!」
サキは声を張り上げた。声は教室中に響き、カーテンを揺らした。
「カリンは、わたしの物なの」
「もの?」
「そうよ。カリンは大切な親友。だれにも渡せない。あの子の周りには、だれも近付けさせない。わたしがいればいいの。男はいらない。女もいらない。私の傍で、ずっとニコニコしていればいいの」
今日はよく口が回る。思ってもないことをつらつらと。それが本心かどうかも分からない。とにかく、止まることができなかった。
「やっぱりそうだ」
腕を組んだアキホの笑みは、勝利を確信していた。
「なによ!」
「サキさんにとって、カリンは便利な道具なんですね」
「言い方が悪いわ」
「まったくそのまま、カリンは物だった」
「違う!」
「そうやって、サキさんは、カリンを押さえつけた。奪って、叩いて、無理矢理自分に依存させようとしていた。カリンの依存体質を知っているサキさんだからこそ、あなたはカリンが欲しくてしかたなかった」
「やめて、わたしに入って来ないで!」
サキは耳を塞いだ。そんなはずない。わたしとカリンは、親友のはず。でも、だったらそうして、アキホから解放した時、カリンは泣いていたの?
「サキさん、あなたにカリンは幸せにできない」
「どうして!」
「なによりも、学習能力が足りないから」
アキホは手を打った。乱暴に教室の扉がしまった。きぃっと、掃除用具ロッカーが軋んだ。ゆっくりと扉が開く。ロッカーから生えてくるように、すっと細い足が伸びて、揃えられた爪先は、サキへ向いていた。
「カリン、どうして」
カリンは、まっすぐにサキを見ていた。
「サキちゃん、久しぶりだね」
サキは、目を剥いたまま、二、三歩下がった。
「ぜんぶ、聞いてたの?」
「うん。ごめんね」
謝らないでよ。サキは、食いしばる口の中でそう言った。
「カリン――」
サキは、求めるように手を伸ばしていた。
「ごめんね、サキちゃん。わたしのために。ごめんね」
「違うの。カリンのせいじゃない」
すがった手は、宙を何度も掴んだ。
「わたしが弱いから。自分じゃどうしようもできない馬鹿だから。サキちゃんに苦しい思いをさせちゃってたんだね」
「やめて、そういう事を言わないで」
届かない。カリンがどうしても遠い。
「わたしのせいだ。わたしが、みんなを駄目にしちゃうんだ」
「やめてよ!」
サキが叫ぶ。それを合図に、カリンは教室を飛び出した。
「追ってあげないんですか」
サキは、耳を塞いでうずくまっていた。カリンを掴むべきその手は、現実と自分とを切り離していた。
「いや……いや……怖い……カリン……」
「カリン!」
夕焼けが街を覆っていた。金網の奥には、カリンが立っている。一歩でも踏み出せば天国にいけるその場所で、カリンはオレンジ色をその目に映していた。
「カリン、こっちに来るんだ」
振り返ったカリンは、追ってきたのがアキホだけであることに落胆した。
「サキちゃん、もう、追ってもくれないのかな」
「そんなことない。サキさんは来てくれる」
「でも、ご主人様しか見えないよ」
アキホは振り返った。近付く足音は聞こえてこない。
サキは、いまだに教室のなかに閉じこもっていた。追うべきはずなのに、恐怖で足が竦んで動かない。ずっと震えていれば救われる。そんなことも考えていた。
風が、カリンのスカートをめくり上げた。
「おい、パンツ見えてるぞ」
「いいもん。ご主人様なら」
「だったら、もっと近くに来てくれよ。柄が見えない」
「水玉とネコちゃんだよ」
「本当か?」
「本当だもん。近くで見ていいよ」
カリンは照れ笑いを浮かべた。ふたりの会話は、とうてい自殺志願者とそれを阻止しようとする者との会話とは思えなかった。なごやかなバカップル。それでも、アキホが傍にくると、カリンの足先は、わずかに前に進みでた。
「サキちゃん、こない?」
「……みたいだな」
アキホは、屋上の入り口を振り返った。開けっぱなしの扉からは、足音が聞こえてこない。
「だったら、死んじゃおうかな」
カリンは、オレンジ色の雫を流した。
サキは、カリンにとって、唯一友達と呼べる存在だった。小学生時代から自らを奴隷と名乗りはじめたカリンに、周囲の人間は奇異な視線を向けた。そうまでして男に媚を売りたいか。とすべての女子から反感を買うこともあった。カリンは孤独だった。それでも、サキだけは友達でいてくれた。かっこよくて、みんなの憧れで。いつでもカリンの傍に立ってくれてたのに。
「サキちゃんは、最初からわたしの友達じゃなかったんだね」
カリンの言葉は、涙と一緒に零れ落ちた。
「おれだけじゃ、駄目なんだな」
「うん。ご主人様は、サキちゃんじゃないもん」
そんな晴れやかな顔で死んでいくのか。
「じゃあ、そろそろ行くね」
「待て!」
アキホは、金網に手をかけた。いざとなったら、自分が飛び出してカリンを助けるつもりだった。しかし、彼女の登場でその必要はなくなった。
「待って!」
ようやく現れた。ヒーローは遅れて登場するものだといわんばかりの遅刻ぶりで、サキは屋上に現れた。
「遅かったじゃないですか」
「うるさい」
にやつくアキホの横を通り過ぎて、サキは金網をよじ登った。まっすぐな足取りで、カリンの横に立つ。
「サキちゃん、危ないよ?」
「知ってるわよ。この馬鹿」
「わぶ!」
サキは、カリンを抱きしめた。もぞもぞと、カリンはサキの胸のなかで動いた。
「苦しいよ~」
「やっぱり、カリンはわたし物よ。だれにも渡さない」
「サキさん、まだそんなことを」
振り返ると、サキの後ろにアキホが立っていた。いつのまに金網を超え、三人は同じところに立っていた。
「カリンは、だれの物でもない」
「いいえ。アキホくん、あなたには渡せないわ」
「どうして」
「カリンは、変わらないといけないの。ご主人様から卒業するのよ」
「どうして、ありのままを受け入れてあげないんですか?」
「ありの、まま?」
サキは黙った。腕の中にいるカリンを撫でて、それで満足していた。
「まだ分からないんですか? 人を変えるなんて。やっていいことじゃない」
「変わらないといけないの。そうでもしないと、カリンはまた死のうとするわ。あなたはそれでもいいの?」
「そうしたら、また守ってやればいい。それを手間というのなら、サキさんは、本当にカリンを幸せにできなくなる」
人を変えるなんて、結局は自分にとって都合のいい人間をつくるだけの作業だ。自分の価値感だけで、すこしでも気に食わなければ頭ごなしに否定する。そうして自分の理想の世界を作ろうとする。
「あなたは、カリンを守りたいんですか? それとも、カリンを抱きしめたいんですか?」
サキは、自分の腕を見つめた。思った以上に力が入っているのか、腕は自分の思い通りに動いてはくれなかった。
「そうね。そうよね」
ようやく、腕から力が抜けた。
「カリンにわたしが必要なんじゃない。霧島咲に、カリンが必要だったのよね」
いつからだったろう。友達といても孤独を感じるようになったのは。わたしは、みんなの理想の霧島咲を演じていた。人気があるのはサキじゃなかった。わたしの抱えている権力という花に、みんな見惚れていた。そう思ってしまった。
「男なんかに、こんなの屈辱よ」
サキは空を仰いだ。
「わたしが、カリンを苦しめていたのね」
サキは、カリンを抱く腕を解いた。
「ごめんね、カリン。もう、解放してあげるから」
「ううん。わたし、サキちゃんから離れたくない」
「もう無理よ。わたしは、もうあなたの前で笑えないもの」
「だったら、生まれ変わろうよ」
カリンは、サキの腕を掴んだ。
「おれも付き合いますよ。先輩」
アキホは、ふたりを抱きかかえるように腕を回した。アキホの腕のなかで密着するふたり。サキの目の前には、カリンの笑顔があった。
「笑って、サキちゃん。みんなで一緒に生まれ変わろう?」
「ちょ、ちょっと待って。どういうこと。これは、どうなるの?」
慌てるサキを無視して、カウントダウンを始めるアキホ。
「やだ、離して! 馬鹿、なに考えてんのよ!」
「サキちゃん、死んでもずっと一緒だよ」
「ゼロ!」
アキホは踏み出した。
「いやあああああああああ!」
耳もとを風が過ぎる。サキは、ぎゅっと目をつむり、涙は重力を無視した。本当に、あっという間に出来事だった。
すさまじい衝撃のあと、クスクスと軽い笑い声が、サキの暗闇に差し込んだ。なにが起こったのか分からない。まだ、ふわふわしてる。もしかして、もう、死んでるの。
「サキちゃん、ごめんね」
「へぇ?」
間抜け声のサキは、目をしばたたかせた。目の前には、カリンの笑顔。見上げると、アキホも、笑っていた。
「ここは、天国?」
「いいえ。地獄にもっとも近いところですよ」
「うむ。重いな」
サキは顔をあげた。なんという無表情。サキたちは、トウマの腕の中にいた。
「三人とは、聞いていない」
「悪いな。でも、さすが」
馬鹿げてる。屋上から飛び降りた人間を受け止めた? それも、三人いっぺんに。
「あなた、本当に人間?」
サキの声は震えていた。もじもじと足を動かす。股の間がひんやりと冷たいのは、ばれたくないことだ。
「おれは、頑丈な男だ」
「ああ、そう」
サキの肩から力が抜ける。死んだと思っていた。でも、生きていた。
「わたし、カリンに騙されたのね」
「えへへ、ごめんねぇ」
「わたし、生まれ変われたのかしら」
夕焼けって、こんなに綺麗だったかしら。雲までオレンジ色になるのね。
「どうです、サキさん?」
「なによ」
「男の腕のなかも、悪くはないでしょ」
サキは頭を降ろした。固くて太い、揺るがない枕。寝心地は良くないけど、なんだか心がほっこりする。
サキの口元が緩んだ。
「……そうね。悪くないかも」
第三章
申し訳ないが、体育祭などの高校一年生の前期を彩る素敵なイベント事たちは、陽炎のごとく、アキホの眼前でその存在感を見せびらかすだけだった。
友達のいないアキホに、青春をこれでもかと詰め込んだ学校行事などというものを満喫できるはずがなかった。人数合わせのように行事に参加し、奴隷の声援しかない孤独なレースでひとり汗を流すことで、アキホの体育祭は終わりを告げた。結果なんて、覚えているわけがなかった。
そんなこんなで、アキホは初めての夏休みを迎えていた。
終業式のあの日、教室の隅っこで蝉の声に耳を傾けながら、てっきり、夏休みの間は家にずっと引き籠ってるものだと思っていた。鳴らない携帯。親以外の人間とは言葉を交わさず、たいして興味のない高校野球で日がな一日、見ず知らずの坊主頭を応援する。そんな、何の色のない夏休みを過ごすとばかり思っていた。はずだった。
「いったい、どうしてこうなった」
刺すような太陽に目を細めながら、アキホは立ちつくしていた。
飛び交う黄色い歓声。偽物みたいなヤシの木が、チープな演出で夏を彩る。青い空、照りつける太陽。ぷかぷかと浮いている雲たちは、時々、アキホを陰で覆った。水しぶきが舞う。きらきらと太陽を反射して、一粒一粒が、宝石のように輝いていた。
そう。アキホは、プールに誘われていた。
「お待たせぇ」
もちろん、アキホひとりで、こんなリア充スポットを訪れるはずがない。アキホは、水着に着替えて現れたカリンとサキにすっかり目を奪われてしまった。
「なによ、じろじろ見て」
ちょっと動いただけで、サキの胸元がぷるんと弾んだ。
「いや、その、ごめんなさい」
カリンはともかくとして、サキの水着姿は圧巻だった。理想的体系、いわゆる、ボン・キュッ・ボン。だ。ビキニの似合う女性とは、サキのように、無意識に振り返ってしまうような魅力を持っている人のことであり、断じて、カリンのような未発達の幼児体型は、ビキニなど着てはならないのだ。
「えへへ、どぉどぉ? サキちゃんと一緒に買いに行ったんだよぉ。可愛いでしょ?」
カリンの水着は、ふりふりのひらひらだった。やめろ、ジャンプをするな。ちょっとの揺れが、余計にみじめじゃないか。
「ちょっとアキホくん? なによ、その顔は」
サキは、ぐっとアキホに身を寄せた。胸が腕に触れそうになったので、アキホはちょっと身体を下げた。
「カリンの水着姿を見れるのよ? もっと喜びなさい」
「うむ。たまらないな」
無表情な顔は、頬をピンク色に染めていた。相変わらず、なにを考えているのか分からないけれど、トウマも立派に男の子なんだなぁ。
「ご主人様、これ膨らませて下さい」
カリンは、空気のはいっていないビーチボールを持っていた。ぺったんこで、まるでカリンの胸みたいだ。
「おまえがやれよ」
「うん。やるね!」
カリンは、勢い良くボールに息を吹き込み始めた。断られたくて、アキホに頼んでいたのかもしれない。しかし、肺活量が弱すぎる。ボールがぴくりとも膨らまないうちに、カリンは顔を真っ赤にした。
「うひぃ、駄目でした」
そっと、ボールをアキホに渡そうとする。けれど、アキホはそれを拒んだ。
「諦めるな」
「でも……」
「おれの命令は絶対服従だろうが」
「うぅ……はいぃ……」
カリンは、もう一度、膨らますべくボールに挑んだ。しかし、やはり力が足りない。酸欠状態になったカリンは、ふらふらとトウマに凭れかかった。
「大丈夫か」
「あふぅ……うん、ごめんね」
トウマは、カリンからボールを受け取ったかと思うと、一息でぱんぱんに膨らませてしまった。
「わぁ、すごい!」
「これくらい、容易い」
ボールを片手にはしゃぐカリン。それを嬉しそうに見降ろすトウマ。アキホは、除け者にされたような気分だった。それが悔しかったから、情けない悪態をついてしまう。
「あいつ、おれの命令を無視しやがったな」
そんな情けないアキホに、サキは、アキホのわき腹に鉄拳制裁を食らわせた。痛みにうずくまるアキホは、どうしてサキから制裁を受けねばならないのか、と不満そうに顔をしかめた。
「アキホくん、いい加減にしなさいよ」
サキは、じとっとした目で、アキホを見降ろしていた。
「なんです?」
「今日は、やけに当たりが厳しいじゃない」
特別意識していた訳ではないのだが、実際、カリンに対して辛辣になってしまっているのだから、アキホは、肩をすぼめることしかできなかった。アキホは、今朝、何も言わずにカリンに鞄を持たせたことを思い出していた。
「ごめん。でも、わざと、そうしている訳じゃないんだ」
「分かってるわよ。そんなこと」
サキは、難しい顔をしていた。アキホ本人ですら、どうしてカリンに対して厳しくなってしまうのから分からないのに、いったい、サキにはなにが分かっているのだろうか。
「お~い、ご主人様ぁ」
遠くで、カリンが手を振っていた。
「あなたの奴隷が、ボールで遊びたがってますよぉ」
カリンは、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。「胸のないくせにはしゃぐな」と言ってやりたかったが、アキホはぐっと飲み込んだ。意識さえすれば、カリンと自然に接することだってできる。
「ああ、いま行く」
*
ビーチバレーは、瞬間的な速度で終わってしまった。わいわい楽しもうにも、トウマの鉄壁のブロックを、だれ一人として超えることができなかったのだ。トウマに、手加減という言葉は似合わない。最終的に『トウマに挑戦』というイベントが急遽組まれ、プール施設内を席巻したのは、アキホの知るところではない。
アキホは、昼食の焼きそばを食べ終え、すっかり乾いてしまった身体を日差しでさらに温めていた。帰ったら日焼けに苦しむことは間違いない。でも、この時期に色白というのは、自ら孤独であることをアピールしているようなものだ。その苦しみに比べれば、肉体的な痛みなど何の問題にもならない。
「ご主人様、寝ちゃったの?」
背中を細い指でつつかれる。アキホは、タヌキ寝入りを決め込んだ。カリンの顔を見ると、またいじめてしまいそうな気がしたから。しかし不思議なものだ。こうして目を閉じると、周りの会話がはっきりと聞こえてくる。多くは、トウマの巨大さとサキの美貌を讃えるものばかりだった。
「ねえ、カリン。あれ見て」
まさか、自分がトウマと同じくらい注目されていることなど気付く様子もなく、サキは女子高生らしくきゃぴきゃぴしていた。
「わぁ、本当だ。トウマくん、すごい人気だねぇ」
「違うわよ。巨人は、カリンの日傘になってるもの」
「え? わ! ほんとだ」
トウマは、日差しを存分にその広すぎる背中に受けていた。どうせ、カリンを日焼けさせてはならないと、サキから命令を受けたのだろう。
「じゃあ、あれはなんだろう」
アキホは、うっすらを目を開けた。アキホ達のいる場所から、少し離れたところで、水着の男女が、やんや、やんやと群れを作っていた。どうせ関係のないことだ、と、アキホは、再び目を閉じた。
「行ってみる?」
サキは、立ち上がってカリンに手を差し伸べた。
「うん」
離れて行く足音。遠くに聞こえる歓声に向かっているらしい。目を閉じると、周りに会話がはっきりと聞こえてくる。そうして、アキホは、歓声の中から、『シオン』という文字を明確に読み取った。
触らぬ神に祟りなし、だ
「おい、アキホ」
地の底から湧いて来るような声に呼ばれたので、アキホは片目を開けた。逆光のトウマは、山そのものだった。
「どうして楽しまない」
「日傘をやっているような奴にだけは、言われたくない台詞だな」
トウマは、その広い背中一杯に焼き付けるような日を浴びていた。
「おれはいい。一生分、ちやほやされたからな」
「そうか、短い一生だったな」
なんだか肌寒いのは、トウマが睨みつけているからだろう。
「貴様が楽しもうが関係ないが、カリンを心配させることだけはするな」
トウマは、すっかりカリンの彼氏になることを諦めているようだった。彼氏になれないのであれば、せめて盾にはなってやる。トウマは、そういう男らしい。
「気をつけるよ。殺されたくはないからね」
「どうでもいいが、アキホ、あれはなんだ」
「どうでもいいって……なんだよ……」
トウマの視線の先には、やっぱりカリンがいた。人だかりの周りを、ぴょんぴょん飛び跳ねている。
「カリンの他に、何か見えるのか?」
トウマの高い視界には、他のひとたちには見えないものまで見えていた。
「カメラ、サキみたいなおっぱいの女、あとは、胡散臭い男共だ」
「じゃあ、撮影だな」
アキホはもう一度寝転んだ。予想が当たったので、興味がなくなる。
「さつえい、とは、なんだ?」
そこまで世間知らずとは思わなかった。アキホは、うんざりとため息をもらした。
「テレビだよ。バラエティ。キラキラの芸能人が、おれたちみたいなみすぼらしい人間を馬鹿にするタイプの」
「それは、不愉快だな」
「ああ、最低だろ?」
アキホは目を瞑った。そういうものは、こちらから近付かなければ害はない。サキみたいな一般人を超える美人にも近付かない。あいつらは、適当なラインを見極めて、話しかける。弱そうで、普通よりちょっと惨めな奴。あとは――
「おい、アキホ」
「なんだよ」
「カリンたちが帰ってきた」
「それがどうしたよ?」
「カメラも一緒だ」
もうひとつ。テレビが狙うのは、規格外の奴。たとえば、背の大きすぎる人とかは、大好物らしい。
「こんにちはぁ。ちょっとお時間よろしいですかぁ?」
あれ~、彼氏さんは寝てるのかなぁ。という胡散臭い声から逃げるために、アキホは頭にタオルを被った。彼氏じゃないもん、ご主人様だもん。と怒ってくれるのは感謝するが、カリンはとりあえず黙っとけ。
「ほら、彼氏さん。シオンちゃんの水着が見れるなんてめったにないよ。生で、しかもこんなに近くに。ボインボインだよぉ。起きなきゃ損だって。ねえ、シオンちゃん」
「うん。彼氏さんにわたしの水着姿、見て欲しいなぁ」
アイドルはもっと恥じらうべきだ。
「ほら、シオンちゃんもそう言っていることだしさぁ」
うさん臭い声の男は、アキホのタオルを引っぺがした。アキホは、慌てて顔を隠す。
「大丈夫だよ。モザイクはちゃんとかけるから」
寝ぼけ眼のアキホは、その場にいるすべてを睨みつけた。
アキホの掛けていたタオルを持っているのは、サングラスをかけた中年男性だった。アロハシャツが、なんとも胡散臭い。で、こいつが、シオンか。
「あら、彼氏さん。そんなにシオンちゃんばっかり見て。彼女さんが嫉妬しちゃうよぉ」
修羅場でも期待しているのだろうか。アロハ男は嬉しそうだった。シオンは笑っていた。カリンも笑っていた。
そのあとの事は、あまり覚えていない。とにかく、異常な高校生カップルということで、インタビューを受けたのは覚えている。きっと、どっかの番組で頭の悪そうなやつらの若者批判の材料にでもされるのだろう。
勝手にしてくれと、アキホはそう思いました。
*
嵐が過ぎ去り、しばらくの間、アキホは不機嫌だった。
「ねえ、ごめんなさい」
アロハ男が去ってから、アキホは、カリンを十分ほど怒鳴ってやった。そのせいで、カリンは、ずっと反省しっぱなしだ。口をきいてくれないアキホに、カリンは何度も頭さげた。アキホは、許すタイミングを失っているだけなのだが
「腹減った。なにか買って来い」
これが仲直りのきっかけになってくれれば。アキホは、そんなことを思った。
「うん。なんでも買うから許して」
「当たり前だ」
カリンは、財布を片手に嬉しそうに走っていった。アキホは、財布の入っている自分の鞄を見つめていた。
「もう、殴らないで下さいよ」
「なによ。後ろに目がついているのなら、そう言いなさいな」
「お金は、あとで払いますから」
サキは、振り上げていた拳を降ろした。本当にふんぞり返っていたのなら、五、六発は殴っていたところだった。
「トウマは、いつまでそうしてんの?」
「日差しがなくなる、その日まで」
アキホを踏み潰すために、トウマが振り上げた足のことを言っているつもりだったのだが。
「……うん。トウマがいいなら、それでいいか」
やはり、アキホは苛立っていた。勝手にインタビューを受けたことに怒っている。なんて、ただの言い訳だった。理由は何でも良かった。腹の底に溜まっているこのモヤモヤを解消できるのであれば、目につくものすべてに難癖をつけていただろう。こんなの、ただの八つ当たりだ。そんな自分が許せなくて、一段とお腹が重くなる。
「買ってきたよぉ」
帰ってきたカリンは、両手に焼きそばを持っている。それはもう食べたよ。と叱ってやりそうになる。そのはずだった。
「あのね、この子が買ってくれたの」
カリンの後ろには、ひとりの女性が立っていた。腕を後ろに組んで、その豊満な胸を見せびらかすようなスタイルで。
「ああ、そうか……」
「うん。あのね、紹介するね」
アキホは、焼きそばを受け取ろうとした。しかし、心ここにあらずのアキホは、焼きそばを受け取ることが出来ず、そのまま地面に落してしまった。
「ああ! ご主人様、もったいないよ!」
「ああ、悪い……」
惚けた表情のアキホを見て、カリンが紹介してくれた女性は、まるでCGのように完璧な笑顔を作った。
「きみが、アキホくん?」
奏でているような声だった。
清楚を形にしたような純白の水着。あふれる希望の塊。必要以上にくびれた腰からは、すらりと流水のような足が流れている。美しさに圧倒され、口をぱくぱくさせるだけのアキホの代わりに、カリンが答える。
「そうだよ。このご主人様が、わたしのご主人様なんだよ!」
女性は歌うように微笑んだ。
「そう。かっこいいご主人様ね」
周囲の視線が集まり始める。アキホがご主人様だからではない。トウマが大きいからでもない。アキホの前に立っている人物が、ここにいてはならない人だからだ。彼女の居場所は、夢の世界。テレビの向こう側。つまり、彼女は、シオンだった。
「どうして、ここに」
「あり? 覚えてないの? さっきアキホくんにインタビューしに来たんだけど」
「いや、そうじゃなくて」
冗談よ。と、アキホに軽いボディタッチ。
「お仕事はもう終わり。だから、ちょっとだけ遊んで行こうと思ったの」
そのキラキラなスマイルに、アキホとトウマの心は打ち抜かれた。サキは、所詮アマチュアだった。アキホとトウマは、同時にそう思った。
「なによ、やる気?」
そんなふたりのいやらしい視線で、サキは不快感に顔をしかめた。
「ねえ」
むにゅって、何の効果音だろう。恐る恐る自分の腕に目をやると、シオンが絡みついていた。叫びたくなるが、ぐっと堪える。
「わたしも一緒に遊んでいい?」
アイドルが一緒に遊びたがってる? おれは、夢でも見ているんじゃないだろうか。ほっぺたを摘まんでみたいが、腕をシオンに押さえられてるため、それすら叶わない。
「い、いいんじゃないか」
やったぁ! と、シオンは子供のように両手をあげて喜んだ。
「じゃあ、アキホくんをしばらく借りるね」
シオンは、アキホの腕に絡みついたまま、引っ張っていこうとした。
「持ってっちゃだめ!」
しかし、カリンが、すかさずふたりの間に割って入った。余計なことをするなとも思うが、すこしほっとしたのもまた事実。
「あはは、冗談だって」
「がるるるる……」
カリンは、シオンに牙を向いていた。こんなおれでも嫉妬して頂けるのは、ありがたい事だ。アキホは、もう少しだけ、いまのモテモテ空間を楽しむことにした。
「おいおい、仲良くしろよ」
アキホは、カリンとシオンの肩をつかんで、ふたりを引きよせた。触り比べてみて初めて分かるアイドルのモチ肌具合。アキホは、ばれないようにシオンの肩を揉んだ。
「同じ年なんだしさ、一緒に遊べばいいだろ?」
「でも、シオンちゃんは、ご主人様を誘惑するんだよ」
「奴隷のくせに、おれに歯向かう気か?」
ちょっと睨みつけてやると、カリンはしゅんと縮こまった。
不服なのは、カリンだけでなかった。サキもまた、不服そうな眼でシオンとアキホを見ている。自分より美しい女性の登場に嫉妬をしているのだろうか。どうでもいいことだった。いまのモテモテアキホには関係のない話だった。
「……めんどうだし」
触らぬ神に祟りなし。だったな。
*
「あ~楽しかった」
シオンは気持ち良さそうに伸びをした。水が染み込んで黒みを増した髪から、ぽたぽた雫が垂れている。濡れた女は、なぜこんなにもエロいのか。思わず見惚れてしまう。
「やだ、あんまり見ないで」
シオンが恥じらう。そうだよ、それだよ。
「ねえ、ご主人様」
カリンは、いまにも泣きそうな顔で、興奮するアキホの背中をつついた。
「なんだよ」
「もしかして、シオンちゃんのことが気になるの?」
カリンの核心をつく質問に、アキホは、泳ぎつかれているにも関わらず、目を泳がせた。
「別にぃ。どうしたんだよぉ、急にぃ」
「だって、目がエッチだもん」
「気のせいだってぇ」
カリンは「む~」っと唸ってから、くるりと身体を翻した。
「おい、どこ行くんだよ」
「止めないで。ちょっと、わたし、ケンカ売ってくる」
「はぁ?」
カリンは、ずんずん、シオンに向かっていった。背中に般若が湧いて見える。タオルを頭を拭いているシオンは、しばらくカリンに気付かなかったが、しびれをきらしたカリンが地団駄を踏んだことで、ようやく気付いた。
「あら、カリンちゃん。どうしたの?」
「あの、わたしと、ケンカして下さい」
ふたりの時間が止まる。シオンは固まった。同性から嫉妬されるのには慣れていた。学校での陰口は日常茶飯事だ。でも、こうも正面からケンカをふっかけてきた人は、カリンが初めてだった。その新鮮さが、すこし嬉しくもある。
「えっと、わたしと、ケンカしたいの?」
「うん。題して『ご主人様争奪戦』だよ」
シオンは、ちらりとアキホに目線をやった。「どうすればいい?」と尋ねられている気がしたので、アキホは「カリンの我儘に突き合わせちゃって、ごめん。無視してくれ」という意味を込めて小さく会釈をした。しかし、シオンは、なにかとんでもくアグレッシブな勘違いをしていた。
「受けて立つわ」
そう、高々と宣言した。
「負けないんだから!」
カリンのファイティングポーズは、弱そうで、なんとも迫力に欠けるものだった。
アキホが止めにはいるまでもなく、着々とイベントが組まれて行く。サキは無関心。トウマに助けを求めようともしたが、シオンの笑顔に打ち抜かれてから、放心状態のままぴくりとも動いていなかった。
どうしよう、モテすぎて困る。
さあ、戦いだ。
ふたりの決闘は、二五メートルプールでの競泳になった。アキホの記憶が確かならば、海のすぐ近くで生まれたシオンは、水泳が得意だったはず。かたや、カリンは、運動が全般的に得意ではない。ふたりの勝敗は、やる前から決まっていた。
スターターに立っているサキは、欠伸をしていた。
なんだ、なんだと集まってきた観客に愛想をふりまくシオン。対象的に、カリンは緊張で顔がこわばっていた。ふと、アキホと目が合うと、「わたし、勝つから」と魂の籠った視線を向けられた。
頑張らなくていいよ。どうせおまえは負けないから。
静まり返るプール。日が落ちてきたせいで、少しだけ肌寒い。
アキホは腕を組んだ。
もしかして、これがアニメだったら、カリンの奇跡的な勝利があったかもしれない。例えば、カリンの持つアキホに対する愛の力が、カリンの秘められし力を呼び醒ましていたかもしれない。でも、ここは違う。退屈な現実だ。そもそも、二五メートルは決して長い距離とは呼べない。ふたりが素直な実力を出し合えば、ひと段落もなく、決着がついてしまうだろう。
「よ~い」
シオンとカリンが身をかがめる。
「ドン!」
ふたりは同時に飛び込んだ。水しぶきが同時に舞う。意外や意外、水面に浮いてきたときには、ふたつ頭は同じ位置にあった。「もしかして」そう思ったのは、一瞬だった。ぐんぐんとシオンがスピードをあげていく。ゴールまであと少し。あと少しで決着がつく。
はずだった。
「あ、ちょっとタンマ」
ゴール直前で、シオンは泳ぐのをやめた。どうやら足をつったようだ。水の中で足を抱えて、顔をしかめている。その隙に、カリンはゴールにタッチした。
なんともあっさりしているが、カリンが勝った。
「へ、あれ?」
水面から顔をだして、きょろきょろするカリン。観客から浴びせられる不満そうな視線を察知して、再び「ブクブク」と水の中に潜った。
水面に残るカリンの痕跡。それを見て、シオンは、くすりと笑った。
「ありゃあ、負けちゃったか」
シオンは、平然とプールから出てきた。駆け寄ってきたファンからタオルを受け取り、身体を拭きながらアキホの元へと近付いてくる。
「残念、負けちゃった」
ぺろりと舌をだす。そんなべたな仕草がまた可愛い。
「勝つつもり、なかっただろ」
なぜか、シオンは胸をはった。
「だって、わたしが勝ったところで、アキホくんはわたしの物にはならないでしょ?」
「そりゃあ、そうだけど」
「それと」
シオンは、人差し指をたてた。
「一応、わたしの方がお姉さんなんだけど。敬語使ってもらっていいかな?」
「ああ、そうか。そういう事になってるんだっけ?」
「そうよ。いつまでも、わたしと同じ舞台に立ってると思わないでね」
シオンの語気には、冷たく突き放すような感じが含まれていた。さすがに、恨まれているようだった。
「やっぱり、覚えてくれていたんだな」
当たり前でしょ。と、シオンは、タオルを首にかけた。
「忘れるわけないじゃない。幼馴染。それは、小さなころから一緒に育ち、同じ環境で育まれた、どんな友人とも変えがたい存在なのよ」
アキホの変わりはいないらしい。
「そりゃあ、光栄だね」
ファンが聞いたら卒倒しそうな会話だったので、ふたりは小声だった。アイドルと内緒話をしているだけでも、なかなかスキャンダラスな光景だったので、アキホは、プールに沈んでいるカリンのもとへ向かった。
「お~い、そろそろあがって来いよ」
「ぶくぶく……わたしが……勝ったのに……ぶくぶく」
不満が、泡になってあがってきた。
「命令だ。ご主人様のもとへ帰って来い」
カリンは、水面から半分だけ顔をだした。じとっとした、嫉妬の籠った目だった。
「わたしのこと、大事?」
アキホは、頭を掻いた。そんなにキラキラした目で見つめないで欲しい。あまり期待されるのは好きじゃない。
「たぶん、きっと、それなりに」
「なら、出る」
プールから這い出たカリンは、アキホに抱きつこうとした。しかし、サキが素早くタオルでカリンの身体を包み、カリンの身体を乱暴に拭きだした。
「はいお疲れ~」
「あゔ~もっと優しくして~」
「駄目よ。もっと痛くしてあげるんだから」
「あぁ~だずげで~」
抵抗はしているものの、頬を紅潮させて、どこか嬉しそうだった。そんな姿をみて、またアキホは苛立つ。
「なんだ、痛くしてくれるなら誰でもいいのか」
「ぞんなごどないでず~、ごしゅじんざまならもっど~あぁ~」
「なら気持ち良くなるな。我慢しろ」
「はぃ~我慢じまず~」
カリンの頬が、恍惚でピンク色に染まる。サキの顔が、どSに浸食され、口端がつり上がって、悪魔みたいな顔になっていた。
「ほらほら、どうしたの? どうして欲しいの?」
「もっとはげじぐ~。あぁあ! ぞうでず~」
女同士のSM劇に、観客たちは、すっかり引いてしまった。あるカップルは、顔をしかめ、ひそひそ何かを話しながら離れて行き、ある親子は、子供の目を親が覆い隠し、あわててその場を離れて行った。アキホたちの周りからは、さっきまでの人だかりはなくなっていた。そうして、サキはカリンを解放した。カリンは、崩れるようにその場にへたり込んだ。どうやら、あまりの気持ちよさに腰が抜けてしまったらしい。
「もしかして、助けてくれたのかな」
シオンは、黙々とタオルを畳んでいるサキを見つめていた。
「サキが? あり得ない」
「でも、結果的にわたしは助かったんだよ」
人がいなくなったおかげで、こっそり帰ることができるもの。シオンは、自分の荷物を拾い上げた。
「アキホくん、いい友達を持ったね」
「そうか?」
「うん。そうだよ。すごく羨ましい。きっと、アキホくんの選択は間違いじゃなかったんだよ」
アキホは、ふと過去を振り返ってみた。悩んで、毎日苦しんで出した結論だったから。あの日の選択を後悔をしない日はなかった。でも、シオンに言われて、アキホは初めて自分の選択が正解だった気がした。
「じゃあ、わたし、帰るね」
「ああ、そうか?」
「うん。できればディナーを御馳走になりたいところだけど、あまりカリンちゃんの邪魔しても悪いし」
「邪魔って、だからおれたちはそういう関係じゃ――」
ぽんわり、甘い香りがアキホの鼻腔をなでた。さすがアイドルは、体臭からしてアマチュアとは違うらしい。
「優しくないアキホくんって、わたし初めて見た」
「はぁ?」
シオンは、もの悲しげな顔をしていた。なぜシオンが悲しんでいるのか、それが分かるのであれば、アキホはとっくの昔に童貞を卒業していただろう。
「あぁ! キスしている!」
カリンが土埃をあげながら迫ってくる。シオンは、くるりとカリンの方を向いて、大きく手を振った。
「アキホくんのこと、よろしくね!」
「ほえ?」
拍子抜け声と間抜けヅラ。カリンは、最後の最後まで、シオンに勝つことができなかった。
*
それからしばらくして、アキホたちもプールから出た。
夕焼けの差し込むバスの中、アキホの肩にカリンが寄りかかった。重たいし、押し返してやろうかとも思ったが、可哀想な気がしたのでやめておいた。サキが、にやにや、こちらを見ている。アキホは、ふいっと視線をそらして、窓のそとを眺めた。
「あっ」
鬼のような形相で、バスと並走する巨体。
「トウマのこと、すっかり忘れていたなぁ」
慣れって怖い。道行く人々は、駆け抜けるトウマに怯えた表情を浮かべるが、アキホには、その必死な姿が滑稽にみえたので、アキホは噴き出すように笑ってしまった。
「うぅ……ご主人様?」
「ああ、悪い。起こしたか?」
カリンが目を擦りながら頭をあげた。寝ぼけ眼で、外にいるトウマに気付く。
「ん~? トウマくん、なにしてんの?」
「さぁ? 青春じゃないのか」
「ふ~ん」と、カリンは感心していた。
慣れって怖い。いまなら、カリンを少しだけ可愛いと思える。
とても楽しかったです。アキホは、そう思いました。
第四章
例え話をしよう。
夜道。規則的に並ばされている街灯が、規則的な間隔を保つふたりを照らしている。このふたりの間には、どのような関係もない。後ろを歩く男性からでは、前を歩く女性が美しいのかどうか、評価することすら叶わない。
ふたりは、全くの他人だった。
チラチラ、女性が背後を気にし始めた。一定の距離を保ったまま、背後をついてくる男性を警戒しているのだ。襲われた経験がある訳ではない。ただ、なんとなく怖かった。禿げたサラリーマンや、遊んでいそうな大学生、それが例え女性であっても、夜道は、すべてを闇に染めてしまう蛇の道だ。
彼女は警戒していた。しかし、平凡な家庭に生まれ、平凡な容姿に育った彼女は、まさか自分にそんなドラマのような悲劇的な展開が起こることなどありない。と、心のどこかで思っていた。
人は、だれしも自分を過信している。
彼女のうしろを歩く男は、そのことを知っていた。
だれだって、一秒先の命は保証されていない。ゴキブリがそうであるように、世界に存在を許されている身である以上、命はいつだって平等なんだ。
彼は駆け出した。悲鳴をあげる隙もあたえず、背後から彼女に覆いかぶさった。抵抗する女性の手を押さえつけ、頬に一発食らわせる。恐怖に支配された彼女は、いよいよ事態の最悪さを飲み込んだ。炭酸を飲んだあとのゲップのように、腹の底から悲鳴がわいてくる。誰でもいいから、助けて欲しかった。彼は、悲鳴を遮るように、無慈悲な鉄槌を彼女に下し続けた。女性は、口から血を噴き出し、ついに覇気をなくした。彼は、ぐったりした女性の首筋を舐めつけた。塩辛い。香水に混じって、汗の臭いが鼻をついた。
唾が湧いてきた。
世界は平等だ。だから、なにをしても許される。
街灯が、ふたりを照らしている。
*
「どうした、アキホ。今日は随分と機嫌がいいな」
コトウは、夏休みを満喫したらしく、顔が真っ黒になるまで焦げていた。それに比べて、アキホの夏休みは、おどろくほどイベントの少ないものだった。プールで焼けた肌など過去のこと。アキホの肌は真っ白になっていた。無論、カリンは、執拗にアキホと遊びたがったが、アキホは、何かと理由をつけて、すべて断っていた。いまさら、二人きりで会うことに抵抗を覚え始めていた。
なんと女々しい高校生だろうか。
そんな溌剌としない夏休みの中でもがき苦しんだアキホだったが、今日のアキホはなぜか晴れ晴れとした顔をしている。その原因は、つい五分ほどまえに遡ることになる。
「コトウには、わかっちゃうんだなぁ」
聞きたいか? とアキホが問うと、コトウは面倒なものを相手にするような顔で、渋々頷いた。
「ああ、ぜひとも教えて欲しいなぁ」
幸せそうなアキホは、もったいぶる様な口調で喋り始めた。
「実は、な」
「ふんふん」
「今日、カリンが風邪で休みなんだ」
コトウは、がっくりと肩を落とした。アキホの幸せが、期待していたものより、遥かに小さな幸せだったからだ。そもそも、コトウにはそれのどこが幸せなのかすらわからなかった。
「なんで、そんなに嬉しそうなんだよ」
「ま、奴隷をもってみないとこの気持ちは分からないだろうな」
アキホの上から目線に腹が立つ。
ようやく解放されたんだ。と、アキホは晴れやかな顔をしていた。
「それにしても、奴隷ちゃんが風邪をひくなんて、ちょっと意外だな」
アキホは、ふと窓の外を眺めた。まだ木々の毛根逞しいが、あれだけ騒がしかった蝉の声はすっかり聞こえなくなっていた。
「うん。それは、おれも思った」
馬鹿は風邪をひかない。と聞いたことがある。しかし、いくら夏場とはいえ、毎日のように水着でおれの前に現れていたのだから、さすがに限界を超えたのだろう。だから、少しくらいはおれにも責任があるのかもしれない。
勘違いしないでほしいのは、おれが命令したわけではないということだ。カリンが「シオンちゃんにリベンジ!」といって聞かないのだ。シオンと戦うことと、水着で現れることが、どう繋がっているのか。それはカリン本人にしか分からないことだが、アキホとしては、カリンが、毎日水着で家まで来てくれる分には悪い気がしなかったので、止めることができなかった。だから、ちょっとだけおれにも責任があるかもしれない。
「心配じゃないのか?」
「どうして?」
「はぁ?」と、ふたりは顔をしかめ合った。
「いや、だって、奴隷ちゃんは、一応は彼女みたいなものだろう?」
アキホの額からどっと汗が噴き出した。シオンの台詞が蘇ると、アキホの心は激しく騒ぎ始めた。
「どうした、アキホ!」
汗を拭いながら、アキホは心臓をわし掴んだ。
「おれにも、よく分からない」
奴隷は奴隷だ。彼女ではない。昨日の晩から何度もそう言い聞かせているのだが、一向に身体が落ち着こうとしてくれない。
「でも、一応お見舞いの約束はしてる」
「……そうなのか?」
コトウは、益々がっかりした。人の幸せほど酒が不味くなる話はない。どうせなら、穴底にあるような、泥まみれの話が聞きたかった。
「ああ」
「なんだ、やっぱり心配してるんじゃないか」
「別に、そういうわけじゃない……」
このお見舞いは、コトウが想像しているような、愛のあるイベントではない。サキに力づくで約束させられた、強制イベントだった。下駄箱で待ちかまえていたサキにロックが掛かっている筈の携帯を奪われ、五秒と経たずにお見舞いの約束。まさに、あっという間の犯行だった。
「なんだよ。アキホは、まだ生徒会長に頭があがらねえのか。レイプまでしたくせに」
「おれがしたのは、リンチだ」と言うと、教室の空気がどんよりと重くなったので、アキホは慌てて言い直した。「というか、リンチもしてない」
カリンの事となると、普段は仲の悪いトウマとサキが、同盟を組んだ。お見舞いの話だって、サキの背後に殺気むんむんのトウマさえ立っていなければ、アキホは、もっとごねていただろう。
「なるほど、そうか。ようやく分かったぞ」
コトウは、にやにやといやらしい目つきをしていた。お前のことならなんでも分かる。と、その目が言っている。
「なんだ、この野郎」
「別にぃ」
コトウは、どうしてアキホが幸せそうだったのか、ようやくその真意を見抜いた。
アキホは期待している。これで、堂々とカリンに会えるのだから。だれかに強制されてしまえば、やれやれと言いながらカリンに会える。おれの意志じゃないと、堂々と言い張ることができる。帰り道をスキップで歩くアキホの姿が、コトウ目にはありありと見えていた。
「その目をやめろ」
アキホが手でさえぎると、タイミング良くチャイムが鳴った。
放課後、アキホは、ホームルームが終わるなり、カリンの家へと嬉々として走った。カリンの家は、サキから聞いている。アキホの家から真逆に位置しているので、非常に面倒ではあるが、約束したからには行かないとならない。約束は守るものだ。
カリンの家は、坂の下にあった。二階建の綺麗な家だった。
「あっ!」
声がした気がして、アキホは顔をあげた。半分開いた窓だけが、そこに人のいた痕跡を残していた。アキホは、インターフォンを押そうと、玄関に近付いた。
「ご主人様!」
勢い良く開いた扉は、アキホを玄関近くにあった小さな庭まで吹き飛ばした。
「あれ? ご主人様がいたと思ったんだけどぉ」
カリンは、扉から顔を突き出させて、顔を左右に振った。
「いた。なにしてるの?」
「気にするな。おれは、初めて他人の家にきたときには、こうすると決めているんだ」
「ふ~ん。じゃあ、終わるまで待ってるね」
「ああ、もうすぐ終わるからな」
アキホが起きあがるのを、カリンはしゃがんで待った。顎を手の上に乗せて、鼻歌まじりにアキホを見つめている。ただ、アキホが来てくれた。それだけで、カリンの風邪はどこかへ吹っ飛んでいた。
「ねえ、まだ?」
「ああ、もう少しだ」
起きあがるタイミングを失ったアキホは、カリンがくしゃみをしたのをきっかけに、むっくりと起きあがった。
「もういいの?」
「忘れていた。おれは、お見舞いにきたんだ」
「うん。そうだよ。クッキー焼いて待ってたんだよ」
病人が焼いたクッキーというのは、どうなのだろうか。火を通せばいいというものでもないだろうに。そこを突っ込むのは、野暮なように感じた。
「紅茶は、おれが淹れよう」
「駄目。奴隷から仕事を奪わないで」
それでは、何をしに来たのか本格的に分からなくなる。
「さ、お邪魔していいよ」
ドアの傍で手招きするカリン。アキホは、身体についた汚れを払ってから「おじゃまします」と中に入った。
*
彼のまわりに人はいない。
閑散とした教室。カーテンの締め切らた薄暗い教室で、彼は黙々と読書をしていた。ページをめくる音だけが、ぺらりぺらりと宙に浮く。
チャイムがなると、彼は本を閉じてクラスを見渡した。
「どうして、こんなことに……」
彼は、クラスで唯一の無遅刻無欠席だった。成績だけなら優等生。上海蛯子は、誰にも迷惑をかけないようにクラスを支配していた。
入学式当日、教室にはいったヒルコは、目についた男子を血祭りにあげた。それから、怯え顔の可愛かった女子をひとり、その場で犯した。ヒルコは、苛々していたから。そして、溜まっていたから。理由はそれだけだった。
事を終えたヒルコは、ズボンをはいてから、自分の席へと座った。ヒルコは、その圧倒的存在感をもって、新生活に期待していた血気盛んな高校生たちを絶望の底まで落としたのだった。
次の日から、ヒルコは努力を積み重ねた。クラスの女子は、一週間でだれも来なくなった。ムラムラが解消できないので、ヒルコは苛々した。一か月で、クラスの男子もいなくなった。
入学式から一カ月、ヒルコ以外のクラスメイトは全員登校拒否になった。
それでも、担任教師だけは、こうして毎日ちゃんと教室へとやってくる。それが、大人の義務と信じているからだ。
「じゃあ、出席とるぞ」
クラス名簿をめくる教師の手は震えていた。引き金が分からない。ヒルコの前では、一秒先の命さえ保障されていない。
欠席を意味するバツ印を付け終えた教師は、唾を飲んでからヒルコの名を呼んだ。ヒルコは、背筋を伸ばし、びしっと手をあげた。「おはようございます」とはっきり言ったのは、教師のうっかりミスで、欠席にされたくなかったからだ。
ヒルコは、ほかのみんながそうするように、皆勤賞を狙っていた。
必要事項を伝え終えた教師が出て行くと、ヒルコは、またひとりになった。することもないので、また本を開く。しかし、ヒルコは読書が嫌いだった。本に書いてあることは、すべて嘘っぱちだ。生まれつきの才能ですべてが決まるなんてあり得ない。才能なんて、本当はこの世に存在しない。誰だって、好きな事ができるのが、この世界なんだ。
ヒルコは、本を破り捨てた。すでに、ヒルコの足も元には、紙屑の山が築かれていた。
「子供は風の子だ」
ヒルコは、クラスメイトと遊びたかった。ゲームセンターに行って、UFOキャッチャーをやりたかった。ヒルコは、携帯を開いてメールを送った。返事は、すぐに返ってきた。男子がふたりと、女子がふたり。放課後に遊ぶ約束を取り付ける。
思わず、股の間に手がいってしまう。
「はやく、学校終わらないかなぁ」
携帯を閉じると、また退屈になった。何かしたいけれど、何も出来ない。そうだ、確か次の授業は女の先生だったな。おばちゃん先生だけど、それでいいや。
ぼくはいま、溜まっているのだから。
*
アキホは、カリンの部屋へと招かれていた。カーテンや壁紙、そしてベッドシーツにまで統一されたピンク色が、目にちかちかする。
「おまえ、趣味悪いなぁ」
思わずそう呟いてしまった。もし、カリンが彼女であったら、この場でお別れを告げられていたことだろう。しかし、カリンはアキホの奴隷。この程度の暴言は、快楽に変換することができる。
「えへへ、もっと言ってよぉ」
「うぅ、気色悪い……」
すがり寄ってくるカリンを手で押しやりながら、アキホは部屋中を見渡した。何枚か飾られている賞状は、どこかの絵の大会で優秀賞を取った時の物のようだった。
「カリンは、絵が上手いのか?」
この部屋に、絵は飾られていない。
「え~、うん。まぁ、それなりに」
「じゃあ、将来は絵描きとか?」
アキホは冗談のつもりで軽く言った。しかし、カリンは、真剣にアキホの提案を受け止めた。自らを奴隷と名乗り、他人の後ろばかりついて歩いていたカリンは、自分の将来どころか、いまの自分についてすらしっかりと考えたことがなかった。
「うん。じゃあ、絵描きさんになる」
そんなカリンに、アキホの提示した可能性は、遠く続く道の奥でまばゆく光って見えた。
「なんだか、適当だなぁ」
「でも、なりたくなったから」
カリンは、もじもじと手を組んだ。
「まぁ、なんでもいいけどさ」
アキホは、ことの重さを理解していなかった。カリンの将来なんかより、いま抱いている退屈を解消できるものを探していた。
「ねえ、せっかく二人きりなんだし、エッチな命令とかしないの」
「しない」
「道具も揃えたんだけど」
「知らん」
暇つぶしの道具を探してうろうろするアキホを横目に、カリンは、傍に置いていた大きな鞄から、次々とSM道具を並べていった。
「ほら、これはね、このビロビロのところで叩くとすごく痛いの。腫れちゃうの。でね、これは火をつけると熱いのが垂れてくるの。それからねぇ、これは、さんかくもくば、ってやつで――」
「ストップ」
すこし目を話している間に、カリンは禍々しい道具たちに囲まれていた。このまま放っておけば知らない道具が出て来そうで、アキホは怖くなった。
「品ぞろえがいいな」
そう言うしかない。
褒められたと勘違いしたカリンは、「えへへ」と自分の頭を撫でた。
「よかったら、これで遊ばない?」
そんなキュンとする目で誘うな。靡いてしまいそうになる。こんな時は、トウマとサキの顔を思い浮かべるると自分を押さえることができる。……よし、まだいける。
「そんなものより、トランプで遊ばないか?」
「ふぇ? それはまたマニアックだねぇ」
どうやら、カリンは、アキホの知らないトランプの遊び方を知っているようだった。そちらに興味がないわけでもないが、アキホは、ババ抜き以外やるつもりはなかった。ふたりでやってもつまらないだろうけど、SMの世界へようこそされるよりはずっとましだ。
「えっとねぇ……あれ? こっちかなぁ」
がさごそ、カリンは本棚を探った。カリンが、ごそっと本を動かそうとした。その拍子に、本棚に収納されていた本たちが統率を失い、一斉にカリンに襲いかかった。
「わぁ~」
カリンは、みるみる間に本の山に埋もれてしまった。
「おい、大丈夫か?」
うず高く積まれた山の中から、か細い声で「助けて~」と聞こえたので、アキホは渋々本の山をどかし始めた。しかし、カリンがこれだけの量の本を読んでいるとは、意外だった。小説からビジネス書まで、それから、これは、なるほど、カリンの参考書か。
「ん、これは……」
アキホは、アルバムを手に取っていた。金色の文字で聞き覚えのない中学の名前が書かれている。これは、
「卒業アルバムじゃないか!」
本の山が噴火した。天井高く打ちあがる本たちに、アキホは目を奪われた。
「だめぇ!」
電光石火の動きで、カリンは、アキホからアルバムを奪い取った。
「これは駄目なの!」
アルバムを抱きかかえるようにして、カリンは丸まっていた。過去の自分を見られたくない女子は数多くいるだろうが、これほど激しく拒絶するのは珍しいと思う。そこまで恥ずかしがられると、すこしイジワルしたくなるのが男心だ。アキホは、蹲るカリンの横から、アルバムに手を伸ばした。
「なんだよ、いいじゃんか、アルバムくらい。減るもんじゃないし」
「減るの!」
「なにが?」
もちろん減る物などない。カリンは、しどろもどろな答えしか言えなかった。
「ほら見ろ。やっぱり減らない」
「ダメなの! とにかく、わたしが減っちゃうからダメ!」
「おまえが減るのか、それは怖いな」
そう言いながら、アキホはさらに手を伸ばした。力づくで奪い取ってやろう。そして、恥ずかしさにもだえるカリンを見てやろう。アキホの顔は、にやけすぎて口端が耳につきそうなほど吊りあがっていた。
「ほら、よこせ!」
「やだって言ってるのにぃ!」
ふたりは、意地になっていた。
「おいカリン、これは命令だぞ!」
ぴたりとカリンの抵抗が止んだ。それがあまりに極端だったので、アキホも侵攻の手を止めた。
「カリン?」
「うぅ……ひどいこと……しないでよぉ……ごめんなさい……しますから……」
カリンは小さく震えていた。
「……あれ? おまえ、カリン、泣いてるのか」
やりすぎた。アキホは、小学生時代に、好きな子を泣かせてしまったことを思い出していた。気を引きたいから、ちょっと悪戯が度を超えてしまった。
「わ、悪い。ちょっと、調子に乗った」
アキホは、カリンの背中をさすった。ちょっと優しくしれやれば機嫌を直してくれるかと思ったが、カリンはうずくまったまま動こうとしない。思えば、アキホがカリンを泣かせたのは、これが初めてだったのかもしれない。
「なぁ、ごめん。悪かった」
「違うの、悪いのは、ご主人様じゃなくて」
カリンは、アルバムをぎゅっと握った。思い出したくもない思い出なのに、ふつふつと沸いてくる。逃げたい、過去は存在しないはずなのに、逃げられない。
泣きやんでくれないカリンに、アキホは途方に暮れてしまった。まさか、ちょっとした悪戯が、こんな大事になるとは思わなかった。サキにばれたら殺される。
「なあ、カリン」
アキホは、傍に落ちていた透明のケースを拾い上げた。
「なあ、カリン。ババ抜きのやり方、知ってるか」
アキホは、ケースからカードを取り出した。カリンはうずくまったままだが、アキホはカードは配った。自分の手札を見たアキホは、自分がジョーカーを持っていることを知った。この程度の罰なら、いくらでも受けてやるさ。
「良かったら、ババ抜きのやり方、教えてくれないか」
「ご主人様、ババ抜きのやり方知らないの?」
「ああ、トランプの遊び方は、すべて知らない」
「じゃあ、いろいろ教えてあげるね」
久しぶりの笑顔だった。
手取り足とり、アキホは、ババ抜きのやり方を習った。教わりながらやるババ抜きはすごくつまらなかったが、カリンの機嫌がなおるのなら、それでいいと思った。
「さすが御主人様、覚えがはやいねぇ」
「そりゃどうも」
ちらりとアルバムの方を見る。いま飛び出せば、アルバムを奪えるかもしれない。
「ご主人様?」
だがそんな勇気、おれにはない。
「ああ、悪い。で、このジョーカーっていうのが、ババなんだな?」
「うん。ジョーカーは悪者」
アルバムはもういい。戻りたくない過去なら、誰にでもある。
*
ヒルコは、たくさんのぬいぐるみを抱えて家路についていた。UFOキャッチャーの得意な友人にとらせたものだ。ヒルコは、友人が死ぬ気でUFOキャッチャーをやっているその横で、女友達の身体で遊んでいた。
各々が、得意なことをやればいい。ゲームが得意なやつ。いい身体のやつ。喋りが得意なやつ。才能のない人間なんていない。人は、だれしも等しく、優秀なのだから。
ヒルコは、ぽっかり浮いている月を見上げた。
「どうして、こんなことに……」
少し、遊び過ぎてしまった。あたりは、すっかり暗くなっていた。月の周りには、小さな星たちが、ちらちらと囁いている。やはり、世界は平等だ。こんなぼくでも、夜空を綺麗と感じることができる。
顎を上に向けながら歩くヒルコの前から、母親と娘という、なんとも平凡そうな親子が歩いて来た。街灯に照らされた母親は、ぐったりと疲れた顔をしていた。その原因は、母親の傍を泣きながら歩いているツインテールの娘にあるのだろう。
ヒルコは、首をかしげた。なぜ、あの子は泣いているのだろうか。ヒルコは、自分の手元にあるぬいぐるみを地面にばらまき、その中から小さなクマのぬいぐるみをひとつ拾い上げた。
「これで、泣き止むのかな」
「わぶっ!」
ヒルコは、涙で濡れた少女の顔にぬいぐるみを押し付けた。少女は、驚きのあまり、自分が泣いていたことなどすっかり忘れてしまった。
「おや、泣きやんだ」
涙でまつ毛を湿らしている少女は、クマを手に嬉しそうだった。少女は、両手でクマを抱えて飛び跳ねた。その姿をみて、ヒルコは感心していた。どんなに悲しいことがあっても、ぬいぐるみひとつ解決できるんだなぁ。
「返しなさい」
母親は、急に現れた他人に娘があやされてしまい、自分が育児を怠っていたのを指摘されたようで、すこし不機嫌になった。「返しなさい」機械的に繰り返す母親の顔を、少女は怯えた顔で見上げた。作り笑いが貼られた母親の顔は、暗闇のなかに満月のようにぽっかりと浮いていた。
「それ、お兄ちゃんに返しなさい」
「でも……」
少女は、クマを抱きしめた。
「でもじゃないでしょ。クマさんなら、お母さんが買ってあげるから」
「やだ、このクマがいい」
少女は、クマをかばうように、母親に背を向けた。
「我儘言わないで。返しなさい」
次第に、母親の語気が荒くなる。それでも少女は、クマを抱きしめていた。ふたりは意地になっていた。「渡しなさい」と、ついに母親は強硬手段にでた。少女の小さな身体に覆いかぶさるようにして、手を回し、クマの耳を乱暴につかむ。
「ママ、やめて。クマさん痛いって!」
「返しなさい! ママの言うことが聞けないの!」
目の前で親子喧嘩が起こってしまった。見るに堪えないその争いに、ヒルコは、あくまで中立な立場から、最適な意見を出すことにした。
「あの」
「ほら、お兄ちゃんも困ってるでしょ」
と、母親がヒルコに顔を向けた。その刹那――
ヒルコは、母親の顔面に拳をめり込ませた。母親の身体は宙に浮き、コンクリートの地面に叩きつけられた。
クマを抱いた少女は、呆気にとられていた。母親が、鼻から血を噴き出して、倒れている。ぴくぴく動いてはいるが、白目をむいている。いくら呼びかけても返事はない。
「おかあ、さん?」
ヒルコが通り過ぎてからしばらくして、遠くから少女の泣き声がきこえてきた。いまなら、どうして泣いているのか分かる。
それからさらに歩くと、ヒルコは大きな通りに出た。居酒屋やカラオケ店が立ち並ぶ、夜にだけ咲く月見草のような通り。すこし時間をかけすぎたせいか、通りでは、酔っ払いのサラリーマンたちが、日ごろのストレスをアルコールで誤魔化しあっていた。顔を真っ赤にして、大声で意味のない台詞を叫んでいる。
まだお酒の飲めないヒルコは、鬱陶しいだけのその集団を避けるようにして歩いていた。
「ごちそうさまです!」
ふと、ヒルコの足が止まった。さっきまでの集団とはまた違う、ふんぞり返っているおっさんに、多くのおっさんが頭を下げている。その異様な光景に、ヒルコは少し興味がわいていた。耳をそばだてて、その集団の会話に耳をかたむける。
「みな、これからも我が社のため、より一層頑張って働いてくれたまえよ」
「はい、ありがとうございます!」
あの人たちは、どうやら知らないらしい。
「おや、高校生がこんな時間にこんな場所で、いったい親御さんはなにをしているのか」
偉そうなおっさんの前で、ヒルコは足を止めた。他のおっさんより、幾ばくか歳をとっているように見える。でも、やっぱりおっさんだ。ねばっこい加齢臭が鼻をつく。
「おじさんたちは、知らないんだね」
偉そうなおっさんは、部下たちの前で説教を始めようとしていた。「これだから、最近の若者は」昨日もそんなことを口にした気がする。
「世界は、平等なんだ」
そう言って、ヒルコは偉そうなおっさんのビールがぎっしり詰まった腹を蹴飛ばした。さっきは殴ったから、今度は蹴り飛ばした。
その瞬間だけ、街は花びらを閉じた。
偉そうなおっさんは、真っ白なガードレールに背中を打ちつけ、うめきながら蹲った。焼けるような痛みが背中にはしる。慌てて、社員たちが駆け寄ってくるが、社員たちの声は遠くから聞こえる。
殴り飛ばした人間が社長であることなど、ヒルコには関係のないことだった。
肩書は、人がつくったもの。ただの言葉だ。そんなものでは偉くなれない。そんなものでは世界の不平等を証明できない。社長は、ヒルコの前で無力だった。だからといって、ヒルコは自分が偉いとも思わない。ナイフや爆弾が一番偉いとは、どうしても思えなかった。
ヒルコは知らない。さきほど殴り飛ばした母親と、蹴飛ばしたおっさんは、夫婦の契りを結んでいることを。そして、家に帰った少女は、もう一度悲しい思いをすることになる。抱きしめたクマのぬいぐるみが涙で濡れることなど、ヒルコの人生にはまったく関係のないことだった。
ヒルコは、夜道に消えた。
特に理由はない。そうしたかっただけのこと。
*
放課後、アキホは、サキを呼び出していた。
指定されたとおりの体育館裏にさっそうと現れたサキは、アキホの姿を確認するなり大きなため息をついた。
「これ、あんた?」
サキは、ピンク色の手紙を、ひらひら、見せびらかすように動かした。それは、朝のうちにアキホが、サキの下駄箱に仕込んだものだった。
「ほんっと、趣味悪いわ」
「美しい女性に対して気を使ったつもりだったんですが。もしかして、期待させちゃいました?」
まさか、と、サキは、手紙を地面に落して踏みつけた。
「今日一日、ずっとこの手紙のことを考えていたのよ?」
おや、と、アキホは目を広げた。
「意外ですね。てっきりサキさんは、男に興味ないと思っていました」
「もちろん興味ないわよ。どれだけこっぴどくふってやろうか考えていたのよ」
サキの男嫌いは健在だった。表面上は男子生徒にも優しいが、アキホやトウマにだけはいつでも厳しかった。それは少しでも心を開いてくれた証なのだろうか。アキホは、サキのしかめっ面を見ながら、じっと考えてみた。
「なによ、やるき?」
サキは、いつだってケンカ腰だ。
「ケンカなんてしませんよ」
「じゃあ、何の用なの? 告白なら嬉しいわね。せっかく考えてきた台詞が無駄にならないもの」
「おれが、サキさんに告白すると思います?」
「思うわ。だって、わたしはモテるもの」
裏付けのある自信は、否定するだけ自分がみじめになる。しょんぼりするアキホを無視して、サキはきょろきょろと首を動かした。
「そんなことより、カリンはどこ? あの子に会うために学校に来てるといっても過言ではないのに。カリンと一緒にいないアキホくんなんて、東照宮のない栃木みたいなものじゃない」
いますぐ栃木県民に謝るべきだ。アキホは、餃子が大好物だ。
「カリンなら、校門で待たせています」
「あらやだ。あの子、退屈してないかしら」
カリンは、野球部の練習を熱心に見ているので、退屈していなかった。バッドがボールをとらえるたびに「おぉ」なり「わぁ」などの感嘆を漏らしている。野球部連中たちは、そんなカリンの熱のある視線を意識して、いつも以上に大きな声で練習していた。いつもより元気な野球部の声は、体育館裏にいるアキホたちのもとへも届いていた。
「あの子が心配だから、さっさと要件伝えてもらえるかしら。あんまり長い間アキホくんの顔を見ていると、吐き気がしてくるのよ。三分もったら奇跡ね」
「ずいぶんな言いようですね。それじゃあ、世界も救えませんよ」
「馬鹿言ってないで、はやく要件を言えこの野郎」
そろそろサキが苛立ちはじめてきたので、アキホは、ごくりと唾を飲み込んだ。うずくまって泣いていたカリンが、写真になってアキホの脳裏に浮かぶ。
「昨日、お見舞い行った時。卒業アルバムのことで、ひと悶着ありました」
単語の羅列だったが、それだけで、サキにはすべて理解できた。中学時代。アルバムには、思い出がぎっしりつまっている。そういうものだ。
「アルバム、見たの?」
サキの声色が低くなったので、アキホは、目を伏せたまま、小さく首をふった。
「結局、見せてもらえませんでした」
「そう」と言って、サキも目を伏せた。やっぱり、あの子もまだ気にしているのね。「見ないでくれて、ありがとうね」
「えっ?」
アキホは、サキの弱々しい表情に戸惑った。てっきりと怒鳴られるとばかり思っていたのに、拍子抜けだ。
「あのアルバムには、辛い過去しかつまっていない。それは、カリンだけじゃなくて、わたしたちにとっても同じ」
「サキさんにも? カリンとふたつも学年が離れているのに?」
「そういう問題じゃないの。あいつと一緒の空気を吸っていた。そのことが問題なの」
サキの言うあいつが誰を指しているのか、わざわざ聞かなくても分かる。カリンの元ご主人様であり、サキの男嫌いの原因となった男。
「その、あいつっていうのを、カリンは、どう思っているのでしょうか」
「馬鹿ね、わたしに分かる訳ないじゃない。嫌いかもしれないし、まだ好きかもしれないわ。でも、カリン以外のクラスメイトは、貰ったその場で卒業アルバムを捨てたそうよ」
「捨てた? アルバムを?」
そんなことがあり得るのだろうか。アキホは、卒業アルバムの最後の空白のページを思い浮かべていた。思い出のないアキホですら、卒業アルバムは家においてある。
ますます、元ご主人様に興味が湧いてきた。
アキホは「カリンのご主人様は、どんな奴だったんですか」と言おうとして、それを飲み込んだ。なぞは、サキに聞けば、すべてはっきりするだろう。しかし、そうすれば、カリンの過去に巻き込まれる。サキをここまで怯えさせる過去とは、いったいどのようなものなのか。アキホには、どうしても、一歩を踏み出す勇気がわいてこなかった。
サキは、そんなアキホの臆病を見抜いていた。
「男のくせに、怖いのかしら?」
それがあまりに図星な指摘だったので、アキホは顔をひきつらせた。
「まさか。おれには、トウマという最強の護衛がいるんですよ?」
強がりだ。初めこそトウマを怖がっていたサキだったが、いまではすっかり見下している。それは、トウマの邪悪と元ご主人様の抱く邪悪との違いを示す、なによりの証明となっていた。元ご主人様は、桁違いなのだ。トウマなんて、霞んでしまうほどに。
「あなたは、カリンに守られたの」
サキの台詞に、アキホは、はっとした。どうして、カリンがあそこまで必死になってアルバムをおれに見せたがらなかったのか。カリンには、アルバムからおれを引き話さなければならない理由があった。
「どういう、ことですか?」
「アルバムを見れば、奴がくる」
「奴……」
アキホは、ごくりと唾を呑みこんだ。サキの険しい表情だけで、自分がいかに危険なことをしていたのか、いまさら冷や汗が噴き出してきた。
「奴とは……」
アキホが覚悟を決めるのを、サキはじっと待った。急かすように、校庭から伸びてくる運動部の声が激しくなる。世界が、アキホを待っているようだった。時計がカチコチ、太陽がジリジリ、そしてアキホ自身が、アキホの覚悟を待っていた。
「サキさん……」
アキホは、一度目を閉じた。夕焼け交じりの暗闇に落ちる。自分の呼吸が、はっきりと聞こえた。こうして目を閉じていれば、何も見えない。サキどころか、太陽さえも。何もしなければ、何も変わらない。しっかりと目を開けると、やっぱり、そこにはサキがいた。
覚悟を決めたアキホに、サキは最後の警告をした。
「噂をすれば奴がくる。すでに、あなたは、かなり危険なところまできているわ」
それでも知りたかった。
「奴とは、奴の名前はなんですか?」
「ヒルコ、うえの名前は忘れたわ」
待ち構えていたかのように、サキはすんなり答えた。
ヒルコ、だれそれヒルコ。アキホは、頭のなかで何度もその名を反芻した。名前を知ることにどのくらいの意味があるのか分からないが、顔も知らないそいつは、アキホに拭いようのない恐怖を植えつけていた。
「もう行っていいかしら。生徒会の仕事って、わりと多いのよ」
「ありがとうございました」
アキホが笑うと、サキも笑った。
「いいえ、力になれて光栄だわ」
さっそうと、サキは去っていった。ふんわりと漂う果物の香りだけが跡に残る。ひとりになったアキホは、もう一度だけ「ヒルコ」と口に出してみた。
「ヒルコと、カリン」
アキホは、夕日に背をむけた。校門で待っているはずのカリンに、無性に会いたくなった。そんなアキホの目にまっさきに飛び込むのが、カリンが、野球部の練習に混じって泥だらけになっている姿であることなど、知る由もせず。
それを知るのは、ほんの五秒後。
*
「どうして、こんなことに……」
ヒルコは、今日も教室でひとりきりだった。いつもはギラギラと輝いている本能も、今日は不思議としおれている。それがなぜなのか自分でも分からないので、さらに苛立ちが積る。
読んでいた本を閉じて、机を蹴り飛ばした。机と机がぶつかって、耳を塞ぎたくなる大きな衝撃音が教室に響いた。その音にびっくりして、ヒルコはまた苛立つ。
ヒルコは、ひとりきり。苛立ちをぶつける相手もいない。
携帯を開いて、そして閉じた。椅子から立ち上がって、座った。ちらりと時計に目をやる。担任教師がくるまで、まだ十分もある。こんな時、中学時代であれば、隣のクラスに行くなり、職員室に行くなりしていたものだが、それはあまりに良くないことであると、ヒルコは学んでいた。だから、教室という檻から出ないようにしている。
ふと、静まり返る廊下に目をやった。
すでに、ヒルコと同じ学年の生徒は、ほとんど学校に来ていない。集団的な登校拒否。命を失うくらいなら、学歴などかなぐり捨てられるらしい。
ヒルコのまわりは、修道院と見紛うほどに静かだった。
こんなに暇な時、ふと、中学時代を懐かしんでみたりすることがある。新たな高校生活に馴染めない生徒諸君であれば、だれしもが通る道だろう。
要するに、現実逃避だった。
ああ、懐かしき中学時代よ。
中学時代は、もっと楽しかった。慣れない高校生活のなかでは、余計にそう感じてしまうものだ。あの頃の教室は、もっとワイワイしてた。学校行事もすべて滞りなく行われていた。ヒルコもそれに参加していた。今年の体育祭は中止になった。
どうして、こんなことに……。
ヒルコは、自分がその原因であることは、分かっている。周りから人がいなくなったのは、ヒルコが無暗やたらに傷付けたからだ。でも、それは中学時代もそうだった。むしろ、中学時代の方が激しかったと思う。はずなのに……
いったい何が違うのか。
自分にあるもの。自分にあったもの。
「ああ、そうか」
頭のなかで、卒業アルバムがめくられた。本棚から取り出し、開いたのはクラスメイトひとりひとりの顔写真がのっているページだった。三年三組。ヒルコの写真のななめ上。女子。目には、青あざ。口は切れている。数週間前に鼻が折れたので、大きなテープを張っている。
そうだ。こいつだ。こいつがいない。
ヒルコは立ち上がった。あたりを見回すと、ヒルコはひとりきりだった。
「足りないのは、おまえだ」
時計は、チャイムまでのカウントダウンをしていた。あと数十秒もすれば、ヒルコに殺されるために担任教師が教室に入ってくる。足音は、すぐそこまで来ていた。
でも、待てない。
「カリン!」
ヒルコは、窓を突き破って外へ飛び出した。鋭いガラスの破片が、制服を破く。足の裏には大量のガラスが突き刺さっていた。
会いたい。会いに行く。
ヒルコが飛び出した、ちょうどその時、担任が教室にはいってきた。風通しの良くなった教室をみて、初老の教師は身動きがとれなくなった。凄惨な光景に怒りに覚えているのでない。担任教師は、ほっとしていた。あと少しでも早く来ていれば、砕かれていたのは自分だったのだから。
走る度に、ずぶずぶとガラスの破片が足の奥へと潜っていく。
まあいいか、カリンに取り出させよう。
閉じられた校門を蹴破り、ヒルコは、学校の外へと飛び出した。
「カリンは、どこだ」
高校は知らない。でも、家なら知っている。待たせてもらおう。大丈夫。ぼくは元彼だからさ。共働きなんだろう? 知ってるさ。だから、待っててね。もうすぐ行くから。連絡はしないよ。サプライズさ。ああ、はやく会いたい。きみが必要なんだ。耳を舐めさせてよ。血を飲ませてよ。骨を折らせてよ。涙でコップを一杯にしておくれ、ぼくが飲み干してあげるから。ああ、止まらない。足が止まらない。
思い出しただけで、ヒルコのものは、ギンギンになっていた。
ヒルコは会いに行く。カリンに。そして、アキホに。
*
カリンは、アキホを家まで送り届けていた。アキホの鞄を肩にかけ、嬉しそうに隣を歩く。通り過ぎる人たちは、その異様なカップルに顔をしかめた。他人にどう見えようと、アキホは気にしない。カリンとの間には、主従関係しかないのだから。
「でね、それでね――」
カリンは、オーバーなリアクション付きで喋りつづけている。
それが鬱陶しいわけではなかった。喋らないでいいのは楽だし、カリンが嬉しそうに喋っているのを見ているのは嫌いじゃない。こうしている時間が、幸せに感じられた。アキホは気付いていた。カリンを奴隷としてではなく、ひとりの女性として見ていることに。
「……ご主人様?」
アキホは、ためしにカリンの手を握ってみた。柔らかくて、小さな手だった。
「どうしたの?」
「手が、冷たくて」
「う~ん。でも、汗まみれだよ」
適当な言い訳も思いつかないので、アキホは乱暴に握っていた手を振り払った。ろくな恋愛をしてこなかったアキホの心は、この程度の挫折を前にすっかり折れてしまった。
「……悪かったな」
むくれるアキホ。カリンは、湿った手をじっと見つめていた。まだ感触の残る左手。どうすればいいのか分からないので、匂いを嗅いでみた。
「嗅ぐな」
「うん。ご主人様の匂い」
「なんだよそれ」
アキホは自分の手を嗅いでみたが、とくに気になる匂いはしなかった。
カリンが手の匂いに夢中になったせいで、喋ってくれる人がいなくなった。アキホは、沈黙を恐れた。相手に退屈な想いをさせている気になってしまうからだ。どうにかしてこの沈黙を破りたい。カリンが食いつきそうな、何か有効な話題はないだろうか。そう思った十秒後、アキホは盛大に後悔することになる。
「ヒルコ」
アキホは、ぽつりと呟いた。話しかけるわけでもなく、畑に種をまくように、あとは自然の成り行きに任せるように、アキホは呟いた。雫が水面に落ちた。ヒルコの名前は、ふたりの間に波をたてて広がった。
「ご主人様?」
カリンは、すぐさま反応してくれた。しかし、その表情はアキホの期待していたような驚きで開いた表情ではなく、人が苔を見るときのような、まったくの無表情だった。
「サキちゃん?」
アキホは背筋を伸ばした。カリンの、いったいどこからこんなに低い声がでているのだろうか。そんなはずないのだが、サキの命を自分が握っている気がした。
「違う、サキさん、じゃない。ちょっと、小耳にはさんだ、だけ。それ、だけだ」
つうっと、緊張が汗となって、アキホの頬を伝った。
「サキちゃん?」
「違う。違うから」
「アキホくん?」
アキホは唇をねぶった。カラカラに乾いていた。
騙し通せない。サキ以外に、カリンの過去を話せるものがいるだろうか。いや、それでも、アキホは、嘘をつき通すしかなかった。覚悟で話してくれたサキを巻き込んではならないから。
「聞いたんだね?」
カリンの声は、アキホの身体をさらにきつく縛り上げた。
アキホは喋らない。それでも、勝手にすべてを察したカリンは、ひとりで話をすすめた。
どうせすべて聞いたんでしょ? ねえ、わたし、分かるんだから。もう、知っちゃったんだね? どうして知りたかったの? ねえ、聞いてる? もしかして、後悔してるの? ううん。そんなことないよね? だって、アキホくんは知りたかったんだもんね。いいの。怒ってないよ? ご主人様って、呼んであげる。明日からも命令していいよ。だって、わたしは奴隷だもの。逆らっちゃいけないもの。ねえ、どうして何も言ってくれないの? ねえ、聞いてる? こっち見てよ。わたしの顔を見てよ。ほら、ねえ、さあ。
「こっちだよ」
怖くて、足が浮いたような気分だった。走って逃げ出そうか、いや、逃げ切れない。アキホは、早足で、すこしでも早く自分の家につく以外に、カリンの追求から逃げる方法が見つからなかった。
「ねえ、無視しないでよ」
アキホは、家の前までたどり着くと、別れも告げずに家のなかに逃げ込んだ。
残されてカリンは、そのまま、アキホを飲み込んだ扉を眺めていた。勝手に秘密を探られたことを、恨んでいるわけではない。明日からは、また何時も通り笑顔で会えると信じている。しかし、カリンには、どうしても理解ができなかった。どうして、アキホは、そこまでしてカリンの過去について知りたいのだろうか。わたしの過去なんて、そう大したものではないというのに。
「分かんないよ。ご主人様」
カリンは、家路についていた。
「あの時は、楽しかったのにな」
まるですべてを失った少女のように、カリンはひとりごちった。同じ明日は二度と来ない。自分がそうしてしまった。わたしは、取り乱したくなかったから、わたしが泣いたときに見せるご主人様のあんなに悲しそうな顔は、もうみたくなかったから、平常心で頑張ったんだけどな。どうして、こんなに、裏目、裏目になってしまうんだろう。
泣いたら、悲しくなっちゃうんだから。
「きみを泣かせる、そいつは誰だい?」
カリンの足が止まる。
でも、そんなはず……
「ねえ、ぼくの許可なく泣かせるなんて、いったい誰の仕業だい?」
カリンは身体を抱きしめた。震えている。忘れようとしていた。でも、身体が覚えている。あの痛み。あの感触。あの足音。そして、この声。やっぱり、逃げられない。悲しくないのに鼻の奥がツンとする。涙があふれて止まらない。
学ランの男は、カリンを迎えるために両手を広げた。
「やあ、カリン。ぼくだよ。ヒルコだよ」
*
見覚えのある男子高校生が、カリンの家のまえで待っていた。ストーカー? いいや違う。ぼくは、カリンのご主人様だ。ヒルコは、愛しむように、カリンの涙で濡れた頬にそっと手を触れた。
「こんなに濡れて。可哀想に」
「あの、あの……」
言葉にならないカリンの涙を拭い、拭った指でカリンの唇を湿らせた。赤くて、やわらかい唇。そっと触れただけで跳ねかえる唇の弾力が、指を伝って、ぼくの脳を活性化させる。これも、ぼくのものだった。
「また、キスしてくれるかい?」
ヒルコが唇を尖らせると、カリンは、恐怖が喉に詰まって、何も言うことができなくなった。どうしてヒルコが目の前に立っているのか分からない。とにかく、キスはしたくなかったので、何度も首を横に振った。
「どうして? まえはどこでもしてくれたじゃないか? ああ、そうか。ここじゃあ恥ずかしくないね。もっと人の多い所でしたいよね。あ、そうだ。また、サキちゃんの前でやろうか? 見せつけるように、何十分もキスしてやろうよ。舌がとろとろになるくらい。きみは知らないだろうけど、あの時のカリンの顔、すごく可愛いんだぜ。いまでも携帯の中にきみの顔が残ってるんだけど、見るかい?」
ヒルコは、ポケットに手をつっこんだ。しかし、そこあったはずの携帯が、どこにもない。「あれ? おかしいな」どうやら、ここまで走ってくる間に、どこかで落としてきたみたいだ。
「なんだよ。きみのせいで、携帯なくしちゃったよ」
「わたしの……せい……?」
「そうさ」
ヒルコは、優しくキスをするようにそっと顔を寄せ、カリンの唇を噛みきった。
「あうっ!」
カリンは、口を押さえて後ろにさがった。指の間から、ぽたぽたと、赤い雫が垂れる。カリンの口の中が、鮮血の味に染まる。
「ねえ、謝ったらどうだろう?」
口のなかに残るカリンの唇を飲み込んで、ヒルコは詰め寄った。カリンがいくら痛みに苦しもうと関係ない。だって、ぼくは痛くないもの。
「ほら、下なんか向いてないでさ」
カリンの髪を掴んで、顔をあげさせた。痛みにぎゅっと目を閉じているせいなのか、まつ毛が涙で濡れているのがよく分かった。
「やっと、ぼくのために泣いてくれたんだね」
「わ、わたしは……」
痛みでは、もう泣かない。この涙は、ご主人様のために流したものだ。そう自分に言い聞かせ、アキホの顔を思い浮かべると、すこしだけ恐怖がやわらいだ。わたしは、ひとりじゃない。そんな気がした。
「わたしは、もう、ヒルコくんの、ものじゃない」
「馬鹿を言うな」
髪の毛を掴んだまま、カリンを乱暴に振り回す。
「痛い! 離して!」
「あはは、カリンは面白いなぁ」
カリンは、踊るように忙しなく足を動かした。
「やぁ! 痛い!」
「じゃあ、離してあげる」
ヒルコは、放り投げるようにして、カリンを叩きつけた。コンクリートの壁に背中を打ちつけ、カリンは「ぎゃん」と子犬のような悲鳴をあげて、うずくまった。
「痛い、痛いよ」
カリンは、心の中で助けを求めた。アキホ、サキ。颯爽と現れるふたりを何度も妄想してみた。けれど、その願いはどこにも届かない。カリンはひとり。ひとりでヒルコに立ち向かわなければならない。生まれついての運命だから。
「カリンは、いつだってぼくのものだ。きみがそう言ったんじゃないか」
もう一度、髪の毛を掴んで顔をあげさせる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。これだ、これだよ。苦悶の表情。これを見るために、ヒルコは、わざわざ二駅ほどの距離を走ってきた。
「もっと苦しんで。ぼくの奴隷」
それから、三十分が経とうとしている。一秒も休むことなく、ヒルコは、カリンを傷つけた。殴って、蹴って、削って、また殴る。カリンを殺さないよう、丁寧に傷付けた。返り血まみれのヒルコは、顔についた血を拭って、手の甲についたカリンの血を舐めた。
「ああ、やっぱり、カリンは最高だよ」
カリンの頭を踏みつける。すると、苦しそうにうめいてくれる。これが子守り歌になったらぼくは何時間でも寝れる。
「ねえ、お礼はどうしたの? ぼくは、傷付けてやったんだよね。それが、カリンの望みだろう? こんな時、なんて言えばいいんだっけ?」
「あり……ありが……」
「んん? 聞こえないぞ」
カリンは、鉄の味がする唾を飲み込んだ。
「ありがとう、ございました」
「そうだ。それでいい」
足に体重をかけると、さらにうめき声が濃くなる。この声をCDにしたら、ミリオンセールス間違いない。
「最高だよ」
やっぱり、ぼくにはカリンしかいないんだ。ああ、カリン。ぼくを分かってくれるのはきみだけさ。やっぱり、ここにきて良かった。
「ところで、きみは誰なんだい?」
ヒルコは、大きな影に覆われていた。山のように大きな影だった。殺気がビシビシと背中を打つ。何も答えない影に、ヒルコは再度尋ねた。
「もしかして、カリンを泣かせたのはきみかい?」
「ふむ。なるほどな」
ヒルコが振り返る。山のような男は、つよく握りしめた拳を高々と振り上げていた。振り抜いた拳は、ヒルコに深く頬めり込み、歯を砕き、ヒルコをはるか遠くへと拭き飛ばした。
「おまえは、悪者だな」
ヒルコは、口から血を噴き出し、大の字になったままぴくりとも動かなかった。
「トウマ、くん?」
カリンは、ぼんやりと靄の掛かった視界で、状況の把握に努めた。殴られすぎて腫れた瞼。その隙間から確認できるのは、目の前にたつ物体の異常な大きさだけだった。そびえ立つように高々と、トウマは、カリンの盾になっていた。
「カリン、大丈夫か」
「なるほど、きみはトウマっていうんだね」
駆け寄ろうとしたトウマの足が止まる。ゆっくりと振り返ると、よろよろ、滝のような鼻血をだしながら、ヒルコが立ち上がっていた。殴られた右頬は、紫色に腫れあがっている。
「きみは、カリンを泣かす権利を持っているのかい?」
トウマは顔をしかめた。
「女を泣かす。そんな権利、あるのか」
「もちろんさ。だって、見ず知らずの女の子が泣いていたら慰めなきゃだめじゃないか」
「ふむ」
「でも、奴隷なら別さ。泣かせてなんぼ。泣かせてあげないと可哀想だろ?」
「奴隷、だと?」
トウマの顔が険しくなる。カリンを奴隷と呼ぶやつを、トウマは、もうひとり知っていた。
「おれの知っているやつは、奴隷を泣かさない」
「そんなはずないよ。だって、見てごらんよ。カリンは泣いているじゃないか」
カリンは、うずくまったまま、啜り泣いていた。愛する女性が目の前で泣いている光景にトウマの心がずきりと痛んだ。「泣かせたのはおまえだ」と、トウマがヒルコへと向き直った。視界に飛び込んで来たのは、ヒルコの靴底だった。
おでこを蹴られた。顎が上を向く。トウマの右足がわずかに下がった。
トウマの背後に降り立ったヒルコは、身体を翻し、飛び上がって、上を向くトウマの顎に手をかけた。
「コンクリートときみの頭、どっちが固いかな」
「ふむ。試す価値はある」
落下する頭。勢いすさまじくコンクリートに打ち付けられた。血飛沫がヒルコに顔にかかる。一瞬だけ目の前が暗くなった。じわじわと、身体から力が抜けていくのが分かる。
「なんだ、きみの頭って、意外と固くないね」
頭から血をたれ流したまま、ぼうっと空を眺めるトウマ。ヒルコは、動かないトウマの腕を握った。
「じゃあ、次は、どこまでやれば骨が折れるか、確かめてみることにするよ」
トウマの反応はない。
「いくよ」
腕を抱えて、肘を逆方向にねじり上げる。
「あは、さすがに頑丈だな。カリンだったら、とっくに折れてるよ」
ヒルコは、さらに力を込めた。ミシミシ、トウマの骨が悲鳴をあげる。抵抗もなにもない、破壊されるのは時間の問題だった。
「ぬぅっ!」「あ、折れた」
抗う力のない腕は、やがて、真逆の方向に折り曲げられた。だらりと、トウマの腕が地面に伸びている。ヒルコは、満足げにその腕を撫でた。
「やっぱり、頑丈なんだね。うん。すごいよ」
「次は足かなぁ」とヒルコは、トウマの足を持ちあげた。
痛がっている場合じゃない。
「もう、やめて」
カリンのか細い声が、ヒルコの肩に手をかけた。ヒルコは、トウマの足を放り投げた。
「どうしたのさ、カリン。まだ物足りなかった?」
カリンは、起き上がりながら、自分の調子を確認した。足、立てる。腕、動かせる。良かった。まだ、どこも壊れてない。これなら、もう少しだけ耐えられる。
カリンは、血と泥が混じって真っ黒になった顔で笑った。笑うと、顔じゅうの傷がいっせいに騒ぎ出した。それでも、ヒルコにこの笑顔を見せてやりたかった。ご主人様が褒めてくれた、笑顔だけでも。
「はい。もっと、わたしを、いじめて、ください」
カリンの制服は、びりびりのずたずたに裂けていた。はたから見れば、ただボロ布を巻いているだけにも見える。
「すごいなぁ、カリンは。すごくエッチな姿のはずなのに、色気がまるでないよ」
「ごめんなさい」
カリンはそっと身体を隠した、
「でも、ぼくは、そんなカリンが大好きだよ。小さなおっぱいも、生えそろってない毛も好きだ。だから、もっとひどいことしてあげるね」
ヒルコは、カリンの全身を視線で舐めまわした。そういえば、まだ爪を剥いでいなかった。歯だって、一本も折ってない。なんだ、まだまだ綺麗な身体じゃないか。
「さあ、どうしようかな」
「ふむ。背後はとらせていけない。これは教訓だな」
大きな掌が、ヒルコの頭を握った。
「驚いたよ。まだ動けるんだね」
「左腕と、守ってくれた足があるからな」
ヒルコの足が、コンクリートに沈んだ。トウマが上から力をかけたのだ。
「いま一度問うぞ」
ぐっと力をこめると、トウマの指先は、ヒルコの頭にめり込んだ。リンゴのように、ヒルコのあたまから果汁が溢れだす。
「おまえは、カリンの何者だ」
「ご主人様に決まってるだろ」
トウマの指がさらに深くめり込む。
「カリンが好きか」
「うん、もちろん」
腕をあげると、ヒルコが持ちあがる。足がつかないほど高く。地面よりも、夕日の方が近い気がする。
「きさまは、カリンが好きではない」
「そんな――」
「昔から疑問だった。コンクリートはなぜこんなにも尖っているのか」
それがいま、ようやく分かった。
今度は、トウマがヒルコを叩きつける番だった。人形のように振り上げられたヒルコを地面に叩きつける。刺さって、削れて、そして砕けた。それでもヒルコの意識は、はっきりとしていた。
「ぼくが、カリンを好きじゃない?」
地面に顔をうずめたまま、ヒルコはトウマに尋ねた。
「どうして、そんなことを言うのさ」
トウマは、ちらりとカリンを見てから、左手で目を覆った。
「惚れた女には、どんな時でも欲情する。それが、男ってもんだろうが」
カリンは、ほぼ裸に近い姿だった。
「きみは、あんなのに色気を感じているのかい?」
「カリンをすごくセクシーにしたおまえを、おれは殺すことにした」
「なんだ。きみは、新しいご主人様じゃないのかよ」
がっかりと、ヒルコはため息を垂れ流した。カリンに恋をするなんて、ご主人様としてあるまじき行いだ。
「だったら、もうひとつ教訓に加えておくべきだ」
「ふむ?」
ヒルコの動きを目で追えなかった。地面に手をつき、腕の力だけで身体を持ちあげる。ヒルコの足は、綺麗にトウマの顎を打ち抜いた。そのまま宙を一回転、きれいな姿勢で降り立つ。
「敵の前で、視界をさえぎるべきではない」
ヒルコは、学ランについた埃を払った。
「ぼくとトウマくんとでは、経験値が違いすぎる。もっとケンカをしないと、好きな女の子ひとりも守れないぞ」
「ふむ、覚えておこう」
トウマは、ぐらぐら身体を揺らした。ヒルコの攻撃がきいているのだ。どんなに身体が大きかろうと、急所にはいってしまえば、抗いようもない。トウマは、人生で初めての敗北をきしていた。それでも倒れないのは、男の意地だった。ここで倒れたら、だれがカリンを守る。トウマは、カリンの盾になると誓った。どうせ叶わぬ恋ならば、踏ん張るのはここしかない。例え命がつきても、ここから一歩も引かない。
「だが退かぬ!」
トウマの両足が、コンクリートに根付いた。木々を揺らし、吹き荒れるトウマの闘気を、ヒルコは一蹴した。
「きみが誰だろうと、そんなの関係ない」
風が巻き起ころうとも、ヒルコには一陣の風も吹きつけなかった。まるで涼しい顔で、トウマの熱血に嫌気がさしているようだった。
「きみは、暴力という最も根源的なところで負けた。だったら、きみとゴキブリとでは、そう大きな差はないよ」
手を広げ、大地を全身に感じる。
「だって、世界は平等なのだから」
ヒルコの言っている意味は分からない。分かっているのは、トウマがここで退けば、カリンがどうなるか分からないという事だけだ。
トウマは腰を落とした。それは、すでに一歩たりとも動けないことの証だった。しかし、そんなことは悟られてはならない。
「どうした、来ないのか」
「うん。もう飽きた」
拍子抜けしたように、トウマから吹き荒れる風が収まる。それほど、ヒルコが晴れ晴れとした顔をしていた。
「それに、ぼくの後ろにいる彼女がやっかいなんだ。ぼくにとっては」
ヒルコの背後には、サキが立っていた。トウマとは対照的に、冷気のような敵意でヒルコをけん制している。
「やあ、久しぶりだね」
「ええ、会いたくなかったわ」
サキは髪をかけあげた。
前にはトウマ、後ろにはサキ。ヒルコは、逃げ道を塞がれていた。
「安心してよ。今日のところは帰ってあげるから」
「逃がすと思って?」
「ううん。逃げないよ。だって、また襲われたら面倒だろ?」
瞬き一瞬。トウマの腹に、ヒルコがめり込む。
「ぐはぁ!」
血反吐を吐き、膝をつくトウマ。
「すごい、まるで猛獣の断末魔だ」
倒れ込むトウマ、最後に見たのは、近付いて来るヒルコの爪先だった。
トウマは蹴り飛ばされなかった。顔に深く爪先が突き刺さっている。
「きみたちって、思っている以上に弱い生き物だよ」
ヒルコは去っていく。傷だらけのカリンを残して、痙攣するトウマを残して、腰の抜けたサキを残して、ヒルコはいなくなった。
抗う術はない。ヒルコのまえでは、なにもかもが平等なのだから。
*
「なに不貞腐れてるんだよ」
コトウは、アキホの前に座っていた。来るとは思っていたが、やっぱりか。
「どうせコトウも、噂の真相を知りたいんだろ」
「へへ、ばれたか」
登校してから、アキホの耳に絶え間なくはいってくる噂話。なんでも、あのトウマが、ケンカで負けたそうだ。
「トウマのことは、何も知らない」
「ああ、そんなことだと思ったぜ」
コトウは、見透かしたような顔をぐっと近付けた。つい十分ほど前に、新たな噂が学校中を駆け巡った。なんでも、噂のカップルの間に亀裂がはいったとか、なんとか。
「カリンのことなら、今日は、たまたま別々だっただけだ」
「ほんとかぁ?」
アキホは、コトウの疑り深い視線を手であしらった。
「カリンの傷も、おれは何も知らない。あいつは、何も話してくれなかった」
そんな、ぎこちないふたりの様子が、噂の尾ひれを余計に広げた。人の不幸話ほど、面白いものはこの世に存在しないのだから。
「カリンちゃんは、おまえのこと嫌いになったんだろ?」
決めつけるようなコトウの態度に、アキホは眉間にうっすらと皺を寄せた。
「さぁ? おれにも分からない。女心は複雑だからな」
「なんだよそれ、彼氏のくせに適当だなぁ」
「彼氏じゃない。ご主人様だ」
アキホは焦っていた。いつものアキホなら、コトウの軽口程度に嫌悪感を出すことはなかった。アキホは焦っていた。ヒルコという非日常に、いよいよ巻き込まれてしまった。その実感に焦らされていた。
アキホの苛立ちは、やがてコトウにも伝染した。
「なんだか、今日のアキホはいつになく冷たいな」
「馬鹿を言うな。むしろ、おれが優しかった時を教えてほしいくらいだ」
「いつだって、おまえは優しかったぜ?」
アキホは黙った。カリンを傷付けた犯人なら分かっていた。
「コトウ。もう、おれには関わらないほうがいいかもしれない」
「なんだよ、そのいい方。まるで、おれたちが友達だったみたいじゃないか」
突き放すようなコトウの言い方に、アキホはすごく悲しい気持ちになった。
アキホの目に、じんわりと涙が浮かぶ頃。タイミング良く、授業開始のチャイムがなった。ざわざわしていたクラスメイトたちは、揃って席に座り、ぼんやりと黒板を眺める。
「コトウ――」
いつのまにか、コトウは目の前から消えていた。まるで、これまで見ていたものがすべて幻だったかのような錯覚に陥る。あらためて、誰もいない怖さを思い知らされた。
*
放課後、アキホは、ひとりきりだった。
腕を吊ったトウマは寡黙を貫き、包帯まみれのカリンは「つーん」と「ぷいっ」以外何も喋ってくれない。ふたりになにがあったのか、事情を説明してくれる人は、だれもいない。
僅かな期待を頼りに、アキホは最後の砦の前に立っていた。
『生徒会室』と書かれたその扉は、訪ねくる者すべてを拒絶しているかのようにかたく閉じられていた。
「サキさんは、いるだろうか」
扉に手をかけては、ひっこめる。アキホは躊躇う。アキホは、何度も同じ動作を繰り返した。カリンを守れなかった。その責任がアキホを後押しする。扉にふれると、サキの怒り狂った巨大な顔が迫ってくる。その度に、アキホの覚悟を鈍った。
「遅かったわね」
覚悟を決めたアキホを、サキはそう言って迎えた。
「あの、サキさん」
「扉、閉めてくれる? 男子は知らないだろうけど、スカートってすごく寒いのよ」
「あ、はい。すみません」
音を立てないよう、アキホは、すごすごと扉をしめた。サキに「なにしてんの、座りなさいよ」と促されるまで、じっとその場に立ちつくしていた。
ふたりの間には、初対面の時の緊張感が流れていた。どんよりと粘り気のある空気が、まとわりつく。サキが、男嫌いであることに変わりはない。アキホが、サキを苦手としていることにも変わりはない。しかし、ふたりは、打ち解け始めていた。カリンが、ふたりの距離を縮めてくれていた。はずだった。
「すみませんでした」
「ごめんなさい」
ふたりが同時に頭を下げてしまったので、ふたりは戻るタイミングを見失った。どれくらいの間そうしていただろうか。アキホが、ちらりと目線をあげた頃には、サキは退屈そうに頬杖をついていた。
「そんなに謝らなくてもいいのよ」
サキは、欠伸をひとつした。アキホは、ゆっくりと頭をあげて、気まずそうに咳払いをした。
「顔をあげてたなら、そう言って下さいよ。ずっと下げてたおれが、馬鹿みたいじゃないですか」
「嫌よ。アキホくんの顔って、あまり見たくないじゃない?」
じゃない? と言われたところで、「そうですね」と言ってしまっては、両親に申し訳なさすぎる。おれだって、しこたま「可愛い」と言われて育ってきたものだ。両親とか、親戚とか。やめよう、みじめになる。
「そんなことより――」
「カリンのことでしょう?」
台詞を奪われ、アキホは面食らった。照れくさそうに頭を掻く。
「すっかり、ばれてますね」
「というか、アキホくんとわたしの繋がりって、カリンだけじゃない」
まったくその通りだ。思わず感心してしまう。
「でも、わたしがヒルコのことで分かることは、そんなにないわ」
「どうして?」
「ヒルコという人間は、語るに単純すぎるからよ」
暴力的で、自由で、エロくて、とにかく強い。ひとことで言うなら、傍若無人。もっと分かりやすく言と、やりたい放題。
「でも、これだけならただの不良。ヒルコは、特別なの」
もっと決定的な、他の隔絶するような特徴を兼ね備えている。
「それは?」
アキホの身体が少しだけ前のめりになる。
サキは、一拍溜めた。それが緊張感をたたせる為の効果を狙ってなのか、言いたくないがための躊躇いなのか、アキホにはどちらとも取ることができた。
「あの子は、ヒルコは、痛みを感じないの」
アキホは、サキの言葉をそのまま受け取らなかった。常識的に考えてしまった。首をかしげて、ふと、トウマの顔を思い浮かべた。
「冷酷非道、ってことですか?」
「そうじゃない。でも、そうでもあるわね。比喩でもなんでもなくて、ヒルコは、痛がらないの」
人を傷つけても何も感じない。人に傷付けられても、何も感じない。
「つまり、殴っても、平気?」
「平気って、なにかしら。効果がないわけじゃないの。ナイフで刺せば血がでるし、火をつければ、こんがり焼け死んでくれる。ヒルコは殺せる。でも、痛みは感じてくれない。すっと眠るよう死んでいくわ」
アキホは、引きつる顔を押さえることができなかった。
「まるで、殺したことがあるような口ぶりですね」
「ええ、その通りよ。前に言わなかったかしら?」
サキは飄々としていた。
「それは、初耳ですね」
「わたしは、ヒルコを殺している。でも、あの子は、そんなわたしの覚悟すら踏みにじったのよ」
一変して、サキは机を殴りつけた。カリンを守るために、サキがなにをしたのか。犯行の手口までは、聞きだそうと思わなかった。とにかく、サキは、ヒルコを殺そうとして、そして、失敗した。
「わたしは、あの子のおかげで、こうして生徒会長になっている。あの子が、すべてを黙ってくれていたから」
「殺したのに、生きているんですか?」
「未遂に終わったのよ。お願いだからそれくらい自分で考えて」
サキの手に力がこもる。悔しかった。ヒルコに助けられたこともそうだが、ほっとしてしまった自分に、もっと怒りを感じていた。
「痛みは、命の安全装置であって、理性でもあるの。だから、ヒルコは何も感じない。心の底から世界は平等だって、そう信じているの」
「世界が、平等?」
完璧超人サキを前に、アキホは眉をひそめた。ヒルコとは、ずいぶん馬鹿げた信念を持っている人物なのだと思った。
「そんなはずない。そう思うでしょ? アキホくんとわたしでは、こんなにも性能が違うっていうのに平等なんて、馬鹿げているでしょ?」
「はい。正直」
「そうね。みんなそう言うわ。でも、ヒルコの前では、世界は平等になっちゃうの。あの子は、世界のありかたすら変えてしまうような、とんでも野郎なの」
アキホは空気を飲み込んだ。
サキが冗談を言っているようには見えない。世界が平等? 痛みを感じない? 殺そうとしても死なない? めちゃくちゃだった。言葉だけでヒルコを理解することは、難しいようだ。ヒルコとカリン、ふたりの間にはどのような関係があったのだろうか。
「よかったら、中学時代の話、詳しく教えてもらえませんか?」
「いやよ」
ばっさり断られた。まさか拒絶されると思っていなかったアキホは、三度、聞き返してしまった。
「黙りなさいな」
サキは、さらりと髪をうしろに流した。
「なに勢いに任せて聞いてんのよ。図々しわね。何度も言うけど、わたしたちにとって、中学時代というのは、思い出したくもない恥部なの。まぁ、あんたに、女の子の股をかっぴろげるだけの度胸があるなら、話は別だけどね」
サキのふっくらとした唇から飛び出した「股」という単語に赤面してしまうアキホに、そんな度胸があるはずもなかった。
「それに、わざわざわたしに聞かなくても、本人が直接教えてくれるわよ」
アキホの背中が、ぞっと凍りつく。だれの視線を感じて入口を振り返ったアキホに、サキは呆れのため息をついた。
「ここにヒルコがいるわけないでしょ。しっかりしなさい」
アキホは、しょんぼりと肩をすぼめた。
「だって、サキさんが怖がらせるようなこと言うから」
「ヒルコは、あんたの家の近くで待ってるわ」
想像以上だった。家の前に立っている能面男にぞっとする。
「でも、おれの家なんて」
「言ったでしょ? 噂をすれば、ヒルコは現れるの」
その通りだった。サキの言った通り、噂をしたその日に、カリンの前にヒルコは現れ、無関係であったはずのトウマまでも傷付けた。ありえない話だが、ヒルコは、アキホの家の前で今か今かと待ち受けているらしい。
「サキさん、助けて」
「なによ、だらしない。男のくせに」
「だって……」
もじもじと手を組む。
「諦めなさい。あなたは、とっくの昔に巻き込まれていたのよ。カリンと一緒にいるってことは、そういうことなの」
入学式から一カ月。あの日ですべての運命が決まっていたというのか。死期を悟った老人が過去を顧みるように、アキホは遠くをながめた。
「後悔してる?」
サキさん、なんて意地の悪い顔だろうか。あなたとの出会いもまた、運命だったのか。
「おれは、カリンが好きです」
突然のピュアな告白に、さすがのサキも顔を赤らめた。
「なによ、急に。馬鹿じゃないの」
「この困難を乗り越えたら、カリンに告白しようと思っています。ヒルコは、そのための丁度いい前座です」
「あらそう。でも、そういう台詞って、死亡フラグというんじゃないかしら」
「運命ひとつ変えられないのに、女の子を好きになれますか」
サキは、嫌悪感で顔をしかめた。
「なにそれ、恰好つけているつもり?」
「おれの運命のなかに、カリンを巻き込んでやるつもりです」
言ってやった。アキホの心のなかは、雲ひとつない青天の達成感で満たされていた。サキがどんなに嫌そうな顔をしようとも関係ない。恋路は、二人しか通れない道だから。
「もういいわ。勝手になさい。どうせあなたに明日は来ないもの」
サキは呆れ返っていた。目の前で男子高校生に希望に目を光らされてしまっては、何も言えなくなる。というか、言う気をなくす。
「サキさん、ぼくは決めましたから」
「ええ、どうぞ、ご勝手に」
「じゃあサキさん。一緒に帰って下さい!」
アキホは、厳しく払われた手をさすりながら、家路についたのだった。
*
「待っていたよ」
アキホの家の前には、見覚えのない男子高校生が立っていた。きめの細かい肌。きっちりと切りそろえられた黒い髪。学ランは、上までしっかりと止められている。
足を止めたアキホは、背負っていた鞄を足元に落とした。どさりと音をたて、アキホの足元にもたれかかる。
「きみが、ヒルコくんか」
「やめてよ、ヒルコくんなんて。余所余所しいじゃないか」
同じ女を愛した仲。それは、友情をひとつ越えたところにある。
「仲良くしようぜ、アキホ」
差し出された手。罠かもしれないが、この手を握れば、すべてが円満に解決するかもしれない。カリンとも、また会える。しかし、アキホは、その手を握らなかった。アキホには、ヒルコの手が悪魔の三本指に見えた。
「一応聞くけど、どうしておれの家を?」
何故いまさらそんなことを聞くのか分からない、と言った表情で、ヒルコは、差し出した手をひっこめた。
「もちろん、カリンから聞いたんだよ。うん。あれは、すごく楽しかった。よかったらカリンの様子でも見に来ない? しっかり縛ってきたから、いまごろ、もだえ苦しんでいるんじゃないかな」
カリンが、そう簡単に口を割るとは思えない。想像することしかできないが、目の前に立つヒルコの制服は、乾いた血で汚れていた。
「ああ、これ? 汚くてごめんね。血を出すなっていつも言ってるんだけど、カリンが、なかなか言う事を聞いてくれないんだ。やっぱり、アキホの躾が生ぬるかったんだよ」
「そうか、そういうことか」
ヒルコという人間を理解し始める。
「うん。そうだよ。でも、そんなに責任を感じることはない、もう大丈夫さ。これからは、ぼくが、しっかりとカリンを躾けておくから。アキホは、何時も通りの温い日常生活を送っていてくれたまえよ」
「おれと、カリンを分け合うのか」
「うん。だって――」
「世界は平等だもんな」
アキホは、ヒルコの台詞を奪い取った。
「アキホ、それ、本気で言っているのかい?」
ヒルコは喜んでいた。初めて、自分の考えを理解してくれる人が現れた。ぼくはひとりじゃないんだ。そう思った。
「世界は平等だ。だから、やっぱり、おれとヒルコは、戦わないといけない」
そう言ったアキホの顔は悲しげだった。できることなら、ヒルコと争いたくなかった。ヒルコは怖かった。でも、怖いだけじゃない。アキホだからこそ、分かってしまう。ヒルコは、本当にカリンを必要としている。
でも、駄目なんだ。
「カリンは、おれのものだ。誰にも渡せない」
「どうしてさ。命をかけてまでカリンを守る理由が、アキホにあるのかい? ぼくに逆らえばどうなるか、知らないわけじゃないだろ」
ヒルコの語気が強くなる。自分でも分からない。初めて出会ったばかりのころは、どちらかと言うと、カリンが苦手だった。どこにいても現れて、馬鹿みたいな元気で、アキホを照らす。好んで岩の下に隠れているのに、子供に岩を引っぺがされる団子虫の気分だった。はずだった。
それが、いつからだろう。アキホにとって、カリンが、なくてはならない、掛け替えのない人になっていた。トウマの一件? サキの一件? シオンのあの時かもしれない。
「おれにとって、カリンは絆なんだよ」
「はぁ?」
アキホは、会話をしていなかった。確認するように、自分のなかにいるカリンを、ひとり、ひとり、大切に抱きしめた。
「おれにとって、カリンは寿命だ。おれにとって、カリンは宝物なんだよ」
うわ言のように呟くアキホに、ヒルコは首を傾げるしかなかった。
「気味が悪い。ぼくには、アキホの言っていることが理解できないよ」
「それでも構わない。初めからそうだった。おれとカリンは、人に理解されるような関係じゃない」
だから、おれは。
「ヒルコ、おまえを許すわけにはいかないんだ」
「おれは、カリンが好きだから」
拳を握るアキホ。それでも、ヒルコは敵意をみせなかった。だらりと身体の力を抜いて、まるでやる気を感じられなかった。
「どうした、トウマみたいに、おれを殺そうとしろよ」
ヒルコは首を振った。
「駄目だよ。今日はアキホを傷付けない。カリンと、そう約束したんだ」
拷問してから、血まみれの指で、肩をつかまれた。あんなに苦しそうな顔を見せてくれたんだから、お願いくらいは聞いてあげるよ。カリン。
「きみは、カリンに愛されてるんだね」
「おれは、カリンのご主人様だ」
ヒルコを前にして、アキホは臆することなくそう言った。
「うん。そうだね。ぼくはもう、違うみたいだ」
だからって、諦めるわけじゃない。ぼくが、そうしたいから。ぼくには、カリンが必要だから。アキホから奪い取る。こんなにも平等な世界で、ぼくがなにをしようと、誰もぼくを裁くことなんてできないはずなんだ。
「アキホ、忘れないでくれよ。出会ったのも、傷つけたのも、ぼくの方が早い」
「ああ、知ってるさ。いまのカリンがあるのは、ヒルコ、おまえのおかげだ」
「それはどうかな」
久しぶりにカリンと出会い、以前との違いにヒルコは驚かされていた。カリンは、死ぬ事を怖がっている。人並みの感性をもち始めている証拠だ。だれのせいでそんな風になってしまったのか、考えなくも分かる。
ヒルコは、ポケットに手を突っ込み、アキホの横を通り過ぎた。通り過ぎざまに、アキホにもたれ掛かっていた鞄を踏みつけたのは、その鞄になぜだか苛立ったから。
「じゃあ、また明日。今度は殺しにくるね」
ヒルコがいなくなった。なんて、なんて静かなのだろうか。この町から人がいなくなった。鳥も、犬も。ヒルコがいるから、世界から人がいなくなった。
どうやら、そういうものらしい。
*
次の日、アキホは教室で項垂れていた。やっぱり、目の間にはコトウがいる。
「どうして、こんなことに……」
アキホの弱気な呟きは、クラスの喧騒に紛れて、誰の耳に届くこともなくかき消えた。
「で、アキホは、なんで悩んでるわけ?」
申し訳ないが、打明けるわけにはいかない。誰かに聞かれでもしたら大変だ。アキホは、いるはずのないヒルコの気配に怯えていた。
「なんだよ、無視ですか?」
人の気も知らないで。おれは、ヒルコからみんなを守ってるんだぞ。
「なぁ、おれたちって、友達だよな?」
コトウは、寂しげな顔をしていた。
なんだよ、改まって。おれにもよく分からないけど、赤の他人ではないだろうよ。知り合いとも違うし。なんだろう。アキホは考えた。アキホとコトウの付き合いは、比較的長い。ふたりの関係を飾るためには、どんな言葉が似合うだろうか。アキホは、突っ伏したまま口を開いた。
「親友じゃないのか」
突っ伏したままのアキホの声は、くぐもっていた。
「ああ、そうかもしれないな」
コトウは、恥ずかしがることなく、すんなりとアキホの台詞を受け入れた。
おかしいな。さっきまでうるさかったのに、今日は、やけに静かだ。顔をあげる気にはなれないが、静かすぎて、教室のなかに誰もいないような気すらしてきた。でも、コトウは目の前にいる。どうやら、アキホはひとりぼっちではないらしい。
「そういえば、カリンちゃんは休みらしいな」
「うん」
「トウマは、もう怪我が治っていた」
「うん」
「サキさんは、いつも通りみたいだな」
「うん」
コトウは、ようやく席から立ち上がった。
「もう、おれの出番もないのかな」
「うん。そうだな」
足音が遠ざかっていく。役目を終えたコトウは、だれに別れを告げるでもなく消える。今までありがとう。コトウとの半年間、すごく楽しかった。でも、もうおれは、ひとりじゃないから。だから、さようなら、コトウ。
闇の中に消えて行く背中。振り返ることもしないで、そのまま暗闇に溶けた。
*
約束通り、家の前ではヒルコが待っていた。
「やあ、遅かったね」
血まみれの拳を広げて、アキホを迎えるように両手を開く。
「カリンは、無事なんだろうな」
「うん。ちゃんと虫の息だよ」
かみ合わない会話。これは、価値観の相違なのだろうか。アキホには見えていない。目の前のヒルコは、本当に存在したものなのか。もしかしたら、おれの空想上のものなのかもしれない。
「ヒルコ、おまえは――」
「ねえ、そろそろアキホを殺したいんだけど、いいかな?」
ヒルコが腕を鳴らした。興奮で目が血走っている。
アキホは、受け入れるように両手を広げた。
「ああ、待ってたよ」
ヒルコが消えた。と思ったら、目の前にいた。気付けば、アキホは倒れていた。頭の横がずきずき痛む。どうやら殴られたらしい。
「どうして、抵抗しないのかな」
足音が近づく。影がアキホを覆う。上からヒルコの声が、降ってきた。
「ぼくは、きみを殺そうとしているんだよ? だったら、アキホは抵抗するべきなんだ。そうじゃないと、この世が平等にならないだろう?」
蟻だって、踏みつぶそうとすれば逃げるじゃないか。ゴキブリは、その時になると自分が飛べることを知るらしい。あいつらに痛覚なんてないかもしれないけど、命が平等だから抵抗しているはずなんだ。
「アキホも、痛みを感じないのかい?」
「すげえ、痛いよ」
横たわったまま、アキホは、ヒルコの顔を見上げていた。
「死ぬほど痛い。でも、抵抗する気にはなれない」
「どうして? 死にたいの?」
「おれは、暴力でヒルコに勝てないから」
ヒルコは、拳を握った。カリンの血で、ぐっしょり濡れている。
「アキホ、それは敗北宣言かい?」
「ヒルコは、おれなんかより、ずっと強いな」
思わぬ一言に、ヒルコは顔をしかめた。優れていると言われている気がした。そんなはずない。世界は平等だ。才能もない。ぜんぶが努力によって決まっているはずだから。まさか、敵であるはずのアキホが、ぼくを褒めるだって?
「ぼくが強いなんて、ありえないよ」
ヒルコは、ためしに自分を殴ってみた。痛いはないが、頭はぐらぐらする。やっぱりそうだ。この程度のことで、ぼくはやられそうになる。
「ほら、アキホもぼくを殴ればいいじゃないか。それとも、サキちゃんみたいに、屋上から突き落とすかい? なんでもいいから抵抗しろよ。蹴落として、我武者羅に、そうやって、必死に生きなきゃさぁ、命に申し訳ないじゃないか」
ヒルコは懇願していた。殴り合いで分かり合う。ヒルコが知っている、この平等な世界で唯一優劣をつける手段だったのに、その手段を拒まれてしまったのでは、ヒルコはどうすればいいのか分からなくなる
「カリンは、抵抗したのか?」
アキホは、立ち上がった。震える足をなんとか地面に貼りつかせて、重たい頭をどうにか持ちあげた。
「どうして、ヒルコはカリンを傷付けるんだ」
ヒルコは、拳にこびりついたカリンを舐めとった。
「あの子が、ぼくの代わりに痛みを感じてくれるから」
中学時代が蘇る。ひとりきりのヒルコに、カリンが言ってくれた。「わたしを奴隷にして下さい!」。イントネーションすら、はっきりと覚えている。彼女は、ぼくのためなら、なんでもしてくれた。どんなに恥ずかしいことも、痛いことも。ぼくに命の大切さを教えてくれた。
「ぼくには、カリンが必要なんだ」
「奇遇だな。おれにも、カリンが必要なんだよ」
アキホは笑顔をみせた。意図したわけではない。恥ずかしくて、自然と笑みがこぼれてしまった。その笑顔がカリンと重なって、まだ苛立つ。
「おれにとって、カリンは」
「命?」
アキホは首をふった。
「おれにとって、カリンはカリンなんだよ」
「分からない。アキホは、なにを言ってるのさ」
「誰も分かっていない。カリンはカリンなんだ。奴隷でもなく、道具でもない。ましてや、代弁者なんかであるはずがない。そこにいるだけで、あいつはカリンなんだよ」
鈍い痛みのあと。アキホは、倒れていた。今度は見えた。ヒルコの拳が、アキホの鼻っ面をぶったたいたらしい。アキホは、鼻血を垂らしながらも、立ち上がろうとしていた。一滴、コンクリートの地面に垂れては、赤く染み込んでいく。
「何度でも殴ればいい。おれは、ヒルコに負けない」
正直、立っているのも辛かった。口を開けば限界を超えていた。そんな状態のアキホを前にしたヒルコは、どうすればいいのか分からず困惑していた。
「どうしてさ」
とっくに限界は超えているだろう?
「どうして、ぼくの邪魔をするのさ」
「何度も言わせるな。おれには、カリンが必要なんだよ」
今度こそ、アキホは倒れた。立ちあがる気力もおきない。ヒルコは、近付いて来たアキホの鳩尾に拳をめり込ませた。アキホは「ぐうっ」と鳴いて、膝から崩れ落ちた。
アキホは負けた。説得もできず、暴力で負けて、カリンはヒルコのものとなった。
「もういいや。アキホに飽きたよ」
声にならない呻き声を出すと、ヒルコの足がアキホの身体を抑えつけた。
「もう、喋るなよ。きみは、暴力という最も根源的なところで負けたんだ。カリンを取り返す権利なんて、あるわけないよ」
アキホは、ヒルコという人間を理解し始めていた。なにも感じないヒルコにとって、強さこそが全てだった。地位も名誉も功績も、ヒルコの前ではただの言葉になり下がる。ただし、暴力には、性別も人種も関係ない。ただ、拳を握るだけ。それは、なんと平等なのだろうか。
立ち上がらないアキホに、止めをさすことはしなかった。
「期待はずれだよ。元ご主人様」
足音が遠のいていく。
「なんだ。やっぱり正しいのは、ぼくだったんだ」
夕焼けが落ちる。まったくの暗闇のなかで、アキホは深い眠りにつくのだった。
*
「というわけで、おれは盛大の負けたのでした」
ことの顛末を話し終え、しかめ面のサキとトウマのまえで、顔じゅう絆創膏まみれのアキホは堂々としていた。放課後の教室に夕日が差し込む。窓から差し込むその光に、アキホの痛々しい傷が照らされる。ふたりの視線に気付いたアキホは、そっと傷にふれて、その痛みを思い出した。
「きみたち、おれに力を貸したまえ」
なぜ負けて尚、アキホの態度はでかいのだろうか。腕を組んでふんぞり返るアキホをまけに、サキたちは、カリンのためでもなければ、協力する気をめっきり削がれていただろう。
「力を貸すのは吝かではない」
サキが目を瞑ったまま動こうとしないので、仕方なしにトウマがゆっくりと身体を持ちあげ、口を開いた。
「しかし、カリンは、どうなった」
ふたりが気になっているのは、そこだけだ。サキのかっと開いた目がその証。アキホがどうなろうと、それほど興味はない。アキホは、壊されることもなく、こうして生きているのだから尚更だ。それは、アキホも同じ。自分がどうなろうと関係ない。カリンさえ無事なら、それでいい。
アキホは天井を仰いだ。
「そうだなぁ」
アキホは、去り際のヒルコの背中を思い出していた。寂しげにもみえた、返り血まみれの赤い背中だった。
「このままだと、カリンは殺されるだろうな」
「馬鹿を言わないで」
すかさずサキが否定した。
「ヒルコはカリンを殺さないわ」
サキは、ヒルコが、どれだけカリンを必要としているのか知っている。痛みを感じないヒルコは、カリンを傷付け、その苦悶の表情を見ることで、痛みを実感している。カリンを殺してしまえば、痛みを代弁してくれる人がいなくなってしまう。ヒルコは、それを恐れているはずだった。だから、ヒルコはカリンを殺さない。いや、殺せない。
「やつは、大切にカリンを傷つけていた」
トウマは知っている。あの時、傷だらけのカリンは、傷こそ多かったが、ナイフで薄く切りつけたようなものが多く、直接的に死にいたるものではなかった。本当にヒルコがカリンを殺すつもりだったら、自分が与えられたような、もっと大きなダメージを与えているはずだ。やつは、痛がるカリンを楽しんでいる。だから、絶対に殺さない。
しかし、アキホはもっと知っている。
「違う、違うよ、ふたりとも。ふたりは、ヒルコを勘違いしている」
サキが苛立ちで机をたたくと、じんわり音が響いて、やがて静まった。
「なによ。一度出会っただけのあんたに、ヒルコのなにが分かったって言うの」
アキホは、もったいぶるように笑みを浮かべた。
「なによ、早く言いなさい」
「サキさん。ヒルコもおれと同じで、カリンのことが大好きなんですよ」
「はぁ?」
サキは耳を疑った。ヒルコが恋をしている? まさか、あり得ない話だった。ヒルコは何も感じない。まして愛なんてもの、感じるはずもない。
「あんた、それ本気で言っているの?」
怪訝な顔のサキに、アキホは懇切丁寧に自分の考察を述べた。
「ええ。ですから、ヒルコは、間違いなくカリンを殺します。一秒後か、五分後か、もしくは十年後に」
直接、ヒルコの拳を味わって、アキホは確信した。カリンは、ヒルコにとって、ただの痛みの代弁者ではない。なるほど、サキの勘違いも無理はない。ヒルコ本人ですら、そう勘違いしているのだから。しかし、アキホは確信していた。ヒルコは、カリンに恋している。もし、本当に痛みを代弁してくれていることだけが、ヒルコがカリンを求める理由なのであれば、あの時、ヒルコの言った「アキホに飽きたよ」はどう説明する? 殺人鬼の目的は殺すことだ。被害者は二の次。そんなヒルコが、アキホを傷付けることに飽きるはずがない。頑丈なトウマに飽きたのも、納得がいかない。ヒルコは、人を傷付けることに快楽を覚えているのではない、カリンを傷付けることに快楽を覚えているのだ。ヒルコにとって、カリンは特別。ヒルコは、カリンを求めている。そして、そのことにヒルコが気付いてしまった時、カリンは殺される。何も感じないはずのヒルコは、愛を伝える術をしらないはずだから。
「愛が刃となってカリンの心臓を裂いてしまう前に、おれたちはカリンを助け出さないといけなんですよ」
あくまでアキホの推測。毛頭信じられる話ではなかった。
「馬鹿げてるわ。そんな話を信じろっていうの?」
「信じてくれなくても構いません。助けなければいけないという事実には、変わりないでしょう?」
「だったら、どうしてこんな話を」
「ヒルコだって、おれたちと同じ人間なんですよ」
サキは、アキホの目のなかにはカリンを見つけた。目の前のふたりに微笑みかける。それは、なんと無邪気な笑顔だったことだろうか。恨んでない。あの子は、ヒルコのことを恨んでいない。
「時は一刻を争う。サキ、トウマ。おれに力を貸せ」
最初から、三人の決意は固まっていた。理由なんてどうでもいい。
「具体的な作戦はあるの?」
「ヒルコには、だれも勝てない」
それは、昨日対峙してみて、アキホが得た唯一の収穫だった。アキホより先に戦っているふたりが知らないはずもない。
「そんなの知ってるわ。だから、どうするのかを聞いているの。まさか、一緒に白旗持ってくれなんて、言いに来たわけじゃないでしょ?」
それもいいかもしれない。ふとそんなことを思ってしまったばっかりに、アキホはトウマからの厳しい殺意に晒されることになる。
「違う。まさか。おれは、ヒルコからカリンを取り戻すつもりだよ」
「ならば、どうする」
ヒルコは殺せない。説得もできない。だったら、ひとつしかない。卑怯と罵られたって構わない。目的を達成するためには、手段なんて意味ないんだよ。
*
アキホたちは、カリンの家の前まで来ていた。見上げている家の中からは、激しい物音と、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が漏れ聞こえてくる。あたりに音はない。お隣さんからの生活音はもちろんのこと、近くを流れる川のせせらぎすらも止まっている。ここにヒルコがいるから、世界から音がなくなった。ヒルコがそう望んでしまったせいだ。
「トウマ、焦らないでくれ」
カリンの悲痛な悲鳴に煽られ、いきりたつトウマを押さえつつ、アキホは携帯電話を開いた。
「ヒルコを呼び出す」
「あんた、ヒルコの番号なんか知ってるの?」
「まさか」
アキホは、カリンに電話をかけていた。「はい」と軽快な声が電話にでる。昨日聞いたばかりだから、忘れはずもない。ヒルコの声だ。電話の奥からは、カリンの僅かな息遣いが聞こえてくる。
「もしも~し。アキホくんだろ? 負けたくせに、まだカリンに未練があるのかい?」
「いま、家の前まで来ている」
窓から、ヒルコがアキホたちを覗き込んだ。上半身裸で、身体中にべっとりと赤い塗料を塗りつけている。電話を耳に当てながら、ヒルコを見上げるアキホ。ヒルコは、睨みつける三人を見降ろして、嬉しそうに微笑んだ。
「オールスターだね」
「昨日は本気をださなくて悪かった。ヒルコ、決着をつけよう」
「きみの本気っていうのは、だれかに助けを求めることなのかな」
その通りだ。おれは、一度だって自分の力で障害を乗り越えたことはない。それが、アキホの唯一の自慢だった。おれはいつだって、他人の力を借りて壁を乗り越えてきた。ひとりで超えられるような壁なら、最初から障害になるはずもないのだから。
「カリンを返せ」
「安心してよ。カリンはまだ死んでない。でも、こうすると痛いんだってさ」
電話越しに鼓膜を切り裂く様な悲鳴が聞こえた。「いまね、いまね、爪をはがしてやったの。本当は今晩のメインディッシュにするつもりだったんだけどね。えへへ、あれ? カリン、泣いているのかい? ダメだよ。もっと罰を与えなくちゃならないだろう」
今度はうめき声だった。
「ヒルコ、おまえは殺す」
「いまから出て行くから。ちょっと待ってて」
電話が切られた。
「ふたりとも、来るぞ」
窓ガラスが割られる。ヒルコが飛び出してきた。
「GOOD EVENING!」
ヒルコは、ガラスの破片と一緒に降ってくる。キラキラの剣山になったコンクリートの地面に、ヒルコは顔もゆがめず降り立った。立ち込めるはずのない砂ぼこりが、ヒルコの姿を覆い隠す。砂ぼこりが次第に晴れると、ヒルコは、ゆっくりと身体を持ちあげ、足の調子を確かめるようにぶらぶら動かした。
「うん。骨は折れてないみたいだから、手加減しなくていいよ」
足の裏には、びっしりとガラスが刺さっている。
視線を落とすふたりと対照的に、サキは、ヒルコの飛び出してきたせいで割れた窓を見上げていた。あの高さからなんの躊躇もなく飛び出してくるなんて。改めてヒルコの異常さを思い知らされた。ちょっとでもバランスを崩せば、死んでいてもおかしくないのに。わたしが、高さに慣れさせてしまった?
「どうするの? 三人がかり、それとも、ひとりずつ来るのかな」
ヒルコの無邪気な殺気に、サキは身構えた。トウマが一歩進みでると地響きがなる。これから決戦だというのに、アキホだけはぼんやりと立ちつくしていた。
「その前に、すこしだけ話をさせてくれないか」
アキホは、ふらりと二人の前にでた。
「やめてよ、ぼくは話す事なんてない」
口ではそう言いつつも、ヒルコは殺気を解いた。殴り合う気のない相手を一方的に傷付けるのを、やはりヒルコは好んでいない。足の裏に刺さったガラスの破片を丁寧に取り除き始める。
「おれとヒルコは、分かり合えると思うんだ」
すこしだけ、世界が荒れた気がした。世界はヒルコのことだから、きっとヒルコの心が荒れたということなのだろう。ヒルコは、さながら苛立ちを隠すこともせずに、しかめ面をアキホに向けた。
「ぼくとアキホは分かり合えない。昨日それを教えてあげたじゃないか」
「拳じゃ伝わらないことだってあるんだ。昔、誰かが言っていたじゃないか。『話せば分かる』って」
「その人、死ななかった?」
「うん。死んだ」
その時、世界が開けた気がした。
「ほらみろ、言葉なんてものじゃ、世界どころか、自分の運命すら変えられないんだよ。その人は、言葉に頼って、自分の命を諦めたんだ」
ペンは剣より強しなんて。誰が言ったのだろう。その時代にヒルコが生まれてなくて本当に良かったと思う。
「ぼくは言葉に頼らない。拳ひとつ。神様は、ぼくにそれだけを持たせてくれた。他には、なにもくれなかったじゃないか」
ヒルコは、拳を大事そうに握り締めた。痛みを感じないことに、ヒルコは苦しんでいるのだろうか。カリンを執拗に求めているのは、痛みを感じない自分を戒めるためなのだろうか。分からない。分からないぞ。おれには他人が分からない。だから、サキやトウマに力を借りている。
「このふたりも、カリン好き。おれの同士だ」
トウマ、サキ。順番にヒルコに睨まれ、ふたりはわずかにたじろいだ。
「なんだよ。ふたりとも権利のない人たちじゃないか」
トウマもサキも、ヒルコに敗北した人たち。
「好きな人も守れないで、いったい、どんな権利があってカリンを求めているのさ。カリンは、ぼくのものなんだぞ」
その通りだ。実際、世界はヒルコからカリンを奪おうとしなかった。カリンの両親が長期旅行中なのも、この辺りに住む人たちが、それぞれの理由で長期間、家を開けているのも、世界がヒルコに味方をしかたらだった。
「ぼくと分かり合おうなんて、おこがましいにも程がある。ぼくは、ほとんど神様と同じなんだ」
ヒルコは世界だ。
それでも、アキホはひかない。
「おれが本気を出した時には、山が動いた」
「ぼくが本気をだせば、山は崩れるけどね」
世界は、ふたりだけになった。サキとトウマは、何時の間にか消えていた。何も書かれていない原稿用紙のように真っ白な世界で、アキホとヒルコは対峙していた。
「どうしたのさ、はやく三人で掛かって来いよ」
ヒルコには、しっかりと三人が見えていた。もちろん、それ以外は見えていない。アキホの見ている世界とほぼ同じ、空白の世界。だから、この世からなにもかもなくなる。
「どうしても、おれたちは分かり合えないのか」
「無理だよ。ぼくは、きみたちが嫌いだもの」
「同じ女を愛した仲でも」
「愛なんて曖昧だよ。愛がぼくになにをしてくれる? 痛みをくれるか? 幸福にしてくれたのかな。まさか、あり得ないんだよ。愛は世界を救えない。愛なんてちっぽけだ。世界を救うのは、世界本人以外にはできないんだよ」
なんだか、今日のぼくは、よく喋るんだな。ヒルコは、違和感を覚えていた。それが苛立ちに変わった時、アキホがヒルコの顔に覆いかぶさった。
「なるほど、確かにその通りだ」
トウマが拳を振りかぶった。一瞬、この瞬間のために、トウマは身動きをしなかった。ヒルコの視界が遮られた。ずっと、ここにくる前から、もしかしたら生まれる前から、その隙を狙っていた。
「いかに強くても、見えなければ関係ない」
ぼくが教えたことじゃないか。
トウマの拳は、ヒルコの腹にめり込んだ。深く、大きなダメージは内臓にまで達し、破裂が破裂の連鎖を引き起こした。ヒルコは吹きとんだ。あまりに一瞬のできごとで、世界はなにが起こったのか理解できていなかった。
壁に打ちつけられ、それでもヒルコは立っていた。
「いいパンチだ。きっと痛いよ」
口から血が溢れた。常人が気を失うようなダメージも、痛みのないヒルコには、ただの現象でしかなかった。風が吹くのと、お腹のなかで大腸と小腸がごちゃまぜになるのは、おなじ現象だ。
「でも、足りないんだよ」
ヒルコの口から、どろりと肉片が落ちた。
「まだ足りない」
アキホは片膝をついた。アキホは、腹を食い破られていた。視界を遮る一瞬、身体全体でぶつかりに行ったためにおこった、名誉の負傷。アキホは、流れ出る血液を押さえ、痛みに顔を歪めた。
「アキホ!」
駆け寄ろうとするトウマを手で押さえる。
「くそ、さすが」
転んでもただではおきない。世界をめくって、めくって、何度もめくって、それでもそこにはヒルコしかいない。ヒルコをめくっても、やっぱりヒルコだった。ヒルコにはどうしたって勝てない。アキホは、ようやくそれを学んだ。
「ここまで、なのか」
「まさか、これがきみたち最後の策なのかな」
ヒルコは、口の血を拭った。しっかりと自分の血を見たのは、これで三度目だ。こう何度も自分の血を見ていると、あらためて自分の異常を思い知らされる。血液をただの液体と決めつけたのはいつだったろうか。気付かないんだよね、痛くても。言われて初めて、擦り傷に気付くんだよ。その時にはもう、かさぶたになってるんだけどね。夥しい量になって初めて、血液は液体でぼくの前に現れる。こんなものがなくなったところで、ぼくが死ぬなんて、あり得ないだろう。
「さあ、今度はぼくの番だ」
「それはどうかな」
勝利を確信したヒルコを前に、アキホはまだ笑っていた。
「まだ、何か企んでいるのかい?」
「それもどうかな。すでに万策尽きて、恐怖で笑ってるのかもしれないぜ」
「だとしたら、その恐怖にお応えしないとね」
あと五秒だった。ヒルコが腰を落とし、直線を自分とアキホとの間に引く。この驕りにも似た作業さえなければ、ヒルコは勝利していただろう。
勝ったのは、アキホたちだった。
遠くから聞こえる赤いサイレン。白い車から飛び出してきた青い制服をきた大人たちは、あっという間にヒルコを取り囲んだ。
「なに、これ?」
ヒルコは、久しぶりに見る警官という肩書を背負った大人に目を剥いた。
「まさか、アキホたちが呼んだのかい?」
じっとヒルコを見つめるアキホの背後で、サキが携帯を閉じた。
「なるほど、また君か」
サキは、勝ち誇ったように笑った。
「さすがのあなたでも、警察には勝てないでしょ」
「うん。そうかもね」
予想外だったのは、ヒルコが、あっさりと取り押さえられてしまったことだった。てっきり鬼人のごとき働きで抵抗するものとばかり思っていたが、組み伏せられたヒルコは、じっとアキホに視線を返していた。
「ぼくは、変わらない」
世界は、変わらない。とも聞こえた。
「どれだけ縛り付けても、それだけの力を見せても、ぼくは変わらない」
だって、世界は平等なのだから。
ヒルコは、押し込められるようにして、パトカーの中へと入っていった。サキも、それに続いた。どうやら、事情聴取なんてものがあるらしい。数人の警官が、血まみれのカリンをタオルに包んで運び出してきた。ガタガタ震えるカリンは、アキホを見つけると、こっそりとだけ微笑んだ。
「カリン」
救急車に運び込まれようとしているカリン。久しぶりの奴隷に駆け寄ろうとしたご主人様は、たった一歩で足を止めた。
結局、おれはなにもできなかったじゃないか。愛する女ひとり、守ることもできない、とんでもない馬鹿野郎だ。
アキホは、ご主人様に通せんぼをしていた。
「アキホ、どうした」
トウマの声が遠くに聞こえる。
アキホの手には、べっとりと血がついていた。
そういえば、おれも怪我してたんだっけ。
*
アキホが目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
その隣に、カリンはいない。
終章
退院した次の日、玄関のドアをあけると、そこにはカリンがいた。アキホを見つけるなり「ご主人様!」と飛びつこうとするものだから、思わず避けてしまった。傷は完治しているのだが、やはりカリンに抱きつかれるのは抵抗がある。
おれは、カリンが好きなのだから。
「どうして避けるのぉ」
扉に鼻を打ちつけたのか、カリンは真っ赤になった鼻をさすっている。
「わ、悪い。つい、ちょっとな」
「……もしかして、わたしが浮気したことを怒ってるの?」
憂鬱なアキホの顔をカリンが心配そうに覗き込む。
「浮気って、おまえ……」
「だって、わたしはヒルコくんと一緒に暮らしちゃったんだよ?」
そこのことを、アキホが気にしてないといえば嘘になる。警察が助け出すまで、あの家の中でなにが行われていたのか、知る者はいない。カリンは頑なに口をつぐみ、ひたすらアキホに謝るばかりだった。
「こうしてカリンはおれのもとに帰ってきてくれた。おれは、それだけで充分だ」
カリンの手を握ろうとしたが、生爪の剝された指は絆創膏まみれだったので、差し出そうとした手をアキホは握った。
「それより、カリンの身体は大丈夫なのか」
「なんのこと?」
とぼけているのか、傷付けられる事に慣れているのか。カリンは、自分につけられた傷すら認めようとしなかった。ありのままを話して欲しい。というのは、アキホの我儘なのだろうか。
アキホは、にっこりと笑った。
「いいんだ。なにもないのなら」
「ふぅん。変なご主人様」
アキホは、ポケットのなかにある携帯にそっと手を触れた。
ヒルコが逮捕されてからその後の経過については、サキからメールで伝えられた。読むのがうんざりするくらいの長文だったが、そのほとんどはアキホに対する罵詈雑言だったので、要点だけをまとめるとこうだ。
ヒルコは、傷害と監禁の罪で逮捕された。具体的な罰則はまだ分からないが、余罪が多いことから、当分は刑務所から出て来れないらしい。しかし、死刑ではないのでいずれは出てくる。その時、アキホはどうすれば良いのか、よく考えておけ。ということだった。
入院している間、ずっと考えていた。おれのしたことは正解だったのか。ヒルコは、これで諦めてくれるのだろうか。おれは、どうすればカリンを守れる?
「ご主人様?」
カリンの声にはっとして、アキホは強張っていた顔を無理矢理ほぐした。
「やっぱり気にしてる」
「ヒルコは、もう大丈夫だ。少なくとも、おれがカリンのご主人様でいる限り、な」
「えっとぉ、うぅん。なんだか難しいなぁ」
無理矢理作った笑顔で、無理矢理カリンを安心させようとしてみた。この無理矢理にどれだけの効果があるのか分からないけれど、いまのアキホにできるのは、笑っていることだけだった。
「またいつもみたいに、カリンの話を聞かせてくれよ」
すると、カリンも笑った。ふたりは偽りの笑顔を向け合った。ふと、カリンの頬に貼られた絆創膏に目がいく。それは、ヒルコの存在が偽りでなかったことの証明。ヒルコは悪夢ではない。ヒルコはいつだって傍にいる。
ヒルコは世界だ。
*
授業中のことだった。
アキホのポケットの中で携帯が震えた。こっそり開くと、サキからだった。
サキさんも、授業中にメールとか打つんだな。
『あんた、告白したの?』
メールを開くなりこれだから、アキホが盛大にせき込むのも無理はない。クラスメイトたちからの鬱陶しそうな視線が集まってしまったので、アキホは、視線から逃れるように机に身体を伏せて、携帯を机の下に隠した。
そんなアキホを見ながら、担任教師であるギンロクは、顔をしかめていた。
ギンロクの立っている教壇からは、しっかりと携帯の存在が確認できる。この場で叱ることもできたのだが、他にも携帯をいじっている生徒の存在は確認していたので、日本の歴史においてもっとも楽しかったのはバブルの時代である、ということを淡々と説明し始めた。
アキホは、しばらくじっとその話に耳を傾けた。いくらバブルが楽しかろうと知った事ではない。その時代に、カリンは産まれていないのだから。
「っと、返信しなきゃ」
『あんた、告白したの?』
何度みても心臓に優しくない。アキホは、できるだけ音をたてにように、ゆっくりと返信を打った。
『まだです』
返事はすぐに返ってきた。
『意気地なし』
『仕方ないじゃないですか』
『告白もできないくせに、カリンを救ったのね。男のくせに』
男は、告白ができなければ人助けもしてはいけないのだろうか。
『告白と人助けは違います』
『あっそ、情けないのね』
『どうすればいいですか』
『知らないわよ』
『助けて下さい』
『いやよ。気持ち悪い』
『そんなこと言わずに』
『そんなことよりアキホくん』
『はい?』
『あんまり授業中に携帯をいじってると、怒られるわよ』
どうしろっていうんだ。
「ったく」
アキホが携帯を閉じると同時に、教師怒りの鉄槌が脳天に降り注いだ。
「あんた馬鹿ね。教師の気配くらい察しなさいよ」
昼休みの屋上で、四人は久しぶりに集まっていた。さすがに九月も終わりに近付いていると肌寒くなる。アキホは、つめたくなった白米を口のなかに放り込んで咀嚼した。こうやって、冷たいご飯も久しぶりだった。
「なんだ、ふたりはメル友か」
トウマから『メル友』という言葉がでてくると、言葉の軽さが失われる。『メル友』という言葉が、まるで世界を闇につつむ禁断の台詞のように聞こえるから不思議だ。
「馬鹿言ってると殺すわよ、トウマ。わたしとアキホくんは主従関係なの」
なるほど、そうやって間接的にでもカリンのご主人様になろうとしているのか。
「なによ」
サキは、アキホのいやらしい視線を嫌がるように振り払った。
「なんかいいなぁ~」
カリンの頬っぺたにはご飯粒がついていた。
「なんだよ」
「サキちゃんとご主人様。わたしなんて、たくさんメール送ってるのに、全然返って来ないだもん」
ぎろりとトウマに睨まれるが、勘違いしないで欲しい。決して、無視しているわけではない。返信できないのだ。カリンのメールと言うのは、文章が文章の形を成していない。かつて、看病しにいくと言った時の返信がそうだったように、文字と絵文字がしっちゃかめっちゃかで、読みたくても読めない。あの理解不能なメールに対して、どのようにして返せばいいというのか、睨むのならぜひトウマにその答えを見つけ出してほしい。その辺はサキも理解してくれているので、他人事のような顔をして、弁当と向き合っている。
「ねえ、ご主人様はカリンが嫌いなの?」
「はぁ!」
その質問は酷というものだ。思わずせき込んだせいでアキホの口から飛び出したご飯粒が、サキの弁当箱に飛び込んだ。
サキは、ゆっくりと弁当を閉じた。
「ねえ、どうなの?」
「えっと、そうだなぁ」
ちらりとサキに助けを求めると、睨み返された。食べ物の恨みは恐ろしい。最初からトウマに助けを期待していなかったので、アキホはいよいよ途方に暮れた。
「やっぱり嫌いなんだぁ」
答えなければ、そうなりますよね。
「ぐすん、泣きそうです」
アキホは、ぼそっと「好きだよ」と呟いた。しかし届かない。カリンは、なぜか急に剥がれそうになった絆創膏を気にしていた。
「……聞いてないし」
「え、何か言った?」
「……何でもないよ」
耳が遠いのは、男の役目だろうに。
現実はマンガのようには上手くいかない。時にマンガを超えてしまうものだから、余計に現実とマンガは別物なのだと実感する。
「でも、わたしはご主人様が好きなんだからね」
カリンは頬を赤らめていた。それが、主従関係を超越した先にあることなど、わざわざ尋ねるのは野暮というものだろう。
思えば、あの日からすべてが始まっていた。
孤独なおれに、カリンが手を差し伸べてくれたんだ。トウマや、サキや、シオン。コトウもヒルコも、すべてカリンが中心にいた。
愛さないわけには、いかないだろう。
「おれだって、カリンが好きだ」
屋上がぶち壊れる。
そこはまるで、ふたりだけの空間だった。真っ白な空間に、ふたりだけが向き合って、時の頬を赤らめ、そして、お互いの意識を交換し合う。
「わたしを彼女にして下さい!」
入学式から一か月、アキホに転機が訪れた。
服従彼女
終わりました。