眠り

 常夜灯に照らされたような暗がりを僕は裸足で歩いていた。
 暗くてよく見えない足元は、なんだか布団でも敷き詰めたみたいにフワフワで、いっそのことこのまま寝転がってしまいたいような気もするけれど、理由のない変な使命感が、僕の足を只管に動かしていた。
 そもそも此処がいったい何処なのか、僕は全くわかっていなかった。気が付けばフラフラと歩いている自分がいて、その前の記憶はとてもあやふやだった。考え事をしながら文章を読んで、その前後が繋がらないみたいな、虚ろで不確かな現実を僕はただ歩いている。
 辺りには何もない。正確に言えば、目の届く範囲は霧に近い仄暗さで、なにも見えやしない。ただ、不思議と恐怖心は無かった。寧ろ冬の寒い日に、布団の中で小さく丸まるような、心地の良い温もりと、穏やかな感傷が胸にあった。このまま此処にずっと居れたら良いのになんて、怠惰な誘惑を引き起こす力が此処にはあるような気がした。

 そんな酔ったような、惚けた意識で暫く歩いていると、何処からかリーンと鈴の音がした。
 音に耳を澄ませて、辺りを見回してみても、やっぱり薄い闇があるばかりで、何も見えやしない。
 ただ、また鈴の音はリーンと鳴ると、止まった僕の足と違って、次第にその音の間隔を狭めてこちらに向かってくるようだった。
 短くリンリンと鳴って、その音の発生源がようやく暗がりから僕の足元に現れると、その音を止めた。
 それは首輪をつけた一匹の猫だった。
「やあ、いらっしゃい」
 猫が言った。
「……あぁ、どうも」
 フワフワと浮いた意識で曖昧な返事をした。猫が喋ったことについて、特に驚きはなかった。浅い眠りでみる夢みたいなもので、起きた現象を、ただまあそういうこともあると、何故か自然に受け入れられる。
「此処は何処なんだろう?」僕は猫に訊いた。
 尻尾の短い茶白の猫は、喉をゴロゴロ鳴らすとゆっくり頭を掻いて、それからまた幾らかの沈黙の後、なんだか申し訳なさそうに口を開いた。
「君はね、死んじゃったんだ。だから此処は君ら人の謂うところのあの世みたいな場所なんだよ」
 不意の回答に、さすがに面食らってしまって、僕は暫く声もなにも出なかった。告げられた己の死を、漠然と処理しようとするけれどいまいちピンとこない。ただ、猫が喋るような、そんな現実との境界があやふやなこの場所で、そうした即物的な死を考えることが次第にバカらしく思えてきて、僕の矮小な脳ミソは、席替えのくじを引くような簡単な結果として、その猫の話を緩やかに受容した。
「じゃあ此処が天国みたいな場所なんだ」
 そう猫に訊くと、猫はなんだか複雑そうに首を横に振った。
「なんていうかな、此処はそういった大層なものじゃなくてさ、ただ控え室みたいなものなんだよね」
「三途の川みたいな?」
「いいや、三途の川でも煉獄でもない。此処には舟も門も無いからね」
「じゃあ僕はなにをしたら良いんだろう? ずっと君とこうして話をしていれば良いのかな?」
 猫は目を細めて、少し笑って言った。
「眠るんだよ。此処ではね」
「眠る?」
「そう、ただ寝るだけ。私らはね、そんな君たちを気持ちよく寝かしつけるための存在なんだよ。君らが眠るまで隣にいて、お話をして、そうして君らが眠ったらおやすみなさいって言ってあげるんだ。夜に絵本を読んでくれるママみたいにね」
 猫は小さな手を、招くように上から下へ動かした。僕はそんな手の動きに促されて、身を屈めその場でしゃがんだ。
「そう、そしてそのまま横になるんだ」と猫は言った。
「此処で?」
「どうせ何処まで行ってもベッドなんてものは無いしね」
 僕は言われるがまま、その場で横になった。さっきまで踏みしめていた足場は、やっぱりなんだか変にフワフワで、上品な毛布のような感触だった。
 そうした場所に横たわってしまうと、自然とうつらうつら微睡みがやって来て、僕の瞼は意思に反して閉じられる。
「どうだろう? うまく眠れそうかな」猫が言った。
 午後の授業のような、理不尽な微睡みなのに、変に猫の声が頭に響いていた。
「もう少しかな」僕は言った。
「だろうね。いいんだよ、そのために私らみたいなのがいるんだから。少しお話をしよう」
「ねえさっきからさ、私ら私らって、他にも君みたいなのがいるってこと?」
 僕は目を瞑りながら訊いた。
「そりゃね、人の数だけ私らはいる。一人につきひとつね」
「犬派の人が可哀想だよ」僕は少し笑って言った。
「犬派のとこには犬がいるよ。私らはね、決まった形ってのが無いんだ。鳥にもなるし魚にもなる。勿論人にだってなるよ。その人が望むなら茨の冠をすることもあるし、螺髪でも巻いて厳かに立ってる奴もいる」
「案外、融通が利くんだ。あの世ってのは」
「死も人の頭の中から這い出ることはできない」少し猫の声が遠ざかったような気がした。「結局は思考なんだ。生きるのも死ぬのもね。コウノトリが運んできたり、死神がお迎えにくるなんてことはない。もっと即物的で孤独なものだよ。だからこうして死ぬときも、人は自らのイメージから抜け出せないんだ」
「君の話は……なんだか難しいよ」僕は目を瞑ったまま大きな欠伸をした。「そういえば、僕はどうして死んでしまったんだろう?」
「さあね」猫はさっぱりと言った。
「随分不親切だね」
「さっきも言ったけど、私らにとって死ぬも生まれるも大して変わらないんだよ。ねえ、君は自分が生まれたときの記憶ってある?」
「……ないけど」
 猫の声は随分遠くから聞こえてくるようだった。それか単に、僕の意識の方が次第に深い泥に静かに沈むように、あの場から遠ざかっているのかもしれない。
 僕が質問をして、猫がそれに答える度に、そうした乖離が強まって、瞼の裏にうっすらと映る常夜灯の灯りもなんだか完全な闇に紛れてしまう。
「……僕はこれからどうなるんだろう?」
 次第に感覚も無くなっていくなかで、殆ど無意識に出た言葉だった。
「さあね」猫は言った。「ただ、眠ったらいつか目が覚めるもんさ。眠りってそういうものだろう?」
 そんな言葉を聞くと、僕の感覚は完全に闇に放り出されて、微睡みに呑まれた。


「おやすみ」



 目が覚めると、陽はまだ昇ってなくて、暈やけた暗闇に辺りは包まれている。
 寝起きの息苦しさと別に、何か胸に重さを感じて、ゆっくりと自らの胸をみると、一匹の猫が、膨らむ胸の間に丸まって、その光る双眸を此方に向けていた。

眠り

眠り

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-10-05

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