マグカップ

思い出

 わたしの家の食器棚には、マグカップが詰まっている。旅行先で毎回、記念に買っているからだ。その中に、特に思い出深いものがある。
 それは初めての家族旅行で、お小遣いで初めて買ったマグカップ。そしてその旅行は、家族で行った最初で最後の旅行だった。
 この旅行の数ヶ月後、兄が死んだ。自分で手首を切り風呂場で死んでいた。

 兄が死んだとき、私と両親は夕飯を食べに出かけていた。兄はそのとき受験生で、勉強のために家に残ると言ったので三人で出かけることになったのだ。楽しくご飯を食べて帰ってみたら、あの有様だったというわけなのである。
 母は半狂乱になり、兄の名前を叫ぶ。「悠也!悠也!」とけたたましい声で叫び続ける。父は母に落ち着けと言いつつ警察やら救急に電話をするがその言葉は支離滅裂で、落ち着けてはいないことがよく分かる。かくいう私は、ただ呆然とそこに立ち尽くしていた。現実ではないようで、でも確かにそれは起こっているのだということをどうにか飲み込むのに精一杯で、何もできなかった。
 警察の捜査が入り調べてみたところ他殺の線はないようだった。遺書も見つかり、そこには「さようなら」と無気力な五文字が並んでいた。筆跡も鑑定し兄のものであると確かになり、自殺であると片が付いた。

 初めての家族旅行では、伊豆に出かけた。受験生である兄を無理やり説得し、なんとか一家全員での旅行にこぎつけた。兄とは仲が良かったのでとても嬉しくて、荷物の準備も一緒にやった。
 「何が必要なんだろうね?」
 「とりあえず下着とか服じゃないか?歯ブラシとかも必要かも。母さんに聞いてくるよ。」
 「ありがとう!」
 そんな他愛もない会話をしながら準備をした。準備段階からとてもワクワクした。
 ワクワクしたまま、旅行当日を迎えた。新幹線では兄の隣を陣取り、うんうん、と聞いてくれる兄に対して話しかけ続けた。伊豆に着いてからも、兄といられることが嬉しくて、兄が勉強をしていないことが嬉しくて、ずっとそばを離れなかった。

 これが、兄と行く最後の旅行になるなんて思ってもみなかった。

 自殺をしたとき、兄はまだ17歳だった。18歳の誕生日も迎えずに、この世を去ってしまった。受験が終わったらまた旅行に行こうね、なんて話していたのに。18歳は盛大に祝おうね、そんな約束もしていたのに。どちらも叶わなかった。どうして自殺をしたのか、今となっては知る術はない。

 兄がいなくなった数ヶ月後、ある女子大生が家を訪ねてきた。亜里沙さんというらしい。その時は家にわたししかいなかったので、チェーンをかけたままドアを開けた。
「どちら様ですか?」と聞いた。すると、名乗った後に「悠也さんの同級生です。」と静かに答えた。お兄ちゃんの同級生?今更?わたしは疑念を抱いた。もしかして、この人が自殺の原因じゃないかと。
 しかしそれは違うらしい。彼女は、真相を話しに来てくれただけだという。学校でどんなことがあったのか、わたしは知る余地がなかった。なので、彼女の話だけが兄の死の真相を知るチャンスだった。
 わたしは彼女を招き入れると、リビングのソファに座らせお茶を出した。
 「悠也は」
 いきなり兄のことを呼び捨てにした彼女に、わたしはストップをかけた。
 「すみません、もしかして兄の彼女さんですか?」
 彼女は目を丸くして、
「どうしてわかったの?」
と答える。呼び捨てだったから、と答えると、そう、と短く答える。
 「まあ、別れたんだけどね」
 そう自虐的に笑う顔が、なんだか兄の表情に少し似ていた。
 「あなたが振ったんですか?そのせいで兄は自殺したんですか?」
 失礼とわかっていながらも、聞かずにはいられなかった。すると彼女は、
「わたしは振られたの。受験に集中したいからって。」
と予想外の答え。じゃあなぜ兄は自殺したのだろう。その後、兄の昔話を少しして亜里沙さんは帰っていった。

 亜里沙さんが帰ったあと、わたしの頭の中は兄の自殺のことでいっぱいだった。普通なら受験ノイローゼだと結論づけるだろう。しかし、兄はあくまでも前向きに受験に取り組んでいたように思う。少なくともわたしの目にはそう映っていた。分からない。

 兄の部屋に入ってみた。自殺してから初めてのことだった。すると、ノートいっぱいに書き殴られた「死ね」という文字を見つけた。ああ。そういうことか。死ね、と言われたから死んだんだ。こんな簡単なことになんで気がつかなかったんだろう。どうして部屋に入ってみようと思わなかったんだろう。

 兄のことが大好きだった。もう一緒に旅行に行くことは叶わないけれど、あの時買ったマグカップは一番の宝物だ。一緒に選んでくれてありがとう。

マグカップ

マグカップ

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-10-03

Copyrighted
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