星降る夜に
いつものように屋上に出て星を眺めていた。こういう星がよく見える夜は、築二十年木造ボロアパートも風情があっていいなと思える。アパートのまわりが木で囲まれているから、森の中で星を観察しているような気分になるのかもしれない。
冷蔵庫のなかに入っていた気の抜けたアップルフィズの残りをちびちび飲んでいると、なんだか無性に寂しくなってきた。誰かこないかと思い、辺りを見渡してみると、ちょうどハコちゃんが屋上にやってきたところだった。
ハコちゃんは僕に気付くと大きく手を振った。
「やっほートオルくん」
「やっほーハコちゃん」
ハコちゃんは僕の隣に座り、持参した缶ビールのプルトップを開けた。
ハコちゃんは僕と同じくこのボロアパートに住んでいる。一年前この屋上ではじめて話をした時についたあだ名がハコちゃんだ。ハコちゃんの本当の名前は『葉子(ようこ)』と言う。
「ハコちゃんお風呂屋さん行ってきた?」
「そうだよ。何で?」
「いい匂いするから」
「そう?」
ハコちゃんが自分の体の匂いを嗅ぎはじめた。
「てっちゃんは?来てないの?」
「そのうち来るんじゃないかな。あ、ほら。噂をすれば」
振り向くと、てっちゃんが僕らのほうにむかって歩いてきていた。心なしか足元がおぼつかないような気がする。
「やっほーてっちゃん」
ハコちゃんがてっちゃんに気付いて挨拶をした。てっちゃんは少し寂しそうな薄ら笑いを浮かべながら「おう」と返した。ハコちゃんの隣に座り膝を抱えてぼーっと下を見つめている。
「てっちゃん、何かあったの?」
ハコちゃんが言った。
「まあな」
てっちゃんは曖昧に頷いただけで、その後を続けようとはしなかった。
てっちゃんが何も言わないから僕らも何も言わない。言いたくなったら言うだろうし、言いたくないんだったらそれでもいい。
僕は星を眺め、ハコちゃんはビールを飲み、てっちゃんはぼーっとして、それぞれの時間を過ごした。
ふと僕は一年前、初めて屋上にきた日のことを思い出した。
☆
連日の雨でたまった洗濯物を干したくてうずうずしていた僕は、夜になって雨があがるとすぐにベランダに洗濯物を干した。三日もためた洗濯物はスペースが足りず、残りのものは屋上に干すことにして部屋を出た。
屋上につづく階段の前で、ばったりてっちゃんに会った。そのころはまだ『斜め向かいのチンピラ風の西川さん』くらいの認識しかなかった。
お互い夜の挨拶をしたあと、洗濯籠に目をとめたてっちゃんが「洗濯物干すの?」と笑いながら言った。
「ええ、まあ。西川さんは?」
「星を見ようと思って」
「星ですか?」
「いいよ、星は」
僕とてっちゃんは連れ立って屋上に向かった。雨が上がったばかりの空には、すでに雲は一つもなく、満点の星が輝いていた。
「きれいだね」
僕が言うと「そうだろう」とてっちゃんが得意そうに返した。僕らはしばしの間、無言で夜空に輝く星を眺めた。
「今にも降ってきそうだな」
「雨が?」
「星が」
「そうですね」
星が降る、か。見た目はチンピラっぽいのに、なんだかロマンチックなこと言う人だな、なんて思っていたっけ。
「星降る夜、こんなに綺麗な夜なのに、あの子どうしたんだろう」
そう呟いたてっちゃんの視線の先には、事故防止のために設けられた柵に寄り掛かり、泣きながら一人でビールを飲むハコちゃんがいた。
☆
「初めてここで会った日のこと覚えてる?」
ハコちゃんが突然言った。
「覚えてる。僕もちょうど同じこと考えてた」
てっちゃんは何も言わない。
「あの日、ずーっと大事に大事にしてた金魚が死んじゃってさ、あんまり悲しくて、どうしていいのか解らなくなっちゃって、とりあえず飲んで忘れるしかないなぁと思って泣きながらひたすらビール飲んでたら、そこにトオルくんとてっちゃんが来たんだよね」
「ハコちゃん一人で5本も開けててびっくりしたよ」
「あたしもびっくりだった。今までほとんど口をきいたことない西川さんが現れて『悲しいことでもあったの?』なんて言うんだもの。今だから言っちゃうけど、あたし、てっちゃんのこと怖い人だと思ってたの。だからあの時、声かけてくれて嬉しかっていう気持ちよりも、あたし何されちゃうんだろうて恐怖の方が強かったんだ」
ハコちゃんひどいな。まぁ僕もそれまではてっちゃんとはあんまり関わりたくないって思ってたけど。
「あの時てっちゃん、あたしに言ったよね。『空を見ろ、星を見ろ』って。『空の広さ、星の輝きを見たら自分が悩んでることなんてひどくちっぽけで、滑稽なことに思える』って」
「言ってたね、そういえば」
「あたしの金魚のことをちっぽけで滑稽だなんてひどい人って思ったけど、あの日の雨上がりの夜空は本当に綺麗で、少しだけ悲しい気持ちが薄れたんだ。その後てっちゃんもトオルくんも一緒にお酒飲んで騒いで楽しかったよね。今でも時々悲しくなるけど、てっちゃんの言ってた通りに空を見ると、星を見ると、やっぱり少し気持ちが楽になるんだ」
てっちゃんは相変わらず下を見ている。僕とハコちゃんは星を見ながらてっちゃんの言葉を待った。
少し間をおいて、てっちゃんが顔を上げた。
「ふられたんだ」
低い声でてっちゃんがつぶやいた。僕とハコちゃんは顔を見合わせ、てっちゃんのほうに向き直った。
「どうして?結婚の話もしてたんでしょ」
僕が言うとてっちゃん長いため息をついた。
「それがさ、あいつが言うには俺は優しすぎるんだと」
「優しすぎる?」
それはどういうことなんだろうか。自分の彼氏が優しいならすごくいいことじゃないか。
「あいつは俺の優しいところが好きだって言ってた。だけど優しすぎるのは嫌だって。誰にでも優しくて、誰が一番大切なのか解らないって」
てっちゃんは再び下を向き、独り言のようにぶつぶつ喋った。
「俺はあいつが大好きだったんだ。世界で一番大切な存在だったのに。何でこんなことになっちゃったんだろ。何が間違ってたんだろ。どうしてこんなことになったんだろ」
傷のついたレコードみたいに同じ言葉を繰り返すてっちゃんの手を、隣に座るハコちゃんが強く握りしめ、あっけらかんとした調子で言った。
「ふられるくらいどうってことない。女なんてさ、それこそ星の数ほどいるんだから、てっちゃんならそのうちまたいい人見つかるよ」
ハコちゃん、うまいこと言うな。
「てっちゃん言ったじゃない。例え世界に裏切られても星は俺らを裏切らない。いつも空で輝いてくれている。だから希望を持てるって」
うつむいていたてっちゃんが勢いよく顔をあげた。
「え、俺、そんな恥ずかしいセリフ言ったのか?」
「言ったよ。僕がバイトクビになったときにね」
会社の金を横領したって汚名着せられて解雇された時、優しすぎるてっちゃんは一緒になって怒って、泣いて、励ましてくれたっけ。
「お前には悲しい時に見あげられる星がついてる。泣きたいときには、すぐ側に俺がついてる、とも言ってたよ」
てっちゃんは顔をしかめ、また長い溜息をついた。
「いいんだよ、泣いても」
「いや、泣きはしないけどさ。そんなことお前らに言ってたなんて全然覚えてなかった。恥ずかしい奴だな、俺って」
「今頃気づいたの?」
ハコちゃんが可愛らしく笑って、空を仰いだ。
「てっちゃん、星が綺麗だよ」
僕もてっちゃんも同じように空を仰ぐ。あの日の、あの雨上がりの空には劣るけど、墨染の夜空には星が輝いていた。
すぐに悩んだり落ち込んだりする、弱い僕らを照らす希望の星が、確かにそこにあった。
「あたし、てっちゃんのこと大好きだよ。あ、もちろんトオルくんも大好き」
「僕もてっちゃんのことも、ハコちゃんのことも大好きだよ」
てっちゃんには星がついてる。すぐ側には僕らもいる。
目が合うと、てっちゃんは少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「俺も、お前らのこと大好きだよ。星空と同じくらいにな。俺には星といい友達が二人も付いてんだから、ふられるくらいどーってことねーよ」
それは強がりだったかもしれないけど、そう言ってもらえて僕は、それにきっとハコちゃんもすごく嬉しかった。
「て言うか何で僕たちお互いに告白しあってんだろうね」「ねーおかしいよねー」なんて笑いながら、そうして僕らはいつまでもいつまでも、夜空に瞬く星を眺めていた。
≪fin≫
星降る夜に
ここまでお読み頂きありがとうございました。
彼らのお話はまだまだ続きます。
次のお話でもお目にかかれれば嬉しいです。