ショートショート其の一
エヌ氏は、特徴がないのが特徴とでもいうべき、平凡極まりない男であった。
父親は一般的なサラリーマンで、母親は時折パートをするくらいの専業主婦。
エヌ氏自身も小中高と普通に進み、人並みに勉強してそれなりの大学に入った。
大学では周りと同じように遊び、そして時には学問もやった。
不況の中を世間に流されるように就職活動に励み、そこそこ苦労して内定をもらった。
大学の卒業後は、特に良いわけでも悪いわけでもない職場で、これまた高くも低くもない給料で働いた。
そんな生活を続けること数年間。エヌ氏も恋人ができて結婚し、やがて子供も授かった。
何の変哲もない、中肉中背の三十路男。
強いて挙げるとすれば、真面目さが人より目立っている。
いつしかエヌ氏は、そんな自分の境遇を嘆くようになっていた。
こんな、どこにでも転がっているようなつまらない一生。
いっそのことなにか大犯罪でも起こして、一躍有名人になってやろうか――。
そんな考えが浮かぶこともなくはなかったが、両親や妻子のことを考えるととても実行できなかった。
しかしエヌ氏は次第に、自分への絶望が膨張していくのを無視できなくなってきた。
自殺、しよう――。
エヌ氏の脳裏には、いつしかその囁きが絶え間なく響くようになっていた。
取るに足らない社会の歯車として一生苦労し続けるくらいならば、今この場で自殺したほうが楽に違いない――。
まだ悩むところはあったが、とうとうエヌ氏は決断に至った。
思い立ったが、吉日。
そうつぶやくと、エヌ氏は自殺の準備を始めた。
まずは、家族に生活費を残してやらないとな――。
そう思ったエヌ氏は、まず自分に多額の保険をかけた。
これで、安心して楽になれる――。
ところが、一年以上契約していないと自殺では保険金が降りないということを、エヌ氏はそのとき初めて知った。
エヌ氏は怒るでも悔しがるでもなく、ただ頷いただけだった。
もう、一年が経とうとしていた。
あれからもエヌ氏は、以前と全く変わらずに働いていた。
件の期限を気にする様子は、一向に見えなかった。
それでも手帳にはきちんとその日が記されており、エヌ氏は予定の日になるとそれを理解した。
ああ、死ぬのか――。
喜ぶでも、悲しむでもなかった。
エヌ氏は、自殺が予定されていたから実行するに過ぎなかったのだ。
自死にあたって、他人には迷惑をかけないようにしよう。
ずっと、エヌ氏はそう思っていた。
まず手始めに、同僚にこう告げた。
「俺、もうこの会社に来られないんだよな」
同僚たちは、転職か、と尋ねた。
エヌ氏はそれを適当にはぐらかしたが、いつの間にかエヌ氏の送別会が開かれることになった。
会の席上でエヌ氏は、少し悲しくなった。
次に、まだ幼い我が子にも何か伝えようと思った。
「なあ、パパはな、しばらく遠くに行っちゃうんだ。おりこうさんにしてるんだぞ」
そう語りかけると子供は
「うん、わかったよ」
と元気よく首肯した。
なぜかエヌ氏は陰鬱な心持ちになり、涙が頬を伝った。
両親と妻には、何も伝えないつもりだった。
いよいよ、決行のときが刻一刻と近づいていた。
真夜中の、静まり返った自宅。
天井にくくりつけられた太いロープを前にして、エヌ氏は号泣した。
なぜ、俺は死なねばならないのだろうか――。
そんな疑問も、胸中から湧き出てきた。
しかし、それでもエヌ氏は自殺せねばならなかった。
なぜなら、それが予定されていたのだから――。
覚悟を決めると、エヌ氏は椅子に乗って、首に縄を回した。
次の刹那、木の椅子の倒れる音が静寂をかき乱した。
ショートショート其の一
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