通学路と紫陽花
子供の頃に毎日歩いていた通学路を、大人になってまた歩いてみると目線が全く違うことに困惑する。子供の頃の記憶として蘇ってくる情景と、今自分がここで見ている景色はまるで違っていた。桜並木になっているのだが、木が思っているほど高くないことを今になって知る。道が妙に狭く感じる。そういうことか。子供にとって世界がもっと広く、大きく見えるのは、結局身体が小さいということが影響しているようだ。そんなことをふと考えた。桜はすでに散って、ツツジも見頃が終わり、緑色が勢いを増してくる時期であった。あれほど路上に花の残骸がひしめいていたのに、今は欠片も残っていない。誰かが掃除しているのだろう。そろそろ紫陽花の季節になるのか。それほど花に興味があるわけでもないのに、Tは華やかな見栄えで自身を繕う生き方に少し興味を感じてしまった。ふと心中で起こった気まぐれかもしれない。
何もかもうまくいかない人生を送ってきて、こうして冴えない中年の段階に達すると、これまで意識をしていなかったものが突然視界に入りだしてしまったりする。もう少し花に注意を向けるように生きてきたら、こんな人生にはなっていなかっただろうか。心に一定の穏やかさを維持しながら生きていくことができただろうか。などと、たいして本気で思ってもいないことを安易に内省してみると、本当にそのような気持ちが沸き起こってくる気もした。人間の感情などというものは、いい加減で場当たり的で移ろいやすいもののようだ。人間だって自然の一部なのだから、感情だって天気の移り変わりとたいして変わらない。いきなり雨が降ってきたり、そうかと思えばいきなり晴れ渡って切れ長の雲がゆっくりと動いていたりする。そうなのだ。感情も自然の一部だ。予測がつかないものだが、一定の周期は持っている。すべては自然に属しているのだから循環からは逃れられない。それでも人間だから、循環に逆らおうとしてなんらかの痕跡を必死になって残そうとする。それを哀れな抵抗などといって、嘲るような奴にもなりたくない。
俺の心も何か大きな循環の中に組み込まれており、心の中で回っているものがあるのだ。そう思おうとした。いや、しかしそんな考えは嘘っぱちで心というものは、やはり自然から外れた得体の知れないもので、人間にも制御しがたい何か恐ろしいものなのだろうか。心は森羅万象、宇宙と地球の中で動いている原理、時空間の世界からも逸脱しているのだとしたら。心というものは厄介だ。この心というやつに突き動かされて、そそのかされて、無茶苦茶にされて、人生がなんだかわけがわからなくなった。決まりが悪くて、でこぼこの多い人生ではあった。とはいえ結局はこじんまりとした小市民的なものだったのではあるが。そうして、この心というやつは、俺以外の人間も皆持っているはずだ。そう考えると少し不気味な気分になる。重苦しくありながら、自分の肉体が軽く浮遊していくような気持になった。皆俺と同じように心を持っているらしい。しかし、こういう考え方はあまり健全ではない。やはり、身の回りにある桜やツツジなどの延長上に、俺の心もあるはずだ。そういうことにしておこう。心が自然の世界から隔離され超越したものと捉える見方は、何か傲慢である気がした。
さて、そんな考えはもうどうでもよくなった。Tは早く紫陽花が見たいと思った。今年も雨が降る時期になると、葉の先から思わせぶりな涙を流して、自分の存在を誇示してくる奴らがいる。ほんの短い時期に、鮮やかさをひけらかして、すぐに皺だらけになって干からびてコンクリートの上で命を終える。飽きもせず延々とそのサイクルを続けている。自然には何の意志もないのだろうか。人間の意志と自然の意志は重なり合うのだろうか。Tはコンクリートと土の境目を見ながらふと考えた。蟻の行列が両世界をまたいでいた。
通学路と紫陽花