最後は胸を張って

 カンカンカンカン、と踏切が鳴る。
 この音を聞くたび、自殺へ踏み切ることを考える。人が死ぬ瞬間は、走者ががゴールテープを切る瞬間に似ている。その瞬間、全てのことに決着がつくのだ。過去の因縁も、しがらみも、敵味方の隔たりさえも置き去りにして、ただ結果だけが残る。
 高校二年生、冬。カケルは人生のゴールを探していた。

 ***

 乗島(じょうしま)カケルは、将来を嘱望された陸上選手だった。幼い頃から走ることを愛し、地域の運動会では毎年リレーの代表選手に選ばれた。最終結果はまちまちだったが、彼は誰にも抜かれなかった。中学生になると、部活に入らずクラブチームに所属した。学校に陸上部が無かったからだが、これが功を奏したのか、彼の走力はぐんぐん上昇。二年生で既に三年生を凌ぐ実力を身に付けていた。高校はスポーツ推薦で公立の進学校に合格。その頃には手足がスラーっと伸びて、体格で先輩に劣ることはなくなった。彼は速かった。
 陸上のプロでやっていけるとは到底考えられないが、とにかく彼は真剣だった。走ることが好きだった。高校の陸上は筋トレ重視で、彼の欲求を満たさなかったが、もっと速く走るためなら多少の無理は厭わなかった。仲間がカケルに一目置くようになるのは、このすぐ後のことである。彼は一年生最初の大会で、華々しいデビューを飾った。百メートル走は惜しくも四位に終わったが、二百メートル走は三位、ハードル走も三位、四百メートル走に至っては全体で一位を獲得した。彼は二百メートルを過ぎた辺りでトップスピードに到達する、ややスロースターターだった。
 この結果を受けて、それまで新入生に挨拶もしなかった号田(ごうだ)が声を掛けてきた。
「さすが推薦組。この調子で全国行けよ」
「はい」
カケルは満面の笑みで答えた。高校生になるまで、自分の走力が大人に認められるのは当然だった。周囲のレベルが上がり、なかなか活躍のチャンスが得られない中で、漸く高校でも存在が認められたように感じたのだ。陸上部顧問の号田は、腕を組んだまま椅子に腰掛けた。『俺は見ているから、お前ら勝手にやれ』、という意味。これが練習開始の合図なのだ。カケルは、中学と高校は随分違うのだな、と思った。
 陸上部の練習は男女混合で行っている。と言っても、グラウンドを交互に使う為に相談しながら実施するだけで、練習内容は一致していないことが多い。男子がトラックを走っている間に女子が外周を走ったり、女子がハードル走をしている間に男子が階段ダッシュをしたりする。
 その日は、男子がグラウンドでタイヤを引きづっている間、女子が筋トレとストレッチを行っていた。タイヤ引きはハードなので各自ノルマを設定して実施する。平均は一周半くらいだが、カケルは既に二周回り、三周目に突入しようとするところだ。汗が目に入って痛い。膝がキシキシと軋み、一歩一歩が鉛のように重い。そんな中、汗でベタついた髪の隙間から、女子の練習風景が目に入った。声は聞こえないが、顧問の号田が、口から唾を飛ばしながら懸命に何かまくし立てている。女子は全員正座しているようだ。正座は膝に悪いからしないほうが良いのにな、とカケルは少し外れたことを考えながら、視線を戻してタイヤを引き続けた。それにしても、あの冷静そうな顧問が生徒を叱ることがあるのだな、と二周半を過ぎた辺りで思い至る。女子の誰かが、よっぽど気に入らないことをしたに違いない。筋トレを嫌がって勝手に回数を減らしたとか、楽なやり方をしたとか、そんなところだろう。俺はサボらない。だから、顧問の先生に叱られることもない。カケルは得意になって、いつもより半周多くタイヤを引きづった。帰ったあと、寝る時になって全身が痛むから弱った。
 練習が始まる前、顧問が頻繁に「大会で結果を出すには、チームの空気を良くしなければならない。周りが努力すれば、サボり癖のある奴もきちんとやるようになる。部長を中心に声を掛け合うように」と告げるようになった。カケルは、例の件だ、とピンと来た。女子の中にサボり癖のある生徒がいる。一人でもそういう生徒がいると全体の士気が下がるのではないかと、顧問は懸念を抱いているようだ。正直男子には関係ないと感じながらも、カケルは教師の目を見詰めて「はい」と答えた。
 カケルは顧問のお気に入りだったが、滅多に声を掛けられなかった。たまに近寄ってきたかと思えば、「順調か」、「邪魔されずに練習できてるか」と当たり障りのないことを訊くばかりで、アドバイスなどは特になかった。他に、「勉強はどうだ。補習で大会に出られない、なんてことはないよな」と尋ねることもあった。カケルは控えめに笑顔を作って「はい、大丈夫です」と返した。カケルは勉強も苦手ではなかったし、将来的に学歴が必要になるであろうことも自覚していたので学業を疎かにもしなかった。実際、高校の授業内容は徐々に深化しつつあったが、難しくなっているという実感はなかったのである。そう答えると号田はホッとして、「その調子でやれよ」と軽くカケルの背を叩く。痛くはないが、頑張ろうという気にもならないことが、我ながら不思議だと感じた。
 二週間ほど経っても、顧問は「雰囲気作りが足りない。チームで一丸にならないと試合に勝てない」という話を繰り返した。カケルを含めた部員たちには、自分たちの連帯が足りていないという実感がないので、何を改善すべきか分からない。舗装道路を前にして、ここに空いた穴を埋めろと指示されているに等しい。彼らはまず、アスファルトの窪みを探すところから始めなければならなかった。
 その日、女子がグラウンドを走っている間、男子は地面にマットを敷いて筋トレをしていた。陸上には体幹が重要なので、腕で身体を支えて真っ直ぐにキープするトレーニングをよく実施している。
「はい、左終わり。次、右一分」
部長の声掛けに合わせ、体勢を変えて腹部を浮かせる。これだけでも結構キツい。三十秒も経つと、腕がぷるぷるして地面には汗の水たまりができる。あと半分だ、と気を取り直したその時、「おい望月、こっち来い!」と天地が引っ繰り返ったような大声が響いた。それがあの陸上部顧問の口から放たれているとは、カケルにはにわかに信じられなかった。
 あと二十秒。男子全員が肉体の疲労と戦いながら、息を呑んで事の成り行きを見詰めているのが分かった。
「なんだその走り方。やる気あんのか」
「はい」
望月は俯きがちに、か細い声で応答した。
「はいじゃねぇよ。どう見てもやる気無さそうだから呼んだんだろうが。そういう態度とられると、こっちもやる気無くなるんだわ。俺が顧問下りてもいいわけ?」
「いいえ。すみません」
「やる気無いなら帰っていいから。やる気あるなら戻って」
「はい」
そう言って、望月はおずおずとグラウンドに戻った。確かにフォームが他の人より縮こまっている。しかし、一見して無気力と断じられるほど気の抜けた走り方でもないと感じる。単純に、叱られた直後だから真剣に走っているのだろうか。それとも、始めからあの調子だっただろうか。女子を気にする余裕のなかったカケルには分からなかった。そのままぼーっと望月を見ていた彼は、部長の号令を聞き逃して右の体幹を余分に十二秒やってしまった。バランスをとるため、左も同じだけやった。その後は、身体を捻るたびに腹の奥がずしりと痛んだ。
 翌日、カケルが学校の廊下を歩いていると、一年三組の教室の隅に望月の姿を発見した。彼女はいつも通り猫背になってちょこんと席に腰かけている。時々友人がやってきて一言二言、言葉を交わし、また頭を下げてしまう。チームの空気を悪くすると非難されていた彼女は、孤立するでもなく、団結するでもなく、教室の空気と同化していた。意識しなければ見逃してしまうほど小さな、小さな生命反応。それを見つけたとき、カケルは火星に送られた宇宙飛行士の気分で、若干の感動をさえ覚えた。しかし、その時ちょうど次の授業の予鈴が鳴ったので、あの日陰に生えた茸のような異星人に声を掛けることはできなかった。
 練習が始まっても、望月、というか女子部員に接触する機会はほとんどない。部長や副部長といった役職につけば話は別かも知れないが、カケルはまだ一年生、毎日のルーティンさえ満足にこなせない状況だった。毎日のルーティンとは、練習前に更衣室を整頓しウォーミングアップをすることと、練習後にグラウンドをトンボがけすることだ。一度、顧問が更衣室の点検に訪れてゴミを見つけ、男子部員全体をひどく叱ったことがある。『ゴミを落とした奴も、それを注意しなかった奴も同罪だ』と、確かそんなことを言っていた。顧問を信用しているカケルも、その時ばかりは疑問を抱かずにいられなかった。そのゴミは、最後に部屋を出た人間の落とし物かも知れないではないか、と考えたのだ。しかしそうした反論が許される雰囲気ではなく、全員で更衣室を水拭きするという連帯責任を甘んじて受け入れたのだった。
 カケルが望月に声を掛け損ねたこの日、顧問は練習前に次のような話をした。
「集団の基本的なルールを守れない奴は、どこへ行っても上手くいかない。受験も、就職も失敗するに決まってる。お前らそんなつまらない人間になりたいのか。嫌なら、今後行動を改めるように」
さっぱり何の話だか分からない。後から先輩に聞いた話では、顧問はこの日、別の女性教諭に協力を仰いで女子更衣室の点検をしたそうだ。そこで見つかったのがピンク色の口紅……。化粧禁止の学校にメイク道具を持ち込んだことが、彼には許せなかったそうだ。道理で始めから何となく怒り口調だった訳だ。しかしこの話にはオチがあって、顧問が我が意を得たりとばかりに示した口紅は、ただの色付きのリップクリームだったそうだ。確かに唇の血色を良くするが、その効果は微々たるものらしい。第一、彼が口酸っぱく繰り返したルール、つまり校則には、色付きリップを規制する文言がない。全ては号田の勘違い、独り相撲だった訳だが、このエピソードは後々まで尾を引き、陸上部に確執をもたらすことになる。
「望月、ちょっと来い」
問題は、このリップクリームの持ち主が、運悪くも望月であったことなのだ。
 そのあと号田が彼女に何を言い、その結果どうして彼女が涙を流さねばならなかったのか、部長の号令でマットを取りに行ったカケルには分からなかった。ただその時は、顧問が口紅と呼んだものが実はリップクリームだったと知る由もないカケルは、彼女が叱られたのは自業自得だろうと思った。
 夏休みに入っても、陸上部はほとんど毎日練習を行う。暑いので時々休憩を挟みながら、走ったり筋トレしたりフォームを確認したりして、それぞれの弱点を補っていく。この期間は練習時間が長すぎて中弛(なかだる)みしやすい傾向にあるのだが、今年は誰も彼も真剣だった。顧問の号田がピリついているのを肌で感じ取ったからだ。
 先日行われた、陸上部の晴れ舞台であり三年生の引退試合でもあるインターハイ、全国高等学校総合体育大会。そこでの結果が、顧問には気に入らなかったらしい。確かに、強豪校と謳われた時代から見れば惨憺たる結果かも知れない。大会の次の練習から、号田の指導にはいよいよ熱が入りはじめた。二代前の先輩と、引退したばかりの先輩とを比較して、「今年の奴らは駄目だった」、「休み時間に一緒になってふざけていて、練習とのメリハリが付いていなかった」などの苦言を呈しては先輩をけなした。カケルは先輩たちを特別慕ってはいなかったが、ちょっと酷な言い草だと感じる。実際、今年引退した先輩方は賑やかで、悪戯好きで、お喋りが多かったけれど、明るくて良い人達だった。やる時は真面目にやっていた。これ程こき下ろされる謂れはないはずだ。
 そして何より、自分が二年後に卒業したとき、このように語り継がれるところを想像するたび不快だった。顧問という立場からの一方的な評価で、自分達を語って欲しくはない。引退した先輩方も、今頃そう思っているのではないだろうか。顧問のお眼鏡にかなう結果を出せなかった先輩方が、この上なく不憫だ。
 やがてお盆が近付き、陸上部で集まってプールへ行こうという話が持ち上がった。カケルの頭には顧問のしかめっ面がうっすらと浮かんだので、最初は遠慮していたが、勢いに押されて参加した。こうした仲間意識や楽しげな雰囲気が育まれたのは、紛れもなく引退した先輩方の功績である。カケルは水着などの荷物を詰め込みながら、初めて訪れた高校生らしいイベントに胸躍らせていた。
 当日、県で一番大きい駅に待ち合わせ、皆で目的地へ向かう。隣県にある、遊園地と一体化したプール施設である。満員電車に揺られ、満員のバスに乗り換えて、渋滞に巻き込まれながら人でごった返すプールに到着した。家族旅行なら煩わしいのに、友達と居ると何だかんだ楽しい。
 「なぁ、私服姿の加賀先輩って超レアじゃね?」
行きの電車で話し掛けてきたのは、同級生の割下ショウだ。彼は世渡り上手で顔が広く、先輩にもあの号田にも受けが良い。そして口が軽い。カケルをプールに誘ったのも彼だし、例の口紅に似たリップの件について教えてくれたのも彼だ。カケルは加賀先輩と言われてもピンと来なかったが、顔を見たらすぐに分かった。女子陸上部の部長、加賀なごみ先輩のことだ。長身痩躯のスラッとした身体に、シックなボーダー柄のTシャツとジャンパースカートがよく似合う。普段見ている運動着姿やユニフォーム姿とは異なり、深窓の令嬢のような、お淑やかなオーラを身に纏っていた。
「俺、先輩のこと好きだな」
「は?」
割下が急におかしなことを言い出すので、カケルは面食らった。一瞬生まれた空白の時間に、電車がガタン、と音を立てる。焦点が合わないほど速く速く、景色が後ろへ流れていく。
「あ、いや、恋人にしたいとか、そういうんじゃないよ。ただ、綺麗だなぁって」
「ああ、そういうこと」
それなら分からないこともない。加賀先輩は、高校生とは思えないほど大人びていて、モデルかマネキンのように無機質に感じる。言葉は悪いが、人間として付き合うよりは、物としてコレクションしたい類の美しさである。人形のようにこの人を着せ替えて遊びたい。上等な家具を設えるように、この人を家に置いておきたい。カケルはこの友人を微かに軽蔑した。そして、自分のことも心の中で嘲笑った。
 更衣室で着替えを済ませて、また集合場所に戻る。カケルは少し不安だったが、自分と同じスクール水着姿の男子がちらほら見えることに安堵した。一方、女子になると全く事情が異なるらしく、スクール水着を着ているのは例によって望月ただ一人だった。彼女は白い上着を羽織っているものの、前開きから覗くテラテラした紺色の存在感は否めない。彼女は相変わらず俯きがちだが、若干頬を赤らめているように見えた。
 陸上部員たちは喜び勇んで人の犇めき合うプールへ飛び込み、流れるプール、ウォータースライダー、子供用の遊具付きプールなど遊び歩いたが、カケルは一時間ほどで疲れ果ててしまった。彼は人混みが得意ではない。というか、集団で騒ぐのがあまり得意ではなかった。だからこそ個人種目が多い陸上に惹かれたのか、それとも陸上をやっているから社交性が育まれなかったのか。恐らく両方だろう、とカケルは考える。もし走るのが遅かったら、自分の人生はどうなっていたか分からない。もっと強烈に仲間を欲しがっただろうか。こうしてプールで遊べることに狂喜乱舞しただろうか。想像できない。かと言って孤独を恐れる高校生の心理が理解できないでもなかったし、単純に憧れる気持ちもあった。彼は学生が楽しむためだけに企画されたイベントーー体育祭や文化祭を、真剣に楽しめたことがなかったからだ。
 そんな陸上部員が、ここには偶然もう一人居合わせた。そう、望月だ。彼女もまた、文字通り人の波に揉まれ、カケルのいる日陰に避難してきた。上着を取り去った身体はまな板のように薄く、きちんとご飯を食べているのか心配になる肉付きだった。彼女は黙って、カケルの左隣に立つ。暫くお互いに無言だった。教室の隅にひっそり生える、茸のような女の子が、今は磁石のようだった。見えない力が、カケルの意識を望月のほうに引っ張っている。潮が退いては押し寄せるように、その波は着実に勢いを増していた。
「あの、望月、さん」
「はい。乗島くん、だよね」
望月は前髪の下で目をぱちくりさせて答えた。望月がカケルの名を知っているのは当たり前なのだ。カケル自身は目立つ行動をしないが、教師にも先輩にも一目置かれているし、新人大会では賞も獲った。この学校の陸上部員で彼の名を知らない訳がない。対して、カケルが望月の名を呼んだことは驚嘆に値する。もちろん、望月は顧問に悪い意味で一目置かれる存在だし、まさにそれが理由でカケルも望月の名を知ったのだが、それは聞き流してもおかしくない。カケルにとって、いつ部活を辞めても差し支えない望月のような部員は取るに足らない存在だろうと、彼女は始めから諦めていたのだ。
 兎に角これが、カケルと望月が初めて言葉を交わした瞬間だった。丁度よいと思って、カケルはずっと気になっていたことを訊いてみることにした。
「望月さんは、どうして陸上部に入ったの?」
望月は口を半開きにしてカケルを見ている。質問の意図が分かりづらかったのだろう。誤解がないよう、カケルは慌てて内容を補足した。
「あ、いや、変な意味じゃなくて。純粋に気になったから。俺は小さい頃から陸上をやっていて、そのまま成り行きで高校も陸上部に入ったけど、望月さんは高校から始めたんだよね。どうしてかな、って」
カケルの口調は、自然と子供に向けるような優しいものに変わっていた。唐突な質問に戸惑った表情を浮かべる彼女を見て、何となく守ってやらねばならない気がしたからだった。
「私、中学では吹奏楽部だったんだ。一応文化部だけど、半分運動部みたいなものだから、練習の前には外周を走るのがお約束だった。周りの友達は嫌だ嫌だって言ってたけど、私は走るの、嫌いじゃなかった」
「それで陸上部に?」
「うん。いつの間にか、トロンボーンを吹くより、走るほうが好きになってたんだ。走るのって、人の根幹に関わる技能だと思う。走ってると、音楽とか物語とか、人間らしいことが色々思い浮かぶから」
いつも無口で、ぼんやりと生きているように見える望月が、これほど多くのことを考え、語る力を持っているとは。今度はカケルが驚く番だった。木の下にこっそり生えていると言っても、茸はやっぱり、茸なりに生きているのだ。
「走るとはどういうことかなんて、考えたこともなかった。俺はむしろ、走っている間は何も考えず済むから好き」
「そっか」
望月は顔を正面に向けて、色とりどりの浮き輪が漂う牧歌的な光景を眺めた。いやひょっとすると、もっと遠くを見つめているのかも知れない。カケルも同じほうを向いた。
「余計なことばかり考えるから、やる気がないように見えちゃうのかな」
本音が、ぽろりと、零れる。
「別に、やる気がないようには見えないよ」
カケルは以前思った通りのことを口にしたが、望月はただ、遠くを見つめて微笑むだけだった。
「ありがとう。でも、号田先生に認めてもらえるように頑張らないと」
カケルは、まずいことを言ったな、と思った。
 帰りの電車で、部員たちは濡れ雑巾のようにぐったりと吊り革に凭れかかっていた。割下にも、もう他人の私服を検分する元気は残っていないらしく、うつらうつらと電車の揺れに身を任していた。カケルの目は、行きとは百八十度印象が変わった望月のほうへ吸い寄せられる。華美な装飾を排した、薄水色のワンピース姿。清流のように涼しげで、ともすれば移ろって消えてしまいそうな淡い青。そのまま下に視線を向けていくと、素足にサンダルを履いている。最初は何とも思わなかったが、ある一点、サンダルの隙間から覗いたくるぶしを見たとき、ドキリとして慌てて目を逸らした。反射的な行動で、カケルにもどうしてか分からかった。
 お盆が明けると、今まで通り練習が再開する。顧問の号田は、気味が悪いほど上機嫌だった。というのも、プールから帰った別れ際、女子部長の加賀先輩からこんな提案があったからだ。「お盆明けは全員ちゃんと部活に来て、いつもより真面目に練習して、号田先生をびっくりさせよう」、と。人望ある加賀先輩の発案だから、全員言い付けを守って、練習十分前にはグラウンドの整備と準備体操を終わらせていた。
 号田は表情にこそ出さないが、目を疑ったに違いない。お盆明け初日の練習は、遅刻してくる部員がいたり、開始前の準備に不足があったり、まだ旅行中で来られない部員がいたりするのが恒例だ。そんな陸上部に対し、どんな説教をしようか構想を練っていたかも知れない。それがどっこい、陸上部はまるで生まれ変わったように統率がとれ、彼の理想の集団に近付いている。嬉しい誤算。思いがけなかった幸運。だからこそ、今の彼の期待を裏切ったらどうなるか、全員が肌で感じていた。
 カケルの予想に反し、ここから一週間は平穏な日が続いた。号田はじっと腕を組んで練習を眺め、「ゴールの時はトルソー意識しろ」などとたまに声を掛け、終了時間になると何も言わずに帰った。トルソーとは、陸上用語で胴体のことだ。体力測定ではほとんど意識されないが、大会でゴールと認められるのは手足や頭を除いたトルソーの部分のみである。よって、ゴール地点では胸を突き出すようにしなければタッチの差で負けてしまうことがあるのだ。
 号田のアドバイスは真っ当だった。他の部員は気にする素振りもなかったが、嵐の前の静けさのようで、それすらカケルには不気味に感じられた。こうしている間にも塵が少しずつ降り積もって、ゴムが切れた瞬間すべて吹き飛ぶのではないか。望月も、同じことを思っているのではないか。
 しかし、それは予想していたような奔流ではなく、じわじわと滲み出す湧き水のように足元を濡らした。水溜りでぬかるんだグラウンド。誰もが足をとられているのに、そのことにさえ気付かない。客観的に眺めれば異常は明らかな筈なのに、全員が当事者だから分からない。
 カケルが初めて泥の重みを知ったのは、号田が何気なく呟いた一言がきっかけだった。
「チッ。あいつはダメだな」
独り言のつもりだったのだろう。あるいは、本人以外になら聞かれても構わないと思ったのだろう。カケルもそれを聞いたとき、雷に撃たれたような衝撃は感ぜなかった。ただ、雨にじっとりと濡れたような、漠然とした不快感が残った。
 号田は時々こうした雨を降らせて回った。「去年の三年はこの時期に遊んでばかりいた」などの嫌味は毎日続いたし、生徒を誉めるにもいちいち別の生徒を引き合いに出した。「フォーム良くなったな。あれ見てみろ。お前も前まであんな風だったぞ」。彼が指差す先にいるのはいつも望月だ。その度にカケルは悲しくなった。誉められた部員も、どう反応していいか分からず戸惑うばかり。誰も幸せにならない誉め言葉を放った本人は満足げなので、もう何がなんだか分からない。
 陸上部の抱える問題が顕在化しないまま、じめじめとした夏が去り、過ごしやすい秋が来た。夏休み明けの気怠さから一転、学校祭の気運が高まりつつある。カケルは放課後、文化祭の準備をしては部活へ、準備をしては部活へ向かう日々を送っていた。高校の文化祭は、中学以前とはレベルが違う。浮き足立つ気持ちは分かるが、顧問がいない時間にふざけ合う部員を見たときは肝を冷やした。号田がいつ現れるか、何処から見られているか分かったものじゃない。声を掛けようか迷ったが、注意するほどでもないかと思い直してやめた。結局、号田には見つからず、お叱りの言葉もなかった。
 後にこの場面を回想して、カケルは考える。もしあのとき声を掛けていたら、いや掛けなくとも思った時点で、自分は小さな号田を心に飼っていたのではないか、と。練習の合間にふざけたり軽口を言い合ったりするのは、学生、いや人間に与えられた権利だ。そこに逐一目くじらを立て、その権利を剥奪するのは、顧問がやっていたことと丸々同じではなかったか。それを思う度、カケルは遣る瀬ない気持ちに囚われる。未だに、自分は浸食されていると感じる。
 文化祭を一週間後に控えたある日、グラウンド脇に有名アニメキャラクターが描かれた置き物が置いてあった。恐らく、ペンキか何かを塗って乾かしている間に準備時間が終わり、室内へ取り込むのを忘れてしまったのだろう。そこには文化祭の物を置いてはいけないと一応規定されていたが、さほど邪魔にもならないので「綺麗だね」、「まじで上手い」、「誰が描いたのかな」などと盛り上がって放置していた。すると、歩いてきた号田がそれに気付き、烈火のごとく怒りだした。
「なんっだこれ、あり得んだろ!」
部員たちは、また始まった、と互いに目配せをし合っていたが、今回はどうも様子がおかしい。
「失格だわ、こんな奴ら。あり得んだろ……。いつからこんなんになっちまったんだ、この学校は」
説教は文化祭への文句に始まり、学校全体への不満を経由し、現代の若者論にまで及んだ。陸上部員に非はなかった。全員が自分は関係ないと思いながら、しかし反省した素振りを示さない訳にもいかず、神妙な面持ちで彼の話を聴いた。練習時間の三分の一を見事に削り取った号田は、それでも収まりきらぬ怒りを抱えて職員室へ飛び込んでいった。陸上部は気を取り直して練習を再開したが、空気はぎこちなく、なんだかもう帰りたい気分だった。その後、号田は置き物を放置したクラスを突き止め、その学年主任とクラス責任者を呼び出した。クラス責任者は二年の女子生徒だ。いかにも狼狽えた表情で、号田と学年主任を交互に見遣っている。結局、号田に詰められて二人とも頭を下げた。カケルは大人達の惨めさに呆れた。謝らせている顧問よりも、謝っている学年主任よりも、今にも泣きそうな顔で踏ん張っている生徒のほうがよほど凛々しく、逞しく見えた。
 その日から、陸上部にはピリピリとした空気が流れはじめた。号田の表情を見れば分かる。一つのミスも許されない。そうしてキビキビと練習に励んでも、号田は始めと終わりに「昔は良かった」を繰り返す。「昔は学校祭期間でもダラけずやっとったぞ。ここで適当にやったり休んだりする奴は、大会でも絶対良い記録なんか出せんからな。絶対だぞ」。一体誰が適当にやっている? 休んでいる? 節穴なのはカケルの目か、顧問の目か、どちらだろう。それを考えずひたすら練習に打ち込めるほど、カケルはアスリート気質ではなかった。
 「望月、来い」
学校祭が終わったその日にも、この陸上部では練習がある。そう聞くと鬼畜のようだが、運動部では珍しくない。文化部は文化祭の出し物の片付けを行っていたりするので、むしろやるのが当たり前、みたいな雰囲気を醸している。その日、号田は開口一番、望月を側に呼び寄せた。
「別のクラスのやつから聞いた話なんだけどさ」
割下がこっそり耳打ちしてくる。
「望月、他の女子と一緒にスマホ使ってるとこ、号田に見つかってド叱られたんだって」
カケルの通う学校は携帯電話の使用禁止だ。ただし、学校祭期間中は記念撮影したいだろうという配慮で、デジカメの持ち込みと使用が許可されている。中途半端な配慮である。カケルは望月が気の毒だとも思ったが、その要領の悪さには辟易とした。スマホぐらい、この学校の生徒なら誰でも裏で使っている。望月と他を分けたのはバレたかバレなかったかの差異であり、悪いことをしたかしていないかの境ではない。割下など大したものだ。カケルが校内で彼を見掛けたとき、彼がスマホを触っていなかったことはない。なのに教師には見つからないのだから、もはや一種の才である。
 「お前みたいのが居るから学校が駄目になっていくんだろぉ? 分かるか。あの問題も、この問題も、結局お前みたいな奴が原因なんだ。適当に考えて、『まぁいいや』っつってルールを破る。いかんぞ、そんなんじゃ。将来やってけんぞ。ったく」
望月は頬を紅潮させ、唇を結んで話を聴いていた。
 あの時と同じだ。彼女が、一人だけスクール水着でプールに遊びに行ったとき。望月は言った。『余計なことばかり考えるから、やる気がないように見えちゃうのかな』。カケルはその時こう答えたのだ。『別に、やる気がないようには見えないよ』。
 どうして言ってやれなかったのか。周りにどう見えるかなんて関係なく、「望月はよく頑張ってる」の一言が。どうして今も言えないのか。「望月の存在は学校を駄目になんかしない」、「それとこれとは話が違う」、「真剣に考えた結果だ」、「ルールのほうが間違ってる」。多少無理があったって、それで彼女は救われたかも知れない。なのにどうして言えないのだろう。
 「やっていけるよ、望月は将来、やっていける。だって一生懸命だから」
言えなかった。望月はそれから、練習を休みがちになった。
 一度休むとどんどん行きたくなくなって、偶に勇気を出して練習に来てみれば、顧問に厳しく責められる。そのことがまた練習に行くことを遠ざけて、間が空けば空くほど気まずくなっていく。悪い循環が生まれていた。
 やがて望月は、学校にも来なくなった。教室の日陰にひっそり生えていた茸は、誰も知らない間に枯れていた。いや、摘まれたのかもしれない。食われたのかも知れない。彼女はもう、そこで微笑んでいなかった。
 練習は何事もなかったように続いた。あまりにも呆気ないと感じた。漫画を読むのが好きなカケルは、誰かが不登校になったら一波乱くらい起きるものだと思っていた。自分が声をあげなくとも、誰かが問題提起したり、望月自身が復讐のために訪れたり、そういう派手なことが起こるんじゃないかと期待していた。しかし、日常は穏やかなものだ。彼女が去った砂浜は、波一つ打ち寄せない海水浴日和だった。それでいいのかと、何度も自問自答を繰り返し、彼女の選んだ道だと言い聞かせる。彼女はやむを得ず陸上部を離れたのではない。走ることに飽きたから、嫌になったから来ないのだ。彼女はまだ退部届を出していないから、またひょっこり現れるかも知れないじゃないか。
 カケルは、自分が何故こうも混乱しているのか分からなかった。恋とか優しさとか、個人の感情に根付くものではない。彼が求めたのは正しさだった。今、何もせずに静観することが、自分一人生還することが、人間の正しい道だろうか。とてもそうは思えなかった。かと言って、何が正しいのか分からない。号田は悪い人間だろうか。いや、そうではない。彼は過去に縋って現実を直視できない、可哀想な大人だ。そんな号田に虐げられた望月は? 可哀想、そんな言葉で、彼女と号田を一括りにしてなるものか。
 吐き気がする。頭が重い。どうして自分は今日も、「継続するのが大事だって言ってんのに、ったく、なんで分かんねぇかなぁ」なんて説教を聴きながら体操座りなんかしているんだろう。毎日毎日この繰り返しだ。夜遅くに家に帰って、寝て起きたら学校へ向かい、すぐ部活の時間になる。カケルの生活は陸上を軸に構築されていて、それ以外のものは外周にあった。外側のものは移ろいやすいが、軸は常にどっしりと中心に構えて動かない。
 腹が立っているうちはまだ大丈夫だ、とカケルは思った。怒りも悲しみも何も感じず、顧問に盲従するようになったらお終い。受け入れてはならない。そう分かっても、反発しつづけることは難しかった。号田が時折口にする「お前たちを想って」という言葉に偽りはない。彼は本気でそう信じて、カケル達の『タメになる』ことを発信する。カケルには責められなかった。絶対におかしいと思っても、心の何処かで許してしまう自分がいるのだ。そんな時は望月の泣き顔を思い出して、なんとか号田への憎しみを保つ。自分でも何をしているか分からなくなってくる。
 頬に当たる風が徐々に冷たくなり、冬が来た。通学のため電車に乗る足取りも重くなっていたカケルは、足のみならず全身が重怠いことに気が付いた。一歩一歩は重いのに、脳の芯はフワフワと軽い。鉛と言うよりは、石綿になったような感覚。座っているのも辛いので学校を早退して病院へ行くと、インフルエンザだと言われた。カケルは公式に約一週間の休みを手に入れた。
 最初の数日こそ妙な熱さと寒さに苦しみ、頭痛が治まらなかったが、三日も経てば健やかなまでに回復した。思うに、このインフルエンザは本来カケルが罹るはずのなかった病気なのだ。いつもなら基礎免疫で打倒できるウイルス。それが、心のひび割れた隙間を縫って、身体に入り込んできた。頭の痛みが引いた頃、カケルの気持ちは晴れやかだった。何にも縛られず、戒められず、走りたいと感じた。動物らしく、何も考えずに駆けたい。念のため更にもう一日休んだあと、リハビリも兼ねて近所の川沿いを走ることにした。まだ隔離期間だが、外で誰とも会わなければ構うまい。
 午前十時。外界の空気は凛と冷えて、カケルの思考を澄み渡らせる。この時間、友人はみな学校で授業を受けているのだと、このとき初めて思い至った。空はとにかく青くて広い。学校のグラウンドから覗く空とは、高さが全然違っている。建物が低いからだと後で分かったが、その時のカケルは涙が出そうなほど感動した。自分は何処までも行けるのに、どうして閉じ込められた気になっていたのか。空はこんなにも平等で、遥か遠くて、掴みどころがないというのに。
 休憩中、久々の運動で跳ねる心臓を押さえながら、カケルはスマホのメッセージアプリを開いた。グループメンバーからある名前を探し、友達申請をして、メッセージを送った。彼女にも、この青を見てほしいと思った。
 部活へ行くのは一週間ぶりだが、ほとんど何も変わっていなかった。カケルはとても長く休んだ気がしていたが、よく考えればほんの一週間だ。人や場所に染み付いた憂鬱は、そう簡単に剥がれてくれない。「乗島」と呼び掛ける号田の声を聞いて、カケルはびくっと肩を震わせた。
「何だった」
開口一番そう問うので、カケルは何の話か一瞬分からなかったけれど、二回瞬きをした頃には分かった。
「インフルエンザA型でした」
「A型?」
実は、その頃の陸上部ではインフルエンザB型が蔓延し始めていた。リレーのようにぽつぽつと休みが出るので、顧問の号田は気を揉んでいた。勿論、生徒が心配なのではない。感染症対策がなっていないのではないかと、他の教師に訝られるのが不満なのである。だから、カケルが罹ったのがインフルエンザB型だったら、小言の一つでもかまそうと思ったに違いない。仲間同士でふざけているからだとか、体調管理が云々だとか。しかし、カケルは如何せん陸上部で浮いているというか、別世界の人と思われている節があって、今回の感染症もやはり他の部員とは異なっていた。したがって、
「そうか。大会も近いから気を付けろよ」
号田の言うことはこれくらいしか無かった。
 望月とは時々連絡を取り合う仲になった。最初のメッセージへの返信は「無理をしないようにね」の一言だったが、そこからあの手この手で会話を繋げて今に至る。望月はカケルの唯一の理解者だった。号田の愚痴も、選手としての不安も、彼女には包み隠さず相談できる。望月は主張しすぎず、
控えめすぎず、彼の良い話し相手になった。マネージャーになったら上手くやっていけそうだ、とカケルは考えたけれど、敢えて口には出さなかった。
 号田が怒らない日が続くと、彼の何に憤りを感じていたのか分からなくなってしまう。彼は望月を不登校に追い込んだ張本人で、陸上部の和を乱し、皆のモチベーションをだだ下がりにした顧問だけれど、そんな結果の羅列には何ら意味がない。仮に教育委員会やどこかに訴えるつもりなら、根拠がものを言うだろうけれど、カケル達が負った心の傷は他人に説明できる類ではないのだ。何があったのかと訊かれても、具体的なことは答えられない。じゃあ何も無かったかと言えば、そんな訳なくて、何かがあったのだ。何かがあったのだけれど、それらはシチューのように日常に溶け込んでしまって、原型を思い出すことはできそうにない。だがその味は確かにシチューであり、人参の臭みを取り除こうとしても不可分に混ざっているのだから仕方がない。無かったことにはできないのだ。
 悶々とした思いを抱えながら、カケルは高校二年生になり、夏の大会を終え、三年生が引退していった。今回は県大会止まりでなかったので、顧問も満足したらしい。特にカケルは、惜しくも地区大会で敗退したものの、全国大会を狙える実力を見せた。他にリレーや走り高跳びが地区大会に進出したが、どちらも選手が三年生のため、来年頑張ろうという訳にはいかなかった。その意味では、カケルは号田の期待を一身に背負う形となる。この頃には、彼は号田のことが反吐が出るほど嫌いになっていたので、自分の功績が号田の名声を高めるシステムに複雑な感情を抱いていた。頑張れば頑張るほど、号田を良い気にさせてしまう。カケル達の心を折っておきながら、反省もせず、むしろ善を行ったとさえ考えているこの教師の役に立ってしまう。自分が顧問にとって大切な存在になればなるほど、カケルは自己嫌悪の度合いを強めていった。
 今年に入って一番大きな変化と言えば、顧問だけでなく副顧問が練習に参加するようになったことだ。去年までも一応副顧問は存在したのだが、定年間際でやる気がない高齢教師だったため殆ど練習に顔を出さなかった。それがこの度、新卒の若い先生に変更となり、頻繁に練習にやって来るようになったのだ。これで些か状況が改善されると思ったのだが、彼はただ気が良く若いだけで、陸上部の抱える地味な問題を掘り出してくれる素振りはなかった。
 まぁ、右も左も分からない新任教師に、十年近く陸上部顧問を受け持つ号田を非難してくれと言うのも無理な話だ。ましてや彼は、去年や一昨年の様子も知らないのだから、号田が「一昨年は酷かった」なんて話をしても反対できるはずがない。一昨年の陸上部がそうだったとは思わないけれど、実際世の中には一年で伝統を滅茶苦茶にしてしまうならず者が存在するから、新任の彼は号田の言葉を鵜呑みにするより仕方がない。勿論、併せて生徒の話も聴きながら情報を擦り合わせていくのがあるべき教師の姿だが、そこまではカケルも望まない。生徒思いの教師は確かに居るが、そんなのはごく僅かな突然変異のようなもので、大抵の教師は自分の身を守ることで精一杯である。
 二回目の学校祭も終わったある某日、カケルは感情の一端を副顧問の彼に吐露してしまったことがあった。始めから話そうと思って接触したのではない。ただ、その日の彼は何となく弱気になって、グラウンドの陰で涙を溜めてしゃがみ込んでいたので、副顧問が心配そうに近寄ってきてくれたのだ。体調が悪いのかと訊かれたが、カケルが答えられずまごついていると、保健室へ行こうという話になった。その日は顧問の号田が不在で、副顧問に練習の管理が任されていたのだ。
 カケルは保健室へ行くことを拒んだ。「大丈夫です」と言ってその場を離れようとするが、後から後から涙が溢れて言葉の一つも発せなくなった。副顧問は、じゃあ保健室はやめて、近くの人気のない教室を借りようと言った。カケルは頷いた。
「一体どうしたの?」
「ひっ……ぐっ……ごっ、ごう、だ、せん……が……!」
肺がふたがったように苦しい。伝えなければいけないのに。人前で泣くのが久しぶりすぎて、このままどうやって声を出せばいいのか分からない。こうしている間にもどくどくと涙が流れて、床にぼたぼたと垂れる。自分はまだ、望月よりは苦しくない筈なのに、どうしてこうも胸が痛むのだろう。もう限界だった。一人で抱えるには重すぎる荷物だった。
「号田、先生がっ……! 先輩たちをけなすのが、苦っ……しくて、他にも、いろいろ……。いつも、ぴりぴりしてて、見られてる……ぐっ、気がして、辛くて……」
カケルは深呼吸を繰り返しながら、事の顛末をできるだけ客観的に、具体例を交えて話した。望月のことを話すと、彼はその存在を承知していた。現在不登校だが、陸上部に籍はまだ残っているそうだ。副顧問は悲痛な面持ちでカケルの話を聴き届け、「そうか、辛かったね」と言ってくれた。「号田先生に、乗島くんの想いを伝えたい?」と訊かれたが、カケルはただ「分からない」と首を振った。号田には反省してほしいけれど、自分のせいで部に波風を立てるのは避けたい。みな様々な想いを抱えながら、一所懸命に練習に取り組んでいるのだから。「そっか」。カケルは、副顧問は何も行動を起こさないだろうな、と思った。それが正しいのかどうか、もはや彼にはさっぱり分からないので、どちらでもいいか、と投げやりになる。副顧問がこの事実を知った、それだけで多少は気休めになるだろう。
 それから数日後、これがカケルには最も致命的な出来事だった。練習前、いつになく不機嫌な号田が「もうお前らの面倒は見ない」と言い出したのだ。実は、この台詞自体はそれまでも何度か聞いていた。号田は、少しでも自分の気に入らないことがあったり、『適当にやってる』と思うことがあったりすると、すぐにこの脅しを持ち出す。『もういい』、『勝手にやれ』、『どうなっても知らん』。カケルはその度、じゃあもう放っておいてくれと心の中で念じていたが、機嫌が直るとひょっこり戻って教師面しているのだから呆れる。しかし今回は、いつもより怒りのボルテージが高いように見える。
「教師なりたい奴いるか。教師はやめといたほうがいいぞ。生徒のために何かやっても、お前らすぐわぁわぁ文句言うだろう。しょうもない。そうやって人の苦労を馬鹿にしてるとなぁ、碌な大人になれんぞ」
相変わらず意図の分からない導入だが、明瞭でないだけにカケルはギクッとした。もしかして。カケルが副顧問に話した内容が、号田に伝わってしまったのではないか。そして、それが陸上部全体の総意だと早合点したのでは。そう考えると気が気ではない。スポーツウェアの脇の辺りが、じっとりと汗で濡れていく。自分が迷惑をかけた。自分が、自分は、ここに居ていいのか。手先が、冷たい
「まぁいいけどな。お前らがそのつもりなら、俺はいつでも顧問なんか辞めてやる。辞めさせられるんじゃないぞ。お前ら、教育委員会に電話するとどうなるか知ってるか? まず校長先生に電話がいって、次に俺に掛かってくるんだ。でも俺は校長先生と仲が良いし、教育委員会にも顔が広いから、ほんの雑談で終わる。『あぁ、お前か、元気にしてるか』ってな」
違う。誰かが行動を起こしたんだ。カケルではない、しかしカケルと似たことを考えた誰かが、教育委員会に連絡した。その意見を捻り潰して、どうしてこいつは、嬉しそうに『顧問を辞めてやる』なんて言ってるんだ? せっかく反省するチャンスなのに。悔い改めるきっかけなのに。何をしているんだ。カケルの感情はもう、とっくに怒りを通り越している。ただ心の中で、こいつは悪だと認めた。こんな、典型的な悪者がいるのか。生徒たちの逃げ場を封じて、「お前らは無力だ」、「俺には敵わない」と顕示するなんて、まるで漫画の世界である。それから数日、顧問は本当に練習に来なかったので、カケルの足はいつもより少し軽やかだった。
 顧問は、練習に来るようになっても不貞腐れて無言だった。部長には顎で指示を伝え、駄目だと思うことがあればこれ見よがしに溜め息をつく。陸上部は史上最も険悪な空気の中、冬休み期間に入った。
 彼はどうやら、こちらが謝るまでだんまりを決め込むつもりらしい。そう気付いた部長は、みんなで号田に謝らないかと提案した。謝るだけなら容易い、と前向きな生徒も中には居たが、大半は嫌嫌ながら従うことを選択した。誰が教育委員会に電話したのか、などと詮索しないで済ませる彼らが、カケルには誇らしく思えた。良い部活だと思った。ある一要素を除いては。
 挨拶の前、部員は横一列に号田の前に並んで立った。
「なんだ」
号田は分かっているのにしらばっくれる。或いは、恐れているのだろうか。もう顧問を辞めてくれ、次の世代に譲ってくれと生徒に宣告されるのを、怖がっているのだろうか。しかしカケル達は謝る。自分達は何も間違っていないと信じながら、それでも志を曲げる。高校生は大人ではないけれど、その時の彼らは確実に大人として、事態を収めようとしていた。
「先生、すみませんでした」
部長が代表で言って、全員で「すみませんでした」と続ける。それに対して号田は、
「別に謝んなくていいよ。俺はもう顧問辞めるし」
とまだ捻くれている。
「いえ、その、顧問辞めないでください。続けてください」
部長も食い下がる。
「だったら、職員室まで来るのが礼儀なんじゃないの? なぁ。俺がグラウンドまで来るの待って、そこで謝るのってどうなの」
「すみません」
「はぁ、もういいよ。練習なんかせずに帰れば? お前らがその気なら、俺だってやる気ないし」
「いえ、やります」
「そう。じゃ、勝手にやれば」
顧問は立ち上がって、校舎のほうへ向かう。あぁ、そうか。そうやって逃げて、暖房の効いた職員室でコーヒーでも飲むんだな。そうして、隣の席の同年代の先生に、「ちょっと喝入れてやりましたわ」なんて自慢げに語るんだろう。
 あぁ。
 ここは地獄か。
 ぐるぐるぐるぐるぐるぐると、これまでの顧問の言葉が頭の中を駆け巡る。走っていても、グラウンドの整備をしていても、あの声と顔と仕草と態度と、色々なものが一緒くたに浮かんでは消える。望月のことなんて、欠片も思い出さなかった。
 誰にも理解されないのは分かっている。カケルがこの憎悪を意識してしまったきっかけは、望月のことなのだ。誰に話してもーー母やカウンセラーや友人や別の教師に話してもーーどうしてあなたが気に病む必要があるの、と一蹴されるに決まっている。それはその子の問題で、あなたは考えなくていい。実際、母にはそのようなことを言われた。望月の名前は伏せて、不登校になった子も居ると話したが、しょせん他人事、「可哀想ねぇ」とは言っても、それを息子と結び付けようとはしない。「部活を辞めたい」と勇気を出して言ってみた。すると、「そんな、何も辞めることないじゃない。今だけ、ほんの短い期間だけ耐えればいいのよ。カケルは全国期待されてるんだから」と返された。全国が何だと言うのか。期待されていないから、望月は不登校になっても仕方ないのか。そんな訳あるか。カケルは覚束ない足取りで家を出て、いつもの川沿いをひた走った。足が千切れそうなほど激しく、腕が吹っ飛びそうなほど大きく、心臓が破裂しそうなほど速く、走った。何も考えられなかった。これぞ原初の疾走だ。人間らしからぬ、動物の走り。カケルは叫ばないが、胸の内では叫んだつもりで、「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」と口だけ動かして走った。分からない、分からない。何が憎いのかも、もう分からない。ここで陸上部を辞めたら居場所がなくなる? そもそも、何故自分には居場所があるのか。望月にはなかったのに。彼女はそこに居ることも許されなかったのに。ふざけるな、ふざけるな、死にたい、もう死んでしまいたいーー。
 カンカンカンカン、と踏切が鳴る。
 もう何度も想像をした。たった一歩、足を踏み出すだけで全てが終わる。まるでゴールテープのように。何も考えず、走り抜けられたら楽だろう。一歩、足がそちらに近付いたその時だった。
 メッセージアプリの着信音が、ポケットから流れ始めた。液晶には、『望月』と表示されている。
『……もしもし』
『……もしもし、乗島くん』
ささやかな、春の葉擦れのような声色。カケルは暫く、その場に立ち尽くした。
『もしもし、聞こえる?』
『うん……聞こえる。どうしたの?』
そういえば、以前連絡したときは「無理しないようにね」と返信が来て、それっきりだったことを思い出した。他に話すことがないので、どう返しても盛り上がらないと思ったのだ。顧問のことは、望月に気を遣って持ち出すことができなかった。
『ううん、大したことじゃないけど。乗島くんってもしかして、〇〇川沿いを走ってる?』
当たりだった。
『どうして』
『前も走ってるとこ見掛けた気がしたけど、遠くて話し掛けられなくて。また通らないかなって、時々来るんだ』
『…………』
カケルはこのとき、カケルの家と望月の家が思いの外近いことを知った。
『今も、居るの?』
『うん。でも、乗島くん走るの早いから、あっという間に見えなくなっちゃった。凄いね、相変わらず』
『いや、全然』
凄くなんかない。そう言おうとして、カケルは顔を赤くした。見られていたのか、あの必死の形相が。叫んでいなくて良かった。
『望月のところまで戻るよ。どこら辺にいる?』
目印を教えてもらって、カケルはまた走り出した。
 女子に会うとなると、汗臭くないか心配だ。シャツの襟を引っ張って嗅いで、ふと、くすっと笑ってしまう。さっきまで生死に関わる心配事をしていたのに、今では汗の心配をしているなんて可笑しい。そんなものかな、命なんて。明日にはまた死にたくなるだろう。明後日はもう死んでいるかも。でも、もしかしたら、明々後日には凄く嬉しいことがあって、死から一番遠い場所にエスケープしているかも知れない。そんなものだな、命なんて。
「久し振り、乗島くん」
「久し振り、望月さん」
お互い無言で、相手の身体をまじまじと見る。変わったところがないか、無事の確認を心ゆくまで済ませた。望月は若干髪が伸びて、邪魔な前髪をピンで横に纏めていた。家ではいつもこうなのだと言う。カケルは、そっちのほうがずっと似合うよと伝えた。
 「元気にしてた?」
近況を尋ねると、望月は頬を赤くして頭を掻いた。家で本を読んだり、時々こうして走りに出かけたり、春休みのような自堕落な生活を送っているという。カケルにはそれがちっとも自堕落だと感じられなかったが、本人は照れ臭そうにしている。
「乗島くんは、どう?」
「…………」
カケルはその問いに答えず、やや強引に話題を変えた。
「そういえば、望月さんの下の名前って何だっけ」
「カケルだよ」
「え?」
「望月(かける)。漢字は違うけど、(かける)くんと一緒。もし私たちが結婚したら、同姓同名になっちゃうね」
望月はくすっと笑ったが、カケルは不意に放たれた結婚というワードに固まってしまった。我に返ってぎこちなく笑い、
「でもほら、最近は選択的夫婦別姓を認める論調も強いし、大丈夫だよ、多分」
と微妙で残念なフォローを入れた。ただ、望月もカケルもコミュニケーションが得意なタイプではないので、互いに違和感に勘付くことなく会話が進行する。
 平たく言えば、彼らは鈍かった。人を疑うことを知らない、いや疑っているつもりで実は信じている。不器用で愛すべき性格の持ち主なのだ。
「号田先生は、相変わらず?」
「うん」
「そっか」
「うん」
「きっと私のこと、後輩たちに酷く言ってるんだろうな」
否定できない。それでも一応否定しようとすると、望月に目で制された。嘘はつかなくていい、気を遣わなくていいと、はっきりそう書いてある。
「もう、皆に合わせる顔がないよ。一人だけ逃げ出して、学校にも行かないでダラダラしてさ。私、一日ごとに自分がダメになっていくのが分かるんだ。号田先生にダメだ、ダメだって言われたその道に、自分から足を突っ込んでいっているような、嫌な感じ。説教されてるとき、私、違う違うって心の中で耳塞いでた。でも強ち、先生は間違ってなかったかもね。ここで辞めたらダメな人間になる、仲間を裏切れば碌な大人になれない、その通りだよ」
それは。
「それは違う」
「違うって?」
「望月さんは、ダメじゃない。ずっと思ってた。陸上部も、ダメじゃない。ダメなんかじゃない。だって、だってーー号田先生が居ない陸上部は、すごく楽しい場所だった。号田先生が居ない場所で、望月さんはすごく、生き生きしていた。割下みたいにワイワイ騒ぐわけじゃないけど、陸上部の皆と居て楽しいんだってことは伝わってきた。教室にだって、挨拶できる友達が居て、君は、嬉しそうだったじゃないか。どうして先生に君の居場所を奪わせるんだよ。何日休んだって、君の居場所はそこにあるのに。いつでも帰って来ていいのに。なんで俺らが、あの人に許しを請わなくちゃならないんだ」
絞り出した言葉ではない。器から水が溢れるように、つらつらと言葉が流れ出す。二人のカケルの頬には、同じように涙が伝った。同じ速さ、同じ大きさの光の粒は、やがて一筋の線を描いて地面に投身自殺を果たす。それは奇跡のように思えた。
「ありがとう。そんな風に想ってくれる人が居るなんて思わなかった」
「こちらこそ。望月さんが居てくれて良かった」
「乗島くん」
「何?」
「……辞めないでね」
「…………」
「さっきの話だよ。号田先生に居場所を奪わせちゃいけない。君は、乗島くんは走るのが好きでしょう? だったら絶対、譲っちゃダメだよ」
「……俺は、走るのが好きなのかどうか、もう、よく分からないんだ」
「好きだよ」
「え?」
「走ってる顔を見れば分かる。これが走らずに居られるかって顔してるもん」
「なんだよそれ。酒呑みじゃないんだから……」
しかし、本質は通じるものがある。記憶が飛ぶほど呑んだくれる心理と、頭が真っ白になるほど突っ走る心理。この二つを結び付けることはさほど難しくない。乗島が退部を考えていたことも含めて、望月は本当に、よく見ている。
「望月さんも、お前は期待されてるんだから全国へ行け、って思う?」
「そりゃあ、辞めたら勿体ないとは思うけど」
「皆そう言うんだ。夢だの希望だの、俺に自分の理想を押し付けてくる。気が早い人は、大学でも陸上を続けるのか、なんて訊いてくる」
その屈辱を思い出して、カケルは下唇を思い切り強く噛み締めた。出し尽くしたはずの涙が、また迫り上がってくる。
「荷が重いんじゃあないんだ。かと言って軽いわけでもないけど、皆、どうせダメだと思って言うんだよ。『行けるかもな』、『行けるといいな』って、まるで、俺が望んでるみたいに言ってくる。違うよ。それを望んだのは俺じゃないのに。あの人たちが、勝手に目標を押し付けただけなのに。どうしてあんなに偉そうなんだ」
誰にも話せなかった。カケルに期待する人にはこんなこと、口が裂けても言えなかった。でも望月は、必要以上にカケルを評価しない。全国に価値も感じていない。ただ走ることが好きで、その点ではカケルと全く同じ動機で、陸上に足を踏み入れた女の子。カケルと望月を分けたのは、だから競争力だ。カケルはたまたま走るのが速くて、望月はたまたま走るのが遅かった。所詮は偶然。運命は無関係。こんなことが期待の新星と不登校を分けたとなれば、カケルには憤りしかなかった。
「乗島くんは、欲が無いね」
「いいや。ただ、周りの人たちが言うように、全国へ行くことがゴールだと思えないだけだよ。かと言って、もっと高い目標があるかと問われれば、上手く答えられないけれど」
「そっか。私も、似たような経験がある」
「え?」
「私、お母さんに、良い大学へ行くために高校に通いなさいって言われる。けど私は、頭の良い大学へ行くことが良い人生に繋がっているとはどうしても思えないんだ。大学へ行くか行かないかなんて、自分で決めさせてくれればいいのに。けど、いざ自由を与えられても、他に行くところがなくて結局大学へ行くんだろうな、って思うよ。他人に与えられたゴールって、自分にとって凄く大きな意味を持ってる。赤ちゃんはさ、多分生きるってことしか目標がない。けど、人前ではちゃんとしなさい、とか立派な小学生になりなさい、とか目標を与えられて、どんどん輪郭が作られていく。乗島くんが言いたいのも、ひょっとするとそういうことなんじゃないかな」
「そういうことって?」
「周りが目標を決めているうちは、子供は大人になれないんだ。乗島くんは、多少強引でも良いから、早く大人にさせてくれ、大人になることを許してくれってアピールしているんじゃないかな」
早く大人に。子供っぽいようだけれど、高校生には切実な願いだ。中世ヨーロッパの子供は10歳頃から大人の一員と認められた、という話を知って、「生まれたのが現代で良かった」と安堵する人と「自分も早く大人にならねば」と焦る人の二種類がいる。カケルは後者だった。
 この囲われた鳥籠から抜け出したい。
 その願いは、号田の本性を知ってますます強くなるばかりだった。自分が大人なら、こんな横暴を許さないのに。望月が大人なら、家に閉じ籠もらずとも、何処かへ逃げることができたのに。そのどちらも、暗黙のうちに封じられた。この怒りを、一体どこへ向けろと言うのか。
「あぁ、そうだ。しっくり来た。俺は大人になりたかった。誰も文句が付けられない、遠い遠い場所に、一人で行きたかったんだ」
その方法が死だけなら、カケルは躊躇わなかっただろう。ただ目前に、『大人』という光があったから、ゴールテープが見えたから、なんとか踏み止まれたのだ。実際の大人が希望かどうかなんて関係ない。子供の頃の理想を叶えられた大人が一人も居なくなって問題ない。ただ、今とは違う場所、違う視点、違う今があるというだけで、カケルの目には美しかった。その場所へ、全速力で走りたかった。
「乗島くん。今は耐えるんだよ。耐えて耐えて、何も分からない子供の振りをして、自然と大人になるのを待つの」
「……うん。今まで通り」
「今までとは違うよ」
望月の目に、いつになく力が漲る。あぁ、望月は本当は、樹に守られていたんじゃないんだ。樹の養分を吸い尽くし、倒さんと目論んでいたんだなぁ。この目を見て、カケルは漠然とそう感じた。大きな樹が目障りで目障りで仕方なくて、それでも木漏れ日を得ようと知恵を絞っていた。非力で幼い、小さな茸。
「私が知ってるもん。カケルくんの言いたいこと、叫びたいこと、地球上の誰も知らなくても、私は知ってる」
その一言で、カケルがどれだけ救われたか。彼女は知っている。知っているから、伝えたのだ。
 私は知っている。
 私だけは知っている。
 あなたが闘っていることを、知っている。
 翌年開かれたインターハイ。県大会を突破し地区大会へ向かうと、望月も会場に来ていた。彼女は冬のあの日からぽつぽつと学校に通いはじめ、三年からは毎日通うようになった。単位が足りないかも知れない、とメッセージアプリで大学生のような相談を持ちかけて来たが、なんだかんだ何とかなったらしい。今年からはマネージャーとして、陸上部の練習にもちらほら顔を見せていた。というのも、号田は去年を最後に陸上部顧問を辞めたからだ。有言実行と言えば聞こえがいいが、実際どんな話し合いが行われたのか定かではない。校長か教育委員会に辞めさせられたなら胸のスカッとする話だけれど、恐らくあの人はうだうだと文句を言いながら自分の判断だと主張して顧問を辞めたに違いない。今日に至るまで、あの教師が謝罪の言葉を口にしたところを、カケルは一度も見たことがない。この日の地区大会にも、その前の県大会にも、顔を見せることはなかった。拗ねているのか何なのか、もうカケルにはどうでもいいことだった。
 スタート地点に立って、様々なことを考える。もう辞めたと言っても、陸上部の大半をあの人のもとで過ごしたのだから、カケルの戦果はあの人の手柄になるだろう。どれだけ違うと否定しても、きっと誰にも届きはすまい。いいや、ただ一人、乗島駆ではないカケルを除いては。
 いいんだ、もう。あのゴールテープを切るまでは、何も、何も考えない。ゴールした後のことなんて、結果なんて一つも興味がない。カケルの胸に浮かぶのは、親友が試合前にカケルの耳に残した言葉。この合言葉さえあれば、カケルはいつだって前を向ける。ゴールが何処にあるかなんて、誰にも分かりはしないけれど、俯いていたら見失う。
 さぁ、行こう。
 最後は胸を張って。

最後は胸を張って

最後は胸を張って

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-09-26

Copyrighted
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