音楽ド素人、ダリム氏に遭ふ
・ダリム氏が大阪なんばに来るとかいうし阪急からメトロ乗り継げば簡単に行けるわけやから行くしかない。何。行けばいいだけの話やのに。
・メトロなんて子供のとき以来もうかなり乗ってへんから何故かその時点で妙な緊張をおぼえた。まずい。役所に通ってた頃はもっと色んなとこに行くことに慣れ始めてた筈やなかったんかいな。今では仕事する以外でどこにも殆ど行かない生活を送り過ぎて地下鉄に乗るだけでも緊張するっていう、ひきこもり時代と何も変らない状態に戻ってしまってる。思い知った。やからここは行っといた方が良い。
・最初、というか地下鉄に乗って難波に出るまでは殆どそのことしか頭になかった。そもそもあの人を観るために行くというのに丸で避けるように誤魔化すみたいにメトロの薄臭さとか床の消しカスこびり付いた感じの汚さとか鼠色のどんよりした雰囲気とかに顔を顰める餘裕さえあった。無駄に大都市の地下鉄してるので無駄に混雑してるのにも嫌気がさすくらい普通の気分で難波の駅に着いてみる。
・すると思い出した。あの人を観に来たんだった。
・本当はずっと知ってた。でも何故か中々然う思おうとしなかった。
・黒で覆われた舞台とか控室用のテントとか見えた。なんば広場中に催し用のテントが並んでて柵の内側にも外側の通り道にも人という人はごった返そう。入場は無料だけども韓国には興味もないので詰りは周りをうろつくしかない。
・嘘?周りのダシモノには目もくれないで舞台の方だけを観に行けばいいではないか。
・でも、然うはしなかった。遂にその時間が訪れた時、俺は辺りをうろついて居た。
・一旦なんば広場から遠ざかってまたウロウロと戻ってみたなら何だか聴こえた。
・あの声だ。あの歌声だ。訓練じゃない。ガチのガチだ。ホントのやつだ。
・まあそりゃ然うだ。今日ここで歌うんだし俺もだからここに居る。
・なのに気づいたらまた遠ざかってた。そして俺のことを一番わかってるのはどこの誰だろう?この俺だった。その俺がまさか無理してでも俺の背中を押すわけがない。また戻っては遠ざかり、また遠のいては歌声を捜す。
・何でもない日だったならきっともっとイライラしてた9月半ばのクソ暑み。電線も足元も少し広場の裏側に回ろうものなら目も当てられない都会の僻地。居ても違和感のない外国人たち。ガチャガチャしてる商店街。ああもうイヤだ。本当だったらもっとイヤだ。でもそれどころじゃない。みんな自分の世界の外側にあるモノでありヒトだった。みんなにとっては特に気にする必要もない大阪難波でのありきたりな一日なのか。然うなのか。あの広場では今とんでもないことが起ってるのに。
・何か、知らない。知らない張りが筋肉中に突っ走ってる。でも何だか知ってる気もする。いつかの日のこと。もう懐かしい。不登校をし始めた頃。涙が沁みて沁み込んじゃって暫く経って太陽の下で生乾きのまま放置されてる、あの感じ。どうしてこんなに不安になるのか。どれもこれも気持ち良さげに晴れ渡れば良い。でも然うならない。あの人は居る。あの人はもうそこに居るんだ。
・だから居た。舞台を真っすぐ前に見通せるフェスの広場の一番後ろ。その人込みから舞台が見えた。そこに遠くに女性が居た。歌声はきっとそこから来て居る。
・そりゃ居るだろう。そりゃ歌って居る。当然だろうに。あとはこの目で見届けるだけ。聴き入るだけぞ。なのに何故また遠ざかるのか。
・30分。30分の出番の合間に何度そこらをうろついたろうか。到頭そうこうして居る内にも、何時しか舞台にあの人は居ない。
・うろついてる暇はない。足早になる。舞台の方に焦って歩いた。
・テントの控室から何か催しの人達にお辞儀して帰ろうとする女の人が見えた気がする。気がしたからには無心に急がん。
・曲り角を曲った先には、40前後のキモヲタ達の5,6人。
・そしてサインを微笑んで書く色白の人が一人居た。
・そりゃ居るだろう。いや、でも、気持ちはわかる。数多の人類が口にしてきたんだろう率直な気持ちが言葉がこんなにすっごいめっちゃわかった。
・信じられない。こんなこと言いたくないとか別に良い。だって信じられないから。数メートル。只すぐそこにあの人が居た。
・通り過ぎる。男性たちが楽しそうに嬉しそうに話し掛けつつ今度は写真を各それぞれづつ撮り始め出した。それを近くの植木の傍からスマホ片手に何となく見る。見て居るしかない。ひょっとしたら50代の人も居ようか。それは然うと本人と横に並んで満面の笑みで自撮りするとか他の仲間に撮ってもらってもうこれ以上ない。
・何か、言ってる。マイク越しじゃない、あの人の声だ。
・世界の中心は今この場所だ。俺にとってはもう然うだった。
・男性たちはどうだったろう。雲をすり抜け星を目指した。
・見つめるしかない。今見ておくのだ。その姿を収めておくのだ。ただほんのちょっとスマホを見下ろす。カメラのところをいじり始める。あとでジワジワ後悔するから。
・こんなこと他の誰かにしようと思うなんて思わなかった。カメラに映る自分のことも碌に見れない。でも、でもたった今そこに奇蹟があるから。
・然うその奇蹟。その奇蹟をキモヲタ達は存分に見た。手繰り寄せた。忘れられない今日この日にした。集合写真とお辞儀のし合いで何度も何度も言葉を交した。
・百人千人に応じたくらいの長い長い濃密な時間。事務所の人らしき二名の人がキモヲタ達の満足そうな賑わいをよそに向こうの方にいざなってゆく。
・そして人込みに行ってしまった。
・奇蹟は消えた。
・そしてこの時はもう来ないのだろうか。
・信じられない。信じておかない。きっとそんな事はないんだろうけど、また何時の日かの寒気が走った。俺はこのまま消えてゆくのか。世界はもうすぐ終るんじゃないか。俺も帰らなきゃ。ここから家に帰らにゃならない。避けるように。誤魔化すように。電車に乗るんだ。先ずそこからだ。色々思うのも後にしておけ。その方が良い。ここはもう只の大阪難波だ。長居するような場所じゃない。さあ帰るのだ。さあ急ぐのだ。
・メトロも知らない人込みの人達も階段もすべてが物悲しく視界から通り過ぎた。隣で話してる男二人の先輩後輩が履歴書どうの斯うのの話をしてて後輩らしき方が不安そうな言葉を口にしてるのを聴いて、今日も世の中ではどうでも良い人達の色んな人生が動いてるんだと思って、また一層に虚しくなった。
・世界の中心から離れていく。たったひとりで俯きながら何もできない。心という心が心の中の心の中に小さく小さくただ一つのところへと凝縮して凝縮されてもう元には戻らない。初めて感じる。向かいの車窓の青空を見上げても何も報われない。どこへ行くのか。このまま何処へと行こうというのか。
・そこから思った。なぜか思った。今日起きたことに関係あるのか分からないまま。
・ダリム氏も男性達もそして俺も、いつか死ぬときがやって来る。
・みんな、自分の知って居ることしか知らない。
・世界はみんな互いに関心の無い人達が行き交って社会になってる。
・そこで一生取り残されてこの人生を終えるのだろうか。
・一体これからどうなるんだろう。出口が見えない。でもいつか死ぬ。
・そこから後日SNSで本人が感謝を綴った。暑い中それでも席で歌を聴いてくれた方々が居て嬉しかったらしい。
・あの男性達は少なくともダリム氏の目の前で躊躇いもなく聴き入って居たことだろう。
・もしかして良かったのかも知れない。今思えばあの時に声を掛ける資格すら無かった。歌い終わった時にだけ現れて何をしようとしたんだろうか。
・頭痛が蠢く。喉が苦しい。食慾もない。家に帰れば傷が深まる。こんな積りは全然なかった。いつも聴いて居たあの人の声を見届けようとしただけなのに。
・この目ですぐ近くにあの人を見て初めて気づいた。憧れの人。あの人は俺の憧れの人だ。
・政治家にも著名人にも歴史上の偉人たちにも全く憧れなど感じたことない。感じるわけない。高が知れてる。人それぞれは素晴らしくとも何も尊敬することはない。
・親を尊敬したこともない。父も母も大事な家族で尊重はするが、微塵も感心したことがない。父は俺らに興味すらない。母は家事とかしっかりこなすし父よりはずっと俺とも姉とも仲は良くとも、人としてはクズなのだった。
・教育など何もなかった。ヒキコモリには父も母も特に何もしてこなかった。介入しない。家では普通に穏やかに過ごす。でも何もしない。関ってこない。
・俺を育てたのは俺自身だ。誰も尊敬になど値しない。そんな人は居る筈もない。
・だから気づいた。宇宙唯一の憧れの人。
・ずっと聴いてた。ひきこもって先が見えない真っ只中で殆ど動画はあの人のを観た。
・想い。初めて知った。これが想いというものなのか。
・想像してみた。ダリム氏が年齢を重ねお婆さんになった時にやっと初めて声を掛けることができたとしたら。
・それでも涙が堪えられない。たぶんぜったい普通じゃ居れない。
・ああ然うなんだ。若い女性だからじゃない。ほんとのほんとに憧れの人だ。
・あの日あの瞬間、俺は初めて人間になった。
・役所に通って知らない人達と話し接し合う訓練をして、銀行に一人で行き、働いてみて、給料を得て、選挙を手伝い、夢に初めて家族以外の誰かたちが登場したとき嗚呼ついに俺も人間になったと思った。
・しかし違った。何となくわかっても居た。その時を待っては居たけど斯ういう風にやって来るとは思いもしない。でもきっとこの上ない。きっといつまでも忘れない。
・次は梅田に来てほしい。西宮北口でも良い。もうメトロには乗りたくない。あの日のことを思い出したらそれはそれで息苦しいから。
・でも胸の内には大切にしまっておこう。人間になった。晴れた記念すべき瞬間だから。
音楽ド素人、ダリム氏に遭ふ