『生まれておいで 生きておいで』展



 万物流転の理を識る。それを強く欲するなら、未だ終わっていないその生を真摯に全うすればいい。細胞レベルで死と再生を繰り返す自らの身体こそ、かかる理の現れなのだから。
 悠久の時について思いを馳せる、そんな内心的行為に及ぶ時も全く同じだ。
 あなたが生きる「今」は始原より続く現象の続きなのだし、その一環としてあなたは今もそこにいる。最後の死を迎えた後も、あなたであった肉体が物として朽ちてゆき、分解されて循環する。火葬されたり又は埋葬されたりしても、遺るもののあれこれが生者の胸に情報としての「あなた」を様々な形で想起させる。そうやって語り継がれ、しかしながらいつしか忘れ去られる運命を辿ったとしても、今度はあなたの不在という事態があなたを代弁し続ける。語れるものとしての「あなた」は決して消えることがない。
 こうして遥かに遠い過去と、未だ訪れない未来の狭間に在るあなたは悠久の時を生き、死という終わりの向こうに旅立てる。この世に生まれた落ちた、というたった一つの事実から導かれ、いつかは行き着く事になるこの状態を「魂」と呼ぶことに、私はもうなんの躊躇いも覚えていない。


 石を特集した2024年9月号のユリイカで行われたインタビューにて、何かのために置かれ、何かの形で私たち人間と関わっていたと推測できるが、それ以上の事実を言及できない。自分がインスタレーションで用いた大小様々な石が遠い未来でそういう風に語られたら面白い、という趣旨の言葉を内藤礼(敬称略。以下、「内藤」と記す)が残していたが、それこそかかる「石」の有り様は魂めいたものに思える。
 加工が全く又はほとんど施されずに残っている石の姿は時間の流れに基づいて作者の姿を容易く削り落とし、観測されるその時々の状況ないしは環境の影響を存分に受けながら「その石を置いた」当初の目的を変化させ、次第に見失わせていく。
 目の前にある「これ」のかつてはどうであったのか、あるいはこの先どうなっていくのか。
 東京国立博物館で開催されていた『生まれておいで 生きておいで』展が白眉なのは、かかる魂めいた有り様を作品=物に宿らせるだけなく、展示会場となっている東京国立博物館の建物それ自体にも試みることだ。
 三箇所に分かれた展示室にて光や影、空気や振動といった外界の現象は鑑賞する私たちがその場に居合わせないと認識できない、ただ一度きりの出来事として生まれ去る。ただじっと座って展示会場の様子を見ているだけでも、全てが流れ去って二度と戻って来ない。未だ死を迎えていない私たちがそこに居続ける、それだけで目に写る事象が滅びへと足を進め、「今」という時の階段を踏み外し、ずっと先の未来へと転落していく。その時にはきっと死んでいるであろう私たちが知り得ないこの建物の姿、そこに在る意味を考えずにはいられない。
 頭に浮かぶそんな感傷を、例えば縄文の時代から失われずにいたガラスケースの向こうの遺物が、その手前にある一本の枝が、あるいは惑星を模したかのように点々と吊り下げられたビーズや毛糸の存在が黙々と見つめる。内藤礼という作家が何かを感じて、その何かのために展示したそれらが居並ぶ空間に身を置く私(たち)。ロジックをもって詳らかにされる事のない時間と空間がただただ静かに揺蕩う。各々に宿る魂の触れ合いのように壊れることなく、永遠に続く、それ。


 本展の第3会場となっていた本館1階ラウンジは常設展を楽しむ観光客が多く通り過ぎる場所で、展示に向いているとはお世辞にもいえない。正直、その前の第2会場の静かな雰囲気をとことん味わった後ではその行き来がとんでもないノイズに感じられる。ラウンジの向こうに広がる景色が全く目に入って来ない。
 けれどその往来も、この世に生まれた一つの揺らぎとして見れば。その流れすら、あの遺物のように掘り起こされる時間なのだとしたら。


 私たちが識るべきものは、当然に目に写る「それ」じゃなかった。
 そう気付いたはずなのに、気付けたはずなのに私はそれを容易く手放してしまった。その後悔が強く残っている。そして、本展の会期はもう過ぎた。だから私はズクズクと疼く痛みと共にこれを何度も反芻するだろう。『生まれておいで 生きておいで』。
 あの魂の匂いを死んでも忘れないと、それだけはここに誓いたい。

『生まれておいで 生きておいで』展

『生まれておいで 生きておいで』展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-09-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted