夏休み

夏休み

 セミの鳴き声、入道雲、甲子園のテレビ中継……。
 東京で暮らしていても、この時期になると、必ず、毎年、あの記憶がよみがえる……。
 もう、三十年も前の、あの、夏休み……。


「あれ? みゆきちゃん?」

 振り向く前に、私はすぐに川田君だと分かった。小学5年で同じクラスの女子を下の名前でちゃん付けで呼ぶ人なんて、川田君しかいない。普通、小5男子は同じクラスの女子を苗字の呼び捨てで呼ぶ。

「……あ、川田君」

 川田君は赤いラコステのポロシャツ姿で、ゴールド三本線のアディダスハーフパンツ、ナイキのスニーカー、虫カゴを提げ、そして、サングラスを頭にかけていた。

「あれ? みゆきちゃんもクワガタ捕りにきたの?」
「……え? ク、クワガタ?」

 そうか、確かにここは畑と川原の間の林スペース。真夏にこんな所に来る理由は虫捕りくらいだろう。

「昼間は基本的に捕るのめっちゃむずいよ」

 川田くんはそう言いながら、虫カゴの中のビニール袋を取り、その中の茶色い固形物を目の前のクヌギの木に塗り始めた。

「これはバナナとかお酒で作ったなんちゃって樹液。クワガタ捕りのシカケ」
「……シカケ?」
「夜になればこいつ目当てにいろんな昆虫が集まるんだ」

 シカケを塗り終えた川田君は足元の枯葉をかき分けながら続けた。

「この時間なら幹の穴の奥とか、こんな枯葉の下とかにいたりするんだけど」

 私がその様子をぼうっと見ていると、川田君は私に言う。
   
「クワとかカブトとかは売れるんだよ」 
「……え?」
「ほら、駅前商店街の大野金魚店。ノコとかミヤマだと一匹500円」

 川田君はクヌギの幹の穴を覗き込んだ。そして、振り返った川君は、私の方を見て、笑顔で言った。

「今日の夜、ここに来たら?」
「……はい?」
「収獲の半分、あげるよ」
「え?……、あ、ああ……、よ、夜は無理だよ」
「……そっか」

 川田君は残念そうに俯いたが、再び幹の穴を覗き込むと、その穴に向かってフッと息を吹き込んだ。

「もしここからクワとか出てきたらみゆきちゃんにあげるよ」

 しかし、何度も息を吹き込んでも、何も出てこなかった。

「……ってか川田君、そんなことしてるの?」
「え?」
「クワガタとか捕まえて売るとか」

 川田君はきょとんとした。

「だって、川田君ち、お金持ちでしょ?」

 目線を逸らす川田君に、私は続けた。

「お父さん川田興産の社長だし、おうち三階建てだし、スニーカーたくさん持ってるし、サングラス頭にかけてるし、女子を下の名前でちゃん付けで呼ぶし」

 一瞬私を見たが、再び目線を逸らして、川田君は言った。

「……ま、まあね」

 ……しばらく沈黙が続いた。

「あっ、そーだ、この時間でもザリガニなら捕れるよ。ザリガニは売れないけど」

 川田君はそう言うと、畑の方へ走って行った。
 私もなんとなく、そっちの方へ歩き出した……。


「おっ! マッカチンだ!」

 私の目の前で、用水路に手を突っ込んだ川田君が大きなザリガニを捕まえた。

「……マッカチン?」
「アメリカザリガニだよ。日本のザリガニよりでかくてハサミも強力なんだ」

 川田君はザリガニを虫カゴに入れ、それを私に差し出した。

「あげるよ」
「え……」
「こんなデカいのめったにいないから」
「……え、あ、いいよ。飼い方わかんないし」
「教えてあげるよ、ほら、エサなんてこんなんでいいし」

 川田君はそう言って、ポケットからスルメイカを出し、それを歯で食いちぎり、咀嚼(そしゃく)して、ザリガニに与えた。ザリガニは大きなハサミでそのスルメイカを挟み、口元に運んだ。私は思わず、眉間にしわをよせてしまった。

「雑食だからなんでも食べるんだよ」

 そう言って川田君は、手元に残ったスルメイカを半分にちぎり、片方を口にくわえ、もう片方を私に差し出した。

「え?」

 私は手に取ってしまったスルメイカをじっと見つめ、固まってしまった。

「人間もなんでも食べるしね」

 口をモグモグしながら冗談ぽくそう言う川田君を見て、私はなんだか腹が立ってきた。

「……バカにしてんの?」
「……え?」
「臭いよ」
「……臭い?」
「ザリガニもスルメイカも臭いよ!」
「えっ……」
「こんなもん私にくれようとして、バカにしてんでしょ」
「……あ、いや」

 何かを言おうとした川田君を遮って、言ってしまった。

「私んち貧乏だしお父さんいないしお母さんお盆でもずっと仕事だし夏休みでも旅行なんて行けないしだからこんな所で隠れるように本とか読んでるし」
「……本」

 ……私も川田君も下を向き、沈黙が続いた。

「……ごめん」

 川田君はそう言うと、私の手元のスルメイカをサングラスに差し替えた。そしてそのまま、川田君は歩いて行ってしまった。
 私は動けずに、つっ立ったままだった……。

 ……夏休みが終わり、新学期、川田君は学校にこなかった。
 ……しばらくして知ったのだが、川田君ちの会社はだいぶ前に倒産していて、両親も離婚し、川田君は母方の実家に身を寄せたとの事だった。
 そしてその夏、川田君は、お盆でも休めずパートで働くお母さんを少しでも助けようと、クワガタを捕ったりしていた……。


 ……今、私は東京でひとり暮らしをしている。
 仕事の都合でお盆は実家に帰れないが、お彼岸辺りには母親に会いに帰るつもりだ。

 あの時のサングラスは私にくれたものだったのだろうか……。
 ……よく分からないが、私はあのサングラスをずっと捨てられずにいる。

夏休み

夏休み

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-09-25

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