熱くならなきゃ意味がない
It don't mean a thing, if it ain't got that swing
It don't mean a thing, all you got to do is sing
It makes no difference if it's sweet or hot
Just give that rhythm everything you've got
スイングしなけりゃ意味ないわ
意味なんてない、ただ歌えばいいの
甘くても熱くてもそこは何も変わりはしないわ
そのリズムに全力を注ぐだけよ
『スウィングしなけりゃ意味がない』
Edward Kennedy "Duke" Ellington
(April 29, 1899 – May 24, 1974)
一言も言わないで、あなた
この魅惑を壊さないで
ただ私を強く抱きしめて
夜は私たちだけのもの
口づけの中に天国があるわ
誰の選曲なのかは兎も角として、ビリー・ホリデーの『神に誓って御願いだから』が鳴り響き、涼しげな中秋の潮風が互いの髪をふわりと靡かせる中、黒曜とモクレンがリニューアルしたての観覧車へと二人して乗り込む事が叶ったのは、二人が列に並び始めてから凡そ三十分程の時間が経過をした時の事で、雲一つ無い秋晴れの夜空には、ぽっかりと白い月が浮かび上がり始めていた。
ではごゆっくり。
柔らかな女性クルーの聲と共に、ゴンドラの扉が独特な音色を響かせつゝ、ゆっくりと閉まると、モクレンは飼い猫がご主人様に甘える時よろしく、黒曜の方へグッと寄りかかった。
怒られやしねェか?。
嫁入り前の娘が「こんな風に」男に寄っかかったりなんざしてサ。
黒縁眼鏡を掛け、漆黒色のトレンチコートを羽織った黒曜が冗談気味にそう述べると、モクレンはゴツゴツとした黒曜の肉体の感触と其処から発せられる温もりを感じ乍ら、二人っきりの空間で何いい子ぶってんだか、と言う具合の皮肉を述べた。
二人っきりの空間だからいい子ぶるんだろうが。
モクレンの髪から仄かに漂う椿オイルのシャンプーの香りが黒曜の鼻腔を擽る中、黒曜は
モクレンの皮肉をそんな風にして受け止めるなり、トレンチコートの左ポケットの中から取り出した遊園地の売店で購入をしたばかりの葡萄味のガムを一枚、そっと口へ運んだ。
恐いのか?。
悪魔の私に魅入られる事が。
そう言って黒曜の事を挑発してのけたモクレンが、私にもソレを寄越せと言わんばかりにそっと顔を近づけた為、黒曜はモクレンの顔をじっと見据え乍ら、悪魔が怖くて悪魔祓いの御役目が務まるかッてンだ、と軽く啖呵を切ってから、取り出したばかりのガムをモクレンの口の中に運んだ。
流石は学者肌。
とことん真面目な御様子で。
今の世の中、真面目じゃねェ人間〈ヤツ〉が多過ぎるのさ。
ま、お前さんの立場からすりゃ、其の方が商賣し易くて万々歳だろうがね。
助かるよ、理解度が高くて。
さアて、如何だか。
軈て二人の乗ったゴンドラが頂上へと到達したので、腰掛けていた椅子からゆっくりと立ち上がったのち、二人して窓の外へひょいと視線を向けると、冷たさを含んだ月光がゴンドラを照らし、宝玉の輝きにも似た幾千、幾万の灯が下界を彩っている様が互いの眼下に広がっていた。
夜の遊園地なんて、子供の頃以来だが、中々に良いモンだな。
派手派手しい電飾に彩られた遊園地の敷地内を、右に左に蠢く人混み、人波を眺め乍ら呟く様な聲でそう言った黒曜は、ま、其れも此れも温もりがあるからナンだろうが、と言い乍ら、モクレンの肩に右手を添えた。
其の調子で魂も譲っていただけると嬉しいのだが。
じわり、じわりとゴンドラが降下していくのをお互いに感じ乍ら、モクレンがおねだりをすると、慾張ると後が祟るぞ、と言い乍ら黒曜はモクレンから離れ、右ポケットの中から取り出したティッシュペーパーの中へ味の薄れたガムを吐き出し、新しいティッシュペーパーをモクレンに手渡した。
其れを受け取ったモクレンは、黒曜同様に口の中のガムを吐き棄てると、誰からの受け売りかは兎も角、其の言葉が言わんとする事は正しい事だけは確かだな、と言いつゝ、丸めたティッシュペーパーを黒曜に手渡し、再び椅子に腰掛け、そして実に態とらしく、おゝ冷える、冷えると呟き乍ら、黒曜が差し出したスキットルの中のホットウヰスキーで軽く喉を潤した。
其れからスキットルの蓋を締めている黒曜の横顔に視線を向けつゝ、なあ、今度は回転木馬〈メリーゴーランド〉に乗らないか、と提案をした。
良かろう、付き合いましょう。
蓋の締め終えたスキットルをコートの内ポケットの中に収納した黒曜は、モクレンの左手を握り締めた状態で其の場からスクっと立ち上がると、所謂エスコートをするカタチでゴンドラを降りた。
有難う御座いました。
又の御利用をお待ちしております。
そんな風な女性クルーからの決まり文句もそこそこに其の場を離れた二人は、夕方の時間帯よりも、一層の事人が増えた感のある遊園内を、目的地である回転木馬へ向け、力強くずんずんと歩き始め、色とりどりの服装を身に纏った老若男女の人波を上手いこと掻き分けたのち、幸いにして空になったばかりの回転木馬へと辿り着いた。
何れに乗る?。
黒曜が質問すると、モクレンはすかさず、馬車一択だろ、こう言う時は、と言って、こじんまりとした馬車の中へと入っていった。
暫くすると、ゾロゾロ人がやって来て、乗り物の席はすっかり埋まり、男性クルーのアナウンス、そしてベルと共に回転が始まった。
1つ目にカネ 2つ目にショー
3つ目で準備万端、騒ぎな、野郎共
だがな俺のブルースエードシューズは踏むな
あぁ、好きにしな
だが俺のブルースエードシューズは汚すなよ
如何だ?。
居心地の方は。
回転木馬の天井へと設置されたスピーカーから、エルヴィス・プレスリーの『ブルー・スウェード・シューズ』が流れる中、此れは自分の馬車であるとでも言わんばかりにモクレンがしたり顔を浮かべると、隣に腰掛けていた黒曜は、概ね良好、天井の低さは兎も角として、と返事をし、冷たさを含んだ秋の夜風が互いの頬を撫でるのを感じつゝ、さり気なくモクレンの左手をギュッと握り直した。
所で此の後如何する?。
御所望とあらば閉園迄付き合うが。
いや、人混みで草臥れるのは御免だから、部屋に戻ろう。
丁度良い具合に呑みたくなった事だしな。
人々の嬌声と隣に腰掛けている男の、凡そ学者とは思えぬ野趣溢れる横顔を肴にして、二杯目となるホットウヰスキーを勢いよく喉に流し込んだモクレンは、お前も付き合え、と言って、たった今、自身が口を付けたスキットルをグイと黒曜の眼の前に突き出した。
他の男〈ヤロウ〉の前でしてくれるなよ、こんな事。
なんだ、妬きもちか。
御名答。
そう言って黒曜はモクレンに負けじとホットウヰスキーで喉の渇きを潤した。
いざ私の事となると、押し殺していた慾望と感情がつい剥き出しにする。
実に可愛げのあるコトをしてくれるじゃないか。
実に艶っぽい笑みを浮かべたモクレンは、蓋を締め終えたスキットルを内ポケットに収納し終えたばかりの黒曜の頬を、右手の人差し指でツンツンと軽く突いた。
回転が停まったのは、丁度其の時だった。
ま、此れからも精進する事だな。
気に入って貰える様、そして愛される様。
宛ら師匠が弟子に滔々〈とうとう〉と語りかける様な、実に堂々たる口調と態度でそう述べたモクレンに対し、黒曜はほんの数秒間だけ呆気に取られていたが、馬車から降りようとしたモクレンにグイと手を引っ張られた其の瞬間、意識を現実に無事戻す事が出来た。
所で今何時なんだ?。
ゲートの方へと向かう最中、黒曜にも聴こえる様に、大きめの聲でモクレンが質問をすると、黒曜は銀色に光り輝く瑞西〈スイス〉製の腕時計へと視線を向け、七時半だ、とモクレンに告げた。
其れを聴いたモクレンは、道理で腹が鳴る訳だ、よし、着替えた後でホテルのレストランに行こう、と宣言をした。
ゲートを出ると、二人は其の儘ホテルへと向かう路面電車へと乗り込んだ。
所謂勤め人達の退勤時間、そして今日一日視覚的にも、且つ味覚的にも観光を堪能したと思われる、異国の観光客達にかち合ったお陰もあってか、全二両の路面電車の中には文字通り人が鮨詰め状態だったが、幸いにして二人は自分達のスペースを確保する事に成功をし、立ったまゝではあるものの、はなればなれになる事だけは避けられた。
所で今夜の気分は?。
異国人達の甲高い会話が聴こえて来る中、黒曜がモクレンに質問をすると、モクレンは所謂オーダーメイドで拵えさせた黄褐色のスマホケースに収納された、最新式のスマートフォンの画面に視線を向けたまゝ、たったひと言、海鮮料理、とだけ答えた。
で、パンとライス、どっちだ?。
昨日と同じ、両方で。
畏まりました、と。
黒曜はコートの襟を立て直すと、其の視線を路面電車の窓の外へと向けた。
道路を行き交う車両と眠りを知らないとされる街の眩い光が交差をし、皆、何かしらの意思又は目的を持って動いているのであろう人でごった返している様子を、薄汚れた路面電車の硝子越しに垣間見る行為は、フィルターを通して別世界を覗き込む行為にも似ている様な気がすると同時に、都市の息遣いが聴こえて来る様で、黒曜は硝子の向こう側を見据え乍ら、悪魔祓いとして後何年生きられるのだろうか、そして悪魔の中でも位が非常に高いと噂される悪魔の血筋を引くモクレンとの関係を何処迄維持出来るのか、と言った人生の彼れ此れに就て考えざるを得なかった。
暫くすると、路面電車は目的の駅へと停車をしたので、二人は如何にか斯うにかして、上手いこと人を掻き分けると、「脱出」に成功をし、ホームへと降り立った。
そして次の駅へと向け、路面電車が発車をして行く様子を見送ったのち、ホテルの方向へと足を向けた。
さっき何を考えていたんだ?。
まあ、どうせ下らん事でも夢想していたのだろうが。
ホテルの敷地内に植えられた椰子の木の葉がワサワサと音を立てて揺れる中、ホテルの正面玄関へと通ずる一本道を歩き乍ら、最初のひと言を呟いたのはモクレンだった。
そうさな。
お前との関係も含めた、此れからの人生の事とか。
なんだ、そんな事か。
仮に悪魔祓いで喰え無くなったら、私が喰わしてやる位の事はしてやる。
但し、今迄以上に家事労働に従事して貰う事になるが。
酷ェなぁ、こき使う気満々じゃねェかよ。
モクレンの「言い草」に対し、黒曜がフッと笑みを浮かべると、こき使って「貰える」名誉を与えているだけの事だ、とモクレンは大きく開き直る素振りをしてみせたモノだからして、黒曜は空いた左手を自身の頭の上に添える他無かった。
ホテルに辿り着くと、ロビーは遊園地に負けず劣らず人でごった返しており、カウンターでの順番が回って来たのは、並び始めて十五分後の事で、預けていたキーを受け取るや否や、二人は人混みを避ける意味も込め、エレベーターホールへは向かわず、敢えて階段を利用して、自分達の部屋がある六階迄向かった。
レストランの席だが、昨日と同じ窓際で良いかね?。
部屋へと辿り着き、玄色のハンガーに羽織っていたコートを黒曜が掛けると、モクレンは冷蔵庫の中のミネラルウォーターで軽く喉を潤したのち、ペットボトルから溢れ落ちたしっとりとした感触の水滴が、つい先程迄黒曜の右手を握りしめていた左手の掌を濡らすのを感じ乍ら、あゝ、其れで結構と返答し、半分程ミネラルウォーターが残ったペットボトルを冷蔵庫の中へと戻し、立ち鏡の前に於いて着替えを始めた。
尚、冷蔵庫の中にはミネラルウォーターの他にも、ホテルの敷地内で購入をした『ワイルドターキー』の瓶、其れを嗜む際の氷、クラッカー、食パン、林檎ジャムと言ったモノが購入者である黒曜の手によって綺麗に収納されており、其れ等は皆、モクレンを楽しませる為の立派な「小道具」であった。
なあ、此れは一寸した提案なんだが。
横長で分厚い鏡が嵌め込まれた洗面台の冷たい水で顔を洗い終えたばかりの黒曜は、芳香剤の香りが仄かに漂う紺色のフェイスタオルで顔を拭いた。
料理を堪能した後、食後の運動がてら、夜の浜辺を歩かないか?。
潮風が頬を撫で、月光が二人を照らす中、寄せては返す波の音をバックに添えて、悪魔相手に説教、なんて展開は御免蒙るぞ。
誰がするンだよ、ンな野暮ったい事。
なら甘い睦言でも囁いてくれるのか?。
御期待に添えるか如何かは兎も角な。
使い終わったフェイスタオルを椰子の葉で拵えられた籠の中へと放り込み、自身の旅行鞄の中から取り出した、一階のロビーに設置された売店にて購入をした燐寸箱、舶来品の紫煙が入った銀色に鈍く光るシガレットケースを紺青色のジーンズのポケットの中へと収納し終えた黒曜は、スキットルの中に残っていたホット・ウヰスキーをモクレンの前で勢いよく呑み干した。
ま、精々楽しみにしているさ。
空になったスキットルを、壁際に設置された茅色のテーブルの上に置き終えたばかりの黒曜の右手をモクレンはギュッと掴むと、いざ次の目的地へ、と言わんばかりに黒曜を部屋の外へと連れ出し、其の侭エレベーター・ホール迄やって来た。
下へ向かうボタンを押すと、幸いにして扉は直ぐに開いた。
でもって亜麻色の壁紙が貼られた箱の中には人っ子一人居らず、目的地である一階迄停止をすると言う事も無かった。
そして一階のロビーも、先程の騒めきがひと段落をした事も相俟ってか、スムーズにレストラン迄赴く事が出来た。
レストランの名前は『カルメン』と言い、無論其の名前は十九世紀仏蘭西の著名な作曲家である所の、アレクサンドル=セザール=レオポール・ビゼーことジョルジュ・ビレーが手掛けたるプロスペル・メリメ原作の同名戯曲からの引用であった。
いらっしゃいませ、お席の方に関して御指名が御座いましたら何なりと。
二人の前に現れたのは、伊太利亜語訛りの英語が特徴的な、如何にもベテランと言わんばかりの風格を持った白髪で鼈甲〈べっこう〉の老眼鏡を掛けた男性ウエイターで、パッと見た限りだと百八十五センチと大柄な体格の黒曜とそう大差は無く、兵役に従事していた経験があるのだろうか、又は何処ぞの上流階級の御屋敷の勤め人だったのか、背筋の伸び方一つにしても、他のウエイター達とは比べ物にならない程、美しさが感じられた。
空いていればで結構なのだが、窓際の席は確保出来るだろうか。
其処に居る女性と二人、夜の海を眺め乍ら食事と洒落込みたいのだが。
左ポケットから取り出した燐寸箱片手に、実に流暢な伊太利亜語で黒曜はウエイターへ向けて話し掛けると、相手はニコリと微笑を浮かべ乍ら、ええ、結構ですよ、では、此方の方のお席へ御案内いたしましょう、と二人をレストランの中へ招き入れた。
敢えて明るさを控えめにしたレストランの中をせっせと移動しつゝ、無事窓際の席を確保した二人は、席へと腰掛けるなり、先ずは良く冷えた麦酒で乾杯、と言う運びになった。
ほい、メニュー、
円形に拵えられたクリスタル製の灰皿を自身の方へと引き寄せた黒曜は、シガレットケースから取り出したばかりの、まだ火の点いていない紫煙を口に咥えた状態で、真っ白なテーブルクロスが敷かれた真四角のテーブルの脇に立てかけられたメニュー表をモクレンに手渡した。
モクレンは其れをパラパラと捲ると、御目当ての海鮮料理が掲載されている頁で捲る手を止め、白身魚のアクアパッツァ、えびと帆立貝柱のフリッター、すずきとズッキーニのソテー、さんまのトマトソース煮込み、魚介のイタリアンサラダ、しらすとミニトマトのピザ、あゝ、後、白身魚のパスタ、かつおのカルパッチョ、海の幸リゾット、ズッキーニのフリット、マグロの鉄板焼き、小いわしの酢漬け、小えびのアヒージョ、ガリシア風のタコ、ここら辺の料理も堪能しよう、勿論、二人でな、と黒曜に告げ、今度はデザートの頁をパッと開いた。
いつだってあなたが近くにいれば 何の恐れもなくなってしまうんだ とても明らかなこと あなたは私に福を呼ぶ縁起のよい人よ
今言ったメニューは全部伊太利亜と西班牙の料理のみ。
だからデザート位は、そうさな、仏蘭西のモノを選ぶとしよぜ。
天井のスピーカーを通じ、ルイ・アームストロングの『ユーアー・ラッキー・トゥー・ミー』のレコードが流れる中、自身の手で擦った燐寸の火で、勢いよく咥え紫煙に火を点けた黒曜は、例えば、ヌガークラッセとか、と
呟いてから燐寸箱を灰皿の中へポイ、と放り込んだ。
そう言う事だったら、葡萄牙〈ポルトガル〉のデザートも添えておこう。
口当たり良さげなケイジャーダはいかが?。
賛成。
失礼いたします。
此方、麦酒です。
そんな会話を交わしているうちに、赤毛の女性ウエイトレスが、キンキンに冷えた麦酒が注がれた大きめのジョッキをゴトン、と言う音と共にテーブルの上へゆっくりと置いた。
其の様子はまるでロケットが惑星に着陸をする様子にも似て、何となくではあるけれども迫力があった。
其の後黒曜は、赤毛のウエイトレスに先程モクレンと一緒に選択をしたメニューをつらつらっと告げると、ウエイトレスは男性の方は兎も角、傍らの細身の女性が此れだけの量の料理を平らげてしまうのか、と言う様な表情を花火の様にパッと浮かべたのち、畏まりました、料理によっては調理の時間が長引くモノも御座いますので、其の点だけはご了承くださいます様、御願い申しげあげます、と言ってタブレット片手に調理場の方へ向け、早歩きで向かった。
随分と驚いた表情をしていたな、あの人。
黒曜と赤毛の女性が会話を交わしている其の間、自身の視線を夜の海の方へと向けていたモクレンは、女性が人混みの中へと消えていくのと粗同時のタイミングで麦酒のジョッキを力強く握った。
頭に過ったンだろうさ、色々と。
灰皿の上で紫煙の火をギュッと揉み消した黒曜は、其の手をペーパーで綺麗に拭き取ってからジョッキにゆっくりと触れた。
ま、無理も無い話か。
では乾杯。
乾杯。
ジョッキとジョッキとがぶつかる際に発せられるコツン、と言う音が、人々から発せられる靴音、又は喋り聲にあっという間に掻き消される中、二人は麦酒を半分程呑み干した。
お味の方は?。
優しげな聲色で黒曜が問うと、モクレンはひと言、美味、とだけ答え、ジョッキをテーブルの上へ置いた。
其れは何より。
軈て腕利きのシェフ達の手により、丹精込めて作られていると言う評判の料理達がテーブルへと運ばれて来た訳だが、二人は実に淡々とした表情で平らげていき、そして気が付くと後はデザートを残すのみ、と言う状況であった。
無論、其の間麦酒は何杯もおかわりをしている為、普通の人間の胃袋であればとうに満杯を迎えている筈なのだが、無尽蔵の胃袋を所有していると言っても過言では無いモクレンは勿論の事、黒曜は黒曜で物心ついた時から立派な悪魔祓いになれる様、しっかりと文武両道の生活を送って来た事も手伝ってか、所謂人並みの身体と言うフェーズをとうの昔に卒業していた為、「此れ位」は如何って事は
無かったのだった。
様々な香りと味わいの料理を堪能した後に食す甘味、実に美味だな。
此れだからデザートは辞められない。
最後から二つ目のヌガークラッセを頬張り乍ら、モクレンが態と食通「ぶった」事を述べてみせると、先にデザートを平らげてしまっていた黒曜は、自身の住まいから持って来た紅葉色のハンカチを用い、レンズの汚れを丁寧に拭き取り乍ら、ハナッから辞める気も無〈ね〉ェ癖に、とモクレンの口振りをケラケラと笑い聲を響かせた。
最後のひと口、お前と半分こにしてやる。
まるで其れが神からの慈悲だと言わんばかりにナイフを使い、皿の上のヌガークラッセを半分に切り分けたモクレンは、其れをフォークにグサリと刺して、ほれ、口を開けろ、とヌガークラッセを黒曜の前に突き出した。
はいはい、どうもどうも。
腹の底からジワジワとこみ上げて来るおかしみを堪えつゝ、モクレンが差し出したヌガークラッセへ向けて、勢いよく齧〈かぶ〉りついた黒曜は、口の中で程良い甘味がじんわりと広がっていくのを感じ乍ら、其れではご返杯、と言いつゝ、もう半分のヌガークラッセをフォークを使う事無く、敢えて右手の親指と人差し指で摘んだ状態でモクレンの前へと差し出した。
ん。
ひらけ、ごま、の呪〈まじな〉いで、巨大な洞窟の扉が開きでもする様に、自身の口をゆっくりとモクレンは広げたモクレンは、本当の意味で最後のひと口となったヌガークラッセに齧〈かじ〉りつき、そしてモグモグと咀嚼をしたのち、デザート用に注文をした伯剌西爾〈ブラジル〉産の豆を使用した甘さ控えめな味わいが特徴的な珈琲〈コーヒー〉で其れを流し込んだ。
あゝ、美味かった。
空っぽになったばかりの珈琲カップをソーサーへ向け、静かに「上陸」させたモクレンの姿をじっと見据えていた黒曜は、ペーパーを一枚手に取ってモクレンの口元迄其れを持っていくなり、口元の汚れを綺麗に且つ丁寧に拭き取り乍ら、腹も満たされた事だし、そろそろ夜のデートと洒落込むかね、とモクレンに告げ、使い終わったペーパーを小さく畳んで灰皿の中へ其れをそっと置いたのち、腰掛けていた椅子からむっくりと立ち上がった。
其れから二人は其の足でホテルの中にある売店迄赴くと、「デートの際のお供」と称して其処に売っていたソーダ水の入った瓶を其々一本ずつ購入をし、歩いて二分と時間のかからない夜の浜辺へと赴いた。
時刻は午後九時ちょっと過ぎ。
秋の夜長と言う言葉の通り、夜はまだ始まったばかりで、此の土地の温暖な気候も手伝ってなのか、夜の浜辺には所謂等間隔で様々な年齢層と服装の男女が、『真夏の夜の夢』ならぬ、初秋の夜の夢に対してすっかりと浸り切っている風景が其処には展開されていた。
でもって煌々と光り輝く全十五階建てのホテルの姿に視線をやると、おとぎ話で御馴染みの、毎夜宴だ舞踏会だと催し物が繰り広げられているお城よろしく、良い意味で慾望に満ち満ちている様に思えた。
少なくとも黒曜の眼には、だが。
幾ら秋が始まったばかりだとは言え、薄着で此処に来るのは憚れるかと思ったが、心配無用だった様だな、此の分だと。
部屋を出る際、履いていた靴をレディース用のサンダルに履き替えていたモクレンは、ひんやりとした感覚を味わう意味も込め、敢えて水際を歩き乍らそんな事を呟くと、モクレン同様、ザクザク、と言うサンダルの音を響かせ乍ら、瓶を両手に持った状態でモクレンの背後〈うしろ〉を歩いていた黒曜は、自身の聲が波の音に掻き消されぬ様、敢えての大きな聲で、我乍ら良い提案になってホッとしてるぜ、と叫んだ。
其れから黒曜は、空の上には大きな月が鎮座している様子が、丁度、神々が下界の者達の営み或いは事の成り行き、はたまた行く末を見守っている様に良く似ている事に想いを馳せ乍ら、腰掛けても問題が無さそうなスペースを見つけ、モクレンと共に其処へゆっくりと腰掛けた。
浜辺の砂はまだ何も描かれていないキャンバスよろしく、迚も真っ白で、腰掛けたばかりの地面を見つめ乍ら黒曜は、モクレンの柔肌の事を思い浮かべつゝ、蓋を開けたばかりであり、其の飲み口からは白い煙がフワリと浮かんでいるソーダ水の入った瓶をモクレンへそっと手渡した。
お前、今何か助平な事を考えていたろ。
ソーダ水の瓶を受け取り乍ら、モクレンがニヤッと悪戯っぽい微笑を黒曜に向けて浮かべた。
両の眼〈まなこ〉は口ほどに物を言い、ッてか?。
自惚れるな、ただ単に鼻の下が伸びていただけの話だ。
以後気をつけよう。
ふん。
以後、ね。
そう、以後。
二人揃って粗同じタイミングで喉の渇きを潤し終えると、黒曜はシガレットケースから紫煙を一本取り出し、其れを咥え、燐寸で火を点けようとした。
するとモクレンの腕がひょいと伸びて、丁度ひったくりでもするかの様に燐寸と燐寸箱を手にすると、ほれ、と言って、燐寸の火を紫煙を咥えた黒曜の口元迄持っていった。
あんがと。
黒曜は御礼を述べると、燐寸の燃え殻から漂う燐、紫煙の甘苦い香りを嗜んだ。
そしてモクレンの方へと視線を向け乍ら、今日のお前の顔は、あのお月様みてェにとっても綺麗だぜ、と言ってから、石鹸玉〈しゃぼんだま〉を吹きでもする様な要領、そして表情で紫色の煙をプカプカと吐いた。
中々の口説き文句じゃないか。
代々根っからの堅物の家で産聲を浮かべたと言うお前にしては。
勢いを失った線香花火が消えて行く様子でも観察するかの様に、黒曜の吐いた煙が横風にゆらゆらと流れて行くのを眺めていたモクレンは、何処迄本気なのかは兎も角として、黒曜からの精一杯の愛の言葉を褒めちぎるや否や、新鮮な果実を彷彿とさせる艶っぽい色彩が酷く眩しい唇へと瓶の飲み口を、今一度強く押し付け、まだ冷たさと炭酸が保たれたソーダ水をナイアガラの滝よろしく、身体の中へとガバッと注ぎ込んでから、サンダルを其の場で脱ぎ、そして裸足の状態で自身の脚線美を誇示してのけた。
ま、堅物で無ければ、悪魔祓いの様な命懸けの仕事に首は突っ込みはしないか。
其れも何代にも亘って。
ホント物知りだよな。
紫色の煙越しにモクレンが伸ばした脚と、自身が毎夜丁寧に洗って「差し上げて」いるモクレンの脚首に眼を向けた黒曜は、如何にも軽めな口調でモクレンの事を褒めた。
自分の「家族」になるやもしれぬ者達の事だからな、基礎の基礎から念入りに調べるのは当たり前だ。
カッカッカ。
そう言う台詞はお巡りか興信所の職員が言う台詞なんじャねェのかい。
実に軽やかな笑い聲を黒曜は響かせると、ふと気が付けば残り僅かになったソーダ水をグイと飲み干し、咥え紫煙でモクレンの頭をそっと撫でた。
お前だって私の事に関しては実に詳しいじゃないか。
なら割れ鍋に綴じ蓋、蓼喰ふ蟲も好き好きって訳だ。
此奴ァ、良いや、はっはっは。
黒曜はそう言い乍ら味の薄れた紫煙を地面に押し付けて揉み消すと、燐寸の燃え殻同様に其れをポキリと二つに折って、売店で買い物をした際、塵袋代わりに受け取ったレジ袋の中へ燃え殻と一緒に其れをぐしゃりと放り込み、空になった二つの瓶も袋へと纏めた。
さあ、立ち上がろうぜ、そして一先ず塵箱のある場所迄、ちょっくら歩こうか、セニョリータ。
そう言って黒曜はモクレンの脚首にゆっくりと触れ乍らサンダルを履かせ、手を繋いでいた状態でスクッと其の場から立ち上がった。
其の後二人は人が段々と疎らになり始めた浜辺をしっかりとした足取りで突っ切ると、塵箱のあるスペース迄無事辿り着き、黒曜は其の中へ塵をガシャリと放り込んだ。
如何する?。
此れから。
パンパンと手を払った黒曜がモクレンに質問をすると、黒曜が塵を廃棄している間、自身のスマートフォンで海に浮かぶ月を撮影していたモクレンは、部屋に行こう、そして呑み直しをするんだ、とっておきの音楽と一緒にな、と黒曜に告げたのち、黒曜の右手を握り締め、ホテルへと歩き始めた。
ウヰスキー・ソーダとコーク。
何方を御所望?。
部屋に戻るや否や、昨晩同様、おかえり、ただいま、と言うやり取りを交わしたモクレンと交わした黒曜は、サンダルを履いたまゝの其の足で冷蔵庫へと向かい、其の中へ顔を突っ込み乍ら、洗面所で手を洗っているモクレンへ向けてそう叫んだ。
するとすかさず洗面所の方から、ワイルド・ターキーだろ、コークで良いだろ、と言う返答があったので、黒曜はひと言、あいよ、と言ってから、ウヰスキー・コークを作り始めた。
さあ、恋に落ちましょう
恋をしてはいけないという
理由はないでしょう?
私たちが若い今が、恋をするとき
さあ、恋に落ちましょう
其れからこなれた手付きで二人分のウヰスキー・コークを完成させた黒曜は、自身のスマートフォンの音楽アプリを起動させ、同時に部屋に設置されているBluetoothスピーカーにスマートフォンを接続すると、数ある名曲の中からエラ・フィッツジェラルドの『恋をしましょう』を選曲した。
そして洗面所から戻って来たばかりのモクレンと乾杯をし、さてどんな言葉を掛けようかと黒曜が思っていると、グラスをテーブルの上に置いたばかりのモクレンが手を差し伸べて来たので、あゝ、と返事をし、其の提案に乗る事にした。
ホントお前って元気だよな。
否、丈夫と言った方がいいか、此の場合。
軽くステップを踏み乍ら、黒曜は甘い聲色を使ってモクレンの耳元で囁いた。
儚い花よりも、逞しくて棘のある華の方が好みな癖に。
ははは、よっく御存じで。
いつか其の綺麗に整った耳元で囁いてやったろう?。
お前の手の内は全部御見通しだ、だから黙って其の身も魂も差し出せ、そして委ねろ、って。
ハリウッドの女優ですら敵わない程の美しさだったな、あン時のお前は。
私は何時だって美しい。
此れ迄もそして此れからも。
だが、其の美しさを保ち続けられるか否かは全部お前に懸かっている事をお忘れ無く。
おゝ、責任重大。
良く言うだろう?。
花に水をやるのが必要な様に、人間には愛が無ければ生き永らえる事が出来ぬのだと。
御高説は有り難く受け取るとして、では最初に何をしようかねェ。
そう言い乍ら黒曜は、モクレンの艶めかしく美しい腰回りにさり気なく手を回した。
そうだな、挨拶がわりに一つ、こう言う事は如何だろう。
其の途端、モクレンは黒曜の顔に両手を添えると、其の眼を爛々と輝かせ乍ら黒曜の唇に自身の唇を押し付けた。
其れも強く、強くである。
如何した、チコ(Chico:坊やの意)。
突然の出来事に対して呆気に取られていた黒曜へ向けて、モクレンは吐息混じりに言葉をかけた。
新しいのに変えたンだな、口紅。
おや、気が付いたか。
で、如何だった?。
私からの強烈な御挨拶は。
刺激的だったぜ。
もう一度試してみたい位にはヨ。
そう言って黒曜はモクレンの身体を自身の方へギュッと抱き寄せ、御返しの意味も込めた接吻をした。
本能のまゝに行動をする。
悪魔を前にして其れ位危険な行為は無い訳だけれども、ハートの方ではこんな風に叫ぶのだった。
熱くならなきゃ意味がない、と。〈終〉
熱くならなきゃ意味がない