素描
校門を出る。他者より早い放課後は気がひける。受験も間近いこの季節、三年生は各々の要不要に応じて登下校している。
太郎は美術系志望。であるからなおのこと、他の生徒とは動きが異なる。
高校入学以来、太郎は友だちづきあいが絶えた。部活もしていない。いつも、ほぼ一人きり。同級生であれ、だれがどこを志望し、なにを目指しているか知らない。
並行する世界。
美術系志望などまず見かけない高校である。太郎自身が晩稲な性質。受験に関する知識も貧しい。そのうえ、流行の画家もイラストレターもデザイナーも、高名なアーティストもクリエーターも知らない。そうした呼称の別も分からない。ただ、ゴッホの画集を開いては見入って、あきることもない。
黄色。
この黄色。
ゴッホの黄色。……
並行する異なる世界。
太郎は目立つところのない生徒であった。だれの気にもとめられない。叱責も助言も励声もない。これを太郎も気にする風でない。ないない尽くし。不安の覚えようもない、焦りようもない。なにも知らないとは、そのようなこと……?
異なる数多の次元。
校門を出た。見覚えのあるうしろすがた。華奢でしずか。整った制服すがたが清楚である。
追いついた。
美代子である。
修学旅行の帰り、バスのなかで、一つの林檎を二人で齧った。……
隣に太郎をみとめた美代子は、一輪差しの蕾を見るかな微笑みをかえした。
可愛い。
気の利いた挨拶を知らない。さまになる挨拶も身についてはいない。そもそもさまになるようなさまを太郎はもたない。
歩調を合わせる。
きのう、朝礼で、就職志望の生徒の確認があった。教室に一人。挙手する美代子を認めた。太郎の通う高校は地方の公立普通校。ほとんどが進学する。美代子は成績上位者だ。太郎のようないい加減で出鱈目な成績の生徒とはちがう。おどろいた。
並行する数多の世界、交錯する次元。
進学ばかりが進路でない。なぜ、と勘繰るも無礼だろう。かの女のあるがままを肯うべきだ。
「就職……」
「そう。隣町。」
「もう決まったの……?」
切れ長の奥二重の目がやわらかな光をまたたき、ぬれた瞳が太郎を見つめた。
隣町とは、川の向こう、県境をまたぐ。太郎はその川を越えたことがない。就職。職に就くということ。働くということ。太郎に体験はない。いずれも実感のわかない。考えも及ばない。見知らぬ世界。遠い次元。いま歩調を同じくしながら、いま・この時をともにしながら、瞳を交わしてさえ、すでに互いに異なる世界にいる? なにも知らないとは、そのようなこと。……?
並行する、また互い違う数多の世界、交錯する次元。
美代子が太郎の志望校を訊いたから、受験するつもりの大学の名をあげた。みずから口にしながら、みずからに現実感のないのが恥ずかしい。
「……そっちに行っちゃうんだ。」
吐息と洩れた美代子の声音に、かすかな感情を聞いたのは太郎の自惚れか。
並行する、また互い違う数多の世界、錯綜する次元、ほどける縁。
帰宅した。太郎は自室の机に向かい、抽出しからクラス写真をとってながめる。二列目の右寄りに美代子が立っている。おとめの稔りの顕われた同級生に囲まれ、やはり華奢で整った制服すがたが清楚である。
われ知らず、机にひろげたノートに、象る。
まるくやわらかな頰。髪はつややか、前は眉にかかる、横は耳のあたりで軽い波を描いて肩にとどく。やさしい弧を描いた薄い眉。切れ長だが冷たくない双眸はやや不均衡なところが愛嬌。瞳は黒々とつぶら。首は細く、肩は制服をまとってもなだらか。……
なぐさみに描いたとは思えない。似ている。われながら上出来。消すには惜しい。凝っとながめて太郎はあきない。押し入れにさらの画布のあったと思い出した。
油彩で描こう。
太郎は畳に古新聞をひろげ、重ねる。画架をもたないから、壁にも古新聞を重ねひろげる。これに画布をたてかけ絵筆をとった。
卒業式までに。
画布の中心にかの女をうつしつつ、背景を想う。
黄色。
あの黄色。
ゴッホの黄色。……
並行する、また互い違う数多の世界、錯綜する次元、ほどける縁、からまる因果。
これをいつか太郎の絵筆はきっとかたちとするだろうか。
素描